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2012年新しい年に、 「新しい歌を主に歌おう」と み言葉をいただいた。 今年もアパ・ルームも用いて、 日毎に神様のみ言葉を いただいていきたい。 すでに31年間利用することになった。 ここまでになるとは…。 これからも使っていくことでしょう。 お世話になります。 聖書と共に。
2012年01月03日
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GAO水族館の巨大水槽の前にいますと、 本当に飽きずに見ていることができます。 そして、その状況を一生懸命にカメラにおさめようと 奮闘している人、私もその一人ですが。 そんな人間を撮っている人曰く、水槽の中もじっとしていないが、 水槽の前で、もっとジッとしていない人物で撮れずと言われました。 この写真は、逆に私がカメラマンを撮った一枚。神秘的なのは、クラゲです。これも上手く撮れないことも多いですが…。 この水族館で、飽きなかったのもう一つ。それは、シロクマでした。 水の中で、様々な表情としぐさ。これまた、シャッターチャンスを得ることが難しい。デジカメでの写真の腕の見せ所なのでしょうが、まぐれあたりのような状況でした。 ちょっとでも、シロクマ君の楽しんでいる姿がでているでしょうか? シロクマくんは、“ほね”を遊び道具にして、遊んでいました。 起用に、“ほね”を足で飛ばしたり。 そして、最後かじりつく。 そんな様子を、カメラと食い入るように見ている人間に お構いなく、自由奔放です。 しかし、そのシロクマ君のストレスを抱えているかも。 きっとあるでしょうね。 人間様を楽しませなくては?と努力していたり???
2010年10月04日
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一年ぶり以上の期間を開けての更新となりました。 生きていましたよ。 夏休みを8月27日から一週間。男鹿半島に出かけました。 男鹿半島の突先にGAO水族館があります。 巨大な水槽にたくさんの魚が泳ぎ、 見ていると飽きない光景でした。 水族館よりの男鹿半島突先の眺望。 水槽の中に、優雅に泳ぐエイが。 うみがめ、サメ GAO水族館に行ったのは、8月29日日曜日の午後。 脇本教会で、礼拝と教会のN先生、皆さまと 楽しく美味しい愛餐会をして頂いた後でした。 しかし、急遽夏休みを切り上げて、 月曜日には一路帰省することになってしまいました。
2010年09月30日
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8月31日朝、JY先生の危篤の知らせを受けた。「うそ、でしょ。」と頭の中で何が起こっているのか?現実みが無く、相談されて返事はするものの、現状の話と出来事は別。という感覚の中にあった。J先生には、いろいろと教えて頂いたこともたくさんあった。J先生の生き方は、仕事を楽しみ、弱さを体に帯びつつも工夫されながらねハードな仕事をこなしていた。というより、楽しんでいた。と言う方が正解なのかも!!そうでなければ、あそこまであれも。これもと、飛行機と電車と車で日本中を駆けめぐり、電話でも駆けめぐっていた。あのパワーはどこからくるのか?やはり神様が与えなさってものでそのパワーを十分神様のために使い果たして、み国に、エノクのごとく神様は人々が分からない内に連れていかれた。神様は、これもご計画のうちにでしょうか?あるのでしょうね。でも、私にはわかりません。そのうちわかるのか?それとも、分かることはなく分かることを求めて、自分の於かれている立場と、果たすべき使命に打ち込めと言われるのか?
2009年09月03日
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8月24日~26日まで、第41回日本伝道の幻を語る会が千葉(市川)で開催された。 私は、この大会に今回で3回目か?多く数えても5回以上でないと思う。この大会に出席されている方々は、この世の肉体年齢は高齢者から後期高齢者という年齢の方々が多い。しかし、信仰に燃えている面からすると、エネルギッシュで霊的年齢はとても若々しい。霊的力と救霊の思いがとても強い。それと反対に若者は、ほとんどいない。それにひ弱で、エネルギーがない。この差は?なにか?「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人はゆめを見、若者は幻をみる。」 とこの大会は霊的若人が幻を語っている。すごいことである。このスピリットに続くことが、日本伝道の大きな前進になると思う。「神にはできなことは何一つない。」ルカによる福音者1:37《幻なき民は、滅びる》→「幻がなければ民は堕落する。」箴言29:18神様の約束を信じ、主を見上げつつ、み言葉の真実を体験していきたい。
2009年08月25日
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7月下旬に、鬼怒川の先にある「もみじライン」を通って行くと、 冬にはスキー場となる斜面に たくさんの百合を咲かしている山に着きます。 初めて行きました。 山の上なので、 百合のシーズンはこれからという時でした。 山の斜面一面に咲き誇るカラフルな百合の花々。 ちょっと肌寒い雨と霧に覆われたりしましたが、 神さまの造られた被造物を眺めこころ穏やかな時を過ごせました。 少々疲れを覚えておられたMさんと、 ゆっくり、ゆっくり山道を百合を眺めつつ 片方で傘を、もう片方で携帯。 写真を撮りながら歩きました。 また、こんなゆっくりとした時間を取りたいね。 と会話にも花が咲き誇っていました。
2009年08月24日
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この夏も軽井沢に出かけました。今までは、非常に混雑する8月中旬をさけて行くことがほとんどでしたが、この度は、8月10日~12日という日程でした。これから益々人が押し寄せて来る時に旧軽井沢の町をぶらりとして、人・人・人・人の中に自分もはいりちょっとだけ、散策しました。私が、旧軽井沢でこころ落ち着けるところがあります。聖公会のショー記念教会です。(写真の教会)旧軽井沢の町中を奥へ入って行くと、木々と苔の緑が体中を包む空間になり静かな、穏やかな時間が広がります。 通常は会堂の中に入って静まり、祈ることが出来るのですが、(前回はそうでした。)今回は残念ながら丁度閉館している日程でした。とても残念でしたが、またの機会を作りたいです。しかし、そのような場所でしか静まれないのではありませんよね。神様は、心静かに主を求め、主を賛美する人と共にいてくださます。 いつでも、どこでも神様と語り合うことは出来る。けれど、静まるための空間のも気を配ることも必要とも思う。その場所を探し、時間を作ろう。朝かな?やはり夜かな?
