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NHKの朝ドラでは、戦前を舞台にして、当時の女性差別や家父長意識と戦うヒロインの姿が共感をよんでいるという。いまなお日本には女性差別があり、家父長的意識が根強く残っているという人もいる。そういう人に言わせると、憲法にはその第14条で平等をうたっているのにまだまだ日本には女性差別が…はて?戦前の日本には師範学校など女子に開かれていた教育の場はあったし、高等師範のような高等教育の場もあった。そして世界でも珍しい女子医大も戦前からの歴史を誇る。弁護士や医師の試験は難関ではあったが、試験自体は平等公平であった。そういえば子供の頃にも女医さんというのはたまにいた。たしかに戦前には女性に門を閉ざしている世界は多かったし、志ある女性にとっては不本意な面もあったであろう。しかし、同時に兵役は男性だけであり、人口ピラミッドでみると、しばらく前までは、戦争に行った男性のところだけが大きくへこんでいた。戦場で死んだり、傷害を負った男性は多かったわけである。さらに、現代では、女子に門を閉ざしている世界というものはほとんどない。女子に最初から門を閉ざしている世界はないし、ある私立医大で女子を不利に扱ったと言えば大変な社会問題になったのは記憶に新しい。そしてその一方では、国立の理系の入試で女子を優遇する動きもあり、こんな男子差別のやり方はさしたる議論もなく広がりつつある。どこかの県で公立高校が男女別になっているのは問題視されているが、女子限定の国立大学の存在は議論にもなっていないのも奇異だ。能力を活かせないといういみでの女性差別というものはいまではほとんどなくなっているのではないか。ただ、だからといって別の問題がないわけではない。犯罪被害者に対する人権侵害のような報道が野放しになっているところや、望まぬ妊娠をした女性に対する支援機関や相談機関が不十分な点である。しかしこうした女性差別の被害者たちの声は、世の中であまり大きくならないようである。
2024年05月14日
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もうすぐ都知事選がある。小池に対抗する候補については人選がすすんでいるようであるが、小池知事の再選への意向は明確になっていない。もし、現職が不出馬と言うことになれば、選挙戦の様相はずいぶんと変わってくる。最初に言っておくが、決して自分は小池を支持するものではない。ただ、素人目には別に都知事がカイロ大をでていようがいまいが、そしてアラビア語を話せようが話せまいがそんなことどうでもよいように思う。都知事の職でアラビア語を必要とする状況など皆無であり、もし卒業が事実であっても、アラビア語を話せないということもあるかもしれない。例えば駅伝で出てきた外国人留学生など、4年間日本にいたとしても、陸上練習漬けの毎日だろうし、大学生が読むような普通の日本語の本を読めるようになっていたとも思えないではないか。しかし、ネットでみると、政治家の学歴詐称は大きな問題であり、これで辞任した政治家も過去に複数いるという。公職選挙法で罰則まで定めているのだからそういうものであろう。そうなると、現都知事も、この学歴疑惑がおさまらない限りは、辞任とまではいかないが、再選を諦めるという可能性はかなりある。重ねていうが、小池を支持するわけでもないし、投票したこともない。ただ、今までの都知事に比べると、小池知事にはさしたる難はないようにみえる。だいたい以前の都知事の中には何を勘違いしたのか、都市外交にせいをだしていた知事がいた。二重外交は弊害しかないし、それにそのための税金は都民のために使われるものではないか。豪勢なホテルに泊まって美術館巡りなどは嘆息しかでないし、会議費で家族旅行となるとお笑いの世界である。カイロ大の学歴詐称でエジプト政府に弱みを握られる云々という議論もあるようだが、少なくとも小池都知事は別に「外交」はやっていない。まあ、制度についていえば、そろそろ公職選挙法で学歴を必要的記載事項とすることを見直し、あえて虚偽の記載をした場合だけを違反にすればよいのではないか。例えば、短期間の外国滞在であっても、〇〇大留学と書けばセーフで卒業とかけば違反になるのだが、選挙民にとっては同じようなものである。しかも、今では大学の数も増えているし、有力政治家の二世といえば優遇して入学させるところもあるかもしれない。いったいどうなるのだろうか…次の都知事選。
2024年05月04日
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今日あたり源氏物語の女君の続きを書くつもりだったのだが、以前紫の上と明石の上について書いたのでそれにかえることとして…。実はおとといからの急な体調不良に悩んでいる。急に疲労が襲ってきて、10分ほどの距離なのに今日は歩いて家に帰れるかと思った。ようやく家に帰りしばらく横になっていたのだが、吐き気と寒気はおさまらない。もちろん食欲も全くないのだが、熱はない。こういう症状はいったい何なのだろうか。こんなわけで、しばらくは日記も休むかもしれない。※午後くらいからはかなり回復してきた。今までも、こうした突然の体調不良と言うのがあり、一日休んでいるとたいてい治ったものだが、今回は長引いて不安であった。年齢とともにこうしたことも増えていくのだろうか。
2024年02月22日
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最近話題の源氏物語を読み始めている。読み始め…と言っても、他の読書の合間であるし、気の向いた時に少しずつ読むつもりなので、感想も気の向いた時に書くことにする。雨夜の品定めまで読んでいるが、改めて思うのは桐壷との落差だ。この間に失われた巻があるに違いないというのが、小説「輝く日の宮」のテーマになっているのだが、この落差は失われた巻があるというよりも、作者の物語を綴る姿勢の落差のように思う。桐壷の巻は、更衣の寵愛から光源氏の元服や結婚までを叙述的に描いている。こうした書き方は過去の物語とあまり変わらない。それが帚木の巻になると一変する。雨夜の品定めの場面で最初は二人、さらに二人の登場人物がやってくるわけだが、こうした情景描写はずっと近代の小説に近い。そして話の中で指を噛んだ女、木枯らしの夜の女、行方をくらました女、学者の娘などの物語が語られる。こうした作中人物の会話で、物語が語られる手法も、当時は斬新だったのではないか。雨夜の品定めはけっこう長いのだが、帚木の巻の後半は空蝉の物語になる。そして次の空蝉の巻が非常に短いので、なぜこうした巻の区切りになっているかも不思議な気がする。方たがえに行って供応してくれた紀伊守の屋敷でさっそく女のいるところに目を付け、夜に忍んでいくあたり、光源氏の行動は、後世の道徳とは全く無縁だ。空蝉が拒むと、その弟の小君をそば近く使い、「御かたわらに臥せたまえり」とBLを想像させる場面もある。さすがにこういう場面は高校生の教科書には出ていないだろう。別にBLを差別するわけではないにしても。こうしてみると古典的な物語の叙述方式をとっている桐壷の巻と、帚木以降では、なにか、作者の小説作法に影響を与えるようなことがあったのかもしれない。先に読んだ小説「輝く日の宮」では、道長が紫式部に蜻蛉日記をみせたのではないかと推測していた。蜻蛉日記は日記ではあるが、一人称小説ともみることができ、こうしたものが単なる叙述ではなく、場面や登場人物の心理に入り込む小説手法に影響を与えたというのは大いにありそうである。この当時は今のように書籍があふれている時代ではなく、物語好きの人々は物語に飢えていた。日本書紀のような歴史書や竹取物語などの先行する物語だけでなく、漢籍の史書や物語もかなり知られていたのではないか。源氏物語にも藤壺宮が桐壷帝亡き後の状況について史記の話を思い出しながら恐怖に震える場面がある。教養ある女性は漢籍の知識もあるのが普通だった。物語に対する知識と情景描写や心理描写をよくする日記文学の手法がくみあわさって源氏物語が生れたのだろう。
2024年01月23日
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毎年思うのだがノーベル賞の中で文学賞と平和賞は別の範疇にした方がよいように思う。他の分野に比べて政治的配慮や地域的配慮が入り込み、素直に、わあ凄いとは思えないところがある。ノーベル文学賞についていえば、最初の頃はトルストイやドストエフスキーも存命だったにもかかわらず、ニルスの不思議な旅の作者であるラーゲルレーブが受賞している。ニルスも傑作だとは思うけど、やはり釈然としない。そしてその文学賞と言えば毎年話題になるのが村上春樹の受賞への期待だ。もうこれはほとんど年中行事になっているし、本屋さんなどもこれで盛り上がればよいのかもしれない。しかし、こういうことをいうのは勇気がいるのだが…村上春樹の小説は、どこがよいのか正直わからない。最初に読んだのは「アンダーグラウンド」であり、当時、オウム事件に関心があったので、読んでみたが印象が散漫でドキュメンタリーとしてもさほど鋭いとも思わなかった。その後、「スプートニクの恋人」と「ノルウェイの森」を読んだ。両方とも話題になった小説であるし、作者にとっても代表作の一つといってもよいだろう。しかしながら、その両方とも正直あまり面白いとは思わなかった。なぜだと考えてみると、登場人物の心理や行動が全く理解不能なのである。こちらの読解力が鈍いせいなのか、それとも、小説の面白さの本質は感情移入や疑似体験だという感覚が古いのか。ハルキ作品の魅力についての街頭インタビューで「異世界に行ったような気になる」のが魅力だと答えていた人がいたが、なるほど、理解不能な思考行動の人物ばかりなのをもって異世界と言っているのかもしれないし、小説には、そういう楽しみ方もあるのかもしれない。正直自分としてはあまりこうしたものを読みたいとは思わない。
2023年10月07日
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日本の是枝監督の作品だが韓国映画である。赤ん坊を違法にあっせんする二人組と赤ん坊を棄てた若い母、そして孤児院を脱走してきた子供と赤ん坊の五人がロードムービーをやっているうちに次第に家族のような情にむすばれていくという話で、ちょっと万引き家族に通じる。俳優も皆うまいし、特に若い母親が「ホテル・デルーナ」で元女武者の不老不死のホテル主人を演じていた人だとは気づかなかった。それくらい皆自然である。ただ欲を言えば海岸などの美しい風景がもっとでてきてもよかったかな…とも思う。特に子役がめちゃめちゃうまくて。この子供が入ってからがぜん面白くなっている。よく考えるとストーリーには殺人とかもあるのだが、そういう場面が描かれず、赤ん坊を引き取ろうとする夫婦も一行を追う警察官も皆いい人で、こんなほんわかした映画世界もいいなと思う。現実には韓国は非常に血のつながりを重視する社会で国内の養子縁組がすすまないから、海外への養子あっせんを行っていたと思うのだが、最近では海外養子に対する規制も厳しくなっているという。そうした現実からすれば映画世界は一種のメルヘンなのかもしれないが、それはそれでよいではないか。まあまあお薦めの映画だ。
2023年08月04日
