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2024年06月25日

日本帰国!?メンタルをやられた最近の私について



日々の忙しさに、ブログをやっていたことさえ忘れていた私です。

久しぶりに机に向かいパソコンをいじっていたところ、ふっと思い出し、ブログを書いています。

現在46歳、アメリカにきたのは12年前なのでまだ34歳でした。

あっという間なのかなんなのかもう12年もアメリカに住んでいます。

アメリカに来てから、いいことも悪いことも、いろいろありました。

エレベーターに閉じ込められたり、交通事故でトラックに後ろから突っ込まれたり、

森から出るのに時間がかかりすぎて真っ暗な中1時間歩いて怖かったこと、

いろいろあったせいか、わたしの脳の中でなにかがスイッチを押しました。

はじめはメンタルがやられたせいだと気づかず、めまいや低血圧はなにかの病気なのかとおもっていました。

でもそれは、ANXIETYというメンタルの病気だったのです。

日本語で不安障害という精神の病気です。

この発作がおきると、自分が自分じゃないようななんとも説明しがたい状態になります。

例えば、急にひどいめまいがして、車の運転もできないほどになります。

頭の血液が急にサーッとひいていってしびれるような感覚です。

その感覚が頭の後ろや首のうしろのあたりにひろがります。

ひどかったときは、救急車に乗ってER(Emergency Room)に何回かお世話になったことも。。。

Anxietyというものの存在を知らなかったので、自分の体になにか異常があるんじゃないかという不安で

呼吸が苦しくなり、心臓もばくばくになり、体の半分がしびれてどうにもならない状態にまでなりました。

死への恐怖感、自分が死んだら残された子供たちはどうなるのかなどの不安などで症状がどんどんひどく

なっていきました。

血液検査や心電図などすべての検査結果が出て、どこも異常なしとわかり、

Anxietyと診断されました。

看護師の方たちに、呼吸をもっとゆっくりして、おちついて、など声かけしていただき、

アスピリンを飲まされ、

点滴もいれてもらい、なんとか落ち着くことができました。。

その日のうちに家に帰ることができましたが、この状態は2週間くらい続き、

その間に、朝から呼吸が苦しくなり、めまいもひどく、ERにもう一度戻るということもありました。

そうこうしているうちに、知り合いから、

アシュワガンダという名前のサプリメントを教えてもらい、

わらをもすがる思いで飲み始めました。

針治療にも何回かいき、そこで漢方のサプリメントも買って飲みました。

結局2週間くらい仕事を休み、このままでは車のローンなどの支払いがやばいこともあり、

仕事に復帰しました。

仕事場でもしばらくは調子がよくなく、美容室のシャンプー台で横になったり

職場の人もやさしく声かけてもらったりして、

だんだんと復活していきました。

この不安障害と視力の低下は同時進行しているのかお互いに影響しあっているのかわからないのですが、

ちょうど視力が低下したあたりに症状がひどくなっていることもある気がしています。

前回の救急車にのったときの発作は一年半くらい前でしたが、発作後、車の運転も集中できず、

視力検査をしたところ、メガネを作ってもらうことに。。。

遠くがみえなくなっていたのと、近くもみずらいという両方があったため、

Progressiveという遠近両用?のメガネを作ってもらいました。

今までありがたいことに、メガネというものに縁がなかったのですが、

40歳すぎたあたりから夜の運転もみづらくなっていて、そのへんにうってる安い老眼鏡でいいから