2009年08月23日
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2009年になって、ひっさしぶり(2回目)のブロク更新です。山中湖から箱根峠へ行き、富士山がよ~く見える会場で、研修会が行われた。夏場に、よ~く富士山が見えるためにはなかなか天候の条件が難しいです。昼間に見えた富士山雲に見えなくなってきている。見えますかね??? 「私達は、神様をまだ知らない人々によ~く見られています」と富士山はやはり見えないより見えた方がいい。私も、いつも神様を見たいと思う人々に《神様の似姿をあらわす者》とならせて下さい。 と祈ります。
2009年08月21日
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2009年 新しい年が始まり7日が過ぎています。昨年の10月中旬に更新してから、まあ~月日は過ぎてすでに1月7日。めまぐるしくエンジン全開の状態が続き、少々身も心も疲れを覚えてどのように休めば回復するのか?分からなくなっているところがあります。時々、自分の時間が止まって何もしなくて良い時間と時間の間にいたいなぁと思う時がある。 しかし、結局は浦島太郎さんの竜宮城での一時のようで、戻ってきたら「あっ」というまにおばあさんになってしまうでしょう。きっと!!!すべて生かされている時、神さまが与えてくださっている時間。神さまの臨在を感じつつ、いつも神さまと顔と顔とを会わせていることを忘れないでこの一年も、大事に有意義に生かせていただこうと思う。「いつも」というのがなかなか出来ないのですが…。(-_-;)
2009年01月07日
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筑波山に登った。それは自動車とロープーウェに乗って。山頂にはあと180m、急な階段を登り後は絶壁の岩の上。眼下に広がる関東平野、もっと天候が良いと富士山も見えるそうな。 緊張のゆえに足はこわばったまま。肉眼で見えている遠くの都心のビル。写真では見えていない。霞ヶ浦・太平洋・向きをかえれば、東京タワー、サンシャイン60も見えると。冬場か、台風一過の朝か?なら見えるのかな。 私の肉眼では、見えていなかった。ホテルからの夕日に目は慣れていて、網戸があったのを忘れ、撮った後に確認して「エ~何これ!!!!」と きれいに撮れたと思っていたのに。気づいた時には、すでに夕日はあの山の向こうに…。ショック。もう一度夕日が戻らないかしら? 見えていると思っても見えず、見えないと思っても見える。人間の目は、ものすごく精巧に出来ているといえる。けれど見えていて当然のものを見ていないという。これもすごいとも言えるかな?
2008年10月16日
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家族で久しぶりに旅行に行って来た。茨城・筑波山とその周辺。昨日の体育の日は、見事な人でどこも人、ひと、ヒト。並ぶことに忍耐出来ない大人達となってしまい、なが~い列のところには行かず行動した。なんとかそれなりに楽しみ、ちょっと疲れを覚える程度で帰宅。天候はそれほど良いと言うわけではなかったが、ブログに載せる写真を撮ろうと努力してきました。そのうち登場するかも?期待せずお待ちください。明日から、いつものように仕事に専念シナケレバ!!!!!
2008年10月14日
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誰が見てくれるわけでもない、神さまからいのちを与えられた花は、自分らしく精一杯さきほこっている。可憐に咲く花、踏まれそうになりながらもブルーの色を誇らしげに輝かせて。 複数の写真を入れる手順をやっと思い出した。 というよりも、もう一度体得した。もう忘れませんように。
2008年10月10日
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今週になって、キンモクセイの香りが道を歩いている(^O^)と漂っています。今年は例年より遅かったように思います。このキンモクセイが咲くことに、よく台風が来ていっぺんに花を落として香りがなくなっていたことを思い出します。 今年は長持ちしますかね?気象の台風は来ていませんが、政治の台風や株の方では大型のハリケーンが、世界中を駆けめぐりそうな状況のようで。 最初に直接被害を受ける方々にとって、大変でしょうね。でもそんなに時間をおかず、関係ないと思っていた者にもジワジワと大きな波になっておそわれるのでしょう。(T_T) 気持ちの良いすがすがしい日の中で、そっと咲いている曼珠沙華のように、凛としながら自分らしく生きたい者ですね。どうしても周りの人々に振り回されてしまいます。
2008年10月09日
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早くも、ブログを立ち上げてから2年目となりました。そうなんです。自分の誕生日にどうなるのかと思いつつ始めたことでした。ブログは満2歳になりました。書いている人は2×10×?=神様の祝福です。一つの年代から次なる年代になることは、何とな~く気持ちが違い。自分でも表現出来ない複雑な気持ち。しかし、今日は歳のことでは複雑であってもここまで守られてきたことを心から神様に感謝し、たくさんの方々にお祝いの言葉を頂いたことも感謝。そして、両親にも感謝する。言葉ではハッキリとは言えなかったけれど。新しい一年は、一年間にもう少しブログに書けるようになりますか?ウ~ン。なんとも言えないけれど、お気に入りのブログを楽しく読ませて頂きながら、ポツリ 、ポツリ と行こう。 誕生日って、なんだか欲しい?と思っているものを買っても良いかな~と?思ってしまうところがあります。私だけ?????
2008年10月08日
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そう言って、彼らに息を吹きかて仰せになった。「聖霊を受けよ。」 (ヨハネ20:22)「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす」 (ヨハネ20:21)イエスは、公生涯の初めの時期から、ご自分が神から遣わされていることを明言しておられました。今、主は御父のもとへ戻られ、今度は弟子たちが「遣わされた者」にならなければなりません。主は彼らにご自分の働きを託します。そして最後に主はただ一言「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と言われました。(省略)三年のあいだ、聖霊はキリストの働きを力強く推進してきました。今度は主の使命を完成するために、イエスの友であ弟子たちを派遣しようとされます。もし彼らが主に働きを担うのなら、主の御霊を必要とします。それでイエスは彼らもまた聖霊を受けなければならないを言われました。私たちの生涯と働きが主に生涯と働きと平行していることは明かです。 (「エマオの道で」デニス・F・キンロー著)主イエスさまから、使命を頂き遣わされた私。「私の生涯と働きが主イエス様の生涯と働きと平行している。」となんと畏れおおいこと。平行ということが出来ているか? 反比例になっていないか?「ちょっとは似ているかも」などと言っても主を悲しませていることが…。主よ、私にもあなたの生涯と働きに添う者としてください。「聖霊なる神さま、私の内の満ちてください。」
2008年09月06日
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8月31日 日曜日昨夜には、また雷雨が降りバランス良く降らないかなぁ?とこの日は、太陽がのぞみ蒸し暑くなった。しかし、神さまが働かれていることを体験させてもらった日でした。家族そして友人達に祈られていた姉妹が受洗した。本人も証し中で洗礼を受ける時が来るとは思っていなかったと。そう誰しも、最初から受洗する日が来るのを分かる人はいない。神さまが、その思いを与えてくださるから洗礼を受ける日を待ち望むことが出来るようになる。 神さまを信じなおうとする努力を私たちはすることがあっても。しかし、神さまに捕まったらもう離れられない。 淡々と洗礼式が進むかと思っていた。 しかし、証しを読む声が 一時 留まった。そして、沈黙 涙で鼻をすすりながら、やっと最後まで読んだ。 (彼女は冷静な人と思っていたから、 私も…。) 「天においては大きな喜び」があったことだろう。 私たちも大きな喜びを体験させて頂いた。 姉妹のために祈ってきた、家族・友人方にはどんな思いだろうか。これからは共に主に従って歩む日々。私もともに歩ませて頂こう。よろしくね。
2008年08月31日
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体が疲れていくと、こころも疲れこころが疲れると、体も疲れるどちらが回復出来やすいか?体の疲れかな????どちらにしても早くの手立て、休みが必要、度を越すと時間が掛かりすぎてめいるばかり。頑張るのでなくて、ふつうでいられるように。普通でいられることを、神様から頂こう。最近自分の疲れに対する対処法が何となく分かってきたみたいな?(@_@)ほんとかな?神さまから、たくさんの霊の水をもらおう!!!!!!!!!!!!
2008年08月15日
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振り返ってみると、この年教会にとって大きな決断をする時があった。課題を目の前にしているときは、何とかしなければと必死でいた。色々考えたつもりであったが現実となるとやはり、認識があまかったと思わされている。けれど教会でみんなと話し合った。一つの決断をした。願うことは、主の栄光がこの地に現されるようにと。この祈りの中で確かに神様はこの年大きな事をはじめられるかも?期待しつついたが、神様の考えておられることは人の思いとではどうみても考えられない。先日気が付いた、神様は私たちの願いを聞きみ手のわざを始められていると。大きな決断を成したとき主に期待していた「山は動く」と確かに動いていた。そのことを私は困難という面でしか見ていなかった。しかし、それは 主のみ手のわざであった。願い祈ることは信じる者に答えられる神様である。常に神様の側からこの地の出来事を一緒に見る者となりたい。
2008年08月13日
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8月6日、9日 本日長崎原爆投下の日人のこころの醜さと気が付いても自分でどうにもならないこころを見せられ、愕然としながらもそのままにしてしまっている自分。 この戦いに真っ正面から向き合う時を、人はそして私も持たなければいけません。 主イエスさまは、この戦いの勝利のために来て下さり、身代わりの死を受けて下さったのですから。 暑い日差しの空に、真っ白な入道雲を見ながら63年前の夏の日人々は何を知らされていたのか?
