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2005年10月06日
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心が荒んでると言うか、ゆとりがないっていうか、底辺でうごめいているゴミ仲間達なんて所詮はこんなものなんでしょう。
金、地位、名声、どれもが貧乏人の憧れです。
そんな餌を目の前にぶら下げられれば誰だって手を伸ばすのは仕方ないことでしょう。
もともとは道楽者が始めた道楽なんですが、世間一般で認められるというか注目を集めてしまうと、自分が単なる道楽者に過ぎないと言う大前提を忘れてしまうのですね。

皆の思惑が錯綜した「新宿ディスコナイト」は1978年12月に発売となりました。
そしてこの記念すべき日本フォノグラムからのリリースを前にして、ムラちゃんと委員長のバンドごっこは崩壊したのです。
本来ならば二人でこの喜びを分かち合うべきだったのですが、ムラちゃんは11月でトゥモローUSAを辞め皆の前から姿を消しました。
ムラちゃんが委員長と袂を別った後、何故か委員長の周りの人間は一様に口を揃えて「それは良かった」と言ってきました。

どうも一般的に見て、周りでの彼の印象は怪しかったようで、「ロニーがうまく利用されている」というような見方をしているようでした。
でも所詮二人の関係は二人にしか解らないので、委員長はこの後ムラちゃんについての一切を語ることを止めました。
肯定的なことも否定的なことも、いずれにせよ真実は二人の心の中にしかありません。

もうひとつだけ「新宿ディスコナイト」に関わるお話をしておきます。
正式にメージャー・リリースされたレコードのジャケット・イラストは委員長が描いたもので、アフロした子供が両手を開いて立っていて、その回りにゴチャゴチャと妙な漫画が散りばめてあります。どことなくエモリさんの絵に似てますね。パクリといえばパクリですが、これは「悪ガキ」のイタズラって意味があります。BAD CHILDRENの象徴ですね。

歌と演奏は「やまと」となっていますが、実際にはバンドなんか初めからなかったし、かといってまさかアッちゃんの顔写真載せるわけにもいきませんでしたから、イラストのジャケになることは当初から決まっていたようなものでした。
でも、正直言って日本フォノグラムのディスコ系イラストジャケットって、どうも今ひとつセンスがないっていうか、絵に可愛げがなかったんですね。
そんならロニーの漫画にしようよ、って皆が言ってくれて描くことになったんです。

それでアイディアを考えているときに例のゴタゴタが始まりだしていて、ムラちゃんはもうやたらと日本フォノグラムに対して鬱憤が溜まっていたのか、委員長は始終悪口ばかり聞かされていました。
それなら思い切りふざけた絵を描いちゃえってことであの絵が出来たんです。
その時点ではまだムラちゃんとのパートナーシップが生きてましたから、俺達が作ったモノを皆で寄ってタカって金儲けに使われてたまるか、みたいな自意識過剰理論で突っ張っていったんですね。

ムラちゃんの言うように金儲けに利用するつもりなら、あんな誰が見てもふざけたジャケを使うわけありませんよね。レコジャケって結構アイキャッチで重要なポイントですから、まともなプロデュサーだったらまずボツでしょう。

そういったわがままを聞いてくれた渡部氏は、委員長たちに色々なチャンスを与えてくれていたんですけど、その当時はもうすっかり舞い上がっちゃってますから、そんな奥行きのある考え方はできなかったわけです。
ということで、結局全てが中途半端なモノになってしまいましたが、まああれはあれで良かったのかなと思っています。(中途半端な道楽だったからね)

さて、1978年も押し迫ってきた頃、高円寺亀屋マンションにC子と同郷のシンジと高○が委員長を尋ねてきました。
静岡県清水市出身の彼らは幼馴染で結成されたバンドをやっていて、まあどこにでもある話ですが東京で一旗上げようとやってきていたのでした。


