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8ミリ映画「なつかしの大阪市電」
2024.04.15
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遺伝子解析から見た東アジアの民族関係 I 斎藤成也 敎授(国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室)
2023.01.19
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三島由紀夫 - 檄昭和45年11月25日 市ヶ谷駐屯地にて私は、この頃、ベトナム戦争下のサイゴンに駐在していたある日、日本けら郵送されてきた日本の新聞を見て初めてこの事件を知った当時は、国際電話もなかなか通じないような時代この三島自決事件をリアルタイムで知る由もなかった三島はこの檄で自衛隊のクーデターを促したのだが果たして本当に自衛隊が呼応すると思っていたのだろうか?私はそうは思わない
2023.01.17
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【復刻日記】道後温泉の夜 2009.06.10https://my.plaza.rakuten.co.jp/diary/update/public/?d_date=20090610&d_seq=0あることに関連して思い出した昔の経験を復刻してみるこの中の一部には、今の感覚では、不適切な部分もあるのだが時代の違いという事で勘弁してもらおう
2022.09.01
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【復刻記事】2004「墨を塗ったような暗闇」とか、「鼻をつままれてもわからない」とか「漆黒の闇」とか・・・。昔の夜の暗さはいろいろに表現される。 「墨を塗ったような暗闇」とか、「鼻をつままれてもわからない」とか「漆黒の闇」とか・・・。昔の夜の暗さはいろいろに表現される。現代の日本の夜は明るい。どの部屋も蛍光灯が煌々と隅から隅まで照らす。比較するものと言えば、日本の昔の夜の闇。その他には、日本の戦前の夜の茶の間。時代は今だけれど、欧州の家々の部屋の灯りだろうか?西欧では明るい部屋はパーティー用だけだ。~~~~~~~~~私は幼児だったけれど、太平洋戦争末期の、米軍の日本を焼き尽くす空襲の恐怖の下で生きたことのある人間だ。「B29 日本本土の大爆撃」サンケイ新聞社出版局発行の「第二次世界大戦ブックス (4)」という本がある。~~~~~~~~~「超空の要塞」B29を、米国のマスコミは、“地獄の巨鳥”とか“火の鳥”とよんだ。それはB17「空の要塞」の二倍も大きい巨人機であった。500機にもおよぶその大編隊は、日本の主要都市を焼け野原にした。日本の降伏があと一、二ヶ月おくれたら、B29の1000機編隊の大爆撃が、日本列島を“化石の荒野”と化して、原爆の投下を待たずとも、日本帝国は完全に消滅したであろうーーーと米英の戦史家はいっている。~~~~~~~~~米軍の原爆投下に勝るとも劣らない、この残酷極まる日本空襲に関しては、また別に日記で語ろうと思う。~~~~~~~~~閑話休題。私も一度、そんな太古の昔のような、漆黒の暗闇を経験した。私が30代の頃、私の会社の女性の先輩が信州に別荘を持っていた。私のお願いに対して、その先輩の別荘をただで貸してくれるという。この女性は私が新入社員として入社した頃からの先輩で、私を可愛がってくれた人なので、お願いしてみたのだ。当時、私にはガールフレンドがいて、アメリカ人の女性だったけれど、なんとか彼女ともっと intimate な仲になりたいと思っていた。intimate と言う言葉はいちおう日本では一般的に「親密な」と言うことになっているけれど、男女間で使うと、「一線を越えた」という、大変な意味の仲を指し示す言葉になる。私としては、ここで「一線」も「ニ線」も越えて、(もっと越えてもいいんだが・・・)(相手次第かな?)、彼女との男女間関係の、「成層圏安定水平飛行」に入りたい気持ちがあったので、この信州の別荘は絶好の舞台だった。二人で人里離れた信州の別荘で過ごせば、なるようにしかならないではないか?極めて自然に intimate relatioanship に収斂することがヴィジュアルにシミュレーション出来る。ジグゾーパズルというものがある。凸というものがあれば、凹が応える。魚心あらば水心。これをいくら強調しても空しいかも知れない。凸よりは凹が好きな私ですが・・・。~~~~~~~~~ビジネスの関係でつきあっていた他社のポン友に、「この檜舞台でどういう効果的な、端的な性的行動を取ったらいいのか?」という、哲学的アドバイスを求めたら、『alexさん、別荘では、有無を言わせず彼女を【外掛け】で一気に倒しなさい!』という、貴重なアドバイスをいただいた。果たして【外掛け】が四十八手の中で、一番有効な業かな?という素朴な疑問はあったが、とにかくワクワクした。軽井沢からはちょっと遠いが、信州の、白樺の林に囲まれたフィンランド直輸入の白木のコテッジでの、【外掛け】という人為的な、恣意的な、革命的な(それほどでな無いね)、運動によって、相思相愛の?男女の愛が結晶するのだ。【内掛け】 の方が、目的完遂には早いのではないか?(内側だから)、という現実的な事も考えたが、【外掛け】の方が豪快なイメージがある。【あびせ倒し】とか、 【押し倒し】も【倒し】業だからいいとは思ったが、そのへんの細かい差異は、いざ、現場に立ってみるとあまり意味をなさないのではないか?業をかけられる相手側の感情も勘案しなければならない。とにかく【すくい投げ】だけはいけない。相手に屈辱感を与える。【一本背負い】は致命的にイケナイ。相手に逃げられてしまう。それに【寄り切り】だけだと、水平移動だけで何も起こらないので、この決まり手も避けたい。一応は、そういう、プラクティカルな考察もしてみた。とにかく、【業をかける】という積極性が大事なのではないだろうか?さもないと、【教育的指導】を言い渡されて、【効果】【技あり】と、立て続けに不利な体勢になるかも知れない。【消極的とは、善くないことなり】と武者小路実篤さんも言っている。(言っていないか?)とにかく、【外掛け】 なら、ガールフレンドが「あれ~~! ご無体な・・・」と言いながらも、素直に!私の言うことを聞くような気がしてきた。日本の伝統業の威力を知って、歴史の浅い米国の現在の不条理な優位を反省してくれればもっといいかも知れない。彼女にすぐ、この、「別荘で水入らずプラン」を話したら、「ハウ・ナイス!」と喜んだ。そのあどけない表情にウソはない。彼女も【外掛け】を、心の底では望んでいるのだ。もう怖いものはなんにもない。一人で、足をとばして【外掛け】の練習もした。~~~~~~~~~しかし、世の中そんなに甘いもんじゃない。いろんな事情で、彼女は米国に急遽帰国することになった。で、仕方が無いので私はむさ苦しい会社の後輩を引き連れて、信州の別荘におもむいた。確かに信州だけれど、ここには堀辰雄が保証したような「麦わら帽子をかぶった憂愁の美少女」なんてどこを探してもいない。ここは「美しい村」ではないらしい。「菜穂子さん」とつぶやきながら雑貨屋に入って、今夜の食材を買い込んだ。別荘で食事を作った。私は山岳部にいた人間だからキャンプ食は女性より上手だ。とりあえずは、腹が一杯になったが、野郎ばかりではその後に何もすることがない。それでも、時間は散文的に、自動的に経過する。まもなく、日が暮れて、もう眠ろうということになった。林の中にある別荘は、室内の灯を消すと、本当の漆黒の闇になった。耳がシ~~ンと鳴るほどの無音の世界でもある。「ふ~~ん、昔の人間はこんな夜の中で、ドップリすごしたのか」しみじみ、そう思った。座頭市が有利な世界だと思った。私のそんな深遠な哲学的な思索に感応したのか、いつもはがさつな後輩達も、言葉少なである。一人で林の外に出てみたら、それこそ、満天の星。降って落ちてきそうなのだ。【外掛け】の他にも、有効な業として、【内無双】とか、【小股すくい】とか、手を使う業の方が有効かも知れない。今ごろ、業の思いをめぐらしても、空しいか?
2021.05.14
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――南千住に関連する 私の青春の想い出 ―― 南千住・東京スタジアム、と聞くと、なんとなく懐かしい気分になると言っても、私は東京スタジアムでロッテの試合を観戦した、などと言う経験はないただ、この二つの言葉から、二つの想い出が蘇る想い出 その1 南千住大学生のころ、アルバイトで南千住に二日間ほど通った南千住とは、初めての土地だったが、中小企業・工場が多い印象だったロッテの本拠地・東京スタジアムの事は脳裏になかったごみごみした建物の中にアルバイト先の小さな工場?はあったアルバイトの作業の内容は、栄養剤のアンプルを細かく砕くこと昔よく売っていたのだが、栄養剤と言うか、精力剤と言うか小さなアンプルに入った液体なのだがそれが多分、有効期限切れになったそんなものが小山のように積んであったそれをハンマーで細かく砕くのであるその作業の目的は、有効期限切れなので廃棄するそのためにはアンプルを砕く必要があり砕いた結果、容積も小さくなり、廃棄が容易になるそういう事だったのだろうと思うのだがそれは今、書きながら思い当たった作業目的なのだ(笑)思えば、若いころは、ものを思わざりけり(笑)本当に若い頃はバカだった今もだろ?ほっといてくれ!何しろ貧乏学生なので、栄養が心配であるそういう貧乏学生の目の前に小山のような栄養剤精力剤なのかもしれないのだが(笑)これは飲まない手はないアンプルを砕きながらも、チューチューアンプルの中の精力剤を吸う卑しさ(笑)今はヘロヘロの爺さんのこの私だが大学生のころは筋骨たくましい壮健な大男の若者だったのだここ重要!真面目に一日中働き続け今思えばもっと怠けてもよかったのだがご苦労さんと、当時としては、割のいいアルバイト代をもらい二日間通った作業が終わると、労働者諸君の殿堂、南千住から長駆長駆と書いても今の人には意味も分からないだろうけれど長駆とはいい条、地下鉄で(笑)地元新宿に帰着早速、労働者諸君の集う高級食堂街「小便横丁」へ小便臭い、とは確認できなかったが戦後の闇市時代は、そうだったのだろう狭い横町の中の「鶴亀食堂」の暖簾をくぐりクジラ肉のステーキに味噌汁などを真面目過ぎた労働で消耗したエネルギーを補給この鶴亀食堂は今もあるんだろうと思うそれからあとはどうしたかは記憶にないおそらく外山町の安アパート(家主はそう思っていない)に帰着大びんの牛乳を飲んだのだろうと当時のルーティーンから推測ああ、あのころはよかった未来は無限に開けていると思っていたあのアンプル精力剤はどう作用したのだろうか・学生時代にデートを一回したきりと言う悲惨な青春時代だったから無駄アンプルとなってしまった精力剤アンプルよ すまん!(謝ることは無い)想い出 その2この想い出の舞台は、労働者諸君がお住いの南千住では無い高級住宅街・井の頭線沿線のとあるアパートそこに私は住んでいた「住んでいた」と言っても、本来、私はそこから二駅ほどのところにある独身寮に住んでいる「べき」だったのだがそれなのに私は・・・私の独身寮の同じ部屋に同じ課に配属された慶応出身の男がいたこの男は三田の色魔と言われる慶応の出身だけあって学生時代から水商売の女性と同棲していたという事で独身寮にいたのは、ほんの最初だけすぐ彼女と、学生のくせにマンションで同棲していた、と後で知った「三田の色魔・慶応」とか「利口で無い無い立教」とか六大学野球リーグで歌われる応援チャントは、真実を伝えている(オイオイ)私は超堅物の士族出身の祖母・母に育てられたせいで学生時代のデート歴は、一回だけ(涙)しかも、それも振られた(涙)、と言う悲惨なしかし、潔癖な青春時代を過ごした男である学生時代から女と同棲(男との同棲は、もっとイカンが)をするなんて、なんて不潔な男なんだっ!そう思っていたしかし、うらやましいという気持ちも無かったは・・・無かったとは…無かったとは・・・(どっちなんだ?)そう思っていた私だが社会人になって何年目だったか?ある機会にアメリカ人の若い女性と知り合い住所を紙切れに書いてもらいすぐにその週末に、書かれた住所を頼りに高級住宅街・井の頭沿線にあるあまり高級では無い木造アパートを訪ねた私に住所を紙切れに書いて渡したアメリカ女性だがまさか本当に訪ねて来るとは予想していなかった様子で少し驚いた様子だったが鈍感で潔癖な私はそういう事にも気が付かず彼女のアパートでいろいろ話し込んだ長時間の真剣な話し合いの結果彼女とはお互いに、意外にもにも気が合ってしまい同棲など不良のすることだと軽蔑していた潔癖な私だがその次の週には彼女の高級住宅街にはあるものの木造の高級では無いアパートに住みだすという何と言うか、本中華何の精神的な躊躇も無く何の良心の呵責も無く何の恥辱心も無く(このへんでいいかな?)私の同棲生活がスタートしたのだもっとも、唐の私の灰色の脳細胞の中には「私は同棲しているんだ」と言う自覚も「同棲」という「いやらしい」響きを持つ単語も全く存在しなかったのだ本当のことを言うとこのブログを書き始めて回顧してみて初めてあれが「同棲」であったという発見をしたのだ(オイオイ)それにしても、昔は、ものを、おもわざりけり(こればっかり)前にも書いたことだが私は同棲しているという自覚も無くましてや異人の女と(オイオイ)暮らしているという自覚も無く会社では、そういう、放課後の生活の事はおくびにも出さず・・・と言うか別にプライベートなことは、自分からしゃべる空気でもなかったし何も言わなかったので会社の同僚たちは、私が、放課後にそういう「異文化研究」をしているとは(オイオイ)誰一人知らなかったいまだにそうだと思うそういうわけで、会社では、激務に励みながら(笑)夜は、彼女やそのアメリカ人友達たちと暮らすそういう polarize した生活が平穏に過ぎ(笑)商社は激務だとは言え、たまには早く帰宅することもありそんな早帰りの日には、夕方にはアパートの隣にあったスナックで一人で飲む事があったそのうちのあるスナックでは、年配のママさんに気に入られかなり良く通ったそのうちに、そのスナックの常連に美人がいることに気が付いただからと言っても、潔癖な私は(オイオイ9特にアプローチすることも無くしかし、そのうちに、私を誠実な男だと判断した「年配の」ママさんが私がその美人と結婚してはどうかと言いだしたのだ確かに美人だし真面目そうだしグラマーでもあるしただ、男は、そういう条件がそろっていたらすぐ結婚するというそういう簡単な動物では無いここんとこ重要!それに忘れていたが、私はアメリカ人の女性と同棲しているという負い目がある(笑)重婚はいけない(オイオイ)それによく聞いてみたら、その女性は離婚歴があるという私には離婚歴が無いまだ結婚歴も無い(オイオイ)それで、多少、進退極まって(まだ極まってもいないのだが)その二階にあるスナックに飲みに行くようになったそのスナックには女性がいない若い大柄なマスターだけである客もいない(オイオイ)マスターは、野球だ好きだという南千住の東京スタジアムで、ロッテの試合が無い日など仲間の野球チーム同士で野球をすることがるという労働者諸君が多い南千住近辺の人間らしい客などめったに来ないスナックなので暇なマスターと外に出て、キャッチボールをしたしばらくすると私の彼女が勤務を終えて帰ってきた彼女はカルフォルニアの州立大卒で、ある日本企業で英語を生かした仕事をしている、と聞いているちょうど夕日が落ちかけて夕空である彼女の長い金髪が輝いているマスターは二階の客がいないスナックに帰って(笑)私と彼女はアパートに入った今日はアパートの二階の住人と一緒に、夕食を自炊する約束であるその住人は、中年のアメリカ人軍属それに彼の愛人の先週大学の男子学生(わざと誤字)つまり、いまでいうLGBTカップルであるでも、そんな暗さはみじんも無く明るいまあ、こちらが偏見を持っていないからでもある我々はいわば odd couples だったのだろうただし、こちらはヘテロ・カップルであるああ、あの頃は楽しくて自由だったな~(こればっか)実際に書いてみると南千住つながりというだけのことでそれほどの想い出でも無かったなすまん!ただ、私にとっては大事な想い出だ
2021.04.13
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徳島墓参 タクシーもう、一年と少し前の話になるコロナの話題がぼつぼつ出始めた年末米国から妹が久しぶりに来日したことでもあり母方の墓、先祖・祖父母・両親の墓参り旅行として徳島市を訪問したなんやかんやで、想定外の一週間と言う滞在となったその際の印象記をと言っても、徳島の墓参は、二・三年に一度程度、やっているので徳島自体は目新しい場所では無い阿波踊り会館で阿波踊りも経験したし眉山のケーブルに上りモラエス博物館も訪問した食べ物も徳島は素晴らしい特に海産物は、魚、刺身など、美味である大阪で食するより、地産地消で、新鮮と言うと、いいことばかりの様だが(笑)今回は、あまり、愉快では無いことがあったその印象記を(笑)以前、昔の話として東北の某都市を不愉快な街として書いた町全体が不親切で、国鉄の駅では助役?から理不尽に怒鳴りつけられた東北弁アクセントの説明を私が聞き取れなかったのが「馬鹿にしている」と思われたらしいこの街が不愉快であることは(オイオイ)私の好きな山口瞳が随筆で詳しく書いている(笑)私の単独印象では無いのである(笑)それに比べれば、徳島での、納得できない出来事などたいしたことでは無いし非常に感じのいい人も同時にいだが(笑)感じのいい人より、感じの悪い人の話の方が書きやすい(オイオイ)という事で、いよいよ、得意の悪口に移る事とする(笑)タクシーこれは前回の訪問の出来事その時は大阪から高速バスで徳島駅前に到着すぐ墓参りをしようと、駅ビルでお供えするものを購入駅のタクシー乗り場でタクシーに乗り込んだ墓地は車で15分ぐらいのところにある行き先の墓地の位置をすぐそばにある拠点病院をランドマークとしてわかりやすく説明した、つもりであったのだが途中で、どうもタクシーが正しい方向に向かっていない様に感じた運転手にその旨を告げると生返事であるそのうちに、住宅地に入り込み迷い迷い進む様子であるたまりかねて私が再度、説明してもますます路地に入り込んでしまっていて出たり入ったり挙句の果てには行きどまりの道だったり果ては通りがかりの人に聞いたりしている再度たまりかねて(笑)私が一般方向を指示結果的に非常に時間もかかり料金もかかりやっと墓地にたどり着いた運転手は、多少は、遺憾である、という表情は示したが料金はしっかり全額請求してきたなんだこれ?徳島市内なんて端から端でも30分もかからないそれなのに市内の地理がわかっていないのか私の明確な指示があったのにそれを聴いたのか、無視したのか?訳の分からないダッチロールでこういう運転手は大阪には絶対、いないと、怒っても仕方がないのだがひょっとしたら、わからないふりをしてメーターを稼いだのか?真相は、深い闇の中である(笑)ーーーータクシー今度は今回の出来事である夜、駅近辺の炉端焼きの店に行こうとホテルのカウンターにタクシーを頼んだカウンターと言っても、気の利かないお兄さんが一人いるだけである駅までタクシー、と頼んだら、なぜか、困ったような顔をしているそれでもどこかに電話したので、タクシーの到着を待ったところがそのタクシーがなかなか来ないこのホテルのすぐ近くにタクシー乗り場もあったのにこれはどうした事か?まあ、ようやくタクシー到着駅近くにあるかなり有名な炉端焼き店を言うと「私は駅周辺は行かないし、よくわからない」と言う初めから、見事なご挨拶である(笑)上でも書いたが、徳島市内は、車で30分も走れば端から端まで行けてしまう地方都市であるその徳島市内でタクシーをやっていて駅には行かない、よく知らないとは??それでよくタクシーやってるね「どうして駅周辺がわからないのか?」と詰問すると「私は眉山近くから来たんです」という眉山と言うのは同じ徳島市内の小高い山であるだが、再度、書くが、徳島市内は、端から端まで走っても…(笑)この眉山には車で10分だと思うのだがそもそも、ホテルのフロントの兄ちゃんなぜ、そういう辺境の地??(笑)のタクシーを呼んだのだ?そえに、こんな小さな地方都市で、駅周辺はわかりませんではタクシー運転手が務まらないと思うが仕方が無いので、駅に行けと指示駅で降りて、そこから徒歩数分で、その店に入ったここまでで、すでに血圧が上がった(笑)が、店でもっと血圧が上がる事が起こる(笑)その話は、別稿で
2021.02.18
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ロッ前身球団の“消えた野球場”…南千住にあった「東京スタジアム(味スタじゃない方)」今は何がある? 鼠入昌史 2021/01/23 17:04 ―― 記事 ――1962年5月に開場した幻の東京スタジアム。カクテル光線も眩しく「光の球場」と呼ばれた© Number Web 提供 1962年5月に開場した幻の東京スタジアム。カクテル光線も眩しく「光の球場」と呼ばれた 今回は、ロッテのお話である。 と、いきなり話が脇にそれるが、筆者は阪神ファンだからロッテ打線はとてつもなく強力だと思っている。言わずもがな2005年の日本シリーズ、33-4とかいうアレで、阪神はロッテに4連敗してしまった。そのインパクトが強すぎて、15年経った今でもロッテ打線など抑えられるはずがないと恐怖におののいている。そういうわけで、ロッテの話をするのはなかなかツラいものがある。せめてもの救いは、今回のテーマがロッテはロッテでもその前身「東京オリオンズ」と呼ばれていた時代の物語であること。安心して話を先にすすめることにしよう。(味スタじゃない方の)東京スタジアムとは? 今の千葉ロッテマリーンズが東京オリオンズと名乗っていたのは1964年から1968年の5年間。ホーム球場は東京スタジアムだった。東京スタジアムというと、京王線の飛田給駅の近くにあるアレか、と思う人もいるかも知れない(「味の素スタジアム」はネーミングライツによる名称で、正式には東京スタジアム)が、もちろんまったくの別モノだ。オリオンズの東京スタジアムは、東京・南千住にあった。 東京スタジアムは大毎オリオンズ時代の1962年に開場し、1972年をもって役割を終えた。我が国の右肩上がりイケイケドンドンの高度経済成長時代にたった10年、東京の下町にあったいわば“幻の球場”だ。町工場が建ち並ぶような下町に突如現れて、カクテル光線も眩しく人呼んで「光の球場」。場所柄か、下駄を履いて観戦に訪れるお客も少なからずいたという。そんななんだか楽しげな野球場が、東京の下町のど真ん中にあった。となれば、今は一体どうなっているのか確かめに行くしかない。そういうわけで、常磐線に乗って南千住駅にやってきたのである。いざ“消えた野球場”東京スタジアムへ 南千住駅はJRならば常磐線、地下鉄ならば日比谷線、その他にはつくばエクスプレスも乗り入れるちょっとしたターミナルである。ただ、この3路線すべてがそのまま並んで北千住駅にも乗り入れているので、乗り換えターミナルとしては北千住のほうが優勢だ。むしろ南千住というと、近年駅の周辺の開発が急速に進んでタワーマンションが林立している街、といった印象を持っている人のほうが多いのではないだろうか。はたまた、南千住駅から南に歩いて泪橋、さらに南に行けば吉原大門というディープな世界への入り口としてのイメージも根強い。筆者は鉄道寄りの人間なので、隅田川貨物駅という貨物列車専用の駅に隣接、さらには東京メトロ日比谷線の車両基地もある場所としても認識している。 このように、なんとなくいろんなものを詰め込んだような、ひとことでは表しにくいのが南千住駅の個性といえる。そんな南千住のどこに光の球場はあったのか。さすがに南千住駅に着いてから調べていたのではどうしようもないので事前に確認しておいた。駅から西に進んで日光街道(国道4号)を渡った少し先だ。東京スタジアム跡地にあった“ナゾの像”の正体は? 駅から歩いて約15分。冬の日差しの中、大通りとその隙間にひしめく昭和の薫り漂う下町の路地を縫うように進み、目的の場所にたどり着いた。まず見えてくるのは南千住警察署。そしてその横に何やら立派な建物がある。荒川総合スポーツセンターというらしい。このあたりに、間違いなくかつて東京スタジアムがあったのだ。 だいたいこういう場合、どこかに小さな碑が置かれているものだ。だから荒川総合スポーツセンターの外周に沿ってうろついてみる。すると、何やら胸像のようなものが見えた。お、もしやこれは私財を投じて東京スタジアムを建設した永田雅一か、それともミスターロッテ有藤通世か……。と小走りで近づいたら、まったく違った。立派な像の下には「井上省三」とある。とても野球と関係ありそうには見えないこのオジサン、いったい誰なのだろうか。 その答えは、さらに元東京スタジアム付近を歩いていると見つかった。荒川総合スポーツセンターの建物のすぐ北側には軟式野球場があって「お、ここで野球をやったら東京スタジアム気分じゃん」などと思い、荒川工業高校との間の並木道を抜けるとスーパーマーケットのライフ。その横に、レンガ造りのなんだか古めかしい壁がちょこんと建っている。そしてそれにまつわる説明書き。それによると、このあたりにはかつて千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)という毛織物の官営工場があったという。明治政府初期の重鎮・大久保利通が1876年に国産羊毛を原料としたラシャ(毛織物)製造工場の設立を建議し、それに従って南千住の一角に千住製絨所が設けられた。1879年には操業を開始している。先の井上さんは、この千住製絨所の初代所長なのである。 長州出身の井上さんはドイツに留学してラシャ製造の技術を習得、その技術をもって千住製絨所を引っ張った。が、いまひとつ軌道に乗りきらないまま、1883年に火災で焼失してしまう。井上さんを中心に復興に取り組み、1888年には陸軍管轄の工場となって、軍服などを製造する工場になったという。加えて、民間への技術指導も積極的に行い、近代以降の日本の繊維産業の発展にも大いに貢献した。つまりは我が国のアパレル産業の礎を築いたといってもいいくらいの産業遺産なのである。ところが、軍の施設だったので戦争で負けると操業停止。その後は民間事業者に払い下げられたがこちらも経営が立ち行かなくなってしまい、1960年に閉鎖されて千住製絨所は終焉を迎える。では、なぜ南千住に東京スタジアムができたのか? 明治初期に千住製絨所ができたころ、このあたりは特になにもないような荒れ地だったという。 南千住という地名はなく、地名としては千住小塚原。隅田川を渡った先、今の北千住駅を中心とした地域は江戸時代から日光街道の千住宿として栄え、隅田川以南にも広がっていった。それが今の南千住の街のはじまりだ。ただし、宿場町の中心は隅田川の北側で、南側はあくまでも宿場町の外れにすぎなかった。さらにその宿場の外れから外れたあたりには罪人を処刑する小塚原刑場があったほどだ(ちなみにここで杉田玄白が腑分けをして解体新書を著し、吉田松陰や橋本左内の墓もある)。日光街道の西側、千住製絨所あたりは本当に何もなかったのだろう。 ただ、北千住ほど発展していなかったことが結果的には良かったのか、近代以降は市街地ではなく工場の街として成長していく。さらに隅田川の水運の便にも恵まれており、1896年には常磐線隅田川貨物駅が開業。茨城県北部から福島県にかけて広がっていた常磐炭田から石炭を運び、隅田川貨物駅から船に積み替えて都心部へ。東京のエネルギーを支えた要衝だったのである。 こうして南千住は千住製絨所やカネボウ、大日本紡績などの大規模な工場と貨物駅を中核として周囲に小さな町工場がぎっしり建ち並ぶ、典型的な“下町の工場街”になった。工場が集まればそこで働く人も集まる。彼らを当て込んだ安い酒場も増えていく。それが、今の南千住の独特な濃厚な空気感を形作っていったのだろう。 ともあれ、そうした町工場が肩を寄せ合う下町から千住製絨所というどデカイ工場が姿を消した。跡地をどう活用するか。名乗りを上げたのは、愛知県を勢力圏とする名古屋鉄道だった。広大な工場跡地を利用してテーマパーク「明治村」を建設しようとしたという。実際に名古屋鉄道は用地取得にも成功している。ところが、他にもこの地に目をつけた男がいた。ときの大毎オリオンズのオーナーにして映画会社大映を率いる稀代のカリスマ経営者・永田雅一だ。 当時、東京にはオリオンズと読売巨人軍、国鉄スワローズの3球団がひしめいて、いずれも後楽園球場をホームとしていた。おかげで日程も思うように組めずに難儀していたのだ。なんとか自球団の専用球場を……と思っていたところで見つけた南千住の広い土地。結局、永田雅一は名鉄から千住製絨所の跡地を取得し、1961年にスタジアムを着工。1962年の開場となったのである。なぜわずか11年で“幻の野球場”になってしまった? 東京スタジアムに移転して3年目の1964年に大毎オリオンズは東京オリオンズと改め、まさしく東京・下町の球団となった。が、肝心の成績は振るわず、1968年にようやく3位に入るまではずっとBクラス。 大映の経営状況も悪化しており、球団経営にも限界が見えてくる1969年にはロッテをスポンサーに迎えてチーム名をロッテ・オリオンズに改称。1970年にはリーグ優勝も飾ったが、大映の経営難はますます深刻になり永田雅一は1971年に球団経営から撤退。同年に大映は倒産してしまう。変わってスポンサーになっていたロッテが正真正銘の親会社となり、そのまま今に続いている。 そんな激動の中で、スタジアムの経営権はロッキード事件の「記憶にございません」でもおなじみの小佐野賢治に移る。1972年のシーズンまでは、小佐野がスタジアムをロッテに貸し出す形を取っていた。ただ、赤字が膨らむだけのスタジアム経営は小佐野の本意ではなかったのだろう。ロッテにスタジアムの買収を持ちかけるも、交渉は決裂。東京スタジアムの閉場、そしてロッテが本拠地を失うことが決まってしまった。 こうして東京・下町の光の球場はわずか11年で姿を消した。跡地は1977年になってから東京都が取得。ほったらかされていた球場も取り壊されて現在の荒川総合スポーツセンターなどに生まれ変わったのである。 と、南千住駅西側にあった幻のスタジアムには、明治以来の波乱万丈の歴史があった。スタジアム跡地の荒川総合スポーツセンターは1984年に完成してもう40年近い。周辺も昔ながらの下町感の中にタワーマンションも入り混じり、街の雰囲気も少しずつ変わっている。タワーマンションに暮らす人たちに巨大な野球場があったことを言っても、信じてもらえないだろう。榎本喜八だなんだといってもピンとこないに違いない。 なにしろ、明治初期からの千住製絨所と40年のスポーツセンター。東京スタジアムはその狭間にわずかに咲いた徒花だった。今のスポーツセンター時代が、この土地にとっては一番落ち着いているのかもしれない。東京スタジアム跡地、と言っても面影はまったくといっていいほど残っていない。ちなみに、荒川総合スポーツセンターでは、少年時代の北島康介が泳いでいたという。 なお、本拠地・東京スタジアムを失ったロッテは5年もの間固定本拠地を持たない“ノマド”球団となる。ノマド時代の1974年には、毎日オリオンズ時代の1950年以来24年ぶりの日本一に輝いた。その次にロッテが日本一になるのは、そう、2005年なのである。
2021.01.27
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復刻過去ログ あるフランス人女性の想い出 2011.11.06 今日、こう言う記事があったあのカシモドがよじ登った大聖堂が崩壊の危機ーーーー火災被害のノートルダム大聖堂、熱波で「倒壊の危険」 仏文化省 AFPBB News 2019/08/15 13:23 【AFP=時事】4月の火災で大きな被害を受けたフランス・パリのノートルダム大聖堂(Notre Dame Cathedral)について、仏文化省は14日、このところの熱波で天井部分の石材が新たに落下し、いまだ倒壊の危険性があるとの見解を示した。 ーーーーノートルダム大聖堂この大聖堂があるシテ島に実家があるあるフランスのお嬢さんを思い出した彼女と会ったのはもう昔のことだが暑気払いに(笑)過去ログを復刻してみることとする ーーー 過去ログ ーーー◆ 昔の赤坂・六本木の想い出私の若い頃の話である赤坂に外国人女性だけがいるナイトクラブが二・三軒あった今では外国人ホステスなど珍しくもないが、当時は外国人ホステスなど本当にめずらしい時代だったそれにホステスと言っても当時は欧米の女子学生などの旅行者が小遣い稼ぎにアルバイトをして次の国への旅費を貯めるというパターンがほとんどだった今のように東南アジア・旧ソ連圏・中南米などから職業的なホステスが来ている時代とはちがうそんな背景での思い出話だがそんなある時赤坂の外国人ナイトクラブで、アルバイトでホステスをしているある若いフランス女性と知り合った。フランス女性は、私が非常にセクシーだと思ってご尊敬申し上げている人たちであるその彼女と初対面の会話で、彼女がフランス人だと知って、私はその頃国際的なベストセラーになっていた「ピーターの法則」という本を話題にした。ちなみに彼女は、背が高くてやややせ形、繊細な容貌で、ブロンドの長い髪(これまで私が日記に書いてきた女性は、みんなブロンドだが、これは単に偶然であって、私はブルネット(黒に近い、栗色の髪の毛)の女性も大好きで、むしろブルネットの方が好きかも知れない。マリリン・モンローの映画で「紳士は金髪がお好き」という映画があるが、まあ、一般に西欧の男性は、アメリカもそうかな?ブロンド女性が好きみたいだ。私はブロンド・ブルネット、両方ともいける。(笑)◇◇◇◇◇◇◇◇古代ギリシャでは、金髪が好もしい髪の毛の色とされていて、あの地中海沿岸では金髪率が低いにもかかわらず、女性はみながゲルマニア(今のドイツ)から輸入された石鹸(つまりアルカリ)で髪をブリーチして金髪にしたという。ミロのビーナスもブロンドなのかな?私の好きなニケ像は首がないが、ブロンドでしょ?ちなみにやはり、金髪率は緯度的に北に行くほど多くなる。同じ英国でも、南部イングランドと北のスコットランドでは大きく金髪度がちがう。ケルト民族は今はブルネットが多いが、ローマ帝国の歴史書によると「金髪の野蛮人」だったとか。その後にもっと金髪のゲルマン民族がフン族の侵入によってトコロテン的に押し出されてローマ帝国を脅かして、結果的に、欧州を支配したのだが。◇◇◇◇◇◇◇◇マリリン・モンローのブロンドについては日本でのこんな逸話があるマリリンがジョー・ディマジオとの新婚旅行で訪日東京では旧帝国ホテルで宿泊朝食では薄切りの食パンをカリカリにトーストしてメルバ・トーストばかり注文したというこのメルバというのは、昔の名ソプラノ「メルバ」のことで恐らくメルバがこのスタイルのトーすをを好んで食したことからこう言う名前になったのだろう(私は、このエピソードを「帝国ホテルでメルバトーストを食べていたマリリン・モンロー」というタイトルで別の過去ログを書いている)https://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200506110000/興味のある人はこの過去ログも読んでみて欲しいところでマリリンが東京を離れたら帝国ホテルのあるボーイが「マリリン・モンローのブロンドの pubic hair 」なるものを大金である好事家に売ったというしか~し!マリリンのまだデビューする前のカメラマンのアンドレ・ド・ディーンズが撮影した写真それをみれば、マリリンはブルーネットか、ブラウンである(笑)髪の毛はブロンドにブリーチしていてもpubic hair は、他人様にお見せする機会は少ない(無いとは言わないが)(オイオイ)それでもまあ、信じる者は救われる(笑)それでいいのだ(笑)◇◇◇◇◇◇◇◇まあ、そういう話はどうでもいいんであって、私は「ブルネットの猫でも、ブロンドの猫でも(ちがうかな? 黒い猫でも白い猫でも・・・だったね)、ネズミを捕る猫はみんないい猫である」と言った「とう小平」は、それなりに尊敬している。◇◇◇◇◇◇◇◇「ピーターの法則」というのは、当時世界的なベストセラーになったフランス人学者の書いた本で、「人は、有能な間は昇進を続けるが、昇進して新しい職位の仕事の質が変化した時点で無能になり、昇進がとまる。その結果、階層社会の上部は、無能な人であふれるという法則」。私自身をかんがみても、残念ながら思い当たるところのある、恐ろしくもシニカルな社会的理論である。彼女がフランス人だと知って、私がこの本をちょっと話題にするやいなや、彼女は極めて饒舌にこの本への評価を学問的に知的に語りはじめて、実はそれほど深く読んでいない私は、(精読してもそれほどわからないのだが)ただただ、「はいはい」と頭を下げて拝聴するだけとなってやがて私は彼女がフランスのあの有名なソルボンヌ(パリ大学)の現役学生で「いらっしゃって」、現在は世界漫遊の旅に出て「いらっしゃる」のだ・・・と言うことを知ることになる。当時の赤坂のナイトクラブの女性はこういう女性がいたのだ。◇◇◇◇◇◇◇◇彼女は私に、彼女の自宅の電話番号をくれて、数日後、六本木で待ち合わせた。時間的に言うと、ナイトクラブがそろそろ始まる夕方頃だが、彼女は「今日は休む」という。