2019年04月06日
十把一絡げズ 第78回 「モンゴル帝国」
こんにちは、酒保です。
十把一絡げズ再開です。
モンゴル帝国は13世紀の初めにチンギス=ハンが遊牧民の諸部族を統一して築いた国家です。
チンギス=ハンとその子孫は、東アジアから西アジア、東ヨーロッパまで攻め入り、ユーラシア大陸をまたぐ広大な地域を支配しました。
その強みは騎兵でした。
遊牧民族であるモンゴル帝国の人たちは、馬に乗ることは大得意です。
そのため、馬に乗りながら弓を放ったり、剣を振ったりというほかの国では特殊技能であったことをかなりの人が実行可能でした。
また、その移動速度は人の足では追いつけません。
特にヨーロッパの方では、遠くから弓で射られ、走って追いつこうとしても馬で逃げられる、ということを繰り返し、モンゴル軍には全く勝てなかったといわれています。
しかし、この広大なモンゴル帝国による支配は、必ずしも悪影響ばかりではありませんでした。
広大な地域を支配する国の常ではありますが、様々な文化がほかの地域に伝わったのです。
このモンゴル帝国による支配では、中国の火薬や羅針盤などがヨーロッパに伝わりました。
これにより、銃の発明や大航海時代につながっていくわけです。
結局、モンゴル帝国は14世紀にはゆるやかに解体されていきます。
やはり、ローマ帝国やマケドニア王国のように、大きくなった国家は内部分裂を繰り返して消滅していしまうのが世の常なのでしょうか。
情報の伝達速度や軍隊の進軍速度などが、内部分裂をせずに国を治められる大きさを決めるとも聞いたことがありますが、このころの馬が最速という状況では解体は避けられなかったでしょう。
歴史は繰り返すといわれていますが、モンゴル帝国はまさにその言葉通りであった国です。
古代の大帝国と同じように侵略により大きくなり、内部分裂により滅びます。
今現在の日本と同じような環境に置かれた国も、過去にはあったかもしれません。
そういった国について勉強、研究することで将来起こりえる危機やその回避方法を学ぶことができるでしょう。
私は、歴史を学ぶ意義はそういったところにあるのだろうと考えています。
チンギス・ハン モンゴル帝国をきずいた草原の勇者 (学習漫画・世界の伝記) [ 古城武司 ]
価格: 972円
(2019/4/6 00:59時点)
価格: 1,296円
(2019/4/6 00:59時点)
2019年03月22日
十把一絡げズ 第77回 「鎌倉文化」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉文化についてやっていきましょう。
鎌倉時代の文化は 武士の気風を反映した文化財が多くあります。
文学作品では以下の4つは覚えておきましょう。
・ 琵琶法師によって語られた「 平家物語」
・ 鴨長明の「 方丈記」
・ 兼好法師の「 徒然草」
・ 藤原定家らが編集した「 新古今和歌集」
平家物語は有名ですね。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」のフレーズは聞き覚えがあるのではないでしょうか。
国語の授業などでも扱われる有名どころですが、その内容は平清盛を輩出した平家の栄華と没落を描いた軍記物語となっています。
私が好きなのは徒然草です。
兼好法師が思いついたことをつらつらと書き記したこの書は、当時の人たちの様子についてもうかがい知ることができます。
そして、その内容も「四季が移ろうところが美しい。秋が一番というが、春がよいと思う」とか、「色気にまどわされるのは仕方がない。仙人も惑わされているのだから」とかいった兼好法師の趣味についての話から、「字が下手でも手紙は書くべきだ」「やるべきだと心に決めたら他のことには構わずにやり遂げるべきだ」といった教訓話までいろいろと書かれています。
昔から人間の考えることは変わらないな、と思わされる徒然草は、ぜひ読んでみてもらいたい書の1つです。
書物以外では、 金剛力士像も鎌倉文化を代表する作品です。
運慶ら仏師が作り上げたその像は、武士の気風をこれでもかというほど表しています。
国風文化までの仏像が、 菩薩などの優し気な顔をしていた ことを思い出していただけると、その違いについて感じ取れるのではないでしょうか。
このように、鎌倉文化はこれまでとは大きく異なった文化となっています。
公家(貴族)の文化である国風文化と武士の文化である鎌倉文化、その違いを比較して覚えておきましょう。
まんがで読む平家物語 (学研まんが日本の古典) [ 薙澤なお ]
価格: 1,404円
(2019/3/21 22:02時点)
