さて当初立てる、「ナニ」次第で、相手すべき「課題」も「問題」も大きく変わる。
それが<哲学とは何か>という回答のある問いとなる。
だから問い立ては、「それ自体が無意味なもので」始めるんやが。
つまりこれが「命題」、ということなんだが。
命題は、拘っちゃいかん無意味な物なんである。
(これはアリストテレス先生の、重要な戒め。)
哲学においては、大事な初動や結論も、もともと提供されてあるということ。
それを忘れちゃいかん。
結論は無知の知と、決まってるんだし。
「アルケー」となるものが、最初からもともと明晰判明に「ある」のである。
つまり命題の形式が、元からあるのだ。
オイラという、「享有者」がいるから、なんだが。
これは命題立てる前から、現実に、明晰判明に、ある。
つまり同義反復の「ある」も、「感性」も、対象の「自分自身」も。
最初から全部そろってあるのが哲学なのだ。
つまりつまり、虚無はないので「ある」。
ネガチブなメー・オン(無)はあっても、虚無はいかんのだ。
命題立ては、共有論議のディアレクチーク(対話)のためにのみ、あるものとして置くだけのこと。
宗教伝達のため希求するんじゃなくて、無知を知ることのために、あらしめる。
「享有」思惟での・・・で「ある」から、普通はそこから物事を始める、ので。
このアルケーに至る「ナニ」は、しかも。
どこからか、ひっぱってくるものだ、と、これでわかるはず。
「感性」からひっぱってきて、享有のそこで、時空を形成してるはずのものなのである。
<時空>
つまり、生きていることの「自分」、というもの。
感性がある「現実」の「時空」から、しょっぱなにぜんぶ引っ張ってくるのである。
表象であるもの発見するんじゃなく、表現された感性の元のものから、ひっぱりだす。
客観信奉の、ひたすら科分離する科学とは違ってくる。
科学技術みたいに、生死無関係の中性的なものを共有空想して、そこからひっぱって立てるんでもない。
なので、その順向きの「帰納的思惟」などとは、混同せんように。
これ間違えてる人多い。
哲学は、逆向きの「反省」であって、必ず「演繹的」なものとなるのだ。
実際の哲学論議のほとんどは、このもともとある享有「時空」を通じて行われるのである。
ところが。
この(無知の知の確認の前に)論理的問いが介在している、つまり数学がもとからある、というのも事実だ。
数学はしかも、哲学の前にあるのである。
これに騙される人も多い。
数学は、先験的にあるとも言える人の認識。
「論理」を重視すれば、「客観的死者」が、正しいように見えるかもしれんなることも、起こりうる。
技術課題がせっつくので、その「科学的知識」として立てた命題に、どうしても拘ってしまうからだ。
しかし哲学では数学は自分の無知を知る以外には利用しない。
そもそも勝ち負けを決めてんじゃねえんだよ。
演繹してんだ。
<優生学、エポケー、過去、未来>
立ち止まって佇んで(エポケーして)自己反省し。
ちょっとだけ自分で考えてみれば。
これは勝ち負けなんぞとは違うと、すぐわかるはずのものなのである。
将来的な予定ものや目標などは、哲学的な問いの前には、何も「ない」。
そのはずなのだ。
「無知を知るのが目的」なんだから。
つまり数学的論理の前にも後にも、これは「時空定義」があるのみ、なのである。
数学は時空定義で、できて、理論の骨となる論理を形成しているからだ。
いわば、図式でできているといっていいのかもしれん。
それ以外、利用した身体以外、つまり分数で解ろうとする数学論理同様、其処には何物もない。
但し「過去」の自分の一抹の「現実」は、(経験的に別途)あるのだ。
理論にも論理にもなっていなくて。
これはしかも必ず、享有者のうちに「ある」。
そのはずなのである。
逆に、「未来」などは、一切「ない」はずである。
未来は極度にネガチブなものであって。
このネガチブさの何処に未来志向の現代人が憧れるのか、オイラわからない。
過去は過去にあるが、未来は未だないし予定も当然、ないのである。
だから哲学は、すでに載せられた「課題」や「方針」や、決まっている事の「目論見」なんぞとの関係は、ないのである。
現実が相手なんだから。
哲学は「目論見」「企画」、そして「投機」などとは一切、もとからの無関係となる。
(この三つの言葉を合体させると、人工物、アジェンダができる。)
予言は詐欺師のものだが、アジェンダは悪魔の道具である。
だが、何かがあるので、と、過去に、哲学的反省がそこにひっかかったのである。
アジェンダでないことを確かめて置かんといかん。
目論見書でもなく言い訳でもなく、ナニカではあってもモノではない感性。
そこに「現実」へと反省的に問う、疑問に愛着した姿が必ず「ある」のである。
享有の此処には、フィリアが見出される。
共有が見出すアジェンダではなくて、享有の見出すフィリアがある。
<同義反復、フィレイン・ト・ソフォン>
「有る、けー?」と。
その問いが、自分を反省して見出す。
そこで、あるなしを、初動的に問う者がいるのだ。
アルケーを、同義反復して問う。
「あり」、「なし」、をあえて再度、「繰り返し」問うて反省するのだ。
それをやらせているのがフィレインである。
これを命題にして祀ったものが、つまり「フィリア」。
その問いの導きには、「愛があるから」そうするのでは「ない」。
愛は関係おまへん。
とにかく人は知りたいだけ、なのである。
知への親しみのようなものはあるのだが、フィリアは決してアガペーやエロース愛ではない。
欠乏でもない。
しかし、ある。
宗教家はすぐ、ここに愛がある、といいたがるようだが。
愛なんかおまへん。
彼らは、自分の「信仰」について、公共に広めたくて述べているだけなんである。
自分の「無知」を全く反省してないし、ナニカとして見てもいない。
哲学のフィリアは、まったくの別物である。
これを愛と訳すのは宗教家だが、これがそもそもの彼らの間違いの元なのである。
与え、奪う、宗教的な何物も、そこにはない、からだ。
ましてや神の愛なんて、カルト詐欺はやめてんか。
愛せよというのは、キリスト教などの宗教教説で、お題目だが。
哲学は、愛に導かれて哲学するのではないのである。
恋着を誘うフェチシズム的な、知る事へのナニカ「親しみ」はあるのだが。
決してそれは愛ではない。
あくまで、「親しいナニカ」にすぎないのだ。
ドイツ語でエトヴァス、つうものらしい。
極度に、あいまいな引っかかるもの。
カント先生が多用するので、いつしか覚えた。
哲学的な問い立てへのナニカ「欲求」のエトヴァスがある時空の様を。
フィレイン・ト・ソフォン(ソフィアへのフィリア)と普通は訳す。
これは古典ギリシャのものだが、誤りではないと思う。
<フィロソフィ=哲学、優生学との違い>
これが、フィロソフィアという学問を言い表す。
言わば時空表現の言葉となった。
愛は無関係である。
むしろ「フェチシズム溢れる恋着」の様に似ているのである。
何者も与えないし、奪いもしない享有のものだからである。
ソフィアは知恵の女神だが。
知恵なんか、共有に祀ってんじゃねえだ。
そもそもソフィア祀ってない。
個人の心にナニカとして留めてるだけ。
エロース(肉欲)でもアガペー(神の愛)でもなくて。
人の、自分が知る事への「不可解な恋着」が此処にある、のみなんだ。
それが哲学的問いと、その「アルケー」の事情である。
問いの「命題」と「アルケー」は、哲学において必須。
だから哲学、つまり「フィレイン・ト・ソフォン」は、数学には似ているのだが。
数学みたいに、「時空」を人工的にしない。
つまり時空を客観定義して始めようとはしないのである。
まず自分の主観を選らび出し。
そこへと180度立ち返って、時空を「反省」しての「現実」を問い質し。
またまた反省する。
現実の時空を、肯定も否定もせずに、繰り返しエポケーして反復する。
つまりひたすら「問い質す」のだ。
哲学は佇むがゆえ、「優勢学(判断)思想とは無縁である」のである。
だから、たずねたあとは、極度に注意が必要だ。
現実を問うので、「勝ち負け」、や、「選ばれし特権もの」、力関係の「優劣」などは要注意排除。
それらは一切「無視」し、入ってくれば「除外」していくべき、なのだ。
これら優生学的論議に関わると、哲学ではなく、まったく別のものへと勝手に誘導されちまうからである。
まずカテゴリーが勝手に適用されて。
しかもその倫理的答えを無視し、未到来のはずの未来が、空想のいわば人工の時空の内に、ムリヤリ持ってこられる。
メタバシス様な出来事が起こるのだ。
(メタバシスはオッカムの宗教信仰論議。)
ネガチブな部分は見えてないので、そこに勝手に客を入れてしまう、ようである。
これらについても、本文で詳しく扱いたいが。
とにかく主観は、いつの間にか客観になってて。
判断済、判定済となってしまう。
判断力批判が形而上学的になってしまう、理由だ。
