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最近は非生産的な行為を円滑に行うための生産性、あるいは生産効率などに思いを馳せる委員長であります。
無償の行為=非生産活動を続けるためには、社会的生産活動を行わなければならないという本質的矛盾に敢然と立ち向かう非生産活動推進委員会こそがニッポンの未来、いや世界の未来を変える唯一の組織であると信じております。(てか、言ってる本人も自分の言ってることがよくわかっておりませんが)
まあ、簡単に説明するとNPO(非営利団体)も資本によって動いているということですね。
ということで、前置きとは全く関係なく本日は非生産活動推進委員会ならではのヘリクツ哲学編です。
え~、今日はちょっと趣を変えて男女の追い求める幻影についてノーガキをばコカせて頂きます。
私の持論でありますが、人間の営みの根底にあるのは生殖活動でありまして、突き詰めて言うならば遺伝子によって「体」はコントロールされているというものです。
ウケ売りはリチャード・ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」とか、竹内久美子さんの「そんなバカな」などの著作でございますが、人間という生物の生存目的は遺伝子の存続=生殖活動が起動力となっていることはまず疑いのない事実だと思います。
「利己的な遺伝子・改訂版」
http://item.rakuten.co.jp/book/4032279/
「そんなバカな」
http://item.rakuten.co.jp/book/644284/
ですから、人間の生活とは究極的に「生殖行為」のためにあると言えます。
最近は種の存続以外の擬似生殖行為なども氾濫しておりますが、同性愛に代表される非生産行為は今に始まったことではなく、人類の歴史と共に随分と昔から行われてきた独自の生態でもあります。
このテーマもヘンタイ、(ゴホン!いや失礼しました)大変興味深い内容ですが、今日のテーマからは少々外れますので、また別の機会にお話しさせて頂きます。
さて、遺伝子にコントロールされた男女の身体は、お互いの種の存続、繁栄のための生殖活動を求め、無意識のうちに磁石のように引き合い、次々と生産活動を執り行うのですが、ここでひとつ厄介な問題が生まれてきます。
遺伝子の存続を目的とするならば、必然的に自身の遺伝子をできるだけ生存能力の強い相手、あるいは生存が見込まれそうな相手を選んで増殖を開始するわけで、これには外的要素も無意識のうちに充分に考慮され、家族構成、社会的環境、先天性体質なども微妙に加わるのですが、基本的に数多くの生殖機会を求めるということもひとつのセオリーであるわけです。
ここで男女の大きな違いが現れます。
女性は出産という最終目的がありますから、生殖後の本能としてディフェンスに入ります。
1回の生殖で行える増殖は1回ですから必然的に遺伝子を守ることが生殖後の母親としての存在理由になります。逆に男性の場合は自身の生殖能力がある限り、できるだけ多くの生殖行為を行って遺伝子の増殖と存続を目指します。
まあ、このあたりの話はごく一般的なものですが、遺伝子が受け継がれた後、いわゆる自分達の遺伝子を受け継ぐ跡継ぎが生まれた後も、実は目に見えぬ本能が働き、遺伝子の存続のための実生活上の複雑な行為が存在するのです。
例えば、極端な話になりますが、貧困状態に置かれた同種の兄弟姉妹は、ごく自然な形で一番生殖能力の高い種を後継者として選び、存続のための環境を作り出していきます。時には実の親が一人の後継者を残して、他の子供を抹殺するなどと言うことも起こりえるわけですね。(もちろん動物にこのような行為はよく見られます)
ここにも生産効率という図式が当てはまります。
また、よく爺ちゃん婆ちゃんが孫を異常に可愛がるという行為にもこのような図式が当てはまります。そりゃなんてったって遺伝子存続の最先端に位置するのが「孫」の存在ですから、この遺伝子を守るためなら恥も外聞も無くディフェンスに回るのが生殖の役目を終えた一般的人間の生きる道です。
さて、このテーマは奥行きがありすぎて多方面に飛躍しがちなので、今日のテーマはこの生殖活動の原動力ともなる「快感の追求」に絞り込みます。
