まず 『冷血』 を読んだ。事実を調べて書いた「ノンフィクション・ノベル」というそうだが、まったくの創作のようにな構成で、この作家の天才的な魅力に捉えられた。
一家四人殺し事件の殺された方の立場も、犯人のやむところのない心情も余すことなくつかめる。殺伐たる事件、非道である。しかしカポーティ味付けはファンタジーの様相をおびて、何か人好きのするようなぼんわかしたものが浮かんでくるのである。
そんな~、何の罪もないひとたち一家4人を殺してしまう犯人達を許してはいけない!と思いつつ 、言ってしまえば情が移ってしかたない。
しかも、罪のない尋常に暮らしていた、あるいは豊かに暮らしていた被害者の家族達を何も他人に害がないため、罪があるような錯覚もおきてしまう。
なんだろう?なにゆえに?これは作家の何かなのだ!ろう。考えさせられる。
「ティファニーで朝食を」はオードリー・ヘップバーンの不思議な魅力と主題曲「ムーンリバー」の印象で忘れがたい映画だった。それなのに原作者のトルーマン・カポーティという作家を意識していなかった。
原作の中篇作品 『ティファニーで朝食を』 は映画とはぜんぜんちがう。ハッピーエンドではない。風に吹かれるようにながれながれてもの哀しく終わる。でも、描き方の独特がそこはかとなく魅力なのである。
一緒に収められている 『わが家は花ざかり』『ダイヤのギター』『クリスマスの思い出』 の作品もひとつひとつが印象深く、やはり主人公を魅力的に想った。
つまり主人公の性格描写、心理状態(カポーティの等身大と思う)が気になるのだ。野性味のような自由さ、退廃的な、なげやりな柔軟さ。
そこで 『冷血』 。 読むまでは松本清張のように実事件に即して、解き明かしたり肉付けしたりして淡々と物語られると思ったのが、違った。むごいのに暗くない、けして解決があるわけではないから明るくはない。
根源的な「育ち方」、「もの心ついたときの状態」が不如意、不幸だったら、一生に与える酷薄な運命が待ち受けているのではないか!とカポーテーはいいたいのではないか。
そしてカポーテーの初作品 『遠い声 遠い部屋』 。これぞゴシックロマン風の少年期もの。現代の恐ーいファンタジージーも真っ青。ゾクゾクッとしながら読んで興深い。自伝もふくまれているらしいからカポーテーの思想もわかろうというもの。
だからといって許せはしない、身も凍る殺人実事件である。現代でも嫌なことにたくさん同様の事件が起こっているではないか。と、読後感が良かっただけでは終わらない 『冷血』 。
この9月はカポーティを続けて読んでしまったわけ、である。
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