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メデューサという奇病の発症により、世界は混乱に陥れられる。その中で、コールドスリープによって、病気の治療法の解明された未来へと、患者たちを送り出そうとした。けれど、コールドスリープからめざめたその世界は、建物中にはりめぐらされた巨大ないばらと、つぎつぎにおそってくるモンスターの巣窟だった。はたして、ヒロインたちは、そこから抜け出せるのだろうか。という、スタートは、なかなかおもしろそうで、スピード感あふれる前半はなかなかにおもしろかったのですが、後半は、話がややこしくわかりづらく、みおわってみると、一体どんな話だったのか、ちんぷんかんぷん。でした。というわけで、あらすじの書いてあるブログで、ストーリーと設定の基本を確認しつつ、物語のテーマを解明してみましょうね。劇場版 いばらの王(King of Thorn)感想 ネタバレ有り レビュー&自力の考察よくこんだけ話を解明できたものだなあっと、関心しちゃいましたが。↑人の持つ想像力をその人間の細胞を変化させて、具現化できる宇宙生命体。はじめは、病気と、思われていたものは、実は、隕石によって宇宙から飛来した一種の生命体(エーリアン?)だった。いろいろみていくと、「エヴァンゲリオン」と、とてもよく似た物語です。その生命体は人に寄生(?)して、その人間のもつイメージあるいは、望むものを具現化できる。シズクの望んだものは、勇気をもって、前向きに、きびしい現実をいきていくカスミだった。だから、カスミが死んだ時、シズクの中のメデューサは発動し、シズクのイメージする理想のカスミが作り出される。コールドスリープからめざめたカスミは、シズクのつくりだした理想のカスミ。だから、茨の城から脱出し、茨の道を歩いて、未来へと、向かっていくというラストになっていく。手首の傷がなかったのは、シズクのイメージする前向きに生きていく強いカスミだから。イメージからつくりだしたのだから、シズクがのぞめば、手首に傷のあるカスミも作り出せたはず。でも、シズクがのぞんだのは、手首を切ったりしないつよいカスミ。だから、シズクからつくりだされた、カスミには、傷はない。茨というのは、「エヴァンゲリオン」の中にでてく、ATフィールドと同じで、きびしくてつらい現実から、カスミを守っているもの。でも、物語前半で、カスミは、その茨から抜け出そうとする。シズクののぞむ強いカスミだから。でも、本物のカスミのからだは、茨にまもられて、眠ってしまっている。厳しい現実と対峙することなく、いばらに守られて。けれど、ラスト、カスミを現実から途断して、まもっていた茨は、石化し、砕け散る。厳しいいばらの道を歩き始める。さて、主人公のカスミは、双子です。双子のもう一人は、シズク。名前も印象的ですね。霞なんて。弱くて、生命力も存在感もうすい主人公をイメージして、つけてある名前ですね。もう一人の名前は、シズク。それは、希望、の最後の一滴。さてさて、二人が争って死んでしまった時。死んだのはいったいどっちなのか?この決定次第で、物語の解釈も多少違ってきますね。しんだのがカスミという設定でここまでの解説をかきましたが、もし死んだのが、シズクの方だとしたら。コールドスリープするのは、カスミのはずでしたが、カスミは、シズクに生き残ってほしいと、望んでいました。シズクがコールドスリープの資格を得られるように、自分が死ねばいいと、手を切って、自殺しようとしたりもします。けれど、自分以上に生き残ってほしいと、望んでいたシズクが、目の前で死んでしまったカスミは、そのショックからメデューサを発動してしまいます。彼女のかたわれとしての、シズクの体を作り出し、カスミが、しずくにこそ入ってほしいと願ったコールドスリープのボックスにしずくをいれ、イバラで守ろうとしました。けれど、ふとしたきっかけで、覚醒してしまったシズクのカラダは、自分をカスミだと思い込み、シズクをたすけようとイバラの建物をぬけだし、カスミの眠るいばらの城の中にと、入っていきます。そして、最後に行き着いたそこには、ほんもののカスミの体と、カスミをまもる幾重ものいばらの森。本当はねむったままのいばら姫は、おきたくなんかなかったんじゃないの。と。いばらというシールドに守られて、現実から逃げたまま、ずっとねむっていたかったのかもしれないと。けれど厳しい現実から自分をまもっていてくれたはずの唯一の存在であるシズクを失い、その事実を再確認したカスミは、もう、いばらの中にいることはできなかった。どんなに厳しくつらい現実世界であっても、人は、そのいばら道を、強く生きて行かなければならない。強く生きていける自分へと変身することはできるはず。弱い自分も、強い自分も、どちらも、メデューサによって作られる同じ細胞。同じ自分。なのだから。強い自分をイメージしさえすれば、かならず、変わっていけるはず。そして、厳しい現実にくじけずに『いばらの道』を、生きていってと、『いばらの王』つまり、いばらという厳しい現実に打ち勝って、茨を支配する王となれという、そういうメッセージのこめられた物語なのだと、思います。 いばらの王 -King of Thorn-価格:5,481円(税込、送料別)
2011年03月06日
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人がみえないもの、みないもの、を見ることのできる感性。けれど、それはかならず、心に痛みをともなっている。それでもその痛みにたえてでも、やはり、その感性をもっていたいと、思う。私はまあどちらかと言えば暗い方の人間なので、ずっとずっと明るくて、人付き合いが上手でタフな人たちが、うらやましかったし、そうなりたいと、思っていた。けれど、ずっとみていると、そういう人たちは、ふしぎなことに明る分、どこか鈍くて、私に当たり前に見えるもの、見抜けるものきづけるもが、まったく見えていなかったり、きづかなかったりするらしい。アリエッティの評判は、あまりよくないと聞き、すでに見た人の感想ではそんなによくなかったと、いわれ、そうなのか、と、そうおもいつつも、やはりみたくて、劇場に足を運んだ。けれど、前評判とは裏腹に、十分よい作品だったと、思う。なぜ、この作品がつまらなかったのだろう。感想を聞かせてもらった相手は、明るくて可愛くて、わたしなんかとちがって、すこぶる素直で性格もいい人だ。それにもかかわらず、物の見方はこんなにちがうのだろうか。