価格: 658円
(2019/3/21 22:01時点)
2019年03月18日
十把一絡げズ 第76回 「鎌倉時代の仏教」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉時代に新しく発生した仏教についてやっていきましょう。
新しい仏教については表などにまとめて、しっかり覚えておきましょう。
特に、開祖と宗派はしっかりまとめましょう。
法然:浄土宗
親鸞:浄土真宗
日蓮:日蓮宗
一遍:時宗
道元・栄西:禅宗
以上が覚える宗派一覧です。
特に、浄土真宗は今後 一向宗という名で歴史に絡んできます。織田信長と戦ったことは有名ですね。
さて、この鎌倉仏教は、簡単で分かりやすいということから民衆に広く広まりました。
浄土宗や日蓮宗は 題目を唱えるだけですし、時宗などは 踊念仏ということで文字が読めなくても問題がありません。
ただし、禅宗だけは、 座禅による厳しい修行で自ら悟りを開くことを目的としており、武士に支持されました。
それぞれの特徴もセットで覚えておきましょう。
2019年03月16日
十把一絡げズ 第75回 「鎌倉時代の農民」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉時代の農民の様子についてがテーマです。
鎌倉時代の初期、農民たちは 荘園領主と 幕府の二方向から税を課されていました。
労役と税の 二重支配に苦しむ農民の訴えも残っています。
その状況が解消されたのが承久の乱です。
朝廷が戦いに敗北し、幕府が全国を統一的に支配をすることになり、税も一本化されます。
これにより、本格的に武士による支配が進んだといえるでしょう。
また、それ以外にも水陸の交通の要所には、年貢などを運ぶ 問丸が現れ、商品を交換する場として、市が定期的に開かれるようになりました。
問丸は現在の問屋の語源ともいわれているものです。
少しずつ様々な変化が起こり、その後の時代の基本的な背景が出来上がっていきます。
歴史の教科書では起こったことを中心に覚えることになりますが、実際の歴史は小さな発展の連続が今に続いているような形です。
正直、重要な話でもなんでもないのですが、そういった視点も大事にしていきたいですね。
2019年03月12日
十把一絡げズ 第74回 「鎌倉時代の農村」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉時代の農民の様子について、やっていきましょう。
鎌倉時代の農村では、「 かんがい 」という田に水を引いたり、水田を排水して畑にしたりする技術が発達しました。
また、近畿地方を中心に、稲と麦の二毛作が行われるようになります。
二毛作 というのは、「一年のうちに」「同じ土地で」「 違う作物(米と麦)」をつくる農法です。地理で習う「 二期作 」は「一年のうちに」「同じ土地で」「 同じ作物(米)」をつくる農業なので、違いをしっかり覚えておきましょう。
さらに、鎌倉時代において 牛馬や鉄製の農具 、 草木を焼いた灰や糞尿の肥料 も使われはじめたことで、農業生産能力が大幅に高まりました。
ここで気を付けてもらいたいのが、鎌倉時代においては、上記の取り組みが「 始まった」ということです。
室町時代になると、今度は上記のような取り組みが「 全国に広まった」という説明になります。
いつの話をしているのかを判別する際に、「二毛作」「牛馬耕」「肥料」などといった言葉だけで「鎌倉時代の話だ」と判断すると誤ってしまう可能性があるということです。
中学生のテストの結果を見ていると、よくある間違い方として、「 問題をしっかり読んでいない」ことが挙げられます。
問題は、「ヒントとなる文章」「問いかける文章」「答えを書く際に書かなくてはいけない条件を伝える文章」などにより構成されています。
しかし、読んでいる途中で「答えはあれだな」と予想がつくと、それ以降を読まない人が多くいるのです。
いや、むしろ程度の話であって、ほとんどの人がそのようになっているでしょう。
こういった間違いの積み重ねが最終的に大きな結果となって返ってくるわけですから、そうならないよう気を付けてください。
2019年03月11日
十把一絡げズ 第73回 「御成敗式目」
こんにちは、酒保です。
今回は御成敗式目についてやっていきましょう。
御成敗式目は、1232年(貞永元年)に北条泰時らによって定められました。
別名の「貞永式目」はこの元号からとってつけられた名前ですね。
51か条からなるその内容は、公家とは異なる武家社会の慣習や、源頼朝以来の裁判の判例などに基づくものでした。
