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2019年01月13日

サルトルについて‐倫理文学部史学科リポート





これは、例え神であっても人間は束縛される存在ではない。

人間は過去や現在の自分自身から常に脱出し、未来に向かっての新しい自分を自由に作っていく存在であると考えた。


この事は、人間は自分自身が世界との関り方の中で自分自身の事を選択し、その中から自分自身を決定して、自分自身を常に作っていく。この事がサルトルによって自由と言うことである。


 サルトルの自由に対する考え方は、人間は自由な存在として、自由でなければならない存在であり、また、自由でない人間などありえないとも考えた。
つまり、人間の存在の中で、自由がなくなってしまう、自由はありえないのである。人間と自由は常に共存して、人間は自由から逃げる事はできない。いわば、人間は自由とういう刑を受けた存在であると考えた。

人間という存在は自由を求める存在ではなく、不変的に人間と共に共存する自由という罰から逃れようと考える存在であるとも考えられた。
人間にとって自由という罰は人間でいる限りけっして、逃れる事のできない刑であるので、人間は常に悩み、苦しみ、不安を感じ、常に考える存在であると考えた。

 人間の自由と不安の関係は、例えば、危険な崖を歩く時、人間は常に崖から落ちてしまう可能性に不安や恐怖を感じる。

しかし、自分自身の行動方法によっては、崖から落ちることはありえない可能性も存在しているのである。
また、ある一定の条件さえそろえば、人間が崖から落ちるという事は、物理的な自然現象の外の要因と捉える事ができる。

そして、崖から落ちないと言う事は、自分自身の行動によって決まる事なので、自分自身の中に要因があると考えることができる。

しかし、自分自身の要因で崖から落ちないように企てても、自由に自分自身自ら崖から身を投げることも可能である。
人間は自分自身によって崖から身を投げる可能性に不安を感じるのである。
けっきょく、人間と言う存在は、自由であるがために不安から逃れる事ができない存在と見る事ができる。

不安は人間が自由である事を証明するものと考えることもできる。

 第2次世界大戦によるドイツによるパリ支配によって、言論の自由や行動の自由がパリでは失われた。
サルトル自身もドイツ軍に捕虜として収容所に送られる。

ドイツ支配による自由がまったく失われた世界だが、逆にサルトルはドイツによって占領されていた時ほど自由な世界はなかったと考えた。


 サルトルの思想は、人間の本質は自由を求める存在と考えられ、しかし、それは、何でもやれる自由ではなく、世界との関りを自由に決定する自由だと考えられた。

そして、平凡な生活の中では、人間は何でもやれる事があたりまえのなるので、逆に、自由を見失い能動的な生活になりがちになると考えられた。
例えば、戦争時などのように、戦争によって自由が奪われている状態になると、人間は逆に、本質的に持つ自由に対する意識が明らかになり、世界と関る自由を強く感じると考えられた。


 サルトルの実存主義に大きな影響を与えたのがハイデガーの存在論である。
ハイデガーはまず、人間が存在すると言う事はどのような事であるか考えた。
人間がどのような存在であるか考える行為、それ事体が人間にしかできない行為であると考えられ、自分自身の存在そのものを問題と問い掛けるのが人間であるとも考えた。


 ハイデガーは人間が存在すると言う事は世界と関わっていると言う事だと考えた。
人間が世界の中にあり、人間は自ら世界へと関わりつつ存在している、ということであると考えられた。


 実存とは実際にここに現実に存在しているということである。
実存主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて注目を集めた思想である。

ヨーロパでは資本主義も進み機械化が主となってくる。この時代、人間の大衆化が進み個人としての人間の存在が失われてくる。
例えば、工場での単純作業など、同じ繰り返しの作業を大勢の人達が同じように繰り返し行うなどである。大衆化する社会では個人の個性としての尊厳も失う危険性もある。

このような時代だからこそ、個人の存在に注目し、具体的な個人としての人間のあり方や世界との係わり合い方など人間としての問題を考える存在論が脚光を浴びる。
サルトルの実存主義も存在としての哲学であり、無神論的実存主義とも考えられた。

また、サルトルの思想はヒューマニズム批判とも見る事ができるが、しかし、サルトルの思想は神が支配する伝統的なヒューマニズムと違った新たな真のヒューマニズムだとも考えることができる。
これは、伝統的な人間観から新しい人間観を作り出すための実存主義とも見る事ができる。


 サルトルの実存主義の中では、人間の自由な行動を縛るような道徳は存在しない。
自分で行動を選択すること事体が道徳であると考えた。

人間がこうあるべきである、と言うような道徳観は最初からなく、それは自分自身で作るものであり、道徳は作るものであるとサルトルは考えた。

(サルトル 永野潤 ナツメ社 2003 参照)










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