全34件 (34件中 1-34件目)
1
現在、アメリカ時間で朝の6時をまわった所です。みなさん、お久しぶりです(久しぶりすぎだな・・・汗)大学の図書館は、テスト前は24時間営業ということで、一応、形だけ真面目に勉強しております(笑)9月以降は、色々あってブログが書けなかったんですけど、あと1週間で卒業しますし(あくまで予定 笑)これからもブログの更新は続けていこうと思っています。今月に入って、友達やお世話になった人たちに、順々にお別れの挨拶に回っているのですが、その中であらためて、僕のアメリカでの生活が、本当に多くの人たちに支えられていたということに気がつきました。彼ら、彼女らの助けがなかったら、僕はここまで来ることは出来なかったと思います。なんか「ありがとう」っていう言葉だけでは表現できないんですよ。もう全ての出会いや一緒に過ごした時間が濃密すぎて、どう表現したらいいのか、僕のボキャブラリーではちょっと厳しいです・・・。それに、友達と話していたら、その友達との思い出がいっぱい浮かんできて、あの時は面白かったねとか、あの時は、俺たちバカだったよねーみたいな話をするんですけど、結局、最後は、でも、もう帰っちゃうんだね、日本に・・・・って、シンミリになっちゃって。僕は絶対に泣かないって決めてたんですけど、相手に先に泣かれてしまうと、ついつい涙が浮かんできちゃって・・・。卒業出来るんだから、うれしいはずなのに、なんかもうちょっと学生しててもいいかなーみたいな、というか、もうちょっとカリフォルニアにいたいなあ、もうちょっと、こいつらと一緒に遊んでいたいなあって。別れがあるからこそ、新しい出会いがあって、新しいことをはじめるためには、当然、新たな場所へ旅立つ必要があるわけで。頭では分かっていても、いざとなると、やっぱり悲しいですよね。どこでもドアがあればな・・・・真剣にドラえもんが欲しい今日この頃です。
2005.12.11
コメント(87)
さっき、部屋を掃除していたら、アメリカに来る前に、友達からもらった手紙が出てきまして。サッカー部のマネージャーで、その上、高校3年間もクラスが一緒で、高校時代を、ずーーっと一緒に過ごした友達からの手紙なんですけど。彼女は、面白くて、明るくて、人を楽しませる力を持っているのに、実は、人見知りをするという素敵な女性でして(笑)彼氏彼女なんて関係には一回もなったことはないし、”あんたの彼女には絶対なりたくない。あんたは、変人やからな”と、彼女はいつも僕を褒めてくれ(笑)また、僕は僕で、”お前はちびまる子ちゃん級の色気やな。せくしぃ~な女に成長しろ”という感じで(笑)お互いに恋愛の上においては全く興味はなし。(彼女と出会って、男女の友情は成立するんだということを、 身をもって感じました。はい。 笑)高校の時は、漫才コンビって言われてましたし、ボケ(彼女)とツッコミ(僕)のバランスは最高でした(笑)なんか、彼女とは仲が良すぎて、よく本物の彼女が嫉妬して、大変だったな~(汗)高校時代の思い出には、いつも彼女が一緒にいました。楽しかった時も、うれしかった時も、そして、つらかった時も。僕にとって、とてもとても大切な女性です。そんな彼女が、僕がアメリカに来る3年前に書いてくれた手紙です。こんな所に載せたら怒られるかもしれないけど、ミスチルの「終わりなき旅」を聞きながら読んでたら、ちょっと泣けてきたので、今日は、この手紙をブログに書きたいと思います。直接、空港で渡したかったけど、いなくなるのを実感したくないからスマン。手紙で、許しておくれ。毎日会ってるわけじゃない。大学になって大阪を離れてからは、夏休み、冬休み、春休みに会うだけやから、年に数回やな。それが、あんたが帰国した時になるだけ。でも、私にしたら、そんな単純な事ではないんよ。なんか親友とかっていう言葉では言い表せない。なんでも話せるし、わがまま言えるし、自分を出せるし、バカな事も言える。頼れるし、いつでも力になってくれる。そうそう出会える人間じゃないと思ってる。私は出会えてラッキーって思ってる。死ぬわけじゃないのは分かってる。でも、ほんとイタイ。痛い。肝臓とられる気分。かっこいいな。かっこいい。私はうらやましがってばっかりやけど、あんた自身が努力して得たものやもんな。頑張ってる姿を見てると、自分も頑張らねば!って思うねん。そうそう、気がつけば、友達に、あんたの頑張りを自分のことのように自慢してたりする。すごくない!?とか言って 笑いろんなことを考えて、あんたが選んだ道は、私から見たら、考えられないぐらいカッコイイ道やけど、そこからもしはずれる事があったとしても、私はかっこ悪いなんて思わないで。だからさ、「もう無理」って思ったら帰ってきてもいいぞ!ちゃんと、あんたの席は確保しとくから。あんたはやり遂げられる人間だってわかってるし、自分を追いつめてシャカリキに頑張る性格なのもわかってるけど、”特等席”ある事も忘れんといて。1年後どうなってるやろうな。体だけは気をつけてな。3年前、アメリカに行くと決めた時、人前では明るく振舞って、いつもの僕らしく、大口をたたいていたものの、正直、内心は不安な部分もかなりありました。だってアメリカに行った事すらなかったんですから。でも、僕は、彼女の手紙の中にあった、”特等席”っていう言葉に僕は救われたんですね。ダメでもいいや。失敗してもいいや。アカンかったら、大阪帰ってきて、また一から頑張ればエエんやから。だから、やれる所まで頑張ろう。自分の限界に挑戦してみよう。人間って、吹っ切れると強くなるもので。3年たった今、なんとかアメリカの大学を卒業出来そうです。人間って、物事が上手く運んでいる時は、すべて自分の力だと思い込むし、物事が上手く運ばなくなると、すぐに他人のせいにしたくなる。とても勝手な生き物です。僕自身も含めて。でも、無事にアメリカの大学を卒業出来そうな今だからこそ、僕は、僕のことを支えてくれた、多くの人に感謝をしなければならないと思うんです。このブログは、僕の知り合いには教えていないので、誰も読むことはないと思います。だから、日本に帰ったら、僕を支えてくれた多くの人たちに、”今までありがとうな。これからもよろしく”笑顔で、アメリカ大学卒業の報告をしたいと思います。よ~し、初心に戻って、勉強頑張るぞ~~~~!!!!
2005.09.25
コメント(13)
ドラゴン桜ではじめて知ったんですけど、長澤まさみちゃんって、メチャンコかわゆいですね~。なんか、見てるだけで、癒されちゃいます。CMの数も増えてるみたいだし、これから人気がでてくるんだろうなあ。って、もう十分出てますが。というわけで、映画のタッチもチェックせねばなあって思って、何気なく、彼女のプロフィールを見ていたら、なんと18歳であることが判明!!!!!うそーーーん、そんなに若いんや~~~~~~。10代が、なつかしいっす。そして、僕の部屋、なぜか今日は、めちゃんこ寒いっす。■子供は親を見て育つ最近読んだ本の中に、面白いことが書いてあったので、ここで紹介したいと思います。それは、市川伸一教授が書かれた「学ぶ意欲の心理学」という本です。その中で、「文化的な暗黙の方向づけ」という言葉が出てきます。どういう意味かと説明しますと、子供たちはある集団に入ると、色々な情報をもとに、その集団の中での価値観を形成していくらしいのですが、特に、家庭内における価値観は、生活の中で、大人たちがどういうことを良しとするか、もしくは、大人たちが普段どのような行動を取っているかなど、子供たちが”目にする大人”によって決まるというものなんです。具体的な例で言えば、大人たちが、普段、テレビばっかり見て”勉強らしき”ことを全くしていないのに、子供に勉強しろと言っても、子供にとって見れば、全く説得力がないと言うわけです。もちろん、昼間仕事をしているんだから、家では息抜きという方もいらっしゃるかもしれませんけど、そんな事、子供には通用しませんもんね。”パパもママも勉強していないんだから、僕もしなくてもいいよね”ってなっちゃうみたいなんです。それと、見ているテレビ番組なんかひとつとっても、色々と影響が出るみたいです。例えば、親がニュースやサイエンス系の番組をよく見ている家庭では、無意識的に、そういう事が大切だと感じるようになるみたいで、自然と知的な方面にも関心がわくようになるらしいのです。つまり、今の子供が興味を持ちにくいと言われている、理科や数学、また、時事問題なんかに関しても興味を持ちやすくなり、学習の意欲が高まるそうです。しかし、一方で、親がバラエティやスポーツ番組、ワイドショーのような番組”しか”見ないような家庭では、(→別に見ることは悪くないんです。”しか”が問題なんですね)そのような知的な分野への価値観が育まれることはなく、結果的に、そういう分野への関心も生まれず、学習への意欲も高まることはないそうです。あと、そういう意味で、読書習慣についても、親の影響大みたいです。簡潔に言うと、親が本を読む習慣を持っていない家庭では、なかなか子供の読書習慣は、身につきにくいみたいです。親が漫画や雑誌しか読まないのに、なぜ、自分だけ小難しい教科書を読まないとダメなのか。そう思うんでしょうね。子供にしたら。なんか、感覚的といえば、感覚的な話なんですけど、たぶん、これって全部当たっているでしょうね。自分の経験を思い返せば、僕の親は、ニュースを見ている姿が目に焼きついているし、新聞は、大手新聞+日本経済新聞を必ず読んでいました。父は、休みの日にも本を読んで勉強していたし、本棚はいくつもあり、そこには難しそうな本が山ほど並んでおり、家には、本があふれかえっていました。ちなみに、僕の親は、一度も僕に勉強しろと言ったことはありません。しかし、そんな環境で育った僕は、本を読むことが大好きですし、勉強することも大好きです。子供に勉強しろと口やかましく言う前に、一番勉強しなくてはならないのは、もしかしたら、親自身なのかもしれませんね。
2005.09.20
コメント(14)
さてさて、選挙が終わりました。みなさん、投票に行かれましたか?今回は、投票率が前回よりも大幅に上回ったようなので、それだけ国民の関心が高かったっということなのでしょうが、なんか小泉さんの一人勝ちで終わっちゃいましたね。自民党だけで296議席ですもんね。マジで、シャレにならない圧勝です。僕は、アメリカに住んでいますので、在外日本人投票という形で、比例区の投票は出来るのですが、残念ながら、小選挙区での投票は出来ないんです。たぶん、海外に住んでいる人間には、政党の良し悪しは判断できても、小選挙区の候補者の良し悪しまでは、判断がつきにくいということなんでしょう。なんで??そうなの??って、ついつい疑問符は消えませんが、別に投票には行く気がなかったんで、構わないのですが・・・・。よくよ考えたら、一度も選挙に行ったことないし・・・・。う~ん、日本に帰ったら、選挙には行かないとなあ。国民の義務は果たさないとダメだな・・・・うん・・・・・。■判断基準と一票の重み正直なところ、今年の7月頃までは、僕、今回の選挙の争点でもあった郵政民営化については、薄っぺらい知識しかありませんでした。ま~、それはそれは恥ずかしいほどの、ペラペラな知識でした。というわけで、色々と勉強しました。本を読んで、あれこれ調べて、なんとかある程度の議論は出来るようになりました。そこで思ったのは、日本の国民が、例えば、郵政民営化や年金問題についてどの程度のレベルで理解をしているかということです。言い換えるならば、どのような”判断基準”で、それらの問題について考えているのかということです。ここでいう”判断基準”っていうのは、何を”基準”に、自分意見を形成しているのかって言う話です。ある人はなんとなく候補者の写真を見て、ある人はテレビのワイドショーを見て、ある人は新聞を読んで、またある人は、自分で本を読み、政治家の講演会に行って、自分の中での”判断基準”を作っているわけです。もちろん、これが適切な判断基準なんてのは存在しないわけです。だけど、どのレベルでモノゴトを考えているのか、つまり、どれだけの量と質の情報をもとに、自分の意見を形成しているのかって言うことを、自分自身で認識することは、やっぱりすごく大切だと思うわけです。当然のことながら、僕たち一般市民は、政治家の人たちと同じレベルでモノゴトを考えるのは、色々な面で難しいと思います。時間的な問題だったり、地位的な障壁だったり、アクセスすることすら出来ない情報というのも存在します。でも、可能な限りは、様々なメディア(本・雑誌も含めて)を通じて、判断基準を高めるために、色々な情報を手に入れないとダメだと思うんですね。マニフェストなんてものを、机の上に並べて比較するだけで、随分と色々なモノが見えてくるものです。今回は、小泉さんの戦略がずばり成功して、なんか郵政選挙一色になっていますが、そもそも国家主権に関わる外交問題なんかでは、郵政よりももっと複雑多岐にわたる問題があるわけです。こんな所では書ききれないくらい問題が山積しています。それらの問題に関しては、僕たち国民は、どの程度のレベルの”判断基準”をもって、自分の意見を形成するべきなんでしょうか。日本国民の義務として、どのレベルでの”判断基準”を持つべきなんでしょうか。先日、東京に行った時に、来年から官僚になる東大法学部の友人と話をしたんですけど、やっぱり、真剣に日本の事を考えていました。僕が話していて恥ずかしくなるほど、すごく勉強しているし、本当に日本をよくしていこうっていう気概が感じられました。そこでふと思ったのが、彼の一票と僕の一票には、同じ価値があるということ。どんな”判断基準”を持って投票しようとも、すべての一票には、同じ価値しか存在しないわけです。それ以上にもそれ以下にもならない。すごく嫌な言い方をすれば、小泉首相の一票と、コンビニでタムロしている金髪の兄ちゃんの一票は、同じ価値なんですよね。って、言いたい事がうまくまとめられてませんが、「バークレー生の独り言」っていうブログなだけに、こんなグダグダな終わり方にしたいと思います・・・(笑)というわけで、今日はこのへんで。
2005.09.12
コメント(6)
お久しぶりです。みなさん、お元気ですか?気がつけば、アメリカで最後となる秋学期が始まってしまいました。う~ん、正直、寂しいですね。卒業した後は、日本に帰って、早く社会に出て、”自分の力を試してみたい!!”なんて思ってましたけど、いざ、アメリカを離れるとなると、”帰りたくな~い(涙)”が本音みたいです・・・。3年間も一緒に遊んできた友達と離れるのが、やっぱり、一番辛いです。でもまあ、お腹いっぱいになるまでアメリカにいるよりは、今みたいな名残惜しい状況で、新たな場所へ旅立って行くのが、一番いいのかも・・・・なんて思ったりもしています。でも、やっぱり、寂しいな・・・・。■今年中に成し遂げたいこと実は、夏学期が終わった後、2週間ほど、東京に帰ってまして。色々な人に会って、色々なお話をさせてもらってきたんですが、僕が卒業までに成し遂げたいと思っていたことが、少しづつ現実味を帯びてきました。今年の春先あたりは、成功確率は、0.1%未満だなあって思っていたんですけど、今は、20%ぐらいに大きくなった気がしてます。とは言え、まだ、20%ぐらいなんですけど・・・・。って、何の話をしてるのか、全くわかりませんよね(笑)僕も出来れば、もっと詳しくお話したいんですけど、とりあえず、今の段階では、このあたりで、おいておきましょう。ヒントは、ブログがお休みだった間も、僕の頭は、フル回転していたということです!!って、全然、ヒントになってないな・・・・(汗)とまあ、読んでらっしゃる方は、なんのことかよく分からないでしょうが、今年の年末までには、世間をアッと驚かせることが出来ると僕は信じていますので、みなさんも、密かに期待しておいて下さい。正式に決まれば、このブログで、一番に発表しようと思っていますので!!!では、今日は、このへんで。
2005.09.02
コメント(9)
お久しぶりです。3週間ぶりのブログでなんですが、最近、日本のドラマにはまっています。見ているのは、「女王の教室」「海猿」「ドラゴン桜」「電車男」日本の連続ドラマを見るなんて、たぶん、2年ぶりぐらいだろうけど、久しぶりに、僕の中のドラマ熱が復活してきてます。特に「女王の教室」は、面白いですね。毎回、ハラハラしながら見てます(←完璧、ハマッテル・・・)ついつい力が入って、コドモたちを応援してしまいます!!!(笑)早く土曜日が来ないかなあなんて、思いっきりファンになってます。しかも、このドラマで、遅ればせながら、天海さんの魅力に気がついてしまって、「離婚弁護士」のDVDも、買ってしまった!!!こんなこと言うのもなんですが、あんなにキレイなアクツ先生になら、おれっち、いじめられても頑張れそうです・・・・(笑)って、アホな話はこのへんにして、今日も色々と考えていきましょう。__________________________________■効率的にモノゴトを考える必要性簡単に答えが見つからない問題にぶつかった時、とにかく悩めとか、とにかく考えろとか言う人がいます。たしかに、恋愛や人生の問題ならば、そんなに簡単に答えは出ないし、もしかしたら、そういう問題に関しては、考えること自体に意味があるのかもしれません。また、悩んだり考えたりする習慣のついていない人は、すぐにあきらめたり、答えを誰かに求めたりする傾向があると思いますので、そういう人にとっては、“とにかく悩め、とにかく考ろ”という教えは、意味があるのかもしれません。ただし、何でもかんでも、時間を闇雲に使って、ひたすら考え続けたり、ひたすら悩み続けたりすれば良いというものではありません。特に、みなさんがオトナになって、仕事上で出会う問題や課題については、そういうわけにはいきません。なぜなら、実際の仕事の中では、仕事の期限に間に合うように、“限られた時間”の中で、自分のベストを尽くし、目の前の課題に対する解決策を用意しなければならないからです。それに、実際の仕事上では、少しシビアな話ですが、あなたがどれだけ頑張って考えたとか、どれだけ時間をかけて悩んだかということは、ほとんど評価されません。仕事の上においては、“結果”がすべてだからです。つまり、みなさんがオトナとなって仕事をやっていく上では、むやみやたらに頑張って考えるのではなく、限られた時間を有意義に使って、“効率的”に考える習慣を身につけることが大切なのです。そして、効率的にモノゴトを考える事が出来るようになるためには、“分析力”という能力を身につける必要があるのです。“分析”という言葉は、みなさんも一度はどこかで聞いたことのある言葉だとは思いますが、意外に、意味がよく分かっていないというのが現状ではないでしょうか。というわけで、まずは、この“分析力”について、考えていきたいと思います。■“分からない”理由を考える“分析”とは、今から説明する2つのステップを繰り返すことで可能となり、結果的に、効率な考え方が出来るようになります。まず、学校の勉強や、オトナになった時の仕事の中で、すぐに答えが見つからないような難しい問題を考える必要が出てきた時に、「“何が分からない”から、自分がこの問題を“分からない”のか」ということを発見するのが、“分析する”という作業の第1ステップです。ひとつ分かりやすい話をしましょう。数年前、塾で数学の講師をやっていた時に、数学が分からないという高校生に、ある一つの共通点がある事に気がつきました。それは、“何が分からない”かが、“分からない”のです。数学は、単元ごとにテーマが変わるとは言え、やはり、積み重ねの勉強ですから、ひとつ分からない箇所が出来ると、それ以降は、雪だるま式に分からなくなるわけです。残念ながら、こういう高校生がいくら頑張っても、なかなか数学はデキルようにはなりません。なぜなら、“自分がどこでつまずいているのか”に気がついていないからです。だから、数学が苦手だと感じる高校生は、前の学年、もしくは、そのまた前の学年の教科書までさかのぼって、“いつから、どの箇所から、なぜ自分が分からなくなったのか”ということを、正確に知ることからはじめなければなりません。話が少しずれたように感じるかもしれませんが、仕事をはじめとした、オトナ社会の中で出会うであろう問題を考える時にも、実は、この数学が分からない高校生の勉強法と全く同じことが言えるのです。例えば、あなたの会社が、新製品のシャンプーを売り出そうとしているとします。もちろん、売れない製品を発売しても損をするだけですから、会社としては、その新製品のシャンプーが売れるか否かを、発売前に、出来るだけ正確に予測したいわけです。では、どうすれば、発売前に消費者の反応を予測できるのでしょうか。とても難しい問題です。しかし、さきほど言った第1のステップを思い出せば、手がかりをつかむ事が十分可能になるのです。つまり、“何が分からない”から、発売後の消費者の反応が“分からない”のかを考えるわけです。別の言い方で表現するならば、「何が分かれば、シャンプーの売れ行きを予測できるのか」を考えるということです。このように考えると、発売前にあなたが考えなければならないことは、・どのような年齢層がターゲットになるのか・その年齢層にとって、商品の価格は適切か・その年齢層をターゲットにした他社のシャンプーはないか・その競合製品よりも魅力的だと言えるのか・商品の宣伝方法は効果的なのかなどなど、発売後の売れ行きに影響を及ぼす要因であるわけです。そして、これらの要素こそが、問題解決のために「あなたが知るべき要素」なのです。なぜなら、これらが“分かる”ことで、あなたが答えられなかった問題の答えが“分かる”からです。以上、ここまで述べたことが、“分析する”という作業の第一ステップです。そして、今例で挙げたように、問題解決のために、あなたが“知るべき項目(理解するべき項目)”を列挙することが出来たのならば、次は、それらをどのようにして理解していくのかという第2のステップに入っていきます。■“考える道筋”を確認する第1ステップで、問題解決のために”自分が知るべきこと”をすべて列挙することが出来れば、次に、第2のステップとして、「それら(知るべき項目)を知るためには、どのような手順で考えていけばよいのか」という”考える道筋”を立てる作業にうつります。当たり前のことから考えはじめましょう。どこか遠くに出かける時、僕たちは、前もって目的地までの行き方を地図で調べ、なおかつ、その上で地図を持って出かけると思いますが、それは、なぜなのでしょうか。それはもちろん、目的地に迷わずにたどり着くためです。では、何かについて考える時には、どうして僕たちは、“考える(≒歩く)道筋”を前もって調べないのでしょうか。どうして、問題解決(≒目的地)に至るまでの、およその“考え方(≒歩き方)”を、前もって想像しないのでしょうか。何かの問題について考える時には、どうしても、頭に浮かんだことから考えはじめたり、自分の思いつくことだけを、考えてしまいがちです。しかし、これでは、行き当たりばったりで、道を選んで歩いていることと同じですし、とてもとても、効率的な考え方とは言えません。ですから、第1のステップで、自分が何を知るべきなのかを理解できたならば、それらの知るべきことをどのような順番で、どのようにして知っていけばよいかという計画を作ること、すなわち、問題の答え(≒目的地)にたどり着くための考える手順(≒歩き方)を、前もって綿密に計画することが、とても重要になってくるわけです。例えば、ある問題を解決するためには、第1ステップを考えることで、A~Eの5つの要素について、知る(理解する)必要があることが分かったとしましょう。すると、あなたが次に考えるべきことは、どのような手順で、どのようなやり方で、A~Eの要素を理解していくのかという作戦を立てることであるわけです。ある問題では、Aを理解すれば、B~Eは容易に理解できる問題もあるでしょうし、別の問題では、DとEを理解するのにすごく時間がかかるのに、DとEさえ理解すれば、A~Cの要素は、容易に分かるということもあるでしょう。そして、また一方では、Aの理解がBの理解を生み、Bの理解がCの理解を生むように、順々に考えていかなければならない問題もあるでしょう。しかし、どのような形態の問題であろうとも、問題解決のために、あなたが“知るべき(理解するべき)”要素間の関連性を考え、“どの部分にどれだけの時間を使い、どのようにしてそれを理解するのか”そして、全体の流れとして、どのような手順を経て、最終の解決案にたどりつくことが出来るのかという“考え方の道筋”を、常に自分の頭の中において、問題に向かい合うことが、第2のステップの核心部分であるわけです。もちろん、この“考え方の道筋”は、問題を考えていく中で、何度も修正されるはずです。一度目に想定した“考え方の道筋”が、正しいなんてことはほとんどありませんし、実際には、問題について考えていく中で、第1ステップである“問題解決のために知るべき(理解するべき)要素”が、どんどんと変化していくはずですから(増えたり減ったり)それらの関連性を考え直すことで、第2ステップである“考え方の道筋”は、修正せざるを得ないのです。しかし、何度それらが修正されようとも、“考える道筋”を、その都度確認しながら歩くようなこの考え方は、一見、遠回りをしているように感じられるかもしれませんが、実は、もっとも効率的な考え方であるのです。■学校で鍛えられる“分析力”ここまで“分析力”について色々と考えてきましたが、この能力は、オトナになって仕事をはじめ、限られた時間内で、効率的にモノゴトを考えなければならない時に必要となる能力です。そして、将来必要とされる以上は、社会に出る前に、当然のことながら、しっかりと鍛えておいた方が良いわけですが、ラッキーなことに、この“分析力”という能力は、学校の勉強を通じて、しっかりと鍛え上げることが出来るのです。なぜなら、”分析力”は、どのような分野であれ、一目見ただけでは”分からない”問題を、さきほど説明した2つのステップを繰り返して考えることで、鍛えられるわけですが、学校では、その“分からない”問題とたくさん出会うことが出来るからです。もしかしたら、ある科目なんて、まるごと“分からない”かもしれません(笑)もちろん、普通に考えたら、“分からない”問題を考えるのは苦痛だろうし、“分からない”科目に向き合うことほど、退屈なものはないかもしれません。しかし、今日、ここでお話した内容を、頭の中で反芻しながら、その“分からない”問題や“分からない”科目に、もう一度、新鮮な気持ちで向き合ってもらいたいと思います。なぜなら、自分が“分からない”理由を発見して、それを“分かるようになるための手順”を自分で考えて、そして、最終的に、その“分からなかった”モノが、“分かるようになる”快感は、なかなか格別で、とても楽しいものだからです。そして、ここまで説明したように”分からない”モノを、”分かろう”とする姿勢によって、“分析力”は鍛えられるのであり、これこそが、4つ目の「学校で勉強する理由」となるわけです。今日も最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
2005.08.21
コメント(4)
