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クロニクル 隈板内閣誕生1898(明治31)年6月30日119年前のこの日、旧進歩党の大隈重信を首相兼外相、旧自由党の板垣退助を内相とする、日本で初めての政党内閣が誕生しました。2人の名を採って、一般に隈板内閣と呼ばれています。 第3次伊藤内閣の地租増徴案に、地主層を背景とする自由・進歩両党が反発し、議会で増徴案を否決したのですが、伊藤内閣は衆議院を解散して総選挙に訴えました。そこで、両党は連合を組み、自由・進歩両党を解党して、一致して憲政党を結成、藩閥勢力と対決する姿勢をとりました。 伊藤も政党を結成して対抗しようとしましたが、藩閥勢力や財界の支持が得られず、内閣総辞職を選択することになりました。こうして、政権は初めて政党内閣の手に渡りました。しかし、旧自由党系と旧進歩党系の内部抗争は収まらず、残念なことにこの政権は、僅か4ヶ月という短命に終わってしまいます。
2017.06.30
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クロニクル 長篠の戦い1575年6月29日(天正3年5月21日)織田・徳川連合軍が、当時無敵と恐れられた騎馬隊を中核とする武田軍を、当時の新兵器鉄砲を巧みに使って、一方的に粉砕した戦国時代史でも、特に有名な戦いですね。この戦いが行われたのが、442年前の今日のことでした。鉄砲は西洋から齎されましたが、使い勝手が悪く、戦場で用いるには決して有効な武器であるとは言えない代物でした。なにしろ、火薬を調合して詰めてから、おもむろに火縄に火をつけて、ズドンと一発ぶっ放すと、大急ぎで銃口と銃身を掃除し、改めて調合火薬を詰め、火縄に火をつけるまで、どんなに鉄砲の扱いに慣れた練達の士でも、最低3分はかかる代物だったからです。一方で弓で矢を射る弓隊は、1分間に10本の矢を射ることが可能だったのです。飛距離は鉄砲の方が優れているとは言え、1発対30発では、どちらが優れた兵器であるかは、論じるまでもなかったのです。この鉄砲と言う新兵器の弱点を補い、有効な兵器に変えたのが、信長の考案した、馬防柵をめぐらして騎馬隊の侵入を防ぐと共に、鉄砲隊を3班に分けて三段撃ちを行うという、新戦術でした。この戦術は当たりました。それは確かなのですが、当時の鉄砲の大きな欠点を覆い隠し、三段撃ちを効果あらしめるためには、大量の鉄砲を用意する必要があります。織田・徳川連合軍は、当時としてはヨーロッパのどの君主すら持ち合わせることが出来なかった、3千丁もの鉄砲を用意した点に、とりわけ信長の先進性と過去にとらわれない器の大きさが感じられます。そして、もうひとつ当時の日本の兵器生産並びに鉄の加工技術の先進性を上げておく必要があります。国友鍛冶や根来衆などが、戦国武将の注文に応じて、大量の鉄砲を生産する技術を磨いていたのです。こうして、日本の織田信長が開発した3段に分けた鉄砲隊が、交互に一斉射撃を繰り返す三段撃ち戦術が、ヨーロッパの戦いで、初めて実戦で用いられたのは、ドイツを中心に戦われた三十年戦争(1618年~1648年)の中盤の戦いの末期、1632年のリュッツェン(ライプチヒの南です)の戦いでした。採用したのは当時の北の大国スウェーデンの王、グスタヴ・アドルフその人でした。長篠の戦いから、50年以上が経過していたのです。
2017.06.29
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クロニクル サライェヴォ事件1914(大正3)年6月28日今年で103年経ったことになります。103年前の6月28日は日曜日でした。この日、ボスニアの首都サライェヴォは昨夜来の雨もあがり、雲一つない快晴だったと記録されています。このサライェヴォで1ヶ月後の7月28日に,最初の戦端が開かれることになる、第1次世界大戦を招き寄せる大事件が起きたのは、11時15分頃のことだったと伝えられています。そうです。オーストリア、ハプスブルグ家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアのオーストリアからの独立を支援する隣国セルビアの民族主義運動家の秘密結社「黒い手」が派遣した刺客の銃弾に倒れた、あの事件が起きたのです。あまりの衝撃に、当日の天候から時刻までもが、克明に記録されています。ボスニアは旧ユーゴスラヴィア連邦解体後の民族紛争、とりわけ、ボスニアのセルビア系住民によるイスラム教徒(ボスニアではイスラム人として1民族に数えられます)並びにクロアティア系住民の虐殺と民族浄化運動で知られることになりましたが、既に20世紀初頭から民族紛争が絶えない地域だったのです。