「優劣」のある知識学となり、選ばれし特権者志向の学問へと招かれ、贈賄・買収され奴隷となることになるからだ。
つまり忍び込んだ「優生学」に乗っ取られてしまうのである。
まあ、勝ち組・負け組、そのカースト・ジャーティー肯定学になるんだ、と考えていい。
こんなんがあるもんは、絶対に哲学じゃない。
生きる目的追及のものではあるし。
広義の修辞学や政治学には、優生学は必ず含まれているものなんだが。
反省する無知の知の哲学とは無関係。
広義の修辞学には含まれても、哲学には、特定目的の追求がないし、特に優生学などは、含まれようがないのだ。
その理由は「無知の知」が、おのずと、しぜんと、示している。
生存への追及とも、無知の知は直接には無縁、のようにも見えちまうのだが。
まあ、いくらかは含まれてて。
もちろん完全追放はできまへん。
逆に追放に拘ると、キュニコス派やストア派の一部の人のような、おかしな哲学者が出来上がる。
ここらへんはアリストテレス先生の講義録が詳しいのである。
もちろんローマ帝国によって書き直された代物だが。
実際に哲学は儲からんので、これは、先にハッキリ言っておくべき。
勝ち負けの無い、カーストのない政治学志向なだけ、だからである。
儲けるべき中身がないのだ。
政治志向してても政治実践しないので、儲からんわけだ。
哲学で政治実践するやつはニセモノである。
儲けたい人は、哲学から早々に去るべきだ。
いや、学問領域からも消えちまえ!
そんな人は学問には、害毒しか残さんからだ。
おいら人畜無害なのに、若いころから世間の学問界からは追放されてた。
哲学学会などにも一度も出たこともない。
一般教養ですでに除外されてた。
数学と教育原理落としての、落第生だったからだ。
害毒も残す心配ない?
今になってネット上に垂れ流してる。
ともあれ「自分だけで問いを立て」、「自分自身の無知を確かめ」、「無知だと知る」、それが「哲学」ということ。
この世の優生学などには、一切関与しない。
哲学は、自分自身の「無知」を知る学問である。
「汝自身を知れ」という神託がモト。
但し哲学は、他者と親しく共有対話(ディアレクチーク)して、相手にも、その人の個人の無知を確かめさせる、おせっかいなところがあるのだ。
そこまで徹底対話するからだが。
命題にするのも、そのためなんだ、が。
自分の思惟を反省し、その共有においても<無知なることを知る事>が「目的」だから、そうするのだ。
これらが「哲学の本質」である。
老人的繰り言にも似た「無知の知」。
ほんとうに、「自分の無知を自分で知る事」。
知恵や知識じゃありません。
<知る>
知るとは、「知的瞳着」の意味であるが。
つまりは、最後は科分離されて「解る」こと、なんであるが。
哲学で知る、ということは科分離理解の事言ってんじゃない。
「無知」に演繹的に還る事、言ってる。
人の「現実」での、解らないことへの、自分の無知を解るための日常での「素朴な問いかけ」。
それが、ここに哲学命題として「あった」にすぎ「ない」。
ということなのだ。
「ある」・「ない」、の双方が、哲学的に知ることで、ここには、あるんだと。
そのことをまず理解されたい。
「有」だけでは「ない」んである。
「無」もまた、ありえ「ない」として、ある。
(ありえない、という「あること」を示している。)
(ここには図式の指図が隠れているので、日本語でしか、論議が出てないようなので要注意。)
この図式については難しいので、これもいずれ本文で。
その「ある」、「ない」、の判断から、思惟は始まるのである。
ある、を、「ポシティブ」という、見える物とし。
ない、は、「ネガチブ」という、みえないものとする。
これらが、人の言葉の持つ、「法則」あるいは規則なのである。
見えてないこれを「オルガノン」という。
アリストテレス先生の哲学。
だが、これは決して「オルガン」ではないので、機械理論などとは混同せんように。
ましてや数学論理にしてしまうと、ヘタすると虚無に囚われる。
時空定義がモトになっているのだが、その時空との関係がみえんなっちまうもんで。
ましてやましてや、全き命題である神みたいなもんには、容易に、なってくれんものなので。
これも本文で扱いたい。
** コピー自由と言うか、命題残すためにもお願いします。
切り貼りコピー自由なはず。
営利盗用は禁止、これ矛盾かも、とは思うが。
序は、まだまだ続きそう。
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