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韓国ドラマ「ダリとカムジャタン」を見ている。上品な名家の女性と俗な成金の家の男性というカップルは「家門の栄光」に似ているが、「家門の栄光」は女性の方がパーフェクトだったのに対し、こちらのヒロインはめちゃめちゃ頭脳明晰なのに世間知らずで食事には関心がなく、また、男性の方もアホじゃないのだが無教養という取り合わせが面白い。ゴミのオブジェを単なるゴミと思って棄ててしまうところなど、一般人が現代美術について思っていることのあるあるネタだろう。基本はラブコメ+サスペンスなのだが、そのコメディが笑いのツボにはまっていて普段ラブコメに興味のない人でも笑える。気になるのに嫌いなふりをする男性とほんわかした女性のとりあわせがよい。そして、女性主人公が館長をやっている美術館は非常におしゃれな雰囲気で、芸術を解するかどうかに関係なく、都会にこうした空間があってもいいではないかと思わせる。一方、主人公の働いているのはカムジャタンのチェーンでこちらは庶民の典型的な食べ物だ。美術館とカムジャタンの取り合わせのように主人公の男女のちょっとかみ合わないけど互いに気になるという関係に目が離せない。
2023年07月20日
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万葉集(四)を読んだ。似たような恋の歌が並ぶ巻十一や十二はやや読むペースが落ちたが、巻十三以降はそれぞれ特徴のある巻がならぶ。巻十三は長歌と反歌の万葉集らしい体裁の歌がふたたび多くなり、巻十四には東歌と防人の歌が収録されている。さらに巻十五になると、遣新羅使関係の歌145首と中臣宅守が流罪となったときに妻の狭野弟上娘子と贈答した歌63首が収録されていて、特に前者は独立した歌物語のような様相を呈している。巻十六の前半は長い詞書のある歌が収録されていて、美女桜児やかずら児の哀話や竹取の翁が神女にあう話があり、物語の萌芽のようである。男たちが自分のために争うのを悲しんで自ら命を絶ったという美女の哀話は万葉集の葛飾の真間の手古奈が有名であるが、似たような話が同じ万葉集にあるというのも興味深い。日本最古の物語は竹取物語とされるが、竹取の翁や美女をめぐって複数の男が競争するなどは、このあたりに源流があるのかもしれない。巻十六の後半は、うってかわって宴会の余興の歌が多くなり、骰子の歌やウナギの歌など面白い歌が多い。いずれも一時の余興ではなく、ある程度人口に膾炙した歌なのかもしれない。今日では和歌といえば紙に書くというイメージなのだが、この頃はこうした歌は節をつけ、舞ったりして宴会を盛り上げていたのだろう。時代がはるか下って古今著聞集にも遊女が即興の歌を謡い舞う場面がある。前の日記で紹介した骰子の歌などは、それだけみると、ばかばかしいのだが、これも面白い節や舞があれば宴会をもりあげたと考えられる。なお、この巻十六の最後に乞食の歌や人魂の歌がある。乞食の歌と言っても、ホームレス歌人ではなく、門付けの歌のようなもので、これも、独特の節や踊りで謳われたのだろう。人魂の歌はおそろしきものの歌三首の中に収録されていて、宴会で怖がらせる際に謳われていたのだろう。
2023年07月12日
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万葉集(三)を読んだ。最近、ペースが落ちていたのは、第11巻、第12巻と非常に似たような恋の歌が延々と続いていたせいである。だいたいが想う人に会えない嘆きを歌ったものが多く、会えない理由としては旅であったり、世間の噂であったり、女性の母親の反対であったり、人妻であったり、女性がまだ子供であったりというもので、女性は妻の場合もあれば、遊び女の場合もある。こうした歌は、作者の記述もなく、どういう状況でうたわれたものかという記述はない。思うにこうしたものは、民謡のように節回しをつけて歌われたものではないのだろうか。そういえば少し前までは恋をうたった歌謡曲があちこちで流れていた。こうした一連の万葉集の恋の歌も、それと同じようなものなのかもしれない。こうした歌がどういう人々の間で歌われていたのかは想像するしかないが、万葉集の編者やその周辺に近い階層だったのだろう。こうした階層なら、時には遠方に旅をすることもあるし、旅先でもそれ相応の交情の機会を得ることもある。日本では騎馬の風習というのはあまりなかったようなイメージがあるが、意外なのは馬に乗る歌もけっこうある。馬の蹄の音がするので、女がいそいそと迎えにでるというような歌である。この頃の一定階層以上の人々の間では騎馬も一般的に行われていたのかもしれない。詳しくは知らないのだが…これが時代が下って平安時代になると、光源氏が馬を乗り回すというのは、ちょっと想像しにくい。 いで我が駒 早く行きこそ 真土山 待つらむ妹を 行きて早見む
2023年07月05日
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生活保護申請の際には扶養照会が行われることがあるが、これにより実際に親族間での扶養が行われる例は0.7%にとどまるという。それもそうだろう。もとから扶養するような関係にあれば生活保護申請などするわけがない。扶養照会というのが申請者にとっては申請をためらわせるハードルになるとともに、担当者にとっては事務の負担にしかなっていないのが現実だろう。世帯構造の統計をみても、単身世帯が激増する一方で、三世代世帯は減少、さらにそれ以外の親族世帯は皆無に近くなっている。このそれ以外の親族世帯の中には、生活能力のない叔父叔母がそのまま親の家に同居しつづけている世帯も多かったものと思われる。そういえば終戦直後に結婚の機会を逃した女性のかなりは兄夫婦や弟夫婦と同居して暮らしていたという話もある。親族間扶養はかつては普通に行われていたし、そういう時代だったら、無分別に生活保護申請などをした親族を家長が「一族の恥」だなどといって扶養をしたこともあったのかもしれない。もっとも親族に扶養されながら、無給の家事使用人として息をつめるような一生を送った人もいただろうから親族に扶養された人が生活保護を受けた人よりもよかったとはどうも思えない。また、無縁仏が最近は増えており、身元がわかっていても親族が引取りを拒否するケースもあるという。こうしたものもちょっと前であれば、さほど親しくない親族であっても、ほっておくと寝覚めが悪いと思い供養するのが普通だったのではないか。長期的傾向なのかもしれないが、どうも、「家」とか「親族」とかいう意識が希薄になってきていることがあるように思う。それも考えてみれば仕方がないのかもしれない。思えば家という概念は家産とか家業というものとセットになっていた。家を継ぐという子とは家産や家業を継ぐことであり、そうした特権を受けるかわりに生活能力のない者の扶養をひきうけていた。家産も家業もなく、各自が別々に生計を得ているような時代になれば家意識もなくなるのもむべなるかなである。
2023年03月29日
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群馬県の南部に鬼石というところがあり、そこにある桜山公園に冬桜を見に行った。これは標高591メートルの桜山、自体が一つの公園になっており、四季折々の花があるのだが、今の時期は紅葉と冬桜が有名である。上毛かるたにも「三波石とともに名高い冬桜」と謳われている。もっとも桜と言っても、あの華やかさはないのだが、ぽつぽつと咲いているのはたしかに桜の花である。もっともこの冬桜、まだまだ満開前で、見ごろはこれからなのかもしれない。駐車場からすぐのところに池と日本庭園があり、この周りを歩くだけでもよいのだが、しばらく登ると展望台があり、鬼石の町を一望できる。やたらに空き家が目立ち、過疎がすすんだような町であったが、今では日本のあちこちでこうしたところは多くなっているのかもしれない。こうして何か所かの展望ポイントを巡ったが、別の季節にもう一度訪れて、別の花も見ながら散策を楽しみたい。ところで鬼石というのは印象的な地名であるが、語源は不明だという。ここで有名な三波石と関係あるかもしれないと勝手に想像する。三波石とは青緑色に白い縞模様のある結晶片岩で庭石によく利用される。たしか清澄庭園にも、三波石によく似た庭石があり、青緑色と白い縞模様が、滝のような風情をもたらしていた。桜山公園の後、三波石を産出する三波川の三波峡に行った。暗くなりかけていたが、こちらもなかなかの絶景である。
2022年11月20日
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人間の個々の臓器の寿命は人間の寿命の伸びに追い付いていないという説がある。歯などは昔は抜くしか治療法がなかったため、年齢の字を見ればわかるように、寿命が終わる頃には歯もなくなっていた。それが今では歯を温存する治療も進み、昔なら抜くような歯を温存しているのが普通になっている。 歯だけではない。ほっておけば歩けなくなるような間接の変形も人工関節を入れたりするので、昔なら寝たきりの老人も元気に歩き回っている。緑内障もそうではないのだらうか。寿命の短い時代には視野欠損で失明になる前になくなるのが普通だったが、寿命の伸びた今では、これも治療しないと最晩年を失明することになる。糖尿病もそうかもしれない。まあ、昔はうまいものを食べる機会が今よりも少なかったというのはあるにしても、年齢とともにインシュリン分泌が減り、網膜、手足、腎臓に症状が出る頃には寿命もつきていた。老人が血糖値を気にして御馳走を食べないのは長生きして失明や手足欠損で生きるのが恐いからだ。思えば人間はなぜ生きたいと思うのだろうか。夢や希望のある若者は生きたいと思うだろう。けれども老人は、ただ死ぬのが恐いから生きている。無駄に長生きして失明したり手足欠損なんて嫌だから、眼圧や血糖値に一喜一憂する。己れの能力の限界なんてとうに知っているので、なにかしようという夢はもちろんない。子供や孫といっても、それは貴方自身ではない。若者にとっては老人などうるさいだけだ。本当に健康で長生きが人生の目標なのだろうか。来世など信じず、来世など考えないまま。そう考えると宗教でもよいのだが、なにか生死を超えた価値というものも必要なのかもしれない。
2022年08月30日
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全く収束の気配のない第7波が猛暑を倍加させているように思える今年の夏。世界の主要国をみても、去年暮れからのオミクロンで大きな波が来ており、その後の波は小さくなっている。そうした中で日本だけがオミクロンの波の収束もだらだらと不十分な上、それを上回る大波が来ていて、最多更新中だ。それなのに総理は「夏休み中」で官邸からの発信も聞こえてこないし、知事の露出も減っているようだ。「行動制限のない夏」といっても、それは何もしていないだけで、コロナの方はおかまいなしの話だろう。マスクはほぼ外での装着は100%、どこまで効果あるのか不明だがアルコールと検温も普及した。それ以上に何を呼びかけるというのも難しいのかもしれないが、それでもなんらかの注意喚起は必要ではないか。それも、お上に頼らず、一人一人の国民の責任ではないか…との声が聞こえてきそうではあるが。統一教会の問題は野党がここぞとばかり叩いているが、これが自民党の支持低下につながっても、野党の支持が上昇するとはとうてい思えない。ワイドショーは面白おかしく取り上げても、やがては何も残さずに消えていきそうにも見える。忘れっぽい国民は6年後の参議院選挙には統一教会のことなど忘れて同じような人に投票するのではないか。それに正直言って銃撃事件容疑者の悲劇によって始まった騒動はインパクトが弱い。母親が宗教に夢中になり巨額の布施を行ったことによる悲劇は統一教会だけではないだろう。もし今回の騒ぎを空騒ぎに終わらせないのであれば、統一教会の霊感商法での詐欺立件、さらには宗教法人の解散命令をも検討しなければならないのだが、そうしたものが検討されているという報道は寡聞にしてしらない。
2022年08月20日
