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旧人類のせいかネット上で金が動くのが気持ち悪い。ネット通販を利用することはあるのだが、身に覚えのないところで金が動いているのではないかとか、どうしても不安になって毎月送られてくる金の明細書は必ずチェックする。人によっては、そうした通販などの払い込みに使う通帳は分けているというが、いまさらそれをやるのも面倒くさい。世の中にはそうした不安をもっている人がいるせいか、毎日のように、そうした不安につけこんだネット詐欺メールがくる。ネット通販サイトを騙って第三者が貴方のサイトにログインしているとか、欲しくもないような商品の写真がでていてこの商品を誰かが注文しているとかいった類である。そして情報を再入力するように求めてくる。電話によるオレオレ詐欺の注意喚起は広報車を走らせてまでやっているのに、こうしたネット詐欺やスマホを使ったショートメール詐欺についての注意喚起は少ないように思う。固定電話に比べるとパソコンやスマホは詐欺にかかりにくい人々が使っているという固定観念があるのかもしれないが、決してそんなことはない。通販サイトやクレジット会社を騙るものだけではなく、手口も非常に多様化している。警視庁からのメールとあるので何かと思ったら、お宅の息子が窃盗で逮捕されたが、示談金を下記のところに振り込むと助かるとか、あなたの〇〇動画が流出していて、消したければ下記のところに連絡しろとかといった類である。騙される方もどうかと思うのだが、こんなものは元手いらず、危険なしなので、千に一つでもひっかかってくればもうけものなのだろう。そういえば、最近はないのだが、スマホに三億円が宝くじで当たったのだが、使い道に困っているのでお分けしたいというメールが何度も来たことがあった。
2024年05月15日
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NHKの朝ドラでは、戦前を舞台にして、当時の女性差別や家父長意識と戦うヒロインの姿が共感をよんでいるという。いまなお日本には女性差別があり、家父長的意識が根強く残っているという人もいる。そういう人に言わせると、憲法にはその第14条で平等をうたっているのにまだまだ日本には女性差別が…はて?戦前の日本には師範学校など女子に開かれていた教育の場はあったし、高等師範のような高等教育の場もあった。そして世界でも珍しい女子医大も戦前からの歴史を誇る。弁護士や医師の試験は難関ではあったが、試験自体は平等公平であった。そういえば子供の頃にも女医さんというのはたまにいた。たしかに戦前には女性に門を閉ざしている世界は多かったし、志ある女性にとっては不本意な面もあったであろう。しかし、同時に兵役は男性だけであり、人口ピラミッドでみると、しばらく前までは、戦争に行った男性のところだけが大きくへこんでいた。戦場で死んだり、傷害を負った男性は多かったわけである。さらに、現代では、女子に門を閉ざしている世界というものはほとんどない。女子に最初から門を閉ざしている世界はないし、ある私立医大で女子を不利に扱ったと言えば大変な社会問題になったのは記憶に新しい。そしてその一方では、国立の理系の入試で女子を優遇する動きもあり、こんな男子差別のやり方はさしたる議論もなく広がりつつある。どこかの県で公立高校が男女別になっているのは問題視されているが、女子限定の国立大学の存在は議論にもなっていないのも奇異だ。能力を活かせないといういみでの女性差別というものはいまではほとんどなくなっているのではないか。ただ、だからといって別の問題がないわけではない。犯罪被害者に対する人権侵害のような報道が野放しになっているところや、望まぬ妊娠をした女性に対する支援機関や相談機関が不十分な点である。しかしこうした女性差別の被害者たちの声は、世の中であまり大きくならないようである。
2024年05月14日
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少女小説のお手本のような小説である。舞台は戦前。嵐の日に生まれ取り違えられた二人の赤ん坊。一人は大金持ちの家の令嬢として育ち、一人は貧しい漁師の家の娘として育つ。取違物語はドラマにもよくあるのだが、現実にも赤ちゃん取違というのはないわけではない。物語ではたいてい貧しく育った方が主人公になっているので、こうした物語は主人公が貴種でありながら苦難の道を辿るという一種の貴種流離譚ともいえる。主人公が貧しい育ちにもかかわらず、気品があり美しく賢く、誰にも愛されるというのも貴種である故か。戦前は酷い格差社会であるので、こうした設定になるのだろう。金持ちの娘として育った側は最初こそ意地悪なのだが、これも、根っからの悪役と言うわけでもなく、登場人物全体に「いい人」が多く、その分、大団円に向けてすんなりと物語はすすむ。文体は非常に読みやすく、一気に読める。面白いのはサイドストーリーの温泉採掘の部分である。舞台は明らかに伊豆半島なのだが、温泉発掘に人生をかける親子がでてくる。家産を傾けても温泉発掘に打ち込む父と、その父の死後は模範青年のような息子が学業を辞めて遺志を継ぐ。伊豆半島には昔から知られた温泉もあるが最近発見された温泉もあり、その中にはこうした温泉発掘にまつわるドラマもあるのかもしれない。のも実際にいたわけであろう。
2024年05月13日
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人手不足と言うことが盛んに言われているが、これと同時に省力化もかなり進んでいると思う。近所のオフィスビルでもつい最近まで朝ともなればモップを動かし掃除をしている人がいたのだが、これが最近では掃除ロボットに変わっている。店でも自動レジやタッチパネルが急速に普及し、映画館でも窓口での券発売は少なくなっている。タッチパネルなど、やり方がわからずにきれている人も時々見かけるが、こうしたものも現在の自動改札と同様にあたりまえの光景になっていくのだろう。そういえば、昔は駅の改札には必ず駅員がおり、ATM普及前の銀行には大勢の窓口職員がいた。デパートのエレベーターにもエレベーターガールがいたので、そんな時代に比べれば、今だってずいぶん省力化されている。省力化できるところは省力化し、その一方で、多少の不便は甘受するようになれば、人手不足の問題は多少解決するのではないのだろうか。少し前までは、注文したものがすぐには届かないなどということはあたりまえの光景だった。そしてまた、人手不足の問題となると必ず出てくる外国人導入の議論であるが、この是非を言うまでに留意しなければならないことがある。一つは人口減少は日本だけではなく、周辺国でも起きているということである。送り出す側は細り、受け入れる需要は増えてくるということか。もちろん地球規模で見るとアフリカのように人口爆発が続いているところもあるのだが、日本に多くのアフリカ人労働者が働くという未来図は、地理的文化的距離からして、ちょっと考えにくい。もう一つは、人材導入を行う国は日本だけではない。円安が続けば、就労に行く国として日本の魅力はそれだけ薄れることになる。これも忘れてはならない点であろう。
2024年05月12日
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新宿のタワマン刺殺事件は不思議なことばかりだ。25歳でガールズバー経営タワマン居住と言うのも驚きなら、犯人の方のレアなスポーツカー所有というのも驚き。世の中お金のあるところにはあるのだが、報道されない裏の話もあるのかもしれない。それにしてもこの犯人は、淋しい中年男の典型のような人なのだろう。ガールズバーに行けば営業用でも暖かく接してくれる。そしてうまいこともいうだろう。淋しい人ほどカモにされやすいのだが、カモにされた側から見れば、唯一の生きがいであり、よりどころでもあるのだから、一方的な妄想に発展しやすい。男の方は本気で結婚などを考えていたのかもしれない。不思議なのは、この男が貢ぐほどのお金をどうやって得たのかである。両親と同居していたようなのだが、いくら給料のほとんどを自分のために使うことができても、あれほどの高級車はなかなか手に入らない。現在は職業不詳ということなのだが、過去はどうだったのだろうか。果物ナイフで傷だらけにしてやると思い女性を襲ったと言っているそうだが、果物ナイフで人が殺せるのかと普通は思う。きっと殺人ではなく傷害致死を主張するつもりなのだろう。まあ、無理だと思うけど…。もう一つ、ワイドショーのネタになる事件で那須の夫婦殺人事件がある。こちらの方も主犯とされる娘の内縁夫はかなりやり手のようだったが、本気で乗っ取りを考えていたのだろうか。店に入る前の職歴などはどうなっているのだろう。こちらの方も気になる。
2024年05月10日
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「菊枕 ぬい女略歴」を読んだ。短編なのだが、読んでいて非常に重苦しい。女主人公ぬいに実在のモデルがいるということだけでなく、俳句の世界ということを別にしても、主人公の苦悩が、非常にありそうなものに思えるからである。ぬいはお茶の水女子高等師範付属女学校を卒業した才媛で、男並みの長身という女性にとっての難点を別にすれば際立っての美貌と文才にも恵まれていた。実際にモデルとなった女流俳人の写真をみても相当な美貌である。そして彼女は降るような縁談の中から美術学校出の青年を結婚相手に選ぶ。彼女が結婚相手に期待したのは「芸術家」であった。しかし、夫は田舎の中学校の美術教師になり、それで満足している。そういう結婚についての錯誤、夫への不満というのは、男から見ると身勝手であっても女性には時折ある。結婚前は男は自分の才能や将来性について多少盛ることがある。ぬいの夫も結婚前はもっともらしい芸術論をはき、それをぬいはうっとりと聞いていたのではないか。ぬいも後年俳人になるくらいなので、芸術的志向はある。田舎の美術教師の妻となったぬいは俳句を始め、頭角を現すことで、彼女にも新しい世界が開けるようにみえた。しかし、雑誌に自分の句が掲載されたところで、それだけで収入になるものでもない。俳人の多くは別に社会的地位のある職業についたり、そうした者の妻であったりする。俳句関係の交友が増えるにつれ、ぬいはますます「田舎の中学教師の妻」という身分に引け目を感じるようになる。今はそうしたことがどの程度あるのか知れないが、当時は夫の地位イコール妻の地位であった。ぬいが俳檀の巨匠にストーカーのようにつきまとったのも、巨匠を通じて自分に大きな世界が開けることを期待したのかもしれないが、それも拒絶される。表題の菊枕は菊の花をつめた枕を使うと無病長寿であるとされ、ぬいが師匠のために心をこめて菊枕を作るというエピソードによる。その後、ぬいは句作も衰え、精神を病んでなくなるのだが、このあたりはどこまでがモデルの実像で、どこまでが創作なのだろうか。ぬいは句想を得るために英彦山によく登っていたというのであるが、絵や写真と違い、俳句には元になるものがない。いくら山をみても山の俳句が浮かぶわけはない。一度、俳句で名声を得た人がそれを維持するというのはかなり大変なことのように思う。さて、一読してみると、この小説の主人公はぬいの夫の圭介ではないのか。俳句の会や旅行に行くぬいを経済的に支え、家事を行わないことにも文句もいわず、最後にぬいが夫のための菊枕を作ると、ようやくぬいが自分の下に戻ってきたとよろこぶ。妻の期待するような芸術家になれなかった夫の負い目かもしれないし、一種の嗜虐的な喜びかもしれない。こういう夫婦も世間のどこかにはいるのだろうか。
2024年05月09日
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少子化についてはあちこちで語られているが、少子化によって人口が減るとともに複数の人間によって構成される家族自体が激減するかもしれないという。家族類型を比率でみると、一番多いものは現在でも単身世帯であり、夫婦と子の世帯、夫婦のみの世帯がこれに次ぐ。夫婦と子の世帯といってもかなりの部分は老夫婦と成人した子供の世帯である。絵にかいたような夫婦と未成熟な子供という標準世帯は少ない。老夫婦と成人した子の世帯はいずれは一人親と子世帯となり、次には単身世帯となる。将来的には、中年独身単身世帯と高齢単身世帯が社会の多くを占めるという時代になるのだろう。さて、そうなると、理想の住居も変わって来る。昔、郊外の閑静な住宅街で一戸建てに住むのが幸福のシンボルのように思われた時期があった。芝生のある庭とマイカーは人生成功の証であるかのように。専業主婦がいれば買い物の心配はないし、子供が小さければ遊べる庭や家族で乗れる自動車があった方が良い。けれどもこれからの時代はそうはいかない。考えてみれば閑静な住宅街など不便この上ない。近くに店もないし、周囲も高齢化して人通りもなければ治安上の不安もある。ネット上で集められたグループによる強盗殺人もこんな場所で起きる。これからは、セキュリティもしっかりして、鍵一つで戸締りもでき、周囲に店や医療機関のあるようなところが好まれるのではないか。住居もさることながら先立つものの問題もある。様々な場で省力化が進む一方で、高齢者の就労に対する意識も変わって来る。この間、ニュースサイトをみていたら元大企業の管理職がコンビニでアルバイトをしているということをさも悲劇であるように書いているものがあって驚いた。こういうのも、これからはごく普通のことになると思うし、健康で社会とのつながりを持てることが何よりも幸せという考え方も広がっていくことだろう。
