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われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。 ▲夕暮れの光 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 さて・・・ 『われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。』 という、以前このブログに書いた話の補足説明のつづきを書く。 無意識は我々の内なる大海である。その海面に波立つものが我々が現実と呼ぶところのものであり、上空からそれを見つめているのが我々が自身の意識として認識するところのものである。海面下に何が隠され潜んでいるのか、わたしたちには知るすべはない。 ここでわたしはポーランドの作家スタニスワム・レムの「惑星ソラリス」というSF仕立ての不条理な物語を思い出す。のちにアンドレイ・タルコフスキーによって同題の名作と呼ぶにふさわしい映画になったのでご存知の方もいるかも知れない。(後年ハリウッドでリメイクされたものは侮辱的にひどいしろものだったけれど) さて、この物語はある惑星の全体を覆い尽くす「海」が主題だ。あまりにも不可解な動きを見せるこの「生きている海」を研究するために、惑星の周回軌道を回る宇宙船の乗員に起きる不条理きわまりない事件が描かれている。そう、これはあえて言うならば寓話なのだ。いや、形而上学的メタファーとしての物語なのだ。 じつはこの海は1つの生命体であり、宇宙船の乗員の無意識領域を読み取り、それを夢としてではなく「現実として実体化して本人に送り届ける」能力を有している。 しかもこの海は赤子のように純真無垢である。むじゃきに、乗員の心の痛みや悔恨や願望や混乱を実体化して宇宙船に送り届けてくる。彼らはそれに耐えきれず、つぎつぎと発狂していく。廃人同様になっていく。 それを察した当局から送り込まれたのが主人公だった。 >>つづく --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.10.31
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これは氏の言うように「きわめて個人的な小説」なのだ。僕にとってそうであるように。その意味ではセンティメントを共有できないひとにはこの小説は「つまらない」と感じられるのかも知れない。 ▲宵闇の紅葉 by CANON EOS 6D, EF70-300mm F4-5.6L IS USM / ISO 12800 300mm f/5.6 1/25sec/海抜1700m:写真をクリックすると拡大します。 村上春樹がいまや代表作のひとつとなった「ノルウェイの森」の最終章で主人公に語らせている言葉を引用する。 『どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。われわれはその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。』 僕は1987年の秋に刊行された初版でこの小説を読み、以来数十回読み返している。そしていまも蓼科の秋の訪れを感じるとふたたび手に取る座右の書ともなっている。個人的には、この小説から僕は人生のかなり多くのモノやコトを学ぶことができた。 「風の歌を聴け」以来の村上春樹ファンとしては全作品をかなりの回数読み返しているわけだけれど、唯一読み返すことをしていないのは「ねじまき鳥クロニクル」くらいだろうか。あまりにも重すぎて体力的にちょっと無理。 「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」、「ダンス、ダンス、ダンス」を順番に読みこめば村上春樹の世界のひとつの側面を体感できるだろう。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでから「ノルウェイの森」、「海辺のカフカ」そして「1Q84」を読めばこの4つの小説の世界が地下水脈で綿密に繋がっていることがわかるだろう。 それでもなお、村上春樹本人が(例外的に書いた「あとがき」のなかで)言っているように、「ノルウェイの森」という作品はこれら、あるいは他の小説群のラインからはきっぱりとはずれた特異点に立っている作品だと思う。 これは氏の言うように「きわめて個人的な小説」なのだ。僕にとってそうであるように。その意味ではセンティメントを共有できないひとにはこの小説は「つまらない」と感じられるのかも知れない。 それはそうと、僕はよく池澤夏樹みたいな文章を書くと言われることがある。そうかも知れない。彼も僕が好きな作家のひとりだから。 しかし僕は文章作法のほとんどを村上春樹の作品を読むことによって学んだ。特に真似するつもりはないけれど、僕がもっとも好きなスタイルだからだ。 それはあえて言うなら「アフォリズム」「デタッチメント」「ディレッタント」という3つの言葉に集約されるかも知れない。表現上は優れた「メタファー」を挙げることが出来るかも知れない。 それはそうと、池澤夏樹が僕が高校時代にどっぷりとはまっていた福永武彦の息子だと言うことを最近知って、ああなるほどと合点がいったものだった。ひとのセンティメントは変えようとしても変わるものではないということだ。 ちなみに僕が抱く世界観は池澤夏樹の「スティル・ライフ」の冒頭の文章に的確に表現されている。長いので引用は避けるけれど、機会があったら是非一読することをおすすめする。 --- 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/
