2024年11月30日
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カテゴリ: 哲学研究室



 さて当初立てる、「ナニ」次第で、相手すべき「課題」も「問題」も大きく変わる。
 それが<哲学とは何か>という回答のある問いとなる。
 だから問い立ては、「それ自体が無意味なもので」始めるんやが。
 つまりこれが「命題」、ということなんだが。

 命題は、拘っちゃいかん無意味な物なんである。
 (これはアリストテレス先生の、重要な戒め。)

 哲学においては、大事な初動や結論も、もともと提供されてあるということ。
 それを忘れちゃいかん。
 結論は無知の知と、決まってるんだし。
 「アルケー」となるものが、最初からもともと明晰判明に「ある」のである。
  つまり命題の形式が、元からあるのだ。

 オイラという、「享有者」がいるから、なんだが。
 これは命題立てる前から、現実に、明晰判明に、ある。
 つまり同義反復の「ある」も、「感性」も、対象の「自分自身」も。
 最初から全部そろってあるのが哲学なのだ。

 つまりつまり、虚無はないので「ある」。

 ネガチブなメー・オン(無)はあっても、虚無はいかんのだ。
 命題立ては、共有論議のディアレクチーク(対話)のためにのみ、あるものとして置くだけのこと。
 宗教伝達のため希求するんじゃなくて、無知を知ることのために、あらしめる。

 「享有」思惟での・・・で「ある」から、普通はそこから物事を始める、ので。
 このアルケーに至る「ナニ」は、しかも。
 どこからか、ひっぱってくるものだ、と、これでわかるはず。

 「感性」からひっぱってきて、享有のそこで、時空を形成してるはずのものなのである。


 <時空>

 つまり、生きていることの「自分」、というもの。
 感性がある「現実」の「時空」から、しょっぱなにぜんぶ引っ張ってくるのである。

 表象であるもの発見するんじゃなく、表現された感性の元のものから、ひっぱりだす。 
 客観信奉の、ひたすら科分離する科学とは違ってくる。
 科学技術みたいに、生死無関係の中性的なものを共有空想して、そこからひっぱって立てるんでもない。
 なので、その順向きの「帰納的思惟」などとは、混同せんように。
 これ間違えてる人多い。

 哲学は、逆向きの「反省」であって、必ず「演繹的」なものとなるのだ。
 実際の哲学論議のほとんどは、このもともとある享有「時空」を通じて行われるのである。

 ところが。
 この(無知の知の確認の前に)論理的問いが介在している、つまり数学がもとからある、というのも事実だ。
 数学はしかも、哲学の前にあるのである。
 これに騙される人も多い。

 数学は、先験的にあるとも言える人の認識。
 「論理」を重視すれば、「客観的死者」が、正しいように見えるかもしれんなることも、起こりうる。
 技術課題がせっつくので、その「科学的知識」として立てた命題に、どうしても拘ってしまうからだ。

 しかし哲学では数学は自分の無知を知る以外には利用しない。
 そもそも勝ち負けを決めてんじゃねえんだよ。
 演繹してんだ。


 <優生学、エポケー、過去、未来>

 立ち止まって佇んで(エポケーして)自己反省し。
 ちょっとだけ自分で考えてみれば。
 これは勝ち負けなんぞとは違うと、すぐわかるはずのものなのである。

 将来的な予定ものや目標などは、哲学的な問いの前には、何も「ない」。
 そのはずなのだ。
 「無知を知るのが目的」なんだから。

 つまり数学的論理の前にも後にも、これは「時空定義」があるのみ、なのである。
 数学は時空定義で、できて、理論の骨となる論理を形成しているからだ。
 いわば、図式でできているといっていいのかもしれん。

 それ以外、利用した身体以外、つまり分数で解ろうとする数学論理同様、其処には何物もない。
 但し「過去」の自分の一抹の「現実」は、(経験的に別途)あるのだ。
 理論にも論理にもなっていなくて。
 これはしかも必ず、享有者のうちに「ある」。
 そのはずなのである。

 逆に、「未来」などは、一切「ない」はずである。
 未来は極度にネガチブなものであって。
 このネガチブさの何処に未来志向の現代人が憧れるのか、オイラわからない。

 過去は過去にあるが、未来は未だないし予定も当然、ないのである。
 だから哲学は、すでに載せられた「課題」や「方針」や、決まっている事の「目論見」なんぞとの関係は、ないのである。
 現実が相手なんだから。

 哲学は「目論見」「企画」、そして「投機」などとは一切、もとからの無関係となる。
 (この三つの言葉を合体させると、人工物、アジェンダができる。)
 予言は詐欺師のものだが、アジェンダは悪魔の道具である。
 だが、何かがあるので、と、過去に、哲学的反省がそこにひっかかったのである。
 アジェンダでないことを確かめて置かんといかん。

