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2018年09月30日

9月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

オットー・フォン・ビスマルク(任1862-90)が議会で 鉄血演説を行い、軍備の拡張を宣言した日です。

 1848年2月に勃発したフランスの 二月革命でウィーン体制は崩壊に追いやられ、諸国民は自由主義社会を切望していきました("諸国民の春")。この間プロイセンでは、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(位1840-61)が即位しましたが、王は"王座のロマン主義者"の異名を持つほどの完全な空想的ロマンティストで、自由主義や立憲主義を嫌い、ウィーン体制の存続を主張、反動政治を展開していました。しかし二月革命の影響がプロイセンにも波及し、1848年3月18日、首都ベルリンでブルジョワや労働者による暴動が発生したのです(ベルリン暴動)。
 これにより、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は政務を退き(22日)、ゴットフリート・カンプハウゼン(1803-90)が首相に就任して自由派政府がおこりました( ドイツ三月革命)。その前1847年に、ユンカー(領主貴族)出身だったビスマルクがプロイセン連合州議会議員となって政界に登場し、反革命派として王政を護り、国王から大いなる信任を得ました。
 フランクフルトでは1848年5月、自由主義者を中心に「統一と自由」を求めて、国民会議が開かれました。歴史的に有名な、 フランクフルト国民議会の開催です。しかし大学教授や学者も参加するため論戦が展開し、議会が長期化しました。フランス二月革命後に起こった暴動(六月暴動)の鎮圧などに悩み、8月以降、この議会は反動化していきました。11月には制憲議会も弾圧され、ドイツ三月革命は失敗となりました。
 このフランクフルト国民議会では、新たな紛糾が発生しました。オーストリアを除外し、プロイセン国王を統一国家の王とする 小ドイツ主義と、オーストリアのハプスブルク家を王とし、オーストリアのドイツ人居住地域並びにベーメン(ボヘミア)を含めた、以前の神聖ローマ帝国の全領域を統合する大ドイツを建設しようとする 大ドイツ主義との対立でした。当然のことながら、内容から大ドイツ主義には保守派が募ったが、一方の小ドイツ主義派は自由主義的でプロテスタント色が強く、統一言語をドイツ語としていました。大ドイツ主義にはハプスブルク家領などのスラヴ人やハンガリー人も当然含まれる、複合民族国家ということになります。

 プロイセンでは1848年12月に国民基本法、翌1849年3月にはドイツ国憲法を制定、さらに長期に渡った議会での論議の結果、 小ドイツ主義が採択され、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝として就任要請しました。しかし、基本的には自由主義・立憲主義を嫌っていたため、自由主義者によって開催された会議のもとで、帝冠はうけられないとしてドイツ皇帝としての戴冠を拒否したのです。1861年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は晩年、病身のためたびたび発狂を繰り返し、1858年から弟ヴィルヘルム1世(1797-1888)がプロイセンで摂政として政務を代行していました。

 ヴィルヘルム1世は陸軍元帥であり、典型的な軍人気質の政治家でした。ドイツ三月革命では、ベルリン暴動の弾圧に一役買ったものの、国民には人気がなく、ロンドンへ亡命していた時期もありました。1861年に兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が没し、正式にプロイセン国王 ヴィルヘルム1世として即位(位1861-88)、名目上は自由主義的改革を宣言して(" 新時代")、参謀総長 モルトケ(大モルトケ。1800-91。任1858-88)や陸相ローン(1803-79。任1859-73)らと軍政改革を断行、軍備強化を推進しました。
 ところが、議会では軍拡予算をめぐって紛糾が続発したのです。このため翌 1862年、ヴィルヘルム1世は ビスマルクを首相兼外相に就任させたのです。ビスマルクはこれまで、フランクフルト国民議会のプロイセン代表を務め(任1851-59)、その後駐ロシア大使(任1859)や駐フランス大使(任1862)を果たしてきた敏腕政治家でした。この議会の紛糾に対しても、陽の当たった 1862年9月30日の下院予算委員会で、歴史的に残る有名な言葉を投げかけたのです。

「プロイセンの国境は、健全な国家の国境にふさわしいものではない。言論や多数決は1848-49年の欠陥(→三月革命のこと)であった。現下の問題はそうした言論や演説、多数決によって解決されるのではない。 (→武器)と (→兵士)によって解決されるのだ。」

 と議会演説をおこない、"鉄"と"血"、つまり 鉄血政策の必要性を主張し、議会の反対を押し切って予算案を議決させたのです。このため、彼は" 鉄血宰相"と呼ばれるようになります。こうしてヴィルヘルム1世とビスマルク首相による武力によるドイツの統一政策が始まったのです。軍隊組織の再編では、モルトケ参謀総長による参謀本部制度をもうけました。軍隊のことだけを考え、政治分野には一切野心を持たないモルトケ自身は"偉大な沈黙者"と呼ばれ、後に甥のモルトケ(小モルトケ。1848-1916)も参謀総長として活躍することになります(任1906-14)。

 軍拡によってプロイセン国内の産業も発展した。軍需産業界では、 クルップ(創設者フリードリヒ・クルップ。1787-1826。息子で2代目社長アルフレートの時に鉄鋼独占企業となる。1812-71)などの代表的な鉄鋼工場が大躍進しました。またイギリスの ヘンリー・ベッセマー(1813-98)による転炉法(ベッセマー製法)によって良質の鉄鋼の大量生産を可能にし、後に"クルップ砲"が完成、"死の商人"といわれるようになります。

 その後のプロイセンでは、宰相ビスマルクの鉄血政策と巧みな外交戦略が実を結び、1871年1月の ドイツ帝国誕生へと導くのでした。

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