先週末、夏バテ解消とか言って、我が家に友達を招いて、たこ焼きパーチーを開いて、酒を飲みまくって、(↑アメリカにも、大阪人の誇りを忘れずに、タコ焼き機持参です・・・笑)(↑アメリカ人は、タコ嫌いなので、 実際には、シーフード焼きになりましたが・・・笑)その翌日も、調子こいて、友達のBQパーチーに行ってしまったので、今週は、思いっきり大学生をしていました。いやいや、まさか、遊んでませんよ・・・・・。ヒーヒー言いながら、勉強してたんです・・・・・(涙)というわけで、久しぶりのブログです!!!!__________________________________それでは、本編です。今回は、”勉強する意味を考えるシリーズ”第3弾です。前回は、必要だと感じた「情報」を、頭の中の引き出しからいつでも取り出せるように整理整頓して、「知識」として記憶することを考えました。しかし、そもそも、山ほどある「情報」の中から、価値ある「情報」をどのように選び出せばいいのでしょうか。今日は、そんな事を考えていきたいと思っています。というわけで、今日のテーマは、「情報処理力」です。■価値のある「情報」とは世の中には、数え切れないほどの「情報」が氾濫しています。例えば、あなたが、カリフォルニアに旅行するとしましょう。そして、“カリフォルニア”について調べるために、インターネットで検索をかけてみて下さい。すると、百万件近くの「情報」がヒットするはずです。しかし、当然の事ながら、あなたは、全ての「情報」をチェックすることが出来ませんし、その必要は、全くありません。なぜなら、これらの百万件の「情報」の中には、あなたにとって、価値のある「情報」と価値のない「情報」が含まれているからです。では、価値のある「情報」と価値のない「情報」の違いは、何なのでしょうか?そもそも「情報」とは、価値があるものと価値がないものに分類することが出来るのでしょうか?まず、はじめに言える事は、ひとつひとつの「情報」は、価値のあるものにも、価値のないものにもなり得るということです。つまり、その人の目的や状況に応じて、「情報」の持つ価値は、大きく変化するということです。今の例で言うと、あなたは、カリフォルニアに旅行に行くわけですから、観光スポットやレンストラン、ホテルやビーチなどについて知りたいわけです。ですから、それらの「情報」は、あなたにとって価値のあるものと言えます。しかし、カリフォルニアの政治問題や財政問題については、旅行するだけですから、そこまで詳しく知る必要はないわけです。ですから、それらの「情報」は、あなたにとって価値のないものと言えます。一方で、“カリフォルニア政治学”というクラスを取っている大学生にとっては、これと全く逆の事が言えるわけです。レストランやホテルの「情報」は、あまり価値のないものですが、政治問題や財政問題についての「情報」は、授業の中に扱う、まさに価値ある「情報」となるわけですから。つまり、「情報」の価値は、はじめから決まっているのではなくて、その人の目的や状況に応じて、価値のあるものにも、そうでないものにも変化するわけです。■求められる「情報処理力」世の中に無秩序に溢れている「情報」の中から、目的に応じた、価値ある「情報」だけを選び出し、それらを、目的に即した形で整理しなおす能力。この能力を、僕たちは“情報処理能力”と呼びます。そして、社会に出て仕事をはじめた時に、必要とされる能力のひとつが、この“情報処理能力”なのです。例えば、あなたが会社で働き始めると、必ず経験する事になると思うのですが、上司の方から、何かについての資料作成を任されることになります。インターネットや本を調べれば、上司の知りたい「情報」は、山のようにあふれているはずなのに、なぜ、上司は、あなたに、わざわざ資料としてまとめさせるのでしょうか?それは、さきほども言ったように、インターネットや本の中には、上司が知りたいと思っている必要な「情報」、つまり“価値ある情報”と、上司にとって必要でない「情報」、つまり“価値のない情報”が入り混じっているからなのです。そして、あなたに上司が期待している仕事の内容は、山ほどある「情報」の中から、上司の目的に即した、上司が必要としている「情報」を抜き出し、その“価値ある情報”を、資料としてまとめることなのです。みなさんは、資料まとめと聞くと、退屈な単純作業のように考えてしまうかもしれませんが、実際は、“情報処理能力”を必要とされる高度な作業なのです。特に、自分のためではなく、誰か他の人のために資料作りをする場合には、自分の思い込みで作業を進めるではなく、資料を求めている人が何を必要とし、何を求めているのかを考える事が、とても重要になります。また、この情報処理能力は、何も紙の上の仕事だけではなく、人と関わるすべての職業にも、必要とされる能力となります。服屋の店員は、お客さんにお勧めのジャケットを聞かれた時などは、まず、お客さんの年齢や服装、そして髪型や髪の色から、お客さんが好きなファッションやデザインや色を推測します。そして、お客さんとの様々な会話を通じて、お客さんが欲しいと思えるジャケットを、一緒に探していくことになるわけですが、この一連の作業で必要とされる能力は、実は、この”情報処理能力”なのです。お客さんは、どんな「情報」を欲しがっているのか。どんな「情報」が、お客さんにとっての価値ある「情報」なのだろうか。自分が持っている、服に関する多くの「情報(≒知識)」の中から、(「情報」と「知識」については、こちらを参照あれ)お客さんが必要としている「情報」を選び出し、それをどのように伝えれば、お客さんに、服を買ってもらうことが出来るのか。こんなことを頭に中で考えることは、お客さんにとっての”価値のある情報”を探す作業に他ならず、まさに”情報処理能力”のなせる業なのです。そして、これと同じ能力は、接客業と言われる、お客さんに”価値のある情報”を提供しなければならないすべての職業に求められるわけです。これまでの議論で、”情報処理能力”が、オトナになった時にどれだけ必要とされるかは、理解してもらえたと思います。そして、将来必要となる以上、この能力を社会に出るまでに磨く事が出来れば、それに越したことはないわけです。そして、ラッキーな事に、みなさんは、この能力を、学校の勉強を通じて、鍛えることが出来るのです。■学校で鍛えられる「情報処理力」勉強がデキル子は、よく頭がいいと思われがちですが、実際のところは、頭の出来の良さというよりは、勉強のやり方で、勉強の出来不出来が決まっていると僕は思います。勉強がデキル子は、テストで良い点数を取るのが非常に上手いです。なぜなら、良い点数の取り方を知っているからです。別の言い方をすれば、今日のテーマである“情報処理能力”が、他の子に比べて高いわけです。テストで良い点数を取るという目標のためには、テストで出題されない箇所を勉強しても効率的ではありません。つまり、テストに出題されない箇所の「情報」は、ある意味では、“価値のない情報“と言えるわけです。一方で、テストに出題される箇所の「情報」は、そこを理解していれば点数になるわけですから、まさに、“価値のある情報”となります。つまり、良い点数を取るための方法とは、とてもシンプルな作業で、ある期間勉強したたくさんの「情報」の中から、“価値のある情報”と“価値のない情報”に分類して、テストに出るであろう“価値のある情報”を勉強することなのです。ですから、勉強をヤル気が起こらないという高校生のみなさんには、ぜひ、気持ちを少し切り替えて、勉強を重苦しいものとは考えずに、テストに出るであろう“価値のある情報”を探しあて、そして、それを勉強して、テストで良い点数を取るというゲームをやっている感覚で、勉強に臨んでもらいたいと思っています。なぜなら、動機は少し不純であれ、“価値のある情報”を探すという訓練は、将来必要になる“情報処理能力”を磨くことに、大変役立つからです。例えば、テストでヤマをかけるなんてことは、よく言われますが、これも、適当にやるのではなく、きちんとした根拠に基づいてやれば、“価値のある情報”を推測するという、立派な“情報処理能力”の訓練になるわけです。とりあえず、思いついた箇所にヤマをかけて勉強するというのは、残念ながら、ヤマをかけるとは言いません。単なる思いつき勉強です。たまたま当たる事はあっても、大抵は、失敗に終わります。しかし、この箇所は、先生が、授業中に大切って言っていたし、宿題にも、小テストにも出題されていたから、きっと中間テストにも出題されるに違いない。だから、ここは“価値ある情報”のはずだから、勉強しよう。これが、ヤマをかけるということです。さらに、先生のチョークの色の使い方や授業の時間の使い方、授業中の先生のしゃべり方にまで気を配れるようになれば、ヤマかけが当たる確立は、一段と高くなります。また、同じ先生が作ったテストを見直すことで、その先生のクセや、出題傾向を分析できるはずですし、先生が使っている参考書や問題集が分かれば、それらを勉強することで、“価値のある情報”にたどり着ける確率は、より一層高くなります。テストに出題されるであろう”価値のある情報”の見つけ方は、ここではすべて挙げる事は出来ませんが、テスト勉強の時には、ただ漠然と勉強するのではなく、“価値のある情報”と“価値のない情報”を見極める訓練をしているのだということを、常に意識して勉強に取り組んでみて下さい。そうすれば、みなさんの”情報処理能力”はどんどん向上し、知らない間に、テストの成績も上がり、勉強のデキル子になっているはずです。そして、テスト勉強を通じて磨いたその”情報処理能力”は、社会に出た後も、決してムダにはならないのです。■最後に一言今日は、”情報処理能力”について考えてみました。これまでは、何気なく”要領”という言葉を使ってきましたが、今日のブログを通じて、要領の良さと言うのは、”価値のある情報”と”価値のない情報”を、直感的であれ、意識的であれ、的確に見分けることが出来る能力の事なのだと、改めて感じました。そして、どのような職業に就くのであれ、要領の良い人間であるに越したことはないわけです。みなさんも、少しだけ考え方を変えて、学校の勉強を通じて、要領の良い人間に進化していきませんか。今日もお疲れ様でした。
2005.07.30
コメント(14)
さて、今回も前回に引き続き、”勉強する意味を考えるシリーズ”でいきたいと思います。今日のテーマは、「記憶力」です。■「情報」と「知識」の違いインターネットを開けば、世界中のあらゆることを瞬時に知ることができますし、教科書、本、雑誌、新聞、テレビ、ラジオなど、世の中には、物事を知るための様々な媒体が存在します。そして、そのような媒体を利用して、僕たちは色々な分野の「情報」を手に入れることができます。学校で教科書を使って勉強する内容も、立派な「情報」の一つです。しかし、僕たちは、手に入れることが出来るすべての「情報」を記憶することはありません。そんな事は不可能ですし、実際、僕たちは、ある限られた「情報」だけを記憶して、それらを頭の中にとどめます。では、「情報」を記憶して頭に留めるとは、どういうことなのでしょうか。例えば、掛け算の九九を考えてみて下さい。小学生の頃、何度も声に出して、九九という「情報」を記憶したと思います。そして、今では、その記憶した「情報」のおかげで、日常生活の中でモノを数える時などには、九九を無意識的に使っていると思います。しかし、この九九の表は、僕たち自身はあまり意識していませんが、頭の中の引き出しに、きちんと整理されているのです。ここでの、きちんと整理されているという意味は、九九の計算が必要になった時には、すぐにその引き出しを開けて使う事が出来るように、準備万端にスタンバイされているという状態を意味します。そして、これは、九九だけに限った話ではありません。この「情報」は、こういう時に使うだろう、この「情報」は、こういう状況やこういう立場の時に必要だろう、などなど様々なイメージや意味づけ(ストーリーづけ)を自分なりに完成させて、頭の引き出しに整理整頓し、必要な時には、すぐに引き出せる状況にした「情報」を、僕たちは記憶して頭にとどめる事が出来るのです。そして、僕たちは、このように頭の引き出しに整理され記憶された「情報」を「知識」と呼ぶのです。■人間は、「情報」ではなく「知識」で考える世の中には「情報」があふれかえっていて、インターネットや本を開けばすぐに、大量の「情報」を取り出すことができます。だから、頭の引き出しの中に、いつでも取り出せる状態に「知識」をスタンバイしなくていいんじゃないの?わざわざ無理をして「情報」を記憶する必要ないんじゃないの?そう思う人がいるかもしれません。でも、それは明らかな間違いです。なぜなら、僕たちは、世の中にあふれている「情報」ではなく、頭の中に記憶した「知識」をもとにして考え、そして、行動を起こすからです。例えば、みなさんがオトナになって、ある会社に就職したとしましょう。どのような職種であれ、仕事をするということは、毎日の仕事の中で出会う様々なトラブルを、うまく対処して、乗り越えていくことに他なりません。みなさんが出会うトラブルの中には、会社が作った、トラブル対処のためのマニュアル本に載っている場合もあるでしょう。そういう場合は、難なく対処出来る事と思います。しかし、このような場合も、トラブルが起きるたびに、いちいちマニュアル本を見直す時間なんてあるわけはありません。言い換えるならば、トラブルが起きた時には、マニュアル本の中に載っている「情報」に頼るのではなく、自分の頭の中に整理・記憶された「知識」に基づいて考え、そして、解決をしなければならないということです。また、実際の仕事の中で出会う様々なトラブルは、会社のマニュアル本にも、インターネットにも本にも、分かりやすく解決法として載っていないことがほとんどです。では、どうするべきかと言うと、載っているかどうかも分からない「情報」を追い求めて、インターネットや本の中から、トラブルの解決法を探そうとするのではなく、自分の頭の中にある「知識」に基づいて考え、そして解決するしかないのです。いくら世界中に、山ほどの「情報」があるからとは言え、いざ必要となった時に、すぐに取り出せる形でスタンバイされたものでない限り、仕事の中のトラブル解決に役立てることは出来ないのです。だからこそ、あなたは、日ごろから、必要な時にはいつでも取り出せるように、出来るだけ多くの「情報」を、「知識」として頭の中に記憶しておかなければならないのです。またこれは、仕事以外のすべての人間活動にも当てはまります。恋愛で悩む時、進路について悩む時、自分の将来について考える時、僕たちは、自分の頭の中にある「知識」に基づいて考え、自分の行動を選択します。そして、時に僕たちは、恋愛や進路の相談を他の人に持ちかけて、自分が知らない「情報」を得ようとしたり、本や雑誌、インターネットから「情報」を得ることをします。それは、自分の持っている「知識」を、他の「情報」と結びつけることで、何か新しい考えが生み出そうとするからです。そして、そうして生まれた新しい考えや、他の人からの心に響くメッセージ、そして、今後も役に立つであろう「情報」は、僕たちの頭の中に「知識」として記憶されます。なぜなら、僕たちが何かについて考えるときに、100の「知識」で考えるよりは、200でも300でも、ひとつでも多い「知識」で考えた方が、より豊かに考えることが出来るからです。「情報」は、どのような時も、あくまで補助的な役割しか果たしてくれません。僕たちが、より良い人生を生きていく事が出来るかどうかは、どれだけ多くの「知識」を持って考えることが出来るか、どれだけ多くの「知識」を総動員して、物事を考えることができるか。それにかかっているのです。そして、そのためには、出来るだけ多くの「情報」を「知識」に変える必要があるのですが、その時に必要となる能力、それこそが記憶力なのです。■勉強で記憶力は鍛えられる中学校や高校の間だけではなく、社会人になった後も、記憶力が必要とされることは分かってもらえたと思います。そして、この記憶力は、残念ながら、すぐに身につくものではなく、色々な事を記憶する訓練をへて、身につくものなのです。だから、中高時代から記憶力を鍛える訓練をするに越したことはないわけです。そして、その記憶力を鍛える格好の材料が、学校の勉強なのです。私は、記憶力が悪いから、いくら頑張ってもダメだという人がいます。でも、そういう人に限って、勉強以外のことでは、抜群の記憶力を発揮していたりします(笑)サッカー選手の名前や特徴が次々と出てくる人、好きなアーティストの歌詞は、ほとんど全曲覚えている人・・・。普通に考えれば、記憶力が、他の人より圧倒的に劣っているなんてことはないのです。みんなそんなに変わらないのです。ただ単に、記憶のやり方が、少しマズイだけなのです。そもそも、記憶には2つの種類があります。意味記憶とエピソード記憶と呼ばれるものです。意味記憶とは、単に、そのまま記憶することです。リンゴはリンゴ、ゴリラはゴリラ、ラッパはラッパ。なぜ、これがリンゴで、なぜ、こやつがゴリラなのかを考えたりはしないですよね。見たもの、感じたものを、そのまま記号として記憶します。一方で、エピソード記憶とは、その名の通り、あるエピソードと結びつけて記憶することです。例えば、化学で出てくる反応で、水素と酸素を電気分解すると、水が出来るという反応があります。これは、単純に、”水素+酸素→ 水”と記号として覚えるのでは難しいかもしれませんが、実際に実験をすることで、その結果を頭に焼き付けたり、この化学反応の裏にある、原子レベルでの結び付きの変化について理解をすれば、より簡単に記憶することが出来るという仕組みです。そして、記憶が苦手だと言う人に限って、普段の日常生活では、意味記憶とエピソード記憶を上手く使い分けているのに、勉強する時は、なぜか意味記憶だけに頼りすぎているところがあります。具体的に言うならば、自分の好きなアーティストの歌詞は、単純に記号として、歌詞自体を記憶しようとする意味記憶だけではなく、その歌詞自体の意味を理解して、エピソード記憶もうまく併用することで、”何度も何度も繰り返し”その歌を聞きます。しかし、勉強する時は、なぜか意味記憶ばかりに頼りがちです。科目の内容を理解するという事を、意外に怠っています。そして、意味も理解していないのに、とりあえずは、すべての用語や公式を記号として記憶しようとするわけです。大量の情報を、すべて記号として暗記する意味記憶に頼るのは現実的ではありません。それに、僕たちは、自分の興味をひくもの以外はなかなか記憶しにくいものですが、内容をきちんと理解しない限り、その科目に対する面白さや興味がわいてこないのも当然のことなのです。また、そういう面白くない科目に限って、みなさんが、好きなアーティストの歌詞を覚える時のように、”何度も何度も繰り返し”勉強することはありませんよね(笑)社会に出た後、より必要となるのは、意味記憶ではなく、エピソード記憶です。仕事で必要とされるものは、単に記号だけで暗記できるものではありません。しっかりと理解をした上で、自分の頭の中の引き出しに「知識」として記憶する必要があるのです。そして、中学や高校でも、学年が上がるにつれて、意味記憶だけでは、難しくなってきます。数学は、公式を単に記号として暗記するだけではなく、その使い方や導き方を理解したうえで、記憶しなければなりません。他の科目も同様のはずです。エピソード記憶が、まさに必要とされてくるのです。こういう意味において、中学や高校で記憶力を鍛えるということは、エピソード記憶を鍛えるという事に他ならず、まさに、社会に出た後、生きていくためのトレーニングだと言えるのです。■クリエイティブな人間になるためにでは、最後に、クリエイティブな人間について、少しだけ考えて、今日は終わりにしたいと思います。この前、日本に帰った時に、アートディレクターの信藤三雄さんが、テレビでインタビューを受けていました。信藤さんって誰?って思われるかもしれませんが、みんなもよく知っているミスチル、MISIAやGLAY、それに松任谷由実などなど、多くのアーティストのCDジャケットを手がけている方なのです。そんな信藤さんに、インタビューアーが、”なぜ、信藤さんの作品は、あれほどオリジナルなのですか?”って聞いたんです。そしたら、信藤さんは、意外にも、”アートは、記憶のサンプリングなんです”という内容の事をおっしゃっていました。どういうことかというと、信藤さん曰く、本当に“自分オリジナル”なんて作品は、ほとんどないというわけです。どれだけオリジナル性が高いと人から賞賛される作品も、既存の作品、もしくは、既存の何かのイメージをもとにして、自分は、作っているというのです。そして、作品を作るということは、自分が記憶している様々なイメージの中からサンプリングするということ、つまりは、それらの中からいくつかのイメージを選び出し、それらを新たな形で結び付けて形にすることだと。たぶんこれって、料理人にも、音楽家にも、画家にも当てはまるのだと思います。世間でクリエイティブだと言われているような人は、他の人よりも圧倒的な「知識」を記憶していて、それらを自分の頭の中で、オリジナルな形につなぎ合わせることで、新たなモノを創造しているのかもしれません。今日もお疲れ様でした。
2005.07.24
コメント(4)
それでは、本編です。今日は、このブログのテーマでもある”なぜ勉強するのか”のシリーズ第一弾として、勉強する理由について考えていきたいと思っています。まず、結論から言うと、勉強って絶対にした方がいいんです。一見無駄に思えるかもしれない中学や高校の勉強だって、絶対にやっておいた方がいいんです。これは、間違いないです。ただ、勉強する理由がわからないから、勉強したくないというのは、すごくもっともな理由だと思いますし、一方で、大学受験に合格するためだけの勉強っていうのも、何か味気なくて面白みに欠ける。というわけで、これからの”勉強する意味を考えるシリーズ”では、「どうすれば勉強をやる気になるのか」を第一のテーマに、様々な角度から、勉強する理由について考えていきたいと思っています。そして、第一回目となる今日の”勉強する意味を考える”のテーマは、「計画性を養う」ということです。■勉強計画表は意味がない?中学生や高校生では、勉強計画表というものを作ります。テスト前なんかに宿題として出されて、担任の先生に提出した経験がある人も多いはずです。中学生当時の僕も、テスト前になると、計画表を提出していました。ところが、勉強計画表を作る意味を正確に理解していなかったので、それをあまり有効には使えていなかったような気がします。というのも、勉強計画表の目的が、自分が勉強していることを、先生に証明するためにあると思ったり、先生が生徒に勉強をやらせるために、計画表を自分たちに書かせているのだと思っていたからです。しかし、実際、勉強計画表を作るということには、もっと深い意味がありますし、勉強計画表をしっかりと立てることを通じて、非常に多くのことを学ぶ事が出来るのです。■勉強計画表の持つ意味計画を立てずとも、簡単に出来ることがあります。テーブルの上に並んだおかずを食べることや、通いなれた通学路を通って学校へ行くために、計画を立てる人はいないでしょう。しかし、人生の中で出会うものは、きちんとした計画もなしに、成し遂げることが出来るようなものばかりではありません。例えば、海外旅行へ行くことを想像してみてください。いきなり、海外旅行に行こうと思いたって、明日から行けるかというと、それは無理な話です。まずは、パスポートも取らないとダメだし、航空券も買わないとダメ。その上、ホテルも予約する必要があるし、家族で行くのならば、家族のスケジュールも合わせないとダメだし、その他にも、考えなければならない事はたくさんあります。こういう簡単に成し遂げる事が出来そうもないことに直面した時、僕たちはどうするのかというと、”計画を立てる”のです。いつまでに家族のスケジュールを確認しよういつまでに旅行の費用を算出しよういつまでに旅行の日程を決めよういつまでに航空チケットを予約しよういつまでに泊まるホテルを予約しよういつまでに旅先で回る観光スポットを決定しよう・・・・・などなど、実際に、海外旅行に行くために(≒目標を達成するために)(1)準備するべき事をすべて列挙し、(2)それをいつまでに、どのように準備すればいいのかこの2つの要素を考え実行するということが、”計画を立てる”ということなのです。そして、このような計画を立てるための”計画性という能力”を養うことは、これから生きていく上では、必要不可欠なことなのです。なぜなら、これからみなさんの人生では、この計画性がなければ成し遂げられないことが、たくさんあるからです。たとえば、大好きな人とのデート。緊張して何をして何を話せばいいのか分からなくなる気持ちは理解できますが、何も考えずに、待ち合わせ場所に行くよりは、デートに向けての計画性があった方が、絶対にデートは成功します!!!(体験談より・・・笑)大好きな女の子とデートするならば、その子が好きなデートスポットを友達から聞いておく。遊園地ではしゃぐというよりは、映画館でゆっくり映画を見るのが好きなタイプならば、映画に誘ったほうが、きっと喜ばれるでしょう。それに、今上映されている映画を入念に下調べてしておいて、どの映画を見たいといわれても、それぞれの映画にまつわる俳優の話や、その映画の裏話なんかを用意しておく。そしたら、話題もなくならないし、話も弾むでしょ。あと、ご飯を食べるレストランも調べておいて、可能ならば、予約も取っておく。いきなり行って満席だったら、別の場所を探さないとダメだし、ウロウロしてる間に、彼女も疲れてしまうでしょ。デートって、何気なく過ごしているようで、すべて計画性を持って進行した方が、絶対にうまくいくわけです。そして、この計画性は、なにもデートだけではなくて、社会に出た後も大活躍してくれます。たとえば、仕事でもそうなんですけど、この計画性がなければ、ほとんどやっていくことが出来ません。僕が、コンサルタントの会社でアルバイトをしていた時、”いついつまでに、○○○と□□□に関する資料を作っておいてね”なんてよく言われたものです。でもね、これも計画性がなかったら、絶対に期限までに終わらないんです。簡単に説明すると、まずは、その資料で何を求められているのかを考えるでしょ。そして、その求められているものを得るためには、どんな情報が必要かを考えます。次に、その情報を得るためにはどうすればよいかを考えて、そのためには、どれぐらいの時間がかかるかをだいたい予想します。そして、最終的に、その期限までの計画表を作るんです。もちろん、それよりも早く仕上がれば言う事はないですが、時には、その計画表が狂ってしまい、期限直前は、徹夜で作業することもありました。すいません、出来ませんでしたでは、社会人は、許されませんからね。そして、同じことは、すべての職業に言えるのです。つまり、この計画性という能力は、これから先、特に社会に出た後は、絶対に必要となる能力なわけですから、社会に出るまでの学生の間に、出来るだけ高めておいた方がいいわけです。だから、失敗が許される学生の間は、この計画性を養う、格好のトレーニング期間なわけです。なぜなら、学生の間は、いくら提出物が遅れてしまっても、テスト勉強が十分出来なかったとしても、先生に怒られるぐらいで済むでしょうが、社会人になったら、そういうわけにはいかないからです。仕事が期限に間に合わなかったら、そのことにより損失が発生しますし、もしかしたら、そのミスで、自分の職を失う事にもなりかねません。そして、この計画性を養う最高の教材が、今日のブログの最初で話題にした、テスト勉強をする時の計画の立て方、すなわち、勉強計画表なのです。■勉強計画表の作り方しっかりとしたテスト勉強の計画を立てないと、どういうことになるかは、みなさんが一番よくご存知ですよね。ある科目を最後まで放ったらかしにしていたために、最後まで十分な勉強時間がとれずに、結局、悲惨な結果ととなってしまったり、ある科目に集中しすぎて、他の科目に手が回らなかったり・・・・。これらの失敗は、すべて、計画性のなさによるものなんです。きちんと計画を立てることが出来ていたら、こんな失敗は起きませんからね。ただ、計画性なんてものは、一朝一夕で身につくものではないですので、何度も失敗を繰り返して、そして、自分の中での試行錯誤を繰り返して、身につけていくしかないんです。キライな科目は勉強したくない、勉強する意味がわからない、勉強する気が起こらない。色々と理由はあると思いますが、ここは、開き直って、計画性を鍛えるトレーニングだと考えて、テスト勉強を楽しみましょう。将来、必ず必要となる能力ですし、大好きな人をゲットするためにも、なくてはならない能力です(笑)では、簡単に、勉強計画表の作り方をおさらいしましょう。テスト勉強の目標は、5科目の全てのテストで良い点数を取ることです。ということは、テストがはじまるまでに、テストで良い点数を取るための万全の準備を計画するわけです。まずはじめに取りかかることは、先ほど海外旅行の話で述べたように、テスト前までにするべき準備をすべて列挙するという(1)のタスクです。5科目それぞれのテスト範囲を調べて、それぞれの科目で、何が必要とされているかを調べます。数学を例に取るなら、教科書を見直して、どれだけのことを理解する必要があるのかを確認します。大きく分けてテーマは6つあって、そのテーマの中には、だいたい4つか5つぐらいの確認項目があるとします。すると、6×5=30で、30の内容を理解することが、数学のテストの準備として必要な要素だとわかるはずです。そして、次に取りかかることは、上さきほど同様に述べた、それらの内容を理解するための準備を、どのようにするのかという(2)のタスクを考えるです。ただ闇雲に、最初から気合で突き進むのでは、計画表の意味はありません。30の要素のうち、どこが一番難しくて、どこを理解することが肝心なのか、それぞれのテーマはどのような関係があって、どこの得点配分が高そうなのか。実際には、どのような順番で、どのように勉強すればよいのか。このような作戦を立てるのが、(2)のタスクだと思って下さい。1つの科目でこれが出来れば、同じようなことを5科目全てでやって下さい。それぞれの科目で、良い点数を取るための個別の作戦を立てるのです。そして、5科目のそれぞれで個別の作戦が完成したら、今度は、全体のバランスを見るのです。つまり、テスト二週間前の、どの日にどの科目を勉強するのか、一週間前はどうするのか。そして、それぞれの科目にどれだけの時間を割り当てるのか。このように、最終的な全体としての作戦を立てることが、勉強計画表の核となる部分です。本当なら、全部の科目に十分な時間を割り当てたい所ですが、一日は24時間しかありませんので、出来るだけ効率よく、それぞれの科目に時間を割り当ててあげないとダメなのです。だから、結果的に、勉強計画表は、他の友達と同じになるはずがないんです。極端な話、英語がメチャクチャ得意な人は、2週間の勉強計画表の中で、英語を勉強する時間がたったの2時間であってもいいんです。他の人から見たら、え~~~って思われるかもしれませんが、それが、あなたの作戦だったら、その作戦を実行すればいいんです。他の科目とのかね合わせで、そういう作戦になったわけだし、得意な英語に、みんなと同じだけの時間を割く意味は、全くありませんからね。■最後に一言テスト勉強って、決して面白いものではないとは思います。でも、自分の計画性を養うためのトレーニングと思えば、少しは、考え方も変わるんじゃないかなあと思って、今日の内容を書いてみました。受験勉強のときは、何気なくやっていましたが、今振り返れば、受験勉強を通じて、しっかりとした計画性を身につける事が出来たから、アメリカに来て、英語がしゃべることが全く出来なかった3年前も、自分の目標を明確にして、それを実現するための綿密な計画を、無意識のうちに作り上げることが出来たのだと思います。何かを成し遂げたい目標を持った時、それを効率的に進めることができる力は、計画性以外のなにものでもありません。失敗の許される学生時代に、思いっきり失敗をして、あなたの計画性を、どんどん磨いていってください。今日もお疲れ様でした。
2005.07.20
コメント(19)
さて、これまで3回にわたって、大学へ進学することなく、「夢」に挑戦しようとする高校生の人生について考えてきたわけですが、今日も、その議論の続きをやっていきたいと思っています。■オトナとして生きるということ高校生のみなさんは、オトナとして生きることの厳しさの実感がないと思います。だから、前回のブログでお話したように、オトナになる覚悟をしなければならない厳しさと言われても、なかなかピンとこないかもしれません。僕も、高校生の時はそうでしたから、その気持ちはよく理解できます。そこで、まずは、オトナとして生きる厳しさを、もう少し具体的に考えてみましょう。(コドモとオトナの定義は、第14回参照)みなさんは、日常生活の中で、飢え死にすることは絶対にありえません。空腹を満たす食料と、のどの渇きを癒す飲料が、たっぷりと家の中にあるからです。また、昔の人から考えれば、とても贅沢な暮らしが可能となりました。季節を問わず、エアコンで快適な時間を過ごせますし、小遣いをためて、洋服や好きなアーティストのCDを買ったりもするでしょう。みなさんは、そんな生活を”当たり前の事”だと思っているはずですし、そんな生活を送ることが、どれだけ大変なことであるのかということを、あまり理解していないと思います。しかし、オトナとして生きるということは、そんな”当たり前の生活”を、”当たり前のもの”にするために、誰から助けてもらうことなく、自分でお金を稼がなければならないということなのです。逆に言えば、そのお金がなければ、みなさんが当たり前と思っている生活は、すべて成り立たなくなるということです。いくらお腹が減っても、いくらのどが渇いても、お金がなければ何も買うことは出来ません。電気代が払えなければ電気は止められてしまいますから、暑かろうが寒かろうが、エアコンを使うことも出来ません。シャンプーがなくなっても、お金がなければ、新しいシャンプーを買うことは出来ませんし、家賃やローンが払えなければ、帰る家すらなくなってしまいます。ましてや、自分の好きなものを買う余裕なんて、どこにもありません。だから、すべてのオトナは、自分のやりたいことかどうかに関係なく、何らかの「職業」に就いて、何気なく生きている”当たり前の毎日”を、”当たり前のもの”にするために、お金を稼ぐ必要があるのです。そして、今のみなさんの”当たり前の毎日”が成り立っているのは、言うまでもなく、みなさんのご両親が、それぞれの「職業」で働くことから得た給料のおかげなのです。みなさんのご両親の場合は、自分ひとりが生きるためだけではなく、みなさんも含めた家族全員が生きる分のお金を稼いでくれているわけですから、コドモを育てるオトナとして生きることが、どれだけ大変かを理解できるはずです。大学に進まず「夢」に挑戦しようとするみなさん。高校を卒業すると同時に、両親のもとを離れ、両親から一切の援助を受けずに生活する状況を思い浮かべてみて下さい。あなたは、そんな状況で、ひとりで生き抜くことが出来ると思いますか。そのような厳しい状況でも、経済的に自立して、たった一人で生きていく強さを持つということ。それが、オトナとして生きるということです。■「夢」が「職業」であり続ける難しさ世の中には、本当にたくさんの「職業」があります。サラリーマン、警察官、学校の先生、パイロット、作家、医者、プロ野球選手・・・・・。そして、さきほどもお話したように、遅かれ早かれ、すべての人は、いつかは学生を卒業してオトナになり、生きていくためのお金を自分で稼がなければならなくなります。ですから、すべての人は、この山ほどある「職業」の中からひとつの「職業」を選び、その「職業」から、生きていくためのお金を得ることになります。しかしながら、みなさんのように、自分がなりたい「夢」と「出会って」いたとしても、そのすべての人が、自分の「夢」を「職業」として、それから生きるためのお金を稼げるというわけではありません。なぜなら、自分の「夢」を「職業」として生きる糧を得るためには、2つの大きな壁をクリアする必要があるからです。まず1つ目の壁は、その「職業」になるための”権利”を獲得しなければならないということです。自分が働きたい会社で働くためには、その会社に採用してもらうことで、その会社で働く”権利”を得る必要がありますし、医者になるためには、医学部に合格し、国家試験を通ることで、医者になる”権利”を得なければなりません。つまり、どのような職業であったとしても、その働く”権利”を得ることが出来なければ、それは実現しないのです。(唯一、権利なしに就ける「職業」として、起業家がありますが)次なる2つ目の壁は、その「職業」で働く権利を奪われないように、日々の仕事の中で、その「職業」に要求される”結果(実績)”を残さなければならないということです。会社の利益に貢献できない人間は、リストラという形で、会社で働く権利を奪われてしまいますし、患者さんを丁寧に診察する責務を怠り、医療ミスを多発した医者は、医師免許を剥奪されてしまいます。つまり、その「職業」が要求する最低限のレベルの仕事が出来なかったら、その「職業」でお金を稼ぐ権利を奪われてしまい、あなたが持っていた権利は、あなた以上の結果を残す他の人に移ってしまうのです。簡単にまとめると、1つ目の壁は、希望の「職業」に就くことの難しさ、2つ目の壁は、その「職業」に就き続けることの難しさを表してるのです。そして、世の中に存在する様々な「職業」について、この2つの難しさを比較した時、みなさんがなりたいと思っているような「夢」を「職業」として、生きるためのお金を稼ぐことが、他の多くの「職業」に比べて、どれだけ難しいものであるかはすぐに分かるはずです。例えば、プロ野球選手には、1年間に、たった100人程度しかなれませんし、たとえプロになれたとしても、プロの世界で結果を出し続けない限り、プロ野球選手を「職業」として生きていくことは出来ません。実際、華々しくプロの世界に入っていく新人たちの裏側では、その新人と同数のプロ野球選手が、それぞれの球団から解雇され、他の「職業」を探すことになっています。そして、これと同じような厳しい現実は、歌手、ダンサー、サッカー選手、俳優、写真家、映画監督など、みなさんが目指しているほとんどの職業で言えるはずです。ものすごい競争を勝ち抜いて、自分の「夢」を「職業」とすることが出来ても、今度は、その「夢」を「職業」とする人たちの中でさらに結果を残し、より厳しい競争に勝ち残って、自分の「夢」を「職業」として継続し続けなければならないのです。みなさんの人生が、他の人の人生よりも、厳しいものである最大の理由。それは、他の多くの職業に比べて、みなさんが挑戦しようとしている「夢」を、「職業」とするために乗り越えるべき2つの壁が、あまりにも高く険しいものであるということなのです。■本当の挑戦者今日は、これまで大きく2つのことについて考えました。オトナとして生きることの難しさ。「夢」を「職業」として生きることの難しさ。そして、年齢を重ねるごとに、人間は、この2つの難しさを身をもって体験していきます。オトナとして生きるために、より現実的になっていくのです。”やっぱり、歌手になる夢はあきらめて、大学へ通うことにしよう””そろそろ夢を追いかけるのは終わりにして、まともな仕事に就こう””彼女と結婚したいし、そのためにも、安定した仕事を探さないとな”一握りに成功者を除いて、ほとんどの「夢」の挑戦者は、オトナとして生きるために、「夢」を追いかけることに区切りをつけ、別の「職業」を探すことになります。そして、こうした厳しい現実を目の当たりにしてきた、学校の先生をはじめとする多くのオトナたちは、みなさんにこう言うことでしょう。”そんな夢は絶対に実現しないから、もっと他の現実的な夢を探しなさい””大学に行けば色々な経験をして、他の夢が見つかるはずだから”ほんの一握りの人しか成功しない現実がある以上、そんな現実的な意見を言うオトナが多いのは当たり前ですし、ある意味、それがもっともな意見なのかもしれません。しかし、忘れてはならないのは、ほんの一握りの人間であろうが、成功する確率が、たった0.001%の可能性であろうが、実際、世の中には、自分の「夢」を「職業」として生きている人が存在するのです。日本人は、どうしても、人と違う生き方をすることを拒みますが、人と違う生き方をしないと得ることが出来ないものが、世の中にはあるのです。失敗を恐れていては、たどり着けないものが世の中にはあるのです。大きなリスクを背負ってまでも、他の多くの物を犠牲にしてまでも、自分の一生を賭けて、自分の「夢」に挑戦しようとする人生。そんな人生に挑戦しない限り、みなさんの持っている「夢」は、実現できるものではないのです。みなさんが持っている大きな「夢」に、なんとなるといういい加減な気持ちで挑戦することに、僕は反対です。そんな気持ちで挑戦したとしても、絶対に成功する事はないと思いますし、それならば、学校の先生や親の言うとおりに、大学へ進学することを、僕もお勧めします。大切な事は、オトナとして生きることの厳しい現実を、しっかりと見つめること。生きるためのお金を稼ぐことは、そんなに生易しいことではないからです。そして、次に、自分の「夢」を「職業」として生きていくことの難しさを、冷静な目で見つめること。あなたが挑戦しようとしている「夢」を「職業」として生きていけるオトナは、ほんの一握りしか世の中にはいないからです。そして、今日お話したこれらの大切なことを心に刻むと同時に、せっかくの機会ですから、大学に進学することなく、自分の「夢」に挑戦するという人生の大変さを様々な角度から考えてきたこれまでの3回にわたるブログを、もう一度読み返してみてください。オトナとして「夢」に挑戦することに、トコトン悩んでみて下さい。”大学に行った方がいいんだろうか””自分は、やっぱりダメなんじゃないだろうか””長く厳しい挑戦に耐えることができるだろうか””自分に本当にそんな力があるのだろうか”悩んで悩んで、その結果、大学へ進学することを決める人もいるはずです。そういう人は、今の夢を持ちながら、大学で色々な事を経験して、新たな夢の模索を続けて欲しいです。何も、今すぐに、夢に挑戦することだけが正しい選択ではありません。そして、一方で、悩みに悩んだ結果、やっぱり自分は、今持っている「夢」に挑戦するんだと覚悟を決めた人もいるはずです。悩んだ末にたどり着いた覚悟というか、今、みなさんが心の中に持っているであろう自分に対する信念みたいなものは、僕は、絶対にホンモノだと思っています。そして、そのような確固たる決意を持つことが出来たあなたのような人こそが、夢の挑戦者にふさわしい人なのだと思います。どうか自信を持って、その「夢」に挑戦してください。決してあきらめることなく、世界で一番だと自負できるほどの努力を重ねて、そして、ぜひその「夢」を実現して下さい。今日も長い文章、お疲れ様でした。
2005.07.18
コメント(10)
全然関係ないんですけど、昨日、日本のスーパーマーケットに行ってきたんです。何それ?って思われる方もおられるかもしれませんけど、アメリカって、日本人が多く住んでるところには、日本食専門のスーパーが結構あるんです。カリフォルニアは、特に日本人が多いので、結構色々なところにあります。僕の家の近くにあるスーパーは、結構デカイですし、ほとんど日本のスーパーと同じ感覚だと思ってもらって大丈夫です。お菓子、漬物、ドレッシング、冷凍食品、シャンプー、洗剤・・・・・まあ、ほとんどあるはずです。チラシは全部日本語ですし、レジをうってる人は、思いっきり日本語で話しかけてくれる、ふつうのおばちゃんですから(笑)そして、昨日、そんなスーパーで何気なく発見したのが、カールのメキシカンチリ味とブラックペッパー味。カールを愛する男としては、”なんじゃこりゃ~”と思わず叫んで、購入してしまったんですが、これが、なかなかのお味でして・・・・・・(笑)とりあえず、一個ずつ購入したんですが、これから数ヶ月は、僕のビールのお供になってくれる、頼もしい存在であることが発覚しました(笑)でも、これって、いつ発売されたんですか??もしかしたら、だいぶ前からあったのかなあ。全然気がつかなかったな~。とりあえ、今回は発見できたのでよかったですが、これからも、素敵な日本のお菓子を、アメリカにいるということで見逃すこともあると思いますので、おすすめのお菓子が日本で発売されたら、ぜひ、このブログの掲示板にでも書き込んで下さい(笑)__________________________________それでは本編です。今日も前回に引き続き、大学へ進学することなく、自分の「夢」へ挑戦しようとする高校生の人生について考えていきたいと思います。前回は、「夢」へ挑戦する高校生の人生が大変な理由を、大学へ進学しないことに伴うリスクという点から考えてみました。前回の文章だけを読むと、結局は、”大学には行かないとダメなんだよ!!”と主張しているように感じられた方も多くいらっしゃると思います。しかし、僕は、そうは思っていません。自分の「夢」に向かって歩いていく上で、大学に行く必要性がないのであれば、必ずしも行く必要はないと思っているからです。ただし、その代わりと言うわけではないですが、それなりの厳しい人生を覚悟する必要はあるはずです。そこで、今日のブログでは、「夢」に挑戦する人生が、大学に進学する高校生の人生と比べて、なぜ厳しく苦しいものなのか、その導入部分となる所を考えていきたいと思います。■かなえたい「夢」と生きるための「職業」第14回のブログで定義したのですが、オトナになると、僕たちは、生きていくために自分でお金を稼がなければなりません。(詳細は、第14回を参照して下さい)よく、世間のオトナたちは、”仕事なんていうものは楽しいものじゃないんだよ””お金を稼ぐっていうのは、楽なことじゃないんだよ”って言います。これって、ある意味、すごく正しいことなんです。じゃあ、なぜ楽しくもなく、楽でもない仕事をするのかというと、さきほど言ったように、自分の「職業」が、楽しいものであろうがなかろうが、その「職業」が、自分がなりたかった「夢」であろうがなかろうが、その「職業」になった以上は、それでお金を稼がないと生きていけないからです。こんな話を聞いたら、誰でもすぐに、こう思うことでしょう。世間では、生きていくお金を稼ぐために、自分がやりたくないことをやっているオトナが多いみたいだけど、自分が心の底からやりたいと思える「夢」でお金を稼げたら、どれだけ幸せな人生になるだろうか。そして、高校生の段階で「夢」と「出会う」ことが出来たみなさんが、これから実現させようとしていることはまさに、生きていくためのお金を「夢」で稼ぐということ、つまり、自分の「夢」を自分の「職業」にするということなんです。ただし、世の中は、そんなに甘くはありません。自分の「夢」を「職業」に出来る人は、ほんの一握りの人たちだけですし、そんなに簡単に、お金は稼げるものではないんです。■オトナになるという自覚本来、義務教育は中学生までなんですが、一般的に言えば、学生でいる間はコドモでいることが許されます。だから、大学に進学する人は、高校を卒業した後も、4年間も余分にコドモでいることが許されるわけです。もちろん、学費も生活費も自分で稼いでいる殊勝な大学生も中にはいますが、ほとんどの大学生は、バイトこそすることはあれ、学費や生活費など、親の助けがなければ生きていけないコドモなわけです。そして、大学生は、その特権を4年間フルに使って、前回のブログで述べたように、高校生の時には出来なかった色々な経験をしたり、「夢」のための自分探しをしたり、オトナになるための準備をする事が許されるわけです。こういう意味では、この余分な4年間があるというだけでも、大学生はどれだけ恵まれた身分であるかがわかりますよね。大学で4年間を過ごすことは、当たり前なことに思われていますが、実は、すごく贅沢なことなんです。さて、このように、恵まれた身分である大学生になろうと思っている同級生とは違って、高校生の段階で「夢」と出会ったみなさんは、その「夢」を実現するべく、社会に飛び出していくことを決断したわけです。そして、この決断が何を意味するのかといいますと、みなさんは、高校生までで、”学生”であることを卒業しようとしているということです。つまりは、もうコドモではなくなり、オトナの仲間入りをするということなんです。もちろん、高校を卒業した時点では、オトナになる準備が出来ていないことは明らかです。現実的に考えても、いきなりお金を稼ぐことは不可能だと思います。プロのサッカー選手や野球選手でない限り、生きていくために十分な給料は、高校卒業からすぐにはもらえないでしょう。だから、卒業から数ヶ月、もしかしたら、数年間は、自分の「夢」に近づくために、何らかの形で、経済的に親の助けがなければ生きていけないというが現実かもしれません。しかし、絶対に、その状況を当たり前だと思って甘えてはいけないんです。なぜなら、大学へ進学することを選択しなかったみなさんは、もう”学生”でも”コドモ”でもなく、お金を稼いで、自分で生きていかなければならない”オトナ”だからです。もし、自分の「夢」に近づくまで、なかなかお金を稼ぐことが出来ないようであれば、バイトでもなんでもして、生きていくためのお金は、なんとか自分で用意するというぐらいの気概を持つべきなんです。よく、華々しく活躍しているスポーツ選手やアーティストが、実は、とても貧しい家庭環境で育ってきたことが取り上げられたりしますが、あれって、すごく意味深いことを教えてくれていると思うんです。どういうことかって言うと、成功をおさめる前の彼らは、当然、ほとんどお金も稼いでなかったでしょうし、家庭が貧しいわけですから、親から、生活費の援助をしてもらうこともなかったでしょう。しかし、彼らは、決して「夢」をあきらめないで、自分が生きていくためのお金をなんとかして稼ぐ傍らで、自分の「夢」を「職業」にするための努力を続けていたわけです。生きていくためのお金を稼ぐことの難しさを実感し、オトナであるという厳しい現実と向かい合った上でも、彼らは、決してあきらめることなく、自分の「夢」にこだわり続けたわけです。そして、そのハングリー精神によって、彼らは最終的に成功を勝ち得たのです。高校の同級生が、大学生になって、サークルに入ったり、コンパなんかをして遊んでいるからって、自分も遊ぼうなんて考えていたら、それは甚だ甘ったれた考えだと思いますよ。”学生”とは違うんです。生きていくために、”オトナ”としてお金を稼がないとダメなんです。自分が生きるためのお金を、必死になって稼いでみて下さい。そして、お金を稼ぐということの難しさを実感してみて下さい。”学生気分”でいる限り、あなたは絶対に「夢」なんて実現させることは出来ないはずですから。■最後に一言さて、今日は、オトナになるという点から、「夢」に挑戦する人生の大変さを考えてみました。これから「夢」に挑戦しようと思っている高校生のみなさん、もう一度、今日のブログの内容、そして、このブログにつくであろうみなさんのコメントを読み返して、オトナになるという自覚を、今の自分がどれだけ持っているか確認してみて下さい。生活費なら、親が面倒を見みてくれるから大丈夫だなんて、心のどこかで思っていませんか。そんなコドモの甘えがある限り、絶対に「夢」は実現できないと思います。生きるためには、お金を稼がなければならないという厳しい現実と向き合い、自分がオトナであることを、身をもって実感して下さい。そして、自分自身を、より厳しい環境に追い込んで、努力を続けて下さい。親に面倒をみてもらっている温室の中でいる限り、本当に頑張ることなんて出来ないはずです。なぜなら、人間は、追い込まれてはじめて、とんでもないパワーを発揮するからです。「夢」を追いかけることは、とても苦しくて大変なことなんです。僕が、前回のブログで、大学生になる方が、どれだけ楽な人生かと言ったことが、今日のブログの内容だけでも、理解してもらえたんじゃないでしょうか?次回は、この議論を、さらに深く考えていきたいと思います。今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。お疲れさまでした。
2005.07.15
コメント(10)
字数の関係で、いきなりですが本編です。前回のブログの最後に、大学へ進学することなく、自分の「夢」へ挑戦しようとする高校生の人生は、大学へ進学する人のそれに比べて、かなり大変なものだと書きました。そして、今日は、その大変な理由のひとつでもある、大学へ進学しないことのリスク(危険)について考えていきたいと思います。■自分探しの延長時間は4年間大学へ進学するという事には、色々な意味があると思いますが、そのうちの一つの意味として言える事は、大学とは、自分探しのための時間をもう余分に4年間分買って、自分の「夢」を模索する場所だということなんです。どういうことかと言いますと、まず、高校生の段階で、自分の「夢」に「出会う」事は、かなり難しいことですし、すごく稀なんですね。普通の中学・高校生活を過ごしているだけでは、小学生ではあるまいし、なかなか”将来の私の夢はこれだ!!”なんて言えるものではないんです。だから、大学へ進学する事で、4年間の延長時間をもらって、その時間を、自分探しをする時間にあてるわけです。自分探しなんて言うと、少しかしこまって聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば、高校時代には出来なかった色々な経験を、何かに追われることなく、楽しむ事が出来るということです。サークルに入って新たなことに挑戦したりバイトをはじめて少しだけ世間の厳しさを知ったり今まで行ったことのない国へ行って異文化に触れたりオトナ社会に交じって、色々な人に出会って新たな刺激を受けたり興味のある学問に好きなだけ没頭したり自分の好きな作家の本を読みふけったりそして、一日中、寝続けてみたり・・・・・(笑)とにかく、高校生の時には、考えられないような経験をいっぱい出来る場所が大学です。あなた自身の価値観も、様々な経験を通じて大きく変わっていくはずです。そして、社会に出てオトナになるまでの4年間に、自分の「夢」と出会えるように自分探しをする場所なんです。また、高校生活の中で、”これが自分の夢かな?”とおぼろげながらに出会っていたものを、”よし、これが本当の自分の夢なんだ!!”と自分の中で再確認する場所が大学でもあります。さきほども言いましたように、大学生になると、高校のように、朝から大学に行かなくてもいいですし、ちょっとぐらい休んでも平気なので(←お勧めはしませんが・・・笑)高校生では考えられないぐらい自由な時間があります。というわけで、自分の夢と思いっきり向き合う事が出来ます。高校の時のように、宿題やテストに追われるわけではないので、思いっきり、トコトン、ガチンコで悩みぬけます。色々な人との出会いや、様々な経験で得た新たな刺激も、自分の心の中での議論を、より豊かにしてくれます。また、友達や先輩、教授や知り合いの社会人の方など、色々な人に相談することも出来ます。高校生のあなたに比べて、大学生のあなたは、精神的にも肉体的にも確実に成長しているはずですから、より大きな視野に立って、自分の夢とじっくり見つめあう事が出来るわけです。以上のようなことから、「夢」といかに向き合うかという意味で、大学の4年間の大切さは分かってもらえたと思うんですが、逆に言えば、大学へ行かないで、高校卒業後からすぐに、高校生の時に出会った夢に向かって挑戦するという事は、その夢が、本当の「夢」かどうかを成長した4年後の「未来の自分」から見つめなおすことなく、「高校生の自分」の立場で決断するということになります。つまり、高校までの18年という限られた人生経験の中から、大学生の自分比べて、まだまだ幼い18歳という高校生の自分で、これからの自分の長い人生を決断しなければならないというリスクがあるわけです。■大卒という資格を得るため世の中では、様々な基準を設けてヒトを選別します。基準によってヒトを選別するとは、もう少しわかりやすく言うならば、「資格」を持っているヒトと、「資格」を持っていないヒトに分類するという事です。例えば、R-18指定の映画があります。その映画の内容が、18歳未満の人間には有害もしくは不適切と判断されたため、18歳未満の人間は、その映画を見ることは許されません。でも、よ~く考えたら、16歳でも精神的に成長した人もいれば、20歳でも25歳でも、精神的に幼い人はいるわけです。ということは、本来ならば、精神的に成長した人は、18歳未満でも見れるという指定や、18歳より上でも、精神的に幼い人は見れないという規定が本来作られるべきなんです。では、なぜこんな規定が作られないか?理想的にはそうしたいんですけど、時間的にもコスト的にも、現実的に不可能なんです。想像してみてください。例えば、いちいち、映画館の前で、チケット売り場のお姉さんが、”あなたの精神年齢は、いくつですか?””あなたは、この映画に耐えうる精神的に成長した人間ですか?”こんな質問をひとりひとりにしていたら、ラチがあきませんし、どこをポイントにして見極めるかって、すごく難しいですよね。それに、実際に答えるお客さんの立場になっても、自分の精神年齢を、どうやって証明すればいいかわからないでしょ。お互い困ってしまいますよね。というわけで、分かりやすくヒトを選別するために、この映画に適した精神年齢の人間は、だいたい18歳以上の人間である”はずだから”という判断のもと、18歳以上という「年齢」による基準、すなわち「資格」を設けて、「資格」を持っているヒトにだけ映画を見ることを許可するのです。世の中には、こんな「基準」が他にもたくさんあるわけです。例えば、「運転免許証」という「資格」があります。人には、得手不得手がありますから、たとえ免許証を持っていても、上手く運転できないペーパードライバーと呼ばれる人たちがいる一方で、免許証なんか持っていなくても、上手く運転出来る人は少なからずいるとは思います。しかし、運転免許証という「資格」を持っていないと運転する事は許されないんです。なぜかというと、いくら本人が、自分には自動車を運転する能力が十分にあるんだと言い張っても、それを証明することが難しいからです。しかも、さきほどの映画館のチケット売り場の話と同じで、警察も、その人に運転するだけの技術があるのかどうかを、毎回毎回その場で確かめなければならなくなったら、時間的にもコスト的にも、すごく大変ですよね。だから、運転免許の試験に合格した人は、自動車を運転する技術を持ち合わせている”はずだから”という判断のもと、運転免許証という「資格」が与えられ、自動車を運転することを許可されるのです。そして、社会に出た時に、もっとも重要とされる「資格」があります。