2024年05月08日
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森鴎外の三男を主人公にした評伝小説「類」に主人公は松本清張の小倉日記をテーマにした小説を読んで、その圧倒的な文才の差異に衝撃を受ける場面がある。これが評伝小説作家の創作なのかどうかはわからないが、いかにもありそうに思う。松本清張の短編傑作コレクションのうち、「支払い過ぎた縁談」、「死せるパスカル」、「骨壺の風景」を読んだ。最初の「支払い過ぎた縁談」というのは、アイディア自体は雑談の中からでも生まれてきそうなのだが、普通はこんなに面白い小説にはできない。昭和32年という当時の世相などまで想像させるし、登場人物の若い研究者にはなんとなく作者自身が投影されているような気がする。つっこみどころはあるのだが、ぐいぐいと読ませるのは作者の力量だろう。「死せるパスカル」も推理小説あるいは犯罪小説のようであるが、トリックについては、これだけのものでよくも…と思う。登場人物にはさほど共感できるタイプはいないし、主人公の画家は、佐藤愛子の「血脈」の佐藤紅緑を視点を移せばこうなるのかと思わせるほどである。けれどもこれも、先がきになり読ませる小説となっている。「骨壺の風景」は内容はほぼ作者の身辺に起きたことで創作の要素はない。祖母の骨壺を探すとともに、祖母や父母の人生を回想した内容である。似たような経験のある人はいるのかもしれないが、それを読ませる小説にできる人は稀有である。三作ともタイトルの妙ということで、並べられた小説なのだが、いずれも作者の読ませる文章の才というのを見せつけた小説のように思う。奇抜なトリックや特異な事件は扱っていないのに先が気になって頁を繰る手がとまらない。読ませると言えば、ときどきでてくる生き方指南のとうな新書も似たようなものだろう。自分ではまず買わないのだが、借りて読むことはある。知的生き方、幸福になる生き方、健康の秘訣などなどについてつづったものなのだが、多くは、それができれば苦労はないよといった内容で、読んだ後は時間を無駄にしたと思う。いってしまえば、金持ちになるには無駄遣いをしないことだとか、試験に合格するには一点でも多くとることといった類であろう。ただ、こうしたものがなぜ売れるのかと言えば、それは多くの場合、読ませる文章で書いてあるからだろう。文章というものは音色であり、内容というものは旋律のようなものなのかもしれない。音色がよければ心地よく最後まで聴ける。
2024年05月07日
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最近、子供の体験格差ということが言われている。都市と地方、親が高所得か低所得かで、習い事、クラブ活動、家族旅行などについて大きな体験格差があることを問題視するものである。しかし、子供というものは全生活が体験であり、そうしたものの中から、将来の糧となるものを積み重ねて大人になっていく。山間部に生まれて自然の中で駆け回り、虫取りや魚釣りに興じたことも体験なら、貧しい家庭に生まれて母親と一緒に家計簿を計算しながら節約の知恵を出しあったことも体験である。幼い弟妹の世話をし、祖父母の介護を手伝って、その死を看取ることも、また体験であろう。体験格差の議論で取り上げている体験が、習い事、クラブ活動、家族旅行を指しているのであるなら、それは体験格差ではなく、習い事格差、クラブ活動格差、家族旅行格差とかいわないと正確ではない。しかし、子供というものは小学校の中学年くらいになると、親と一緒の行動は好まないし、親と一緒のところを友人に見られるのも嫌がるものである。だから、家族旅行よりも、友人と一緒にちょっと自転車で遠出する方がずっと楽しいし、思い出に残る。家に金がなく家族旅行ができないから、習い事ができないから、かわいそうね、支援しましょうとなると、ちょっと違うのではないかと思う。将来の糧という意味でも金をかけて何かしてもらったという体験よりも、誰かに何かしてあげたという体験の方が案外と重要なように思う。もちろんこうは書いても「体験格差」が全く問題ないというつもりはない。好きなスポーツを金銭的な事情で出来ないというのは残念だろうし、親も辛い。そうしたものについては、道具のリサイクルとか、無料貸し出しとかで対処する方策が考えられるし、もしかしたら、そうしたことは、すでに実践されているのかもしれない。※政治ネタを書くつもりはないし、この日記テーマも政治ネタと関連するとは思っていない。だからこういうものを書いたからといって、例の格差の問題についてどうこうと言ったつもりはない。子供の貧困はもちろん大人の貧困の結果としてでてくるものなのだが、本人にとっての意味合いは異なる。大人の貧困は本人の不運、努力、能力資質のベクトルの結果なのだが、子供にとっては親という別人格者の貧困の結果である。貧困は連鎖することもあるが、貧困を糧にして伸びていく子供もいる。なんでもかんでも親の経済力と子供の状況を統計的に比較して、親が貧乏な子供は可哀そう、支援しましょうというのは、なんか少し違うように思う。
2024年05月05日
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もうすぐ都知事選がある。小池に対抗する候補については人選がすすんでいるようであるが、小池知事の再選への意向は明確になっていない。もし、現職が不出馬と言うことになれば、選挙戦の様相はずいぶんと変わってくる。最初に言っておくが、決して自分は小池を支持するものではない。ただ、素人目には別に都知事がカイロ大をでていようがいまいが、そしてアラビア語を話せようが話せまいがそんなことどうでもよいように思う。都知事の職でアラビア語を必要とする状況など皆無であり、もし卒業が事実であっても、アラビア語を話せないということもあるかもしれない。例えば駅伝で出てきた外国人留学生など、4年間日本にいたとしても、陸上練習漬けの毎日だろうし、大学生が読むような普通の日本語の本を読めるようになっていたとも思えないではないか。しかし、ネットでみると、政治家の学歴詐称は大きな問題であり、これで辞任した政治家も過去に複数いるという。公職選挙法で罰則まで定めているのだからそういうものであろう。そうなると、現都知事も、この学歴疑惑がおさまらない限りは、辞任とまではいかないが、再選を諦めるという可能性はかなりある。重ねていうが、小池を支持するわけでもないし、投票したこともない。ただ、今までの都知事に比べると、小池知事にはさしたる難はないようにみえる。だいたい以前の都知事の中には何を勘違いしたのか、都市外交にせいをだしていた知事がいた。二重外交は弊害しかないし、それにそのための税金は都民のために使われるものではないか。豪勢なホテルに泊まって美術館巡りなどは嘆息しかでないし、会議費で家族旅行となるとお笑いの世界である。カイロ大の学歴詐称でエジプト政府に弱みを握られる云々という議論もあるようだが、少なくとも小池都知事は別に「外交」はやっていない。まあ、制度についていえば、そろそろ公職選挙法で学歴を必要的記載事項とすることを見直し、あえて虚偽の記載をした場合だけを違反にすればよいのではないか。例えば、短期間の外国滞在であっても、〇〇大留学と書けばセーフで卒業とかけば違反になるのだが、選挙民にとっては同じようなものである。しかも、今では大学の数も増えているし、有力政治家の二世といえば優遇して入学させるところもあるかもしれない。いったいどうなるのだろうか…次の都知事選。
2024年05月04日
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戦国時代を舞台にした歴史小説である。ただ目新しいのは主人公を武士ではなく、石垣や鉄砲を作る職人としたことであろう。石垣が盾なら鉄砲は矛…この矛盾の解決の先に泰平の世が開ける。職人もまたそう信じて己の技術を磨いていく。歴史小説にはいろいろなタイプがあって、実際にあったかもしれない歴史的事実に即したものから、想像を飛躍させたファンタジー色の強いものまである。前者の中には頻繁に出展や根拠を説明しているものがあるが、はたして本作はどちらだろうか。作中で紹介されている石垣の技術や鉄砲の技術が、どの程度、歴史的な事実をふまえたものかどうかが気になる。そしてまた、この小説のように、殿が領民を守るために領民までが城に籠るなどということがどの程度あったのだろうか。領民、特に職人は、戦国時代の戦いの勝者にとっても金の卵を産む鶏のようなものであろう。関ヶ原の戦いでは農民たちは弁当をもって見物していたという話を聞いたことがあるが、おそらくそちらの方が事実に近かったのではないか。また、この小説では石垣を盾に見立てているが、実際の籠城戦では狙うのは建物本体であって、石垣を盾とするのは無理があるように思うし、砲を防ぐために即席で石垣を作るということも、本当にそんなことが可能だったのかとも思う。もっとも、どこまでが歴史的にありうることかなどと固いことは抜きにして、小説として読む限りでは面白い。歴史小説には、別の読み方もあり、現代に投影して読むという読み方もある。大津城の城主の京極高次は武将としては無能だが、部下を愛し愛される性格で、それが結果的に強さとなっている。戦国時代にこういうタイプがいたかどうかはともかくとして、現代のリーダーには、もしかしてこんなのもいるかもしれない。新機軸の歴史小説としては、読んでみても良いかもしれない。ただ、これは個人の感想で、人によって違うのかもしれないが、すいすいと読めるタイプの文体ではないようで、いっきに読めるという小説ではない。
2024年05月03日
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那須町で発見された夫婦遺体殺人事件の関係で元俳優の若者が逮捕されたという。最初20歳で元俳優と聞いた時、自称俳優の誤りではないかと思った。演劇はプロとアマの境界の曖昧な世界で、舞台に立ちながら生計のほとんどはアルバイトでまかなっているという人も珍しくない。しかし、この容疑者は、そうした自称俳優ではなく、正真正銘の元俳優の有名子役だったと知ってびっくりした。知人にも子供の頃劇団に入っていたという人がいた。子供に積極性や対人関係能力を身に着けさせるために劇団に入れるというのは多いという。別に劇団に入れる親が皆が皆我が子の芸能界入りを願っているわけではない。そうした劇団の子供たちの中でも、ドラマや舞台に起用される子は頭のよい子が多いのではないか。台詞を覚え、大人の指示を的確に理解できる子といってもよい。だから意外に、劇団にいて多少舞台やドラマにでていたような子供の中には、その後、普通の社会人として成功している人は多いのではないかと思う。子供の頃劇団にいたという知人も世間的にはエリートに分類される人生を歩んでいた。それだけに、元子役という人が犯罪集団にいたという報道には、いったいどういう経緯でこうした集団にかかわることになったのか不思議でならない。知名度のある芸能人やスポーツ選手にはうさんくさい有象無象がよってくることはよくあることなのかもしれないが、子役時代の映像をみるかぎりは頭の良いしっかりした子という印象しかない。売れっ子子役でもその後の人生は様々で、中には子連れ狼の大五郎役のように犯罪者になった例もある。しかし、これは相当の年月がたってからの話で、今回のように20歳というのはあまりにも若すぎる。普通なら人生本番にも達しない年齢なので、まだまだやり直せるとは思うのだが…。なお、この元子役が出演した大河ドラマは今も配信中でそのゆくえを気にする人も多いらしい。しかし、出演者の中に犯罪者がいたからといって、すべてお蔵入りさせるようなことはやめた方がよいのではないか。その昔、テレビアニメの黎明期に「鉄腕アトム」と人気を二分した作品に「エイトマン」があった。ところが原作を描いていた漫画家が銃刀法違反で逮捕され、さらに主題歌を歌っていた歌手がその後殺人事件を起こしたために、今ではアニメそのものを見ることができない。正義の味方を主人公にしたアニメなのに、ここまで不運なのも珍しい。
2024年05月02日