当時のオーストリア皇帝は、悲劇の皇帝と言われた80歳の老皇帝フランツ・ヨーゼフでした。彼の弟マクシミリアンは,フランス皇帝ナポレオン3世に口説かれてメキシコ皇帝に担ぎ出され、メキシコ人の反乱にあって、1867年に銃殺されました。1人息子のルドルフは、1889年に愛人と変死しました。息子の死の悲劇に耐えた皇帝が、皇位継承者に指名したのが、甥にあたるフランツ・フェルディナントだったのです。皇帝はウィーンの宮廷で、後継者に指名した甥の遺体の到着を待ったのです。しかし、疑問は残ります。ボスニアに反オーストリア感情が強いことは良く知られた事実でした。だからこそ、この日、オーストリア軍は大規模な軍事演習を催し、セルビア系住民を威圧するプランを立てていたのです。そんな危険な地に、オーストリア政府は何故皇位継承者を派遣することにしたのか。軍部は何をしていたのか。オーストリア側の警備は十分だったのか。といった疑問です。そして又,反対側の当事者であるセルビア政府は、オーストリアとの戦争になりそうなことぐらい、すぐに判断出来るハプスブルグ王家の後継者暗殺の動きを、何故止めようとしなかったのか。せめて止めないまでも、胡乱な動きのあることをオーストリア側に伝えなかったのかという点も疑問です。そんな疑問が、今でも残っているのですが、この事件は、ちょうど1カ月後に、オーストリアがセルビアに宣戦を布告して、戦端を開くと、1週間足らずの間に、ロシア・ドイツ・フランス・イギリスを巻き込むヨーロッパの国際戦争となり、さらに日本・イタリア・アメリカをも巻き込み、4年半も続く最初の世界戦争にまで拡大したことは、ご存じの通りです。しかも、当初の当事国の施政者たちは、誰もが短期戦を予想し、出征する兵士たちに、「クリスマスは、自宅で家族と迎えることが出来るだろう。そのつもりで頑張ってほしい」と訓示していたのです。戦争はヒョンなことから始まり、後悔しても後戻りできない形で破局へと至ります。集団的自衛権を行使する体制を整え、米軍と共同歩調をとるなった自衛隊。世界のあちこちに漂う不穏な動きは、100年前にの状況と似ているように思える今日、安倍政権の動きには、若い皇太子が実権を握ったサウジ動向と共に、何やら危うさが感じられてならないこの頃です。
2017.06.28
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クロニクル 松本サリン事件1994(平成6)年6月27日あれから23年ですか。23年前のこの日夜9時半過ぎでしょうか、長野県松本市の住宅街で、有毒ガスが発生(サリンと判明したのは、採取したガスを分析した後日のことでした)、死者7名、入院52名、被害者総数213名に及ぶ大惨事となりました。 翌年3月に霞ヶ関中心に、地下鉄サリン事件が起き、松本サリン事件も、オウム真理教の犯行と分かるのですが、当初捜査は難航し、事件の翌日からマスコミは、現場に近い河野義行さんのお宅に、いくつかの農薬類があったことから、まるで河野さんが犯人であるかのように、実名入りで報道しました。TV局のリポーター(この人種、あまり自分がリポートする内容、インタビューする内容や取材対象者の人柄や心情にについて、全くといっていいほど勉強していない、不勉強な連中が多いですね)の中には、他社が報じているからと、「あなたが犯人なんでしょう……」と罵声を浴びせるウマシカさんがおりました。 河野さんの夫人は、入院患者の中でも最も重症で、1度も意識を回復されることがないまま、河野さんや病院関係者の手厚い看護を受け、命の戦いを続けていらしたのですが、遂に2008年8月に、サリン中毒が原因の低酸素脳症による呼吸不全によって、息を引き取られました。 河野さんは実名入りで、姿を露出させられて、マスコミに報じ続けられました。不確かな情報で犯人扱いされて…。オウム真理教の犯行と分かって、ようやく河野さんの濡れ衣は晴れたのですが、その間9ヶ月に渡って、犯人扱いを受け続けたのです。これは,明かにマスコミによる人権侵害でした。 松本サリン事件は、報道と人権の問題をも浮きあがらせた事件でした。この反省が個人情報保護法に生かされているかというと、政治家や官僚は都合良く、自分に不利な情報を隠せるようですが、我々の情報が、きちっと保護されているかというと、これははなはだ中途半端なようですね。どうでも良いところにうるさくて、肝腎のところは抜けている…最近はそこに、特定機密保護法なる厄介な法が成立して、益々政治家や官僚に都合が良く、我々庶民の知る権利はないがしろにされる状況が強められています。困ったことですね。
2017.06.27
