確かに、単複と男女の変化は学習者にとって大きな壁となる。 たとえば、requisito(資格)この仕事に(per questo lavoro)求められる資格(複数)となると、定冠詞が i、あともrequisiti richiesti となって、i requisiti richiesti per questo lavoroと、全部語尾が i で揃う。 こうなると、話すときにもリズムがとりやすい。 文法のことをあまり気にしなくても、口の方が自然に動く。
ところが、たとえばrete(網)を使って国内の高速道路網と言おうとすると、eで終わっていても女性だから、la rete となる。さいわい、あとの形容詞はふたつとも(高速道路の、国内の)eで終わればよい。とりあえず、ここまでは定冠詞の語尾だけがaであとはeで揃えればよいから(autostradale nazionale)、かろうじてリズムがとれる。 さて、これがテレビの放送網になると、la rete televisiva のように、a-e-aとなる。 さらに複数形になって、numeroso「多数の」がつこうものなら、le numerose reti televisive となり、これにlocale、nazionaleがつくと、le numerose reti televisive locali e nazionali(e-e-i-e-i-i)になる。
しかし、ここで冷静になってよく考えてみよう。 こんなことは語学の習得にとって本質的なことでもなんでもない。まして、イタリア語の本質でもない。 スポーツでも音楽でも、これぐらいのことはいくらでもある。 試合を戦う以前に、基本的な動作が確実にできるようにしておかなければ、勝つことはおろか、相手にすらしてもらえない。 rete が女性であるから、複数の定冠詞がleになり、数多くのという形容詞numerosoがつくと、numeroseに、さらに地方のlocaleはlocaliになるなどと考えていては、実際にle reti numerose televisive locali e nazionaliという内容のことが言いたいときにとてもおぼつかない。
球技だと、実際に球が飛んできたときに、こういう状況でこの球だから、手足はこう使って、上半身はこう使ってなどと考えていては間に合わない。無意識のうちに体が反応するのでなければ、ゲームなんかできるわけがない。 文法も何もなく、瞬時にle reti numerose televisive locali e nazionaliという一塊のものが浮かんでくるのでなければ勝負にならない。 語学というゲームに求められるのは、そういう蓄積がどれだけあるかであって、その場で文法を頼りに文を組み立てる能力ではない。少なくとも、そんなことをする母語話者はいない。 どのような状況にも対応できるようにしようとすれば、相当な量を蓄積しておかねばならず、一朝一夕にできることではない。そうなったとき、とにかく覚えて、必要なときに出てこなければならないのであれば、l* ret* numeros* televisiv* local* e nazional* であっても、le reti numerose televisive locali e nazionaliであっても、大差はないはずである。 基本動作を確実に身につけなければならないスポーツと同じであると思えば、要するに何が何でも覚えていつでも口をついて出てくるようにしなければならない。