アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

2004年02月21日
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カテゴリ: 旅行
(2月22日記)
 この日はとりあえず、ワインの名産地であるラインガウ地域の中心的な観光地であるリューデスハイムRüdesheimに向かう。人口こそ一万人と小さな町だが、辺りの丘陵の斜面はブドウ棚で覆い尽くされ、町の盛り場である「ツグミ横丁」は観光客で賑わっている。
 ・・・・・のは春と夏の話。今の季節は盛り場の店の多くが冬季休業中、ライン河の川風が身に沁みるだけの寒々しい町である。早々に後にする。

 次に向かったのはダルムシュタットDarmstadt、かつてのヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都で、人口14万人。ただし第2次世界大戦の戦災のため現在の町並みは他のドイツの中堅都市とさほど変わらず、活気こそあれ趣は無い。町の中心部にある大公の城館とその向かいの重厚な州立博物館、そしてかつての芸術家村だったマチルダの丘のみが、かつての文化都市の趣を偲ばせる。
 僕らは州立博物館のみを見た。全然期待せずに見に行ったのだが、これが結構大した博物館だった。地元の出土品を並べただけの考古学のコレクションこそあまり大した物ではなかったが、ユーゲント・シュティル(アール・ヌーヴォー)の芸術作品(家具や食器、焼き物など)や絵画コレクションはかなりのものらしい。美術が本業のM氏は目を輝かしていた。僕らは考古学展示のほかは、自然史に関する展示を見ていた。ちょっと古くなっているが、動物に関する展示はなかなかのものである(同じテーマならばフランクフルトのゼンケンベルク博物館のほうが質量ともに凌駕しているが)。
 ドイツはかつて300ほどの領邦に分かれていた。その各領主がそれぞれにコレクションを持っていたりするので、ドイツではこうした地方都市に思わぬ芸術作品や文化事業があったりする。同じような地方分権の歴史をもっている日本では、小藩のほうが学問が盛んだったりしたものだが、近代以降はどういうわけか文化事業が大都市に集中しがちだった。これからはドイツのこうしたところは見習っても良いのでは、と思う。

 この小旅行の締めくくりとして、フランクフルト近郊にあるザールブルクSaalburgに向かう。もう何年も前から行きたかった場所である。ただし行った時間が遅かったせいか、中には入れず周りから見るにとどまった。それでも十分楽しめた。寒かったのには閉口したが。
 これはローマ時代の兵営の遺跡を、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1918年、第1次世界大戦の敗北により退位、亡命)の肝いりで20世紀初頭に復元したもので、ローマ皇帝の姿をした彼の銅像やラテン語の碑文もある。
 復元された建物は、紀元200年頃の段階のローマ軍の砦(とりで)兼兵営で、4つの門を持つ147mx221mの方形プランの石造りの城壁の周囲に2重の空堀をめぐらしてある。城壁だけではなく兵舎などの建物も復元されており、また砦の周辺には浴場などの跡も残っている。この駐屯地には2000名ほどのローマ兵士や軍属などが暮らしていたらしい。

 紀元前1世紀に急速に膨張して地中海を制覇したローマ帝国は、現在のドイツにあたるゲルマニアの地にも進出したが、紀元後9年のトイトブルクの戦いで三個軍団が壊滅する大敗を喫した。その後も歴代ローマ皇帝は服従しないゲルマン人に対して何度か遠征を繰り返している。ただしこれは一種の予防戦争であり、ゲルマン人に対しては基本的には専守防衛だった。
 ローマ帝国第11代目の皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)は全般に平和主義外交だったが、即位間も無い紀元後83年、ゲルマン人の一派ハッティーChatti人に対する遠征を行い、彼らの地をローマ帝国に編入した。今で言うとフランクフルトとその北方の地域(フリードベルクまで)一帯である。ローマ人にとっては不毛な極寒の地であるゲルマニアだが、この地域には温泉が多く存在し(昨日僕らも入浴した)、風呂好きのローマ人には見逃せなかったのだろうか。ちなみにヘッセンHessenという現代の州名は、このハッティー族に起源がある。
 ドミティアヌスは併合したこの地域をゲルマン人の逆襲から防衛するため、リーメスLimesと呼ばれる長城を建設した。「長城」といっても、堀をうがち土手に柵を植えて木造の監視塔を立てただけのものである。こうした長城がフランクフルト北方のタウヌス山地の稜線上から南ドイツのドナウ河まで、総延長400kmくらい建設された(同様な長城は現在のスコットランドやシリアにもあった)。長城は点々と設置された兵営に駐屯するローマ軍部隊によって守られていた。ヘッセンのあたりは特に守りが堅く、10kmおきくらいに兵営を兼ねた要塞が置かれていた。ザールブルクはその要塞の1つである。
 83年頃の建設当初、ザールブルクの兵営は木造の柵で守られていた。またザールブルクの北200mくらいのところに当時の長城が残っている。土手も堀もだいぶ崩れて当時の姿を想像するのは難しいが、確かに森の中を延々と続いている(当時はもちろん木が切り払われてもっと見晴しが良かっただろう)。世界史でも習う五賢帝時代ののち、ローマ帝国の軍国主義化政策を推し進めたセプティミウス・セヴェルス帝(在位193~211年)の時代に、帝国防衛強化策の一環としてザールブルクは石造の要塞に改築された(上記のとおり、現在復元されているのはこの時代の姿である)。
 しかしその大改築から60年ほどののち、相次ぐゲルマン人の侵入と、それに対処した軍人皇帝ガリエヌス(在位260-268年)による軍制改革により、ローマ帝国は国境要塞線での専守防衛からコンパクトな機動軍(騎兵)による防衛策に転じたことから(最近どこかで聞いた話だ)、ザールブルクは放棄された。駐屯していたローマ軍はライン河西岸に撤退し、この地は再びゲルマン人のものになった。
 この日もひどく寒かったが、こんなところを守らされるローマ兵も大変だったろうと思う。もっともローマ軍には多くの地元ゲルマン人やケルト人の傭兵も居た。帝国というものは作るのも大変だが、周辺の羨望の的になるだけに維持するのはもっと大変である。

 夕方、マールブルクに戻る。
 息をつくまもなく、ベルリンでの学会からハイデルベルクに戻る途中マールブルクに立ち寄ったS君を、K君と共に駅で出迎える。歴史の話とかで思わず熱い話になり、時間が経つのも忘れて話し込み、夜中の2時頃まで飲んでいた。





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最終更新日  2004年08月05日 00時12分23秒
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