太平洋戦争前夜の日本を揺るがした国会演説

そのとき歴史は動いた
我が言は万民の声
太平洋戦争前夜の日本を揺るがした国会演説



2003年5月21日(水)21:15~NHK
斉藤隆夫(帝国議会衆議院議員)


議会の形骸化に反対し、
言論を武器に、
議会と言論を守る戦いに命を賭した政治家


◆歴史的背景(昭和)
 3年
普通選挙実現 (選挙民4倍=1200万人に増加)
斉藤氏は普通選挙法立案の一員であった。
氏が政治家になって間もない頃に著した「比較国会論」
「立憲政治の究極の目的は、 国民の共同意識をもって政治の原動力と成すにあり」 という思想に基く。
 4年
大不況
その中で政治家は収賄や国会の中での乱闘騒ぎなど、不況に対処できず、国民の不満が募った。
そんな政治の空転の中、軍部の台頭が目立つようになっていく。
 6年
満州事変
 7年
5.15事件 (軍人による犬養毅首相暗殺)
11年
2.26事件 (軍による政府を転覆の企て)
11年
広田弘毅首相に組閣の命 が下る
広田内閣には、2.26事件の責任を軍部に問い、軍部の政治介入を抑えることが期待されたが、外務大臣に推薦された吉田茂は自由主義者であるということで、入閣を許されず、組閣を円滑に行うために、広田首相は妥協を繰り返し、国民は失望した。
11年
第69帝国議会質問演説
軍部の政治介入は議会政治の破滅への道を開くとして軍部を批判
並びに、党利党略のために軍部と手を結ぶ政治家の堕落を批判。
12年
日中戦争勃発
この年、計上された臨時軍事費は25億円。
これは当時の国家予算一年分に当たる。
12

13年
「国家総動員法」が提案 (戦争追行のために国力の結集が必要として)
この法律は、戦時下に於いて、国民の徴用や物資の統制の権限を、議会の承認無しに政府に与えるものである。
13年
第73帝国議会質問演説
国家総動員法は、軍事作戦を進めるにために、あらゆることが可能になる法律。
斉藤氏はこれを議会制の根幹を揺るがす法律だとして反対演説を行う。
13

14年
  日中戦争拡大による財政悪化に対処するため、法令・勅令によって国民生活の統制に乗り出すことになった。
電力、米などの 物資統制 はいうまでもなく、 賃金の凍結 、奉仕活動や軍需産業への 動員 などが強制される。
そして、 言論統制 が強まり、平和主義自由主義の学者などは逮捕投獄され、新聞雑誌などの出版物への統制も強まった。
戦争遂行の妨げになる声はあげることが出来なくなった。
言論の府である国会でも議員の演説にも軍の監視がつき
演説内容や、誰がどの演説に拍手を送ったかを記録されるようになる。
15年
日中戦争の犠牲者は6万人を超え、戦況は泥沼化。
新たな打開策を示せない政府。
第75帝国議会質問演説
軍部は、この戦争は世界正義の戦争であると宣伝することで、国民の不満を押さえ込んでいた。
しかし斉藤氏は、 「世界の過去の正義を掲げた戦争によって 平和を得られた試しはただの一度もない。」と自論を掲げて、 ついに議会で、核心に迫る質問演説を行う日がやってくる。
15年
  政党は解体し、 大政翼賛会 へと移行。
(大政翼賛会…戦時下の政治の一元化を目的とする)
16年
太平洋戦争
17年
翼賛選挙
(翼賛選挙とは、全議席分の候補者を翼賛会が推薦し立候補した選挙)
斉藤氏は、翼賛会の推薦を取らずに、故郷から出馬。
同じ地区の6人の候補者の中で、トップ当選を果たし、除名2年後衆議院に返り咲く。
「弁士注意!」という警察の注意に対して、聴衆の側からは「演説続行!」という声があがる。そういう時代の選挙。
20年
終戦
21年
  斉藤氏  吉田内閣に入閣 (国務大臣就任)
24年
  斉藤氏  病没

◆演説文(抜粋)

昭和11年5月7日 第69帝国議会 質問演説

「もし、軍人が政治活動に加わることを許すということになりまするというと、政争の末、ついには武力に訴えて、自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢いでありまして、ことここに至れば立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありますからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならないのであります。

卑しくも利権政治家たるものは国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家のために公明正大なる所の政治上の争いをなすべきである。 軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり、堕落であり、また実に卑怯千万な振る舞いであるのである。」

