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酸っぱい葡萄や尻尾をなくした狐などイソップ童話には人間心理の機微をついたものが多い。そうした心理は心理学的にも定説になっているようだが、こんなのはどうだろうか。目の前に、まずそうな葡萄と小さい胡桃があったとする。まあ、ものの喩えなので、とりあえず葡萄と胡桃とする。狐は葡萄か胡桃を選ばなければならない。その葡萄はたしかにおいしくないのだが、胡桃も小さくてまずそうだ。食べたこともない胡桃よりは、まずくても我慢できる葡萄の方がましかもしれない。それに、その前に食べたりんごは全くの不良品だったし、それを思えば、この葡萄でもまあいいや…と思っていた。ところが狐はこの葡萄の隣に、さらに別に種類の同じようなまずそうな葡萄があるのに気付いた。ああ、似たようなまずそうな葡萄、どっちもどっちじゃないか、なぜ選ばなければならない。そう思ったとたんに、狐の目には、今まで選択外と思っていた小さな胡桃が魅力的に見えだす。これを心理学的に「どっちもどっち効果」という。積極的に選択したくないもの二つの選択を迫られた場合には、その二つとは異質な第三の選択肢が急に魅力的に見えてくる心理的効果。こうしたことってあるのだろうか。門外漢なのでよくわからないが…。
2024年05月28日
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「書道教授」を読んだ。題名にある書道教授というのは主人公の銀行員が書道を習っている女性であり、年増だが奥ゆかしい魅力をたたえている。主人公には見合いで結婚した妻がおり、古本屋の色っぽい女房も気になり、さらに、その古本屋の女房に似た雰囲気のホステスとも親しくなっていく。このホステスがとんでもない疫病神で、主人公にしがみつき、次々と金をねだり、しまいには妻の実家から金を出してもらうことまで要求をする。よくある火遊びのつもりが深みにはまっていくというパターンなのだが、窮地に陥っていくいく状況は哀れでこっけいでもある。結局のところ、これは成功したかにみえた完全犯罪が破綻を迎えるという物語なのだが、冒頭にでてきた流行っていない呉服店の謎も回収されており、ややご都合主義にも見える点も気にならない。主人公の銀行員はどこまでも平凡な人間であり、こうした平凡な人間の平凡な日常と、犯罪とが地続きになっている分、ちょっと怖さがある。主人公をとりまく女性で一番活躍するのは前半ではホステス、後半では妻で、題名になっている書道教授の女性の出番はさほど多くないのだが、この女性こそが最も不思議な魅力を放っているようにみえる。この小説は「松本清張傑作短編コレクション」に収録されているが、他に収録されている短編の中には以前に読んだものも、いくつかある。ただ、一度読んだものでも、全く記憶に残っていないものと、逆に強烈な印象を残すものとがあるのが面白い。「巻頭句の女」は薄幸な女が強烈な印象を残すのだが、「カルネアディスの舟板」は読んだはずなのだが、ほとんど記憶になかった。いずれも面白い小説であることには違いない。
2024年05月27日
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ときどきしか見ていなかったのだが「地上の星」という人気番組があった。テーマの多くは戦後の復興を支えた技術者達を描いたものだ。戦争中、理系学生は徴兵を猶予されたという。地上の星達の中には、そうして戦場行きを免れた人々もいたのではないか。しかし、そうした人材の温存がなければ、戦後の復興はなかったし、ジャパンアズナンバーワンなどという時代も来なかった。また、製品や新技術の開発には多くの人々の協力がいる。並外れた頭脳が一人いればいいというわけではなく、その下には何人もの補助者がいる。ごく少数の一等星だけではなく、二等星以下の星も輝くから夜空は美しい。戦争中、理系学生には徴兵猶予の制度があり、それだけが理由ではないにしても、理系を目指す少年が多かったのではないか。戦争が終わった時には、日本には厚い技術系の人材層があった。