繊維業界代表が田中通産相と会談(1971年9月)
「俺が会う、大臣室に通せ」(田中角栄のふろしき)
小長秘書官の証言(5) 2017/12/18 6:30日本経済新聞 電子版
「いや、俺が会う。そのまま大臣室に通せ」。通産相の田中角栄は逃げも隠れもしなかった。
1971年10月、日米繊維交渉は「日米繊維協定のための了解覚書」の調印をもって終了した。規制の対象は毛、化合繊のすべて、期間は3年間、輸出規制の伸び率は毛で1%、化合繊で5%だった。そしてこの自主規制による繊維業界の「得べかりし利益」の逸失については、2000億円の予算措置を施すことで決着をつけるのが角栄と通産省の事務方の筋書きだった。これですべて終わりのはずだった。
しかし、終わらなかった。繊維業界が収まらなかった。国内の繊維産地は「われわれを犠牲にする内閣打倒」とプラカードを掲げ激しく反対したのだった。噴出する不満と怒りに背中を押される格好で、帝人の大屋晋三ら日本繊維産業連盟の幹部が通産省に乗り込んできた。
「大臣はいるか」「断固、抗議する」。憤る繊維業界幹部たちが通産省に詰めかけた。通常なら「大臣に会うのは局長に会ってからにしろ」と、いったん事務方に回してガス抜きをさせ、頭を冷やす時間を稼ぐ。しかし、「まず繊維局長に通しますか」と尋ねた小長啓一に、角栄は「これは事務的な話ではない。政治の話だ。その必要はない」と即答したのだった。
繊維業界の幹部たちを大臣室に通すとすぐさま議論は沸騰、刺々(とげとげ)しい言葉の応酬が始まった。「これでは繊維産業が被る被害が大きすぎる」「なんで米国に押し切られたんだ」。繊維業界側は収まらなかった。
角栄もたじろがなかった。「自主規制で影響が出る分には国が2000億円もの予算を用意した。一定の伸び率も取った。ゼロじゃない。一つも失うものはないじゃないか」。到底、折り合うはずはなかった。
ただ、小長がしばらく遠くから黙ってみているとよく分かった。角栄は自分の役割を十分心得ていた。自然と聞き役に回っているのだ。
相手はとにかく頭にきている。言いたいことを言う。止まらない。それを角栄はじっくり聞き、「言いたいことは分かった」といったん受け止める。そのうえで「しかし、君たちが言うことを聞くわけにはいかない」と返し、国としての立場を説明するのだった。
そんなやり取りが30分ほど続いた。結局、話し合いは物別れに終わり、怒ったまま日本繊維産業連盟の幹部たちは出て行った。「大臣というのは大変な仕事だ」。一部始終を見ていた小長はそう思ったという。
ただ、角栄は「これで業界も納得するはずだ」ときっぱり言った。「あの連中は建前で来ている。『このまま拳を下ろすわけにはいかない』ということで来ている。だから『大臣に会って猛烈に抗議した』ということで収まるはずだ」と言うのだった。そしてこう付け加えた。「言葉は激しいが目は笑っていたぞ。これで解決だ」
角栄の言葉通り、繊維業界は次第に収まっていったが、もう一つ問題があった。野党だ。野党が黙っていなかった。
10月27日、社会、公明、民社の野党3党が衆院に通産相の不信任案を提出した。米国の一方的な圧力に屈服し、国会決議を無視して日米政府間協定に仮調印したのは「国民不在の屈辱外交だ」というのが理由だった。
野党3党の強い調子に通産省の事務方は随分と心配した。しかし、角栄は平然としたもの。「心配するな。大丈夫だ。俺がひな壇に座っていればいいんだ。事務方はじっとしておれ」と国会で1人座って非難を浴びていた。その後ろ姿に小長はつくづく「政治家というものは大変なものだなあ」と思った。角栄がおろおろすることはなかった。
後に小長はその時の自分の思いが間違っていなかったことを悟る。通産相の秘書官と首相の秘書官を務めた後、小長は産業政策局長、最後は次官に就任し、予算や法案の折衝で様々な政治家に会うことになるが、角栄は「確かにずばぬけた政治家だった」という。
日米繊維交渉は3年の交渉期間を経てようやく解決する。まさに角栄の力業(ちからわざ)だった。繊維製品の輸出を規制する代わりに沖縄を日本に返還する密約があったことは後で分かった。
角栄の手法に批判がないわけではない。ただこの時、角栄が力ずくでまとめなければ、「交渉ごとは最後の最後まで分からない。沖縄返還もどうなっていたか分からない」と小長は言う。
日米繊維交渉が決着したことで通産相就任から3カ月後、仕事に忙殺されてきた角栄に一瞬、時間的な空隙が生じた。そこを利用して角栄は新潟県にお国入りする。小長もそれに付き添ったが、その時のことを小長はいまだに忘れられない。
柏崎市西山町の角栄の生家は決して立派とは言えないごく普通の中堅農家だった。そこで角栄の母、フメが迎えてくれた。角栄が国会議員となり郵政相、蔵相を経て今度は通産相になったというのでお国入りしたが、フメの態度に小長は「痛み入る感じだった」という。
とにかく腰が低い。脇からそっと出てきて、小長が下座に着こうとすると「とんでもない」と上座に座らせた。そして静かな声で「どうか、角栄をよろしくお願いします」と深々と頭を下げたのだった。これにはさすがの小長も頭を上げられなかった。
フメの夫の角次は農業の傍ら牛馬商を営み養鯉業を手掛けていた。牛馬商も養鯉業も決してうまくいったとは言えず、その分、フメが必死でコメを作り一家を支えた。角栄が幼少の頃は薄暗いうちから田んぼに出て帰ってくるのも日が暮れてから。「いつ寝るんだろう」とその背中を見ていたという。
フメは角栄が政治家になってからも「いい気になるな。でけえことを言うな」と言い続けてきた。小長には「お袋には頭が上がらないんだ」と話していたという。
だからお国入りした時も角栄は小さくなっていた。日米繊維交渉で見せた貫禄も迫力もなかった。小長とフメの様子を「静かに笑ってみているだけだった」。=敬称略(前野雅弥)
小長 啓一氏(こなが・けいいち) 1953年(昭28年)3月岡山大法文卒、通産省入省、70年企業局立地指導課長、71年7月に田中角栄通産相の秘書官、72年から田中首相秘書官、82年産業政策局長、84年通産省事務次官、86年通産省を退官。91年にアラビア石油社長。岡山県出身。
タグ: 田中角栄
【このカテゴリーの最新記事】