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昔、鬼太郎の漫画の中で鬼太郎誕生のくだりを見たことがある。鬼太郎というのは、幽霊族最後の生き残りで、墓場で生まれたところを、会社員の水木という男に発見され、その時、父親の死体から目玉だけが飛び出したという。週刊誌による漫画が全盛となる以前は貸本漫画というのが流行っていて鬼太郎は最初は貸本漫画に登場したという。貸本漫画はあまり記憶にないが、床屋などに置いてあることもあり、週刊誌漫画に比べると、おどろおどろしいタッチのものが多かったように思う。鬼太郎誕生のエピソードも絵柄が不気味で赤ん坊の鬼太郎もあまり可愛くなく、貸本屋時代の面影を残したものだったのかもしれない。貸本版はわからないが、週刊誌漫画では、鬼太郎誕生についてこれ以上詳しくは書いていない。そもそも幽霊族はどういうもので、死体になる前の鬼太郎の父はどういう姿で、そもそも会社員の水木と鬼太郎の親はどんな関係にあったかなど、不明である。この映画では、そのあたりを描いたもので、会社員水木が犬神家の一族を思わせる田舎の旧家に行き、鬼太郎の父に出あうという物語になっている。設定は昭和30年で水木には戦争体験がある。この時代の大人は普通に戦争体験があったのだが、多くは体験を語りたがらず、だから子供達は戦争というのははるか昔のことのように思っていた。当時は路といえば土道が普通で、田舎から東京ははるかに遠く、東京と聞くと、男の子は川上の試合を見たかと聞き、女の子は銀座のフルーツパーラーに行って見たいという。そんな時代の風景がアニメならではの技術で描かれ、鬼太郎父も、風呂好きであるところや後の時代を目でみてみたいというあたり、後の目玉だけで茶碗風呂に入っているのを彷彿とさせて面白い。まあ、後半は子供向けのアニメになっているのだが、結局のところ怖いのは妖怪よりも人間なんだなあ…と思う。部下に死を命じながら自分は生き延びようとする上官や、薬品を使って社員を猛烈に働かせようとする会社幹部の姿に、戦前の軍国主義や強欲資本主義批判をみるのは深読みなのかもしれないけど。
2024年05月01日
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「いじめ」とよばれる事件は時々問題となるのだが、新聞種になるものの多くは、むしろ犯罪として処断すべき事案で、それを「いじめ」と呼び、学校の問題、教育の問題ととらえるから話がややこしくなるように思う。旭川の事件など陰惨極まるもので、あれで警察が動かなければ、とてもじゃないけど、安心して子供を公立中学になどやれないレベルだろう。犯人が一定年齢未満となると、警察は妙に腰がひけたようにみえることがあるが、被害者の痛みは犯人の年齢には関係ない。ただ、こうした世を騒がす「いじめ」の中には、個人による犯罪というよりは、集団の底知れない悪意を感じさせるものがある。昭和50年代に中野区のある公立中学で起きた「葬式ごっこ」事件である。不良グループに普段から暴行や強要の被害を受けていた少年に対して、クラス全員が「葬式ごっこ」を行い、線香や花まで用意したという。衝撃的だったのは、この「葬式ごっこ」に担任はじめ4人の教師が関与し、安らかに…とかなんとか追悼の寄せ書きを書いていたことである。少年はその後まもなく祖母のいる岩手県まで行って自殺した。性善説、性悪説というのは古来より議論になっているが、人は大きな集団になればなるほど、普通の人でも残酷になりうるところがあるのかもしれない。葬式ごっこに加担した教師は一人が諭旨免職になっただけで、行為の重大性に鑑みると軽いとしか思えないし、もちろん誰も刑事処分には問われていない。まあ、こうした行為は刑事責任を問えるものでもないし、そのあたり、平成になって大きな話題になった愛知県の公立中学で起きた一人の生徒に対する集団暴行恐喝事件とは性格が違う。葬式ごっこに参加した教師にしても生徒達にしても、たぶん、その後は罪悪感とは無縁の平穏な人生を歩んでいることだろう。そんなものである。まあ、何がいいたいかというと、人は個人、あるいは特定の友人仲間といるときよりも、一クラス、一企業、一国家といった大きな単位でいるときには、普通の人であっても罪悪感が薄れ、けっこう残酷なことをやるのではないか。みんながやっているんだ、おれ一人だけが悪いわけじゃない…というおきまりの論理が顔を出す。だから人間は怖い…といったところか。
2024年04月30日
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京浜急行の新馬場の駅をおりると、大幹線沿いに長い石段が見える。品川神社の石段である。このあたりは武蔵野台地の突端にあたり、こうした傾斜地が多い。高級住宅地として有名な城南五山もそうであるし、品川神社もこうした高台にある。それにしても長い石段…それを上りきると、街の喧騒が嘘のように別世界が広がる。夕方近い時刻なので人も少なく、なおのことそう感じるのだろうか。あたりは神社特有の静謐な雰囲気につつまれているので、こういうのをパワースポットというのだろうか。石段の途中では、半袖半ズボンの観光客らしき欧米人が写真をとっていたが、ありきたりの観光地よりも、こうした普通の神社で日本文化を感じるのもよいと思う。石段途中には富士塚の入り口もあり、そちらは足場がわるそうなので行かなかったのだが、後で調べてみると最大級の富士塚だという。以前行った千駄ヶ谷鳩森神社の富士塚も相当なものであったが、こちらの方もぜひ今度は登ってみたい。品川神社の境内からの眺めはあまりたいしたことはなかったのだが、富士塚からの眺めはなかなかよいらしい。再び駅の方に戻り、新馬場の商店街を歩くと、そこは狭い三階建ての建物が並び、そこはかとなく宿場の雰囲気を残している。解説によれば、公用の場合にはここで馬を替えたので馬場と言う地名がのこったという。なお、商店街がつきたあたりに銭湯があり、ここは関東特有の黒湯温泉である。街歩きの後に温泉というのも贅沢である。
2024年04月29日
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少女漫画のお手本のようなストーリーである。つまりヒロインは、庶民出身で特に美人というわけではない、しかし、一生懸命生きていて性格もよく非常に好感がもてるタイプ。そして恋人は金持ちでイケメンで視聴者あるいは読者の願望を満たすタイプである。さらに、これに意地悪な金持ちの令嬢が絡めば、まさにお手本なのだが、本作ではそれっぽい登場人物はいるが、さほどストーリーにはからまない。むしろ恋の障害は恋人の母親である。ラブコメということで、まあ、ハッピーエンドは予想されているし、一話当たりの時間も短く全体の話数も少ないので、さらっと視聴するにはちょうどよい。本当は「福寿草」のようなどろどろ愛憎劇の韓国ドラマの方が好きなのだが、最近は漫画原作がおおいせいか、ちょっと傾向が変わってきているように思う。また、アマプラでの視聴が多いのだが、最近、追加料金なしで全話見られるというのが少なくなっているように思うのは気のせいだろうか。それにしても、なんでこうしたシンデレラストーリーが人気あるのだろうか。ずばり言ってしまえば、それが多くの読者や視聴者の願望だからだろう。源氏物語も「勝れたるかたち」ではない、つまり絶世の美女というほどではない中下級貴族の娘が光源氏に見初められ、中宮の母として宮中に入る物語とよめば一種のシンデレラストーリーだろう。恋愛は蓼食う虫も好き好きというように不確定要素が強い。だから現実世界でもシンデレラのような成功物語はありうるし、そうした願望につけこむ詐欺もある。ただ、時代の変化かもしれないが、かつてのように自称医師や自称弁護士の結婚詐欺というのはあまりきかなくなっているように思う。めでたしめでたしの後も人生はまだまだ続く。一度の結婚で人生安泰と思って舞い上がる人は少なくなっているのかもしれない。最後にタイトルの「高潔な君」であるが、原題どおりであるが、高潔かどうかは物語とはあまり関係ない。「猟奇的な彼女」の猟奇的もそうなのだが、同じ漢字語でも、日韓でニュアンスの違いと言うのがあるのかもしれない。
2024年04月28日
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父と娘、そして父の後妻との家族の物語である。娘といっても30歳をとうに過ぎ、後妻といっても20歳そこそこ。娘の方はリストラされて実家に戻って、なにもかも無気力で、後妻の方は家族の団らんに憧れている。そして父は「どうせなら楽しまなければ」という達観した人生哲学の持ち主である。物語がすすむにつれ、その人生哲学の背景が明らかになり、たしかにこうした生き方もあるのかな…という気になる。人生の不幸には絶対的不幸と思い込み不幸とがある。これは二分されるものと言うよりは割合の問題であろう。どうせなら人生楽しまな…という父親は娘を「祝リストラ」という垂れ幕で迎える。娘はたしかに受験戦争を勝ち抜いてきた秀才で、優れた企画書で社内の賞をとったりもするのだが、優秀を自負するだけに周囲に厳しく、周りにとけこめないところがある。こういうのは、職場にいれば願い下げにしたいタイプで、嫌われるのは当然だろう。当然、娘は自分よりもはるかに年下の父の後妻にも拒否感を持つのだが、その娘と後妻が次第に家族になっていくところがみどころだろう。尼崎市もあまろっくも行ったことも見たこともないのだが、それぞれの場所にそれぞれの歴史があり、そして必死に生きている人々がいる。そんなことも考えさせられる。よい映画だと思うのだが、客の入りが非常に悪いのが残念である。
2024年04月26日
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全国で今後消滅の可能性のある自治体として744の市町村名が公表され話題となっている。実際に東京から日帰り圏のところでも、棄農地と廃屋ばかりがめだつところがあり、いずれは自治体としてなりたたないというのもうなづける。また、農村地域でなくとも、一戸建て志向が強い時期に鳴り物入りで開発されたニュータウンが住民の高齢化で半ばゴーストタウンのようになっているところもある。かつてはスーパーがあったところが撤退し、建物だけが残っているのに実際は空き店舗ばかりという具合だ。一戸建ての住宅群はそれぞれ瀟洒なつくりであるのに、道路が森閑としているのが不思議な感じすらする。まあ、半ば限界集落したところは都心の団地にもあり、こういうところも、見上げても衛星放送のアンテナがほとんどない、人が歩いているのを見かけない、店も少なく活気がないなどの特徴がある。人口が減っていくとはこういうことである。自治体も消滅していくのかもしれないが、その前におそらく県の統合が問題になるのではないか。明治後期以降、今の47都道府県は変わっていないのだが、人口は大いに変動し、いまや100万にも満たない県が相当ある。そうした小規模な県も県庁があり県議会があり市町村があり、国立大学があり、裁判所があり、県警本部がある。行政の無駄というよりも、そもそもそんな小規模の自治体が県でありつづけることに無理があるのではないか。例えば刑事事件などはそれぞれの県毎の裁判所が所管するが、今は裁判員と言う制度があって、その県から選ばれた裁判員も裁判に参加する。都市の感覚だと、事件関係者のプライバシーの問題と言うのは実感しにくくても、例えば板橋区程度の人口数十万の県での事件を裁判員裁判にかけるとなると、被害者の中には事件を警察に届け出るのを躊躇する人も普通にでてくるだろう。また、せっかくの国立大学も人口数十万の県では優秀な若者を集められるのだろうか。かつてのように国立の授業料が安くなくなったとなればなおさらである。地元の国立大学がFランに近い水準になってしまったら、そうしたものをはたして税金で維持する必要があるのだろうかという議論もでてくるだろう。
2024年04月25日
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どうもよくわからない事件というものがある。恋愛感情を利用しての詐欺事件で女性に懲役刑が科されたというが、恋愛感情を利用して金品を受領したのって、そもそも詐欺にあたるのだろうか。昔からよくある犯罪で結婚詐欺というのがある。だいたいは男性が医師とか弁護士とかを名乗り、結婚を約束して、その後、当座の金が必要だとか何とか言って、金をまきあげる手法である。女性は、高給男性と結婚して安泰な身分?を得られるという甘言に騙されて、金を出すのであり、これも「人を欺罔して財物を詐取」になるのだろう。騙された女性の方に恋愛感情があった場合もあるが、それはあまり関係ないだろう。これに比べると、男性の恋愛感情を利用して金をいただいたのが詐欺というのはよくわからない。あの女性が結婚を約束したとか結婚を匂わせたという報道もないし、そもそも男性があの女性との結婚を望んでいたかどうかもさだかではない。もちろん女性の結婚詐欺と言うのもある。それは例えば韓流ドラマでありそうだが、財閥令嬢かなんかを名乗り、結婚すれば財閥幹部にしてやるといって、男性に近づいて金をもらうという場合などである。そうではなく、ただ恋愛感情をいだかせ、ただ同情させるような話をし、それで金をいただくのが、はたして詐欺なのだろうか。恋愛感情の有無など心の中はわからないし、それもすぐに変わりうる。恋人に気に入られるために多少の嘘や同情話をするなど、男女ともによくやる。そして恋愛継続中は金品の授受があっても不思議ではない。これを詐欺と言うのなら恋愛して熱のさめた男女の多くは詐欺師になってしまう。そしてまた、刑罰をもって処断するには、その刑罰を科してまで守らなければならない利益というものがある。自称医師の結婚話にひっかかったような打算女の財産については、まあ、守る価値があるとされているのである。これに比べると、いただき女子に恋愛感情をもって金を出した男の財産というのは、そこまでの価値があるのだろうか。世の中にはアイドルや声優に多額の金品を使う太客がいる。いただき女子に金を出すのも、地下アイドルに金を使うのもあまり違いがないように見えて仕方ない。
