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2019年03月28日

第6章:トルコで初CM出演!

どうもメルハバ

今回は僕がトルコでスターになったストーリーの始まりの部分です。
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トルコ生活も気が付くと1年近く時間が過ぎ、少し慣れてきたところでした。トルコ語も多少話せるようになり、これからもっと楽しくなるだろうと思っていた矢先、友達から一通のメッセージを受け取ります。

「とあるCMの為に、刀を扱える日本人をさがしている」

なんでも友人の友人がCM制作会社に勤めているらしく、その彼に聞かれちょうど僕が居合道をやっているのを知っていたので、メッセージを送ったんだそう。

「CMぅ?」

と最初は疑いました。多分友人からのメッセージじゃなかったらスルーしてたと思います。まだそんなにトルコ語に自信があったわけじゃないし、そんな外国人を騙そうと企んでんのか?とか考えました。

とりあえず、友人にもうちょい詳細を聞いて欲しい旨を伝え、後日また返事が帰ってきました。

「日本のシャープのテレビのCMらしい。どうやらガチだぞ」

しかもギャラもちゃんと出るとかで、金額を提示されると当時の一般的なトルコの一か月分の給料並みだったし、もし何かあっても、これも経験だ!と腹をくくり友人にOKの返事をしてもらうように言いました。そして後日制作会社に行くことになりました。。。結局は金に目がくらんだと言われてもしょうがない(笑)

2日後、僕は友人に言い渡された住所を頼りに、CM制作会社に赴きました。
そこはイスタンブールの高級住宅街であるエティレル地区で、初めて来た僕はメチャクチャ場違い感を覚えました。入ってみると、連絡を受けていた受付嬢の美女が僕を中まで案内してくれます。お決まりのチャイをいただき、そわそわしながら座っていました。会社内は静かですが洋楽のBGMが流れていて、なんと庭にはプールまで付いているなど、「高級住宅街にあるぜ」と思わせる場所です。だってトルコ人見栄張るの好きだからね。
そしてしばらく待っていると一人の男性がやってきました。

その男は小柄でしたがいかにもテレビ業界にいそうなプロデューサー的な風貌で、名前は「トルガ」というそう。挨拶を交わすと早速CMの内容を説明されますが、いきなり

「テレビを切ってほしい」

「は?冗談ですよね?」

「サムライだから切れるだろ?」

「ちょっとアニメとかの見すぎじゃないですか?」

ホントこんな会話しました。まぁちょっと話していると「冗談だよ(笑)」と笑われ、「デスヨネー(笑)」と返すと面白い奴と思われたのか、 これで採用されました。で、更に詳しく内容を聞いてみると、CGでテレビを切っているように見せるから、実際には切っているように動いてほしいとのこと。トルガ曰く、トルコ人とかがやると全然「キリッ」としたサムライっぽい動きができないから、そういう動きができる経験者が必要だったから来てもらったんだそう。

「それじゃ僕以外にイスタンブールにいるわけないじゃないですか〜。アタリですよ(笑)」

と言うと、後から周りに集まってきたスタッフも一同「ワ〜オ」と和やかな雰囲気になります。

てなわけで概要を説明後、撮影日の日程の確認やCM出演にあたっての契約書を渡され、「友人に一度見てもらっていいから、撮影日にサインして持ってきてくれ」と親切な対応。まぁ外国人に対しての対応としては当然かもしれないけどね。かくして本当にCM撮影に挑むことになりました。


約1週間後、僕はイスタンブールのシシリー地区にある巨大ショッピングモール「ジェバーヒル」の前で撮影クルーのバスを待っていました。その後それらしきバスが到着し、クルーと一緒にセットが組んである現場に向かいます。

そこはシシリーから車で20分ほど離れたマスラック地区にある倉庫のような場所で、そとから見るとちょっと怪しい雰囲気でした。しかし、中に入るとビックリ!そこは映画やドラマ、CMの撮影に特化した専用のセットが組んであり、いくつもの部屋に様々な用途の撮影が可能な作りとなっています。
そして今回の僕らの撮影用に、特別に日本家屋風のセットも組まれていました!初めての体験だったのでちょっと着いて早々フラフラと見回ってしまったほどです。

とりあえずスタッフの人達に挨拶をし、撮影の準備にかかりました。衣装係の人から専用の衣装に着替えるようにと言われ、渡されたのが袴と裃(殿様とかが肩に着るやつ)のようなやつ。袴はまぁ、分かるとして裃はちょっと大げさじゃないかと思いました。しかし、一番面白かったのは「誰も袴の正しい着付け方を知らない」ということです。

「え?あなた着方知ってるの?さすが本物の日本人ね〜」

そんな風に感心される始末です。確かに後に別なCMで、トルコ人がサムライの恰好してるのを見たら、 袴が前後逆でした。

でも彼らに言いたかった。 日本人でも着方知ってる人はそんなにいないと。
しかし、僕以外の人が仮に採用されていたら、はたしてどんな風に着せられていたのか、ちょっと気にはなります(笑)

衣装合わせが終わり、頭にもガチガチにエクステを盛りまくった疑似ちょんまげを乗せられ、これにて準備は完了!いざ撮影タイムです!

その前に、今回のCMの監督である バーキさんに挨拶をします。とても気さくな人で、撮影スタッフも親しみを込めて「バーキホジャ」と呼んでいました。このホジャという単語は、本来は先生・宣教師という意味ですが、撮影現場では「監督」という意味でそう呼ぶこともあります。物腰柔らかいホジャに、早速どんな流れで撮影を行うのか説明を受けます。

今回のCMでは、CGのテレビをぶった切る演出にするため、あらかじめテレビの台が置いてある場所に向かって切りつける動作を行うというものです。
流れとしては以下のようです。

風が吹き付け、ろうそくが消える

気配を察知し、刀を抜きつけ

テレビをKill!

Kill!!

Kill!!!

決めポーズを取って終了。

といって感じです。

「なんだこれだけか。簡単じゃん」

と思いましたが、それが甘い考えだとすぐに思い知らされます。
この時僕は「撮影」というものを良くわかっていませんでした。

このホジャのこだわりは凄まじく、何度も何度もリテイクを余儀なくされ、一つのシーンを終えるのに一時間以上掛けていたと思います。
加えて一つのシーン撮影が終わって次のシーンに移る際の準備が、これまた長く、実際撮影時間よりも待ち時間の方が長い場合も多々ありました。

そんなこんなで最終的には朝の9時にスタートした撮影は、 翌日の朝6時です!?
もう一度言います。次の日の朝6時です。実に21時間拘束されていたことになります。撮影の間に仮眠を取ったりしましたが、後にも先にもこんなに長い間撮影したのはこのCMのみです。
その後も何度もCMやドラマに出ることになりますが、最初に一番キツイ経験をしたことになります。

しかし、その甲斐があってCMは素晴らしいものになり、出来上がって本当にトルコのお茶の間に流れた時は本当に興奮しました!これです!!



テレビで放送されるまでに約2か月待ちましたが、待った甲斐があったというものです!
これを見て、友人達からのメッセージや、CM会社からのお礼のメッセージなどが届き、充実した気分を味わうことができました。そしてギャラも、当時の一般的なトルコ人の給料の約一か月分+αがもらえ、懐もホクホクです(笑)

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感想(0件)




かくして僕のトルコでのスターの道はこうして始まりました。

これから更に面白い体験が待っていますので、こうご期待!

それでは皆さん、ホシュチャカルン!


2019年03月16日

30代の僕がハマった英会話

どうもメルハバ!
英会話.jpg


突然ですが、皆さん英語は喋れますか?


僕はというと、まだそんなに自信がありません(汗)

英語が喋れるようになったら、絶対に楽しいだろうな〜と思います。
僕もそんな内の一人です。

英語喋れるようになって、外国人と友達になりたい!
旅先で困らないために、まずは英語を覚えたい!
海外勤務で英語が必要になるので、仕事をの為に覚えたい!

などなど覚えたい理由は様々だと思いますが、僕は外国人の友人をもっと増やしたいと思うのが理由です。


僕はトルコ語が流暢に話せます。それこそローカル仕込みの喋りで、知り合ったばかりのトルコ人とすぐに打ち解けれるくらい鉄板ネタのジョークを持っているなど、豊富なボキャブラリーがあります。

しかし!・・・英語はてんでダメです(汗)

ホントよくそんなんで外国に行こうと思ったなと、友人にはよく言われます。それにトルコ滞在中、僕の周りの諸外国の友人達は、英語が話せる人がほとんどでした。彼らのほとんどはトルコ語も喋れたので、僕らの共通語はトルコ語でしたが、時々集まって話すとやっぱり英語で話すシチュエーションが発生することがあり、そんなときは一人蚊帳の外状態になるわけで悔しい思いをしていました。

自分も英語喋れるようになりたい!

いつしか劣等感はやる気に代わっていきました。

そして今、日本に帰ってきて僕は自分に合った英語学習の方法を見つけました。
それは・・・
レアジョブ英会話
です。

このプログラムは、スカイプを使って現地の英語が話せる講師を相手にレッスンを受けるというもので、講師は全員 フィリピン人 です。

フィリピン人の英語ってどうなの?と思った方、僕も最初はそう思いました。

調べてみると、フィリピンの公用語は英語とタガログ語です。つまり、日常的に英語を話しているということです。なんで英語が公用語なのかは、フィリピンの歴史に関係していますが、ここは割愛します。

一度トルコで、フィリピン人のツアーグループを目にしたことがありました。トルコ人のガイドは英語で説明していましたが、グループの数人が質問をしたとき、フィリピン人達はその ガイドよりも流暢な英語を話していました。あくまでも喋りのスピードとか発音とかで判断しただけですが、素人目にも「上手い」と思わせるには十分な会話でした。

そういうこともあって、ネットでこのプログラムを見つけた時は興味が沸きました。しかもレッスン料が安い!料金の例を挙げると以下のようです。

・日常英会話コース
?@月8回プランーーー4200円(カウンセリング付き5180円)+税

?毎日25分レッスンーーー5800円(カウンセリング付き6780円)+税

・ビジネス英会話コース
?毎日25分レッスンーーー9800円(カウンセリング付き10780円)+税

・中学・高校生コース
?C毎日25分レッスンーーー9800円(カウンセリング付き10780円)+税


こんな感じです。ちなみに僕は?番のカウンセリング無しのコースを続けています。
カウンセリングというのは、学習の仕方が分からなくなったり、レッスンの自動予約などをしてくれる言わば学習を円滑に続けるためのマネージャーのような存在です。このカウンセリングを担当するのはもちろん日本人です。なぜ僕がカウンセリングを必要としなかったかですが、自分に何が足りないかが明確に分かっていたからです。そうでない方は、このカウンセリング込みのパッケージを購入するとよいでしょう。

そしてなんと、このレアジョブには始めるにあたり お試しのレッスンが計2回受けられます

やり方は簡単、まずはもちろんスカイプを準備します。そしてレアジョブのサイトに行って会員登録(無料)をします。
するとすぐに講師が選べるようになり、教師を選択してレッスンの予約を受けます。
あとはレッスンの時間を待つのみです。初めは流石の僕も少し緊張しましたが、まあなんとかなります。だって彼らも同じ人間ですから :)

ちなみに僕は、スマホとイヤホンのみでレッスンを受けています。スカイプとレアジョブのアプリをダウンロードすれば、いつでもどこでもレッスンが受けられます。


そもそもレアジョブの講師達には、それぞれ得意分野のマークがついています。
初心者向きのマークだったり、実用英会話に特化したマーク、TOFELスピーキングに対応した講師など様々です。各講師のページには、自己紹介の音声と経歴、日本語レベルなどが記載してあるので、じっくり選んで自分に合った講師を選択しましょう。


お試しレッスンが終わると、講師があなたの英語レベルを教えてくれます。ちなみに僕はレベル5(10段階中)でした。これからレッスンでやるべきことや、レアジョブ内のどの教材をもとに進めたらいいかなどを教えてくれます。本登録はその後任意なので、ここでもし「やっぱり合わないな」と思ったら退会すれば問題ありません。

レアジョブ内には日々勉強するための教材も準備してあり、予習をするのにはもちろん、レッスン時に選択すれば講師はそれに沿って授業を進めてくれます。だからある程度授業内容が予測できるのがいいところです。もちろんフリートークに設定もできますが、それだとボキャブラリーが少ないうちは会話が成り立たない状況になることが多く、僕は最初のころ講師に「教材に沿って進めた方がいいよ」と言われました(汗)


僕はこのレアジョブ英会話を始めて、このブログを書いている時点で2か月目です。最初は気の合う講師を見つけるのに時間がかかりました。このシステムのデメリットを上げるとしたら、講師が多いので、当たりハズレがあるということです。もちろん講師として登録しているので、きちんと教える能力があります。ただ、少々経験不足だったり、発音が聞き取りづらい、そしてどうしても自分と気が合わないという人も稀にいました。
しかし、そういう時はレアジョブ運営局にメッセージを送ると、気の合わなかった講師をリストに表示させないとか、レッスン回数を増やすチケットをくれるなど対応もしてくれます。なんだかちょっと世知辛いですが、こちらはお金を払っているので利用できるものは利用しましょう。

