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クロニクル 昭和の岩窟王に無罪判決 1963(昭和38)年2月28日54年前になります。この日、名古屋高裁は、昭和の岩窟王と呼ばれた吉田石松翁の再審裁判に無罪を言い渡し、裁判所としては異例の行動でしたが、司法界の先達による誤った判決で迷惑をかけた旨を深々と詫びました。吉田石松翁が、無期懲役に処せられた事件というのは、1913(大正2)年に名古屋市の路上で起きた、繭小売商の殺人強盗事件です。翌日2人の犯人が逮捕され、この2人の供述から吉田石松(当時34才)氏が主犯として逮捕されました。吉田氏は頑強に犯行を否認し、いかなる拷問にも耐え、無罪を主張し続けたのですが、当時の自白偏重の警察は、吉田氏の主張に耳を貸さず、2人の供述を信用して3人を起訴しました。一審の名古屋地裁は、検察の主張を全面的に認め、吉田氏に死刑、他の2人に無期懲役の判決を言い渡しました。吉田氏は控訴しましたが、控訴審で死刑が無期懲役に変更されただけで、その後の上告審でも無期とされ、吉田氏の有罪が確定したのです。納得のいかない吉田氏は、アリバイを主張して、戦前に2回再審を請求しましたが、2回とも門前払いされました。1935(昭和10)年に、秋田刑務所長の計らいで、ようやく仮出所を許された吉田氏は、協力してくれた新聞記者の尽力で、先に出所していた2人の所在を突き止め、2人に「虚偽の自白をして迷惑をかけた」旨の、詫び状を書かせることに成功します。この詫び状を添えて、3回目の再審請求を行ったのですが、司法の誤りを認めたくない裁判所は、ここでも門前払いの態度を変えず、再審請求は受理されませんでした。まさに日本の暗黒時代を象徴するような出来事でした。2人の詫び状から、吉田氏主犯説は、自分達の刑を軽くするための虚偽自白であることが、明らかになっていたのに、司法はそれを受け付けなかったのです。明らかな冤罪事件であるのに、司法は頬かむりを決め込んだのです。問題は戦後もなお長期にわたって、これほど明確な証拠のある再審請求が受け付けられなかったことにあります。何しろ無罪判決が出たのは、戦後も18年を経過した1963(昭和38)年の今日だったのですから…。吉田翁は、戦後も7年を経過した1952(昭和27)年頃から、自身の無実をマスコミや弁護士などに、ポツリポツリと訴え始め、1958(昭和33)年に4回目の再審請求を起こしました。今度こそというところでしたが、なんと名古屋高裁は、ここでも再審開始を認めませんでした。司法の無謬性に拘る裁判所の姿勢の前に、とりわけ戦前の遠い事件での再審の扉を開けることには、なお大きなハードルがあったのです。ことここに至って、吉田翁は弁護士の勧めによって、時の法務大臣への直訴を思い立ちます。法相には会えなかったのですが、対応した法務局の課長は、日本弁護士連合会への紹介の労をとってくれました。ここにようやく弁護士界の足並みが揃い、マスコミもまた無罪を訴え続ける吉田翁を、昭和のエドモン・ダンテス(アレクサンドル・デュマの名作『モンテ・クリスト伯』の主人公)、昭和の岩窟王と名付けて、支援に乗り出したのです。こうして、吉田翁は1960(昭和35)年の6月に、5回目の再審を請求しました。名古屋高裁4部は、ようやく重い腰を上げ、再審請求を受理したのですが、ここで検察がなお無謬性に拘って異議を申し立て、またまた行方は迷走することになりました。最高裁が間に入って、検察の異議を却下したことで、ようやく再審が決定し、審理が始まったのは1962(昭和37)年のことだったのです。事件の発生から、なんと49年目、吉田翁の仮出所から27年目のことでした。事件から50年の歳月を経て、ようやく吉田石松翁の無実が認められ、翁の名誉は回復されました。しかし、青天白日の身となった翁に、残りの人生は、もうあまり残されていませんでした。翁は、同年12月、老衰で84年の生涯を閉じたのです。高裁の3人の裁判官が、判決文の中に、異例のお詫びを挿入したことが、吉田翁にとって、せめてもの慰めであったと言うべきでしょうか。
2017.02.28
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クロニクル 日本万博に初参加1867(慶應3)年2月27日世界万国博覧会は、1851年のロンドン万博が最初です。ヴィクトリア女王の夫君アルバート公を会長に、現在のハイドパークで開かれました。第2回は1855年パリで開かれています。ここに記した1867年万博はパリで開かれた2度目の万博でした。この時の日本は、まさに幕末の大動乱の真只中にありましたが、徳川幕府は、時のフランス皇帝ナポレオン3世の熱心な勧めを受け入れ、将軍慶喜の弟、徳川昭武を全権に各地の名産品を出品しました。とりわけ人気を集めたのが日本茶屋で、3人の芸者さんによる茶の接待が、大評判になりました。また幕府とは別に、薩摩藩が藩旗を掲げて、薩摩琉球国として参加しています。渋沢栄一(幕府)や森有礼(薩摩)も、この時の万博代表団に加わっています。 ちょうど150年前のことでした。