よく出題される、「御成敗式目が定められた目的を書きなさい」という問題の回答としては、「 裁判の基準とするため」というのが多いですね。とにかく、裁判に関連させて回答しなくてはになります。
さて、そもそもなぜ御成敗式目が制定されたのでしょうか。
六波羅探題の奉行をやっていた斎藤唯浄が著した「唯浄裏書本」によると、以下のような理由があったようです。
・あらかじめ裁判の決まりを定めて、当事者の地位が高いか低いかにかかわりなく、えこひいいきのない裁判が下されるようにしたかった。
・当時の法である律令は、武家や民間の中でそれについて知っている人は100人、1000人いて1、2人いるかいないかという状況だったため、いざ裁判となると律令に詳しい法曹官僚がえこひいきしてしまうことがあった。
・そのような状態であったことから、漢字が読めない人でもあらかじめ考え、 判決もころころ変化しないように、式目を書き置いた。
こういった法律を制定した目的や理由が書かれているものを読むと、その法律が制定されたときの事情が想像できます。
裁判の基準を定めたということは、逆に言えば「 それまでは裁判の基準がはっきりしていなかった」上に、「 それによって、不満や問題が発生していた」環境であったことがわかるのです。
今から考えると不思議な法規はいろいろあります。しかし、そういった法規から当時の環境や状況を逆算して考えることは、歴史を学ぶ面白さだと思います。
それぞれの教科の面白さのほとんどは、教科書に書いていない部分や教科書のわきに書かれた部分だと私は思います。
みなさんも、ぜひ教科書よりも一歩進んだ面白さを追求してみてください。
【中古】 詳説 日本史史料集 再訂版 / 笹山 晴生 / 山川出版社 [単行本]【メール便送料無料】
価格: 229円
(2019/3/10 13:51時点)
2019年03月05日
十把一絡げズ 第72回 「承久の乱戦後処理」
こんにちは、酒保です。
今回は承久の乱による社会への影響がテーマです。
承久の乱の影響は大きく分けて下記の3つです。
・ 上皇らを追放した。
・ 京都に六波羅探題をおき、朝廷を監視した。
・ 上皇に味方した公家や西国の武士の土地を没収して、新たに東国の御家人をその土地の地頭に任命した。
→これにより、 幕府の支配が西国まで及ぶこととなった。
中学校の歴史ではこの3点を覚えておけばOKです。
それ以外では、これにより朝廷が鎌倉幕府にはばかって細かいことまで指示をうけることとなりました。
その指示は皇位継承にまで及び、後醍醐天皇が不満を持った 文保の和談につながります。
文保の和談は後深草天皇の子孫( 持明院統)と亀山天皇の子孫( 大覚寺統)の両血統の天皇が交互に皇位を継いでいくという合意です。
実際は合意していなかったという説もありますが、鎌倉幕府にはそれを強要する力を持っていたことは確かでしょう。
結局、承久の乱の影響はかなり大きく、社会の構造は大きく変わりました。
教科書では割と簡単に書かれていますが、その影響はしっかり覚えておく必要があるでしょう。
戦いがあった時には、「 原因 」「 結果 」「 影響 」の3点をしっかり抑えておくのが歴史の勉強の鉄則です。また、1つの戦いの終わりはほかの戦いの始まりだったりしますので、そのつながりを見つけていくことは有意義なものとなるでしょう。
歴史の勉強の参考として見てください。
2019年03月01日
十把一絡げズ 第71回 「承久の乱」
こんにちは、酒保です。
今回は承久の乱がテーマです。
承久の乱は、源氏の将軍が絶えたことを好機と見た後鳥羽上皇が、順徳上皇と土御門上皇とともに幕府に対して挙兵したことで始まった戦いです。
有名なのは、このときに北条政子がぶった演説ですね。
「武士たちは、以前は3年の都の警備を終えたとき、費用を使い果たしてとぼとぼと歩いて帰ってきたではないか。頼朝公はそれを哀れに思い、3年を半年に縮め、生活が成り立つようにされたのだ。
この情け深い御心を忘れて、京都に味方するのか。それとも鎌倉にとどまって、将軍家に 奉公するのか。
今はっきりと申してみよ。」
この演説を聞いた御家人は感動し、鎌倉幕府の見方をしたといわれています。
以前にもお話しした通り、鎌倉時代の御家人は割とドライな関係を結んでいました。
実際、この時も政子が演説をする前までは、勝ちそうなほうに味方しようと思っていた人もいたそうです。
結局、鎌倉幕府に味方した大量の御家人たちにより、後鳥羽上皇たちは敗北しました。
演説による戦意高揚や鼓舞には意味があると思いますが、これほど勝利に影響を及ぼしたものは思いつきません。
