私たちは日常の中で、命に対して複雑な態度を取っています。人間の死は最大限に尊重され、葬儀や供養といった儀式を通じて「尊厳ある存在」として扱われます。一方で、動物の命はどうでしょうか。ペットは「家族」として愛され、亡くなれば葬儀や供養まで行われることもあります。しかし、同じ動物であっても家畜は「食料」として育てられ、命を奪われることが日常の営みの一部として受け入れられています。この差に、私はどうしても矛盾を感じてしまうのです。
宗教や文化の多くは、人間の命を特別視してきました。理性や言語を持ち、社会を築く存在として、人間は他の生き物よりも「高次の存在」とされてきたのです。仏教でも「人間に生まれることは稀で尊い」と説かれ、キリスト教では「神に似せて創られた存在」とされます。こうした思想は、法律や社会制度にも反映され、人間の命を最優先に守る仕組みが整えられています。
しかし、ペットと家畜の扱いの違いを考えると、命の価値は単なる「序列」ではなく、私たちの感情や文化的背景によって大きく左右されていることが分かります。ペットは日常的に触れ合い、愛情を注ぐ対象だからこそ尊厳が認められます。一方、家畜は「資源」として距離を置かれ、感情的なつながりが希薄なため、命の重みが軽く見積もられてしまうのです。これは合理的な理由というより、私たちの心の持ち方の違いに過ぎません。
哲学者ピーター・シンガーは「種差別(speciesism)」という概念を提唱し、人間が自分たちを優遇し、動物を劣った存在として扱うことを差別だと批判しました。彼は「苦しむ能力」を倫理の基準とし、人間も動物も同じように苦しみを感じる以上、その命の価値に絶対的な差はないと説きます。仏教の「一切衆生悉有仏性(すべての生き物に仏性がある)」という教えも、同じ方向性を示しているように思えます。
私たちが「人間の死は動物の死より重い」と考えるのは、文化的にも宗教的にも自然なことかもしれません。しかし、その前提を疑うことは、命に対する感受性を広げるきっかけになります。ペットと家畜の命の扱いの差に矛盾を感じることは、決して無意味ではありません。むしろ、その違和感こそが、命をより包括的に尊重する倫理観を育む第一歩なのです。
命に序列をつけるのではなく、すべての命が持つ「苦しみ」「喜び」「存在の意味」に目を向けること。そこから、人間中心の価値観を超えた新しい倫理が生まれるのではないでしょうか。
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いや、まぁ、最近はね。人間も葬式しないこと増えたよね。
なんかさー「いただきます」を英訳できないのって、つまりは宗教観が違うからなんだよね。
そういうことなんだけどね。
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