2017.02.27
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クロニクル イギリスの原子爆弾1952(昭和27)年2月26日65年前のこの日、イギリス政府は、自国が原子爆弾を保有している事実を公表しました。ここに、アメリカ合衆国、ソヴィエト連邦に続いて、イギリスが第3の核保有国となったことが明らかになりました。そして、この頃から米ソ2大国による核兵器開発競争が熾烈となり、核軍拡が世界に核戦争の恐怖を募らせていきました。
2017.02.26
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クロニクル マルコス亡命1986(昭和61)年2月25日31年前のフィリピン革命の話です。 コラソン・アキノ氏を首班とする臨時政府が成立した翌25日、ピープルズ・パワーの大波は、遂に大統領官邸のあるマラカニアン宮殿に及びました。 この日午前、NHKのカメラが宮殿に入り、死に体と化したマルコス大統領のインタビューを放送しようとしていた瞬間にも、事態は急を告げ、カメラが回しっぱなしになっている中へ、マルコス派の将軍がやってきて、大統領に武力鎮圧命令を出すよう説得に努める様子と、抵抗をすっかり諦めたらしいマルコス大統領が、その説得に応じようとしない姿が世界に放映さました。 11時頃、突然映像が途切れ、どうやらこの瞬間に革命派がテレビ局と官邸を征圧したらしい事が,テレビ画面に釘付けになっていた我々にも、生々しく理解できたことが、強烈な印象として、いまだに脳裏に焼きついています。 結局マルコス氏は米国に亡命、ピープルズ・パワーは見事に勝利したのです。以下、簡単にフィリピン革命の流れを記しておきます。フィリピンでは、この年2月14日に大統領選挙が行われ、国会での集計の結果、不利とされたマルコス大統領の当選が発表されました。この発表に対し、国民各層から不信の声があがり、大幅な不正操作が行われたことが予測されるとの疑惑が次々と指摘されました。 こうして、国民の不満が大きくなる中、22日エンリレ国防相とラモス司令官らが、マルコス大統領の辞任を要求して兵営に立て篭もり、市民がこれに呼応して、大統領官邸はデモの人波に十重二十重に取り囲まれたのです。 この現象はピープルズ・パワーと名付けられ、市民の声がフィリピンの政治変革を促したのです。ここにコラソン・アキノ候補(実際は選挙で多数票を獲得していたことは、後の調査で明らかとなります)は、この日の前日24日に、エンリレ氏やラモス氏と会談して協力を確認、臨時政府を発足させたのです。
2017.02.25
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クロニクル どこの誰かは知らないけれど…1958(昭和33)年2月24日>どこの誰かは 知らないけれど 誰もがみいんな 知っている 月光仮面のおじさんは 正義の味方だ 良い人だ…<この歌ご存知でしょうか。そうです「月光仮面」の主題歌です。現在のTBS(当時は東京放送)系で放映されたのですが、その記念すべき第1作が、59年前の今日放映されました。川内康範原作、大瀬康一主演の「月光仮面」は、子ども達に熱狂的に支持され、平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%(東京地区)を記録する人気番組となりました。しかし、、月光仮面の真似をして子供が高い所から飛び降りて怪我(または死亡)をする事故が続発し、新聞や週刊誌から有害番組だと批判を受けるようになりました。そのため残念ながら、1959年7月5日をもって放送は打ち切られることになりました。、最終回の視聴率は42.2%(東京地区)と記録されています。
2017.02.24
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クロニクル 石橋内閣総辞職1957(昭和32)年2月23日60年前のこの日、前年12月23日に成立した石橋内閣が総辞職しました。石橋湛山首相が皇居での認証式を済ませて、間もなく病に倒れ、国会で新首相の所信表明演説も出来ず、首相の長期不在では予算審議もままならないため、この日辞職を表明するに至ったのです。戦後の歴代首相の中で在任日数が最も短いのは、ポツダム宣言受諾後の東久邇宮稔彦内閣を例外とすると、羽田孜内閣でなのですが、石橋首相の在任65日は、それに次ぐ短命内閣でした。石橋首相の辞任表明は、首相臨時代理の岸信介副総理が代読したのですが、「予算案審議という重要案件に、首相が病気療養で出席できず、答弁も出来ないのでは、国会と国民に申し訳がたたないので、辞任を決意した」という文言は、野党幹部にも大きな共感を呼び、当時社会党の浅沼稲次郎書記長は、「政治家はかくありたい」と語っています。石橋首相の辞任は、在任期間の短さだけではなく、国会答弁や国会での演説が1度もない点で、大変珍しく、この記録を持つのは、戦後の首相では、石橋首相だけなのです。ご本人の無念はいかばかりだったでしょうか。この石橋氏を政治の師と尊敬し、石橋氏の薫陶を受けたのが、ロッキード事件時の首相,三木武夫氏です。