とはいうものの、相談されたからと言って委員長には役に立てるほどの地位も名誉もありませんから、せめて知り合いにデモテープでも回して売り込むくらいのことしかできません。そんな話をしているうちに彼らは、とにかく一度でも大手にデモを聞いてもらえればケジメがつくということになり、それならやるだけやってみようかということになりました。

バンド名は「ばびぶべぼうず」。
預かったデモは「ロングトール・サリー」と「ひみつのアッコちゃん」。
いわゆるロックンロール・バンドですが、本人たちはコミック・バンド系のウケを狙っていて、テレビアニメのひみつのアッコちゃんのエンディング・ナンバーをアレンジして演奏していました。

アッコちゃん来たかと団地のはずれまで出てみたが~(ハー、どしたアッコちゃん)
アッコちゃん来もせず用も無いのに校長先生が~(ハー、ハー、勉強しろ!)

ってな調子のおふざけソングでした。

C子の手前もあるし、取り敢えずはどこかのレコード会社に持っていってみるしかないだろうなぁ、ってことでジュリーに相談してみると、丁度良いタイミングでDJの小林克也さんがバンドを探してるという話を聞き、早速デモを持って会いに行くことになりました。

「う~ん、この程度のギャグじゃつまらないし、腕のほうもこれじゃもうちょっと練習しなきゃ無理だね」

あのMCの声と口調であっさりとボツ。(まあ、当然といえば当然ですね)
一緒に行ったシンジとヴォーカルのトモミも、あまりにもあっさり言われてしまったせいか、落ち込むと言うよりは恥ずかしかったようでした。
特にデモのもうひとつの曲、ストレートなR&Rの「のっぽのサリー」はリトル・リチャード張りのトモミのヴォーカルに対して「ベイビー」の英語発音の悪さを指摘されるなど、本人たちにとってみればプロからの手厳しい言葉にぐうの音も出ませんでした。

ということで、清水の青年団バンド「ばびぶべぼうず」はいよいよ解散を迫られることとなりました。
それはそれとして、こうして縁が出来たのだから今後もよろしくお願いします、ということでシンジ、トモミは亀屋マンションにちょくちょく遊びに来るようになりました。
そんな年の瀬でしたが、ここでまたまた新たな展開を迎えます。
トゥモローUSAの下、東宝会館6階にあったパブ「青春の館」が潰れて、これをUSAの小林社長が買い取って新たなディスコを作るということになったのでした。

ディスコ「ワンプラスワン」の誕生です。

小林社長の企画では、ワンプラスワンはちょっと大人向けの店にするということでした。
早速改装工事に入ると共に、新たなDJを雇うためにチーフDJのジュリーに声がかけられオーディションが行われることになりました。
といっても結局はジュリーの身内を入れることが決まっていたのですが、この頃からジュリーとロニーのコンビも復活し、一応は二人で審査をするという大そうな演出が仕組まれました。

オーディションにやってきたメンバーは、当時新小岩でシコシコとジュリーの鞄持ちのようなことをしていた花見キョン、創価大学学生のサム岡田、福島県仙台のディスコからジュリーに引っ張られたというヒロシ、これに加えて委員長はシンジとトモミを連れてきて受けさせました。
既にジュリーはサム岡田とヒロシは決めていたようですが、この時のトモミの声が良かったのと、委員長に多少は花を持たせようと思ったのか、この3人が最終で残りました。
ヒロシとトモミはワンプラスワンの専属、サム岡田はUSAの見習いとワンプラスワンを担当させることになりました。

ムラちゃんという人身御供によってか、トゥモローUSAのDJグループは委員長とジュリーを中心に再結束を固め、本格的な業界での活動を模索し始めたのでした。
後ろ盾には日本フォノグラムの渡部ピカイチ氏が付き、フィリッピン人のリトや黒人ジョーなどとの関係も更に深まり、各自の思いも新たに1979年を迎えたのでした。





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最終更新日  2005年10月06日 07時11分24秒
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