どこかで彼女と飲もうと思って、その当時、よく通っていた外国人の女性が経営者である「ロミーズ」というバーに入った。まだ、時間的にお客は一人もいない。席に着くなり、彼女はいきなり私に抱きついてきて、キスをし始めた。それだけでも驚いたが、ずっとキスを続けるのだ。セーヌ河畔のアベックみたいなのだ。飲み物を飲むひまもない。私はキスには応じなければいけないし、ママには気を使わなければいけないし、うれしいが、やはり恥ずかしい、・・・ということで、(男は冷静だな~)、とまどったが、なにしろフランス人だからフレンチ・キスで、おいしくて?止めるわけにもゆかない。でもこれがフランス流かな?と納得しながらセーヌ河畔キスを続けた。結局、やはり、怒った? ママに二人は体よく追い出されてしまった。やはり、六本木ででセーヌ河畔フレンチ・キスはだめかな~?あのママは外国人なのに、キスに寛容度が低いな~キスはキスでも、フレンチキスはダメか?あのママは、どこの国の女子だ?(確か、ハワイだったと思う)しかし、情熱の国スペインとはよく言うが、知性・芸術の国のソルボンヌの学生も、情熱的で衝動的だと言うことが、よくわかって今後の参考になったその後、キャンティで飲み直して、食事はイタリア・マフィアのおじさんの店、ニコラスだった、と思う。タクシーで彼女を送っていって、別れのキスをしたら、彼女が、「私は、あなたと make love をしなければいけないわ」と涙声でささやいた。これが、涙ながらに話す文句かな~?さすがは、セックスが食事と同じ、フランス人だ。私は毎日三食食事するがセックスは数えるほどだ◇◇◇◇◇◇◇◇また、デートをして、それ以降は、よく彼女の下宿に泊まった。場所は、東横線学芸大学前。下宿と言っても、一軒家の一階部分を彼女が使っていて、家主さんは二階に住むという不規則システムだった。入り口も、それぞれ、別になっている。ある朝、気がついたら二階でフランス語が聞こえる。彼女が家主さんにフランス語を教えているのだった。フランス語を教え終えた彼女が下りてきて、私にキスをしてから、当然のように裸になった。私はそれをどう呼ぶのか?名前を知らないけれど、ウェストに金の鎖をベルトのようにしていて、これが首ならネックレス、手首だったらブレスレットなんだけれど。知っている女性は教えて欲しい。(金の鎖は高いからな~)(コレコレ)まるでクラナッハの裸婦像のように、ホッソリした彼女の滑らかで白い肌に輝く金のチェーンには妖しい?感動を覚えた。彼女はその家にカギをかけていなかったので、私は彼女が働いている夜の時間帯には、会社帰りに彼女の家に上がり込んで彼女を待っていることもあった。ちょっときつめで、ちょっとわがままなお嬢さんだったが(とりあえず「ちょっと」をつけておこう)、私には他にガールフレンドもいないことだし、一人で帰宅しても今となっては寂しいし、彼女にも優しい部分はあるし、私をとても好きそうだしそれにやはり、独り身の男にとって、女性と二人でいると、ただただ、楽しい。◇◇◇◇◇◇◇◇ある日(昼間)、私が社用でひとりの同僚と共にある会社を訪問して、その帰路、地下鉄で私の会社のオフィスのある駅に到着し地上への階段を登っていると、偶然にも、彼女が、その階段の上から下りて来た全くの偶然である彼女は私を認めると、はっと急にうろたえて表情を変えて赤くなってうつむいて黙ったまま、脇を通り過ぎた。誇り高い、わがままなフランスの女性にも、こういう殊勝な一面があるのか?と意外だった。しかし、勘のいい同僚は「あれ、君の彼女だろう?」となんの予備知識も無いのに脅威の洞察力を発揮(笑)と言うよりただすれ違っただけなのに知らんふりをしていればいいのに彼女の表情・挙動が普通じゃ無かったのだ◇◇◇◇◇◇◇◇ある夜、私が彼女と眠っていたら、夜中なのに電話がかかってきた。彼女は長い間フランス語でしゃべっていたが、電話を切ってから少し泣いている。事情を聞くと、彼女のお父さんからだ。彼女の家は、パリの中心部、セーヌ河の中州であるシテ島にあるシテ島はあのノートルダム大聖堂のあるパリの発祥の地である写真を見せてもらったが豪邸である。おまけにローロス・ロイスとか高級車が二・三台写っている。お父さんの車だという。ヒエ~~! すごい。それに、彼女自身は、自分一人でフラットで住んでいて、イタリアの名車、アルファ・ロメオ・ジュリエッタに乗っているという。ヒエ~~!電話だがそのアルファ・ロメオのガレージだか駐車場だかの料金を払え、とお父さんが言ってきたというのだが、東京にいて払えるはずが無いじゃないか。冷たいね。(当時は国際間の送金がまだちょっとややこしかった)それに、あんなに長い国際電話の料金の方が、ガレージの料金より高いだろうが!・・・と、私が怒ってもしかたがない。この父と娘の間には、暗くて深い溝があるようだ。個人主義のフランスだな~。◇◇◇◇◇◇◇◇ある朝、彼女から電話がかかってきて、至急来てくれと言う。行ってみると、首がむち打ち症になったという。あるイタリア人の男性に殴られたのだという。彼女はその男性が好きで、フランスから日本にまで追いかけてきたのだという。な~~んだ。ちょっとがっかり。それに、それじゃ、この私はどういう存在?病院に連れて行って、コルセットをしてもらった。彼女の首は常人より長め。モリジアーニの女性みたいだ。長めの首は、美人には見えるのだが、実生活面ではこういうふうに打撃に弱いという支障がでる場合があるようだ。(コレコレ)猪首の女性は幸運ですよ。(コレコレ)◇◇◇◇◇◇◇◇しばらくして、何かが原因で私達は、いさかいをした。彼女はフランス人特有のエゴイストで、それに感情的で激しい性格だから(女性はみんなそうかな?)、おとなしい?私も、ムカッとしたのだと思う。思わず、平手で彼女の頬を叩いた。叩いた・・・と言ってもほんの軽くだけれど・・・。それでも女系家族で育った私のはじめての暴力行為だった。私が女性に手を上げたことなど無い。もちろん、現在、私は深く恥じて後悔しているけれど、その時は、私自身ではなく、私の手が、勝手に動いただけなのだ。(インド人の召使いみたいなことを言っているな、私は・・・)その時の私の潜在意識に、例のイタリア人男性がハッキリ存在していて、彼が彼女を叩いたと言うことは、彼は暴力的なマッチョの性格で、その彼に強くひかれている彼女は、マゾの要素が・・・少なくとも彼に対してだけはあるのだろう・・・という勝手な考え・嫉妬心が一瞬閃いたのだ。彼の真似をしたら、彼女は私を本当に愛するようになるだろう・・・と。愚かだけれど、瞬間の事で、理性ははたらかなかった。しかし、彼女は当然怒って、私達の仲は終わってしまった。◇◇◇◇◇◇◇◇その後、ある夜、そのナイトクラブに行った。彼女を呼んではまずい、と思ったので、他の女性を呼んでもらったのだが、なんと彼女が勝手に私の席に来て座った。そこで私達は何もなかったように会話を交わしたのだけれど、私は、意識的に、もう一人の女性の方と多く会話を交わしていた。すると、とつぜん彼女が私の手を取って、人目もはばからずに、私の掌を彼女の柔らかな乳房に押しつけた。◇◇◇◇◇◇◇◇私は、これで、彼女は私に、また、帰って来てくれると思ったのだが、この後会った時、彼女は私をまだ許さないと言った。私は、それ以上はあきらめた。一度、夜中に彼女の家の前までタクシーで行ったことがあったが、結局そのまま帰った。あの胸に私の手を押しつけるという行為はなんだったのだろう。私への独占欲だったのだろうか?それとも、あきらめかけていた私に、もう一度彼女への執着を燃え上がらせておいて、冷たく断るという、手の込んだ残酷なことを考えていたのだろうか?その後まもなく、私は長い海外出張をしたし、お嬢さんも日本にはいなくなった。◇◇◇◇◇◇◇◇こういう風に、私は海外出張だらけだったから、落ち着いて、「美しい愛」をはぐくむ環境にいなかった。かえすがえすも、残念に思う。
2019.08.15
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年寄りの女性達と,温泉旅行したカニを食べに行ったのだが日本海に日本海と言っても、京丹後市つまり京都府だ京都府と兵庫県って,日本海に面しているんだただし、兵庫県は,太平洋にも面しているが京都府は,日本海だけ野村元監督の出身地、の近く野村氏の出身地だけ有って冬は,陰気な(笑)、というようり天気が悪いちょっと照ったかと思うと,すぐ、時雨れるまあ、裏日本(笑)は、そんなものらしい私の父親は,石川県出身だが絶対に,裏日本、じゃなかった、日本海沿岸には棲みたくないと冬季は,曇天ばかりで寒くて,ひどいところだとただし、カニはうまい、とは言ってるな(笑)朝十時に,車が来て,勇躍、乗り込んだのだがこの「車」というのが、軽自動車だったスバルの(笑)四人乗ったら,狭いことおまけに、おばあさんの運転なので不安定な走行私は,免許を返上してしまったので運転は出来ないう~んこれは、まずい!前方、ずっと見通しがよくて,対向車もないそういう道路状況でも、このおばあさんは道路のレーンを忠実になぞって(笑),カーブして行く(笑)そのたびに,横Gがかかる(笑)おまけに,ナビの使い方を間違えて,道を迷う(笑)おい!結局、休憩昼食を含め、合計、6時間もかかった大阪・北摂から丹後までは,一応、日本列島横断ではあるが長い(笑)思いだしたが私は,高校時代同じようなコースを,自転車で走って目的地は、舞鶴だったが朝出発して,夕方に舞鶴着八時間ほどかかったかな?二時間ほどしか違わないでも、自転車だよしかも、舗装路などまだ、ほとんど無かった砂利道のしかも日本列島の背骨の部分は,結構、山軽と言えど,車はエンジンで走るが私は、脚で走った若いって,すごいことだったんだおまけに、舞鶴で、父親の会社の寮で一泊してすぐ折り返し,大阪に若いって,すごいことだったんだ(笑)今の私は、どうだ?(笑)深く考えないことにする(笑)----泊まったのは民宿だったが民宿と言っても規模的には,旅館ただ、温泉とは言い条湯船が小さかったのは,民宿らしかった(笑)私にとって大問題だったのは民宿の部屋が畳部屋だったこと私は,幼児期を除いて,畳に座る生活じゃなかったので正座できない正座どころか,畳に腰を下ろすことも,困難(笑)ダルマのように,転がってしまって,笑われたそう言えば、韓国の食堂でも、同じ問題があったなんとか、あぐらをかいて、食事をしたが座るのと,起き上がるのに、苦労する年令で,身体が硬くなっていることも重なりとても、畳に座ってリラックス、など出来ない幸い、女性達?(笑)が、椅子を調達してくれてそれに座ってテレビを見たその後、早々に,ふとんを敷いて,横になったやはり、これが楽だ(笑)夕食、と言うか、夜食というかこれは、美味しかった食堂に集まって食事をとるのだが新鮮な刺身とカニ焼酎を飲んで,酔っ払って寝てしまった寝てしまう前に隣の部屋との障子を女性(笑)の一人が開けて隣室のグループとの交流が出来た若い男女,二組(夫婦らしい)みな、礼儀正しい乞われて,世界旅行、三十五ヶ国なんてのを、しゃべってしまった「この人は,三十五ヶ国も旅行した」と、こちらの女性達が宣伝したので欧州のテロの構造的原因とか日本の経済は,中東のオイルに完全依存シーレーンが航行不能になると,日本経済は即死、とかオイルは,湾岸の独裁王国が,米国と共謀して独占しているが国民の不満は、沸騰点に近づいているからそのうちに独裁王国は,ドミノ倒しに崩壊オイルは、はたしてどうなるか?世界が,麻痺するのでは?米国のイラク侵攻も,オイル確保が真の目的日本は,原発を稼働しなければオイルが止まれば、サドンデスだとか、気持ちよくしゃべってしまった(笑)実際、そうなると思うし----翌日、夕方自宅に帰着した時は心から、うれしかった(笑)ホーム・スィート・ホーム埴生の宿(笑)自宅が一番電話は二番今度は,バスで行こう「軽+おばあちゃんの運転」のゆらゆら横Gあれは、もう、懲りたわ(笑)でも、まあ、自転車よりは、ましか(笑)----先ほど,丹後で買った,カレイの焼き物を食したうまかったカニもみやげやらでもらったがこれは、当分、食べる気にならないわ(笑)言い忘れたが横G軽ドライブの途上(笑)立ち寄った蕎麦屋の蕎麦は,絶品だった婆さん達は、上手いものをよく知っている(笑)出石(いづし)蕎麦、と言うらしい ―――― ◇ ――――■ スターウォーズ昔、子供だった娘にせがまれて映画館で見たがあんな映画、どこがいいの?さっぱりわからんわエンターテインメント映画がダメだって言ってる訳じゃない例えば「BACK TO THE FUTURE」なんて、実に面白かったしかし、スターウォーズなんて、超凡作じゃないかいろいろ、有るらしいがディズニーも、中身のない映画ばかり作る金の亡者伊藤洋一氏がおもしろがっているがあの人は、ちょっと、私と、感覚が合わない私には、かんべえさんがいい
2015.12.21
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過去ログを再録 ―――― 過去ログ ――――「神田川」の世界さっき、ある日記を読んでたら、フォークの「神田川」の話題が書いてあった。私はこの歌をリアルタイムで聞いていたかどうか? 記憶は無いのだが、歌詞の内容が私の大学生時代をほうふつとさせるものなので、なつかしい私の大学時代なんて、本当にむかしむかしの物語だから、今の大学生の生活とはずいぶんちがう入学して直後はしばらく西荻の伯父さん宅でやっかいになった。しばらくして同じ西荻で下宿したが、その下宿のババアと折り合いが悪くて、同じ中央線の武蔵境のアパートに移った。そこで2年過ごして、後半の2年は新宿戸山町のアパートに移った。上京した時はいろんな不安に加えて、視界の中の基本色が私の実家近くのものとちがっていて、それに違和感を感じた。特に関東平野の関東ロームの黒い腐植土にびっくりして、何となく暗い気持ちになった。私の実家は大阪でも神戸・宝塚に近くて、そこには六甲山地があって、その六甲山地は花崗岩の山だから白い土だ。山ではなくて普通の土地の色も、白っぽい。視界の底辺を支える(おおげさだが)土地の色がちがうと結構心理的にインパクトがあると思う。当時の山手線の車両も、鉄さびのような暗色とにかく、東京は暗いそういう印象だった大阪育ちの私には東京の食べ物の濃い味にもおどろいた。まず、受験の時に二・三日だけ下宿した家で出してくれた店屋物の親子丼ぶりの味が濃かった。学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした。関西でうどん汁というと昆布出汁で色はほとんど付いていないのに、東京のうどんは「たまり」というのか、真っ黒だった。箸でちょっとかきあげると、まっ黄色い卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた。味も特に無くてなじめなかった。讃岐うどん全盛の東京で、今こういう古典的・伝統的なうどんは健在なのだろうか?この正統派うどんもこの頃のあまりの冷遇ぶりにすねて、もっと濃い味になっているのではないかと心配である。下宿にしろ、アパートにしろ、賄い付きでなかったから外食するか? 自炊するしかない。どちらも侘びしく孤独で恥の多い作業である。学食や生協で食べるのが学生としての本分かも知れないが、すでに昼食をたべている場合や、大学を離れた場合はどこかで食べなければいけない。蕎麦やうどんでは腹が持たない。カレーライスばかりも飽きる。だから栄養のバランスのとれた定食のある一膳飯屋に行かなければならないしかし、この一膳飯屋に一人で入るということは、一日の内で一番恥多きプロセスで、これは苦痛だった。高校時代はもちろん外食などしなかった。一家揃ってレストランに行くことはあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない。高校時代に下校途中にわざわざ駅前まで行ってたこ焼きの屋台によって密かに食べたたこ焼きはまさに美味だったが、たこ焼きというものは暗がりの中で、何らかの後ろめたい理由があって、舌をやけどしながら、フーフーと急いで食べる場合だけがうまいのだが、余裕充分な状況で明るい場所で、ちょっと冷えかけのものを食べてもそんなにうまいものでもない。後ろ暗い時間に後ろ暗い状況でたこ焼きを食べろ!この日記の読者だけに伝える、私からの「たこ焼き賞味の極意」である。今までひとりで外食したこともない私にとって、労働者階級の濃い世界の殿堂のような一膳飯屋の汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った。暖簾の前を二三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる。矛盾するようだが一人の場合はまだいい。だれか友人・知人と一緒に歩いていて、別れる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を裏切りながら通り過ぎることになる。心なしか、店の中からおばさんがこちらを軽蔑した目つきで見ているような気がする。なんとか「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに定食屋に確信を持って進むのである。食べ終わって、また暖簾をサッとくぐって町に飛び込み、またなにごともなかったという表情で町を歩く。アパートに付く前に一般住宅の前を通る。家々からは幸せの黄色い電灯がついている。彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに美味な夕食を楽しく、さんざめきながら食しているのだ。本当にこの世の中には神も仏もないものだと思う。「彼らに呪いあれ!」こんな高貴な孤独に耐えている私の胸に響く歌があった。ミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である。 ―――― ◇ ――――♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(中略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ―――― ◇ ――――本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に夕食を囲むという、しあわせそうな後ろ姿ばかりである。一瞬、背中をかきむしってやりたい気持ちになる。 ーーーー ◇ ーーーーアパートで自炊というのも言うまでもなく侘びしい。一膳飯屋苦行とどちらがわびしいかは計量化してみないと、数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだ。当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった。ちょっと寄り道になるが、この「電気」冷蔵庫という表現に、注意深い読者なら気がつくはずだ。電気でない冷蔵庫もそれより昔には、あったのだ。これは普通に単に「冷蔵庫」と呼ばれていた。氷屋さんが夏になると毎日、角形の大きな氷を配達してくれる。これを冷蔵庫のトップにある氷室に入れるだけでいい。ともかく、当時の学生の持っている文明の利器と言えば平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 電熱器(蚊取り線香状のニクロム線を電気を通電して熱する)○ 卓上蛍光灯スタンド○ 電気コタツ または 石油ストーブなんともシンプル極まる生活である。ただし私はといえば、特権階級だったから(??)、今だから言えるが、この上に二種の神器を隠し持っていた。○ テナーサックス○ 赤井のテープレコーダー 16インチスピーカー付きモダンジャズの同好会に入っていたので、これはどうしても必要だったのだ。自炊の話にもどるが、学生は料理の仕方なんて知らないのだから、肉野菜炒めが定番となる。これは当時のすべての学生の普遍的な真実だったと思う。この肉野菜の部分について、実情を分析すると、野菜はそのままでいいのだが、肉については注記した方がいいかも知れない。肉は高いからその代わりに、魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する。さらに実情を究めると、実はピンチヒッターでは無くて、魚肉ソーセージの方がレギュラーなのだ。肉の方がピンチヒッターで恥ずかしそうにベンチにいることになる。「この財政状況だと私の出番は無さそうね」と、自分から二軍に行ってしまうこともある。こうなるともう呼び戻せないから魚肉ソーセージがレギュラーとして定着する。この頃はコンビニでこの昔なつかしいレギュラーを散見する。しかしもう、レギュラーの座は張れないで、いつもは二軍だが、監督の温情で久しぶりに一軍ベンチに入った超ベテランと言った風情だ。だれも本当は大活躍を期待していないんだけれど、年に一二度ぐらいは一軍にあげてやらないと隠れファンがうるさいと言うことかも知れない。飲み物はお茶だが、ぜいたくな学生は牛乳の配達を受けていた。私も堂々のぜいたく学生で、牛乳+新聞の配達という豪華版だった。しかし暑い夏などはジュースとなる。渡辺のジュースの素という秘密兵器があって、これは毒々しいオレンジ色の謎の粉体で、これを水に溶かして飲むと、味も毒々しいが無理に考えるとジュースという実感が出てくる。少なくとも毒々しく、甘い。毒々しいの三拍子である。自炊を共同でやることは、アパートの住人同士が友人になったら可能となる。どうせほとんどの住民が同じ大学だし、金もないので夜はすることもなく退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベル事になる。親しくなりすぎるとお互いいたずらもしてしまう。特に私なんか、いたずらが生き甲斐だったから、ある時、真面目な男のパンツを脱がしたことがある。その男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったが、ある拍子でふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした。彼の裸の下半身はある理由でトップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した。手元の木刀で私を本気で殴った。彼とちがって運動神経の固まりとも言える私はサッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされた。トイレ・台所(と言ってもシンクがあるだけ)は共同。もちろん風呂なんて無い。だから近くの銭湯に通うことになる。これは、一膳飯屋の「がまの油タラタラ」状態とは全然ちがう。アパートの友人達と一緒に湯屋に出かけるのは楽しい。 ―――― ◇ ――――♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿 ―――― ◇ ――――私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生はいなかった。いや、ひとりけしからんやつがいた。私の高校からの親友で一緒に進学したのだが、入学して半年するともうガールフレンドが出来た。同じ大学のある運動同好会で知り合ったらしい。この男は私とちがってハンサムでもないヤツで、女の姉妹がいないくて男の中で育っているヤツだから無骨なヤツで、女性に対する好奇心が凶器のように肥大していてとてもイヤラシいヤツだから、・・・モテないだろうと・・・油断していた私が悪かった。その女の子はとても小柄だがとても可愛いのである。愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気がとても醜い。おまけに大学近くのアパートで半同棲という大罪を犯しているようなのだ。ついにこーゆー間違ったことをしているカップルには断じて意見をしなくてはいけないという義憤に駆られて、ある夜、級友と共に彼のアパートを急襲してみた。神田川沿いの道の行き止まりの木造アパート、その二階に彼の部屋があった。入ってみるとやはり彼女がそこにいた。可愛い女性と面と向かってみると、一瞬で私の義憤は霧散したばかりか、彼女との会話を通して彼女の級友に可愛い女性はいないのか?を聞き出そうという偵察モードに入ってしまった。私には臨機応変という才能があるのをその時始めて知った。偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた。
2015.09.18
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私は、もう現役ではないから特に、喫茶店に入って、コーヒーを飲んだり人と待ち合わせたり仕事をさぼったり(笑)の用途で、喫茶店に入ることはないしスタバなるものにも、一度だけしか、入った事が無い今の若い人々がスタバに感激するなどと言う事が全くわからないというのも私が若かったころは・ 美味しいコーヒーを入れてくれて・ 落ち着いた、居心地のいい店内・ 必ず、店の看板娘という美人がいるそういう店が、会社の回りに、かなりあって昼食が終わったらそういう店に行くのが楽しみだったからだその点、スタバには、きれいなネーチャンもいないしだいいちスタバは、日本の、そういう昔ながらの喫茶店を、部分的に真似したものなのだ私は、日本が、一番、コーヒーの美味しい国だと思っている米国なんて、コーヒーは、水代わり昔の米国のコーヒーなんて、薄いし飲めたものでは無かったオフィスには、大きなコーヒーメーカーがおいてあってみんな、自分の、大きなマグカップを持っていて好きなときに、飲んだのだがアメリカンだったし英国・ロンドンのオフィスではキッチンがあってそこに、電気ケトルがあってみんな、自分で紅茶やインスタントコーヒーを作っていた部長の私には(笑)、美人秘書が(笑)紅茶を入れてくれたが----喫茶店と言えば私が、新入社員だった頃は美人喫茶、というものが、まだ、あった・ コンパル・ プリンスこの2店が代表的だったがカウンターがあってその内側には映画女優のような美人がズラリと並んでいるそういう喫茶店(笑)だったSM喫茶というのもあったそうだが私は、行った事がない行ってみたかった(笑)少なくともSMバーというのがあると言うことは、今回わかった(笑)え~~とそれから電話喫茶というのもあった店内の各席に電話機があって各席に内線が振ってあって話しをしたい女性が座っていたらそこへ電話をすると言うシステム私も、一度、入ったが電話をかけることもなく(笑)電話をかけられることもなく(笑)その喫茶店を出た(笑) ―――― 記事 ――――スタバの攻勢にも動じない東京の自営喫茶店たちAFPBB News【AFP=時事】米コーヒーチェーン大手スターバックス(Starbucks)は先月、同社にとって売上高で世界第2位の日本市場にさらなる攻勢をかけるべく、日本法人のスターバックスコーヒージャパン(Starbucks Coffee Japan)を完全子会社化すると発表した。すでに全国で1000店舗以上を展開し、まもなく進出する鳥取県で全都道府県を網羅することになるスターバックスだが、誰もが好意を抱いているわけではない。 東京・銀座にある老舗喫茶店「カフェ・ド・ランブル(Cafe de L'Ambre)」を経営する100歳のオーナー、関口一郎(Ichiro Sekiguchi)さんはスターバックスのコーヒーの作り方はなっておらず、おいしくもないと断じた。 コーヒー以外のメニューは扱っていないにもかかわらず、木調の内装で整えられた薄暗いランブルの店内は、関口さんが日本一と太鼓判を押す一杯700円のコーヒーを飲みに訪れた客たちで賑わっている。深い風味をたたえた濃いめの芳醇なコーヒー。値段はスターバックスの少なくとも2倍はするが、それを払う価値があると来店客たちは考えている。 個人経営の喫茶店の多くがそうであるように、ランブルは常連客によって支えられている。元プロレスラーのアントニオ猪木(Antonio Inoki)参議員議員もそのうちの一人だ。近所にある「カフェーパウリスタ(Cafe Paulista)」には、元ビートルズ(Beatles)の故ジョン・レノン(John Lennon)さんと妻のオノ・ヨーコ(Yoko Ono)さんがかつてよく訪れていた。 ランブルの常連客の中には、関口さんや従業員が丁寧に煎った豆を使っていれたコーヒーを50年間、毎日飲みに通っている客もいるという。 関口さんが店を開いた1948年当時、それまで緑茶が長らく親しまれてきた日本では、進駐米軍の影響からコーヒーが人気を博するようになっていた。現在日本は、昨年のコーヒーの消費量が44万6392トンに達するなど、米国、ブラジル、ドイツに次ぐ世界第4位の消費国となった。 だが関口さんは、多くの日本人がコーヒーを飲んでいても、口にしているのは質の悪いコーヒーだと話す。本当に良い喫茶店は全国に5店ほどしかないという。当然、ランブルはその中の1軒だ。■魅力はチェーン店にはない「人間味」 スターバックスと違って店内での喫煙が認められているのも、ランブルのような古いタイプの喫茶店が経営を続けられる一つの要素かもしれない。キセルでたばこを吸う関口さんも、店内を禁煙とする新しいタイプの喫茶店のやり方は間違いだと考えている。おいしいコーヒーを飲んだ後にはたばこを吸いたくなるものなのだという。 ランブルがある銀座の目と鼻の先、築地(Tsukiji)の魚市場にほど近い古いビルの2階に店を構える喫茶店「アローマ(Aroma)」。この店もやはり、たばこの煙で包まれていた。 日本がバブル景気に沸いていた30年前に開業した同店は、多くの自営喫茶店同様、今も開店当初の雰囲気をとどめている。観葉植物の鉢植えや複製絵画で飾られた鏡張りのサロン。カウンターの裏では、丸いガラス製サイフォンがぽこぽこと音をたて、店内には「スタンド・バイ・ミー(Stand By Me)」のメロディーが流れる。それぞれのテーブルの上にはコーヒーフレッシュが積まれた容器と、灰皿が置かれている。 高齢の女性がストローでアイスコーヒーを飲み、フレンチトーストをかじっている。その横では休憩中の若い看護師の女性2人組が立て続けにたばこを吸っていた。大手のカフェチェーンが経営する似たり寄ったりの喫茶店とはまったく対照的なこの店を選んだ客たちだ。 娘と一緒にアローマを経営するコシバ・ジュンコ(Junko Koshiba)さん(63)は来店客にサービスのバナナをふるまいながら、チェーン店は人間味がないけれど、この店では話そうと思えば他の客と言葉も交わすこともでき、温かい雰囲気があると話した。東京・銀座にある老舗の喫茶店「カフェ・ド・ランブル(Cafe de L'Ambre)」でコーヒーを楽しむ100歳のオーナー、関口一郎(Ichiro Sekiguchi)さん(2014年10月8日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News© AFPBB News 提供 東京・銀座にある老舗の喫茶店「カフェ・ド・ランブル(Cafe de L'Ambre)」で… アローマのブレンドコーヒーには、ランブルの熟成した滑らかさはないが、コシバさんは昔ながらのスタイルを貫く自分の店のような喫茶店が、スターバックスや国内大手のドトール(Doutor)、カフェ・ベローチェ(Caffe Veloce)などによって淘汰されることはないと自信を見せる。チェーン店でモバイルPCや携帯電話を見つめていたのでは味わえない真のリラックス感を、アローマでは味わえるという。
2014.11.19
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今日の名言昨日から「今日の俳句」というものをはじめた当分、続けて行こうと思うただし、俳句だけでは爺臭いので(笑)今日は、「今日の名言」● 今から一年も経てば、私の現在の悩みなど、おそらくくだらないものに見えるだろう サミュエル・ジョンソンジョンソンさんは、THE ENGLISH DICTIONARY を編纂した偉人であるたしか、英国留学中の夏目漱石が一時、師事したんじゃなかったかな?つまり、時間薬と言うことだな確かにそうだこれほど効く薬はないしかし、忘れると言えば「忘却とは忘れ去ることなり」「君の名は」の中のナレーションだが、どう言う意味だ?(笑)昔はこれでもよかったんだ(笑)おかしいと思って「ヤフー知恵袋」をのぞいたら、こう言う回答があって納得した----この言葉には続きがあります。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」です。菊田一夫原作のラジオドラマは、その放送時間に<銭湯を空にした>として有名です。主人公の春樹と真知子が、互いに愛し合いながら、すれ違ってなかなか会えない。忘れてしまったらどんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない--という二人の心を詠んだものです。毎回、放送の冒頭で朗読されました。----君の名は、で主人公の雨宮なんとかとヒロインのなんとか、が再会を約して分かれるのは,数寄屋橋だしかし、川が埋め立てられて,今は橋も無い私が、大学に入学した頃、たしか、かろうじて、橋の跡だけが数寄屋橋ショッピングセンターのところに残っていたはずだそれに、あの辺には,営団地下鉄の「西銀座駅」があったこの駅は変な駅で,すぐ消えてしまったいや、駅名が変わっただけかな?有楽町前かな?私のカラオケで御世話になっているフランク永井が「西銀座駅前」という題名で歌っているしかし、同時に,あの名曲「有楽町で逢いましょう」も歌っている後者の方が先に作曲されたはずだから、西銀座駅が駅名を有楽町に変えただけ・・・と言う私の当てずっぽうは、恐らく間違いだやっぱり、忘却とは忘れ去る事なり(笑)----ところで、この「君の名は」は、盗作に近いロンドンのウォータールー橋を舞台にした、踊り子のヴィヴィアン・リーと美男将校のロバート・テイラーの第二次大戦中の悲恋を下敷きにしたものだ「君の名は」は、大東亜戦争敗戦寸前の東京女性は、こういうメロドアラマが好きである(笑)私は、ヴィヴィアン・リーは、アイリッシュの血統だが、どこかエキゾチックなところがあると思っていたら,伝記を読むと,インドの血が混じっている自分も人妻なのに,既婚者のローレンス・オリビエとダブル不倫して結婚だが、後に精神のバランスを失って、ニンフォマニアになる食事を共にしたばかりの客人の男性とする平気で関係するなどいいな~(コレコレ)なお「ニンフォマニア」って、ATOKでも変換できない恐らくATOKのソフト担当者はニンフォなのだろう(笑)----ロックバンド・クィーンのヴォーカル、フレディー・マーキュリーも、どこか、エキゾチックだと思っていたら、やっぱりペルシャ系インド人でゾロアスター教徒で、ゲイなのだゲイは余計かボンベイ(今のムンバイ)の支店長社宅から見ると、ゾロアスター教徒が鳥葬をする「鳥の塔」という原発の排気筒の様な巨大なものが天空高くそびえていて、鷲なのか?その塔の上空を数羽が円を描いて飛んでいたおそらく、死体が運び込まれて,鷲が食べやすいように粉々に砕かれて,鷲の正餐にまっていたのだろうインドでは、ペルシャ系インド人はペルシャ人を意味する「ペルシー」と呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。英国が英国的統治の方法の分割統治として、ペルシーを東インド会社に雇用したり、インド人と英国人の昼間の位置に置いたのが,ペルシーの地位を高めたフランス当時時代の旧インドシナ(ヴィエトナム・カンボジア・ラオス)では、ヴィエトナム人がフランス人に重用されたと同じ事カンボジア人とラオス人は,いまだにヴィエトナム人を恐れ、頭が上がらないヴィエトナムにはカンボジア人3人でヴィエトナム人1人に対抗出来るラオス人3人で,カンボジア人ひとりに対抗出来るということわざがあるこれら、3民族の立ち位置を良く表した言葉だと思う私は,ラオス人は知らないがヴィエトナムにいた時、カンボジア人(クメール人)の女性を見かけた身体は、華奢なヴィエトナム人とちがって、ガッチリした体格だがおとなしい活動的でおしゃべりで目から鼻に抜けるヴィエトナムの女とは正反対である昨日テレビで見た、世界中を旅した旅行大好き女性によると、一番おとなしくて優しいのはラオス人だというむべなるかな・・・であるラオス語って,タイ語の田舎弁みたいなものらしいサイゴンにいた頃、米軍が作成したらしい、ソノシート(懐かしいだろう?)(笑)で作った初歩ヴィエトナム語・カンボジア後・ラオス語・タイ語を持っていたんだが覚えるつもりで今は,家の中のどこにあるかな?忘却とは忘れ去る事なり(笑)チョイヨ~イ!(ヴェトナム語の片言を思い出した) ―――― ウィキペディア ――――ウィキから「君の名は」----あらすじ [編集]第二次大戦、東京大空襲[1]の夜。焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ惑ううちに、命辛々銀座・数寄屋橋までたどり着く。一夜が明けて二人はここでようやくお互いの無事を確認する。名を名乗らないまま、お互いに生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束し、そのまま別れる。やがて、2人は運命の渦に巻き込まれ、お互いに数寄屋橋で相手を待つも再会がかなわず、やっと会えた頃には真知子はすでに人妻となっていた。しかし、夫との生活に悩む真知子、そんな彼女を気にかける春樹、2人をめぐる人々の間で、運命はさらなる展開を迎えていく。特徴 [編集]真知子と春樹が再会しそうになる(半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせなど)が、不都合が起きて会えない。この「会えそうで会えない」という事態が何度も繰り返された。後のドラマでもよく見られる描写(演出)である。本作は、このパターンの典型にして古典となっている。脚本家・菊田一夫の代表作。1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得した。「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったという(ただし、この銭湯でのエピソードは、「アメリカでの事実[2]を基にして、松竹の宣伝部が作った虚構である」という説も根強い[3])。松竹で映画化された際は、主人公のショールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれ、女性の間で流行した。これは、北海道での撮影の合間、主演の岸惠子があまりの寒さにショールを肩からぐるりと一周させ、耳や頭をくるんでいたことによる。この姿はカメラが回っている時にも使われることになり、「真知子巻き」が誕生した。またガラス越しのキスも流行した。NHKラジオ連続放送劇 [編集]番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という来宮良子のナレーションが流れる。音楽は古関裕而で、伴奏のハモンドオルガンも自ら演奏した。当時のラジオドラマは生放送だったため、劇中のBGMも古関裕而が毎回即興で演奏していた。キャスト 後宮春樹:北沢彪氏家真知子:阿里道子他に古川緑波、七尾伶子など主題歌「君の名は」作詞:菊田一夫作曲:古関裕而歌:高柳ニ葉(放送版)販売用のレコードは織井茂子によって吹き込まれている。君の名は監督 大庭秀雄脚本 柳井隆雄原作 菊田一夫音楽 古関裕而撮影 斎藤毅編集 杉原よ志製作会社 松竹公開 1953年9月15日上映時間 127分全3部。通しで上映すると6時間を超えることから、総集編(再編集版)もある。監督: 大庭秀雄製作: 1953年 - 1954年キャスト氏家真知子:岸惠子後宮春樹:佐田啓二綾:淡島千景悠起枝:月丘夢路加瀬田修造:笠智衆浜口勝則:川喜多雄二浜口徳枝:市川春代勘次:市川小太夫信枝:望月優子梢:小林トシ子あさ:野添ひとみ水沢謙吾:須賀不二男水沢奈美:淡路恵子横山:三井弘次副島渡:大坂志郎ユミ:北原三枝柳永次郎他撮影地: 北海道美幌町・弟子屈町、三重県志摩市(大王町、志摩町)・長崎県雲仙温泉、新潟県佐渡市他主題歌・挿入歌 「君の名は」(歌:織井茂子)「黒百合の歌」(歌:織井茂子)「忘れ得ぬ人」(歌:伊藤久男)「数寄屋橋エレジー」(歌:伊藤久男)「君は遥かな」(歌:佐田啓二、織井茂子)「綾の歌」(歌:淡島千景)ほか「君の名は」に関する歌の作詞・作曲は、すべて菊田一夫・古関裕而のコンビによる。----阿里道子さんは、実に美声の声優さんだった「えり子と共に」というしゃれたラジオドラマにも出演していたその挿入歌が「雪の降る街を」ただ、この「雪の降る街を」メインテーマは、ショパンのショパン幻想即興曲ヘ短調 Op.49の一部の有名な旋律の盗作でしょ?(笑)----今日の俳句・名文句、が長くなってしまった(笑)俳句が長歌になってしまった(笑)
2012.12.07
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先日、富士山に登ってきたと言っても,バスで登ったのだがある女性に誘われて、ある町の飲食組合の慰安旅行に誘われて参加したこれ、変かも知れないけれど言わば、山口瞳の国立的世界なのだわかるかな~初めは富士山に登るという話だった私は,これでも(笑)、学生時代には山岳部だったのでそんなバカな話は無いと思ったもう、11月になろうという時期に富士山登山!登山のプロから見れば(笑)無謀極まるしかし、話を聞いてみるとバスで五合目まで登り,それから先は、有志が登るということだった幹事に詳細を問いただそうにも何しろ幹事が女性だし要領を得ない話ばかりであるこれ以上はあきらめて私自身は,登山の経験からして正しい服装を用意して参加してみたわけがわからないにしてもとにかく、バスで五合目まででも登るという経験はめったにないと思ったからである果たして、出発の朝八時だが既に平地でも肌寒いバスに乗り込むとバスはただただ、富士吉田市のホテルに向かう途中、山深い信州を通過する比較的近所のゴルフ場に向かう時でも思う事だが人間は、なぜか?人里離れた奥深い山奥にでも住んでいるものである峻険な信州の山間にも、人目を忍ぶように(笑)山肌に芝見付くように柿やリンゴの彼方に小部落が垣間見える現代だから,大型バスがブンブンと乗り入れているが江戸時代など、バスも汽車もない時代には中山道などの大街道はともかく人影もない険しい山道しかない場所によくぞ、住んでいたものだと驚く私の先祖には、こんな山奥に住んでいたものはいない----ふと、田中冬二の詩を思い出した ふるさとにて ほしがれひをやくにほひがする ふるさとのさびしいひるめし時だ 板屋根に 石をのせた家々 ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする ふるさとのさびしいひるめし時だ がらんとしたしろい街道を 山の雪売りが ひとりあるいてゐる ----いい詩だな~大好きである田中冬二なんて、知っている人はいないだろうが「サングラスをかけた蕪村」である私は,田中冬二全詩集三巻をもっている事が自慢であるあまり、世間に通用しない自慢であるもっとも私は、昔の話だが私は,就職試験で、総合商社の入社試験で愛読書は,西脇淳三郎全詩集と答えたバカである(笑)あと、田中冬二の詩で山奥の家の軒先に,鯨の脂身がぶら下がっているというものがある何気ないが、上の詩と共に、冬の山村の物寂しい,薄ら寒いしかし、教習に満ちた風景である鯨の脂身大阪では,、おでんにいれる「ころ」である信州の人は、昔、冬の間はこれを削っては食べて脂肪・蛋白を摂取していたのだ大阪の人間は、おでんを関東炊きと呼ぶ私の子供の頃は,立派な夕食メニューだったおでんと言えば、新入社員だった頃同じ課に配属された同期の東大卒の男に東大赤門近くのおでん屋に連れて行かれた味は、どうも、大阪育ちの私には濃過ぎるような気がしたそう言えば、大学時代、同じアパートに住む同じ大学の先輩達とすき焼きをした時先輩連が味付けしたすき焼きのあまりに濃い味に参ったことがあるその先輩達は,2人とも北海道の小樽出身東北・北海道の味覚で調理されたのだから、たまらないその後私も,すっかり関東の味覚になれてしまって最近、大阪に帰って来たら、しばらくは大阪の味が薄味に思えた----バスの添乗員が小太りの中年の男性であまり、道案内やガイドには熱を入れないひたすら、自分だけが悦にいる冗談を披露してはバスの後部に陣取る若い女性に容赦なくやっつけられているどうも性格的にMらしい彼の自慢?は、昔、まな板ショーに二度ほど参加したというものである「舞台に上がって、身体の一部が萎縮しませんか?」と、私が聞いてみたところ、平気だったという変態である私など、初めから萎縮している(笑)しかも、女性客を含む団体を連れてのツアーで温泉でのお座敷まな板ショーとなったのだという「女性も見たの?」と、後部の若い女性から質問が飛ぶ若い女性と言っても、まな板ショーを知っているからにはそれほど若くはないかも知れない(笑)「女性達も喜んでいましたよ」と彼が応えるその女性客達も変態であるそれにしても、まな板ショーがある宴会というのも、すごい!昔の話だとはいうもののやはり、この変態ぶりがわざわいしたのか?この添乗員の奥さんは十数年前に「お風呂に言って来るわ」と言い残して家を出たきり帰宅しなかったという「奥さん、ずいぶん長風呂ですね」と私が言うと「確かに長風呂です・・・」と応える十数年だから、、もう、ゆだっているはずである結局、あとで、離婚届を送ってきて離婚はしたらしい長湯離婚である神田川の銭湯での純愛物語との格差がひどいその晩は,名前を忘れたが大型豪華旅館に宿泊ただし、男性は男性同士女性は女性同士の部屋であるな~んだまあ、あたりまえだが風呂にないってから宴会舞台にマイクが用意されている私は,宴会が大の苦手である隠し芸もないし,演歌も歌えないしかたがないので、二番目に出て行ってプレスリーの歌を歌ったが受けたとはとても言え無いこういう宴会では,演歌が似合うみな、特に上手くはないが、よく歌う突然、あるおばさんが座敷の中央で踊り出したしかもその踊りが,非常に卑猥な腰つきなのである確信犯である急に座の雰囲気がはじけて、大騒ぎになった若い女性達は,その卑猥な踊りを習ったりしているけしからん勢いですごく呑んだ宴会が終わって,また入浴である部屋に帰ってきたら若い女性達から,部屋に遊びに来いと電話がかかった男性諸氏と女性部屋に入る話は世界旅行になっているこれは、私の得意とするところである酒の勢いもあって,世界各国の案内をしてなおかつ、スペイン語とポルトガル語の違いについても講義したなかに、スペイン語専攻の女子大生がいたから、そういう話になったさすがに大阪の団体だけ会ってその内に,阪神タイガースの話になる話の途中で,私の年令の話になって私が実年令を教えるとみんなが、そんなはずがないというもっと若いはずだという干支と生まれた年を申告したら,やっと信用してくれたそのあと、カラオケ・ルームに行ってまた、帰って来て話を続けたじつは、この辺、記憶がないのであるそれほど、酒を飲んだわけで、反省であるただし、私は,酒によっても,行動が乱れない種類の男なのでカラオケから帰ってきても、さらに話を続けて女性達は,大いに、私の漫談を楽しんでいた・・・というのは、あとで,他人から聞いた話である危ない,危ない私の海馬は、弱いようである私の本性が,ジェントルマンだからいいようなものの私が、もし、一般男性のような品性であれば記憶が飛んだ状態ならまな板ショーでも、はじめかねないよかった、よかった翌朝の朝食のバイキングは,さすがに食欲がなかった最上階の露天風呂には行ったら秀麗な富士山が額縁のように見えるこのホテルは,これだけで、金が取れるなバスが,二合目・三合目と登り始めると富士山の山容が迫ってくるエジプトのピラミッドが目の前に大きく現れた時以来の感動であるなぜ、こんなタダの山が,これほどの感動を与えるのか?なんちゃって五合目に着いた思ったより寒くないガッカリであると言ってももと山岳部の私だから、山の天気が少し変われば山がどれだけ恐ろしいかを知っているなんちゃって何十年前の話だつまらない土産物でギッシリ詰まった小屋があるこの三階が展望台である見上げると富士山が近いあたりまえなのだがしかし、ガスが動くのが速くて山頂は,隠れたりまた出たりこんなところの土産物など,ろくなものが無い少し離れたところに,馬が数頭いる15分ぐらいの乗馬をさせてくれるそうである早めにバスに戻って出発途中で,富士山を背景に集合写真気のせいか?息が少々苦しいこれは、タダの、運動不足かも知れない高校一年生にして,槍穂高縦走に成功した優秀な登山家もいまは、ただのおいぼれである残念!バスは下山して,所々、名所らしき場所をめぐり土産物屋に立ち寄り焼津の魚ショッピングセンターにも立ち寄るイクラなどを購入初めての買い物であるあとは、高速道路を、ただただ、まっしぐらに大阪めがけてひた走るどうも陳腐な言葉しか思い浮かばないそれにしてもこの頃の観光バスはトイレはもとより(狭いらしいが)冷蔵庫・コーヒーメーカー,ソフトドリンクコンテナーなどが完備していて、昔の,遠足などに使ったバスとは大違いである道路も舗装道路ばかりで,乗り心地もよく乗り物酔いをする人も少ない例の添乗員がオカマの団体のバスツアーをしたことを話していたがオェッ!である身長185センチのもと自衛隊員のオカマがいたそうである「みんな、優しいですよ」という私は,優しくなくてもいいから,全員オカマのバスにだけは乗りたくない映画女優の世話をしたこともあるという「映画女優って,完全に,男性です」と、断言する「映画で悪役の俳優さんほど,実際は,優しくていい人達です」とも言うこれは、よく言われる事だが、本当だったのか二枚目とか,美人女優とかは,威張っているらしい思いついたことを,ベタに書いたらどうも、幼稚園児の作文のようになってしまったバスが、夜のわが町に到着歩くと,足の筋肉が痛い気が付かないままに,結構、歩いたのだよろよろしながら、自宅マンションに入るやはり、ホーム・スィート・ホームである
2012.11.02
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この頃は外食をすることも少なくなったし、飲みに行くことも少なくなった外食をすることが少なく無く、飲みに行くことも少なく無かった頃の過去ログを再録してみようこの中華レストランも、無くなったな~過去ログ 昨夜は、外食に出たら、ちょっとしたハプニングがあって日記を今まで書けなかった
2012.05.16
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気恥ずかしいシリーズだが、書きかけたからには、完了させなければもう、私小説家の覚悟である(笑)しかし、これは、私の墓標だから(笑)私は旅行が好きだったし,彼女もそうだったただ、私はそのころ仕事が忙しかったので,一人ではなかなか国内旅行になど行こうという気持ちにはならなかったのだが,彼女の方は、せっかく日本に来ている事だし、それに彼女の外国人ネットワークで,あそこに旅行すると面白いという様な情報を入手してきては、私を旅行に誘うのであるだから、もし私がひとりなら、行かなかった様な、いろいろなところを旅行したものである信州・八丈島・それに東京都内の隠れた面白い場所など彼女はアサヒ・ペンタックスという、当時、カメラ好きの人間に一番人気があったカメラを持っていて、私と一緒に旅行に行った時など、実に楽しそうに撮影をしていたのであるそれを見て,私も急にカメラが欲しくなり、ニコンを買った私の後輩にカメラが趣味という男がいて、入社以前にニコンFを持っていた私は、その男性的なフォルムにひかれたそれだけでなく、彼女にも、おそろいと言う事でニコンを買ってしまったある旅行をしていたら、民宿で一緒になった人が、プロ・カメラマンだったちょうど、私も知っているある旅雑誌の取材をしているところだった「ちょうどいい」と言うことで、私たちは、彼のモデルにされてしまったその雑誌に、我々の写真が掲載されたはずである彼のレンズ構成は28ミリ広角・50ミリ標準・135ミリ望遠と言う、当時としては標準的なものだった私は、それに倣って(少しモディファイして)28ミリ広角・50ミリ標準・55ミリマクロ・80-200ミリ望遠ズームという構成にしたそれからは、カメラが面白くなって、彼女との個人的旅行や会社の同僚との個人的な撮影旅行や、海外出張にも携行するようになったと言っても、特に、カメラに腕があるわけでもない当時の月間カメラ雑誌、アサヒカメラ・カメラ毎日(今は廃刊)・日本カメラなどにのっている写真をイメージして撮影してみる程度であるただ、「私にも撮れます」という実感がうれしかった今思えば、撮影が難しいデジタル一眼レフカメラと違い、昔のフィルム一眼レフは、易しかったシャッターさえ押せば、なんとか写っていた(笑)----彼女とのつきあいは、私に取って個人的にも影響があった当時は、ベトナム戦争たけなわで、米国に反体制・ヒッピー文化が花咲いた時代である彼女と、その外国人(ほぼアメリカ人だが)コミュニティーも、なにがしら、その風潮に影響を受けていたその影響で、当時の私も、ややヒッピー的だったかも知れないまあ、日本の社会全体にもそういう風潮はあった私の彼女との生活については、私が明かさなかったので会社には知れなかったが、生活態度(笑)や価値観にヒッピー的なものが表れていたらしく「ヒッピー商社マン」と私を呼ぶものもいた(笑)もう1人、ヒッピー的なヤツがいて、大学の後輩で親友だったが、インド駐在から帰ると、インドの服装そのままという豪快な所を見せた(笑)彼とはよく「我々は遊牧民族だ 他の奴等は農耕民族」とあざけって(私はこれが得意)(笑)、社内では浮いていただろう----と言うわけで、当時の私は、昼間は日本人の同僚と、放課後は(笑)外国人と一緒という、文化的な二重生活であったこれは、私自身も、今はじめて気がついたことで、考えて見ると、私は、変な世界にいたものだと言うか、そういう世界は、ある意味、いまだに続いているがただ、私自身は、まったく、そういう生活に違和感を持っていなかった外国駐在で、私自身、いつも異邦人という感覚だったが、その延長線上を望んだのかも知れない私が、結婚する以前に付き合った、はっきりと「ガールフレンド」と言える女性は、合計(笑)2人だけであるたったの2人・・・である皆さんの予想より少ないと思うが(笑)第一、普通の人よりもずっと少ない(笑)だだ、この2人共にアメリカ人というところは、変わっているかも知れない----どうして、ほとんど外国人の女性としか付き合わなかったのか?今、自己分析してみるが・・・もともと、生まれ育った場所の環境から、白人女性に魅力を感じていたことが、少し影響していたかも知れない今は反省して、更生して(笑)、黄色人種の女性、黒人の女性(ただし混血タイプ)に、大いに魅力を感じているがその他に、これが重要だが(笑)、日本人女性と付き合うと、遅かれ早かれ、結婚というものに、真剣に(笑)対峙しなければならない私は、元来真面目なので(笑)、つきあい出すか出さないうちに、「もしこの女性に求婚されたら、またはつきあいの末に結婚することになったら、それでいいのか?」と言う、疑問や不安が、黒い雲のようにわき出したのである私に取って、結婚などと言う、重大な恐ろしい決断など、出来るわけがなかったこれは、学生時代からすでにその兆候があって(笑)これは、一種の、生真面目な、神経症だと、自分では(笑)、考えるのだがその点、外国人女性がガールフレンドである世界は、自由である(笑)彼女たちは、結婚を前提としてはいないのだから、ノビノビとおつきあいが出来る(これが、結局は間違いであることに私は、後ほど気づいたのだが)(笑)それに、彼女たちは、異邦人であって(笑)、当時、私の嫌いだった日本の精神風土とは別の世界にいただから、会社から帰って彼らの世界にひとたび浸れば、会社での仕事上の悩みや、成績の悩みや(笑)、そういう現実世界を、完全に忘れ去れる利点があったこう考えてみると、私は、どこか、現実生活から、逃げというか、逃避の姿勢があったようである外国人女性(男性は含まない)笑)が好きというのも、外国が好きというのも、旅行が好きというのも、エキゾティックな僻地が好きというのも、冒険好きと言うよりは、考えようによれば、一種の現実からの逃避かも知れないまあ、現実逃避を一切しない人間は、いないとは思うが(笑)もひとつ当時の商社は、激務であった商社というものは、人間が資産なので、工場設備なので、社員が働くか否かがポイントであるだんだん、時代と共に、改善はされたが、新入社員のころは、ほぼ毎日残業で、それも、9時・10時までというのもざらであった帰宅するとぐったりして、休日もグダグダと寝ている事が多かっただから、まともなガールフレンドと付き合う時間が無かった(笑)事実、毎日毎晩、残業の鬼だった先輩が婚約するというニュースを聞いて、あの人はいつデートする時間があったのだろう?といぶかったものである(笑)----さらに、最後に私は、女性に限らず、日本人とのつきあいが、全般に少ないいまだに、あまり無いただし、ネット上では、さすがに(笑)、おつきあいは日本人であるもちろん、会社の同僚とは一緒だったが、彼らは商社マンである商社マンは外国経験・異文化体験を経てきているから、一般の人とは少し違う----日本女性とおつきあいをしていると、どうも、居心地が悪いいや、良すぎて悪いのかも知れないお互い日本人という、世界的にはかなり特殊な人間である非常にホモジーニアス(同質性が強い)以心伝心の世界を持つつまり、「日本人ならナニナニして当然」という、規範性・規律性の強い文化の中で生きているだから、私の考えていることは相手もわかるし、相手が考えていることは私にもわかるわかりすぎるのだだから、お互い、安心しながら、しかし、気を遣う言いたいことも、あまり言わない案外、自由のない、窮屈な世界なのであるそれに比べて、外国人は・・・もちろん、メチャメチャに違うと言うことはない同じ人間なのだからしかし、「お互いは違っても当然」という、お互いの基本的な了解がある異質性が前提にあるそれが、私には、楽なのである----私が、このブログで自説を書くと、「alex99は偏屈で(それは正しいが)(笑)、わざと人と違った考えを披露する」という事を書く人が多い(笑)しかし、それは誤解だ(笑)私は、わざと、人と違った考え方をして、人と違った意見を書くのではないもともと私は、そういう人間なのだそれに、私の母が外国文化好きだったし、ガールフレンドも先妻も外国人だったし、職業も商社だったし、外国経験も長いしそういう環境があったしかしやはり、私が嫌いなのは「他人と同じ」と言うことである(笑)あたかも自分の存在価値がないように感じるただし、そんな私だが、服装だけは、おとなしいカジュアルな服装は、アメリカンカジュアルだと思うちょっとかしこまる場合は、結果的に英国風(と言うほどでもないが)極めて普通の服装である尖ったセンスの服装はしないそういう欲求もない私に取って、服装は表現の手段ではなく、環境に合わせるものである服装は制服であるそう思っているなぜそうなのか?は、よくわからないたぶん、一目で、外見では、判断されたくないのだと思う中身に過信を持っているのかも知れない(笑)だから、変わった、派手な服装をしている人を見ると、思わず、軽蔑に近い感情を抱くことが多い----彼女のアパートの二階には、やはり、アメリカ人が住んでいた中年の独身男性で、彼には、半同棲の若い日本人の学生の愛人(笑)がいたつまり、彼らはゲイであった彼女とゲイの彼とは、アメリカ人同士だし仲のいい友人である私も、当然のように、二階の2人(笑)と違和感なく友人になった一緒に食事を作って食べたり、飲んだり、良く行き来をしていたこ~ゆ~生活は、会社には、決して報告してはならないものである(笑)日本の会社では、こういう人間は要注意とされるしかし、結局、誰も知らなかったと思うただ、独身寮に帰らなくなった事は、ふだんは全く意識していなかったのだが、一応、独身寮に籍を置いているので、たまに帰ると(笑)、多少きまりの悪い思いをした通勤電車で寮の住人と出会うと、最悪である潜在意識に於いて、罪の意識はあったのである(笑)ときどき、1人でこっそりと暗い寮に帰って、住人達に冷たい視線を浴びる悪夢を見る(笑)ただ、たまに、会社から早く帰宅(笑)すると、自由でうれしかったまだ日が長い夏の夕方など、彼女が帰宅するまでの時間、アパートの隣にあるスナックのマスターとキャッチボールをしたりしたさらに隣の別のスナックで、ママに、その店の常連の女性(美人であった)とのつきあいを強く勧められて、困った(笑)みな、私の彼女との生活は知らないのであるいろいろ、思い出すものである(笑)----彼女は、2年後?、だったかな?に、米国の大学院に進学することになって帰国した彼女の父親がそこの出身で、どうしても進学して欲しいと、彼女に懇願してきた彼女は、実は私と結婚したかったのだが(後に再会した時にも、そう語った)、私も、それは感じていたのだが、例によって、結婚恐怖症だったし、中東のビジネスに携わるようになって、海外出張の頻度と長さがどんどん増してきて、日本を留守にすることが多くなり、彼女との生活が少なくなっていた彼女が東北地方に旅行してから東南アジア経由(観光)で米国に帰る時、銀座で一緒にすき焼きを食べて、上野駅で列車の彼女を見送った列車の最後尾の赤いテールランプが遠ざかる場面を、今でも覚えている
2012.02.17
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旅行に先立って,カメラを用意していたら,カメラにまつわる思い出について、急に書きたくなった恥多き昔話を記録にとどめておこう余生も短いのだから(笑)----私は、幼年時代からカメラにはなじんでいた小学校の遠足などには父親のカメラ、あの時代には写真機と言った方がいいかな?を携行して、それなりに写真を撮った当時は露出計で露出を測ったり,こどもなりに、だいたいのカンで露出を決めただけなのだが,昔のカメラと印画紙でも、ほとんど失敗はしなかったものであるこれは、別に私だけでなくて、クラスの女生徒達でさえ、皆カメラを持ってきてちゃんと撮影していた同級生達は、私をのぞいて(笑)、みな、裕福な家庭の子女だったので、カメラぐらいはあたりまえだったしかし、フィルムカメラで、天候は、晴天・曇り・・・ぐらいの区別でやっていたのだから、大した事ではないかも知れないそれでも、なんとか写真は撮れた私のカメラは父の持ち物で、普通の35ミリレンジファインダーカメラだったが、当時は二眼レフという,今ではもう、ほとんど見られない旧式のカメラも流行っていた一番初めて触って、遠足などの持って行ったのは、父親のミノルタ製の蛇腹沈胴式のものだったしかし私は、特にカメラが趣味という訳でもなかった思い出してみると、高校にカメラ部というものがあったが,正直言って,写真を撮るということには、てんで興味がなかっただから、商社に入社して、ヴィエトナムに駐在していた時にも,自分ではほとんど写真を撮らなかった街頭に立っているポラロイドカメラを持ったカメラ屋にデート中の女性との2ショットを撮ってもらうのがせいぜいというところだったのだ考えてみると,せっかくの貴重な記録のチャンスを逃がしてしまったものだと思う----そんな私が,社会人になってから、ある女性と知り合ってからカメラが趣味になったその女性はアメリカ人の若い女性で,その彼女の父親が有名なプロのカメラマンだったので、彼女もカメラが趣味だったのだある時ある機会で彼女と知り合って、その翌日、彼女が書いてくれた地図にあった彼女のアパートを訪問したそこは、井の頭線のある駅からすぐの場所にある一軒家を上下別々に貸している木造アパートだったその時何をお互いに会話したかはよく覚えていないが、一つ思い出すことがある彼女は、自分が撮った写真などを壁にピンで留めていたが、その中に、米国の友人が写っている写真があって、その写真にその友人がこういうことをペンで書き添えてあった「ディア 君は、あの魚を生で食べる国に行ってしまうんだね」「魚を生で食べる国とは何だ!」と反感を感じたコメントだったが、アメリカで寿司がブームになるのはずっとその後だから、その当時のアメリカ人の感覚などそんなものだっただろう私は、その夜、なりゆきで彼女のアパートに泊まったような気がするその日から、私は、独身寮に帰らず、彼女のアパートに棲息(笑)してしまったどうしてそんなに簡単に、そうなったのか?自分でもよくわからないお互い、最初からとても気が合ったから、ああいうことになってしまったと思うのだが「青春は不可解なり」(笑)----当時の私の所属部所属課には、同期入社のものがふたりいたが、その内の慶応出身の男がとてもだらしない男だったどう「だらしない」かというと、学生時代から、ある女性と同棲していたのである彼と私は、独身寮でも同室だったのだが、そういう事情で、彼は、ほとんど独身寮に帰ってこなかった学生時代から同棲していたこと、入社してからもそのまま同棲していたこと、それなのに結婚する意思は無さそうなのに、そのまま同棲を続けていたことそれらがみな、私には、許し難い!(うらやましい)(笑)と思えたどうもそのだらしなさの原因は、出身大学が慶応と言うところにヒントがあった(笑)我々、都の西北早稲田の輩は、六大学野球の早慶戦を応援する時には、慶応の校歌の歌詞をパロって「陸の王者・慶応」という部分を「三田の色魔・慶応」と歌ってあざけっていた(つもり)それに「さえぎるる雲 無きを~」というところを「さえぎる膜 無きを~」と歌った膜って、何の膜だ?(笑)それに「色魔」なんて、あざける前に、なってみたいではないか?(笑)あざけるといいつつ、うらやましかったのである※ ちなみに、大学内の学部別対抗スポーツ大会では「理工学部」を「利口で無い無い 利口で無い」とあざけった(理工の方が偏差値はずっと高いのだが)(笑)やはり六大学の応援で、立教以外の大学の応援団が立教の校歌(セント・ポール)の歌詞を変えて「利口で無い無い 利口で無い」と歌ったのだがこの「利口」は「立教」にかけているのである長嶋茂雄・みのもんた・関口宏・報道ステーションのくいだおれ太郎みな、「利口大学」卒である(笑)長島を最初に持って来るところに、私の悪意がくみ取れると思う(笑)そういうトリビア?は、さておいてこ~ゆ~風に、慶応をバカにしたつもりでも実は、女性にもてる慶応がうらやましくてたまらないのが早大生であるなにしろ「色魔」を「遮る膜はない」のである(笑)ただ、当時でも「昔慶応 今早稲田」と言って(笑)、早稲田の学生の顔面偏差値は昔と違って、高くなっていたのだが(私がその代表格だが)(笑)、どうも、大学の「バンカラ」という旧来のイメージというものが邪魔するのである彼は小柄だが、私は長身である顔面偏差値も、こちらの方が高い(笑)それなのに、実に悔しい(笑)3人同期のもう一人の同期の男は、東大卒で実家からの自宅通勤だから、同棲というような大罪を犯すことはなかった(笑)ただ、彼が十分に女好きであることは、入社後、すぐにわかったことではあるが(笑)そう言えば思い出したが、私の学生時代の友人の一人も、学生時代から実に可愛い早稲田の女学生と同棲していた私は、以前、「神田川という曲は私の学生時代の雰囲気を良くえがいている」と言うようなテーマで、このけしからん友人のことも暴いたが(笑)彼は、「神田川」と同じような同棲を、本当に神田川に沿った木造アパートで送っていたこれも、今思い出しても悔しいどうも、悔しいことだらけである(笑)学生時代に、ちょうと「同棲時代」という漫画が流行って、映画化もされたが、それまでは、同棲するなんて、なんて、ふしだらなことなんだ!と思っていた私である(今でも少しは思っているが)(笑)(ただ、黒木メイサのできちゃった婚よりはましである)(笑)その、私が、さげすみ、怒り、ねたんだ同棲と言う大罪を、後には、私自身が犯してしまったこの「犯す」という表現さえ、淫らである(笑)----私は、ほとんど女性経験もないままに(笑)入社後、海外勤務を経て、日本に帰国したので、海外でのかりそめの、いつわりの(笑)関係をのぞいて、ガールフレンドというものを、それまで持ったことがなかったただ、同室(留守ばかりだったが)の同期の男の同棲をうらやましく思うばかりの「うぶ」な私(笑)だったのだが、世の中はわからないもので、こういう形で、思いがけなく、「新世界」(笑)が開けたのであるなお、私が、そのアメリカ人の女性に近づいた目的は、月並みだが、彼女が大学剃るのインテリと知って、英会話を教えてもらおうと言う、ぼんやりした、ありきたりなものだったが、いざ一緒に暮らしてみると、意外にも、「無料」の英会話の授業の機会はあまり無かった(笑)と言うのも、彼女が、日本企業に勤めていて、日本語は、ほぼペラペラだったので、ついつい、日本語で会話してしまうのであるなかなか「無料の授業」を実現するのは難しいものである(笑) ―――― 続く ――――
2012.02.11
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政治にはあきれかえったから、私自身の、あきれるような話でも書こう(笑)「ブログは、自分の恥ずかしい記憶をく場所でもある」と言う言葉は私が作った言葉であるが(笑)、その過去の恥ずかしい話を、特に、女性との思い出をシリーズで書いてみることにするその第一弾ずいぶん昔の話だがある時期、私は、赤坂の外国人ナイトクラブによく通っていた今は外国人ナイトクラブというと、ロシアや東欧系や、中南米のプロの女性がほとんどだと思うが、当時のは、そういうナイトクラブではなかったのだ昔の赤坂の外国人ナイトクラブというと、まだ数軒しかない珍しい存在だったし、そこにいる女性も欧米系の、プロではない女性がほとんどだった典型的なのは、本国では学生で海外旅行中に日本に立ち寄ったついでに、ビザ期限の範囲内でアルバイトで、赤坂の外国人女性だけが勤めているナイトクラブで働いて旅費を貯めて、次の目的地に向かうそんなケースが多かった私は総合商社に勤務していたので、会社の業務に寄与するかと思って、英会話の練習にそういうナイトクラブに通ったのだ・・・というのは全くウソで(笑)、その頃の私は、白人の女性が好きだったのだ私はこども時代に、アメリカ租界のような地域で育ったその地域は戦前に洋風住宅の博覧会があって、出品された大きな洋風住宅がそのまま残っている地域だった戦後、進駐してきたアメリカ軍が、高級将校とその家族の居住地として、その地域を接収したので、(一般兵士の住宅地は現在、大阪大学の敷地になっているまた別の地域にあった)たちまちにしてその地域は、アメリカ租界のようになってしまった絶頂時のアメリカが、日本に再現されていたのである将校達は軍務が忙しいのか、ほとんどその姿を見なかったが、奥さん達は暇をもてあまして、よく見かけたデボラ・カーに似た上品な婦人は、いつも白いコンバーチブルに乗ってドライブしていたし、夏になると、ショートパンツで歩いているマリリン・モンローのようなグラマーな奥さんもいた敗戦後の日本女性に比べると、子供心にも眩しいほど美しくセクシーな女性像であるしかし、その頃の進駐軍と言えば、強大な権力を持っていて、恐ろしい存在でもあったその家族のこども達から空気銃で銃撃(笑)された記憶もあるその記憶が私の潜在意識に刷り込まれて、私は、白人女性に対して強いコンプレックスを持つ人間になったそれ以来、最近まで、私のガールフレンドは、元妻も含めて、ほぼ全員、外国人女性である幼児期の記憶で、白人女性に強く引きつけられのと同時に、当時、権勢を誇った白人への復讐心とも言うべき心理から、白人女性を見るとどうしても「私を好きにならせたい」「征服したい」という凶暴な意識が、温厚な私に(笑)あったのだと思う事実、身近な白人女性は、かなり、ほとんど、撃沈したのだが(笑)私は、女性に対しては非常におくてで、学生時代には女性経験が無かったし、会社に入っても、当時は残業ばかりの毎日で、女性と付き合う時間もなかったベトナムに行ってはじめて女性と経験したが、すぐまたインドネシアに転勤日本に帰ってきたのは30才前であるその頃から、私は、恐る恐る(笑)女性と付き合い始めたのだが、最初のガールフレンドはアメリカ人の女性である彼女とは、あるきっかけで、彼女のアパートで、ほぼ同棲のような生活を2年ほど送ったが、彼女が、父親も卒業したスタンフォード大学の大学院に、父親の強い願いを受け入れて入学すると言うことで、別れることになった私がカメラが好きになったのも、彼女の影響である彼女との生活については、別の機会に書こうその内、私は、赤坂に外国人女性だけのナイトクラブがあることに気がついて通い出したその頃の、赤坂のそんなナイトクラブの客は、どうもいかがわしい客が多く、しかも、英語がしゃべれない人が大半だったそのために、外国人ナイトクラブでありながら、英語をしゃべれない客のために日本人ホステスもいたその点、私は、商売柄、英語はしゃべれるし、それに私は身長が高く、彼女たちからは「あなたの身体は白人とほとんど同じだから、付き合っていると安心感がある」と言われ、それをいいことに(笑)(私は無意識だったが)、結果として、彼女達は、次々に私のガールフレンドになったのである(反省)(笑)次々というのは、私は、しょっちゅう海外出張だったし、彼女たちも、三ヶ月?のビザが切れると出国してしまって、新陳代謝(笑)したからであるそれに、ほとんどの女性は、彼女たちの方から私にアプローチしてきたのだが(笑)私に全く興味を示さなかった女性も、少なくとも、ひとりいるその彼女は、今も悔しいから覚えているが(笑)、ノールウェーのオスロから来た美女だった)(残念!)ただし、上にも書いたように、そんな場所では、外国人の女性達は、プロではない女性が大半だったので、おつきあいに金など払ったことはないすべて、友達づきあいから始まったのであるこう書くと、私は、色魔のように聞こえるが、私は、少なくとも意識としては、彼女たちと友達としてつきあっていたし、彼女たちが困って呼ばれれば会社を抜け出して、アパートにエアコンを設置して上げたり、風邪気味だったら薬局で風邪薬を買って上げたり、他の怪しげな、身体目的の紳士達と違ってホテルに行こうなんて言わないし、彼女たちの日本に於ける便利な代理恋人として(笑)、本当に彼女たちに好かれていたのである(自分で言うか)(笑)その結果、ちょっと普通より深い関係になっただけである今考えれば、実に楽しい日々だったガールフレンドも居ない状態から、急に「選り取り見取り」(笑)の状態になったのである彼女たちのことを書くときりがないので(笑)、ある程度、長い期間、深く付き合った、数人の女性のことを書こうここまでは、はじめて書く事ばかりだが、そこで会ったソルボンヌの学生だった女性との話だけは、以前、書いた事があるあるパリジェンヌの想い出彼女とも別れた後、私は、あるアメリカ人女性と出会った彼女とのことは、明日、または明後日、書こうかと思うそれから、優しかったイギリス女性のこともドイツ人女性のこともイタリア人女性のことももうひとりのアメリカ人女性のこともとにかく今日はこれぐらいにしといたるわ「あれは全部、うそでした」と書くかも知れない(笑)
2011.06.03
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ちょっと、ラジオについての記憶を書いてみようと思う東日本大震災で災害情報を聴くためにラジオが再認識されていて、私もいろいろなラジオを買ったり、ちょっとしたラジオ・オタクになっているのもあって・・・これは、いつもと違って、私自身のプライベイトな備忘録的な記事だから、自由勝手に書く ―――― ◇ ―――― 恐らく誰でも、昔はラジオの深夜放送を聞く習慣があったと思う私の様な古い世代は、まだテレビのない時代を経験しているので、なおさらラジオが生活と共にあったそういう私たちの世代や、もっと若い世代でもラジオや無線に趣味を持つ人達にとって、初めての「マイラジオ」は、電源の要らない鉱石ラジオやゲルマニュームラジオだと思うゲルマニュームも鉱石の一種だとは思うが私も、父親に、最初は鉱石ラジオ、次にはもうすこし性能のいいゲルマニュウム・ラジオを買ってもらって、イヤホーンで、微かな電波に聞き入ったものだった 終戦後、我が家には祖父が持っていた戦前の旧式ラジオと、大きな手回しの蓄音機(ちくおんき)に内装されたこれも旧式のラジオがあった蓄音機内蔵のラジオの方は、蓄音機自体が二階にあったし、茶の間で聞くのは旧式ラジオの方だった我が家では、祖父も父も複数台の写真機を持っていたし、ラジオもあったし・・・扇風機もあったこれは終戦直後としては、割に、ブルジョア風だったのである(笑)まあ、それほど、終戦後の日本は貧しく質素だった----⇒ ちくおんき【蓄音機・蓄音器】 レコードに吹き込んだ音を再生する装置。1877 年アメリカのエジソンが発明。 針がレコードの音溝をたどって起こす振動を,機械的に増幅して金属の振動板に伝え再生する。のち,針の振動を電気信号に変換する方式になった。フォノグラフ。⇒ でんちく【電蓄】 真空管・トランジスタなどによる増幅器を備えた蓄音機。電気蓄音機。---- 当時は、私は、幼児だったが、ラジオというものは、娯楽の王様だっただから、ラジオにかじりついて耳を寄せて聴いたものだが、当時のラジオは恐ろしく性能が悪くて、雑音の中からアナウンサーの声が、押し寄せては引く波のように、大きく聞こえたり小さく聞こえ、必死になってチューニングをしたものだその内に「5球スーパー」という画期的なラジオが売り出され、新しもの好きの父は、すぐそれを買ったそれでも、放送技術側の問題もあって、今のラジオに比べれば貧弱な受信状態だったが、それでもそれ以前の旧式ラジオに比べれば素晴らしいものだった 今でも覚えている場面は、休日の日のことだったと思うが、二階の部屋で当時、会社で米軍担当をしていた父がランニングシャツ一枚でタイプを打っていたものだその側で鳴っていたラジオからは米軍放送が流れていた のちほど、社会人になった時の最初のガールフレンドだったアメリカ人の女性が「FENは、なぜ、アナウンサーに教育レベルの低い軍曹クラスの兵隊を使うのか 低レベルの英語で恥ずかしい」と言っていたことを思いだしたが、当時は、英語のレベルなんて、当然ながら、全くわからなかった 父はその当時、時々、自転車の後ろの荷台に私を乗せて近くのの伊丹空港(今の大阪伊丹空港)に言って、米兵と英語で話をしていた英会話の勉強が目的だったのかも知れない米兵は、みな若い男ばかりだったが、映画などで見る日本軍の兵隊と違って、戦勝国の人間とは思えないような非常にフレンドリーな態度だったのを思い出すいつから、民間ラジオ放送が開始したか、よくは覚えていないのだが、民間放送が始まる前には、NHK第1放送、同じくNHK第2放送だけで、それに米軍放送のFENの合計3放送局だけだった----ウィキペディア 【ラジオ】戦後~1950年代1955年頃のラジオ受信機1950年に「社団法人日本放送協会」が公共企業体としての「特殊法人日本放送協会」に改組され、翌1951年には9月1日朝に中部日本放送(CBC)、同日昼に新日本放送(現・毎日放送〔MBS〕)が、同年12月25日にはラジオ東京(現・TBSラジオ)と、民間放送も相次いで開始された。1953年にはテレビ放送も開始されたが、白米10kg680円、銭湯の入浴料15円程度だった時代にテレビ受像機の価格は20~30万円程度と高価で一般には買えず、ラジオが一家の主役であり続けた。----そうか民間ラジオ放送は中部大阪東京の順だったのだ寄り道をするが、テレビと言えば、 ―――― ◇ ――――この記事のタイトルは、カーペンターズの歌の歌詞を思い出して書いたのだが、今調べてみると、歌のタイトルはListen to the radioではなくてYesterday Once Moreだったんだ上の赤い字をクリックすると、ギターでのこの曲のメロディーの演奏が聴ける珍しいサイトだ ―――― ◇ ――――私が高校生になった頃から、私専用のラジオを持ったと思う ―――― 続く ――――書きかけになったが、時間が無いので小休止また、のちほど、書き継ぐこととするよければ、また、のぞいてください
2011.05.19
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私はこの所、故あって、ピラミッド建設に従事していたエジプトの労働者のような、肉体的苦役をしているしたがって、とてもブログの更新など出来ないしたがって、【復刻日記】とする(いつもと、同じじゃない) ―――― ◇ ――――朱鷺子さんがご自分のブログでこういうことを書いている ~~~~~~~~今朝仕事をしていたらつけっぱなしのテレビからの男性の声に耳をとられた「しーんという音が聞こえる田舎に住んで」と言ったのだ私は、はっとして手を休めたあああ、ついぞ、しーんという音を聞いたことがなかったなあ ~~~~~~~~私も、シーンという音をテーマにした記事を書いたことがあるので、【復刻日記】とする ―――― ◇ ――――【復刻日記】「墨を塗ったような暗闇」とか、「鼻をつままれてもわからない」とか「漆黒の闇」とか・・・昔の夜の暗さはいろいろに表現される現代の日本の夜は明るいどの部屋も蛍光灯が煌々と隅から隅まで照らす比較するものと言えば、日本の昔の夜の闇その他には、日本の戦前の夜の茶の間時代は今だけれど、欧州の家々の部屋の灯りだろうか?西欧では明るい部屋はパーティー用だけだ~~~~~~~~~私も一度、そんな太古の昔のような、漆黒の暗闇を経験した私が30代の頃、私の会社の女性の先輩が信州に別荘を持っていた私がお願いしたら、その先輩は、その別荘をただで貸してくれるという当時、私にはガールフレンドがいて、アメリカ人の女性だったけれど、なんとか彼女ともっと intimate な仲になりたいと思っていたintimate と言う言葉はいちおう日本では一般的に「親密な」と言うことになっているけれど、男女間で使うと、「一線を越えた」という、大変な意味の仲を指し示す言葉になる私としては、ここで「一線」も「ニ線」も越えて(もっと越えてもいいんだが・・・)(相手次第かな?)彼女との男女間関係の、「成層圏安定水平飛行」に入りたい気持ちがあったので、この信州の別荘は絶好の舞台だった二人で人里離れた信州の別荘で過ごせば、なるようにしかならないではないか?極めて自然に intimate relationship に収斂することがヴィジュアルにシミュレーション出来る~~~~~~~~~そこで、ビジネスのつきあいの他社のポン友に、「この檜舞台でどういう効果的な、端的な性的行動を取ったらいいのか?」という、哲学的アドバイスを求めたら、『alexさん、別荘では、有無を言わせず彼女を【外掛け】で一気に倒しなさい!』という、貴重なアドバイスをいただいた果たして【外掛け】が四十八手の中で、一番有効な業かな?という素朴な疑問はあったが、とにかくワクワクした軽井沢からはちょっと遠いが、信州の、白樺の林に囲まれたフィンランド直輸入の白木のコテッジでの、【外掛け】という人為的な、恣意的な、革命的な(それほどでな無いね)、運動によって、相思相愛の?男女の愛が結晶するのだ【内掛け】 の方が、目的完遂には早いのではないか?(内側だから)、という現実的な事も考えたが、【外掛け】の方が豪快なイメージがある【あびせ倒し】とか、 【押し倒し】も【倒し】業だからいいとは思ったが、そのへんの細かい差異は、いざ、現場に立ってみるとあまり意味をなさないのではないか?業をかけられる相手側の感情も勘案しなければならないとにかく【すくい投げ】だけはいけない相手に屈辱感を与える【一本背負い】は致命的にイケナイ相手に逃げられてしまうそれに【寄り切り】だけだと、水平移動だけで、セックスに必要な上下関係が発生しないので、この決まり手も避けたい一応は、そういう、プラクティカルな考察をしてみたのであるとにかく、【業をかける】という積極性が大事なのではないだろうか?消極的なままだと、【教育的指導】を言い渡されて、【効果】【技あり】と、立て続けに不利な体勢になるかも知れない【積極性とは、善いことなり】と武者小路実篤さんも言っている(言っていないか?)とにかく、【外掛け】 なら、ガールフレンドが「あれ~~! ご無体な・・・」と、一応は言いながらも、時間の経過と共に、素直に!私の言うことを聞くような気がしてきた日本の伝統業の威力を知って、歴史の浅い米国の現在の不条理な優位を反省してくれればもっといいかも知れない彼女にすぐ、この、「別荘で水入らずプラン」を話したら、「ハウ・ナイス!」と喜んだそのあどけない表情にウソはない彼女も【外掛け】を、心の底では望んでいるのだもう怖いものはなんにも無い一人で、足をとばして【外掛け】の練習もした~~~~~~~~~しかし、世の中そんなに甘いもんじゃないビザの関係などで、彼女は米国に急遽帰国することになったいずれは日本に帰ってくるのだが、今回の「水入らず」は水入りであるしかし、先輩からは別荘を借りてあるしかたがないので、私はいやいや、むさ苦しい会社の後輩を引き連れて、信州の別荘におもむいたその場所は確かに信州だったけれど、そこには堀辰雄が「美しい村」で描いたような、「麦わら帽子をかぶった憂愁の美少女」なんてどこを探してもいないここは「美しい村」ではないらしい私は「菜穂子さん」とつぶやきながら雑貨屋に入って、今夜の食材を買い込んだ別荘で食事を作った山岳部にいた人間だからキャンプ食は女性より上手だとりあえずは、腹が一杯になったが、野郎ばかりでは、何の雰囲気もないそれでも、時間は散文的に、自動的に経過するまもなく、日が暮れて、することもないので、もう眠ろうということになったうっそうとした深い林の中にある別荘は、室内の灯を消すと、本当の漆黒の闇になった耳がシ~~ンと鳴るほどの無音の世界でもある「ふ~~ん、昔の人間はこんな夜の中で、ドップリすごしたのか」しみじみ、そう思った座頭市が有利な世界だと思った私のそんな深遠な哲学的な思索に感応したのか、いつもはがさつな後輩達も、言葉少なである一人で林の外に出てみたら、満天の星が、降って落ちてきそうなのだ彼女が帰って来たら、早速、またこの別荘を借りようその際は【外掛け】ではなくて、【内無双】とか、【小股すくい】とかの小技を試してみよう星空の下の思案は続くのである
2009.05.31
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■ オシャレという自己表現Tak-shonai さんのブログでユニクロの話題があった私にとってユニクロはありがたいメーカーであるウドの大木である私にとって、XL サイズがそろっているユニクロはありがたいほぼ全品、かならずXL サイズがそろっている店というのは、今でもありそうで無い私が高校生時代から、衣類や靴を買う際に私のサイズが無くて苦労した話しは何回か書いた運動靴(当時はそう呼んだ)は革製でないから伸びないだから、合うサイズがないと困る結局私は、大男のスポーツであるバスケットのバスケットシューズをはいていた私は大男と言うほどではないから、バカの大足ということである服も私のサイズになると、肥満体用のものしか無く、その時流行のセンスのいい服など望めなかった海外に駐在になり自由にサイズを選べるようになって私の悩みは解決したしかし今はまた日本暮らしであるドレッシーな服はもうほとんど買わないが、カジュアルな衣類でもユニクロ以外、なかなか XL サイズはない米国在住の妹がときどき衣類を送ってくれるが、これは助かるただどうしてか、米国サイズの XL が多いさすがに米国サイズなら L である ―――― ◇ ――――Tak-shonai さんのブログのコメントで「ユニクロの衣類は個性がないのでオシャレが出来ない」と言う意見があったこれは私にとって「眼からウロコ」だった私は青春時代を除いた私の生涯において衣類で個性を出そうとは思ったことがない社会人だからということもあるが、組織で働いてると没個性な服装が無難である服装で個性を主張するのは組織の中では浮いてしまう組織での服装は制服であるべきだと私は思おうそういう意味で私は没個性的な服装で通したただ、センスの悪い服装でもいいというわけでも無かった没個性な中にも好みというモノがあったのだ数年前、米国の姪の結婚式が米国の保養地、ケープコッドのホテルであった二日間も続く結婚式で私も日本から出席したその時、私の服装が数多い参列者の中で「一番オシャレだった」とみんなに言われた定番主義でも、オシャレといわれることもあるのである花嫁の父に「今日のお前には女はみんな惚れるぞ」と言われた事実、二人ほどに惚れられた(少し自慢) (笑) 私は英国の服が好きだったのでロンドンへ出張したときに購入することにしていたロンドンのシティーのオックスブリッジ卒などのエリート男性が着ているスーツは、おそらくセヴィルローなどで仕立てたらしい見るからに高価そうなものであるそんなスーツを見てきたから、私は日本の背広はセンス的に買う気がしないのであるパリで欧州スタイルのスーツやブレザーを買ってみたが、あれはあれでなかなかいいただ欧州風の衣類はやや女性的という感じがするプライベイトなカジュアルな服装としては、アメリカンな服装がいいチノパンツに紺のブレザーにチョコレート色のタッセルシューズまたはジーンズにポロシャツにスニーカーカウボーイ風な、そういうものになるしかし、いずれも個性を主張したものではなく、定番である一度、米国人の元モデルだったという女性にシャツを買ってもらったことがあるそのシャツはとてもモダンでシュールで、着るのが恥ずかしかった定番主義の私なら一生買わないだろうというデザインであるこれがオシャレというものかなと思った私の衣類に関する考え方は思考停止していしまっているらしいこういう風に定番主義・没個性主義の私だが、大学時代はそれなりの自己主張というか、オシャレを意識していた時代だったその頃は、石津謙介氏のVANジャケットという会社がアイビールックという若者向けの服装を流行らせていて、私もそのアイビーにすっかり参っていたアイビールックというのは、以前にも書いたのだが、米国東海岸の名門校のアイヴィーリーグの学生の服装を真似たものである私も早速、Lee のホワイトジーンズにオックスフォードのボタンダウンのシャツ靴もコインローファー髪もアイヴィーカットというか、クルーカットにしたしかし、例によって靴だけは私のサイズが銀座のVANショップや系列のKENTショップにも売っていない米国風の靴を売っていたリーガルにも無いしかしコインローファーをはいていないとアイビールックとは言えない仕方なく、大学の近くの靴屋に発注したのだが、その靴屋が作ってくれたのは、バカの大足の私でさえブカブカのモカシンである私はガッカリして、結局、バスケットシューズをはくことにしたジャケットもVANショップで売っているサッカーのジャケットなどを着ていたのだが、冬はそれでは寒いちょうど米国への出張から帰ってきた父親が、茶色のスェードのジャンパーをおみやげに買ってきたくれたのでそれを愛用していた友人達もやはりそれなりのアイビールックを着こなしていて、特に東京出身でバンド関係という友人達はあか抜けたアイビーだったしかし、私の大学のキャンパス内の学生達がみんなアイビーか?というと、そういうわけでもない伝統的な学生服に角帽という学生も半数ほどいたし、あか抜けない田舎風も多いそういう意味では私も目立っていたかも知れないある日、キャンパスの大隈候銅像の近くで友人を待っていたら、政経学部大学院の建物の前の小さな池のまわりに女子学生達が腰掛けておしゃべりをしている何気なくそのグループを見ていたら、そのうちのひとりがふり返って私を見つめているそうしてそばの友人とひそひそ話をしている私は「瞳のきれいな女子学生だな」と思っていたが、まもなくそのふたりは他学部の建物の方へ向かって行ったあとで思い出してみたらその瞳のきれいな女性学生は吉永小百合さんだった映画出演ではないので化粧も全くしていないので、すぐにはそうだとは気がつかなかった清楚で瞳がきれいだったが小柄で、派手だったり、飛び抜けて美人という感じでもなかったそれにおみ足が美脚と言うほどではなかった(という表現にしておこう)恐らくふたりは「ごらんなさいよ アイビーのつもりで、しょっているわね~」などと私の悪口を言っていたにちがいないそういう負の確信がある (笑)
2009.02.23
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昨夜は、外食に出たら、ちょっとしたハプニングがあって日記を今まで書けなかった【復刻日記】昨夜は近くのある町にでかけて、ある中華料理屋で食べた決して高級では無いが、スペース的には結構大きな中華料理屋である流行っているわけでもなく、いつもはがらんとしているただ、さすがに夜ともなれば、多少は客が入る私は今まで数回、ここで食べたことがあるのだが、ここはどうも客層が怪しげなのだ全体にヤクザっぽい男が多いし、マナーも悪いシャツも夏はアロハ風が多いし、ほとんどサングラスをかけている靴は必ず脱ぐし、片足のあぐらをかく男も多い携帯でしょっちゅう話をする店の人間にオーダーする態度も高飛車連れのホステス風の女性が、携帯でとつぜん韓国語でしゃべりだしたり昨夜はそんな男のひとりが、隣のテーブルの私に話しかけてきた「兄ちゃん よく飲んで、よく食べるな~」----------------私はなぜか、この年令なのに (笑) 「兄ちゃん」とか「お兄さん」とか、呼びかけられることが多い「お爺さん」と私の年令を正確に反映した呼び方をされた事がない (笑) 若く見える方らしい私が娘のために金のネックレスを買った時も、女店員が私のことを「お兄さん」とよぶ私がお兄さんなら、娘と私はどういう関係なのだ?どうも援交(援助交際)の仲だと見られている節があるそう言えば、娘と一緒に寿司屋などに入ると、店の人の対応というか雰囲気が、なぜか固い時があるそんな時には「あなた方は援交と思われるかも知れませんが、これは私の実の娘でして・・・」と説明するすると、店の人がホッとしたような笑顔を浮かべて急に愛想がよくなり、「あ そうなんですか これで私どもも安心しました」なんて言うオイオイ~!「安心しました」とはなんだ~!?じゃ、いままでどう思っていたんだ~! コノ~!そんななので、この頃は先手を打って、店に入るなり、いきなり「援交じゃありませんよ」と、キッパリ言うことにしている娘は「援交だと思う店も店だけれど、いきなり【援交じゃありませんよ!】と言い切るお父さんもすごいよね~」と、感心している娘の話では、娘の友達たちは、父親と仲よく歩くとか、父親と食事を一緒にする娘は少ないのだという「ウザイんだよ」とか、「援交と思われるとまずいんジャン?」という女の子が多いという私の娘は、一緒に歩きたがるので例外らしい----------------と言うことで、この男も(50過ぎだろうか?)、私を自分より年下だと信じて疑わないあまり緻密な頭脳の人ではないらしいおまけに食事が終わって私が帰ろうとすると、この男が私と飲みに行こうと言って聞かない今夜はおごるから、というこの言葉にはグラッと来たが (笑) 、やはりこんな男と特に飲みたい訳でもないから帰ろうとしたのだが、この男は強引なのである結局、私を小さな、小便臭い横丁にある、小さな、地味~~なバーに案内・・・というより、連れ込んだ客はまだひとりもいないこの男は、案外気のいい男の様で、私に「飲め!飲め!」と、自分のボトルのウイスキーをすすめながら、ママと馬鹿話をしながら、カラオケを歌う大柄で太った南方系の、魁偉といっていい容貌の人だが、歌はうまいし声もいいただし話を聞いてみると、どうもヤバイ方面の人らしい拳銃の話などになる「自分が寝たきりになったらよ~、そんなのはいやだから、私の親友にカラシニコフで射殺してもらう」と言う「くらっても5年ぐらいだから、そいつはやってくれるよ」とも言うこのカラシニコフというところはオリジナルの日記では「拳銃」としている 説明が面倒だからそう書いたのだが、実際は「カラシニコフ」と言うソ連製の、世界で最も普及していて世界中で一億丁あると言われる、自動ライフルであるこんな火器を持っているところを見ると、やはりヤバイ、大ヤバの人らしいそんな彼に対して私は「射殺してもらう前に、貴方はその親友と、内容証明的な文書を交わしておいた方がいいよ」とアドバイスした「そうすれば、遺恨などが原因の殺人ではなく、一種の安楽死のために親友があなたのためを思って射殺してくれたということが警察にもわかって、その親友の刑期も、半分になるはず」と説いたのである「おお~! いいことを教えてくれた」と南方系は感激している本当のところ、なんなら金額次第では、私がやってあげてもいいが・・・あっ!それはまずい私はまだ、きれいな身体なのだしかしその男がとつじょ私に「兄ちゃん、生活保護を受けているんだろう?」と私に聞くオイオイ!私は確かに今はジーンズのシャツに、半ズボンという気楽な風体だが、これは暑い気候の時に、しかも庶民的なあの中華料理店で食するための専用の服装?で、そもそも今夜はバーに来るなどという予定はなかったんだそれにいくらなんでも、生活保護を受けている人間・・・とまでは見えないはずだと思うのは私だけか?それにしても、いきなり 「生活保護を受けているだろう」と言うこの男もすごいっ!くやしいから、この次はアクアスキュータムのダークスーツにピンクのシャツ、サーモンピンクのネクタイというドレッシーな服装で決めて、「生活保護男」の汚名をそそごう・・・などと思ったりするただし、この店のママさん、小柄な、とても気のよさそうな、オークシャーテリア顔のママさんは、私のことを「上品で男前だわ」と言ってくれるのである商売とはいえ、なかなか見る目のある女性なのである (笑)カラシニコフ男の「生活保護だろ!」とは、正反対の評価である そのうちにその男は、ママに「この男はいいやつだ 私が話しかけても眉をしかめなかった」と、妙なほめかたをしているそ~すると~、この男があんな場所で人に話しかけると、いつもは、眉をしかめられているのかな?そう言えば私は、やくざ方面の人から飲み屋で話しかけられて仲良くなったりすることがあるその一週間ほど前だが、ある寿司屋でみるからに怖そうな男たちが集団で入ってきて、私の隣に座って、その中のいかにもボス風の厳つい顔をした男と私は話すことになったその男が意外に気のいい男だな~と思った私とその男との間で話がはずみ、私は酔った勢いで、彼の背中を何度もバンバン叩いてしまった私としては親しみのジェスチャーのつもりなのだが、その私のバンバン!を、隣の隣に座っていた次席格?の男が、引きつったような、怒りを寸前で抑えたような表情でじっと私をにらんでいたが・・・、これは今思い出したのであって、今考えれば、もう少し、あのバンバンを続けていたら、恐らくただでは済まなかったと思う物事には慎重になりたいものであるいや、酒を飲みすぎなければいいのだ・・・そのうちに、この店に女性達が何人もドヤドヤと入ってきたホステスではなくて、みな、お客だというたしかにホステスというご面相では無いみなでカラオケ合戦を始める中には、今度自民党から参議院選に出る、女子プロレスの神取忍そっくりの女性もいて、ドスのきいた声で歌っているさらにドヤドヤ・・・女性陣がさらに充実するみ~んな、中年女性であるおばちゃんであるおばちゃんパワーの爆発であるう~~ん私は今まで、東京で住んでいて、商社に勤務していて、夜は「社用族」という卑しい種族に変身して、銀座のクラブやバー、それに赤坂の外人ホステス・クラブなどという、ある種、典型的な場所で飲んできた人間であるだから、こういう地場の、素人の、おばちゃん達の、自前の、独特の遊興の世界にワープしてしまうと、その豪快な盛り上がりの雰囲気のまっただ中で、ただただ小さくなるばかりであるおまけに私はカラオケは一曲も歌えない(注 この時はまだカラオケは歌えなかったのだ)そのうちに、常連らしい男性客も入ってきた店が一杯になるとゲームが始まって、全員でジャンケンをして、勝った人間が店からウイスキーのボトル一本をプレゼントされるというのだ私も断るわけにも行かず仕方なく参加したのだが、途中で、なんでそうなのかは説明できないのだが、負ける気がしなくなったのだ相手の出すグ~とか、チョキとか、パ~とかが、だいたい分かるのであるその前に出した手との関連で分かるのである少なくとも負けはしない勝つ確信が無い場合は、少なくとも負けはない手を出しておく例えば相手がグ~を出しそうだという予感があったら、決して負けるチョキは出さないパ~か、グ~を出しておくのであるそれで勝てば良し悪くても引き分けにしておいて、次には勝つのであるそんな状況が続いて、ついに私が優勝してしまった獲得したボトルは「みなさんで飲んでください」と言うことにして、「また必ず来るから」と約束をして、やっとそのバーを何とか脱出したが、まあ、そういうわけで昨夜は日記を書く時間が無かった
2009.02.11
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神田川 私の大学時代 【復刻日記】「神田川」という懐メロの曲があるあれを聞くと、私は私の学生時代を想い出す私が大学に入学して上京した直後は、東京の雰囲気に少し違和感を感じていた関東平野の関東ロームは黒い腐植土であって、私はこれにびっくりした私の実家は大阪で、その大阪でも神戸や宝塚に近い地域で、そこには六甲山地があって、その六甲山地は花崗岩の山で、平地の土地の色も、明るく白っぽい対照的なのであるそれに山手線の車両も当時は暗い色だったさらに、東京の人の表情がなんとなく暗いのであるそれに言葉もよそよそしくて、冷たく感じたよく言えば、キリッとしているのだがその後、私は大学から最近までずっと東京で暮らしたから、今やその東京に慣れてしまって何とも感じなくなったが、入学当初は、こんな気分で居たのであるそれに昔の東京の食べ物の味が濃いのにもおどろいたこれも、今はそれほどとは感じない東京の味が、当時よりさらに各地方の、全国の影響を受けて中立的になったのだと思うともかく、その当時は東北的な塩辛い濃い味付けが印象的であった大学受験の時には、大学が紹介してくれた早稲田近辺の一般の家に、その期間だけ短期下宿のような形で数日、泊まったその家は、家の柱など古くて真っ黒で、古びた感じがした家だけではなく、住んでいる人々も古びた感じがした大げさに言えば、まるで樋口一葉の世界である昔の東京の下町の風情であるあの当時の早稲田界隈には、そんな一角があったのであるその家にはなぜか、男性はいなくて、女性二人である二人とも着物姿であった女主人は年老いた女性である若い方の女性は、若いと言っても中年だが、多分娘さんであるその女性がなかなか影のある美人だった見るからに病弱そうで、多分結核だったのだと思うが、時折、咳込んでいた色が青白くて、ほつれ毛が顔にハラリと垂れている薄暗い部屋の中で、いつもうつむいて針仕事をしていた樋口一葉がそこにいるような雰囲気である今の私なら、財力に任せて?、面倒を見てあげたくなるような女性であるしかし、その当時は、まだ大学に合格もしていないのだから、財力ゼロである (笑) 食事は、この家で店屋物の親子丼ぶりなどを取ってくれたこの店屋物の親子丼の味がまた、大阪の薄味に慣れた私にはおどろくほど濃かった今は、東京と大阪を行き来しても、両者の味にそれほど違いは感じないが、当時の東京の味が今よりずっと濃かったのは確かだと思うそれから学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした関西のうどん汁は、昆布出汁で色はほとんど付いていなかったのに、その当時の東京のうどん汁は、たまり醤油を使っていたのか?真っ黒だった箸でちょっとかきあげると、生卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた味も濃いだけで、味がなかった讃岐うどん全盛の今の東京では、こういう古典的・伝統的なうどんを見かける事が無いが、彼等、古典的東京うどんは健在なのだろうか? (笑) 彼等が今でもどこか片隅に静かに身を潜めているにしても、この頃の全盛の関西風・讃岐風のうどん汁の味の変化ぶりに拗ねてしまって、、もっと濃い味になっているのではないかと心配である (笑) ―――― ◇ ――――上京した学生は、外食するか? 自炊するしかない賄い付きの下宿という古典的な形式もあるにはあったが、それが一般的ではない時代になっていた外食にしても自炊にしても、当時はどちらも、侘びしく孤独で恥の多い作業であった昼食などは大学構内の学生食堂や生協の食堂で級友たちと食べるそれはだれでも、みんなそうだから別にわびしくも孤独でもない恥でもないしかし、夕食ともなればそうはゆかないまた大学を離れると、どこかで食べなければいけない自宅通学生のように、自宅に帰れば食事が待っているという状況ではない外食も、蕎麦やうどんでは腹が持たないカレーライスばかりも飽きるだから家庭の味に近い一膳飯屋に行ってみた今は「一膳飯屋」などという呼び方はしないだろう定食屋などという呼び方になっている和風レストランも呼ばれるしかし、この当時は、一膳飯屋という呼び方だった高校時代はもちろんひとりで外食などしなかったたまに父親が社用に使うレストランに一家揃って行くということはあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない当時の一膳飯屋は、貧相なものだった今までひとりで外食したこともない私にとって、当時の労働者階級専用という雰囲気の一膳飯屋の、汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った暖簾の前を二・三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる矛盾するようだが一人の場合はまだいいだれか友人・知人と一緒に歩いていて、分かれる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を無視して、裏切りながら通り過ぎることになる心なしか、店の中からおばさんがこちらを軽蔑した目つきで見ているような気がするなんとかその「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに一膳飯屋に入る食べ終わったら、また暖簾をサッとくぐって町に紛れ込み、なにごともなかったという表情で町を歩くアパートに着く前に一般住宅の前を通ると、その家々の内部には幸せの黄色い電灯が輝いている彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに、家族同士でさんざめきながら、豪華な家庭の食事をいただいているのである本当にこの世の中には神も仏もないものだと思ったこんな高貴な孤独に耐えている当時の私の胸に響くある歌があったミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である ~~~~~~~~♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(途中省略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ~~~~~~~~本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に食卓を囲むという、幸せの極致が約束された後ろ姿ばかりである彼等の幸せな家庭に乱入してやりたい気持ちにさえなったものである ーーーー ◇ ーーーー外食の他の選択肢として、アパートで自炊というものがある一膳飯屋での苦行と較べて、どちらがわびしいかは数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだアパートの自室という閉ざされた、隠れた空間であるから、恥が外部に漏れることはないそれにアパートの住人同士で共同炊事をすると楽しい当時の学生の持っている文明の利器と言えば、今から見ればおどろくほど貧弱なものしかなかった当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 卓上蛍光灯スタンド○ 暖房用の電気コタツ または 石油ストーブ○ 炊事用の電気コンロなんともシンプル極まる生活である ―――― ◇ ――――学生は料理の仕方なんて知らないから、自炊も肉野菜炒めが定番となる肉野菜炒めと行っても、肉は高いからその代わりに、大洋漁業の魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する事が多かった飲み物として、暑い夏などはジュースを飲む「渡辺のジュースの素」という謎の粉末があって、これは毒々しいオレンジ色で、これを水に溶かして飲むと、味もやはり毒々しいしかし水を飲むよりは甘みもあり、少し満足感があったその他に、配達の牛乳の大瓶を、やはり配達された新聞を読みながら毎朝飲んだ ―――― ◇ ――――アパートの住人同士が親しい関係なら、自炊も共同ですることがあるそれに、どうせほとんどの住民が同じ大学の学生だし、金もないので夜はすることも無いだから退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベる事になる一度、北海道の小樽出身の二人と、もう一人は水戸出身という仲間と鍋料理を作ったことがあったおどろいたのはその味の塩辛さである考えてみれば、私以外は北海道と東北という出身が影響していたのだ親しくなりすぎて、イタズラをしたことがあるある時、非常に真面目な男のパンツを強制的に脱がしたことがあるその男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったある時、ふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした彼の裸の下半身はある理由で(主にサイズの問題だったと思うが)トップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した手元の木刀で私を本気で殴った彼とちがって運動神経の固まりとも言える私?は、サッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされてしまった ―――― ◇ ――――当時、学生用のアパートは、共同のトイレと簡単な台所だけだったもちろん風呂なんて無いだから近くの銭湯に通うアパートの友人達と一緒に風呂屋に出かけるのも楽しい♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿「神田川」の有名な歌詞である当時は「同棲時代」という人気漫画があって、若い男女の同棲がブームのようになっていただが、私たちにはそのようなブームには縁もなく、男同士で風呂屋に通った私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生は待っていなかったいや、ひとり、けしからんやつがいた私の高校からの親友で一緒に同じ大学に進学した男であるその男、入学して半年すると、もうガールフレンドが出来た同じ大学のバトミントン部で知り合ったというこの男は女の姉妹がいないくて男の中で育っているから、女性に対する好奇心が凶器のように肥大しているしかし無骨な男だから、絶対にモテないだろう、と・・・油断していた私が悪かったその女の子はとても小柄だがとても可愛いのである愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気が、とても醜いおまけに大学近くのアパートで半同棲という大罪を犯しているのだ ―――― ◇ ――――こ~ゆ~不健全で間違ったことをしているカップルには、断じて意見をしなくてはいけないいや、別れさせなければいけないこ~ゆ~義憤に駆られて、ある夜、志を同じくする級友と共に彼のアパートを急襲した大学の裏手の神田川沿いの道の行き止まりにある木造アパート、その二階に彼の部屋があった入ってみると、やはり彼女がそこにいた可愛い女性と身近に接するという、いつもにない異常事態になってみると、女性に慣れていない私の義憤は、一瞬で霧散してしまったそればかりか、彼女から「彼女の級友に可愛い女性はいないのか?」と言う機密情報を聞き出そうという「偵察モード」に入ってしまった私はその時はじめて、私自身に臨機応変という才能が備わっているということを知った偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な夏の闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた
2009.01.11
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昔の赤坂・六本木の想い出【復刻日記】このところ本当の更新ができないでいる今日も【復刻日記】である □□□□□□□□私の若い頃の話である赤坂に外国人女性だけがいるナイトクラブが二・三軒あった今では外国人ホステスなど珍しくもないが、当時は外国人ホステスなど本当にめずらしい時代だったそれにホステスと言っても、学生などの旅行者が小遣い稼ぎにアルバイトをして、次の国への旅費を貯めるというパターンがほとんどだった今のように東南アジア・旧ソ連圏・中南米などから職業的なホステスが来ている時代とはちがうそんな背景を理解いただきたいそんな大昔のある時、赤坂の外国人ナイトクラブで、ある若いフランス女性と知り合った。フランス女性は、私が非常にセクシーだと思って尊敬申し上げている人たちであるその彼女と初対面の会話で、彼女がフランス人だと知って、私はその頃国際的なベストセラーになっていた「ピーターの法則」という本を話題にした。~~~~~ちなみに彼女は、背が高くてやややせ形、繊細な容貌で、ブロンドの長い髪(これまで私が日記に書いてきた女性は、みんなブロンドだが、これは偶然で、私はブルネット(黒に近い、栗色の髪の毛)の女性も大好きで、むしろブルネットの方が好きかも知れない。マリリン・モンローの映画で「紳士は金髪がお好き」という映画があるが、まあ、一般に西欧の男性は、アメリカもそうかな?ブロンド女性が好きみたいだ。私はブロンド・ブルネット、両方ともいける。古代ギリシャでは、金髪が好もしい髪の毛の色とされていて、あの地中海沿岸では金髪率が低いにもかかわらず、女性はみながゲルマニア(今のドイツ)から輸入された石鹸(つまりアルカリ)で髪をブリーチして金髪にしたという。ミロのビーナスもブロンドなのかな?私の好きなニケ像は首がないが、ブロンドでしょ?ちなみにやはり、金髪率は緯度的に北に行くほど多くなる。同じ英国でも、南部イングランドと北のスコットランドでは大きく金髪度がちがう。ケルト民族は今はブルネットが多いが、ローマ帝国の歴史書によると「金髪の野蛮人」だったとか。その後にもっと金髪のゲルマン民族がフン族の侵入にトロコテン的に押し出されてローマ帝国を脅かして欧州を試合したのだが。~~~~~まあ、そういう話はどうでもいいんであって、私は「ブルネットの猫でも、ブロンドの猫でも(ちがうかな? 黒い猫でも白い猫でも・・・だったね)、ネズミを捕る猫はみんないい猫である」と言った「とう小平」は、それなりに尊敬している。なお、「とう小平」の「とう」と言う字は機種依存文字なので、ここでは、変換できない。「ピーターの法則」というのは、当時世界的なベストセラーになったフランス人学者の書いた本で、「人は、有能な間は昇進を続けるが、昇進して新しい職位の仕事の質が変化した時点で無能になり、昇進がとまる。その結果、階層社会の上部は、無能な人であふれるという法則」。私自身をかんがみても、残念ながら思い当たるところのある、恐ろしくもシニカルな社会的理論である。彼女がフランス人と言うことで、私がこの本をちょっと話題にするやいなや、彼女は極めて饒舌にこの本への評価を学問的に知的に語りはじめて、それほど深く読んでいない私は、(精読してもそれほどわからないのだが)ただただ、「はいはい」と頭を下げて拝聴するだけとなって、やがて彼女がフランスのあの有名なソルボンヌ(パリ大学)の現役学生で「いらっしゃって」、現在は世界漫遊の旅に出て「いらっしゃる」のだ・・・と言うことを知ることになる。当時の赤坂のナイトクラブの女性はこういう女性がいたのだ。彼女は私に、彼女の自宅の電話番号をくれて、数日後、六本木で待ち合わせた。時間的に言うと、ナイトクラブがそろそろ始まる夕方頃だが、彼女は「今日は休む」という。どこかで彼女と飲もうと思って、その当時、よく通っていた外国人の女性が経営者であるバーに入った。まだ、時間的にお客は一人もいない。席に着くなり、彼女はいきなり私に抱きついてきて、キスをし始めた。それだけでも驚いたが、ずっとキスを続けるのだ。セーヌ河畔のアベックみたなのだ。飲み物を飲むひまもない。私はキスには応じなければいけないし、ママには気を使わなければいけないし、うれしいが、やはり恥ずかしい、・・・ということで、(男は冷静だな~)、とまどったが、なにしろフランス人だからフレンチ・キスで、おいしくて?止めるわけにも行かない。でもこれがフランス流かな?と納得しながらキスを続けた。結局、やはり、まもなく、怒った? ママに二人は体よく追い出されてしまった。やはり、バーでフレンチ・キスはだめかな~?しかし、情熱の国スペインとはよく言うが、知性・芸術の国のソルボンヌの学生も、情熱的で衝動的だと言うことが、よくわかった。その後、どこで飲み直したか?食事をしたか?はよく覚えていない。昔のことだから中抜きの記憶なのだ。飲んだのは多分、キャンティだったろうと思う。食べたのはイタリア・マフィアのおじさんのニコラスだったろうと思う。タクシーで彼女を送っていって、別れのキスをしたら、彼女が、「私は、あなたと make love をしなければいけないわ」と涙声で言った。これが、涙ながらに話す文句かな~?さすがは、セックスが食事と同じ、フランス人だ。また、デートをして、こんどは彼女の下宿に泊まった。下宿と言っても、一軒家の一階部分を彼女が使っていて、家主さんは二階に住むという妙なシステムだった。入り口も別になっている。朝、気がついたら二階でフランス語が聞こえる。彼女が家主さんにフランス語を教えているのだった。フランス語を教え終えた彼女が下りてきて、私にキスをしてから、当然のように裸になった。私はそれをどう呼ぶのか?名前を知らないけれど、ウェストに金の鎖をベルトのようにしていて、これが首ならネックレス、手首だったらブレスレットなんだけれど。知っている女性は教えて欲しい。クラナッハの裸婦像のように、ホッソリした彼女の滑らかで白い肌に輝く金のチェーンには妖しい?感動を覚えた。彼女はその家にカギをかけていなかったので、私は彼女が働いている時には、会社帰りに彼女の家に上がり込んで彼女を待っていることもあった。ちょっときつめで、ちょっとわがままなお嬢さんだったが(とりあえず「ちょっと」をつけておこう)、他にガールフレンドもいないことだし、一人で帰宅するのも寂しいし、彼女にも優しい部分はあるし、私をとても好きそうだし、それに、やはり、独り身の男にとって、二人でいるとただ楽しい。ある日(昼間)、私がビジネス上の用事で或る会社を訪問して、地下鉄でオフィスに帰る途上、階段を登っていると、偶然、彼女が、階段の上から下りてくるのに出くわした。彼女は私を認めると、急に表情を変えて赤くなってうつむいて黙って脇を通り過ぎた。誇り高い、わがままなフランスの女性にも、こういう、恥ずかしがる反面もあるのかな?と意外だった。ある夜、私が彼女と眠っていたら、電話がかかってきた。彼女は長い間フランス語でしゃべっていたが、電話を切ってから少し泣いている。事情を聞くと、彼女のお父さんからだ。彼女の家は、確かパリのセーヌ河の中州であるシテ島にあるとのことで、写真を見せてもらったが豪邸である。おまけにローロス・ロイスとか高級車が二・三台写っている。お父さんの車だという。ヒエ~~! すごい。それに、彼女は、自分一人でフラットで住んでいて、イタリア車の名車、アルファ・ロメオ・ジュリエッタに乗っているという。ヒエ~~!そのアルファ・ロメオのガレージだか駐車場だかの料金を払え、とお父さんが言ってきたというのだが、東京にいて払えるはずが無いじゃないか。冷たいね。(当時は国際間の送金がまだちょっとややこしかった)それに、あんなに長い国際電話の料金の方が、ガレージの料金より高いだろうが!・・・と、私が怒ってもしかたがない。この父と娘の間には、暗くて深い溝があるようだ。個人主義のフランスだな~。ある朝、彼女から電話がかかってきて、至急来てくれと言う。行ってみると、首がむち打ち症になったという。あるイタリア人の男性に殴られたのだという。彼女はその男性が好きで、フランスから日本にまで追いかけてきたのだという。な~~んだ。ちょっとがっかり。それに、それじゃ、この私はどういう存在?病院に連れて行って、コルセットをしてもらった。彼女の首は常人より長め。モリジアーニの女性みたいだ。長めの首は、美人には見えるのだが、実生活面ではこういうふうに支障がでる場合があるようだ。猪首の女性は幸運ですよ。しばらくして、何かが原因で私達は、いさかいをした。彼女はフランス人特有のエゴイストで、それに感情的で激しい性格だから(女性はみんなそうかな?)、おとなしい?私も、ムカッとしたのだと思う。思わず、平手で彼女の頬を叩いた。叩いたとほんの軽くだけれど。それでも女系家族で育った私のはじめての行為だった。私が女性に手を上げたことなど無い。もちろん、現在、私は深く恥じて後悔しているけれど、その時は、私の手が、勝手に動いただけなのだ。(インド人みたいなことを言っているな、私は・・・)その時の私の潜在意識に、例のイタリア人男性がハッキリ存在していて、彼が彼女を叩いたと言うことは、彼は暴力的なマッチョの性格で、その彼に強くひかれている彼女は、マゾの要素が、少なくとも彼にはあるのだろう・・・という勝手な考え・嫉妬心が一瞬閃いたのだ。彼の真似をしたら、彼女は私を本当に愛するようになるだろう・・・と。愚かだけれど、瞬間の事で、理性ははたらかなかった。しかし、彼女は当然怒って、私達の仲は終わってしまった。その後、ある夜、そのナイトクラブに行った。彼女ではまずい、と思ったので、他の女性を呼んでもらったら、彼女が勝手に私の席に来て座った。そこで私達は何もなかったように会話を交わしていたのだけれど、私は心持ち、もう一人の女性の方と多く会話を交わしていたと思う。すると、とつぜん彼女が私の手を取って、人目もはばからずに、彼女の柔らかな乳房に押しつけた。私は、これで、彼女は私に帰ってくれると思ったのだが、この後会った時、彼女は私をまだ許さないと言った。私は、それ以上はあきらめた。一度、夜中に彼女の家の前までタクシーで行ったことがあったが、結局そのまま帰った。あの胸に私の手を押しつけるという行為はなんだったのだろう。私への独占欲だったのだろうか?それとも、あきらめかけていた私に、もう一度彼女への執着を燃え上がらせておいて、冷たく断るという、手の込んだ残酷なことを考えていたのだろうか?その後まもなく、私は海外出張をしたし、お嬢さんも日本にはいなくなった。こういう風に、私は出張だらけだったから、落ち着いて、「美しい愛」をはぐくむ環境にいなかった。かえすがえすも、残念に思う。
2008.09.21
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【隣組の歌】岡本一平作詞・飯田信夫作曲♪ とんとん とんからりと 隣組 格子(こうし)を開ければ 顔なじみ廻して頂戴(ちょうだい) 回覧板 知らせられたり 知らせたり♪とんとん とんからりと 隣組 あれこれ面倒 味噌醤油 御飯の炊き方 垣根越し 教えられたり 教えたり♪とんとん とんからりと 隣組 地震やかみなり 火事どろぼう 互いに役立つ 用心棒 助けられたり 助けたり♪とんとん とんからりと 隣組 何軒あろうと 一所帯(ひとしょたい) こころは一つの 屋根の月 まとめられたり まとめたり隣組(となりぐみ)とは1940年(昭和15)に全国的に設置された、町内会の下部組織『ウィキペディア(Wikipedia)』近世以来の日本社会に伝統的な五人組・十人組制度をうけついで編成されたもので、太平洋戦争がはじまると国民総動員体制をになう末端組織となった。同年内務省が発表した「部落会町内会等整備要領」により、はじめ隣保班として結成され、約10戸を1単位とし、相互の融和と援助を強調、常会をひらくこと、情報や指示をつたえる回覧板をまわすことが義務づけられた。隣組は防空・防火・防諜、生活物資の配給や労働力の供給などの基本単位となったため、暗黙の相互監視・連帯責任の強制力がはたらき、国民は生活のすみずみまで大政翼賛会の指導する国家の統制下におかれることになった。1947年、GHQのポツダム政令によって廃止され国家統制とは切りはなされたが、戦後社会でもなお、地域の有力な構成原理として生きつづけている。 ―――― ◇ ――――終戦後もしばらくは、ラジオから【隣組の歌】が流れていたとても明るい歌である懐かしい~上記の説明にあるように基本的には戦時中の組織であったが、終戦後もしばらくは存在し機能していたその隣組のツールとして【回覧板】があったバインダーの形で、隣組の伝言情報などが示してあるリリリンと門の戸が開いて「回覧板で~す」という近所のおばさんの声がする昔は「ご近所」というプチ・コミュニティーがあったのである多少は仲がよかったり悪かったりしても、まあ仲良く近所づきあいをしていたのであるいとお母さん達は買い物から帰ってきたところで出会ったとなりの奥さんと買い物かごを持ったまま長い間立ち話子供は隣に家に遊びに行っておやつをもらうどこかに必ずあった空き地で鬼ごっこなどをする夕食時になると「○○ちゃ~ん」とお母さんが声をかけて、ひとりひとり消えて行く家庭の半相互乗り入れ状態であるまたそれがあたりまえだった多少うるさい人でもご近所としてつきあうという知恵・技量がその当時の日本人にはあったのであるそれに祖父母・父母・子供と三世代が一軒の家に住んでいた「おじいちゃん」「おばあちゃん」が普通に家庭にいたのである核家族の今、もうこういう風景はないマンションでも「となりは何をする人ぞ」であって、となりのドアの中にだれが住んでいるのかもわからないのである
2008.08.26
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全然時間がないので、また【復刻日記】である □□□□□□□□お聖さんの本に、こんな一節がある。----------------【大阪の日本橋は電気屋さんの多い通りだけれど、夜、プーラプーラと歩いていると、浮浪者が意外に多かった。電気屋さんが多いところは、段ボール箱なんかもたくさんある。寝袋ならぬ寝箱をぐあいよくつくってノーンビリと軒端に横たわっている。---------------- 思い出したことがある。商社の新入社員だった頃は、受渡部という部署に配属された。ここは営業経理部と船積部を兼ねた部で、新入社員は営業に回される前に、ここで基礎をたたき込まれる。・・・なんて、きれい事で、実際は使いベリしない若者を奴隷のようにこき使う部署である。特に船積み担当は大変だ。昔は東南アジアへの輸出には、その国の在日大使館の領事査証が必要だった。これは船が出港する前の通関の必要書類だ。これを急いで作成して、領事館に提出して、数日して受け取り、それを出向前の通関手続きに持ち込む。これが間に合わなかったら、船は出ない、煙も出ない。一日何百万円という(当時の金で)滞船料が発生する。新入社員としては、死んでおわびをするほか無い。(気持ちだけは)この査証に必要なINVOICEとPACKING LISTをタイプするのが大変な作業なのだ。これはプラント輸出の特殊事情と言える。プラントとは工場設備だから、これらの書類もとてつもなく大部のものになる。厚さ1センチにもなる大部のINVOICE/PACKING LISTを数部、作成しなければならない。タイプミスがあると練りゴムで消してまたタイプする。涙で文字が・・・、それほどではないが。しかし、このINVOICE/PACKING LISTが船荷のメーカーから、我々商社の船積み部に届くのが本当にギリギリの時間なのだ。二日間徹夜・・・なんて事もあった。毎日、11時に退社なんてザラで、9時に退社するときは、特別に理由を考えて「申しわけありませんが、お先に」と言って退社したものだ。だから、海外勤務になるまで、女の子とデートなんて余裕は無かった。大学でもデートは二回しかしたことのないオクテだったから、余計、縁遠いことになってしまった。だから、無事書類をあげた後は、バンザ~イとばかりに、夜の街に飲みに出かけた。新入社員の頃は、先輩や課長に連れて行ってもらわない限り銀座のクラブには行けなかったから、同期とは大学の頃の土地勘のある新宿で飲んだ。私の同期の親友は東大出だったけれど、バンカラ大学出身の私と気があって、いつもつるんで新宿でよく飲んだ。ある夜、そんなバンザイ状況で飲んだものだから、酔っぱらってしまった。歌舞伎町を歩いていると、女の子が地面に座っている。その頃、覚醒剤の使用が問題になっていた頃なので、この女の子も覚醒剤使用者か?と思った。何を思ったか(自分で言うか?)、私はその女の子に「ヤクをあげるから、私に付いてこない?」と声をかけた。もちろん、ヤクなんか持ってるはずはないのだが、何しろ酔っぱらっているのと、何しろ女の子が欲しい!という切実な本能でそう声をかけたのだ。酒とは恐ろしいものである(ひとごとか?)。「行くよ~」と女の子が応じてきた。やはり、私の鋭い観察眼はくもっていなかったのである。「じゃ、行こうか!」と、女の子と歩き出そうという時に、中年の女性に止められた。「あんた達なんて事をするのよ!」その女の子の手をひったくるようにして、その中年女性は消えていった。女の子の保護者なんだろうか?よくわからないが、とにかく、せっかくの獲物をさらわれたという冷酷な事実だけが、孤独な私たちに突きつけられたのであった。もっともヤクはもっていないのだから、例えあのままでも、なにも起こらなかったはずだが。しばらくブラブラしていて、都電も無くなった頃、一休みと、一軒の喫茶店に入った。大きくてはなやかな喫茶店だなと思った。気がつくと、数人の美女に囲まれていた。声をかけられる。その前と逆の状況だ。ヤクは持っているのかな?しばらくして、鷹の様な観察眼とミュージシャンの耳を持つ私はピ~ンと来た。【彼女たち】は、【彼たち】なのだ!足がゴツゴツしている。のど仏が出ている。声が野太い。いろいろあって、東大出はその中の一人に惚れられて、二人で消えていった。無念である。もう、独身寮に帰るにはタクシーに乗らなければいけない。しかし、独身寮は遠いところにあるから、高い。伊勢丹デパートの前を歩いていたら、段ボールをベッドに寝ている浮浪者がいた。その辺にも段ボールがあったから、私もベッドを作って寝た。カツカツ!!という音で目が覚めた。朝の通勤者たちが私の頭の近くを通る靴音だった。特にOLのハイヒールがやかましい。この音は実にうるさい。睡眠を妨げられながらも、なんとか、もうひと寝入りしてから会社に出勤した。「お 珍しく早いな!」事情を知らない課長が、遅刻常習者の私をほめる。東大出が、つかれた顔をして出社してきた。「彼女(?)のアパートを、出ようとすると泣かれちゃってさ~・・・」私も次回は試してみようか?と思った。
2008.01.14
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ついでに、「新春」って、新暦の正月は真冬である。祭りごとは、旧暦でやれ! というのが私の主張である。季節感がちがうではないか?しかし、実際には、そうも行かないか?ただ、中国人や韓国人と同じように、旧正月だけはやりたい。今の正月もそのまま有効にするのである。正月が二度・・・もいいではないか?私の好きなおせち料理が二度食べられる。~~~~~~~~~私はおせち料理が大好きである。ヴァラエティーがあって、みんなおいしい!やはり、イクラ・数の子に箸が伸びがちだが焼き豚やロースハムといったお肉系もいいおにしめの野菜類もコントラストがつくのか?いつもより美味しいこれ以上私単独ではイメージが膨らませられないので、あるサイトからおせちのメニューの一例をコピーさせてもらう一の重 栗あん栗きんとん、田作、ままかり相生巻、紅かまぼこ、白かまぼこ、梅かざり、柿鳴門、紅鮭小川巻、青梅甘露煮、料亭松風、味付数の子、チョロギ、金柑甘露煮、海老さより手綱巻、紅鮭昆布巻、和三盆糖入丹波黒豆、あわび旨煮、前菜焼栗ニの重 合鴨スモークスライス、伊達巻、えび陣笠、鯛彩巻、海老新丈、花ちらしれんこん、龍皮巻、ゆず玉子、さわら西京焼、金時生姜、紅白たづな、華蓮、天豆寿司、子持鮎甘露煮、いか松笠、ぶり照焼、のし柿、梅生姜 三の重 海老芋煮、しいたけ煮、たけのこ煮、れんこん湯葉巻、れんこん煮、たたき牛蒡、青ふき煮、ねじり梅人参煮、松笠くわい煮、豊年もち、穴子八幡巻、青桃甘露煮、味付海老、小柱明太、味付いくら~~~~~~~~~正月が過ぎても、おせち料理を食べたくなる。どこかの店で、年中、おせち料理を売っていれば結構、売れると思う。なんといっても、おせち料理は日本料理の神髄であるし、日持ちもするし・・・。今年は、手違いもあったのだが、おせちのお重を三つも買い込んでしまった。来年はもっと買うぞ!と、恐ろしい?ことも目論んでいる。もっとも今年は、越乃寒梅を買わなかった。生活習慣病が心配で、おせちだけでもカロリーがあるのに、好きな酒を好きなだけ飲んでは大変である。私としては珍しく思いとどまって、おせちについてきた金箔入りの小瓶でがまんした。~~~~~~~~~昔は祖父母がつくってくれたおせち料理だが、近年はデパートの外商を通じて、名のある料亭のおせちを注文している。昨年話題になった吉兆のおせちも一度買ったが、値段が他の料亭・ホテルのものより五割方高い。まあ、それなりに美味しかったけれど。今年は、敢えて吉兆のおせちを買ってみようかと思った。ああいうトラブルがあったのだから、特別のおまけがつくか?と思ったのだが。(笑)今年は、時間が無くて、注文が遅れて期限を過ぎてしまった。仕方がないので、近所のスーパーで注文した。出来上がりを食べてみると、実質的で、コストパーフォーマンスが高い。つまり値段の割にお得なのである。厨房を持っているローカルなスーパーだから、自前の材料を生かして作るから割安になるのだ。来年もこのスーパーのものを注文しよう。その他にも・・・。~~~~~~~~~ところで<昭和の語り部><昭和の女稗田阿礼>朱鷺子さんが「おせち料理」というタイトルで二日連続書いている。http://plaza.rakuten.co.jp/tokiko6565/diary/200801020000/http://plaza.rakuten.co.jp/tokiko6565/diary/200801010000/読んでおどろいたのは、この人はおせち料理が「だいきらいだった」というのである!もう一度言うが!私はおせち料理が大好きである。おせち料理は日本料理の神髄であると思っている。こういう<おせち料理がだいきらい>などという非国民の女性に日本国籍を与えておいてもいいのかっ!! と思うほどである。まあ居住に不便だろうから、とりあえず国籍は許すが、毎日反省して欲しい。~~~~~~~~~昔の元旦は、神が来る日で、近所からも物音ひとつしなかった。本当に特別の日だったのである。全てものもが、前の年とはちがって見えた。正月二日から、そろそろ年賀の客が訪問してきたり、外ではたこ揚げやはねつきに興じる子どもの声が聞こえ始める。昔の正月と言えば、祖父母の家に行くのが楽しみだった。妹たちは着物に必ず白いウサギのえりまき、それに鈴のついてぽっこりを履いて行った。祖母の作ったおせち料理が一杯待っているし、お屠蘇も飲めるし、赤玉ポートワインも飲めるし、生ワインという実に酸っぱい白ワインも飲める。それに、祖母の読んでいた「オール読物」という文芸春秋社発行の小説の雑誌を読むのも楽しみだった。百人一首や花札で遊ぶのも楽しみだった。昭和は遠くになりにけり である。
2008.01.04
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今日はちょっと忙しそうなので、早めに、また(笑)【復刻日記】を。二三年前に、温泉が入浴剤を使用していて、100%の、掛け流しでないとして、メディアの集中砲火を受けた。ただ、純粋に治療目的での長期間の湯治なら、少し事情はちがうのかも知れないが、我々が温泉に出かける場合は、そのほとんどが一・二泊の「物見遊山」であって、治療目的ではないと思う。しかし、温泉と言っても、100%源泉からの掛け流しをするには、湯量が必要で、実際のは、その条件を満たすことはむずかしい温泉がほとんどらしい。火山と温泉の国である日本でも、それほどの湯量は、どこでもわき出るものではないらしい。もちろん、それでも、本物100%であるに越したことはないのだが、昨今のちょっと行き過ぎのような食品偽装(特に賞味期限・消費期限)に対するバッシングと同様のものを感じて、「実害は無い」という見地で、この日記を、当時、書いたのである。 □□□□□□□□■ 【復刻日記】 信州の白骨温泉の村営浴場で、白濁した源泉水が白濁しなくなったので、入浴剤を使用したと言うことで、「天下の一大事」になっているが、許してやって欲しい。~~~~~~~~~その入浴剤だって、ブランドの(笑)草津温泉のものを使用しているんだから、居ながらにして「白骨」と「草津」両温泉をワープしているようなものではないか?考えてみれば豪華な話だ。「そう言う話では無い!」って?すみません。~~~~~~~~~昔の話になるが、(私の話は99%昔話だ だから、HNもalex99・・・、これはウソだけれど)、大学時代に試験が済むと、一夜漬けの試験勉強の連チャンのために神経をすり減らした!私は、同病の友人達と、その日の夜汽車に、降車地のあても無く、乗車して、「プチ放浪」の旅に出た。~~~~~~~~~最後の科目の試験が終わった日の夜、新宿駅に行って中央線の夜行に乗ることが多かった。「行方定めぬ」旅と言うことで、とりあえずは高校の山岳部時代になじみの、松本あたりまで切符を買って夜行に乗り込む。確か、二十歳の誕生日も、こんな夜行列車の中で迎えたことを思い出す。夜行列車では、あるきっかけで前の座席に座っていた文学的な雰囲気の紳士と会話が弾んだ。また、その紳士は私と同じ大学出身、先輩と言うことがわかった。その紳士は確かご自分を「シナリオ・ライター」としてご紹介された記憶がある。先輩と後輩と言うことでより親しくなった私達に、その紳士「山之井慎さん」は名刺をくれて、「遊びにおいでよ」と誘って下さった。たしか、文化放送のスタジオに来いと言うことだったと思う。そのスタジオで、レギュラーとして、ラジオの録音か、生放送をなさっていたらしい。今、このお名前で検索してみると、シナリオライターではなく、旅のテーマの曲の作詞家ということしか出てこない。とすれば、あの時の夜行の旅は、作詩のアイディアを探す旅立ったのだろうか?~~~~~~~~~夜明け頃、茅野駅に着いて、駅の売店で名物の?信州蕎麦を食べた。私は関西人なので「うどん派」で、学生時代は学食でも、あまり蕎麦は食べた記憶は無かったのだが、さすが本場!腹も空いていたのだが、この蕎麦がうまかった。もっとも、その時の私の知識では、日本の蕎麦粉は80%以上アフリカから輸入されているということだった。今もそうか?は知らないが。テレビ番組などで、よく「手打ち蕎麦の名店」の紹介があって、そこへわざわざ東京あたりから遠路、車で駆けつける客が多らしい。中ではヘリコプターでと言う、奇人?貴人?もいるという。私としては、「本当に、そこまで蕎麦がうまいかっ!?」・・・とたずねたいところだが、思い直してみれば、そこまで「味がわかる」ということは、すごいこと、なのかも知れない。私は大阪出身だから、大学の生協食堂で初めて、私が「東京風うどん」なるものにお目にかかった時はビックリした。近ごろは讃岐うどんがブームらしいし、東京でもうどんは関西風が大半だが、昔は「東京風」があった。関西風はほぼ透明な汁だが、この東京風は外見上、表面上は真っ黒である。関西風のダシは昆布主体だと思うのだが、東京風は多分、そばつゆと似たダシなのだろうと思った。この真っ黒なうどん汁にショックを受けながら、ワリバシで恐る恐るすくってみると、白いうどんがニョロニョロッと浮かんでくる。外面ではうどんが見えないのだ。それほど汁が濃かった。この東京風も、いまでも、どこかで、やや恥ずかしげに生き抜いているかも知れない。消息をご存じの方は、ご一報頂きたいと思う。~~~~~~~~~茅野駅で蕎麦に感激した私達は、そこでの途中下車を決心した。蕎麦と途中下車との密接な関係についてはいまだに自分でも納得できていないが、、信州の早朝の冷気の中、長い間バスを待って、白樺湖に向かった。近ごろテレビなどで、白樺湖の沿岸の風景を見ると、ホテルやらコテッジなどがギッシリ林立のようだが、当時は二・三軒しか建っていなかった。ロマンティックな(はずの)白樺湖で、男同士、哀しくボートを漕いだ。それから、思い直して、想い出の上高地を目指した。上高地は、やはり日本離れした雰囲気がある。なんとなくカラッと乾燥した、ハイカラな、ヨーロッパ・アルプス風なのだ。高校時代は雄々しく「槍ヶ岳~穂高岳縦走」を果たした私だが、大学に進学しただけで、河童橋から前穂高岳を他人事のように見上げるだけで満足するという、怠惰の気質が、早くも芽生えていた。その後はよく覚えていないのだが、いろいろあって(?)、バスに乗って、秘境と言われていた白骨温泉に着いた。もちろん旅館の予約などしていない。プラス、学生だから懐具合が寒い。それに季節的にも高度的にも寒い。そのダブル寒さの中で、渓流沿いの旅館探しをした。といっても、旅館も数軒しかなかったと思う。その中で比較的私たちの経済的レベルに合致するのではないか?と思われる旅館に入り、宿泊料金を交渉した。確か、二人で三千円だったと思う。白濁?温泉にも入ったはずなのだが、肝心のこの辺の記憶がない。夜中に寝床の中に入っていると、暗闇の中、目の前の渓流の水音が高い。その時、私はかなり深刻なある悩みがあったのだが、その水音でますます物思いに耽って、なかなか寝付けなかった。白骨温泉というと、白濁温泉ではなくて、この布団の中で聞いた渓流の水音を思い出す。
2007.12.20
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私のネット旧友、朱鷺子さんが楽天に登場して、興味深い昔話を毎日展開している。【聞かせてあげる、私のお話200話だけ】私は、ここ楽天でブログを始める前に、ある映画BBSに投稿していた時期があり、その時の【先輩】である。先輩という意味は、つまり私が参加したときには、すでにそのBBSに棲みついていた古手(オリジナル会員)だったのである。私は、映画知識がそれほどあるわけではない。だから、書く内容も、昔話や社会的な話題、それに海外話題などでお茶をにごしていた。朱鷺子さんも、失礼ながら、それほど映画知識のかたまりというほどの人ではない(と思う)。ただ、私も朱鷺子さんもほぼ同年代である。私の方が若いが、キッパリ。(笑)その年代の人間にとって洋画というのは、趣味娯楽のトップに近いものだった。私もかなり洋画を見たし、それに、何でも【本からはいる】という私らしく、映画雑誌を愛読していた。だから、実際に映画館で見たことがない洋画でも、映画雑誌でそのストーリー、出演する俳優、そのシーンや男優・女優の写真などを熟読していたから、その当時、つまり私たちの青春時代の洋画は、ほぼ頭に入っていたのである。それに、洋画の、特にアメリカ映画の当時の風景は、私の育った環境に近いものだったのだが・・・、これは少し説明しないとわかってもらえないだろう。私が育った地域には、欧米風の芝生のある洋館が密集した毛色の変わった住宅地があった。そこは、敗戦後、すぐ進駐軍にそっくり接収(強制的な借り上げ)されて、将校達が家族ごと住みついた。アメリカ人の将校クラスの人間が住むに適当な住宅など、その当時あまりなかったから、彼等にとっては願ってもない格好の住宅街だったのである。その住宅地に入ると、まるでアメリカだった。小さいアメリカ租界と言ってもいいかも知れない。緑の芝生とプール白い柵白ペンキで塗りたくられた住宅カラフルなオープンカーを運転する金髪の女性マリリン・モンローのようなショートパンツの奥さん達空気銃で私たち日本の子どもを狙ってよろこぶアメリカ人の悪ガキこういうものを、古い50年代のアメリカ映画を観ると、想い出すのである。 ~~~~~~~~このように昔はもっぱらスマートでバタ臭い洋画ばかり見ていたのだが、このごろは、ちがってきている。数年前、小津安三郎の映画を観てから、邦画の魅力に目覚めた。邦画に限らず、昔の映画は、映画としての魅力以外に、タイムマシーンとしての機能があるのである。映画評論家の川本三郎氏が【邦画には懐かしい昔の日本の風景があふれている それに女優達の綺麗なこと】という風なことを書いていたが、まさしくそうなのである。昔の、ほこりっぽい、舗装されていないだだっ広い道そこには、きまって水たまりというものがあるそこには、たまに自動車が走るそこには、頼りない電信柱が突っ立っていて、電線がダランと張られているいかにも子どもという感じのする素朴な子ども達まだシャツは白いランニングシャツまだ和服を着ている婦人達まだ割烹着を着ているお母さん達まだソフト帽をかぶっている通勤の男達まだ浴衣にカンカン帽にステッキにゲタのおじさん折り目正しい、美しい日本語をしゃべるご婦人ちょっと威張っておみやげの菓子折をもって帰宅するお父さんあらゆるものがあった駄菓子屋秋祭りで鎮守の森で買った紙の火薬付きのピストル家具がほとんど無い、清楚な日本家屋どの家にもついていた小さな庭遊んでいると【ご飯だよ~】とお母さん達が子どもを呼ぶ夕焼けその頃には、どこにでも【野原】【広っぱ】というものがあって決まって、コンクリート製の大きな土管が積み上げられていた大晦日には、もうすぐ特別な新年が来ると思っていた大晦日や晦日にはペッタンペッタンと言う餅つきの音がしたどの家にも餅つき用の杵と臼があった大晦日には隠れて正月用の餅をかじった大晦日には紅白歌合戦を見ながら年越し蕎麦を食べた【行く年 来る年】が始まると、外に出てまだ鳴っている寺の鐘の音を聞いた【行く年 来る年】が始まると、早めにおせちの重箱をめくってつまみ食いをした正月には、赤玉ポートワインとお屠蘇を飲んだ正月の元旦は、近所もどこも物音ひとつしなかった二日になると近所の人が年始に来た女の子は正月には決まって着物に白いウサギの襟巻きをしていた女の子は正月には決まって着物にコッポリを履いていた女の子は正月には決まって羽子板で羽根つきをした男の子は正月には決まって凧を揚げた家族は正月には決まって百人一首や花札をした冬は火鉢でお餅を焼いた農家の軒には渋柿が干してあった冬にはたき火の臭いがしたたき火には必ず焼き芋がしかけられていた昔は冬風が冷たかった昔は冬に大雪が降った ~~~~~~~~昔のことを想い出すと、懐かしい。懐かしいと言うことは一種の快感である。朱鷺子さんのブログも、今のところ【懐かしい日本の私】と言った様相で、昔の記憶をひもときながら、いろんな想い出を書いている。ただ、ときどき、それが江戸時代の想い出になるので、そんな時はさすがの私でもつきあえない。(これはウソ)
2007.12.08