それは、「大学卒業」という「資格」です。はっきり言ってしまうと、大学卒業したからと言って特に偉いわけでもなんでもないんです。大学に入っても、何か特別なことをしたわけでもなく、なんとなく4年間過ごして、高校を卒業した時と何ら成長していない人も実際にはいるでしょう。しかし、一般的には、大学4年間で、上でさきほど述べたような様々な経験を経て、そして、高校よりも高度な学問を学ぶことで、高校生よりも、人間的に成長した人が多い”はずだ”と考えられているわけです。そして、高校生の方にはピンと来ないかもしれませんが、世の中では、ほとんどの仕事に就くための最低条件が、「大学卒業」、いわゆる「大卒」と設定されているんです。大学を卒業したという「資格」を持った人だけに、その職に応募する権利が与えられるということです。言い換えれば、大卒という「資格」を持っていなければ、その職に応募することすら出来ないのです。実際の所、この「資格」もおかしな話なんです。世の中には、大学を卒業していなくても、人間的に立派な人はたくさんいます。大学を卒業していても、人間的に問題がある人はたくさんいます。そもそも、大学を卒業したかどうかという基準で「資格」を設けて、人を選別することは、偏った見方と言わざるを得ません。人を選別する上では、考えられるべきもっと多くの要素があるわけですから。それに、どのような職業であれ、あなたを雇う側からすると、理想的には、すべての人を、ひとりひとりじっくり面接して、その人の持っている能力だけではなく、そのひとの個性や内面まですべて見た上で、雇いたいんです。でもね、これは現実的に不可能なんです。なぜかというと、映画のチケット売り場の話や、警察の免許証確認の話と同じで、すべての人を丁寧に面接していたら、雇う側、つまりは、面接を行う会社側は、膨大な時間とコストを負担しなければならないからなんです。というのも、その職業に就きたい人は、あなた一人だけではなく、何十人、何百人、何千人といるわけですから、全員に時間をとって、面接するなんて無理なんです。そして、世の中のほとんどの会社は、高校生よりも、多くの経験をして精神的にも成長した人間を欲しいと思うものなんですが、大学生活を経験した人間は、たいていが、その基準にに当てはまる人間である”はずだから”という判断のもと、大卒という「資格」を持っている人間にしか、働く権利を与えないんです。世の中は実力主義であって、学歴なんか関係ないと言われるようになりました。確かに、世の中は、そういう方向に向かっているのは間違いありません。しかし、忘れて欲しくないのは、学歴なんて関係ないと言っている人間の大半が、実際は、どこの大学であれ、しっかりと「大学を卒業ている人間」だということです。また、世の中で言われている実力主義というものは、自分が就きたい職に就けて、その時点ではじめて始まるという厳しい現実です。いくらあなたにその職に対する情熱があったとしても、いくらあなたがその職に向いていて、その職に適していたとしても、あたながその職に就くことが出来なければ、世の中の実力主義の競争に、”参加することすら”出来ないのです。そして、このリスクは、あなたが将来、あなたの「夢」の方向転換をしたいと思った時にこそやってくるのです。今は、自分の「夢」の実現のためには、大学卒業しているかどうかなんて関係ないと思っているかもしれませんが、もし、あなたがその「夢」を道半ばで挫折することになり、また、その後の人生で、新たな「夢」と出会って、その新たな「夢」を実現したいと思った時に、その「夢」を実現するために必要となる「資格」が、大卒だったらどうしますか?もちろん、それから大学に行けばいいと思うかもしれませんが、それは、口で言うほど容易いことではありません。大学へ進学しないということで、あなたの未来が、いかに限定されてしまうかというリスクは、”今は必要がないから大学へ行かない”と安易に結論づける前に、よくよく頭に入れて考えた上で、行動しなければならないんです。■今日はこれで終わりです今日は、大学へ行かない事に伴うリスクについて考えてみました。なんか、今日の文章だけを読むと、”やっぱり、大学は行くべきなんだよ!!”と主張しているように感じられるかもしれませんが、実際は、そんな事はありませんので、ご心配なく!!!というわけで、次回は、そういう真意も含めまして、議論をより発展させていきたいと思います。お疲れさまでした。
2005.07.12
コメント(34)
そう言えば、今年の七夕はどうだったんでしょうか?天気予報を見る限りでは、日本全国晴れていたみたいですけど、彦星様と織姫様は、無事に天の川で出会うことは出来たのでしょうか?年の一度のチャンスですもん。”二人っきり”で、ゆっくりデートさせてあげたいですよね~。ちなみに、日本時間の七夕の日に、僕は、アンナちゃんと食事に出かけたわけですが、駐車場からレストランに向かって歩いている途中に、僕の友達4人とばったり出会ってしまいまして・・・・・。そしたら、その友達のうち3人は、なんとアンナちゃんと同じ高校に通っていたとかで、共通の知り合いだったんですよ。こういう偶然の再会がありますと、まあ流れはだいたい予想できると思うのですが、友人B:”じゃあ、せっかくだし、みんなで食事でもしよっか?”アンナちゃん:”いいねえ~、色々と話したいし!!いいよね?”Mr.DDI(僕):”う、う、うん。いいよ・・・・”というわけで、”二人っきり”の素敵な夜を過ごすはずが、結局は、6人で過ごすはめに・・・・・。まあ、結果的には楽しかったし、アンナちゃんとも仲良くなれたから、よかったといえば、よかったんですけどね・・・・・。”二人っきり”で織姫様に会うことが出来た彦星様に、少しだけ嫉妬を覚えた今年の七夕の夜でありました・・・・・・(笑)__________________________________それでは、本編です。中学生や高校生ぐらいで、自分がやりたい事や、自分がなりたい職業を見つける事が出来た人、つまり、自分の「夢」と「出会えた」人って、本当に幸せな人だと思います。でも、本当に自分がなりたいと思える「夢」と「出会えた」人の中でも、その「夢」の実現のために、大学や専門学校へ進学しない進路を選択しようとしている人は、すごく厳しい道へと踏み出そうとしてることを知っていましたか?今回から数回に渡って、大学や専門学校へ進学するという”普通”の進路とは違う道を選択し、自分の「夢」に挑戦しようとする高校生について考えていきたいと思います。■「夢」と「現実逃避」の違いたぶん、みんなの周りにも”俺たちは、将来バンドでデビューするんだ””私はプロのピアニストになりたいの””俺はサッカー選手になるんだ””私は歌手になりたいの”大学や専門学校に進学しないで、それぞれの夢の実現のために、”特別な”人生を歩もうとしている友達がいると思います。僕は、すごくいい事だと思います。夢があるって素晴らしい事です。でも、こういう友達の中で、よくこんな事を口にしている人いませんか?”俺(私)は、自分の夢があるから、勉強なんてしなくていいんだ!!”こういう事を言ってる高校生って、大抵は、「夢」を持ってるとは言えないんです。つまりは、単なる「現実逃避」なんです。勉強するのがイヤで、自分が今一番やっていて楽しい事を、”勝手に”夢みたいに仕立て上げて、それを理由に、自分がやりたくない事から逃げているだけなんです。分かりやすく言うと、マラソン大会に出るのがイヤだから、お腹痛いですって嘘ついて、保健室で寝てるっていうあれと同じです。”夢があるから”なんて言うと、格好よく聞こえるかもしれませんが、実際の所、格好良くともなんともありません。勉強する理由が分からないから、やりたくないっていう気持ちはよくわかります。(いずれ、僕の考えがまとまったら、 順を追って、「勉強する理由」を考えていこうと思ってますので、 それまで待っていて下さい。)ただね、もし、今の段階で、本気で自分が追いかけようと思える「夢」に「出会って」いないのなら、「夢」を持っている”フリ”なんてするんじゃなくて、正直に、今思っている自分の気持ちを表現して、”勉強する意味が分からないからしたくない”って、先生にも親にも言えばいいんです。そっちの方が、よっぽどカッコイイし、筋が通ってると僕は思いますよ。あと、もし本当の「夢」に「出会っていない」のなら、やっぱり、学校の勉強は続けていた方がいいと思います。こんな事、今の段階で理由もなしに言っても、何の説得力もないし、他のオトナと言ってること同じなんですけど、でも、それは、間違いなく正しい選択なんです。なぜかというと、「普通」とは違う人生って、みんなが思っているより、しんどくて辛いものだからなんです。■今日はこれでおしまい・・・・本当は、もうちょっと書きたかったんですけど、時間がなくなってきましたので、今日はこのへんで、おわりにしたいと思います。もしよかったら、コメントとして、「夢」の実現のために、大学や専門学校へ進学しない進路を選択しようとしている高校生の人生が、なぜ、「普通」のレールを歩んで行く高校生の人生よりも大変なのか、意見を聞かせてもらえますかね??また、「夢」の実現のために、普通ではない人生にチャレンジしようとする高校生は、どんな「覚悟」を必要とされるのでしょうか?これも併せてコメントしてもらえれば、うれしいです。明日が期限の宿題が終わっていないので、今日はこの辺で終わりにしたいと思います。それでは。
2005.07.10
コメント(39)
本編が長くなってしまい、アンナちゃん話や、その他のモロモロ雑談が、字数の関係で、載せれなくなってしまいました・・・・。というわけで、アンナちゃん話は、次回までお待ちあれ~!!!_____________________________________それでは、本編です。「失敗や挫折」って、出来れば経験したくないと思うのが普通だと思いますし、可能であるならば、避けて通りたいなあって思いますよね。すべてがうまくいけば、どれだけ幸せなんだろうなあって。でも、失敗や挫折って、一時的には、マイナスの面が大きいように見えるんですけど、実際は、プラスの面の方が大きいんじゃないのかなあって、アメリカに来てから思うようになりました。というわけで、今日は、この「失敗や挫折」について、少し考えていきたいと思います。■失敗した理由を冷静に考える・学校に遅刻した・期末テストの世界史で悪い点数を取った・サッカーの試合でレギュラーに選ばれなかった・大好きだった彼女に告白したがフラれた・第一希望の大学を不合格になった何かの目標や目的を達成することが出来なかった時、僕たちは、”失敗”っていう言葉を使います。上に挙げた失敗例は、僕が高校時代に実際に経験したものなんですけど、失敗を経験した時に、失敗を振り返ることって、出来ることならば、あまりしたくないですよね。失敗した事で、それでなくても気分がブルーになっているのに、それを掘り返したら、それ以上にブルーになっちゃいそうで。でも、それは間違いなんです。やっぱり、失敗したからには、失敗してしまった理由がどこかに必ずあるはずなんです。それなのに、その失敗した原因を見直すことをしなかったり、わざと見ないようにするのは、たしかに、一時的には、失敗を見つめなおすという苦しみからは、逃れることが出来るかもしれないんですけど、実は、あんまり意味はないんです。なぜかと言うと、その反省の部分をいい加減に済ませてしまうことで、また同じ失敗を繰り返してしまうからなんです。だから、失敗した後は、心が少し落ち着いた時に、失敗した理由を、トコトン考え抜かなければならないんです。考えたくない気持ちはよく分かるんですが、そこをグッと我慢して、なぜ失敗したかを冷静に考えてみてください。テストの点数が悪かったことを例に取るならば、どの分野を理解していなかったのか。その分野を理解するためには、どうすればよかったのか。テストまでの勉強方法は、きちんと計画を立てて出来ていたか。試験勉強のために、十分な時間を取ることが出来ていたか。自分に甘えていなかったのか。もっと努力する事が出来たんじゃないのか。こうやって、冷静にひとつひとつ振り返ってみると、自分が悪い点数を取ってしまった理由が、少しずつ分かってくるはずなんです。そして、自分が失敗した原因や理由を理解することが出来れば、次回は、前回よりも必ずいい点数を取ることが出来るはずなんです。なぜかと言いますと、失敗の原因となったミスや過ちに気がつくことで、次回のテストの準備段階では、同じミスを繰り返さないように気をつける事が出来るからです。そして、そのような過去の失敗を生かして、しっかりと準備してのぞんだテストの結果は、必ず良い方向に向かうからなんです。そして、これと同じことは、すべての失敗に当てはまるわけなんです。■「結果」に関わらず、頑張った自分を褒めてやるさて、失敗をした時に、冷静に考える事の重要さをここまで述べてきましたけど、あまりに大きな失敗をした時って、冷静に考える事すら出来ないですよね。僕もいまだにそうなんですけど、大きな失敗を経験すると、すごく落ち込んで、失敗したという現実から逃げてみたり、何もやる気がなくなったりするじゃないですか。”もうどうでもいいわぁ”とか”やっぱり私ってダメな人間なんだぁ”とか嘆くしかなくて。でも、そういう時って、自分が、一体何に対して落ち込んでいるのかって考えたら、意外に、元気が出たり、よし、もう一回頑張るかと思えたりするものなんです。どういう事かと言いますと、こういうふさぎ込んでいる状態の時って、(前回のブログの内容と関連付けて説明すると)目標に向かって、かなりの時間と努力を費やして頑張ってきたのに、結果的に、失敗に終わってしまったことで、自分に対する「自信」や将来に向けての「前向きな姿勢」を完全に”見失ったり”、”自分で壊してしまったり”してるんです。だから、もう一度、頑張ろうという気になれない。決して、それらを”失った”わけではないのに・・・・。では、なぜ、見失ったり、壊してしまったりするかと言うと、それは、僕たちが、目先にある「結果」だけで、「頑張ってきた自分」を証明しようとするからなんです。例えば、あなたが、大学受験に失敗した時のことを考えてみてください。結果だけ見れば、1年間頑張って勉強してきたのに、第一希望の大学に入れないという事は、すごくショックなことです。僕も現役と浪人合わせて、東大に4回落ちてますからねえ。その気持ちはよく分かります。でも、よくよく考えてみると、合格か不合格かは、単なる試験の「結果」にすぎないわけなんです。受験までの長い期間、苦しい時も辛い時も、自分を励まして頑張ってきたことや、人の見えない所で努力を続けてきたことは、誰よりもあなた自身が知っているはずですし、その「頑張ってきたあなた」は、「結果」がどうであろうと変わることはないんです。それなのに、そんな「頑張ってきた自分」を、一番知っているはずの「自分」が、単なる”悪い”「結果」だけで否定してしまうから、自分に対する「自信」や、将来への「前向きな姿勢」がなくなってしまうんです。だから、失敗してどうしようもないくらい落ち込んでいる時、”悪い”「結果」が出たという理由だけで、「頑張った自分」を否定している自分に気がついたら、それまでに「頑張ってきた自分」を思い出して、その「自分」を思いっきり褒めてあげて下さい。そして、そんな「自分」に対して、思いっきり胸を張って「自信」を持って下さい。頑張ってきたあなたは、最終的な結果に関わらず、昔のあなたよりも確実に成長しているはずですから。■悪い「結果」を10年後の自分から楽観的に見つめる「結果」は、時には非情なものだと思うんです。自分がどれだけ頑張ってもどうにもならない事や、神様のイタズラなんかで、そういう結果になるように運命付けられている事もあると思うんです。僕自身の経験から言いますと、大学受験失敗は、実は、いまだに納得がいかない失敗なんです。現役の時から、模試の合否判定も良かったし、担任からも大丈夫だろうと言われていました。浪人時代も、かなり成績はよかったし、実際の入試でもかなり手ごたえはありました。ですから、なぜ落ちたかという理由が、入試の後も全くわかりませんでした。でも、結果的には、4回東大を受験して、4回とも不合格だったんです。うん、納得いきませんよね(笑)まあ、今でこそ笑えますが、入試が終わった後は、自分の人生を呪ったものです。”なんで俺だけこんなつらい人生やねん””あんなけ頑張ったのになんでやねん””世の中で俺が一番不幸なはずや””神様なんてクソくらえ!!”本当に何もかもやる気をなくして、廃人のような生活をしていましたよ。でもね、この大学受験不合格という”大失敗”も、この当時から4年たった、現在の自分(今の僕)の立場からもう一度振り返ると、当時の僕からは考えられませんけど、こうやって自分以外の人に、冗談めかしにしゃべれるようになるんですね。それに、今では、あの時、東大に落ちてよかったとさえ思っているんです。こうして、アメリカで楽しい生活を送れて、東大に行っていたら、一生経験できなかったであろう事を、いっぱい経験できましたからね。つまり、何を言いたいのかと言いますと、今自分が乗り越えれそうにないと思っている失敗って、実は、10年後の自分からしてみれば、そんなに大したことじゃないっていうことなんです。しかも、将来的に長い目で考えたら、今、真剣に悩んでいる失敗が、結果的に、今後の自分の人生にとってプラスに働くことが、大いにあるということなんです。例えば、僕の10年前の大失敗といえば、中学校1年生の時に、当時好きだった女の子にラブレターを渡すつもりが、あやまって廊下に落としてしまい、それに気づかずに、友達に拾われ読まれてしまい、さんざん冷やかされた事です。いや~、あの当時は、本当に死にたいと思いましたね。ことあるごとに、ネタにされましたし、その女の子とは、当然、付き合うこともなく・・・・(涙)でもね、これも今となっては、友達と酒の場に行けば、自分からネタにする話ですし、すごく”貴重な”体験なわけです。誰でも経験できることじゃないし、こういうネタっていっぱい持ってた方が、絶対に得なんです。大学に入った後も、合コンとかで、ネタとして使えますしね(笑)ただ、当時の僕からしてみたら、これは一大事だったわけで・・・・。だから、今あなたが直面している失敗が、あなたにとってあまりにも大きすぎて、今の自分ではどうしても乗り切ることが出来ないと感じる時には、ぜひ、10年後の自分を思い浮かべて、その自分になって、今の失敗を思い浮かべてみてください。10年後のあなたにとって、今あなたが悩んでいる失敗は、そんなに大きな失敗でしょうか。その失敗があったから、あなたの人生は、10年後もメチャクチャなままでしょうか。そんな事はありえないはずなんです。楽観的に自分を見つめなおして下さい。若いうちの失敗なんて、そんなに大したことはないんです。どうにでもなるもんなんです。そう考えてみると、なんか真剣に悩んでる自分がおかしくなってきて、”もう一回頑張ってみるか”っていう「前向きな姿勢」になれませんかね??■失敗を経て、ヒトは強くなるさて、今日のブログも、かなり長くなってしまいましたが、そろそろ終わりにしたいと思います。最後に言っておきたいなあって思うことは、「失敗を経て、ヒトは強くなる」っていうことです。これは、絶対に間違いないです。しかも、いっぱい失敗した方が、絶対に強くなれると思います。よく、”若い頃の苦労は、買ってでもしろ”って言われますけど、それと同じような事だと思います。”若い頃の失敗は、買ってでもしろ”です!!!!失敗したら、辛いし苦しいし、落ち込んでしまいます。その上、残念な事に、いくら年齢を重ねたとしても、失敗する事は終わらないんです。たぶん、死ぬまで、ヒトは失敗し続けるんです。ですから、これからも、ドンドン失敗して落ち込んで、自分に対する「自信」や未来に対する「前向きな姿勢」をドンドン見失って、ドンドン壊していけばいいんです。オトナになっても、みんな、日々それの繰り返しなんですから。でも、その失敗を経験する度に、今日このブログで僕が言った事を、そして、今日のこのブログに対して、読者の皆さんが書き込んでくださるであろうメッセージを、自分の心の中で繰り返して、失敗を乗り越えて行ってください。そして、自分に対する「自信」と未来への「前向きな姿勢」を、より強固なものへと成長させていってください。失敗を繰り返せば繰り返すほど、そして、その失敗を乗り越えれば乗り越えるほど、「自分の心」は強くなっていくはずですから。お疲れ様でした。今日はこれで終わりです。
2005.07.09
コメント(26)
アメリカでは、今日、独立記念日でした。というわけで、何か”特別な事”をしたかというと、何も”特別な事”をしたわけではなくて、友達の誕生日パーティーに行って、飲んで歌って踊って騒いでと、はしゃぎまくってまいりました(笑)ただですねえ~今日のパーティーでは、”特別な出会い”がございまして・・・・(ウフフフ)フランス人と日本人のハーフのアンナちゃんとお友達になったんですが・・・・・・・・いや~、カワユイのなんのって・・・笑というわけで、パーティーの後、ちゃっかりと電話番号をゲットしまして、”今週、もし時間あるなら、どっかでご飯でもどう?”って帰り際に誘ったら、なーーーーーんとですね~”うん、いいよ。今週の水曜日なんてどう?前から行きたかった素敵なレストランとバーがあるから、一緒に行こうよ”ですってーーーーーーーーーーー!!!!!マジっすか~!!!!!(興奮気味に!!!!)というわけで、即答で、OKしたんですが・・・・・アカーーーーン、ピーーーーンチ!!!おれっち、木曜日は、大切な投資のクラスの中間テストだった・・・・どないしたらええねーーーーーん!!!!!!なんかアンナちゃん、今週は忙しいらしく、水曜しか空いてないみたいだし・・・・。でも、せっかくアンナちゃんから誘ってもらったししかも、あんまり間が空きすぎるよりは、数日後に会って、より仲を深めた方が、何か進展もあるだろうしね~。うん、絶対そうだ!!!そうに決まってる!!!というわけで、今週の水曜はデートに行くことに決めて、今日と明日は、睡眠3時間で、勉強に励むことに致します。気合だ気合だ気合だ気合だ~!!!!(アニマル浜口風)って、俺、なんでブログ書いてるんだ・・・・(笑)_____________________________________それでは、本編です。今日は、高校生に限った話ではなく、生きていく上で、絶対必要となるであろう「頑張れる能力」について、考えていきたいと思います。この能力って、よく根性や気合という言葉で置き換えられたり、スポーツの世界なんかで頻繁に使われていますよね。僕は、サッカー部に中高6年間所属していましたので、すごくその意味は分かります。監督からも、最後まで諦めずに頑張れと厳しい声をかけられたものです。ただ、僕は別に、この能力って、運動からだけ学べるものとは思っていないんですね。何を言いたいのかと言いますと、このブログのテーマである”勉強”からも学べるということなんです。■何かを成し遂げた”成功”体験を積み重ねる簡単に言いますと、”あ~、これはもうダメかもなあ。 ここまで頑張ってきたけど、もう最後までやるの無理っぽいなあ。 しんどいしなあ。ここであきらめたら、あとは楽できるしなあ。 どうしよっかなあ。 あきらめようかなあ、それとも、もうちょっと頑張ろうかなあ”っていう、本心では今すぐあきらめて楽になりたい状況において、でも、決してあきらめないで、つらくてしんどい中、最後の最後まで努力を継続させて、最終的に目標を”達成する”という経験を積み重ねることで、この能力は身につくと、僕は思うわけです。そして、高校生などの若い世代においては、”最終的に目標を達成する”というこの”成功体験”こそが、まさに、ポイントになってくると思うんです。”結果”は重要じゃない、結果に至るまでの”過程”が大事だなんて言いますけどこれは、ある意味正しくて、ある意味、嘘だと僕は思っています。と言いますのは、過去における、努力の末の”成功体験”から、僕たちが得ている大きなモノは、自分自身に対する「自信」と、未来に対する「前向きな姿勢」だからです。具体的に分かりやすく説明しますと、あんなに辛くて苦しい経験を乗り越えた自分なんだから、今、向かい合っている、一見苦しそうな困難も、努力すれば、きっと乗り越えられるに違いないという自分への「自信」と、今までも、なんだかんだ言って、頑張って努力して、色々な困難を乗り越えられたんだから、今回の困難も乗り越える事が出来るに違いないという「前向きな姿勢」です。この二つがあれば、人間って、「頑張れる」んですよね。ただし、これは、いくら頑張って努力したとしても、”成功体験”がなければ、「自信」も「前向きな姿勢」も生まれるわけがないんです。失敗したら、誰でも自信を失って、後ろ向きな気持ちになるものなんですから。でも、世の中って面白いもので、一度失敗したら、もう一度チャレンジ出来ない事って、ほとんどないわけです。つまり、あきらめさえしなければ、何度でも何度でもチャレンジできるわけです。つまりは、”成功するまで”頑張ればいいわけなんです。しかし、”成功するまで”頑張るためには、過去の成功体験から得た「自信」と「前向きな姿勢」がなければ、失敗を乗り越えることは出来ませんよね。だから、普段から、小さい目標を自分の中で作って、そして、それを自分で達成することを積み重ねて、自分に対する「自信」と、未来に対する「前向きな姿勢」を日々の努力で、築き上げていくしかないわけです。■学校の勉強は、小さな目標を作りやすい例えば、英語の単語テストや国語の漢字テスト。こういうのって、暗記力うんぬんじゃなくて、前に日に勉強したかしなかったかで決まるわけですよね。クラブで疲れて眠たいところを、頑張って勉強するかしないか、見たいテレビを少しだけ我慢して、英単語を覚えることができるかどうか、ゲームを寝る直前まで続けたい欲望をかき消して、机に向かえるか否か。こういう何気ない日常生活の中で、自分を律して勉強出来るかどうかで、実は、「頑張れる能力」を養う機会を、生かせている人と生かせていない人の差が、歴然と生まれてしまっているんですね。小さな事でも、それを積み上げていけば、それは自分の中での”成功体験”に生まれ変わるはずなんです。そして、”小さな成功体験”で得た「頑張れる能力」は、将来の”大きな成功体験”を連鎖的に生み出していくわけです。勉強を例に取るならば、英語の単語テストでいい点数を取り続けている学生は、おそらくは、中間テストや実力テストの点数も伸びてきて、自分が目標としていた所までたどり着くことが出来るんですね。そしたら、次は、もっと上のレベルを目指すようになって、どんどんステップアップしていけるわけです。そして、一つの分野であったとしても、「頑張れる能力」をトコトン鍛える事が出来たとしたならば、これってすごく便利で、どんな事にでも応用していけるわけですよ。よく、高校なんかで、部活動に入っていた学生は、大学受験でもいい結果を残すなんて言われることがありますけど、これって、実は、「頑張る能力」が関係しているわけですよ。野球であれだけ頑張れたんだから、受験勉強でも頑張れるに違いない。こう思えるかどうかで、勝負って決まってしまうんですよね、きっと。要は、何でもいいんですよ。自分の好きなことで、自分自身に挑戦すればいいと思います。クラブでもバイトでも、バンドでも彼女に対する愛情でも。もう無理っていうとこで、どれだけ頑張れるかですから。勉強は、そのうちのひとつに過ぎないわけです。でもまあ、普通に考えたら、学生の間は、学校に一番長いこといるわけですから、これを利用しないというのは、もったいない気がしますがねえ。■「充実感」という”ごほうび””結果”は重要じゃない、結果に至るまでの”過程”が大事だっていう言葉が、やっぱり、本当なんだなあって、あらためて実感したエピソードで、今日のブログを終わりにしたいと思います。たぶん、見られた方も大勢いられると思いますが、Wカップアジア最終予選の、イラン戦後の、中田英寿選手と村上龍さんの対談の中で、中田選手が言ってたんですけどね。話を要約すると、中田選手がサッカーをやっていて、一番楽しいなあって充実感を感じるのは勝った負けたに関わらず、”あ~、もうこれ以上俺動けないし、これ以上の事は出来ないなあ”って言うぐらい、今まで自分がやってきたものを全て出し切って、ピッチで倒れている瞬間なんだそうです。う~ん、なるほどなあって思ってしまいました。これだけ頑張ったんだから、もう何も考えられない。結果なんてどうでもいい。まずは、ここまで頑張れた自分を褒めてあげたい。そういえば、マラソンの有森選手も同じ事を言っていましたよね?こういう経験を一つでも多くしていきたいものです。よし、勉強だ!!!!