2024年04月24日
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仏教説話集の日本霊異記と発心集を読んだとき、その説話の違いに驚いた。平安時代初期の日本霊異記ではその多くは仏教信仰のおかげでこんなご利益があったという話になっている。ところが鎌倉時代初期の発心集では肉親の死などで世の無常を感じ出家したという話がほとんどである。仏教が受容された当初は仏教は異国の神であり、仏事も支配層中心だったが、ある時期から民衆にも信仰が広がり、それと同時に信仰の中味も現世志向から来世での平安を願うものが中心になっていったのであろう。そうした流れの中で大きな役割を果たしたのが法然上人だった。南無阿弥陀仏を唱えていればよいという簡単な教えは誰にでもわかりやすかったし、民衆は経典を読むだけの金や知識もなく、加持祈祷を頼む余裕もなかったのだから。死ぬときは阿弥陀仏が迎えに来て浄土に連れて行ってくれる。戦乱、災害、飢え、疫病など、死はどこにでもある。それに対して人々は無力だったのでそう思うしかなかったのだろう。「法然と極楽浄土」展では、そうした浄土信仰を背景にした来迎図や仏像などを展示している。阿弥陀如来の柔和そのものの御顔をみると、死の恐怖や不安を克服した表情はこうしたものかとも思う。そしてまた、日本では珍しい涅槃像も展示されている。あのポーズは、今なら寝転がってテレビでも見ている姿勢なのだが、そのくらいに平安な境地で死に臨んだ、終末の理想の姿ととらえられていたのであろう。有名な西行法師の和歌、願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃というのも、そうした理想の終末を願う歌ともとれる。如月の望月、つまり2月15日は涅槃の日である。涅槃像の周りには弟子だけでなく、すべての生き物が悲しんでいる様子を描いた像があるのだが、生き物たちのなかにカタツムリまでいるのが面白い。こうした展示の中で異彩を放っているのが江戸時代の五百羅漢図である。五百羅漢というのは仏陀の高弟達のことで、その姿を描いたものだ。そこでの高弟たちは悟りすました姿をしていない。むしろ超能力(神通)が強調されており、中には手に持った仏像から線が描かれ、不思議な力を働かせていることを表したものもある。仏典の中には、あまり超能力に関する記載はなかったと思うので、逆にこうした超能力を強調した仏画は非常に珍しい。
2024年04月23日
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「書いてはいけない」(森永卓郎)を読んだ。ジャニーズのようにマスコミに強大な影響力を持つ者に対しては批判できない、財務省のような強大な勢力に反する言論は表に出ない…というのはおそらく実態だろう。ただ日航ジャンボ機の事故の真相についての記述は信じがたいもので、それだけで、大問題になりうる。戦後まもない時期に起きた闇の事件と同様、今の日本にも怖くて触れられないものがあるのかもしれない。さっと読める本だし、内容の強烈さは一読の価値はある。今のマスコミは書けないこと言えないことが沢山ある。そう思うとテレビの報道番組のコメンテーターのつまらなさもむべなるかなである。それなりの肩書の知的美女イケメンをならべて、チャンネルを回されない程度の時間でコメントを求めるのだが、おおくはもっともらしくありきたりなものにとどまっている。そりゃそうだろう。踏み越えて批判してはいけないものを批判し、触れてはいけないことに触れるとあっという間に降板する。あのショーンKでも十分務まる。マスコミについては、強力なスポンサー企業に対する配慮、情報源であり権力機関である政府に対する配慮、マスコミに影響力を持つ芸能事務所に対する配慮など、さまざまな配慮の中で報道を行なっている。特に政権の姿勢がマスコミに対してにらみをきかせるものであれば、報道できる範囲はますますせまくなる。日本の報道が委縮しているうちに、外国からの報道や批判で問題に火がつくなんてのは、日本の報道にとっては大変な不名誉だと思うのだが、そうした反省ははたしてあるのだろうか。そういえば、ある日本企業の現地子会社の提供したシステムに欠陥があり、700人以上の郵便局長が冤罪で訴追されるなんて事件がさる国であったようだが、これについても、日本では報道が少なかったが、これもスポンサー企業に対する配慮なのだろうなと思う。
2024年04月22日
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「名もなき毒」を読んだ。この毒にはいろいろな意味がある。無差別殺人犯の使う毒、シックハウス症候群の毒、さらには人間の中にあるまだ名のついていない毒。犯罪というものも、そうした人間の毒の噴出なのかもしれない。この小説には様々な人物が登場する。主人公の大企業の会長の娘(妾腹)と結婚したサラリーマン、トラブルメーカーの元バイト、元警察官の老探偵、売れっ子ライター、地域の世話役的な商店主と芸術家気取りのバカ息子などなど。ただ、そうした中で、これは読者によって違うのだろうけど、一番リアリティを感じたのは、体が弱く定職につけないでいるバイト青年だ。両親は家を離れ、寝たきりの祖母の介護をしながら、傾いた家に住み、楽しいことの何一つない生活を送っている。頼りなげで「何かしてやりたい」という雰囲気をもっているのだが、商店主も掃除をたのんで小金を渡す以上のことはしてやれない。この前の黄金茶碗窃盗男もたぶんこんな感じだったのだろうなと思う。そしてさらに思いつくのは佐藤愛子「血脈」の最終章の「暮れていく」に出てくる佐藤家の末裔だ。「血脈」では、よくこんなのを書いたなと思うほど佐藤家(自分の血脈)のどうしようもない人物ばかりを描いているのだが、先の世代のドラ息子達が、女と放蕩する、店をつぶすなどとアクティブなタイプが多いのに、最後の末裔の青年はぼやっとした無職青年で、無気力で何も考えていないという感じになって来る。こうした佐藤家の荒ぶる血が薄れていく様を「暮れていく」と表現したのだろう。豊かで平和な時代が長く続くとこうした「暮れていく」タイプが多くなるのかもしれない。ネタバレになるので、あまり書かないのだが、作中人物にももちろん毒を持っている人がいる。そのある者はその毒で自分をさいなみ、自滅していく。物語としての後味は良くないし、エピローグ的な個所は冗長で余計な気もする。ただ、これだけの長編にもかかわらず一気に読んでしまうあたりはさすがというものであろう。暇なときや通勤電車の中などにお薦めである。
2024年04月21日
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滋賀県近江八幡市内のスーパーで、いなり寿司1パックを万引きしたとして、74歳の女性が誤認逮捕され、80時間以上も身柄を拘束されたという。こうした災難はまかりまちがえば誰の身にも起こりうることであり、こんなことがあるとなれば、買い物もけっこう怖ろしい。セルフレジがなかなか普及しないという声があるが、店員のレジとセルフレジの両方がある場合には大抵は時間がかかっても店員のいるレジに行く。やはり店員の眼のないところでの支払いは余計な疑いをよぶのではないかという不安があるからである。今回の誤認逮捕事件の背景には、高齢者の万引きが増えていることがあるのだろう。少ない年金、減り続ける貯金残高…こうしたことを背景に生活用品を万引きする高齢者も増えているのかもしれない。また、認知機能の低下でレジを通さずに店をでてしまうとか、マイバッグが普及してからは無意識のうちに商品をスーパーの籠ではなくバッグの方に入れてしまうということもあるだろう。被害者は80時間以上身柄拘束されたという。否認しつづけたためであるが、逆にいえば拘束に耐え切れずにやったことにしてしまう事案もけっこうあると推測され、そうだとしたら表に出ない誤認逮捕というものもあるだろう。そして最後にこの誤認逮捕事件では、詳細は不明なものの、スーパーのかかわりもあると思うが、そのスーパー名はニュース報道ではいっさいでてこない。これもスポンサー企業への配慮なのかどうかも気になるところである。♪強きを助け弱気をくじく それでもまずくなったなら三人そろってペコリとお辞儀ああのんきだねえ のんきだねえ♪
2024年04月20日
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週刊誌の広告をみていると、老人向けの記事が目立ち、いまどきの活字媒体購読者はつくづく高齢化していると思う。そうはいっても、マーケットのパイは限られている。内容的に競合する健康雑誌や老人向けと銘打った雑誌の広告を最近みていないのだが、こうした雑誌は廃刊になったのだろうか。さて、その週刊誌の老人向けの記事であるが、10年くらい前には高齢者と性といった記事が目についた。それが、最近では相続とかお墓の記事が目につくようである。いよいよ高齢化といっても、主力はアクティブシニアからその上の年代に移りつつあるのかもしれない。考えてみれば、戦後80年近くになる。団塊の世代も70代後半に入った。これからは、こうした高齢化の中のさらなる高齢化が様々なところに影響を及ぼしてくるのではないか。そもそも、高齢になると、ものの消費が減っていくという。そうだとしtら、これからは、いよいよ消費の縮小が進んでいくことだろう。現在、終活を主力記事にしている週刊誌も、そのうち消えていく。週刊誌だけではない。衣料や美容理容でも需要は減っていく。エンタメなども海外市場も念頭におかなければなりたたなくなるかもしれない。この頃、さかんに人手不足と言うことがいわれている。しかし、人口減少、そして高齢化を考えた時、呼べばいつでもつかまるタクシー、ぎっしりと商品が詰まっていて24時間365日開いているコンビニ、注文すればその日のうちに届く宅配…そうしたものが、はたしてこれからも必要なのだろうか。
2024年04月19日
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少子化という流れは世界の多くの国で起きているのだが、特に東アジア地域で出生率の低下が著しい。以前も書いたのだが、背景には、受験競争と教育にかかる費用、婚外子に対する差別、男尊女卑?を背景にする女性の結婚相手への期待値の高さなど東アジア特有のものがあるように思う。いずれもこの地域に長い間影響を及ぼしている儒教思想や家父長制が背景にあるのだが、このうち、受験競争の激しさや教育に金をかける点などは儒教の影響だけでは説明がつかないように思う。これらの地域では近代化が進めば進むほど、そして豊かになればなるほど受験競争が激しさを増してきているようにみえるからだ。大学までの教育費だけならともかくとして、受験のために塾だの家庭教師だのを考えると金がかかる。そのため、受験競争と教育にかかる費用を考えると子供はほしいけど、せいぜい一人ということになる。ところで、エリートコースがあるのは、東アジアだけに限らない。ほとんどの国でそうしたものがあるだろう。それなのに、欧米では受験競争の激しさが社会問題になっているとか、教育費がかかることが少子化の一因になっているという話をあまり聞かない。特殊なエリートコースの話だけでなく、そんなによく知らないのだが、国によっては12歳の成績で大学に行くコースと職業学校に行くコースを選別するところがあると聞く。ある程度の平準化が進んだ戦後日本の社会でそんな制度がもしあったら12歳の選別は大変なことになりそうである。欧米の多くの国も出生率が低下しており、それぞれの背景があるのだろうが、こうした国で教育に金がかかることが少子化の背景ということがあまりいわれないのはなぜなのだろうか。この違いは興味深い。
2024年04月18日