2013.10.30
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それが何であるかは問題では無いのだ、たぶん。 同様に、それが何であったのかもまた問題では無い。 それが何であり得たのかも問題にはされない。 それが高度情報社会というものなのかも知れない。 ふとそんなことを思った。 なにが本当でなにが本当では無いのか。 人々に好まれる言葉で言い直すならば、 「なにが真実で、なにが嘘なのか?」となるのだろうか? こんな風に安易に「真実」なんていう言葉を使う輩は好きでは無いけれど。まあしょうがない。 そんなことは自分で考えるほか無いのに、どうしてその答えを自分の外に、自分の他に求めるのだろうか。 僕としてはそれが不思議でならない。 真実とは「誰かの真実」あるいは「誰かにとっての真実」あるいは「誰かに対しての真実」なのであって、誰にとっても真実であるような「真実」など無いのだ。 別の表現をするなら、「論理的に絶対的に真であるような命題は存在しない」のだ。 論理は真実を担保しない。 だから、「個人的な真実」があるばかりだ。 あなたがどうしても、というならば、「絶対的真実」は信仰の世界にあるとだけ言っておこう。 「信じる者は救われる」というのはそういうことなのだ。 また話が横にそれてしまった。 というかさ、 ふと想ったことを書き留めたのが今日の記事だと言うことで、ご容赦くださいね。 おやすみなさい。 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.29
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ふと想いは立ち止まり、ぐるりと周囲を見回してみる。 そこには紅葉の盛りの森がある。 雪解けの頃よりは勢いの減じた渓流があり、 渓流の周囲に繁茂する植物の葉はまだ青々としている。 しかしいまはもう秋なのだ。 いつの間にか都市生活者にとってはなんとも過酷なあの夏は去り、 その気配すら感じられない 避暑地の別荘地は閑散としている。 一脚のガーデンチェアが忘れ去られたように佇んでいる。 その後ろ姿に自分を重ね合わせる自分がいる。 枯れ草色に変じた芝生が妙に哀しい。 突然名も知らぬ黒い鳥が飛び立つ。 その羽音に驚きふと我に返る。 散策路を踏みしめると、落ち葉がぱりぱりいう音を立てる。 吹き抜ける一陣の風にかさこそと吹き寄せられていく。 森の中はこの前来たときよりもよほど明るい。 広葉樹が多くの葉を落としたからだと気づくまでに少し時間がかかる。 わたしはすでに来し方を考えても良い年齢になった。 行く末は考えても仕方ないということも知っている。 まだまだこれからだ、などと自分を元気づけるつもりも無い。 もうお終いにしようなどとも金輪際思ってもいない。 老境にはほど遠く、初老というのでも無く、それでも… 青年期は遠く、壮年期は過ぎ去ったように思う。 いまだ不惑とは無縁だし、悟りにもほど遠い。 それでも生きていく。 愛とかがあろうが、無かろうが、 孤独だろうが、そうでなかろうが、 孤立だろうが、そうでなかろうが、 したたかに生きていく。 生きなければならないからでは無く、 どうしても生きたいからでも無く、 ただ生きているというのでも無く、 善き死に様として、いまを生きる。 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.28
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今日は晴れ。 晴れた夜が明けるときには放射冷却でとても冷え込む。 今朝の気温は氷点下5℃。 ここでは真夏を含めて1年中必要な羽毛布団に潜り込んでいてもその気配を感じた。 外に出て改めて見回してみると、広葉樹の紅葉や黄葉はほとんど落ちてしまったように感じる。 落葉する針葉樹の「カラマツ(落葉松)」も一斉に落葉を始めた。 それでも谷の向こうの標高1600mあたりにはいままさに盛りの紅葉の樹林帯が見える。 紅葉は標高の高い山岳部からより低い高原部へと山を駆け下りる。 我が家は標高1700mだから、ここより100m下っただけでそこは紅葉真っ盛りだ。 我が家の周辺の紅葉はあらかた落ちてしまったのだけれど、そういうことだから、 紅葉の名所はちょうど見ごろに入ったところ。 平年並みだと、11月の上旬の連休過ぎまで紅葉の盛りは続きそう。 観音平展望台から見下ろす王滝(おうだき)と横谷渓谷(よこやけいこく)の紅葉はじつに美しい。 湖沼部(蓼科湖、白樺湖、女神湖)もそろそろ見ごろに入る。 北横岳ロープウエイから見下ろす紅葉もお奨めだし、11月でも中旬以降は里山の紅葉がじつにみごと。 山岳部では同じ頃に落葉松の紅葉が赤く燃えるような風景を見せてくれる。 それはじっさいにここにモチーフを得た東山魁夷画伯の落葉松林そのものだ。 同じく画伯の名作の舞台のひとつとなった「御射鹿池(みしゃかいけ)」の紅葉も ちょうど描かれた季節へと入る。 それぞれの地名でググれば詳しい情報が簡単に入手できると思うので、ここにリンクは記さない。 紅葉真っ盛りの蓼科高原にぜひお越し下さい。 心癒やされる休日になることと思います。 蓼科高原ペンション・サンセット オーナー敬白 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.27