奨学金の充実とか、少子化対策の一環として教育費支援という議論があるさ中、なぜか国立大学の授業料については値上げの動きがある。理解できないことだ。某私大の学長は負担できるところは負担してもらう…と言っているようだが、おそらくここで念頭においているのは学生本人ではなくて親と言うことだろう。成人の大学生の授業料の議論に親の収入を持ち出すおかしさをわかっていない。どうしても、国立大学の授業料を上げるのだとしても、理科系学部の授業料だけは据え置きにするか、できればもっと下げるべきではないのだろうか。国立大学の授業料を上げるなどは、国力を衰退させる愚策としか思えない。
2024年05月24日
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4人の死刑囚に対して刑が執行されたという。鳩山法相は問題発言なども多いが、このあたりの職務はきちんと行っているようだ。これら4人の死刑囚の中で、特に坂本正人の事件についてはよく覚えている。※白昼、帰宅途中の女子高校生に道を尋ねるふりをして車に押し込み、数時間後に山林で殺害したという事件である。殺害前に暴行なども行ったようだが、これは新聞によって書いてあるところもあれば書いてないところもあって、これも「被害者に対する配慮」のつもりなのだろうか。事件のあったのはたしか学校の終業式の日。高校1年の夏休みといえば、様々な楽しい予定もあっただろうし、人生だってまだまだこれからという時期である。それを一瞬にして奪われた被害者や家族の無念ははかりしれない。こういう事件こそ、まさに社会を守るために極刑でもって処断しなければならない事件の典型というものだろう。※この事件は結局死刑判決が確定したのだが、一審では無期懲役判決が出ていた。被害者が一人というのが大きな理由だと思うが、殺された人や家族にしてみれば他にも被害者がいたかどうかなんて関係ない。それよりも殺すのが一人にとどまっている限りは死刑判決などでるわけないという安心感を犯罪者やその予備軍に与えてしまうことの方が怖ろしい。また、量刑判断の上で、改悛の情とか矯正の可能性なども議論になるが、これも過大に扱うのはどうなのだろうか。反省のふりなどいくらでもできるし、ましてや命がけとなればなおさらである。矯正についても、犯人が将来立ち直って立派な人間になることなど、遺族は望まないだろう。逆に、本当に反省をし、真人間に立ち返ったのなら、自分の罪を自分の生命をもって贖おうとするのが自然の心情のように思える。※ところでこの坂本正人の事件、というかこのタイプの事件についての報道を読んでいつも疑問に思うことがある。犯人にとって女性を拉致したのはこれが初めてだったのだろうか。初めて女性を車に拉致して、その女性を殺害したとはどうしても思えない。おそらく何度か女性を拉致暴行して、味をしめているうちに次第にエスカレートしていったのではないか。こうして考えると性犯罪をきちんと処断することは将来の殺人事件などを防止する上でも重要なことだというのがよくわかる。性犯罪がおもてに出にくい要因としてマスコミなどによる二次被害がよくいわれるが、こうしたマスコミのあり方も含め、社会全体で性犯罪防止のための対策を考えるべきではないか。殺害された女子高校生の前にも坂本正人の被害者はいた。彼女らが被害を訴え、それがもとで坂本が逮捕されていれば、女子高校生も殺されなかっただろうし、坂本も死刑にまでされることはなかったのだろう。合掌(もちろん被害者の霊に対して)。元ニュース: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080410-00000916-san-soci※※死刑執行のニュースの度に思い出すのは連合赤軍事件。いったいなぜ永田洋子と坂口弘の刑は執行されないのだろうか。被害者の数も殺人手口の残虐さも未曾有の事件なのに。遺族も高齢化したぶん次々と鬼籍にはいっているのだろうに。これって国家の怠慢ではないのか。量刑の不均衡にはあれほど批判があるのに、死刑囚の中で何年も執行されない人とすぐに執行される人とのいる不均衡については、なぜあまり問題視されない?
2008年04月11日
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何日か前の産経抄で、有名な「四季の歌」の歌詞に疑問を唱えていた。歌は一人称のボクで歌われるのだが、三番の秋を愛する人を「ハイネのようなボクの恋人」としたのは変であるという。なぜならハイネはれっきとした男性であるのでボクの恋人であるわけはないと。これについてネットでみてみると、当初はハイネのような友達とあったのが、いつのまにやら恋人にすりかわったとある。これも信じられない話だ。自然発生的に歌われるようになった民謡などとは異なり、この歌にはきちんとした作詞者もいる。そしてまた、愛を語るハイネのような友達というのもしっくりこない。友人を選ぶ場合、恋愛しか関心がない、恋愛論ばかりを語る友人というのはあまり魅力がない。*おそらく考えられる可能性としては、次の二つではないか。ボクというのはこの場合、若い女性の一人称である。そうだとすれば春の野のスミレのような友達も愛を語るハイネのような恋人というのもしっくりくる。実際のハイネがイケメンだったかどうかはよくわからないけど。もう一つの可能性はハイネのような恋人というのは、ハイネ自身のような恋人というのではなく、ハイネの詩にうたわれるような恋人という意味なのではないか。ハイネの詩の中の恋人というと字余りになるので仕方なくハイネのような恋人となったわけである。*真相はよくわからない。ただハイネの愛の詩といっても大抵の人は思い浮かばないのではないか。まあ、黛まどかの俳句のようなもので、重要なのはハイネの名がどっかできいたことのある外国の詩人の名としてとおっていることであろう。実際のハイネは恋愛詩はあまり書いていないという。重要なのは内容ではなくイメージであろう。そういえばどっかの会社が求人広告で「モンドリアン風の素敵な事務所で働きませんか」と募集したら大勢の人がやってきた。ただ面接でモンドリアンが何か知っているかをきいてみたところ誰一人知らなかったという。そういうものであろう。
2013年05月13日
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ワンルームマンションの建設反対の住民運動というのがあちこちであるらしい。ワンルームマンションに入居する単身者はゴミ出しのルールをまもらないとか、地域の行事の参加しないとか、そうした理由だという。なんかこれって単身者差別ではないのだろうか。日ごろもっともらしく差別反対なんてことをいう新聞や評論家がなぜこれを問題としない?高齢化にともない配偶者に死に別れた単身者もどんどん増えている。非婚化に伴い一人で住む中年者も増えている。そして他にも離婚や単身赴任、親と死別した元親同居中年など…。単身者が増えているのに、単身者向きの住居が近くにあるのはいやだなんてことが通るわけがない。それでなくても昔あったような単身者向きに格安の家賃で入居できるボロアパートはどんどん減っていて、今はワンルームといっても小奇麗なマンションばかりである。ネットカフェやホームレスが増えるわけである。
2007年11月12日
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教員のわいせつ事件の公判で県教委の職員が傍聴席を埋め尽くしたことが問題視されている。県教委側は被害者のプライバシーを守るためと言っているという。もちろん言い訳であろう。教員の不祥事を知られたくないために、一般人が傍聴できないようにした。しかし、それをわいせつ事件の被害者側からみたらどうだろう。たしかに公判では被害者の氏名そのものはでてこないかもしれない。しかし、地域、状況、例えば〇〇部の顧問の△△がボール置き場で…とかなんちゃらと出てきたら、どこそこの何という中学校で被害者は何とか部の部員だったとかいったことくらいは推察される。被害者からすれば、そんな裁判が公開されて、不特定多数、中には暇をもてあましている噂好きで暇をもてあましている近所のおしゃべりおばさんもいるかもしれない…が傍聴すること自体悪夢ではないのだろうか。もしも、自分が被害者やその家族だったら、傍聴席を職員で埋め尽くした教委の判断には感謝こそすれ、恨む気持ちはまったくおきないだろう。裁判の公開と言うのは、権力者の不正や長い歴史のはてに裁判の公正性を保持するための大原則として確立したものだが、一方で被害者の人権を守ることも必要であろう。「被害者のプライバシー」が不祥事を隠ぺいしたい組織の言い訳になってしまう現状こそ、実は問題ではないか。
2024年05月26日