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浮かんでは消える議論に道州制の議論がある。今の47都道府県の枠組みは明治以来変わっておらず、その枠組みは今の時代にあっていないということが背景にある。道州制は今の都道府県に替えて道州を置くという議論なのだが、それを言い出すと甲論乙駁して収拾がつかない。道州制というよりも、今の現状をみると都道府県によって規模が違い過ぎるというのが問題ではないのだろうか。都道府県の中には人口が100万を切る県が10県もあり、一番少ない鳥取県では55万人となっている。東京の区でいえば、世田谷区が94万人、7番目の板橋区でも58万人である。人口でいえば中堅の区程度のところに、県庁があり、市町村があり、その市町村にそれぞれ市町村役場があり、議会があり、裁判所があり、国立大学があり、空港があり…となっているわけである。そのうち、小規模な県については合併という議論がでてくるのではないか。最近、知事から国体廃止論がでているというが、そういう主張をする知事は小規模県が多い。たしかに国体のような大規模な行事については県の負担は重い。もとい国体、今では国民スポーツ大会というのだが、これは別に大昔からあるものではない。戦後まもない頃に始まったもので、天皇の全国巡幸に替えて、天皇の巡幸する行事ということで始まったものだという。かつてはよく天皇が来られるから道路が一気によくなったとか、そんな話もあったというが、今はどうなのだろうか。見直し論にも一理あるように思う。※黄金茶碗盗難の話には驚いた。驚いたのは盗まれたということ自体ではなく、犯人が怪盗とは程遠いタイプで、れっきとした百貨店で警備員もいたのに、簡単に盗まれたということである。犯人はさっそく黄金茶碗を金に換え、最初の買取業者は他の業者にさっさと転売したという。貴金属買取はチラシやテレビでもさかんに宣伝されているくらいなので、けっこうな数の業者がいるだろうし、スマホ一つですぐに業者を探すこともできる。高齢化で、若い頃に買った貴金属や装身具はあるものの、使う当てもなく、贈るような子や孫もいないという人は多い。また、親の持っていた、こうした貴金属類を売って生活費の足しにしているような人も多いだろう。業者にしてみれば、もやし系の無職青年が黄金茶碗を持ってきても不審に思わなかっただろうし、マイナンバーカードで身分確認もしているので、贓物故買とするのは難しいかもしれない。ただ、うまく買い叩いたので、利益を確定させるために、他の業者にさっさと売ったということだろう。犯罪は社会の縮図であるという。そうだとしたら、この犯罪はどんな世相を反映しているのだろうか。
2024年04月17日
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実はこうした一般向けの数に関する本を読むのが好きだ。だいたいは図書館で借りるのだが、それは途中でついてゆけずにリタイヤした場合(こういうことは多い)も金銭的な後悔はなくてすむ。あの「博士の愛した数式」は小説も映画もいまだに傑作だと思っているし、ユーチューブにもこの分野の解説ははいてすてるほどあり、なかなか面白い。最近では、循環数やカプレカ数についての解説など興味深かったし、なんで今までこんなことも知らなかったのだろうかと思った。そういえばその昔、清水の次郎長が静岡で幕臣たちの生活再建の手伝いをしていたとき、旧幕臣の蘭学者から、月の満ち欠けの理由を説明され、なんで今までこんなことも知らなかったのか、長生きはするもんだ…と言ったとか言わなかったとか。まあ、それと似たようなものかもしれない。人間は数と言葉を使ってものを考えるものなのだが、言葉が自然発生的とはいえ、人間が作ったものであるのに対し、数というのは人間を超えたところに存在し続け、それを人間が発見してきたというところがある。だから非常に簡単な問題であっても、いまだに誰も証明できないというものもある。「数の悪魔」には興味深い話がいろいろとあるのだが、フィボナッチ数列とパスカルの三角形のあたりが面白い。一定の法則に従って数列を作ったり、三角形に並べていったりした場合、予想もしない別の法則が現れることがある。身近ですぐそこにある数というものにこれほど多くの不思議があるということに驚く。体裁は子供用の本になっているのだが、誰が読んでも良いだろう。
2024年04月16日
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芸能人や評論家が世に出る時には多少プロフィールをもるということがある。ヨーロッパの社交界で知らぬ人はいないほどの存在だといってデビューした評論家もいたし(いたと思うし)、剣の達人というふれこみで有名になった青春スターもいた。そうした中に、カイロ大学を首席で卒業してアラビア語も流ちょうに使えるというふれこみでデビューした美女がいた。英語を使える才色兼備の女性というだけではめだたないが、このちょっと毛色の変わった経歴の美女はたちまちマスコミの寵児となり、その後、政治家となった。ただ政治家の場合、学歴詐称は違法となる。剣の達人なんてのは問題にならないのだが、いくらマイナーな国でもその国のその大学を出たか否かは問題になる。学歴についての虚偽の記載は公職選挙法違反になるからだ。実際には、政治家は英語が使えればよい方で、そんなマイナー言語が使えようと使えまいとどうでもよいのだが、公職選挙法との関連では問題となる。まあ、ご本人は目立ってなんぼの芸能界で生き延びるために、できるだけ派手なプロフィールがよいと思って首席卒業までぶちあげたのだろうけど、まさか後年政治家としてこれほど活躍するとは思わなかったのだろう。そういえば、箱根駅伝で外国からの留学生が何人も走っている。中には本国に帰ってメダリストになった人もいる。ああいう人たちは日本語がどの程度できるのだろうか。そして日本の大学の卒業資格をもっていたのだろうか。陸上の才能を見込まれて日本にやってきて、そして大学生とはなったものの生活のかなりは陸上のトレーニングに費やされるであろう。それで4年くらい日本にいたとしても、日常会話レベルはともかく、とても、大学教育相当の日本語、つまり普通に大人の本を読む程度の日本語をマスターするとは思えないのだが。
2024年04月15日
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図書館で衝動的に借りた本である。実は土屋文明と言う歌人は名前は知っていても、正直にいって彼の歌で好きなものがあるわけではない。この本でおびただしく引用されている彼の歌を読んでもそれはかわらなかった。土屋文明が短歌の世界で重きをなしたのは歌がすぐれているからというよりも、新アララギを主宰し、多くの弟子をかかえていたというその政治力にあるのではないか。ただ短歌のよしあしは受け手の感性によって違う。たぶん、自分の場合はたまたま土屋文明の歌と合わなかったというだけのことだろう。この本の面白さは土屋文明そのものよりも、筆者の眼を通して描かれる戦前から戦後の世相にある。特に、大東京発足や紀元二千六百年の時の街の様子などは興味深い。学校で紅白菓子を配り、花電車が走ったことなどは歴史の教科書にはでてこないし、紀元二千六百年という政府肝いりで作成された歌もあったがレコードはさほど売れず、筆者周辺では実際の祝賀ムードもさほどではなかったという。また、土屋文明が諏訪高等女学校の校長をやっていたときの教え子で昭和3年の共産党一斉検挙事件で犠牲になった伊藤千代子という女性についてもかなり詳細に書かれている。実際には校長と生徒の一人と言う関係にすぎなかったが、土屋文明は以下のような哀惜の歌をいくつか残している。芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがう少女あれこそ戦前という時代はいろいろな見方ができるが、思想弾圧によって犠牲になった人々が何人もいた時代であったことは忘れてはならないだろう。伊藤千代子の生涯については映画にもなっているようである。予告編「わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯」 (youtube.com)
2024年04月14日
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この4月知合いの女性が第一志望の某大学法学部に入学をした。昔から成績優秀な子と聞いていたし、どんな方面にすすむのかと思っていたのだが、法学部と聞くとなんとなく納得した。おそらく選択肢はいくらでもあったのだろうし、医学部に進むことも可能だったのかもしれない。ただ、実際、医学部という選択をしようとすれば、医師という職業の大変さや責任の重さ、あるいは単純に血をみるのが嫌だなどの理由で躊躇する人もめずらしくないだろう。そして医療系以外の理系となると、本当に専門を活かそうとすれば大学院レベルまで要求されるし、大学院となれば就職が決まるまでは安定しない生活を余儀なくされる。それに比べると法学部の場合には資格の種類も多いし、各種公務員への門戸も開かれている。ニュースでは公務員志願者が減ったといったことがいわれるが、一般的には、特に女性の場合には公務員が条件のよい職種であることは間違いない。最近、女子の理科系の比率の低いことを問題視する議論があり、一部の大学では女子受験生を優遇する動きもあるという。その是非はともかくとして、背景には女子が理系を選ばないことがある。一般論であるが、理系のできる女子の場合、文系教科もできる場合も多い。そうだとすれば、実は女子が理系を選ばないというよりも、文系理系両方できる人が理系を選ばなくなっているというのが実態ではないか。いまどき女の子が理系にすすむなんて…ということをいう昭和脳の親が多いとも思えない。そういえばNHKでプロジェクトXという人気番組があったが、あの番組で取り上げた技術開発に邁進した世代というのは戦争を体験した世代やその少し下の世代が多かった。理系人材は戦時下において徴兵を猶予されるなどして温存されていた上、その下の世代でも理系に行けるものなら理系に行くという雰囲気があったのではないか。そうした厚い人材の層があったからこそ戦後の復興も日本の繁栄も実現できたのではないか。
2024年04月12日
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冠婚葬祭についての世の中の変化は激しい。特に、葬式については小規模家族葬が一般化しており、セレモニーホールの数は増えたが、ほとんどが家族葬を想定したものである。それでも今亡くなられる方は兄妹も多く、親族つきあいも密接だった世代が多いのかもしれないが、これからは葬儀なしの直葬というのが一般的になっていくのかもしれない。このように葬儀の方はどんどん簡素化しているのに対し、結婚式の方はそうでもないようだ。出席する親戚の範囲とか職場関係の範囲というのは、昔に比べて少なくなっているのかもしれないが、ただ、それでも、新郎側が何人呼ぶので新婦側も均衡上何人よばなければならないとか、友人は何人以上呼ばなければならないといった感覚はまだ残っている。そうなると、呼ぶべき親類や友人がいなくて困る人が出てくる。そのために親類の代理、友人の代理を派遣するビジネスがあると聞いていたが、これを実際に検索してみるとそうした代理派遣業者がいくつもでてくるので驚く。こうしたサイトには利用の申し込みばかりでなく、スタッフ、つまり代理出席する側を募集する欄もあり、隙間時間でも出来、おまけにけっこうな高収入である。たしかに一見よさげなバイトなのだが、よく考えてみると、着ていく服などは自分持ちなので、招待客に見せるためには金もかけねばならず、それほど手元に残るような感じはしない。それにこうした代理出席は、ばれないですむのだろうか。親戚の代理で行って、別の親戚から話しかけられたら、すぐにわかってしまいそうだし、友人代理についても、本物の友人から話しかけられたら、嘘がばれそうである。なかには円テーブルを囲む友人全部が代理という場合もあって、これはその場ではバレなくても周囲からはわかるだろう。そういうのは全員ドレスの色かぶりなし、みんな黙って食べるだけ、式が終わるとさっさと帰っていく…どうみても異様である。それに、新郎新婦が両方とも代理出席を了解しているのならよいが、そうでない場合には、相手に対する不信感につながるだろう。結婚式など、親戚が来ないなら来ないでよいし、友人もいないならいないでよいではないか。来てほしい友人は遠方に転勤中だとか体調が悪いとか言った嘘の方がまだましである。葬儀の方がこれだけ簡素化しているのに、結婚式については、いまだに数合わせで悩んでいる場合があるのが不思議である。
2024年04月11日
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今年の桜は開花が遅かった分、なんとなく葉の出るのが早いような気がする。樹によっては散る前から葉がでているものもあった。そしてこれも開花が遅かったせいなのだろうが、桜前線のスピードが速い。例年なら東京の桜が終わった後、群馬や栃木の桜を見に行くのだが、今年はほぼ同時のようである。さて、花見であるが、隅田川に行ってきた。押上から桜橋をわたって吾妻橋まで歩き、その吾妻橋を今度は墨田区側を歩いて戻るというコースである。今回はちょっと寄り道をみて待乳山聖天にも行ってきた。伝承によると推古天皇の時代に地中から湧き出た山が待乳山であるとされるが、たしかに下町低地にここだけ山があるのは不思議である。武蔵野台地の浸食の跡だというが、昔から入港する船の目印であり、また景勝地としても知られていたという。本堂には山のように大根が供えてあるが、大根を供えることで、心の毒を清めるという信仰があり、御供え用の大根はお寺の入り口近くで売っている。他では大根を供えるというところはあまり聞かないので不思議な感じがする。隅田川に戻って浅草辺りに行くと、外国人観光客が非常に目につき、もしかしたら日本人よりも多いのではないかと思うほどだ。円安もあって、年々外国人が増えているように思う。桜は日本人の美意識にかなう花とよく言われるが、桜を愛でることについては国境はないということだろう。このあたりでは、観光客向けに着物をレンタルするサービスもあり、着物を着て傘をさした姿で桜を背景に写真をとっている女性を何人も見かけた。こんなふうにして撮ると大抵は美人に見えるものだが、言葉を聞いてみると外国人が多い。白人や黒人もいたが、着物はやはり東洋人の方がずっと似合う。