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宗教は付き合い方次第で薬にもなれば劇薬にもなる。神の存在、来世の存在など、どうみても合理主義には相反するのだが、それでも宗教が今日まで続いているのは人間の方にそうしたものを必要とする面があるのだろう。独断なのだが、宗教には大まかに四つの役割があるように思う。死後の平安、現世利益、生きる指針、コミュニティの提供である。死後の平安というのは、死の恐怖を和らげるとともに、残された者にとっては儀礼を行うことで、死者を無事に来世に送り安心を得るという役割である。日本ではこれは主に仏教が担ってきた。神道にも死者儀礼はあるのだが、ケガレを払って不幸が繰り返さないようにするとか、死者の祟りを鎮めるという、どちらかといえば生者のため死者儀礼という色彩が強い。現世利益は、まあ、一種の気休めという役割であり、交通安全や病気平癒で有名な寺院もあるが、これは、主に神道が担っているようにみえる。日本の場合、神社とお寺は、生者に関するものは神社、死者に関するものは寺院という役割が出来ているようだ。結婚式、お宮参り、七五三、受験祈願、出世祈願などは神社で行い、葬儀、法要、極楽往生祈願はお寺で行う。生きる指針、つまり道徳であるが、これも、なんとなく神仏の罰が当たるようなことはしない…というベースの上に、もっと理論化した形では儒教が、そして明治以降はキリスト教が役割を果たしているように思う。キリスト教道徳は世界標準になっているものが多く、意外と日本でも影響力は大きい。そして、さらに宗教の役割としてコミュニティーの提供がある。農村ではこうしたお寺さんの集まりがあり、けっこう高齢者の生きがいになっているし、昭和30年代に急伸したある新興宗教などは農村からやってきた孤独な若者にコミュニティーを提供することで信者を増やしていったという説もある。例の「無敵の人」の問題もつきつめると孤独の問題でもあり、何らかのコミュニティーで相談に乗る人がいたら防げたのかもしれない。くりかえすが宗教は薬にもなるし劇薬にもなる。不幸な人から金を巻き上げさらなる不幸に落とすこともあれば、不幸と不運に見舞われた人を自暴自棄から救うこともあるのが宗教であろう。
2022年07月20日
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映画「この世界のかたすみに」で印象的な場面がある。戦争が終わった街に米軍がやってきてチョコレートなどを子供に投げ与える。主人公達は米軍からきたソーセージやハムの入ったスープをおいしそうに食べる。こんな場面だったと思う。原子爆弾はもちろんのこと、空襲でも家族を失った人は多かっただろう。そこに米兵がやってくれば、復讐を考える人がいそうなものだけれども、米軍に対する抵抗反撃運動が起きたという話は聞かない。それはどういう経路だったから知らないが、米軍から食料が供給され、大規模な飢餓が起きなかったということがあるのかもしれない。戦争は勝つのも大変であるが、抵抗運動に悩まされずに占領を持続するのも難しい。米軍の統治が成功したのは、なによりも、米国に食糧を援助するだけの経済力があったということが大きい。逆にいえばこれほどの経済力に差異があるのに、そもそもそうした国相手に戦争を起こしたこと自体が悪手だったのだろうけど。そしてまた、太平洋戦争では日本中が焦土になったというわけでなく、農村地帯はほぼ空襲を免れていた。そうした農村では人手不足はあったものの、春には種がまかれて、それなりの収穫があったわけであるから、それも極端な飢餓におちいるのを救ったことだろう。祖父母の家は農家であり、祖父は戦争の頃にはかなりの齢であるし、伯父はまだ若く、戦争に行った人もいないし、爆弾も農村には落ちなかった。自作農だったので、戦後の農地改革による困窮も免れた。戦争の被害は少なかった方なのだが、それでも終戦まもない頃には、「新潟にソ連軍が上陸してもうすぐこっちにやって来る」という噂があり、米俵を土蔵に隠し、娘たちはこぼれた米を掃いて隠したのがわからないようにしたという。母はそんな想い出をいかにも怖そうに話していた。
2022年05月12日
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第6波が来てから控えていたものがある。理美容である。あんな凄まじい感染者数ではいつ感染するかもしれず狭いところに客が並び至近距離で話すことも多いところなど、できるだけ避けたかった。しかし、さすがにこれ以上あけるわけにもゆかず、コロナ禍が始まったばかりの頃買った髪切り用ハサミでやるにしてもなかなかうまくゆかない。そんなわけで、いきつけの1000円カットの店に行ったのだが、やはりおそれていたことが…。幸い客は少なく、待ち時間は短くてすみそうだったのだが、髪を切ってもらっている白髪の女性がのべつまくなしに話している。断片的に聞こえてくる話は、コロナ禍で人と会う機会が減り、友人の顔も孫の顔も忘れてしまいそうだということ、あとはどこそこで道に迷ったとかいうまったくどうでもよいことを次から次へと話している。あまりにも一方的な会話なので、携帯電話かとも思ったが、彼女の方が一方的に話しかけているようだ。おいおい、このあたりはヒマツが飛びまくっているのではないか。こんなどうでもいいことを一方的に話まくるのはボケが始まっているのではないか。ただこうも考えた。コロナ禍で人と対面して話をする機会は激減した。特に一人暮らしの人などはそうだろう。そんな人が数少ない人に向かって何か雑談をする機会があれば、どうでもよいことをのべつまくなしに話したくなるのではないか。電車など公共の場では会話や雑談がずいぶんと少なくなっている。レストランや日帰り温泉施設でも黙食や黙浴(変換ででてこないが)を呼びかけるポスターがあったり、わざわざおしゃべりはお控えくださいと放送しているところもある。しかし人間には用もないことをくっちゃべりたいという欲求もある。コロナ禍は目に見える光景だけではなく、耳に聞こえる風景も変えている。
2022年03月09日
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脱税の疑いで逮捕されていた日本大学の田中理事長がついに辞任する意向を伝えたという。日大といえばマンモス大学で、日本人の大多数は親類縁者を辿れば一人くらいは大学のOBがいるといわれるくらいだ。こうした巨大な学問の府で、失礼ながらこのような方が理事長をやっていたということにまず驚いた。経歴を見てみると、元学生横綱、アマチュア横綱ということで、日大相撲部で活躍された方らしいので、こうしたスポーツの功績で理事長にまで登りつめた方なのだろう。学生スポーツを否定するわけではないし、青春時代をスポーツにうちこむことにはそれなりの教育価値もあるのかもしれないけど、それは大学の中ではあくまでもはじっこである。田中理事長については、今回の脱税以前にもいろいろな疑惑のあった方のようで、こうした人物が中枢にいる大学に巨額の補助金がつぎこまれていることに疑問を感じてならない。学生スポーツもビジネスとして肥大化して、大学にしてみれば「金になる」のかもしれないが、そのために入試など無視して選手をかきあつめたり、練習用の豪華な施設を作ったりしているところもある。こんなんで他の学生はよく怒らないものだと思う。それに毎年交通妨害になっている新春かけっこのバカ騒ぎも批判的に見ている人も多いのではないのだろうか。
2021年12月01日
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昨日は真鍋淑郎のノーベル物理学賞のニュースでもちきりだった。報道によると、真鍋氏は、既に地球温暖化と二酸化炭素の関係について1060年代から気づいていたという。まだ温暖化なんていう言葉はなかった頃だ。その頃には、むしろ氷河期が再びやってきて大変なことになるという俗説の方が力を持っていたように思う。地球温暖化と二酸化炭素の関係について学問的に言われるようになったのはその頃であろうが、空想の世界ではもっと前からそうした考え方はあったように思う。宮沢賢治の童話「グスコーリブドリの伝記」の最後に火山を爆発させて空気中の二酸化炭素を増やせば暖かくなって寒さの夏を防ぐことができるという話が出てくる。実際には火山噴火は噴煙で寒冷化をもたらすことが多いのであるが、二酸化炭素と温暖化の関係を予想していたのは慧眼としか思えない。物語では温暖化は災厄ではなく救いとして描かれている。地球の寒冷化はどうみても生命にとっての危機なのだろうが、温暖化はどうであろうか。地球の気温は長期的には寒暖を繰り返していて、かつても温暖な時期があったという。青森県の縄文遺跡などをみると、なぜあの寒い青森にあんな遺跡がとも思うのだが、一説によると縄文時代はずっと今よりも温暖であり、青森も暮らしやすかったという。長期的な温暖化というのは、むしろ地球の豊穣化なのかもしれない。ただ、長期的な地球の変化と人為による変化は違う。人間の営為による急激な温暖化は弊害が多い。
2021年10月06日
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今日から9月。コロナが始まって以降、二度目の夏が過ぎたわけになる。最初は鳥インフル、SARSなどと同様、長くても数か月で過ぎると思っていた。それが第一波の次には第二波、第三波…と続き、しかも波の高さは次第に高くなっている。今の第五波だってこれで終わると思っている人はいないのではないか。去年の夏に続き、今年も旅行に行かなかったという人は多いだろう。教室などでの「密」を敬遠して、何かを始めることを諦めたという人もいるのかもしれない。けれども時間は何をしていても同じように過ぎていくし、人生は有限で、昨日の自分と明日の自分は同じではない。ステイホームだの不要不急の外出を避けるだのというが、家にこもっている弊害はものすごく大きい。運動不足による各種数値の悪化もあるし、年配者では、これに加えて交流の機会の減少による寝たきりや痴ほうの進行もあるのかもしれない。もちろん感染予防は重要なのだが、すれ違ったり、電車で隣の席に座るだけでの感染まで気にしていたら何もできない。家族での外食や、密を避けての自動車での旅行などは、時間と金の許す範囲で、できるだけやった方がよいのではないかと思う。そんなわけで明日から二泊三日の旅行に行って来ます。
2021年09月01日
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今、ネット上で古文漢文オワコン論というのがあるらしい。有名なネット評論家が主張しているのだが、古文漢文は入試以降普通の人は全く使わないので勉強しなくてもよいのではないかということらしい。しかし、中学や高校で勉強することで、万人にとって実利のあるものというものは実はそれほどない。そう考えると、古典漢文オワコン論というのも、昔から教育論議になると必ず出てくるあの議論の焼き直しのようにみえる。曰く、二次方程式なんか普通の人は使わないので数学は不要だ、時間をかけても使えないのなら皆が英語をやる必要はない、すべての子供に化学式を教える意味はないといった類の議論である。どうも教育論を語る識者というものはエリート教育の必要は認めるが大衆は愛国心だけを持ったバカでいてほしいと思っているようである。ただこうした議論と古文漢文オワコン論が違うのは、英語、数学、科学はそうした分野の高度人材が必要だが、古文漢文はそうは見えない。もちろん古文漢文の高度人材なるものもいてよいのだが、そんなのは自分で好きに勉強していればよい。中学高校の授業に入れてまで人材を発掘する公益性はないのではないかということであろう。そう考えていくと古文漢文オワコン論も説得力がある。ただ。反論すれば、古文というのは現代国語とは別物ではなく、地続きであるということだろう。古語辞典にでてくる「ろうたけた」、「やんごとなき」、「片腹痛し」という語は現代でも使うことがあるし、時代小説や戦前の小説にも古典のような言い回しや漢籍由来の表現がよく出てくる。語彙の豊かさは文化の豊かさでもあり、それを考えると古典や漢文も中学高校時には勉強しておいた方がよいのではないか?