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タワマン殺人事件については真逆の見方があるようにみえる。一つは職業的な接待に妄想を募らせた中年男のストーカー殺人という見方。こういう見方をすれば、これは何年か前にあった耳かき店員殺人事件とよく似た事件となる。耳かき店員が風俗に当たるか否かはともかくとして、指名料もあったというから、指名してもらうために愛想をふりまいただろうし、それを客の側では一方的に好意と受け取るのもありそうなことである。淋しい人ほどそういう妄想にとりつかれやすいのかもしれない。そしてもう一つの見方は、実質的には詐欺被害者が加害者にキレた事件であり、警察に訴えても放置されたことが怒りを倍加させたとみる見方である。いただき女子も詐欺罪になるのであれば、本件で、もし女性が結婚を約束し、条件として金銭を要求していたのなら、詐欺になるのだろう。男は自分のアイデンティティでもある自動車やバイクを手放した上、金がなくなるとストーカー扱いされればそりゃ怒るだろう。はたして真相やいかに…。ただ、過去の耳かき店員殺害事件では男が店員に貢いだという事実はないが、この事件では無一文どころか借金を負ってまで女に貢いでいる。印象であるが、耳かき店員の事件とは性格の違う事件のようにみえる。それにしても、殺害された女性の写真は、なんというか…やりすぎた整形手術というのも一種の自傷行為としか思えない。
2024年05月17日
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現在加入しているインターネットサービスから突然サービス移行のおしらせなるものが届いた。とにかく冊子のとおりに作業をしてみると、途中でどうしてもエラーメッセージがでて進まなくなってしまう。職場なら誰かにききながらワイワイやるのだが、自宅ではそうもいかない。質問電話サービスにかけると、こうしたものはつながりにくいものなのだが、さいわいすぐに繋がり、担当者がでたが、遠隔操作で移行を行なうとのことで日時が後日連絡するという…もうここまでくるとなにやらよくはわからない。「今回に限って無料」というが、有料と言われても困るがおそらく出すことになるだろう。インターネットやスマホなど、現在では様々な道具に囲まれて暮らしているが、その知識は千差万別だ。小生もさして詳しい方でもないのだが、たぶんさらにうとい人だって大勢いる。*ワンクリック詐欺で「日々料金が発生している」と表示されると、あわてて電話をかけてしまう人がいる。さらにこれも進化してワンクリックでシャッター音や振動がでる場合もあるという。いかがわしいサイトを閲覧したという後ろめたさで誰にも相談せずに金を振り込むなんていう例は枚挙にいとまないことだろう。インターネットやスマホだけではない。個人情報だってそうだ。様々な場で電子情報で管理されている情報がどういうメカニズムで漏れて、どういうふうに悪用されるおそれがあるのか。これも正確に説明できる人はあまり多くないのではないか。だから「個人情報が漏れた」すわ大変だ、社会保険庁はけしからんというのではなしに、具体的にどんな情報が漏れてどういうふうに悪用されることが考えられるか…を正確にしっておく必要がある。オレオレ詐欺の被害なら今回の情報流出以前にだってそうしたおそれはあるわけだし、従前以上の注意をすればすむことだ。そうではなく、今回の情報流出で他人に年金を奪われる、年金が来なくなる…といった不安を感じる情報弱者もいて、そうした不安につけこむ詐欺事例もあるという。*オレオレ詐欺のような特殊詐欺はいまでは様々な類型があり、必ずしも世事にうとい高齢者だけがねらわれるわけではないという。スマホやインターネットのように正直「よくわからないもの」に囲まれている生活やますます社会が複雑化して医療保険や年金、税金などの生活に密着した制度も「なんだかわかりにくいもの」になっていることが背景にあるのではないか。
2015年06月08日
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少子化についてはあちこちで語られているが、少子化によって人口が減るとともに複数の人間によって構成される家族自体が激減するかもしれないという。家族類型を比率でみると、一番多いものは現在でも単身世帯であり、夫婦と子の世帯、夫婦のみの世帯がこれに次ぐ。夫婦と子の世帯といってもかなりの部分は老夫婦と成人した子供の世帯である。絵にかいたような夫婦と未成熟な子供という標準世帯は少ない。老夫婦と成人した子の世帯はいずれは一人親と子世帯となり、次には単身世帯となる。将来的には、中年独身単身世帯と高齢単身世帯が社会の多くを占めるという時代になるのだろう。さて、そうなると、理想の住居も変わって来る。昔、郊外の閑静な住宅街で一戸建てに住むのが幸福のシンボルのように思われた時期があった。芝生のある庭とマイカーは人生成功の証であるかのように。専業主婦がいれば買い物の心配はないし、子供が小さければ遊べる庭や家族で乗れる自動車があった方が良い。けれどもこれからの時代はそうはいかない。考えてみれば閑静な住宅街など不便この上ない。近くに店もないし、周囲も高齢化して人通りもなければ治安上の不安もある。ネット上で集められたグループによる強盗殺人もこんな場所で起きる。これからは、セキュリティもしっかりして、鍵一つで戸締りもでき、周囲に店や医療機関のあるようなところが好まれるのではないか。住居もさることながら先立つものの問題もある。様々な場で省力化が進む一方で、高齢者の就労に対する意識も変わって来る。この間、ニュースサイトをみていたら元大企業の管理職がコンビニでアルバイトをしているということをさも悲劇であるように書いているものがあって驚いた。こういうのも、これからはごく普通のことになると思うし、健康で社会とのつながりを持てることが何よりも幸せという考え方も広がっていくことだろう。
