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2018年09月18日
9月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
ファショダ事件の起こった日です。19世紀で展開した帝国主義政策の一環であります、アフリカ分割を競う中で起こった、イギリスとフランスの衝突事件です。
イギリスは、スエズ運河株買収(1875)後に保護国化とした エジプト(エジプト保護国化。1882)、さらに スーダンを支配下に入れて(1899。イギリスとエジプトの共同管理)、アフリカ大陸南部の ケープ地方からアフリカ分割を 縦断政策として北進しました。オランダ系移民ブーア(ブール)人の国である オレンジ自由国(1854-1902)・ トランスヴァール共和国(1855-1902)を苦心して併合し( 南ア戦争。 ブーア戦争。1899-1902)、 カイロと ケープタウンの縦一直線の支配が形成されました。さらに、もう1つの大植民地インドにも着目して、都市 カルカッタ(現コルカタ)をアフリカ支配線と結んで、 3C政策を完成しました。
一方で、 フランスもアフリカ分割を進めて、1830年にフランス領となった アルジェリアと、ベルリン条約(1878.7)で勝ち取った チュニジアを拠点とし、1894年、サハラ砂漠を フランス領西アフリカとして占領し、大陸東側の同 フランス領マダガスカルや ジプチにむけて 横断政策をおこない東進しました。
1898年9月18日、縦断政策で北進するイギリス軍と、横断政策で東進するフランス軍は、スーダン南東部の ファショダ村で衝突しました。 ファショダ事件の発生です。
中世から敵対関係にあったイギリスとフランス両国の衝突は、17~18世紀で展開された英仏植民地戦争の再燃かと思われましたが、19世紀後半のドイツのビスマルク外交で孤立化政策を強いられたフランスと、やはりドイツと建艦競争において対立を深めたイギリスという、共に ドイツの急激な進出に対する脅威が一致しており、共にドイツを敵国として相互協力を約す方向へ進みました。結果ファショダでの衝突はおさまり、 1904年、イギリスは、モロッコにおいてフランスが優越権をとることを承認し、フランスは、エジプトにおいてイギリスが優越権をとることを承認するという 英仏協商が結ばれ、長きにわたった英仏間における植民地の利害関係は緩和されたのでした。
引用文献:『 世界史の目 第88話 』より
イギリスは、スエズ運河株買収(1875)後に保護国化とした エジプト(エジプト保護国化。1882)、さらに スーダンを支配下に入れて(1899。イギリスとエジプトの共同管理)、アフリカ大陸南部の ケープ地方からアフリカ分割を 縦断政策として北進しました。オランダ系移民ブーア(ブール)人の国である オレンジ自由国(1854-1902)・ トランスヴァール共和国(1855-1902)を苦心して併合し( 南ア戦争。 ブーア戦争。1899-1902)、 カイロと ケープタウンの縦一直線の支配が形成されました。さらに、もう1つの大植民地インドにも着目して、都市 カルカッタ(現コルカタ)をアフリカ支配線と結んで、 3C政策を完成しました。
一方で、 フランスもアフリカ分割を進めて、1830年にフランス領となった アルジェリアと、ベルリン条約(1878.7)で勝ち取った チュニジアを拠点とし、1894年、サハラ砂漠を フランス領西アフリカとして占領し、大陸東側の同 フランス領マダガスカルや ジプチにむけて 横断政策をおこない東進しました。
1898年9月18日、縦断政策で北進するイギリス軍と、横断政策で東進するフランス軍は、スーダン南東部の ファショダ村で衝突しました。 ファショダ事件の発生です。
中世から敵対関係にあったイギリスとフランス両国の衝突は、17~18世紀で展開された英仏植民地戦争の再燃かと思われましたが、19世紀後半のドイツのビスマルク外交で孤立化政策を強いられたフランスと、やはりドイツと建艦競争において対立を深めたイギリスという、共に ドイツの急激な進出に対する脅威が一致しており、共にドイツを敵国として相互協力を約す方向へ進みました。結果ファショダでの衝突はおさまり、 1904年、イギリスは、モロッコにおいてフランスが優越権をとることを承認し、フランスは、エジプトにおいてイギリスが優越権をとることを承認するという 英仏協商が結ばれ、長きにわたった英仏間における植民地の利害関係は緩和されたのでした。
引用文献:『 世界史の目 第88話 』より
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