 目論見書でもなく言い訳でもなく、ナニカではあってもモノではない感性。
 そこに「現実」へと反省的に問う、疑問に愛着した姿が必ず「ある」のである。
 享有の此処には、フィリアが見出される。
 共有が見出すアジェンダではなくて、享有の見出すフィリアがある。


 <同義反復、フィレイン・ト・ソフォン>

 「有る、けー?」と。

 その問いが、自分を反省して見出す。
 そこで、あるなしを、初動的に問う者がいるのだ。

 アルケーを、同義反復して問う。
 「あり」、「なし」、をあえて再度、「繰り返し」問うて反省するのだ。
 それをやらせているのがフィレインである。
 これを命題にして祀ったものが、つまり「フィリア」。

 その問いの導きには、「愛があるから」そうするのでは「ない」。
 愛は関係おまへん。
 とにかく人は知りたいだけ、なのである。

 知への親しみのようなものはあるのだが、フィリアは決してアガペーやエロース愛ではない。
 欠乏でもない。
 しかし、ある。

 宗教家はすぐ、ここに愛がある、といいたがるようだが。
 愛なんかおまへん。
 彼らは、自分の「信仰」について、公共に広めたくて述べているだけなんである。
 自分の「無知」を全く反省してないし、ナニカとして見てもいない。

 哲学のフィリアは、まったくの別物である。
 これを愛と訳すのは宗教家だが、これがそもそもの彼らの間違いの元なのである。
 与え、奪う、宗教的な何物も、そこにはない、からだ。
 ましてや神の愛なんて、カルト詐欺はやめてんか。

 愛せよというのは、キリスト教などの宗教教説で、お題目だが。
 哲学は、愛に導かれて哲学するのではないのである。
 恋着を誘うフェチシズム的な、知る事へのナニカ「親しみ」はあるのだが。
 決してそれは愛ではない。

 あくまで、「親しいナニカ」にすぎないのだ。
 ドイツ語でエトヴァス、つうものらしい。
 極度に、あいまいな引っかかるもの。
 カント先生が多用するので、いつしか覚えた。

 哲学的な問い立てへのナニカ「欲求」のエトヴァスがある時空の様を。
 フィレイン・ト・ソフォン(ソフィアへのフィリア)と普通は訳す。
 これは古典ギリシャのものだが、誤りではないと思う。


 <フィロソフィ=哲学、優生学との違い>

 これが、フィロソフィアという学問を言い表す。
 言わば時空表現の言葉となった。

 愛は無関係である。
 むしろ「フェチシズム溢れる恋着」の様に似ているのである。
 何者も与えないし、奪いもしない享有のものだからである。

 ソフィアは知恵の女神だが。
 知恵なんか、共有に祀ってんじゃねえだ。
 そもそもソフィア祀ってない。
 個人の心にナニカとして留めてるだけ。

 エロース(肉欲)でもアガペー(神の愛)でもなくて。
 人の、自分が知る事への「不可解な恋着」が此処にある、のみなんだ。
 それが哲学的問いと、その「アルケー」の事情である。

 問いの「命題」と「アルケー」は、哲学において必須。
 だから哲学、つまり「フィレイン・ト・ソフォン」は、数学には似ているのだが。
 数学みたいに、「時空」を人工的にしない。
 つまり時空を客観定義して始めようとはしないのである。

 まず自分の主観を選らび出し。
 そこへと180度立ち返って、時空を「反省」しての「現実」を問い質し。
 またまた反省する。
 現実の時空を、肯定も否定もせずに、繰り返しエポケーして反復する。
 つまりひたすら「問い質す」のだ。

 哲学は佇むがゆえ、「優勢学(判断)思想とは無縁である」のである。
 だから、たずねたあとは、極度に注意が必要だ。
 現実を問うので、「勝ち負け」、や、「選ばれし特権もの」、力関係の「優劣」などは要注意排除。
 それらは一切「無視」し、入ってくれば「除外」していくべき、なのだ。

 これら優生学的論議に関わると、哲学ではなく、まったく別のものへと勝手に誘導されちまうからである。
 まずカテゴリーが勝手に適用されて。
 しかもその倫理的答えを無視し、未到来のはずの未来が、空想のいわば人工の時空の内に、ムリヤリ持ってこられる。

 メタバシス様な出来事が起こるのだ。
 (メタバシスはオッカムの宗教信仰論議。)
 ネガチブな部分は見えてないので、そこに勝手に客を入れてしまう、ようである。
 これらについても、本文で詳しく扱いたいが。