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しばらく更新を休みました。休んでしまった… とは考えないようにしています。そうでなければブログを17年も書き続けられなかったでしょう。 このブログは多くのブログとは異なって、独自のスタンスを取っています。 私はペンションのオーナー(経営者)ですが、自分のペンションの集客のためだけにこのブログを書いているわけではありません。 1996年に書き始めたときには自分のペンションへの集客をかねて蓼科高原全般の情報とその情報を得るためのリンク集からなるホームページを立ち上げました。 ブログなど影も形も無い頃の話です。それどころか、我が国にはまだ数えるほどしかホームページが存在しませんでした。 Googleなど影も形もなく、Yahoo!が日本進出のための準備室を開設したという段階でした。東証一部上場の大企業のホームページも近隣の観光施設や蓼科高原の公式ホームページもなかった。 楽天トラベルもじゃらんnetもネット予約サイトはまだ影も形も無かった。そもそもオンライン・ショッピングなんて便利なものはいまだ存在しなかった。 唯一気を吐いていたのは「信州オンライン」という信州の総合観光案内のサイトでした。しかしその基本は当時は「観光情報リンク集」といったものでした。だってGoogleもYahoo!も無かったんだから。すぐにYahoo!のβ版みたいなサービスが始まったけれど当時の検索精度はそれはもう信じられないほどひどいものだったのね(もちろん現在の基準からすると、というはなしだけど)。 そんな状況だったので私は,自分のペンションのホームページを作るのと同時に、蓼科高原のホームページまでも自作するほかありませんでしたし、近隣観光施設の案内ページまで自作せざるを得ませんでした。そんな時代でした。観光情報リンク集を作るのもほんとうに大変な作業で、それはもう著作権を主張したくなるほどのものだった。 ということで、ホームページから自動で予約できるペンションとしては全国で30番目、蓼科高原のペンションとしては最初のホームページとなりました。 予約のためのプログラムも自分で書きましたし、そもそもHTMLのテキストすら存在しなかったので、米国のAdobe社のホームページを観て、ソーズ表示をしては独学でHTMLを学びました。 そのホームページで毎日、雑感や季節の情報などを書き始めたのがこのブログの起源です。 それが「ブログ(weblog)」と呼ばれるものであり、我が国で本格的なブログサービスが始まったのはそれから10年ほどたってからのことでした。 話が横道にそれましたが、そのようなバックグラウンドを語らないことには、おそらく理解してもらえない想いがあるからです。 まあとにかく、そんな流れでブログ(のようなもの)を書き始めたわけですがお手本があるわけじゃ無し、「とにかく毎日書き続けること」だけを目標として10年その誓いを守って書き続けました。 で、三日坊主の自分にしてはこれはたいしたものだと褒めてやって、毎日書かなくてもいいやと思ったのが11年目以降というわけです。 その10年間は、とにかく質を高めることに必死で、こんなとりとめの無い書き方は自分で許せなかった。 だからこそ、これからは「とりとめなく、しょうもないことを書く」ことにしようかと思うわけですよね。なんかもう疲れちゃった。 ということで、耳寄り情報とか、お得情報とか、観光情報とかはお若い方に任せて、わたしは「とりとめないブロガー」になります。 どうぞよろしくお願いします。(^ω^) 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.26
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ある会への参加・・・残念ながら私の都合で「写真のみ」の参加でしたが・・・を契機として、決定的にかつ非可逆的に、私の中の何かが変化したのを感じます。この三本の巨木のような3つの柱は互いをリスペクトしつつ最後まで私を支えてくれると思います。 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.23
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先週末に東京の白金の安庵俚で小さな会が催された、FBで交流するさまざまなひとびとが自分の写真を持ち寄って歓談するという会なのだがそのメンバーがじつにすごい。https://www.facebook.com/events/220087628157845/?fref=ts その末席を汚させていただくことになってこの一ヶ月の準備期間はもう受験勉強やプレゼンテーションなんて目じゃないほど大変だった。 自分にとって写真とはなにかなんて考えたことも無いようなことまで考えることになった。 そして悟ったのは、自分にとって写真は自分そのものだということだった。 自分と写真とを区別して考えることは出来ない。 わたしにはレンズのこちら側とあちら側というような感覚はいないし、ファインダーの中の世界とそれ以外の世界という認識も無い。 