彼女が見落としたものをわたしは、見落とさなかったと、言えるのだろうか。明るいということが羨ましくはあっても、それとは別に私自身が持っている感性によって、他の人達が見落としてしまう人生の中のたくさんの感動を味わうことができるのであれば、もう明るくなくても、別にいいんじゃないかと、最近ふっとそう、思うようになった。明るいとか暗いとかもうそんなことはどうでもよくて、私は私なりにいきていけばいいんだと、そう思うようになったかもしれない。「君は僕の心臓の一部だ。」これは物語のラストで、しょうがアリエッティとの最後のわかれのシーンでいう最後の言葉だけれど、心臓は、ハートであり、心であり、最後の最後の別れでアリエッティと会うために走って駆けつけたしょうの胸の痛みは持病の心臓のいたみだったのか、それとも、心の痛みだったのか。普通の人ならまず見ることのできない小人という、異種の存在を視覚できる感性は、しょうに心の痛みをともなわせつつ、それでも、なお、アリエッティという存在は、彼にとって、それでも、出会えて良かったと思う、そういう存在なんだろうと思う。久しぶりのジブリ作品でした。あいかわらず、美しい背景の作画ですが、ちょっと書き込みすぎで、濃すぎで、遠景もかかわらず、てまえとおなじくらい、線が太くて、色が濃かったりするのは、ちょっとどうかなぁっと、思ったのでした。それと、物語上重要な存在であるカラスの描き方が、アクションものっぽくて、ちょっとジブリらしくなくて、物語のファンタジー性を壊している気がしないでもなかったのでした。そこだけ異様な異質な感じなんだもの。病がちでひよわなはずのしょうがアリエッティからみると、たくましい巨人なわけで、そのあたりの微妙描き分けがなんともむずかしいですよねぇ。小人の暮らしの中の生活用品の一つ一つが実に微細で、これを小人のお父さんは、人間世界にあるものをみながら、ひとつひとつ、自作していったのでしょうか。それはそれですごいなぁっと、思うんだけど、それにもかかわらず、あのすばらしいドールハウスの中のものは、絶対もちかえらなかったわけですよねえ。ドールハウスの中の特に台所のものなんか、もってかえれば、きっと小人のお母さんは喜ぶはずたと、彼は知っていたはずだと、思うんだけど、ひとつくらい借りても、わかんないんじゃないのとか、思うんだけど、彼は、あれらのものには、ぜったい手を出さなかったのですよねえ。そういう深さっていうのが、素敵。アリエッティもかわいいけど、あのお父さんなかなかナイスガイだなぁ。かっこよかったぁ。 ジス・イズ・アニメーション 借りぐらしのアリエッティ価格:950円(税込、送料別) ・借りぐらしのアリエッティ@ぴあ映画生活
2010年07月28日
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最初から最後までめちゃくちゃ面白かった。私的には、「エヴァンゲリオン」より面白かったかも。 はいはい。ネタバレ全開で書きます。 物語の舞台の一つは、仮想社会。バーチャルワールド。『OZ』 かつてバーチャルワールドとして騒がれた「セカンドライフ」が失速していく現在。日本初の新しいタイプの仮想SNS社会として、昨年始まった「ニコッとタウン」というものがあります。私もニフティ経由で少し前からはじめましたが、最近楽天にも、広告がではじめて驚いています。現在のニコッとタウンは、まだ、アバターや簡単なゲーム、現実に存在する企業からの広告、出店と、コミュニティサークルがある程度でまだまだちゃっちいものですが、これがずっと進化していくと、この映画のように、現実に存在するいろいろな公共のお役所や、税務署、公共機関、企業の出店などのある、リアルとほとんどかわらない、納税、買い物のできるものへと、進化していくのかなと、思いました。 セカンドライフは外国からの輸入形態であるため、アバターも八頭身くらいのものですが、ニコッとタウンは、4頭身くらいで、日本人うけするキャラクターデザインになっています。映画の中のバーチャルソシェティである「OZ」のアバターもかわいいデザインになっていて、イメージとしては、「セカンドライフ」と「ニコッとタウン」を足して二で割ったような感じです。SNSといえば、「mixi」が有名ですが、そのさらに進化した形として、ニコッとタウンは、アバターがあり、ブログ、コミュニティの他にも、いろいろな会員どうしの交流をすすめるシステムが作られ続けています。 さて、この映画では、そういうSNSがより進化し、世界中のほとんどの人たちが加入しており、ネットを通していろいろなことのできる世界です。 ところがそのOZに入るためのセキュリティがなにものかによって破られ、主人公ケンジをはじめとする多くの人たちのアカウントが盗まれてしまったために、世界中の機能が麻痺、信号がとまり、大渋滞が発生し、水道などの制御もできなくなっていきます。さらには、原子力発電所をめざして、衛生が落下しはじめてしまいます。 世界中がマザーコンピュータに管理されている社会。ところが、そのマザーコンピュターが反乱をおこしたために、世界中の機能が麻痺して大混乱になるというお話は、すでにSFではよく書かれ、映画も作られてきたストーリーです。けれど、この映画は、微妙に違います。世界のシステムを管理し、つなげているのは、バーチャルワールドであるOZです。そして、その世界の混乱は、OZに入るためのセキュリティが破られ、ラブマシーンというプログラムがはいりこんで、たくさんのアカウントを吸収して巨大化していくことで、起こります。その吸収されたアカウントの中には、公共のシステムを管理するためのものも含まれてしまったからです。 この物語のテーマは、「信頼」だと、思います。 SNSというのは、コミュニティサイトです。会員同士がブログやコミュニティや、アバターを通して、コミュニケーションを深め、仲良くなっていく。けれど、そのSNSには、会員にならないと、はいっていけません。そして、一人ひとりがじぶんのアカウントをもっていて、それによって、セキュリティが守られているわけです。 けれど、どんなに厳重に作られたセキュリティであっても、やぶられないセキュリティはないのです。絶対安全ということは、ありえない。今、ネットが社会の中にどんどん増え始めていて、そして、ネットの中の常識として、安全性、セキュリティは、最も大事なものとして、どうしたらより安全なセキュリティがつくれるかが、求められています。 