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ジェーン・エアという女性が両親を早くに失って、少女から娘へ他人の中で苦労して成長する物語。 豪壮な館での家庭教師、ロチェスターというミステリアスな館主とのロマンス、手に汗握る展開、そして幸せに…というのが10代のころの読後感。読書録を見るともう一度再読しているらしいのだが、その感想は忘却の彼方…というわけで。 今回、じっくり読んでこんな小説だったのか!と驚いた。 まず、ヒロインの性格が秘めた情熱からはほど遠い、たおやかなものではない。恋する城主ロチェスターもものすごく嫌なやつ、そして極めつけは、荒野をさまようジェーンを助けた青年牧師セント・ジョンの性格も自己主張の強い策謀たけた嫌らしいやつ。 なんてこと!主要登場人物全員に寄り添えないではないか。人物たちが美男美女ならぬはいい、けれど各々の性格の我執、ぶつかり合いがすさまじくて、なんとも辟易するくらいだ。 と、違う印象に驚きながらも、長大な、ののしりあいのような会話が続くその内容は、作者ブロンテの18世紀ならではの、女性の自己確立への意気込みがひしひしと迫ってくるものなのだ。自己確立、自立ということは強い意志の現れ、それとブロンテさんの作家魂が加わったのだと思う。 さて、200年後のいまはどうなのか?ガラスの天井はつき破れていない。 読み継がれる名作ゆえん。 新潮文庫のこのカバー感想と合ってません(笑) こちらの新訳も読んでみたい
2024年08月10日
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『クレーヴの奥方』ラファイエット夫人恋は時間が過ぎれば冷めるもの、まして不倫の恋愛は害あって益なしと知ってる女性の、わかっているのにも求めてしまう恋の苦しさを、これでもかこれでもかと描いています。はじめは少々イライラもさせられるほどで、両思いなのに結ばれない、結ばれようとしない自制心の苦しみ、そんなに苦しむなんて無駄…とか、ヒロインの拒絶行動が、恋愛をいやがうえにも盛り上げているのじゃないか、とうがった見方までしてしまう。今や女性自身で考える自律が普通のことですけど、17世紀の女性の作家が16世紀のフランス宮廷を背景にしての状況ですから、先駆的でもあったのですね。なるほど、不倫の恋愛の苦しみ、究極の恋愛を描いたフランス心理小説の古典、なのだと。むかしむかし高校の教科書に堀辰雄『美しい村』の序曲が題材として載っており、その文中に『クレーヴの奥方』と、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』が引いてあり、なぜか興味を覚えやみくもに読んで、わかったのかわからなかったのか、それから幾十年。今回読んでみてヒロイン(クレーヴの奥方)が熟女のように思っておりましたのに、16歳の設定でびっくり、高校生年代ではありませんか。だから高校生の頃ってそんな姿を、若さゆえの老成を、理解しようとしたのかもしれません。
2023年01月30日
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『砂の女』安部公房上梓された1960年代よりも、1980年代に再見された安部公房氏の作品、カフカの『城』を思い起こすシュールな作品という斎藤美奈子氏の解説(『日本の同時代小説』岩波新書)にうなづく。「塔の高みか砂漏斗の底か」というのは私見。読了前作『パルムの僧院』との対比なればの感想。つまり、ファブリスは塔の上で、『砂の女』の男(名前は仁木順平)は砂にうずもれるあばら家で自己の自我をみつめ、他者(女性や身近な人々)との関わりにあれこれ悩むのだから。1980年代ならず、2023年代の今も古びていない、自我自意識と他者、共同体との闘い。(と言ってしまっては古臭いかも)他者他人とうまくやっていくのに、どうしこんなに苦労するのか、という古今東西共通の悩みは、時代が経っても、日本の最近の小説のように優しい文章になっても、変わらない。わたしなどはこういう硬質な文章のほうがしっくりするのかもしれない。ドナルド・キーン解説「われら20世紀の人間が誇るべき小説の一つである。」なるほど、20数か国に翻訳され、一時はノーベル文学賞もといわれた、というのも納得。
2023年01月16日
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『パルムの僧院』スタンダール 下巻に至って、いよいよファブリスとクレリアの純愛か、叔母のサンセヴェリーナ公爵夫人の盲愛・偏愛によるファブリスの不幸か、となります。貴族ファブリスは恋のつまらないさや当てで、旅芸人の男を殺してしまい、当時(17~18世紀)のイタリア公国は「お手打ち」はおとがめなしなのだが、専制君子の大公の虫の居所によって、ファルネーゼ塔という監獄にいれられてしまったのでした。美魔女とでもいうのでしょうか、宮廷の男性という男性を惹きつけてやまない貴族の娘のジーナ叔母(サンセヴェリーナ公爵夫人)は政治的手腕も長けていて、おまけにモスカ伯爵というもっと辣腕の大臣を巻き込み、監獄からファブリスを助け出すというが良かれと、あらゆる手を尽くすのです。でもそれは「いらんこと」でした。獄舎の監視将軍の純真で魅力的な娘クレリアにひとめぼれ、浮気なファブリスも「これぞ真なる恋」と開眼。しかし、叔母もクレリアも愛するファブリスのために他者と結婚するという、スタンダール・ワールドの流れ、手に汗握る展開が続き、大団円で終わります。と、さもあっさりと書きましたが、恋の駆け引き、宮廷政治の陰謀やら、当時の小公国専制政治のあらましなど、読むのに苦戦したところもありました。昔読んだ中央公論社「世界の文学」の『パルムの僧院』がわかりにくかった記憶があったので、この新潮文庫改版はわかりやすくなっているのかな、と思っていましたが、何のことはない同じ大岡昇平氏訳だったのでした。つまり、この文庫の初版を見ると、昭和26年(1946年)に訳されているのですね。道理で監獄の塔の高さが尺や寸で表されていますもん、感覚わかりませんけどね。でも、さすがスタンダール研究者の作家の珠玉の翻訳には違いない、とは思います。
2023年01月10日
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『君たちはどう生きるか』吉野源三郎もう、出かけないわけにはいきませんね。そんな時に本屋さんにもつい寄ってしまいます。目についた本がこれ。前に記事にしましたが、その時は手元に本がなく、40年前の読後記憶で書きました。今回改めて再読してみて、古びていない素晴らしい作品であると再認識しました。この岩波文庫(1981年初版)は原作1937年の初版を(旧字体旧かなづかいはなおして)採録したものでした。わたしが昔読んだのはたぶん原作を現代風にした児童文学でしたよ。中学(1956年)教科書のもその線に沿っていたのでしょう、そういう時代でした。なんでも現代風にするというような。だからといって『君たちはどう生きるか』の真髄は伝わっていましたけど。つまり14歳のわたしのこころに響いていたから。しかし、今回本当の原作を読んでみて、1930年半ばから1940年にかけての昭和時代(わたしや夫が生まれたころの戦争の足音が高い時代)が彷彿と浮かんでくる名作です。中学生が自我に目覚めるときの教育的場面ばかりが響くのではありませんね。現代にも通じてくる普遍的なメッセージがあるんです。巻末の丸山真男さんの回想録にも、原作のまま中学生に読んでほしいと望んでいたとありましたが、さもありなんです。読み直してほんとに良かったです。
2022年09月23日
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『罪と罰 3』ドストエフスキーさて、この複雑で面白いたくさんの登場人物たちとラスコーリニコフというトンデモ青年の物語を読み終わって、思い上がり青年の無謀な殺人は、本人の罪だけでなく、家族はもちろん、周りの人たちをも否応なく巻き込む複雑なストーリーになるのだなあ、と。(名作なれば)世界中の読者も「これは何なのか!あれは何だったのだ!」と懊悩するのだよ。主人公の名前ラスコーリはロシア語で叩き割るの意味だそう。さすが主人公…、名に恥じない!?似たようなことは現実世界にもあった、ありますね。それを19世紀に予言したドストエフスキーは偉い。トルストイもそうだけど、その他大勢のロシア近代文学者の作品はとても奥深くすごい、近代文学の祖ですよ。その発祥の人々の国!!と言っていてもしょうがない。物語のご本人さんが反省したのだから、その後どうなるのはわからないけど、一応終わったと思いたい。しかしこの作品、読みどころが多くてね、3回ぐらいでは読み切れないのもほんとう。
2022年06月12日
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『罪と罰 2』ドストエフスキー3回目なのにすっかり忘れているから、やっぱりおもしろいなあと読み進む。忘れるからと、第1部と第2部はあらすじを追って書き出したが、何のことはない『罪と罰 2』巻末の「読書ガイド」に、翻訳者の亀山先生が第1部と第2部のあらすじを完璧にまとめてくださっていたのだ。第3部と第4部は最後の『罪と罰 3』の巻末にあった(それも忘れていて)。この文庫本がある限り、そこを見ればよい、ということで、ここからはラクをしよう。第3部の感想もうろうとして母と妹に再開し、妹ドゥーニャの犠牲的婚約の話が面白くないラスコーリニコフなんだけど、自分の罪にもおびえて複雑。そりゃそうだ。でも、妹アヴドーチャ(ドゥーニャ)がすごい美人で、だから家庭教師先でも追いかけられ、お金目当てで婚約したルージンにも執着されるのだが、嫌気がさして彼を振りそうな時に、ラスコーリニコフを献身的に看護してくれた人のいい友人ラズミーヒンとも速攻、恋に落ちるとは…、都合よすぎ。しかしそこがまた面白くさせ、うまいのかもね。ラスコーリニコフはちょっと変人。殺人を疑われていると知りながら、予審判事ポルフィリーや警察官にちょっかいを出すのだもの。幽霊や悪夢を見てしまうのも当然。過去雑誌に「犯罪の研究」の文章を発表していたのをバレるなぞ、SNS時代じゃないのに、わかってしまうのは昔の斬新なリアルかな。第4部の感想スヴィドリガイロフがラスコーリニコフの前に登場。妹ドゥーニャを子供の家庭教師なのに追いかけて困らせた張本人。この人もおかしな人、不思議なことを言う人で物語を複雑にしている。登場人物多数なのに皆がみな、個性的で饒舌で、長い長いセリフ。策士策に溺れる、じゃなくて小説家小説に溺れて、読者読みに溺れるというところ。妹ドゥーニャのしみったれ婚約者ルージンをみんなでやっつけるところは痛快。しかし予審判事ポルフィリーとの息詰まるやり取りは真に迫ってすごい。ソーニャとの邂逅は唐突感を抱くのだけど。
2022年06月04日
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『罪と罰 1』ドストエフスキー第一部あらすじ7月の太陽が照りつけるペテルブルグの街中を、元大学生ラスコーリニコフは歩いている。彼は殺人計画を立てていて、そのターゲット金貸し老女アリョーナの居室を下見の目的で訪れるのである。はたして実行できるのか、神経質にびくびくしている様子が描かれる。いよいよ金貸しアリョーナの部屋に着き、古い銀時計を質草に金を借り、また訪れると予告して去る。幾ばくかのお金を手にして居酒屋に寄るラスコーリニコフ。そこで、マルメラードフという飲んだくれの元役人に出合い、酔いに任せたおしゃべりで彼の家庭事情を聴かされる。再婚した妻の病気、子沢山、そして前妻との実娘ソフィアの稼ぎ(売春)に頼る生活。ラスコーリニコフは酔っぱらったマルメラードフをそのアパートまで送り、貧困にあえぐとても悲惨な生活状況をつぶさに見る。自分の下宿に帰ったラスコーリニコフは母からの手紙を読む。仕送りが途絶えた事情、妹ドゥーニャの家庭教師先での災難、ルージンという男との婚約を知る。しかし、その婚約は母や妹の貧困脱出の打算が見え、暗澹となる彼。ラスコーリニコフは、自身の非力、むなしさに悲嘆・無気力で自堕落になっている様子、そして金貸し老婆を殺さなくてはいけない、という極端な思想に走る狂気的状態が描かれる。いよいよ、息詰まる殺人実行の描写で、第一部は終わるわたしの感想ラスコーリニコフが殺人を実行するまでにどうして至ってしまうのか?あまりにも唐突で、ちょっと理解できなかった。ストリーが進むにしたがってわかるのだろうか。それはむしろ、酒場で知り合ったマルメラードフという飲んだくれの独白。どうしようもない哀れな自虐話の内容。母親からの手紙の内容のおぞましさ悲惨さ。母・妹が彼に期待し犠牲に走る心理。それを知り怒り不甲斐なく思うラスコーリニコフ、そんな別物語が潜んでいるのを感じるのは、読む視点が変わったのだ。第二部あらすじ夢中で下宿に帰って死んだように眠っても興奮冷めやらないラスコーリニコフ。そこへ突然の警察からの呼び出し状にぎくりとする。ドキドキしながら警察を訪れ、別件「不払い下宿代の催促だったとだった」と知る。警察の事務官ザメートフにラスコーリニコフが「自身が父親の早世による貧困で大学をやめざるを得なかった事情、下宿屋の娘との婚約、死別したために借金になってしまった」事情を語り、書類にサインするも、警察では「金貸し老婆殺人の話題」が飛び交っていて、精神が持たず失神してしまう様子。そこから彼の罰が始まる。下宿で寝込み、友人ラズミーヒンや医師のゾシーモフたちが親身に介護するも、抜け出してアリョーナのところから盗んだものを隠したりする。妹の婚約者ルージンが下宿に来れば喧嘩したり、警察事務官ザメートフと危険な会話をしたり、街をさまよい懊悩する。そのさなか、マルメラードフの事故死に遭遇、母から送金されたなけなしの25ルーブルをマルメラードフの残された家族にあげてしまう。下宿に戻ると田舎から出て来た母と妹ドゥーニャが待っていた。わたしの感想あらすじを忘れていたからなのか、ジェットコースターのように変化にとんだ展開に驚く。さすが犯罪ミステリー小説の古典だ。それから、スラブ人のというか、ロシア人の極端な性格、熱するかと思いきや、氷のように冷める上がったり下がったりの行動の満載に圧倒される。『カラマーゾフの兄弟』もそうだったが、ドストエフスキーの骨頂だ。
2022年05月31日
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『播州平野』宮本百合子『伸子』『二つの庭』に続けて「作者分身」の歩みをたどる作品。小説は「ひろ子」(作者分身)が、網走に収監されている思想犯の夫の近くに行こうと、北海道に渡るため福島の弟の家でその機会を待ちながら、1945年8月15日をむかえ、天皇のラジオ放送を聴くところから始まる。戦争が終わったと喜びに沸くのではなく「その時村中が寂莫として音無し」という描写があり、さそぞかし複雑な気持ちだったろうと、わたしのように当時幼児だった者にとって臨場感を感じる。「無条件降伏」の占領下でどうなっていくのか、ひろ子が夫のためにどう行動するのか。もちろん事実(宮本顕治と百合子)は周知のことだからそれを頭に入れて読むのだが。終戦直後の混乱状況の中で、「ひろ子」と周りの家族や知り合いたちがどんな風に暮らしたか、ごくごく庶民的な日常の様子には、資料として目が見開かれる思い。夫の実家を訪ねるため、当時女性が群馬県から山口県まで列車に乗って旅をする描写は圧巻だ。人がぶら下がって走るあの混みようの列車はわたしたち古い映像で見るが、実際列車が途中で止まってしまうのは当たり前、一駅を歩いたり、宿に泊まったりで乗り継いでいくのだが、臨機応変交渉次第で、たくましく生きた人々の姿に感心する。戦後すぐ(1945年の秋!)の焼け野原のなかを列車が動いているというのもびっくりだ。旅の道ずれの人々の姿(物資不足の貧しい姿や戦傷者)の描写もリアル、暢気さもあるけれども、現実の厳しさ、そして辛辣さもありでおもしろいというか、読みごたえがある。ひとりの女性が自立して生きていくだけではなく、精神的に自律していく過程が『播州平野』の主題、同時に人間としての矜持、その屹立に感動する。作者が文学として表す人間への洞察力はさすが、文章は平明なんだけど。
2022年01月09日
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『濹東綺譚』永井荷風昭和初めころの向島、お雪という身をひさぐ女性に惹かれる「わたくし」という小説家が、出会いから別れるまでを詩情豊かに描く。と、いくら文学的に言っても、映画となると扇情的。山本富士子さん出演のポスターも、小説から受ける雰囲気とはめっぽう違うなあ、とネット検索してて思う。そしてまだ行ってないスカイツリーにのぼってみながら、想いを馳せてもいいかな、と不埒な考えも。そう、描写されている当時廃線になった東武鉄道の「玉ノ井駅」あたりは、今やスカイツリーラインの「東向島駅」の辺らしい。そんな無粋なことはさておき、江戸情緒好きでフランス帰りの洒落者が、枯れたような枯れないような風情でお雪のもとへ通う夏から秋にかけてを、情味豊かな詩的文脈を楽しめばいい。
2021年12月15日
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『吶喊』魯迅(『魯迅作品集 1』竹内 好訳 筑摩書房1966年発行より)「自序」「狂人日記」「孔乙巳」「薬」「明日」「小さな出来事」「髪の話」「風波」「故郷」「阿Q正伝」「端午の季節」「白光」「兎と猫」「あひるの喜劇」「宮芝居」の14短編が収めてある昔、教科書で習ったのは「狂人日記」「阿Q正伝」魯迅が漢方医学に疑問を感じ日本に留学、医学を目指していたのが、なぜ文学に道を変えたのか、という「自序」に始まり、「自国の窮状を憂え、なんとかしたい」というような短編が、冷静な描写だが叫びの迸るような作品群になっている。中でも中編「阿Q正伝」の内容は、現代のデストピア小説にも通じるものがあっておもしろい。たしかトルストイの民話風の作品にも、短いのがあった気がする。短絡的かもしれないが両雄とも、小説の気風として大陸的なものを感じる。悲惨だけれどもおかしみがあるようなところが。光文社文庫新訳(「明日」「髪の話」「風波」「白光」「宮芝居」はない)
2021年12月12日
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早瀬主税(ちから)という、オイオイ、と思われるむちゃぶりのドイツ文学士の主人公をめぐる、女性たちの純情あり、妖艶あり、きらびやかで哀れなものがたり。というさしずめ、現代ので言うところのエンタメ(ピカレスクというそうな)は、とても面白かったです。文章がべらんめえ口調だったり、美文調なのも古さ加減が心地いいし、解説(四方田犬彦)で述べられている構成の危うさも、どんでん返しのおもしろさでおつりがくると思います。ちなみに吉田精一解説は大褒めです。100年前にこんなユーモアに富んだ現代にも通じるものが書かれたとはびっくりですが、私事を言うと、母方の曾祖母が講談本を読むのが老後の楽しみだったという、母の思い出話が真実に思われてきます。このひいおばあちゃんというひとは旦那が飲んだくれの風来坊で、役所での給料日に押しかけ代わりに受け取り、給金の中から米・醤油・味噌を買い、残りを全部渡してやり、おかずは自分の針仕事で賄ったというのです。旦那が山梨の田舎で身上をつぶして江戸に出、深川に住み、子供の祖父は兵学校から海軍に、大叔母(妹)は看護婦に育てた、強い女性なのです。晩年、海軍軍人の息子に養われながら、孫の母と同じ部屋で暮らし「一生の分働いたので、もう何もしない」と読み物にふけり、呉、佐世保、台湾と息子の転勤転勤の際は、深川の医者に嫁いだ姉娘の所に滞在、遊んでくらしたというのです。小説の中とはいえこの小説の時代背景と重なる曾祖母を想い、さながらの気分を味わいました。大げさに言えば人間への愛は時代が古くても変わりないのであります。
2021年07月30日
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ジョイスの初感想です。『ユリシーズ』『若き芸術家の肖像』『フィネガンズ・ウェイク』と欧米の読むべき文学選に必ず入る作家、文学好きとしては外せないのです。パリジャン、ロンドンっ子、ニューヨーカー(そして江戸っ子も)の慣用句その中のひとつが「ダブリナー」だそうです。といって、ジョイスが意図的に名付けた造語だから、知らなくてもいいのです。ダブリンに住んでいる人たちの人生を描くとダブリン市民気質がわかってくる。つまり『ダブリナーズ』の生態と意見。ダブリンはアイルランドの首都、と知っていてもアイルランドの古い深い歴史の方はうすぼんやりです。ところが、この短編集を読むとなんだかわかってきます。ジョイス作品は音楽的で造語が多くパロディ満載で、翻訳が大変むずかしい作品ということですが、この柳瀬尚紀訳は画期的新訳なので雰囲気が伝わって原作に近くおもしろく読めるというわけでした。『赤毛のアン』のモンゴメリがよく描く、不思議なアイルランドのおとぎ話の例。『風と共に去りぬ』スカーレットの父親が強烈なアイルランド気質だった。読みながらそんなことも思い出しました。一世紀前のダブリナーズなのですけど、どこにでもいそうなけれどもなんだか不思議な一味違う15のダブリン市民の日常描写。15編の短編どれも味わい深かったですが最後の「死せるものたち」は、賑やかに華やかに幕開けし最後に哀愁ただよう情景で終了する、印象的な一編でした。
2021年07月05日
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副題「心に残るロングセラー名作10話」という絵本です。「泣いた赤おに」「むく鳥のゆめ」「りゅうの目のなみだ」「ますとおじいさん」「花びらのたび」「ある島のきつね」「よぶこどり」「子ざるのかげぼうし」「光の星」「たぬきのちょうちん」実は小学低学年のころに読んで、ながく忘れられないひろすけ童話「花びらのたび」のことはずっと前にアップしました。ふと思い出してそのブログを読み返してみると、ものがたりをうろ覚えで書いているので本物はどうなんだっけと、またぞろ気になって正式に読んだというわけです。2006年4月1日のブログは花びらが散っている季節に感傷的に思い出したんですかねえこんな風です。さくらが散ってます。地面には花びらの山ができてます。早朝。ひとひらの花びらは川の中へ飛んでいきました。川の流れに身をまかせ、流れ流されて旅をしました。黄色一面の菜の花が「こんにちわ」「こんにちわ」小鳥が空で歌い「どこいくのー」昼どき。野原で牛がのんびり「モーゥ」子供が鏡で「ピカリ、キラリ」夕ぐれ。海が近づきごうごうと音が。青ざめた花びらは「あ、」と一声、沈んでいきました。---------小学校も低学年に読んだ童話。手元に本がないのでかなり創作したが。最後のところで子供心に死をイメージしましたね。印象深いさくらの花びらのイメージです。日本のアンデルセンといわれた浜田廣介(ひろすけ)。他にも童話がある。いまでも読まれているのだろうか。で、さっそく「花びらのたび」から読みました。ストーリーはもうすこし複雑でしたわよ!花びらがもう河口近くに流れ着いて、ながく川のたびをしてきたものがたりを河口付近の小魚に語るというしかけだったのです。わたしが子供心に「ピカッ」と光ったところの強烈な印象だったものは童話の中では花びらがまだ木にいるときにうつらうつらしていて、農作業の人が担いでくる鍬の刃がお日様にピカリと光ったのを見たのでありました。また、花びらは川に散って、すぐに落ちたのではなく舞散って、蝶のようだと嬉しくひらひらしているうちにすずめにくわえられて、川まではこばれたのだと。そんな風にものがたりは変化に富んでいました。ま、子供の記憶なんてそんなものですね。でも、最後、強い印象を与える大団円には違いありませんでした。赤い太陽が、海のはてに、もえていました。海も、まぶしくもえているかとおもわれました。けれども、どれが海か、空か、花びらは、見わけることができませんでした。ただぼんやりと、ひろいところに出たことだけわかりました。そうして、そのまま、花びらは、目をとじたのであります。(84ページ)*****ところでわたしが前にブログをアップしたのが2006年4月1日この絵本の初版発行が2006年7月1日いまでも読まれているのだろうか。と言っていたわたくし、そのころ全くきがつきません、知りませんでした。次に読んでアップするハルキ文庫『浜田廣介童話集』も初版発行日は2006年11月8日。こんな偶然ってあるかしらん!!
2021年06月19日
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若きチェーホフ、雑誌、新聞に短編や雑文を書きまくってモスクワ大学医学部学費や家計をささえたその数は7年間で400編!数で言うなら日本の星新一さんのほうが多いのではとは思うが生活がかかっているアルバイト、それで文学修行してしまったのだという後世に残る名戯曲を成功させたというのだから、何がきっかけになるか医者にもなったし、いい人生と思いきや無理が祟ったのか、44歳という若さで亡くなってしまったのが惜しいし、哀しいけどさてさて洒落てるお話、ユーモア小話、皮肉な話、ゾッとする結末、クスッとする1編この文庫本にも65編も収録してある10年前に読んでいるのだけど、初めて読むみたいなのにまたまた、読むそばから忘れるのよねそれでいいんでしょ
2021年06月10日
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あの頃(1980年代)の雰囲気が漂う小説ですね、女性たちが「妻」であることに憤懣や、やるせなさを思いながら、思い切っての飛翔は怖いとグラグラふにゃふにゃしている。つまり「妻たちの思秋期」や「翔ぶのが怖い」という言葉が流行りましたね。そのことを上品に(おぼろげに)かつ果敢に表したファンタジー小説かと。神話の天智天皇、天武天、皇額田女王の世界に題材をとりながら、隣家の男兄弟と兄を失い家付き娘となって婿を迎えた女性とのご近所での恋愛模様。それは神話の世界にもあるし、『嵐が丘』にもあるし、古典的なみやびの世界でもあるので「谷崎潤一郎賞」というのもむべなるかな。*****「秘蔵本にしようかな」ある読書好きからいただいてきたこの本は、未読のまま永らくしまってあったのです。いよいよ読もうと、箱から取り出して蠟紙をはがしたらなんと贅沢な装丁とおどろきました。まるで紬のようなえんじ色布が表紙に貼ってあって、とても凝ってます。扉を開ければ藍色の中表紙と栞の紐も同色です。お値段は当時(1982年6月初版、83年1月8版)1300円、調べたら今はこの布だけでも1000円以上しますね。本がこういう風情があった時代が懐かしい。
2021年05月11日
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名作未読の一冊。160ページの薄い本で半日足らずの一気読み、息詰めて読んだからか頭がズキンズキンと痛くなってしまったのだった。名にたがわぬ重厚な作品。ぼんやり大男と小粒のピリッとした男の組み合わせ、カリフォルニアの農場を転々として働く二人は友情ならぬ助け合いや思いやりで離れがたい。スタインベック描くこの二人の人間関係は、緻密な風景背景描写と相まって人間のいとなみの奥深さを感じさせる。滑らかな大浦暁生氏訳も素晴らしい。力ばかり強くて頭の弱いレニーの愚かな行動は、胸震える痛ましさ。彼を見守るジョージの温かさは人間捨てたものではない思わされる。農場に雇われている黒人の孤独や農場でけがをして身体障害になった者の悲しみなどが、二人を取り巻く。威張りちらす農場の親方の息子が登場して事件が起こる。そして結末がアメリカらしいというか、銃なのがたまらなく重かった。
2021年05月08日
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周五郎新潮文庫版短編集、木村久邇典氏解説には周五郎の短編ジャンルが大まかにわかるものを選んでいるとのこと。そうですね「×××もの」と分類できます。再読ですが、ひさしぶりに周五郎ワールドにとっぷりと漬かりましたので、一編ごとの印象を。「ひやめし物語」武家の次男三男は跡継ぎになれない、養子に行くか部屋住みで終わるか、肩身が狭いのは現代のパラサイトも同じだけれど、甲斐性があれば何とかなるのであるという話。その甲斐性が古本集めというからおもしろい。「山椿」二組の男女のもつれあいというと、どろどろしているみたいだけれど、ここにはかしこい知恵とユーモアがあるのです。「おたふく」女性を信じるかどうか、男性はなかなかできないのでしょうか。清く生きているのに、切ないですね。でも明るい性格の姉妹だからか終わり良ければ総て良し。「よじょう」何にもしないことが有効になる?って噓からまことが。「大炊介始末」山崎豊子『華麗なる一族』を彷彿とさせる、武家もの編の苦しくにがい物語。「こんち午の日」このような一途な男性を描けるのは周五郎真骨頂なのだ。「なんの花か薫る」哀しい、悲しいなあ、世の中にはわかっているけど行き違いがあるんだね。「牛」天平ならず現代にもいる、あると納得の人間模様。「ちゃん」どうしょうもないおとうちゃんはどうしようもないんだよ。「落葉の隣」好きになるっていく過程の不思議さ、理屈じゃないの。ようするに周五郎ワールドをほめっぱなしにしてしまうような短編集。
2021年05月03日
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今再び話題になって読まれているのはうれしい。わたしは前にもアップしたような気がしていたが、それは2004年のお正月に読みたくなるという、ただ書名をあげただけの内容だった。それでこの小説にまつわる思い出を書いてみる。この小説を知ったのは中学二年(1956年)の国語の教科書。コペル君がお豆腐屋の同級生が兄弟の子守で学校を休むことに疑問を感じることや、豆腐屋の手伝いで手が真っ赤だったことで、いじめなどを見聞きしたり、そんな悩みを抱えるコペル君が、おじさんに(お父さん代わりの)デーパートの屋上で人間の営みについて教えてもらう場面が印象的だった。ちょうど、わたしは東京に転居・転校して、当時でも都会の人の多さに驚いていた時期でもあった。特に、デパートの屋上から見る人間の小ささと動きに哀愁のようなものを感じたのであった。なぜか、これからだ!という希望も幼いながら感じた。それから急に大人になったのだけれども・・・。教科書の一文も生徒におおきな影響を与えるものだと、後に思う。原作をすっかり読んだのはもう中年(1980年代)になってからだが。その時も何か話題になったような、貸してほしいという友人が何人かいたのを覚えている。たびたびブームになるらしい。そして今回。どうやらマンガになって知られたらしいが。なぜ思い出したかというと、新しく始まったTV朝日のひるおびドラマ「越路吹雪物語」を見ていて、転校したためにいじめられたり、家のために手伝いをしなければならない同級生の友達が学校を休んだりするのに同情したりと世間を幼くも経験する、そのドラマを子役がうまく演じていたので、思わずほろりとして。まあ、世の中そんなに甘くないんだけれども。そんなことは後になって(大人になって)知ればいいい。
2018年01月13日
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ひさしぶりに文学な作品を読んだ。小説と文学の違い(とわたし流の分け方)は、地の文が説明、解説になっているものと、文が練れていて、雰囲気が漂うものとである。もちろん、前者でも後者でもいいものはいい。コクがあるものが傑作なのであるし、読む楽しみになる。この短中編集に収めてあるのは「岩尾根にて」「羽蟻のいる丘」「霊媒のいる町」「谿間にて」「夜と霧の隅で」どの作品も心揺さぶられるのだが、やはり芥川賞の「夜と霧の隅で」が印象深い。第二次大戦中、ドイツ南部の町にある公立精神病院の医師たちは、ナチス政権による民族浄化というとんでもない思想の影響を受けざるを得ないその苦悩がある。それが単にドキュメンタリーではなく、文学的で深みがある文章が心にしみた。迫害されるユダヤ人だけではなく、精神疾患者たちにとってもむごい政策というか仕打ち。そして病んでいる本人たちには何もわからないのだ。患者を治療しているドイツ人医師たちの悩みはさまざま。そこに同盟国の日本人医師も留学生としていたが病み、入院してその不条理を経験する。その妻がユダヤ人という設定も悲しい。わたしが映画や文章などで知ったことよりも、この中編は胸に響いた。それが文学の力と思う。
2018年01月10日
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昭和がレトロになって久しい。そんな話題にうってつけのエンターテインメントだ。昭和を知っている人も知らない人もすごく楽しめる小説、わたしの今年一番のお薦め。あの頃は、とにかく希望がいっぱいあった。(今の北京みたいに、いや、昔のロンドンみたいに)東京が煤煙で汚れていても、明るかった、活気があった。そんな東京の避暑地、温泉地箱根に勃発した観光道路開発戦争。それに加えて地元旅館の争い、お家騒動。「箱根の山は天下の嶮じゃなくて、ケンカのケンだぜ」登場人物の独白。自然のきれいな空気も硫黄でなくても濁りそうで、息苦しいような。だけども他人の喧嘩はやじ馬にとって実に面白い。そこを作者はうまーく捉えて、だーだだーっと読ませる。青春物語もあり(しかも純情可憐な)なお、経営学方面、地質学も加わり、多彩に発展する。陳腐に落ちず、飽きさせない。昭和を知っている人はクスリと笑い、獅子文六の「先見の明」にハッとする。知らない人は昭和ってこんなに明るかったのねとびっくりされればよろしい。閑話休題この小説は昭和36年(1961年)3月から10月まで朝日新聞に連載された由。わたしちょうど花の19~20歳(笑)堤と五島のケンカを下敷きにして面白おかしくと話題であったのに、娯楽小説などは「フン!」見向きもしなかった。半世紀も過ぎてやっとその気になったのはだいぶ損をした計算になる(笑)ものすごく笑った一節東京でサラリーマンになる乙夫がスーツ(背広)をあつらえるのに「ブラ下がりにしておけ」と親代わりが言う(そう言ってた、言ってた! 笑)わかるかな~~
2017年12月18日
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二十歳のころ読んでの再読。若い頃のはストーリーを覚えているものが多い。これもすっかり把握していたと思ったが、そんな単純な小説ではなかった。孤児でクリスマスと名付けられた男が放浪の末に真実の愛に目覚めたかに思えたが、黒人と白人の混血ゆえに屈折してか、陰惨な暴行に走ってしまう。クリスマスとは接点がないが、副主人公の白人の田舎娘リーナーがのんびりと全景を彩るのでホットする部分、でも複雑な構造だったというのが旧読の印象。ま、間違ってはいなかったが、ジョゼフ(ジョー)・クリスマスだけが主人公ではなかった。わたしの見るところ、フォークナーが創造した架空の町「ジェファスン」を描くところがこの物語の中心になってくると思う。「夏草や兵どもに夢のあと」のアメリカ南部版である。アメリカの南北戦争の激戦地として軍閥の雄叫びや火炎の亡霊が浮かんでくるのは、登場人物のひとりハイタワー元牧師の意識の中だけではない。はめ込みパズルのようにいろいろの人々、いろいろの場面・情景がちりばめられている。孤児と思われたクリスマス(クリスマスに拾われたから)のルーツもわかるのである。現代にいたるまでの黒人と白人の複雑な人種差別問題、特に貧しい白人たちとの怨念のような確執。そこに宗教(キリスト教)が絡み、わたしなど日本人がはかり知れないものがある。古典なのに、そういうところがノーベル文学賞作家の先見の明。まさに現代、そのるつぼ真っ只中のアメリカではある。文学好きなら必読書だと思う。。
