ーーー 複刻記事 ーーー
2004年の古い記事である
私自身で読み返すために複刻する
私自身の古い記事
および寄せられたコメント
を再読するのも
個人的には面白い
2004.12.04
立花隆秘書日記 フィクションとノンフィクション
前にも一度書いたことがあるが「立花隆秘書日記」(佐々木千賀子 ポプラ社)という興味深い本がある。
立花隆氏の名物秘書だった佐々木さんが、秘書時代を振り返り、「巨人 立花隆」との生活及びその実像を描いた本だ。
もう二度ほど読んだので、私の本棚の中の「引退席」で、休んでもらおうと思ってちょっと読み直したら、面白い個所があったので拾い書きをしてみる。
―――― 立花隆秘書日記
引用
――――
子どもの頃から大学にかけては、ありとあらゆると言っていいほどの文学書や哲学書、思想書を読破してきた立花氏だった。
週刊文春の記者になったときにはじめてノンフィクションの世界に触れ、その存在感にショックを受ける。
『学生時代は、ノンフィクションというものを大変馬鹿にしていたんです。要するに古典的な大学教養人が読書対象としてあげるような本以外の本はくだらない本だと言う意識を、若いときは非情に持っていたんですけれども、読んでみると、ノンたフィクションも大変面白いわけです。
それでもう給料の大半をつぎ込みまして、学生時代に文学書や教養書に熱中したと同じ様な感じで大漁のノンフィクションを読みました。
それを読んでいるうちに、文学者の想像力というのは、生きてきた現実に比して、いかに貧困かということがわかり、どうして、ああいうつまらないものに、あれだけ熱中できたんだろうと逆に思いはじめたわけです。』
―――― ◇ ――――
引用はここまでだが、私も学生時代はフィクションもの、つまり小説や詩などを中心にある程度は読んだつもりだが、社会人になって、特に海外経験を積んでからは、もっぱらノンフィクションものを中心に読むようになった。
立花氏のフィクションからノンフィクションへの「転向」ぶりは極端だと思うし、フィクションでなくてはならない世界がある。 例えば簡単に考えても、美しい恋を題材にした小説だとか、繊細な情緒を詠う詩歌などという文学者・詩人たちの想像力の産物をノンフィクションの世界に求めても、同質・同レベルのものは得られないわけである。
しかし立花氏の言う 、「文学者の想像力というのは、生きてきた現実に比して、いかに貧困かということがわかり・・・」
と言う部分は、よくわかるつもりである。
というか、 私も海外でいろいろな体験をしてみて、少なくとも日本人の小説家の描いた海外を舞台にした情景・状況・人物などよりも、私の first hand に得た、見た、感じた、味わった「もの」や「世界」の鮮やかさ・リアルさ・強烈さは比較しようがないのである。
今まで読んだものが、どうもにせものくさく感じることになる。
―――― この記事に寄せられたコメント ――――
FLUR さん
alexさん、こんにちわ!
柄谷行人さんも似たようなコメントしてますよね。
ノンフィクションというか事象の持つ真実さというか、それを凌駕するほどの思想はないと。
ぼくはどうかなぁ。。。
思想はぼくにとっては事象に対していろいろな見方を提示してくれるので、事象ありきで思想を眺めるのはいいかなって思います。
そこに仮説は入ってもいいんですけど、共有できないような仮説はたんにうそくさく感じますよね(笑)
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alexさん
FLURさん
そうですか?
知りませんでした。
しかし、これはむかしNHKテレビの人気番組「私の秘密」(アメリカの番組のコピーです)の番組開始の冒頭で、名司会者・高橋圭三さんが必ず「事実は小説より奇なり」という事を言いましたが、わかりやすく言えば、そう言うことですね。
これは、多少なりとも人生経験を積めば、平凡人でもわかることです。
しかし、ノンフィクション作品の理想、素晴らしさ、美しさはフィクションの及ばないものがあります。
ずるいようですが、この両者は本来比較するべきものではないようです。
守備範囲がちがう。
しかし、非常に大きく言えば、フィクション作品そのものもノンフィクションの世界に存在している・・・。 そう言うことではないでしょうか?