この演説は2.26事件の始末を憂えていた国民に大きな勇気を与え、翌日には新聞各紙が一面に取り上げた。


戦争遂行のために国力の結集が必要であるとして、「国家総動員法」が提案された。
この法律は、戦時下に於いて、国民の徴用や物資の統制の権限を、議会の承認無しに政府に与えるものである。
議会と政党の存在意味がなくなるとして、斉藤氏はこの法律に反対をする。

昭和13年2月24日 第73帝国議会 質問演説

  「政府の独断専行によって決したいからして、白紙の委任状に判を押してもらいたい。これより他にこの法案前文を通じて、何らの意味はないのである。」

しかし、賛成多数で可決。

昭和15年ごろになると、日中戦争の犠牲者は6万人を超え、戦況は泥沼化。新たな打開策を示せない政府。

軍部は、この戦争は世界正義の戦争であると宣伝することで、国民の不満を押さえ込んでいた。
斉藤氏は、
「世界の過去の正義を掲げた戦争によって 平和を得られた試しはただの一度もない。」 と自論を掲げて、
ついに議会で、核心に迫る質問演説を行う日がやってくる。

昭和15年2月2日 第75帝国議会 質問演説

「いったい支那事変(日中戦争)はどうなるのであるか。いつまでこれは続くものであるか。政府は支那事変を処理すると表明しておるが、いかにこれを処理遷都するのであるか、国民は聞かんと欲して聞くことが出来ず、この議会を通じて聞くことが出来うるであろうと期待しないはずもないであろうと思う。(拍手)
まず、第一に、我々が支那事変の処理を考うるに当たりましては、寸時も忘れてはならぬものがあるのであります。過去2年有半のながきにわたって、我が国家国民が払いたるところの、絶大なる犠牲があるのであります。すなわち、遠くは海を越えてかの地に転戦するところの百万二百万の将兵諸氏をはじめとして、内にあってはこれを援護するところの国民が払いたる声明、自由、財産、その他いっさいの犠牲は、いかなる人の口舌をもってするも尽くすことは出来ないのであります。(大きな拍手)

この現実を無視して、ただひたすらに聖戦の美名に隠れて、 国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和。かくのごとき雲をつかむような文字を並べ立てて、そうして、千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、
      (ここから野次と怒号で聞き取れない)
これは現在の政治家は、死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。
政治家はいかなる時も、国民を裏切ってはならない。

事変以来、我が国民は実に従順であります。
言論の圧迫に逢うて、国民的意志、国民的感情をも披瀝することが出来ない。
政府の統制に服従するのは何が為であるか。
政府が適当に事変を解決してくれるであろうことを期待しておるためで、 然るに、もし一朝、この期待が裏切らるることがあったならどうであるか。
国民は実に、失望のどん底に蹴落とされるのであります。

総理大臣は、ただ私の質問に答えるばかりでない。
この機会を通して全国民の理解を求められんことを要求するのである。 私の質問はこれをもって終わりと致します。」
                                                     (1時間30分)

演説後、議長は
「聖戦の美名云々」と、正義の戦いを冒涜したとの理由で、 自らの権限で、議事録から演説内容の3分の2(約1万字)を削除。
軍部からも「聖戦を冒涜した」として、懲罰委員会にかけられた。
同じ理由で、衆議院議員を除名。

除名議会決議の投票結果
  除名に賛成票…296
  棄権……………144
  除名に反対票… 7

◆除名後に作った漢詩


我が言は 即ち是れ万人の声

褒貶毀誉は 世論に委す

請う 百年の青史の上に看る事を

正邪曲直 おのずから分明



わがげんは すなわち これ ばんみんのこえ
ほうへんきよは よろんにまかす
こう ひゃくねんの せいしのうえに みることを
せいじゃきょくちょく おのずからぶんめい



◆ゲスト
保阪正康(ノンフィクション作家)

この演説は
議会政治を守護しようとする悲鳴でもあり、勇気の証でもある
この演説があってこそ、私たちは議会政治を信頼できる。
議会政治への信頼感をなくしてはならない。
国民の声が政治の場に届かないという不満が充満している中、
その国民の声を政治に届けることが自分の使命だ。
自分の生きている時代の国民にだけでなく、
いつか、議会政治が復活する日に生きている国民に向けて、
この演説を残しておくことが自分の歴史的使命だ…
と斉藤氏は感じていたにちがいない。



※この資料は、NHKで放送されたものを元に作成したものです。



© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: