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地震以来、気持ちが不安定だ。どこかでいろいろ無理をしているのだろうと思う。何も悪いことをしているわけでもないのに、どこか罪悪感がつきまとう。心の底から何かを楽しめない。ふだんはネガティブな部分を見せないようにしている分、うちにいる日は逆にドッと落ち込んでしまう。気持ちが晴れ晴れとする日は来るのだろうか。
2011年04月27日
満月は人の心に何がしかの影響を与えるそうだ。
2011年01月20日
ひと言でまとめると「実に理不尽な年まわり」だった。自分の咎ではないところで、ものすごく苦しむはめになった。こころもからだもボロボロで、文字通りの「痛み」と格闘する日々だった。誠実に必死に生きているのに、なんでこんな思いをせねばならぬのかと思わない日はなかった。勝手に誤解され、勝手に悪者にされ、私側の言い分を聞いてくれる人はおらず、まさに「もの言わぬは腹膨るる思い」だった。見たくもない他人の業の深さや愚かさが見えてしまい、人間嫌いに拍車がかかってしまった。大事な家族の命をひとつ見送ることにもなった。これでもか、と試練が次から次にやってきた。一方で、自分の中で密かに立てた目標は、ちゃんと具現化できた。誰にも言わなかったし、どこにも宣言もしなかったけれど、ちゃんと達成している。自分にしかわからない達成感だけれど。そしてもうひとつ、まったく思いも寄らないところで、この私を支援してくれる人たちがいることも実感した。人間嫌いのこの私を、である。いいことも悪いこともどちらにしても「自分の想定外のこと」がいっぱいあった、というのが今年の最大の特徴かもしれぬ。今後も、自分で何もかもわかったつもりになって落ち込んでばかりいる必要はまったくない、予想外のことだって起こりえるのだから、というのがせめてもの収穫か。苦しい年ではあったけど、それでも本当にひどい時よりは「はるかにまし」だったさ。
2010年12月29日
自分の中の感情の起伏がもっと平坦になればいいのにと思う。心の底から。世の中には淡々と冷静に物事をやりすごせる人間もいっぱいいるのだから。昂揚感は確かに得難いものだけれどその後に反動として必ずくる落ち込みがツライ。何があろうと、何事にも動じない「鈍いタイプ」になれればいいのにと思う。感情のスイッチを切ることができれば、どれだけいろんなことが楽になるだろう。とはいえ、今はやりたくなかったことをちゃんとやめられているのだ!考えたら、私はあのしんどくていやな思いをもう二度としなくていいのだ。やった。私は解放されていたんだ。
2010年12月28日
実験の成果が早くも出ている。信じられない。こんなにもいい方向に展開するなんて。自分でもびっくりだ。ほんの少しの勇気でこんなことが起こったりするものなんだ。何事もやらないうちから自分で結果を決めつけてはいけないな。思いがけない喜びということも「ある」のだ。また少し、まわりの人から力をもらった。私もまわりの人に力を与えられるようになろう。
2010年12月23日
毎日何もしなくても日々は過ぎていき、ともすれば本当に何もしなくても一日が終わってしまう。つくづく思うのは、時間があっても大掃除なんかしやしないということ。とはいえ、ふとんをかぶって寝てるだけだとものすごく自己嫌悪にも苛まれるということがわかってきたので「それよりはいくぶんかまし」というだけの理由で、ここのところあることを実験している。私が人生で最も苦手とする行為なのだが、いままでそれをやらなさすぎたから、今のこの状態なのかもしれぬという仮説のもと、凹みそうになる気持ちを引き上げ引き上げやっている。もしかしたら他のタイプの人なら、放っておいてもそれを「楽しみごと」としてやるような行為だ。ところが私にとっては、勇気がいって仕方がない。他のことならなんでも結構チャレンジできるこの私が、である。だからこそ「苦手」分野なんだろう。でも、あえてやってる。何かが変わるのか何かのきっかけになるのか、まったく未知数だけれど、わずかな希望を託して頑張っている。これは実験なんだと自分にいいきかせて。一念発起してやってみた初日に思いもよらない手応えがあり、そしてそれほど嫌な思いもせず、むしろ皆から喜ばれ、自分で自分にびっくりしたのも幸いしている。意外に自分で思うほどは、みんな嫌がらない当たり前の行為なのかもしれぬ。私が考え過ぎだったのかも。やったらやっただけ、支援してくれる人が増えているのだ。自分でそう思ったことは一度もないけど、私、案外、他人に受け入れられるタイプの人間なのかもしれない。
2010年12月21日
