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昨日は朝から凄まじい吹雪だった。さらさらの粉雪で、しかも、あまりにも風が強いので、積もると言うよりは山全体に吹き付けるという風情だった。 ▲『雪空(a snowy sky)』:by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 昨日は朝から凄まじい吹雪だった。さらさらの粉雪で、しかも、あまりにも風が強いので、積もると言うよりは山全体に吹き付けるという風情だった。気温マイナス18℃。もう寒いなんてものでは無い。降雪の密度が低かったので、視界はびっくりするほど良く上空には青空が見えるほどだった。 なんて風に書くと、いままさに何かが始まるような印象だけれど、じつはなにも始まらないし、なにも終わらない。昨日とはいささか異なった天候の日常が始まるだけだ。それが災害というレベルには幸いにも達していないことに感謝すべきなのだろう。 この世界は無慈悲な災害や理不尽な不幸に満ちているのだから。 日常が日常であることの奇跡を感じた。 やがて雪はすっかり止み、日が暮れる頃には風もほとんど止んだ。空は満天の星だ。夜晴れると翌朝にかけてぐっと冷え込む。道路は山岳部で積雪路面になっているが、まだ融雪剤が撒かれていなかったのでスタッドレスタイヤが良くグリップする圧雪路になっていた。 しかし、路面状況は刻一刻と変化するものだから、ちゃんと滑り止め対策を施してくれぐれも慎重に運転する必要があることは言うまでもない。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.28
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しかし、神はなんの啓示もあたえはしないし、この美しい情景の創造者ですらない。 ▲『つらら(icicles)』:by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 観念としての神 蓼科に移り住んで間もない冬のことだ。 この季節は午後5時にはもう日が暮れる。 その夜は満月(月齢15)。 諏訪インター方面からビーナスラインをピラタスの丘に向かって走るとつねに前方の北八ケ岳の稜線上に信じられないほど大きく丸い満月が懸かっている。 直径500mほどの巨大な人工的な月が八ケ岳の稜線に鎮座して煌々(こうこう)と地表を照りつけている。ちょうどそんな感じだ。 あまりにもリアルな自然現象は、逆説的に奇妙に人工的・作為的に見えるものだ。 でもこれはほんとうの満月だということを僕は知っている。 この月に出会ったひとはじつに幸運だ。 月齢、天候、雲の具合、月の出の時刻、地形などなど様々な要因がすべてそろった時にしか体験することが出来ない満月の情景だからだ。 ひとは様々な機会に様々な形で「神」を感じるものだ。 僕はこの月に「神」を感じた。 これは告白なのかも知れない。 単なる描写なのかも知れない。 しかし、神はなんの啓示もあたえはしないし、この美しい情景の創造者ですらない。 それは神の仕事ではないからだ。 われわれの「直感」が「神」を捉える。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.27
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時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。 ▲『空は樹と大気とで成り立っている』:by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 概念としての神 クリシュナムルティが言うように 思考が時間である。 ということか。 あるいは、 ラビンドラナート・タゴールが言うように 時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。 ということなのか。 あるいは、 John Lenon が言うように God is a concept by which we measure our pain. (神はわれわれの苦痛を計るための概念である) なのか。 世界はじつに多様な「概念」で充ち満ちている。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.27
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宗教であろうが思想であろうが、それがひとの思考力を奪うものであるならば、そのイデオロギーをわたしは憎む。 ▲『夜明けの八子ヶ峰』:by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 イデオロギーは嫌いですが、なにか? 宗教であろうが思想であろうが、それがひとの思考力を奪うものであるならば、そのイデオロギーをわたしは憎む。 なぜならば、そのようなイデオロギーは、その理論によってひとを殺すからだ。ひとりの人間として、ということではなく。 敵や異端者を措定して自らを相対化しなければ自らがユニーク(唯一無二)であることを示すことが出来ないようなイデオロギーはまがい物である。 自らの弱さや欺瞞を隠すために、それは脅威や敵や異端者を必要とする。 それはまた、「世界の終わり」というスキームを必須とする。 そのような法則、そのようなファンクション、そのような流れといってもいい、を数千年もの歴史の積み重ねから学ぶことが出来ない人類は、やはり滅ぶべく創造されたのかもしれない。 ちなみに、わたしは終末思想を求心力維持のための宗教的寓話としか想っていない、信じるも信じないも個人の自由だと想っている、念のため。 論理的には不可能なことなのだが、わたしはあらゆるイデオロギーから自由でありたいと願う者である。 私たちの眼前には広大な世界が広がっている。しかしわたしたちの内側にはそれよりさらに広大な薄明の世界がある。 私たちはむしろ自分自身の内側に目を向けなければならない。 神を見出したりはできない。神に至る道などない。(クリシュナムルティ) なんと潔い言葉だろう! from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.26
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僕はただ生きて、自分が思い描くとおりの写真を撮りたいだけなのだ。 ▲『凍結した花(frozen flowers)』:by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 昨日の記事の補足 昨日はいささか婉曲に書きすぎたかも知れない。わかるひとにはわかったと思うけれどいたって健康なひとにはまったくわからなかったかも知れない。それでいいと思う。自身の病気や障害を語ったところでそれが意味のあることだとは思わないから。 今現在の僕は時間的制約や持続力や体力的な制約があるにせよ、調子の良いときのほうが多いのだし、そんなときには少なくとも見た目は健康な人に見えるのだから。これが単純な「老化」による諸症状では無いと知ったときにはいささかショックだったけれど。 ということでこのことについてはもう書かない。 僕はただ生きて、自分が思い描くとおりの写真を撮りたいだけなのだ。 大丈夫、問題はありません。心配は不要です。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.25
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昨日できたことが今日はもう出来ない。それはじつに些細なことであったり、とても大きな障害であったりする。そんなことが目に見えないほど、自分でも気づかないほど静かに、しかし着実に進行している。 ▲『凍結した秋』:by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 「ブログ」じゃなくてこれは「日記」なのだ お役立ち情報なんて書く気はない。それはFacebookとTwitterでバンバン流しているから。このブログは僕にとっては「個人的な日記」だから、自分のペンションの集客目的という位置づけではない。 1996年7月1日に書き始めたとき以来そのことは変わっていない。 このペンションをやっているのはどんな人間なのか、この日記を読むことによって多少なりともわかってもらえれば、それだけ安心してお客様に来ていただけるのでは無いか・・・ペンションに関係ある部分はその点だけだったし今もそれは変わらない。 確かに最近内容がつまんなくなったように自分も感じている。その主たる要因は自分でもわかっている。世の中がつまんなくなったことがひとつ。しかし、世の中がつまんなくなったのは自分が「こんなこと言ってもごまめの歯ぎしり、負け犬の遠吠えさ」なんてしらけてしまったことが大きい。 もうひとつ個人的な要因があるのだけれど、それは語らない。いずれにしても良くも悪しくも「諦念」が僕を支配している。その状況はむしろ僕にとって心地よくすらあること。もういつ死んでもいいや、予定より長生きしちゃったし。 自分の本心を覗くとそんなことを不遜にも思っているようだ。 念のため言っておくと、個人的にはこれは最大限ポジティブな姿勢なのだ。 昨日できたことが今日はもう出来ない。それはじつに些細なことであったり、とても大きな障害であったりする。そんなことが目に見えないほど、自分でも気づかないほど静かに、しかし着実に進行している。 じっさい僕はもうふつうに箸を使うことが出来ない。介護用の特別な箸を使っている。だからといって日常の仕事や生活に大きな支障はないのだけれど。ふつうに歩き回っていて見た目もいたって健康そうに見えるのだけれど、筋力が落ちたために2キロ以上ある愛用のカメラをとり落としそうになることが増えて、とうとうネックストラップを使うようになった。これまではグリップストラップだけでOKだったのにね。 いつまでこの大好きなカメラを持ちシャッターを切ることが出来るのだろう? それがいまの僕の最大の関心事だ。 そんなこともあるので、これからも「個人的な日記」に徹することにしたいと思う。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.24
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2008年12月23日(火)、午後1時50分、僕らの愛する家族、パルが旅立った。 シベリアンハスキー、雄、享年14歳2ヶ月と10日。ぼくらが介護している最中に心不全を起こしたらしくあっとうまに逝ってしまった。 ▲在りし日のパル、シベリアンハスキー、雄、体重33kg。真冬の氷点下20℃でも心地よさそうに外で暮らしていた…スーパーなワンコ。これは亡くなる1年前の写真です。:写真をクリックすると拡大します。 レクイエム 2008年12月23日(火)、午後1時50分、僕らの愛する家族、パルが旅立った。 シベリアンハスキー、雄、享年14歳2ヶ月と10日。ぼくらが介護している最中に心不全を起こしたらしくあっとうまに逝ってしまった。最初は何が起きたかわからなかった。しかし、やがてパルが呼吸をしていないことに気づく。信じられない思いだった。 頭の中が真っ白になった。いまでもそのあたりのことは記憶から抜け落ちてしまっている。容体は決して良くはなかった。前夜から息をするのが苦しそうで衰弱がひどくなっていた。しかし、こんなに早い・・・とは。 すくわれたのは、苦痛や苦しみが一瞬だったことだった。いま、パルの顔はとてもやすらかで、やさしさと穏やかさをたたえている。いくら見つめていても見飽きないほど美しい。 本当に美しい、荘厳といえるほどに強くこころを惹かれる表情だ。とてもこころがきれいだったパルだから、あっという間に天国についてしまったのかもしれない。しばらくすると、僕は自分が涙を流していることに気づいた。何十年ぶりのことだろう。止めどなく流れる涙には、悲しみもくやしさも何もかもを超えた何かが感じられた。ああ、涙ってしょっぱい味がするんだ。僕が泣く。何の衒い(てらい)もなく、声も出さず、嗚咽もなく、ただ涙を流し続ける。それはパルに対する思いの丈をはき出しているようでもあった。愛する者を失った者だけに許される涙だ。 未明にまどろんだ僕は、天(あま)駆ける蒼きオオカミの群れの中にパルの姿を見た。その姿はまばゆく輝いて、その表情は走る喜びに満ちていた。それでも、止めどなくあふれるこの涙はなんなのだろう、モニタがにじんでよく見えない。肉体は滅びても、僕らの周囲からパルの気配は消えていない。パルは僕らとともに、これからも生きてくれるようだ。 ありがとう、パル。君に出会えただけでも僕らの人生には価値があった。たくさんのものを、僕らは君からもらった。僕らはいったい何を返すことができただろう。 感謝。ただそれだけしなかない。ぼくらは決してきみのことを忘れない。 また、新しい一日が始まる。 from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.23
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『今、知りたいのは、ただひとつ、自分の使命っていったい何だろう、ということなのです。』・・・とあるひとが問いかけました。それは永遠の命題ですよね。でも、そんなに大げさなことではないのかも知れませんよ。 ▲シューベルトの歌曲集「冬の旅」を聴くたびに僕はこの風景を思い出す。:写真をクリックすると拡大します。 (承前) あなたはあなたであればいい 『今、知りたいのは、ただひとつ、自分の使命っていったい何だろう、ということなのです。』 ・・・とあるひとが問いかけました。それは永遠の命題ですよね。でも、そんなに大げさなことではないのかも知れませんよ。 この世界あるいは「神」が望む「自分の使命」とは「あなたがあなたであること」ただそれだけだと思います。 あなたがありのままのあなたとしてそこにいてくれるだけで十分なのだ、と。 それ以上はあなたが自分に望んでいることです、たぶん・・・。 僕はそう感じています。いろんなとらえ方があるのでこれが正解というのは無いと思いますが・・・。 ただシンプルに、あなたはあなたであればいいのです。 それで充分なのです。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.22
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生きる価値について問うべきなのだ。自分がいまここにあることの価値を問うべきなのだ。 ▲自分の家の庭で野生の鹿やその他の野生動物と出会うことは、ごく当たり前のことなのだ。しかし出会いはいつも一期一会。のこの邂逅を大切にしたいと切に願っている。:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 生きる意味、生きる価値、そして世界(3-3) 『結論から言えば、何のために生きているのか生きなければいけないのかという問いに答えはない。』 と、きのう、僕は書いた。 しかし生きる価値について問いを立てることは可能だ。 価値を計るのは人間だからだ、最終的には自分自身だからだ。 生きる価値について問うべきなのだ。 自分がいまここにあることの価値を問うべきなのだ。 何を成し遂げたかというようなことではなく、ただ「いま・ここに・ある」ことの価値を。 そのようにして僕は答えのない問いかけから解き放たれたわけだ。 しかし、それで何かが変わったわけではない。 ドラマみたいにハッピーエンドを迎えたわけでもない。 はっきりいって何も変わらなかった。 そして思ったのだけれど、釈迦をはじめとした悟りを得て解脱した人々も同じようなあっけなさを感じたのではなかろうか。 世は彼らの偉大さ聡明さを褒め称えるけれど、彼らが幸福になったか、幸福だったかということについては誰も問わない。 悟り、解脱もまた新たな出発点に過ぎなかったのだと思う、たぶん。 この世界もあの世界も、そのような弁証法的進行を続けるようにしつらえてあるのだ。 なにがあろうと、僕らがいようがいまいが、この世界は絶えることなく進行していく。 Never Ending Story. >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.21
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しかし結論から言えば、何のために生きているのか、なんのために生きなければならないのかという問いに答えはない。 ▲新緑の頃をふと想う。ここにこんな世界があったなんてこの季節には信じられないのだけれど、たしかにそれはここにあったのだ。:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 生きる意味、生きる価値、そして世界(3-2) 矛盾と不条理に満ちたこの世界は、じつは僕のきわめて個人的な世界なのだ。 このように生まれ、このように育ち、このように生きてきた僕の人生経験が生成するパーソナルな「世界」なのだ。 その証拠に「この世界」は僕の死とともに消滅する。 しかしあなたの世界はそんなことには頓着なく何事もなかったかのように続いていくのだ。 あなたの世界は絶対的にあなたのものだからだ。 あなたの人生はあなたのものだ、というのはそのような意味なのだ。 僕らは同じ世界を生きていると思いこんでいるが、そんなことはない。 それはある種の共同幻想に過ぎない。 それでもあなたは生きる意味を問うかもしれない。 しかし結論から言えば、何のために生きているのか、なんのために生きなければならないのかという問いに答えはない。 永遠に、この世界にも、ほかの世界にも。 なぜならば、問いの立て方が根本的に間違っているからだ。 それはなにものかの「意図」にかかわる問いになってしまっている。 そして、その「なにものか」は、概して「神」と呼ばれている。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.21
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それは全体(ゲシュタルト)としての新緑という概念を感じさせる。個別の木や森はそこにはない。 ▲新緑の頃をふと想う。ここにこんな世界があったなんてこの季節には信じられないのだけれど、たしかにそれはここにあったのだ。:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 生きる意味、生きる価値、そして世界(3-1) 新緑の季節には、ぼくのペンションのラウンジの窓外は日差しがあってもなくても立体的なディジタル画像のようなバーチャルな新緑の世界になっている。 変な表現かもしれないけれど、それほど美しいのだ。 ハイヴィジョン用に人為的に調整された映像を見ているような不思議な感覚に陥るほどに。 それは「全体(ゲシュタルト)としての新緑」という概念を感じさせる。 個別の木や森はそこにはない。 なにかが僕の心の中のスイッチを押して新緑に関するあらゆる感覚と感動の思い出を一気に引き出す。 ちょうどそんな感覚がある。 だから、これは個人的な感動といえるかもしれない。 何度も書いてきたけれど、風景は「そこ」にあるのではなく、心の中にしかないものなのだ。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.20