2008年08月09日
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10月21日(日)に礼拝の講壇に飾られたお花。ここ2年以上になります講壇のお花がアレンジメント系で素敵に飾られるようになったのは。教会の信徒の方のご奉仕です、近年、私たちの教会に来るようになられて転入会された。この毎週の講壇のお花は、礼拝後女性陣たちの携帯デジカメでの撮影会となっている。わたしは、時々写真を編集して写メールで使っているけれど他の人は何かに利用しているのかな?プリントをしてではなく、編集も携帯で出来るし、パソコンに取り込んでもいろいろと出来るのですから、フイルム写真の時から考えると用い方は様々。しかし、当然のごとくフイルム写真の良さもある。あまり凝っていない者には、今の方が楽しみがある。これもいつまで続きますか?(これは私のこと)今日は講壇のお花をお見せ出来よかったです。また続くかも。 (Aさん良いですよね~(^-^))
2007年10月22日
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10月18日は、父の誕生日。今回は出かけて行くことも出来なかったが、今日共に過ごされた神学校生徒・先生方が祝って下さったのだろうと思っている。子の一人です。感謝なことに、年齢からすると至って元気な父でこの日81歳の誕生日を、スポーツディでボーリングをして遊ばせて頂いたと聞く。ボーリングしたことあるの?と以前聞いたが「ある」とそれも70歳代の時に初めてなのでは?私たち子どもの頃、遊びという所に連れて行ってもらったことがないと思う。だから、ボーリングしたこと「ある」と聞いた方がビックリした。 人の一生は、いつかは神さまのみこころによって終わりを遂げる。周りの人々が、一人一人と生涯を閉じているのを知る時「あ~ぁ、このような時がくるのだな~ぁ」と私が思うようになった。きっと本人はもっと前から心の内に感じていることでしょうけれど。(やはり、この肉の目で見ることが出来なくなるのは寂しいことです。) でも、与えられている時を神さまに従いつつ十分に生きることが最善なことでしょう。体力、知力は衰えていくことですが、主に向く時、主の霊に満たされ果たさせて頂ける働きを、出来る所において全うして欲しいと思います。そのために、必要な手助けがあれば子として手伝いたいと思っている。周りの方々の配慮と忍耐によって今も支えられていますからその見極めも、出来るようにと祈る次第です。長生きの家系のようですから、耳の聞こえが益々悪くなっていくと「う~ぅん」なんとも言えません。母親は、100歳、祖父は89歳、従兄弟も95.6歳すべては神さまのみ手の中です。誕生日おめでとう!!! 父さん
2007年10月18日
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写真をたくさん入れたかったのが、 やっと出来るようになりました。 うれしくて花博に行った時に携帯で撮った 写真です。 今度は、写真入りをどのように編集するか?チャレンジしたいです。 何となく編集作業もちょっこと 分かってきたようで…。
2007年10月17日
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親と子の口げんか様々な状況があるけれど、現代のニュースになるような重いものでなく(元は同じようなたわいもないすれ違いから始まっているのでしょう)よくある相手を思うゆえに一言多く言ったことがちょこっと気にさわって話が別の方へと転がる。素直にそれぞれの言葉を受け止める気持ちがあってもそう簡単には、表現出来ないし思いと反対の言葉が出てきてしまう。 冷静に端で見て聞いている者には、「あ~ぁ、その一言が…」と思うけれどこちらもそれを言うことで、油に水を注ぐことに成りかねないので中立をとり、何も言わない。難しいですね。嫁としては、両方をそれぞれの状況で立場が変わります。たわいもないことだけですむように祈るのみです。自分も気を付けようと
2007年10月16日
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なんと言うタイトルでしょう!2006年10月16日に初めてブログに日記を書いて丸一年しかし、その後半の半年は休止状態でした。ブログことを知ったのは昨年の夏の頃はじめは「なにそれ?」(?_?)??とちんぷんかんぷん。それがパスターハリーさんのブログをパソコンで見てからいろいろなブログにお邪魔してなんと開設することにしてしまった。何も知らないと言うことは、こわいもの知らずで何とかなるだろうと、ブログのページに従い作ってしまった。まさか作っただけでは表示されないだろうと思っていたのに「まあ~ぁ、え~ぇ!!」「私のページがある~~。」「どうしよう、ドウシヨウ」と焦った。このまま書かなければ、何も起こらないだろうとも考えた。しかし、ことは起こってしまった。なあん~も書いていないページに「まってるよう~楽しみにしてる」とハリーさん書き込んでくれた。確か開設をしたのが10月8日だっだ。(この日は私の誕生日でした。_(._.)_プロフィールの誕生日はパートナーの誕生日(^^;))それから、一週間なにも書けずにいた中、パスターハリーさんのメッセージは大きな力と、書かなければと奮い立った。ありがとうございます。 何はともあれ、やっと日記も21回となりました。これからまたもや、長期の休業があるかも?(>_<)それは過ぎてみないとわからないので、その時はその時でまあ~気楽にいこうと思う。
2007年10月15日
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10月10日朝、H師の夫人がキリストの花嫁として主のみ元に凱旋された。10月13日に前夜式が行われ、参列してきました。そのご葬儀は、キリストの花嫁となられた結婚式を思わせられる式となりました。H夫人は、教職者でもありましたが主任牧者の裏方に徹するように主からの召しを受け、そのごとくに主に仕えられた歩みであったことを聞いた。お会いした時は、いつも笑顔のご挨拶で快く迎えてくださったことを思い起こす。ご葬儀の祭壇が、結婚式のような明るいピンクのバラ花がたくさん篭のなかにあり華やかな祭壇であった。その奥上には、真っ赤なビロードの布が天井から下げられ大きな十字架が中央にある。その前に棺と笑顔の遺影を前にして、これから結婚式が始まる感じを受けた。故人の愛唱歌が賛美されると礼拝が始まったと感じるものでした。こんな葬儀を体験したことはない。本当に、主に生涯を捧げつくした者に神様が主イエスの花嫁を迎えに来られ喜びなさいと言われているようでした。私もこのように神のみ国へ向かうとき主の花嫁とされて、結婚式をするように、葬儀をするならしてほしい。近しい家族にとって悲しみはつきないことです。しかし、再会できる場所が用意されているのです。それゆえにその日を待ち望みつつ過ごされますように祈ります。主の花嫁となるその日を迎えられるよう、主なる神様のみ旨を生きていきたい。今日という日を、主を信じ従って歩もう。主よ生きる力を注いでください。