2005.07.05
コメント(43)
アメリカでは、週明けの月曜日が独立記念日で祝日なので、今週末は、ちょっとした連休モードです。というわけで、僕も、今週末はの~んびり過ごせるなあって思ってたわけなんですが、来週早々に、今取っているクラスの中間テストみたいなものがありまして、今週末は、そのお勉強で、すべて過ぎ去ってしまいそうな勢いです(涙)でも、大学でテストを受けるなんていうのも、たぶん、僕の人生で、残り半年で最後になるかもしれないわけで、そう考えると、ちょっと感慨深くなっちゃって、いつも以上にやる気が出てしまいます!!!って、僕って、少し単純でしょうか??(笑)ではでは、本編です。■僕の大好きな先生僕は大好きな先生が一人いるんですよ。中2と中3、そして、高3の時に担任を持ってもらった男の先生なんですが。(中高一貫校に通っていたので)この先生とは、今でもすごく仲良くさせてもらっていて、僕が大阪に帰ったら、一緒にお酒を飲んでくれる先生なんですけどね。すごく生意気だった僕も(笑)中学時代から、この先生の言う事だけは、なぜか聞いてしまっていたわけなんですね。当時は、この先生のことは好きだから、とりあえず、この先生の言う事だけは聞いておこうって単純に思ってただけなんですが、卒業してから、よくよく考えると、この先生の事が好きだった理由って、やっぱりちゃんとあるんですよね。まず、この先生。絶対に自分の意見を押し付けないんです。しかも、まずは、生徒の言いたい事を全部聞いてくれるわけです。”もう言う事ない?”っていう所まで。そして、その後に、・高校生当時の自分が、その事についてどう思っていたか・オトナの立場として、それについてどう思っているか・両親の立場なら、それについてどう思うのか・担任の先生として、それについてどう思っているのかなどなど、その時に応じて臨機応変に、色々な立場の人間の意見を提示してくれるわけです。でも、絶対に、どう行動して欲しいだとか、どうやってほしい、どうなってほしいとかは言わないんです。今のお前がそう思うならそうしたらいいし、納得出来ないなら、自分が思うように行動したらいいよって。そして、また悩み事があったら、相談に来たらいいよ。話はいつでも聞くからねって。高校生ぐらいの時って、それが正しいとわかっていても、先生や親から押し付けられたら、逆に反抗したくなる時ってあると思うんですね。本当に自分が正しいと思っている事とは逆の事をしたり、ワザと怒られるような事をしてみたり。でもね、これをやれとか、こうしろって言われるんじゃなくて、これについては、これだけの考え方や選択肢があるけど、それらを考慮して、もう一度、自分で考えてごらん。そして、自分が思うとおりにやってごらんって言われたら、いくら反抗期まっさかりの高校生も、ちょっと冷静になって、考える事が出来るんじゃないかと思うんですね。(まあ全ての高校生とは言いませんが・・・・)■考える機会と選択肢を与えてあげるということ両親や先生から、もっと勉強しなきゃダメでしょって言われた事がある人は少なくないはずです。大抵の高校生は、まあ、嫌々ながらも、多かれ少なかれ、勉強する事になるとは思うんですが(?)、これって、実はあんまり意味がないと僕は思っています。なぜかというと、当の本人は、なぜ勉強しなければならないと言う意味を、まったく理解していないからなんです。確かに、先生や親が言うように「高校生の時に勉強する」っていう事は、「正しい」ことなの”かもしれない”けれど、当の本人の中で、「正しい」と納得出来ていなかったら、なかなか勉強する気にはならないでしょうし、高校生にしてみれば、「正しい」”かもしれない”ことを、「やらされている」だけに過ぎないんですね。そりゃあ、やる気も起こりませんし、能率も上がりませんし、逃げ出したくもなりますよ。これは高校生に限った事ではなくて、すべての人に当てはまる事だと思うのですが、誰が自分にとって理不尽な事をしようと思うでしょうか。いきなり、運動場に穴を掘れって言われて、誰が掘るでしょうか。勉強と同じように考えるなって言われそうですけど、たぶん、高校生からしてみたら、これと同じ感覚なんだと思いますよ。「穴を掘る」意味も、「勉強する」意味も、分かっていないんです。話が少しそれましたが、結局、何が言いたかったのかと言いますと、高校生に語りかけるときに大切な事は、僕の大好きな先生が実践してくれたように、”考える機会と選択肢を示してあげる”ことだと僕は思うんです。具体的に言うならば、”君が今悩んでる問題については、 たぶん、1から10の解決策があるような気がするから、 それについて、一度自分で考えてごらん。 もしかしたら、これ以外の解決策が見つかるかもしれないし。 その上で、自分が納得出来るものを選んで行動すればいいよ”ってな感じが、ベストなわけです。なぜかというと、こう言われれば、自分で考えざるを得ないですし、自分で考えた上での行動ですから、納得した上で行動に移せますし、また、少しばかりの責任感も芽生えてくるはずなんですね。■心に届くメッセージとは言え、まだまだコドモの高校生ですから、間違った判断を下すことも多いと思うわけです。高校生の自主的な判断にすべてを任せていると、一時的な感情やその時の周りの雰囲気に流されて、卒業してから何年後かに、”あ~、あの時こうしてればよかったなあ”なんて思ったりする誤った判断をしてしまう事もあると思うんです。でも僕は、逆説的に聞こえるかもしれませんが、だからこそ、先生や親御さんがいると思うんですね。全ての選択肢を示してあげた上で、子供に考えさせてあげるんですけど、その時に、あまりに間違った方向に行かないように軌道修正したり、もしくは、たぶん、こうした方がいいんじゃないのかなあみたいなメッセージを暗に送ってあげる。もしくは、選択肢の中に、子供たちが気づくように、そのメッセージを込めておいてあげる。決して、押し付けではなくて、参考になる程度に。たぶんね、先生も親御さんも、僕の高校の時の先生も含めて、こうすればいいじゃないとか、なぜこうしないのって言いたいと思うんですよ。でも、そこをグッと我慢して、子供たちに考える場を与えてあげて、子供たちが、自分で答えを見つける事を信じてあげる。そして、子供たちが、先生や親が伝えたかったメッセージに自分自身で気づく事が出来た時、はじめて、そのメッセージは、子供たちの心に届いたと言えるんじゃないですかね。そのメッセージ通りに行動するかどうかは別にして・・・・。そういう意味では、心に届くメッセージって、言葉には出来ないメッセージなのかもなあ、なんて思っちゃいます。■これでおしまいです今日も長いブログを読んでくださいましてありがとうございました。また、色々とご意見聞かせて下さいね。あと、今日の冒頭では、今週末は勉強漬けだ~みたいな事言ってましたが、友達から電話があったので、今から、パーティーに行ってきます(笑)うん、リラックスタイムも必要だよ、高校生諸君!!!えっ、リラックスだらけだって??・・・・・・・・・行ってきます・・・・(笑)
2005.07.03
コメント(14)
日本は、相変わらずの猛暑なんでしょうか。カリフォルニアのバークレーは、水曜日あたりから、夏らしい気候に戻ってきたんですが、週の前半は、メチャンコ寒かったです・・・。夜なんて、あまりに寒くて、クローゼットの中から、毛布を出してきたくらいですから。こっちって、湿気がない分、夏でも日が差さない曇りの日は、冬みたいに寒いんです。でも、今日は、すごく気持ちのいい夜を過ごしています。クーラーをかけなくとも、窓を開けっ放しにしてるだけで、スーっとした涼しい風が部屋に入ってきて、遠くに車の走る音が聞こえて、それ以外は、シーーンと静まり返っていて・・・・。う~ん、この涼しさを、日本の皆さんにお届けしたいです。ではでは、本編です。前回も、色々なコメントありがとうございました。自分のコメントも含めてですが、30件を超えた事にはビックリしました。色々な方と意見を交換することで、自分が見えていない部分が見えてきたり、特に、現在の所、このブログを読んで下さっている方が、お子さんをお持ちの方が多いので、興味深い意見が多くて、すごく勉強になっています。これからも、どうぞよろしくお願いします。■(2)の充実感について前回のブログで、僕は、「オトナの幸せ」のポイントは、以下に挙げる2つのバランスから成り立っていると考えました。(1)自分の仕事から充実感を得ることが出来ている(2)仕事以外の事から充実感を得ることが出来ているそして、中高生の間は、(2)の充実感を得る事を考えるよりも、オトナになった時に、(1)の充実感をいかに得る事を考えるた方がいいんじゃないの?だって(2)の充実感を得るよりも、(1)の充実感を得るほうが難しいんだから。というところで終わっていたと思います。皆さんのコメントを読ませていただいて、正直、意外な所で、(2)の充実感についての相違があるんだなあって感じました。というのも、僕が(2)の充実感っていう言葉で示そうとしたことは、例えば、趣味でやってる週末のサッカーから得る事が出来る充実感であったり、友達と旅行に行く楽しみだったり、仕事以外の時間で、自分が楽しいと感じるからやっている行為についてだったんです。ただ、皆さんのコメントを読んでいると、僕が意図した事とは別の、もっと人間としての根本的なもの。家庭の関係だったり、友達関係だったり、人間生活の根幹を成す部分を意図していると思われたようで。確かに、あの分類分けだったら、そう思うのが普通なのかなあって、少し自分の表現力のなさに反省した次第です・・・(汗)そして、それについて、僕の思う所を書きますと、そういう人間として生きていく上で、絶対に欠かせないモノ。家族の愛とか、友情、そして、人との信頼関係やコミュニケーション能力。他にも、挙げていけば、もっとたくさんあると思うんですけど、そういうのって、当たり前ですけど、(1)の仕事の充実感なんかよりも、全然大切なわけですよね。うん、それには、全くもって同感です。そういう人間としての基盤が出来ていなかったら、仕事云々の話じゃありませんしね。ただ、僕としては、そういう部分は、正直、当たり前と言うか、最低の前提条件として考えていた所があったんですね。その部分まで言及していたら、本論である「なぜ勉強しなければならないのか」という所になかなかたどり着けませんし、”例外”を言い出すと、正直、キリがないわけです。でも、ここで、例外なんていっちゃうと、じゃあ聞くけど、例外があるっていう事は、あなたの中には、そもそも、メッセージを伝えたい「対象」というか「基準」みたいなものがあるの?っていう話になるじゃないですか。■メッセージを届けたい「対象」は誰なのか?これに関しては、僕の中でもかなりファジーな部分がありました。「すべての中高生に理解してもらいたい」なんて心の中で思って、そう口にしているわりには、自分がメッセージを届ける「仮想の対象」にしているのは、高校生時代の自分や、自分の高校に通っていた当時の友達だったりするわけです。かなり限られた「仮想」ですよね。だからこそ、(2)の充実感の定義も、皆さんが考えられた定義とは異なったものになってしまったわけです。客観的に考えても、僕は小さい頃から、すごく恵まれた環境(経済的な意味でも)で育ってきたと思います。小さい頃から、人間としての優しさや他人を思いやる心、コミュニケーション能力、前向きで明るい姿勢、努力する能力などなど生きていくために必要な力を、両親からひとつひとつ教えてもらいました。また、両親からは、勉強しろとは一度も言われたことはありませんし、勉強は、自分が必要だと思えばすればいいし、そう思わなければ、しなければいいと言われ育ちました。自分の人生なんだから、自分らしく生きればいい。大学にも、行きたくないなら行かなくてもいい。勉強より大切な事は世の中にはいっぱいあるし、勉強なんかできなくても、立派に人生は生きれるんだと。でも、勉強することは、すごく楽しいし、人生で勉強が終わることなんてないんやで。まあ、その勉強の楽しみは、自分で探したらええよ。見つかったらエエなあ。こんな事を、口癖のように話す両親に育てられました。教育環境も最高だったと思います。中学から私立に入れてもらい、学級崩壊や体罰、イジメ問題なんかからは、ほど遠い、というか、全く別の世界で中高生活を送りました。文武両道が成り立っている中学・高校で、今から考えても、理想の中高だったと思います。色々な事で悩むことはあっても、家族には愛を持って育ててもらったし、友達関係はすごく円滑だった。信頼できる先生にも出会えた。好きな彼女もいたし、クラブ活動も楽しかった。本当に恵まれていたと思います。話が随分それましたので、元に戻しますと、結局は、不特定多数の中高生に訴えかけようとしている割には、心の中では、このような中高時代の自分を仮想の中心において、自分と同じような高校に通っている中高生を対象にして、話を進めようとしていたわけです。では、このような仮想対象は、どんな問題を抱えていたんでしょうか。簡単に言いますと、非常に恵まれた環境で育っているにも関わらず、「なぜ毎日学校で勉強しているんだろう」「毎日楽しいけど、自分は将来何をしたいんだろう」「この勉強って、やって意味あるんだろうか」「オトナになるって、どういうことなんだろうか」こういう素朴な疑問は、解決できなかったわけです。というか、当時の僕は、こんな疑問すら持つことがありませんでした。毎日充実していて、すごく楽しいし、ということは、東大に入ったら、もっと楽しいやろうし、すべては、ハッピー。そう思って、高校生活を送っていましたから。まあ、結果的には、東大を不合格になって、ちょっとばかりの波乱万丈があって、今に至るわけですが、たぶん、さっき挙げた疑問や問題を、しっかり高校時代に解決できていないから、大学入試に失敗したぐらいで、人生が終わったみたいな感覚に陥ったわけですよ。(まあ、結果的には、その経験が、今の僕を作ってくれたわけですが・・・)実際の所、大学入試の結果に関わらず、こういう事を、高校時代に考えることって、たぶん、メチャクチャ大事だと思うわけです。半年後や1年後を見て生きるよりは、絶対に、10年後、20年後を、もしかしたら、もっと先を見据えて生きれるに越した事はないわけです。(まあ、どこまで高校生に求めるかは別問題ですが・・・)なぜかというと、”今自分がやってること”に、より”深い意味”が出てくるからです。高校で野球やってる男の子を例に出すなら、3ヵ月後の大会で、レギュラーになるために練習するのと、2年後に、ドラフトで選ばれてプロになりたいと思って練習するのと、日本のプロ野球で活躍したいと思って練習するのと、イチローみたいにメジャーリーグで活躍したいと思って練習するのと、イチローを超えて、新たなスターになりたいと思って練習するのでは、全然、目の前の事に対する取り組み方が違ってくるじゃないですか。そして、僕の意見としては、(出来るだけ遠くの将来を見る)≒(夢を持つ)だと思うわけです。もちろん、夢なんて簡単に見つかりませんから、夢を持つにはどうしたらいいかなんかも、これから考えていきたいわけなんですけど・・・・。なんか長々と書いて、まとまりがなくなってきましたが、結局、僕がメッセージを伝えたい「対象」は、高校時代の自分のような高校生や、・なんとなく勉強はしている、 もしくは、進んで勉強はしているが(≒成績は良い)、 →いまいち勉強する意味がわからなくて、悩んでいる高校生 →勉強する意味を、今まで考えた事がない高校生 →勉強とは、一見関係のない明確な夢をもっているために 勉強することに意味を見出せない高校生 →将来の夢を持っていない高校生・勉強とは関係のない明確な夢を持っているために勉強をしない高校生・夢もないし、勉強する意味も分からないので、勉強をしない高校生だと思います。今日は、時間がなかったので、今、思いついた高校生の特徴だけをここにあげましたが、対象を明確にすることで、その対象ごとに、具体的なメッセージを発することが出来ますし高校生を分類する「軸」をより明確にすることで、今以上に、説得力のあるものを作っていけるような気がしています。また、今後の議論では、今まで一緒に考えてきた中学生は、対象外にしようと思っています。やはり、中学生と高校生は、すべての点において違いすぎますし、一緒に論じることは、少し難しいと考えました。■お疲れ様でした。というわけで、今日はこのへんで終わりにしたいと思います。今日も、長いブログを最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。今日は、「誰に届けるメッセージなのか」と言うことを、自分なりに論じましたが、またご意見やご感想がありましたら、コメントとして残していただけたら幸いです。これからも、この議論に多くの方が参加してくださる事をお待ちしております。
2005.07.01
コメント(8)
日本は、ここ数日すごく暑いみたいですね。東京の友人から、昨晩電話がありまして、暑くて食欲もない上に、体がだるくて、何もする気が起きないと・・・・。というわけで、睡眠で体のダルさを紛らわせようと思ったら、今度は、部屋にクーラーがついていないがために、あまりの暑さで、眠ることも出来ないと嘆いておりました(笑)僕のこの友人、果たして、夏を無事に乗り越えることが出来るのでしょうか?一方、こちらバークレーはと言いますと、昼間はさすがに日差しが強く暑いのですが、日本とは違って、湿気がほとんどない分、カラッとした暑さで、とても気持ちが良い毎日です。木陰に入るだけで、ヒンヤリした風が吹き抜けて、夏の暑さを忘れさせてくれます。この季節になると、木陰に入って、ウトウトしながら本を読むのが、僕の楽しみの一つでもあります。慣れれば、芝生の上も、なかなか寝心地がいいもんです。はい(笑)あと、朝晩は寒いぐらいに気温が下がるので、寝苦しいなんてことはまずありません。こっちに来てから、ほとんどクーラーを使った記憶もないですしねえ。というわけで、この季節は、絶対、カリフォルニアをお勧めします!!!ぜひぜひ、皆さんも一度は遊びに来て下さいね。さて、前回の続きです。前回は、”幸せなオトナと不幸せなオトナの違い”を中高生に説明するとしたら、どのように説明しますか?という問いで終わっていたと思います。そして、僕自身の回答としては、「自分の仕事から充実感を得る事が出来る人は 幸せなオトナで、 仕事からは充実感を得ることは出来ないが、 それ以外の事から充実感を得ている人は、 不幸せなオトナである」という少し強引過ぎる定義で終わっていたと思います。まあこれは、ある意味正しくて、ある意味、少し無理がある答えなわけですが、今日は、前回、話すことが出来なかった事も含めて、「幸せなオトナ」について、少し議論を深めていきたいと思っています。まず僕は、「幸せなオトナ」を考える上で、大きく分けて2つのポイントがあると思っています。そして、その2つは、当たり前過ぎるんですが、以下に挙げるものです。(1)自分の仕事から充実感を得ることが出来ている(2)仕事以外の事から充実感を得ることが出来ている (家庭やプライベートetc)前回のブログの最後では、あえて(1)を強調して、(2)を無視したかのような答えにしておきましたが、(あえてそう言った意味は、 今日の後半の内容でお分かりいただけるはずです)実際は、正しくないと思っています。世の中には、言うまでもなく、色々な価値観を持った人がいるわけで、ある人は、(1)をより重視するでしょうし、またある人は、(2)をより重視するでしょう。そして、一人の人間を例にとっても、(1)と(2)のバランスは、その人の人生の中でも、どんどん変わっていくはずなんです。ある人は、40代までは(1)を重視した人生で、それ以降は、(2)を重視した人生にシフトするだろうし、定年を迎えるまでは、(1)中心の人生で、それ以降は、自分の趣味の世界の(2)の方へとシフトする人もいる事でしょう。以上のことから、これまた当たり前の事なんですが、いかに中高生にわかりやすく説明しなければならないとは言え、これが、中高生のみんなが目指すべき「幸せなオトナ」のモデルですなんて、簡単に提示する事は出来ないということなんです。なぜなら、世の中には、自分に適した様々な(1)と(2)のバランスを持った幸せなオトナが存在するわけですし、「幸せなオトナ」になるためには、ひとりひとりの中高生が、自分の人生の中で、自分に適したバランスを見つけるしかないわけです。しかし、中高生にとって重要な事は、コドモ(彼ら)がオトナになった時に、(1)と(2)のあらゆるバランスの「幸せなオトナ」になる可能性を持っているかどうかだと思うわけです。どちらか一方の充実感しか得る事が出来ないのではなく、どちらからも充実感を得ることが出来る状態で、コドモからオトナへと成長し、そして、自分の人生の中で、自分なりに、人生のバランスを考えていける”人生”が、僕は、一番幸せな人生だと思っています。そして、そのようなあらゆる可能性をコドモに持たせてやるためには、どうすればよいのかということを考えるのが、オトナの役割だと思うのです。では、ここで今日の質問です。Q.オトナになった時に、(1)と(2)のあらゆるバランスの「幸せなオトナ」になる可能性を持つためには、中高時代にどうすればよいのでしょうか。僕の回答は、簡潔に言えば、(1)の充実感を得るにはどうすればよいかをまずは考えましょうと言うでしょう。そして、(2)の充実感の方は、後回しにして考えてくださいと答えるつもりです。(これが、前回の少し強引な回答の真意です)なぜなら、(2)の充実感を得るよりも、(1)の充実感を得る方が難しいと思うからです。実際、世の中のオトナを見る限り、(1)の充実感を得ることが出来ないから、(2)の充実感を強調したり、その不足を(2)で補おうとしたりする人が、とても多いように感じられますし・・・・。皆さんはどう思われるでしょうか?様々なご意見をお待ちしております。
2005.06.26
コメント(42)
