ライフキャリア総研★主筆の部屋

ライフキャリア総研★主筆の部屋

2006年02月14日
XML
 何か書こう。何か書こうと思うのだが、題材が重過ぎて、私の思考能力では支えきれない。

 とりあえずメモ。

「国の移民政策で中国にわたり、敗戦後も取り残された中国残留婦人ら3人が訴えた国家賠償訴訟の判決が15日、東京地裁で言い渡される。国から「自分の意思で残った」とされ、帰国時や日本での生活に国からの支援を長い間受けることができなかった」(朝日新聞2月14日朝刊より。以下同じ)

 原告のひとり、西田瑠美子さん(72歳)は、 敗戦5カ月前の45年3月、佐賀県から開拓団の一員として一家で中国に渡った。

 敗戦5カ月前といえば、かなり日本の敗色が濃厚になっていたはず。しかし、大本営は不利な情報を国民に隠し、移民政策をプッシュし続けたのであろう。移民は捨て駒、あるいは兵を守る盾だったのか。

45年8月、ソ連軍侵攻。中国人やソ連兵に襲われた。

 11歳だった逃避行の中、16歳年上の長姉が夜、凍える畑で大声で泣いていた。


 幼い妹に本当のことを告げるのがはばかられたのであろう。「ソ連兵のところにお嫁に行く」と姉は妹に言ったのだそうだ。実際、姉は

開拓団の団長らに指名され、強姦を繰り返すソ連兵のところに送られた。

 生贄である。

「長姉はみんなの犠牲になった。恥ずかしくて裁判でも話せなかったけど、こんな犠牲があったことを知ってほしい」と西田さんは涙ぐむ。

「多くの人は『戦後は日本も苦労した』というが、日本が侵略した中国に残された私たち女は特に悔しい、悲しい、恥ずかしい思いをたくさんした」


 想像に絶する。戦争が終わった後も、彼女たちは生贄とされ続けたということだろうか。

国は敗戦当時13歳以上だった女性を残留婦人と呼び、「自分の意思で残った」として、身元が分からなかった残留孤児とは区別し、長い間支援の対象外としてきた。11歳だった西田さんは、身元がわかっていたため、長姉らと同じ扱いを受けた。

 またも出ました、「自分の意思で残った」のフレーズ。いまで言う「自己責任」である。権力者や強者が、自分の都合のいいように使う言葉だ。

残留婦人らは94年に残留邦人等帰国促進・自立支援法ができるまでは、日本側の親族が帰国の責任をもつことが原則とされ、帰りたくても帰国できない人が多かった。

 帰国への情報もなく、西田さんが初めて日本の土を踏んだのは88年。戦後43年もたっていた。


 インターネットが発達した現在では考えられない情報の断絶である。それは、政府はもちろん、日本の国民が「中国残留婦人」に対して無知、無関心であり続けたからだろう。なぜ、誰も報じなかったのか。報じても聞く耳をもつ人がいなかったのか。

 西田さんはいま、 年金と生活保護で月9万円弱で細々と暮らす。

 都営住宅でひとり暮らし。 貯金通帳の残額は4万9464円。これがいまの全財産だ。

 西田さんは言う。 「私たちは国に捨てられてこうなったのです。このままでは死んでも死にきれない」

 敗色濃厚な満州へ開拓団として送られたときに捨てられ、ソ連兵の慰み者として送られたときに二度捨てられ、帰国への支援もなく無視されたまま三度捨て置かれ、そしてようやく帰国を果たした後も生活支援がないまま四度捨て置かれ、15日の判決しだいでは五度捨てられるのだった。

中国帰国者の会

『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』(小川津根子著 岩波新書)







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006年02月15日 00時39分10秒
[スピリチュアリティ研究] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: