今月14日に文部科学省が公表した次期学習指導要領改定案では、小中学校の社会で「鎖国」という表記をやめ、「幕府の対外政策」に改めるという。そこで今回は、本書に収録されている「鎖国」の解説を紹介しよう。
そもそも「鎖国」とは何か?
「江戸時代、日本は鎖国をしており、オランダ以外どの国とも交易していなかった。幕府はこの政策を幕末まで続けた」
これが「鎖国」というものの一般論だが、最近この“常識”が変わりつつある。ここで、学校で習った「鎖国」をおさらいしたい。
元和2(1616)年、江戸幕府2代将軍徳川秀忠は、ヨーロッパ商人による商取引を禁じ、貿易を長崎・平戸両港に限定した。彼が寛永9(1632)年に没すると、3代将軍家光は翌年、奉書船以外の海外渡航を禁じた。「奉書」は「老中奉書」という許可状のことで、これを与えられた船が奉書船である。
そして寛永11(1634)年、海外からの往来や通商を制限し、翌年には日本人の海外渡航と帰国も禁止。さらに同16(1639)年にはポルトガル船の来航を禁じた。これら、家光が次々と発令した要綱を「鎖国令」といった。
こうして幕府の貿易相手はオランダのみとなったが、寛永18(1641)年にはオランダ商館を長崎の出島に移し、鎖国が完成した——「鎖国」とはざっと、こんな内容である。
だが、家光が寛永10(1633)年に出した鎖国令は、彼が新任の長崎奉行に与えた政務に関する「要綱(条目)」で、実は「法令」ではない。また、当時は「鎖国令」という名称もなかった。
そもそも鎖国という語が使われ出したのは、鎖国完成から150年以上後の享和元(1801)年以降のこと。元オランダ通詞(通訳)志筑忠雄が、ドイツ人医師ケンペルの著書『日本誌』を和訳し、その中の1章を「鎖国論」と名づけたのがはじまりだったのである。
交易を行っていた窓口とは?
名称だけでなく、その実態も鎖国と呼べる状態ではなかった。実は、長崎、薩摩、対馬、松前の4つの交易窓口が設けられ、オランダや中国などから生糸、砂糖、薬、ガラス製品などを輸入するとともに、情報交換も盛んに行われていたのだ。そのため近年、江戸時代の日本は鎖国ではなく海禁状態だったとの指摘も出ていた。「海禁」とは、中国や朝鮮が、一般人の渡航を禁じ、特定の港で限られた国と交易することをいうが、日本もこの状態だったというのだ。
いずれにせよ、これまで「日本は鎖国していなかったことで近代化が遅れた」といわれてきたが、「鎖国していなかった」となると、当時、日本の近代化が遅れていた理由とは、はたして何だったのか。江戸期の「鎖国」の謎は尽きない。
文=色川賢也
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