さて、アメリカに帰ってまいりました。サンフランシスコの空港に着いたのが、昨日のお昼の11時過ぎで、昼の1時から、さっそくバークレーで授業があったので、空港から直行で、授業を受けてまいりました。無理を聞いてくれて、空港→バークレー→2時間待機@バークレー→我が家というメチャクチャなスケジュールを車を出して、僕のために過ごしてくれたシャロン。本当にありがとうね。感謝感謝です!!!明日あたりに、お土産の扇子を、シャロンのマンションの方に持っていくから、楽しみにしといてね!!!ってか、絶対、このブログ読んでないだろうな~(笑)いや、読めないっす!!!(不可能だ!!!)感謝といえば、前回の内容に色々とコメントを下さった皆さん。本当にありがとうございました。色々なバックグラウンドを持った方が、様々な視点から意見交換をする事で、より議論が深まっていくと思いますので、これからも、どうぞよろしくお願いします。さて、これから数回は、「幸せな人生とは」というのが大きなテーマなんですが、まずは、「コドモとオトナ」の違いを、このブログの趣旨に沿う形で、定義しておこうと思います。世の中では、コドモとオトナという言葉は、様々な使われ方をしていると思いますので、正確な定義付けをする事は、非常に難しいことだと思うんですけど、このブログの上では、次のように定義したいと思います。「コドモ」……生きていく上で、自分で働く必要がない人間「オトナ」……生きていく上で、自分で働かなければならない人間 すごく単純ですが、これだけの定義で、今後のすべての議論(ブログの趣旨に沿った中高生向け)は、十分に成り立ちます。ただし、何らかの理由で働く必要がないオトナは、(リタイアされた方やお金持ちの方など)議論の対象外とします。オトナが働かなければならないということは、簡単に言えば、誰からの庇護も受けられないので、生きていくために、自分自身でお金を稼がねばならないという事です。だから、20歳になったから、オトナになるというわけではないと僕は思います。20歳を超えても、例えば、大学に通っていて、大学の学費や生活費を親に出してもらっている限り、その人はコドモであって、決してオトナではありませんし、逆に、高校を卒業して社会に出る18歳の新社会人は、自分が生きていくためのお金を、自分自身で稼がなければならないので、その時点からオトナになるからです。そして、その時期がいつやって来るのかは、それぞれの人生によって、大きく異なるわけですが、不変の現実として言える事は、すべての「コドモ」は、いつかは「オトナ」に変わらなければならないという事です。実際、昨今話題になっている特殊な形態の「コドモ」であるニートも、自分の両親が突然死んでしまえば、生きていくためには、その時点から、働かざるを得ないわけですから。というわけで、これから、このブログの中で使っていく「コドモ」という言葉と、「オトナ」という言葉の定義の違いは、これまでの説明で、ご理解いただけたと思いますので、ここで、今回、皆さんと一緒に議論したい質問を、提示したいと思います。それは、以下のような質問です。Q. もし、中学校か高校に行って、 ”幸せなオトナと不幸せなオトナの違い”を、 分かりやすく説明しなければならないとしたら、 あなたはどのように説明しますか?今回の質問は、「幸せとは何か」っていう、ある意味、究極の質問なので、こんな所で簡単に議論できる内容ではないということは、十分に承知しています。ただ、今回は、”中高生に説明する”という前提付きですので、あえてこのような形での質問形式にしたいと思います。ちなみに、僕の回答は、次回詳しく説明させていただきますが、(「なぜ勉強しなければならないのか」 「なぜ大学に行かなければならないのか」 っていうことを、中高生に説明する上での 「幸せとは何か」という質問と捉えていますので)簡潔に言いますと、自分の仕事から充実感を得る事が出来る人は、幸せなオトナで、仕事からは充実感を得ることは出来ないが、それ以外の事から充実感を得ている人は、不幸せなオトナである、と説明すると思います。この回答だけ読むと、ちょっと仕事至上主義的に聞こえて、違った意味での反論が出てきそうですが、そのような事も全てひっくるめて、様々な意見を聞かせていただきたいと思っています。あなたが考える幸せなオトナとは、どんなオトナでしょうか。
2005.06.22
コメント(32)
ほぼ一ヶ月ぶりのブログです。実は、試験が終わったあと、日本に帰ってきてたんですよ。いや~、相変わらずあわただしい日々でしたけど、すっごく楽しむことが出来ました。うん、大満足のバケーションでした!!まあ、あえて言うなら、もうちょっと寝たかったかなあ~と・・・・・・(笑)まあでも楽しかったから、よしとしましょう。そして、来週の月曜日にはアメリカに戻って、空港に降りたった2時間後から、さっそくバークレーで夏学期の授業です。う~ん、来週から、またまたハードな日々だ~・・・・・・。さて、この一ヶ月の間。6割ぐらいは遊びほうけておりましたが、あとの4割は、本を読んだり、普段は出来ない勉強をしておりました。今回は、特に教育関係の本に的を絞って、かなりたくさんの本に目を通しましたし、友人や知人の方々に紹介していただいて、教育関係で働かれている色々な方ともお話しする機会を頂きました。自分が気がついていないことや知らなかったことなどを色々と学ばせてもらって本当に勉強なりました。そして、あらためて気がついたすごく重要な事がいくつかあるんですけど、今日は、その中でも、みなさんにぜひ考えていただきたい質問を2つほどあげようと思います。その2つの質問とは、下に挙げた二つの質問です。”なぜ勉強しなければならないのか?””なぜ大学へ行かなければならないのか?”以前にも、このブログの中で一度取り上げた事があるんですけど、たぶん、当たり前すぎて、ほとんどの人が真剣に考えた事がない質問だと思うんです。でも、これらの質問って、考えれば考えるほど、教育を考える上での本質を表していると思うんです。実際、これらの質問に対して、”中学生や高校生が納得出来る答え”を見つけようと思うと、めちゃくちゃ難しいわけです。(まあ、完璧な答えなんてないわけですが・・・・・・)学問的な答えや、オトナ的なうわべの答えじゃなくて、中高生が、”あっ、そっか~。だから、勉強は大事なんだー””よし、僕もしっかり勉強して、大学に行こう!!”こう言わせる答えを提示することは、メチャメチャ難しいはずです。ちなみに、参考までに、学者の先生の一意見を参照したいと思われる方は、齋藤孝さんが書いた「勉強のチカラ!」という本を読んでください。”なぜ勉強しなければならないのか?”という学生の声にこたえるべく書かれた本だと思います。面白いと思うし、僕もついつい買ってしまいました。でも、結論から言うと、これを読んでも、多くの中高生は、おそらく、勉強するという意味を”本当の意味”で、理解することはないでしょう。”ウワベ”で理解をすることは出来てもね・・・・。ちなみに、この本を読んだ後に、”なるほどな~、齋藤先生ってすごいなあー”って、圧倒されてしまったオトナの人は、完全に思考が停止してますよ。確かにスゴイことはスゴイですが、文面にだまされちゃあいけません。この本を自分の子供に読ませれば、自分の子供が、今までの姿勢から変化して勉強するようになると思ってしまった方は、今すぐ、この本を子供に読ませて、その反応を見てみてください。その思いが幻想だと気づくはずです。(注意)ただ、頭の良い中高生は、理解する事が出来ると思うし、そういう子供たちにとっては、すごい良書だと思うので、一度お試しください。さて、話を戻しまして、皆さんなら、どう答えられますか。皆さんの意見をお伺いしたいんで、出来ればコメントとして、意見を書いてください!!まあ、字数制限があるので、書きにくいかもしれませんが、色々と意見を交換をしていきましょう。ちなみに、僕の場合は、”幸せな人生とは何か”というレベルから考え始めました。たぶん、”勉強”や”大学”というありふれた物を、いかに大きな次元で位置づけてあげるか。それがポイントだと思いましたので。ただ、これも、哲学的な意味合いではなくて、中高生が聞いたときに、”あっ、なるほど、それが幸せな人生か”って言ってもらえるようなレベルの議論です。難しい議論は一切抜きにして、中高生が納得出来るレベルで議論を深めていきましょう。P.S. 僕と同じような意見を村上龍さんが言ってらっしゃって驚きました。この人の意見は、かなり核心をついていますね。
2005.06.17
コメント(26)
大学の期末テストが無事すべて終了しました。ふっ~とりあえずホッとしてます。というわけで、夏学期が始まる一ヵ月後まで、の~んびり過ごそうと思っていたんですけど、テストが終われば終わったで、友達と遊ぶ約束や飲みに行く約束が次々と出てきまして、毎日”忙しく”遊びほうけておりますMr.DDIでございます。僕って気がつけば、いつもあわただしい生活を送っているんです。のんびりゆっくりボ~っとしようと思っていても、なぜか結果的にそうなってしまうです・・・・(笑)友達からはよく、忙しいのが好きだね~とか、ストイックな生き方が好きなのねとか、どこからそのエネルギー出てくるの??ちゃんと寝てる??死んじゃうよ!!(笑)な~んて言われてますので、僕もそれが自分らしい生き方なのかなあって思って、あんまり深く考えることはなかったんです。でもそれって、本当なのかなあって少し気になり始めまして。なんでいつもこう忙しく生きているのかなあって。なんとなく分かったような気になってるけど、そもそも自分らしい生き方って何やねんって思いまして。というわけで、今日昼過ぎに起きてから、さっきまでベッドの上で、久しぶりにボ~っとしながらこれについて考えていたんです。そしたら、とりあえず、一歩踏み込んだ答えに行き着きまして。たぶん僕って、「自分が持っているエネルギーをすべて使い切りたい」という衝動に駆られてるんです。自分の体の中に次々に湧き出てくるエネルギーを、形は有形であれ無形であれ、それが意味あるモノであれ、ないモノであれ、何か別のものに変換させたいと強く願っているんです。(これって経済学的に言うと、 marginal benefit(限界便益)が0になるまで 消費者は物を消費するという観念と同じです)実現可能かどうかは別問題として、これがしたい、あれがしたい、こんな事やあんな事にチャレンジしたい、って挙げればキリがないほど、次から次へとやりたいことが色々と出てきてしまうんです。それは、買い物に行くとか、友達と飲みに行くとか、自分の家でパーティーを主催するだとか、日常生活の中での単なる何気ない衝動であったり、他人から見れば、それって何のためにしてるの??そんな事やっても意味ないじゃん!!って変人扱いされるような奇怪な行動だったりします(笑)そして、それは、長期的なビジネスアイデアを考えて、それに対して挑戦したいと強く願う気持ちだったりもします。ここ2年間の自分の最近の生活スタイルを考えてみると、ビジネスのために費やした時間が、かなり長かったような気がします。いずれこのブログでも話すつもりですけど、実は、2年ほど前に美容ビジネスを友達と立ち上げたんです。まあ、そんなに大きな事業には発展しませんでしたし、その事業のために僕の人生を賭ける気にはなれなかったので、今では、その事業を友達に譲って、僕は一線からは退きました。でも、お客さんにはすごく喜んでもらえたし、僕の手元に優雅な学生生活を送れるだけのお金は残ったし、普通に考えると大成功だったと思っています。そして、その起業家としての経験を経た上で、卒業後は、あえて起業家としての道ではなく、某経営コンサルタントの会社に就職する進路を選んだわけなんですけど、やっぱりあの時の感覚が忘れられないんですよね。成功するかどうかはわからない不安定な状況で、自分が全てのリスクを背負って、寝る間も惜しんで自分のすべてをその事業に注ぎチャレンジする。そして、自分の起こした行動によって引き起こされた現象が、目に見える形で社会に現れて、それが、お金というわかりやすい報酬と、言葉では表現しつくせない満足感や達成感となって自分のもとに返ってくるわけです。メチャクチャしんどかったですし、何回も逃げたくなりましたし、”もうアカンわ~”って何度も思いましたけど、でも、なんとか踏ん張って頑張れたから、ある程度の成功をおさめることが出来たんです。ただ、たとえ起業してある程度の成功をおさめることが出来たとしてもそれが、自分の人生を賭けれる事業内容で自分の人生を賭けた一世一代の挑戦でない限り、本当に大きな成果はあげれないと思ったので、(例えば、僕の同じ大学の先輩の ソフトバンクの孫さんみたいにはなれないなあって)社会人としての第一歩は、自分を成長させる修行の意味でも、まずは、コンサルタントになる道を選択したんです。そして、当初は、来年の春に就職するまでの間は、学生時代にしか出来ない事に時間を使って、ビジネスからは少し離れての~んびり過ごそうと思ってたんですけど、やっぱり人間ってすぐには変われないもので、のんびりするどころか、相変わらず忙しい毎日ですし、また、新たなビジネスの相談を友達に持ちかけてしまっている自分がいたりして(笑)あ~、なんなんだろ~、自分・・・・・(苦笑)よく彼女(日本人)から「いつもテンテンしてるよね」って言われています。テンテンってなに??って思われるでしょうが、これは、彼女の造語です。僕の生活スタイルを的確に表した言葉だそうです(笑)特に意味はないみたいなんですけど、その響きが、僕の生活を的確に表しているそうで・・・。なんとなく意味は伝わるような伝わらないような(?)一ヶ月だけのバーケーションなんでの~~~~~んびりするつもりだったんですが、結局、スケジュール表はどんどん埋まり始めてます(笑)まあ、自分らしいからいいか。って、最初の議論に戻ってるよ!!!をいをい。
2005.05.25
コメント(5)
いや~、かなり久しぶりの日記です。皆さん、お元気ですか?ここ2週間ほど、テスト勉強でかなり追い込まれてまして・・・。もっと前からコツコツやってりゃなあ~っていつも思うんですけど、なぜか「まだ大丈夫!!」っていう何の根拠もない理由で自分を甘やかせてしまうんですよねえ~。は~、真面目な留学生にならなきゃね。とまあ、なんかテストがすべて終わったみたいな雰囲気出てますが、実は、まだ金曜日にもうひとつ残ってるんです(笑)「ゲーム理論」っていうクラスなんですけどね。このクラスは、テスト勉強をはじめた時は、どうなるかと思うぐらい”ヤバイ”クラスだったんです。(ヤバイ≒あまり勉強していない→焦り指数85 *焦り指数とは、30を超えるとやや不安な気持ちに襲われ、 一般的に60を超えると、非常に危険な状況を指します。 これがさらに進行し、75を超えると、 先行きの見えない不安から、腹痛に襲われ、 それまでの生活習慣を猛省する事が出来ます。 この瞬間だけは、真面目な人間に戻ろうと心に誓えます 笑)ですが、友達のナイスフォローと”気合”と”根性”で死ぬほど勉強しまして、なんとか明るい希望が見えてきて、少し余裕が出てきたんです。(フッ~、よかった~ ありがとうジェームズ!!!)というわけで、まだテストは終わっていないんですが、(油断するな!!って感じです 笑)今日は久しぶりにブログ書いてます。何について書こうかなあって考えてたんですけど、やっぱり、今の僕にとってホットなトピックという事で、今日は、「テスト勉強」について書こうと思います。そもそも、テストって何なんでしょうか。まず、作る側(先生)と受ける側(学生)がいて試す側(先生)と試される側(学生)がいるんですよね。大学のテストを例に取ると、教授は、何を試すかって言ったら、自分が教えた事をきちんと理解しているのか、このクラスの単位を与えるに相応しい知識を、この学期を通して身につける事が出来たのか。そんな事を試すわけです。もちろん、言うまでもなく、中学や高校の定期テストの趣旨も同じわけです。まあ、簡単な”確認”の作業です。では、それに対して、学生はどのように対応するか。たぶん、大学で単位を取ることや、中学や高校で言えば、赤点を取らないようにするのって、そんなに難しい事ではないと思うんです。ある程度、真面目に勉強したら、典型的な大学生のように、単位が足らなくて焦ることもないでしょうし、中学や高校で欠点を取る事もないと思うんです。だから、今日考えたい内容っていうのは、テスト勉強面倒くさ~い!!!テストなんかなくなればいいのに~!!!っていう議論ではないんですね。テストって、もし可能ならば、良い点数で、優秀な成績を修めたいわけですよね。100点とっても、決して悪い気分にはなりませんし。そして、実際、テスト勉強では、少し強引な言い方をすると、出来る出来ない、やるやらないは別にして、気合を入れてテスト勉強する学生は、(単位を取るためや赤点を逃れるためではなく)自分自身の何らかの目的・目標のために、良い成績を目指して努力するわけです。アメリカでは、大学院に入学する時に、大学の時の成績が重視されるので、大学院へ行くことを目指している学生は、必死になって勉強します。僕なんかも、将来はビジネススクールに行くかもしれないので、成績は、それなりに気にしています。ある中学生は、良い高校へ入るために内申点を気にして勉強するだろうし、昔の僕のような高校生ならば、良い成績を取って褒められようと努力するかもしれないですね。自己欲求のためだけに努力する人もいるだろうし、理由なんて、数え上げられないぐらいあるはずです。でも、よくよく思い返せば、本来のテストの意味って、「今まで習った事を本当に理解していますか?」っていう単なる”確認”にすぎないんですよね。だから、極端な言い方をすると、何も気合を入れて、テスト勉強する必要なんてないんです。きちんと勉強していたら、とりあえずは、パス出来るんですからね。ところが、そういう単なる確認の作業の結果に対して、色々な人間が、色々な付加価値をつけてしまったものだから、テストの本来の目的がよく分からないものになってしまったんです。もちろん、テスト結果が”点数”という”数値”で表現される以上、なんらかの付加価値を生むのは仕方がないと思います。実際に、その数値が、その学生の”一部”の能力を表しているのは事実ですし。ただ、だからと言って、テストでいい点数を取ることが、「勉強する」事の目的だと勘違いするのは、かなり馬鹿げた話ですよね。そんな事分かっているよって言われるかもしれませんが、実際、僕の周りのバークレー生や日本の大学に通っている友達を見回しても、そういう人は、意外に少なくないんです。だから、日本の多くの中高生も、「勉強する」って言う本当の意味を、分かっていないんじゃないかなあって思ったりしちゃいます。高校生当時の僕は、少なくとも全然分かってなかったですしね~。そういう意味では、「なんで勉強せんとアカンの?」「勉強したらどうなるの?」「勉強したら、偉くなれるの?なんで?」っていう小学生の質問って、的を得た質問すぎて、本当に驚かされますよねえ。「うん、それぞ、まさに論点だ!!」では、本当の意味で「勉強する」ってどういう事なんでしょうか。「テスト勉強」を通じては、本当の意味での「勉強」って出来ないんでしょうか。どうして僕は、テスト勉強をしょうもないと思うのでしょうか。今日は、これらについて話したかったんですが、そろそろ学生の本業に戻らないと、金曜日に冷や汗をかくことになりそうなので、これに関しては、次回のブログにまわす事にします。あ~、前置き長すぎたかな??(!)ちなみに、なんか偉そうな事を言っている僕ですが、ぶっちゃけたところ、明後日にテストを受けるゲーム理論のクラスからは、抽象的な考え方や、数式に対するセンスなど、本当に多くの事を学んだのは事実ですが、残念ながら、僕の定義する本当の意味での「勉強」という観点からは、あまり多くの「勉強」は出来ませんでした。どうしてなんでしょうね・・・・って、自分ではよく理由わかっているんですけどな~これが理想通りには、出来ないんだよな~(笑)では、お勉強に戻ります。
2005.05.19
コメント(11)
テスト勉強が忙しすぎて、ついつい忘れてしまう所でしたが、今日は、母の日です。今思い返せば、幼稚園や小学校の頃は、母親の似顔絵を書いたり、肩叩き券なんかを作ったりして、”お母さん、いつもありがとう”って、手紙なんかをあげたりしたものです。でも、中学校に入った途端、ほとんどそういう事をしなくなりました。高校2年生ぐらいから、ようやく花なんかを照れながらもプレゼントしはじめましたけど、それも不仕付けに、”母の日やから、花買ってきたったで~”とだけ言い残して、2階の自分の部屋に逃げるように駆け上がってましたから(笑)単に、恥ずかしかっただけなんですよね~。自分の気持ちを素直に表現する事が。今思えば、我ながらカワイイものです(笑)正直、高校を卒業した後も、アメリカに来るまでは、母親に面と向かって、ありがとうなんて、恥ずかしすぎて絶対言えませんでした。大阪人は、社交的でお笑い好きなんですけど、その分、照れ屋さんが多いんです(笑)でも、アメリカに来た事で、あらためて母親のありがたみを実感できるようになった気がします。僕が日本にいた頃は、家では、何もしませんでした。料理も掃除も洗濯も、家の事は、すべて母親がやってくれていました。ありがたいという気持ちは、日本にいた頃からすごくあったんですけど、一緒に暮らしていては、なかなか、そのありがた味は実感できないものです。母親が自分のためにやってくれていることを、”当たり前”のものと勘違いしちゃうんですよね。でも、アメリカで一人暮らしをはじめて、料理も掃除も洗濯も全部一人でやらなくてはならなくなって、そこであらためて、母親のありがたみを知ったんです。うちの母親は、専業主婦ではなくて、仕事もやっていましたから、朝早くおきて、僕を含めた兄弟の弁当を作ったり、夜に仕事から帰ってきて、息つく間もなく、食事の用意をしたりする事は、本当に大変な事だったと思います。たぶん、仕事で辛い時やしんどい事もあったはずなのに、そんな所は、少しも僕たちに見せずに、僕たち兄弟のために、毎日頑張ってくれていたんです。そんな母親の事を、遠く離れたアメリカから想うと、感謝の気持ちでいっぱいになります。あと、自分の気持ちを素直に伝えれるようになったのは、やっぱり、アメリカに来た事が大きかったように思います。というのは、アメリカ人って、英語と日本語の言語の差はあるとは言え、すごくストレートに表現するんです。母親は、何の恥ずかしさを感じることもなく、自分の息子を褒めて、こんな素晴らしい息子を持てて、自分の誇りに思うとか、平気でみんなの前で発言しますし、息子は息子で、母親に対して、普段は、日本人と変わらず、”うぜえなあ、うちのオカン!!”みたいな感じで愚痴っていますが、そんな奴でも、時と場合によっては、なんの恥ずかしさもなく、"I Love オカ~ン"とか言って、みんなの前でハグハグしちゃうわけです(笑)正直、最初は、見てるこっちの顔が赤くなるような思いで、すごく恥ずかしかったんですけど、こういう珍現象(?)は、別に母の日とか誕生日とか、そういう特別な日にだけ起こるのではなく、すごく日常的な事なんです。これぞ文化の違い!!って感じですよね。でも、慣れてしまえばすごく心地良いもので、すごくいい習慣だと思います。そして、そんな環境で二年間暮らしていたせいか、その習慣の影響をしっかりと受けてしまい(笑)ようやく、両親に対しても、面と向かって感謝の気持ちが言えるようになりました。とはいえ、まだまだ恥ずかしいので、年に1回か2回ぐらいしか言いませんが(笑)花束と手紙を日本時間の日曜日に着くよう手配したので、あと7時間後ぐらいには、うちの母親の手元に届いてると思います。母親に手紙を書いたのは、たぶん、幼稚園以来だろうと思います。というか、あの頃は、知ってる日本語が少なかったので、きちんとした手紙は今回が初めてです。だから、今年は、記念すべき「母の日」となりました(笑)もちろん、今まで書きたくても書けなかったあのフレーズもばっちり盛り込んでおきました。お母さん いつもありがとううちのオカンが喜んでくれることを願いながら、今日も一日テスト勉強に精を出すつもりです(涙)さあ、勉強だ勉強だ~!!!