2007年10月14日
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―愛を示す最善の方法は、一緒に時間を過ごすこと― 『物事の重要性は、どれくらいの時間をそのことのために喜んで費やしたかによってはかることができるでしょう。どれだけの時間を費やしたかが、あなたにとっての重要性と価値を表すことになります。ある人の優先順位について知りたければ、彼がどのように時間を使っているかをみれば良いわけです。 時間というものは、あなたにとっても最も貴重な贈り物です。なぜなら、時間は決められた分しか与えられていないからです。お金なら増やすことができますが、時間は増やすことができません。人のために自分の時間を使う時、あなたはもう二度と戻って来ることのない自分の人生の一部を与えているのです。あなたの時間はあなたの人生そのものです。ですから、時間こそがあなたが人に与えることのできる最高の贈り物なのです。』 《人生を導く 5つの目的》 リック・ウォレン著 本当にそう思うと同時に、人生の一部の時間を人に捧げる最高の贈り物をしているか? 自分だけのためにしか使っていない。神様が私に下さった時間をどのことのために費やしているか?時は刻々と同じ刻みで永遠に過ぎ去っていくこの時を下さった神様の喜ばれ、願っておられることのために費やしていきたい。人に捧げる最高の贈り物として一緒に過ごすことを。
2007年10月12日
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半年ぶりのブログとなりました。時間がなく更新が出来なくなった数日の時からなんだか書けなくなった。2007年初めに、今年は“書きこ”をがんばろうと思ったのにすでに挫折それから、なぜか?『半年位たったら』と思っていた節がある。きっちり、半年と思っていたけれどまた過ぎてしまった。 継続がなかなか出来ないのに、切りの良いときなどども思う自分がいる。強いられてではないのに、書くこととなると何故か自分で強いる自分がいる。 変なの。 この半年の中にもいろいろなことがあった。振り返ると「あ~そういえば」と思い出す。しかし、とうに思い出せないこともある。良かったことも、辛かったことも、悲しかったことも、神様のみ手の中にすべてを渡してしまうように、忘れることが出来るのも恵みですかね。 そんな忘れてしまうことを、チョコットブログに書けば良いのかな?と思っているところ。
2007年10月10日
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1997年4月に隣家が火事にになりもらい火となって一部燃えたところで押さえられた。しかし、火事となってしまった家の他の隣家2件は全焼となってしまった。一部で済んだことが不思議で、神様の守りを感謝したことでした。建物の方はこの程度で済んだのですが、自分の体の方がズッコケて入院となった。肉体の弱さ・痛みを覚えるのも辛いけれど、完治出来る病気の場合は元気になるとその時の痛み・苦しみは、少しづつ癒され、トラウマのように苦しみつづけることはなくなってくるように思う。10年という年月がこんな風に言えるまでにしてくれる。ここにも、神様の癒しのみ手は注がれている。けれど、こころの痛み・苦しみ・辛さは時間が解決してくれるものではないように思う。記憶は多少鮮明で無くなる場合もあるしかし、痛み・苦しみ・辛さは癒されていなければ、その時と同じようにいやその時を上回るように思い出されてきてしまう。主にあって本当に赦され、赦していくことの素晴らしさ喜び感謝。けれど、本当にこの「赦し」を受け止めることの難しさもまた、向き合わされる。10年前頃にも試練の時があった。そして、10年後その時を思い返すと真実に向き合ったのか?と問われる。
2007年03月27日
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とうとう3月になりました。何となく別れがたい人がいます。何でなのかな???自分でもよく分からない。何度もなぜなのか?考えたけれどよくわかんな~い。話が合うと言うのか?相手の立場が似ていて、相談し易いそれより、相談出来るというのがあるかも。(^_^)v別れると言っても、海外に行く訳でもない。いや、今は地球上であるならば、何とか連絡は付くことである。現代は、電話からも、携帯、メールからも離れる事の方が難しい。どんなにしても、連絡が付かない状況の場所にいっても、主にあって共にいると同じことを感じることが、出来るのですから。主なる神様が、聖霊なる神様を通して体感できるのです。「主にある」というインマヌエルの神様は、本当に素晴らしく、ご臨在の主を覚えます。主にあって新しい一年と多くの出会い、新たな月日、時間などなど主にあって幸いが豊かなものとなりますように。
2007年03月13日
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今日2月28日は、父方祖母の誕生日です。2003年1月8日に100歳で主の元に帰って行きました。小柄で、細く、ちっちゃいおばあちゃんでした。 子ども5人、孫15人、今は曾孫15人となっている。祖父は牧師で、祖母が70歳頃に先に主の元に帰っていたので、30年余の日々、新しい思いで信仰生涯を歩んだ。孫の私は、不思議な導きで 17年ほど祖母の近くで歩む日々を与えられた。 月と安行寒桜 今振り返ると、もっといろいろ話をしておけば よかったと思う。 そんな祖母の誕生日の今日、 おばあちゃんの信仰生活を振り返ってみようと思う。
2007年02月28日