2021年03月11日
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ただいま「怪人フーマンチュー」を読んでいる。黄色人種運動を先導する悪しき天才フーマンチューと「全白色人種」のために戦う英国政府高等弁務官の対決を描いた小説なのだが、捧腹絶倒でばかばかしい。しかし、なぜこれで笑えるかというと、黄禍論そのものを荒唐無稽と思っているからで、真面目に黄禍そのものを憂えるのであれば、もっと別の読み方もあるだろう。この小説が発表された1913年には、本気で黄禍を憂える人々がいたのだろう。その後もこれはシリーズ化され、映画化も何度かされており、一番最近の映画化は1980年だという。ただ、最近ではハリウッドも人種差別には神経質になっているので、今度映画化されるときはフーマンチューは白人で、対決する善玉ヒーローは東洋人になっているかもしれない。さて、この間、ニュースサイトをみていたら、ロシアではかなりの人がコロナを生物兵器と信じているという記事があった。調査がないだけで、ロシア以外でも、コロナ生物兵器説を信じている人はいるだろう。そしてそのコロナで欧米は大きな被害を被り、いちはやくコロナ禍を克服した中国はますます発展している。お行儀のよいインテリはそんなことは考えないだろうけど、大衆レベルでは21世紀の黄禍論といったものが出てきているのかもしれない。最近、アジア系に対するヘイトクライムが頻発しているという報道もあり、そうなると笑い事ではない。
2021年03月06日
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コロナ第三波はいまだにピークが見えない状況である。第二波のときには第一波よりは大きかったものの死亡者や重傷者は少なく、弱毒化しているのではないかという話すらあった。危機のときの人間の性として楽観的な予測には飛びつきやすく、自分も弱毒化説を半ば信じていた。それが第三波となると、波が大きいだけではなく、死亡者重症者も増えており、症状があっても入院できないなどすでに医療崩壊の兆候もでている。自宅待機の中には老人介護施設での待機もあり、このままだと、看護師だけではなく、介護士の離職も増えていくのではないか。政府は首都圏を対象に緊急事態宣言を出した。夜の外食の自粛とか、不要不急の外出の自粛が主な内容である。素人なのでよくわからないが、夜の外食を自粛して昼の外食を自粛しない根拠はなんなのだろうか。たしかに外食でのクラスター発生例は多い。話に興がのれば飛沫が飛び、それが鼻口や食事を介して体内に入る。ただそれは昼夜関係ないし、外食する者の中に感染者がいるかどうかは人数とも関係ない。二人や三人の昼食会でもメンバーを変えて頻繁にやれば、友達の友達という具合に感染が広がっていく。一方で、一人や家族だけの外食なら感染が広がるおそれはない。外食≒悪なのではなく、外食をするなら、一人あるいは家族でと呼びかけた方が効果的なのではないか。また、外出そのものを自粛するのもよくわからない。市中感染というと、そこら中にウィルスが飛んでいるようだが、普通に街を歩くだけで感染するのだろうか。去年の4月頃ずっと家にいた時期があった。ステイホームと言われていた頃だ。そしてわかったことは、家にいると足腰が弱り、気分もめいってくるということである。やはり人間は外に出て歩くことが必要なのであろう。一説によると、コロナ禍をきっかけに認知症や要介護になる者が激増しているという。むべなるかなである。自粛をよびかけるのはよい。ただそれは、一律に外食するなとか外出するなとかいうのとは違うように思う。例えばであるが、控えるものとして、家族以外との外食、カラオケ、ライブ、対面しての長時間の会話、理美容での会話、控室・更衣室での会話等々かもしれないが、専門家はどう考えるのだろう。
2021年01月09日
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gotoキャンペーンの中止で外食や旅行業界は苦しいという報道がある。しかし、外食したい、旅行したいという欲求は多くの人が当然もっているし、海外旅行も消え、宴会がなくなったので、お金があるという人だっているだろう。こうした人々の需要が、感染不安の少ない家族や個人での外食や自家用車を使っての国内旅行に向かう可能性は十分にある。ただ、こうしたものも、感染大爆発になったらひとたまりもない。そうした意味で英国で感染力の強い変異型が出現したというニュースは恐ろしい。英国との交通を即遮断した国も多い中で、またまた後手にまわるのではないのだろうか。思えば、コロナ発生以来の政府や自治体の施策を思い起こしてみると、「うがい、手洗い、咳エチケットの励行」、「国民の不安がぱっとふきとぶ」という秘書官の進言によるちっちゃな布マスク2枚の配布、緊急事態宣言の発出とその前のめりの解除、感染が再度拡大しつつある中で旅行、外食、イベントを勧めるgotoキャンペーン。先に述べたように旅行や外食自体が感染拡大につながるわけではないが、こうしたお得キャンペーンは自然に複数名での会食を伴うものになりやすく、そこで感染が拡大したという面はきっとあるだろう。そして極め付きは最近首長が言い出している「マスクで会食」とか「家でもマスク」とかの呼びかけだ。マスクしてどうやって食べたり飲んだりするのだろうか。これはほとんどお笑いレベルである。首長さん御本人だって、家でまでマスクをするつもりはないであろう。
2020年12月23日
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どうやら「桜を見る会」の関連で捜査が動き始めている。この「桜を見る会」は吉田総理の時にはじまり、別に法律や政令の根拠のあるものではないので、招待者の恣意的な選考なんて以前から行われていたのかもしれない。ただ、安倍総理の時には、それをやりすぎて、あまりにも有象無象や問題のある人物を呼んだことで問題になった。そして印象的なのは問題になってからの総理答弁である。名簿の提出を求める質問のでる直前に、名簿は廃棄したという。なぜなら文書保存上はすぐに廃棄する規定になっていたからだという。変な話だ。桜を見る会は毎年開かれており、そうだとすれば今回の招待者の名簿は次回の招待者を決める際の参考にする。庶民レベルの懇親会でさえも、そう考える。即時廃棄というのは文書管理規則としてもありえないように思う。次に廃棄までに時間がかかったことを指摘されると、シュレッダーが混んでいたからだと言い、次にはなんと障碍者雇用枠の職員が担当していたので時間がかかったという。一万人の名簿だとしても一万ページあるわけがなく、一頁25人だとしても400枚くらいだろう。普通のシュレッダーなら10枚くらいは一度に入るので40回の操作ということになる。シュレッダーが混んでいたという理屈も珍妙なら、総理が国会の場で作業の遅さを特定の職員のせいにするのも変だ。そして招待者の中に、なぜ招待されたか理由のわからない人がいることについては、がんばっている市井の方々を招待したといい、それではどうやって募集したのかと聞くと、募ってはいるが募集はしていないと言う。これはもう歴史に残るような珍答弁で、失念したが忘れてはいないというようなもので意味不明である。「桜を見る会」については前総理に対し再び国会で質問をするという動きもあるようだが、今度はどんな答弁がでるのか興味深く楽しみである。ただ、過去の政権だって、おそらく桜を見る会については理屈のつく招待者ばかりではなかっただろうし、国政全般の中では、たいした問題であるとも思えない。どうせ秘書のせいにするだけだろうしね。
2020年11月27日
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自民党の新総裁が決まった。興味深いのは岸田候補のかかげた政策の方向だ。「新しい資本主義」という旗印で格差是正を正面から掲げている。自分だけの利益、短期的利益だけを重視して儲ければよいのかという問題提起、格差という分断の解消など、理念だけをみると共感できるものが多い。どんなブレーンがいるのか知らないが、野党の皆さま、先に言われてしまいましたね…というところだ。モリカケ桜といった政権の私物化もたしかに問題なのだが、モリカケはたとえると友達に与えた話であり、友達から受け取って私腹をこやした話ではない。桜は、今までの政権だって多少の手心はあっただろうけど、今回はやりすぎで有象無象をよび過ぎたということだろう。いずれにしても、ワイドショーネタとしてはかっこうの話題でも国民の生活に関連するようなものではない。これで総理夫人が国民の憎悪をかうようなメギツネタイプなら話は違うけど、天然のお嬢様でメギツネとは真逆のタイプなので憎まれようもない。野党がモリカケ桜を追及すればするほど支持が離れていくのも当然である。ましてや9条マンセーとなると、正直ポスターやチラシをみるだけでげんなりする。化石サヨクやお花畑サヨクには9条は一種の宗教教義になっているかもしれないけど、雇用がどんどん不安定になっていて、生活も苦しくなってきている中で「9条は宝」なんていうスローガンが響かないことくらいわかりそうなものだけれど。かつてマルクスは資本主義に代わるものとして社会主義を唱え、それを歴史の必然だと説いた。けれども、もしその社会主義が自由な企業活動を禁止するものだとしたら、それは無理というものだろう。いつの時代にも才覚のある者や能力の優れた者はおり、そうした人間が己の力を生かして成功する自由は誰にも阻害できない。夢に向かって努力する自由は人間の自由の中でもかなり根源的なものである。ただそれを全くの自由にすると、能力努力運に恵まれた者は巨万の富を得るかもしれないが、そうでない者の多くは不平不満を抱えて暮らすことになる。そんなことにならないために、資本主義は認めるが、己の利益だけでなく、社会全体をよりよいものとするために、その資本主義を修正していく。そうした考え方が今後主流になっていくのではないのだろうか。その意味でトリクルダウンという金持ち優遇の施策は見直す必要があるし、契約自由の名のもとに奴隷労働を強制するようなもの、労働基準法などの労働者保護規定を逃れるようなものは規制の対象とする必要があるのではないか。
2020年09月16日
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コロナの第二波はピークを過ぎたように見えてもまだまだ予断を許さない状況である。一日当たりの感染者数が、まだ第一波のときの感染者数が多い時期と同じような数字である上、これから秋を迎え、気候が寒冷になってゆくにつれ、第三波がやってくるおそれもある。アルゼンチン、オーストラリア、南アフリカのような季節が逆の国で8月頃から感染者数が急増したことや、最近、ヨーロッパの国の中にも明らかに感染者数が増えてきているところがあり、秋の到来はウィルスの再度の活性化の要因になるのではないかということも、根拠ある不安のように思う。第二波がこのまま終息していけばよいが、下がりきらないうちに第三波の山がやってくるのではないか。一方、コロナについてはむやみに恐れるのではなく、どういうことが危険かということも、次第にわかってきたように思う。ウィルスは人から人に感染する。クラスターになった例を思い浮かべてみると、会食、カラオケ、イベントなど、人と人が密閉空間で声をだすことが危険だということが共通認識になっているように思う。一時騒がれたパチンコは換気もさることながら客は黙って台に向かっているだけなのでさほど感染の危険はないようだ。そう考えると個人や家族での会食を推奨するかぎりではgotoイートキャンペーンはさほど問題ないのかもしれないが、gotoイベントはやめた方がよいのではないか。すでにイベント関連では複数回クラスターの発生した例がある。危機感の少ない人々がイベントに集い、感染を町中に広げたらなんにもならない。そういえば、毎年出かけていた埼玉県の巾着田では開花前のヒガンバナを全部刈り取ったという。日本のコロナはまだまだ終息していない。経済と感染対策は決して二者択一ではない。祭りが消え、花が詰まれ、人々が恐れて家にこもっていれば、経済も枯れていくしかないのではないか。