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クロニクル 雪印乳業の集団食中毒事件発生2000(平成12)年6月26日17年前ですね。この日雪印乳業の低脂肪牛乳を飲んだ人が、食中毒を煩いました。これが雪印乳業の集団食中毒事件の始まりでした。 被害は関西中心に広まりました。雪印乳業の関西の工場で、低脂肪牛乳にブドウ球菌が混入したことによる被害でした。被害は7月末にかけて広まり、13420人が食中毒を患うという未曾有の被害を齎しました。 雪印の社長が、記者会見を打ち切ろうとして、「私は寝てないのだから…」と話す映像が流れ、顰蹙をかったのも、この時のことでした。 雪印グループでは、翌年雪印食品が牛肉偽装事件を起こして問題になるなど、同社グループ全体の、食品管理の杜撰さが白日の下にさらけ出されましたね。いったん信用を失うと、それを回復するのは大変です。食品を扱う会社は、肝に銘じておく必要がありますね。
2017.06.26
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クロニクル 最初の馬車鉄道開業1882(明治15)年6月25日135年前のことです。日本最初の馬車鉄道、東京馬車鉄道が、この日新橋~日本橋間で開業しました。1872(明治5)年に開業した新橋~横浜間の蒸気鉄道に遅れること10年でした。馬車鉄道は、馬が線路の上を走る客車を引く鉄道です。普通の馬車に比べて乗り心地がよく輸送力も大きいことから、ヨーロッパでも都市内の輸送機関として、広く普及していました。このため日本でも、東京馬車鉄道の成功を見て、沖縄から北海道まで全国に広まってゆきました。都市内の軌道は、比較的安価な費用で引くことが出来たことも追風になりました。しかし、電気が普及して電車が登場するようになると、糞尿や餌の問題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道は衰退の道を辿りました。東京馬車鉄道も1903(明治36)年には電化され、東京電車鉄道となりました。いまでは少なくなった都(市)電ですね。さて、この馬車鉄道、現在でも下記の2ヶ所で、観光用に運行されています。一つは北海道の野幌森林公園にある「北海道開拓の村」です。ここでは馬車鉄道が夏季限定という形で運行されています。二つ目は、岩手県の小岩井農場内にある「まきば園」で、同様に観光客向けに、馬車鉄道が運行されています。
2017.06.25
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クロニクル 趙紫陽総書記解任1989(平成元)年6月24日28年前のことです。この日、開会中の中国共産党第13期4中全会は、第2次天安門事件の責任を問う形で、趙紫陽総書記を解任しました。総書記が、学生寄りの姿勢をとったことが、事件を加速度的に大きくし、反革命暴乱にまで至らしめたというのが、解任の理由でした。後任には、とう小平氏の推薦で、上海閥の江沢民氏が選ばれ、総書記に就任しました。 追記 とう小平氏のとうの字は、機種依存文字にあたるようで、このブログで使用しようとエラーになりますので、仮名のままとさせて戴きました。
2017.06.24
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クロニクル 東北新幹線開業1982(昭和57)年6月23日35年前になります。この日、東北新幹線の大宮~盛岡間466,6kmが開業しました。 同線の着工は1971年11月で、当初の予定では、着工5年後の76年度内の完成が見込まれていたのですが、オイルショックの発生と、大宮以南の住民の騒音と振動公害に対する強い反対運動にあって、工期は2倍に伸び、費用は3倍にふくらみました。 この開業により、上野・盛岡間は約4時間となり、2時間30分程短縮されることになりました。 なお、上野開業はさらに2年9ヶ月程遅れ、85年3月のこととなりました。そういえば、確かに当初は、大宮で乗り換えていましたね。
2017.06.23
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クロニクル 金融監督庁発足1998(平成10)年6月22日19年前になります。この日、当時の大蔵省の抵抗を抑え込む形で、金融検査及び監督の分野が、大蔵省から分離され、金融監督庁が発足しました。この発展系が現在の金融庁です。また財政と金融の分離をさらに徹底した結果、大蔵省は財務省に編成替えされました。官庁の中の官庁として、官界の頂点に立っていた大蔵省も、深刻化した金融危機に有効な手を打てず、護送船団行政の破綻が誰の眼にも明らかになったのが、1997(平成9)年11月の拓銀や山一証券の破綻でした。そして時を同じくして明るみに出されたのが、接待汚職でした。こうして金融行政の明白な失敗と、弁解の余地のない接待汚職とが車の両輪となって、大蔵省が徹頭徹尾反対の姿勢を貫いていた財政と金融の分離が、ここに実現を見たのです。金融新人類と呼ばれた与野党の若手議員たちが、党派を超えて連携し、金融危機の中で挙げた成果でした。 ああいう元気な若手が、最近は少なくなりましたね。若手はいても、まるで高額月給とりもような議員ばかりが目立ちますね。
