ここは、長野県駒ケ根市 私の自宅の 満天星 に積もった雪の様子。道路には5?pといった積雪。もう降っていません。朝4時20分です。
ニュースでは、都内・埼玉・神奈川の積雪の様子が映っています。ここより、雪の量が多いですから大変な様子です。
なんでこんなに早く起きたかと言うと、友人に透析病院の駐車場の除雪を頼まれたからです。5時30分には自宅を出ます。
帰ってから、体力が残っていれば昨日の続きをUPします。体力が無くなれば回復してからになります。では。
除雪が終わり、自宅に戻りましたので、さて、これまでの続きです。
安岡先生の教学の中に、五井先生の神道が出てきた。大阪の成人教学研修所には、板敷の道場があり、立派な神棚が備わっている。学監伊与田覚氏は堂々と参拝しておりました。実に爽やかな研修所でした。
さて、それではと、早速五井先生の本を仕入れて読みました。初めに神と人間読んでいます。続いて何冊か注文して、今数えると合計で6冊になっています。当時の私は生意気盛りの40才そこそこ、一通り読んでそのまま本棚にしまってしまいました。
生意気盛りという者は困り者。私は、その他にも神道の本を何冊か仕入れて、無謀な「自力門」を辿ることになってしまうのでした。確たる指導者の居ない神道の独学は、やらない方がマシ。という事を「五井先生の著書から見落としていたのでした」五井先生だけではありません。その他の神道の著書からも見落としているのでした。
実際は読んでいたと思います。だが、解釈する・咀嚼するという「力量」が無く、しかも集中するという事にも欠け、注意力も緩慢。大体素直でない。読書にも素直さは要るのである。この当時は、何を読んでも、ただ見ただけというようなことしかしていなかった。今振り返るとそうとしか思えない勿体ない時間にしていたのです。
何処からそういう神道系の本を仕入れるかと言うと、品川に八幡書店というところがあります。大本系の出版物から、各派の教派神道のもの、ヨガ系のものまで幅広く扱っています。こういう部類は絶版になるのが多いのです。ここでは、復活させて販売しています。
ある日突然私に「独学はやらない方がマシ」というような、災難がやってきたのでした。それで、これではいけない、神道の本を読み直さなくては・・・と思い、五井先生の著書の読み返しを始めたのです。そして少し落ち着いた頃には、定年の年になっていました。
読み始めると、痛烈に感じました。
「なんだこれは、今までに何も覚えていないことばかり」
しかも、読んでいると、ただ読んでいるだけで記憶していかないのです。
「こんな中途半端な読み方では、ダメ。自分も満足しない」
と、片っ端からノートすることにしました。それでようやく自分でも納得できるような読み方になりました。このスタイルにしてから、1年と少しが過ぎています。おかげさまで、五井先生の説くところを凝縮することができました。
はじめたころは、兎に角新鮮なのです。ということは、以前読んだつもりでも、何も分かっていなかったとという事なのです。そして、いざ教えられた通りにしようとすると、出来ないのです。私にはとてもできないことも出て来てしまうのです。
もし仮に、貴方に「かたき」がいたとすると、その者を愛せというのです。愛さなくとも「幸せくらい思ったらどうだ」と・・・できますか?
私には無理です。そしてこのことに五井先生は「できないことは分かります。無理もない」と説き。続いて、そういう時は天地の法則の『コレを使えばいいのです』と説いてくれています。これを見つけるのに、時間が掛かってしまうのです。咀嚼できた後で書いているので簡単なように見えるかもしれませんが、私の場合は、先生の説く語りの中から咀嚼するだけでもかなりの時間を要しているのでした。
「人間にはなぜ生死があるのか」
「死ねば終わりか・目的は何か・輪廻は止めれるか」
「神様はいるの・いないの」
「人間はなぜ分からないことだらけなのか」
「人間はなぜ立場や能力や身体的特徴が違うのか」
「霊的な能力を求めることは間違いか」
人間に対する疑問や不思議なことを並べると、切りもないほどあります。その悉くに五井先生は答えています。そして、人間の本来の姿になるために、しなければならない事がある。
それは、1つでいい。何もかも1つの 祈りでいい 。と説いている。
これが、五井先生の説く 究極の祈り です。
安心立命という心境ほど人間を心地よくさせてくれる心境はありません。自由自在もそうですね。国の安泰も会社の安泰も家庭の安泰もそうです。すべてこれでいいのですよ。と説いています。
ただし、早合点しないで頂きたいことがあります。それは「直ぐにはならない・変化しない・時間の経過が要る・徐々に」ということです。
五井先生は、天地の間に幾つもの法則があって、それをどうすればいいのかを合わせて説いてくれています。法則は外せないので、軽くしたり、消したりしてしまうのです。そうやって、汚れた物の無い「真・善・美」の世界に住まうことがいいのですよ。と説いています。
安岡先生の「推薦文 全文」載せてあります。思い起こして頂きたい。読み直して頂きたい。
私は安岡先生も五井先生も信用しています。そして、先生の説いている一つのことを実行していきます。
私が、白光真宏会に入るとか、入らないとかのことではありません。五井先生の教えに参ずる。ということです。真善美の世界に住まいしたいですよ。汚れたモノは落としてしまいたい。そういうことなのです。
で、俗っぽい世界に戻って、これで年賀の記を最後としたい。としたのは、今までの友情の交わりや親交をしない。などということではありません。逆です。そういうことはむしろ多いにします。役に立てるなら大いにします。
ただ、私の気持ちの区切りとしたい。のが1つ。それに今の政治を見た時に「汚くて・汚なすぎて耐えられない」というのがあります。税金を払わないとかそんなことでないの。払うモノは払います。
汚いモノを見るのがイヤなのです。横田さんの拉致問題をどうしましたか。政治が利用しただけです。昨年の衆院選の出来事を思い出してください。民進党の一部のゴタゴタ。あの人たちの給料税金です。党の活動費も税金ですよ。私あんな程度の政治家に払いたくないです。もう昔の気骨のある政治家はいません。大体世の中が弛緩してだらしがない。
汚いモノ見ると私が汚れるような気がする。私の潜在意識に汚いモノを入れたくないのです。
ここのところ、お分かり頂けるでしょうか。
タグ: 私が年賀を止めるわけ
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