時間だけはたっぷりあるので知り合いを手伝いがてら、他人の働き方をつぶさに見る機会があった。つくづく思ったのは「お金を稼ぐ」ということに的を絞れば、絶対に「効率」という考え方はある、ということだ。身を粉にして誠心誠意働いていても、結局は「安く便利な人」で終わってしまうこともある。たしかに頼りにはされるだろう。その人がいないと何ひとつ回っていかないのだから。でも誰も彼もがその人ひとりをあてにして、なんでもかんでもその人が解決しなければならないようになってしまっている。もうパンク寸前だ。完全に「みんなのお母さん」状態なのだ。男の人は、一度何かをお願いしてそれが叶うともう、次回からはそれが当たり前になってしまう生き物だ。多かれ少なかれみんなそう。いつもいつもで申し訳ないな、という女性なら自然に持つような思いやりの感覚を持った人は滅多にいない。「以前にそれでも大丈夫だったから今回もそれでOKだろう」というのが、どうやら彼らの揺るぎない根拠のようだ。「無償の愛を注ぐ母親」の記憶を持っている人は、その手の人の奉仕精神を無意識に嗅ぎ分ける。そして悪気もなく、結果としては利用する構図になるのだ。その知り合いも、自分のことを後回しにして家族のために奮闘してきた。複数の子供を育ててきているので、実によく目配りができる。いい年したオヤジたちは、そこにつけ込み、なんでもかんでも甘えて用事をいいつける。私は男性のようにも働いてきたので、彼らの無意識の狡さに気がついてしまう。奴らは彼女を「女中」のように捉えている、と。彼女は「それはできません」ということも言えるようになった方がいいと思う。働く現場では「優しいお母さん」だけでは回っていかない場面もある。拒否して相手に学習させることの方が意味を持つ場合も多い。その現場で、その場にいた私にも同じようにあることを押し付けようとしたオヤジがいた。責任を負いきれない用件だったので私はキッパリお断りした。一瞬「え?」というちょっと戸惑ったような表情を見せたのち、結局は自分でやっていた。この人の日常は「断られる」ということにきっと慣れていないのだろうなと想像した。リスク管理上も私がやるべきことではなかったので、結果としてはその人のためになっていたはずだ。甘える男は斬った方がいい時もある。
2010年12月08日
師走に仕事がないなんて、人生初かもしれない。世間から完全に無視されているようでなんかアセる。先月までは久々の自由な時間を満喫していたというのに、月が変わったとたんに気分が一変する。これはいったい何なんだろう?落ち着け自分、とまずは言おう。単に世間のムードが変わっただけで、私自身の中身は変わっていないのだから。しかしつくづく世の中って、形をもたないこの「世間の気分」で動いていくものなんだなと実感する。昨日と同じような今日が連綿と続いているだけなのに。
2010年12月02日
すべての人は、自分のことをわかってほしいと心の底で願っているだろう。本当の私をわかってほしい。それは誤解だ、本当はこうなのだ、と言いたい。でもこの頃考える。誤解を解いたつもりになっても、それは相手次第なのだということだ。いくら本人が「私をこういうふうにとらえてほしい」と思っていても、思う行為の主体は受け手である相手側にあるということだ。誤解なんて、それを解いたつもりでも、結局またちょっとずつのズレを生み出していくに過ぎないのかもしれない。もう、誤解されているのならそれでもいいじゃないか。本当の私をわかってもらったとして、それがなんになろう。物事の表層だけをとらえて即座に断定するような、薄っぺらい判断力しか持ち合わせていない人間は、こっちから特に用事はない。どうでもいい人間のことまで気遣う必要はないのだろう。
2010年11月29日
久しぶりに友達と会っていろいろ話し込む。どんな家庭にもその家独特の問題というものがあって、そのしんどさは当事者しか実感することはできないのだけれど。その友達の悩みの元となっているある人物がある考え方や行動に固執するのは、やはりそうならざるをえないようなバックグラウンドがあるのだということを、話をききながらつくづく感じた。その人の身に起こったこと、その時にその人が何を支えにそれらを乗り越えてきたかによって、その人が執着するものごとの意味が見えてきたりする。人間の心のありようなどは、結局似たり寄ったりなんだろうと思う。
2010年11月23日
曜日の感覚もわからない感じになってきている今日この頃。朝起きて何をするか決めていい毎日。定年になったらこんな感じなのかもしれない。何の義務もない日々。心のおもむくままに過ごしていい時間。実は心の奥底ではこんな毎日を過ごしたかったのだ。心穏やかに母親と家の中のことをする日々。ついこのあいだまで、くだらないきっかけですぐ言い争いをしていたのが嘘のようだ。心の中がストレスで埋め尽くされて、いつもイライラしていたのだ。仕事をしなくなっただけで、こんなにも緩やかな気持ちになれるものだろうか。家事がまったく苦手な私だが、母親に教わりながら少しずつ料理もしてみている。そうだ。私はこうしたかったんだ。本当はこうして、あたりまえのことをあたりまえにできるようになりたかったんだ。少しでも時給を上げるために、追いつめられたように死に物狂いで勉強してハイスコアをとり、スキを見せまいと身構えながら業務をこなす日々。眉間にしわよせた人々と一触即発の重苦しい時間をやりすごす満員電車。守秘義務やら業務管理やら、モノ扱いされることにだんだんマヒしていってしまう自分自身。あれは一体なんだったんだろう。お金を稼ぐって、結局そういうことしかないのだろうか?いずれはまた何らかの形で働き始めることになるだろう。私はまた、これからどうなっていくだろう?
