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10月後半、中国アパレル経営者日本研修ツアーのお手伝いをしましたが、このとき紳士服アパレル最大手ヤンガー集団は4人の幹部を派遣してきました。ヤンガー集団は李如成総裁が一代で築きあげた創業約50年の会社。アパレル部門は中国内トップの売上、ほかに不動産など多角経営しているのでグループ全体では推定2兆円規模と聞いていますが、そんな大企業が副総裁クラスを日本研修に送るのです。問題意識のある真面目な会社と思います。ヤンガー集団の本社は上海の南側、浙江省寧波市にあります。寧波には競合大手アパレル杉杉(シャンシャン)集団もありますが、私は前職官民投資ファンド社長のときに杉杉集団幹部と接点がありました。阪急阪神百貨店のH2Oリテイリングと杉杉集団が協力して新規開店するショッピングモール阪急寧波への投資が接点でした。阪急寧波外観私もこのプロジェクトが持ち込まれる前まで、寧波が隋、唐の時代から国際港だったとは知りませんでした。聖徳太子が送った遣隋使は寧波港で下船して隋の都だった長安(現在の西安市)まで旅したとか。また名僧鑑真は寧波港から日本行きを何度も試みては失敗した末最後に成功して日本に帰化し、麻雀は日本行き船中で時間を持て余す中国人たちが考案したゲームだそうです。そんな寧波市が歴史ある国際港だったとは、阪急プロジェクトに関わるまで全く知りませんでした。経営者として私が責任を負った投資案件の中で最も多額の資金提供したプロジェクトがこの阪急百貨店を中核とするショッピングモール計画、巨額ゆえ失敗は許されませんでした。なので出資を決めるまで、さらに最終的にオープンするまで、H2Oリテイリング椙岡会長、荒木社長、現場責任者とは何度も打ち合わせを重ねました。阪急寧波全館オープン時の様子阪急寧波のトトロスーパーマリオもお出迎えデパ地下にはH2O系列のスーパー泉屋中国でも獺祭は人気最初に合意した点は、集客のためには主だったラグジュアリーブランドをズラリ揃える、そして日本の優れものや美味しいものを地域社会に浸透させる、でした。まずラグジュアリーブランドを一通り揃えないことには消費者の間でショッピングモールの格は上がらず集客できません。格が上がらなければ日本の生活文化産業を中国市場に浸透させることはできないのです。阪急寧波がオープンする前、中国のみならずアジア各地には日本の百貨店が店舗を構えていました。が、どれもお客様で賑わっているとは言えない状態。なぜならそれなりの所得階層を集客するためにはお店の格、つまり市場における高感度ポジショニング戦略が欠かせませんが、日系百貨店にはラグジュアリーブランドが揃っている店はありませんでした。当時これらが揃っているのは唯一シンガポール髙島屋ショッピングセンターだけでした。1つか2つメインフロアにラグジュアリーブランドのショップがある日系百貨店はありましたが、導入ブランドの大半は外資ブランドでもラグジュアリーと呼べないボリュームゾーンに毛の生えたポジションにあるもの、これではお店の格は上がらず、富裕層の来店は期待できません。そもそもそれなりの所得階層でなければ百貨店という器で買い物しませんから。そこで、多額の投資をする側の意見として、新規オープンする阪急寧波にはラグジュアリーブランドを多数導入することを提案しました。大阪の阪急梅田本店ならラグジュアリー企業との交渉は簡単でしょうが、これから建設する新規店舗、しかも上海、北京、広州、深圳のような一級都市ではない中国地方都市ですから交渉は容易ではありません。中国やアジア本部のあるシンガポールで出店交渉を重ね、パリ、ミラノ本社トップの了解も得る必要があり、予想通り交渉は難航しました。なかなかブランド側の了解が得られないので、最後にはH2Oのトップに「あなた自身がパリに出張してトップ同士で交渉してください」ときついことを申し上げたこともあります。建物は予定通り完成しましたが、多数のラグジュアリーブランドから出店快諾を得られず、モールの開店は延び延びになり、ついには日本の国会で野党議員から「遅い!」とお叱りを受けました。官民投資ファンドのつらいところです。しかしながら野党の先生方が何と言おうと中途半端な形でオープンしたらモールの格は下がり、集客できないいつも通りの日系百貨店になってしまいます。H2Oと杉杉集団、そして我々官民投資ファンドもじっと我慢、出店交渉の進展を待ちました。阪急寧波総合受付予定より遅れること約3年、阪急寧波は晴れてオープンしました。開店景気もあってモール全体で予算比の2倍、ルイヴィトン、エルメス、グッチ、プラダ、サンローラン、ロジェヴィヴィエなどが並んだメインフロアは予算比の3倍の売上の報告に、すでに私は投資ファンド社長を退任してはいましたが大喜びでした。が、またも国会ではお叱り。「外国ブランドばかり売ってどこがクールジャパンなんだ!」、と。正直言って、ファッションビジネスを知らない国会議員の言う通りに海外ビジネスしていたら、せっかくのチャンスを逃してしまいます。まずはモールへの集客が最優先、お客様が来なかったらいくら日本の優れものや美味しいものを集めても評判にはなりません。何度もモールに足を運んでくださるそれなりの所得階層を顧客化する、その上で日本の食料品、総菜、化粧品、雑貨、家具、アニメ漫画、ゲームソフトやキャラクターグッズを販売してファンを広げる、海外日系商業施設におけるクールジャパン戦略はこの方法しかないんです。いまの都内百貨店を見れば同じことが言えます。百貨店内のラグジュアリーブランドのインショップに行列を作っているのはどういうお客様でしょう。いま物価高が問題になっている中、売上が伸びている要因は海外からのお客様のラグジュアリーブランド消費、そのおかげで都心店は過去最高の売上を記録していますよね。もしもラグジュアリーブランドの導入数が少ない百貨店ならば、インバウンド消費は見込めず館全体の売上も伸びません。「買い物しているのは外国人ばかりじゃないか」と批判的意見の方もいらっしゃいますが、ロンドン、パリ、ニューヨークなど世界主要都市の高級デパートや都心型モールを見てください。どこもラグジュアリーブランド購入の外国人の売上に支えられているのが現実なのです。コロナ明けで東京はインバウンド客数が再び上昇、やっと欧米主要都市並みになりつつあるのです。円高が続くこともプラス要因でしょうが、日本でラグジュアリーブランドを買うのはインバウンド客の旅の喜びの一つと言っても過言ではありません。メインフロアにはエルメスはじめラグジュアリーが並ぶ全館オープン時の賑わいそして見落としてはいけないのは、消費欲旺盛なインバウンド客はラグジュアリーブランドのみならず、日本のコンテンツ産品、伝統的雑貨や食料品にも高い関心を示しているのです。彼らのおかげで美味しいラーメン店、たこ焼き屋、寿司店やてんぷら屋はこれまで以上に行列ができていますし、合羽橋の道具屋商店街も築地の元場外飲食街も新宿ゴールデン街も池袋サンシャイン通りも、インバウンドで大変賑わっています。つまりラグジュアリーブランドを爆買いする外国人は、クールジャパン戦略の一環として世界に広めたい日本の優れものや美味しいものも消費し、日本のディープな街をSNSで世界に拡散してくれるのです。阪急寧波オープン時に批判した国会議員の皆さん、世界の主要都市の商業施設を歩いてください。合羽橋商店街や池袋サンシャイン通りをしっかり歩いてください。銀座や新宿でブランドのショッパーを持って歩く外国人がどこに向かうかをよーく観察してください。日本の消費全体を底上げするためにもクールジャパン戦略をさらに推進するためにも、ラグジュアリーブランドの役割は決して小さくはないのです。
2024.11.16
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9月2日から7日までJFW(日本ファッションウイーク推進機構)主催の2025年春夏東京コレクション(正式名称はRakuten Fashion Week Tokyo)が開催されました。4日だけ京都出張があって視察することができませんでしたが、1日平均11000歩以上を歩いて会場感を移動、今朝一番整骨院で高周波治療をしてきました。今シーズンは例年よりショーの本数そのものは少なかったけれど、いつもより海外からの取材陣は多く、なかなか見応えのあるコレクションをいくつか見ることができました。公式スケジュールにある全てのランウェイショーを見たわけではありませんが、個人的に気になるコレクションをここにアップします。SUPPORT SURFACE(研壁宣男デザイナー)FETICO(舟山瑛美デザイナー)ミューラル(村松祐輔・関口愛弓デザイナー)ピリングス(村上亮太デザイナー)シンヤコヅカ(小塚信哉デザイナー)テルマ(中島輝道デザイナー)ヴィルドホワイレン(ループ志村デザイナー)写真は全て自分のスマホで撮影したもの、プロのカメラマンと違って写真の出来は良くありません。撮影しやすい前方のシートをくださったブランド関係者には感謝申し上げます。各コレクションの全ての写真、映像は、以下の公式サイトにアクセスしてご覧ください。https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/brands/CFD(東京ファッションデザイナー協議会)から東京コレクションの主催がJFWに移管された2005年を1とするならば、直近の媒体換算(メディア記事と写真掲載を広告費に換算した場合の数字)200、ネット報道が増えたおかげで海外からのアクセスが急増、とんでもない数字になっています。つまり東京でコレクション発表しても、海外バイヤーやプレス関係者がJFW公式サイトやネット報道をよくチェックしてくれるので海外コレクションに参加した場合とあまり変わらない効果があると言っても過言ではありません。我々がCFD東京コレクションを開始した1985年当時ネットはなく、コレクション報道は新聞雑誌しかありませんでしたから、本当に便利になりました。次回2025年秋冬東京コレクションは来年3月10日開幕の予定です。
2024.09.09
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毎年この時期、建築を学ぶ学生のNPO法人AAF(Art & Architect Festa)が主催する「建築学生ワークショップ」最終プレゼンが開催されます。今年は京都山科の醍醐寺、豊臣秀吉が大きな花見を開いたことで有名な寺院です。これまで比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺、東大寺、伊勢神宮、出雲大社など誰もが知っている「聖地」で開催してきました。エントリーした全国の大学生、大学院生約50人が10チームに分かれて、聖地の歴史や周辺環境などを調査分析してテーマを設定、フォリー(小さな建造物)をデザイン、現地で組み立てて講評者にプレゼン、上位3チームが表彰されるイベント。私は2018年伊勢神宮開催から講評者の一人として参加しています。今年は7月に醍醐寺で開催された中間発表にも参加、各チームが制作した小さな模型を見せてもらっているので本番までに各チームでどんな葛藤があったのかがよく分かりました。また、プレゼン前日に醍醐寺に入って学生とアドバイザーの施工会社の方々が準備している様子を拝見、正直言って「明日フォリーは無事建つのかなあ」と疑問視したチームもありましたが、建築指導する大学の先生たちの熱血サポートもあって全10チームどうにかフォリーは立派に建ちました。最初のテーマ出しから小型模型の中間発表、本番のフォリーの組み立てまで、建築家、構造家の先生たちがアドバイス、時には学生と一緒にフォリーを組み立てる姿は毎回感動します。また、ゼネコン、施工会社の専門家がチームごとにアドバイザーとして付きっきりでサポート、まさに実学そのものです。参加するたびファッションの世界でも学校単位でなくランダムに編成された学生さんをプロが現場指導しながらものづくりを進める実践教育プログラムができたらなあ、と思います。境内の落ち葉を集めて固めたブロック125個を積み上げた作品和紙と細い木で作った障子のようなものをランダムに繋いだ作品竹を割ってタイムトンネルのような形状に組み立てた作品でんぷん糊、片栗粉、砂糖を混ぜた特別素材を乾燥させた作品京都の羊農家から調達した羊毛を洗濯し染めた綿を貼った朱塗り球体五重塔前にあえて屋根のない長さの違うパネルを組んだ作品細い針金で作ったオブジェのような作品はどうにか建ちました昨年台風の被害で倒れた境内のたくさんの桜の木を組み立てた作品竹を曲げて緩やかなカーブをつけた作品壁土をはめ込んだダビデの星のような形状のパネルを組んだ作品20余名の講評者は最終プレゼンを受けたあと、10チームの作品の中から3点を選び、持ち点100点を3つに割り振ります。私は地元京都の農家から調達した羊の毛を自分たちで何度も洗い(これが半端なく大変な作業なんです)、寺院ゆかりの朱色に染めて(初めて色のある作品を見ました)球体のフォリーに貼り付けたチームの作品に最高点をつけました。醍醐寺の正面入り口である仁王門からそこそこ距離がある位置に設置されたフォリーですが、仁王門からもその存在がはっきりわかる点も評価しました。選考会の最終結果は近々主催者AAFから公式発表があるでしょうから、そちらをご覧ください。
2024.09.18
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日本デニム業界の技術は世界の中でトップレベル、パリ、ミラノのラグジュアリーブランドがたくさん使用してい流のは周知の事実。2011年3月東北大震災があった翌年の春、銀座歩行者天国を舞台に「ジャパンデニム」のタイトルで青空ファッションショーを企画したくらい、日本製デニムは世界に誇る日本の重要なコンテンツだと信じています。しかし、私は個人的にゴワゴワ触感のデニムが好きではありませんでした。小学1年生の頃だったと思います、オフクロがジーンズを買ってくれましたが、ゴワゴワ触感が嫌いと言ったら、それ以来オフクロはジーンズを買ってくれませんでした。大学時代はデニムのベルボトムが大流行、そのあとカラージンズも人気ありましたが、買ったのはソフトデニム1本のみ。ニューヨーク8年間の生活でもジーンズは履かずに過ごし、帰国してからもジーンズとは無縁。5年前に児島ジーンズストリートのお店でソフトデニムを1本買っただけです。先日、久しぶりに児島ジーンズストリートを歩きました。ここでゴワゴワのデニムジャケットとダボダボ分量のジーンズ2本購入。デニムジャケット(写真と同型のブラックデニム)はこの年になるまで一度も着たことがなく、生まれて初めてワードローブに加えました。まだ買ったばかり、慣れないので自分らしくないとは思いますが、当分これを楽しんでみようと思っています。日本産デニムは後加工技術を含めて世界に誇る優れもの、それを使用したジーンズは重要なコンテンツだと思います。5年前に児島ジーンズストリートを訪れたとき、日本産デニムと児島ジーンズストリートをもっと全国的に宣伝して賑わう観光地にできないものかと思いました。そのためにはそれだけで集客できるカフェやレストランを誘致することは不可欠でしょうし、児島デニムのことならなんでもわかる博物館、資料館を作り(すでにあるのかもしれませんが)、もっと消費者向けイベントを仕掛けて全国に報道されるような広報活動が大切だと思いました。しかし先日ジーンズストリートを訪れてちょっとショックでした。5年前に比べ、地方都市でよく見かけるシャッター降りた店舗が並び、暑い夏ということもあるでしょうが観光客らしき人はほとんど見当たらず、街全体が寂れていました。買い物に訪れた同ストリートのはずれにあるジャパンブルージーンズや桃太郎ジーンズ(両方とも株式会社ジャパンブルーのブランド)には買い物客がいましたが、下の写真のように通りに人影はありません。人影のないジーンズストリート桃太郎ジーンズのキャラクタージーンズ業界にはジーンズの普及を目的に毎年「ベストジーニスト」AWARDを発表している日本ジーンズ協議会があります。 https://best-jeans.com/有名タレントや俳優、ミュージシャンが受賞するのでテレビのバラエティー番組やスポーツ紙芸能欄で毎年ニュースにはなりますが、このイベント以外にジーンズのことが一般社会で話題になることは残念ながらありません。児島がある岡山県倉敷市は明治時代半ばに倉敷紡績が設立された繊維にゆかりのある都市、倉敷紡績創業家が設立した大原美術館(モネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャンなどの収蔵品多数)や倉敷美観地区にはたくさんの観光客が訪れます。同じ倉敷市に世界に冠たるデニムのメッカがあるのですから、倉敷市中心部を訪れる多数の観光客を児島ジーンズストリートまで引っ張ってくる工夫、できないのでしょうか。それにはデニムを生産する紡績メーカー、後加工業者やジーンズ縫製工場と倉敷市、岡山県の行政機関が密に連携する必要があるでしょう。せっかく世界に誇ることができる有力コンテンツがありながら、倉敷市に観光客を集めることができる施設がありながら、児島ジーンズストリートはどんどんシャッター街に落ちぶれ、閑古鳥状態が続くのはどうなんでしょう。正直、もったいないです。強烈な言い方をすれば「倉敷市は何をしてるんだ!」です。JR西日本児島駅前コロナウイルス感染がおさまり、再び外国人観光客が復活して年間3000万人余のインバウンド客、これからさらに増えそうな気配。しかも東京、京都、大阪のみならず、全国各地がインバウンド消費の恩恵を受け、外国人は日本経済に貢献してくれています。こんな路地裏の居酒屋に、こんな地方都市のラーメン店に、こんな田舎の温泉にと驚くシーンも増えています。ジャパンデニムの聖地にもきっとチャンスはあるでしょう。チャンスはあるはずですから、官民共同でインバウンド客に向けてどう仕掛けるかが肝要ではないでしょうか。ジーンズストリートを歩いてそんなことを思いました。頑張ってほしいなあ。
2024.09.21
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今週水曜日本年度毎日ファッション大賞の授賞式が都内で開催されました、今年で42回目、私は1988年第6回から1995年12回までの7年間と、2013年第31回から現在までの12年間選考委員の端くれとして選考委員会に参加してきました。本年度受賞者は、ファッション大賞にメゾンミハラヤスヒロの三原康裕さん、新人賞にはハルノブムラタの村田晴信さん、鯨岡阿美子賞には日本ファッションウイーク推進機構の前理事長三宅正彦さん。例年話題賞や特別賞などがありますが、今年表彰されたのはこの3人だけ。毎年選考委員の意見が分かれて何度も決戦投票を繰り返しますが、今年の選考会は案外すんなり決まりました。三原さんの名前を私が初めて知ったのは2001年だったでしょうか、まだニューヨークのミートマーケット地区が完全にファッションタウンに仕上がる直前のことでした。同エリア再開発の牽引者だったハイエンドセレクトショップJEFFREYの並びにオープンしたプーマ大型店、エントランスにズラリ陳列されたシューズにミハラヤスヒロの名前がありました。世界的スポーツブランドが日本の若手デザイナーとコラボしている、あのときの驚き、いまもはっきり覚えています。三原康裕さんご本人によれば、あのとき最初は海外店のみの展開、日本市場はそのあとだったそうです。大手メーカーがコラボする場合、概して市場でポジションを確立したデザイナーを選ぶものですが、プーマはまだ世界では無名と言っていい三原さんを選択したのです。デザイナーとスポーツブランドのコラボが当たり前になったいまならわかりますが、当時は異例の取り組みでした。プーマの幹部をその気にさせたんですからすごいことです。これまで三原さんがファッション大賞に無縁だったことが不思議なくらい。実力と知名度から言っても、また近年の様々なイベントの仕掛や次世代デザイナーを育成する姿を見ても、ノミネートされた他の候補者よりも抜きん出た存在でした。新人賞の規定はブランド設立5年以内となっていますから、デビュー5年目の村田さんは規定ギリギリの受賞です。ヨーロッパに渡ってジルサンダーなどで経験を積んで帰国、自分のブランドをスタート。デビュー以来ずっと自分なりのラグジュアリーを表現してきたデザイナーです。ファッション大賞恒例の新人賞デザイナーのプレゼン新人賞を受賞して数年後にファッション大賞を受賞するデザイナーは過去何人もいますから、村田さんには次はファッション大賞受賞を期待したいです。三宅正彦さんは御年89歳、今年JFW(日本ファッションウイーク推進機構)理事長を退任されたばかりです。経済産業省の肝いりでJFWは発足、我々が設立したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)から東京コレクション開催を受け継いだ時点ではJFW実行委員長、その後初代理事長の馬場彰さんから理事長のバトンを渡され、若手デザイナーの育成などに尽力されました。JFWの東京コレクションがスタートした2005年、CFD東京コレクションを10年間運営してきた私は全くの部外者、ただのショー観客の一人でした。が、初回JFW東京コレクションが終わった直後、実行委員長だったTSI代表取締役の三宅さんから呼び出され、私は再び東京コレクションのお手伝いを始めることになりました。なぜなら、三宅さんらが頑張っているのに東京コレクションを立ち上げた自分は放っておけないと思ったからです。当時政府からJFWに補助金が出ていました。秋冬コレクションの開催は3月下旬、終了したら即刻業者らに支払いを行い、数日後の年度末までにお役所に補助金申請をしなくてはなりません。しかし支払った上で領収書を添えて報告しなければならないのに、JFW事務局には手元キャッシュがありません。そこで三宅実行委員長は銀行から個人名義で(会社の資金を充てるわけにはいきません)数億円借りて事務局に渡し、JFWは急いで業者に支払って領収書を集めてお役所にイベント決算報告をしていました。東京コレクションを引き継いだJFWの実行委員長がそこまでしているのですから、協力要請された私は傍観者のままではいられませんでした。三宅正彦さん現在の東京コレクションはRakuten Fashion Week Tokyoの名で開催していますが、早いものでJFWが運営を始めてもうすぐ20年になります。ここまでどうにか継続できたのは理事長、実行委員長としての三宅さんの貢献が大きいと思います。受賞された3人の皆様、おめでとうございます。
2024.10.26
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この1年間中国アパレル業界向けに日本と中国で研修を担当する機会が増えました。先月末もアパレル経営者訪日研修団のお世話をし、いろんな講師にレクチャーをお願いしました。マーチャンダイジングに関する講義のほかに、テキスタイルデザイナー須藤玲子さん、beautiful peopleデザイナー熊切秀典さん、私的勉強会教え子だった元BAO BAO ISSEY MIYAKEデザイナー松村光くんにもそれぞれものづくりの考え方を話してもらいました。訪日研修団レクチャー後の記念撮影日本の織物産地について語る須藤玲子さん私自身はバブル崩壊から今日まで日本のファッションビジネスがたどった道をレクチャー、リーマンショックや新型コロナウイルスの混乱を経て下降線の会社と上昇している会社の差異について私見を述べました。特にユニクロが急成長した要因、単に価格政策だけでなくどういう姿勢でものづくりしているか、織物工場で遭遇したユニクロ用素材の事例をあげて説明しました。これまで国内でも海外でもセミナーでは何度も話してきた、お客様に人気の回転ずし店と不人気の店の違いのたとえ話。これは国を越えて誰にも理解しやすいのでいつも話しています。近海でとれた生の本マグロは美味しいけれど原価は高い。一方、遠洋漁業の冷凍マグロや養殖マグロは供給量も多く値段は生の本マグロに比べれば安い。お客様が喜ぶ高い生のマグロを使うなら、たくさん仕入れて少し薄く切るか、ネタを小さく握ると価格は抑えられます。冷凍ものや養殖マグロを使うなら、分厚く切るか、大きめに握ればお客様にある程度満足感を提供できます、と。しかしながら、価格抑制、コストのことばかり考えて冷凍ものや養殖マグロを薄く切る、あるいは小さめに握れば、お客様の反応はどうでしょう。おそらく満足感はないでしょう。ラグジュアリーブランドに供給している第一織物アパレルで言うなら、品質のいい素材を大量購入してコストカットを図る、あるいは使用生地をなるべく少ないデザインを考案して原料費を抑える工夫をすれば顧客満足度は上がります。が、超安い素材を使ってアパレル製品を製造すれば、テキスタイルの素人であってもお客様はいずれ見抜きます。後者のたどる道は、安価なマグロを薄く切って信頼を失う寿司店と同じ、消費者からは見放されます。ではユニクロはどうなのか。ユニクロのジーンズに付けられたKAIHARA製デニム使用の商品タグ写真を見せながら、ほかの織物産地でもラグジュアリーブランドが使用するレベルのテキスタイルをユニクロは使用、その発注量は我々の想像をはるかに超えていると説明しました。もちろんほかにもユニクロ成長の要因はたくさんあるでしょうが、ものづくりの姿勢は「中国アパレルにはヒントになるのではないでしょうか」と説明。ユニクロジーンズの商品タグほんの一例ですが、ユニクロダウンの高密度ポリエステルは北陸産地の織物工場で生産、その糸と織物のレベルはラグジュアリーブランド級、だからダウンコートの内側から羽毛は飛び出してきません。ジル・サンダー女史と組んだ「+J」のダウンはかなりの優れものですよね。が、安価な、名ばかりの高密度ポリエステルで作ったブランドのコートは時々内側の羽毛が表地から飛び出し、消費者に不信感を与えます。つまり薄く切った冷凍マグロと同じようなもの。中国の経営者たちに何度もアドバイスしているのは、コストダウンのため安価な冷凍マグロを仕入れるのではなく美味しい本マグロを提供しつついかに寿司店としてコストダウンを図るか、です。ラグジュアリーブランドが使用している日本製高密度ポリエステルは1メートル800~1000円(中には1300円のものもあります)、仮に1着作るのに2メートル使用しても素材原価は1600~2000円なのです。あくまで個人的な見解ですが、ユニクロ+Jはこのレベルの高密度ポリエステルでしょう。これに対して1メートル300円程度、1着分原価600円の素材でどうやってユニクロ+Jに勝てるのでしょう。安い素材では質感あるダウンコートは作れませんし、賢い一般消費者はすぐ見抜いてしまいます。だから、私は中国アパレルの経営層に呼びかけています。「日本の優れた素材をもっと活用してみては」と。先月末の訪日研修団に参加した経営層には売上数千億円以上の大手アパレルが数社いましたが、「日本で機能素材を探したい」「いいテキスタイルメーカーを紹介してくれませんか」と言われました。彼らも原材料に対する意識は持っているのです。どれくらい本気モードなのか、私が納得できないうちは日本の素材メーカーを簡単に紹介するわけにはいきませんが、もしも真剣に取り組む姿勢が見えたらいくつかアドバイスしようと思います。プレミアム・テキスタイル・ジャパン展サンコロナ小田のブース(上2枚とも)研修最終日の夜は品川から屋形船に乗って打ち上げでした。宴会の最後に研修の総括として、「今回のプログラムにはスキルを伝えるレクチャーとスピリットを考えてもらうもの両方を組みました。長くビジネスを続けるためにはスピリットがとても重要です」と言いました。ものづくりのスピリット、最後のまとめはかなり受講者に響いたようでした。彼らが研修を終えて帰国した翌週、恒例のプレミアム・テキスタイル・ジャパン展が有楽町国際フォーラムで開催されました。出品者のブースにあるテキスタイルを見ながら、次回の訪日研修団は同展開催時とタイミングを合わせるよう中国側に伝えなければと思いました。もっといいものづくりをしてもらうために。いま中国はバブル崩壊後の日本によく似た状況です。中国アパレル関係者は誰もが不景気と言いますし、これまで絶好調だったラグジュアリーブランドは中国各地の店舗を徐々に減らしています。不景気だからこそ打開策を探すべくバブル崩壊後日本がたどった道を知りたがっています。中国側の要請もあって近々このテーマで現地セミナーをすることにもなっていますが、どうやって不況の中から脱することができるか、そのヒントを提供できればと思います。彼ら、かなり必死ですから。
2024.11.09
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昨年秋に出会って以来懇意にしている中国コンサルティング金時光さんから「ニュージーランドの羊牧場に行ってみませんか」と誘われ、初めてニュージーランドに出かけました。Lake Wanaka湖畔のホテル裏庭オーストラリアのシドニー空港まで9時間、乗り継いで南島クイーンズタウンまで3時間のフライト。残雪の山脈に囲まれたクイーンズタウン、そこから車で1時間の近隣ワナカ湖畔の景色は実に美しく、まるでスイスアルプスに来たような印象でした。宿泊したワナカ湖畔のエッジウォーターホテル、部屋のテラスを出るとすぐ目の前はワナカ湖、庭にはカモが飛来、湖面を照らす日の出と山に沈む夕日を見ることができ、ひと言で言うなら楽園、バカンスなら最高気分だったでしょう。翌朝ワナカ湖から車で1時間くらいの所にあるFOREST RANGEという名の牧場主エマーソン一家を訪問、まずは羊の毛を刈り取る作業場を案内されました。1日一人約200頭の毛を刈るステージ1頭ずつ塊で陳列してありますエマーソン一家は創業150年の牧場、3代目ラッセルとジャネットご夫妻、4代目ご子息デイビッドから牧場のこと、生産しているメリノウールのことを詳しく説明がありました。おそらく一家の管理する土地は八王子市全域の広さとほぼ同じでしょうか、とにかく広いんです。彼らが管理する羊は現在14,000頭、最盛期には70,000頭いたと言いますからかなりの減産状態。が、減産してはいますがメリノウールのクオリティーを上げて量より質向上の努力をしていることがよくわかりました。年号ごとに毛の細さの進捗状況を表記作業場の壁にはGENETIC PROGRESS(遺伝的進捗)の表記、1982年から毎年メリノウール糸の細さがどのように推移してきたかがわかります。1982年が19.56マイクロメートル(1ミリの1000分の1の太さが1マイクロメートル)、現在は11マイクロンに到達したそうです。カシミヤの太さが約14から16マイクロン、一般的ウールが約19から24マイクロンですから、エマーソン一家が生産するメリノウールはかなりの極細繊維です。彼らのメリノウールがカシミアよりも細いとは想像していなかったので驚きでした。近年は羊毛の管理はバーコードとコンピュータ。飼育する羊の耳には全頭バーコードを付け、刈り上げたあとはそれぞれの羊の毛がどれくらい細いかを検査してデータを残します。下の写真のデータには、総重量が4.25kg、太さは11.0MICRONとありますから、この羊の毛はかなり上質だとわかります。この毛の塊からは超極細の糸が生まれます羊毛生産の現場もいまやコンピュータ管理ラッセルさんに聞きました。メリノ種の羊は毛を刈り上げた後24時間ほどで厚い皮下脂肪ができ、丸裸になっても寒さに耐えられる習性があるそうです。出なければ羊は風邪をひいてしまいます。春に気温が上昇する頃、この牧場では一斉に刈り取リます。そんな説明を受けていざ広大な牧場へ。我々が到着すると、遠くで群れをなしていた羊を牧羊犬(シープドッグ) ウエルシュ・コーギー・カーディガンが我々の目の前まで誘導してきました。飼い主さんが何を求めているのか理解している、実に賢いワンちゃんなんです。4代目デイビッドがさらに檻の中に羊数頭を追い込んで表の毛をガバッとめくって中の暖かくて白い毛を触らせてくれました。賢いワンちゃんが群れを誘導よく見ると1頭ずつ顔が違いますそのあと丘陵地帯をランドクルーザーで肌寒い山頂まで登り、眼下に広がる羊牧場や放牧するための山々を見せてもらいましたが、とんでもなく広くてびっくりでした。1,000メートル級の山頂付近にもたくさんの羊の排泄物が転がっていましたから、羊はこんな高い山頂まで登り、その寒さに備えるためもっと毛が生えてくるんだろうと素人の私にもわかりました。山から羊を追うのはワンちゃんだけでなく、時々小型ヘリコプターを使って麓まで下ろすそうです。左は3代目ラッセルさん、右は息子のデイビッドさん久しぶりに目にしたウールマークかつてウールを世界に広めるための広報宣伝部門IWS(国際羊毛事務局)という機関がありました。羊毛公社が牧場から羊の毛を買い上げるとき1頭につき1ドル(ポンド?)をプール、その資金を使ってウール製品を製造する会社にIWSは補助を出し、アパレル製品にはウールマークの下げ札が付いていました。1980年代後半中国解放政策で中国人がオシャレをし始め、将来の中国需要を見込んで羊毛公社は羊毛増産を計画。ところが天安門事件で需要が一瞬鈍化、大量の原毛在庫が増え、IWSが補助金を出すことが難しくなってウールマーク下げ札は売り場から消えました。当然原毛生産現場では減産が始まり、オーストラリアやニュージーランドの生産者は窮地に。おそらくエマーソン一家が70,000頭を飼育削いていたのはこの頃ではないでしょうか。その後もリーマンショックやコロナウイルスの不景気もあり、さらに地球環境の変化で天候不順もあったでしょう、150年の間には山あり谷ありだったと思います。近隣牧場主は牛の飼育を開始してリスクヘッジしましたが、エマーソン一家は牛の生産には手を染めず、先祖から受け継いだ広大な土地で羊だけ飼育する道を選び、少しでも良質なメリノウールを生産しようとこれまで努力してきました。山を登る羊たちそして、ニュージーランドの国立大学大学院を卒業後ニュージーランドの羊毛洗浄機械の最大手に就職してから母国に戻った中国人エンジニアと信頼関係を結び、エマーソン一家は原毛の大半を中国に出荷するようになったと聞きました。今回牧場視察を勧めてくれたのはこの中国人エンジニアとビジネスパートナーの金さんです。エマーソン一家の上質メリノウールをアパレル製品化し、世界に販売したいというのが彼らの夢なのです。先祖代々の仕事を守る純朴なニュージーランド人、それを支援する中国人エンジニアとビジネスパートナー国籍を超えた友情を目の当たりにして、日本人の私もお手伝いできることがあると思いました。素晴らしい景色に癒され、真摯なものづくりと友情に触れ、短い滞在でしたが充実した出張でした。
2024.10.22
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前項パリ在住フリーランスジャーナリストだった村上新子さんは自分が取材して書いた記事の掲載誌をよく送ってくれました。強く印象に残っているのは、元国際通貨基金専務理事で現欧州中央銀行総裁クリスティーヌ・ラガルド女史の単独インタビューと、高田賢三さん、島田順子さん、入江末男さんのパリ同窓会のような三者座談会、どちらも皆さんのお人柄がにじみ出て素敵な記事でした。 島田順子 おしゃれも生き方もチャーミングな秘密 (マガジンハウス刊)昨日は南青山で開催していたジュンコシマダ展示会にお邪魔しました。パリから一時帰国中の島田順子さん、数日前には新著を上梓したばかりでお忙しいのでしょう、残念ながら今回は会場でお会いできませんでした。新著の帯には「いくつになっても自分が好きなことを大切に」とありますが、80歳を過ぎても自然体のデザイナーのまんま、いまも活動拠点はパリというのが凄いです。 私が島田順子という存在を初めて知ったのは1983年3月のパリコレ時、素材や下着を製造販売していた京都のルシアン野村の野村直晴社長からのオファーを受け、順子さんはパリでデビューしたばかりでした。ルシアン野村でイッセイミヤケ子供服の経験があった岡田茂樹さんがジュンコシマダ事業ルシアンプランニングのビジネス統括、アタッシュドプレスとして活躍していたフラッシュの小笠原洋子さんが広報とイメージ戦略、クリエイションはパリ島田順子さんの三権分立「トロイカ方式」(岡田さんが何度も口にしたセリフ)で事業は急成長しました。(80年代後半、東京コレクション特設テント前にて) 1980年代初頭、日本ではアパレルメーカーが外部のデザイナーと組んで個性的なファッションブランドを次々立ち上げ、 D C(デザイナー&キャラクター)ブランドが大きなブームとなりました。が、その大半はデビュー数年以内に企業とデザイナーの軋轢が表面化してブランド解散するなどの失敗続き。その中にあってジュンコシマダはボディコントレンドの波にも乗って売上はあっという間に百億円に手が届きそうな勢い、アパレル企業とデザイナーとの協業では数少ない成功事例でした。 ところが、順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が突然の病死、その先には契約更新時期が迫り、京都のルシアン本社、パリのアトリエ、東京の営業部隊との間に微妙な風が吹き始め、事業成長の功労者だった岡田さんはルシアングループを退職してしまいました。 あの頃東京コレクションのショー経費をめぐって開催日直前にルシアン側とパリのアトリエが対立、順子さんがキレそうになってパリ側で経費負担する代わりに会場で不思議なメッセージを配付しようかという話がありました。このとき東京コレクション運営責任者の私は順子さんに「観客には関係のないこと。ここはいつも通り普通にショーをやりましょうよ」とアドバイスしました。野村社長急逝、トロイカ方式が崩れ、数少ない協業成功事例だった企業出資のデザイナービジネスに暗雲が漂い始め、この関係は長くは続かないだろうなとこのとき感じました。 島田順子さんにとっては何でも相談できる岡田茂樹さんがしばらくしてジュンコシマダのゴルフウエアを提携制作していたダンロップスポーツ専務に就任、その関係で島田さんからさまざまな相談を受けていたのでしょう。岡田さんから「順ちゃんからこんな話があったけど、太田さんはどう思う」とよく相談されました。毎回相談というより、「決めた」という報告みたいなものでしたが、岡田さんは親身に順子さんをサポートしていました。結局、そのあとジュンコシマダ事業はルシアンプランニングから独立、順子さんから頼まれた岡田茂樹さんが再びジュンコシマダ事業を経営することになり、岡田さんの引退とともに名古屋のクロスプラスに引き継がれました。現在順子さんの事業を担当しているのが、私が主宰していた私塾「月曜会」の教え子というのも不思議なご縁です。 岡田さんがダンロップスポーツで側面から順子さんをサポートし始めた頃、サッカーのJリーグがスタートしました。ある日銀座の小さなカウンターバーで繊研新聞早川弘と飲んでいたら、見知らぬ初老の紳士が突然話に割り込んできました。日本サッカー協会幹部、女子サッカーリーグ専務理事を名乗る紳士、私たちがファッション業界と知って相談を持ちかけたのです。女子サッカーを盛り上げるため、東西オールスター戦のためにカッコいいユニフォームを選手たちに着せてやりたい、デザイナーを紹介してもらえませんか、と。 女性選手のデリケートな心理を理解し、サッカーを身近に感じるデザイナーでないとこの話は無理。そこで思いついたのが、パリ在住でサッカーが身近なはずの島田順子さんでした。東西両選抜チームのデザインをお願いし、制作自体はダンロップスポーツ岡田さんに打診することになりました。当時女子サッカーリーグはマイナーな存在、協会側にデザイン料や制作コストを払う余裕はありませんでしたが、順子さんと岡田さんの好意でこの話は実現しました。のちにワールドカップ女子大会優勝の立役者となる澤穂希さんがまだ年少さんの時代のことです。完成した順子さんデザインの特別ユニフォーム(グランドコート含めフルセット)を着た選手たちはロッカールームで「東西対抗に選ばないとこんなカッコいいユニフォームは着られない。来年も出場できるよう頑張らないと」と大喜び、両軍それぞれ特徴があってなかなかカッコよかったです。(2019年11月JUNKO SHIMADAイベントにて)東京コレクションを運営している頃も百貨店に転職してからも、順子さんとはパリでも東京でもよく会食やカラオケをご一緒しました。パリのご自宅に招かれ、ディナーをご馳走になったこともたびたび。私は長くファッションデザイナーの方々とお付き合いしてきましたが、考えてみれば自宅ディナーの機会は順子さん以外ほとんどありません。自然体の気さくな人ですから、ご自宅に呼ばれるたびパリ出張の緊張から解放されホッとしたものです。こんなこともありました。深夜パリのカラオケバーから出て順子さん運転の車に乗り込もうとしたら、順子さんがドアを開けた瞬間大きな声で「キャッ」、なんと車の中で浮浪者が寝ていたのでびっくりしました。カギのかかった車に潜入して浮浪者が寝ているとはなんともパリっぽいシーン、いまも鮮明に覚えています。数シーズン前、松屋銀座でジュンコシマダのイベントがあった際、集まったたくさんのお客様が順子さんと歓談する場面に遭遇しました。恐らくお客様の多くはボディコン時代からの長い熱烈ファンでしょうが、まるでアイドル歌手を囲むファンクラブのような熱い光景でした。順子さんは80歳を過ぎたいまも現役バリバリ、毎シーズンパリで新作発表してから東京に来て展示会を開いています。パリに渡った1960年代、現地で親交のあった高田賢三さんや三宅一生さんはすでに鬼籍されましたが、順子さんにはずっと現役デザイナーとしてファンを楽しませて欲しいです。(2023年春夏コレクション展示会にて)
2022.11.19
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世界で通用するプロのビジネス人材を育てる人材育成機関を日本にも作ろう、とIFIビジネススクール設立に奔走していた頃、特別に配慮しなければならなかったのが、多くのファッションデザイナーを輩出してきたファッション専門学校でした。 中でもリーダー格だった文化学園(文化服装学院や文化女子大学を有する学校法人)大沼淳理事長には、専門学校のライバル機関を作るつもりはなく、共存共栄できる存在と理解していただく必要がありました。IFI山中理事長はじめ理事の大手企業経営者と共に文化服装学院の見学に出かけたのも、おかしな軋轢を回避するためでした。私は大沼理事長から「業界が学校を作ろうなんて考えず、教育は私たちに任せてくれ。欧米のように企業はもっと学校を支援して欲しい」と言われ、「専門学校生の中には高校時代の偏差値が高く国立大学に入学できそうな学生も少なくないんだよ」と極秘扱いの高校成績が記載された学生一覧表を見せてもらったこともありました。官民協同の「大学院」のような人材育成機関は作って欲しくない、大沼さんのお気持ちはよくわかっていましたが、それでも専門学校とは競合しない形で官民一体となった人材育成機関を作る意味は大きい、と私たちは考えていました。だから、IFIビジネススクールはファッションデザイナー育成の部門は作らない、入学資格者は専門学校または一般大学を卒業している者に限定する、とみんなで決めました。さらに既存の専門学校に協力する姿勢を見せるためにも、私は文化服装学院の商品企画系3年生のクラス(曽根美知江先生)と流通系3年生のクラス(林泉先生)を外部講師として指導することになったのです。東京ファッションデザイナー協議会から松屋の東京生活研究所に移籍する前後、本業とは別にIFIビジネススクールの講義があり、さらに文化服装学院ではそれぞれのクラスを週1回担当するのですからかなりの負担でしたが、誤解されないためにもやらざるを得ませんでした。 その後2000年に私は2つの企業の重責を担うことになってしまい、IFIビジネススクールでも文化服装学院やほかの専門学校でも後進を育てる時間的余裕がなく、しばらく教育現場からは離れました。単発の特別講義ではなくレギュラー講師として教育現場に復帰したのは、官民投資ファンドの社長退任後、文化服装学院流通過程に初めてできた4年生(以前は3年生まで)のクラスでした。文化服装学院ファッション流通科の卒業ショー さて、今日の本題はビジネススクールや専門学校のことではありません。文化服装学院で教えた若者たちの中から、私の部下になった人たちの話です。 文化服装学院で2つのクラスを週1回教え始めた頃、流通専攻科の林泉先生から、「太田先生の下で働きたいという学生が二人いるの。せめて面接だけでもしてやってもらえないかしら」と頼まれました。採用する気もないのに面接するのは学生さんに失礼ですから、私は会社に戻って人事担当と相談し、もしも能力がありそうならば専門職採用する方向で面接することになりました。 私が講義でよくコムデギャルソンの話をしたからでしょう、二人の女子学生はバリバリのコムデギャルソンを着て面接にやってきました。一人はファッションセンスが良い、もう一人は論理的でマーケティングに向いている、二人を足して2で割ったらファッションコーディネイターとして使えるかもしれない。が、採用枠は一人のみ、絞れませんでした。 窓口だった流通専攻科の副担任に「残念ながら採用できない」と連絡、「クラスにはほかに一人優秀な子がいるでしょ。その子も面接したい」と伝えました。私の講義で、当時数寄屋橋にオープンしたばかりのギャップ日本一号店と改装直後の西武百貨店渋谷店の両方を自主的に視察し、その感想を要領よく発表した一人の女子学生(両方の店を自主的に視察したのはクラスでたった一人)のことが気になっていました。 ところが、副担任は「あの子はダメです。既にS社の内定が出ていますから」。S社はこれまで販売職でも大学生だけを採用、専門学校生を採用したことがない敷居の高い企業でした。その女子学生が応募したら販売職で内定、これまで縁のなかったS社とのパイプが初めてできたので先生たちは喜んでいました。 担任の林先生に頼まれて新卒採用の枠を設けた私としては、大勢の学生の中で特に気になっていた学生を面接してみたい、副担任に「ファッションコーディネイターとして育ててみたいので面接させてくれ」と頼みました。 そして、その女子学生は私の下で働きたいと言ってくれました。彼女に内定を出していたS社は私が転職直前にあれこれアドバイスしたことがあり、騒動を避けたいので「家庭の都合で就職しない」と内定辞退するよう勧めました。が、真面目な学生は正直に私に声をかけられたのでキャンセルしたいと伝え、S社は納得してくれたそうです。 IFIビジネススクール全日制1期生山本雅範と関口奈々と昨年末にこうして新卒の関口奈々は東京生活研究所とファッションコーディネイター契約を結びました。しかし彼女と私との間を取り持った副担任は先輩の先生方から厳重注意されました。学校と初めてパイプができそうだったS社の内定を学生の方からキャンセル、やってはいけないことだったようです。 関口は性格もセンスも良く、コーディネイターとして優秀でした。我々も彼女をIFIビジネススクール夜間コースに出して勉強させ、ニューヨーク視察にも連れて行き、いろんな経験をさせました。米国に戻った杉本明子さんの後任ファッションディレクター関本美弥子(私が大手アパレルから引き抜いた)も、のみ込みがはやい関口をしっかり指導しました。 それから数年後、関口は家庭の事情で退職(のちにファッション企業に強い広告代理店コスモコミュニケーションズに就職)しました。現在も同じ代理店で活躍しています。ファッションディレクター関本美弥子(右)と岡野涼子(左)2000年3月卒業シーズンのある夜、たまたま千駄ヶ谷界隈をタクシーで通行中に関口の内定辞退で迷惑をかけた文化服装学院の木本晴美先生から「歌舞伎町で謝恩会の二次会をやっています。