2017.02.23
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クロニクル フロリダ購入1819(文政2)年2月22日198年前のことです。江戸時代後期の天保の改革の少し前です。この日、アメリカとスペインの間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、北米大陸における両国の国境が画定しました。その一つが、スペインが合衆国にフロリダを500万ドルで譲ることでした。そのためアメリカでは、この条約のことを、フロリダ購入条約と呼んだりするのです。フロリダは広いですが、分かりやすく1エイーカーあたり(1エーカーは約1200坪です)に換算すると、およそ12セント程度になります。格安ですねぇ。条約はまた、テキサスのサビーヌ川沿いの両国の国境紛争を解決しました。この結果アメリカは、ロッキー山脈から太平洋までの領土権を確保したのです。カリフォルニア州オレンジ郡にお住まいのリンダ夫妻のお住まい周辺も、この条約の結果として米国領になりました。メキシコとの国境線も、この条約によって確定しました。
2017.02.22
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クロニクル ニクソン訪中1972(昭和47)年2月21日今年がちょうど45周年なのですね。この日、米国のニクソン大統領は専用機で中国を訪問、キッシンジャー補佐官、ロジャーズ国務長官らを伴って、北京空港に降り立ちました。朝鮮戦争で戦って以来、始めての訪問でした。一行は熱烈な歓迎を受け、毛沢東主席、周恩来首相等と米中関係正常化を目指して、トップ会談を続け、6日後の27日、両国は上海で米中共同コミュニケを発表しました。内容は、1、アメリカは、台湾を中国の1部と認め、「2つの中国」政策に終止符を打つ2、台湾からアメリカの軍事施設とアメリカ軍を、全て撤退させることを最終目的とする3、中国はヴェトナム戦争に軍事介入しないことを確約するこの3点が中心でした。他には両国は日米安全保障条約が、日本の軍国主義の台頭を抑えるためのもので、中国に向けられたものでないこと確認し合いました。また米中両国は、反覇権主義を掲げ、ソ連の拡張主義を封じるため、アジア・太平洋地域で覇権を求めず、他国の覇権確立にも反対することを盛り込みました。ニクソンは、泥沼のヴェトナム戦争の幕引きを狙って、中国との関係の改善を図ろうとしたのです。トランプも、この共同コミュニケの存在を教えられて、二つの中国論はひっこめたようですね。とりあえず米中関係の険悪化は避けられたようで良かったです。
2017.02.21
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クロニクル 初の男性普通選挙行われる1928(昭和3)年2月20日89年前のこの日、3年前1925(大正14)年の3月に成立した、25才以上の男性(ただし,貧困のため公私の扶助を受けている者は除く)に選挙権を賦与した「男子普通選挙法」に基づく、初の衆議院議員選挙が行われました。それまでは、直接税3円以上の納税者である25才以上の男性に限られる制限選挙制でした。このため有権者は従来の約4倍にあたる1241万人に達しました。 選挙戦が始まると、政友会の田中義一内閣は、無産政党系の候補に対する徹底した選挙干渉を行い、彼等の当選を阻止しようとしたことが、良く知られています。 それでも投票率は90%を超え、昼時には仕事着姿の労働者や野良着姿の農民が1票を投じる姿も目立つなど、初の普選らしい光景が目立ったと、当時の新聞は報じています。 選挙の結果、466議席中、政友会(当時与党)217名、民政党216名、無産政党各派8名、中立系25名となり、政友会は僅か1議席差で、第1党の地位を守りましたが、徹底した選挙干渉で封じ込めようとした無産政党系議員と中立系議員にキャスティングボートを握られるという苦しい立場に追い込まれました。 しかし、この時もまだ女性への投票権付与は完全に無視され、話題にもなりませんでした。話題になっていれば、人口の半分を占める女性に選挙権を付与しない選挙を、堂々と普通選挙と名乗ることは出来なかったでしょうから… 男性の普通選挙という言葉の持つ違和感の正体は、ここにあります。
2017.02.20