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今日は【復刻日記】で楽だったので、ついでにもう一つ【復刻日記】をサーブスしよう。 ~~~~~~~~【復刻日記】 SM喫茶 ダンモ喫茶 私の記憶の奥底で、昔たしか「SM喫茶」という言葉があったという気がしていた。「SM」という激しくも鮮烈な世界と、「喫茶店」という、つつましくもほのぼのとしたスポットとのコントラストに、一体どのような「喫茶」なのか?興味を覚えたのだ。ところが最近、そのSM喫茶というものが不死鳥のごとくよみがえっているのを知った。たまたまある女神の名前をネット検索したら,その名前を持つこのSM喫茶が、呼びもしないのに検索に引っかかってきたのだ。飛んで火にいるSM喫茶なのである。このSM喫茶のサイトは美しい言葉で飾られている。 ~~~~~~~~■ 音楽の無い静けさが神秘の世界への出発点なのです。過去の人生を捨てて今日から【素晴らしい未来への旅立ち】へ挑戦して下さいね。素晴らしい【愛への思いやり】・・真実のSMを男女スタッフが心を込めてご指導致します。 ショーを観に来られた女性客は大胆な会話に花を咲かせた後、「私も縛られてみた~い」「女王様を演じてみた~い」とショーへの飛び入り参加を熱望する。筋書の無いショーの始まりである。 Mに興味ある女性は縛られての逆さ吊りや十字架への張り付け。Sに興味ある女性は女王様の衣装に着替え鞭を持つ。その瞬間から雰囲気も女王様になりきってしまい、思わず溜息を付いてしまう変貌振りに店内は和気藹々ムードです。 ~~~~~~~~『店内は和気藹々ムード』だとは言うが、『真実のSMを男女スタッフが心を込めてご指導』されたら、真実の「S」か、「M」になってしまうじゃないか!『女王様とM女募集中! 本当にやる気のある女性募集しています。』・・・とも書いてあるが、こういう所で『本当にやる気のある女性』って、怖く無い? ~~~~~~~~実は、昔は、いろんな種類の喫茶店があった。まず『美人喫茶』というのがあった。私が覚えているのは『プリンス』と『コンパル(金春)』。中は長いカウンターになっていて、美人たちがズラッとカウンターの中で立っている。客はスタンドに座って、トイメンの美人達と会話を楽しみながらコーヒーなどを飲む。それだけなんだけれど、この美人喫茶の美人達は本当に美人だった。今は美人だったら、いろいろなお仕事があると思うけれど、むかしは女優ぐらいしか思いつかなかったのではないだろうか?そういう、思いつかなかった美人が美人喫茶のカウンターの内側でにこやかに微笑んで私を迎えてくれたのだ。(別に私だけじゃないんだけれど)銀座のバーの喫茶店ヴァージョンと考えてみればいいのだと思う。今でもこういう美人喫茶があればいいのだけれど、今は美人のコストが高くなっていて、美人喫茶ぐらいの報酬では雇えないだろうと思う。 ~~~~~~~~喫茶店といえば、大昔の、つまり私の高校生の頃までは、むやみに入ることをはばかれる社会的風潮があった。そう言えば映画館もそんな感じだった。私は平気だったけれど。そう言う喫茶店のメニューの一番底の方には 飲み物 とあって、『ウヰスキー』(わざと旧い「ヰ」を使ってみました)というのがある。これを注文すると(さすがに高校生の時ではなくて、大学生になってからだけれど)、お猪口ぐらいの小さなサイズのガラスのグラスにウヰスキーが注がれているのが出てくる。ストレートだ。もちろん、お水のチェーサーもついてくるが。 ~~~~~~~~ジャズ喫茶というのもあった。私は高校の時からモダンジャズが好きになり、大学でモダンジャズの同好会に入ったほどだから、「ダンモ喫茶」と当時称していたモダンジャズがかかっている喫茶店で、毎日何時間も聴いていた時代がある。(なんだか、喫茶店という単語からどんどん、昔の記憶が出てくる)このダンモ喫茶では、普通は映画館でしか揃えないような、超高級なハイファイステレオ装置を備えていて、モダンジャズのレコードを大音響でかける。JBLとかアルテックとかいう、ジャズ向きのアメリカ製のスピーカーに、マッキントッシュなどのアンプ・・・。ダンモ喫茶の壁面全体がスピーカーになっていたようなすごい店もあった。その典型が新宿にあった木馬かな?このダンモ喫茶でかかるレコードは、客のリクエストによる。演奏中のレコードのジャケットは、客の目につく場所に掲げられる。モダンジャズのレコードのジャケットは、当時なかなか重要な役割を演じていたのである。数あるレーベルの中でも、ブルーノートというレーベルのジャケットがセンス抜群だった。中でも私のもっと好きなジャッキー・マクリーン、それにソニー・クラークの【Cool Struttin’】は、マンハッタンとおぼしき街中を、スリット入りの黒いタイトスカートをはいた脚線美のキャリア・ウーマンらしき女性がハイヒールでさっそうと歩いているもので、演奏も最高、ジャケットも最高の見本のようなレコードである。もうひとつ、今は超有名盤になったヘレン・メリルの【You'd Be So Nice to Come Home To】が入っている【Helen Merrill with Clifford Brown】。日本ではヘレンは「ニューヨークのためいき」とか「魅惑のハスキーヴォイス」とかの形容がお決まりだが、米国のアマゾンではこのレコードでのヘレンを【breathy】と表現している。このレコードを聴いていると、本当にヘレンの息づかい・つぶやき・あえぎが耳元で鮮明に聞こえ、悩ましい。このジャケットは、そんなふんいきを伝えるものになっている。ジャッキー・マクリーンもヘレン・メリルも来日コンサートへ行った。ヘレンは高校時代に初来日した時にその歌声とモダンな唱法にひとめ(?)惚れして、(本当はその美貌にもだが)、二回目に来日した時は大学生だったが、コンサートが終わった後、勇気を振り絞って楽屋に行き数枚のレコードにサインをしてもらった。 ~~~~~~~~ダンモ喫茶に戻ろう。自分の好きな曲をリクエストして、その曲がかかるまで、自分の席でジッとうずくまって待つのだが、この間の時間がまた、それなりにいいのである。リクエスト曲がかかると「みなさん これは私がリクエストした曲ですよ」的な表情を浮かべながらリズムをとる人が多いたまに自分の知らないレコードがかかると、そのジャケットを手にとって、ライナーノートを読んでみる。ダンモ喫茶の客はもちろんモダンジャズが好きな客ばかりで、普通の喫茶店のように集団やカップルで入ってきたり、コーヒーを飲みながら談笑する・・・ということはない。ひとりひとりが、ひたすらに曲に没入しながら何時間も過ごす。モダンジャズ・ファンという層は考えてみればおかしな人種だったなと思う。当時のダンモ喫茶の名前も覚えている。新宿の「きーよ」「ヨット」「DIG」「汀」「木馬」「ピットイン」「メッセンジャーズ」・・・。早稲田の「もず」。もう一軒あったな。渋谷の「オスカー」その他。東京駅と有楽町の「ママ」そういえば「DIG」は三軒ほどあって姉妹店らしかった。村上春樹が一時「DIG」のオーナーをしていたという。村上春樹の小説は二三冊持ってはいるのだがまだ読んでいない。ただし、その題名にひかれて「やがて哀しき外国語」という、彼が米国ニュージャージー州のプリンストン大学で客員教員(かな?)として過ごした頃の事を書いた本を読んだ。アマゾンの書評では「アメリカでの生活の実態が鮮やかに描かれている」とか「日本とアメリカの文化の違いが」とか「彼の本の中で一番好きな本」などと絶賛だが、私には、ありきたりの退屈でつまらない本だった。新刊書で買うのじゃなかったと思うほど。これで彼の小説を読む意欲が、また減退してしまった。今ではダンモ喫茶は、ほとんどもう死に絶えてしまった。吉祥寺に「メグ」という店があるそうだが。 ~~~~~~~~私は入ったことがないが「電話喫茶」というのが一時流行った。店内の各座席のテーブルに電話機がのっている。その電話は内線でつながっていて、魅力的な異性を見つけると内線で「もしもし!」と話しかけるわけだ。一種の出会い系サイトといえないこともない。シャイな私?には、露骨すぎる感じがして、行こうという気が起きなかった。当時は「俳句喫茶」というものもあったというが、どんな喫茶店なのか? 見当もつかない。 ~~~~~~~~近くは「ノーパン喫茶」というのもあったな。これは、どんな喫茶店なのか? 行ったことが無くても見当はつく。松井秀喜選手が通ったというのは「ノーパン喫茶」ではなくて、「ノーパン・しゃぶしゃぶ」だった。ところでこの「ノーパンなになに」というネーミングは、「しゃぶしゃぶ」だけに与えるのはもったいないのではないか?「ノーパンすき焼き」とか「ノーパン焼き肉」とか「ノーパン信州蕎麦」とか「ノーパン・フランス料理」とか「ノーパン本屋」とか「ノーパン百貨店」だとか「ノーパン・スーパー」だとか「ノーパン薬局」とか「ノーパン・キオスク」だとか「ノーパン魚屋」だとか・・・。でも、さすがに、「ノーパン下着屋」は、おかしいかな? ~~~~~~~~「歌声喫茶」というのも一時流行った。二三回行ったことがある。店内にリーダー(従業員)がいて、ロシア民謡や左翼系の歌を客に合唱させるのだ。当時の流行歌のいくつかは、こんな歌声喫茶から広まっていった歌がある。「ともしび」等はその代表格かな? ~~~~~~~~「名曲喫茶」というのもあった。今も一部に生存している?らしいけれど。クラシック音楽をかけてくれる。いい雰囲気だったけれどな~。渋谷にライオンというのがあった。
2007.12.01
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【復刻日記】は、やっぱり楽だ。(笑) ~~~~~~~~■ 【復刻日記】外国語の先生たち昔勤めていた会社で、若いころにほんの短期間受けた「スペイン」語講座の先生が、どうしてだか、「イタリア人」だった。私は、大学でスペイン語を第二外国語として習って、単位もチャンと取得したのに、スペイン語が全くしゃべれないと言う、一般常識からすれば奇跡の男。しかし、その当時は、その自覚もなく、新入生のつもりでスペイン語と真摯に戦った。わずか二ヶ月、8回だったけれど。それ以来、スペイン語に触れたことは無い。そのスペイン語を教えるイタリア人の先生(男性)に、「イタリア人は世界一容貌的に美しい国民だと思いま~す」と言ったら、赤くなって恐縮していた。おとなしく、謙虚な、イタリア人らしくないイタリア人だった。私のイタリア人に対する美的評価は、もっぱら映画女優の美貌度を国別にして考えたものだったが、このごろ、欧州のサッカーを観戦しても、その評価は間違っていなかったと思う。イタリアのサッカーチームなんて、ちょっとジゴロ風だけれど、美男ぞろいだ。もちろん、イタリア国民全員が美男美女だというわけでは無いけれど、人間的で親しみやすい人が多い印象がある。人間的すぎて、ちょっといやなところもあるが。~~~~~~~~~同じく、会社の英会話講座で(自費で学ぶつもりは無いマナブ君だったのだ)、先生だった男性は、かなり有名な洋画の映画俳優だった。どこかで見た顔だと思ってはいたが。ときどき古い映画で彼を見付けて、「先生♪」という歌を口ずさんでいる。彼は、「日本人はとても優秀で正直で文化のある国民だ」と本気で思ってくれている素晴らしい!人だったが、同時に「その他のアジア人は全く低レベルの人間だ」という、「正しい認識!?」の持ち主だった。「先生! 今、事態はそう簡単ではなくなってきていて、日本はもう、大変なんです!」~~~~~~~~~その英会話の先生が事情があって欠勤が続いた時に、代理として臨時に来てくれた、大学を出たばかりの若~いアメリカ人の女性は、名前からしてイタリア系アメリカ人で、すごい美人だった。彼女はアメリカ大使館員の娘で(どうもCIA職員の娘?)、自宅にも行ったことがある・・・といっても、大使館のコンパウンドの中のマンションだったけれど。なんとかしてもっと親しくなりたいと思って、寿司屋に連れて行ったら、タコを見て震え上がっていた。可哀想なことをした。あの当時はまだ外国人で寿司が好きだなんて奇特な人はほとんどいなかったし、タコ・イカは欧米人からすれば悪魔。今はマンハッタンで日本料理屋が数百軒なんて、考えてみるとすごいことだ。 ~~~~~~~~あるとき、あるアメリカ人の女の子のアパートの壁に、アメリカを出発する時に友人達が書いてくれた寄せ書きのようなものがピンで止めてあったのを見付けた。読んでみると「あの魚を生で食べるという東洋の国に、君は行ってしまうんだね!」という事が書いてあった。もちろん英語で。その女の子には、クドクドと、こう教えた。日本人も、毎日、刺身を食ってるわけじゃないんだ!第一、電気冷蔵庫がない昔は、生食するのは海の沿岸部の人だけで、内陸部の人は魚の干物を食べていたんだ。もっとも、京都では丹波地方で捕れたサバを徹夜で京都に運んだこともあって、それを「鯖街道」というだ・・・。
2007.12.01
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気まぐれだが、また【復刻日記】を ~~~~~~~~「墨を塗ったような暗闇」とか、「鼻をつままれてもわからない」とか「漆黒の闇」とか・・・。昔の夜の暗さはいろいろに表現される。現代の日本の夜は明るい。どの部屋も蛍光灯が煌々と隅から隅まで照らす。しかし、この世の中には、本当の暗闇というものがあるのである。もちろん太古の昔、原始時代の夜は深かったはずだ。そんな暗闇の中ではただただ、星空を仰ぎ見て、星座などを空想するしかなかっただろう。比較するものと言えば、日本の昔の夜の闇。「耳なし芳一」が、耳を平家の落ち武者の亡霊にとられてしまった頃の「暗闇」である。私も一度、太古の昔のような、漆黒の暗闇を経験した。 ~~~~~~~~私が30代の頃、私の会社の女性の先輩が信州に別荘を持っていた。私のお願いに対して、その先輩の別荘をただで貸してくれるという。当時、私にはガールフレンドがいて、アメリカ人の女性だったけれど、なんとか彼女ともっと intimate な仲になりたいと思っていた。intimate と言う言葉はいちおう日本では一般的に「親密な」と言うことになっているけれど、男女間で使うと、「一線を越えた」という、大変な意味の仲を指し示す言葉になる。私としては、ここで「一線」も「ニ線」も越えて、(もっと越えてもいいんだが・・・)(相手次第かな?)、彼女との男女間関係の、「成層圏安定水平飛行」に入りたい気持ちがあったので、この信州の別荘は絶好の舞台だった。二人で人里離れた信州の別荘で過ごせば、なるようにしかならないではないか?極めて自然に intimate relatioanship に収斂することがヴィジュアルにシミュレーション出来る。ジグゾーパズルというものがある。凸というものがあれば、凹が応える。魚心あらば水心。これをいくら強調しても空しいかも知れない。凸よりは凹が好きな私ですが・・・。~~~~~~~~~ビジネスの関係でつきあっていた他社のポン友に、「この檜舞台でどういう効果的な、端的な性的行動を取ったらいいのか?」という、哲学的アドバイスを求めたら、『alexさん、別荘では、有無を言わせず彼女を【外掛け】で一気に倒しなさい!』という、貴重なアドバイスをいただいた。果たして【外掛け】が四十八手の中で、一番有効な業かな?という素朴な疑問はあったが、とにかくワクワクした。軽井沢からはちょっと遠いが、信州の、白樺の林に囲まれたフィンランド直輸入の白木のコテッジでの、【外掛け】という人為的な、恣意的な、革命的な(それほどでな無いね)、運動によって、相思相愛の?男女の愛が結晶するのだ。【内掛け】 の方が、目的完遂には早いのではないか?(内側だから)、という現実的な事も考えたが、【外掛け】の方が豪快なイメージがある。【あびせ倒し】とか、 【押し倒し】も【倒し】業だからいいとは思ったが、そのへんの細かい差異は、いざ、現場に立ってみるとあまり意味をなさないのではないか?業をかけられる相手側の感情も勘案しなければならない。とにかく【すくい投げ】だけはいけない。相手に屈辱感を与える。【一本背負い】は致命的にイケナイ。相手に逃げられてしまう。それに【寄り切り】だけだと、水平移動だけで、何も起こらないので、この決まり手も避けたい。一応は、そういう、プラクティカルな考察もしてみた。とにかく、【業をかける】という積極性が大事なのではないだろうか?さもないと、【教育的指導】を言い渡されて、【効果】【技あり】と、立て続けに不利な体勢になるかも知れない。【消極的とは、善くないことなり】と武者小路実篤さんも言っている。(言っていないか?)とにかく、【外掛け】 なら、ガールフレンドが「あれ~~! ご無体な・・・」といいながらも、素直に!私の言うことを聞くような気がしてきた。日本の伝統業の威力を知って、歴史の浅い米国の現在の不条理な優位を反省してくれればもっといいかも知れない。彼女にすぐ、この、「別荘で水入らずプラン」を話したら、「ハウ・ナイス!」と喜んだ。そのあどけない表情にウソはない。彼女も【外掛け】を、心の底では望んでいるのだ。もう怖いものはなんにもない。一人で、足をとばして【外掛け】の練習もした。~~~~~~~~~しかし、世の中そんなに甘いもんじゃない。いろんな事情で、彼女は米国に急遽帰国することになった。で、私はむさ苦しい会社の後輩を引き連れて、信州の別荘におもむいた。確かに信州だけれど、ここには堀辰雄が保証したような「麦わら帽子をかぶった憂愁の美少女」なんてどこを探してもいない。ここは「美しい村」ではないらしい。「菜穂子さん」とつぶやきながら雑貨屋に入って、今夜の食材を買い込んだ。別荘で食事を作った。山岳部にいた人間だからキャンプ食は女性より上手だ。とりあえずは、腹が一杯になったが、野郎ばかりではその後に何もすることがない。それでも、時間は散文的に、自動的に経過する。まもなく、日が暮れて、もう眠ろうということになった。林の中にある別荘は、室内の灯を消すと、本当の漆黒の闇になった。耳がシ~~ンと鳴るほどの無音の世界でもある。「ふ~~ん、昔の人間はこんな夜の中で、ドップリすごしたのか」しみじみ、そう思った。座頭市が有利な世界だと思った。私のそんな深遠な哲学的な思索に感応したのか、いつもはがさつな後輩達も、言葉少なである。【外掛け】の他にも、有効な業として、【内無双】とか、【小股すくい】とか、手を使う業の方が有効かも知れない。今ごろ、決まり手の思いをめぐらしても、空しいか?
2007.10.23
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現代の「柿本人麻呂」! tak-shonai さんの和歌日記ブログ 「tak’s outpost」 に、下記のような和歌が詠まれていた。文月六日の歌神田川を流るる水に年月は潜みゐるなりそを透かし見む ~~~~~~~~神田川と言えば、私もかって日記にしたことがある題材である。私自身も読み返してみたくて、【復刻日記】とする。 ~~~~~~~~復刻日記 神田川 私の大学時代大学四年間の、後半の2年は新宿戸山町のアパートに住んでいた。上京した時は、関東平野の関東ロームの黒い腐植土にびっくりして、何となく暗い気持ちになった。私の実家は大阪でも神戸・宝塚に近くて、そこには六甲山地があって、その六甲山地は花崗岩の山だから平地の土地の色も、白っぽい。それに昔の東京の食べ物の味が濃いのにもおどろいた。受験の時に宿泊した早稲田近辺の家で取ってくれた店屋物の親子丼の味が濃かった。学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした。関西でうどん汁というと昆布出汁で色はほとんど付いていないのに、その当時の東京のうどん汁は、たまりというのか、真っ黒だった。箸でちょっとかきあげると、まっ黄色い卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた。味も濃くてなじめなかった。讃岐うどん全盛の東京で、今こういう古典的・伝統的なうどんは健在なのだろうか?この正統派うどんもこの頃のあまりの冷遇ぶりにすねて、もっと濃い味になっているのではないかと心配である。下宿にしろ、アパートにしろ、賄い付きでなかったから外食するか? 自炊するしかない。当時は、どちらも侘びしく孤独で恥の多い作業である。外食という作業はまず、食べるものを決定しなければいけない。次に食べる店を決定しなければいけない。この順序が反対である方が普通かな?昼は学食や生協で食べるが、夕食もそこでというのもナニかと思う。それに大学をいったん離れると、どこかで食べなければいけない。蕎麦やうどんでは腹が持たない。カレーライスばかりも飽きる。だから栄養のバランスを考えて一膳飯屋に行ってみた。しかし、この一膳飯屋に一人で入るということは、恥多きプロセスで、これは苦痛だった。高校時代はもちろん1人で外食などしなかった。一家揃って、ふだんは父親が社用に使うレストランに行くということはときどきあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない。高校時代に下校途中にわざわざ駅前まで行ってたこ焼きの屋台によって密かに食べたたこ焼きはまさに美味だったが、たこ焼きというものは暗がりの中で、何らかの後ろめたい理由があって、舌をやけどしながら、フーフーと急いで食べる場合だけがうまいのだが、余裕充分な状況で明るい場所で、ちょっと冷えかけのものを食べてもそんなにうまいものでもない。後ろ暗い時間に後ろ暗い状況でたこ焼きを食べろ!この日記の読者だけに伝える、私からの「たこ焼き賞味の極意」である。つまり、今までひとりで外食したこともない私にとって、労働者階級の雰囲気の、濃い世界の殿堂のような一膳飯屋の汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った。暖簾の前を二三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる。矛盾するようだが一人の場合はまだいい。だれか友人・知人と一緒に歩いていて、分かれる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を裏切りながら通り過ぎることになる。心なしか、店の中からおばさんがこちらを軽蔑した目つきで見ているような気がする。なんとかその「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに定食屋に確信を持って進むのである。食べ終わって、また暖簾をサッとくぐって町に飛び込み、またなにごともなかったという表情で町を歩く。アパートに付く前に一般住宅の前を通る。家々からは幸せの黄色い電灯がついている。彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに美味な夕食を楽しく、さんざめきながら食しているのだ。Dinner without toil なのだ!本当にこの世の中には神も仏もないものだと思った。こんな高貴な孤独に耐えている私の胸に響く歌があった。ミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である。 ―――― ◇ ――――♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(途中省略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ―――― ◇ ――――本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に夕食を囲むという、しあわせそうな後ろ姿ばかりである。一瞬、彼等の幸せな家庭に乱入してやりたい気持ちになる。 ーーーー ◇ ーーーーアパートで自炊というのも、言うまでもなく侘びしい。一膳飯屋苦行とどちらがわびしいかは計量化してみないと、数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだ。当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった。ちょっと寄り道になるが、この「電気」冷蔵庫という表現に、注意深い読者なら気がつくはずだ。電気でない冷蔵庫もそれより昔になるが、「あった」のだ。これは普通に単に「冷蔵庫」と呼ばれていた。氷屋さんが夏になると毎日、角形の大きな氷を配達してくれる。これを冷蔵庫のトップにある氷室に入れるだけでいい。ともかく、当時の学生の持っている文明の利器と言えば平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 電熱器(蚊取り線香状のニクロム線を電気を通電して熱する)○ 卓上蛍光灯スタンド○ 電気コタツ または 石油ストーブなんともシンプル極まる生活である。ただし私はといえば、特権階級だったから(??)、今だから言えるが、この上に二種の神器を隠し持っていた。○ テナーサックス(楽器である)○ 赤井のテープレコーダー 16インチスピーカー付きモダンジャズの同好会に入っていたので、これはどうしても必要だったのだ。自炊の話にもどるが、学生は料理の仕方なんて知らないのだから、自炊も肉野菜炒めが定番となる。これは当時のすべての学生の普遍的な真実だったと思う。この肉野菜の部分について、実情を分析すると、野菜はそのままでいいのだが、肉については正直に申告した方がいいかも知れない。肉は高いからその代わりに、大洋漁業の魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する。さらに実情を究めると、実はピンチヒッターでは無くて、魚肉ソーセージの方がレギュラーなのだ。肉の方がピンチヒッターで恥ずかしそうにベンチにいることになる。「この財政状況だと私の出番は無さそうね」と、自分から二軍に行ってしまうこともある。こうなるともう呼び戻せないから魚肉ソーセージがレギュラーとして定着する。この頃はコンビニでこの昔なつかしいレギュラーを散見する。しかしもう、レギュラーの座は張れないで、いつもは二軍だが、監督の温情で久しぶりに一軍ベンチに入った超ベテランと言った風情だ。だれも本当は大活躍を期待していないんだけれど、年に一二度ぐらいは一軍にあげてやらないと隠れファンがうるさいと言うことかも知れない。飲み物はお茶だが、ぜいたくな学生は牛乳の配達を受けていた。私もそのぜいたく学生で、しかも牛乳+新聞の配達という豪華版だった。飲み物は暑い夏などはジュースとなる。渡辺のジュースの素という秘密兵器があって、これは毒々しいオレンジ色の謎の粉体で、これを水に溶かして飲むと、味も毒々しいが無理に考えるとジュースという実感が出てくる。少なくとも毒々しく、甘い。毒々しいの三拍子である。自炊を共同でやることは、アパートの住人同士が友人になることで可能となる。または共同自炊で友人になる。どうせほとんどの住民が同じ大学だし、金もないので夜はすることもなく退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベル事になる。親しくなりすぎるとお互いいたずらもしてしまう。ある時、非常に真面目な男のパンツを強制的に脱がしたことがある。その男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったが、ある拍子でふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした。彼の裸の下半身はある理由で(主にサイズの問題だったと思うが)トップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した。手元の木刀で私を本気で殴った。彼とちがって運動神経の固まりとも言える私はサッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされた。トイレ・台所(と言ってもシンクがあるだけ)は共同。もちろん風呂なんて無い。だから近くの銭湯に通うことになる。これは、一膳飯屋の「がまの油タラタラ」状態とは全然ちがう。アパートの友人達と一緒に湯屋に出かけるのは楽しい。 ―――― ◇ ――――♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿 ―――― ◇ ――――私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生はいなかった。いや、ひとりけしからんやつがいた。私の高校からの親友で一緒に同じ大学に進学したのだが、入学して半年するともうガールフレンドが出来た。同じ大学のバトミントン部で知り合ったという。この男は女の姉妹がいないくて男の中で育っているヤツだから無骨なヤツで、、女性に対する好奇心が凶器のように肥大していてとてもイヤラシいヤツ・・・だから、・・・モテないだろうと・・・油断していた私が悪かった。その女の子はとても小柄だがとても可愛いのである。愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気がとても醜い。おまけに大学近くのアパートで半同棲という大罪を犯しているようなのだ。ついに、こーゆー間違ったことをしているカップルには、断じて意見をしなくてはいけないという義憤に駆られて、ある夜、級友と共に彼のアパートを急襲した。大学の裏手の神田川沿いの道の行き止まりの木造アパート、その二階に彼の部屋があった。入ってみるとやはり彼女がそこにいた。可愛い女性と面と向かってみると、女性になれていない私の義憤は、一瞬で霧散してしまったばかりか、彼女との会話を通して彼女の級友に可愛い女性はいないのか?を聞き出そうという「偵察モード」に入ってしまった。その時はじめて、私は私自身に臨機応変という才能があるということを知った。偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた。
2007.07.06
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Ko7さんが一眼レフカメラで、素晴らしい写真をアップしてくれている。「おもいついたら」Ko7さんに影響されて、一眼レフ・デジカメを買おうか?と思っている。○ 35mmフィルム・一眼レフカメラ 一時、カメラに凝っていたことがあって、極端な場合には、海外出張にニコン一眼レフを二台、それに交換レンズを携行することもあった。だから、カメラはかなり数多く買った。ニコンの一眼レフは合計7台ほど買ったかな。NIKON F2(2台)/NIKON FE/NIKON EM/NIKON EL(2台/NIKON F3しかし、1台は父に、1台はカメラが大好きなアメリカ人のガールフレンドに(二人の旅行は撮影旅行だった)、二台は義弟に、プレゼントしたが。○ 35ミリカメラミノックス35ミリは、掌中に入る程の小型サイズ。ミノックスだから超小型は当然か?昔の蛇腹式カメラに似た形状。35ミリ口径の広角レンズが非常に優秀なレンズだった。ただ、フィルムの巻き上げレバーが滑って、フィルムが巻き上がらなくなった。その後のモデルでは改良されたと思うが、初期モデルでは、やはり小型化に無理があったのだと思う。○ ハーフサイズ・カメラコンパクト・ハーフサイズ・カメラ(昔はバカ○ョン・カメラと呼ばれた)は、ニコン・キャノン・ミノルタも買ったかな?キャノンのコンパクトカメラは、香港出身のガールフレンドにプレゼントしてしまった。私はプレゼント魔か?オリンパス・ペンFは、松本清張が旅行での撮影に愛用したので有名。銀座の東京カメラ店で中古で買った小型35ミリのハーフ・サイズで、手にした感覚や、フォルムはスポーツカーの様に美しかったが、カラーで撮るとレンズが欠陥品だったのか?色あせた写真しか撮れなかった。残念だったが、カメラ店に売った。今考えれば、レンズだけ交換すればよかったとも思う。○ 110フィルム・カメラコダックの110フィルムのカメラが流行った。今から考えればちょっとオモチャのようなところがったが、私が買ったキャノンの110は、いろいろ高級な機能があった。それに素晴らしかったのは、110フィルムを使用した PENTAX AUTO 110だった。これは110フィルムを使用した一眼レフカメラである。35ミリ一眼レフのミニチュア版というところ。やはり掌の中にすっぽり入る。可愛いミニサイズの交換レンズも6本ほど持っている。本体が故障してしまったのと、旭光学がパーツ交換を要する修理はしないなどと言い出したので、その後は使っていない。修理して娘にプレゼントしようかな? ~~~~~~~~昔の凝りようはそれとして、最近はすっかりカメラを手にすることもなく・・・。これではいけない。しかし、なぜカメラと疎遠になったのかな?ひとつには、私の飽きっぽい性格。ふたつめは、ネガ写真があるレベル以上にたまってしまうと、写真が安っぽく見えて、overflow 状態になって(本と同じだな・・・)、あまり写真も見なくなって、撮る意欲も薄れた。本当は面倒でもリバーサル・フィルムで撮ればよかったと思う。その点、デジカメだと、いくらたまっても削除出来るし、編集も出来る(らしい)。ケータイのカメラ機能だって、「それなりに」けっこう写ってるのである。それに、目が悪くなってくると、従来のニコンの一眼レフでは、フォーカス合わせはちょっとつらい。その点、一眼レフデジカメはAF オートフォーカスだし、ファインダーの代わりに液晶モニターもあるし、大丈夫だろう。この頃は、いろいろ映像に残しておきたいという課題が増えた。以前は、旅の記録とか、美しい風景、接写した花などが撮影の対象だったが、今は、父母や家族、それに生活圏の周辺風景・あまり意味のないスナップも撮ってみたいと思っている。それにやはり、旅行の写真もまた撮りたい。フィルム代やDPEの費用をいちいち考えなくても、とりあえずバンバン撮影してみることができるのもいい。カメラを持っていると、この世の中の美しいもの、興味深いものを探す心の姿勢ができる。ただぼんやりと歩いているのと大きな違いなのだ。Tak-shonaiさんが、和歌ブログで自然を見つめているような姿勢である。 ~~~~~~~~主力機種がニコンだったので、交換レンズもたくさん残っているのだが、一応、互換性があるようだ。ニコンは、デジタル一眼レフを下記の3カテゴリーに分けている。○ 入門者用○ 中級者用○ 高級・プロ仕様私の候補機種としては、中級者向けの新発売のD80や、中級者向けながらプロユースに近い高級なD200あたりに興味を持っている。ただ、デジカメは従来の銀塩フィルムカメラとはちがって、液晶画素の数が増えたり、その他にもどんどん増える新機能ゆえに、製品サイクルが非常に短い。フィルムカメラなら、数十年前の一眼レフ初代のF1でも、現役で使えるんだけれどな~。と言うことで、D80か?、D200か?という選択になるが、これが難しい。D200の方が耐久性が高い(マグネシューム・ボディー)し、スペック的に高価である。プロがサブで使う機種でもあるから、当然だろうけれど。それにバッテリーパックや交換レンズ(デジタル・ズーム)なども併せて、システムで購入すると、合計でD80とD200では、かなり値段がちがう。性能的には、D80の方が新製品だけに、一部でD200を上回っている点もある。それに、私の人生の製品サイクルも、もう短いんだけれど(泣)、やはり製品サイクルが短いデジカメだから、もしもう一度、数年後に買い換えをするという可能性があるとすれば、今は廉価版のD80を買っておいた方がいいかな?とも考えている。この考え方もみみっちいいかな? ~~~~~~~~・・・とまで書いたら、昨日は梅田のヨドバシカメラに行く機会があった。ニコンのコーナーでD80とD200手に持ってみると、今の私に、D200は重すぎる。プロ使用のD2xsなどは、さらにとてつもない重さである。以前の私なら、カメラ雑誌のコンテストで入賞している写真並みの思いきり「いい写真」を撮ってやろうと言う意欲があったし、花や昆虫の接写なども好きだった。重さもむしろ充実感を感じた。しかし、今の私は、年令もさることながら、コンパクト・デジカメやケータイのカメラ機能を気軽に使っている若い人びと(手ぶれなどもわかっていない様子)のカメラの使い方を見ている内に、その影響を少なからず受け、「気軽」に写真を撮ってみたいのである。あまり仰々しいカメラで撮影すると、視野に入る人を緊張させる。それでは、気軽な撮影条件にならない。・ ・・と理屈と感慨はともかく、D80を手に取ってみた。実に軽い! ♪♪これで決まりだな!と思った。しかし、それでも、なんとなく買わないで帰宅した。本当はD80でさえ、何気ないスナップ的な写真を撮るには、重くて大きい。「大げさな」カメラなのだ。私は俳句を詠みたいのに、このカメラは長歌なのだ。若い頃に興奮して撮影したような写真はもう撮らないのだから、昔の銘機、PENNTAX AUTO 110や、オリンパス・ペンFや、ミノックス35などのような、可愛いサイズの高性能デジカメがあれば買おうかな~。明日あたり、買いに行くかも知れない。
2006.10.10