2024年05月08日
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旧人類のせいかネット上で金が動くのが気持ち悪い。ネット通販を利用することはあるのだが、身に覚えのないところで金が動いているのではないかとか、どうしても不安になって毎月送られてくる金の明細書は必ずチェックする。人によっては、そうした通販などの払い込みに使う通帳は分けているというが、いまさらそれをやるのも面倒くさい。世の中にはそうした不安をもっている人がいるせいか、毎日のように、そうした不安につけこんだネット詐欺メールがくる。ネット通販サイトを騙って第三者が貴方のサイトにログインしているとか、欲しくもないような商品の写真がでていてこの商品を誰かが注文しているとかいった類である。そして情報を再入力するように求めてくる。電話によるオレオレ詐欺の注意喚起は広報車を走らせてまでやっているのに、こうしたネット詐欺やスマホを使ったショートメール詐欺についての注意喚起は少ないように思う。固定電話に比べるとパソコンやスマホは詐欺にかかりにくい人々が使っているという固定観念があるのかもしれないが、決してそんなことはない。通販サイトやクレジット会社を騙るものだけではなく、手口も非常に多様化している。警視庁からのメールとあるので何かと思ったら、お宅の息子が窃盗で逮捕されたが、示談金を下記のところに振り込むと助かるとか、あなたの〇〇動画が流出していて、消したければ下記のところに連絡しろとかといった類である。騙される方もどうかと思うのだが、こんなものは元手いらず、危険なしなので、千に一つでもひっかかってくればもうけものなのだろう。そういえば、最近はないのだが、スマホに三億円が宝くじで当たったのだが、使い道に困っているのでお分けしたいというメールが何度も来たことがあった。
2024年05月15日
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最近、部活と教員の過重労働が問題となっている。思えば中学時代も部活というのはあったけれども、顧問の先生が一緒に残るなんてことはあまりなかったし、教師自身も、部活に残るのがよい先生だなんて思わないでほしいとはっきりいっていた記憶がある。そしてまた、熱心に部活をやっている子もいたが、帰宅部や帰宅部同然の文化部という子もけっこういたように思う。自分の体験なのではるか昔の話だ。地域によって事情は違うのかもしれないが、今のように部活が強化されたのは、あの校内暴力が問題となったことが契機だという。暴力を振るう少年なんてどうみても少数派だし、そうした非行対策の処方箋として部活動をもってきたというあたりにボタンの掛け違いがあるのではないか。部活動については縮小とか民間委託とかといった議論があるが、廃止という選択肢が正解のように思う。そもそも部活動自体、学習指導要領にあるものではないし、根拠がない。学校教育の重点としては、主要三教科>主要五教科>九教科>学校行事>>部活ではないのだろうか。教員の数が足りない上に週五日制も導入されているという状況の中で、学校行事は縮減されず、部活もそのままという状況の方がむしろ異常である。それにまた、部活というのはそんなに教育効果があるのだろうか。よく中学校などで〇〇君▽△大会準優勝とかといった垂れ幕が掲げられているのをみるが、教科では遠慮されている選別や順位付けが部活となると、あからさまに行われているのも変だ。集団競技で全員が一丸となって努力することが教育効果があるという人もいるかもしれないが、そうしたものは排除やいじめと紙一重という面もある。要は、様々なお稽古事や塾と同様に、部活もやりたい人だけが学校外でやればよいのではないか。さらにいえば、今はどうか知らないが、東京では部活の活躍や生徒会での役割が内申書で非常に有利に扱われていた。なぜ、五教科を真面目に勉強している子よりも、実技教科でよい演技をする子や部活や生徒会をやっている子の方がよい内申書がもらえるのだろうか。あの内申書こそは不公平のかたまりのように見えてならなかった。
2023年06月21日
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