今では気の合う講師を4人ほど見つけ、ほぼ毎日ローテーションでレッスンを受けています。レッスン中に間違った表現を使えば即座に直してくれるし、終了後には今日のポイントなどを細かく分析してくれるなど、たった25分ですがとても充実したレッスンを受けれています。発音も個人差はありますが、今のところ特に問題は感じません。そして何より僕が気に入ったのは、フィリピンの人達はとても陽気な人たちが多く、楽しませてくれるところです。

僕の目標は2020年のオリンピックまでに日常会話をマスターすることです。様々な国から来る外国人と友達になれるチャンスなので、それまで続けていきたいと思います!

皆さんも親しみやすいフィリピン人の人達と英会話初めてはいかがですか?

興味が沸いた方は、下のリンクからどうぞ。
↓↓





posted by エミル at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語

2019年03月11日

3月11日

どうもメルハバ。

3月11日は日本人、特に東北出身の人達には忘れられない日です。そしてそれは、福島生まれの僕にとっても大きな意味をもちます。僕はこの日に起こった東日本大震災を境に、人生が180度変わりました。もちろんこれは、東北に住んでいた全ての人に当てはまることですが、僕がトルコに行ったのは、この震災がキッカケと言っても過言ではないのです。それくらい僕の人生において忘れることができない日なんです。

あの日、僕は宮城県の仙台市にいました。用事があって仙台に来ていて、それが終わってお気に入りのバウムクーヘンを買うためいつものケーキ屋にて列に並んでいました。なんの変哲もない、いつも通りの日常でしたが、どのバウムクーヘンを買うか悩んでいた次の瞬間 「グラリ」

「何かいつもの地震と違う」

そう思った僕は、すぐさま出口に向かって歩き出しましたが、その数秒後に大きな音とともに激しい揺れが始まりました。出口に向かうまでに、商品棚のお酒や飲み物が一斉に落ちて割れるほど揺れ、やっとのことで地上に出ると僕は衝撃を受けました。それは1分だったか5分だったか、一切止むことがないように思えるくらい長い時間に思えるほどで、周りの建物は揺れ、高層ビルは"しなって"いるかのように見えました。その影響であたりには轟音が鳴り響いていました。僕の他にも地上に人はいましたが、全員何が起こったのか分からないような状態で同じく呆然と立ち尽くしています。

しばらくして揺れが収まると、みんな我に返ったように一斉に電話をかけ始めます。僕もちょうどその日は仙台市内に父と弟が来ていたので、連絡を取ろうとしますが繋がりません。仕方がないので父の勤め先まで歩こうとしましたが、この時突然雪が降り始めてきました。ここ数日は天気も良く、春のような気温だったので薄着で来ていたので、突然の寒さに耐えられず、仕方なく仙台駅内に戻ります。
周りはパニックで、いたるところから煙が立ち上がり、ところどころ道路が隆起していて道行く人々は右往左往しています。僕もどうしたらよいか分からず、やることといえばしきりに電話をかけることしかありませんが、運よく30分後くらいにやっとのことで父に電話がつながり、すでに弟とは合流していたようなので一緒に家へと急ぎます。

仙台市内から僕の家までは、当時は高速道路などなく、国道6号線(通称ロッコク)を車で約2時間かかります。しかし、道路が隆起していたり、途中津波に侵食されて通れなくなっていたりといくつものアクシデントが発生し、大きく遠回りしなければならなくなります。しかも途中ラジオで、ウチから200mほどしか離れていない近所の老人ホームが流されたというニュースが聞こえてきたため、僕らは焦ります。何せウチから海までは約2キロほど離れており、過去に一度も津波が来たことなんてなかったので、これを聞いたときはいったい何が起こっているのか、もうパニック状態でした。

やっとの思いで家の近くまで来ると、またしても信じられない光景が目に入ります。畑のいたるところに、あるはずのない漁船が散乱していたのです。異世界に迷い込んでしまったような異常な光景が広がっていました。
正直もうダメだと思いました。ここまで津波が来ているなんて想像すらしていなかったので、家も倒壊しているのを覚悟しました。