2005.05.08
コメント(11)
ブログ閉鎖宣言からまだ2日しか経っていませんが、ブログ、やっぱり再開しま~~~~す!!!なんじゃそりゃ!!!って、思いっきりずっこけて下さい(笑)簡単に言うと、10年以内に世の中を変革したいって言ってる人間が、ブログで少々嫌な思いをしたぐらいで、何を落ち込んでるねんと、超前向きで元気モリモリのいつもの自分に戻ることが出来たからです(笑)そんな弱いハートじゃ、世の中渡っていけないですよね~、うんうん。正直、先週は週末にかけて、勉強に追われすぎていて、精神的な余裕がなかったというのも原因の一つなんです。でも、勉強にかなり明るい光が見えてきましたので、今日は、回りが見えていなかった自分を、出来るだけ客観的に分析していきたいと思います。(まあ、自分自身の事だから、 そんな事、絶対出来ないんですけどね・・・爆)僕は、とあるコンサルタントの会社でアナリストとしてアルバイトをしていましたので、批判的な意見を言われる事に対しては、かなり慣れているつもりです。皆さんの想像を超えるレベルで突っ込まれますからね~。「なんでそうなの?」「なんでそんな事がいえるの?」「それって本当?」「それじゃあ、お金にならないよ」「給料もらってるんでしょ?」僕が書いたレポートが、どれだけゴミ箱に消えていったことか……(涙)ただ、僕が上司から受けた批判的な意見って、すごく納得出来る批判的な意見だったんです。相手の言っている意見の立場も明確だし、その上、論理も通っていて、自分の間違いを、的確に示してくれるんです。もちろん、ストレスは溜まりますよ。「なんでやねん、ムカツクなあ」って、どれだけ友達にグチを聞いてもらったことか…(笑)酒で忘れた辛い経験もたくさんありました、うんうん。でも、時間が経って考え直すと、やっぱり、上司が指摘してくれた点は、ものすごく当たっているんですね。的を得ているわけです。だから、どんな批判的な意見も受け止めて、頑張れたんだと思います。脱線しましたので、ブログの話に。では、なぜ僕は、自分のブログについての批判的な意見に、そこまでイラついてしまったのでしょうか。批判的な意見を述べられる事には、慣れているはずなのに・・・。実際、教育論なんて答えがないわけだし、お互いに議論をして、それで考えを深めていく事にこそ重要なわけなのに・・・。ずばり、批判をおそれず言いましょう(笑)批判的な意見の論点が、全く見えないからです。僕に個人的にメールを送ってこられた方もおられましたが、はっきり言って、何を言っているのか、何を言いたいのか、全く理解出来ませんでした。僕は、わざわざ、個人的にメールを書いてまで理解を求めたのに、それでも、残念ながら、理解を得ることは出来ませんでした。(これは、僕の意見を正当化しようとしたのではなく、 僕の意見の”立場自体”を、理解していただこうとしたのです)前回も言いましたように、僕のブログの上での戦略については、(いかに読者の方に、わかりやすく自分の思いを伝えるか)もっと思考するべきでした。そこは、僕の完璧な誤算です。(だから、その点のご指摘は謙虚に受け止めるべきです)ただ、それを差し引いたとしても、僕のブログや、とある掲示板で書かれていた僕の批判は、あまりに論理を欠いたものでした。それを言うことで、何を言いたいの?じゃあ、あなたの考える立場はどういったもので、どういった考えを持っているの?あげ足ばっかりとるんじゃなくてもっと具体的な考えを見せてよ!!!僕の文章を熟読した上で、批判的な事書いてる??質問の論点ずれていない??こういう思いが溜まりに溜まって、メチャメチャ、イラついてしまったんです。今回の経験から学んだことは、世の中には、本当に様々な考え方で生きておられる方がいらっしゃって、どれだけ筋道を立てて、論理的に説明しても、分かり合えない方がいらっしゃるという事です。つまり、考え方や生き方に対する姿勢が、根本的に違うために、はっきり言ってしまえば、どれだけ時間をかけても分かり合えないのです。でも、僕が社会に出た時には、そういう方とも渡り合っていかなくてはならないわけで、今回のように、いかに自分にとって納得のいかない事を言われたとしても、それを受け入れ、出来るだけ歩み寄り、自分の意見を理解してもらえるように努力しなければならないんです。そうでなければ、きっと、今回のライブドア騒動の堀江社長のように、多くの方から、反感を買ってしまう事になるわけです。(例で出しましたが、 僕は、堀江さんの足元にも及ばないんで。 そこは、間違っても勘違いしてません。はい。 でも、夢は大きく持っていますけどね 笑)うまく説明できたかは分かりませんが、これが、この10日間で僕がブログから学んだ事だと思います。まだまだ、勉強する事が山ほどあって、どこから手をつければよいか分からない若輩者ですが、精一杯背伸びして、生意気に、教育について考えていきたいと思っていますので、これからもどうぞよろしくお願い致します。追伸:最終回の書き込みで、励ましてくださった方、また、ブログで出会ったにも関わらず、個人的にメールで激励してくれた僕と同世代の学生の方々、そして、これまた、一度もお会いした事ないにも関わらず、僕のブログを読んで下さっていて、激励のメールを下ったバークレーの先輩方。本当にありがとうございました。まだまだ弱い人間ですので、これからも皆さんの助けが必要と思います。どうぞよろしくお願い致します。
2005.05.02
コメント(27)
今日、偶然あるサイトの書き込みを見たのですが、あまりにショッキングな内容だったために、最後に本当の自分の伝えたかった気持ちを述べて、このブログを終わりにしたいと思います。また、第7回「お詫びと訂正」をまずはじめに読んでいただいてから、今回の最後のブログを読んでいただければありがたいです。そもそもこのブログは、受験で悩んでいる中高生や、大学受験を失敗して途方にくれている人たちに対して、何か出来るのではないかと思い始めました。自分は大学受験に失敗しアメリカに来ることになったわけですが、大学受験失敗は、自分の人生で初めての挫折だったように思います。絶望感でいっぱいでした。友人の多くが東大や京大に行く中、自分だけ取り残されてしまったような感覚におそわれ、かなり長い期間、沈んだ生活をおくりました。この時点の僕は、学歴コンプレックスの塊でした。そして、その学歴コンプレックスを解消するために、僕は、アメリカにやってきたのです。大学受験を失敗したからというだけで人生を終わらせたくない。東大よりも世界ランキングが上の大学に入って見返してやる。不純ですよね。他の留学生からしたら、夢もへったくれもなかったでしょう。ただ、”自分の負け”を認めたくなくて、自分の力を証明するために、アメリカに来たわけですから。でも、そんな考えはアメリカに来て、徐々に変化していきました。アメリカという国で僕が出会った友人は、夢と希望にあふれている人たちだったからです。大学をドロップアウトした人たちや、高校も卒業していない人たち。日本にいた頃の僕ならば、友達になることも、出会うことすらなかったでしょう。ただ、交流を深めていくうちに、彼らにあって、自分に足りないものにようやく気づかされたのです。それは、夢です。僕は、大学受験に失敗するまでは、一流大学に入ることだけしか頭にありませんでした。それで、名誉もお金もすべて手に入ると思ったからです。しかし、アメリカで出会った彼らを見て、夢の大切さにすごく気づかされたのです。映画監督を目指しているやつや、画家を志しているやつ、歌手になりたいと、毎日、歌の練習に明け暮れているやつ。見た目もチャラチャラしているし、世間から見たらはみ出し者でしょう。アメリカといえども、それは例外ではありません。でも、彼らはすごく輝いていました。自分の夢に向かって、一直線に努力をしていました。本当に幸せな人生を生きていると思いました。すごくうらやましかったです。単なる学歴だけしか求めていなかった自分が、小さく見えました。若いから出来ると言われればそれまでですが、若いからこそ挑戦するべきなのだと僕は感じました。もちろん、彼らだって何も考えていないわけではありません。あと5年でダメだったら、他の仕事を見つけるよと、冷静な目も持ち合わせています。実際、僕の友達の何人が成功するのかはわかりません。ただ、結果に関係なく、夢に向かって突き進む彼らは、僕から見てすごくカッコいい人間です。そもそも僕は、不当なサービスで利益を貪っている企業が多い留学分野のビジネスにおいて、大きな変革を起こしたく、バークレー卒業後は起業を志していましたので、企業に就職するつもりは全くありませんでした。ただ、経験として就職活動をするのもいいだろうと思い、昨年の秋から冬にかけて、日本に一時帰国して、就職活動を行いました。僕が回った外資系の企業には、就職活動のために、一流大学の優秀な学生がたくさん集まっていました。夢や希望にあふれた同年代の学生もたくさんいて、すごくいい刺激をもらいました。しかし、その一方で、自分の夢や希望を見つける事が出来ず、とりあえず、一流企業に就職できればいいやと思っている学生が非常に多くて、そういう意味ですごくショックでした。もちろん、社会に出た後に、夢や希望を見つけられた方もたくさんいらっしゃるはずです。そういう意味では、彼らの姿勢がおかしいわけではないと思います。ただ、大学受験と同じで、一流企業に入ればなんとかなるという甘い幻想は、絶対に間違っていると思いました。実際、その甘い幻想が、新卒の離職率を高めているのではないでしょうか。そして、そういう甘い幻想を持っている限り、幸せな人生は送れないような気がしたんです。これは、僕の主観ですが、たとえ、一流大学に入ったとしても、夢も持てない人生だったら、つまらないだろうなって。別に、一流大学に入らなくっても、夢を持った人生を自分らしく歩めたら、どれだけ幸せだろうなって。僕の後輩で、大学受験に失敗して、それが原因で道を踏み外し、今は、いわゆるニートとして生活しているやつがいます。そいつは、本当に可哀想なやつです。僕と同じように、一流大学に入ることが目的だったので、その道を絶たれてしまったという理由だけで、自暴自棄になってしまったのです。自分の人生に、未来を見つけることが出来なかったわけです。かといって、変なプライドがあって、大学に行くことすら諦めてしまったのです。でも、よくよく考えれば、一流大学に入れるか入れないかは、ただのテストの結果であって、その人の人生のテストの点数でもなんでもないと思うんです。たかが、受験なんです。人生の上で、受験より大切なことなんていっぱいあるはずだし、実際、受験勉強で頑張ったあなたは、その経験から、色々な事を学んでいるはずなんですから。一番もったいない事は、受験の結果が悪かったから、自分自身を否定してしまうこと。自分の人生を、あきらめてしまうこと。自分が自分のことを嫌いになったら、誰が自分の事を好きになってくれるんでしょうか。大学に行くことは、目的を達成する手段であって、目的では決してないはずです。大学に入った後、そこで何を学び、どんな夢を持ち、そして、どんな人生を送ることが出来るのか。それの方が、よっぽど大切だと思うんです。しかも、それは一流大学でなくても、なんら問題ないと僕は思っています。これは、バークレーに入ったから言うのではありません。バークレーに結果的には入れましたが、アメリカで過ごす中で、バークレーに編入する前から、無名の短期大学で過ごしていた2年間を通じて、ようやく、この大切なことに気がついたんです。バークレーに入っていなくても、おそらく同じ事を言っていたと思います。そして、僕の挫折や色々な経験をブログで書くことで、大学受験で失敗して、自分の人生に未来を見出せない人や、大学受験をこれから迎える中高生が、少しでも広い視野で、自分の将来を見つめるきっかけを作ることが出来れば。また、僕みたいな学生がいうのもなんですが、受験を迎えられるお子さんをお持ちの親御さんたちと、深い議論をいっしょに出来れば、自分の経験が、何らかの形で生きるのではないかと考えていました。今は、ほとんどの人が考えたこともないであろう留学という選択肢についても、経験談を書くことで、色々と伝えることが出来たらなと考えていました。ただ、第7回でお話したように、僕はいくつもの過ちを犯してしまったので、それを今後続けていくことは、難しい事と判断しました。最後に、大学受験で失敗した皆さん、そして、これから受験を経験するであろう中高生の皆さんへ。別に偉そうな事が言える立場の人間ではありませんが、辛い経験をして、やっと分かった事を、ここに書かせてもらいます。大学受験は、結果の一つにすぎません。もし失敗したとしても、それはあなたの今後の人生が終わったわけでも、決まったわけでもありません。もし、どうしてもその大学に行きたいのなら、もう一度、チャレンジすればいいと思います。受験する必要がないと思えば、別の道を歩めばいいと思います。そして、もし、再度挑戦して、残念ながら、結果がダメだったとしても、絶対に投げやりにならないで下さい。たまたま、運が悪かっただけなんです。神様が、そういう人生を与えてくださったと前向きに生きていきましょうよ。僕も当時は、すごく自分の運命を恨みましたけど、今考えれば、前向きにアメリカで努力したから、自分の夢を見つける事が出来て、やりがいのある仕事を社会で見つける事が出来たんだと思います。今は、それにチャレンジがしたくて、うずうずしています。人生は、みんなと同じルートじゃなくてもいいんじゃないかなと思います。遠回りもなかなか面白いものです。浪人生活も、今考えれば、楽しいこといっぱいでしたし、いまでも、夢や未来について、アツク語ることが出来る友人と出会えたことは、すごく幸せなことです。自分の夢に向かって、努力していれば、必ず、幸せな人生が待っている気がしています。今は、また直感だけです。それを、これからの僕の人生で確認していこうと思っています。3年間、戦略コンサルで修行して、3年後には、自分でビジネスをおこして、留学や教育の分野で、ひとりでも多くの人に役立てるような会社を作りたいと思っています。最後になりましたが、多くの方にリンクをいただきまして、様々なご意見をいただきました。本当にありがとうございました。10年後ぐらいに、世の中を変革できるような男になって、また、ブログを始めようかなって思ってます。また、お会いできる日までさようなら
2005.04.30
コメント(18)
僕の住んでいる街は、バークレーから車で30分くらいのところにあります。日本みたいに便利なバスや電車があればいいんですけど、電車の駅は家からすごく遠くてバスは絶対時間通りに来ないので、(最高、30分近く待ったことがありました!!!どうなってるんだ!!アメリカのバス会社~~!!!)今は車で大学まで通っています。そんな僕の朝ごはんは、ほとんど毎日、決まってスターバックスで済ませています。家から2分くらいの所にちょうどあって、大学へ行く道中にあるのでついつい立ち寄ってしまうんです。しかも、ここの店長さんがすごく優しくて、ほとんど毎日行ってるからなんでしょうけど、いつもオマケをしてくれるんです。というのは、何を注文したとしても、ワンサイズ大きなサイズにしてくれてるんです。ちなみに、アメリカのスターバックスは、サイズが日本よりもワンサイズ大きいんです。一番小さいのでも、Tall(トール)で、続いて、Grande(グランデ)→Venti(ベンティ)ってな感じです。日本で一番小さいShort(ショート)サイズは、アメリカにはおいていなくて、お水用として店の片隅に置かれています。この春休みに、僕の所に遊びに来た友人は、日本では、Grande(グランデ)までしかおいていないので、Venti(ベンティ)の大きさをみて驚愕しておりました(笑)しかも、アメリカの方が、随分と値段も安いんですよ。というわけで、毎日オマケしてくれる事をいい事に、いつもTall(トール)を頼むことにしています(笑)ベンティは大きすぎるし、グランデぐらいがちょうどいいので。そして、最近はまっているのが、アイスパッションティーって日本で呼ばれていたやつで、確か、日本では限定販売だったから、もうやっていないのかなあ。基本的には、アイスティーなんですけど、ちょっとピンク色がかっていて、そこに甘いシロップと、僕の場合は、レモネードも混ぜてもらって、シャカシャカ振ってもらった飲み物です。というわけで、アメリカでは、Iced Shaked Coffeeって呼ばれています。これをここ1週間あたり、連続で注文しているんですけど、おとついあたりから、店長の息子さんが、僕の分を作ってくれるんです。息子さんは、3週間ぐらい前から働きだしたんですけど、これがまた、僕が言うのもなんなんですが、メチャメチャ不器用なんです!!(笑)僕より2つ年下の21歳で、見た目はすごく大柄で筋肉質だから、コーヒー作ってる姿が全然似合っていなくて、その上、一生懸命頑張ってるんで、僕が見ていても、かわいく見えてくるんです。(あっ、でもそっちじゃないので……ご心配なく!!)ちなみに、僕が注文しているアイスティーは、たぶん、僕でも作れるぐらい簡単なものなんですが、息子さんが作ると、結構時間がかかるんです。目盛りを気にしてシロップを量ったり、レモネードの量を気にして、何回も入れなおしをしたり・・・・・・。大きな体して、すごく神経質みたいです(笑)だから、親父さんにいつも、「はやくしろ!!朝は忙しいんだよ!!」って怒られています。でも、彼が作ってくれたアイスティーは、親父さんが作ったアイスティーと同じぐらいおいしいんですよ。まだ、働き出して間もないから、なかなか要領はつかめないんだろうけど、すぐになれはずだから頑張ってほしいものです。今朝、僕が頑張ってるねって声をかけたら、「親父がうるさいから、もうちょっとうまくならないと」って、笑って言っておりました。だから、僕は「勉強あるのみだね、頑張れ!!」って一声かけて、バークレーに向かいました。「勉強あるのみ・・・・・・・?」「頑張れ・・・・・?」それって、今の自分の状態じゃない??もしかして??先週、ブログにはまって勉強さぼったから、今追い詰められていて、水曜のテストはなんとか乗り越えたけど、来週のプレゼンに向けて、またまた必死こいて勉強してる自分のことじゃない??スタバを出る時に感じたこと勉強あるのみ・・・・・・頑張れ、自分!!!P.S.ブログ毎日更新、断念いたしました・・・・
2005.04.29
コメント(6)
(第3回の続き・・・・)思春期の時期にさしかかれば、誰しもが多かれ少なかれそうだとは思うんですが、他人から自分への評価が気になりだしますよね。僕なんかに関して言えば、小学生の頃から、そういう事に人一倍敏感だったわけです。それに、中学校に入れば、新しい環境で、新しい友達と出会い、何もかも新しい生活がスタートするわけですから、そういう事を必要以上に気にしてしまったのは、今考えれば、すごく自然な成り行きだったのかもしれません。自分自身の学校での立場やクラスの中での居場所みたいなものの確認の仕方は、本当にひとそれぞれだと思いますし、中学生ぐらいだったら、きっと、友達どうしのつながりや、クラブの仲間との友情なんかで確認するんだと思います。もちろん、普通の中学生と同じように、僕もそういうものに支えられて中学時代を過ごしました。ただ、僕が普通の中学生と違った所は、本当に異常なまでに、他人の目や他人の評価を気にしていたということです。他人からの評価といっても色々な評価がありますよね。その人の容姿や性格にはじまって、運動能力や社交性やその他の特殊な技能、そして、成績の良さや頭の賢さまで。たぶん、ほとんどの中学生が、自分のアイデンティティーを確立する上で、他人からの自分への評価というものを、何らかの形で活用していると思うので、上に挙げたいくつかの評価基準を、少なからずは気にしていると思うんです。ただよくよく考えれば、「他人から自分への評価」って、他人から自分への、本当の意味での”他人”の評価と、”自分”が考えている、他人から自分への評価という2通りの意味があると思うんです。その意味で考えると、前者の評価は絶対に知りえる事は出来ないわけですよね。自分は、他人には絶対になれないわけですから。ただ、それを少しでも知ろうとするために、友達や先生からの自分への発言なんかをもとに、自分の中での「他人から自分への評価」を作り上げるわけです。そして、僕は、この自分が作り上げた「他人から自分への評価」に翻弄されながら中学時代を送ることになるわけです。僕だけじゃなくて、多くの人が、ある程度は他人の目って気にすると思うんですね。それは変なことじゃないし、むしろ、人と交わって生きていく上では、当然の事だと思います。とは言うものの、いちいちすべての事において、他人からの評価を気にしていたら、自分の意思で何も行動できなくなりますよね。実際、他人って、自分が思っているほど、自分の事を見ているわけではないですし。それに、自分以外のすべての人が、自分の事を認めてくれるなんてことはありえないわけです。世の中には色々な人間がいるわけで、それぞれの人が、それぞれの考えで世の中を生きているわけですから。ただ、中学生の僕は、そういう風に考える事は出来なかったんですね。他人が自分の事をどう評価しているのかを、異常なまでに気にして、すべての事において他人から良い評価をしてもらいたいと思っていたんです。あの当時の僕は、たぶん、僕の頭の中にあった「理想の完璧な人間」を目指していたんだと思います。女の子からはカッコイイって言われてモテたいし、頭がいいとも思われたい。サッカーがうまいとも言われたいし、優しいところがあるとも言われたい。もうここでは書ききれないほどの、理想的な条件がたくさんあったはずです。でも、当時の僕にとっては、自分という人間が、実際、どのような人間であるかは重要ではなかったんです。自分自身が、こうありたいと思う本当の自分らしい自分であろうが、それとは反対に、自分の中ではこうありたいとは思っていない嘘の自分であろうが、どうでもよかったんです。他人から評価される自分でありたい。それだけが僕の願いだったわけです。「理想の完璧な自分」は、他人からの評価によって実現し得るものでした。人から良い評価をしてもらうためにはどうすればよいのか、どうすれば人は認めてくれるのか。友達は、何を基準に僕を見ているのか、先生からはどうすれば良い評価が得られるのか。そんな事ばかりに気をもんでいたような記憶があります。でも、そうやって他人の評価ばかり気にしていると、当然、中学生活の中でも、色々と問題が出てきてしまうんですよね。次回は、そのへんを振り返っていきたいと思います。
2005.04.26
コメント(16)
現在、アメリカ時間で、日曜日の夜の10時を少しすぎた所です。空は、カリフォルニアらしく澄み切っていて、僕が住んでいるアパートからも、きれいに星が輝いています。大阪に住んでいた頃は、こんなにたくさん星は見えなかったので、初めてアメリカに来た時は、まず、星の多さにビックリしたものです。そんな夜って、普通なら、心が癒されて、詩のひとつやふたつ、口ずさみたくなるじゃないですか。なんて夜空はきれいなんだろう。なんて星はきれいなんだろう。都会の喧騒が嘘のように思えてきます。しか~しえっと、僕、今すごく揺れています。あ~、どないしたらエエね~ん!!!って、すごく叫びたい気分なんです。なぜかというと、究極の選択に迫られているからなんです。というのは、今週の水曜日にテストがあるので、それに向けて、本来ならば家で大人しく勉強しないとダメなんですね。ただ、ブログをはじめて以来、毎日更新を目標にしてきたので、出来れば、ブログの更新は欠かしたくないんです。だけど、まだあんまり文章を書くのに慣れていないんで、一回更新するだけで、意外に時間がかかっちゃうんです。だから、ブログ更新に気合を入れすぎると、そのために時間がかかりすぎて、逆に、テスト勉強する時間がなくなってしまいそうで、どうしようかと迷っていたんですね。これが、一つ目の悩みです。そして、そんな悩める子羊の僕に、さらに追いうちをかけるように、もうひとつの悩みがやってくるわけです。それは、アメリカでは、若者にとっては、日曜日って意外と楽しい日だからです。たぶん、全てのバーがやってるわけじゃないと思うんですが、友達と”たまに”行く、サンフランシスコのとあるバーでは、日曜日だけ、飲み物がほとんど2ドルになるわけです。しかも、ここはオシャレで少しだけ高級感のあるお店なんですね。学生の僕たちにとっては、普段は、決して安くないバーなわけで、”たまに”しか行けないわけです。でも、大人の方々は、翌日に仕事があるので、あんまり日曜日は来られないんです。そういう理由で、日曜日は、お店側がサービスでお安くしてくれているんです。しかも、結構、隠れ家的存在のバーなんで、多くの学生にも、まだあんまり知られていない穴場なわけです。というわけで、普段飲めない高いお酒を、たった2ドルで飲めるという欲にかられて、どうしようか悩んでいたわけです。ただ、テスト前なんですから、お酒が安いというだけでは、僕も理性が働いて、たぶん、我慢していたと思うんです。すごくポイントとなっている点は、私の友達から先ほど連絡が入りまして、今日の夜、最近出会ったとてもかわいい○ィ○ァ○ーちゃんが、バーに来るというんです(笑)別に、何かを期待してるわけではないんですよ。ただ、かわいらしい女の子と普段行けないオシャレなバーでまったりと飲む。素敵じゃないですか・・・・・オシャレじゃないですか・・・・・すごく楽しそうじゃないですか・・・・・は~、どうすればいいんだ~(笑)そうこうブログを書いているうちに、30分近く経過している・・・・・・・。勉強しなきゃ、ブログ書かなきゃ、○ィ○ァ○ーちゃんと楽しくおしゃべりしなきゃ・・・・・。テストがあるんだから、一番最初の選択肢を選ばないとダメなのは分かってるんですよ。でも、クローゼットに目をやって、バーに来ていく服を選ぼうとしている僕は、たぶん、一番最後の答えを選んでしまうんだと思います。たまには、こんなカワイイ悩みにもぜひぜひ付き合ってください。皆さんのご意見、お待ちしております(笑)
2005.04.25
コメント(24)
(前回の続き・・・・)小学校6年生まで、自分としては順調に受験勉強をしていたつもりでした。塾での成績も良かったし、友達と同じように、名門私立中学に合格するものだと思ってました。でも、僕の体は悲鳴を上げていたみたいで6年生の9月頃に胃潰瘍になったんです。病院の先生からは、極めてまれなケースだと言われました。小学生が胃潰瘍になることは。自分は全然意識していなかったんですよ。塾に行くのは嫌じゃなかったし、小学校に行くのも楽しかった。でも、たぶんどこかでストレスが溜まっていたんでしょうね。僕は、小さい頃から人の評価をすごく気にする所があったんです。人が自分の事をどう思っているのか、どのように評価しているのか。常に自分の価値を、他人からの評価という物差しで量ろうとしていたんだと思います。そして、塾に行きだす事で、いつしかその物差しが、具体的で明確な点数や偏差値になっていったわけです。今思えば、テストの点数が少々悪かろうが、塾のクラスが一つや二つ下がろうが、それがどうしたって思います。でも、その当時の僕には、本当に重要な事だったわけです。極端な言い方をすれば、それらの数字が自分のアイデンティティーを形成していたわけですから。親は、塾に行くのをやめさせました。もう勉強はしなくていいからと言って。勉強の事は忘れて、毎日小学校の友達と普通に遊ぶんだよって。病院から退院した次の日に、別に誕生日でもないのに、おもちゃ屋に連れて行ってくれて、ファミコンやおもちゃをいっぱい買ってくれたのを覚えています。おもちゃ屋からの帰り道、喜ぶ僕を横目に、母親が泣いていたのがすごく印象的でした。今でもその母親の顔は忘れられません。その当時は、なぜ母親が泣いているのか全く理解できませんでしたが、今思えば、胸がつまる思いです。最初は、塾のない日々はある意味、気持ち悪かったです。いつもは、友達と遊ぶのもそこそこに、かばんを持って、電車に乗って塾へトコトコ向かっていたわけですから。でも、子供って不思議ですよね。(僕は今でもまだまだ子供ですが………笑)すぐに新しい生活のリズムに順応しちゃうんです。つい先日までは、夜遅くまで、一日何時間も勉強していたのに、それを、受験の事なんてすっかり忘れて、公立中学へ進学する友達と毎日、日が暮れるまで遊びほうけていたわけですから。母親は、当時を振り返って、僕が塾に行っていた頃よりも塾をやめてからの方が、よく笑うようになったと言っていました。毎日楽しそうに学校にも行っていたし、両親ともよく話をするようになったし、今まで以上に元気になったと。普通の小学生に戻れたんだと思います。ある意味、やっと解放されたんです。2年ぶりぐらいに。僕の事を無意識に縛りつけていた自分を映す歪んだ鏡から6年生の9月から受験シーズンまでの日々は、受験生にとっては、最後の追い込みのもっとも大切な時期です。その時期にまったく受験勉強をしなかったわけですから、僕は、公立中学に進むつもりでいました。親もたぶんそう考えていたはずです。でも、そんな時に、塾のある先生から電話があったんです。算数の先生だったんですが、僕をかわいがってくれた先生でした。僕もすごく好きだったし、だから、算数が得意になれたんだと思っています。そして、先生は、僕の地元の私立中学を受験するよう勧めてきたのです。その中学・高校は、今では、大学進学実績も伸びて、大阪府下でも有名な高校なんですが、(週刊ダイヤモンドに載ってました、先日見たら)僕が受験した約10年前は、正直、中堅かそれ以下の中学でした。だから、必死に受験勉強していた僕なら、ブランクが少々あっても合格するだろうと言うわけです。両親は、とまどったと思います。勉強もしていないのに、本当に合格するのか。しかも、もし受験して不合格になったら、僕がまた病気をぶり返してしまうのじゃないか。そんな両親を決断させたのには、2つの理由がありました。まず一つ目。地元の中学がすごく荒れていたんです。荒れているの度合いが、笑えないぐらい荒れていました。警察が、当時は常駐していたそうですから。たぶん、塾に行かせてくれたのも、親が、地元の中学に僕を行かせたくなかったからなんだと思います。次に二つ目。意外にも、僕が受験勉強を忘れていなかったから 爆 !!!子供ってすごいですよねえ。試しに、昨年度の問題を解いてみたら、算数と理科が100点だったんです(笑)これなら受かるだろうということで、出願しました。そしたら、合格しちゃったんです!!!というわけで、かなりの紆余曲折はあったんですが、地元の中高一貫の私立中学に進学することになったわけです。これで、全てがうまくいくと両親も思ったことでしょう。僕が目指していたようなレベルの高い中学ではないので、塾に通っていた頃のように、勉強で焦ることもないだろう。しかも、様々なクラブ活動で有名な文武両道の中学でしたので、ここに行けば、きっと健康的に元気な中学生に育ってくれるだろうと。しかし、ことは、そうすべて上手く運ばなかったんです。なぜなら、9月に塾をやめてから、ずっと忘れていたはずの「自分を映す歪んだ鏡」をこの中学に入学してからまた自分の手元に戻して生活をはじめてしまうからなのです。