2017.06.22
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クロニクル 『風と共に去りぬ』出版1936(昭和11)年6月21日マーガレット・ミッチェル女史の長編小説『風と共に去りぬ』が、81年前の今日、出版されました。南北戦争を背景に、南部の大プランターの娘として育ち、そのプランテーションを相続して苦心するスカーレット・オハラを主人公に、戦乱の世をたくましく生きるレッド・バトラーとの愛憎を描いた大河小説は、日本でも大いに親しまれました。この小説は、3年後の1939年には、ビビアン・リーとクラーク・ゲイブルの主演で映画化され、3時間を超える長編でしたが、全米各地で人気を博し、ロングランとなりました。 なお日本での公開は、戦後の1952(昭和27)年9月の事でした。
2017.06.21
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クロニクル ヴィクトリア女王即位1837(天保8)年6月20日昨年のブレグジット以来、イギリスが揺れ続けていますね。選挙という賭けに敗れてメイ首相の立場は弱く、彼女がEUとの離脱交渉を担うことは難しくなったようですね。選挙から日が経ちましたが、未だに新しい内閣の姿が見えてこないのですから、メイ首相は結局降板せざるを得なくなるだろうと私は見ています。今日はそんなイギリスの古き良き時代、ヴィクトリア時代の開幕の話です。1830年代の後半ですから、日本では江戸時代末期、天保の改革時代の話です。この日イギリスで、ヴィクトリア女王が即位しました。彼女は1818年生まれ、当時まだ18歳の初々しい女王の誕生でした。夫となるアルバート公との結婚は、およそ3年後の1840年2月10日。この結婚式でヴィクトリアが白のウエディングドレスを纏ったことが、当時のイギリスの若い女性たちの心を捉え、この後次第に、白のウエディングドレスが、結婚式の定番になっていきました。以下は、結婚式の翌日2月11日の『タイムズ』紙の記事の抜粋です。「女王のドレスは、豪華な白のサテン製で、オレンジの花で飾られていました。頭にはオレンジの花環を被り、その上には顔を隠さないように、美しいホニトンレースのベールが被られました。」この記事を載せた『タイムズ』紙は、通常8千部程度を売り上げる新聞でしたが、何と通常の4倍に近い、3万部強を売り上げる人気号となりました。テレビどころかラジオもまだない、そして写真もまた、いまだ一般化していない時代でしたから、『タイムズ』の記事は、当時の庶民にとって、ほとんど唯一の情報源だったのです。文中にあるホニトンレースとは、デボンシャー州のホニトンで生産されるレースを指しています。当時ホニトンのレース業界は、より質の良いベルギーリースに押され、深刻な不況のさなかにあったのです。ですから、女王の注文とそれに続く女王のウエディングドレスの人気は、斜陽をかこっていたホニトンのレース産業を、生き返らせる起死回生の妙薬になりました。大英帝国を標榜するイギリスの最も良き時代、ヴィクトリア朝の始まりを告げる出来事でした。
2017.06.20
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クロニクル 牛肉・オレンジで合意1988(昭和63)年6月19日まだ30年も経っていなかったのですね。29年前の今日、日米の貿易摩擦の焦点になっていた牛肉・オレンジの自由化問題が、遂に決着しました。当時の佐藤隆農林水産大臣とアメリカ合衆国のヤイター通商代表部代表との閣僚交渉で、日本側が折れ、3年後の完全自由化で合意したのです。牛肉については、その後BSE問題の発生で、1度輸入が禁止されました。その後、生後2年以内の若い牛に限って(2年以内にBSEを発症する可能性は、低いからとされています)、危険部位を除いた輸入を認めるとの合意が交わされました。
2017.06.19
