いきなり梅雨が明けてビックリです。
6月中に梅雨が明けるのは観測史上初だとか。
段々と異常気象になっていくようでこの先が思いやられますね。
どうせ梅雨明け後になってからどこかで大雨になってまた大騒ぎするような気がします・・・
さて、今回はプリンス自動車の社内報の中から、車に関する記事を一部抜粋して紹介しようと思います。
以前、グランドグロリアの記事の中でも書きましたが、友人より大量の広報誌を借りる事が出来たので、今後折を見て少しずつ紹介しようと思っているのですが、読んでみると案外車に関する記事が少ない(笑)
社内報だと、人事だとか社内行事の報告だったり、はたまた季節の話題等々…
ユーザー向けのPR誌でもメインはドライブ日記とか、クルマのメンテナンスについてとか、あまり専門的な話は出てきません。
ほとんどの場合、個人的に興味のある話題はごく僅かしか載ってなかったりするので、紹介といっても微々たるものですが、今となっては貴重な資料ですので、興味のある方は読んで見て下さい。 今回紹介する「富士精密ニュース」は借りられた資料の中で一番古い昭和34年4月発行のNo.78です。
昭和34年はまだプリンス自動車工業ではなく富士精密工業時代なので、当然社内報のネーミングも富士精密ニュースな訳で、基本的には社員向けの広報誌として主に会社の人事や職場紹介、社員や首脳陣の座談会等社外の人にはそれほど興味のない話がメインです。
個人的に知りたい話題はプリンス自動車自体の話や自動車業界内のニュースであって、従業員の個人的な話や職場のレクリエーションなどの連絡事項は興味のない内容だったりします。
まあ、当時のプリンス自工(富士精密工業)の雰囲気を知るには良いと思いますが、このブログではその辺りは紹介せず、基本クルマに関する記事をピックアップしていきたいと思います。
基本的に写真をクリックすると大きい画面で見ることが出来ますので、写真だけではなく文章も読めると思いますので各自興味のある部分を読んでいただけたら。
ではまずは表紙から
自動車の気配すら無い表紙ですが、この頃の富士精密ニュースは表紙がイラストのようです。
次は表紙裏と最初のページです。
表紙裏は目次を兼ねています。
ここではスカイラインが台湾に40台輸出されたという記事と共に船積みされるALSIスカイラインの写真が載っています。
モールの形状からするとスタンダードですね。
ハンドルは右か左か?
写真では分かりません。
左のページでは当時の 團伊能社長から新社員へ向けての訓示が書かれています。(4月号ですからね)
この方は名家のご出身でプリンスの社長になる以前は一時期政治家でもあり、他にブリジストン自転車の社長や、九州朝日放送の会長まで務めたというかなりの実業家です。
途中をすっ飛ばしてお次は「自動車販売の話」です。これはプリンス自販の話ですね。
プリンス自販の現場の組織についてやクルマの売り方などが書かれていて興味深いんですが、
中身を詳しく読むと当時は納車前整備にかなり時間を割かれていたことがわかります。
現在なら軽い点検で済むであろう納車前整備に二人掛かりで丸一日、下手をすると三日も掛かっていると書いてあります。
自販のからの苦言として書かれているので当時それなりに問題になっていたのでしょうね。
当時他社の品質管理がどうだったか分かりませんが、少なくともこの頃のプリンスの品質管理はあまりよくなかったようです。
その後改善されたのかは分かりませんが、今よりも製品のバラつきがかなり大きかった事が窺われますね。
因みに、この記事は「第一線シリーズ 1」となっていて続きがあるみたいなんですが、この後の号がかなり抜けているので申し訳ないですが続きは読めません・・・
そして次はこちら
自動車と工業デザインという題材で、クルマのデザインについて書かれています。
サンプルはクリッパーですね。
最初の2灯のタイプですが、
「宇宙時代を思わせる新しいスタイル」
と書かれています。
宇宙時代とはどんな時代なのか良く分かりませんが、とにかくそういう時代なんでしょう。
で、次のページにはいくつかのデザイン候補だったと思われるデザイン画とクレイモデルが写っていて興味をそそられます。
個人的な意見ですが、この記事のスケッチやクレイモデルを見た後では、やっぱり市販車が一番カッコ良いと思ってしまいました。
ほぼ市販車仕様の1/5ダミーモデルも、よく見るとリアタイヤハウス回りの形が違いますね。
お次は「目で見るプリンス自動車の歩み」というコーナーで、歴代のプリンス乗用車(たま〜富士精密時代)が写真で一覧になってます。
ご存知の通り(ご存じない方はこの後を読んでくださいね)プリンスの前身は1947年創業の「東京電気自動車」という電気自動車専門メーカーでしたが、
その後に車の愛称名だった「たま」をそのまま会社名にして「たま電気自動車」と改名します。
しばらくは好調な販売でしたが、朝鮮戦争によって電気自動車の「キモ」であるバッテリーに必要な鉛の価格が急騰。
商売にならなくなったため急遽ガソリンエンジンを開発して車名から電気を取った「たま自動車」に改名。
1952年にはプリンス自動車(初代)と改名しましたが、1954年にエンジン開発と生産を担当していた富士精密工業と合併(会社の大きかった富士精密に吸収される形)して今度は富士精密を名乗ります。
そして1961年になって改めてプリンス自動車工業へ再度改名するという、中々に複雑なお家事情のある会社なんですよ。
・・・前置きが長くなりましたが、その歴代の乗用車の写真を集めたページです。
その中でも特筆すべきは電気自動車時代の「たまセニア」です。
この車は当時としては飛びぬけた性能の電気自動車で、最高速度こそ55キロでしたが、満充電で約200キロの航続距離を誇り、現在の基準でも中々のものではないのかと思うわけです。
販売期間は鉛価格の上昇に伴い短かったんですが、もしこのまま開発が続いていたらかなりの性能を誇る電気自動車が誕生していたかもしれないですね。
ほかは時期的にスカイラインのALSI以降は載っていませんのでそれほど見ごたえがあるわけではないですが、この間約12年でコレだけの車種を発売していたのですから企業としてのパワーはかなりのものです。
そして隣のページにはピクチャーニュースとして、グロリアの1号車のオーナーが東京ステーションホテルの社長(当時)である田 誠(でん まこと)氏になったと書かれています。
当時は車のオーナーになれるのは一握りのお金持ちでしたので、ステータスだったのでしょう。
わざわざニュースとして広報誌に載せるくらいですからね。
また、このグロリアは初代のBLSIP-1で発売当時はまだ小型車の区分変更前なので1900ccながら国産初の3ナンバー普通乗用車となった車です。
次の「プリンス・サービス・セールス学校」の記事は、先の「自動車販売の話」にも繋がる話題です。
最後のミシンの話は「リズムミシン」の事ですね。
当時のプリンス(富士精密)はリズムミシンというグループ企業があり、結構な売り上げを誇ってました。
そして次は社内ニュースのページです。
このページはハワイアンモーターズ社と輸出契約が締結されたという記事以外はほぼ興味がありません(笑)
他はほぼ社内行事の話題ですので、この頃の社内の雰囲気は感じられそうですが。
そして最後は裏表紙です。
世界の乗用車シリーズ?H
フォードサンダーバードの紹介です。
この、世界の乗用車シリーズは長らく続きます。
途中国産車も交えて最後の頃まで掲載されてます。
以上、今回は社内報の「富士精密ニュース」より記事を抜粋して紹介してみました。
また順次紹介できたらと思います。
ではまた
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