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2023.11.09
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カテゴリ: 探訪
寺号碑

泉涌寺道古道を歩く記事(11/8)で触れましたが、公開講座を聴講した日、 智積院の境内を散策・探訪 してみました。 智積院は真言宗智山派の総本山 です。
七条通の突き当たりにあり、東山七条交差点の東側、東大路通に面しています。


智積院の入口は幅広い坂道 で門がありません。坂道の 南側から北を眺めた入口の景色


この少し異質な印象の 大きな狛犬石像(?) が門衛代わりに鎮座しています。詳細不詳。
入口の坂道を少し上がると、南側に冒頭の寺号標が立っています。


その先に見える景色。
10/21時点の紅葉 です。今なら紅葉はもっと進んでいることでしょう。


近づいて行きますと 「総本山智積院寺誌」 が建立されています。要点は以下の通りです。

*五百佛山根来寺智積院と号し、弘法大師を宗祖とする智山派の総本山
*同宗派の三大本山は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高野山薬王院。末寺は3,000
*南北朝の頃(14世紀初)に興教大師開山の紀州根来山に学頭寺院として創建された。
 天正13年(1585)に兵火により一山全焼  (付記:秀吉による紀州攻め)
*慶長6年(1601)、学頭玄宥能化が德川家康よりこの地を寺領として賜り、寺を再興。
 後の勧学院の濫觴として仏教研学の道場となる。元禄宝永の頃に学風隆盛を極めた。
*1601年当初は豊国梵宇三区。元和元年(1615)に祥雲寺(秀吉の愛児鶴松の菩提寺)を
 下賜された。 
 (付記:豊国梵宇三区というのは、この地にあった豊臣秀吉を祀る豊国社の三ヵ所の
    坊舎を賜ったという意味です。1615年4月大坂夏の陣で豊臣氏滅亡。元和偃武。
    家康は豊臣氏滅亡後に、祥雲寺を智積院に与えたことになります。)
*江戸時代に伽藍が整備され寺運が隆盛。明治維新の頃に堂塔伽藍の焼失と荒廃で衰微。
 (付記:幕末に、学寮の多くが土佐藩の屯所となり、講学が衰えたと言う。また、
   明治3年には上地により、旧来の寺地2万7900坪が1万6800坪と約40%減に。 資料1
*明治33年真言宗智山派を公称し、宗派の復興、伽藍の再建に努力し、現在に至る。


左に目を転じると、銀杏の黄葉が綺麗で、近くにはポールの先で旗が翻っていました。

智積院の講堂・大書院・名勝庭園のエリアは 、はるか昔に2度ほど拝見( 拝観料必要 )しています。
それ以外の境内地を拝見した記憶があまりありませんので、どこまで探訪できるか、 自由に拝見出来る境内地の散策を試みました。そのご紹介です。


この 案内図 が境内に掲示されています。 案内図下辺が東大路通に面して います。下辺中央より右寄りに入口と表記されています。ここが上掲の坂道です。 案内図の左が北方向。上辺が東方向 です。境内地内の築地塀で囲まれた区画が、講堂や庭園のあるエリア。になります。
それでは、 境内地の南エリアから境内の拝見・散策を始めます。


上掲寺誌碑の傍から 鐘楼堂の方向に進むとき、右(南)には、すぐ近くに「総本山智積院 宝物館」 があります。「国宝 長谷川等伯 障壁画」の案内板が置かれています。現在はこの宝物館に保存・展示されています。「弘法大師空海ご誕生1250年」を記念する奉修事業の一環として建立され、今年、 令和5年(2023)4月4日に開館したばかり です。
宝物館の南西方向には 、築山風の庭の向こうに、 「宿坊智山院会館」 が見えます。




                  鐘楼堂を右に回り込むと、
この 「智専之鐘」と刻された石碑 が立っています。旧宗立智山専門学院同窓生の集まりである智専会が鐘と鐘楼堂を平成10年(1998)に建立・寄進されたものです。


                  梵鐘には 「真言宗智山派總本山智積院」の寺号 が陽刻されています。
蟇股
鬼瓦


鐘楼堂前の通路を南に 歩みます。

振り返って眺めた鐘楼堂


通路の先には、お堂の屋根が見えて来ます。


緩やかな坂道の右(南)方向 を眺めますと、普通の鋪装道路がカーブを描いて延びています。後で案内図で確認すると、 この景色の左(東)にある建物が宗派の総務庁 です。右(西)に下っていくと、宿坊智積院会館に至ります。


坂道の左方向を見ると、お堂が見えて来ます。


さらに進めば、 北と南に2つの大小のお堂 がはっきりと見え、 両堂の間に小さめの池 があります。

まずは、この 「南無大日大聖不動明王」と墨書された幟 が立てられているお堂から拝見しました。高齢化の趨勢は、石段に手すりを整備する形に反映しています。いずこの寺院も同様ですね。



お堂正面の石段手前に、 大きな香炉 が設置されています。
お堂の 向拝に張られた幕と香炉の正面 には、 宗紋の桔梗紋 が見えます。

    向拝に近づくと、お堂の正面に 「明王殿」の扁額 が掲げてあります。
    お堂に張られた五色の幕が風にはためいていました。

幟でわかりますがこのお堂は 「明王殿」 不動明王が本尊 として祀られています。




このお堂は、 護摩道場、祈祷所 であり、 「不動堂」とも 呼ばれています。
本尊の不動明王は根来寺より伝来と言い、 麦つき不動 とも呼ばれているとか。
智積院の旧本堂が焼失した時、浄土宗・大雲院の本堂の譲渡を受けた建物と言います。
この明王殿は 札所(京都十三仏霊場第1番、近畿三十六不動尊霊場第20番) の一つです。
(駒札より)

蛇足になりますが、覚書を兼ねその経緯に少し触れておきます。
祥雲寺が智積院に与えられた時、同寺本尊棄君(鶴松)像は南化和尚ゆかりの妙心寺に移され、建造物や障壁画は智積院に引き継がれました。長谷川等伯一門による国宝障壁画は祥雲寺の遺物を継承したことになります。 (資料1,2)
昭和22年(1947)の火災により旧本堂を焼失しました。この時に譲渡を受けた建物を本堂として移築されたのは、現在の境内図で講堂がある場所です。昭和54年(1979)10月に著者が俊則画として自著に挿入している智積院境内図でそのことがわかります。 (資料2)
現在の講堂は「平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したもの」 (智積院ホームページより) とのことですので、昭和22年後に本堂として使用されていた建物をこちらに移築したとすれば、それは平成年代の初期と推測できます。改めてホームページの境内図で明王殿の項を見ますと、このことが簡略に説明されていました。
序でに、大雲院は、下京区寺町四条下ルに所在したのですが、昭和48年(1973)に東山区祇園円山町に移転しています。この本堂の背後に祇園閣が所在します。祇園閣というと所在地がわかりやすいかもしれません。 (資料1,2)


            屋根の雨を受ける雨水槽はごくシンプルです。

五色の幕の翻る様子を眺めつつ、 北側のお堂に向かいます

つづく

参照資料
*​ 総本山智積院 境内図 ​ :「総本山智積院」 
1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著  駸々堂 p119-123
2)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 

補遺
総本山智積院 ​  ホームページ
  ​ 360度VR境内画像
玄宥 ​  :「コトバンク」
新義真言宗総本山 根来寺 ​ ホームページ
中世に花開いた一大宗教都市、根來寺 ​  :「わかやま歴史物語」

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​探訪 京都・東山  智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ
探訪 京都・東山  智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ
探訪 京都・東山  智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ









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Last updated  2023.11.22 09:15:08
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