2010年11月20日
まる6年ぶりにハローワークに行ってきた。あそこに行くと、つくづく失業者になったのだと実感してしまう。あの雰囲気にはやはり気が滅入る。ずっと時間がたっぷり欲しかったのだから、望みがかなったのだと思おうとするが、やはり無収入という現実がのしかかる。今すぐ困るわけではないけれど、心安まることがない。
2010年11月15日
6年勤めた今の派遣先の契約が今日で終了した。後半は仕事がキツくて体調を崩したり、辛いことも重なったりで、かなりしんどかったけど、振り返ってみたらすごく恵まれた環境だったとつくづく思う。派遣社員ではなかなかできないような大きなプロジェクトに関わらせてもらったり、漠然と夢見ていたような会議通訳の仕事も経験させてもらえた。なにもそこまでせずともというぐらい、ビジネスライクにクールにストイックに働くことを自分に課して、可愛げの欠片もなかったけれど、いざ終わってみれば、部内の社員の人たちがたくさん集まってねぎらってくださった。挨拶する前から万感の思いがこみあげて、結局しゃくりあげながらの最後の挨拶となった。男の人たちがほとんどなのに、なんとなく一緒に涙ぐんでくれるような気配すらあった。お掃除のおじさんやおばさんたちも今日が最後だというと、みんな驚きつつ励ましてくれた。私、やっぱり人の誠意を信じつづけられる人間でありたい。したたかで抜け目なくやり手の人間より、こうやって皆から感謝され、ねぎらわれ、励まされる人間でいつづけたい。今、ある人となんか関係がギクシャクしていて、別のツラさを抱えてはいるのだが、それもいずれは時間が解決すると信じている。5年かかるか10年かかるかはわからないけれど。それぐらいのスパンで覚悟しておこう。
2010年10月29日
いよいよ今週一杯で契約は終わり。来週からどんな生活になるのか一切見えてこない。数年ぶりにマッタキ自由の身になるのかもしれない。全力疾走の、心身ともに辛い毎日だったから、もしかしたら神様がくれたご褒美なのかも。ま、収入は途絶えるがな。あくせくあくせく、追い立てられるように何年も何年も働いてきた。ちょっと小休止か?それにしても、気がクサクサすることにはかわりがない。私には何も落ち度がないからだ。なのに職を失う。時給が上がりすぎたか。といったって、ここまでもってくるまでに私の方もムチャクチャ投資もしたし、努力もした。身体は壊す寸前まできている。なのに、いっぺんにチャラだ。時間がたっぶり使えるようになるのは本当に喜ばしいが。ちょっとノンビリしてみたい気もするので、ちょうどいいのかもしれない、と無理矢理自分に言い聞かせてみる。
2010年10月25日
遠い遠い昔。アルバイト先の社長に「きみは、まさかそんなはずがないと思うぐらい正直だから、かえって戸惑う」と言われたことがある。その人は経歴上も業務においても、非常に策略家だった。そういうタイプには、私という人間の思考回路がどうにも掴みかねるようだった。こちらが最初から普通に正直に言い続けていることに、何か裏があるかもしれないと勘ぐってばかりいるものだから、だんだんどう考えていいのか自分でわからなくなっていくのだ。そしていつのまにか、私の方が悪者みたいになってしまう。どうすりゃ良かったのよ、と今でも思う。日頃から懐疑的な人間に限って「人を疑うな」というものだ。
2010年10月22日
今の職場も契約終了までいよいよカウントダウンとなってきた。いつも私のことをやたら「かっこいい」と言ってくれる女の子がいて、その人がここのところご不幸続きで気の毒な状態だったのだが「tmgcatsさんがいてくださったことが、ものすごく支えになっていた」と言ってくれた。私が特別何をしたわけでもなかったのに、こういう風に言ってもらえるなんてとても嬉しいことだ。自分の存在そのものに意味があったということこそ、生きる理由たりえると言っても過言ではない。晩になって、私の弟子からも、長らく患っていた彼女のお母様がお亡くなりになったとの通知を受けた。彼女もずいぶん長い間孤軍奮闘して頑張ってきた。私の方は、それとなく気にかけてはいたが何か手助けをしたわけでは一切ない。でも、その人を思う気持ちというのは通じるのかもしれぬ。
2010年10月19日
ずっと昔から、他人に恥をかかせぬように、他人を傷つけぬようにと、言いたいことも飲み込んで生きてきたことがある。すべてを自分の腹の中に納めてじっと何年も何年も耐えてきた。生き方の美学があったからだ。あまりにもそれをカンペキにやり遂げてきすぎたので、かえって、あいつは何考えてんだ、よっぼどしたたかなんじゃないのかなどと、逆にくさされる始末だ。私が自分の中でどれだけ苦しみもがいてきたかは、そばにいた母親しか知らないことだ。もっと早くに何もかも吐き出してしまえていたら、私の人生も少しは変わっていたろうか。ある別のことがきっかけで、成りゆき上ある人に、詳しくは語らないまでもそのことをほのめかすことになった。その人は一緒に泣いてくれた。長年の胸のつかえがおりた気がした。その人は、私が最近ずっと疑問に思って苦しんでいた別のことの答えも示唆してくれた。やはりそうだったか、と得心した。私が自分で思うにはおこがましいような答えだったが、他人の目にもそうと映っていたのだとわかって、心の底から安心した。そして少し幸せな気分になった。口に出してしまうと色んなことを壊してしまうことってある。「言わぬが花」ってこともやはりあるのだ。
2010年10月05日
常日頃からキツイだの気が強いだの理屈っぽいだのという自分への評価には慣れているのだが。ある人だけは、私のことを「優しい」と言ってくれる。「あなたは優しいから、周りに気を使いすぎるのだ。もっと自分を出した方がいいんだよ。そんなあなたを皆は見たいんだからね」これ以上嬉しい言葉があるだろうか。…いかん。惚れそうである。
2010年09月28日
思えば私の座右の銘は「おもねず、こびず、へつらわず」だった。これに心からの誇りを持って生きてきた。人を褒めるときは心の底からそう思わないと褒めないし、その分褒める時はありとあらゆる表現を使って大絶賛することになる。だからこそ、褒められた人は心の底から喜んでくれるのだ。でもここに至ってふと考える。もっとおもねて、こびて、へつらっていれば、私の人生どう変わっていたろうか。もっと生きやすかったのではないかしらん?もっと他人から可愛がられて、よくしてもらえて、寂しい思いをすることもなかったのでは?…でも今でも結構、色んな人から可愛がられるし、信じられないぐらい良くしてももらえてる。ま、寂しい思いはいついかなる状況でもついてまわるのだけれど。これは性格がどうとかいう問題ではなく、人は寂しがる存在なんだというだけのことだ。結局どうあっても、人が人である以上、寂しいことには変わりないのねん。
2010年09月17日
このごろは、何か楽しいことがあって気分が高揚した後は、ガックリ疲れて憂鬱な気分に苛まれる。今日も部屋から一歩も出たくなくて閉じこもっていた。ああ願わくば、もう少しチャランポランな性格になれますように。本当は馬鹿馬鹿しい冗談が大好きなのに。
2010年09月15日
「幸」と「辛」。今書いてみて思った。形がよく似てる。ただそれだけ。とはいえ「今、幸せなのか? それとも辛いのか?」と自分に問いつづけることに何の意味があるんだろう。「うむ。今はとりあえず幸せと言えよう」とか「あ、辛いモードに入ってきた」と逐一確認したからといって、幸せが倍増したり、辛さが和らいだりせんわ。どーでもえーがな。何も感じないようになろう。感情のスイッチを切ってしまおう。鈍感になることは恥ではないのだと思い込むことにしよう。
2010年09月14日
突然派遣契約を切られることになった。来月から無職になるかもしれない。いろんなことが次から次に起こる。しんどい。一方で、あっちでもこっちでも、ものすごく友情に恵まれることが起こっている。最近はなるべく人付き合いを避ける傾向のある私だが、みんなが私のためにいろいろ動いてくれている。ふつうそこまでしてもらえる人間なんていないんじゃないか、ぐらいの勢いだ。今、幸せなんだか辛いんだかよくわからない。ただ言えるのは、確実に次の転換期が来てるんだろうということだ。心身ともにヘトヘトなので、今はとにかくゆっくり休みたいというのが切なる願いだ。すべてはその後だ。
2010年09月14日
一番年上の猫の子の身体の数カ所に小さなおできができていて、この間からずっと気になっていた。先日亡くなった子も最初は小さなおできだったからだ。今度こそは早めにお医者様に診て頂こうと決心していた。夏休みに入ったので、今日やっと連れて行くことができた。結果は良性の脂肪の塊だった。ニキビのようなもの。ああ、本当に良かった。本当に本当に良かった。
2010年08月09日
結局、神経を病んでいるのかもしれない。それならそれでいい。もう、何かを頑張る気力がわかない。一生懸命やってきた結果がこれなら、頑張らない方のが良かったかも。今日は1日頭の奥の方が痛かった。数年前に脳ドックでみつかった隠れ脳梗塞が広がっているのかもしれない。もう、なにもかも投げ出してしまえたらいいと思う。無理していいことなんか何一つ無かった。