2017年12月02日
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マリー・キュリーは科学愛と努力について言う人はどの時代にも興味ある有用な生をいとなむことができる。要はこの生をむだにしないで「わたしは自分にできることをやった」とみずからいうことができるようにすることです。これがわたくしどもに人が要求しうるすべてです。そして、またそれはわたくしどもにわずかばかりの幸福をもたらすことのできる唯一のことがらです。・・・やはりしじゅう、唯一の目的にむかって辛坊つよくはげみましたが、そのさいわたしは真理のあるところ以外ではすこしも確信がもてなかった。人生ははかなくそしてもろい、それは背後になにものこさない。ほかのひとびとはこれを全然べつなふうに思念することを知っていたからです。わたしたちはめいめい自分の繭をつむぎましょう。なぜとか、どういう目的とかたずねないで。そして夫ピエール・キュリーはどんなことが起ころうとも、たとえ魂のなくなったぬけがら同然になろうとも、やっぱり研究をつづけなければならない。ノーベル賞のダイナマイトもそうですが、ラジュウムの発見も人間に素晴らしい便宜と非情な不幸をもたらしました。科学・科学技術は諸刃の剣と言うは易き、情熱をもって探求心を突き詰めていく努力は並大抵の信念ではありません。と、白水社版の『キュリー夫人伝』をもう30年以上前に読んだ時の感想であります。この記事をアップするためにネット検索をしてみました。ネットって恐ろしいというか、孤高の(だかどうかわたしの思い込みかも)二回もノーベル賞を受賞なさった科学者の意外な面があったのですね。これは知らなかった。キュリー夫人の不倫騒ぎで決闘は2回行われた(動画追記)少々長い文章ですが転記してみます。ノーベル賞を2回受賞したマリ・キュリー(Marie Curie)夫人は、夫亡き後、妻子ある男性と恋に落ち、それがもとで決闘が2回行われた数奇な運命の人でもあります。今日はそのお話を。--「アンリ・ベクレル(Henri Becquerel)教授が発見した放射線現象の共同研究で特筆すべき類まれな貢献をあげた」ことでマリ・キュリー夫人が夫ピエールとともにノーベル賞を受賞したのは1903年のことでした。夫婦は仲睦まじく、研究では互いに互角の関係。ふたりは受賞を祝い、再び研究に邁進する生活が続きました。そんな夫婦に数年後、突然不幸が襲いかかります。1906年、キュリー夫人は最愛の夫を事故で失います。4月19日午後、土砂降りの雨の中、ピエールは道を横切ろうとして、軍服6トン分を載んだ馬車に轢かれてしまうのです。即死でした。悲嘆に暮れる夫人にフランス政府は年金の申し出をしますが、夫人は自分と子どもの食い扶持ぐらい自分でなんとかできるからと言って断り、夫の死後すぐ職場に復帰。ピエールに用意していた職位を継承してくれというパリ大学の意向を受け入れ、同大初の女性教授となります。その時の心境をキュリー夫人はこう書いています。「ショックで打ちのめされて、未来に向き合う気力さえありませんでした。それでも私は夫が生前よく言っていたこと、自分がいなくなっても研究は絶対続けなきゃならないという言葉を忘れることはできませんでした。」無理からぬ面もあります。その時キュリー夫人はまだ齢38。未亡人として余生を生きるには早すぎる年齢です。ほどなく傷心の夫人の目に止まったのが、夫の教え子だったポール・ランジュバン(Paul Langevin)です。ランジュバンは研究熱心で天才肌なところがピエールそっくり。彼は亡き夫が残した心の空洞を埋める人でした。しかも「立派な口ひげ」をたくわえたイケメンでもあります。ただひとつ問題が。ランジュバンは妻子ある男性だったのです。しかしそんなことはものともせずふたりは恋に落ちます。ランジュバンの浮気は実はこれが初めてではありませんでした。夫婦仲が冷め切っていて、報道によると一度は奥さんに瓶で頭を殴られたこともあるとかないとか(浮気が多かったことを考えると殴られる方にも非はありそうですが)。ところがそれまでは他の女性と散々浮気を繰り返しても見て見ぬふりだった奥さんが、なぜかキュリー未亡人には怒りが爆発、嫉妬の亡者となります。夫が未亡人と密会場所のアパートを借りたと知るや、そこに人を送り込んで家からふたりが交わした親密な手紙を盗んでこさせて、別れなかったらふたりの関係をマスコミにバラすわよ、と脅したのでした。それでも関係が続いたのか、ランジュバン夫人が単に予告履行に固執したのかは定かではありませんが、夫人はマリ・キュリーの2度目のノーベル賞受賞の3日前に手紙をマスコミにリーク、世論を巻き込んで慰謝料と子どもの養育費の支払いを求めたのです。新聞は大騒ぎ。キュリー夫人のことを、フランス人の妻子から男を奪った誘惑女と書き立てます。当時は右傾化の激しい外国人排斥の時代。ポーランド人であるキュリー夫人は格好のターゲットです。ユダヤ人でもないのに誤報の繰り返しでユダヤ人と思われていたこともバッシングに油を注ぎました。調子こいたマスコミは挙げ句の果て、不倫は夫ピエール存命中から始まっていた、とまで書きます。事実無根の話ですが、あまりのことにノーベル委員会まで怖気をなし、スウェーデンで開かれる授賞式には出席を見合わせてパリに留まってくれなどと言い出す始末。不倫スキャンダル渦中の女性がスウェーデン国王に会うなんて考えるだにおぞましい、というわけです。そんな中、「人にどう書かれようと、スウェーデンには絶対来なきゃだめだからね」と、キュリー夫人の擁護に回ったのがアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)です。こんなクズどもには言わせたいように言わせて無視を通すのが一番だ。…それでも野次馬が書くのをやめないなら、あんな戯言、もう読むのをやめればいいんだよ。どうせ毒蛇みたいな連中相手の作り話なんだから、読むのはそいつらに任せればいい。一方この騒ぎのとばっちりで決闘は2回行われました。まずライバルの新聞2紙の編集長同士の決闘。ランジュバン夫人の主張の信憑性をめぐって日刊紙ジル・ブラ(Gil Blas)のM・シャベツ(M. Chervet)編集長と極右機関紙アクシオン・フランセーズのレオン・ドーデ(Leon Daudet)編集長の間で行われたもの。武器は剣。本番では「数度に渡る激しい鞘当て」でDaudet編集長が負傷し、和解しています。もうひとつは、渦中のポール・ランジュバンと、彼を「無法な臆病者」と叩いたグシュタヴ・テリー(Gustave Tery)記者。名誉毀損だとしてランジュバンが銃による果たし合いを申し出たものですが、こちらは勝負になりませんでした。いざ本番になったら「フランス随一の逸材をこの手で殺すことはできない」とテリー記者が撃つのを拒み、ランジュバンも「俺に人殺しはできない」と銃を下ろして終わっています。これが大々的に報じられたことで結果的に不倫騒動も終息。ランジュバンは夫人と法廷の外で誤解を晴らして歩み寄り、後日ヨリを戻します。もっともランジュバンは凝りもせず、秘書との間に隠し子をもうけたりしてますが。キュリー夫人の方はといえば、委員会からの勧告にもめげず、スウェーデンに飛んで2度目のノーベル賞を受賞しています。スウェーデン国王とは11品フルコースのディナーで同席しましたが、万事つつがなく済みました。ノーベル賞の2回受賞はキュリー夫人が人類第一号です。これはしかし、キュリー夫人が命を削って成し遂げた偉業でもありました。1934年、夫人は白血病の病に倒れ、この世を去ります。ラジウムの存在証明のため何トンもの廃鉱石を大釜で1000万分の1まで煮詰める気の遠くなるような作業をこなすなど、長年の研究の間に電離放射線を大量に被ばくしていたんですね。今でもキュリー夫人のノートは防護服なしで触れないほどの放射線を発し続けているのでした。(本稿は「Today I found out」より許可を得て再掲しました。筆者エミリー・アプトン(Emily Upton)は、毎日楽しいトリビアを紹介して人気のサイト「TodayIFoundOut.com」のライターです。)今更これを見つけたからって、このお嬢さんが書いた伝記から受ける印象は変わりませんが、エネルギーの源は多方面に作用するということが分かった気がします。この記事のおまけに・キュリー未亡人とランジュバンはそれきりヨリを戻すことはありませんでしたが、キュリー夫人の孫娘エレナ・ジョリオ=キュリー(Helene Joliot-Curie)さんはランジュバンの孫息子ミシェル(Michel)さんと偶然結婚しています。さすがのランジュバン夫人も墓石の下。孫の代まではなんとも手の下しようが…。とあります。何とも面白いですね。
2017年11月28日
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亡父が現役だったころ、ひょいと渡してくれた新書大岡信著の『折々のうた』(1982年版)をふと取り出してぱらぱらとみているとこの本に昭和58年9月29日付、新中央航空(NCA)新潟~佐渡行き搭乗券の半券がはさんである出張の折に携帯しどんな状況でわたしに呉れたのか忘れた「いいうたがあるから読んでごらん」といったかどうか本を買うのが好きだった父でも、どんな本も完読したことがなかったからぽつぽつ拾い読みしたものだろうもちろんそのころはうちも朝日新聞を取っていたし連載されている「折々のうた」は知っていた小説は好きでも詩歌となると、妙に緊張してしまうわたしは歌集や詩集に目を向けていないそれでもそのころ気になるうたがあったとみえてその新聞の茶色く変色した『折々のうた』の切り抜きもはさんである窓にうす明かりのつく人の世の淋しき 西脇順三郎杉の梢星を放てり人にあるわれやこの世に何を放たむ 塚本邦雄見しことも見ぬ行く末もかりそめの枕に浮かぶ幻の中 式子内親王おもうふこと。―あゝ、けふまでのわしの一生が、そっくり騙されてゐたとしてもこの夕栄のうつくしさ 金子光晴わたし40代の始めのころなんと、さびしきうたが好きだったのだろ
2016年01月12日
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『若書き』(わかがき)という言葉があります画家や作家の若いときの作品のこと例えばわたし画家河合玉堂さんの絵はシンプルで好き黄葉の川に線描きの船掉さすおひともちょいちょいと描いてあり ひょっとするとおへたかな、なんて(笑でも玉堂さんの写生帖山水編をみてみると微に入り細を穿つように山水草木が描かれているのもちろん下のようなものもはちょっと細かいけど これは有名ですね、やはりぼかし加減で美しい 常識ですね、単純なような線も才能と鍛錬によるものとそこで文学今、吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』を読んでいるでも、それがさ、読むのが大変なの上下巻670ページ2段組み、活字小さいしかも微に入り細を穿つような歴史的事実の文章の合間にシーボルトの娘のお稲の生涯が描かれている吉村さんの若書きかなと思う次第もちろん脂がのっているいい文章なのだがなんだか目が悪くなりそうよ
2014年01月14日
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自我にめざめ個人が自由に行動するのは、明治の昔、簡単ではない。 西欧的思想の個我にめざめ、作家を志し自由結婚を望めば、昔気質の父には認められないことだ。 そして強い個性の似たような親子はぶつかって、もう好い加減に許そうと思ってもおのおのなかなか出来ない。 周りの家族に助けられ、状況の変化に引っ張られて「和解」にたどり着く。でも決して理解しあったのではなく、親子の情がゆるむような「和解」。 やはり小説の神様は小説がうまかった。堪能。 さて、親子の確執は現代でも続いている。ブログでも見受けるし、自分も無いとは言えない。しかしその内容は名作とは違う。 現代ではそれこそ「個人の自由選択」は法律でも保証されている。そのように社会もなっているようだが、本当の意味で西欧の言う「自我」を確立しているかどうか。 堕落かもしれない。未発達なのかもしれない。 もたれあい、あまえあい、きずをなめあう、風土は依然としてあるから。 「パラサイト」許し難い。 過保護もってのほか。 そこに親子の確執が起こるとどうなるのか? 最悪は親殺し、子殺し事件のニュース。 でも、いちばんわかってくれるのも親。子も親は捨てられない。 願わくは、お互いの自立。 和解改版 (志賀直哉)
2009年05月08日
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『戦争と平和』の伯爵令嬢ナターシャは浮気性なのか?それとも、人間というものはふと魔が差したようになるものだというトルストイのメッセージなのか? ダンスを踊って夢中になり、あまりにも唐突にアンドレイ公爵と恋に落ち、婚約期間が一年間ということになると、その間に遊び人のアナートリー・クラーギンに鞍替えしてしまい、しかも破綻して恥じて毒を飲むなんて、信じがたい。幸い命はとりとめたけれども、病気になってしまう哀れさ。 でも、登場する男性たちは適当に遊んでいる風だ。女性だって目移りするのは当然だとでもいうのか。 この小説に登場する若い夫婦たちは、結婚してすぐと不和になったり、うまくいかなかったりするように描かれている。トルストイの経験だろうか、好みだろうか? 小説だからおもしろいのだけれど、結婚はうまくいかないのが普通に思えてくるから困ったもんだ。えっ、困らない!? わたしの周りにもうまくいってない夫婦がたくさんいる。別れはしないがなんとなく当らず触らず暮らしている。別室主義、家庭内別居。うまくいってないというほどでもないが、遊びに行くにも別々の方が気楽だ、そのほうが楽しいという別行動パターンの夫婦も意外と多い。 もしくは奥さんの他に彼女がいるのが公然の秘密になっている。しかも男たちはそれを許容しているふしがある。もしかしてお互い助け合っているのかもしれない。果てはうらやましがっているかもしれない。もしわたしが若かったら知らなかったかもしれないが、もういまや筒抜けなんだから皆様(苦笑) いやいや、奥さんのほうにも彼氏がいるのかもしれない。わたしは聞いたことないけれども(笑) これが熟年離婚しないけれども、なんとなく暮らしてる60代~70代の夫婦の姿だと思う。ちがう? わたし? わたしは同室主義、旅行も一緒、ご飯も向き合って食べてるよ~~。(ごそまつさま) さて、ナターシャも病気が治りかけたよう、続きにかかるとしよう。ピエール・ベズウーホフ伯爵は結婚生活に幻滅を感じている。ナターシャの精神的相談相手だ。とすると、どうなることか?
2009年01月05日
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師走と考える事が多いこととで、読書時間が減ってやっと第二巻読了。 やっととはいっても、この巻はなかなか起伏に富んでおもしろい。登場人物像がつかめて、トルストイの人間観察のするどさが心憎いまで胸に迫ってくる。 伯爵令嬢ナターシャ・ロストワという魅力的な美しい乙女と恋仲になるアンドレイ・ボルコンスキー公爵、婚約を決意する。 でも、アンドレイの老父ボルコンスキー公爵が結婚に反対。一年先にするよう厳命、ふたりは遠距離恋愛となる。 そこへ横恋慕のクラーギン公爵の息子アナトーリー・ワシーリエヴィチが割り込む。悪友ドーロホフが加担して、略奪婚ならず、略奪処女をたくらむ。 ナターシャとアンドレイの恋のゆくえは? アンドレイ友人のピエール・ベズウーホフ伯爵が陰に陽に揺曳する。ピエールは美しいけれど淫乱な奥方に落ち込んでいるからあぶない、危ない。 その他ナターシャの兄弟、従姉、アンドレイの姉妹、友人の結婚話が盛り沢山。思い当たる節もあり、読ませる。 と書くと、ハーレクイーンみたい(読んだことないけど)だが、そこはトルストイ、会話に無駄がなく、はっとさせられる。それにロシアの民族風俗風景の場面、場面が重厚だ。 帝政時代の貴族だから、狼狩り、狐狩りの勇壮さ、ロシアの田舎風景(貴族の領地)の描写が美しいこと。 そう、この巻は戦争の場面がなかった。 読んでいてふと思ったのは、わたしが今までに読んだ名作の要素があてはめられる人物描写、場面の既視感の多いこと。 例えば『カラマーゾフの兄弟』の長兄ドミートリーっぽいアナトーリー・ワシーリエヴィチ。発表年代調べてしまった。 『戦争と平和』トルストイ(1865年~69) 『カラマーゾフの兄弟』(1876年~80) ドストエフスキーの方が後だった。 『罪と罰』(1866)に似ているところも。アンドレイの妹マリヤの性格描写もゲーテ(18世紀)の『美しき魂の告白』を思い出してしまう。 ピエールは『魔の山』のハンス・カストルプに影響をあたえたのではないかと思ったり。 要するに名作は新に旧に影響を与え合い、似通ってしまうのだろう。
2008年12月17日
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「第一巻 第二部』 時は1805年、10月から11月。ロシア軍がオーストリアの地に進軍した。オーストリア軍と共に。と書いてみたけれど、戦争の場面はわたしにとっておもしろくない。というよりわからない。 駐屯地での人間模様ならまだわかるが、中隊、大隊、連隊、左翼、右翼、中央配置がどうやらこうやら、軽騎兵隊、砲兵隊、歩兵隊がいりみだれて、突撃、攻撃、後退、敗走もうぐちゃぐちゃ。 むかし司馬遼太郎の『坂の上の雲』を6巻で挫折してしまったのを思い出したわ! クトゥーゾフ総司令官(アンドレイの上官)をはじめとしてアレクサンドル皇帝、オーストラリアのフランツ皇帝、ビリービン外交官、バグラチオン公爵、デニーソフ大尉(ニコライの上官)等々登場人物多し。 と、とにかくアンドレイの優雅な活躍、悲惨な場面もあって、恐怖と闘いながらの進撃。ニコライ・ロストフが負傷し、ドーロホフの豪胆な動きなどを確認。 「第一巻 第三部」 第一部で予想されたようにワシーリイ公爵の画策でピエールがエレン娶ることになり、禿山に愚息アナートリイを伴って、マリヤ嬢に娶あわそうとの方は失敗に終わる。ピエールの運命観、マリヤの選択。 ニコライの負傷が家族に伝えられ悲しむが昇進級もある。ニコライのアレクサンドル皇帝崇拝愛。ボリスがアンドレイに近づく。 ナポレオンのフランス軍とアウステリッツでの戦い。ロシア、オーストラリア軍の敗北。プラーツェン高地でアンドレイ負傷、戦場視察のナポレオンに見つかり捕虜となる。アンドレイのナポレオン観、死生観。蒼穹の空を知るアンドレイ。 文庫本の(一)を読み終わって訳もわかり易く、おもしろいのだけれどこの本ばかりだとどうかなーと思い、他の本を読みつつ読むので忘れないようにあらすじを書いてみた。でもこれ書くのに時間がかかった。こんなことしていて読書の時間が減るのも困ったもんだ。 こんな風な日本のではない時代小説は珍しい。あ、『レ・ミゼラブル』 もそうかもしれない。アナトールフランスの『神々は渇く』も。 たしかミッチェルの『風と共に去りぬ』は『戦争と平和』に触発されて書いたと記憶している。
2008年11月27日
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たぶんこの小説の主人公は「戦争」と「平和」なのだろう。しかし長くて登場人物が多いので、読みとったあらすじを書いておいたほうがよく理解できると思うので。(まっさらな気持ちでこの小説を読もうと思う方はこれを読まないほうがいいかも。) 「第一巻 第一部」 アウステリッツの戦いでナポレオンに負ける前のロシア帝国、ペテルブルグやモスクワの貴族社交界は爛熟していた。 貴賓の館で開かれるたびたびの夜会では、ナポレオン戦争の話題と権力出世お金をめぐって権謀術数が繰り広げられていた。 中心人物はワシーリィ公爵。皇帝の顕官でありながら手元不如意。なぜならアナトーリとイッポリットいう二人の不肖の息子がいてお金がかかるのだ。頼みは美しい令嬢娘エレン。よろしき縁談求めて息子、娘をどうしてくれようかとてぐすね引いている。またはお金持ちの知人、ベズウーホフ伯爵の遺産をめぐって画策もしている。 もうひとりのやり手は零落しているドベルツコーイ公爵未亡人。愛息ボリスのためにあらゆるつてを使って出世や入用のお金を得る、たいしたお方。 財産家瀕死の老ベズウーホフ伯爵にはピエールという庶子がいる。外国で教育を受けさせ、溺愛しているために遺産と爵号を継がせたい。けれどピエールの性格純情無垢。 ピエール親友にアンドレイ・ボルコンスキー公爵。シニカルで人を寄せつけないようなところもある。やはり裕福、父が旧人で変わり者隠棲している。禿山という所で父にかしずき引き込んでいる妹マリヤは不美人のうわさ。 アンドレイはリーザと結婚しているが、一年も経たないうちに不仲の模様。ピエールの将来を心配し、かつ結婚はしない方がいいと忠告のアンドレイに心酔すれど、ワシーリイ公爵息子の悪友アナトーリワシーリイ・クラーギンの宴会も魅力のピエール。大騒ぎが繰り広げられる。そこで出会ったドーロホフという粗暴な若者も立身出世の権化、あらゆるところで頭角をあらわす。 一方、モスクワのロストフ伯爵家。破綻しかかっている家計ながら当主磊落。子供多し。ヴェーラ、ニコライ、ナターシャ、ペトルーシャ、従姉のソーニャ。 ロストフ伯爵家で催す晩餐会の最中、ナポレオンとの宣戦布告話題となる。ニコライ、ボリス出征の予定。家族、恋人への別れ。 まわりの醜い画策の渦中、老ベズウーホフ伯爵死す。ピエール、莫大な財産を継ぎ若ベズウーホフ伯爵となる。 アンドレイも出征のため妻を禿山に預け、父、妹マリヤに別れを告げる。 アンドレイのニヒルさ、ニコライの若き情熱、ピエールの不安定な心情に興味を覚える。でもまわりで揺曳する老練なやからのおもしろいこと、ったら!