2024年04月10日
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「白い巨塔」を読み終わった。医療と訴訟の世界を軸とした社会派小説で、その背景となった膨大な知識に圧倒される。この小説が出た昭和40年ごろにはまだ女流文学という言葉があり、女流作家と言えばなにか共通の作品世界があったと思うが、本作はそうした女流の枠をはるかにこえている。ただ、正直に言うと、最初の山である教授選のところではどうもこの作品テーマに興味がもてずにリタイヤしようかと思った。しかし、その次の山場である医療訴訟のあたりからはどんどん小説世界にひきこまれていった。主人公財前は手術した患者の診察を受持ちの医師にまかせ、海外出張に行く。このドイツ訪問の箇所は紀行文としても面白いのだが、その海外出張中に胃癌を手術した患者は肺癌で死亡する。これを遺族は胃癌の肺転移に気づかなかった財前の医療ミスであるとして訴訟を起こす。当たり前だが、損害賠償が認められるためには、医師に過失がありその過失と患者の死との間に因果関係がなければならない。手術時に肺癌の措置をしなかったことと、その後、短期間で起きた患者の肺癌死との間の因果関係を認めるのは難しいのではないか。癌は相当の期間を経て死に至る病であり、画像の見落としなどで早期発見の機会を逸したのとは違う。いくら患者遺族から見て医師が傲慢で手術後一回も患者を見なかったのが不誠実であったとしても、これだけでは損害賠償にはならない。非常に面白い小説なのだが、新進気鋭の弁護士がよくこんな訴訟を引き受けたとも思うし、調査や鑑定にも膨大な費用がかかるので、困窮する遺族が経済負担に耐えうるかも疑問である。同じ専門職でも医師は保険制度があるので貧しい農婦でも早期胃癌の手術ができるが、そんな制度のない法曹では弁護士費用や訴訟費用は遺族がすべて負担する。ただ、この小説、医療訴訟の控訴審の場面が一番面白い。訴訟では財前は肺転移に気づいていたという主張をする。そのために、部下の医師や看護婦に虚偽の証言をさせたり出廷を妨害するような工作をする。その財前の主張を原告側の弁護士らが覆していく。財前の主張の虚偽を暴く法廷場面が小説でもドラマでも最大の見せ場となっている。小説の流れでは、第二審は原告勝訴となるのだが、胃癌手術後に化学療法で延命できたはずであるので、患者の死を早めたことに損害賠償責任を認めたのはやはり無理があるだろう。当時は癌は今以上に不治の病であり、化学療法も緒についたばかりだったのだから。そしてまた、癌は患者本人に知らせないというのが常識だったので、たとえ死期が伸びたとしても、患者が経営する商店について自分の死後の準備をするとも思えず、商店の経営悪化や遺族の困窮が防げたとも思えない。この小説の最後については、こうした形の結末が一番すっきりするのかもしれないが、ややご都合主義の感じがしないでもない。ただ癌は患者本人には絶対に知らせないというルールが固く守られている点については、今日から見れば隔世の感がある。この時代には、癌の告知はタブーであり、癌を告知された高僧がショックのあまり気が狂ったという話がまことしやかに語られていた。
2024年04月09日
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ニューストピックスに節約で削ってはいけない三つの項目という記事があった。科学が解明した「節約で削ってはいけない」3つの出費 - トピックス|Infoseekニュース交際費、教育費、健康維持費の三つであるという。単に節約するというだけなら、金を使うようなことは何もしなければよい。しかし、それでは、金は残るかもしれないが、人生の楽しみもなくなるだろう。その意味で、交際費は削ってはいけないというのはわかる。ひと月に一度、あるいは年に一度でも大切な人との交流は生きがいになるし、生活の張り合いにもなる。ただこれも交際の中味を精査して、自分にとってそのつながりが本当に維持したいものなのか、そうでもないのかを考えてみる必要がある。自分にとって、なによりも心地よい関係で、適度に刺激があって、資するところがあるとか、自分にとって大切な友人であると思える関係であれば切ってはならないだろう。教育費も将来の収入になるかどうかはともかく削ってはならないものだろう。やり方や内容にもよるが、勉強ほどノーリスク、ハイリターンなものはない。ただこれも、金をかけだすときりがない面があるので、目標を定めたら、できるだけよい方法を考えるべきだろう。最近ではネットでも教材となりうるものが沢山ある。最後に健康維持費であるが、健康が何よりの財産であることを考えれば、これは出費と言うよりも財産維持費と見た方がよい。その意味でもちろん定期的な検診というのは欠かせない。ただ、昨今話題のサプリなどはむしろ「気分」消費とみて、数を絞った方がよいのかもしれない。運動についても、散歩や自転車など金のかからない方法があるし、自治体のスポーツ施設を安く利用する方法もある。高価なスポーツクラブは必ずしも必要ないのではないか。もっともそのスポーツクラブが交際の場というのであれば話は別であるが。いっぽうで削ることが可能な出費と言うのはどんなものがあるのだろうか。まず書籍費でこれはほとんど図書館で代替できる。はやりの本などその時期に買いたいものもあるが、本当によい本ならしばらく待てば図書館でも読めるし、人から借りたり、古書で買うという方法もある。なお、あくまでも個人的な感想であるが、一時的に売れる著名人の生き方指南書のようなものは、文章力の高さもあって読むときはさらりと読めるが、後では金と時間の無駄だったと思うものがほとんである。たいていはそれができれば苦労はないよ…ということしか書いていないのだから。次は喫茶店などに使う金である。歩いていてコーヒーが飲みたくなった時や、こじゃれた店をみつけた時などつい喫茶店に入りたくなる。しかし、こういうことをやっているとけっこうな出費になる。喫茶店に入る楽しみはやはりたまの贅沢としてとっておきたい。贅沢はたまにあるので贅沢として楽しめるものである。まあ、これは金のない自分の感想であって、金のある方にはどうでもよいことだろう。最後はほしいものがあったときもすぐに買わないで一日考えてみる。他のところで似たようなものが買えないのかどうか、今あるもので代替できるのかどうか、本当に自分はそれがほしいのかどうかなどである。考えてみて気の変わることは多い。ついでにいえば、現金はあまり持ち歩かず、今週はこの額以内に出費を抑えるとかいった目標を決めておく。そうすると衝動的に金を使うこともなくなるし、常に金のかからない方法を模索する生活習慣が身に着く。食材の無駄を省くのは当然として、生活用品でも修繕や繕いで長く使おうと思えば案外と長く使えるものである。
2024年04月08日
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世の中にはなんでも「右」とか「左」に分けたがる人がいる。自民党のある議員がX投稿で、離婚後の子どもの養育に関する制度の見直しに関し「法案を議論する有識者会議に極左活動家を入れているようでは絶対にダメです。公安の協力を得て、締め出せ」との意見を法務省に伝えたという。こうしたことの背景には、一部の人々が共同親権導入については、慎重派を「左」と呼んで非難していることが背景にあるのだろう。人生が様々であるように、夫婦の形、そして離婚の形も様々である。DV夫や妻にたかることしか考えない夫もいれば、養育費を払っているのに子供と自由に会えないことに不条理を感じている夫もいる。様々な事例があることを念頭にいかに弊害の少ない制度を構築していくかが重要であり、これは「右」とか「左」とかとは無関係の話だろう。重要なのは、個々の家族、特に子供にとってどんな制度が一番望ましいかということではないのだろうか。右とか左とかいう言葉とともにリベラルと言う言葉もよく使われる。リベラルとは文字通り自由という意味で古典的な伝統からの自由ということを意味する。この意味では、夫婦別姓や同性婚の問題などは、伝統からの自由というリベラルなのであるが、じゃあ、はたしてリベラル≒左というのはどうなのだろうか。どうも違うように思う。一説によると右というのは内外で分け、左と言うのは上下に分ける思考法だという。そうかもしれない。右は自民族や自国民とそれ以外を分け、左と言うのは強者と弱者、富裕層と貧困層で分けるという思考が顕著だ。そうしてみると、夫婦別姓や同性婚は左というのとはあまり関係なさそうに見えるし、実際、関係ないだろう。選択的夫婦別姓導入の議論は財界からも起きている。世の中の問題は複雑でひとすじなわでいかないものが多い。こうした問題について、なんでも「右」と「左」に分け、罵倒するのはあまり生産的ではない。共同親権の問題だけでなく、原発の問題、安全保障の問題なども然りである。
2024年04月07日
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台湾地震の報道で一番印象的だったのは避難所の映像であった。場所は体育館かどこかだと思うのだが、テントが整然と並んでいる。これが震災から数時間後のものだというので再び驚いた。避難所といえば、雑魚寝の映像が普通だと思っていたし、これでも暴動や混乱が起きないだけましだと思っていたのだが…。※紅麹を使用したサプリの被害が広がっている。高齢者はものを買わないというが、健康不安は高齢になるほど多くなる。そこそこの値段で安心を買うサプリというのは有望な市場なのだろう。実際、サプリの売り上げはここ数年で増加しているという。ただああいったものは一種の気分消費であるし、買う方もたぶんそれはわかっている。もしかして毒にも薬にもならないのかもしれないが、毒になることは絶対にないという最低限の安心感があるので買う。だから今回のサプリ被害は当の製品のみならず、サプリ市場全体に影響をするかもしれない。特にサプリのうち、機能性表示食品は国が安全性や機能性の審査を行っているわけではなく、届け出た情報をウェブサイトで公開しているだけだ。そうしたものは素人がみてもわかりにくいし、おそらくそのサイトを見る消費者は少ないのではないか。よく宣伝している商品だから買う、一流企業の商品だから買うというのが実態だろう。機能性表示食品というように食品と銘うっていても、錠剤やカプセルになっていれば機能も安全性も、素人が判断するのは不可能である。そしてまた、製薬会社の方もサプリで稼ぐことを覚えると地道な薬品開発に手が回らなくなるということがあるのかもしれない。薬品を世に送り出すのには大変な手間がかかるのだが、機能性表示食品は会社の信用と気の利いたネーミングや広告の仕方で売れる。今度の騒動はサプリ市場そのものの曲がり角になるのかもしれない。
2024年04月05日
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知合いの話なのでぼかして書く。仮にAさんとする。Aさんは有名大学を卒業した後、難関国家資格取得のための勉強をしていたのだが、それも10年ほどであきらめ、その後は定職につかずに暮らしている。父親は数年前に亡くなったのだが、母親との関係は良好で、時々は一緒に旅行に行くこともあるという。大学卒業後、就職をしないことについて、両親は何も言ったことがない。裕福そうな家で不動産収入だけで暮らせるのかもしれないし、何か他の背景があるのかもしれないが、そのあたりのことはわからない。ニュース報道だけをみると、中年の無職の娘息子をかかえた家庭は皆爆弾を抱えているようにも見えるのだが、実際にはAさんのように中年の無職の娘息子が親と良好な関係を結んで、平穏に暮らしている家庭と言うのもけっこうあるのかもしれない。ちなみにAさんは男性である。考えてみれば家族の形も時代によって変わる。農家などに5人も6人も子供が生まれ、その子供らが皆成人するなんていう家族の形は明治後期から昭和戦前にかけての非常に特異な世代だけのものだったのではないか。次の世代では勤め人の家庭で2人か3人兄弟で育つというライフスタイルが多くなっていく。そしてさらにその次の世代あたりで急速な未婚化が起きるわけである。考えてみれば兄弟が多くいて、しかも、長男が親と同居するという家庭では、いつまでも未婚で家にいるというのは難しい。いくら広い農家の家でも成人した人間が何人も住めばさすがに狭いし、ましてや兄嫁が家にやってきて子供も生まれれば、成人した兄弟は家を離れるのが普通であった。それが次の世代になると事情は変わり、成人しても実家の居心地はずっとよくなる。親は頑張って郊外に広い一戸建てなどを建て、立派な子供部屋も作ってくれた。平均寿命も延びたので、子供が成人しても元気な親も多い。そうやって成人した子供と老親とが暮らす家族形態と言うのが非常に多くなっている。それでも、子供が無職の場合は年金だけでは苦しいという場合があるのかもしれないが、子供が勤めていていくらかの給料を入れてくれる場合には、親子ともに生活費が助かり、金だけをみればWINWINとなる。子供は居心地の良い実家に居続け、親は健康であるかぎり子供との暮らしを生きがいにする。なんかそういう家族が最近では多いのではないのだろうか。親はいつかはいなくなる。遺されたのが子供一人だと高齢単身世帯になるのだが、兄弟が二人とも親との同居を続けたような場合には老兄弟世帯となる。最近ではそうした兄弟の世帯が少しずつ増えているという話もある。それにしても、いくら実家が居心地が良くても…人間は生物である限り、成人すれば繁殖の相手を求め、次の世代を作ろうとする。人間以外の動物はすべてやっていることで、人間にもそうした本能はインプットされているはずだ。だからこそ、恋愛は永遠の芸術のテーマであり、関心事のはずなのだが、最近はどうもそうでもないのかもしれない。人気アニメの「葬送のフリーレン」にこんな言葉がある。我ら滅びゆく種族、生殖の方法などとうに忘れてしまった。
