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損ばかりしていた、金券ショップのばばあ達が損しない生活を目指し、「金券」「株主優待券の換金率」や「子育て終了母」なので、今まで言えなかった事など「そんなことあるの?」知りたくても聞けない内情を赤裸々に書いています。PCの出来ないおばさん三人組がお伝えします。登場人物には承諾を頂いております(笑)
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2018年06月23日

どちらを優先?実家の親と嫁ぎ先の親に挟まれストレスがピーク!

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「ばばあ2」
最近は核家族化でありますが、おばさん2は主人の家族と同居です。家族構成は息子2人はすでに独立し、義母、義母の妹、主人、保護猫3匹と犬がいる家庭です。

事が起きたのは実家の母が転んだ父を助けようとして、大腿骨骨折をしてしまったのです。入院し手術をしなければなりませんでした。しかし、仕事もあり、嫁ぎ先の協力はあまり得られず、悪戦苦闘の毎日を過ごしたのです。



母の骨折

実家も弟夫婦と同居なのですが、弟は10年以上前から仕事で海外におります。なので、実家では義妹と私の両親、姪と甥の5人家族なのです。

とてもわがままな父に耐えてくれている義妹にすべてを託すのは気の毒でなりません。やはり子供の少ない今は自分の親は自分で見るのが当たり前になってきているのです。

家事をこなし、仕事の手配後に母の手術の立ち会いへと向かいました。手術時間はさほどかかりませんでしたが、病院での説明や必要な物の購入、始終病院から電話がかかり、仕事どころではありませんでした。

嫁ぎ先の義母は「お母さん、大事にしてあげてね」などと言いますが、家事の負担は減る訳でもありません。それが、嫁の立場なのです。

父の様子が変に ?

母の状態も良く2週間後にリハビリ病院への転院をしなくてはならなくなりました。リハビリ病院の場合は家族が洗濯などをしなけばならず、毎日病院の往復を考えるととても大変なので、職場の近くの病院を選びました。

幸い、早くに空きが出て転院が決まったのですが、父の様子が変になってしまったのです。今までの病院は歩いて10分かからない厚生病院でしたので毎日早朝から母の病室に出向いていたのですが、リハビリ病院は電車やバスを乗り継がなくてはなりません。

その旨を父に伝えたら、父は無言で寝てしまいました。その日を境に父は食事も満足に出来なくなり、お漏らしをし、コタツから出て来なくなってしましました。


ドンドン衰弱をする父

殆ど食事もとらず「寒い、寒い」と言ってコタツの中の父ですが、よく見ると窓が全開なのです。これは認知症?しかし、食事がとれていない分体はどんどん弱り、立つこともままならなくなりました。

父も仕事の合間に病院へと点滴に連れて行く日がスタートしたのです。母の病院、父の点滴、仕事、自宅の家事、もう頭の中はパニックでした。

しかし、義母には私の大変さは伝わりません。何故なら、義母は子供の頃も、結婚後も核家族だからなのです。経験しないとわからないとはこのことなのでしょう。

心も体も倒れそう

仕事が終わり、母の病院へ向かう毎日で、自宅に帰って母の洗濯物を洗い、次の日には父の病院の繰り返しで心も体も限界が近づいたときに、母のリハビリ病院が父を入院させてくれることになったのです。

神からの救いの手が下りてきま した。同じ病室ではないのですが、父と母を同じ病院に入院させることになったのです。

しかし、二人分の病院代と二人分の洗濯が私にのしかかってくるのです。一難去ってまた一難とはこのことなのでしょうか。

まとめ


・いつもの日常が、母の骨折で新たな方向へと変わっていくのです。
・母の転院で父の認知症が進んでいくのです。
・見かねた病院の相談員の方が母と父を同じ病院に入院させてくれました。
・嫁ぎ先の家族の手助けはなく、 嫁はお手伝いさん と思っているように感じました。