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クロニクル 米軍硫黄島に上陸1945(昭和20)年2月19日太平洋戦争中の出来事です。72年前のこの日、米軍は硫黄島に上陸しました。上陸後の戦いは、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」で、すっかり有名になりました。司令官の栗林中将は、将兵の全滅を覚悟しながら、なるべく長期に米軍をこの島に釘付けにすることで、本土攻撃を遅らせることが出来ると考え、他の島々で行われたような玉砕突撃を排して、地の利を生かして粘り強く戦いました。残念ながら米軍は、硫黄島の戦いの最中にも、マリアナ群島からB29爆撃機を飛ばして、死闘の最中にも東京など日本各地を焦土と化す,激しい爆撃を敢行していたのですが…硫黄島の守備隊は、圧倒的な兵器不足の中で、3月17日までの約1ヶ月間、米軍を釘付けにして戦い、23,000人の守備隊は全滅しました。栗林中将のご健在のご息女は、しかしマスコミの取材を断り、「父も私達も、父の下で戦い,命を落とされた方々とそのご家族に申し訳ないという気持を持ち続けています。人様の前に出られる立場ではありません」とコメントを寄せられたと報じられました。「祖父は靖国に奉られて当然。戦犯とした裁判がおかしい」と居直り続ける、最大の戦犯東条英機の孫の女性に比べると、実に清々しいと感じたのは、私だけでしょうか。
2017.02.19
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クロニクル 天皇機関説事件1935(昭和10)年2月18日82年前のことです。この日、貴族院において、美濃部達吉東大教授兼貴族院議員の憲法学説、「天皇機関説」を攻撃する演説が、菊池武夫議員によって行われました。 美濃部博士の天皇機関説は、国家を法人とみなし、法人としての国家にこそ主権があり、天皇は国家統治の機関であるとすることによって、統治の主体と責任は、一機関である天皇によって任命された内閣にあるとする説で、大正期に普及した政党内閣制の理論的支柱となった学説でした。それはまさしく大正デモクラシーの時代をリードする学説の一つでした。。 昭和恐慌の時期となって、軍部や右翼の台頭が目だってくると、先ず左翼の、次いで良心的知識人に対する思想弾圧が激しくなり、美濃部博士の憲法学説に対しても、「現人神(あらひとがみ)であらせられる天皇の神格を否定する不敬の言説」との攻撃が浴びせられたのです。 美濃部博士は1週間後の25日に、理路整然たる反駁演説を行いましたが、軍部に弱腰の政府は、軍と右翼が一体となって展開した国体明徴運動に抗す事が出来ず、美濃部博士の憲法学の著書は全て発禁の扱いとなり、貴族院議員も辞職のやむなきに至りました。 「もの言えば、唇寒し」の時代がやってきたのです。しかし、美濃部博士は生涯自己の学説を曲げず、学者としての良心を貫きました。博士の御子息が美濃部亮吉元東京都知事です。
2017.02.18
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クロニクル 中国軍ヴェトナムに侵攻1979(昭和54)年2月17日38年前のこの日、中国軍は中越国境を越え、ヴェトナムに侵攻しました。1975年に終了したヴェトナム戦争において、大国アメリカに民族の誇りをかけて立ち向かったヴェトナム国民の戦いを、物心両面で支えたのが中国でした。それ故にこの日の中国軍の侵攻は、世界を驚かせました。この日に先立ち、前年12月、ヴェトナム軍がカンボジア国境を越え、カンボジア東部で、カンボジア軍と激闘を演じ、親ヴェトナムのヘン・サムリン政権の樹立を支援していました。社会主義国同士の戦いに、当時は何故?と大きな疑問が残ったのですが、中国の行動は、カンボジア政府(ポル=ポト派政権)を支持する中国が、ヴェトナムとヴェトナムを支持するソ連を牽制する意味合いを持っていました。社会主義国同士の仲間割れが、強く印象に残りました。 ヴェトナム軍のカンボジア侵攻、中国軍のヴェトナム侵攻という、2つの社会主義国同士の内輪揉めは、結局、その後の社会主義の落日を告げる序幕をなす出来事でした。
2017.02.17
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クロニクル 北海道拓殖銀行(拓銀)創立1900(明治33)年2月16日117年前の今日、北海道拓殖銀行が「特殊銀行」として、創立されました。特殊銀行というのは、戦前の日本で、長期にわたる設備投資や対外貿易上の必要や、植民地政策上の必要などから、一般の普通銀行とは別の法律に基いて設立された政府系金融機関を指します。具体的には、重化学産業振興を担う日本興業銀行(興銀)、植民地に設立された台湾銀行や朝鮮銀行、そして北海道開拓を経済面で援助する拓銀などが、これにあたります。雪深い2月中旬に設立されたというのが、いかにも北海道開拓への貢献を期待された拓銀らしいですね。こうした特殊銀行は、債券(金融債、1年満期の割引債と5年満期の利付き債がありました)を発行して資金を調達し、長期の投融資を行いました。こうして拓銀は、北海道開拓に大きく貢献したのですが、戦後になって、所期の役割は達したとして、普通銀行に転換します。この時、長期金融部門は切り離され、日本長期信用銀行に移されました。普通銀行となった拓銀は、その後昭和の経済成長の波に乗り、北海道の経済発展に大きく貢献し、「拓銀さん」と親しまれたのですが、バブル期に幹部が経営の舵取りを間違え、無理に融資を膨らませて、不良債権の泥沼にはまり、1997年に破綻に至ったことは、御存知の通りです。それから20年、その後の北海道経済は、いまだに拓銀倒産の痛手を克服できず、低迷を続けているように見えます。
2017.02.16
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クロニクル 『国民之友』創刊1887(明治20)年2月15日130年前になります。この日、日本初の月間総合雑誌『国民之友』が創刊されました。発行所は民友社。前年に言論界にデビューした、弱冠25歳の徳冨蘇峰が民友社を立ち上げ、自ら社長に就任。同時に『国民之友』の主筆を務めるという、八面六臂の活躍で、ようやく発行に漕ぎ着けたのです。明治も20年代に入ると、幕末から維新を経て、明治政府の進める近代化政策の成果が、ようやく現れ始めると共に、その翳の部分とも言うべき矛盾もまた激しくなっていました。そうした時期に、「政治、社会、経済及び文学の評論」を唱え、学者や文化人を動員した総合雑誌が登場したことは、知識人層に大いに歓迎されました。とりわけ、民間史学の山路愛山や竹越与三郎らは常連執筆者となり、森鴎外の作家としての地位を確立した「舞姫」や二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳「あひびき」の掲載は、大きな反響を呼びました。また平民主義の立場から、欧米の社会主義思想の紹介に務め、労働問題にも進歩的見解を表明しながら、弊害の目立ち始めた藩閥政治に、厳しい目を向けていました。こうして、最盛期には2万部を越える発行部数を誇り、読者の要望を受けていつしか月刊から、上・中・下旬の旬刊に変わるなど、経営的にも成功しました。民友社は、他に「国民新聞」も発行、こちらも支持を集めていたのですが、1897年蘇峰が内務省参事官に就任したため、読者を含む知識人層から変節漢との批判が高まり、『国民之友』の人気は急速に衰え、1898(明治31)年8月、第372号をもって廃刊となりました。最後は急速に支持を失ったのですが、『国民之友』が昭和初期の『中央公論』や『改造』、戦後の『世界』などに道を拓いた、総合雑誌のパイオニアとして、一定の役割を果たしたことは、間違いのないところです。
2017.02.15
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クロニクル 聖ヴァレンタインの処刑269年2月14日今日2月14日は、日本で特に有名になったヴァレンタインデー。聖ヴァレンタインの日です。これは、古い古い時代の、日本では大和朝廷の成立以前、小国家分立時代の話です。歴史上その存在は明らかなのですが、いずこにあったかは、なお定かではない邪馬台国。その女王卑弥呼の没年は248年であろうと考えられています。静岡県の登呂遺跡と同時代と考えてよいだろうと思います。古代ローマ帝国の皇帝クラウディウス2世は、兵士の結婚を禁じていました。「妻や子を故郷に残しておくと、士気に影響がでる」と考えたのです。この措置に憤慨したキリスト教の司祭ヴァレンタインは、密かに兵士の結婚を許して、これを祝福していました。その事実がバレ、怒り狂ったクラウディウス2世の命令によって、ヴァレンタイン神父が処刑されたのが、西暦269年の今日だったのです。ローマ帝国再興の英雄ディオクレティアヌス帝によって、最後のキリスト教大弾圧が行われる16年前のことでした。当然コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認する前の話です。ヴァレンタイン神父の処刑の理由を知り、その勇気ある行動に感動した人々は、彼を惜しみます。ローマ教会もまた、ヴァレンタインを聖人に列して、彼を手厚く葬りました。こうして2月14日は、聖ヴァレンタインの殉教の日として、記憶されることになったのです。西洋ではこの日、男女を問わず、「from your Valentine」と記したカードを添えて、恋人にお花やケーキを贈ります。チョコレートを贈るのは、極めて日本的な習慣なのですね。この習慣は、ご想像の通り、チョコレートメーカーの仕掛けが大成功を齎したのです。この時期に、日本のチョコレートメーカーは、年間販売量の8分の1を売り上げるそうです。この時期、日頃はみかけない珍しいチョコレートも沢山店頭に並びますから、チョコレートの好きな方には、大変有難い催しなのでしょうね。
2017.02.14
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クロニクル 公明党大会開催1967(昭和42)年2月14日ちょうど半世紀、50年前のことです。この年1月29日の衆院選に初めて候補者を立て、一挙に25名を当選させた公明党は、この日正式に党大会を開き、竹入委員長、矢野書記長のコンビを選出しました。創価学会は1959年の参院選に初めて候補者を立て、6名全員を当選させ、3年後の62年参院選では9名全員が当選、公明政治連盟として、参院で15名の勢力を築き、6名が改選を迎えた65年の参院選ではプラス5議席の11議席を獲得するなど、宗教団体を母体として目覚しい躍進を遂げていました。この余勢をかって、67年総選挙で衆院への進出を図り、大量当選を果したのです。いまでは当然のことなのですが、1955年結党の自民党は、それまでの選挙では毎回50%以上の得票率を達成していたのですが、公明党の進出で足元を脅かされ、この選挙で初めて得票率50%を割りした。なお、公明党初代の竹入委員長は、1972年の日中国交回復に際し、日中間のパイプ役を務め、日中国交回復の影の立役者の一人として知られる人物でもあります。
2017.02.13
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クロニクル 津田左右吉博士の著書、発禁に1940(昭和15)年2月12日77年前のこの日、日本古代史の碩学.津田左右吉博士の著書『神代史の研究』『古事記・日本書紀の研究』『上代日本の社会及び思想』などの著書が発禁処分を受けました。 記紀の記述には、史実と神話が混じっており、神武以下数代の天皇は実在の人物ではないと指摘した津田博士の研究成果は、日本が神国であることを否定する不敬な思想であるというのがその理由でした。この措置に加えて、当時の政府は、3月に入ると津田博士の図書を出版した岩波書店の岩波茂雄社長と共に、津田を起訴するに至るのです。良心的な学者の研究さえも力づくで葬りさらないと、学問的な裏づけのない皇国史観は存続できなかったのですね。この皇国史観そのもののような展示を、今でも続けているのが、靖国神社の遊就館です。そこだけ戦前で時計の針が止まってしまっているような、古色蒼然としたカビの生えた空間が丸ごと残されているのです。珍妙かつ少々気味の悪い空間です。 日本会議などと意識を共有する「新しい歴史教科書を作る会」の歴史観は、この皇国史観の焼き直しバージョンです。
2017.02.12
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クロニクル 大日本帝国憲法発布1889(明治22)年2月11日128年前のことです。この日、明治政府は、天皇の名で「大日本帝国憲法」を発布しました。それは、天皇が臣下である国民(ですから、条文の表現に国民はなく、臣民とされていました)に下賜するという形をとった、欽定憲法でした。いくつか条文を記すと、第1条「大日本帝国ハ、万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などとなっており、天皇の大権は非常に強力だったのです。このうち、特に問題なのは11条の統帥権の独立です。天皇大権といっても、実際は大権の委任を受けた内閣が実際の政治を動かし、天皇はそれを追認していたのですが、こと国防や対外戦争については、軍部が統帥権の独立を楯に、「天皇の命令がなければ、いかに内閣の命令であっても、これを無視する」という態度を取るに及んで、由々しき大問題となりました。満州事変以後の事態は、この統帥権の独立を楯にした軍部の独走に依って、齎されたと言って過言ではありません。
2017.02.11
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クロニクル 沖縄に恒久基地建設1950(昭和25)年2月10日67年前のことです。GHQはこの日、占領中の沖縄に、米軍の恒久的基地を建設すると発表しました。当時、沖縄に限らず、日本全土がGHQの占領下にありましたが、やがて来るであろう、対日講和を考える時、GHQの占領地からの撤退は、当然考えておくべきことでした。従って、この日の「沖縄に恒久基地建設」という発表は、対日講和後も沖縄は日本に返還せず、日本に割譲させるか、そうしないまでも占領を続けるという、米国の決意を明確に表明したものだったのです。沖縄で基地建設反対の島ぐるみ闘争が起きるのは,これ以後のことでした。
2017.02.10
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クロニクル えひめ丸沈没2001(平成13)年2月9日16年前のこの日、ハワイ沖で実習中だった、宇和島水産高校の実習船「えひ丸」に浮上中の米原潜が衝突、えひめ丸が沈没するという、米原潜の重過失事故が起きました。 えひめ丸の乗組員のち、生徒及び指導中の教員の8名が死亡、1名がいまだに行方不明のままという大事故でした。何故こんなところに原潜がいたのかが話題になりましたが、原潜の潜水・急浮上をショー化して上得意の客を乗せ、原潜の遊覧を楽しませていたからということでした。客に気を取られて周辺海上を監視するソナーの点検を疎かにしていた過失も明らかになり、船長と米海軍に対する日本国民の怒りが沸騰しました。事故の一報を受けた森総理は、友人とゴルフ中で、ハーフラウンドを終えるまで官邸に戻らず、危機管理能力を問題視され、4月には退陣に追い込まれました。
2017.02.09