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クロニクル 持ち株会社の設立解禁 1997(平成9)年6月18日20年前のことです。この日、改正独占禁止法が公布されました。これにより,戦後の財閥解体以降、禁止されてきた持ち株会社の設立が、原則的に自由化されました。この措置は企業に歓迎され、合併新会社などがこの方式を採用し、今日に至っています。 三井造船との経営統合を進めようとしていた社長を解任し、統合反対派の新社長を選出した川崎重工などもありましたし、創業家が合併に反対して。会社幹部が進めようとしている機動的経営が宙に浮いてしまっている出光興産のような会社もありますが、持ち株会社の下に、各事業部門を独立の会社のようにぶら下げることで、事業部別の収益が株主にもはっきりと分かるようになり、スクラップアンドビルトがやりやすくなって、会社の利益率向上に大いに貢献出来るのではないでしょうか。出光の創業家、困った人たちですね。
2017.06.18
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クロニクル 首都高速道路公団発足1959(昭和34)年6月17日58年前のこの日首都高速道路公団が発足しました。同公団は、首都高速道路公団法によって、この日設立されたのです。 同公団は、首都高速道路を建設し、その後は管理を担当してきました。そのご、日本道路公団の民営化に伴い、公団は解散し、業務は日本高速道路保有・債務返済機構ならびに首都高速道路株式会社に引き継がれました。
2017.06.17
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クロニクル フォード自動車の誕生1903(明治36)年6月16日114年前のことになります。この日、ヘンリー・フォードは、11人の投資家の支援を受けて、2万8千ドルの資金を元手に、フォード・モーター・カンパニーを創設しました。カール・ベンツが自動車の生みの親と言われるのに対し、ヘンリー・フォードは、自動車の育ての親と言われます。創立5年目の1908年に、彼が世に問うたT型フォードが発売され、最盛期には米国の自動車の半数以上を占めるという、大ヒット商品に育てたのです。発売以後、1927年の生産休止まで一度もモデルチェンジすることなく、累計で15,007,033台生産されたというのですから、驚きです。生産はベルトコンベアによる流れ作業方式を採用した最初の自動車としても知られています。以後、T型フォードの記録を上回った自動車は、フォルクスワーゲンのタイプ1があるだけです。この車の生産台数は、2,100万台以上だったとされています。
2017.06.16
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1912(明治45)年6月15日105年前のこの日、日本で始めて、特別急行列車と命名された列車が、新橋=下関間で運行を開始しました。この列車は1等車と2等車ばかりで構成され、3等車は連結されていない、富裕層対象の編成でした。当時は列車に愛称はつけず、1列車,2列車と呼ばれていました。1914(大正3)年12月に東京駅が完成すると、新橋発は、東京発に改められました。1923(大正12)年に、同じ区間に3列車と4列車が投入されましたが、こちらは3等車のみで編成された大衆向け列車でした。 列車に愛称がつけられるようになったのは、昭和時代となってすぐの頃で、前者に「富士」、後者に「櫻」の名が付けられました。戦前の特急は、この2本の外に、いずれも東京=神戸間を走る「燕」と「鴎」の2本があるだけで、合計4本でした。 東海道・山陽本線以外の線区は、急行列車は走っても、特急列車は運行されなかったのです。 太平洋戦争が激しくなるにつれて、特急の運行は1本また1本と減らされ、1944(昭和19)年4月に運行停止となった「富士」を最後に、特急の運行はしばらく中止となり、戦後を迎えることとなったのです。
2017.06.15
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クロニクル 勝鬨橋完成1940(昭和15)年6月14日77年前になります。この日、国内初の可動橋として、墨田川にかかる勝鬨橋が完成、使用されるようになりました。晴海方向に抜ける橋です。墨田川を大型船が通るたびに、橋の通行を遮断して、中央部が大きく開く橋です。 私の子供の頃は、小学校低学年(何年だったか、定かでありませんが、今は理科と合わせて生活科となっている、1年か2年の頃でしょう)の社会科の教科書に、写真入で大きく載っていました。小学校4年になる春休みに、秋に引っ越す予定の家の地鎮祭を兼ね、家族で東京に出かけた折に、勝鬨橋を見学、とても興奮して離れ難かったのを覚えています。しかし、当時は交通量が少なかったから良いのですが、やがて車の通行が増え、交通遮断の影響が大きくなると、次第に橋の開閉は減らされ、1970(昭和45)年11月29日を最後に、開かずの橋となり、現在に至っています。