2008年11月27日
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トルストイ『戦争と平和』の一巻第一部を読み終わったところ。 ふう! ロシア小説の登場人物の煩雑さからやっと抜けた。 大河小説だから登場人物の多さ、複雑さはしかたがないけれど、 例によってファーストネーム、ミドルネーム、父称(父親の名前)、愛称が 飛びかっていて人物特定に時間がかかった。 わたしはそういうの嫌いじゃなかったんだけれど、いまや記憶力の衰えで、 メモ書きを作るのにおおわらわだった。 ノートの端では間に合わず、カレンダーの裏紙いっぱいになってしまった。 これを抜け出すと俄然おもしろくなるんだよね。 しかし、トルストイはそこのところを退屈させないすばらしい作家だね。 たとえばスタンダールの『赤と黒』やユゴーの『レ・ミゼラブル』は 冒頭に人物の性格、身体的特徴、出自歴史をだらだらと書いてあって、 ほんと、あきあきしたもの。 せっかく作った登場人物表だからフリーページに整理しとこう。 戦争と平和(1)改版
2008年11月13日
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荷風も文豪のひとりとして、文学史上では欠かせない作家であるから遅まきながら読むのは興あること。でも、これは明治の時代小説だ。 昭和の時代が懐かしい時代として現代の若い人に郷愁をよんでいるが、昭和に生きたわたしが明治、大正を郷愁として受け止めても不思議はないかもしれない。 明治時代の末つまり1900年の初めに外国に行くということは大変なことで、特別な、お金持ちの人しか出来なかった、ことの珍しさが加わった文芸的外国旅行記のアメリカ版である。 しかし、お金持ちばかりが外国行きの特権ではなく、その頃も出稼ぎとして船底に詰められて行く人たちも居たとは、このものがたりにもある。その悲惨さ、悲哀はいつの時代、どこの国の人も同じだ。(「牧場の道」「夜の霧」) 耽美派の作家として叙情たっぷり短編形式でつづられるあめりか旅行記のあいまに、時には批判精神発揮をして、もう「新世界」の高揚が過ぎたアメリカ、現代に通じるアメリカの病、すなわち貧困格差人種差別など見つめているのはさすが。 読んでしまえばもうわかっているような…、しかしこんな流麗な文章は明治時代ならばこそだ。 わたしは講談社文芸文庫のを買ってしまったが、岩波文庫改版のほうが半値でお得のような…(しまった!笑)
2008年11月11日
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『伸子』の続編。 『伸子』では中流上層の豊かな家庭で育ち、高等教育も受け、才能もあるヒロイン伸子が有産階級の重圧を嫌いつつも、それから逃れようとてしたような結婚も失敗し、離婚するまでの苦しみが真摯に描かれている。 『二つの庭』はようやく離婚して経済的に自立生活出来て自由になっても、それが目的とはならないという発見。人間として、何を目的にして生きるのかと悩む伸子が道を開くまで。 伸子の悩みは、大正末から昭和にかかる、まだまだ個人の自由、女性の自由がない時代の苦しみとは思うけれど、経済自立もさほど難しくなく、結婚もしてもしなくても自由、というはずの現代でも、目的を持って生きているとさまざまな障害がある。人間社会の常だ。だから普遍的な苦悶として共感してしまう。 どっぷり宮本百合子の文学世界に浸って堪能できた。この続編も『伸子』同様迫力があっておもしろい。むしろこの続編があるから『伸子』が活きる気がする。 主人公伸子は作家宮本百合子自身をモデルにしている。後に共産党に入党して戦前は投獄され苦しみ、戦後は婦人運動に尽くされたけれど、作家としての作品が素晴らしい。(なにをいまさらといわれそうだけれど) 『二つの庭』で作家となった伸子が志賀直哉の『暗夜航路』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』のような小説を書きたかった、と述べさせているのを見てもわかる。とにかく今でも十分読みごたえがある。やはり名作と思う。 『伸子』は岩波文庫で再版されたのを、『二つの庭』は新日本文庫を古本で見つけた。
2008年10月06日
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若い方におすすめの本を、もう若くないひとが選ぶとこうなるという、作家24人の名作鑑賞『私を変えたこの一冊』(集英社文庫)を読んだ。読書感想文のお手本だそう。??これをぱくってはいけないよ~。 『地獄変』『河童』『野菊の墓』『伊豆の踊子』『女たちへのいたみうた』『ふしぎの国のアリス』『青い麦』『堕落論』『清兵衛と瓢箪・小僧の神様』『汚れちまった悲しみに……』『坊ちゃん』『三四郎』『夢十夜・草枕』『『吾輩は猫である』『怪談』『たけくらべ』『偉大なギャッツビー』『車輪の下』『風立ちぬ』『銀河鉄道の夜』『高瀬舟』『安南の王子』『遠野物語』『怪盗ルパン 奇巌城』 さてクイズ、上記の作品、作家は誰でしょう?遊んでください。 ほとんどはわたしが青春の頃読んだり、その後思いついて読んでいるが、知っているけどどちらだったかはっきりしないものもある。 『野菊の墓』と『車輪の下』。 さっそく読んだ。なるほど青春の書だ、と思える年経た自分がいる。もどかしいほど純粋なこころ。あの頃はこういう風にしか自分を表せないんだねということ。今のわたしなら愛惜にむせんでしまうよ。だからこれらの本は大人のノスタルジー。むしろ今時の青春さんたちはどうなのかなー?と興味がわく。 また、どんな作家がどの作品の感想をお書きになったかもわたしにはおもしろかった(編集者と相談したのだろうが)。 そうそう、『堕落論』は読んでいなかったのでさっそく読了した。終戦記念日も近いし戦後時代のある高揚がわかり、しかし今にも通じて興深い。また作家、山川方夫を知らなくて興味が湧いてきた。『奇巌城』も読んでない(珍しいでしょ?笑)早速購入した。とやはり読書人には意味ある一冊。
2008年08月08日
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もう何年になるだろう、読みたい、読みたいと思っていた『エデンの東』を読んだ!全四巻。ハヤカワのepi文庫の新訳で、やはり文字が大きいのがありがたい。 簡単にまとめれば、父と子、兄弟、家族との葛藤。母の存在、悪女。青春の光と影。若さゆえのいらいら。善と悪。暴力と叡智。老いの哀しみ。 聖書「創世記」の「カインとアベル」の物語が基調にあり、その物語の文がそのまま出てくる。そしてそのわかりかたがこの長い物語の骨子。個人的には人間は「カインの末裔」であるという意味がわかったのが感動だった。 ケイトすなわちキャシーという毒婦がすごい、だが惹かれてもしまう。この世のわけのわからないとんでもない事件の起こるわけが、少し解ったような気がする。 リーという中国人の召使がいい、賢い。アブラという乙女が大好きになったのもうなずける。ちょっと「日の名残り」を思い出すが訳者も同じとは...。 上記の人物は脇役。物語は、トラスク家とハミルトン家の人々の壮大な人間模様。作家スタインベックの自伝的要素も含まれ、圧巻である。 帯に「この物語であなたは変る」とあり、おおげさなと思えど看板に偽りなし。ひたひたと胸打つ文章に、人間のいとなみの不思議さをあらためて考えさせられる。訳がいいのかもしれない。
2008年07月11日
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ゆるぎない信念がつらぬいているから、懸賞小説で通俗性が濃くても、何版も重ねるほどのベストセラーであり続けるのだろう。 物語の筋を面白いと思い、展開を追うも良し、奥に秘められているものを知るのも良しであった。 ヒロイン陽子をめぐる物語はわが子を殺した犯人の娘を養子に迎える異常性、継子いじめ、数奇な運命、波乱万丈、急展開があって厭きさせない。何もこんなにこねくり返さなくてもと思いながらも引きずられて読む。 そのわけは単に変化に富むあらすじのみの興味ではなく、キリスト教の教示する「原罪」の意味をやさしくわかり易く表しているから、おおよその理解ができるということである。 欧米の書物は古今キリスト教に裏打ちされている、いまいち理解に苦しむわたしはこのようにわかり易くしてもらうと有難い。 その証拠に流行っている『カラマーゾフの兄弟』の新訳を読み始めたが、前よりよく理解出来るようでちょっと感激してしまった。3年前に(旧来の訳)読んだ時はミステリ風の殺人事件に興味がいって、宗教的部分は飛ばして読んでたのではないかと思える。 また、作家三浦綾子は『カラマーゾフの兄弟』を意識して『氷点』を構想したのではないかとひらめいてしまった。もちろん大古典名作の『カラマーゾフの兄弟』はその後の文学に影響を与えたのは当然、他にもたくさん触発された作品があるのだろう。 『氷点』を読むなら、正続あわせてがよいと思う。 ところで、100年間のベストセラーをおもしろく切りまくっている岡野宏文・豊崎由美の共著『百年の誤読』には『氷点』がぼろっかすにやっつけてあって、「何も今読まなくていい」とまで言い切っているのを思い出した。 でも、わたしの経験では『光あるうちに』三部作→『氷点』正続→『カラマーゾフの兄弟』はキリスト教の一端がわかるお薦めのコース。もちろんわかりたい人にだけど。
2008年03月07日
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わたしが前回ひょっと思い出して書いてしまった事は、閉じ込めておかなければならない事だったかもしれない。しかし、その経験が松本清張の『ゼロの焦点』をわたしに忘れがたくさせているのだ。 『ゼロの焦点』を再読した。先日TVドラマで好評だった『点と線』で大ベストセラー作家になる直前の文学色濃い作品であったと、あらためて実感した。 やはり映画やTVドラマに数多くなっているので有名だが、金沢、能登半島の冬の暗い風景の後ろにうごめく人間臭いもの、戦後史に翻弄される人々の描写が迫ってくる。 再読してみて新たに感じた事は、ミステリーとしては細部がやや甘いが、それがぶっ飛んでしまう清張の文のうまさ、構成のうまさである。 主人公の板根禎子(いたねていこ)は名前からして当時古~と思ったが、今にして考えればぴったりなのだ、現在活躍、活劇している(本の中で)女性探偵のはしりだもの。 でも禎子は結婚したばかりの夫が失踪したのでやむなく能登半島をさ迷って捜査する。夫の過去がわからない、その不安の描写がうまい。 この小説の時代は昭和32年ごろ、お見合い結婚が主流だ。おおかれすくなかれ男女が生活を共にしだすといろいろ問題になる。事件にならなくても取り返しのつかないその齟齬が尾をひく。うなずきながら読んだ女性は多かったと思う。 そんなところもおもしろかったが、やはり風景の描写は秀逸。列車の旅の描写もそそる。 因縁めいたものを感じるが、たまたまわたしは友人と冬の能登半島行きを計画している最中なのだ。ほんとに偶然まだ決定の連絡がこないのだけれどね。 能登金剛の冬景色を楽しみにしている。しかし、ごらん、空の乱れ波が――騒めいている。さながら塔がわずかに沈んで、どんよりとした潮を押しやったかのよう――あたかも塔の頂きが幕のような空にかすかに裂け目をつくったかのよう。いまや波は赤く光る……時間は微かにひくく息づいている――この世のものとも思われぬ呻吟のなかに。海沿いの墓のなか海ぎわの墓のなか―― 作中に引用してある外国の詩。禎子が夫を想って涙を流す。そう、親しみの薄かった、あっという間に失踪してしまった新婚の夫を愛し初めて...。