時間あれば寄ってください」と電話がありました。二次会の会場に到着してすぐ、私のテーブルに1年間の講義で一番前の座席で熱心に話を聞いていた学生が現れたので、「キミはどこに就職するの?」と質問。学院OBが経営するB社と聞いて、「そっちを辞めてウチに来ないか」と誘いました。その場にいた木本先生は「やめてください。関口のときは大変だったんだから」と言われましたが、学生は入社1週間でB社に辞表を出しました。 文化を卒業して1ヶ月後、岡野涼子は関口奈々の後任として東京生活研究所ファッションコーディネイターに就任。ちょうど大きなリニューアルの構想を練り始めたタイミング、社員たちから上がってくる売り場プランは当たり前すぎて私には面白くありません。入社したばかりの岡野に「どんな売り場にすれば面白いと思う?」と質問すると、彼女の答えは「化粧品メーカーの美容部員に接することなく買い物できるセルフのコスメ売り場が百貨店にあってもいいのではないでしょうか。テスターをいっぱい置いて、時間を潰せたら若いお客様は楽しいと思います」でした。私は「それで進めてみろ」と。こうして学校を卒業したばかりの新米コーディネイターが発案した広いセルフコスメゾーンが松屋2階の目玉売り場として誕生しました。コーディネイターとして岡野も優秀でしたが、ダンナが関西方面に転勤するため研究所を退職、現在は関西の商業施設で仕事をしています。 大規模改装前(上)と改装後(下)の外観関口と岡野の恩師である木本先生からはのちにもう一人教え子を紹介してもらいました。文化を卒業してロンドンに渡り、帰国した高橋史佳です。彼女も松屋のコーディネイターとして活躍、出産を機に退職しました。余談ですが、ダンナは松屋の社員です。今日、その高橋から久しぶりにメールが届きました。今春お子さんが保育園に入るので自分は社会復帰、某百貨店とコーディネイター契約を結びましたとわざわざ知らせてきたのです。律儀な子です。実は、関口の前にも東京生活研究所は文化服装学院流通専攻科から新卒を採用しています。研究所ファッションディレクターで友人の杉本明子さんに頼まれ、私が教えていた学院3年生のクラスからセンスのいい子を紹介しました。渋谷陽子は卒業後東京生活研究所に採用され、杉本さんにコーディネイターの仕事をみっちり叩き込まれ、研究所卒業後は森ビルのテナントリーシングに携わっています。私の部下にはもう一人、文化服装学院流通専攻科出身者がいます。私の特別講義に刺激され、どうしても部下にしてくれとデザイナー協議会を訪ねてきた田中英樹です。協議会で新卒採用して東京コレクションの運営を経験、私が東京生活研究所長になった翌年には田中も移籍して研究所のメンズ部門ファッションコーディネイターに。数年後にはアパレル企業や学校でも指導するプロになりました。彼は私にとって文化服装出身の弟子第1号、いまは独立して独自の商品企画、ものづくりをしています。1985年ニューヨークから戻った直後、私は文化服装学院の小池千枝学院長に声をかけられ学院の「火曜会」という先生方の勉強会で講演、米国式実践教育をお話ししました。文化服装学院と私のご縁はこのときから始まり、気がつけばここで紹介した元部下以外にもアパレルメーカー時代に多くの若者を新卒採用しました。今日たまたま元部下高橋から社会復帰報告メールをもらい、文化出身の部下たちに恵まれたなあと振り返った次第です。<追記>1995年10月14日に私が文化服装学院の当時副担任だった木本晴美先生に送ったファックス、ご本人からコピーが送られてきました。返信はニューヨークの滞在ホテルのファックス番号までとお願いしているのでおそらく若手バイヤーの海外研修引率したときのものでしょう。木本先生、よく保管していましたね。
2023.02.18
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3月11日にアップしたブログで触れましたが、広州市に拠点を置く製造小売ブランドGOELIA(ゴエリア)は今年で創業29年、広州出張初日がちょうど創業祭当日だったので私もそのイベントに参加、社員たちの盛り上がりは半端なかったです。ゴエリア本社の中庭でのミニコンサートゴエリア創業者ゴードン・ウーさんと初めて会ったのは昨年10月、東京でセミナーを頼まれたときでした。ウーさんは社員を連れて頻繁に来日しますが、このときは同行する本社幹部や各部門の責任者を相手にアパレル産業の課題、ブランドビジネスの難しさをレクチャー。下の集合写真はセミナー会場だった西新宿住友ビルで撮影したものです。それから2カ月後の昨年12月、杭州市で私たちのセミナーが開催されたときもウーさんは幹部社員を連れて参加してくれました。このときに広州本社での社員向けセミナーを依頼され、2月に広州を訪問しました。初日は本社見学と創業祭参加、2日目は市内の直営店を4店ほど視察してショップ運営についてアドバイス、3日目は幹部20名ほどとの意見交換、そのあと150人の社員にマーチャンダイジングの基本を講演しました。2月後半の広州訪問の寸前もウー社長は数名の社員を連れて来日、このときも銀座で会食しました。東京で珍しく積雪があった夜です。このとき私は皆川明さんのミナペルホネン南青山スパイラルCALLの視察を勧めました。路面でもないビルの5階にあるお店、普通に考えたら客足は見込めない場所なのにCALLはいつも賑わっている、ネット社会では情報発信力さえあれば裏通りでもビルの上層階でも集客することができることを実証する店舗、と説明しました。雪の翌日、ウーさんらはすぐCALLを視察したそうです。そしてまた3月、ウーさんは社員を多数連れて来日、私たちも会食に招待されました。芝公園のお豆腐レストランに入った瞬間、ちょっとびっくり。今回の同行社員は写真のように大半が若い女性でした。彼女たちはネットのインフルエンサーのような存在、それぞれがたくさんのファンを抱え、ネットでゴエリアの商品を紹介して個別に注文をとる、簡単に言えば実店舗でなくネット画面で商品を売る販売員なのです。今回の東京出張は成績上位者のご褒美旅行、日本文化に触れ、早咲きの桜並木を見物、都心でそれぞれ買い物を楽しみ、夕食はみんなで日本食を味わう。こんな機会をくれるんですから、ウーさんは彼女たちにとってありがたい経営者です。お豆腐レストランでの記念撮影写真上下ともミナペルホネンCALLそして、皆川明さんにお願いしてスパイラル開館前に5階ショップをあけてもらい、ウーさんたちは皆川さんから直接お店のコンセプトなどを伺うことができました。ゴエリアが創業29年ならミナペルホネンも同じ創業29年、ウーさんと皆川さんは話が弾んで予定よりも長く面談。ウーさんたちはきっとたくさんの刺激を持ち帰ったことでしょう。ファッションブランドの経営者のとき、私も現場の販売スタッフの人材育成や処遇改善には特に力を入れ取り組みました。販売最前線は貴重な戦力、なのにファッション業界の慣例として販売員のケアは十分ではありません。これはおかしい、なんとか改革しようといろんな手を打ったものです。ウーさんは我々よりももっと販売員をケアしています。店頭の販売スタッフやネットショッピングの販売スタッフに海外視察のチャンスを与え、彼らを刺激する。会食時に若い女性たちは異口同音「ずっとこの会社で働きたい」とコメントしていましたが、本社の社員のみならず販売部門のスタッフにもチャンスを与える経営者、社員から愛されますよね。社員に海外視察で刺激を与える、経費のことを考えると簡単ではありません。が、ゴエリアは何度も東京視察にやってきます。こういう会社の経営者、高く評価したいです。
2024.03.30
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(前項からのつづき)長い間私たち流通業界関係者が現時点のブランドポジションを調べる上で目安としてきたのが、フランスの業界新聞「ジャーナル・ドゥ・テキスタイル」です。ミラノ、パリコレが終了後、各国の主要バイヤーとジャーナリストにそのシーズンのコレクションの評価を投票してもらい、半年後のパリコレ会期中に紙面で投票結果の詳細を発表します。年2回あり、カテゴリーはバイヤー選出部門とジャーナリスト選出部門に分かれています。参考にしてきたジャーナルドゥテキスタイル紙バイヤー部門は、自店が独占販売していたり特別プロジェクトで関わっているブランドに投票しがち、ちょっと偏っています。たとえば、サンジェルマンにあったオンワード樫山フランス法人セレクトショップのバスストップは、いかなるシーズンも自社が発掘して育てたジャンポールゴルティエの名を第1位に推挙します。伊勢丹パリオフィスは当時ライセンス提携していたカールラガーフェルド(シャネル、フェンディではなくカール自身のブランド)を上位に。どの小売店がどのブランドに投票したのか細かく実名掲載されるので、業界通なら投票者の贔屓目も頭に入れて結果を受け止めます。一方のジャーナリスト部門は、インターナショナルヘラルドトリビューン、ルモンド、フィガロや名だたるフランス雑誌の記者が投票、バイヤー部門よりも信ぴょう性が高く、ブランド人気のバロメーターとして参考になります。概してバイヤー部門はクリエーションだけでなくビジネスとしてどうなのかも加味しての判断、ジャーナリスト部門は斬新さに投票のウェイトがおかれているように感じます。私も百貨店としてブランド導入を検討する際、このブランドランキングのジャーナリスト部門の結果をバロメーターとして活用させてもらいました。このランキングが誕生した頃、パリコレではケンゾー、クロエ(カールラガーフェルドがデザイン)、イヴサンローランがしのぎを削っていました。その後は彗星のごとく現れたジャンポールゴルティエがほとんどのシーズン第1位を独占。日本のビッグスリーが上位を占拠した時期があり、その次はマルタンマルジェラやドリスヴァンノッテンらアントワープ勢のランキングが上昇、ロンドン育ちのジョンガリアーノ、アレキサンダーマックイーンが手掛けるブランドが脚光を浴び、さらにプラダ、トムフォードのグッチなどミラノブランドがパリ以上の評価を受けるなど、時代と共にコロコロ主役は変わりました。1998年パリコレ出張のあと百貨店の大きなリニューアルを計画するきっかけとなったのは、このフランス業界紙ランキング表でした。この時点で上位20傑に入っているブランドのうち、新宿伊勢丹が13ブランド、池袋東武百貨店が7ブランド導入しているのに対し、銀座のわが社が導入していたのは1つだけ、しかもそれは日本のイッセイミャケでした。世界のジャーナリストが評価している旬のファッションブランドのトップ20のうち、インポートはゼロ、日本のビッグスリーは1つ、ランキング表と都内百貨店の導入実績を調べて愕然としました。売れる売れないのものさしだけでは百貨店の存在価値はない、銀座のワンブロックを占有する百貨店ならば、世界が認めるブランドをある程度揃えるべきでしょう。当時の社長に訴え、大きな改装とブランドの入れ替えを計画、一気にランキング上位ブランドを導入できました。ルイヴィトン、ディオール、セリーヌやヨウジヤマモトを導入したのはこのときでした。ところで、1970年代前半イッセイミヤケがパリコレに登場して以来、三宅一生さんは多くのクリエイターに影響を与え、世界のメディアや小売店に高く評価され続けました。このランキング表に初めて名前が記載されてからイッセイミヤケのデザイナー交代までランキング外になったことはないのではないでしょうか。初めて記載されたデザイナーが現役の間はずっと高く評価され続けた例、ほかにいないかもしれません。多くは全盛期とは比べものにならないくらいランキングが落ちてからのバトンタッチ、もしくは創業者の逝去でデザイナー交代が普通です。人気上位ポジションをずっと維持し続けるのは難しい、それが時代と共存するファッション界の宿命だと思います。絶賛された1992年春夏作品は本の表紙にこのランキング表でもう一点触れておきたいのは、ヨウジヤマモト、コムデギャルソン、イッセイミヤケの日本ビッグスリーはそれぞれ1回ずつフランスの人気者ジャンポールゴルティエを抑えてランキング1位になっていること。