けれど、絶対安全なセキュリティは、ありえない。 その一方で、物語のもう一つの舞台となるケンジの訪れた田舎の旧家(ヒロインナツキの曾祖母の家)は、多くの親族が一緒に住んでいて、鍵もなく、窓もなく、すべてがあけっぱなしのものすごく開放された家です。個人の部屋もいっさい仕切られていません。縁側の向こうはもう広い庭。ものすごく大きな家なんだけど、広い庭と垣根があって、門もあるけれど、その門だって、開けっ放しです。 昔の日本の村というのは、村中の人たちが昔からの顔見知りで、お互いのことをよく知っている。だから、それぞれの家はみんな開けっ放しで、鍵なんて全くありませんでした。泥棒なんてありえない。村中の人同士の信頼があったからです。 「赤毛のアン」の物語の中でも、プリンスエドワード島の人たちはみんな知り合いで、だから、鍵をかけるということもありません。村中がお互いを信頼していて、だから、鍵なんてないのです。 映画の中のOZのマークが鍵穴の形をしています。そして、アカウントを入力するシーンがOZのマークである鍵穴に、鍵を差し込むという描写なのです。ネット世界にあけるアカウントというのは、つまり、自分の家の鍵と同じなのです。厳重にセキュリティを作り、鍵であるアカウントによって入る世界。セキュリティによって守られている社会。 今、社会はセキュリティが問題視され、よりハイレベルのセキュリティを作ることにエネルギーがむけられています。人と人のコミュニケーションが大切と、いいながら、コミュニティサイトを作りながらも一方では、セキュリティ強化の進められていくネット社会、リアル社会。けれど、本当にそれでいいのでしょうか。 コミュニケーション。人とひとが会話をするのは、相手がどんな人か知るためです。そして、知りあった先にあるのは、相手に対しての信頼です。信頼するために人は会話するのです。信頼した友人にはよく自分の家の鍵を渡したものです。その究極の世界が、鍵のいらない社会なのではないでしょうか。 信頼があれば、鍵もアカウントもいらないはず。それこそが究極のセキュリティなのだと、思いますし、この映画の訴えていることです。 だから、クライマックスシーンで、ラブマシーンと戦うヒロインナツキのために、世界中の人たちがみずしらずのナツキにアカウントを預けるのです。それは、自分の家の鍵をまったくしらない人に渡すのと同じ行為です。なぜ? それは、世界中の人たちがヒロインなら、自分のアカウントを預けても大丈夫だと、信じたからです。 これから先、さらにネット社会が進化していく一方で、セキュリティ強化も叫ばれていくし、進められていくでしょう。けれど、人が作るものである以上、絶対やぶれないセキュリティなんて、ありえません。だからこそ、最強のセキュリティは、信頼であり、信頼すること、信頼されること、なのだと思います。アカウントなんか盗まなくてもすむような、泥棒のいない社会。目指すものはそいうい社会なのだと、思います。 それは、物語にでてくる田舎の旧家のような鍵も窓もないオープンで信頼された社会。ドアをしめて鍵を閉めてクーラーをいれて快適に暮らす社会は、窮屈で、息苦しくて、つらい。そして、どんどん温暖化していってしまうもの。 物語中にでくる旧家の総元締めの栄おばあちゃんも、あちこちに電話する。電話機は黒い昔ながらのアナログなものだけれど、その電話機だって、デシタルなシステムによってつながっているものですが、栄おばあちゃんのこの行動もまた、人と人の信頼の大切さを語っているのだし、それは、リアルもネットもおなじなんだと、言うことです。 物語の中ではさらに、その旧家の門さえもが、ぶち壊されて行きます。セキュリティも鍵もいらない安心してすめる社会。泥棒なんかしなくてもいい社会。ネット社会が進んでも、リアルの世界との差がなくなってどんどん繋がっていった時、だからこそなおさら、人を信頼するということを忘れないようにしたい。 そういう映画だったのだと、思います。ところで、この映画。悪事を働くアバターのデザインがミッキーマウスにそっくりだったり、最後の真犯人がアメリカ国防総省だっり、普段のアメリカの行動に対してのちょっした怒りが表現されてるんじゃないかなと、思うのは、私だけかなぁ。 サマーウォーズ SUMMER WARS サマーウォーズ@映画生活 サマーウォーズ公式サイト
2009年09月10日
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いやはや。ナウシカを観たとき以来の感動かも。 そして、ラストの曲。学校の合唱祭などでよく歌われる曲なんですけど、こんなところで使われるとはね。しかも、歌詞がエヴァンゲリヲンのラストシーンの展開とそっくり。そのもの。 びっくりしました。ここまでぴったりの曲がこんなところにあったなんてね。合唱祭で使われるので、なんだかもう、文部省指定の道徳的な歌のイメージになっちゃってるのだけど、もともとは、ちょっと昔のフォークソンググループが歌っていた、昔の若者の歌なわけで。昔も今も、若者の悩みや痛みや青春の本質ってかわらないのかもしれません。 そして、今の十代二十代の少年少女たちがこれをみたら、この場面でこの曲を聴いたら、どんな気持ちになるのかな。いやはやわたしもう、このラストシーン感動して泣いてしまいました。右も左もアニメファンのおじさんで結構混んでいた劇場の中で、涙ぐんだ人はどのくらいいたのでしょうねえ。 お話も画像もすでにリメイクではなくて、ほぼ全編書き直されているように見えました。最近のアニメのスピード感のすごさももちろんなんだけど、画面もめちゃくちゃすごくて面白かったです。 最近はもう、アメリカの映画は、しらけちゃって見る気になれず、このところ、なぜか邦画を見ることがふえましたが、先週といい、今週といい、平日の午前なのに、なぜ映画館は混んでいるのでしょうか。満席とまではいかないけど、いままでは、平日はがらがらな劇場だっのに。日本映画も、人気出てきたのでしょうか。最近いい作品が多いのでしょうか。それとも不況でみんな暇なのかな。今日なんか、私の隣の席のおじさんは、スーツ着てました。営業の仕事の途中で、映画館はいっちっゃてるのでしょうか。いいのかな。 なにしろ、「エヴァンゲリヲン」なので、お客さんの9割以上が、20,30,40代の男性でした。今日は、レディースディだけど、1日の映画デーでもあったからね。 それにしても、この監督は幸せですね。