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生きる意味を問うことはそもそも問いの立て方を誤っている。われわれはそれに関与できないのだから。 ▲なにかを必死に希求する枝たち。ひとはこうした自然の風景に自分を重ねて見るものなのだろう。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM (承前) 生きる意味と生きる価値 秋も終わり、蓼科高原、とりわけ北八ヶ岳中腹標高1,700mの当地では、すっかり冬になりました。 毎朝氷点下15℃近くまで冷え込み、最高気温も終日氷点下の過酷な12月。積雪はずんずん嵩を増して、年間で最も寒い1月下旬まで気温は下がり続けます。 そんな中、この森で越冬する野鳥たちは寒風の中、あるいは大雪の中を元気よく飛び回っています。野生のニホンジカやキツネやタヌキやリスたちもまた生きるために活動を続けているのを目にする機会が増えました。 しかしそう語る一方で、このいのちたちがどれほど過酷な生存競争の中で命をつないでいるかをわたしは知っています。 大空を飛翔する鳥たちは決して自由を謳歌しているわけではなく、森の小動物たちも天敵の脅威におびえながら、ひとときのいのちを生きているのです。 ぼくらだって同じです。 生きる意味を問うことはそもそも問いの立て方を誤っている。われわれはそれに関与できないのだから。 しかし、生きる価値に関してならばわれわれは問うことができる。われわれは積極的にそれに関与できるから。 ひとはなぜ生きるのだろう。ひとはなぜ死ぬのだろう。 われわれの知っているこの世界がそのようなものだから、としか言いようがない。 われわれはそれに従うほか無い。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.19
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「事実とは多様な視点であり、真実とはメタファーの個人的解釈である。」といっても良いのかも知れない。 ▲積雪に落ちた枝。そこになにを見るかは見るひとの心を映している。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 私的物語としての現実 日常がつらいときわれわれはよく「現実」という言葉でそれを表現します。 でも「現実」ってなんでしょう。 じつのところ「現実」がなんであるのか、 それをきちんと認識しているひとは少ないのではないかと思うのです。 われわれが語る「現実」は主観的なきわめて個人的・体験的「寓話」にすぎないのです。 ゲーテがファウストにいわせたとおりの意味において 「万物はメタファーなのだ。」 ということです。 「事実とは多様な視点であり、真実とはメタファーの個人的解釈である。」 といっても良いのかも知れない。 「現実」=「リアリティー」はわれわれを常に惑わせ悩ませます。 しかし、本当のところは、 「現実」とは「私たち自身の反映」にすぎない というのが僕の出した結論です。 現実とはわれわれが間断なく創造し構成している物語にすぎず、 そうした意味においては「現実」に本当もウソもない。 それはきわめて個人的な私的物語である。 唯一確かなことは、「いま、ここに、ある。」という直感的事実のみです。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.16
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非論理的な体験を科学的に語るために論理的思考力を身につけたのです。しかし、頭だけで、論理だけで物事を考えているわけではないのですよ。 ▲。気温は氷点下10℃。凍てつく花。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 非論理的な体験を科学的に語るために論理的思考力を身につけたのです。 幼少のころからのその手のカンが鋭かったので、その話を大人たちにするわけですが、もちろん、だれも信じてくれない。(Xファイルでスカリーが「モルダー、あなたは夢を見ているのよ!」って言うような感じ)それで論理的に(もし可能ならば論理実証主義的に)納得させる訓練をせざるを得なかったのです。 まあ、簡単に言ってしまえば「科学的語ることを目指した」のです。で、どうなったかというと・・・そんな小難しい理屈をきちんと理解するほどぼくの周囲の大人は知的でもなく暇でもありませんでした。