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2018年09月09日
9月9日は何に陽(ひ)が当たったか?
ウィリアム1世(位1066-87)が没した日です。
11世紀初め、デンマーク原住のノルマン系デーン人の首長 クヌート(カヌート。クヌーズ。995?-1035)がイングランド征服を達成(1016)、同年イングランド王に即位して(位1016-35)、 デーン朝(1016-42)をおこします。その後デンマーク王位をも継承したクヌートは(位1018-35)、ノルウェーやスウェーデンの一部も支配して、イングランド、スコットランドの一部、そして本拠デンマークを併せた" 北海帝国"を建設、クヌート王も、デーン人における"大王"として君臨しました。しかし、この栄光も相続争いから3代で終わり、"北海帝国"はあっけなく崩壊、デーン朝も終わり、ノルマン系民族のイングランド制服は終わり、 アングロ・サクソン(イングランドの基礎を築いたゲルマン部族)の ウェセックス家、 エドワード・ザ・コンフェッサー(懺悔王。証聖王。位1042-66)が王位に就き、旧来のアングロ=サクソン王家が復活しました(ウェセックス朝。1042-66)。
エドワード懺悔王は、フランスのノルマンディーで養育され、 ノルマンディー公国(911-1259)を統治するノルマンディー公の宮廷から帰国して即位した人物で、修道院のあとにウェストミンスター大聖堂をロマネスク様式で建て替えるなどして篤い信仰心を示し、後に聖人として列せられることから、" 証聖王"とも呼ばれます。しかし、政治的には無能であり、ウェセックスのゴドウィン伯(987?-1053)の娘エディス(1020?-1075)を妃としたものの、ノルマンディー出身の貴族を重用したため、ゴドウィンから非難を浴びました。
その内容とはノルマンディー貴族を大量にイングランドに移住させたことが原因で、イギリス国内でフランス文化が流入されて、これが社会や日常生活に大きな影響を与えたということです。これは、現在でも多くの名残となっており、例えば、言語においても、当時ノルマンディー公国の方言がイングランドで使われていましたので(ノルマン・フレンチといいます)、被征服地イングランドで育てられたcow(牛)・pig(豚)などは、食用する征服地ノルマンディーでは豚の肉をpork、牛の肉をbeefと、別語として表現しています。動物とその食用とする肉の言葉が派生せずに生まれているのです。ウェセックス王家にしてみれば、これほどの屈辱はありませんでした。
この内紛は、国内を動揺させ、ノルマンディー公国も関心を寄せました。この時のノルマンディー公はギョーム2世( ノルマンディー公ウィリアム。公位1035-1087)という人物で、エドワード懺悔王の又従兄弟にあたり、ノルマンディーを優先するエドワードから、 王位継承の約束を受けていました。
1053年、ゴドウィン没後は子 ハロルド(1022?-1066)がウェセックス伯を継承しました。 1066年、"証聖王"が没し、義弟にあたるハロルドが異母兄でノーサンブリア伯のトスティーグ(1026?-66)をはねのけ、イングランド王ハロルド2世として王位に就きました(位1066)。このことに強い恨みを持った兄トスティーグはノルウェー王国に支援を要請します。ノルウェー王ハーラル(位1046-66)は、エドワード懺悔王統治下のイングランド情勢を見て、王没後にイングランド侵攻を決めていたようで、トスティーグからの支援を口実に、同1066年、イングランド北部の要衝ヨークに大軍を送り込みました。
一方ノルマンディー公国においても、ノルマンディー公ウィリアムにより、エドワードの生前に交わした王位継承の約束を口実に、イングランド侵攻を計画していましたが、同年、遂に決心し、1万の兵を率いてイングランド南部のドーヴァー海峡にある ヘースティングズに上陸を開始しました。ノルマン人による大征服活動が遂に動き出したのです。
ハロルド軍は、まずスタンフォード・ブリッジの戦いでトスティーグとハーラル王を戦死させて、これを撃破しました。ハロルド軍はそのまま南下して、次の相手、ノルマンディー公ウィリアムの軍とヘースティングズで激突しました。これが 1066年の ヘースティングズの戦いです。アングロ・サクソン歩兵軍対ノルマン騎士軍の、歴史を変えた戦いが始まりました。
ノルマンディー公ウィリアムの騎士軍は、ハロルドの歩兵軍の猛攻で苦戦を強いられます。そして、ウィリアム軍が撤退する動きを見せたので、ハロルド軍は戦局決定とみなし、軍は散開しました。ところが、これを見届けたウィリアム騎士軍が、撤退から一転、反撃に出て、勝利を酔いしれてすでに戦意を失っているハロルド軍を次々と撃破、遂にハロルドを戦死させることに成功したのです。この戦争は、タペストリー(つづれ織り)として描かれ、現在のフランス・ノルマンディーにあるバイユー市立美術館に保存されています。
1066年末(クリスマス)、ウィリアムはウェストミンスター大聖堂にて、 イングランド王ウィリアム1世として戴冠(位1066-87)、ノルマン朝が創始されました(1066-1154)。これにて、アングロ・サクソンのイングランドは、異民族であるノルマン人により支配され、ノルマンの征服(ノルマン・コンクェスト)が実現したのです。
ウィリアム1世は、ヘースティングズで敗退した諸侯の領土を没収して配下に与え、アングロ・サクソン貴族の反乱を鎮圧して、フランスで行われている封建制・荘園制を導入、また税制では検地を行ってドゥームズディ・ブック(土地調査簿)を編集させました(1085-86)。そして、カンタベリ大司教を王自ら任命、1086年、全領主をソールズベリに集めて忠誠を誓わせました(「ソールズベリ誓約」)。ウィリアム1世は、落馬がもとで翌 1087年9月9日に没し、彼を含めてノルマン朝は4代続きました。
バイユー市立美術館には、先に述べたとおり、ノルマン・コンクェストについて織り出されたタペストリー(つづれ織り)が多く保管されており、前述のヘースティングズの戦いの場面なども細やかに描出されていますが、ノルマン・コンクェストが実現してノルマン朝がおこされた1066年は、 ハレー彗星が地球に接近した年でもあって、これもタペストリーで見ることができます(その画像が こちら 。右上に見える宇宙船みたいな物体です。詳細は こちら 。 Wikipedia より)。
引用文献:『 世界史の目 第94話 』より
11世紀初め、デンマーク原住のノルマン系デーン人の首長 クヌート(カヌート。クヌーズ。995?-1035)がイングランド征服を達成(1016)、同年イングランド王に即位して(位1016-35)、 デーン朝(1016-42)をおこします。その後デンマーク王位をも継承したクヌートは(位1018-35)、ノルウェーやスウェーデンの一部も支配して、イングランド、スコットランドの一部、そして本拠デンマークを併せた" 北海帝国"を建設、クヌート王も、デーン人における"大王"として君臨しました。しかし、この栄光も相続争いから3代で終わり、"北海帝国"はあっけなく崩壊、デーン朝も終わり、ノルマン系民族のイングランド制服は終わり、 アングロ・サクソン(イングランドの基礎を築いたゲルマン部族)の ウェセックス家、 エドワード・ザ・コンフェッサー(懺悔王。証聖王。位1042-66)が王位に就き、旧来のアングロ=サクソン王家が復活しました(ウェセックス朝。1042-66)。
エドワード懺悔王は、フランスのノルマンディーで養育され、 ノルマンディー公国(911-1259)を統治するノルマンディー公の宮廷から帰国して即位した人物で、修道院のあとにウェストミンスター大聖堂をロマネスク様式で建て替えるなどして篤い信仰心を示し、後に聖人として列せられることから、" 証聖王"とも呼ばれます。しかし、政治的には無能であり、ウェセックスのゴドウィン伯(987?-1053)の娘エディス(1020?-1075)を妃としたものの、ノルマンディー出身の貴族を重用したため、ゴドウィンから非難を浴びました。
その内容とはノルマンディー貴族を大量にイングランドに移住させたことが原因で、イギリス国内でフランス文化が流入されて、これが社会や日常生活に大きな影響を与えたということです。これは、現在でも多くの名残となっており、例えば、言語においても、当時ノルマンディー公国の方言がイングランドで使われていましたので(ノルマン・フレンチといいます)、被征服地イングランドで育てられたcow(牛)・pig(豚)などは、食用する征服地ノルマンディーでは豚の肉をpork、牛の肉をbeefと、別語として表現しています。動物とその食用とする肉の言葉が派生せずに生まれているのです。ウェセックス王家にしてみれば、これほどの屈辱はありませんでした。
この内紛は、国内を動揺させ、ノルマンディー公国も関心を寄せました。この時のノルマンディー公はギョーム2世( ノルマンディー公ウィリアム。公位1035-1087)という人物で、エドワード懺悔王の又従兄弟にあたり、ノルマンディーを優先するエドワードから、 王位継承の約束を受けていました。
1053年、ゴドウィン没後は子 ハロルド(1022?-1066)がウェセックス伯を継承しました。 1066年、"証聖王"が没し、義弟にあたるハロルドが異母兄でノーサンブリア伯のトスティーグ(1026?-66)をはねのけ、イングランド王ハロルド2世として王位に就きました(位1066)。このことに強い恨みを持った兄トスティーグはノルウェー王国に支援を要請します。ノルウェー王ハーラル(位1046-66)は、エドワード懺悔王統治下のイングランド情勢を見て、王没後にイングランド侵攻を決めていたようで、トスティーグからの支援を口実に、同1066年、イングランド北部の要衝ヨークに大軍を送り込みました。
一方ノルマンディー公国においても、ノルマンディー公ウィリアムにより、エドワードの生前に交わした王位継承の約束を口実に、イングランド侵攻を計画していましたが、同年、遂に決心し、1万の兵を率いてイングランド南部のドーヴァー海峡にある ヘースティングズに上陸を開始しました。ノルマン人による大征服活動が遂に動き出したのです。
ハロルド軍は、まずスタンフォード・ブリッジの戦いでトスティーグとハーラル王を戦死させて、これを撃破しました。ハロルド軍はそのまま南下して、次の相手、ノルマンディー公ウィリアムの軍とヘースティングズで激突しました。これが 1066年の ヘースティングズの戦いです。アングロ・サクソン歩兵軍対ノルマン騎士軍の、歴史を変えた戦いが始まりました。
ノルマンディー公ウィリアムの騎士軍は、ハロルドの歩兵軍の猛攻で苦戦を強いられます。そして、ウィリアム軍が撤退する動きを見せたので、ハロルド軍は戦局決定とみなし、軍は散開しました。ところが、これを見届けたウィリアム騎士軍が、撤退から一転、反撃に出て、勝利を酔いしれてすでに戦意を失っているハロルド軍を次々と撃破、遂にハロルドを戦死させることに成功したのです。この戦争は、タペストリー(つづれ織り)として描かれ、現在のフランス・ノルマンディーにあるバイユー市立美術館に保存されています。
1066年末(クリスマス)、ウィリアムはウェストミンスター大聖堂にて、 イングランド王ウィリアム1世として戴冠(位1066-87)、ノルマン朝が創始されました(1066-1154)。これにて、アングロ・サクソンのイングランドは、異民族であるノルマン人により支配され、ノルマンの征服(ノルマン・コンクェスト)が実現したのです。
ウィリアム1世は、ヘースティングズで敗退した諸侯の領土を没収して配下に与え、アングロ・サクソン貴族の反乱を鎮圧して、フランスで行われている封建制・荘園制を導入、また税制では検地を行ってドゥームズディ・ブック(土地調査簿)を編集させました(1085-86)。そして、カンタベリ大司教を王自ら任命、1086年、全領主をソールズベリに集めて忠誠を誓わせました(「ソールズベリ誓約」)。ウィリアム1世は、落馬がもとで翌 1087年9月9日に没し、彼を含めてノルマン朝は4代続きました。
バイユー市立美術館には、先に述べたとおり、ノルマン・コンクェストについて織り出されたタペストリー(つづれ織り)が多く保管されており、前述のヘースティングズの戦いの場面なども細やかに描出されていますが、ノルマン・コンクェストが実現してノルマン朝がおこされた1066年は、 ハレー彗星が地球に接近した年でもあって、これもタペストリーで見ることができます(その画像が こちら 。右上に見える宇宙船みたいな物体です。詳細は こちら 。 Wikipedia より)。
引用文献:『 世界史の目 第94話 』より
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