 とにかく主観は、いつの間にか客観になってて。
 判断済、判定済となってしまう。
 判断力批判が形而上学的になってしまう、理由だ。
 「優劣」のある知識学となり、選ばれし特権者志向の学問へと招かれ、贈賄・買収され奴隷となることになるからだ。

 つまり忍び込んだ「優生学」に乗っ取られてしまうのである。
 まあ、勝ち組・負け組、そのカースト・ジャーティー肯定学になるんだ、と考えていい。
 こんなんがあるもんは、絶対に哲学じゃない。

 生きる目的追及のものではあるし。
 広義の修辞学や政治学には、優生学は必ず含まれているものなんだが。
 反省する無知の知の哲学とは無関係。

 広義の修辞学には含まれても、哲学には、特定目的の追求がないし、特に優生学などは、含まれようがないのだ。
 その理由は「無知の知」が、おのずと、しぜんと、示している。

 生存への追及とも、無知の知は直接には無縁、のようにも見えちまうのだが。
 まあ、いくらかは含まれてて。
 もちろん完全追放はできまへん。

 逆に追放に拘ると、キュニコス派やストア派の一部の人のような、おかしな哲学者が出来上がる。
 ここらへんはアリストテレス先生の講義録が詳しいのである。
 もちろんローマ帝国によって書き直された代物だが。


 実際に哲学は儲からんので、これは、先にハッキリ言っておくべき。
 勝ち負けの無い、カーストのない政治学志向なだけ、だからである。
 儲けるべき中身がないのだ。

 政治志向してても政治実践しないので、儲からんわけだ。
 哲学で政治実践するやつはニセモノである。

 儲けたい人は、哲学から早々に去るべきだ。
 いや、学問領域からも消えちまえ!
 そんな人は学問には、害毒しか残さんからだ。

 おいら人畜無害なのに、若いころから世間の学問界からは追放されてた。
 哲学学会などにも一度も出たこともない。
 一般教養ですでに除外されてた。

 数学と教育原理落としての、落第生だったからだ。
 害毒も残す心配ない?
 今になってネット上に垂れ流してる。


 ともあれ「自分だけで問いを立て」、「自分自身の無知を確かめ」、「無知だと知る」、それが「哲学」ということ。
 この世の優生学などには、一切関与しない。

 哲学は、自分自身の「無知」を知る学問である。
 「汝自身を知れ」という神託がモト。

 但し哲学は、他者と親しく共有対話(ディアレクチーク)して、相手にも、その人の個人の無知を確かめさせる、おせっかいなところがあるのだ。
 そこまで徹底対話するからだが。
 命題にするのも、そのためなんだ、が。

 自分の思惟を反省し、その共有においても<無知なることを知る事>が「目的」だから、そうするのだ。
 これらが「哲学の本質」である。
 老人的繰り言にも似た「無知の知」。

 ほんとうに、「自分の無知を自分で知る事」。
 知恵や知識じゃありません。


 <知る>

 知るとは、「知的瞳着」の意味であるが。
 つまりは、最後は科分離されて「解る」こと、なんであるが。
 哲学で知る、ということは科分離理解の事言ってんじゃない。
 「無知」に演繹的に還る事、言ってる。

 人の「現実」での、解らないことへの、自分の無知を解るための日常での「素朴な問いかけ」。
 それが、ここに哲学命題として「あった」にすぎ「ない」。
 ということなのだ。

 「ある」・「ない」、の双方が、哲学的に知ることで、ここには、あるんだと。
 そのことをまず理解されたい。
 「有」だけでは「ない」んである。
 「無」もまた、ありえ「ない」として、ある。

 (ありえない、という「あること」を示している。)
 (ここには図式の指図が隠れているので、日本語でしか、論議が出てないようなので要注意。)
 この図式については難しいので、これもいずれ本文で。

 その「ある」、「ない」、の判断から、思惟は始まるのである。
 ある、を、「ポシティブ」という、見える物とし。
 ない、は、「ネガチブ」という、みえないものとする。

 これらが、人の言葉の持つ、「法則」あるいは規則なのである。
 見えてないこれを「オルガノン」という。
 アリストテレス先生の哲学。
 だが、これは決して「オルガン」ではないので、機械理論などとは混同せんように。

 ましてや数学論理にしてしまうと、ヘタすると虚無に囚われる。
 時空定義がモトになっているのだが、その時空との関係がみえんなっちまうもんで。
 ましてやましてや、全き命題である神みたいなもんには、容易に、なってくれんものなので。
 これも本文で扱いたい。


 ** コピー自由と言うか、命題残すためにもお願いします。
 切り貼りコピー自由なはず。
 営利盗用は禁止、これ矛盾かも、とは思うが。
 序は、まだまだ続きそう。







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最終更新日  2024年11月30日 12時55分20秒
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