わたしたちは科学の時代に生きています。ということはすなわち、この世界は「論理的整合性を持って形作られている」という大前提にたっているということです。 その上に立って様々な仮説を検証しているのが現代科学です。ですからそれが「仮説」であるという論理的事実をわすれてはいけません。 そして「この世界が論理的整合性を持っている」という大前提じたいが「仮説」であるということはもっと重大な事実です。したがって、科学は万能では無いし、唯一価額のもがこの世界の神秘を説明しうるわけではないし、科学的真実のみが真実ではないということもまたわすれてはならないのです。 頭だけで、論理だけで物事を考えているわけではないのですよ。 「死の恐怖」は「死に至るプロセスへの恐怖」であって、それは人間の頭脳が考えだしたものです。 とりわけ宗教などによって「死後の世界」や「最後の審判」を信じ込んでいるひとにとってはその恐怖はいかほどでしょうか。 だからこそ「論理的思考や説明だけで死の恐怖を無くしたり和らげること」はできないのです。 それは論理の問題ではないのだから。 わたしの個人的な臨死体験では「ああ、これが死んでいくということなんだ」という自覚はありましたが「恐怖」はありませんでした。なぜならば、苦痛が無かったためです。 ただ「生命体」としてのわたしの生化学機能が順番にその活動を停止していく、という体験でした。 手術時の部分麻酔による「麻酔性ショック」だったので、意識ははっきりしていたので、看護師が緊迫した声で読み上げる脈拍や心拍数や血圧が急激に下がっていく様子をしっかり聴いていました。 それにつれて血の気が引いていき、呼吸が浅くなり、意識が薄れていきました。それはひとつの「おわり」であるということ以外なにも感じませんでした。むしろそのことを素直に受け入れている自分がありました。 最後にひとつ付け加えるならば、死を恐れるのは、それだけそのひとの「生きたいという思いが強い」ということです。「だれが恐怖を感じているのか」なんてことはそのときには思い浮かびもしません。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.15
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奇跡によってしか存在証明が可能でないのならば、そんなものは神でもなんでもない。もし神があるとするならば、それはすでに「既成事実」なのだ。 ▲蓼科高原の標高1700mから見上げる雪降る朝の白樺の巨木。気温は氷点下10℃。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 (承前) いろんなことを想う 『奇跡によってしか存在証明が可能でないのならば、そんなものは神でもなんでもない。 もし神があるとするならば、それはすでに「既成事実」なのだ。』 そんなことをふと想った。 --- それはさておき・・・ 戦うという言葉があまり好きではない… どのようなものを相手にどのように戦うにせよそれは戦争だからだ。 大切なのは勝つことではなく、負けないということだ。 「生きる」ということは「死なない」ということだ。 「生きる」ということは「勝つ」ことではない。 「死なない」ということは「負けない」ということだ。 負けないために勝たなければならないということはないのだ。 世の中、「勝ち組」VS「負け組」だけじゃないんだ。 「負けない組」がいるじゃん。 弱さ、不安、無力感、自信のなさなど(列挙するときりがないけど)が「攻撃性」を生むのだ… 戦争だってもとをたどればそういう要因が大きい。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.14
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人は自分自身から逃れることはできないが、つねに「いま・ここに・ある・じぶん」ではない「自分」であり続けることができる。 ▲蓼科高原の標高1700mから見上げる夕べの月。気温はすでに氷点下6℃。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM:写真をクリックすると拡大します。 (承前) 支離滅裂な夢/道化について 今日街から帰ってきたらピラタスの丘の中の道沿いの斜面で子鹿(バンビ)2頭と母鹿が立ち往生していた。 シャッターチャンスだったけれど、これ以上怖い思いをさせたくないのでスルーした。 そういえば、今朝庭に出たらうちの庭にもきていたっけ。 同じ鹿たちだと思う。 その姿や仕草は本当にかわいい。 雄鹿はそれなりにドスがきいているけれどね。 なにごとも追えば逃げる、陽炎たつ夏日の逃げ水のように… 。 野生の鹿たちだって同じだ。 陽炎でふと思い出した… むっとする濃密な草いきれの中、自分自身を追いかけたあの幼い夏の日々。 