2017.06.14
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クロニクル 太宰治玉川上水に入水心中1948(昭和23)年6月13日69年前になります。この日、作家の太宰治が、愛人の山崎富栄と玉川上水に入水、心中しました。太宰は1909(明治42)年6月19日の生まれでしたから、間もなく39才になるところでした。太宰は自殺願望が強く、これまでにも4度の自殺未遂を繰り返していましたので、5度目にしてようやく、念願を果たしたともいえます。2人の死体が見つかったのは、入水6日後の6月19日、丁度太宰の39回目の誕生日当日でした。そのため桜桃忌は6月19日になっているのです。 ところで、玉川上水は、横田基地に近い羽村で多摩川から取水して四谷まで通し、江戸時代は、大都市江戸で暮らす人々に、大切な飲み水を提供する役割を担いました。1部は農業用水にも使われましたが、管理は厳重でした。水量も豊富で、明治時代には舟運にも使われていますから、かなりの深さがありました。ですから、入水心中には十分な深さがあったのですね。 今の玉川上水からは想像できませんが…。
2017.06.13
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クロニクル トンネルを越えると雪国だった昨日分です。1937(昭和12)年6月12日 「トンネルを越えると雪国だった…」 若い方には、こう書いてもピンとこないと思いますが、年配の方ならほぼ100%の確率で、お分かりいただけると思います。そうです。川端康成の名作『雪国』の冒頭の一節です。80年前のこの日、『雪国』は出版されました。 前年の2.26事件を経て、日本社会は軍部が全権を握るようになっており、1カ月弱で盧溝橋事件に至る、そんな戦争への道をひた走っていた時期だったのですが、そんな世相であっただけに、逆に『雪国』のような作品は、歓迎されたのかもしれません。 駒子の一途さと島村の身勝手さが対比されるだけに、それだけ当時の女性たちは、丹念に駒子の心情を描く、川端の筆致に惹かれたのかもしれませんね。
2017.06.12
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クロニクル ニコヨンの誕生1949(昭和24)年6月11日68年前だったのですね。そうなんです.この日東京都が、失業対策事業の日当を1日当たり245円とすることを、決定しました。コッペパン1個が10円、ラーメン1杯が30円の時代でしたが、家族を抱えた失業者には、十分といえる額ではありませんでした。そこからわが身を笑う自嘲的なブラックユーモアとして、ニコヨンという呼称が広まりました。 仕事は、道路工事がほとんどでしたから、雨の日は仕事がありません。日曜日もお休みでしたから、年間に均すと、仕事があって、245円を手にすることができる日数は、230日~250日くらいだったようです。均すと1ヵ月に20日間程度。月収5000円弱です。厳しい状況が想像できますね。
2017.06.11
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クロニクル 森永ミルクキャラメル誕生1913(大正2)年6月10日 今年で発売から104年なのですね。 黄色いパッケージにエンゼルのマークでお馴染の、森永ミルクキャラメル。子ども時代に、大喜びでいただいた記憶が残っています。 森永製菓は、その前身の森永西洋菓子製造所として創業した1899(明治32)年当時から、キャラメルの発売を始めています。発売するキャラメルに、森永ミルクキャラメルの名を冠したのが、104年前の今日、1913(大正2)年のことだったのです。ただ、1913年の発売当初は、現在のような箱入りのキャラメルではなく、1粒5厘のバラ売りでした。黄色のデザインの紙箱入りとなったのは、発売から1年が経過した1914(大正3)年夏のことでした。子どもの頃、森永ミルクキャラメルと人気を二分していた、明治製菓の明治クリームキャラメルは、森永に遅れること21年、1934(昭和9)年の新発売でした。
2017.06.10