そして家に到着したのは、地震から約7時間後の午後10時です。

そこには瓦礫の山が広がっていました・・・

初めは暗くてよく分かりませんでしたが、目を凝らすと明らかに不自然な塊が山になっているのに気づきます。
どうやら津波は、ちょうど僕の家で止まったようです。

家の庭には、海から流されてきた瓦礫と、この時は気づきませんでしたが死体も一緒に流されてきていたのです。もの凄く気分が悪くなりました。

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※これは実家から歩いて5分ほどの場所から撮った当時の写真です。

今朝まで普通に生活していた環境が、たったの数時間で変わってしまったのを見て、ショックなんて言葉では言い表せないような感覚に陥りました。唯一の救いは、家族には何もなかったことです。津波発生と同時に町内にサイレンが鳴り響き、家に押し寄せる前に逃げたそうです。
が、当然家には住めなくなってしまったので、市内の親せきの家にとりあえず避難することになりました。
とりあえず全員無事だったとのことで一安心したのも束の間、もっと最悪の出来事が発生します。

福島第一原発の屋根が吹き飛んだ

この時は本当に全員が耳を疑いました。ここから原発までは約30Kmしかなく、放射線の影響が広がるのは明確です。それと同時に外が騒がしくなってきました。
同じように放射線の影響を恐れた住民が、一斉に市外に避難し始めたのです。
自分たちもこうしてはいられないと、最低限の荷物だけ持って着の身着のまま車に乗り込みます。僕ら一同は、福島市にいる親戚の家を目指すことになりました。

親戚の家に到着し、とりあえず一休みできましたが、やはり人数も多く、長くはお世話になれないということで、僕らは直ぐに福島市内にある避難所に移ることになります。そこは市街から少し離れた体育館で、既に大勢の同じように避難してきた人達で溢れていました。
入所の手続きのため、入り口に向かうと、防護服を着た数人の検査員が、新しく来た人達の放射線量を一人一人量ります。この時はまるで自分が「人間じゃない何か」になってしまったような気分でした。

そこから避難所生活が始まりましたが、僕が経験したなかでも特にひどい思い出です。

「昼夜相次ぐ余震で建物がひどく揺れ、轟音が響く」
「夜中に具合が悪くなって運ばれる老人達」
「親が見つからなくて夜中に泣き叫ぶ子供」

極めつけはその場にいる全員の地震速報アラームが、余震が起こる度に一斉に鳴り響くことです。ただでさえ心臓に悪いあの音が、数百台一斉に鳴るところを想像してください。恐怖でしかありません。

そんな生活が2週間ほど続きましたが、そんな状態でも時々実家に帰って少しずつ掃除をし、ようやく住める状態にまで回復しました。自衛隊の方々のおかげで、家の周りの瓦礫もほとんど撤去されており、電気はなくとも我が家で過ごすことの喜びを再び味わうことができたのは嬉しいことでした。こんなにも家族がいることののありがたさや、一緒に食事ができるという喜びは後にも先にもないでしょう。

そんな状態が更に一週間ほど過ぎたある時、運命のトルコ滞在プログラムを見つけます。これについては、別なブログにて説明してあるので読んでいただければと思います。

IMG_20180223_120321.jpg
※2018年に撮った同じ場所の写真

あれから8年が経ちました。今でも僕はあの日のことを忘れません。というより、忘れることなんてできないです。何年経っても、3月11日の14:46分が近づくと気分が悪くなって感傷的になります。

でも、この震災後に一つだけ学んだことがあります。

それは「諦めなければきっと次に進む扉が見つかる」ということです。

これはトルコにある諺から学んだ部分が大きいのですが、地震の後に自分が歩んできた道を振り返ると、正にそうだとしか思えないんです。時に人生は、自分の力ではどうにもならないことが起きます。そこで運よく助かっても、目の前には何もなくなっているかもしれません。でもそこで諦めてずっと同じ場所に留まっていたら、何も起きないんです。だから動き続けるしかない。動いて動いて、そうすればきっと別な扉が見つかるんです。

こんな震災は二度と起きてほしくないです。日本だけではなく、世界中で起きないことを祈ります。僕らができることは、常日頃から「明日は何が起こるか分からない」と少なくとも頭の片隅には置いておくことなのかもしれません。


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福島県生まれ。2011年の東日本大震災後、運命のトルコに移住。そこでタレント生活を送り、トルコ人女性と結婚。2017年に家族を連れて日本に本帰国。現在日本に本当のトルコの魅力を伝えるため奮闘中。
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