今回は4月19日のブログ内容と時期が少々かぶりますが、今回は別の角度でご紹介いたします。
19世紀のロシアは不凍港を求めた政策をかかげ、南下政策と称して国家の弱体が著しいオスマン帝国の領域に入り込もうとしていました。事実、複合民族、宗教の混在などから反発が絶えなかったオスマン帝国では、独立と解放を求めた運動もしきりに起こりました。1821年にはギリシアがトルコからの独立をかかげ、 ギリシア独立戦争が勃発、ギリシアは1829年のアドリアノープル条約と翌1830年のロンドン会議で独立が認められます。こうした弱りきったオスマン帝国ですが領域の広さ、地中海や黒海など海域の広さなどからイギリスやフランス、とりわけオスマン帝国の北方に位置するロシアなどヨーロッパ列強は関心が高かったのです。
このギリシアの独立を契機に、独立・解放を掲げられて苦悩するオスマン帝国に対して、フランスやイギリスはロシアに負けまいとしてあれこれと干渉するのです。こうした西欧列強から見たオスマン帝国のゴタゴタに干渉した情勢を「 東方問題」といいます。すでに、2次にわたるエジプト・トルコ戦争(1811-33,39-40)、クリミア戦争(1853-56)などはすべて「東方問題」が端緒の戦争です。
「東方問題」に干渉したロシアにしてみれば、南下政策の実現・達成が主目標でありましたが、過去のこうした戦争ではすべてイギリスなどに阻まれ、失敗を続けました。これらに続いて起こされた露土戦争はロシアがオスマン帝国に勝利したのです。結果 サン・ステファノ条約でルーマニアやセルビアといったオスマン帝国に支配された国家を独立させ、同じく支配を受けていたブルガリアもロシアの保護の下で領土を拡大させて自治を付与させ、幾分の領土もロシアに割譲させるなど、ついに南下政策を達成させるかに見えました。
ところが、この条約を不服としたイギリスやオーストリアが干渉、そして1878年6月において、プロイセンの宰相 ビスマルクの提唱によってウィーン会議以来となる大国際会議、 ベルリン会議が開かれ、改めてバルカン半島の利権について話し合い、セルビアやルーマニアなどの国家の独立は認められたものの、ブルガリアは領土不拡大でオスマン帝国領内での自治を付与、そしてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ地域の統治権を獲得、イギリスはキプロス島を獲得して、またもやロシアの南下は失敗したのです。ロシアはヨーロッパでの南下政策をあきらめ、アジア進出政策に方向を転換し、やがて日本との対立を深めていくのです。
参考文献:「 世界史の目 88話 」
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