正直、北条政子はあまり好きではないですし、教科書でも重要視されていませんが、そのあとも武家政治が続いた理由の一つではあったかもしれません。
政子がいなければ、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
価格: 500円
(2019/3/2 00:46時点)
2019年02月28日
十把一絡げズ 第70回 「執権政治」
こんにちは、酒保です。
今回は執権政治についてです。
執権とは 鎌倉将軍の補佐を行う役職です。
しかし、3代目将軍源実朝が暗殺されて源氏の将軍が途絶えたあとは、執権が政治の実権を握っていきます。
朝廷や摂関家から鎌倉殿を迎え、それをお飾りにして執権が政治を行っていくような形です。
この執権政治は鎌倉幕府滅亡まで続きます。
初代執権である 北条時政。
御成敗式目を作った 北条泰時。
元寇への対応を行った 北条時宗。
最後の執権 北条高時。
有名どころではこのくらいでしょうか。中学校で覚えるのは時政、泰時、時宗の3人です。
この執権政治、北条氏による独裁と思われがちですが、末期を除いてその意思決定には合議制が採用されていました。
合議制というのは、複数の人の会議によって意思決定がされる形式です。鎌倉幕府では、有力御家人による合議制だったといわれています。
結局元寇の後から得宗専制と呼ばれる執権の独断政治が始まります。
そのため、執権政治=独裁という考えも、まったく間違っているわけではないですが、初期の鎌倉幕府においては御家人の意見を聞いて政治を行うこともあったことは覚えておきたいですね。
また、少し話はずれますが、独裁政治と専制政治の違いは、教科書では取り扱われていない内容です。
違いのキーワードは身分です。 専制政治は身分が高い人が独断政治を行うこと、 独裁政治は身分が高くない人が独裁政治を行うことを指します。
つまり、エリザベス1世などの王様がやるのが専制政治、ヒトラーなどの一般人がやるのが独裁政治、という感じです。
教科書では特に説明もなく「専制政治」と「独裁政治」が入り乱れて使われていますが、しっかり違いを覚えることで教科書の内容をよく理解することができます。
これは社会科に限った話ではありませんが、わからない言葉が出てきたらきちんと調べるようにしましょう。それが、理解を深め、その教科の成績を上げる1つの方法だと私は思います。
北条時政と北条政子 「鎌倉」の時代を担った父と娘 (日本史リブレット) [ 関幸彦 ]
価格: 864円
(2019/2/27 17:12時点)
北条高時と金沢貞顕 やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡 (日本史リブレット) [ 永井晋 ]
価格: 864円
(2019/2/27 17:13時点)
2019年02月27日
十把一絡げズ 第69回 「武士の暮らし」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉時代の武士の暮らしということでやっていきます。
鎌倉時代の武士は、農作物なども作っていました。
武芸一辺倒というわけではないのですね。
しかし、だからと言って農民と同じ生活をしていたわけではありません。
将軍から声がかかれば奉公しなくてはいけないので、武芸の訓練にも励んでいました。
そのため、武家の屋敷には弓矢の的や馬小屋などがあり、訓練をする環境が整えられています。
教科書などでもつかわれている絵図を見ると、その他にも塀や堀で囲われていること、鷹を飼っていたこと、門番などがいたことなどがうかがえます。
それ以外の仕事としては、将軍から任じられた地頭や守護としての仕事などもありました。
結構忙しい感じだったのですね。歴史を学ぶ上で、もっとも面白いのは戦いや事件などの「大きな出来事」だと思います。
しかし、こういった普段の生活というのも、調べてみると面白いものがたくさんあります。
最近ではトイレの歴史についての漫画が紹介されていましたが、他にもお酒やお菓子、ゲームなど、細かく分類したうえでの歴史なんかも面白いものがあります。
みなさんも、自分の好きなものの歴史を調べてみると、新しい楽しさを発見できるかもしれませんよ。
異世界のトイレで大をする。(1) (ヤングチャンピオン烈コミックス) [ ルーツ ]
価格: 648円
(2019/2/26 17:49時点)
【中古】 図説 和菓子の歴史 ちくま学芸文庫/青木直己(著者) 【中古】afb
価格: 1,200円
(2019/2/26 17:52時点)