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2018年09月04日
9月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
西ローマ帝国の滅亡日です。
395年にローマ皇帝 テオドシウス1世(位379-395)が没しました。彼は遺言として、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男 ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じ、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承しました。
これによってローマ帝国(紀元前27-紀元後395)は東西分裂、西は 西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(395-1453。ビザンツ帝国)として別々の道を歩み始めました。
ローマ帝国の方を引き継いで、西ローマ皇帝となった ホノリウス(位395-423)は政治には無能で、ゲルマン民族の侵入や横暴が激しかったため、テオドシウス帝の信頼が厚かった スティリコ将軍(365-408)が軍務と政務にあたりました。スティリコ将軍はゲルマン一派のヴァンダルの血を引いており(父がヴァンダル人、母はローマ人)、娘はホノリウスの妃でした。また同じくゲルマン一派の 西ゴート族は アラリック王(位395-410)の下で強大化し、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回りました。402年、西ローマは、アラリック王のイタリア侵攻の際にラヴェンナに遷都しましたが、イタリア全土は既に異民族の蹂躙によってかき回されていました。それでもスティリコはアラリックと対戦してアラリックを敗退させ、侵攻を再度にわたって阻止しました。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままでした。
官僚や元老院は、次々と軍功をあげていくスティリコを疎ましく思っていました。当初は皇帝も幼少であったため、スティリコを黙認せざるを得ませんでしたが、スティリコはヴァンダル族出身だけに、アリウス派(ローマ領内では異端とされ、領外のゲルマン民族が信仰したキリスト教宗派)を信仰している異端者というぬぐえないレッテルを貼られ続けました。遂に皇帝側近の反スティリコ派は、成人になったホノリウス政権を確立させるために、讒言によってスティリコを処刑、ホノリウス自身もこれを受け入れたのです(408年)。スティリコ没後、アラリックはイタリア侵攻を再開し、410年に一時的であるがローマ市を陥落させて、略奪行為を行いました。418年、西ゴート族はイベリア半島において、遂に独自の王国を樹立しました。これが 西ゴート王国です(418-711)。
ホノリウス帝のこの体たらくにより皇帝の権威は失墜、その後もヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んでいきました。民族移動の影響が少なく、安定していた東ローマ帝国と違い、西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的に統治していたのはせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいでした。423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命でした。このため、傭兵として雇われたゲルマン人が将軍となって、実質的に実権を握っていき、他ゲルマンの侵攻を阻止するという事態も一般化していきました。 451年には民族大移動の原因をつくった フン族が、大王 アッティラ(位433-453)の下で西ヨーロッパ侵攻を行い、西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦って勝利を収めましたが( カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握る傾向にありました。傭兵隊長は皇帝の権威も動かし続け、西ローマ皇帝を追放し、自身の子を即位させることもありました。
476年、ゲルマン人傭兵隊長・ オドアケル(433?-493)は、当時の西ローマ皇帝 ロムルス・アウグストゥルス(位475-476)9月4日にを廃位させ、オドアケル自身はイタリア王位(476-493)を名乗ったことで、西ローマ帝国は滅亡となりました。
395年にローマ皇帝 テオドシウス1世(位379-395)が没しました。彼は遺言として、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男 ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じ、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承しました。
これによってローマ帝国(紀元前27-紀元後395)は東西分裂、西は 西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(395-1453。ビザンツ帝国)として別々の道を歩み始めました。
ローマ帝国の方を引き継いで、西ローマ皇帝となった ホノリウス(位395-423)は政治には無能で、ゲルマン民族の侵入や横暴が激しかったため、テオドシウス帝の信頼が厚かった スティリコ将軍(365-408)が軍務と政務にあたりました。スティリコ将軍はゲルマン一派のヴァンダルの血を引いており(父がヴァンダル人、母はローマ人)、娘はホノリウスの妃でした。また同じくゲルマン一派の 西ゴート族は アラリック王(位395-410)の下で強大化し、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回りました。402年、西ローマは、アラリック王のイタリア侵攻の際にラヴェンナに遷都しましたが、イタリア全土は既に異民族の蹂躙によってかき回されていました。それでもスティリコはアラリックと対戦してアラリックを敗退させ、侵攻を再度にわたって阻止しました。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままでした。
官僚や元老院は、次々と軍功をあげていくスティリコを疎ましく思っていました。当初は皇帝も幼少であったため、スティリコを黙認せざるを得ませんでしたが、スティリコはヴァンダル族出身だけに、アリウス派(ローマ領内では異端とされ、領外のゲルマン民族が信仰したキリスト教宗派)を信仰している異端者というぬぐえないレッテルを貼られ続けました。遂に皇帝側近の反スティリコ派は、成人になったホノリウス政権を確立させるために、讒言によってスティリコを処刑、ホノリウス自身もこれを受け入れたのです(408年)。スティリコ没後、アラリックはイタリア侵攻を再開し、410年に一時的であるがローマ市を陥落させて、略奪行為を行いました。418年、西ゴート族はイベリア半島において、遂に独自の王国を樹立しました。これが 西ゴート王国です(418-711)。
ホノリウス帝のこの体たらくにより皇帝の権威は失墜、その後もヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んでいきました。民族移動の影響が少なく、安定していた東ローマ帝国と違い、西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的に統治していたのはせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいでした。423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命でした。このため、傭兵として雇われたゲルマン人が将軍となって、実質的に実権を握っていき、他ゲルマンの侵攻を阻止するという事態も一般化していきました。 451年には民族大移動の原因をつくった フン族が、大王 アッティラ(位433-453)の下で西ヨーロッパ侵攻を行い、西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦って勝利を収めましたが( カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握る傾向にありました。傭兵隊長は皇帝の権威も動かし続け、西ローマ皇帝を追放し、自身の子を即位させることもありました。
476年、ゲルマン人傭兵隊長・ オドアケル(433?-493)は、当時の西ローマ皇帝 ロムルス・アウグストゥルス(位475-476)9月4日にを廃位させ、オドアケル自身はイタリア王位(476-493)を名乗ったことで、西ローマ帝国は滅亡となりました。
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タグ: ローマ