と目の検査したときは言われてたのですが、

45歳で完全メガネデビューしました。

でもなぜか、そのメガネを使っていたのも1カ月ほどで、

仕事に復帰してしばらくしてからは、

メガネをしているほうが見づらい状態になって、

メガネをほとんど使わず生活していました。

そして、今回46歳、5月末、またまた不安障害がわたしの楽しい生活をぶちのめしてきました。

8年ぶりに日本へ帰る計画を立て、子供たちが夏休みに入ったと同時に日本へ飛ぶというように

飛行機のチケットも買い、ホテルの予約などしていた矢先、

ひどい肩こりに悩まされ、

首のヘルニアが原因かとおもい、病院で血液検査したあと、

急にめまいにおそわれ、家に運転して帰れなくなったのです。

車をおいて、旦那に迎えに来てもらい、その日は家に帰りました。

次の日娘のアポイントメントがあったので旦那に乗せて行ってもらい、

自分の車を運転して帰ってこようという予定で行動していましたが、

娘のアポイントメントが終わったとき、運転しようとしたらやっぱりまだ

めまいや動悸で運転できませんでした。

旦那の提案で一度お昼ご飯を食べに行くことに。。。

シーフードのビュッフェで、めまいによさそうな

魚介類を食べました。

レストランでも食べるまえと後、具合が悪くなりましたが、

なんとか病院までもどりました。

夫の運転中にも具合が悪くなり、いてもたってもいられない状態で、

横になったりしてなんとかしのぎました。

夫にあぶないからちゃんと座ってと言われましたが、難しかったです。

夫の隣に座るのもしんどく、

娘と一緒に後ろの席に座り、太陽の光もふせげたのでまだ落ち着いていられましたがそれでもなかなか

しんどかったです。

ご飯をたべたから大丈夫だろうという安心感と娘を乗せているから一緒に二人の好きな曲をかけて

のりのりの雰囲気で帰れたので、自分の車を運転しながらもなんとか家まで帰ることができました。

夫は普段から運転が危なっかしいというか、なんともスリルのある運転のしかたで、

私はいつもナーバスになります。

あまり言うと機嫌が悪くなるで言えないのですが、たまに文句を言うとやはり怒られます。

前の車との車間距離も近いし、急にブレーキで減速するので怖くて助手席に乗れません。

夫も私が文句を言うので私を乗せて出かけるのも嫌がるようになりました。

話は飛びましたが、

その何日か後、まだ具合が悪く、頭がしびれていたので、

ERにひとりでいきました。

めまいがある患者さんはすぐに診てくれるのか、

けっこう混んでいたけどすぐに診てもらえました。

お医者さんが首のヘルニアで頭がしびれるのはよくわからないというので、

MRIとCTをとってくれました。

そして、その結果がすぐでないというのと、

お医者さんがその日もういなくなったということで、

一泊することになり、

旦那に子供たちを連れてきてもらいました。

結局面会時間ぎりぎりだったので1時間くらいしか一緒にいられませんでした。

その夜はお医者さんや看護師さんが何とかしてくれるだろうという安心感からか、

よく眠れました。

お薬もいれてもらっていたので、それもよかったのかもしれないです。

次の日の朝、しばらく待っていたところ、やっと結果がでて、

脳には異常なし、ヘルニアはあるけれどそれほど神経に影響していないようだ、とのこと、


結局私が心配していた、ヘルニアで神経を圧迫、それが原因でめまい、肩こりがひどい、

という考えは違っていたようです。

日本への旅行は大丈夫かどうかお医者さんに聞いてみたところ、全然大丈夫だよと言われ、

日本へ行く準備を再開!





日本へ行く前に仕事と育児を頑張りすぎたせいなのか疲れもたまっていたのかもしれません。

日本へ到着、その日は浅草に泊まり、息子が好きなたこ焼きを注文しました。

息子も娘も疲れて寝てしまいましたが、たこ焼きを熱いうちに食べてほしいと思い、

息子を起こして食べさせましたが、

息子は旅の疲れでぐったり、たこ焼きを食べた後泣き出してしまいました。

眠いんだから寝なさいと言いましたがなかなか寝れず、泣きながら、アメリカに戻りたいという始末。

私も疲れがたまっていたせいか、精神的にまいってしまい、夜もあまり眠れず、

携帯で次の日の大阪へのバスや新幹線の料金をしらべていました。

結局大阪行きのチケットを買うところまでいけず疲れて寝ました。

次の日息子はなかなか起きず爆睡、娘は十分寝たのかテンション高く

早くどこかへ出かけたいとせかしてきます。

私もまだ正直寝たかったですが、荷物の整理などしながら息子がおきるまで

娘をなだめていました。

自分ひとりで子供たちと一日中すごすのはほとんどなかったことなので

私も精神的にまいってきていました。

息子をなんとか起こし、

朝食、お風呂をすませ、

チェックアウトすませ、

着物レンタルのところまで行きました。

子供たちにはじめての着物を着させ、写真をとったあと、

浅草を散策しました。

楽しかったですが、暑さと人の多さ、睡眠不足、精神的疲れと、夫がいない、遠い日本で誰も知り合いが

いないなどで、疲れはマックスになり、浅草散策終了後、ホテルへ戻り、このあとどうしたもんかと

考えている間に、妹の住む大阪へ行くという計画、ユニバーサルスタジオジャパンでマリオのところへいくという息子のへのサービスもすべて面倒になってしまい、

結局地元の青森の八戸へ向かうことに決めました。

ホテルからタクシーで東京駅まで行き、そこから新幹線に乗り八戸へ向かいました。

新幹線はなかなか快適で子供たちはぐっすり。

その日に泊まるホテルを決めていなかったのでホテルを適当に安くて友達の家と繁華街から近い昔から

なじみのあるホテルに決めました。

そこのホテルは、地元の学区内にあることもあり、かなりなじみのあるホテルです。

父親もなにかの会合で使ったこともあるし、友達もそこで働いていたこともある、

友達の結婚式や小学校の同窓会もやったことのあるホテルです。

近くに住む友達が駅まで迎えに来てくれたのでホテルまでご飯を途中で買いながら乗せてきてくれました。
ホテルの部屋まで荷物も運んでもらい、その日はもう夜も遅いということで、ゆっくり今日はとりあえずやすみなよーといって帰っていきました。
息子がホテルの部屋のバスルームをみて、このバスルームなんか古いし汚いといいました。
そして、ホテルの部屋のにおいもなんか臭いといい、そういわれてみればなんかタバコくさいし、古い建物独特のにおいもまじっていました。
部屋の鍵も今の時代にはめずらしい、鍵穴に鍵をさすタイプ。
とりあえず、疲れたのでベッドに横になっていました。
テレビを見ながらだらだらしていたところ、例の不安障害の発作がおそってきました。
私の頭の中で、自然と、この部屋なんか殺人事件とかあったりしてとか想像したりしてしまったり、地上五階のたかさ、部屋の狭さ、においなど相まって、この部屋にいられないというパニックにおちいってしまい、
これ以上ここにいたらやばいとおもい、
子供たちにいますぐ下におりるよ!とあせりながらうったえ、
子供たちもわけもわからずエレベーターでロビーにむかいました。
部屋をでて廊下の狭さも苦しく、エレベーターにのるのもこわくて、
ロビーまでなんとかいけたくらいです。
苦しいので何度も水をのみ、自販機でビールを買ってのんだりもしました。
外へ出て新鮮な空気をすいにいきましたが、フロリダとはちがい、まだまだ寒い青森県、
その寒さもその時の私には、不安をあおるものでした。
何回か外と中を行き来しました。
子供たちはロビーにいるのいやだといい、それでも私の具合が悪いからちょっと悪いけどがまんしてねと
なだめながら、やりすごしました。
こういう状態のときなぜか、トイレがすごく近くなります。
水を大量に飲んでいるせいもありますが、精神状態も悪いので、
排泄行為で精神をコントロールしているという体内のシステムなのかともおもいました。
うつ病などで自殺する芸能人が多いご時世ですが、
他人事だとおもっていました。
でも今回のことで、自分にもありえるなとおもいました。
この苦しさはなったひとにしかわかりません。
あの狭いホテルの空間、真っ暗なそと、家族もだれもいない。孤独と子供たちを守らなければいけないという
責任感、睡眠不足、疲労などでしんどさマックスです。
自律神経失調症と不安障害は似ているんだろうなとおもいました。
23歳のとき前の旦那との子供ががんになり仙台の大学病院に二年入院していました。
私は仙台に家があるわけでもないし家族もいないので、子供とふたりで
小児病棟の小さなベッドにふたりで寝泊まりしていました。
看護婦さんが毎時見に来るので、なんども寝ているところを起こされました。
そのときはまだわかかったけれどそれでも睡眠妨害と、病院生活のストレス、病気の子供のケアのストレスなどで、自律神経失調症っぽい症状がありました。
そんなときはベッドに横になっているのもきついので、
喫煙室にタバコを吸いにいくか外にでて空気を吸いにいくかです。
喫煙室で知り合ったガンの若い男の子と病院のだれもいない場所をみつけてエッチしたこともありました。
結局そのあとその男の子は亡くなったそうです。
小児病棟にいたなかのよかった子供たちも何人か病室で亡くなったと聞きました。
なかなか壮絶な環境に23歳から25歳くらいまでいた私です。
4歳だった息子も2歳からガン発覚、抗がん剤治療の末、再発、それ以上なにもできないと医者にいわれ、
放射線治療ご、地元の八戸に帰ることになりました。
もうただ、子供が弱って死んでいくのを待つだけの状態でした。
私の母親がピクニックに一度だけ連れて行ってくれました。
がりがりに痩せた息子でしたがその日は楽しそうに笑っていました。
2週間くらいは母の家でみんなですごしましたが、母のいない日もありました。
母には父と別れて、付き合ってる男性がいましたので、その人と会っていたんだとおもいます。
友達が東京から規制していたとき会おうと声をかけましたが、
美容師仲間と飲みにいくとのことで、がんの子供をかかえた私を励ましてくれる親友というのは
いなかったんだなとおもいました。
まだ24歳ですからね、楽しそうな方を選びたいでしょうね。
私は孤独でした。
ときどき、息子が早く死んでくれたらいいのになどひどいことをおもうことがあり、自己嫌悪にもなりました。
それでも息子のそばにつきっきりでつきそいました。
ガンがわかるまではわたしは悪い母親でした。
20歳で生んでから元旦那の暴力で離婚、パチンコ屋で働いてそこの同僚とつきあいました。
母親に子供の世話をたのみ、遅番がある日は、家に帰らず、彼氏の家に泊まることもしょっちゅうありました。
21歳や22歳で若いとはいけ、無責任な母親でした。
ある日私の母が子供を託児所から迎えに行ってくれるだろうとおもって、彼氏のいえに泊まっていたところ、
母親から電話があり、迎えに行っていないことが発覚、
息子は夜の7時か8時くらいまで託児所にいて、ほかの子たちが帰ったあともぽつんと一人
そこの先生と待っていたそうです。

私の母は大激怒!
私が男の家にいたというのを知り、私をあばずれよばわり。
最悪な状況でした。
そんなことがあった矢先のガン発覚でした。
完全にガンは私のせいだとおもいました。
子供にストレスを与えすぎたせいでがんになったんだと思い自分を責めました。
涙が止まりませんでした。
めずらしいがんで、治療がむずかしく、地元の八戸の病院では治療できないということで、
車で4時間ほど離れた、仙台の大学病院へ紹介状をだしてもらい
仙台までいくことになりました。
ガンの進行が早く、緊急手術になりました。
副腎からでている神経芽細胞種という生存率のかなり低いがんです。
腹膜にがんがひろがっていて、がんをすべて手術で摘出は不可能、
がんの一部だけとり、検体を調べる、そしておなかを閉じました。
抗がん剤のスタートです。
子供はとくに血管からの点滴は大変なので、
心臓付近の皮膚にあなを開け、管を通し、そこから点滴をいれる。
点滴を入れてない間も、その管はぶら下がっている状態です。
お風呂にはいるときは、看護婦さんに防水テープをはってもらいます。
抗がん剤治療はどんどんすすんで、髪の毛は抜けて頭つるんつるんになりましたが、
ガン細胞はなくなっていきました。
ご飯も食べれるようになり、ほっぺもまえみたいにぷっくりして、元気に病棟のお友達と
あそんだり走り回っていました。
病棟にも仲いいお友達ができて、毎日普通に過ごしていました。
病院にいるほうが楽しいくらいでした。
私も同じ年くらいのお母さんとなかよくなり、時々仙台の町まで二人で遊びにいったりもしました。
わたしの母は仕事で忙しいので三カ月に一回きてくれればいい方でした。
治療の合間に先生の許可がでて、一度か二度くらい、八戸に戻って実家ですごし、
わたしの父と息子と私で神社にお参りに行ったこともありました。
ちょうど父も還暦の年だったのでそのお祝いもしました。
息子も七五三のお祓いもしてもらいました。
あの時は息子がまだ元気で、最後あんなふうに死んでいくなんて想像していませんでした。
抗がん剤でがんが消えて、あとは回復していくだけだとおもっていました。
定期的な検査を受けていたところ、がんが消えてから三カ月かそこらだったか半年だったか、
あまり覚えていません。半年もなかったとおもいます。
再発を宣告されました。
再発したということは、お医者さんにとって、死を意味することだとわたしはわかっていませんでした。
放射線治療が始まりました。
これは気休めだったのかもしれません。
放射線でがんをたたく、抗がん剤でがんをたたく、
ガンをたたくだけでなく、体の健康な細胞もむしばまれていくんですよね。
子供が日に日に弱っていく姿をみつづけました。
その頃の私の写真をみますが、
体重は今と比べたら、20キロ以上少ないです。たしか40キロくらいしかなかったとおもいます。
子供の病院食の残りを食べるだけのときもけっこうありました。
お金がなかったのもありますが、子供が結構残すのでそれで残りをたべてそれでいっぱいでした。
家族が仙台にいる人たちは、家族が手料理をもってきて食べていました。
正直うらやましかったです。
私は孤独のもとにうまれた人間なのかなとおもいました。
子供がいるから完全孤独ではないのでしょうが、子供を自分ひとりで面倒を見るというのはかなり
孤独感があります。
子供は小さいですし親の気持ちなどをシェアする相手ではないからです。
子供をかわいいかわいいいってくれる家族がたくさんいたら母親の気持ちの負担が減るのです。
わたしの母も子供をかわいがってくれていましたが、なんせ八戸なので、
なかなかくるのもむずかしいです。
それでもなんとか運転してきてくれたこともありました。
息子の好きなメロンと焼き鳥をかってきてくれました。
託児所の所長も一度きてくれ、息子のすきな仮面ライダーのおもちゃをかってきてくれました。
病院の先生もとてもやさしい先生でいつも笑顔で息子に接してくれました。
大学病院なので、教授がときどきぞろぞろ引き連れてまわってきました。
学生もいました。
教材になった気分でした。
意味もなく学生や教授が聴診器で子供の心音や肺の音などを聞いてまたぞろぞろとほかの病室に
移動していきます。
元旦那も一度か二度たずねてきました。
元旦那は自分がサド(SMでいうとS)だと言っていました。
息子が手術中だというのによくそんなはなしできるなーと心の中でドン引きしていましたが、
わたしのその当時の彼氏も来ましたが、元旦那といるほうが息子のためにいいのかもと
そして、その彼氏のせいで息子の病気にきずかなかったことなどの気負いもあり、
彼氏にそっけない態度をとってしまい、彼氏に激怒され、壁ドンされました。
彼氏は息子のためにディズニーランドのチケットを買うといってくれたのに
わたしの心の中はめちゃくちゃでした。

わたしの母にもあばずれよばわりされたばかりだったので、その彼氏にも優しくできなくなっていました。
わたしは母しか頼れる人間がいなかったので母のいいなりになっていたんだとおもいます。
彼氏となかよくしていたら、またあばずれよばわりされるだろうともおもったし、
その彼氏にたいする気持ちももう冷めてしまっていました。
男とラブラブという気分でもありませんでした。
自分のせいでひどいがんになってしまった息子のために自分の人生をささげることしか
考えていませんでした。
ダメ女から、まじめな母親に転身したつもりでいました。





だいぶ話飛びましたが、その入院生活のときにすでに不安障害(Anxiety)ははじまっていたのかもしれません。
その前にも近い経験がありました。
一番初めは小学校3年生くらいです。
学校の帰り、一人で家に向かって歩いていたときです、急にひどい頭痛に襲われました。
激痛でした。その場にしゃがみ込みました。2〜3分くらいでおさまり家に歩いて帰ることができました。
結局それから頭痛は亡くなったので普通にすごしていましたが、
そういえば、小学校1年生のとき、校庭で、ぶら下がりシーソーにあたまを打って流血したことがありました。
おでこでしたが、何針か縫ってそれで終わりました。
その時に脳に障害がでたんでしょうか。わかりません。
そのあとも小学校5年生だったか、覚えてませんが、家のまえのアスファルトの上でスケボーでころび
強く腰をうち、痛みに耐えれなくなり気絶したことがあります。
中学校でもコンクリートでころび痛みでめまい、座っていたところうしろに倒れ、気絶。
階段で転びすねを強くうち気絶まではいかずもめまい、
ジャングルジムから落下、気絶。
親に病院に連れて行ってもらい、脳の検査をしたが異常なし。
現在の夫と32歳ころ出会い、プールでウォータースライドで二人乗り、途中で離れてしまい、
わたしが先に水におちて、そのあとだんなが落ちてきて私の背中に激突。
身長186センチの100キロの旦那の体が水の中といえ、私の背中に落ちてきたのです。
息ができなくなり、気絶しました。
死ぬまではいかずも死にそうな経験を何度も経験してきました。
現在の話に戻りますが、日本へ帰国、楽しい夏休みをすごすはずが、
その古いホテルに滞在が不可能と判断、フロントデスクのお兄さんに一生懸命話しかけ、
精神を落ち着かせようとしましたが、100パーは無理でした。
20パーは落ち着けたかもですが。
あのときのお兄さん本当に迷惑をおかけしました。
ほかの新しいめのホテルをその方に探してもらい、空き部屋状況を確認、タクシーも手配してもらいました。
荷物をとりに部屋に戻ることも無理な状態だったので、
その方に荷物をすべて下まで運んでもらい、
タクシーに積んでもらいました。
本当に迷惑な客です。
あたらしいホテルに到着、チェックインを済ませ、
ホテルの部屋にはいって、シャワーしてねむりました。そこまでは大丈夫でした。
でもシャワーのなかで暑くてドアをしめていても息苦しくなり、また発作がおそってきそうになり
ドアをあけしめしながらだましだましシャワーを済ませました。
子供たちの面倒も見ながら自分の気分もおちつかせるというなかなかハードな夜でした。
あたらしいホテルはにおいも変なにおいがなかったので眠ることができました。
が、日本の日の出ってこんなはやかったっけ?
朝の4時に目が覚めました。そこからねようとしても眠れないし、
また自律神経がおかしくなって、
いてもたってもいられず、子供を部屋においたまま部屋をでるのはまずいし、子供が起きて、わたしがいなかったら、ないてしまうし、子供も怖い思いをしてしまうだろうなと思うが、
いてもたってもいられないのは治りそうになかったので、
しかたなく、ホテル内のお風呂を見に行ったり、洗濯をしたりすることにしました。
マッサージチェアにもすわってみましたが、まったくリラックスできませんでした。
本来なら、温泉すき、マッサージスキの私なのに、
ホテルも好きなんです。
なのにホテルにいることが苦痛でした。
部屋に戻り窓のそとをみました。
自分の地元なのに、なんか寂しい雰囲気。
もともとさびれた街です。友達がいうにはさらにさびれて、人口も減退、もとあったデパートも撤退。
こんな寂しい街に、私と子供だけ。親もいない。
親はもうなくなってます。
兄も私が八戸に帰るとつたえましたが、会おうといわれませんでしたし、
私に会いたい人間はここにはだれもいなんだという寂しい気持ちにおそわれ、
ホテルから飛び降りた、神田沙也加さんのことや、24歳くらいの時、飛び降り自殺した同級生のことをおもいだしました。
私の妹も2020年練炭自殺しました。
自殺する人のきもちがわからないとおもっていたわたしでしたが、このときのわたしにはよくわかりました。
このいてもたってもいられない、自分ではコントロールすることのできない感覚。
これから逃げるには死ぬくらいしかおもいつきませんよね。
わたしはまだアメリカに住んでいたせいか知らない人にも話しかけていくというずうずうしさがみについていたおかげか、ホテルの従業員に話しかけるなどして、なんとか気持ちを分散していました。

大変長くなってしまいましたので、続きは次のブログで。。







posted by Usavitch at 09:36| 日記
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Usavitch
アメリカのフロリダ在住。アラフォー。5つ下の夫、子供二人。7歳と3歳。2010年アメリカ人と国際結婚。2012年渡米、アイダホ2年→ノースダコタ5年半→フロリダ。日本と、アメリカ3州の美容師免許保持。 アフィリエイトもしていますので、情報交換もしたいと思っています。 ロダンアンドフィールズのコンサルタントもしています。 https://keikobeauty.myrandf.com/ ヴァレンタスVALENTUSダイエットコーヒーの販売もしています。 https://www.MyValentus.com/usavitch
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