何度も何度も、納得のいくまで、自分の作品を作り直す機会にめぐりあえる映画監督なんて、そんなにいるものではありません。テレビシリーズでは、時間不足、練りこみ不足であきらかに、未消化のままの完結だったし、前回の映画作品も、全体的に醜悪になってしまって、うまく本当のメッセージを描き出せていませんでした。今回は、その醜悪さを大分押さえてきていますが、その分かえって、おきれいな道徳的作品になってしまうかもしれない危うさを感じました。ぎりぎりおさえているのでしようが、人と人が心をつなげていくその真髄を描き出すのは、本当にむずかしいなあっと、思いました。これを文部省的道徳観で作ったら、観る側はしらけて拒否感の方が上回ってしまうわけだし。 ものすごい急展開の「破」でしたが、次回「Q(急)」は、どんな結末を作りだしてくるのか。めちゃめちゃ楽しみです。 さあ、今度こそ監督は、うまくメッセージを若者に、いえいえ全ての人類に伝えることができるのでしょうか。 そして、今回要所要所にかなり明確に、十字架が描き出されていました。エヴァンゲリヲンは、キリスト教とその宗教観や、エピソード、アイテムなどを基本にしたストーリーだけれど、今回は、新しいキャラクターの女の子マリの登場によって、日本やアジア的な宗教観も入り込んでいたように思います。新キャラの女の子マリの「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」というセリフの、自己犠牲的な精神と発想は、アジアのもの。仏教的世界観ももりこんで、今回の「エヴァンゲリヲン」は、日本という場所を舞台に西洋と東洋の宗教観、精神世界の融合を目指すターニングポイントにいるような気がします。 今アメリカ的な西洋的な価値観も世界支配も疑問視され、まき戻される中で、中国ともインドともちがう、独特の日本の立ち居地は、もともとアジアの中で一番最初に西洋を取り込み、自分の中に融合させた国として、世界の中に有る二つの価値観をうまく融合させていくことのできる微妙なギャザーポイントになりつつあるような、いままさにそんな時代のハザマにいるんじゃないのかと、そんな風に思わさせてくれた映画でした。 新キャラの少女マリも私には、レキジョ、フジョシ、明るいオタク系女の子に近いように見えました。レイや、アスカにくらべると、ずっと現実の女の子のイメージに近いリアル感、本当の意味でのいまどきの女の子という感じがします。レイも、アスカもやはりどこか男性視点で描かれた女の子なんですよね。アニメを作ってるのが男性なので、どうしても男性の希望で描かれた女の子になっちゃうんだけど、これは、宮崎アニメでもそうなんだけど、アニメは女の子だってみているし、視聴者により現実世界に目を向けて人と関わって生きていってほしいと思うなら、男性の理想でできた女の子じゃなくて、ほんものの女の子を描き出してほしいですね。なんだか話しかけにくい女の子のレイでも、やたらきついことを言う女の子のアスカでもなく、もっと本当に現実に生きている女の子をうまくえがきだしてほしいと、思います。今の女の子はごくごく普通に男の子とおしゃべりするし、男の子と同じものを好きな女の子もいるし、ずっとずっと優しい子もいます。生きていくことへの悩みも人と関わることの悩みも、もちろん男の子たちと同じです。そのことにきづけさえすれば、たぶん、フィールドはなくなるはずなんだけど。 さて、物語のテーマも監督の思いも、わかっちゃいるけど、こんなこと偉そうに書いてるけど、現実は、ぜんぜん進歩しない自分がやっぱりここに。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』の感想はこちら ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破@映画生活
2009年07月01日
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フルCGアニメなのですが、映像がすごかったです。今まで道中で一番すごかった気がします。 まるでゲームしてるような気がしました。ただ、やはり、CGアニメというのは、人物描写がむずかしい。どうしても、お人形になってしまう。お肌がきれいで、あばたもエクボもにきびもしみもでこぼこもないつるんとしたきれいなお肌。不自然なんだけど、肌のきびまで描写したら、もっと気持ち悪くなるだろうし。それなりに、よく出来ているとは思うけど、難しいですね。人物の動きもリアルでいいと、おもったら、現実の人間の動きをキャプチャーして起こしたもの。うーん、純粋にアニメの力だけで、リアルな人物描写はやはり、難しいんですね。それでも、かなりよく出来ているので、この技術でスターウォーズクローンズウォーズをつくったら、かなりいいんじゃないかなと思いました。 画像もいいし、物語の設定もいいし、なんだけど、コレだけのアイデァとおもしろい設定の割りにラストまで見ていくと、結局たった一人のマッドサイエンティストに日本中おどらされて、滅ぼされてしまったという、結末は、なんかいまいちでした。せっかくここまでの設定なら、もう少し、最後の部分でひとひねり、ほしかったし、最後の生きている日本人がたった一人だけだったという結末も物足りない。 CGは、良く出来ていたんだけど、物語としてのねりが、やはり、既存のヒットしている漫画にくらべると浅いのがすこぶる残念でした。せっかく、ハイテク鎖国して、一般の国民を機械化しているぶん、その状況を享受している人間がもっといて、その中での葛藤や揉め事もほしいですね。事件の原因のたった一人の人物をころしてしまうだけで、方がついてしまったのが、ものたりなかった。惜しいです。 アニメの場合はヒット作の条件はキャラクターのそこしれない魅力によるところが大きいのだけど、ヒロインのベクシルは、ちっょとかわいくて、勇気と体力があるくらい。話に深みがないのは、彼女のマイナス部分、欠点や弱点が描かれていないからでしょう。 でも、CGがすごかったので、次回作に期待したいと、思います。 ベクシル -2077 日本鎖国-@映画生活
2008年10月13日