2010年07月27日
心身共に絶不調で、今朝も起きるなり「今日もムリだ」と休むことに。今月に入ってからしょっちゅう休んでいる。会社に行ったら行ったで、タガがはずれたみたいに号泣したあげく、実は発熱していて医務室で休んだりとボロボロだ。もう、本当に休みたい。お金のことさえなければ、1年ぐらい何もしないでぼんやりしていたい。私の人生って結局こういう人生だったんだな。いつだって全力疾走だ。今日、わらにもすがる思いで婦人科に電話して予約を入れた。漢方薬を処方してもらうのに一縷の望みをかけている。
2010年07月13日
夕方の6時頃、亡くなった。会社からの私は間に合わなかった。でも昨夜は、ふとんに入った私の真横に自分からやって来て、私の腕の中にパタンと倒れ込んだ。寝るまで手の肉球をずっと撫でていた。さよなら。ありがとう。一緒に生きることが出来て本当に幸せだったよ。
2010年06月30日
だめだ。辛すぎる。1分1秒が辛い。気が狂いそうだ。可愛らしかった姿が痛ましい姿になって、今、虫の息だ。自分が長く生きれば生きるほど、こういう姿に出くわす機会が増えるのだ。苦しい。本当に苦しい。愛しいということ。生きるということ。哀しいということ。これらは全部根っこは同じなんだ。
2010年06月29日
これでもかというぐらい、つらいことが重なる。もう充分苦しんできたと思うのに、まだまだと言わんばかりに。私がいけないんだろうか?常に常に心が張り裂けそうで、叫びだしたい衝動をかろうじて押さえながら働いている。もう本当に疲れた。もう、本当に、疲れた。
2010年06月29日
三匹いる猫のうち、癌になった真ん中の子の容態がいよいよ悪くなってきた。もう骨と皮で歩くのもヨタヨタだ。今日は1日何も食べなかったらしい。この子にはいろいろ助けてもらった。病床の父親の横にいつもいたのはこの子だった。赤ん坊だった三番目の子を拾ってきた時も、母親がわりに面倒を見たのもこの子だった。辛抱強く、愛想がよく、ものすごい甘えん坊で寂しがりやで、誰にもなつく気だての良い子だ。何もしてやれない。ただ「ありがとう、ごめんね」と繰り返すのみだ。
2010年06月26日
自分の至らなさを充分わかっていながら、なおも虚勢を張りつづけるヤツ。貧すれば貪す。自己正当化のつじつま合わせにばかり、労力を注ぐ姿。ちっぽけで卑怯な姿が浮き彫りになって、ああそんな姿は本当に見たくない。このイラダチは、所詮他人を変えることはできない、という歯痒さなんだろうと思う。
2010年06月26日
台所で何かパチパチという音がするので見に行った。鍋が空焚きされて、取手などのプラスチック(?)部分が壊れている音だった。さっきコーヒーを飲もうとお湯を沸かしていたのをすっかり忘れていた。私、本当にヤバイかも。いつだって上の空だ。もう、自分で自分が信じられない。
2010年06月26日
お金さえ払えば手に入るであろうものがある。でもそれは私にとって、お金で手に入れてしまっては意味のないものなのだ。ゼニカネ抜きで手に入れるからこそ、意味を持つ類いのものだ。どうしてそこがわからんかな。私はケチで言っているんじゃないんだ。
2010年06月25日
理想の日々を思い描いてみる。魂震えるような瞬間を、その場にいる人々と共有できるような時空間を作ること。昔からそれは変わらない。
2010年06月24日
私のためにある人々が、今水面下でいろいろ算段してくれている。ありがたいことだ。信じられない。ただ「応援したい」というそれだけの、純粋な気持ちで動いてくれている。気がクサクサしたり、身体が重たかったり、ヘトヘトで気を失いそうになったりする毎日ではあるが、こんな素晴らしいことも一方であるのだ。ままならぬは人生。さりとて捨てたもんでもないのが人生なのだなあ。あ、別に選挙に出るわけではないよ。
2010年06月23日
昨日の段階ではまったく自覚はなかったのだが、かなり疲れが溜まっていたのか、今朝になってダウン。会社を休むことになってしまった。今週突発的に発生したボリュームの大きな仕事があるので1日休むと結局自分がしんどくなるのはわかっていたのだけれど、まぁ、しゃあないわ。朝、休みの連絡の電話を入れたあともなぜか昏々と眠り続け、午後になってようやくゴソゴソ動けるようになってきた。も、なんですのん、この調子の悪さは。何の自覚症状もないんですけど。私、自分のキャパを超えた働き方をしてるんだろうか?