私の記憶違いでなかったら。そして、イッセイミヤケが第1位になったシーズンは、ウイリアムフォーサイスのダンスチームがモデルとしてパリコレに登場、ステージいっぱいにいろんな種類のプリーツ服を着たダンサーたちが笑顔で踊りまくった1992年春夏ショーでした。ダンサーが跳ねるたびにビョンビョン上下に動くプリーツの重ね着の美しさと楽しさ、いまもはっきり記憶に残るパリのベストコレクションだと思います。パリコレ初参加が1973年ですから、第1位になるまでおよそ20年。デビュー直後からその考え方やデザインが高く評価され、常に人気上位20傑を維持し、後年に再び評価をあげてトップになる。音楽や映画の世界でもなかなかできることではありません。よく意見交換しましたその2年ほど前、三宅さんを誘って小さなカウンターバーに行きました。イッセイミヤケが高圧高熱で加工したプリーツのコレクションに力を入れ始めて数シーズン経過、一部のメディアの間でプリーツ加工物に「ちょっと飽きたね」という声が陰で出始め、友人として耳には入れておこうと誘いました。お酒がまわってそろそろしゃべってもいいかなというタイミング、ここで三宅さんがハンカチを折り曲げながら「ここがプリーツでうまく表現できなかったので次は絶対に成功させたいんです」、と。業界の陰の声を伝えようとした瞬間、逆にプリーツにはまだやれることがあるとハンカチで説明し始める三宅さん、ものづくりのものすごい執念を感じました。ブレずにとことん突き詰めるクリエイターの姿勢に余計なことを言ってはいけない、と私は黙って帰りました。その数シーズン後のことです、着る人の動きによってビョンビョン上下に動くシワ加工商品も、インダストリアルデザインとして面白い新ブランド「プリーツプリーツ・イッセイミヤケ」も、縦にも横にも伸びるストレッチプリーツの「ミー・イッセイミヤケ」も発表されたのは。前項で触れたバルセロナオリンピックのリトアニア選手団ユニホームもプリーツでした。元々私たちの中にあったイッセイミヤケは意匠性の高いテキスタイル、ナチュラルカラー系、ゆったりオーバーサイズ、一枚の布がイメージでしたが、いつの間にか「プリーツ=イッセイミヤケ」になりました。パリのポンピドゥーセンターが「ビッグバン 20世紀アートの破壊と創造展」(20世紀の建築、インテリア、家具、アートなどを総括する展覧会)を2005年に開催したとき、ファッション分野で展示されたのはシャネルでもディオールでもサンローランでもなく、なんとプリーツプリーズのみでした。同展の学芸員は歴代クチュリエではなく、デザイナー服を一般大衆に解放した日本人クリエイターの工業製品的作品をあえて選択したのです。学芸員の見識も素晴らしい、その気にさせた三宅さんの衣服への情熱、考え方もまた素晴らしい。私は若いデザイナーさんによく言います、「あなたの十八番(おはこ)を作ってください」と。ブレることなくとことん追求するクリエイターの執念、それがブランドDNAとして後継者に受け継がれていく。大デザイナーから教わったことです。若手デザイナーにテキストとして薦めてきた本
2023.08.17
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中国から日本研修にやってきた27人との怒涛の1週間が終わり、今日は一息ついています。2月恒源祥本社にて。左:陳会長、右:齋藤孝浩さん昨年末杭州での中国アパレル経営者セミナーに参加した最大手ニットメーカー恒源祥の陳(リチャード・チン)会長から「あなたの話を社員にも聞かせたい」と社員研修の申し込みがあり、2月に2日間上海近郊の蘇州のホテルで社員研修をさせていただきました。その後陳会長から日本での研修の提案があり、6日間のプログラムを組みました。同社は国営企業時代も含めて歴史あるニットメーカー。欧米列強諸国の統治や日中戦争、国民党と共産党の対立混乱が続いたこともあり、中華人民共和国で100年続く企業は少ないと言われていますから、今年創業98年はレアな会社。グループ社員総数は4万人の巨大企業です。オリンピック中国選手団ユニホームやIOC(国際オリンピック委員会)幹部、聖火ランナーのウエアも提供しているオフィシャルサプライヤーでもあります。佐藤繊維佐藤社長が工場を案内しながらレクチャー佐藤繊維直営セレクトショップでお買い物も陳会長はパリオリンピック視察から上海に戻ってすぐ日本に。研修初日は山形県寒河江市の佐藤繊維工場見学。紡績からニット製造、自社ブランド販売まで行っている珍しい一貫工場です。佐藤正樹社長から差別化商品をどのように創作しているか、工場を見学しながらレクチャーを受けました。まるで織物のようなウールジャケットや家庭用洗濯機で丸洗いできるセーターに研修団は驚いていました。東京に入った翌日、午前中は私の講義。2月にマーチャンダイジングの研修を終えていますから、今回は東京で注目すべき小売店とビジネス形態を説明。午後は渋谷パルコの売り場を歩いたのち、同社元常務泉水隆さんから渋谷店改築時のブランド導入の考え方について具体的な説明がありました。渋谷パルコ2階beautiful people3日目はニットデザイナー村松啓市さんから、自身のブランドmuucを展開しながら彼が主宰する社会貢献プログラムAND WOOLの説明。この事業に陳会長は中国でも同じような社会貢献事業ができるのではないかと興味津々、さっそく村松さんに早い訪中を勧めました。村松啓市デザイナーからAND WOOLの説明新宿伊勢丹5階muucとAND WOOLポップアップその後スパイラル5階CALL(ミナペルホネン)を皮切りに、南青山ブティック街を視察。イッセイミヤケ8店舗、コムデギャルソン、ヨウジヤマモト、ビューティフルピープル直営店のほか、編み物サークルも開く毛糸店ウォルナット東京にも足を伸ばしてリサーチ。ウォルナットではスタッフの丁寧な説明に耳を傾けていました。4日目はMAKUAKE視察後、EZUMIデザイナー江角泰敏さんのシーズンテーマ設定のプロセス講義とワークショップ。ロンドンのセントマーチン校で学んだ江角さんは学生時代に訓練されたテーマ設定のプロセス「Mind Map」を一緒にやってみましょうと面白い講義をしてくれました。江角泰敏デザイナーのワークショップ5日目は元部下だった堀田健一郎さんがヴィジュアルマーチャンダイジングの事例紹介、特に店頭とネットを繋げお客様とのタッチポイントをいかに魅力あるものにするかを話してもらいました。その後幹部だけ両国に移動して世界のトップブランドに特殊なニット糸を販売する丸安毛糸を訪問、岡崎博之社長らにオリジナル商品の説明をしていただきました。トップブランドが同社のニット糸を採用している理由に納得、陳会長から将来一緒に商品化したいと発言ありました。丸安毛糸ショールームにて中:丸安毛糸 岡崎社長、右:陳会長今回山形の工場見学にも都内ショップまわりも同行、私がお願いした講師のレクチャーにも付き合いました。陳会長とは東アジアファッションビジネス連携や企業経営の理念から、ものづくりに何が重要か、さらには新たな商品開発構想まで連日いろんな話をすることができました。昨年末私のセミナーを聞いてすぐアクション、2月社員研修と8月日本研修を実行するなど早い決断とすぐ行動する経営者ですから、帰国して日本素材での商品開発やデザイナーとのコラボ企画を進めるのではと期待しています。来月下旬には恒源祥創業98年記念イベントがあり、さっそく訪中を再び促されました。手ぶらでは行けないので、幹部に向けて中身のあるレクチャーの準備をしなければなりません。スピード感ある経営者と付き合うにはこちらもスピード感ある対応をしないと。中:陳会長、右:佐吉事業管理コンサル金代表昨年9月I.F.Iビジネススクール教え子である齋藤孝浩さんに佐吉事業管理コンサル金代表を紹介され、金さんが連れてきたアパレル経営者訪日研修団にセミナーをしたことから中国と私の関係が始まりました。12月杭州で経営者セミナー、2月恒源祥の幹部社員研修、4月佐吉コンサル主催訪日研修団の経営者たちにレクチャー、7月杭州で皆川明さんとのデザインセミナー、寧波の大手紳士服メーカーでの研修、そして今回の恒源祥日本研修と続きました。9月には上海で創業祭に参加予定、10月には三度目の訪日研修団セミナーがあり、11月も金さんから訪中を誘われています。たった1年で中国関係でこれだけいろんなことが起きました。中国経営者はとにかくやることがほんとにスピーディー、これは日本のファッション流通業界が学ぶべき点ではないでしょうか。セミナー終了後に「いいお話聞きました」と言うだけでは何も始まりませんから。
2024.08.25
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デザイナーのヨーガン・レールさんが石垣島での交通事故で亡くなってもう8年、会社ヨーガンレールはビギグループから独立し、ヨーガンさんの意志を継いだスタッフたちがそのナチュラル路線を守っています。今日は久しぶりに江東区清澄の本社での展示会にお邪魔しました。このオフィスはずっと社員の福利厚生策として社員食堂でベジタリアンランチを提供し続けていますが、展示会期間中は我々訪問客もご馳走していただけます。ヘルシーで美味しいランチをいただき、新作を拝見してきました。個人的には晩年ヨーガンご本人が力を入れていた「ババグーリ」(以下の写真すべて)にもっと伸びる可能性を感じました。あくまで会社側にビジネスを拡大する気があればの話ですが。服だけでなくリビング雑貨のバリエーションもあって、ヨーガンが確立したかったババグーリ独自の世界観が理解しやすいですよね。できれば衣食住をトータルに訴求する実験、ポップアップや他ブランドとのコラボを仕掛けてもらいたいし、このブランドにはあまり価格のことなんぞ考えずに上質素材をどんどん使って日本のちょっと贅沢で素朴な暮らしの提案をして欲しいですね。スタッフの方々には「こんなことやったらどう」と余計なことをアドバイスしてきました。
2022.10.04
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昔から、これと決めたブランドとはかなり長く付き合い、同じブランドのものをずっと買い続けてきました。アンダーウエア(カルバンクライン)や靴下(ラルフローレン)からカーディガン(プレイまたはオム・コムデギャルソン)、コート(ジルサンダー)、カジュアルパンツ(バナナリパブリック)、バッグ(プラダのナイロン製)、靴(トッズ)、四半世紀ほぼ同じブランドで通してきました。セットアップとシャツは1980年代から長らくコムデギャルソン・オムを愛用してきましたが、ブランド側のシルエット変更(丸くゆったりだったのがタイトフィットになった)があってからギブアップせざるを得なくなり、セットアップとシャツは自分用のものを特別に誂えるようになりました。だから、自分の服を新しく買うためにブラブラ紳士服売り場を歩くなんてことはほとんどありません。売り場に行くときはマイブランドの売り場に行って必要なアイテムを買ってすぐ帰ります。マーケティングのためレディース関連の売り場は頻繁に歩きますが、正直言ってメンズ売り場をウインドーショッピングすることははほとんどありませんでした。4半世紀以上浮気することなく靴はずっとトッズでしたが、adidasスニーカーを履くようになってその快適さにいまごろ目覚め、スニーカーと調和が取れる服を探す必要に迫られ、最近はまめにメンズ売り場を回るようになりました。スニーカーもadidas以外のブランドにもチャレンジしてみようと手を広げ、初めてNIKEをネットで購入。一消費者の目線でメンズ売り場を歩いて気がついたこと、「値段が随分上がってるなあ」です。先月某百貨店メンズ館で気になったジャパンブランドのシャツ、お値段が58,000円の表記に「高いっ」と思いましたが、よく見るとこれはピンク色値札、つまり秋冬セール価格。