2020年09月13日
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感染者数の増加は指数関数的上昇に入ったように見える。そうなると今日は400増加、2日後には800増加とあっという間に10万を超える。アメリカ、イタリア、スペインもそうだったから。あの2枚の給食マスクが届く頃には大変なことになっているかもしれない。荒唐無稽な空想でなく、現に他の先進国ではそうした事態が進行中だ。そのとき、我が宰相はこう言うのだろうか?まだギリギリ瀬戸際が続いている(ちなみに都知事はぎりぎりぎりぎりぎりぎり…)。国民の皆様には、状況をしっかりと丁寧に説明していく。引き続きうがい、手洗い、咳エチケット、ガーゼマスクの着用に努めていこうではありませんか!そして何ヶ月後、焼け野原の中で…「ボクは悪くないよ、だからずっと前から憲法改正を言っていたんだよ。緊急事態条項があればこんなことにならなかったんだ。キョーサントーとニッキョーソが悪いんだよ」
2020年04月04日
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スーパーや薬局でトイレットペーパーやティッシュの買い占めが起きているという。石油ショックのときも東日本大震災のときも起きた現象なのだが、こうした買い占め騒ぎはなぜ起きるのだろうか。それは買い占めという行動がそれなりに合理的な面があるからだろう。こうした買い占めの対象となる商品には以下のような特徴がある。生活必需品であること。一度に買い込むことが経済的負担になるほど高価なものではないこと。短期間で劣化するものではなく、いずれは使用することが確実であるので、保管するスペースさえあれば一度に買いおいても損はないものであること。だからこうした買い占めの対象はトイレットペーパーだけではなく、米やパスタなどの食料にも及ぶ場合もある。買い占めの背景にはもちろん不安感があり、不安感が消えればいつの間にか買い占め騒ぎもなくなる。そして買い占めでため込まれた商品はゆっくりと各家庭で消費されていく。本当に一日もはやくそんな不安のない落ち着いた時間がもどってきてほしいものである。店頭から消えたマスクについても今月には月6億枚供給と大臣は言っているらしい。しかしこれはどの程度信じてよいのだろうか。2月にはマスクは供給されると官房長官が言ったことがあったが、実現はしなかった。一般家庭はよいのだが、医療機関などではマスクの品薄は死活問題ではないのか。いや、医療機関でなくても、買い物で店員がマスクをしていないと唾がとびそうで気持ち悪いと思うようになったし、自分も外ではマスクをするのが普通になってきているので、マスクなしに近い距離で人と話をするのは失礼なような感じになっている。本当にここ何週間でずいぶん感覚が変わったものだと思う。今はやむなく何度でも洗って使えるという黒マスクを使っているが、一日も早く白いマスクが店頭に並んでほしいものである。
2020年03月08日
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街を歩いていると時々あれっと思うような目を引く建物がある。慶応大学近くの札ノ辻のあたりは再開発の工事中で、今のところ高い建物はないのだが、その向こうの高台に変わった形の建物が見える。最初は取り壊し中の建物かと思ったが、よく見ると、中二階のような部分が空洞になっており、植木と国旗が見える。なにやら天空の城を思わせる斬新なデザインであり、国旗はフランスかイタリアの国旗でレストランなのかもしれない。そこで街角ウォーキングのコースとして、その建物を目標にしてみた。まず三田三丁目の交差点(JR田町駅、地下鉄三田駅)を起点に聖坂を上ってゆく。聖坂というのはそのあたりを高野聖が往来していたことからついた名で、こうした坂道の名の由来を示す柱がたっている。現在、山手線が走っているところは海だったというから、高野聖がいた頃にはこの坂からは眼下に海が見えたであろう。坂道の途中に亀塚稲荷という小さな神社がある。この境内(といっても鳥居のすぐ横)には青く平べったい石でできた「阿弥陀種子板碑」という塔がある。説明によると、秩父の緑泥片岩でできた供養塔で鎌倉時代中期から室町時代にかけてのものだという。神社の中に阿弥陀というのも変な気がするが、神仏混交の時代が長かったことを思えば別におかしなことではない。それよりも不思議なのは、亀塚稲荷は太田道灌が物見台を作った時に建立したというのだが、太田道灌は室町時代の武将だという。それなのになぜ鎌倉時代の元号を刻んだ碑があるのか。どうもよくわからない。亀塚稲荷を越えると、英語のフレンドにちなんだ校名の普連土学園があり、その隣に例の奇妙な建造物がある。見てみるとクウェート大使館で、国旗はレストランではなく、大使館だったからであった。建物の斬新なデザインは後で調べてみると丹下健三作だということだ。そこは坂道の最高地点に近く、向かい側にわたり少し歩くと本当の最高地点亀塚公園の亀塚である。この亀塚という小山は築山であり、昔から古墳だといわれていたらしいが、古墳という確証はないのだという。亀塚に登ってみたが、周囲には高層ビルが多く、期待していたほどの眺望はなかった。そこから坂は下りになり、少し歩くと左手に分かれる長い坂がある。これが幽霊坂で名の由来は付近に寺社が多く、幽霊がでそうな寂しいところだったということらしい。もっともこれには有礼坂という別名があり、こちらは付近に森有礼の屋敷があったことに由来するそうだ。このあたりは今も屋敷町のようで、相当の一戸建てが並んでいる。幽霊坂という地名は地価には影響しないのだろうか。この坂は国道一号に出るあたりで急坂になり、道のわきには手すりまでついている。このあたりになると、屋敷町とはだいぶ趣の異なるアパートらしい建物もある。幽霊坂という地名は実は東京だけでもあちこちにあるという。
2020年02月03日
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共通テストの記述式は実施が見送られたという。採点基準が不明確、不公平といったことがいわれており、たしかに何十万もいる受験生の答案を同一の人がみるわけにもいかず、どうしても採点者による当たり外れが生まれる。ましてやその採点もアルバイトがやるとなると、とうてい受験生は納得できないだろう。入試の話など正直、当事者以外は関心がない。だからこそこんなどうみても問題おおありの話が実施直前まで進んでしまったのだろう。業者が行う模擬試験は多くの受験生が利用しているが、これは全然性格がちがう。模擬試験というものは、受験生という大きな集団の中での位置を確認するためのものであり、どのあたりを受験するかの目安に使われ、細かな点差は関係ない。記述式の答案をアルバイトが採点したって、おおまかな位置まで違うということはないだろう。ところがこれが入試となると全く違う。基本的に入試は同質の集団が一点二点を争うもので、当落線上付近に分布の山ができるのが普通である。だから今までの記述式はマークシートで足切りをした上で、大学の教員が採点していた。それでも実際の採点には不明確、不公平はあるのかもしれないが、そこは大学の先生が公平な目で見ることになっているのだから…ということで、諦めざるをえない。今度の騒ぎには、業者の利権もちらちらしているが、人生を左右するかもしれない入試の採点を業者に任せるなんていう施策をなぜ誰も止めなかったのだろうか。採点を請け負う民間業者と政治家との関係、政治家と官僚との関係、官僚と民間業者の関係などぜひ検証が必要なように思う。最後に記述式は思考力を見るもので、マークシートは知識を問うだけのもののように言う人がいるがそれは違う。思考力を問うか知識を問うかは問題の作り方であって、記述式かマークシートかは解答の仕方の問題である。
2019年12月18日
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今年をふりかえった場合に未解決事件も目に付く。不思議なのはキャンプ場の女児失踪事件で、子供の足で行くような範囲内で手掛かりもつかめないなんていうことがあるのだろうか。キャンプ場というと楽しく安全な場を想像するのだが、実態は違うのかもしれない。ホームレスには、いわゆる路上ホームレスだけではなく、車中ホームレスというのも、相当数いるという。こうした人々がすべて犯罪予備軍というわけではないのだろうけど、水場も設備もあるキャンプ場というのは車中ホームレスも集まりやすいのかもしれない。もしこうした中に誘拐犯がいれば、社会との接点もなく、車で移動しているので発見も難しい。いやな想像なので、違っていることを切に願う。茨城でおきた一家殺傷事件も続報がない。家族の周辺は捜査しただろうから、やはり行きずりの物盗りがパトカーのサイレンで逃げ出したというのが真相なのかもしれない。重大犯罪であり、迷宮入りだけは避けてほしいものだ。
2019年11月08日
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IOCでは東京オリンピックのマラソンコースについて札幌に変更するように決定したという。酷暑が理由になっているが、台風でラグビーワールドカップの試合がいくつか取り消されたことも影響しているのかもしれない。札幌には台風はまずない。ただ、国家ではなく都市が開催するというオリンピックの性格は大きく変わる。東京オリンピックの場合には「国を挙げて」後押しをしているので、これはこれでよいのかもしれないけど。こうなると、マラソン、競歩にかぎらず、他の競技も札幌と言うことになるのかもしれない。1万メートルなどはきっとそういう声があがるし、お台場の水質が懸念されているトライアスロンだってそうだろう。あれだけ大騒ぎした新国立競技場もなにやら寂しいことになるのかもしれない。それにしてもオリンピックチケットの抽選はもう終わって周囲にもいくつかの競技に当たったという人がいる。マラソンのチケットなどは東京に行くのと札幌にいくのとで大違いだし、そもそもマラソンの選考自体、酷暑を想定してそれなりの条件の下でのレースで選ばれている。競技場、エンブレムと五輪は様々な問題があったが、今度もまた一部競技の札幌開催の提案という大問題が起こった感じである。それにしてもあの招致疑惑…あれからどうなったのだろう。国籍不明の名前のあのマスコットキャラはどこまで浸透しているのだろう。
2019年10月19日