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クロニクル エリザベス2世即位1952(昭和27)年2月8日歴史の世界で、エリザベス女王と言うと、16世紀後半のまだスコットランドと合併以前のイングランドに君臨した、エリザベス1世を指すことが暗黙の了解となっています。そのため、ここではエリザベス女王とせず、エリザベス2世と致しました。そうです。現在なおイギリスの国家元首の座にあるエリザベス女王が、国王として即位されたのが、65年前の今日でした。日本では、昭和天皇の在位期間が、足掛け64年とダントツに長いのですが、エリザベス2世は今日で66年目に入りました。イギリスは在位期間の長い長命の国王がチラホラ目につくのですが、それでも彼女が第1位です。。エリザベス2世に抜かれるまでの第1位は、19世紀後半のイギリスの黄金時代の国王だったヴィクトリア女王です。彼女は1837年に即位して、1901年のその死まで、昭和天皇と同じ足掛け64年の在位記録を残しています。続いて、ヴィクトリア女王の祖父に当たるジョージ3世が1760年~1820年まで、丁度60年間イギリス国王の座にありました。エリザベス2世の在位期間は、あとどのくらい延びるのでしょうね。因みにエリザベス1世の在位期間は、1558年~1603年と、やはり世紀をまたいで45年間でした。
2017.02.08
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クロニクル 長野五輪開幕1998(平成10)年2月7日もう19年も前になるのですね。この日、第18回長野オリンピックが開幕しました。会期は7日~22日までの16日間でした。1972年2月3日に開幕した札幌五輪から26年後のことでした。冬季五輪は、夏季五輪と違い、雪国であることが開催条件になりますから、開催可能国が限られます。それゆえ、夏季五輪に比べれば、日本での開催可能確率は高いことになります。それにしても、1964年の東京オリンピック以来、56年振りとなる夏季五輪との違いは大きいですね。来年は韓国の平昌五輪、次の冬季五輪の日本開催は、いつごろどこで開かれるのでしょうね。
2017.02.07
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クロニクル 「日本を……反共の防波堤に」1948(昭和23)年1月6日69年前のこの日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を極東における反共の防波堤にすべし」と演説、日本の再軍備を主張しました。8/15以後の日本占領軍は、連合国の共同占領の形を整えていましたが、GHQ(日本占領軍司令部)の主要幹部は米軍関係者で占められ、実質的には日本は米国の占領下にありました。その米国の対日基本方針は、「日本を再び軍事大国にはしない」ということに尽き、そのための仕掛けが民主化の徹底でした。財閥解体で経済界の民主化を行い、農地改革で農村の民主化を徹底、労働組合の結成と行動の自由化(労働規準法以下の労働三法がその保障)で、企業経営をチェック、さらに戦犯を公職から追放することで、国内の抵抗勢力を封じ込め、教育の民主化によって若い世代に民主主義の精神とあり方を学んでもらうという徹底振りは、今振りかえってみても見事なものでした。そしてその集大成が、憲法前文と9条に凝縮した平和主義でした。日本国民は、あまりに急速な民主化の進展に戸惑い、天皇の人間宣言に驚きと戸惑いを感じながらも、心の底でこうした変化を支持し、受け入れていたらしいことは、石坂洋次郎の新聞小説を映画化した『青い山脈』が大ヒットして、1949年の映画興行収入第2位を記録し、藤山一郎が歌った主題化が、現在もなお歌い継がれていることからも理解できます。 そうした日本国民が何よりも歓迎し、強く支持したのが、この平和主義であり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とした戦力不保持の原則でした。憲法の施行から1年も経たないこの日、米国政府内から発せられた対日占領方針の変更に繋がるような発言に、日本国民の中からは、旧軍人や右翼など守旧派の一部に歓迎する向きはありましたが、驚きと戸惑いそして強い反発が起こりました。この発言の背景には、当時の中国における情勢の大きな変化がありました。
2017.02.06
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クロニクル インターポール設立1923(大正12)年2月5日1923年は9月1日に関東大震災が発生した年ですね。94年前のこの日、国際刑事警察機構(ICPO)の前身である、国際刑事警察委員会(ICPC)が発足しました。この組織が1956(昭和31)年に改組されて国際刑事警察機構(ICPO インターポール)になりました。1946年以降事務総局はフランスのパリにありましたが、フランス革命200年にあたる1989年以降は、リヨンに置かれています。日本は1952年に加盟し、75年からは事務総局に警察庁職員を派遣しています。1996年~2000年までの4年間、兼元俊徳(警察庁国際部長。退任後は内閣情報官)氏が、ICPOの総裁を務めています。現実のICPOは、各国警察の協議体であり、国際指名手配などは行ないますが、捜査主権は各国警察に委ねられており、ICPO自体は捜査は行ないますが、逮捕権はありません。銭形警部のような恰好の良い捜査官は、残念ながらいないようです。