2005.04.24
コメント(24)
(前回の続き・・・・)小学校4年生の冬に、自分から両親に、塾に行きたいと頼みました。別に、中学受験を真剣に考えていたわけではなく、ただ、友達がみんな行き始めたから、自分も行かないと不安だったという単純な理由と、塾に通う事でもっと賢くなれると、その当時の僕は、直感的に感じていたんでしょうね。両親は反対しました。行かなくていいの一点張り。他の人のマネしてるだけでしょって。なぜそんなに勉強がしたいのかと。確かにそうなんです。当時の僕に、塾に行く明確な理由なんてなかったんですから。ただ、僕はあきらめなかったんですね。この当時から、あきらめだけは悪かったみたです(笑)自分では、あんまり覚えていないんですけど、新聞に入っている塾の広告何十枚も集めて、大切に保管して、それぞれの塾の合格実績や特色を分析して(正確には、感想レベルでしょうが)その上で、両親に、”だからこの塾に行きたいねん!!”と直訴したらしいんです。ここまでされたら、さすがに、うちの両親も否定仕切れなかったようで、ついに反対を押し切って、塾に通い始める事になりました。僕が通っていた塾は、近畿圏において、中学受験ではかなり有名な塾で、僕の校舎だけでも、すごく優秀な小学生が集まっていました。ここでは、ありえないくらい勉強させられましたね。僕が途中入学ってのもあったんですが、5年生になった時には、小学校の勉強が一通り終わってましたから。う~ん、今考えてもまさに”詰め込み勉強の象徴”のような塾でした。まあ、この塾の良し悪しは別として、この塾では、徹底した偏差値教育が行われていました。クラスは10クラス以上に分類されて、毎月、テストの結果で入れ替わるんです。しかも、優秀成績者の名前は掲示板に張り出されて、生徒間の競争をあおるんです。クラスによって教える先生も違うし、また、使っているテキストも違うわけです。小学生の僕たちから見ても、明らかに上のクラスの生徒が優遇されるんですね。当然、小学生の僕たちの間で、間違った価値観が生まれても不思議ではありません。「賢い奴が偉い」「下のクラスの奴はアホ」実際、下のクラスという理由だけで、いじめられていた子も少なくありませんでした。そして、悲しいことに、僕もその価値観に強く影響を受けてしまうのです。本当に歪んでいたと思います。また、塾内でずっとトップクラスにいた事が余計にその当時の僕を歪めていったのだと思います。自分は、他の人間より賢い。賢いから何をしてもいい。自分が一番だ。たぶん、塾に通い始めて、半年ぐらいで、完全に歪んでしまったんじゃないかと思います。前回お話したように、うちの両親は、勉強に関しては全く口を出しませんでした。しかし、両親とはよく会話はしました。友達や学校の話を、毎日のように聞いてくれました。仕事で忙しい時も、家に帰ってきたら、必ず今日あった事を聞いてくれました。そんな両親との会話の時間は大好きでした。それが、塾に通い始め、そして、いわゆる反抗期というものの訪れと同時に、あんまり話さなくなったんです。両親は、いつもと同じように話しかけてくれました。でも、僕はそれを拒絶したんです。そして、ある時、少ない両親との会話の中でも、僕の歪んだ一面があらわれてしまったんです。たしか、「○○君は、ずっと下のクラスやからアホやねん」ってな感じの事を言ったんだと思います。思いっきり張り倒されて、家の外に放り出されました。反省するまで飯は抜き!!と数時間外に放置されたのを覚えています。冬だから、すごく寒かったです(涙)たぶん、両親に強く叱られたこれぐらいの時期からだったんじゃないかな。両親と会話をしたとしても、友達のことなどを聞かれたとしても、学校のことなどを聞かれたとしても、まったくの嘘をつくようになったのは。小さい頃から、人との接し方は両親に仕込まれましたし、たとえ歪んだ考え方をしていたとしても、世渡りだけはうまかったのを覚えています。友達はたくさんいたし、学級委員長も務めていましたし、結構、クラスの人気者だったと思います。自分の方が賢いと思っても、人を見下してはアカン。勉強が出来るということは、歌がうまいとか、ピアノがうまいとかいうのと同じもの。別に特別なことではない。だから、友達の良い所を見れるようにしないダメ。わかってるんですよね、頭の中では。だから、人に対しては、そういう風に考えているように行動が出来るんです。少なくとも、多くの友達は、(全員とは言いませんが)僕が歪んだ性格をしていたとは思っていなかったはずです。どちらかと言えば、お笑い好きのムードメーカー的な存在でしたし。それに、両親から教えてもらったまじりけのない純粋な優しさも持ち合わせていたはずですから。でも、本当に純粋な少年ではなかったんです。なぜなら、心の底では自分が賢いから自分が一番だと思っていたからです。塾で良い成績を取るたびに、父親にはいつもこう言われました。成績だけで人を判断したらアカンのやで。人間は、みんな違う良い所を持ってるんやから。お前は勉強が得意やけど、それは、一つの良いことにすぎひんのや。な~んも勉強なんてできんでも、世の中で頑張ってる人は、いっぱいおるんやからな。それは、絶対忘れたアカンのやで。でも、両親からそんな事を言われる度に、小学生の僕の中でのダブルスタンダードは、強くなるばかりだったんです。
2005.04.23
コメント(13)
これから数回に渡って、僕が小さい頃からどんな環境で育ち、どんな経緯でアメリカにまでたどり着いたのか大阪での少しだけ波乱万丈の人生をいっしょに楽しんでいただけたらなと思っています。僕もこんなにあらためて振り返るのは初めてのことなので、楽しいような恥ずかしいような複雑な気持ちです・・・・・・・。すごく唐突なんですけど、僕はこれまでの23年間の人生で、親から一度も勉強をしなさいと言われたことがないんです。うちの親は、礼儀作法とかに関してはすごくうるさいんですよ。言葉遣いは小さい頃からこっぴどく仕込まれましたし。あと、習い事なんかに関しては、普通の親御さんと同じように結構色々とやらされました。そろばんや習字、プールにサッカーと、みんなが思いつくような習い事は一通りやったんじゃないかと思います。習字なんかは、正直好きじゃなかったけど、無理やり行かされてました・・・・・・。でも、不思議なことに、塾にだけは一度も行けと言われませんでした。僕が住んでた地域は、教育熱心な方が多いところだったんで、だいたい小学校の4年生頃から塾に通い始める子が多かったんです。中学受験のために。小学生の僕はすごく不思議でした。他の習い事には行けと言われるのに、どうして塾にだけは行けと言われないのか。だから、聞いてみたんです。”なんで僕は塾に行かんでエエの?”って。そしたら、親にこう言われました。”生きていく上で、字は絶対書かんとアカンし、読む必要があるやろ。それに、あんたも字きれいな方がうれしいやろ。だから、習字には行かんとダメ。あと、計算もできへんかったら困るで。買い物行った時、まけてもらうのにも計算できなアカンやろ。だから、そろばんも行かんとアカン。プールは、あんた、海行っておぼれたらどうすんの。死んでしまうやろ。だから、プールに行って泳ぐ練習せなアカンのや。でも、塾には無理やり行かんでもエエ。勉強はできんでも、生きていけるからな。それに、勉強よりもっと大切なことあるっていつも言うてるやろ。女の子には優しくせなアカンし、人にやられたら嫌なことは、自分もやったらイカン。人のものは取ったらあかんし、困ってる人は助けてあげる。これ全部あんた出来てるんか?勉強はそれ全部出来たあとでエエんやそれに、あんた勉強そんなに好きなんか?好きちゃうやろ?ほんなら、行かんでもええやん”説得力があるのかないのかよく分からないですけど、とにかく、僕はこんな親元で育ちました。今思えば、本当にいい育て方してもらったと思います。でも、残念ながら、親の真意に気がつくまで、すごく長い時間がかかってしまうんですけどね。”子供は親の思う通りには育たない”とは、まさに僕の事を言うのだと思います(笑)当時を思い出すと、教育熱心な親が多い地域でしたから、それぞれの親は、子供の点数を上げようと必死だったんだと思います。よく友達が、”今度のテストで100点取ったら、ファミコン買ってもらえるねん”とか”今度、通知表の良が増えたら、自転車買ってもらえるねん”とか言っていましたから。でも、僕は自分の親から、一度も100点を取ったからといって、何かを買ってもらえることはありませんでした。”よく頑張ったね”たったこの一言だけでした。自分で言うのも変ですが、小学校の低学年の頃から勉強は得意でした。学校のテストは、ほとんどいつも100点だったと思います。だからこそなのかもしれないんですが、友達と比べて物足りなかった僕は、親にいつも詰め寄りました。”100点とったんやから、○○君みたいに、ファミコン買ってや!!”そう言いよる度に、僕は、いつもこう言い返されるのでした。”お父さんもお母さんも勉強してって、あんたに頼んだことないやろ??勉強は、あんたがしたいと思ったらしたらええねん。したくないんやったら、別に、せんでもええねんから。勉強は、お父さんやお母さんのためにするもんちゃうんやで。あんた自身のためにするもんや。だから、うちは100点とってもな~んも買えへん”今聞いても、すごくもっともな意見ですよね。うちの親は、小さい頃から僕自身に、勉強するという事の意味を教えようとしていたんだと思います。でも、小学生の僕は、その意味を理解することは出来ませんでした。僕は純粋じゃなかったので、素直に受け止める事は出来なかったんです(笑)そして、親の意に反して、こう考えるようになったんです。テストで良い点数を取ればみんながほめてくれる。先生は賢いって言ってくれるし、友達も友達のお母さんも、み~んなほめてくれる。うちの家はたまたま何も買ってもらわれへんけど、でも100点を取り続けたらうちの親も変わるかもしれへん。よし、これからも勉強頑張ってたら、いい事がいっぱい起こるはずや。この無意識にも似た感覚が、結果的に、自分の価値は他人の評価によってこそ決まるという間違った価値基準に変貌するまで、小学生とは言え、そう長くはかかりませんでした。そして、その価値基準は、テストの点数や、頭の賢さによって決まるのだとこれまた大きな思い違いをしてしまったのです。僕の親が、素晴らしい教育方針のもと育ててくれようとしたにも関わらず、僕は、その意に反するかのような人生を歩み始めてしまうのです。そして、小学4年生の冬に、僕は、自分から親に、塾に行かせてくれと頼みに行くことになります。これが、僕の辛くて長い”偏差値人生”の始まりでした。
2005.04.22
コメント(14)
○注意えっと、これに関しては、正直、このままの事を思っているんです。まだ、イントロダクションしか書いてませんけどね~。特に訂正する所はないかなあって。ただ、僕の結論がどこに行き着くのかはっきりと述べていないので、異論他論が多く出てくるとは思っていましたが。ここでは結論の落ち着く先を、すべて明らかにすることは出来ないんですが、アメリカの大学生と日本の大学生を比べると、明らかに勉強に対する姿勢が違うんですね。これは、たぶん間違いないんです。なぜなら、高校での教育のされ方が違うからです。しかも、これは僕の主観なんですけど、教授の学生に対する姿勢もアメリカと日本で、少し違うような気がしてましてね。そのへんを、アメリカに来て2年の経験をもとに、自分が感じるアメリカの大学教育についてと、日本の友達の東大生や京大生にインタビューして感じた日本の大学教育についてまとめていこうと思っていたわけです。ただ、ブログってすごく難しくて、一気に書き上げれないから、僕の真意がうまく伝えられないんですよね~。もちろん、最初に構想を練ってから、どういう風に伝えればわかりやすくて、どういう表現が適切なのか、また、どういうブログが受け入れられやすいのかっていう所を、もっと時間をかけて考えればよかったんですけどねえ。とりあえず、なんとかなると思って、なんとなく書き出したのが悪かったんです。いや~、この点は、本当に反省です。ブログだと思って、なめておりましたです。はい。結論は、波田陽区風に言うと、なんともなりませんでしたから~って感じですもん(笑)というわけで、これ以降のブログでは、もっと自分らしく、面白キャラを前面に出して、ザックバランに行こうと、書き方も全く違うものにしてみました。この方が、自分らしくて書きやすいですしね。うんうん。作ったキャラは、しんどいっす。というわけで、これ以降は、まず、僕の人生を振り返るという型式を取ることに決めました。その方が、より僕の事を知ってもらえると思ったので。ではでは、これからも「バークレー生が書いたやさしい進学のすすめ」楽しんで行ってください。よろしくお願いいたします!!!!前回お話したように、決して楽しいものではない長く苦しい受験勉強を経て、晴れて大学に合格した高校生たちは、通常、大きな勘違いをして大学に入学してきます。ほとんどの学生が、大学受験からの解放感なのか、サークルやバイトやコンパなどの事で頭はいっぱいで、大学で待ち受けている新たなアカデミックな刺激に、思いを巡らす学生は、稀有に等しいでしょう。ただ、高校生の時から、大学に入れば楽を出来るという甘い話や、卒業は簡単に出来るという固定観念を植え付けられているわけですから、苦しい受験勉強の試練を乗り越えたばかりの学生に、いきなり「学問」について考えなさい、というのは、少し酷な話かもしれません。それに、なにも私は、勉強ばかりしろという気は全くありません。むしろ、高校時代を受験勉強だけに費やしてしまったような学生は、クラブやサークルなどに入ってみたり、アルバイトをはじめたり、コンパに行ったりして、古臭い言い方をするならば、高校時代には経験できなかった青春を謳歌するべきです。また、高校生の時よりも自由な時間が随分と増えるわけですから、自分の趣味に打ち込んだり、行った事のない国へ旅行したり、今まで出来なかったことに挑戦したり、本当にどんな事でもいいと思うので、学問以外の部分で、様々な事を経験するべきだと思います。なぜなら、大学での新たな刺激や出会い、そして、大学以外の場所での新たな人々との交流が、勉強一辺倒だった優秀な高校生の人間性を豊かにし、より大きな視野で物事を考えられるようになり、その上で、自分の将来について真剣に見つめ直す事が出来るようになるからです。つまり、大学生活の上では、これらの学問以外の部分も非常に大切であり、決して、軽んずるべき事ではないということです。ただし、この部分については、これから数回に渡って考えていく「大学で学ぶということ」のポイントではありません。それは、ほとんどの学生が、自分の個性や性格に見合った大学生活を、「学問」以外の分野では、送ることが出来るであろうからです。では、「大学で学ぶということ」の議論のポイントは一体どこにあるのでしょうか。私がまずはじめに考る必要があると思うポイントが以下のものです。大学での「学問」を通じて、大学生は、どのような姿勢で、どのようなことを学んでいけばよいのか。少し具体性に欠けた質問ですが、この問いに対して、きちんとした回答を出来る大学生は少ないはずです。本当は、この質問にきちんと答えれる状態で、大学生活をはじめることが理想的なんでしょうが、残念ながら、誰もこの問いに対する答えを大学に入学したからといって”教えてはくれない”のです。なぜなら、大学は”高校”とは違うからです。では、続きは次回に。追伸:表現したい事はたくさんあるのですが、大学の勉強などのために、制約された時間の中でしかブログを書くことができず、一気に議論を進めることが出来ません。しかし、出来るだけ時間を作って、少しずつ論を進めていくつもりですので、読んでくださっている皆さんも、このブログの上で、様々な意見を述べていただくなどご一緒にお付き合いしていただければ、ありがたいです。
2005.04.21
コメント(13)
○注意これに関しても旧第1回同様です。ここに書いてある「高校で学ぶということ」は、あえて断定的な書き方で書いてありますが、本当は、ここに書いてある事以外にも、学ぶべきたくさんの事があると思っています。ただ、旧第1回の流れを受けて、あえて逆説的な書き方をしました。高校での勉強の事については、いつになるかはわからないですが、近いうちに、もう一度、自分の真意を書きたいと思いますので、それまでお待ちいただければ幸いです。本当は「大学で学ぶということ」というテーマで書くつもりだったのですが、その前に、私の高校教育に対する考え方を述べておいた方が、皆さんにとっても、また、私自身にとっても、整理して理解することが出来ると考えましたので、今回は、日本の高校教育について考えたいと思います。では、議論をはじめましょう。日本全国の一般的な高校生は、文部科学省が定めたカリキュラムにそって、一様の教育を受動的に受けます。”受動的”と表現したのは、定められた科目を、定められた範囲内でしか勉強する事がないからです。(総合学習などは例外ですが)そして、一流大学への入学を志すような優秀な高校生は、”一様な”文部科学省指定の教科書に加え、受験対策用のハイレベルな高校の授業を受け、かつ、学校が終わった後は予備校に通い、万全の体勢で受験対策に臨むわけです。しかし、これらのハイレベルな受験対策も、”受動的”な教育の域を出ないと私は考えます。なぜなら、有名高校に通っている高校生は、学校に行けば、ハイレベルな授業が”与えられ”予備校にお金を払って入学すれば、ハイレベルな授業が”与えられる”からです。結局、すべて受動的に受け取る教育なわけです。そして、こういう現状を改善するべく既存の授業科目の枠にとらわれず”能動的”な学習姿勢を強化するという目的で、平成15年から高校のカリキュラムの中にも、総合学習の時間が取り入れられたのです。もちろん、”受動的”な教育制度を変革しようとする意味では、歓迎されるべきことなのかもしれません。しかし、これらの総合学習は、小学校と中学校だけで十分ではないかと、個人的には思っています。(総合学習についての議論は、また別の機会に)つまり、あえて誤解を恐れずに言うならば、高校教育に関しては、”受動的”な形態のままでいいと私は思っています。(ただし、講義をただ聞くだけという ”受動的”姿勢は改善すべきです。 アメリカの高校生の能動的姿勢をぜひ見習うべきです)なぜなら、高校生の段階では、決められた科目の決められた範囲内で、”与えられたもの”を的確にこなすという基礎能力を、大学受験勉強を通じて、出来うる限り高めるべきだと考えるからです。確かに、長い目で見た時、現実の社会では、自分で”能動的”に今何をすべきかを見つけ出し、それに対するアクションを起こす”能動的”な能力が必要となります。いつまでも”受動的”な姿勢のままでは、社会に置いてけぼりを食らうことになります。しかし、実際のところ、”与えられた”ものすら”消化”出来ない人間は、実際に”能動的”に自分がやることを見つけたとしても、それを”消化”することは出来ないと思うのです。もちろん、社会に出た後、自分が見つけたものを”消化する”能力を伸ばす事は十分可能でしょう。しかし、それは、早かれ遅かれ必要となる能力なわけですから、大学受験を通じて、高校生の早い段階から身につけるということは、非常に効率的な戦略だと考えるわけです。では、その基礎能力とは、具体的には一体何なのでしょうか。それは、一流大学に入るための受験対策で、高校生が磨くべき能力を考えれば、すぐに理解することが出来ます。まず一つ目が、与えられた大量の情報の中から、必要なものを見つけ出すための情報処理能力。二つ目が、その情報を消化し、使える知識に変化させるための思考力。そして、最後が、その知識を出来るだけ多くインプットし、効率的にアウトプットするための記憶力。以上の3つの能力が、大学受験に必要で、かつ、高校生が磨くべき能力だと思っています。そして、これらの能力は、大学受験でのみ生かされる能力では決してありません。例えば、次回お話しする予定の大学や大学院での学問のクオリティを根底から支える基礎力となるのは、この3つの能力に他なりません。また、これらの能力は、学問の上だけで生かされるというわけではなく、先ほども言ったように、大学卒業後、実際に社会に出た時に大いに役立つ能力なのです。おそらくは、どのような職業であったとしても、これらの能力は必須と言えるのではないでしょうか。だからこそ、私はこれらの能力を基礎能力と呼んだのであり、また、一流大学生が、社会に出た後に活躍する確率が高いのは、これらの基礎能力を、大学受験時に身につけたからだと私は考えています。確かに、現状の”受動的”な高校教育制度には、詰め込み教育の弊害など、議論の余地は大いにあるとは思います。しかし、私が高校教育に関して結論として言えるのは、高校時代にやるべき事は、社会人としての基礎能力であり、大学で学問する上での基礎力となりうる・情報処理能力・思考力・記憶力 を鍛えるために大学受験に真剣に取り組むことだと思います。自分自身が現役・浪人時代を通じて、必死に受験勉強したから言うわけではありませんが、受験勉強で養った基礎能力がなければ、英語もろくにしゃべれなかった僕が、UCバークレーに入学することはなかったと思います。次回は、いよいよ本題である「大学で学ぶということ」に入っていきます。
2005.04.20
コメント(16)
○注意以下の文章なんですけど、わざと、一流大学とそれ以外の大学の差は、歴然としてるよ!!!だから、一流大学に行かなきゃダメなんだよ!!っていう、気取ったインテリ学生風に書きましたが、本当は、そんな事これっぽっちも思ってません。最初にこう書いておいて、ブログが進むにつれて、実は、僕こう思ってたんです!!!って書こうとしてたんです。でも、ブログの長期的な構成がこれをはじめに書いた時は、これっぽっちも出来ていなかったのと、予想外の反響があったもので、ちょっと訂正するタイミングを逃してしまいました。ですが、ある程度、自分の中で、ブログの構成が見えてきましたので、今の予定では、第4回か第5回に、番外編として、詳しく僕の真意を説明させてもらうつもりです。ですから、出来ればそっちの方とあわせて読んで下さい。でも、この文章、誰が読んだとしても、嫌な奴に見えますね~(笑)僕、そんなインテリ系ではなくて、むしろ、お笑い系なんで、ひかないで、引き続き日記のほう読んで下さいね。よろしくお願い致します。「エリート」という言葉は、どのように定義することができるのでしょうか。有名私立高校や地方の名門公立高校を卒業し、東京大学をはじめとした一流大学に入学。卒業後は、一流企業に就職するか、政治家や官僚への道を邁進する。これは、誰しもが想像するエリートの典型像でしょう。日本の大学では、大学に入学するという事が、すなわち卒業出来るということを意味するわけですから、一流大学合格に向けて、高校生が必死になって受験勉強をするのも納得がいきます。なぜなら、これまでの日本では、一流大学に入ることで、その人の人生は安泰なものになると保障されてきたわけですから。しかし、これらの神話は完全に崩れ去ったわけです。現在の就職戦線においては、東大卒の学生と言えども、その人が望むような企業に容易に就職できるわけではないし、そもそも東大卒という学歴は、あなたの過去の栄光を証明するものではあったとしても、あなたの未来を保障するものではなくなりました。日本の社会も、ようやく本質的な変革がはじまったわけです。では、東京大学に進学する魅力はなくなったのか。そんな事は全くありません。逆説的に聞こえるかもしれませんが、東京大学は、依然として東京大学です。マスコミが、東大生の学力が下がったと騒ごうが、東大生の就職率が他大学に比べて悪くなったと非難しようが、もし、あなたが大学受験生で、仮に100%東大に入るチャンスがあるとするならば、もし、あなたが親の立場で、仮に100%自分の子供が東大に入るチャンスがあるとするならば、あなたは何と答えるでしょうか。間違いなく、東京大学に進学すると即答するでしょう。世の中を生き抜くことが難しくなったのは、何も東大生だけに課せられた宿命ではないのです。その厳しい現実は、すべての大学を卒業した人間に課せられるわけなのですから。キレイごとを並べて、東大に進学することを否定する事には、何の意味もないと私は思っています。なぜなら、どれだけ世の中の流れが変わろうとも、高学歴神話は、世の中から消え去る事はないのですから。では、なぜこの高学歴神話はなくならないのか。その理由は、この高学歴神話というものが、ある意味では偽なのですが、またある意味では真であることに起因していると私は思います。昔のように、一流大学を卒業したからといって、あなたの人生が、一生保障されることはまずあり得ません。そういう意味では偽だと言えます。しかし一方で、多くの子供たちが受験戦争に飲み込まれ、受験勉強を通じて個人の能力を高め、その中でもさらに優秀な学生たちが、壊れかかっている高学歴神話に基づいて、一流大学に集まってくるわけです。つまり、高学歴神話は崩壊寸前の状態にあるとは言え、社会で成功を収める確率の高い優秀な人間が、その崩壊寸前の神話を頼りに、一流大学に集まってくるわけですから、この一流大学からは、結果的に、社会で成功する人間の輩出率が、他大学に比べて高くなるわけです。そして、一流大学へのこの優秀な人材の供給と輩出の安定的なバランスが、日本の高学歴神話の崩壊を寸前で食い止めているわけで、このような意味において、高学歴神話は真となりえるのです。そして、これは日本に限ったことではありません。私が住んでいるアメリカでも、全く同じ事が言えます。一流大学を卒業することは、その人の人生を保障することにはなりません。しかし、優秀な人材は、すべからく、優秀な大学、すなわち、一流大学に集まってくるのです。確かに、一流大学とそうでない大学との差は、様々なレベルで見ることが出来るでしょう。社会での知名度、研究費や研究施設の差、教授陣の差・・・・・・などなど、挙げ出せばキリがありません。しかし、大学の学部レベル(大学院は除く)において、アメリカでも日本でも、一流大学と、それ以外の大学との圧倒的な差は、先ほどから述べているように、「学生の質」の差にあると私は思います。そして、この差こそが、これから考えていく国際的なエリート論の上で、重要なポイントを占めてくるわけです。では、続きは次回に。
2005.04.19
コメント(19)
全34件 (34件中 1-34件目)
1