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演劇「どん底」をみた。舞台は19世紀初頭のロシアの木賃宿…のはずなのだが、なぜか、現代日本の橋脚下の工事現場という設定。そこに俳優たちが宿屋のベッドや机にみたてる道具を持ち込んでいく。原作の世界と現代がつながる演出であり、たしかに、19世紀ロシアの世界を再現するというだけならば、舞台は映画にかなわないだろう。一応、戯曲も読んだのだが、これほど多彩な登場人物がいたとは…。宿屋の主人は貪欲な男で妻や妻の妹をこきつかっている。そして姉妹には警官の叔父がいて、この男も「どん底」の木賃宿にときどきやってくる。木賃宿には、中年女の饅頭売りがいて、それも警官がやってくる理由なのかもしれない。この中年女は多少の金はあるようなのだが、その他の木賃宿の住民は、どん底といってよい。最近やってきたばかりの錠前屋と病身で死期の近い妻。元帽子屋や元役者もいるが、ふたりともそろって酒に溺れている。その他にも、公金横領で転落した男爵や殺人犯の元服役囚、現職の泥棒など…。そこにあやしげな巡礼がやってきて、「真実の国」や「無料で食事や宿を提供してくれるアル中病院のある町」の話をする。ここではないどこかに理想郷があるような嘘をつくのだが、それを受け入れる住民もいれば、反駁する住民もいる。嘘が必要なのは奴隷と主人だけで、そうでなければ大事なのは人間だと叫ぶ登場人物の言葉は中でも印象的だ。けれども、いくら人間が大事だといってみたところで、何も状況が改善するわけでもなく、巡礼は去り、その言葉を信じて無料で食事や宿を提供する町を探していた元役者は自殺する。慰めの嘘と人間という真実とどっちを選ぶかということがテーマのようにも見えるが、別に作者は後者の結論をだしているわけではない。なぜならどん底の状況はどちらにしても改善されてはいないのだから。それに今日を生きる我々は知っている。天国での慰安というのも嘘かもしれないが、共産主義社会という千年王国もまた嘘だった。そうだとしたら、嘘にすがりつくのではなく、現実に対峙し、現実を少しづつ改善していくしかないのであろう。
2019年10月16日
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最近よくポピュリズムと言う言葉を聞く。大衆迎合主義という意味で多くの場合、否定的ニュアンスで使用されているようだ。しかし、民主主義というものは、もともとポピュリズムなのではないか。ポピュリズムを批判している貴方は大衆ではないのだとしたら一体なにもの?ポピュリズムを批判している人は、どうも大衆と言う言葉に「バカな奴ら」という意味を込めているように思う。大昔の失言政治家の毛ばり発言と同じ感覚である。うまいことばかり言う野党に投票する人は毛ばりに釣られる魚と同じで知能が低いといった趣旨の発言である。けれども、うまいことばかりをいう野党にしても、大衆がそれを望んでいるという意思を表明できるのが民主主義の真骨頂ではないか。代表民主主義は選挙民が直接個々の政策を決定するわけではない。選挙で示された民意を基に、政権党が方向を決め、官僚が政策化していく。それが民意に沿わないものであれば次の選挙で負けるだけだ。その意味ではかの失言政治家が批判した野党、そしてそれに投票した「毛ばりでつられる魚」もそれなりの役割を果たしたと言える。今ではあまり言われないが、岸信介総理も憲法改正だけを悲願にしていたわけではない。「貧困追放」も政策の大きな柱にしていた。貧困を放置していれば日本が赤化するという脅威もあった時代であり、戦後の飢餓の記憶もなまなましい時代であった。その後も、政権党は変わらなかったが、その政権党の下で、労働者のための政策、福祉のための政策が着々と進み、一億総中流というほどの格差の少ない社会を作った。大衆は一枚岩ではない。批判を承知で分ければ、知識層と大衆(別に知識層との間に確固たる境界があるわけではないが)という軸、それに政権批判的、賛同的という軸を置くと、選挙民は四つの層にわけられる。知識層・賛同のA層、知識層・批判のC層、大衆・賛同のB層、大衆・批判(不満)のD層である。選挙でB層をターゲットにしてもポピュリズム批判が起きないのに、D層が動くとポピュリズムという声があがるのはなぜなのだろうか。それはともかく今までのサヨクとよばれる政治勢力はあまりにもD層に無頓着だったように思う。中年のジャンパーを着た男性がティッシュを配っている横で、「ニッ本を戦争のできる国にしてはならないのです~」と某政党の議員が9条擁護の熱弁をふるっていた光景は忘れられない。9条擁護、非核、反戦平和、女性、環境、LGBT差別反対もけっこうなのだが、ブラック企業、ワーキングプア、フリーター漂流、コンビニ奴隷などの問題になぜむきあわないのだろう。少なくとも一瞥しただけではそう見えない。今回の選挙では、ようやく正面から格差や貧困に向き合う政治勢力がでてきたかもしれず、それがかすかな希望のようにもみえる。新聞やテレビはみごとに黙殺し、過去の「新党ブーム」の扱いとは全く違っていたが、それでも今では大衆にはネットと言う手段がある。こうした政治勢力が拡大していくのか、触媒のように既存の政治勢力を変えていくのか、それとも閃光でおわるのか。それはわからない。そしてこれに対してポピュリズムという批判はかならずでてくるだろうし、ますます大きくなるかもしれないが、批判としては的はずれだろう。なぜなら民主主義とはそういうものなのだから。
2019年07月23日
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そう思ってニュースをみているせいかもしれないが、最近50-80問題が背景にあるようなものが目につく。こうしたものはだいたい家庭内殺人、遺体放置と年金詐欺、親の死後に子供も孤独死に分けられる。たしかに川崎の事件のように外部に無差別殺傷に向かうという例は少なく、無差別殺人に関してはひきこもりが犯罪予備軍という図式はあてはまりそうもない。川崎の事件は犯人はスマホも持たない超孤絶生活をしていたが、伯父夫婦は彼にとっては「家の管理人」のようなものであり、通常のひきこもりとはちょっと違ったのかもしれない。川崎の事件も含めた無差別殺傷事件を見ると、大阪の学校乱入、秋葉原の通り魔、もっと古くは下関駅や池袋繁華街の事件など、犯人は無職や職があっても不安定なものであり、失業対策こそがもっとも有効な予防といえよう。それによく考えてみると50-80問題と言うが、つっかえ棒になってきた80がいてこその50-80問題だろう。もともと頼るべき親がおらずに、ぎりぎりの生活をしている人々もいる。そうした人々が中年期をすぎ、次第にアルバイトの仕事も少なくなり、将来に暗黒しか見えなくなった時にどうなるのだろうか。川崎の事件はこっちに近いように思う。そういう意味で、ちょっと気になったのが、80代の老人が小学校に乱入したという事件である。実害もなく、報道も少なかったが、不気味な事件のように思う。昨今は高齢者がらみの重大事故が大きく報道されているが、そのうち無敵高齢者(家族など失うものがなく、社会に無視され疎外されてきた身には大報道は望むところ、老い先長くないので死刑なども怖くない)の重大犯罪も起きてくるかもしれない。
2019年06月21日
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最近よく女性天皇を認めるべきだという論をする人をみかける。男女同権がねづいているのに、ここだけ女性を排除するのはおかしいとか、世界の君主国をみわたせば女王もめずらしくないことなどを根拠にしている。こうした議論でいつも思うのだが、女性天皇と女系天皇との混同だ。女性天皇を認めた場合に、その女性が皇統以外の男性と結婚した場合に、その子供に皇位を認めれば、それが男女を問わず女系天皇になる。過去、日本の歴史には何人か女性天皇がいたが、いずれも皇后がつなぎとして帝位についた場合か独身かであって、女系天皇という例はない。ヨーロッパの君主国の場合は、女系もあるようだが、だいたい父上は外国の王家出身や貴族の場合ではないのだろうか。まったくの平民出身の男性の子供が王位につくというのは聞かないように思う。最近よくきくのは内親王と旧皇族男性が結婚してはどうかという意見だ。たしかに旧皇族は皇統をひくので一般人とは違うといえば違うだろう。ただそこでもついてくるのは結婚はあくまでも個人の問題であるということだ。旧皇族の男性といっても、具体的にどんな方かというイメージがなければなんともいえない。プライバシーもあり、旧皇族といっても一般人なので、詳細を報道する必要はないが、はたして多くの人の尊敬を集めるような人なのだろうか?それに最初の女性天皇が、たまたま素晴らしい人と結婚しても、女性天皇が代を重ねても素晴らしい人と結婚しつづけるという保障はない。それによい悪いは別にして「尊敬できる」の基準が男性の方が高いのではないだろうか。顔がよくて語学ができれば、女性ならシンデレラとして受け入れられても、男性はそれだけではどうも足りないらしい。
2019年05月14日
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平成はゆっくりとした坂道を下ったような衰退の時代だったと思う。ただそれで不満がうっせきしているかというとそんなことはない。与党や政権に対する支持は高く、しかもそれは若い世代ほど顕著である。そして巷には「日本すごい」といった類の本がけっこうあふれている。もしかしたら国家というものは、笑顔で楽しく衰亡していくのかもしれない。平成と昭和を比べると、もう一つ違ったと思うことがある。それは、昭和時代によくあったような「社会に対する怒り」のようなものが影を潜めたのが平成という時代だったように思う。昭和期にはなんでもかんでも「社会が悪い」という論調があった。その「悪い社会」とは政府であり企業であり、そうした力をもっている者を言い、庶民一人一人の集合としての社会は意味しなかった。少年犯罪まで、往々にして「社会が悪い」、「学校は悪い」の合唱が起きたのが昭和40年代、50年代の特徴だったように思う。平成はそういった「社会が悪い」の論調が影をひそめ、自己責任論がまんえんしていった時代だったように思う。高年齢者に多い難治性の病気は「生活習慣病」と呼ばれ、病気になった本人に責任があるような印象を与えている。低賃金や低待遇、長期間の失業状態も、その原因はあくまでも本人のスキルやメンタルの問題とする論調が多い。それと関連あるのかどうかわからないが、生活保護受給者のようにいわゆる「弱者」に対するバッシングも平成に入ってから目立つ。改元をまじかにして、これからの時代はどんな時代になっていくのだろうかと思う。今の方向ですすんでいくのか、それともゆりもどしがあるのかである。
2019年04月23日