2024年04月04日
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小説を読む楽しみの中には物語を追うだけではなく、そこに描かれている時代や社会を知る興味もある。「白い巨塔」第四巻を読み終わったが、昭和40年という記憶にある時代であっても、今とはずいぶん違うことにあらためて驚く。まず、物語の主要登場人物の佐枝子は大学を出た後、特に勤めをしていない。家には女中もいるので家事手伝いというわけでもない。その彼女は元看護婦からは「なに不自由ない身の上」と言われる。佐枝子は主人公財前の恩師である東教授の娘で特に資産家の娘と言うわけでもないのだが、それでもこの時代、若い女性が勤めを持たないでいてもさほど奇異ではなかった。もしかして、それ以降でも、社会の一部では、ずっと後まで、未婚女性が無職のまま親と同居するという生活形態があり、それが中高年女性のひきこもりという問題につながっているのかもしれないのだが…。次にこれは物語だからかもしれないが、社会にははっきりとした階層があり、医師と看護婦はあきらかに別の階層として描かれている。この感覚がわからないと昔の昼メロで医師と看護婦の恋愛に病院長の娘が絡むという展開は理解できないだろう。医師と看護婦は「身分違い」という恋愛の障壁があったわけである。今では、医師の娘や息子が看護師になっても、さほど奇異とも思わないので、これは理解できない感覚である。また、この物語には、いわゆる看護婦、女中、水商売以外で仕事をする女性はでてこない。医師夫人は専業主婦であり、夫人同士の会合があるが、そこでの序列は夫の地位である。よくいわれるように女性の地位が低いというよりも、女性の地位は夫によったわけである。それ以外でも、レントゲン写真で名人芸のように病巣を診断するなどMRIやCTのある現代では隔世の感があるし、癌の場合に病名を患者に知らせないというのも今とは違う。しかし昭和40年代といわなくとも、昭和の終わりくらいまでは癌の場合、本人に知らせないことが普通であった。
2024年04月03日
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昨日あたりから桜も咲きすすんでいるようなのだが、どういうわけか満開に近い木とほとんど咲きすすんでいない木との差が例年に比べて大きいように思う。自分がそう思っているだけなのだろうか。それとも、温暖化を背景に桜の咲き方自体が変わってきたのだろうか。一方、我が家のテーブルの上の旭山桜。かなりの花が散ってもう終わりだと思っていると、まだまだ小さい花芽がある。思ったより花期が長く、本番のソメイヨシノが散るまでもつかもしれない。ところで唐突に入って来た静岡県知事辞任のニュースだが、きっかけは、県庁の入庁式での挨拶なので、しっかりと音声も残っている。問題になったのは「毎日毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいは物を作ったりとか、ということと違って、基本的に皆様方は頭脳、知性の高い方たちです」という箇所で、挨拶全文をみればよいことも言っているのに、やはりこの個所はまずいだろう。いまどき、野菜を売るにしても、牛を世話するにしても、ものを作るにしても、相当の知性を必要とする。こうした発言はアドリブで言ったものとも思えず、公人として問題視されることに気づかないわけがない。なにか、最初から辞め時を狙っていたとしか思えないのだが…。
2024年04月02日
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東京では開花宣言をしたというが、我が家の近所の桜はさっぱり咲いている様子がなかった。それが昨日の季節外れの暑さのせいかようやく咲き始めている。桜の開花は一時間単位ですすむ。朝よりは昼、昼よりは夕方の方が咲いている花が多い。開花予想はだいぶ前にでていたのだが、遅れに遅れてようやくという感じである。桜祭りを主催しているところはほっとしているのではないのだろうか。開花の遅れは暖冬のせいで休眠打破が起きなかったという説もある。あまりに冬が暖かいと開花のスイッチが入らないのだという。昔は鹿児島の開花が全国で一番早かったのに、最近では高知あたりが最初となっているのは鹿児島の冬が暖かくなりすぎたためだそうだ。この間、亀山温泉に行ったとき、茂原の桜祭りにも立ち寄った。茂原は内陸で冬が寒いせいか、東京よりも桜は咲きすすんでいたのだが、それでも三分咲きといったところだろうか。弁天池を真ん中にした公園でなかなかよいところなのだが、あちこちでシートを敷いて花見をしている人々もいた。なかには数人のグループなのに、○○市〇門会と幟をいくつもたてているものもあった。また、弁天堂近くには、ちょっと露出多めのコスプレのお姉さんがいて、それをいっしょうけんめい撮影している初老の男性がいた。いったいこの二人はどういう関係なのだろうか、プロという感じでもなかったし…と余計なことを考えたりした。こんな趣のある公園は満開のときにできればきてみたかった。
2024年04月01日
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千葉県の亀山温泉に行ってきた。温泉施設はときどき行くのだが、やはり気に入るのは一見して温泉とわかる特色のあるところだ。この点、亀山温泉は塩分を含んだ黒湯で、温泉気分を満喫できる。東京初め首都圏にはこうした黒湯温泉が多いが、これは関東平野のなりたちとも関係がある。関東平野の海底にある太古の植物の腐食成分が混入するために、黒色を呈しているのだという。こうした温泉は火山性の温泉でないために、もともとの温度は低く、そのため加熱してあるのだが、だいたいにおいて熱すぎないところが多く、これもよい。訪れたのはホテルで日帰り入浴もできるところであったが、そこで食事をすると入浴料は500円となる。食事で注文したのは、そこの名物らしい親子丼だが、サラダとみそ汁、香の物がついて800円だったので、全体では1300円といったところか。ここには、亀山湖を一望できるテラスもあり、ちょっとした旅行気分を楽しむことができた。帰りは東京湾アクアラインを使ったが、海ほたるには、海底トンネル工事のシールド工法につかったカッターがそのままモニュメントとして展示されている。これがちょうど青色にライトアップされていて、このモニュメントのある一角だけ、青い光の中にカッターが光っている不思議な光景になっていた。
2024年03月31日
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あるサプリ商品による健康被害が問題になっている。ここ何年かはテレビでも新聞でもサプリの広告が目立っている。背景には、若者の市場が若年人口の減少と若者自身の酒離れ、車離れ、海外旅行離れと縮小の一途なのに対し、高齢者市場の方は拡大しつつあり、しかも、健康不安を抱えて、サプリ購入もちょっと背伸びすれば手が届くという人が多いためだろう。サプリは厳密な医学的説明もいらないし、年齢の割に若々しい著名人や、効果がありましたよという一般人を広告に使うだけで十分に購買意欲をかき立てることができる。買う方も医薬品のような厳密な効果は期待せず、あの芸能人の〇〇さんが飲んでいるのと同じものを飲んでいるので若返った気がする…という程度のものであろう。いわば気分消費である。ただ、こうしたサプリを飲む場合には前提がある。それは、薬にもならないかもしれないが、絶対に毒にはならないという信頼である。だからサプリといえども、聞いたことのないメーカーのものや機能性食品という表示のないものは、ちょっと購入に躊躇する。なにしろ服用して体の中に入れるものなので、その程度は考えるだろう。それが、今回の紅麹を使ったサプリは名の知られた会社の製品で機能性食品の表示もあった。それが死亡者まででるような健康被害を引き起こしたとなると、この製品のみならずサプリそのものに不安を感じるという人もでてくるのではないか。日常食べる普通の食品と違い、サプリは一見して原料がわからず、そこに未知の製品が入っていたかもしれないとなると、大丈夫なのだろうかと思う。しかも、サプリは医薬品のような効果や副作用について厳密なチェックもなしに販売されているとなるとなおさらである。機能性表示食品制度は2015年、経済成長戦略の一環として導入され、届け出のみで国の審査はないという。使用者が成分等をよく見て、自己責任で服用しろということなのだろうが、野菜や魚介と違い、錠剤やカプセルの形をしたものについて、成分表示だけで判断するのはなかなか難しい。ましてや今回の健康被害については、その原因が紅麹ではなく、未知の成分だなんていうと…。※※最近、野球選手の通訳のカジノ依存症について連日のように報道されている。あんな報道をみるにつけ、日本にカジノを導入しようという人の気が知れない。日本にはすでにパチンコなどがあるではないかという議論もあるが、カジノは金額の桁が大きい。それにパチンコだってすでに依存症が問題となっているのに、なぜさらに日本にカジノを導入しようとするのだろうか。横浜市民はカジノを導入しようとする市長にNOをつきつけ再選を阻止したのに…。
2024年03月29日
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同性婚訴訟に関して憲法上の文言「両性」はかならずしも男性と女性という意味ではなく、人間個人と読むことが法解釈の上では主流になっているという。憲法といえどもしょせんは人間が決めて人間が解釈するものなので、こうしたこともあるのだろう。無限に続く円周率は未来永劫変わらなくとも人間が決める学習指導要領や人間が行う初等教育ではぴったり3にすることができる。法解釈は自然科学ではなく、その時々の世の中の価値観によって変わりうる。今の潮流が続けば、おそらく様々な場で同性カップルが異性カップルと同様の扱いを受ける日も遠からず来るだろう。同性婚については国によっては反対のデモがあるともいうが、日本の場合はそうした動きはない。日本では同性愛は宗教的タブーでもなく、まあ、好きにすればというのが普通の感覚だからだろう。LGBT差別も選択的夫婦別姓も似たようなもので大多数の人はLGBTを差別する気もないし選択的夫婦別姓もやりたければどうぞである。ただ、だからといって普通の人は自民党の「家父長的な家族観」なるものに、もしあったとしてもなのだが、怒っているわけでもない。LGBTだの夫婦別姓だのを自分の一票を決めるための重大なテーマだとは思っていないというだけのことである。こうした同性カップルが制度的に異性カップル同様の権利を得る日がきた場合に考えられることがある。それはルームシェアしている独身者同士が、同性カップルとして届け出るという動きがでてくるのではないかということである。外形的には同性の二人に性的関係があるかないかなんてわかりようがない。婚姻関係に入ることで、配偶者手当を貰える、公団住宅に入居しやすくなる、結婚休暇がとれるなどの利点があれば、その利益を得ようとするわけである。こうしたものについて制度の悪用とみる見方もあるが、次のような反論もあるだろう。ルームシェアするほどの紐帯がある者同士には、それ相応の精神的なつながりがある。なぜ性関係の有無で差別するのだろうかと。
2024年03月28日
