パリ 空港内のカフェにて
後半は友人たちと充実した時間を分かち合えた。東日本大震災から約2か月半。生々しい爪痕、と呼べるような変化はすでに東京ではほとんど消えつつあったが、日本全体を覆う絶望感、虚無感のような重々しい空気だけは肌で感じた。
家族や故郷を失った人々の姿をテレビの画面で見るたびに涙するくせに、再び海外へと逃亡するかのように旅を続ける自分自身に罪悪感を持ちつつも、一方で本当に素晴らしい友人たちに恵まれ、ご先祖様や亡き両親に見守られ、私はなんて幸せ者なんだろう、と実感した一時帰国だった。
本当に心の底から被災者に対して何ができるかと考えたら、ただ少額のお金を寄付するだけではなく、自ら足を運んで現地へ赴き、ボランティア活動をするだろう。しかし日本に帰国しても尚、私には東北地方の惨状を自らの目で確認する勇気はなかった。
そして、当初の予定通り旅を続けることを選んだ。それが、その時の私自身に一番必要なことだと思ったからだ。
旅などする心理的余裕のある人はこの時の日本にはほとんどいなかっただろう。スペイン巡礼中に出会った日本人も、皆一様に日本中が大変な思いをしている今この時に外国へ来ることがどんなに後ろめたく勇気のいることだったかを口にしていた。
それでも、自分に今できること、そして最もすべきこと、自分にとって一番必要なことは何なのか、を突き詰めたら「他人からどう思われるか」という考えを捨てる必要があった。そうでなければ、窒息しそうな毎日の中でゆっくりと死んでいくしかない。
後に、この震災を日本で経験した友人たちから話を聞いたところ、この震災後日本人の中に二つの象徴的な思考が芽生えたという。
ひとつは、今持っているものや、大切な家族を守らねば、という考え。彼らは地震と津波に対する備えを更に強固にして、いつそれが来てもいいように万全の備えをすることに心血を注ぐようになった。
そしてもうひとつは、何一つ確かなものなどないのだ、という悟り。この考えに至った人々は、モノに対する執着心がなくなり、新しく何かを買ったり備えたりすることよりも、目に見えない人との絆や今しかできない経験を重視するようになった。
想像もできないこの震災のような未曽有の大災害に襲われて、いつ大切な人を失うか、お金をかけた家や高価なものを失うかわからない、そもそも自分自身の命さえ保証できない予測不可能な未来。だったら、本当にやりたいことを「いつか、いつか」と先延ばしにするよりも、今、やってしまわなければ…。
この震災を経験した人々がそう感じるのも当然だと思う。被災者のことを考えると、そういった一見自己中心的な生き方がどうしてもできない日本人は多いだろう。
大勢が住むところもなくて困っている時に、お金を遣って海外を遊び歩くなんて…と「海外旅行」という言葉を使うことにさえ罪悪感を禁じ得なくて、何をしてよいかわからず、ただ息を潜めるように日々を生きる…。
それが、私にはできなかった。旅をやめて、田舎で仕事をみつけて細々と暮らすという選択肢もあった。でも、私にはそれが正しい選択だとはどうしても思えなかった。
私は地震が起こった時、日本ではなくイタリアにいた。会社をやめたのでたっぷりの時間と、世界を1周(半周)するだけの資金があった。そしてその幸せを、私は一人きりで享受していた。
世の中は不公平かもしれない。こんなにまで思うがままに、何かに守られながら生きられる人間がいる一方、理不尽なことばかり世界では起こっている。自分の意思にかかわりなく生き延びることだけに必死な人々が多数存在する。
こんなにラッキーが何十年も続くと怖くなる。これだけ人より多く外国へ出ていながら、危険な目に遭ったり、本当に面倒な事態に陥ったことがない。何もないまま、この旅を終えられるだろうか。8月に再び元気で羽田空港へ降り立てるだろうか。幸運過ぎて怖くなる。
そんな時、私は自ら危険を招いたり、自ら幸せを壊すようなことをしてしまう癖がある。そうやって、何人かの奇特な男性たちとの別れを経験してきた。
幸せであることが不安の種だなんておかしいけれど、それが私の人生なのかもしれない、と思う時がある。その証拠に幸運すぎる私には、人生の伴侶という最も望むものだけが与えられていないままだ。
長く暮らした東京の懐かしい風景
会社を辞めて一年後、慌ただしく様々なことが起こり、人生がまったく予想できない方向へ向かい始めたこの時、私はパリの空港でマドリッドへ飛ぶのを待っていた。夢かと思う程のリアリティに欠けた日本への一時帰国。あの街で、東京という都会の砂漠で20年を生きてきたのに、帰国中はまるで他人の人生を生きているようだった。スペイン巡礼中の私こそが本当の自分であるかのように。
少ない休日なのに車で空港まで送ってくれたHさん、部屋に泊めてくれて土曜も日曜も最後まで付き合ってくれたMちゃん、急な呼び出しなのに夜中、空港まで来てくれたY。その場にはいなかったが、旅の間中協力してくれたSちゃんやIやKさん、そんなあたたかい人たちが、ゲートで手を振って見送ってくれた。翌朝からまた1週間仕事のある彼らなのに、端的に言うと遊びに行く私をあたたかい笑顔で送り出してくれた。
この旅を、ただの旅行で終わらせてはいけない。巡礼を成し遂げたご褒美とも受け止めてはいけない。何より修行でなくではならない。皆のためにも、自分のためにも。
私は一体何を吸収して、何を学んで、心に何を刻んで帰国するのだろう…。
5月30日に日付が変わって間もない深夜0時半、羽田空港を飛び立った日本航空機は、早朝6時10分、フランスのシャルル・ド・ゴール空港へ着陸した。予定を1時間遅れた10時40分、エールフランス航空の快適なサービスに満足しつつ、再び機上の人となった私は昼過ぎの12時50分、やっとの思いでスペインのマドリッドへと到着した。
31日の便も早朝だったため、ホテルでの優雅な朝食にありつく時間もなく、サービスのマフィンとコーヒーをお腹に収めると、シャトルバスにて再び空港へ。8時半に離陸したマレブ・ハンガリー航空機は11時40分、東欧ハンガリーの首都ブダペストに着陸。約1時間半の乗り継ぎを経て午後1時10分、ついに 最終目的地ブルガリアのソフィアへと辿り着いた。
2日間で、東京、パリ、マドリッド、ブダペスト、ソフィアと5都市を周ったことになる。時間にすると約37時間だが、時差があるため一体どれだけの時間が実際過ぎたのかは見当もつかない。パリとブダペストでは乗り継ぎ時間をカフェで過ごしたので、この一日半の間に日本語、フランス語、スペイン語、ハンガリー語、ブルガリア語と5か国語を耳にし、日本円、ユーロ、ハンガリー・フォリント、ブルガリア・リラと5種類の通貨を使った。
左:日本では見ることなのないマレブ・ハンガリー航空機 右:近代的なマドリッドの空港内
もしも10日間で世界一周航空券を使うなら、こんなせわしなく疲労感たっぷりの旅になるんだろうな、と思った。(10日間で世界一周はほぼ不可能に近い気がするが…)
なぜこんな複雑怪奇なルートになったかというと、世界1周航空券というのは、出発前に全てのルートで航空券を予約しておかなければならず、私の場合2月にアジア大陸(ヨルダンのアンマン)からヨーロッパ大陸(イギリスのロンドン)へ入った後、ヨーロッパ大陸内での地上移動(イギリス→イタリア→スペイン→フランス→スペイン)を挟み、6月にスペインのマドリッドからブルガリアのソフィアへの飛行機を予約していたため、予定外の一時帰国便は世界一周航空券には含まれていないのだ。
つまり、巡礼後のサンティアゴ・デ・コンポステーラからマドリッド経由東京行き、そして東京発パリ経由マドリッド行きの航空券はスペイン国内で突発的に予約した全くの別物航空券という訳だ。
世界一周航空券を発券した時点では一時帰国をする予定は全くなく、東日本大震災の発生により予定が変わったので、わざわざスペインへ戻ってからブルガリアへ向かわなければならなかったのだ。家族の要請による一時帰国だったので仕方ないが、その分出費はものすごかった…
世界一周航空券に関する注意点は後程北米編で書くことになると思うが、世界一周航空券での旅を考えている方には、ぜひとも慎重に、綿密に計画を立ててもらいたいと思う。でなければ、私のように自分で自分の首を絞めることになりかねない…。
飛行機の飛跡を地図上に描いてみるとひどく地球規模な移動に、何だかシュールな経験をした気が。どこにも属さないまま、ただ移動を続ける曖昧な存在、異邦人(というより異星人?)の心持ちだった。
1月最後の日に日本を発ってから ネパール、ヨルダン、イギリス、イタリア、フランスを旅し、スペインでの巡礼を経て6月、 ブルガリアのソフィアから、私の 世界1周旅後半が始まった。
★ 『ヨーロッパ後編?A薔薇とヨーグルトの国ブルガリア』 へつづく…
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