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2007年が始まって、1月が「行って」、2月が「逃げて」、3月が「去って」しまう。2月にブログをやっと更新することが出来ました。「あっ」という間に月日は流れて行ってしまうのいですが、2月21日水曜日から受難節が始まる。「四旬節」とも言うし、「レント」とも言う。この期間(主イエスさまの復活された前の日まで)主イエスさまが、私たちのために十字架に向かわれるその苦しみ、掛かられたその苦しみを共に覚えつつ、生活をする。何か、日々の中で克己しながら過ごす。今時「克己」と言う言葉は、一般的でなくなっている。しかし、自分の行動の中で、覚えて行かなければなかなか覚えることは難しい。そんな中「克己」することは、ほんのチョットでも、その苦しみを覚えることが出来るのではないか? ある先生が、このレントの期間チョコレートを食べないと決めていると聞いた。この先生がチョコレートが好きだったと言うことに驚きがあった。なお、チョコレート断ちしていると聞き、一層驚いた。「克己」をするなんて、この先生が?????(ごめんなさい) 今年は、私も、「克己」しつつ、主イエス様のみ苦しみを覚えようと考えた。しかし、以外に難しいことであることを感じている。この先生にならって、チョコレート断ちした。けれど、以外にチョコレート食べるつもりは無いけれど、手にしたものが、チョコット、チョコレートが入っていたりするので、何度か?口にしてしまっている。なんてこった(^_^;)形だけでなく心に主イエスさまを覚えて行きたい。
2007年02月27日
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昨日から一泊で、 ある研修会に参加した。 テーマ 「黙想‐ディボーション」 神様と語らうことが出来る 《しあわせ》 がある。 しかし、現実は なかなか継続が出来ず、 いつも 大きな課題!問題!!!! この度、O教会のH先生から、 O教会に黙想(ディボーション)によって 教会の方々一人一人が神様のお言葉を自分のこととして、聴くことが 出来るように訓練されたこと。この訓練によって信徒リーダーが育ち、 小グループによる教会形成がなされ始めている お話を聞く事が出来た。 レクチャー(ディボーションのやり方)を受け、もう一度(何回目になるのかもう分からないが) 主のみ前に、み言葉と祈りの祭壇を築きなおそうと思っているところです。 この学びに20名の方が参加者でしたが、同じ場・時に神様のみ声を聴き それぞれに分かち合いをすることが出来、嬉しかった。そして、共に祈る時も与えられて、ここにイエスさまも一緒におられると感じた。 初めて会う人でも、イエスさまを通して心を開き祈って頂けることの素晴らしさ。 『キリストにある者』ってすてきですね。
2007年02月06日
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新年あけまして おめでとう ございます。 思いもかけず、一ヶ月以上も更新出来なかったら新しい年を迎えてしまいました。 教会は、クリスマスから新年となりますのでイエス・キリストのお誕生からご挨拶と致します。今年の抱負の一つは、ブログを楽しく書くことかな。 カトリック教会の降誕場面の人形「パレアナのように」というテーマのように、 (以外に大きな人形でした。プロテスタントの 喜びのメッセージを伝えられると 教会では、こんな大きな人形はないのでは? 良いな。 あるかな)
2007年01月03日
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大きな植木3本を、植木屋さんに切ってもらった。どれも素人が切るには、難しいほど大きくなり困っていたのです。針葉樹なので、葉は落ちないために周りが暗くなっています。隣の家にも、これからの冬場は日が入りにくく暗い状態をあたえています。植木屋さんも、「これはすごいな(^_^;)」と、しかし、さすがプロです。すばらしく、見事に、綺麗に、サッパリと散髪してくれました。 教会の女性の作品 ちぎり絵の「ばら」 都会の住宅地では、緑 がなくなっています。大きな庭のある家から大きな木が切られて、夏場には日陰もなくなり、目を、心を 休め癒す緑がなくなっているのは、残念でなりません。大きな木を切らなければならない現状も分かるのですが…。「落ち葉が風に飛んできて、迷惑だ」と考える人もいます。確かにこの思いも分かるのです。 ……。この考えからいくと「ウ~~ン」 我が家も迷惑掛けているな~ぁ m(_ _)m 落ち葉も素敵ですよね。 落ち葉の上を歩くと“カサカサ カサカサ”と気持ちがゆったりとしていないと‘落ち葉’とで遊ぶと言うか、眺めることができないですね。みんなが、そんな『 ユ~タ~リ ー 』とした心に、時々なれるように祈りま~す。私もイライラせず、ゆ~た~りー と。
2006年11月24日
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旅行と言えば、《温泉》となって早、○年。(私の所にはデーターがないので正確な年数は言えないのですが)きっかけは、パートナーの仕事が忙しくなり夏休みに長期(2、3泊)の休みが取れない!!と言うことで、分散するしかないと一泊で秘湯の温泉地に行きました。たまたま予約する日にちも間近なのに、予約が取れました。行って、お部屋の自由にコメントを書くノートを見てびっくりなかなか予約取れにくい宿であるとともに、これまた、めったに取れないお部屋であることが分かったのです。「ラッキーだったね!(^^)! すごいね。」と確かにその次からなかなか取れません。お部屋でした。このことが、温泉にはまり込んでいった最初と思うのです。私は。お気に入りの宿も出来、リピターとなって毎年一回は入りに行く温泉もあります。考えると贅沢だな~と思うのですが、慣れは恐いもので「出かけないで、家でゆっくりしたい。」と、言ってしまう時も出てくる。m(_ _)m今年もあと一回程予定にしている。 残念な話を聞きました。旅好きの方々が声を掛け合って、一緒に旅行に出かけられる。とても楽しいことだと思います。しかし、自分達だけが楽しいければなんでも良いとはいかがなものでしょう?(?_?)同じ宿に宿泊されている方々が、迷惑したり、不快感を感じたりする。それぞれが、楽しく過ごし、素敵な思い出となり、体も心も癒されて元気に気持ちよく帰って行く。(*^_^*) そして、又来たいねと。皆が周りに対する気遣いをしていけば、気持ちよく一時を過ごせることではないでしょうか。(^_^)vぜひ、そうあって欲しいです。自分にも自戒しながら。自然もみんなの財産ですから、大切に、大事にしましょうよ。壊してしまった自然は、なかなかもとには戻りませんから。写真は、旅の帰りに歩いていた山道に咲いていました。