2010年06月23日
今日も今日とて会社で仕事していても、夕方からプツッと集中力が途絶え、猛烈な睡魔に襲われる。パソコンに向かいながら、なんどもいつのまにか目をつぶり、そのまま気が遠くなっていたのだが。少しでも刺激になるかと、お茶を口に含んだところまではギリギリ意識があったのだが、ハッと気づくと口の中にお茶を入れたそのままの状態で寝てしまっていた。考えてみ~。目が醒めたら、口の中お茶で一杯やねんで~。よくもまあ、ダァ~ッと志村けんのみそ汁みたいに口からこぼさなかったこっちゃ。自分で自分にビックリした。こんなことってあるんだな~。子供の頃でもこんなことなかったわ。今夜もヨガに行ってきた。一番好きなのは「死体のポーズ」。毎回確実に意識を失ってしまう。あもうもなく、すぐに寝てしまうんだなー。早く「死体のポーズ」になれ、「死体のポーズ」になれ、と思いながらレッスンしているようなもん。要は寝たいだけやん。
2010年06月22日
感受性。について書こうと思ったけど、今日はやめとくことにする。もっと自分の中でちゃんと発酵させ、その後ほとぼりが冷めてからにしよう。とにかく暑いよ。夜なのに。
2010年06月17日
昨日職場の女の子から、仕事についての悩みを相談された。いろいろ話を聞きながら「ああ、この人は自分にスポットライトを当ててほしがっているのだな」と感じた。そして、本人がイヤだと思っている現在の状況を、ちょっと違う立場から私の目にはこういう風に見えているよと話すと、本人はその可能性にまったく気づいていなかったらしく、おおいに驚きかつ喜んでいた。そうなのだ。すべての人は自分にスポットライトを当ててほしいのだ。すべての人が。どんなに遠慮深い人でも、どんなに献身的な人でも、スポットライトが当たらないままだと辛くなってくるのだ。それが人というものなのかもしれん。そしてやたら私のことを「カッコイイです」と言っていた。ありがたいことではあるが、私は私で四六時中苦しんでいるのだ。毎日毎日自問自答しているのだ。「本当にそれでいいのか」と。「自分に嘘をついてないか」と。ジレンマを抱え、日常言葉にしていることの百万倍もの思いを腹の中に収めたまま、ただただ時間をやりすごしているのだ。すべてはお金のために。
2010年06月16日
またヨガに行くぞと、今日はもう朝から待ち遠しくて待ち遠しくて、仕事中もずっとヨガのあのリラックスした感じを思い返しながらやりすごす。定時になるなりエイヤと向かったはいいが、なんと休みだった。え。1日間違えてた。も、どんだけやりたいねん、ヨガ。
2010年06月07日
今週3回目のヨガ。今日ぐらいからちょっと気の流れが素直になってきた気がする。初日は自分の内面がねじれにねじれて屈折していた感があったのだが、今日なんかはかなり頭の中が空っぽになって素直に集中できる瞬間があったりした。そうだよな~。これでも私、若い頃はダンサーでもあったのだ。あの頃って本当に素直だったもの。バレエをやり始めた大学生の頃、レッスンを重ねるほどに内面がどんどんシンプルに、物事を素直に見られるようになっていったんだっけ。今日あの時の感覚がちょっと戻ってきた。この6年間、身体をちっとも動かさずに頭ばっかり使っていたもんな~。これじゃダメだダメだと思いながらも、日々を流されるままにあくせく働いていたから、身体が内側から悲鳴をあげたに違いない。腰はまだまだ痛いけれど、気分がかなりスッとした。
2010年06月04日
少しは身体のメンテナンスになるかと思って、2日間に渡って人生初ヨガをやってみている。信じられないぐらい身体が固くなっている。これでもバレエをやっていた頃は、誰よりも身体が柔らかくて「軟体動物」と呼ばれていたのに。今本当になにも楽しいことがないから、この身体がどこまであの頃の柔軟さにまで戻れるか実験してみるのも、退屈しのぎにはいいかもしれん。
2010年06月02日
さっき母親に「これからどうやって生きていけばいいんだろう?」と弱音を吐いたら、「『ヘタの考え休むに似たり』」って死んだお父ちゃんがよく言うてたやない」と言った。そうだっけ~? あの人がそんなこと言ってたの聞いたことないけどな。逆にあの人は何も考えなさ過ぎだったんじゃねーの。でもまあ、そのとおりかも。考えても何一つ状況は好転しないのだ。今日1日、今日1日を生き延びるしかなさそうだ。自分でああしなきゃこうしなきゃと追いつめるのではなく、しばらくは「来た球を打つ」ってやり方にシフトするのもいいかもしれん。私、これでも充分よくやってるもの。