2017.02.05
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クロニクル ロッキード事件発覚1976(昭和51)年2月4日あれから41年ですか。随分経ったのですね。この日、米国上院の多国籍企業小委員会が開いた公聴会で、ロッキード社が日本への航空機の売り込みのために、70年頃から、違法と知りつつ、多額の政治献金を行っていたことが明かにされました。 ロッキード社の秘密代理人だった右翼の大物で、政界に顔の広い児玉誉士夫に21億円、代理店の丸紅に10億円が支払われたリストも示され、児玉のサインのある「100ピーナッツ受領」というふざけた領収書も証拠として提出されました。 さらに、ロッキード社のコーチャン副社長は、児玉に渡った資金の一部は、政商という噂の絶えなかった国際興行社主の小佐野賢治に渡ったと思うし、丸紅への資金は政界工作に使われたと思うと、証言した事も明らかになりました。 ピーナッツが1千萬から1億の隠語であるという、コメディアン顔負けのセリフ回しが受け、お茶の間や夜の盛り場の話題を、しばらくは独占したのですが、小佐野賢治が前首相田中角栄の刎頚の友であることは、知る人ぞ知る周知の事実であり、また児玉誉士夫が後の首相中曽根康弘と入魂の仲でもあったことから、捜査の手が、2人の有力政治家に伸びるのかどうかが注目を集めました。 捜査は、児玉ー小佐野ルート、丸紅ルート、全日空ルートの三方向から進められてゆき、やがて田中前首相が逮捕、投獄され たことは御存知の通りです。
2017.02.04
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クロニクル 大岡忠相江戸町奉行となる1717(享保2)年2月3日300年前のこの日、江戸の普請奉行を務めていた大岡忠相が、41歳の若さで江戸町奉行に抜擢されました。忠相は官職名を越前守と改めることとなり、ここに名奉行大岡越前守が誕生することになりました。今まで、江戸の町奉行には60歳前後の大身の旗本(3千石以上を指します)がなるケースが多く、41歳での就任は異例中の異例でした。ここにも、前年に就任したばかりの8代将軍吉宗の忠相に対する信頼の厚さが窺えます。大岡忠相は、これより5年前に伊勢山田奉行となり、彼が奉行として支配する幕府天領の農民と、紀州領内の伊勢松阪の農民の土地争いを裁くことになり、精査の結果、紀州領の農民を厳しく処罰しています。この件は、歴代の奉行が御三家筆頭の紀州公の権威を憚って、判決を先送りしてきた、曰くつきの懸案でした。この裁きは、当時紀州藩主であった吉宗に強い印象を与え、吉宗の将軍就任後真っ先に行った、異例の人事による忠相の抜擢に繋がりました。吉宗もまた英邁な君主であったことが、認められる一齣です。この後大岡越前守忠相は、1751年75歳で引退するまでの34年間、吉宗の厚い信頼を背景に、享保の改革の中心人物の1人として活躍しました。
2017.02.03
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クロニクル 国民党、北伐再開を決定1928(昭和3)年2月2日89年前のこの日、中国国民党は北方の軍閥勢力を打倒し、国民革命を完成させ、中国全土(列強の租借地を除く)を国民党の支配下におくことを目指して、北伐の再開を決定しました。 孫文死後の国民党の指導者蒋介石は、自ら国民革命軍を指揮して北上を開始、対する満州軍閥張作霖は、北京で一戦を交えるべく、抗戦姿勢を示していました。 しかし、最終的には日本政府(田中義一内閣)の要請を受けいれた張作霖が、戦わずして奉天へ向け列車で移動中、日本の関東軍参謀等によって爆殺される事件が起きるのは、この数ヶ月後の6月4日のことでした。日中15年戦争の端緒となる、満州事変が始まる3年前のことでした。
2017.02.02
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クロニクル 東京1千万人都市へ1962(昭和37)年2月1日41年前になります。この日、東京都は都の常住者人口が、推計ながら1000万人を突破した模様であると発表しました。定住人口が1000万人を突破したのは、世界ではじめての事でした。過密都市トーキョーの名が、世界を駆け巡ったのは、それから間もなくのことでした。
2017.02.01
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