真実はいつもヒグラシの鳴く頃に姿を現した。 神も悪魔もデフォルトで実装されているわれら。 短い眠りの中で、奇妙な夢は続く。 人は自分自身から逃れることはできないが、つねに「いま・ここに・ある・じぶん」ではない「自分」であり続けることができる。 自分であり、かつ、自分でありうべからざる自分・・・サルトルならそんなふうに言うかもしれない。 そういう自分が在る… この夢は支離滅裂だ。 だって夢なんだもの。 いったい道化ほど不気味な存在はない。 道化は素顔を持たない、誰にも決してみられることの無いように。 「道化」というシニフィアンが指し示すものは不定であり未定である。道化は何者でもなく、同時に、どのようなものでもありうる。 不気味さとはそのようなものだ。 思わせぶりに真実めいたことを語るが、それは偽りの真実でしかない。 なにものかを指し示すが、それは偽りの指標である。 じつは誰も本当のことを知らない、ほんとうのことはわからない。 えいやっと、それらしき方向に力一杯言葉を投げ込んでしまうほかない。 そして、なんか当たってるような気がする。(o^^o) ・・・って想えるとしわせかもしれない。 わたしもそのひとりです。 短い眠りの中でも、そんなことを考えていた。 ミシェル・フーコー君、きみの本(言葉と物)のせいだよ! --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.10
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わたしは限りなく彼女を求め、際限なく彼女を失い続ける ▲蓼科高原のとある別荘地の奥にこのような渓流がある。まさに奔流と呼ぶのがふさわしい清冽な水が流れ落ちていく。山岳部ではもう冬ですが、ここではまだ秋でした。by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 (承前) こころのかたち(shape of my heart) わたしは限りなく彼女を求め、際限なく彼女を失い続ける それがいまのわたしの恋だ。 感情がある、ということと、心がある、ということとは似て非なるものだと言うことをはっきりと認識した。 つまり、感情はあっても心のない人間だってこの世には存在しうるということを確信したと言うことだ。 それは倫理でもなく論理でもなく、まさしく「こころ」を持っているか否か、というクリティカルな問題なのだ。 心が無くても人に親切にすることはできるし、助けることだってできる、そのことによってその人に愛されることだってできるかも知れない。 しかし、心を持たない人間はその愛にこたえることはできない。 本当の意味で愛することができない。 相手をどんなに好んだとしても、心がなければそれは愛とはなり得ない。 心は不確かで儚いものだ。 いつの間にか失っていたとしてもすぐには気づかないほどだ。 人に愛されることになれてしまっている人は特に気をつけたほうがいい。 心を盗むとか無くすとかというのは比喩に過ぎないけれど、たしかに、こころが無くなってしまうことや最初から無いと言うことはありうるのだから。 もし、ひとと思いや感動を共有できないのなら、それはちょっと危ない兆候だ。 価値観や嗜好性の違いならば何の問題もないけれど、 もしそうでないのならば、あなたの胸の内に「こころ」というものがまだあるかどうかしっかりと確かめたほうがいい。 こころとは、愛をはぐくむゆりかごなのだ。 願わくば、僕も、そして僕の愛する人もそれを失ってしまうことのないように。 あるいは最初から持っていない哀しい人でないことを祈る。 愛にこたえてもらえない苦しみより、愛にこたえられない苦しみや哀しみの方がはるかに大きいからだ。 こころとは、あなたの精神のコア(核)とでもよぶべきものなのだ。 あなたの「こころのかたち(shape of my heart)」をいま一度確かめてみてはどうだろうか。 僕はすでに「こころ」を無くしてしまったのかも知れないのだけれど。 だからわたしは 限りなく彼女を求め、際限なく彼女を失い続ける それが、わたしの選択した「世界の終わり」のかたちだからだ。 ここには苦痛は存在しないが、埋めようのない喪失感に充ち満ちている。 こころを失うというのは、そのようなことなのだ。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原全体の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ 蓼科および奥蓼科の公式観光案内:http://tatesina.info/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.12.08
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