2010年05月26日
昨日の嬉しい人助けの一件は、午前中に起こったことだった。思いがけず感謝されてちょっと嬉しい気持ちで高揚していたのに、その反動からか暑かったせいなのか、午後から突然ガックリ疲れてきた。仕事をしていて急に集中力がプツッと途絶え、翻訳せねばならない英文が、簡単な文なのに意味をつかめなくなっていた。よっぽどまた早退しようかと思いつつも、そこは時給で家族を養う身、少しでも収入が減るのは痛いとなんとか定時まで耐え忍ぶ。さすがに今朝はもう気力が残っておらず、また年休を使って休むことにした。今年に入ってから体調を崩す日がどんどん増えて、年休もどんどん使ってしまっている。丸一日ふとんを出たり入ったりしながら過ごした。こんな状態、いつまでもつんだろう?私、これからどうやって生きていけばいいんだろう?
2010年05月26日
タイトル通り。少し前に、ある人をなんとか助けたくて実験的にちょっと動いてみたことが、ばっちり成功したらしく、えらく感謝された。誰も傷つかず、関わった人間はみんないい気分になり、当事者はぐっと助かるという理想のパターンになった。ま、たまにはこんなこともないとな。
2010年05月25日
前回の考察の続き。それならいっそ「アウトプット」された、自分にとっての都合の良さだけを「優しさ」と認めることにする、と割り切ってしまうのはどうだろう。心の中でどんなに思っていようが、親切にしてくれなければ存在しないも同然、としてしまうのである。親切にしてくれる人のみを認める、ということである。ああ、これはもしかしたら、世の中の殆どの男性はこの考えをとっているかもしれんぞ。心の中でどんなことを思っていようが、どうでもいいんだ。結果がすべて。中には、女性の心の中にいろいろ動きがあることすら気づこうとしてない男性もいっぱいいる。枝雀の落語で「植木屋娘」というのがあるが、そのなかのおとっつぁんのセリフに「おみつの気持ち? おみつに気持ちなんかあるか?」と不思議そうに言うくだりがあるが、これに近いことはいろんな家庭で起こっているのではないか。自分はどう思うか、世界をどう見るかばかりに気をとられて、相手の女性がどんな感情を持っているかに無頓着なヤツをいっぱい見てきた。これは世代のせいもあるのかね?なんか、オッサン族に多い気がするぞ。物事を判断・決定するのはおまえだけじゃねーんだよ、と言いたくなるヤツのなんと多いことか。話が逸れた。ま、なんにせよ、アウトプットされた親切な行為のみを「優しさ」と認めることにする、と。ある意味真理かもね。男性だけじゃない。女性だって、百万の屁理屈より物理的に親切な方がありがたいのだ。
2010年05月23日
その気になれば、その人の潜在的な業の深さを直感してしまう私ではあるが、普段は割と人を見る目がない。と思う。背伸びしても届かないような高いところにある物を、ちょいと取ってくれたりするともうそれで「この人は優しい」とたちまちポイントアップである。それがちょっと見てくれのいい若い男性だったりすると、もうそれだけでちょっと好きになったりしてしまう。夏目漱石が、道で出会う女性にちょっとずつ惚れるてなことを書いていたような気がするが、ちょうどあんな感じだ。でもこれを「優しい」といっていいのか。「優しい」って何だよ。相手にとっての都合の良さが「優しい」ってことになるんですかい。そして最終的には、いろんなことを許してあげる器量のことなの。思いやるということなら、私は人一倍他人の気持ちを思いやる方だと思う。慮るといった方がいいかもしれない。でも助けない。「優しいんですね」と言われない由縁はこの辺にあるのかもしれない。ちょっと高いところにあるものをとってあげる、という行動にはならないな。お腹の中で舌を出しながらでも「とってあげる」という行為におよべば、それは「優しい」ということになるのかもしれない。人の心の中までは見えないからだ。人との関わりなんて、表に出ている出来事がすべてなのかも。どんなに大切に思っていても、心の中で思っているだけでは何もないのと同じなんだろうな。心がこもってなくても、一定の手順をふまえた「表出する何か」の方が、実際ありがたかったりするもんなぁ、自分にしても。結局優しさなんて、感じる側のドライなエゴイズムによるものかもしれんぞ。無意識の。