2008年01月12日
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(書き改め)夏目漱石も西欧の近代合理主義と自分のこころとの矛盾に悩む青年を描いたが、横光利一もそのような西欧合理主義の教育を受けながらも実際欧州に行ってみて、反発や適応せざるをえない苦しみをこの長編に描いた。ヨーロッパを賛美出来ず、なお日本に寄り添ってしまうこころを解剖してみせる。昭和11年(1936年)といえば第二次大戦前の不穏な時だろう。行くにしても何日もかかった時代。そんな時欧州に遊学する青年たちとは特権階級、現代の誰でも(庶民が)行けるヨーロッパではない。東洋と西洋の相克の悩みは、今から考えると隔世の感。ストーリーは単純。同じ船で長旅して、欧州を目指した青年二組の男女が繰り広げる愛憎といえればいいのだが、なんともまだるっこしい展開なのである。歴史、近代文化を学ぶため遊学した「矢代耕一郎」と、カトリック信者でイギリスにいる兄を訪ねる「宇佐美千鶴子」のカップル。社会学、美術の研究のため渡欧の「久慈」と、せっかく夫を訪ねたのに離婚の危機迫る「早坂真紀子」との関係。最初に「久慈」が「千鶴子」に接近、欧州到着後はだんだん「千鶴子」が「矢代」に引かれていくのだけれど、なかなか決定的な愛の告白をしないつつましさ。二人とも長い欧州の旅を終えて別々に日本へ帰ってきてしまう、それが上巻の終り。「何も言わなかったのがよかった」とかなんとか。(今なら、はぁ?と思う)しかし、西欧に対する思想考察は当時を彷彿させおもしろい。またパリやスイスなどの描写は素晴らしい。パリで遭遇した歴史的な事実”人民戦線”の「デモ群集と官憲の衝突見聞」など迫力だ。もしかして当時のあこがれの欧州旅行案内だったのかねこれは…。わたしが中学のころ友人に薦められた本である。挫折しては長いこと読みたいと思い続けてきたわたしの息も長いけど、この物語の退屈とも思える冗長さにはあきれる。でもこれが「旅愁」という作品の性格的色彩というから、仕方がない。参考資料をみると、なるほど研究論文が多い。うなづける。新感覚派の実験といわれた短編は非常にシャープで面白かったのだが。(下巻感想につづくかもしれない)
2007年10月06日
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春の雨のような色《つるにちにち草の淡青色》の目の、ヴァンカという名の少女はほっそりした十五歳半。少年は十六歳半。避暑に来るたびにたくましさを増して成長するフィリップという。子供の頃からの仲良しなのに、なんだか気持ちがしっくりしない夏がやってきた。ふきげん、尊大な態度、言い合い。いらだたしい恋。そこへ美しい年上の女性、白衣の婦人、ダルレイ夫人が登場。少年は手ほどきを受けて…。通俗的、不純、絵に描いたような避暑地の出来事みたいなんだけれど、コレットの感性はゆたかで、みずみずしくうつくしい文章となる。わたしは堀口大学訳を18歳の時読み、忘れがたく思ったのだが、今回手塚伸一訳(集英社文庫)を再読した感想は、よりういういしさがいとしく、味わい深かく魅了された。なるほどコレットが分別盛りの50代に書いたのだから、そうなのだと思うし、また恋愛の情熱には年齢がないというテーマなのだから、コレットの筆力がすごいということ。少女のこころの大人っぽさと、少年のからだばかりは成長しても、不器用でぎこちないこころとのぶつかり合いの果てには何が…何処へ行くのか。せつない。やっぱり若い複雑なこころの「恋愛の妙」に惹かれてしまう、名作。でも、恋愛の本場フランスであってもスキャンダラスな作品との評が当時(1923年)あったのだそう。ふーうん。
2007年10月02日
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日本誇りの文豪夏目漱石をわたしが読んだからって、発表するような文学論が出るわけではないけれど、今年はこんなことをしたということで発表します。(未読の作品が少々、また、関連書籍を読んだら更新します)8月『続 明暗』水村美苗『明暗』『道草』7月『こころ』(3回)…恐れ多くて感想がかけなかったのです。『虞美人草』6月『行人』5月『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』『琴のそら音』『薤露行』『趣味の遺伝』『一夜』『草枕』『彼岸過迄』4月『文豪ナビ 夏目漱石』新潮文庫編)『門』『それから』07年3月『三四郎』(2回)『坊ちゃん』06年6月『夢十夜』『文鳥』『永日小品』『夢十夜』は今は亡きハンドル名パティさんのHPがすてきだったので読みました。漱石ってこんな夢物語を書いていたなんて、と目からうろこ。パティさんの忘れられない思い出です。06年8月『我輩は猫である』 (2回)91年3月『硝子戸の中』新聞で知って読みとても癒されました。教科書では知ることが出来なかったのですね。
2007年08月30日
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木々高太郎(1897~1969)という作家を知っているひとはどのくらいいるのだろう。もちろん私も『人生の阿呆』を読むまで知らなかった。しかも『人生の阿呆』が直木賞の第四回(昭和11年)受賞作品であることも知りもせず、たまたま本屋で復刊の文字に魅せられただけなのだ。そしてなぜか惹かれてしまったので、他作品に興味を持つはたどる道なので。800ページぎっしりと作品が詰まっていたが、それぞれに味わい深く思い違いではなかった。短編『網膜脈視症』『眠り人形』『就眠儀式』『緑色の目』『文学少女』『永遠の女囚』『新月』『月蝕』『バラのトゲ』長編『折蘆』『わが女学生時代の罪』 短編や長編の作品にたびたび登場する、大心地(おおころち)先生という精神分析の専門家は、探偵のまさにキャラクターで、著者がそのすじの専門家、つまり医師であるというのもリアルさをいや増す。江戸川乱歩も『「文学少女」を読む』で褒めているが、『文学少女』が忘れがたい。ちょっと詩人「金子みすず」の生涯物語を髣髴させる、まさに「文学少女」のものがたり、あわれ胸迫る。獄中で流行作家になり、晩年病に苦しみ、骨の痛みに耐えながら、骨身を削るの意味がわかると大心地(おおころち)先生に言う。『先生、痛みなどはなんでもありません。私は初めて人生を生きたいという希望に燃えて来ました。芸術というものは、私の生涯を苦しめ、懊(なや)ませましたが、それがため人生を愛しました。文学というものは、なんという、人を苦しめ、引きちぎり、それでも深く生命の中へと入って、消すことができないものでしょう。でも、私はもう七度生まれて来て、文学の懊みを味わいたいのです。私は、骨の髄まで文学少女なのです。先生』作家でもなく、ただ読んでいるだけの私でもよーくわかる。長編の『折蘆』『わが女学生時代の罪』もその独自性にはびっくり。今や珍しくないストーリーだけど昔々の作品だからね。すごい作家がいらしたんだと感心しきり。『木々高太郎集』(日本探偵小説全集7 創元社文庫)
2007年07月13日
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ひょいと読み返したくなり捜したが、岩波文庫のは品切れ、講談社文芸文庫の略本で間に合わせた。『デカメロン』またの名を『ガレオット公』は14世紀のイタリア文学。古典中の古典。所はイタリアフィレンツェのペスト蔓延の死の影から逃れて、妙齢の貴婦人7人、騎士3人が田園領地につどい、10日間に1人一短編、1日十篇を語る、百物語。百話もあるのだから多岐にわたっているのだが、機知に富んだ話し振りは軽妙かつ、色っぽく(エロっぽく)あたかも人生哲学を呈しているからおもしろい。今にして思えば、エロと言ったって直接の言葉は使わずぼかしているので、なお想像力が増したのである。岩波のは挿絵があったので、よかったけど。この講談社文芸文庫には略されているけれど、昔読んで強烈に覚えている話は、ワインの大きな樽だかなんだかの不具合を、亭主にもぐらせて見てもらっているおかみさんが、覗き込んでいるその姿のまま、恋人になにをさせる…。当然息遣いも荒く、亭主もぐりながらも「???…どうした」そしておかみさんの答えが「…」。もちろんこんなのばかりではなく、腐敗している聖教者を見てかえって信仰心がわくだとか、日本の「安寿と厨子王」みたいなのや、オカルトっぽいのもある。百話のうちには、地理的にもヨーロッパ全土をかけめぐり話を集めているので、職業、階級、地域、14世紀ヨーロッパの世界がわかるのである。特に話し手に貴婦人が7人もおり、女性崇拝の騎士が3人もいるので女性像が生き生きしているのがいい。ボッカチョも「あとがき」で女性よ頑張れとあかるく後押ししているみたいである。追記。私が10年前にイタリア旅行した時、フィレンツェの中央駅のそばにあった「聖女マリーア・ノヴェッラ教会」の壁をもっとよく見ておけばよかったとつくづく思う。そこがそもそも『デカメロン』の出発地点、終点であったのだと今回わかった。おぼろにしか覚えていないのが残念。デカメロン(上) (講談社文芸文庫) [ ジョヴァンニ・ボッカッチョ ]デカメロン(下) (講談社文芸文庫) [ ジョヴァンニ・ボッカッチョ ]
2007年06月19日
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漱石の作品を丹念に読んでいくと、教科書的文学史的知識を通り越してやはり文豪だ、天才だと実感する。100年前にこんなすごい文学を書いた天才が日本にいた、という誇りが湧いてくる。『行人』人間と人間の関係を、心理の奥深くに探求してやまない作者の彷徨は、苦しくも胸を打つ。前半、二郎は兄一郎のストイックな性格に翻弄され、兄の家族(妻、両親、妹)まで巻き込んで起こってくる葛藤を語る。兄嫁との三角関係まで疑われ、微妙な立場になる。あげく後半、兄の友人Hにも世話をかけ、手紙で描写される兄の性格とは。「ひとのこころはわからない」と人を信じられない。いえ、いい加減なところで妥協できない性格なのだ。そんな性格の人はめんどくさいからほっとこう、というわけにはいかない。誰でも本当はそこが知りたい。人を愛しながらも人を信じられず、こころが病んでいく。近代、現代のこころの病といえるこのテーマは、古くない。