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韓国ドラマ「魔王」を再度視聴した。復讐する者とされる者…韓国ドラマにはよくあるテーマなのだが、こちらはどっちかというと復讐される側の視点で作られているドラマだ。エリートの父親に反発する高校生だった主人公は校内で暴力をふるってばかりいた。特に気の弱い同級生を虐めていたが、それをとめようとした優等生をはずみで刺し殺してしまう。殺意があったわけではなく、もみあっているうちにナイフが刺さったともいえる事件だ。有力者の父親は敏腕弁護士を雇い、証言者となる同級生の親を買収し、記者に校内暴力はなかった趣旨の記事をかかせ…というように様々な手を使って、正当防衛による無罪の判決を勝ち取る。一方で、殺された優等生の家は貧しい母子家庭だったが、母親と兄弟二人は肩を寄せ合うように仲良く暮らしていた。それが兄が殺され、正当防衛の判決が出た日に母親も自死する。加害者は父親に反発したまま長じて刑事になり、一方、被害者の弟は復讐を誓う。そして12年の歳月が流れ、復讐劇が始まる。被害者にとっても加害者にとっても救いのない暗い話でハッピーエンドになりようもないのだが、そこに癒しを与えるのは二人の主人公の間にたつサイコメトラーの女性だ。彼女の超能力は事件解決というよりも、被害者、加害者双方の心をうけとめるのにむしろ役立っているようだ。主演二人とヒロインが素晴らしく、二度目の視聴なのだが、本当に脚本がよくできていると思う。これは日本でも嵐の人気俳優二人がダブル主演でけっこう好評だったようだ。冬ソナあたりは、まあ、面白いにしてもばかばかしいと思っていたが、韓国ドラマも進化している。グッドドクター、記憶、未生(日本リメイク版ではHOPE)、グッドワイフなど日本でのリメイクも多くなっている。
2019年04月22日
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最近発達障害と言う言葉をよく聞く。その内容を見ると、自閉症スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害という類型があるらしい。注意欠如・多動症といえば、妙におちつきのない子というのは昔もいたし、学習障害というか勉強のできない子というのもいた。ただ自閉症スペクトラム症というのはよくわからないので、調べてみると、「臨機応変な対人関係やコミュニケーションが苦手であること、今日見や活動が偏り反復的で融通がきかないこと」が特徴とされているようだ。なんのことない。昔からいたような「変わり者」をいまでは発達障害と言っているわけである。自閉症、アスペルガー症候群の下位分類だったものが、今では自閉症スペクトラム症という単一の概念になっているということで「学説」も安定していないようだ。たしかに重度の自閉症の場合には言葉も話せないなど社会生活が不可能という場合もある。しかし対人関係の苦手な変わり者やおちつきのない子、勉強のできない子に「発達障害」というレッテルを貼ることで誰が得をするのだろうか。逆にそうした「発達障害」というレッテルがあの子は発達障害だから付き合わないようという排除の理由になったり、どうせ俺は発達障害なんだから仕方ないといった人生早期あきらめモードのきっかけになる可能性の方が大きいと思うのだが。それにこれから子供を持ちたいという人だって、出現率10%近くにもなる発達障害なんてものがあったら、怖くて子供をもちたいとは思わないのではないか。こうした概念は少子化や未婚化の進展には大いに貢献しそうである。調べてみたら最近ではなんと発達障害支援法なんてものがあるらしい。平成16年法律第167号。内容を見てみると就労支援もあり、子供だけを対象にしているわけでもないようだ。そういえば最近大人の発達障害なんていう言葉も聞く。以下はちょっと怖い想像であるが、出現率10%の発達障害の診断が大人にもなされるようになれば、面接で何度もおちて就職の決まらない失業者や社内でも解雇したいような社員はけっこう「発達障害」にあてはまるのではないか。そういう人々は診断の結果により、障碍者支援枠の中で勤務するという時代になるのかもしれない。
2019年04月12日
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オリンピック誘致の贈賄疑惑で竹田会長が辞任したという。贈賄には多額の金がいる。それに印象だが、竹田氏はワンマンといった雰囲気ではないし、その高貴なご出自故にトップにおかれただけの人物のようにもみえる。仮に贈賄があったとしても、竹田会長が一人でやったとはどうしても思えない。国会では統計疑惑が議論されているのだが、統計がどういうふうにゆがめられたかの報道があまりないのは不思議だ。全数調査のはずが実際には調査されていなかったところがあるということであれば、それは単なる怠慢によるものなのか、なんらかの結果を操作する意図があったのか否かが問題になるのだが。アポ電強盗の事件も大きく報道されているが、高齢者世帯が増え、そして低金利などが背景だろうが、タンス預金も珍しくない時代なら、強盗を考えつく輩がいてもおかしくない。事前に電話で財産状況をききだしたのが新手口といえば新手口だが、一日中誰とも話をせず、話す機会に飢えている高齢者も多い。ついつい話にのっていろいろしゃべったとしても不思議ではない。そして芸能人の麻薬疑惑。こういう事件はいつも思うのだが報道のしすぎではないか。もちろん犯罪にはちがいないのだが、「被害者なき犯罪」であり、一度こうした事件をおこしても復帰している芸能人もいる。ワイドショーならともかく総合ニュースで大きく扱うようなことではないと思う。
2019年03月18日
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最近、統計がいろいろと話題になっているのだが、最近、総務省統計局で修正エンゲル係数という数値をだしているという。検索すればでてくるのだが、これによると最近の「エンゲル係数」の上昇はなかったことになるようだ。いや、従来のエンゲル係数はたしかに上昇しているのだが、修正エンゲル係数、つまり総所得の中の消費の占める割合でとると上昇はみられない…というわけである。https://buzzap.jp/news/20190304-fixed-engels-coefficient/新指標をだすのはよいが、「修正エンゲル係数」というネーミングはまぎらわしいし、誘導的である。これでは今までのエンゲル係数は時代遅れで実態にあわない、エンゲル係数が上昇したからって貧しくなったのではありませんよと言う世論誘導にも見える。昨今の統計偽装と同根ではないか。経済統計指標のイロハとして数値は富裕層にひっぱられるとう点がある。平均を考えればわかるがとんでもなく大きい数字があれば全体の平均はかなりそれにひっぱられる。平均貯蓄がときおりニュースになるが、これも平均は全体を反映しておらず、実際に一番数が多いのは貯蓄ゼロ世帯であるというのは有名な話。この修正エンゲル係数も総所得となればそれだけ富裕層に数値がひっぱられ、食費の占める割合が減るのは当然の話だ。収入が年収一億の人がいたって、消費を年収100万の人の100倍するわけではないのだから。また、エンゲル係数の上昇は、食費に金をかけるようになったという人がいるが、本当なのだろうか。たしかに単独世帯や共稼ぎ世帯の増加で外食や持ち帰り用惣菜に頼る人は増えたかもしれないが、グルメブームは今や昔のはなしだし、こじゃれた店が閉店しサンドイッチ店が後にできるといった光景も身近には多いように思うのだが。
2019年03月05日
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東京マラソンを見に行った。といってもたまたま都心に用事があったので、沿道から見たというだけなのだが。朝から冷たい雨が降っており、去年に比べてあまり人が出ていないような気がする。先頭集団が過ぎ、市民ランナーばかりなのでこんなものなのかもしれないが、ここで走っているのは市民ランナーといっても相当のレベルの人ばかりなので真剣そのものだ。外国人ランナーも目に付く。この中には、あちこちのマラソン大会にでるレベルのスーパー市民ランナーと言うのもいるのだろう。さて、2時間ほど時間をあけて再び沿道に戻るとさっきとはだいぶ感じが違っている。タイムのずっと遅い人達で歩いているという人も多い。そしてコスプレもさっきよりもずっと多い。走ることによる自己表現が目的と言う人達なのかもしれない。ただし、雨のせいか期待ほどコスプレは多くない。考えてみると、この一年あまりそういうネタになりそうなものはなかったせいもあるかもしれない。フナッシーのような話題になったゆるキャラもない。富士山の世界遺産登録のあった年には富士山のかぶりものをしたランナーが何人もいたのだが、そういう話題もない。要するにコスプレねたになるようなものが、今回はみあたらないのだ。また、規制が厳しくなったというのもあるのかもしれない。宗教的テーマがダメと言うことでかっては話題になった十字架をかついだキリストも出なくなった。コスプレでは定番ともいうべき月光仮面や水戸黄門、それに走るサラリーマンなどもどっかで出ていたのだろうけど、直接は見ることができなかった。
2019年03月04日
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小学校の頃、学校で習う歌にはけっこう文語体のものがあった。冬景色の「さぎりきゆるみなとえの」で始まる歌詞は何のことだかよくわからなかったが、先生も特に説明はしなかった。それでもそんなものだと思って歌っていたように思う。「げにしろたえののどけしや」なんて歌詞どうみても小学生には意味不明である。けれどもそうした文語体の歌詞がよくなかったかといえばそうでもない。文語体といえども日本語で、荘重な響きだけはなんとなく伝わる。文語体の歌であったが「星の界」という歌が好きであった。もともとは讃美歌だった曲に杉谷代水という人が歌詞をつけたもので、合唱もよいのだが、ハーモニカの合奏にも合っていた。底知れぬ宇宙の広さとその広い宇宙に希望をみて、その神秘に挑戦していこうと意思を歌ったもので、人間は小さな存在だけれども、その小さな人間が宇宙のことを考えることができる。まあ、小学生の頃に、そんなことを考えていたとは思えないのだが、この歌を思い出すたびに、いつしかそんなようなことを思うようになったということだろう。それにしても、この歌詞は言葉が難しい。そもそも「無窮の遠(おち)」だの「究理の船」なんていう言葉はここにしかでてこないように思う。さすがに窮理を胡瓜とは思わなかったが、「究理の船」はいくらなんでも小学生には理解不能だろう。この歌には「星の世界」という別の歌詞もあり、こちらの方がやや口語的である。「星の界」の方は宇宙の神秘に立ち向かっていく人間の意思のようなものが歌われているのに対し、「星の世界」はもっと受動的に宇宙の神秘に感動する気持ちが描かれている。「星の界」の歌詞のような文語的な荘重さはないが、「きらめく光は玉か黄金か 宇宙の広さをしみじみ思う」という歌詞はすっと心に入ってくるようで、こちらの歌詞もまたよい。なおカーク船長さんのブログにもこの歌に関する記事がある。https://plaza.rakuten.co.jp/kirkhanawa/diary/201902230000/
2019年02月26日