2010年05月21日
インターネットの発達のおかげで、昨今はすべての人が世界に向けて発信する側になれるようになった。昔は発信する側の人間なんて限られていたのだ。何か特別なポジションにいるとか、何か特別な才能があるとか、つねに「何か特別な」ものだったのだ。ところが今やどう。誰でも彼でも発信する側だ。ある意味それだけ自由度が増したと言える。すべての人にチャンスは平等にあるということだ。ただチャンスは平等でも、才能は平等じゃないんだな。こればっかりは、もともと理不尽なぐらい不平等なのだ。玉石混淆の中から抜きん出るには、わーわー騒いでいるだけではダメだ。みんなそろそろウンザリしてきているもの。発信する側はそれを承知の上で、あえて発信しているのだろうか。おのれの発信するものは、発信するに足ると考えて発信しているのだろうか。それとも今はただ、メディアの発達に皆が浮かれてイッチョカミしている時期なだけなのだろうか。人の自己顕示欲というのは、昔から絶えることなく存在するものだ。なくなりはしないもののひとつだ。人は自己を顕示したいのだ。あなたのことはまぁいいよ、それより私に注目して、ということなのだ。平たく言っちゃえば。そこでもう一つ、つっこんで考えてしまう。なんでそんなに注目されたいの、ということだ。注目されると、人から大事にしてもらえると思い込んでるのではないだろうか。注目されることと、人から大事にされることとは、決して同義ではないのに。
2010年05月20日
今の私を最大に縛っていることは「お金を稼ぎ続けなくてはならない」ということだ。それもある一定以上の額を毎月毎月コンスタントにだ。休むことなく、だ。これがしんどさの原因なんだろう。「休んじゃいけない」という状況が私を苦しめる。だって私、そろそろ「休みたい」んだもん。もういいかげん、疲れてきてるんだもん。ずっと、ずっと、馬車馬のように働いてきた。その割にちっとも余裕がない。お金のことを気にしない人生になれたら、まず何をするだろう。朝、目覚める。それも充分睡眠をとったから自然に目が覚める、というやつだ。のんびりしながら、さて今日は何をしようかしら、とつぶやく。映画? 美術館? ショッピング?ゆっくり入れたコーヒーを飲みながら、しばし今日の装いのコーディネートなどに想いを巡らし、じわじわと1日のエンジンをかけるのだ。しんどくなったら、また寝てもいいんだし。週末からの旅行は、南の島だ。せっかく海に来たんだから、つからなきゃソンてな、風呂屋みたいなことはせんぞ。ヤシの木陰でハンモックに揺られ波音を聴きながら、日がな1日「何もしない」ぞ。小さなカサのついたマリブパイン飲んじゃうぞ。もともと、はなから贅沢を知らないもんだから、想像の範囲がいちいち低レベルだ。なんちゅう気の毒な人生なんだ、私。そしてなんて健気なシンデレラなんだ、私。きっとそのうち、魔法使いがあらわれて、カボチャの馬車を出してくれるに違いない。そしてなんだか、だんだん馬鹿馬鹿しくなってきたぞ。
2010年05月19日
週が明けて、また会社での窮屈な時間が始まった。も、つくづくやんなったなー。飽きたよ。なんかそろそろ違うことやりたくなる時期なんだろうなー。心の奥底の声に耳をすましてみる。「本当はどうありたい?」…ああ、ままならない!
2010年05月17日
「自分の在りたいように存在しよう」先日自然に内側からこぼれ出てきたこの表現。結構いいんじゃない?もっといいのは「自分の在りたいように存在している」さらにいいのは「自分の在り方など気に留めていない」これだ! これやがな。究極の理想は、きっとこれなんだろう。でもこんなこと、夢のまた夢。なぜなら私は人間だから。他の動物とは違って、自意識を持った人間だから。自己の在り方に無頓着で居続けることはできないのだ。ああ! だからこそ私は、我を忘れて何かに没頭している瞬間が好きなのだ。だからこそ私は「まだまだ何かあるはず」と自分の内面を探求していくのが好きなのだな。
2010年05月14日
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