写真を通して、あるいは写真という表現手段を用いて、なにかを表現したいという積極的な企図など無いし、写真でなにかを伝えたいという必死な思いも無い。 私にとっての写真を考えるとき、それが出来事であれ風景であれ人であれ、正面から向き合って観照(かんしょう)している自分がいる。そのことを改めて感じる。 そして、それを他の人がみてとってもらえればそれでいい。それがきっかけで何かが生じればそれがうれしい。そこから先はそのひとの人生のできごとだ。 そうした意味において、綺麗な風景を綺麗にとってそれを観た人に「まあ、きれい!」といわれても、いまのわたしにはうれしくないところがある。 それはある種の「敗北」だからだ。 「美しい」という表現には意味と価値が含まれるが。「綺麗」ということばには「感嘆」以上のものは無い。 美術、芸術には「意味」あるいは「価値」あるいはその両方があるのだ。 わからないひとにはわからなくていいし、それを非難するのはお門違い甚だしい。 ただ、個人的には、ちょっと寂しいだけ。 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.22
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紅葉が真っ盛りの見ごろです。空はどこまでも碧く澄み渡り、白い雲は刷毛でひいたようにに芸術的なフォルムを見せてくれています。 さて、ブログの更新をずいぶん休んでしまいました。モチベーションが極端に下がってしまったようです。 Facebookをある程度使いこなせるように成り、信頼できる友達の輪が成立すると、これまで20年近く続けてきたブログというのは壮大な独り言に過ぎなかったんじゃ無いかとふと身がすくんでしまうことがある。耐えがたい徒労感に襲われることがある。 私のような年齢になると確実にあと何年あるいは後十何年と人生のカウントダウンが出来るようになる。そのことも影響しているのかも知れない。 個人的にもより高い次元から観ればどうでも良いようなことを書き連ねている気にはなれなくなってくる。 観光情報はようやく茅野市観光協会のホームページに高いレベルで集約されるようになったので、そちらをご覧いただくのが良いしそれがベストの選択です。 私個人やペンション・サンセットのことは完全にFacebookに移行してしまったので、そちらをご覧いただきたい。 いずれにしても芸能人の世間話やどうでも良いような内容の無い記事でも面白おかしければ良いというエンタメ系のブログが高いアクセス数を獲得し上位にランクされるようなSNSにブログを書き続けることは辞めようかと感慨初めている。 茅野および蓼科高原の公式ホームページ:http://www.tateshinakougen.gr.jp/ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.21
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『記憶という観点から言うならば、われわれの意識(顕在意識)は無意識領域(潜在意識)に包含されているのであって、その逆ではない。』 昨日そのように結んだ。 さて、無意識は我々の内なる大海である。その海面に波立つものが我々が現実と呼ぶところのものであり、上空からそれを見つめているのが我々が自身の意識として認識するところのものである。 海面下に何が隠され潜んでいるのか、知るすべはない。 ちなみに、無意識は「意識が存在しない」ということではなく、そこに意識が介在し得ないという意味である。 『存在』の反対概念が『非存在』であって『無』ではないのと同じ事だ。 本質論で言うなら、 存在は「カオスが形をなして認識されたもの」であり、無とは「存在の不在」であり、非存在は「存在として形を保持しないカオス(空・くう)」である と言うことができる。 したがって、意識は存在であり、無意識はカオスであるということができるだろう。 いささかはしょっているので論理的整合性に欠ける部分があるかもしれないけれど、おおまかにいうならそういうことになると思う。 >>つづく 今日の写真:『紅葉が見頃です(標高1700m)』 20131009-P1110814-9by PANASONIC DMC-L10, Leica D Vario-Elmarit F2.8-3.5/14-50mm ASPH・ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.15
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『われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。』 という話の補足説明を書く。 この話を 意識 無意識 という枠組みで捉えるならば、脳はあらゆる感覚から入力されたすべての情報を記憶していると考えられる。「記憶」はその情報が確実に「思い出せる」ことによって確認される。 したがって、思い出せない記憶は「憶えられなかった」あるいは「忘れてしまった」あるいは「知らない」と日常会話では語られることになる。しかし、脳はしっかりと記録しているのだ。 その領域、つまり、それらの記憶が形成する世界を「無意識」と呼んでもいいように思う。その世界はふだんは存在しないものとして、意識の外のものとして認識される、あるいは扱われる。 脳は 無意識(潜在意識) と 意識(顕在意識) を繋ぐタスクをある種のルールに従っておこなっているようだ。われわれが自身の意識下において無意識から情報を,記憶を取り出すよう脳にリクエストしても、それはかなえられない。 それは失われたと報告される。あるいは最初からそんなものはなかったのだと思わされる。多くの場合それは我々の意識を正常に混乱無く保つためのブレーカーのような働きをしている。 記憶という観点から言うならば、われわれの意識(顕在意識)は無意識領域(潜在意識)に包含されているのであって、その逆ではない。 >>つづく 今日の写真:『紅葉が見頃です(標高1700m)』 20131009-P1110814-9by PANASONIC DMC-L10, Leica D Vario-Elmarit F2.8-3.5/14-50mm ASPH・ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.11
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この現実世界には我々が見たいものだけが存在し、見たくないもの興味を引かないものは存在しないものとしてフィルタリングされている。そのプロセスは我々の意識レベルには報告されないから、なにかのきっかけがない限り、そのことにはまったく気づかない。 詳細は別の機会に譲るけれど、われわれは見ようと意識しないものは見ない。先に書いたように「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。 昨日はそんなことを書いた。 個人的には「見たいもの」がなんなのか、「見たくないもの」、「意識していないもの」がなんなのかを意識することはないと思う。まあ、特別なことがない限りはね。 いずれにしても、私たちは「私たちが見ているもの」(認識しているもの)という限定付の舞台装置であるところの個人的「現実」の中で生きていると言えるのかも知れない。 それはたとえば、恋人たち双方の視点から見た恋愛模様を映画化したものを観てみれば、日常感覚として理解できるのかも知れない。 私たちは「私たち自身の現実」を生きている。 >>つづく 今日の写真:『紅葉が見頃です(標高1700m)』 20131009-P1110811-9by PANASONIC DMC-L10, Leica D Vario-Elmarit F2.8-3.5/14-50mm ASPH・ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.10
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最近眠りが浅いせいか、これまであまり観なかったような、じつに奇妙きてれつな夢、怪奇な夢(と言っても途中で夢だとわかる)、全然知らないひとが出てくるという訳のわからない夢・・・じつに様々な夢を見るようになった。 もちろん、いわゆる「既知夢」と言うのも昔からの習慣としてよく観る。連続ドラマみたいに、夢の途中で目が醒めても、また別の日につじつまのあった世界とストーリーのつづきを見ることができる。そこはデジャヴ(既視感)に満ちたお馴染みの夢の中だけに存在する「現実世界」だ。 不思議だ。 しかしこれらすべては我々の脳がつくりだす仮想現実と言えるのかも知れない。そもそもわれわれが「現実」とよぶこの世界だって、あらゆる感覚と記憶とによって整合性を壊さぬように脳が全力を尽くして構築したリアリティーあふれる世界なのだ。 この現実世界には我々が見たいものだけが存在し、見たくないもの興味を引かないものは存在しないものとしてフィルタリングされている。そのプロセスは我々の意識レベルには報告されないから、なにかのきっかけがない限り、そのことにはまったく気づかない。 われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。 無意識は我々の内なる大海である。その海面に波立つものが我々が現実と呼ぶところのものであり、上空からそれを見つめているのが我々が自身の意識として認識するところのものである。 海面下に何が隠され潜んでいるのか、知るすべはない。 まず『人間』があり、そして『意識』があり、しかるのちに『無意識』があるのではない。そうではなくて、まったく反対に、まず『無意識』があり『意識』が生成され『知覚』が成功し『認識』が構成され、そして初めて『人間』が現れるのだ。 そんなふうにぼくは考えている。 >>つづく 今日の写真:『紅葉が見頃です(標高1700m)』 20131005-P1110723-5by PANASONIC DMC-L10, Leica D Vario-Elmarit F2.8-3.5/14-50mm ASPH・ --- 信州蓼科高原北八ヶ岳・標高1700mペンション・サンセットのホームページ:http://www.p-sunset.com/ Facebook Page:https://www.facebook.com/pension.sunset ★蓼科の写真をもっと見たい人はこちらにたくさんアップしてあります: http://www.flickr.com/photos/p-sunset/ --- ©2013 Pension Sunset, all rights reserved.
2013.10.05
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