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この頃、毒親とか親ガチャとかいう言葉をよく目にする。毒親はもちろん親ガチャという言葉も多くの場合、親ガチャにあたったというよりは、外れたという立場で語られることが多い。また、児童虐待も、ニュース種になるような酷い事例もあるが、それだけでなく、親が子供に勉強を強要するような例も「教育虐待」に当たるというように、親の虐待の範囲もどんどん広がっているようだ。あたりまえだが、完璧な人間などいないし、親だって同様だ。いたらない点は多々あるし、子供にだって申し訳なく思うことだってあるが、それをもっていい年をした大人が自分の親は毒親だったなんていうのはどんなものだろうか。いい思い出ばかりではないにしても、一人の人間を赤ん坊から大人になるまで育てる苦労はなみたいていのものではない。そしてもっと腹が立つのは親ガチャという言葉だ。まあ、健康に生んでもらって大人にまで成長して、思い通りにならない人生を親のせいにすること自体、精神がふやけているとしか思えないのだが、こういう言葉を使う人の親ガチャ当たりとは何をいうのだろうか。働く必要のない資産家とか〇〇二世といったものも世間にはあるが、そんなものはごくごく少数だろう。そうではなく、望む学校に入れなかったり、望む職業につけなかったりしたのは親に金がなかったせいだとなると、まったくもって何を考えているのだろうか。ろくに努力もしてこなかった人間が、それを親のせいにしているとしか思えない。よくいわれる学力と親の所得との相関関係なるものも、あくまでも統計として見た全体的な傾向であり、単に偏差値的能力に恵まれた子の親は偏差値的能力に恵まれている場合が多いというだけのことではないか。こうした親子の能力の統計的相関はスポーツや音楽の才能でもみられることだろう。ただ、偏差値的能力に恵まれている親は医師や大企業管理職などの高収入の職についている場合が多いというだけのことである。相関関係と因果関係を混同してはならない。毒親だとか親ガチャだとかという人は、おそらく親になんかしてやろうなんていう概念はもちあわせていない。それどころか、成人してからも、親がなんやかんやで支援をするのを当然だと思うのかもしれない。こんな言葉が蔓延するような時代…ますます少子化がすすむことは間違いない。
2024年03月27日
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「白い巨塔」をようやく第三巻まで読み終わった。主人公の担当した手術についての医療訴訟の第一審が終わったところなので…結末を知っている人はいわないでほしい。この小説がかかれた頃には医療過誤というのは社会問題になっていたのだろうか。現在も医療訴訟はどこかで起きているのかもしれないが、患者の遺族が主人公を医療過誤で訴え、それが大報道されるというのは、今ではちょっと考えにくい。小説では、主人公の財前医師が胃癌患者の手術前の肺の断層撮影を行わず、そのため肺癌の転移を見落とし、手術は成功したものの、患者はその後、肺の容態が悪化して死亡する。当時は癌といえば不治の病という認識が強く、癌患者には告知しないのが普通であった。この場合、もし肺癌の転移に気づいたとしても、それにより胃癌の手術を先延ばしにすれば、結局、患者は胃癌でなくなったのではないか。また、胃の手術と肺の転移巣の悪化との関係は現代の医学ではどこまで解明されているのだろうか。たしかに、なんらかの刺激を与えて癌が急速に悪化するという話は聞くので、そうした事例がないわけではないが、確率の問題なのかもしれない。こうした場合、現代では患者に病名を告知した上で、あえて手術をすれば転移巣が悪化して生命を失う危険があるが、完治の可能性もある、逆に手術をしなければ、寿命は多少伸びるにしても、結局は胃癌で死亡するということで、患者に選択を任せるのではないか。いくら患者の遺族から見て医師の態度が不誠実であり横柄にみえたとしても、この昭和40年頃の時代に、これで医師の責任を問うのは無理なように思う。そういえば今でも医療訴訟のニュースはたまにみかける。中には酷い病院もあるものだというのもあるが、不適切な治療で90歳代の老母が死亡したというのになるとどうなのだろうか。あたりまえなのだが、人はいつか死んでいく。人が死ぬたびに、病院が悪い、施設が悪いということになると、医療や介護に携わる人々の負担は増えるばかりのように思う。
2024年03月26日
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埼玉県坂戸市の北浅羽桜堤公園に行ってきた。公園内には200本の安行寒桜が植えられており、今がだいたい見ごろとなっている。ソメイヨシノよりやや紅いが河津桜よりは淡く、そして河津桜とは違って大木となる。先週まで桜祭りがあったようだが、ちょっと祭りの時期が早すぎたのかもしれない。暖冬だったのだが三月は寒い日が多く、開花が遅れたのかもしれない。桜祭りにはこれがある。着いたのが夕方近いということもあったのだが、さほど混んでもおらずに、ゆっくりと花を楽しむことができた。ただ、場所が越部川の堤防沿いなので、堤防に登って桜を上から見ようと思うと、堤防に登る足場が少ないのは要注意だろう。堤防の上の遊歩道は整備されているのに…と思う。河津桜はとうに葉桜となり、本命のソメイヨシノの開花前に、花見を楽しめるのがうれしい。戦後に自然交配によってできたという河津桜も今ではあちこちで見かけるようになり、本場の河津以外にも、神奈川の松田山や千葉の八千代などの名所もうまれている。河津桜よりも、さらに開花の速い品種としては土肥桜や熱海桜もある。そのうちソメイヨシノに特化した開花宣言や桜前線といった言葉も消えてゆくのだろうか。それでもやはりソメイヨシノは特別な品種でありつづけるのだろうか。我が家の旭山桜もほぼ満開を迎えている。外で見る桜もよいが、家の中の桜もまたよいものである。
2024年03月24日
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終戦直後の日本をゴジラが襲う。実際にはそんな事実はなかったわけなので、一種の架空世界の物語である。ゴジラにより空襲による破壊を免れた銀座の街は壊滅し、海軍の生き残り達がそれに立ち向かっていく。ゴジラは一種の破壊神で、災害の暗喩という見方もできる。それは、原爆のようでもあり、震災のようでもあり、いつかやってくるであろう首都直下地震のようでもある。なお、日本では人災である空襲も災害のようにとらえられている。それに対する元海軍軍人の中心は技術士官であり、ゴジラ撃退のために作戦を練っていく様子は、プロジェクトXを連想させる。戦争はまず高等教育を受けていない若者から動員され、そして学徒出陣も法文系の学生から行われた。軍隊でも技術系の人間は比較的安全なところにいた。そうして生き残った技術系の人材はどっかで戦場で死んだ同世代の者に対する負い目のようなものがあったかもしれないし、無謀な戦争を行った国家というものに対する不信感もあったであろう。戦後の復興はこうした技術系の人材なしではありえなかった。航空機や武器を作る技術は自動車や他の製品開発にも生かすことができたし、そうした優れた製品が日本に繁栄をもたらした。ゴジラが海に沈んでいく最後の場面は、終戦直後の荒廃や飢餓を克服していったことに重なる…こんな見方は考え過ぎだろうか。なお、俳優の吉岡秀隆氏は昔「半落ち」という映画をみたときには下手な俳優(もちろん主観)という印象をもっていたのだが、この映画では非常に上手いという印象しかない。そういえば映画「Winny」でも脇役ながらよい演技をしていたのを思い出した。
2024年03月22日
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今日は地下鉄サリン事件から29年になる。朝、日比谷線で異臭が発生したというニュースが流れ、そのうち何人もの人が倒れているということになると、これはただごとではないと思った。その日は午前中の出勤を見合わせた人もいたという。この事件については事件関係者の裁判も終わり、死刑確定者の執行も終わったので、歴史の一部になりつつあるのかもしれない。ただ、事件が宗教団体によるものと判明してからは「マインドコントロール」論者がマスコミをジャックしたような現象が起こり、事件は社会に反感を持つ一人の悪魔的人物と彼にマインドコントロールされた人々によるものという印象がふりまかれたように思う。たしかに異例の数の死刑確定者がでたのだが、その一方でサリン実行犯の中には最初から無期懲役を求刑された者もいたし、一審で無期懲役判決がでたものもいた。地下鉄サリン事件のリムジン謀議の場にいながら全く刑事責任を問われなかった者や微罪ですんだ者もいる。そして一般信者の中には本を出版して評論家のような活動をしていた者もいた。「マインドコントロール」論は教祖以外のテロ実行犯や信者達にはやさしく作用したのではないか。人格の解凍、再凍結などといったマインドコントロール論は理解不能だし、もしも、そんな人間を操る技法があるのなら、とっくに商業や軍事などの分野に応用されているだろう。実行犯自身の手記「オウムと私」や「悔悟」を読んでも、マインドコントロールされたことは否定しているが、犯罪に至る心理はそれでもわからない。特に「オウムと私」ではサリン散布のために地下鉄に乗ると父の形見のコートを着た自分の姿が窓に写っていたという。そのときに少しでも翻意を考えなかったのだろうか。それとも、サリン事件を実行する頃には実行犯達は本当にオウムが政権を取るとでも思ったのだろうか。別の死刑となった実行犯は、文武両道の優等生で友人も多くボランティア活動も行っているような青年だった。それが出家後わずか二か月で弁護士一家殺害に関与し、幼児殺害に手をそめた。人間というものは、集団になると個人ではとうてい考えられないような行動を行うという特性があるのかもしれない。国家や企業が行う犯罪的行為であっても、手をそめた人々は往々にしてよい友人であったり、立派な家庭人であったりする。集団…といえば、最近、起きた某大学生のサークルによる旅館損壊事件というのもわけがわからない。障子を破くなんてことは子供だって普通はしない。これも理解不能な行動である。
2024年03月21日
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一説によると現生人類と旧人類との差は噂を信じる能力の有無であるという。噂を信じることで人は大集団を形成し、その大集団で文化が伝播し、やがては文明が生れた。おそらく人類の黎明期とともにあった宗教や人類最古の職業の一つである王。こうしたものの権威も噂に基づくもので、集団のほとんどの人々は王に接したこともなければ、神をみたわけでもない。それでも宗教や王の権威で大集団が形成されたのは、多くの人が見たこともない神、会ったこともない王のありがたさを噂として信じたからだろう。今では情報も発達し、現代人は古代人が想像もできないほど、多くの知識を得ている。雲の上に人間と同じような姿の神様がいると信じている人は少ないだろうし、王制を維持している国でも、王様が他の人間とは違った能力をもっていると信じられているところはあまりないだろう。それでも宗教は当分の間は消えそうにないし、王制を維持している国も減ってはいるものの、残存している。そうだとしたら、現生人類には噂を信じる能力の他にもう一つの能力があるのではないか。つまり本当は信じていない噂を共同体の秩序維持のために温存する能力である。つまり、神様はたぶんいないと思うけど、いるということにしておこうというわけである。人が大集団を維持するためには、なんらかの共同幻想が必要であり、そして時にはそうしたものを信じていなくても信じているふりをすることが必要なのかもしれない。
2024年03月20日
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いまさらながら「冬のソナタ」をみている。このドラマがブームになった頃には、実は韓国ドラマには否定的な印象をもっていた。設定にとにかく無理があり過ぎで、特に、記憶喪失ならともかく、別の記憶を注入などそれはありえないだろう。それに、ヨン様は大人気だったけれど、あのスタイルはほとんどコスプレだし…。しかし、実際に観てみると、音楽や画面の美しさなどブームになるだけのことはあるなと思う。一枚の写真をたよりに実の父を探しに転校してきた少年。しかし、写真で母親と並んでいる男性は二人いる。いったいどちらが実の父なのだろうか…というわけでこの謎は最後までひっぱる。男性の一人は恋人の父親で、もしこちらが実の父なら恋人は異母妹になってしまう。ストーリーは愛する二人に、異母妹疑惑だけでなく、次々と恋の障壁が襲いかかるという展開。はたして二人は結ばれるのか。なんとなく懐かしい物語である。それにしても、ヒロインには、婚約式をすっぽかしたり、仕事ではプレゼンを放棄して帰ったりと、どうかと思う行動が多いし、つっこみどころは多々ある。ただこうした大時代で古めかしい物語を、思いっきり綺麗な映像や音楽とともにドラマ化したので、大いに人気を博したのだろう。韓流ドラマも、記憶喪失、難病、交通事故、出生の秘密などがからむどろどろの愛憎ドラマが多かったのだが、最近ではwebトーンというスマホで読む漫画を原作としたものが多くなって傾向が変わってきたようだ。韓流ブームの原点である「冬のソナタ」を見てそんなことも思った。
2024年03月19日
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