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最近では養護にかける子供について施設よりも家庭での育児が望ましいという議論が多い。なにか施設自体が悪いような論調もあるが、離別や子連れ再婚が増え、その一方で、祖父母などの親族間ネットワークが希薄になっている現状では、やはり居場所のない子供の受け皿としての施設の役割は大きいように思う。施設よりも家庭での育児が望ましいという意見の中には里親や養子縁組(特別養子縁組)を薦める人も多い。養子縁組はさておくとして、里親による養育が施設よりも本当によいものかという点については疑問をもつ。「里親家庭を家とよばないで」というサイトがある。これは施設で育ったものの立場から里親制度を批判したものであり、最初はどうしてこんなに里親に対して悪意のある見方ができるのかと不快に感じた。里親は善意の人であり(事実多くはそうであろう)、里親家庭での養育は施設よりも恵まれているに違いないと思ったからである。https://gladiolus2009.wordpress.com/けれども、それはあくまでも里親の側の見方であって、子供の側からはどうであろうか。里親による虐待は論外としても、善意あふれる優しい里親であっても、子供にとってそれが「幸福な環境」であるだけに、子供はいつそれが消えてしまうのではないかと言う不安にさいなまれるのではないか。施設であれば一定年齢までは確実にそこにいることができるが、里親であれば、いつこの関係が消えるかわからない。里親事業を否定するのではないが、一方で、施設にいる子供達の養育環境の充実と言う面も考慮すべきであろう。そうした意味で、こうした施設ができると、周辺の住民が反対するというのは嘆かわしい。子供たちにとっては必要なのは社会からの隔離ではなく、社会の中で育つことである。「両親がそろって様々な習い事をしている子供も多い。あまりにも幸せな子供をみて、施設の子供が辛い思いをするのでは…」という心配をする声もあるというが、そんなことはない。裕福な家庭で習い事に通うのが「あまりにも幸せ」というが、子供の世界はまた別である。そして子供は様々な家庭環境の子供とつきあって世の中を学ぶ。施設の子供にしても、両親のそろった家庭の友人を通じて、親子関係も様々であることを学ぶだろうし、もし裕福な家庭の友人をうらやましく思うことがあれば、それが社会的成功へのインセンティブになるかもしれない。里親になるほどの善意の人にはなれなくとも、周辺に児童養護施設が建設されるとしても、それに反対しないくらいの心の広さはもちたいものである。児童相談所のできることに反対運動が起きているという某地域にしても、決して反対している住民ばかりではないと思う。
2019年02月12日
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今年の流行語候補、ついに出た。それは森羅万象。私は森羅万象を所管するって…それってなんか凄すぎる。それとも森羅万象の定義についての閣議決定をするとか。韓国ドラマの「未生」にはほろ苦いエピソードもでてくる。会社を辞めて退職金と借金をつぎこみ起業したが失敗した元同僚が訪ねてくる話だ。職場は戦場だが職場の外は地獄だという言葉もでてくる。それまでは主人公を中心に同期の絆や課内の結束が明るく描かれていたのだが。そういえば主人公も契約社員ということで2年経過したら辞めることが既定路線になっている。そのあたり、韓国もやはり厳しい社会のようだ。
2019年02月08日
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お伽話を一つ…御姫様が毎日鏡を見てこんなことを聞いていました。「世界で一番きれいなのはだあれ?」「それはあなたです。」鏡はいつもこう答えました。御姫様のご機嫌をそこねると割られてしまうと恐れたのです。けれども、そこに風がやってきて御姫様にささやきました。「鏡は嘘をついてます。あんな鏡は嘘つきです。」御姫様は鏡を責めました。「酷いわ酷いわ。嘘つくなんて。本当の姿を見せてちょうだい?」鏡は仕方なく御姫様の本当の姿を映しました。何年もの間にかつての美しさは衰えていました。「嘘つき。あんたは嘘つきよ」御姫様は鏡を詰りましたが、風は歌って通り過ぎました。美しかった御姫様、今では美貌も下り坂…問題なのはそこじゃない?鏡を責めてどうするの?
2019年02月07日
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韓国ドラマ「未生」には三者三様の同期新入社員が登場する。英語ロシア語のできる女子社員、みるからに秀才エリートという雰囲気の社員。そして人当たりのよく如才ない感じの社員だ。秀才君は最初からお客様扱いで仕事の流れにのれず、転職を考え始める。「いったい私の何が気に入らないのですか」と上司に詰め寄ると、上司は「君を嫌いほど君のことを知っているわけではない。ただ訓練ができていないと思うからだ」と答える。やがて秀才君は自分の資料の作り方の不十分な点に気づき始め、次第に仕事を任されるようになる。職場は学校と違い、基本的に教わるよりも、周囲を見て仕事の方法を身に着けていくものだ。そしてその「気づき」が重要である。そのあたり学校秀才は自己を過信して気づきに遅れることが多い。女子社員は能力を妬まれ、酷いパワハラをうける。ただ、雑用もひきうけ、必死に仕事をしているうちに、頑張りと熱意が認められて、企画に参画するようになる。一方、最初は何の問題もなく、上司とも円滑に意思疎通でき、廊下トンビで情報通となっていった新入社員は気が付くとオーバーワークぎみでちょっと心配な状況である。一方で主人公、上司からも全く期待されていなかったが、あるとき、上司の「うちの奴」という言葉に感激する。幼いころから囲碁棋士の養成塾に通い、集団作業の経験のなかった彼はそんなことを言われたことがなかったのだ。こんな新入社員のありそうなエピソードを見ていると、自分の新入社員時代を思い出す。なんといっても初給料の感激が一番大きかったなあ。
2019年02月01日
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強盗殺人を行った男が16年後に自首したという。ニュースを聞いて最初に思ったのは、この人は時効がなくなったのを知らなかったのではないかと言うことである。殺人罪の時効は15年というのは世に広く流布していた知識だし、当然当事者は知っている。これに対して時効の撤廃はニュースにはなったが、時効撤廃前の犯罪はどうなるのかというあたりの知識はあやふやではないか。オレがやったのは時効の撤廃前なので15年のはずだ…と思っていた可能性はある。ただ、被害者がしょっちゅう夢に現れたのも自首の原因だという報道もあった。こういうことって本当にあるのかもしれない。犯人は被害者を縛ったうえで刃物で切り付けている。実際に被害者と目を合わせ、最後の声をきき、最後の表情をみているはずだ。同じような話で静岡県で起きた強盗殺人事件の例がある。やはり犯人は被害者の幻覚に悩まされ名乗り出ている。ただそれは時効完成後のことであったので、刑事処分にはならなかったのだが…。殺人犯が被害者の夢や幻覚に悩むのは自業自得だし、反省というのとも違うと思うのだが、戦争でも似たような話がある。日露戦争中白兵戦で相手を殺したことがある帰還兵が生涯夢に悩まされたということを何かの本で読んだことがある。戦争による死亡や傷病も戦争被害なのだが、人を殺したことに苦しむのも戦争の被害なのではないか。
2019年01月25日
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言葉は時代と共に変わっていくものだが、子供の頃にきいた言葉でいつのまにか消えていった言葉もある。一つは「差別語」として駆除されていった言葉で、こうしたものはパソコン変換でもでてこない。そしてもう一つは言葉の背景となる社会状況の変化にいつのまに消えていった言葉だ。例えば、客間、応接間とか茶の間といった言葉は最近きかないように思う。他人の家を訪問するという習慣が薄れたことによりあえて家に来客をもてなす部屋を作る必要はないし、一人暮らしや二人暮らしが珍しくなくなれば茶の間という呼び方もなくなる。未婚が普通になり、独りでも自分なりの生活を楽しむ女性が増えれば「オールドミス」「売れ残り」も死語になる。そして男女問わず知的専門職につく人が増えれば「女史」という言葉も消えるし、似て非なる言葉の「キャリアウーマン」も最近は聞かない。一方で職場の花的なイメージのOLという語も消えつつあるように思う。そしてこのOL…さらに昔はBGと言っていたのだが、そのBGによからぬ意味があるということで、それに代わる言葉として女性週刊誌が普及させたものだそうである。男性にまつわる言葉よりも女性にまつわる言葉の方がより変化しているようにみえるのは気のせいだろうか。名詞以外では、楽しく騒ぐという意味での「はじける」という言葉は最近知った。自分がこの言葉を使いたかった頃には、まだこういう意味はなかったように思う。そういえばその頃には、形容詞で今風のという意味の「いまい」という言葉もあったは寿命は短かった。もともとは同じような意味だった「モダン」という語が昭和モダンのように逆の意味で残っているのとは対照的だ。形容詞の語幹だけで感嘆の意味を表す用法「ふる!」「はや!」なども子供の間で使われていたと思ったら最近では大人も使っている。「さよなら」は昔は普通の挨拶につかわれ「先生さよなら皆さんさよなら」なんていう歌もあったのだが、最近では訣別の場合にしか使われないという。そういえばたしかに普通の場合には「さよなら」はいわなくなっている。
2019年01月24日
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今朝のニュースはいっせいに小室さん報道だった。母親の借金問題で小室氏が意見を表明したというのだが、内容はすでに解決済とするもので特に新しい内容はない。すかさず母の元婚約者の反論もあり、しばらくはニュース種には困らないだろう。けれどもここで疑問がわく。小室さんは内親王との婚約が延期されているその相手なのだが、いまだ婚約していないとすれば一般人ではないか。世間一般では、普通、娘の交際相手は秘匿し、正式に婚約したところではじめて公にする。これが息子ならどこぞの令嬢とつきあってるのなんのと自慢する親もいるかもしれないが、娘だと状況が違う。ある意味で日本の「良家の令嬢」の頂点である内親王の「交際相手」がこんなに公になってニュース種になっている状況はすごく変である。それもこれも宮内庁が発表を行ったからで、そんな発表がなければ単なるうわさの交際相手ということですんだのだろう。次にその借金問題の内容である。女性と交際して男性がなにくれと面倒をみる。普通に考えればそれは贈与であって借金ではない。借金問題と普通名詞のように語られるが、法律的にはどうなのかというコメントがあまりない。それだけではない。プライバシーの問題もあるのだが、母親の元婚約者なる方の正体がマスコミに全くでてこないのも変だ。大きな息子のいる中年女性と婚約し、多額の金を渡し、自分から婚約を解消して、今は困っているから金を返せという男性ってどういう人なのか…けっこう気になる。さらに問題となっている金額は400万円ほどのようなのだが、この金額を27歳の社会人が工面できないというのもどうなのだろう。このくらいの貯金のあるのは珍しくないし、手持ちがなくとも、友人知人にかけあってかきあつめるのは不可能ではないだろう。それもできない男性が良家の子女に結婚を申し込むというのがよくわからない。市井でこういうことがあれば、男性が良家の財産をあてにしているということになるのだが。最後に、最近のマスコミは忖度が酷いのではないかと推測しているのだが、こんな報道があふれていることはどう考えるべきなのだろうか。
2019年01月23日
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