2006年11月23日
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今日は久しぶりにおばあちゃまにお会いした。御年90歳近くになられるはず、でも「え~、私60歳になりました。」とにこやかに笑いながら、話される。確かに、認知症がみられるけれど、その笑顔にこちらも「そうですね!とってもお元気で」と。本心というか。素直に60歳代と思っておられるけれど、それがなんとも素敵な笑顔。声の張りもあり年齢より若く見える。というか若く感じる。ディサービスのホームでは、げんきで走り出してしまうほど、足・腰も丈夫。60歳過ぎまで日舞をされ、老人大学も楽しくてしかたがなかったと聞く。感服致します。<(_ _)> 楽しいおばあちゃまであるが、ご家族の外目には見えない様々なご苦労も多くあるだろうけれど、風邪も2、3年引いたことがないと。元気に、良く食べられ、ディサービスにも楽しんで出かけられる。 お嫁さんを「お母さん」と呼び、頼り切って日々過ごされている。共に過ごしてきた家庭の中で、安心して笑顔一杯ですごせる。ご自分で「頭がお馬鹿だから、しょうがないのよ」と言われながら「おかあさんがいないとだめなのよ」とちいさな子供さんのようにすんなりと話す。こちらの心まで、明るく安心の中に一緒につれて行ってくれるようでした。 素敵なおばあちゃま。このような、年の重ねをしたいな(^-^)と思った。また、おばあさまのところに行って、わたしも笑顔の元気を頂こう。気になることがあると、すぐ眉間にシワが入りっぱなしになるわたくしですから。 チョコット自慢 写真の牡丹は、今年5月に我が家に咲いた牡丹です。 でも、実際は80%近くが、もとい90%かな? (あまり低くするとパートナーの気持ちが、低空飛行になってしまいますので。) 神様の手による作品です。
2006年11月14日
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写真のいぬは、飼い犬ではありません。動物の中で、何か飼いたいと言うならばいぬが好きですので、いぬを飼いたいと思っています。しかし、飼うことにはなっていませんし、飼ったこともないのです。 色々な事情があるのですが、一番は手を掛けてあげられないだろうと思うからです。その点、植物にはかわいそうなのですがだいぶ手を掛けなくても何とかなるかな???と思っているからで…。(それでも、今も現状は家族の手が一杯、一杯注がれています。)お花が好きなのです。でも、至れり尽くせりと言うほどは現実には出来ません。 なので、とても≪ワンちゃん≫には無責任な態度になってしまわないようにと思うからです。 ワンちゃんの写っている様々なのもから、写真を撮ったり、飾ったりして 、満足しいる現状です。人それぞれが責任ある行動を取ることに、心がけたならば世の中は、今の状態でなく優しさと暖かさがもっともっとあることと思います。そう願わずにはいられません。
2006年11月13日
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ドラゴンフルーツ食べたことありますか?ここ10年前頃からだと思いますが、トロピカルフルーツが輸入され食べられることが多くなったと思います。輸入はもっと前からあるのだと思いますが、あまり食べられていなかったのと思います。ドラゴンフルーツは実を切ると、白い果肉に黒ごまのような粒が点のようにたくさん入っています。それと実の外側の色と同じ色の果肉に黒ごまの粒。と2種類あります。 完熟したドラゴンフルーツはおいしいですよ。写真は園芸店に大きな実をつけていました。ですので、取って切るわけにはいきません。 ドラゴンフルーツの花は真っ白なサボテンの花、とても綺麗でした。でも、実は(外側)赤の強いピンク、花と実のそれぞれ色はすごいコントラスですね。 植物も昆虫も各々利にかなった生き方の中で工夫されているのには、いつも感嘆します。(*_*)神様のなされることには、本当に無駄はないですね。窮屈過ぎるのでもなく緩すぎるのでもなく。全てのバランスが良い。私にもそうなんでしょうね。ウ~ん そうなんだ。(^。^;)
2006年11月10日
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「花屋周り」で書いた白いカトレアです。見事なものでした。お値段も!!とても手は出せません。見ることのみで、「すてきネ~~~エ」(*_*)
2006年11月04日
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秋の気候の良い日となった11月3日、久しぶりにお花屋さんに出かけた。花屋と言っても、切り花ではなく、園芸店(ガーディニング)の花屋さん たくさんの人々がたくさんの花々を見ながら、自宅のお庭に咲かせる花を選んでいた。 いつもは、私もそんな感じで花々を見ているのですが、今日は違います。 なぜか? 携帯で花たちを「パシャリ、パシャリ」と写真を撮っていました。ウ~ン! やはり、なかなか上手く写真は撮れません。お金は出して来ませんでしたが、撮るだけは“タダ”と下手でも何枚かは気に入ったのも出るだろうと。 撮りまくりました。 白のカトレアが、リップが紫色、ベルベットのような花びらで、凛と咲いていました。写真のお花は虹色のパンジィーとあったような?りかちゃんと一緒の写真がこの種類のお花についてあったので、りかちゃんのイメージなのかな?世界中の人々が、周りに咲いている小さな花に目を留め、こころが優しくなれたら、ゴージャスな花でなくても、可憐な名もない花でも、神様はその花らしく、着飾って装ってくださる。争いではなく、憎しみでなく、妬みでもなく、笑顔が人々のこころを柔らかくしてなごむこころを、生みだしてくれることと信じる。
2006年11月04日
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カトレアが見事に咲きましたので携帯で写真を撮りました。 でも、花の色合いがちょっと違います。残念です。 カメラや明るさの状況(室内で夜でした。)電灯の光の種類などでも花の色は、 カメラで写したとき違ってくるとのこと。見事に違うのでびっくりしたほどです。 写真のカトレアの色も素敵なのですが、赤紫色がもう少し強かったと思う。 (すでにだいぶ時は過ぎているので、記憶の中から言っています。) 見事に咲かせた人です。と100%言える人はいません。なぜなら、あまり、手を掛けて 上げていませんでしたので。気に掛けていた人はいたのですが、「カトレア咲いてるよ~」 と慌てて見に行った次第です。ですから、咲かせたのは、神様です。 気に掛けていた人たちも、納得してくれるでしょう。(パートナーと家族です) 神様が、この世で一つしかない花を、only one の花を見せてくれました。