プロパー価格を見てさらにびっくり仰天、なんと繊細な細番手素材でもないのに97,000円でした。複数の素材を縫い合わせているデザインですが、数年前ならこの種のシャツは50,000円未満だったはず、それがプロパー価格97,000円とはあまりに高すぎます。セールでも私には高すぎる、試着する気力もなくなり売り場を離れました。ジャパンブランドがこんなに高騰してるのであれば、円安の影響を受ける海外人気ブランドのシャツはどうなっているんだろうと某イタリアブランドのネット通販サイトを調べると「フリンジ付きプリントコットンシャツ」がなんと638,000円。正直、こんな値段のシャツを誰が買うんだろう、です。私には値段と価値のバランスが異常としか言いようがありません。円安の影響もあるんでしょうが、この価格をつけて日本市場で売り出すジャパン社の勇気(あるいは自惚れ)、すごいですねえ。考えてみれば、海外ラグジュアリーブランドのキャンバスバッグでさえ円安影響を受けて昨年からとんでもない価格に設定されています。レザーじゃなくブランドロゴが入ったキャンバスバッグがほぼ50万円。顔見知りのイタリアブランドの販売スタッフがこんなことを漏らしていました。「キャンバスですよ◯◯さん(フランスのブランド名)、このお値段で販売していいんだろうかと正直思います。でも、うちもそこまで高くはありませんが、もうエントランス価格とは言えないお値段なんですよ」、と。しかしながら、とんでもない価格になろうが海外ラグジュアリーブランドは順調に売上を伸ばしています。コロナ禍で減少していたインバウンドの売上はほぼコロナ以前に戻り、インバウンド客の旺盛な消費もあって価格高騰は特に問題視されていません。果たしてこの上り調子はしばらく続くのでしょうか。海外ラグジュアリーブランドの小型バッグ、若い消費者のために20万円を切るエントランス商品を用意していた数年前が懐かしいですね。中国景気が悪いと言われていますが、中国からの若年層インバウンドは有名ブランドの大きなショッパーを抱えて歩いています。今日も銀座の歩行者天国の主役は完全に中国系の若いお客様、本格的な春節(今年は2月10日)バカンスはこれからですから、中国は報道の通り本当に不景気なのかどうか今日の銀座を見ると疑問に思います。日本ではこの1年生活必需品が相当高騰していますが、ファッション商品の価格の上昇はそれ以上に値上がり、ジャパンブランドであれ外資ブランドであれちょっと異常レベルではないでしょうか。2020年新型コロナウイルス騒動の前のほぼ2倍になった商品は少なくありませんから。「売れてるからいいんじゃないの」と言われそうですが、本当にこの状態でいいのかどうか。ここは、価格高騰についてこれない消費者にはユニクロもGUも無印良品もあると理解すべきなんでしょうかね。私、最近履きやすいスニーカーに目覚めて結果的には良かったのかもしれません。普通のadidasならトッズの値段で5足以上買えますから。(写真は全て2023年12月中国杭州、寧波で撮影)
2024.02.03
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大学を卒業して就職せずすぐに渡米、ずっとフリーランスのライターとしてニューヨークのデザイナー周辺を取材してきた私は日本の役所や役人とは全く無縁、仕事で顔を合わすことはありませんでした。米国商務省の「BUY AMERICAN」(米国製品を世界に売り込む事業)のお手伝いをしていた関係で米国商務省繊維部門マネージャーと数回面談したことはありましたが。帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立に奔走、その事務局責任者になった直後に当時婦人服専門店チェーン最大手鈴屋の鈴木義雄社長の紹介でCFD事務局を訪ねてきた通商産業省繊維製品課渡辺光男課長(みつおの字が間違っているかもしれません)が初めて出会った中央官庁官僚。課長の要請でファッション関係の検討委員会に参加、そこから繊維製品課長やその上司である生活産業局長と面談するようになりました。ファッション繊維業界各団体の責任者らが名を連ねる検討委員会に初参加したとき、弱冠32歳でなおかつ帰国したばかりで日本の業界事情をよく知らない私が発言を許されたのは会議の最後の最後。それまでほかの委員の面白くもなんともない発言に疑問を感じながら、私は2時間じっと我慢して拝聴するしかありません。会議後渡辺課長に直談判、「発言の順番は年齢順なのでしょうか」と。委員会の構成メンバーに30代はおろか40代も見当たらず、ほとんどが50代後半か60代の協会理事長や組合長さんばかり、若輩者は最後の最後というのがどうにも我慢できません。座長が指名する順番ではなく、年齢に関係なく挙手制にしてもらえませんか、と生意気なことを申し上げました。そして次回からは挙手制、私にも早く順番が回ってくるようになりました。その次の次の課長が林康夫さん、のちに中小企業庁長官やJETRO理事長をされた方です。林課長はよくCFD事務局に足を運び、真摯に意見を聞いてくれました。CFDは役所の認可団体でもないみなし法人でしたが、どういうわけか何度も面談、「局長がデザイナー側の声をヒアリングする機会を設けましょう」と岡松壮三郎局長(のちの通商産業審議官、タフネゴシエイターとして日米構造協議で米国側と渡り合ったことで有名)とデザイナーの意見交換会までセットしてくれました。以来いまも年賀状のやり取りをさせてもらっています。林康夫さんCFDとほぼ同時期に東京商工会議所主導で設立された東京ファッション協会事務局メンバーから「通産省課長がわざわざ訪ねていくなんて考えられない。我々は役所に出向く、あんたたちは特別扱いなんだよ」とよくからかわれたものです。この頃繊維製品課は直近の「繊維ビジョン」(わが国繊維産業の方向性を策定した白書のようなもの)に盛られた「ワールド・ファッション・フェア」という大型イベント開催と「ファッション・コミュニティー・センター」という発信拠点を全国に建設する事業の具体化を進めていました。このとき大型イベントや拠点建設よりも人材育成を最優先すべきと私は発言、その流れでCFD事務局でボランティアの塾「月曜会」をスタートすることになったのです。月曜会の様子を見に来てくれた同課員らに当時区役所移転を計画していた墨田区商工部長を紹介され、私は「立派な仏壇を建設するよりもどんな仏様をそこに入れるかが重要でしょ、人材育成を柱にした施設を墨田区につくりませんか」と進言。そして墨田区にファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長だった松尾武幸さんを座長に議論開始、まとまったところで松屋の山中会長に理事長をお願いしてさらに議論を重ねました。言い出した自分が座長にならなかったのは、年齢が若過ぎるから。年功序列社会で若輩が座長では角が立つ、ここは恩師でもある松尾さんにお願いすれば丸く収まると墨田区部長に推薦しました。松尾さんとコルクルーム代表安達市三さんと三人で頻繁に集まり、カリキュラムの構想を練りました。しかし、不思議なことに墨田区戦略会議は解散、議論は通産省繊維製品課に移されて議論再開。このとき墨田区戦略会議メンバーで委員継続を頼まれたのは私一人、区役所レベルの案を国は採用しないという意思表示なんだろうと委員一同受け止めました。そこで、林課長の次の繊維製品課長に面会を申し込み、墨田区が考えた理事長案は却下しないで欲しい、でなければ自分は委員を引き受けないと長時間交渉、山中さんは理事長含みで委員になりました。理事長就任の際「俺のハシゴを外すなよ」と言われ、山中理事長が亡くなるまで私はフルに新設IFIビジネススクールで指導に当たりました。IFIビジネススクール夜間コース終了式、前列中央が山中理事長その後しばらくの間私は役所と完全に無縁に。民間企業2社を掛け持ちで超多忙、ビジネススクールの指導も難しくなり、誰が繊維製品課長や生活産業局長に就任したのか全く興味ありませんでした。それから4年後、ビジネススクール立ち上げでお世話になった業界人から社内中堅幹部研修の講師を頼まれ、そこでもう一人の講師だった繊維課(それまでの繊維製品課)山本健介課長と名刺交換、気がつけば山本さんに乗せられて中小繊維事業者自立支援事業の面接官や内閣官房のコンテンツ事業戦略会議(のちのクールジャパン事業)委員に。山本さんの「お手間取れせませんから」は真っ赤なウソ、目が痛くなるほど大量の申請書類を読むことになり、長時間事業者の面接に立ち会い、最後はコンテンツ会議で4年も委員をすることになりました。これがのちに官民投資ファンド株式会社クールジャパン機構に繋がります。ちょうどコンテンツ戦略会議の議論に加わった頃、繊維課長に宗像直子さんが就任、さっそく会食に誘われました。内閣官房コンテンツ戦略会議でどんな議論をしているのか、そして繊維課に期待することは何かのヒアリング。このとき数多い繊維関連の協会、団体の集約とCFDが担ってきた東京コレクションへの支援の話をしました。宗像さんはすぐに東京コレクションへの支援と新しい受け皿の設立に奔走、日本ファッションウイーク推進機構(馬場彰理事長・オンワード樫山会長)がスタート。この時点で私はCFDに代わる新たなファッションウイークには全くノータッチ、完全な部外者でした。宗像直子さん私がCFDで10年、後任議長久田直子さんの下でも10年CFD自主運営東京コレクションは続きましたが、資金的にそろそろ国の補助や大手企業の援助がなければコレクション運営は継続できそうにない状況でした。宗像さんの尽力で新たな組織が2005年に生まれ、東京コレクションは官民事業のファッションウイーク推進機構が主催者として運営するようになったのです。宗像さんのアパレルやテキスタイル業界への根回しがあったからこそ今日のRakuten Fashion Week Tokyoがあります。現在はRakuten Fashion Week Tokyoに FETICO@Rakuten Fashion Week Tokyo国が主導する事業ですから特定団体や特定のデザイナーだけを支援するわけにはいきません。CFD側からは会員デザイナーを優遇して欲しいという要望がありましたが、国の予算(当初3年間は国から補助金が出る約束)である以上CFD会員デザイナーだけ支援するわけにはいかない。結構ゴタゴタしました。ファッションウイーク推進機構実行委員長だったTSI会長三宅正彦さんから頼まれ、私は2006年10月第3回からコレクション担当理事を引き受け、再び東京コレクションに協力することになったのです。デザイナー有志と共に1985年に立ち上げた東京コレクション、これを新組織で大手アパレルの会長たちが一生懸命世話している様を見て自分が部外者のままでは申し訳ない、それが三宅さんの要請を引き受けた理由です。当然報酬ゼロ、推進機構会費は自腹、こうして18年間ファッションウイークをお手伝いし、若手デザイナー育成に力を注いできました。2011年私が松屋に復帰した直後に東北大震災、原発事故で電力不足、銀座の街は夜真っ暗に。このとき銀座の競合店三越銀座と共に銀座を元気にするファッションイベントを仕掛け、両店共同の銀座ファッションウイーク、そして歩行者天国での屋外ファッションイベントGINZA RUNWAYを企画。でも初の歩行者天国でのファッションショーは警視庁からなかなか許可が下りません。このとき警視庁に何度も掛け合ってくれ、最後は経済産業大臣の協力を引き出してくれたのが経産省に新設された生活文化創造産業課(クールジャパン)の渡辺哲也課長。松屋の販促課長と共に渡辺さんは警視庁に出向き、六法全書を見せながら「どこに歩行者天国でイベントをやってはいけないと書いてあるんですか」と交渉してくれ、それでも許可が下りないとなると経産大臣に相談して警視庁の許可を取り付けてくれました。渡辺哲也さん震災から1年後の2012年3月渡辺課長と課員たちの協力で歩行者天国初のファッションショーを開催。私は課長の計らいで経産大臣に会い「被災地のちびっ子と一緒に大臣もモデルとして参加しませんか」と申し上げ、フィナーレに東北被災地のちびっ子と大臣が手を繋いでランウェイを歩くショーが実現。