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クロニクル ドナルド・ダック誕生 1934(昭和9)年6月9日今日は、ディズニープロの人気キャラクターでお馴染みの1人、ドナルド・ダックの83回目の誕生日に当ります。そうなんです。83年前の今日公開されたウォルト・ディズニー・プロダクション製作の短編映画「かしこいメンドリ」に、メンドリのお母さんの知り合いで、お調子者で怠け者という設定で、我らがドナルド・ダック君が、映画界にデビューしたのです。めんどりのお母さんや、やはりドナルド君と共にお友達として登場したブタ君ではなく、なぜかアヒルのドナルド君だけが人気者となり、その後も長くディズニーアニメの主要キャラクターの1人として、繰り返し登場して今日に至ります。そのため、ディズニープロでは、ドナルドがディズニーアニメに初登場した1934年の今日を、ドナルド君の誕生日としているのです。
2017.06.09
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クロニクル 橋本登美三郎・佐藤孝行両被告に有罪判決1982(昭和57)年6月8日35年前のことです。この日、東京地裁は、ロッキード事件に絡んで受託収賄容疑で逮捕、起訴された元運輸相の橋本登美三郎被告と、元運輸政務次官の佐藤孝行被告に対し、有罪判決を下しました。ここに田中角栄元首相に対する包囲網は狭められ、田中有罪への流れが一段と強まりました。 当時米国には、ボーイング、ロッキード、ダグラス・グラマンなど、いくつもの航空機製造会社があり、日本は貿易黒字対策に、相当量の旅客機(当時の日本では、自衛隊の増強などとんでもないという空気が強かったので、軍用機を大量にとはいかなかったのです)を購入する事になり、当時日航を追って、国際線への進出を目指していた全日空が、10機以上の大型機を購入することになったのです。商戦に出遅れたロッキード社は、代理店の丸紅と組み、フィクサーとして政界に隠然とした影響力を持っていた児玉誉士夫をアドバイザーとし、当時の田中首相に5億円を、そして、運輸行政の中心にいた橋本運輸大臣や佐藤運輸政務次官にも、数千万円のワイロを贈って、逆転受注に成功したのです。この事実は、1976(昭和51)年2月、米国での汚職摘発で明らかになりました。
2017.06.08
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クロニクル 日本勧業銀行の設立認可1897(明治30)年6月7日120年前のこの日、政府は申請書類の提出されていた、株式会社形態の日本勧業銀行の設立を認可し、開業免許を付与しました。この結果、同行は8月2日に営業を開始しました。この日本勧業銀行は、戦後財閥系の第一銀行と合併し、第一勧業銀行となり、バブル崩壊後の不良債権処理の重荷から、さらに富士銀行、日本興業銀行と3行で合併し、現在はみずほフィナンシャルグループの一員となっています。 最近は、金融機関を取り巻く景色もすっかり変わりましたね。これからどうなるのか。まだまだ変化がありそうな気がしています。
2017.06.07
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皆様へいつの間にか10日もお休みしていたのですね。ご心配をおかけしました。眼の酷使がたたって、眼精疲労が昂じて、三半規管が異常をきたし、医師から許可するまでPCの使用禁止を申し渡されておりました。まだ、時間制限つきですが、ようやく許可が下りましたので、本日から再開です。ただ、毎日更新となるには、今しばらくかかりそうです。しばらく不定期になるかも知れませんし、皆様のブログも、しばし読み逃げになることもあるかと思いますが、どうぞよろしく。クロニクル 資本取引の自由化決定1967(昭和42)年6月6日50年前のことです。この日、政府は外国企業に依る日本国内での子会社や合弁会社の設立、株式の取得などの資本取引を自由化するという、基本方針を閣議決定しました。 この日の決定に基づき、30日には関連法を改正、翌7月1日には施行する手回しの良さでした。おそらく米国政府から相当強い圧力がかかっていたであろうことが予測されます。 ところで、自由化の内容は、ラジオ、テレビなど競争力の強い33業種については、100%の自由化、普通鋼や自動車など17の業界については50%までの外資の出資を認めるというものでした、 為替や貿易制限の撤廃に続く、資本取引の自由化で、日本もここに開放経済の体制に大きく舵を切りました。それでもこのニュースに、マスコミは戦々恐々として日本の自動車産業は米国のビッグスリーに、すぐにでも飲み込まれてしまうだろうといった、国民の不安心理を掻き立てる記事を流し続けたものでした。 今では信じられないでしょうが、国民の多くがマスコミに同調して頑張れトヨタ、フレフレ日産と、自動車業界にエールを送っておりました。かくいう私もその1人でした。今の自動車業界の様子を見ると、隔世の感があります。
2017.06.06
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