2006年10月28日
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私はあまりにも腹立たしかったので、物にあたっていました。こんな体験は今までの中で、なかったように思うのですが。 そんなものですから、後になってもいろいろ考えてしまっています。 聖書の中に、イスラエルの指導者モーセは、イスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯していることを知って、シナイ山で神様から頂いた「十戒」の板(神様が書き記された板)を投げて壊している記事があります。(出エジプト記32章) 私だったら、携帯電話すら一瞬の判断で、「これは投げない」と思って支障のない物を投げているので、ましてや神様が書き記された十戒の板は、投げられないと思う。 「モーセは、激しく怒って、手に持っていた板をなげつけ、山のふもてで砕いた。」 とモーセの怒りのすごさが分かるけれど、これでよかったのかな? モーセの気持ちはどうだったのかな?? (?_?) ??自分とモーセを比べるのが、間違っていると思いますが、何となく気になっています。
2006年10月25日
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ブログを始めて、「何?書こうかな?」と思いつつなかなかPCの前に座ると頭の中が、霧の中にいるような状態。頭の中に手を入れて言葉を引っ張ってきたいようです。 「文章を作らなければならない。」というストレスが、仕事のなかであるのが原因かな? 気持ちをユッタリとさせて、こころの緊張をとりたいで~す。 頻繁に書き続ければ、ゆったりとなれますかね?
2006年10月23日
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ブログの名前を決めるに当たって「何にしようか?」と考えていた時、忘れられない出来事がありました。 記念する日があった前後に、それぞれ違うことでありましたが、大変ショックであり、悲しくもあり、きっと忘れられないこととして、心に重く残るものとなることでしょう。 その出来事で思い知らされたのは、「自分のことが自分で分かっていなかった。」ということだった。 自分の能力・出来るであろうと過信していたことの故に、周りに大きな影響を与えていたこと。周りに負担を掛けていることは気になっていましたが、まあ少し我慢してもらおうと安易に考えていた。自分も苦労しているのだからと、正当化しようとしている自分。だからと言ってこのままで良い訳ではなかったことが、表に出てきたのでした。 アゼン!!とする私であり、そんな姿を知ることになって。ただ呆然!!私って何????? 私自身を全て否定されたようにしか、思えなかった。自分のメンツもあり、周りからの期待もある(この期待に応えられないなんて私ではないと、これもメンツ・プライド、他の人から見ればたいしたものではないと思われるでしょうが) 言葉では、私の思いを全てを表現できないのですが。 そして、もう一つ ある交渉ごとで、相手がこちらの話しを全く聞こうとせず、自分の思うとおりでないと。今までは間にいてくれた人に、怒りをぶちまけた。 そして、その今までは間に入ってくれていた人が、外れて直接交渉相手と「話し合え!」と言った人が、そんなことは言っていないかのように烈火のように、私に怒鳴り、怒り、こちらの話も聞きはしない。 その対応をした私は、「もうやだ!」と私も怒りまき散らした。 物に当たり、投げつけた。 でも、一瞬のうちにこわれると困るものは投げず、壊れにくいのもに当たっていました。 携帯電話を投げようか?と思ったのですが、やめていました。この怒りがおさまるまで、一生懸命自分の正しさを主張して、何度も何度もわめきちらしていたのです。 ある程度時間が経ったとき、こんな状態になった自分が情けないやら、これで良いのだと、ここでも自分の態度は当然であると、正当化しています。 本当にこれで良いの? これで。 言い訳ないよねでも心は素直になれない。こんな思いが数日間あり、ブログの名前を決めるに当たって「あの少女パレアナのようになりたいなあ~」と思わされたことです。 一日、一日笑顔で過ごせること。 心が平安であり、大きな存在に守られ安堵出来る場所で過ごしていきたいです。 このことばに尽きるのだと、聖書の言葉を深く覚えた。 いつも喜んでいなさい、。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに 望んでおられることです。 テサロニケ 第一5:16~18 その後の言葉、19~22節も気になっています。 パレアナのように生きて行きたい。
2006年10月20日
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やっとのことで、書く事が出来ました。このブログを始めるにあたって躊躇していたのですが、「まあすぐに何か書かなくても大丈夫だろう」と思って、登録だけしてみよう!!と登録したのでした。 多くのひとのブログをチョコットみて、どうしようかな??と考えていました。 その後、ブログを開く時がなく数日経ってから開いたら、「う~ん??」なんか変?と。わたしのブログがある~。どうしよう。なんにも書いてないので、まさか登録と同時にブログが立ち上がっているなんて……。まったく予想もしてしていなかった。 こんな状態な者ですから、良くブログのなんたるかも分かっていないで、「とうとう」というか「やっと」というか、今このように書いているのです。 心の準備も出来ていなかったので、開設から10日も経ってしまいました。いまもドキドキしながら、かいています。 私のような勘違いしている人というか、ちょっとおっちょこちょいな人いますかね?でもこれから楽しんでいきたく思っています。 「パレアナのように」もよろしく。 なにも書いていない時に、すでに期待をもって開いてくださる方がおられたこと、ありがとうございます。まずは、ごあいさつとして第1回目を書きました。
2006年10月16日
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