男はとにかく自身の遺伝子を数多く残すことが存在目的としてありますから、できるだけ生存能力の強そうな女性を見つけては遺伝子を注入して回ります。
これも小さな集団で考えると合理的な生理として納得のいく行為です。
よくいわれる一夫多妻による生殖行為は、受け継がれた遺伝子を持つ子孫同士が生存競争を繰り返して、生き残った強い遺伝子が時代へと受け継がれる、といった具合により優れた遺伝子として淘汰させる合理的なシステムでもあります。
戦国時代のような昔ならば、大変わかり易い殺し合いという形で生存競争が行われます。現代に至っては、直接的な殺人行為こそありませんが、家庭内暴力だとか、イジメだとか、テレクラとか出会い系サイトとか(笑)色々なカタチに変えて行われている行為でもあります。
ちょっと脱線しましたが、では生殖行為自体を促す「欲求」としての性欲は何から育まれていくのでしょうか。
それが「快感」であるわけですが、この快感は男女で描く本能的イメージが正反対に位置しているのです。
男性の場合は過去の「快感」の増幅あるいは復元であり、過去体験した素晴らしい快感を追い求める原理によって生殖行為が触発されます。
あの素晴らしい快感をもう一度
男は常に過去に体験した最高の快感の再現が願望としてあるのです。
では女性の場合はどうかというと、前述したとおり、種の存続に関わる出産は一回に付き一度という制限がある上に、存続が完了した時点で「快感」を誘発する前に種の保護が先立ちますので、一回毎の使い捨て「快感」となります。
したがって、女性は常に新しい快感を求めて次のステージへと進んでいきます。
え~、この道楽者理論に当てはめて男女の「別れ」を考察しますと、非常にわかり易いパターンが見えてきます。
女が男と別れる場合、ほとんどが永遠の訣別、復縁などはもっての外、まず過去は引きずりません。原則的に女は別れた男とは二度とヤラないのです。
快感理論で言うと、もうこの男から得られる快感には見切りが付いたので、次のステージへ進みたいという潜在的な願望が具体化されます。
ところが男の場合、ほとんどが過去の余韻を引きずっていますし、復縁あり、思い出の中に快感を備えております。(笑)
これは快感理論で言うところの、色々試してみたけど、やっぱりあの快感に勝る女はいなかった、というような母胎回帰的願望を常に抱いております。
わかりやすく言えば、女の場合は常に新しい快感を求めて男を比べていくのに対して、男は常に過去の快感との比較で女を求めていく、といったところでしょうか。
そう考えると、やはり女性の快感追及の欲求は男のそれに比べてかなり貪欲なものであるように思えます。男なんてのは所詮勃起してなんぼ(ゴホン、失礼しました)、結局は種馬みたいなもんですから、その単一的かつ直線的な一瞬の快感のためにせっせと暮らしているわけで、生殖能力が減退すれば、それはもう男としての価値がないように思え萎縮する、非常に繊細な動物のような気が致します。(意外と情けないよね)
それに比べると女の快感は分散的広がりを持っているので、未だ知らない「快感」がいくつも存在し、それを知るたびに更に奥行きを増していくのです。(ふ~ん)
昨今はバイアグラなどという妙なクスリのブレイクで多少は幻影としての過去の快感を追うジジイも増えておりますが、裏を返せば、なんだかんだ言った所で「立たなきゃダメ」とはっきり言われてしまったようなものですから、いくら虚勢を張って「男」を掲げてみたところでシンボルが掲げられなければ「男」じゃないということですね。(笑)
世のジジイたちはこの事実を何とか隠蔽するために、哲学だの政治だの学問だのといった屁理屈でゴマかしてきたわけですが、みんなそろそろ正直になりましょう。(えっ?)
そして世の女性たちは、このように実は繊細な男心(というか小心者?)を理解して、あまり高望みせず身近な快感で満足しましょう。(えっ?)
絶倫とは人間が創り出した妄想です。(ドッカーン!)
松任谷由美さんも歌っております。
男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる
男と女の追い求める幻影は絶対に交わらないのかもしれませんね。