その日の夕方全テレビ局がニュースで取り上げ、翌日全ての全国紙とジャパンタイムズが写真付きで1面掲載、大きな話題になりました。私自身もたくさん取材され、このことがのちの官民ファンド社長就任に関係します。歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAYコンテンツ事業戦略会議の一員として4年間議論した政策は民主党政権下でも議論が継続され、自民党に政権交代した2013年国会でクールジャパン戦略を推進するため官民ファンド設立が可決されました。そのときは委員でもなんでもないので国会で新会社設立が決定とは全く知りませんでした。そして8月米国西海岸市場視察に出かけたちょうどその日、経産省商務情報政策局富田健介局長らが松屋の秋田正樹社長を訪ね、新設するクールジャパン機構社長に私を指名したいとびっくり仰天の話があったのです。富田局長は私をお役所の委員に引き摺り込んだ山本健介さんの同期、何人かの社長候補者に断られたのかもしれません、私は最後の頼みの綱だったのでしょう。松屋に復帰して楽しく仕事をしている上に投資の世界には全く興味なく、正直「なんで俺なの」でした。秋田社長は総理大臣の安倍さんとは祖父、父と三代続きの深い関係、秋田社長に頼みやすかったのかな。帰国して秋田社長と相談、会社として正式に引き受けることになりました。クールジャパン機構開所式のミナペルホネン2013年11月に発足したクールジャパン機構(正式には株式会社海外需要開拓支援機構)には経産省と財務省からそれぞれ数名出向、社長の私を補佐してくれました。5年間社長を務めましたが、任期の最後に経産省から出向してきた若い役人がユニークな熱血漢でした。ある事件があってその解決を先輩から引き継いだ新任はある日突然坊主頭で出社、どうしたのと訊ねたら「先方に誠意を見せるため頭丸めて交渉に行きました」。着任する前の事件、彼に責任はありませんが、自らの判断で坊主頭になって当事者を訪ねたのです。なかなかできることではありません。私が正式に社長退任を発表した夜、私は彼だけ連れて食事に出かけました。部下を坊主頭にさせてしまった上司として最後に美味しいものをご馳走せねばと思ったから。赤坂の寿司店から西麻布の居酒屋をハシゴ、たまたま2軒目に居合わせた前ヨウジヤマモト社長大塚昌平さんらと一緒にかなり盃が進みました。その佐伯徳彦さんは西海岸での勤務も経験し、今回の人事異動でなんとクールジャパン戦略及びファッション政策を所管する課長に就任。この熱血漢には課長在任中にクールジャパン関連事業が世界市場でしっかり旗を立てられるよう頑張って欲しいです。佐伯徳彦さんフリーランスで役所や役人には無縁だった私でしたが、気がつけば熱い官僚たちと共にファッションでもクールジャパンでも仕事する立場になっていました。クリエーションが重要な柔らか産業に従事しているのに不思議なもんです。
2024.07.09
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高校3年の秋、にわか受験勉強でどうにか大学入試にパスした私は、大学に入ったら真面目に勉強しようと決意して上京しました。しかも昼間は大学で経営学を、夜間はオヤジが教鞭をとったことがある西新宿の紳士服専門学校、ダブルスクールでしっかり学ぶつもりでした。ところが、入学して数日授業に出たら明治大学和泉校舎は突然学校封鎖に。キャンパスを封鎖占拠する首謀者は上級生なのか、それとも外部の過激派なのかわかりませんが、校門には「当分の間休講」の告知、一般学生はキャンパスに入ることさえ許されませんでした。現在のようにスマホやメールはなく、いつ授業が再開されるのかさっぱりわかりません。たまに出かけては「まだロックアウトか」とあきらめて帰ってくる日々の繰り返し、なんとも空虚な時間を過ごしました。ロックアウトは1年間続き、学年末まで授業はなく、進級はレポート審査。講義を受けずとも単位がとれ、翌々年も完全ロックアウト、「授業料返せ」と言いたくなる状況でした。勉強するつもりで上京したのに学校に足を踏み入れることも許されない、やる気はなくなります。そこで学校の枠を超えて学生ファッション研究会設立、マーケティング調査をして原稿を書いたり、企業の広報担当と共に記者会見でデータ分析を発表、私の心は完全に大学から離れていきました。2年間のロックアウト、結局大学時代に講義を受けたトータル日数は60日くらい、大学数え歌にもある「何も勉強せず卒業して世に出て恥かく〇〇生」そのものです。その代わり独学でマーケティングを勉強、学生時代にたくさん原稿を書いてファッション流通業界に発信しました。学校には来ないでマスコミにはたびたび登場、卒業時には大学教務課の職員さんに嫌味を言われました。そんなわけで明治大学OBと言われるととても恥ずかしい、後輩学生に講義する場面では本当に申し訳ないと思ったものです。が、幸運にもファッション流通業界で活躍する大学OBの先輩方にはかわいがってもらいました。この交友録第1回目VAN創業者の石津謙介さんをはじめ、紳士服業界の重鎮だった中右茂三郎さんには「私の最後のかばん持ちになるかね」と誘ってもらい、ファッションコーディネイターのはしりだった髙島屋の今井啓子さんにも親切にしてもらいました。ここでは、今井啓子さんについて触れます。今井啓子さんとは、私が大学卒業してニューヨークに渡った直後ボストンで初めてお会いしました。明治大学卒業後今井さんは文化出版局に就職してファッション雑誌編集の仕事に携わり、そののちに早くから男女均等雇用に熱心だった高島屋に転職、正社員のファッションコーディネイターとして活躍しました。確か今井さんが課長職の頃だったでしょうか、ボストンの老舗百貨店ファイリーンに短期研修の機会を得ます。渡米したばかりの私はボストンに飛び、ハーバード大学の真ん前にあったホテルに長期滞在する今井さんを訪ねました。彼女の部屋で長く話し込み、深夜に今井さんが日本から持参したインスタントラーメンを作ってくれたのを覚えています。そのとき、「ハーバード大学に通っている学生たちは特別優秀という感じがしないのよ。私だってハーバードで勉強できるような気がする」、近い将来留学で戻って来たいとおっしゃる。流通業界でもうかなりキャリアを積んだのに留学構想、米国に戻ったときすぐ普通に生活できるよう現地銀行アカウントをそのままにして帰国されました。数年後高島屋を退職し、あの頃は新分野だった「ウェルネス」を学ぶために再渡米、ハーバードではなくその分野を学ぶためニューヨーク大学に留学。それなりの大人年齢なのに初心に帰って新分野を勉強するなんて私には到底真似のできないこと、凄いです。そして、ウェルネスの勉強を終えて帰国した今井さんは、資生堂の新しいウェルネス事業部に迎えられます。当時資生堂福原義春社長と今井さんのつながりもあったのでしょう。そのつながりとは、1977年資生堂が開催した「6人のパリ」というファッション業界に大きなインパクトを与えたファッションイベント。当時パリでデビューして間もなかったクロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー、ジャン=シャルル・ド・カステルバジャックらフランスの若手デザイナー6人を招聘、日本各地で合同ショーを開きました。このとき資生堂の担当部署責任者が福原さん、デザイナーの人選や参加交渉を頼まれたのが今井さんと彼女の元同僚だった文化出版局パリ支局編集者たちでした。髙島屋が当時絶大な人気を誇っていたソニア・リキエルとの導入交渉で西武百貨店と激しく戦ったのも、ティエリー・ミュグレーと自社ブランド提携を結んだのも、早くからアズディン・アライアのインポートを始めたのも、文化出版局パリ支局の仲間から現地情報が今井さん周辺に届いていたからでしょう。こんなことがありました。天才イラストレーターだったアントニオ・ロペスとの面会直後(ロペスと今井さんのつながりも文化出版局ルートのはず)、今井さんとマンハッタン東59丁目を歩いていたら、ディズニーアニメ映画に登場する魔女のような風貌の赤毛女性がこちらに向かってきました。パリのソニア・リキエルご本人でした。すると今井さんは私の背中に隠れたのです。パリで提携交渉を進め、帰国したらすぐに上司の了解を取って連絡すると約束したものの社内コンセンサスに手間取ってすぐには連絡できず、結局西武百貨店が独占導入の契約を結びました。今井さんは「ソニアに合わせる顔がないの」と隠れたのです。ニューヨーク大学から戻って資生堂のウェルネス事業部で新しい仕事を始めた今井さんでしたが、資生堂ザ・ギンザを設立時から仕切ってきた殖栗昭子さんが退任したため、福原さんからザ・ギンザのケアを頼まれ、再びファッションの世界に復帰しました。ファッションショーなどで今井さんと顔を合わすたび、「在庫を整理するのでしばらく新しいことができないの。何やってるんだと思わないでね」と何度も言われました。ザ・ギンザはパリ、ミラノのトップデザイナーブランドをたくさん扱う高級セレクトショップ、ブランドのラインナップは素晴らしいけれど高価な商品だけにどうしても在高は増えます。体制が代わり、今井さんたちはまず方向転換の前に在庫の整理に追われ、数シーズンは我慢のときでした。「ザ・ギンザで何やってるんだ」と言われたくなかったのでしょうね。ようやく在庫の整理も終わり、これから攻めに転じるというタイミングで銀座7丁目本店の改装計画があり、「改装後のMD方向性を一緒に考えてくれない」と頼まれました。私は近隣のザ・ギンザ既存店をいくつかまわり、これからの時代どういう路線でいくべきなのかをレポートにまとめて今井さんに提出しました。それから数ヶ月後私は松屋銀座に転職。銀座中央通り松屋の斜め前にはデザイナーブランドを集めたザ・ギンザの支店がありました。近隣OLに受けそうな価格のこなれたインポートブランドを集めていましたから、松屋もファッションを軸に大きな改革をしてザ・ギンザ4丁目支店の顧客層にも来店してもらえるMDプランを考えよう、と婦人服バイヤーやファッションコーディネイターたちに呼びかけました。今井さんに頼まれてレポートした自分が今度はザ・ギンザ支店と張り合うようになるとは想像していませんでした。その後今井さんはザ・ギンザを退職、ユニバーサルデザイン協会の会長に就任してウェルネス分野での活動を再開しました。最後の仕事として華やかなデザイナーファッションの世界ではなく、地道なユニバーサルデザインの啓蒙を通じて社会貢献をしたかったのでしょう。いかにも学究肌で真面目な今井さんらしい選択ではなかったかと思います。こういう生き方は私には真似できませんが、大先輩にはただただ敬意しかありません。
2022.11.28
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あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。松下弘さん(故人)織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。1988年秋冬テーマ「エスニック」そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。ほかには「掌の中におさまるドレス」のキーワードから、超薄手のジャージーやポリエステル地ファブリックで透け透けのコレクションが発表されたシーズンのこともよく覚えています。1993年春夏コムデギャルソン80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。2003年秋冬ヨウジヤマモトそれから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。
2023.01.21
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