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syhak さん
alex99さん
いいですね~♪こういう考え方!
ノンフィクションもフィクションも作者の脳みそから生まれたことには 変わりないですもの。
発想の源がノンフィクションかフィクションか・・突き詰めるとわかんなくなってきそうです。(^_^;)
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alex99 さん
syhakさん
確かにね。 フィクション(小説・詩歌)を創作する創作者達を対象として考えること自体もノンフィクションである・・・という風に考えているんです。
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FLUR さん
alex99さん
うーーーーーーーーむ。。。
なんか、こんがらがってきました(笑)
ということで(なにがだ? 笑)、やっぱりぼくは頭空っぽにして刺激を求めることにします(笑)
要は、フィクションにせよ、ノンフィクションにせよ、そこから何を得られるか、ですよね?
(むやみなまとめかたかな。。。)
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alex99 さん
FLURさん
そうだと思いますよ。
・・・ということは、棲み分けがあるわけです。
sphare がちがうということなんですが。
フィクションでエンジョイ出来ること、ノンフィクションで得られること。
ちがうんですから、立花隆氏が「ノン・フィクション」路線一本槍・・・というのは、チト、バランス感覚を欠いている訳ですが、本人はわかっていないでしょう。
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会長0804 さん
私もその本を読みました。立花隆氏は、「田中角栄研究」以来尊敬する作家の一人です。ルポルタージュにおいてはもう一人、鎌田慧氏を一番に推しますが・・・
私もここ十年以上、ノンフィクションが読書の9割を占めています。やはり真実の持つ重さはフィクションを軽く凌駕しますし、夢物語にうつつを抜かすには、人生はあまりにも短い気がしますね。
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alex99 さん
会長0804さん
わかるような気がします。
立花隆さんの方が、好奇心にドライブされているという感じですね。
>私もここ十年以上、ノンフィクションが読書の9割を占めています。やはり真実の持つ重さはフィクションを軽く凌駕しますし、夢物語にうつつを抜かすには、人生はあまりにも短い気がしますね。
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同感です。
ときどき、若い頃に読んだ文学作品を読んでみても、私の精神の経年変化もあるのですが、往事の感動はありません。
ただ、その文芸的な美しさだけは再認識しますが。
それにヘルマン・ヘッセの一連の諸作、「ジャン・クリストフ・などは青春時代でしか読めない本ですね。
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ちゃと0508 さん
こんばんは~。
「文学者の想像力というのは、生きてきた現実に比して、いかに貧困かということがわかり・・・」についてちょっと考えてみました。
詩歌は(もちろん不定型のものもありますが)基本的に持っている定型や長さという条件に縛られるゆえに、そこからはみだした・こぼれた情緒がむしろ読む側に無限大に投影されるものなのではないかと思いまして。
それにひきかえ、小説の場合は、一つの文章が何文字であろうと、それがいくつの段落になろうと、ある種、筆者が筆を尽くしてすべてをそこに盛り込もうとする・・・すべて盛り込んだと思いきや、結局その行為が実際の感情や情景を、その言葉で終わらせるというか、かえって限定したものにしてしまい、そこから一切広がらないという部分があるような気がしてきました。
この本自体は次に帰った時に是非読みたいと思っております。
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alex99 さん
ちゃと0508さん
おっしゃること、全く同感ですね!!
実は、私もこれに近いことを書こうとして、言い忘れた、書き忘れていました。
深謝申し上げます。
このごろは、フィクションはあまり読まなくなったんですが、詩歌は逆に読むようになった。
想像力をかき立てるんです。
この「想像力の限界」「バッテリー・リミット」が小説と詩歌の分水嶺でしょうね。
現代詩・和歌・俳句。
面白いですね。
若い頃は現代詩が大好きでした。
このごろ、和歌・俳句の面白さが少しわかってきました。
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