今回の母の入院が無くても、以前から私の事を「お手伝いさんとしか感じていないだろうな」とは思っていましたが、やはり昭和10年代の人達からしてみれば考え方を改める事など無いのです。

しかし自分の娘には苦労はさせたくないと思う親心は同じ様です。この先まだまだ波乱が続くのですが、また後日お知らせいたします。


教訓、どちらの両親でも同居はすべきでありません




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両親ともが同じ病院へ入院することになった事は、前回にお話しをしましたが、毎日二人の病院へ行くのが仕事後の日課になるのです。

当然のように二人分の洗濯ものに時には必要な物の購入にも行かなければなりません。当然、大荷物を抱えての出勤と帰宅です。1人の病院でも負担ですが、2人になると負担も大きいですね。疲れがたまり、自分を見失って行くのです。





嫁ぎ先の義母の見舞い
親切でお見舞いに来てくれているのはわかりますが、正直 そっとして置いて欲しいのが本音です。自宅に帰れば帰れば「今日、お母さんの病院へ行ってきたからね。」と言われれば「ありがとうございました。」の一言も必要で、私には母のお見舞いに来ていただく事の方が、負担を感じて生活をしなければならなくなるのです。

実家の母も健康な状態なら良いですが、病院で長期入院中の為、美容院へも行くこともなく、女性としては恥ずかしく思うようです。何故ならば、義母も義姉も嫁ぎ先の家族は見栄っ張りで、お金も無いのに自分を着飾る事ばかりに執着している人たちです。その中に母がいるのは場違いの様で、みじめに感じるから嫌がります。

私の母は10年前に大動脈解離と言う大病を患い、余命1日と言われて意識の無い寝たきりの状態から、やっと歩けるまでに回復をした人物ですので、体も不自由で、言葉も不自由、記憶も断片的な身です。義母たちとは会話もうまくつながりません。

なのでお見舞いに来ていただく事の方が迷惑に感じるのでしょう。直接は「お見舞いは迷惑です。」とも言えず、板挟みに入るのです。


食事が出来なかった父が回復

一方、父の方は入院当初に1,2か月持てば良いでしょう。と、言われていたのですが、何と奇跡的に回復し、食事まで取れるようになって来たのです。恐るべき昭和10年代生まれ、戦争当時に何もない状態で育ってきたので、体が初めからエコモード状態なのでしょうか。

1カ月の点滴生活で、体は回復し、元気もりもりになって病院食だけでは足りないと言い始めるのです。しかし、3カ月ほど病院のベットの上での生活で、歩くことが出来なくなりました。今後、母と自宅での生活は自分で歩けない二人の生活は無理だと医師から言われました。



母の退院

リハビリのおかげで、母は順調に回復し自宅に戻る事になりました。しかし、病院に取り残された父は、わがままばかりの毎日です。

父も体調自体は良くはなったのですが、若干の認知症と歩けないので、介護施設に移らなければならなくなりました。

私は介護施設探しと実家に戻った母のもとへ週2回ほど食料を運ばなければならなくなったのです。父の病院、実家、自宅のサイクルの日々が続くのです。
こんな事なら2人とも同じ病院にいてくれたらどんなに楽かと思いましたね。




まとめ

・お見舞いって何?来ていただく事の方が迷惑の時もあるのです。
・戦争当時、子供だった人の回復力は凄い、ポカリのような点滴で回復してしまうのですから。
・母が退院することで、私自身の負担が増すばかりです。

確かに子供の数は少ないのですので、公共の地域包括支援センターやデイサービスを活用しても、家族の負担がさほど減る訳ではありません。

結果、話を聞いてくれる1人に集中させられてしまします。私は「 キーパーソンさん 」と呼ばれてました。まだまだ続く介護、本当に先が見えないブラックホールの様です。次は父の施設探しをしなければなりません。
私の負担は減ることが一向に無いのです。


posted by 蔵子 at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護
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