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「エヴァンゲリオン」は、宗教的な表現を多用していて、人間の内面世界精神世界をあつかっているために、カルトカルチャーという見方をされて、高い評価を得ている一方で、批判も浴びてしまっているのですが、先出の『悩む力』の中でも、産業革命以降宗教が否定されてしまったために、それ以降のものは、カルトとか、エセ宗教として、それ以前のものとはべつものあつかいされてしまったりして、それでしかたなく、スピリチュアルなんて形で残っていて、なお、そういう精神的なものを人間はやっぱり必要としてしまう。のだそうで。新興宗教が突き詰めきれずに、中途半端な形でいるために最終的に殺人や自殺という形になってしまうのだけれど、やはり人は、科学だけではない心のよりどころは必要なんだろうなと、思います。 自分だけで、ものの価値を決定して、生きていくのはしんどいので、本気でそれができるのは、まだまだ、ものすごく意識の高い人か、知性の高い人か、意志の強い人に限られてしまうのかもしれませんが、「エヴァンゲリオン」もまた、そんな形で、人の心を救うための一つの形であって、その意義は、評価されていいと、思います。 自分で物を考えるということは、一般に言われるほど生易しいものではありません。だから、実際には、普通の人たちも、宗教はないけれど、テレビやマスコミや偉い先生の言ったことや、世論や、世の中の常識、みんながしているから、といったことを基本にして生きている方が多いですし。 ただ、それでもわたしは、自分で考えることをやめたくないと、思います。それこそがまさに私が私であるということ。私であり続けるということだからなのだと、思います。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その1は、こちらです。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その2は、こちらです。 アニメ
2008年09月12日
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物語に出てくる、ファーストインパクト、セカンドインパクト。そして、アダムの遺伝子をもつものと、リリスの遺伝子をもつものが接触することで起きるはずの、サードインパクト。 けれど、思うに、ファーストインパクトとは、物質的生命体の誕生、セカンドインパクトとは、知的生命体の誕生、そして、サードインパクトとは、精神的生命体の誕生なのではないかと、思う。 地球や、人類は、精神的生命体を生み出し、育てるためのイレモノにすぎないのではないかと、思う。環境破壊によって、地球の自然体系をこわし、環境破壊をする人類は、まるで、地球にすくう害虫のようであるけれど、もしも地球が、精神的生命体を育てるためのイレモノであるのなら。 空気と水をもつ、地球という環境は、全宇宙の中でも、生命を生み出し、はぐくむことの出来る、稀有な存在であり、そこでいくつもの生命の中から、進化をとげ、人類として誕生し、さらに他の生物がぜったいもたない知性をもった、唯一の生命。その知性は、歴史的変遷の中で、ほぼ全人類に知を行き渡らせることに成功する。それによってともなう、自我の苦しみ。けれど、それは、宗教という、暖かく居心地のよい繭をぬけだして、精神的な生命体へと、進化するための、産みの苦しみ、生まれ出づる苦しみであり、悩みであるのだと、したら。知性の進化をとげなければ、精神の進化に到達できない。 人類がやがて、精神的な生命体となって、究極の進化をするための過程であるのだとしたら。アニメオタクも、ニートもひきこもりもアニメオタクの殺人者たちもそのための、捨て駒であるのかもしれない。全ての人類は、究極の進化のための捨て駒であるかもしれない。そのための、土台であるのかもしれない。 けれど、進化した生命体が、意識を共有できるがゆえに、一つになってしまったとしたらそこに、自我は無く、個の存在、孤独ゆえの悩みも苦しみももたなければ、個は、消失してしまう。アダムからうまれた使徒たちが、アダムと、接触して、そして、消失してしまうのは、だからだととしたら、リリスの末裔である人類は、精神的な融合の後もなお、個であろうとし、そして、個であるゆえの痛みも悩みももちつつ、なお、他者が存在するゆえにこそ、自分が自分でいることを望み、そして、精神的な生命体となってもなお、孤独の痛みを伴いながらも、考えること、悩むこと、知性を持ち続ける生命体というものに変化しうる、リリスの遺伝子。闇と悪の要素をもったリリンの遺伝子。 光からできている使徒とアダム。闇から出来ているリリスと人類。正の数と負の数を足すと、ゼロになってしまうように、アダムとリリスが接触することで、全てが消失してしまうのか。 同じように、大人になることの出来ない少年たちを描き出した、『スカイクロラ』の製作者、押井守は、アニメは、サブカルチャーであり、若者たちへの教育も指導も本来メインカルチャーの仕事であると、言っている。けれど。今メインカルチャーとして認識されている小説だって、もとは、サブカルチャーの扱いであり、ただの、娯楽ものだったのだ。文字だけの表現方法である小説から、言葉、絵、音楽までも駆使して語るアニメーションという方法が、やがて、時代とともに、メインカルチャーへと、進化していくかもしれない。 知を獲得しながらも、本を読まない、今の若者たちへの、新しい時代新世紀のあらたなる福音書であるのがまさに、「新世紀エヴァンゲリオン」であるのだと、思う。 ロボット大戦アニメの形をまとって、実は、現代の若者たちへの、哲学の書、自我の覚醒と、獲得をその方法論を、ときあかしているのが、まさに「エヴァンゲリオン」なのだと、思う。 製作者廣野秀明氏は、そもそも、この作品の製作の初期においては、大体のすじと、数回分の話しか考えていなかったのだそうだ。自分自身の悩み、戸惑い、人生への自分への謎をそのままに写しだし、作り上げていった作品は、だから、廣野氏の、心の変化そのままに、物語は、進化していく。 とりあえず、ロボット大戦の形式を残したままの、最後の使徒を倒した24回目からあとの、25、26回目は登場人物たちの心理描写へと、姿を変え、見る側には不可解極まりない。けれど、製作者が一番作りたかったのは、この、25、26話こそであり、そこまでの物語は、そのための前哨戦、複線、準備段階、土台作りなのであろう。けれど、予算不足と、時間不足、熟しきらないままの煮詰まらないテーマのままのテレビ放送分は、物語を未解決で、謎のままに終らせてしまっている。その後作り直された、25話『AIR』、26話『まごころを君に』によって、やっと、物語にちりばめられた謎は、明かされていく。それでも、直、多くの謎を残しつつ、未完成でありながら、多くの高い評価をえて、そして、まだまだ、未完のまま、さらに、自我の追求の物語は、新しい形で、新しい映画となって、今年もまた、製作され、上映され、続きのシリーズを待つところとなっている。けれどこの作品が製作者の心の変化の投射であるのなら、製作者の死なない限り永遠に終ることのない、『終りのない物語で』あり、私たちの自我、アイデンティティへの問いかけも謎もまだまだ終らない。人類が、精神的生命体へと、進化するまでの道のりは、まだまだ遠く、果てしない痛みをともなって、世代の交代とともに、少しづつ、進化していくのだろうか。 ここまでなんとか、自力で書いてみたけれど、このアニメをみて、ほどなく、たまたま買った『悩む力』という本は、まるで、「エヴァンゲリオン」の解説書そのものであるかのようなのだ。この本を読んでいると、エヴァの中で、なぜ、シンジやアスカが苦しみ、悩み、叫んでいるのか。物語の一つ一つの表現の意味するものがなんなのかを、解説してあるような、本だった。 エヴァンゲリオンは、すばらしい映画ではあるけれど、こういう哲学入門の読みやすい本くらいなら、読めると思うから、アニメだけでなく、どうか、本も読んで欲しい。言葉でなければ表現できないものもあるのだ。悩みを知り、悩みを他者と共有しつつ、悩みを突き抜けて、進化して欲しいと思う。のだ。 そのきっかけとしての「エヴァンゲリオン」なのだと、思う。知を獲得することで、宗教という心の繭を失った人類への、新しく与えられた福音書(←「エヴァンゲリオン」という単語の本当の意味)なのです。 リリスの遺伝子から進化した人類のように、人類によって、覚醒させられたアダムの遺伝子もまた、使徒となって、順を追ってものすごいスピードで進化していく。アダムの使徒たちは、ドレも個体であり、唯一の多体使途であるのが人類なのだ。個であるゆえに悩みをもたず、知性をもたなかったアダムの使徒はその進化の過程で人類と接触し、人類から、知性を学び取る。知性を得た使徒はさらに進化して、最終形態としての、知性をもった生命になった結果、人の形をとるカヲルになる。しかし、一見、人の形はしていても、使途であるカヲルは、個体なのである。人類のように他の個体を持たない。唯一の個体の知的生命体であり、アダムの末裔である第17使徒カヲルは、人類、シンジとの接触によって初めて、他の存在に出会うことができる。「君にあえてよかった。ボクは君に会うために生まれたんだ。僕と君が出会うことは運命だったんだ。」と、カヲルは、言う。 個体であるゆえに、孤独を知りえず、自我の認識すらなかったアダムの使徒たちは、最後に始めて、個ゆえの孤独を認識し、自我を持つゆえの悩みを知り、知の世界に目覚める。 精神生命体が、精神だけで出来ているゆえに、一つのものであることが、孤独の寂しさをうしない、自我への問いかけを失うことで知性を失ってしまうのだとしたら。知性を失い、迷い考えることのなくなった生命体にその先の進化はない。 この物語の過程として、なぜ、地球にアダムと、リリスの遺伝子を月という形のものに乗せて落としたのは誰なのか、それは、どこか遠い星に住む、人類よりずっと進化した知的生命体なのではないかというものがある。それを人は神と呼ぶ。その生命体は進化を遂げて、精神的生命体にまでなった。けれど、精神的生命体となった時、全ての精神は融合し、個となったことで、知性を失い、進化を止めてしまった。個になったままでは、その先の進化が出来ないのだとしたら、精神的生命体となってもなお、自他を認識できる集合体の形を残したままの精神的生命体でなければならない。それこそが、神が地球に送ったリリスに与えられた使命(テーゼ)なのかもしれない。 天使というのは、人の体に羽が生えたもの。つまり人類の進化した姿のはず。物質である人間は、地球の引力にとらわれているけれど、肉体をはなれ精神だけの生命になった時、地球の引力からはなれ、宇宙空間にまで、飛び立てるものになる。それがまさに天使なのだとしたら。 生命はつねに進化していくもの。生命にあたえられた、命題、つまりテーゼそのもの。神が人にかしたテーゼ。羽を生やし、天使となって、そしてその先もなお、進化すること。神が進めなかったその先へ。 だからやはり、テーマ曲の中で、歌われる「その背中には、はるか未来目指すための羽があること。残酷な天使のテーゼ。窓辺からやがて飛び立つ。」と、歌われているのだ。進化は痛みを伴う残酷なものかもしれない。 そう考える時、なぜ、リリスの月が日本にあったのかわかろうというもの。キリスト教など世界の多くの宗教が唯一神、個体である中で、日本の地の宗教は、自然そのものを神とする多神教なのだから。 精神的進化を遂げて、神となっても直、多体でありつづける命。なのが、日本であり、地球であったのだとしたら。 精神生命体のその進化の先ってどんな生命体なんだろう。うーん。ぜんぜんもう、想像つかない。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その3に続きます。
2008年09月12日
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すごいらしいと、評判だけは聞いていたけど、今回、ネットで初めてそれもいきなり全編通して、数日かけてみたのですが。すごかった。なるほど、評判だけのことはあります。 いままでのロボット大戦系のものとは「一線を画す」というより、全く別物。現代人の悩みや迷い、そして、その先へ。 『マジンガーZ』に始まる、少年がロボットにのって、怪物をやっつけるという、一連のロボット系アニメものの流れをくむ作品のようでいて、いざ、観てみると、全く違う別物であり、そして、哲学的にものすごく深いテーマの物語であり、ロボットアニメの形を借りた、現代の少年少女たちへの人生の悩みの深遠に問いかける物語なのだ。 ロボットにのって、敵をやっつける従来の勧善懲悪、正義はただしいという、『マジンガーZ』などからはじまった、宇宙からの侵略者と戦うといったロボット大戦アニメは、『機動戦士ガンダム』では、独立を願うスペースコロニーと、地球連邦との独立戦争を描く未来社会の人類同士の戦いの物語になる。『ガンダム』では、もう、ロボットではなく、モビルスーツとなる。そして、『新世紀エヴァンゲリオン』においては、主人公碇シンジの乗るエヴァンゲリオンは、ロボットですらない。エヴァンゲリオンは、実は、生きている。生物なのだ。外見がロボットにみえるのは、装甲版をつけているから。生き物に乗って操縦して戦うなんて、今までのロボット大戦ものからすると、どう解釈するんだろうと思うけれど、今まで乗っていたロボットが自動車なら、生きているエヴァンゲリオンは、さながら、馬だろうか。戦車や飛行機にのっての戦争が、馬に乗った騎士の戦いになったようなものか。生き物がロボットのように装甲版をつけている姿も、人が鎧兜をつけていると、考えると、納得できる。(ほんとはコレは、装甲版ですらなくて、エヴァンゲリオンが勝手に動き出すのを抑制すための拘束具なのである。まあ、孫悟空の頭のわっかとおなじですね。) そして、いままでは、宇宙からの侵略者をやっつける、戦闘の爽快感だけが描かれていたロボットものとはちがって、『エヴァンゲリオン』では、中に乗っている操縦者もまた、エヴァが、傷を負うと、それにともなって、痛みを感じるのだ。 戦いによる爽快感だけを描いた、ロボットアニメ。戦車や飛行機や、宇宙船に乗って、機械で相手をやっつけても、目の前で人は死なないし、痛みを感じることもない。けれど、エヴァは、痛みを感じるものなのだ。 戦うことが痛みを感じるものだと、それを描いてあるのだ。 そして、エヴァは、生き物なので、シンクロしないと、動かすことが出来ない。馬に乗る騎士が人馬一体となって、気持ちをあわせなければ、よい騎乗ができないように、エバは、操縦管の操作だけでは、動かすことが出来ない。それは、人と人が心を通わせなければ、気持ちが通じないのと、同じだ。 そして、この物語には、キリスト教世界の言葉が多様に使われている。アダム。エヴァ。使徒。エンジェル。リリス。リリン。死海文書。ロンギヌスの槍。 エヴァンが戦うのは、使途だけれど、これは、どうも、いままでのような、宇宙からの侵略者とは、違うらしい。 キリスト教でいわれる、12使徒。これがこの物語では、全部で18の使徒が出てくる。キリスト教の使いである使徒とたたかうエヴアンゲリオンの物語は、だから、人類とキリスト教、宗教との戦いの物語なのだ。 地球に落とされた二つの進化の遺伝子、アダムと、リリス。本来正当な地球の継承者であったはずのアダムの遺伝子から生まれる使徒たち。けれど、実は、人類は、もう一つの遺伝子リリスから生まれた、リリンの末裔だったのだ。夫であるはずのアダムのもとを離れ、悪魔との間にリリンを生んだリリスのように、現代の人類は、知恵の木の実のりんごによって、知を獲得した代償に、宗教を捨てなければならなかった。それこそがまさに、リリンの末裔のゆえんなのである。 宗教を捨てた現代社会の人類は、それゆえに、心のよりどころをもたず、孤独に苦しめられる道を選ぶことになった。今まさに、現代の少年少女あるいは、現代人のほとんど全てが、自我、自分とはなんなのか、なぜ生まれてきたのか、なんのために、生きているのかという、自我との心の葛藤、戦いの中にある。それゆえに苦しみ、他者との関係性をうまくきづけずに悩む。 かつて、知識人は、その悩みを数々の哲学書や、知友とのディスカッションを通して、自らの内側への、深い洞察、思考、内省によって、解き明かそうとしたのだ。けれど、今の若い人たちは、本を読んだり、他人と討論したりしないし、哲学が何かすらしらない。それゆえに今自分が何に悩んでいて、なぜ、苦しいのかが分からない。 かつては社会の上層のごく一部のものであった知の世界は、産業革命以降の科学の発展によって、ほぼ全ての普通の人々にまで普及し、それは、宗教のような非科学的なものを否定することになった。宗教をもたない現代人は、自分の中の自我をうまく処理できない。自分はなにものなのか、なぜ生きているのかを、かつて宗教が全て与えてくれたその答えを、現代人は、すべて自分で、導き出さなければならなくなった。けれど、現代の若者たちは、その悩みの正体を知らない。宗教による、答え、価値の決定は、とても、楽で、居心地のいいものだけれど、私は、それを良しとしない。自我とはなんなのか。その応えは、やはり自分で悩み自分で答を出すべきものなのだ。 けれど、そのこと自体を知らない今の若者たちは、あるいは、引きこもり、ひどい場合は、凶悪な殺人へと、進んでいってしまう。 自我を認識する上で、他者との関係性は、その意味が大きい。他人から見た自分が自分なのか。他人に認められることで自分を認識したいのか。シンジは、エヴァに乗って、使徒を倒すことで評価される。そうすることで自分を認識できるのか。自分の存在意義を獲得し、生きる意味をもとめることができるのか。他人とうまく関われない。どうすれば、他人との意志の疎通が出来るのか。心を通わせることができるのか。他人と関われない孤独、自分一人である孤独から、逃れるにはどうすればいいのか。心の壁を全て取り払えば、人と交われるのだろうか。エヴァンゲリオンで、使徒が攻撃を防御するためのシールドは、ATフィールドと呼ばれ、そのATフィールドをやぶらないと、使徒を倒すことは出来ない。そして、そのフィールドをやぶるのには、やはり、アダムとおなじタイプの生命体リリスからとりだされたものでつくられた、「エヴァンゲリオン」だけが、作ることができるのだ。そのATフィールドによって、使徒のATフィールドをつきぬけて、使徒を倒せるのだけれど。 ATフィールドが、心の壁であるとして、自分の壁と相手の壁を取り外して、接触することの痛み。それを乗り越えてそして、他者の心と接触すること。エヴァと、パイロットたち、シンジ、綾波レイ、アスカ・ラングレーたちが、シンクロしないと、エヴァを動かせないように、人と人が心を通じ合わせてシンクロしないと、ならない。 けれど、それでは、人と人が交わって、全ての人がつながって、ひとつになれば、もう、孤独ではないのだろうか。孤独の痛みも、自我の悩みも消えるのだろうか。けれど、全ての人がつながって、ひとつになったら、それはもう、一つのもの。一人の自分。だからもう、そこに他人はいない。他人のいない場所には、自分という、認識すらない。自分という固体の確認は、他人との境界線によって、初めて、認識される。『エヴァンゲリオン』が描こうとしているのは、まさにこの部分。 宗教を捨てた人類、リリンの末裔は、だから、全ての価値を自分で判断し、決定しなければならない。今まで全て、宗教が、神が、あるいは、教祖様が決めてくれたことを、自分で決めるということは、自分自身が、宗教になること、自分自身が、教祖になること、神になることなのだ。