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Kellyさんのブログ「kellyの HAVE A NICE DAY」。「ストレス太り危険性度チェック」Sept. 5,2006kellyさんは、私のもっとも古い楽天リンクのひとりなんだけれど、とにかくものすごいグルメで、グルマンでもあるかと思う。(グルメというのは美食家だけれど、グルマンというのは大食漢でもある・・・と記憶している。)Kellyさんのブログの多くは、美味探訪問である。美味の表現も、書かれる読書の感想と同じように、本質をついた、行き届いたものである。この日のお題は「ストレス太り危険性度チェック」である。グルメに関して、こういうブログがあるので引用してみよう。BERCHOUX (Joseph) ベルシュー(ジョゼフ)というブログのページがある。失礼して引用させていただこう。 ~~~~~~~~ジョゼフ・ベルシュー 1765~1839 詩人 弁護士ジョゼフ・ベルシューは1765年、ロワール県、サン=サンフォリアン=ド=レに生まれ、1839年、ソーヌ=エ=ロワール県のマルシニーで死す。ベルシューは1801年に「ガストロノミー」 Gastoronomie という詩を出版した。ギリシア語の gastoronomia=gastros(胃)+nomos(規則)>からガストロノミーという言葉をつくり出したのだ。はじめてgastoronomieという言葉を使った人物として、美食文学史上に偉大な足跡を残している。この詩が出版されるや、評判となり、ガストロノミーという言葉はあっという間にフランス語として定着する。ベルシュー自身は特に美食家でも食い道楽でも食通でもなかったらしい・しかし彼の詩の中には料理術、美食術についての多くの教訓が見い出される。 ~~~~(中略)~~~~ガストロノミー gastronomie というフランス語は「美食(学)」とか、「料理法(学)」とかいう言葉で訳されることが多いが、ぴったりとあてはまる日本語は思い浮かばない。そして、ガストロノミーの心得のある人をガストロノーム gastronome と呼ぶ。ただ、美味しいものを求めて食べ歩くだけでなく、食を一つの文化としてとらえ、その歴史的背景や料理法をふまえ、食卓の喜びについての洗練された嗜好を個人的に深めるだけでなく、時に伝導することによって他人の嗜好をも深めることを助ける人とでも言えばいいのだろうか。その意味で、ブリア=サヴァランやグリモ・ド・ラ・レニエール、ロベール・クルティーヌ、辻静雄などはまさにガストロノームである。 フランスでは本の分類や、検索エンジンのカテゴリーには必ず gastronomie の項目がある。日本の検索エンジンの多くが使っているカテゴリー「グルメ」と近い使い方である。日本では「グルメ」という分類が食通や食べ歩き、美味しいものの情報、料理などのレシピの意味合いで使われているのに対し、gastronomie という言葉にはさらに文学的、哲学的、歴史的な広がりを持つ。 日本人にはグルメ gourmet、グルマン gourmand の方がなじみが深い.ガストロノームと同じく、食通、美食家の意味を持つが、グルメは洗練された美食家(ワイン鑑定人の意味もある)、グルマンは美食家でもあるが量を多く食べる食道楽、という違いがある。 しかし、グルメというのはフランス語ではほとんど使われない、どうもこのことばは英語圏経由で日本に入ってきたことばのようである。 さらに加えれば、美食家を表す言葉にグルマンディーズ gourmandise とフリアンディーズ friandise という言葉がある.グルマンディーズは大食漢の食道楽というニュアンスを持つ。日本人が使うグルメはフランス人の言うgourmandiseにかなり近いのではないかと私は思う。 フリアンディーズは甘いものや美味しいものを少量だけ嗜む人、という意味である.ブリア=サヴァランはフリアンディーズはグルマンディーズの変種だと言っている.ただ、このことばは現代ではあまり使われなくなっている。 ~~~~~~~~大食漢と言えば、「ガルガンチュワ」を思い出す。★ ガルガンチュワとパンタグリュエル出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ~~~~~~~~前振りが長くなったが、kellyさんの記述に次のような個所がある。>最近のマイブームおかずはコンビーフ。昔々一人暮らしの男に教わったすごい簡単なレシピ。>玉葱のみじん切りと一緒に炒めて(油なし)、卵とじにする。>調味料はブラックペッパーのみで、香り付け程度に醤油をほんの少したらす。>玉葱だけじゃさびしいのでkellyは舞茸をたっぷりプラスして作る。>御飯がいける~!以下は、それに関連しての、kellyさんと私との応答である。Alex99私も学生時代に、このレシピでやっていました。マヨネーズをプラスしていましたが。Kellyさんへぇ~、伝統的なレシピだったんですね。意外と女性はこの料理をしないんですよね。マヨネーズはどこのメーカーのがお好きですか?Alex99伝統的なのかどうか?知りませんが、私は本能?で、こうして食べただけです。マヨネーズは、キューピーの伝統的な?味です。もう、すり込まれているので。私の母が作ってくれた中学、時代の弁当は、ミンチと刻みタマネギとタマゴを炒めたオムレツにマヨネーズをたっぷり垂らしたジューシーなサンドイッチでした。当時はマヨネーズはまだ珍しいもので、大きなビンに入っていました。このサンドイッチは非常に美味しそうに見えたらしく、級友に盗まれてしまったほどです。思い出しましたが、その頃の朝食は、なぜか洋風で、パーコレーターで作ったコーヒーとトースト、それになぜか牛の骨でダシを取ったスープでした。(このダシをとった牛骨は、愛犬の大好物で、投げ与えると「う~~!」とうなりながら夢中で噛んでいました。昼はオムレツ・サンドイッチ。学校から帰って来るとお腹が大変減って、ラジオの連続冒険ドラマ(白鳥の騎士 笛吹童子 紅孔雀)を聞きながら夕食前にビスケットを食べるのが常でした。学生時代、東京から帰阪した夜の私のご馳走は、鯨の尾の身でした。尾の身は、あまり美味しくない鯨の肉の中でも特別で、大トロよりうまいぐらいでした。あのころ、食べるものはみな、美味しかった。こんな食べ物を作ってくれた母は今、施設で、食事を介護士に食べさせてもらう毎日です。
2006.09.07
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このごろは私事がいろいろあって、なかなかブログを更新できない。それなのに、まだ?毎日アクセスが多い。ブログは本来、自己満足で、わがままの所産であるというのが私の建前だが、本音としては、この状態は申し訳ないと思う。ということで、過去にも犯した過ちだが(笑)とりあえず妥協策として、過去の日記を復元した【復刻日記】でお茶をにごしたい。もうお読みになった方は「な~~んだ」とか、思われると思うが、そこんとこ、よろしく!_| ̄|○○| ̄|_まず、「SM喫茶 ダンモ喫茶」。
2006.05.25
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私が人生で初めて撮影した写真は、私の愛犬の写真である。父の写真機で、その当時の自宅の和室から、庭にあった大きな岩の上で横になっている愛犬ベラをパチリと撮ったのである。私が小学校一年生ぐらいの時ではなかったかと思う。その写真は今も手元にあるが、むやみに遠くから撮しているから、大きな岩もベラも、庭の松の大木を背景に、画面の中央に小さく映っている。この「ベラ」というのが、私が最初に飼った犬の名前である。私が飼ったと言っても、普通に言えば両親が飼ったのだが、私にとっての最初の飼い犬である。名前のベラは、モーパッサンの小説、「ベラミー」由縁で、母が名付けたものだ。ベラミーという小説を読んだことはないのだが、なんでも主人公のベラミーは、性格の悪い美男子で、モーパッサンの自画像的なものらしい。ベラも我が家に来た、生後間もない子犬の時にはすでに美男子?であったので、ベラミーを略してベラと名付けたのである。ベラは、ある夜、父が懐に抱きながら持ち帰ってきたのだが、その時から、なんだかシェパード的風貌の子犬で、成人?すると明らかに日本犬なのにさらにシェパードのようなバタ臭い容貌になり、体格も大きく、力が非常に強かった。その当時、ときどき、雉や鴨や猪などを売りに来た猟師さんが、「この犬をぜひ譲って欲しい」と父に懇願したそうである。「いい猪猟用の猟犬になる」と言って、一目惚れしたそうである。もちろん、父はこれを断った。父がドッグショップで買うときに犬種をはっきり聴かなかったので、よくわからないのだが、日本犬の写真図鑑などで見てみると、紀州犬か、または三河犬ではないかと思う。しかし、どうもそう言う犬種の平均より、体格がかなり大きいようであった。よく、テレビで猟師さんが狩猟をする時に、猟犬たちが映るが、みんなかなり痩せた華奢な犬であって、ベラの様な大型でたくましい犬の様子ではない。ベラの出自?はこうして、今でも謎である。ほとんどの日本犬がそうであるように、ベラも忠犬であった。番犬としては強面だったが、主人である私達家族を心から愛して仕えてくれた。とても性格のいい、頭がよくて優しく、凛々しい犬だった。犬といっても、性格の良さ悪さなどというものはあって、それは肌でわかるものである。ベラは、父が大工さんに頼んで作ってもらった大きな犬小屋に住んでいた。しかし、普段はその犬小屋の屋根に飛び乗って、屋根に寝そべっていることが多かった。私達が近づくと、「よくいらっしゃいました!」とばかり、大喜びで屋根から飛び降りてちぎれるように尻尾を振る。ベラは恐ろしく力が強かったから、普通の犬用の革のヒモなどではつないでおけなかった。父が飼ってきた太い鉄の鎖でつながれていた。夕方のベラの散歩は私の役目だったが、ベラの散歩というよりは、力の強いベラに引きずられながらの時間だった。欧州犬は不思議にそう言う事がないようだが、日本犬は飼い主を引きずりながら、懸命に「散歩」する。余裕が無いのである。それに、他の犬と出会うとけんか腰になる。欧州犬は、お互いの臭いを嗅ぎ合うが、いきなりケンカムードにはならない。この違いが不思議である。== その二に続く ==
2006.05.12
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ミドル英二さんが、わざわざ私に「十三・淀川・リバー・ブルース」の続編を書くようにと、煽り(あおり)にいらっしゃった。しかたがないので?、チョビチョビ?書いてみようか?と思う。○ まずは、私の日記では、どの辺まで進展していたか?調べてみなければ、続編が書けない。○ それから、ヤバイ事も「包み隠さず」?、と言うほどでもなくても、相当の覚悟で書く覚悟を決めなければ、肝心の話の核心が無くなるのである。今はそういう現実なのである。(泣)これも大変である。
2006.05.08
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オダギリチカさんが、靴のサイズで苦労している。オダギリチカさんの日記「最近味わった屈辱」 「屈辱を晴らす」私も大足で苦労したので想い出した【復刻日記】を下記に。 ~~~~~~~~【復刻日記】アイビー みゆき族 靴買い物に関しては、人によって好きなものがあると思う。ウィンドウ・ショッピングをしていると思わず買ってしまうものがある。私の場合は、カバン・バッグ類、財布類、手帳、衣類と靴とナイフ、乞食市で売っているような得たいの知れない骨董品とはよべないレベルの小物・・・などがそれに当たる。まだまだ、あるのだが、思い出せば書いてみたい。----------------この頃の若者はずいぶん背が高い。私は、昔の基準で言えばかなり大男で、衣類と靴には苦労した。というのも、昔は衣類と靴にはサイズの大きいものが無かったのだ。中学までは背の高い方ですんだので、苦労はなかったのだけれど、高校時代に急に背が伸びて、朝礼の時には列の一番最後に並ぶようになった。ここからが私の苦闘時代のはじまりである。先ず、運動靴の苦労がはじまった。私は背が高い上に、いわゆる『バカの大足』だからサイズが簡単には見つけられなかった。だが、実はどうして『バカの大足』、こういう言い方をされるのか? 理不尽さに納得が行かない。日本人は小柄な人間に味方するのか? いろんな言い方で大男をいじめる??『山椒は小粒でもピリリと辛い』『大男 総身に知恵が回りかね』『ウドの大木』五条の橋の上の果たし合いでも、小男代表の牛若丸が、大男代表・弁慶をヒラリヒラリと交わすところが受ける。『それにこの『バカの大足』が追い打ちをかける。運動靴は底がゴム製だから、革靴のように『履いている内に革がのびて足に馴染む』ということはありえない。とするとどうしても、サイズを見つけなければいけない。探せばあるのだが、普通の店では私のサイズを見つけることは簡単ではなかった。唯一、オニヅカ・タイガーというメーカーが大きなバスケット・シューズを売っていた。えらいメーカーである。私の好感度のせいか? 今はアシックスという大メーカーになっている。バスケット・ボールという競技は大男が有利だから、大男が選手になる。だから、ビッグ・サイズの運動靴(スニーカーという米国流の呼び方は当時は無かった)もありえた。こういう論理的帰結になる。----------------大学にはいると、当時は石津謙介さんの『VANジャケット』そのシニア版の『KENT』という、いわゆるアイヴィー・ファッションが流行っていて、私も付属高校から進学してきたお洒落なお坊ちゃんが多いモダンジャズのクラブに入ったことでもあり、アイヴィー(アイビーという方がいいかな?)ファッションに夢中になった。今はご婦人のファッションへの熱意を冷ややかに揶揄する私も、よーく考えてみれば、人のことは言えないからだなのである。ともかく、このバタくさいアイビーが、それまでの日本男性のおしゃれ意識を180度変えたと思う。それに当時は、六本木や銀座みゆき通りに、髪は短いクルーカット、綿パンの裾を折り返し、ボタンダウンシャツ、脇にはVANブランドの紙袋をかかえ、コインローファーを履いて、細巻のこうもり傘(どうも古臭い表現だな~)を持った、『みゆき族』という少年達が、これ見よがしに徘徊していた。また、そういう少年達を大橋歩さんが表紙に描いた『平凡パンチ』という都会的な青少年向けの週刊紙が創刊されて、『アイビーブーム』をさらにあおった。ただ、石津謙介さんのVANのアイビーは、本物のアイビーではなかった。本物のアイビーファッションは、米国東海岸のエリート8大学、ハーバード、エール、プリンストン、コロンビア、ダートマス、コーネル、ペンシルべニア、ブラウン、通称アイビーリーグの学生のファッションで、その卒業生がそのままアイビー基調の着こなしをする。J F ケネディー、スティーブンソンなどがその典型。メーカーとしては、ブルックス・ブラザーズが代表だが、ライバルのメーカーが・・・。社名を思い出せない。ジャケットを一着持っていたのだが、サイズがちょっと小さすぎたので、ホームレス支援団体に送ってしまった。アイビーのジャケットを着たホームレスの人が、大阪西成区愛隣地区にいるはずだ。ブルックス・ブラザーズなどの本物のアイビージャケットは、ナロウ・ショールダーではあるものの、しっかりしたかちっとした仕立てで高級生地を使用している。アイビーリーグが伝統校・エリート校だから、アイビー・リーガーは社会に出てもエリート。そのエリートが着る背広だから、高級なのは当然。しかし、当時の日本の大学生は貧乏だったから(私の神田川の日記など、涙無しには読めない貧乏レベルである)、とてもそんな高級スーツは買えない。そこで石津謙介氏は、ペラペラの安物生地で、しかも生地をケチった思い切り細身のスーツを日本版アイビー・スーツとした。だから、私でも買えた訳だから文句を言ってはいかんな。反省。そのうちにVANのライバル・メーカーとして『JUN』というブランドが出てきた。こちらの方は、トラッドというより、ちょっと欧州スーツ・コンテンポラリーと呼ばれるファッションの風味があった。とにかく、若者向けのスーツは、従来の英国調から肩幅の狭いアイビー調にすっかり代わってしまった。私に関して言えば、都合よく、父が米国へ出張していたので、茶色のスェードのジャンパーや、極細のネクタイ、革靴などを買ってきてくれた。それに、LEEのホワイト・ジーンズ、白のソックス、ボタンダウンのオックスフォード生地のシャツなどを着用すれば、アイビー・ボーイの仲間入りが出来た気持ちになった。----------------この極細のネクタイについてはちょっと書いておく。幅が極端に細くて、ワイシャツの前立ての幅しかない。しかも、ネクタイの下の部分、つまり表面には見えない部分には『ボタン穴』が空いていて、シャツのネクタイに止めるようになっていた。これでネクタイピンが要らなくなると言う理屈。このネクタイは気に入っていたんだけれど、どこに行ったかな~?(いつも これだよ!)----------------石津謙介さんのアイビーは貧乏な若者向けに、『細身』で『安い生地』と書いたが、私の独断と偏見だが、もう一つの理由があったと思う。それは当時大流行のモダンジャズの黒人プレイヤーの独特のファッションが影響していたと思うことだ。繰り返すが、これは私の個人的推測。私は大学でモダンジャズのクラブに入って、時々来日する黒人のモダンジャズ・メンのコンサートに行った。彼らも米国本土でも流行のアイビースーツを着ているのだが、お洒落な彼らは、思い切り細身のピッタリしたスーツにインプロヴィゼイションしているのだ。偶然かどうか、石津アイビーにそっくりなのだった。----------------で、靴の話だけれど、アイビーの靴には大きく分けると、ヒモ型とヒモ無しスリップオン型があった。ヒモで結ぶ靴のつま先はウィングチップという模様がついていた。プレーン・トーはあまり流行らなかった。スリップオン型は、甲の部分にコインをはさむ『コイン・ローファー』が主流だった。父は米国から、ウィングチップを買ってきてくれたのだが、アイビー・スーツでなく、ホワイトジーンズだと、ウィングチップは似合わない。スリップオン、とくにコインローファーを履かないと、画龍点睛を欠くことになる。それではいかんと、探したのだが、これも当時は私のサイズはなかった。あのアイビー御用達のリーガル・シューズでもだめだった。それで、普段はバスケット・シューズを履いていたのだけれど、スリップオンを大学近くの靴屋に発注した。しかし、この靴が出来が悪くて・・・。ブカブカだった。それに当時の白の棉ソックスはゴムがしっかりしていなくて、すぐズレ落ちてしまった。なんであんな粗悪品を売ったんだ?仕方が無いから、祖父がしていた膝の下に占めるガーターでソックスを吊っていた。苦労したものである。----------------・・・どうも、こんな事を書くつもりじゃなかったのだけれど、買い物の話で書き始めたのだけれど、思い切り迂回・寄り道をしてしまって、靴の苦労話になった。まぁ、いっか?買い物の話は、また書くとして一応今日は『これぐらいにしといてやるわ!』----------------追記。何げなく、脱線で書いたアイビーだったが、思いがけなく多くのコメントをもらい、それも『懐かしい』という声なのでうれしかった。ちょっと部分的に私のレスの繰り返しにもなるが、まとめておきたいことがある。石津謙介氏がはじめた日本式アイビールックは、日本の洋装若者メンズ・ファッション界の革命であり元年であったと思う。それまで、日本の若者のメンズ・ファッションには方向性もお手本も無かった。そこにアイビー・リーガーズのファッションを、多少モディファイして日本に移植した石津氏の功績は大きい。学生達が初めて、スーツを着るようになった。ネクタイをするようになった。方向性のあるお洒落をするようになった。フォーマルとカジュアルについて意識が出てきた。当時の男性服装雑誌だった『メンズ・クラブ』もたちまち、アイビー一色になった。----------------私自身は学生時代にこの石津アイビーの洗礼を受けて、社会人となって入社した時は、『今年はアイビーが入社してきた』と女性社員に言われるほどまだアイビーの影響下にいたが(大げさな!)、その後、英国駐在をしたこともあり、英国では私のサイズのスーツがザラにあったこともあり、さらには英国風の紳士ファッションが好きだったので、スーツ・コートなどの比較的フォーマルに近いものは英国調に、一方、カジュアルはそのまま米国風のジーンズ・ファッション・・・と言うことで、・・・今に至る。しかし、現在の私のカジュアルは、ユニクロ度80%と言ってもいいかも知れない。XLサイズが必ずあるユニクロは、昔、私に貢献してくれた『靴のオニズカタイガー社』と共に、『ほめてやりたい会社ナンバーワン』であり、出来れば私の推薦で『名誉の殿堂入り』させてやりたいものである。(勝手かな?)
2006.02.23
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このごろ、この歳になってはじめて、カラオケをはじめている。カラオケの中の定番、「神田川」。私は、この歌をまだ、上手く歌えないけれど、想い出を【復刻日記】で読んでみよう。 □□□□□□□ 【復刻日記】ある日記を読んでたら、フォークの「神田川」の話題が書いてあった。歌詞の内容が、私の大学生時代をほうふつとさせるもので、なつかしかった。しかし、この世界は、本当に「むかしむかし」の物語だから、今の大学生の生活とはずいぶんちがう。上京した時は、関東平野の関東ロームの黒い腐植土にびっくりして、何となく暗い気持ちになった。私の実家は大阪でも神戸側で、花崗岩の六甲山地の地層の影響で土地が白っぽい。土地の色が、これほどちがうと、結構心理的にインパクトがあった。大阪育ちの私には東京の食べ物の味が濃い味なのにもちょっとおどろいた。まず受験の時に二・三日だけ下宿した家で出してくれた店屋物の親子丼ぶりの味が濃かったのに驚いた。学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした。大阪のうどんは昆布出汁で色はほとんど付いていないのに、東京のうどんはたまりというのか、真っ黒だった。箸でちょっとかきあげると、まっ黄色い卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた。味も濃くてなじめなかった。讃岐うどん全盛の今の東京で、こういう古典的・伝統的なうどんは健在なのだろうか?この伝統的な正統派東京うどんも、この頃のあまりの冷遇ぶりにすねて、もっと濃い味になっているのではないかと心配である。下宿にしろ、アパートにしろ、賄い付きでなかったから外食するか? 自炊するしかない。今は、飯屋スタイルのファミレスがあったり、家庭料理という看板で、みんな、なんの抵抗もなく入っている。しかし昔の飯屋はわびしく貧しく汚いところが多かった。肉体労働者が主な顧客だったと思う。外食も自炊も、どちらも侘びしく孤独で恥の多い作業である。外食という作業はまず、食べるものを決定しなければいけない。次に食べる店を決定しなければいけない。この順序が反対である方が普通かな?学食や生協で食べるのが学生としての本分かも知れないが、すでに昼食をたべているのだから、夕食もそこでというのもナニかと思う。それに大学をいったん離れると、どこかで食べなければいけない。蕎麦やうどんでは腹が持たない。カレーライスばかりも飽きる。だから栄養のバランスのとれた定食のある一膳飯屋に行くことが多かった。しかし、この一膳飯屋に一人で入るということは、一日の内で一番恥多きプロセスで、これは苦痛だった。高校時代はもちろん外食などしなかった。一家揃ってレストランに行くことはあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない。高校時代に下校途中にわざわざ駅前まで行ってたこ焼きの屋台によって密かに食べたたこ焼きはまさに美味だったが、たこ焼きというものは暗がりの中で、何らかの後ろめたい理由があって、舌をやけどしながら、フーフーと急いで食べる場合だけがうまいのだが、余裕充分な状況で明るい場所で、ちょっと冷えかけのものを食べてもそんなにうまいものでもない。後ろ暗い時間に後ろ暗い状況でたこ焼きを食べろ!この日記の読者だけに伝える、私からの「たこ焼き賞味の極意」である。忘れないように頼む!つまり、今までひとりで外食したこともない私にとって、当時の労働者階級の濃い世界の殿堂のような一膳飯屋の汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った。暖簾の前を二三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる。矛盾するようだが一人の場合はまだいい。だれか友人・知人と一緒に歩いていて、分かれる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を裏切りながら通り過ぎることになる。心なしか、店の中からおばさんが「見栄っ張りだね~と、こちらを軽蔑した目つきで見ているような気がする。なんとかその「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに定食屋に確信を持って進むのである。食べ終わって、また暖簾をサッとくぐって町に飛び込み、またなにごともなかったという表情で町を歩く。アパートに付く前に一般住宅の前を通る。家々からは幸せの黄色い電灯がついている。彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに美味な夕食を楽しく、さんざめきながら食しているのだ。本当にこの世の中には神も仏もないものだと思う。こんな高貴な孤独に耐えている私の胸に響く歌があった。ミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である。 ―――― ◇ ――――♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(途中省略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ―――― ◇ ――――本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に夕食を囲むという、しあわせそうな後ろ姿ばかりである。一瞬、背中をかきむしってやりたい気持ちになった。 ~~~~~アパートで自炊というのも侘びしい。佐藤春夫の詩に「秋刀魚」というものがある。妻に逃げられた男が一人わびしく七輪で秋刀魚を焼く。これは極度にわびしい。私はもちろん結婚をしていないので妻に逃げられてはいなかったが・・・。一膳飯屋苦行とどちらがわびしいかは計量化してみないと、数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだ。ともかく、当時の学生の持っている文明の利器と言えば平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 卓上蛍光灯スタンド○ 電気コタツ または 石油ストーブ○ 電気炊飯器当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった。なんともシンプル極まる生活である。ただし私は、この上に二種の神器を隠し持っていた。○ テナーサックス○ 赤井のテープレコーダー 16インチスピーカー付きモダンジャズの同好会に入っていたので、これはどうしても必要だったのだ。自炊の話にもどるが、学生は料理の仕方なんて知らないのだから、肉野菜炒めが定番となる。これは当時のすべての学生の普遍的な真実だったと思う。この肉野菜の部分について、野菜はそのままでいいのだが、肉については注記した方がいいかも知れない。肉は高いからその代わりに、魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する。さらに実情を究めると、実はピンチヒッターでは無くて、魚肉ソーセージの方がレギュラーなのだ。肉の方がピンチヒッターで恥ずかしそうにベンチにいることになる。「この財政状況だと私の出番は無さそうね」と、自分から二軍に行ってしまうこともある。こうなるともう呼び戻せないから魚肉ソーセージがレギュラーとして定着する。この頃はコンビニでこの昔なつかしいレギュラーを散見する。しかしもう、レギュラーの座は張れないで、いつもは二軍だが、監督の温情で久しぶりに一軍ベンチに入った超ベテランと言った風情だ。だれも本当は大活躍を期待していないんだけれど、年に一二度ぐらいは一軍にあげてやらないと隠れファンがうるさいと言うことかも知れない。飲み物はせいぜいお茶だが、ぜいたくな学生は牛乳の配達を受けていた。私も堂々のぜいたく学生で、牛乳+新聞の配達という豪華版だった。しかし暑い夏などはジュースとなる。「渡辺のジュースの素」という当時の大ヒット商品があって、これは毒々しいオレンジ色の謎の粉体で、これを水に溶かして飲むと、味も毒々しいが、無理に考えると「これもジュースの一種である」という実感が出てくる。自炊を共同でやることは、アパートの住人同士が友人になったら可能となる。どうせほとんどの住民が同じ大学だし、金もないので夜はすることもなく退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベル事になる。親しくなりすぎるとお互いいたずらもしてしまう。特に私なんか、いたずらが生き甲斐だったから、ある時、真面目な男のパンツを脱がしたことがある。その男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったが、ある拍子でふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした。彼の裸の下半身はある理由でトップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した。手元の木刀で私を本気で殴った。彼とちがって運動神経の固まりとも言える私は?サッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされた。トイレ・台所(と言っても流しとガス台があるだけ)は共同。もちろん風呂なんて無い。だから近くの銭湯に通うことになる。これは、一膳飯屋の「がまの油タラタラ」状態とは全然ちがう。アパートの友人達と一緒に湯屋に出かけるのは楽しい。 ―――― ◇ ――――♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿 ―――― ◇ ――――私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生はいなかった。後に知ったのだが、偶然なことに、この私が通った風呂屋は「安兵衛風呂」といって、この「神田川」のモデルとなった、と言うか作者が通った風呂屋だったのだ。 ~~~~~いや、ひとりけしからんやつがいた。私の高校からの親友で一緒に進学したのだが、入学して半年するともうガールフレンドが出来た。同じ大学のある運動同好会で知り合ったらしい。この男は女の姉妹がいないくて男の中で育っているヤツだからとても無骨なヤツで、女性に対する好奇心が凶器のように肥大しているやつで、女性の気持ちなどわからない男だから、絶対モテないだろうと・・・油断していた私が悪かった。その女の子はとても小柄だがとても可愛いのである。愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気がとても醜い。おまけに大学近くのアパートで「半同棲という大罪」を犯しているようなのだ。ついに、こーゆー間違ったことをしているカップルには断じて意見をして、仲を裂かなければいけないという義憤に駆られて、ある夜、級友と共に彼のアパートを急襲した。神田川沿いの道の行き止まりの木造アパート、その二階に彼の部屋があった。入ってみるとやはり彼女がそこにいた。可愛い女性と面と向かってみると、一瞬で私の義憤は霧散したばかりか、彼女から「彼女の級友に可愛い女性はいないのか?」という重要情報を聞き出そうという偵察モードに入ってしまった。私には臨機応変という才能があるのをその時始めて知った。偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた。
2006.02.17
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私は今、カラオケで、「禁断の」昴(すばる)にも挑戦している。曲としては、それほど難しいものではないが、この昴という曲は、「自分をほめてやりたいという意欲」に充ち満ちた歌詞である。「自分ほめ」の典型のような曲である。おまけに歌詞が、めちゃくちゃなのである。ロジックが全く無く、ただただ、未来に向けて興奮して、「夜空観察」をする若者がいるばかりなのである。歌詞をチェックしてみよう。 ~~~~~~~~昴(すばる)作詞・作曲・唄:谷村新司1 目を閉じて 何も見えず 哀しくて 目を開ければ 荒野(こうや)に 向かう道より ほかに 見えるものはなし 嗚呼(ああ) 砕け散る 運命(さだめ)の星たちよ せめて密(ひそ)やかに この身を照らせよ 我は行く 蒼白き頬のままで 我は行く さらば昴よ 2 呼吸(いき)をすれば 胸の中 凩(こがらし)は吠(な)き続ける されど 我が胸は熱く 夢を 追い続けるなり 嗚呼 さんざめく 名も無き星たちよ せめて鮮やかに その身を終われよ 我も行く 心の命ずるままに 我も行く さらば昴よ Mmmm……(ハミング) 嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を 嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を 我は行く 蒼白き頬のままで 我は行く さらば昴よ 我は行く さらば昴よ ~~~~~~~~>目を閉じて 何も見えず目を閉じれば、なにも見えないのは当たり前だと思うのだが、どうだろう?>哀しくて 目を開ければなにもみえないから哀しいのか?甘いぞ!>荒野(こうや)に 向かう道より> ほかに 見えるものはなし荒野に向かう道?今ごろそんなの無いぞ。>嗚呼(ああ) 砕け散る 運命(さだめ)の星たちよビッグバンなら分かるが、砕け散る星たちを発見すれば天文学的な大発見だ。> せめて密(ひそ)やかに この身を照らせよ蛍雪の功と言って、昔の中国の科挙の試験を受ける学生は、夜中でも、冬なら雪の反射光で、夏は蛍の明かりで勉強したと言うが・・・○ 雪の反射光があるのなら、その光源があるだろうが!○ その光源で勉強しろよ○ 蛍の光はLEDに似ているが、照度としては読書も出来ない○ 蛍を読書可能なまでに集める時間と手間があれば、昼間に勉強せよ!○ 秋と春の光源も用意しろ> 我は行く 蒼白き頬のままで青白き頬では、長旅は無理!> 我は行く さらば昴よ 行っても、昴は星なのだから、どこに行っても付いてくるぞ!> 呼吸(いき)をすれば 胸の中 凩(こがらし)は吠(な)き続ける肺結核じゃないかな?> されど 我が胸は熱く肺炎じゃないかな?> 夢を 追い続けるなり> 嗚呼 さんざめく 名も無き星たちよ昴だけ? 知ってる星は?> せめて鮮やかに その身を終われよ鮮やかな星というのも、難しいが「その身を終わる星」というのは?星は、その末期に大爆発を起こし、「星雲」状態になるらしいぞ!鮮やかに身を終わると言うことは難しいらしい。「老兵は死なず ただ消え去るのみ」 ダグラス・マッカーサー> 我も行く 心の命ずるままに 我も行く さらば昴よ Mmmm……(ハミング) 嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を 嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を 我は行く 蒼白き頬のままで 我は行く さらば昴よ 我は行く さらば昴よ ~~~~~~~~おちょくって、申しわけなかったが、しかし、いかにも、いかにも、自己陶酔のロジック皆無の文科系の歌詞である。この作詞作曲の人は、この曲を30分で作詞作曲したというが、私は、この人がその時、覚醒剤を使用していたのではないかという疑いを持っている。(冗談 冗談)(笑)この多分に興奮気味の、主観的で自己陶酔したような心境は、まるで覚醒剤を飲んだときのものだと、私は思うのである。なぜそう思うかというと、私は覚醒剤の使用経験があるからである。と言うと驚愕の告白のようだが事実である。と言っても、時は半世紀以上昔にさかのぼるのである。 ~~~~~~~~今から思えば奇妙なことかも知れないが、終戦直後の日本では覚醒剤が、全く禁止されていなかったのである。中でも、もっとも有名な覚醒剤であるヒロポンなどは、薬局でも売っていたのである。関西の漫才師などは、これを服用しながら忙しいスケジュールをこなしていたようである。後に複数の漫才師がヒロポン中毒になっていた体験を告白している。私の父も、戦後、占領軍との交渉窓口になって多忙だったらしく、またその当時はそれがひとつのスタイリッシュな風俗にもなっていたようで、タンスの引き出しにピンク色の錠剤を収めていたのである。幼いものの、覚醒剤の所在を知るには天才的な鼻と灰色の脳細胞を持つ私は、タンスの引き出しを下から順に引き出して階段代わりとして(ほとんど天才!)、一番上の引き出しを引き出し、ピンク色の奇跡の錠剤を手に入れたのである。気がついてみたら私は、家の二階の欄干から、隣の畑地をはるかにながめながら、大演説をしていたのである。今でも覚えているのだが、その時の私は全世界からの私への重い期待に答えようと、大興奮しながら私の将来なすべきことを人々に(正確に言うと畑の野菜達に・・・であるが)訴えていたのである。「ボクは ボクは 大きくなったら 畑にナスを植えて カボチャを植えて それから ボクは・・・」なぜこれが全世界の人々を救う偉大な事業か?というと、こういう複雑な背景があったのである。 ~~~~~~~~当時は敗戦から間もない時期である。大変な食糧難で、みなが、闇(やみ)米の売買をしていた。米が不足していたので、配給制だったのだが、その量の米で生き抜くことはかなり難しかった。それで、配給制をかいくぐって、違反して、米を買い出しに、田舎に行くんである。リュックをかついで・・・、である。田舎に行くと行っても、鉄道設備もボロボロで、切符を買う、列車に乗るのさえ大変。超満員で、乗り込むのも窓からだし、列車の客車の上に鈴なりだったものだ。(これは体験ではなく常識として知っていることである)サツマイモなどの配給があると、近所の決まった場所に取りにゆく。サツマイモが山盛りにされていて、それぞれの取り分を自宅に持ち帰る。腹一杯など食べられない。ご馳走などあり得ない。砂糖だって貴重品で、今のどんなお菓子よりも、当時のスプーン一杯の砂糖が美味しかった。玉子だって、それだけで貴重品で、病気になったときに、貴重な滋養食品として食べたものだ。運動会のご馳走は、海苔巻きとゆで卵だった。 ~~~~~~~~話が長くなったが、そう言う食糧事情だったので、ほとんどの家庭が、自衛策として、自宅の庭で野菜を栽培していた。我が家でもカボチャキュウリサツマイモトウモロコシトマトサトウキビナスなどが、庭一杯に実もたわわに生っていた。ついでだが、昔の野菜は本当に美味しかった。香りも味もつよかった。今のスーパーで売っている野菜は、無味無臭としかいいようがない。まるで野菜である??だから、だから当時の子供にとって、野菜の栽培と言うことは、大変な第一の大事業だったのだ。その自覚?があったからこそ、私はヒロポンの助けを借りて、将来の自分自身の大活躍を、自宅バルコニーでの大演説で、強く誓ったのだ。谷村新司は、具体的になにを誓ったのだろうか?