2007年06月18日
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ジェイムズの『ねじの回転』が一読ではなんだかすっきりしなかったので、違う訳のを(筑摩書房全集)読み、ついでに『デイジー・ミラー』も読む。『ねじの回転』は解説やネットのプレビューを見たりして、いろいろな解釈があると知る。まだすっきりしないが(笑)そういうものらしい。なるほど20世紀の「意識の流れを追う文学」先駆的存在作家の奥深いところである。それに比して『デイジー・ミラー』はわかりやすい。スイスとイタリアで有閑的に過ごしているブルジョワのお嬢様(アメリカ人)がおなじアメリカ人男性と交友を重ねるが、新しい付き合い方を無邪気にする娘にたいして、旧弊がぬけない男性は失恋してしまう。明るくて、美しくて、コケットリーで勇敢な女性に、「もしかしてすれっからしの女」ではないかと疑心暗鬼になる男性は今も絶えないだろう。魅力に捉えられながらもぐずぐずとしている若者の心理がおもしろかった。欧米ではヘンリー・ジェイムズを20世紀の重要な作家の一人として挙げている。『鳩の翼』(1902年)『使者たち』(1903年)『黄金の盃』(1904年)が「20世紀に書かれた英文学100選」に入っている。
2007年05月01日
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「三四郎池」に行ったのは19歳の時、文学散歩だけれども。変哲も無いただの池と記憶している。その時期『三四郎』をしっかり読んでいるが、すっかり内容は忘れたのに、記憶の底から浮かび上がる言葉のあやなす雰囲気。「偉大な暗闇」「可哀想だた惚れたってことよ」「ダーター・ファブラ」(お前について、話が<ある>)「ハイドリオタフィア」(死生観)「ストレイシープ、ストレイシープ」(迷える子、迷える羊)20世紀初頭の学生も、私たちも好んで口にして楽しんだものだ。純情な田舎青年小川三四郎は帝大の池のほとりで、森を背景に、団扇をかざす里見美禰子に逢って惹きつけられる。美禰子のほうも一目ぼれらしい。無頼な友人佐々木与次郎に迷惑をかけられ、野々宮宗八先輩、その妹野々宮よし子、佐々木与次郎の寄宿先広田萇先生がからんで時は過ぎ行き、青春のゆらめきの中(今から思えばきらめきの中)、三四郎は失恋にいたる、印象深き内容。古めかしいとはいえ古くはなっていない小説。
2007年04月01日
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バルザックが「人間喜劇」という名で90篇の作品を書いた、ということに興味を持ったのはもう45年以上前、取った講義の題材からであった。しかし、本好きとなのになぜか私が読んだバルザックの作品は数えるほど。「谷間のゆり」「従妹ベット」「ヴェジニー・グランデ」「知られざる傑作」など読んでるほうと思っていたが、なんと遠回りだったことか、これ読まずして文学好き本読みとは言えない。「人間喜劇」中の傑作のひとつ、のみならず単体としてのおもしろさ、構成のよさ、やはり与える影響抜群の作品なのだ。古典名作の中で、私にとっても久々のヒット作品を読んだのである。持参金を持たせて貴族と銀行家に嫁がせた娘ふたりに裏切られる「ゴリオ爺さん」の挫折と不幸、悲しみは「リア王」だけれど、バルザックのバルザックたる所以は、主人公「ラスティニャック」の青春教養物語として嫋々と迫ってくるので、光り輝くような説得力。お金に群がる貧者、醜い出世主義、ずうずうしい泥棒の悪、貴族の悪党、なんという親不孝娘。19世紀初頭の王政復古と拝金主義時代の風物風俗、社会批評を描かせたら、バルザックなど同時代の自然主義文豪にかなわないだろう。風俗史実の面白さに加えて、いまだ変らぬ人間心理のダイナミックな暴露は恐ろしいほど。上巻はまだるっこしくとっつきにくいが、下巻になるとテンポが速くあっという間に読んでしまう。
2007年02月09日
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「ベルばら」を読んだら懐かしくなり再読、感想というより思い込みを一筆したくなった。少女クラブ版 手塚治虫(講談社)私の持っている本は、連載25年後の手塚治虫漫画全集85、86巻の初版本。連載を熱狂的に読んでからずっーと後、大人になって買ったものだ。それでも、もうそれから25年以上過ぎてしまった。なのに、いまでも重版されているらしい♪ ブックレビューなどを見るとあまり誉めてないし、いろいろ欠点があるといわれている。わたしは知らないけれど「なかよし版リボンの騎士」もあるし、TVにもなって、話のすじはいろいろに変化しているらしい。で、冷静に(!?)今回読んだ結果、確かに後半引き伸ばされて、饒舌に過ぎることはそうだけれど、前半の緊張感を持った面白さは、時代を経ても褪せていないと思う。まんがとしても面白く笑えるし、少々ネーミングが古いけれど時代を反映しているのもほほえましいではないか。例えばジェラルミン大公、その息子のプラスチック、ナイロン卿…。みんなその時は珍しく、新しいものだったのだから。王女が王子として育てられる事情、女の子の心と男の子の勇ましさたくましさの間でゆれる微妙な心理、「ベルばら」のシーンと重なる。また、数々のおとぎ話にオマージュしをささげたような変化に富んだすじはファンタジーのはしりだ。こんな物語性の強い少女まんがは、かってなかったのだし、一時代を風靡したという記念碑的存在は揺るがないのでは。私の持っているのはカラーページがないけれど、当時は号によって美しい色刷りだったのだ。その美しさ、絵のすばらしさも当時は珍しくて魅せられたものだったのだ。(今なら当たり前で信じられないだろうけれど、50年以上前の話なのだから 笑)とにかく思い出は美しいものだから、わたしにとって忘れられないまんがなのである。この本を大切に本棚へまた収めたのだった。
2007年02月03日
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文学好みの媚薬というところだろうか。新訳で「チャタレイ夫人の恋人」を読んだ時に劣らない高揚感があり満足した。ロレンスはイギリスが自慢してよい、稀有な作家である。陰影のある繊細かつ大胆な人生を切り取ったロレンスの世界で、13編みなそれぞれにいいが、特に「薔薇園の影」「菊の香」「春の陰影」「盲目の男」「太陽」「二羽の青い鳥」が数々の傑作長編を髣髴させ、イメージが思い浮び楽しんだ。薄紫色(ヘリオトロープ)、グローリアの薔薇、罌粟(けし)、月桂樹、針金雀枝(ハリエニシダ)、榛(ハシバミ)、釣鐘草(ブルーベル)、柊、車葉草、ラッパ水仙、西洋季(プラム)、桜草、勿忘草、金盞花、塩釜菊、姫萩、………。花々が咲き乱れるイギリスの美しい自然の中のうつろい、その陰影になぞらえての心理描写、渾然、陶酔、とっぷりと浸かってしまう。人間の営みのおける人間性を抉り出し解放する、けして古くない心理描写。昔読んだ『息子と恋人』も印象深かったし、もっと翻訳されてもいいのだけれど現在作品は少ない。
2006年12月06日
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この小説が書かれた年代は1911年~13年、物語の時間は1901年(明治34年)の秋冬春夏。しかしまったく時代を感じさせない「或る女」「早月(さつき)葉子」というヒロインのなまなましさ、よ。要するに道具立ては古いが(明治時代の背景)1人のヒロインの強烈な個性を描きつくした有島武郎という作家の腕の冴えを味わった。美人で才知あふれ、気が強くかつ傷つきやすい女に、時代の荒波が(といっても現代とさしてかわらず)世間が、男の論理が襲いかかる。情熱をもって立ち向かう姿は迫力があるのだけれど、少々方向違い。そりゃぁ、初恋の彼「木部」から新婚2ヶ月めに脱走し、離婚し、密かにそのときの子供を産み落とし、その身を親の後ろ盾がなくなり親戚に進められたとて、アメリカにいる婚約者のもとに行く船上で(2週間かかる)、船の事務長「倉地」に熱烈な恋をして結ばれ、アメリカに上陸もせずとんぼ返りしてしまう、そんなわがまま女幸せになれるはずがない。日本に帰ってきても、船で知り合ったほかの男やら、アメリカの婚約者ともどもつなぎとめながら、「倉地」と同棲し深みにはまっていく。という物語内容で「葉子」の性格行動を、文学的な心理描写とともに素晴らしく表現され、夢中に読ませる。やはり古典的自然主義文学の傑作なのである。解説(加賀乙彦)にもあるが、アンナ・カレーニナやボヴァリー夫人のごとく、あざやかに浮かびあがる日本の女性像のひとり「或る女」の性格、現代にも、いや現代だからなおいるだろうね。「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラのように好悪のはっきり分かれる、妖婦的主人公である。巻末に注釈あり、モデル説もありそういう興味もいいが、一気に読んで心理描写、歴史的時代背景、文学の情緒を楽しめる。しかも、仮名づかいなど表記も読みやすくなっているから、昔、読み挫折したけれど取り戻した感じで嬉しい。ああ、名作はいい!楽天ブックス新潮文庫:或る女
2006年10月17日
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ツルゲーネフは何冊か(『猟人日記』『けむり』『ルージン』『父と子』)を読んで印象があるのに、これはまだであった。もろりんさんのところで感想を拝見し、遅ればせながら読む。導入部に初恋の思い出を語り合う「老人とは言えないけど、さりとてお若いとも言えない」紳士三人、とあるので人生も半ばの大人から振り返った青春というところが主旨である。若くして読めば青春のはかなさ、憂鬱そのものを感じとり(とても美しい文章だから)、年経ては返らぬひと時の貴重さを懐かしむ。しかし、青春の「魅力の秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなく、一切を成しうると考えることが出来ることにあるのかもしれない。」若き力を力いっぱい生き「ただ風のまにまに吹き散らしてしまうところに、あるのかもしれない。」そしてその膨大な時間を無駄使いしてしまった。と「大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。」と哲学人ツルゲーネフが結んでいるところに、この幼くて情熱的で異常な状況の初恋の物語の意味があるのではと思う。なるほど、ツルゲーネフの自伝的な要素もあるというから、他の作品の自然主義で思索的なさびのきいた文章の萌芽はここからだ、ということが私はわかったのである。
2006年06月25日
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