2006.02.12
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オダギリチガさんがこんな日記を書いている。「人々は前を隠さなくなっている」これを読んで思い出したことがある。昔、中東の国のある大臣が来日して、私がその当時ねらっていた中東におけるあるプロジェクトに関連して、日本の工場施設の見学ツアーを挙行したことがある。彼に日本の技術を見てもらうためである。こうして、その大臣と、東京から九州・四国を一緒に旅行した。この人は、その国の名門の出身で、英国の工業大学も卒業したエンジニアである。その当時の中東(アラブ)の有力者というのは、田舎者で横柄な人が多かったのだが、この人は英国留学という経歴もあり、理科系でもあり、ごく普通の真面目な人であった。ただ真面目なのはいいのだが、真面目すぎるというか、ほとんど会話を交わさない人だった。悪意は無いのだが、とにかく無口である。こちらからむけた話題には、最低限の返事をするが、それ以外は黙りこくっている。ご接待するには、もっとも難しいタイプの人と言えるかも知れなかった。苦難のツアーをなんとかこなして、最後に、愛媛県に入って、ある大工場を見学して、その夜は有名な道後温泉に宿を取った。「温泉に入りましょう」と誘って、風呂場で待っていたら、大臣が来た。なんと水泳パンツを着用している。「いや、日本の温泉や風呂では、そのようなパンツを着用する風習はないのであって、清く全裸になってください」とアドバイスしたのだが、がんとして聞かない。折角の温泉の情緒が台無しである(というほどのことでもないが)。宿での食事を終えて、名だたる道後温泉だから、外にくりだして、ある大型キャバレーに入った。本当はキャバレーというのか、なんていうのか。とにかくローマ風の円形劇場のように、舞台を、大きな客席?が段々に囲んでいる。そうして、女給さんという呼び方は古くさいか? ホステスさん達が大勢ついた。「外人さんだ」ということで、ホステスさんが大臣を取り囲んでいる。大臣も、まるで人が変わったように笑顔で、お互いに言葉は通じないものの、ホステスさん達と「交歓」状態なのである。「う~~ん 今までの私の苦労というものは一対何だったのだろう?」と、手あかの付いた表現だが、感じ入ってしまった。この人へのキーワードは、ただ「女性」だったのである。もちろん、言いにくいことだが、世に「接待」というものがあるかぎり、「女性」は、つきものである。「そうじゃない!」という風に「きれい事」を言う人間を私は終生、許さない! と大げさなことを言ってもしょうがないが、俗に「飲ませる 握らせる 抱かせる」というではないか?それまでのツアーでは、スケジュールがタイトすぎて、宿に着いたらすぐ寝るばかりという状態だったので、この最後の夜に、ある程度ご接待してもいいなとは思っていたのだが、大臣はもう、ご自分で接待モードに突入してしまっている。それに・・・、なにか、大臣を取り巻いているホステスさん達が、どよめいて、歓声を上げだしているではないか。私が近寄ってみると、大臣閣下は、宿の浴衣の前をはだけて、先ほどの温泉では固くガードしていた禁断の「器官」を無料公開しているのである。しかもその器官のサイズが並大抵なものではない。取り囲んだホステスさん達は、争ってそれをのぞき込みながら、笑いさんざめいている。中には献身的な勇気を振り絞って、器官の触感テストまで敢行するホステスさんもいる。それはもう、キャッキャ キャッキャと大騒ぎである。大臣閣下は、それを公開すべき場所では公開せず、逆に決して公開してはいけない場所と相手に対して、思い切った公開をしてしまっているのである。やはり所変われば・・・というか、文化の違いである。というより、ただこの閣下が「いけない感覚」の持ち主であるだけかも知れないのだが。公開テストが終わって、宿に帰ったらまた閣下が仏頂面になったので、あわてて芸者さんを呼んでもらった。若い芸者さんと、古手の三味線の人で、一踊りしてもらって、お酒のお酌もしてもらった。さて、これから後の、その気満々の閣下と芸者さんの自由恋愛は可能なのだろうか?ビッグ・プロジェクトの行方を左右する、重大な岐路に私は立たされた。宿の人に相談したら、直接、芸者さんと相談してはどうか?と言う。閣下と芸者さんは言葉が通じないので、私は芸者さんを近所のスナックに呼び出して、日本国内における国際交流の可能性の有無を、率直にたずねてみた。すると「私は、外人さんは一切お断りだ!」というキッパリした返事である。その清い態度はいいのだが、それに付け加えて、「私は貴方と・・・なら」と言い出すのだ。「何を言うのだ! それだけはいけない いけません」もし閣下に知れたらビッグ・プロジェクトが・・・。ところが、そのスナックでのその間の定かな記憶はないのだが、結局私は、芸者さんの呼んだハイヤーに乗せられ、県内某所の某所に移送され、それから・・・、一種の不自由恋愛を・・・。う~~ん、みなさん、面目ない! 私の若いころのあやまちなので・・・(誤ることもないか?)旅館に遅くもどったら、閣下が「遅いじゃないか」という。私を疑っている顔つきである。「いや、必死に説得したのですが、相手側の拒否の意志が固くて・・・」。成り行きというものは、本当に恐ろしいものである。その後、いろいろ紆余曲折も合ったのだが、結局このビッグ・プロジェクトは入札とならず、消えてしまった。閣下の恨みが乗り移ったのかも知れない。私が後輩達に言えることは、「接待は真面目にやりなさい!」と言うことだけである。ただ、私も、途中までは真面目だったのだが。成り行きというものは、本当に恐ろしいものである。
2006.01.24
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あと二日分の日記を書いたら、私の日記が実際の日付に追いつく。だから、【復刻日記】を埋めよう。と言うことで、下記の日記を【復刻日記】とする。セックスに於ける「性欲派」と「征服派」
2006.01.09
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昨夜の二日酔いで、今日、受講する予定のある講義を流してしまった。というわけで、深い反省と自壊を・・・じゃない、(似たようなものだが)自戒をこめて日記を綴ってゆきたい。昨夜は本日の講義にそなえて真面目に早く寝ようと思っていたのだが、魔の時間!に、あるバーのママから電話がかかってきて「今日はあなたを私のバーの今年最初のお客として迎えたい ついては先ず食事をしましょう」と言われ、断ろうと、必死であがらったのだが、その努力もむなしく?おとなしくママに車で移送されて、梅田に近い十三(じゅうそう)という繁華街へ行ってしまったのだ。(ジャンパーで顔を隠すことはしていない)私は車を持っていないので、いつもこのママに乗せてもらって同伴となることが多い。このママはまだ三十ちょっと、水商売をしているが、元はと言えばしろうとで、(だれでもそうだろうが)、お姉さんの友人がバーをたたむと言うことを聞いて、いきなりそのバーの権利を買い取って堂々、水商売の人間となったという無謀な女性である。元しろうとだけに、水商売の臭いが全くしない人で、優しく、かなり優雅で、正直で可愛い女性である。しかし、勝手に?私と恋人同士という関係を設定してしまって、毎日のように電話をかけてくる。それだけならいいのだが「店に来てくれ」と強引である。「あなたがいないと、店で淋しいし不安だから」という勝手な理屈で強引なのである。まあ、これは本当らしいが。なにしろ元しろうとだから。女に甘い私は、いやいやながら?ついつい、その誘いに乗ってしまう。私は「頼むから他に男を作ってくれ」という、奇妙なお願いをしてみるのだが、「あなたでなければダメ」という強引さで聴く耳をもたない。それに「他の店にいっさい行ってはいけない」という強引憲法を作って私をくるしめるのだ。歌手志望の私の娘も、二三回このバーに行って、カラオケを熱唱したことがある。娘はこのママが好きで「キャットウーマン」と読んでいる。最初にあったときにキャットウーマン風のジャンプスーツを着ていたからという単純理由からである。このママは、タレントの青田典子という女性に似ているかも知れない。あれほどは美人ではないが、仲間由紀恵にも少し似ているかも知れない。このママのバーも相当通ったいるから、私としてはもうそれほど面白いわけでもない。昨夜は、お客が多いこともあって、店を途中下車?して、他のバーに行ってみた。それから、その酔いの勢いで、さらに「悪女ママ」の店に入ってみた。「悪女ママ」とは私の命名である。悪女ママの店も客で一杯で、私はカウンターに座ったのだが、そのうちに悪女ママが横に座った。「ママ、相変わらずきれいだね」と、私らしからぬセリフを吐いてみたら、「あなたは私のタイプなのよ」と返してきて、いつもになくしおらしい。そんな風に二人でいいムードになっていたら、若い客がカンターに来て、盛んにママに話しかける。ママに「何か困ったことがあったら電話してくれ」としきりに言う。つまり、ヤクザなどが入って来たら、私が追い払ってやるという意味だろう。と言うことは、彼自身もちょっとその方面の人間かも知れない。ママは「うちはヤクザなんか決して入れないから、そんな必要はない」とその若い男を相手にしない。するとその男は今度は私に話しかけてきて、私も仕方なくつきあったが、要は、せっかく悪女ママと相思相愛モードに入りかけているのに、このおじゃま虫に早く帰って欲しい。その一心で、なんとその若い男の飲み代まで払ってやって帰ってもらった。その後、ママと食事に行って(ママは用心・アリバイのために女の子をひとり連れてきたが)、その席で私は酔っぱらって「以前から実はママが好きだった」などと、告白してしまったのである。若い人の言葉で言えば、「コクッて」しまったのである。実に恥ずかしい。このママと初めて合ったのは昨年である。ある料理屋で私が飲んでいたら、このママが客らしい男を数人連れて入ってきた。ママは、入って来るなり私を見て「まあ 男前ね」と、客を連れているのに、私に声をかけてきたのである。実は私は、これは秘密なのだが、ほめられるのが大好きな男である。ましてや、このママは、雪のように白い肌にピッタリした身体の線が浮き出た黄色いドレスを着た、長身でグラマーである。入ってきたとたんに、セクシーオーラが店一杯に拡大すると言う女性である。それにお顔も、めったにいないほどのセクシーな美貌である。私はもっとほめてもらいたくて、じっと待っていたのだが、ママは、それっきり、今自分が言ってことを忘れたように客と談笑し始め、私はがっかりした。山口百恵じゃないけれど、「それっきり それっきり それっきり~ですか~~?」という恨みの思いで一杯である。そのうちに、男性客はなぜか、みな帰ってしまった。すると、セクシーママが勝手に(うれしい勝手なのだが)移動してきて、私の席にド~~ンと座って、私にそのグラマーな身体をすり寄せたのだ。女に弱い、特にグラマーなセクシー美女には、もっともっと弱い私は、すっかり夢心地になって、二人で楽しく歓談したのである。それだけではおさまらなくて、そのママに腕をとられて、彼女のバーに拉致されたのである。とてもうれしい拉致であった。それからの記憶が飛んでいるのである。もうそれまでに、いいかげん飲んでいたのに、こんなに、興奮するほどのセクシー美女と親しく歓談したのだから、酔いのまわりは超特急である。ママの店に入ってママと少し話をしたまでは記憶にあるのだが、それ以降は、フラフラになって帰路につく記憶がすこしあるだけである。翌朝、財布を見たら、ほとんど残金がない。う~~ん、美しいバラにはトゲが一杯・・・らしい。そうとう高額の飲み代を払わされたらしい。この顛末が、私が彼女を「悪女ママ」と呼ぶ由縁である。こんな目にあっても、セクシーママに未練が消えない私は、翌晩も遠路はるばる、ママの店を訪れた。ちょうどその時、ママが数人のホステスを引き連れてご出勤されている時に出会うことになった。この夜のママは、ラメの入った白いドレスで、やはり身体にピッタリで、まるでハリウッド女優のように美しくてセクシーである。「今晩会ったら、昨晩のことを、きつくクレームしてやろう!!」と思った固い決心も「あら いらっしゃい」とあでやかにほほえまれると、すぐ霧散して、ママが隣に座ったときには、あがってしまって、グニャグニャになってしまって、「きれいだね」などと、反対にお世辞まで言ったしまったのだ。それ以来、私はこの「トゲのあるバラ」ママのバーを、敬してとおざけて来たのだが、そのうちにそんなに真面目な私に悲劇が襲ったのである。ある別のバーのママが(ママが一杯でややこしいが)、私に勝手になついて、電話攻勢をかけてきて、やむなく?店に行くと、客が帰った後、私を連れて他のバーに遊びに行くのである。遊びに行くと他人事のようだが、費用は私もちである。そんなある日、じゃなかったある夜、あの悪女セクシーママの店の前を通りかかった時、私を市中引き回しにしていたその別のママが激しく酔っぱらっていて、後で聞いたところによると、なんか、勘違いをしたということだが、強引に私をその悪女ママのバーに押し込んだのである。私も実は逃げようとしたのだが、悪女セクシーママが出てきて「いらっしゃい」と婉然と笑ったので、帰ろうにも帰れなくなった。それだけならよかったのだが、支払いの段になって、私の財布にはほとんど現金が無いことに気がついた。悪女ママに「近くのコンビニのATMで金を下ろして来るから」と言い残して私はコンビニに向かったのだが、それからの記憶が飛んでいる。翌日、娘と料理屋で食事をしていると、約束した悪女ママがやってきた。(ママが一杯である)「朝の四時まであなたの帰ってくるのを待ったのよ」と文句を言われ、平謝りで支払いを済ませた。悪女ママは私の娘に「あなたのお父さんは男前だけど(うれしい)、酔っても顔色が白くなるだけで態度が全然変わらないから、見分けが付かなくて困るのよ」と八つ当たりをして帰って行った。それで私は、それ以降、出来るだけそのバーには行かないように我慢と忍耐をしてきたのだが、時々、悪女ママが電話をしてきて、「食事をしよう」とか、「スパ(温泉)の券があるから、一緒に行こう」などと私を誘うのである。食事はともかく、スパ(温泉)に一緒にいっって、ママのセクシーな白い肉体をゆらゆら揺れる透明な(透明であって欲しい)温泉のお湯越しに見てしまったら、(ドキドキ)、私はその先どうなるか?まったく責任を取れないということには自信がある。悪女ママは、もちろんそんなことは承知の上で誘ってくるのだろうけれど、これは精神的な拷問の一種である。本当に残念だが、丁重にお断りした。このように美しい女郎蜘蛛の魔手から何とか逃れた私だが、その私に昨年末、またしても悲劇が襲ったのである。(またか?)昨年の晦日の夜というと十日ほど前だが、キャットウーマン・ママのバーで飲んでいると、ホステスのひとりと些細なことでケンカになった。古代日本が朝鮮半島の百済を助けるために出兵した「白村江の戦い」というものがある。白村江の戦い出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』私がその白村江の戦いを例にとって「日本は朝鮮を助けたこともあるんだ」と歴史認識を説いていたら、店にいた韓国人ホステスが、(今はどの店もホステスはかなり多国籍である)「でも、日本軍は朝鮮の民に暴行など悪いことをしたと教科書にのっていた」と水を差したので、愛国者である私は激怒して、席を立ったのである。激怒の成果として、二三軒バーをはしごして、キャットウーマン・ママの店の韓国人ホステスの歴史認識への正当な見せしめとして、あの禁断の「悪女ママ」の店に、久しぶりに足を踏み入れたのである。(こういう正当な理由があれば、禁断の園への立ち寄りも合法である)踏み込んだ私がドアを開けたら、私をふり返って見た悪女ママは、驚きとうれしさで顔をパッと輝かせて(これは本当にそういう印象だったのだ)、私を迎え入れてくれてしまった・・・。(変な表現かな?)しかし、客は年末最後の日とて、満杯で悪女ママは、私の席になかなか来ない。その代わりにチーママが私について、私の黒のカシミヤコートと象牙色のマフラー、ブレザーと水色のタートルネックシャツという服装を「あなたはこの店客の中で、ベストドレッサーだわ」とほめてくれて(私はほめられるのが大好きである)、その上になんと「私のボーイフレンドになってくれない?」と速攻で聞くのである。「いや、そんなわけには・・・むにゃむにゃ」と、なんとか合意をさけたのだが、その内にそのチーママが、ふと席を立った。すると、私の席の後の席にすわっている悪女ママが(ママが一杯でややこしいな)席越しにそっと手を伸ばして、だまって私の手を握りしめたのである。私はドキドキしながら、ふり返ってしばらく悪女ママと顔を見合わせていた。すると間の悪いことに?チーママが帰ってきて、二人が密かに手をつないでいる現場を見てしまった。それからはチーママは「ボーイフレンドになれ」という要求を引き下げ、私はまもなく店を出て近くの料理屋に入って飲み直した(飲む機会が一杯である)。するとまもなく、店を閉めた悪女ママが料理屋に入ってきて、二人は楽しく歓談(表現がダブっているかな?)したのである。というわけで、こういう因果関係があって、昨夜の出来事につながったのである。(それがどうした?)今年は、禁酒を目標にしよう。もう私も年なのだから、女性はあきらめよう。(こういうのを努力目標という)
2005.12.31
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「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」昨日の日記に、正月になるとドクロの突いた杖を突いて町を練り歩いたという一休禅師のこの警句を書いたが、私は小さい頃に、この話の載っている絵本を持っていて、ドクロ杖に編み笠をかぶった一休禅師が墨色の僧服で歩く姿の絵の記憶がある。この正月は昔の正月だから、人々は自宅にこもり物音一つしない世界だっただろうから、余計に一休禅師の奇行が目立ったに違いない。こういう正月テーマの日記はやはり、三賀日の内に書いた方がいいだろうと思って書いてみる。私の想い出の中にある、古色蒼然とした、旧い、昔の日本の正月の姿なのだけれど、それを知らない、純正日本製品ではない私の娘のためにも書いておこうか。私の子供時代の昔の正月というものは、「神を迎える」という正月の基本姿勢に則っていて、正月というものが本当に特別なものだった。「もういくつ寝るとお正月」という唱歌?があるが、当時の正月と言えば子供にとっては、本当にワクワクしながら待つ(時には興奮で寝付きが悪かったほど)一年最高の行事であり、特別な雰囲気のある時間や空間に包まれ、ふだんに無いご馳走であるおせち料理を食べられ、お屠蘇を戴き、酸っぱく渋い生ワインをすすり、甘くて美味しい「赤玉ポートワイン」も戴ける天国であった。正月のおせち料理は、祖母と母によって晦日ぐらいから作り始められて大晦日には完了。お餅も家庭で撞いた。大量の餅米を蒸してそれを撞いて餅を作るのである。餅つき用の大きな石臼と木製の杵(きね)が、当時はほとんどの家庭にあっって、大晦日あたりは隣近所で「ペッタン ペッタン」という音が響いたものだった。杵を撞くのは祖父や父であり、餅をこねるのは祖母と母であった。つきたてのお餅は木製の箱のようなものに入れられて重ねられる。柔らかで暖かで、すぐにでも食べたいのだがなかなか食べさせてもらえなかった。その餅も、白い餅ばかりでは無く、ヨモギを入れた草色のものや、紅の食品顔料を入れ炊いたのだろうけれど、桃色のものがあって、さらに小豆などが入った餅も作られた。正月のお供え餅も、多分、自家製だったと思う。お正月を控えて、どの家も大掃除をした。当時は家具なんてほとんど無いし、油ものの料理もせいぜい天ぷらぐらいだったから、大掃除も楽だった。箒で畳を掃いて、障子や家具にはたきを入念にかければそれで終わりである。確か畳には日本茶の出し殻とちぎった新聞紙を濡らしたものを撒いた。そうするとゴミがよく取れたのである。年越しそばを食べ、紅白歌合戦をラジオで聞きながら(と言いながらあまりハッキリした記憶は無いが)、時は経って、やがて除夜の鐘が聞こえ出す。その時にはすでに和服姿に変わった祖父と父が庭に出て、鐘の鳴る方向に手を合わせていた。まあ、このころには、まだ幼い子供であった私だから、すでに子供時間の限度を過ぎていて、多分、布団の中で白河夜船状態であったはず。それにしても、子供時代の私には夜更かしが出来なかった。9時頃になるともう眠たくて仕方がないのである。== 続く または 翌日の日記に続く ==
2005.12.27
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私のリンクのある日記に、変態というか?痴漢というか?その種の男性の話題が書かれてあった。よく欧米の漫画に、コートを着た変態おじさんが描かれている。若い女性の前に立つや、コートの前を広げて、自分の真裸を女性に見せて、驚き混乱する女性の姿を見て快感を感じる、いや見せる前から性的興奮を感じている・・・という種類のおじさん達だ。そんなおじさんが、女子学生にコートを開くという実話について書かれていた。「おじさん」と一応は書いたが、別に「おじさん」でなくても良い。「おにいさん」でも「おじいさん」でも、こういうことをしたい人はする。それに「欧米人」でなくてもいい。このごろは、この日記に書かれているようにこの欧米型変態行為が(変態という言葉に対して、私はこだわりがあるのだが、今回はこのまま進めたい)日本でも散見されるようである。ところが、この行為が女性によって行われたらどうだろうか?「まさか!?」と、ほとんどの人は、特に女性は思うだろうが、私はその「まさか」の行為の「被害」にあったことがある。「被害」に会ったからと言って、決して「被害届」など出さない種類の「被害」である。私がまだ高校生の時代だから、昔々の物語と言ってもいい。受験のための予備校の模擬試験を受けたことがある。その日も朝、それも早朝に大阪の中心にあるその予備校に到着する寸前だった。曲がり角に大きな松の樹が生えていて、そこにさしかかると、何か特別の気配を感じた。ふと樹の方を見ると、そこには「なんと」「信じられないような光景が!!」。ちょっと近頃のテレビ番組のアナウンスのような口調になったが、実際に信じられないような風景というか、何というか、そんなものが目に入った。それは、ほぼ全裸の女性だった。色白の豊満な裸体の女性が、ブラジャーとパンティーだけの姿で、胸を両手で覆いながら、私にニッコリ笑いかけているのだ。それに、お顔もなかなかの美人である。見ようによれば、脱衣して、松の樹に羽衣を掛けた裸の天女といった風情である。「ブラジャーとパンティーだけの姿で」と、一応書いたが、本当にブラジャーとパンティーを着用していたのかも確信がない。とにかく艶やかで真っ白の、豊かな肉体だったことは確かだ。時間がなにしろ早朝だから、模擬試験を受験する学生も、まだ歩いていない。歩いているのは私だけだから、彼女の狙い?が私であることは間違いない。馬齢を重ねた今の私でも、いきなりこういう状況に遭遇すると、どう反応して良いか?よくわからない。ましてや、その時の私は、高校三年生である。それも、今の高校三年生ではない。昔の純情な高校三年生である。大きなショックを受けて固まりながらも、私は視線をごく自然に予備校の方角に固定したまま、何も見なかったように表情を変えずに歩いて、難局を無事乗り切った。ただ、この対処方法は私の人生の中において正解だったのだろうか?ニッコリ笑ったこの女性の厚意?に応えて、少なくともその美しい裸体を鑑賞しながらお世辞の一つでも言った方が良かったのだろうか?大学受験の模擬試験の代わりに、セックスの模擬試験をしてくれたかも知れない。もしそうなら、後々までも私を悩ます「おくて」傾向が是正されていたかも知れない。しかし、冗談はともかく、常識的に考えれば、彼女は普通の精神状態の女性では無かっただろう。自分の魅力的な肉体を予備校に向かう若い男の子達に見せつけて快感を感じるという、貴重な?特殊な精神状態にあった女性だと思う。ことによると正常とは言えない精神状態の女性だったかも知れない。人通りが多くなると裸体での出張は取りやめて、正常に?衣服を着用して帰宅する常習犯だったのだと思う。多少のショックを受けたとはいえ、私はこの事を理由に警察に「被害届」を出すことはしなかったし、「汚らわしい」などとも感じなかった。それに比べて、「コートおじさん」の場合は、女学生たちに被害届を出され、警察が動く。双方を比べてみると、男性が「被害者」だった場合は、女学生の場合と、どうしてこうも違うのだろう?本当はここから、男女の「性差」について深い科学的・哲学的考察をしなければいけないのだろうけれど、今日は、「池乃めだか」ではないが、「これぐらいにしといたるわ」。
2005.09.07
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私の愉しみ。今日は、「パイプ煙草」と「葉巻 シガー」について ~~~~~~~~私の紙巻き煙草歴を披露したが、初体験としては紙巻きをいたずらで喫ったレベルだったが、大学に入ってからパイプ煙草に移行した。高校から山岳部なんかに入っていたから、山の野営地や北アルプスの槍ヶ岳などの頂上でパイプをくゆらせる岳人の姿に憧れたことが多分に影響している。先ずパイプをデパートで買ってきて、国産初のパイプ煙草の「桃山」も買ってきて、ワクワクしながら喫った。初めてのパイプはそのまま煙草葉を詰めてはいけない。もしそうすると、吸い口の内側が焦げてしまう。内側を保護詩、煙草そのものの味を味わうためには、先ず内側にカーボン(炭素 つまり炭)の層を形成しなければいけない。そのためには内側に蜂蜜を塗って煙草葉を入れて喫うのである。そうすると、化学的にはよくわからないが、蜂蜜(糖)が焦げて、カーボンになるのだ。それを数回繰り返してカーボン層が出来てから、おもむろに喫いだす。もちろん、蜂蜜が塗っていあるのだから、火の回りは悪い。おまけに、この桃山というパイプ煙草は火付きが悪く、吸い出してもすぐ消えてしまう。今の桃山は、葉のブレンドを変えたらしくて、その点が改良されているが。私は凝り性なので、パイプもいろんな種類のものをいくら買ったかわからないほど買った。私が今でも持っているパイプの中心は、アイルランド製のピーターソンという有名なパイプだ。普通のパイプは、吸い皿から煙管までの個所にアルミ製の細いパイプが据え付けられるようになっている。パイプの煙の熱を冷却すると同時に煙の中の水分を落とす機能がある。このピーターソンのパイプには、このアルミパイプが無い。代わりに、水分をためる小さなへこみがあるだけなので、作りがシンプルであつかいやすい。パイプ煙草で言えば、ときどき夜遅く、酒を飲んだ帰りに父が連れ帰った父の友人がパイプ煙草のみで、いつも私の自宅の茶の間でパイプに赤い缶入りの「プリンス・アルバート」というパイプ煙草を詰めては旨そうにふかしていた。私もこの煙草が気に入って愛煙した。やや甘口の味。このプリンス・アルバートとはこういう人物である。要するに英国のヴィクトリア女王のご主人。アルバート== 続く ==
2005.09.02
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昨日に続いて、またまた「私の愉しみ」。下記は、趣味とか夢について、私が楽天日記のプロフィール欄に書いたこと。■ はまってること = 古本の購入■ 趣味 = 読書 または、本を買うこと■ 好きな音楽 = 主に モダンジャズ クラシック■ 欲しいもの図書室地下音楽ホール昼寝と読書とのためのパティオハバナ葉巻貯蔵室勤勉な召使い美しい女奴隷中華・フランス・日本料理の各専門コック世界旅行飛行船大型ヨット日本銀行券少々 ~~~~~~~~■ ハバナ葉巻貯蔵室先ず、紙巻き煙草について書いてみよう。私が喫煙を覚えたのは高校三年生の頃だ。誰でも経験があると思うが、あの時期というのは、大人がやっていることを早くやりたくてたまらないものだ。しかし、賢明な私のことだから、「試しに」喫ってみただけで、しかも肺にまで吸い込むことはしなかった。そのころ吸った紙巻き煙草を想いだしてみよう。光 私の祖父が喫っていたニコチンの強い、日本の煙草葉の煙草ピース ご存じのピースである この箱のデザインを担当したレイモンド氏は著名なデザイナーであって、戦後にバットマンが乗りそうな斬新なフォルムの「スチュードベーカー」という(懐かしいな~)米車をデザインしている。バージニア葉の香料が特徴ピースを缶にいれた通称「ピー缶」というものがあった。何本入っていたのか?覚えていないが、30本ぐらいだったかな?よく雲一つ無い天気を「ピー缶」というが、これはピー缶の外側の濃いブルーに引っかけたものだと思う。ピー缶には甘酸っぱい想い出がある。学生時代、帰省してある選挙のアルバイトをした。その選挙事務所に手伝いに来ていた美人の医者のお嬢さんと相思相愛の恋に落ちたのだが、間もなく(いつもこれだよ!)その私より1歳年上のお嬢様は、年頃だから縁談があるとかで、まだ学生の私を冷たく振ったのだ。「煙が目にしみる」とは、こういうことだ!(今怒ってもしょうがないが)みのり光をちょっとマイルドに、味を田舎臭くしたような煙草くみ取りに来る百姓のおじいさんが喫っていたいや、あのおじいさんが喫っていたのは、キセル煙草の「桔梗―ききょう」だったかな?ゴールデンバット紙芝居に「黄金バット」というのがあったが、これと関係があるのかな?斬新というか、キッチュというか、奇抜なデザインだった。味はインドの煙草じゃないかと思うほどのもの。しかもスカスカ。朝日フィルターじゃなくて、白い紙の吸い口がついていた。花柳界の人が主に吸う煙草だという認識があった。太宰治は、同じような「敷島」を喫っていたという。ハイライトじゃ~~~~ん!ついに出たハイライト。当時は超モダンだった。ホープショートホープが旨いと言う定評があった。AAA スリーA赤いパッケージみどりメンソール初心者?には、喫いやすかった富士とても上品で美味しい煙草だった私の紙巻き煙草歴は、富士で終わった明日は、「パイプ煙草」と「葉巻 シガー」について
2005.09.01
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私の今までの人生は、楽しいことでいっぱいだったと思う。(つらいこともあったけれど、つらいことは忘れる性格)その楽しいことの中でも特に海外出張で世界の僻地に行くことが、私にとって冒険であり、楽しみだった。その「僻地での冒険」に代わって、今は「本の世界の冒険」が、楽しみになった。そのことについては、以前に日記で書いたので、その【復刻日記】を明日ぐらいにアップしたい。(どうも日記を書く時間が取れない)昔の私は、かなり物欲に燃えた時があった。高級ブランドものがどれだけのものかという好奇心も手伝ってのことだが、高価なステレオ装置やカメラを買った。スノビッシュな会員権なども六本木の「プレイボーイクラブ」や、英国で最大の「クラブ」の会員でもあった。(英国の有名クラブの会員であった日本人は少ないだろうと思う)と言っても金持ちというほどの財力があったわけではないから、つつましい物欲ではあったかもしれない。しかし、今は私の持ち物で比較的高価な(であった)ものと言えば、カメラぐらいのもので、その他には、なにもない。日本では車を持ったことがないし、高級ステレオ装置は海外に置いてきてしまった。時々、一度は高級外車、それもスポーツカーを買ってみたいと思う時もあるが、親の介護で遠出をすることが出来ない現状だし、実際に買うつもりはない。代わりにホンダのBENLY S50という、50ccながらカッコイイ「オートバイ」の新同品があったので買った。(普通二輪の免許は持っていないため、50ccとした)オートバイでのちょっとしたツーリングの方が、高級車でのドライブより楽しいのではないだろうか?(このところ酒気が切れないので、クラッチ操作が必要なこのオートバイにはまだ乗っていない) ~~~~~~~~まずステレオについて。ステレオといえば、(今はオーディオ・コンポと言った方がいいかな?)、今は、安いコンポでも良質な音が出るようになった。スピーカーが進歩したからだと思う。と言ってもさすがに小さなスピーカーでは迫力のある音は出ないけれど、音というものは相互に比較しなければ、「それなりに」その音で、ある程度は満足出来るものだ。・・・と言いながら、本音としては、昔聴いた大型高級スピーカーとそれを思い切り鳴らすことが出来る音楽室が欲しいと思う。高級スピーカーの大音量に身体をゆだねると、素晴らしい快感が得られるものだ。昔、新宿などのモダンジャズ喫茶で聞いたJBLやアルテック、それに秋葉原のある店にあったタンノイ・オートグラフの音は、例えばそれがヴァイオリンなどの弦楽器だったら(皇太子に敬意を表してヴィオラでもいいけれど)、松ヤニの粉が飛ぶぐらいの臨場感で迫ったものだが。その秋葉原の店とは、秋葉原の駅前ビルが出来る前という昔に、その場所の奥まったところに確か佐藤無線のオーディオ試聴室があった。オーナーが半ば趣味で作った視聴室だと思うが、タンノイ・ジムランシング・アルテックその他のスピーカーのそうそうたる銘器が大きな部屋にズラリと並んでいて、それに加えてアンプ類(プリアンプ・メインアンプ)、ターンテーブル・アーム・カートリッジ・・・。これらも数多くのものが備え付けられていて、すべて一流のものばかり。そこでリクエストをすると、これらを鳴らしてくれるのだが、さらに要望があれば、いわゆるブラインド・フォールド・テストというものをやってくれる。つまり、予め何と何の組み合わせなのかを知らされずに聴きながらそのパーツを当てるのだ。私は、耳がいいらしくて、アンプやカートリッジの違いをほぼ間違いなく聴き分けることができた。もっとも、いまはこのブラインドと言う言葉が、盲人への差別語になっているので、別の言い方をしなければいけないようだが、差別語規制というのもおかしなものだ。
2005.08.28
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ニコルさんの日記で「デートの際の割り勘」というテーマが出ている。このごろは、男女割り勘のデートも多いらしい。私は女性に勘定を払わせたことが無い。古い人間だからだけれど。女性の方から誘われた場合でも、その誘いを、あまり積極的には受けなくても、結果的に誘いに応じた限り、私が払った。「時代遅れ」だろうけれど、男とはそう言うもの・・・という固定観念がある。一度だけ女性からお金を借りて返さなかったことがある。学生時代からつきあっていた女性と、社会人、新入社員になって始めて男と女の関係になった時。朝、ホテルの支払いをしたら、財布の中にはもう、会社へ出勤するタクシー代も無くて、仕方なく彼女からタクシー代を借りた。○○○ちゃん、ごめん。でも、あの後、すぐ結婚しちゃったんだよね、君は・・・。だから、返す機会を失ったんだよ。
2005.08.01
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