だから、リメイク版の最終話において、エヴゥにのった主人公碇シンジは、十字架にはりつけたられたキリストのように、十字架のように、使徒たちによって、空にあげられていく。シンジ自身が、神であり、宗教になったのだから。そう考える時、テレビアニメ版の主題歌のラストの歌詞、「少年よ、神話になれ。」という、表現はああ、こういうことだったのだなと、納得できる。 この歌詞自体は、作詞者は、内容をあまりしらない、アニメを見たこともない段階で作らされたという。けれど、たぶん、最初の段階で、うたの中にいれるワードをいくつか指定されたか、あるいは、だいたいの物語の概要、あるいはテーマが製作者から語られているのだろうとおもう。それらの情報から、ここまで「エヴァンゲリオン」の終極のテーマにあう歌がつくられているのは、すごいとしか、いいようがないと、思う。 物語に出てくるATフィールドを破ることの出来る唯一の武器ロンギヌスの槍は、もともとは、十字架に磔になったキリストが本当に絶命しているか確認するために、当時のローマ兵が、キリストの体をさした槍なのだそうだ。心の壁を破る武器とは、ではいったい、なんなのだろう。けれど、それは、槍だ。痛みをともなうものなのだ。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その2に続きます。 アニメ
2008年09月12日
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愛することを知った時、人は始めて大人になるのかもしれない。 ディズニーや、手塚治虫によって、始められたアニメーションは、その後、テレビアニメという制限や、CGのに登場によって、そのあり方をさまざまに問われながら、変化してきたけれど、その形がある程度整ってき始めているのかもしれない。 今夏の『崖の上のポニョ』で、宮崎駿は、今までの制限された中でのアニメ製作という枠をとりはずして、手書きにこだわり、枚数制限を無視して思いっきり、書きたいだけ書いた手書きフルアニメーションを作った。これは。たぶん、アニメーターの究極の夢だろうと、思う。それまでは、テレビアニメなどの経済的、時間的制約によって、絵の枚数や、動きに制限を入れざるを得なかった。それを今回抜きにして、手書きにこだわりきったアニメーションを作った。 その一方で、今年の夏の二大アニメーション作品のもうひとつ、『スカイクロラ』は、大人向けのシリアスで、シビアで、そして、今までの迷いをもう一つの制限をふりきって、徹底時にリアルさを追求したCGアニメーションを作った。 アニメの世界にCG(コンピューターグラフィック)が現れた時、それが、手書きアニメとどう融合していくのか。たくさんの迷いと、逡巡があった。多くのアニメーターたちが、手書きアニメの中にCGを組み込ませようとして、その調和のむずかしさに戸惑った。手書きの動きと、CGの動きの不調和。どんなにリアルにつくっても、というより、リアルに作ろうとすればするほど、不気味さだけがましていく、CGによる人物描写。 いっそ、CGを徹底的に排除してつくってみたのが、『ポニョ』であり、そして、徹底的にリアルなCGアニメーションを作りあげながら、なお、アニメでありつづけようとする、『スカイクロラ』。(現在リアルすぎて分かりにくいけれど、リアルなCGは、実写版にも実際には、組み込まれているので。) 背景や、飛行機などを、限りなくリアルに作り上げつつ、その一方で、人物をぎりぎりまでラフな線だけで描き出すことで、バランスをとろうとする描き方をしていて、ものすごくむずかしいバランスを、ぎりぎりのところで、つりあわせつつ、手書きアニメとは違う、あたらしいアニメーションの世界を作り出そうとしているのが、押井守なのだろう。 日本の歌謡曲が、Jポップと、演歌にきれいに分裂していったように、ジャパニメーションもまた、子供も大人もたのしめる手書きの人肌のあるあたたかなアニメーションと、大人向けのシリアスなCGアニメーションの二つの道に分かれ始めているその分岐点にあるように思った。 スートリー自体は、過剰なほどの前宣伝によって、ほとんどネタバレされていて、映画をみても、その謎は、最後まで解き明かされることは無い。けれど、今の時代、「スカイクロラ」をみたいと思い、見に行くような人たちであれば、だいたいストーリーの裏側にある謎は、ほぼ想像がつく。そして、そのタネアカシは既に今までのいろんなアニメや漫画や小説でされてきていて、いまさら、その謎を作品の中でといてみても、白々しいだけなのかもしれない。だから、今作では、そんなベタな結末は、なしだったのだろうか。監督の描きたかったものは、もっと違うところにあるのだろう。 物語の舞台は、地球に似ているけれど地球ではないどこか別の世界。この設定自体がすでに、もう、いままでに何度も使われてきたものなのだし。 日本ににた国。ヨーロッパににた国。 第二次世界大戦はなかったけれど、戦争はある世界。 けれど、大人にならない子供のままの人間なんて、もちろんいるわけはなくて、大人ではないはずの「キルドレ」たちは、コーヒーを飲み、ビールを飲み、タバコを吸い、セックスをする。 コーヒーもタバコもビールも大人のものだけれど、それらでは、大人の証明にはならないらしい。 彼らが誰かを好きになった時始めて、大人になりたいと本当に思う。そう思った時はじめて、いつまでも大人になることを許されないキルドレの世界に息苦しさを感じ始め、そこから抜け出したいと思ったのだ。そう、思った時、父であり、師である「ティーチャー」を、殺し、乗り越えていかなければならなくなる。 子供は大人になろうとする時、自分の中の親や師の存在と精神的に戦い、打ち負かし、乗り越えていかなければならない。 ところで、「ショーとしての戦争」は、今の私たちの世界にある「ショーとしてのスボーツ」と、似ている。キルドレたちは、「ショーとしての戦争」のために、その存在、人間性、人生までをも、世界にささげて奉仕しているわけだけれど、今の世界の「野球」や、「サッカー」も、また、それに似ている。 プロ野球選手やプロサッカー選手を目指して、子供たちは、勉強や私生活までを犠牲にして、スポーツに打ち込む。場合によっては、家族までをも巻き込み、家族の生活まで犠牲にして、一人の子供をスポーツ選手に育て上げるという状況。 プロ選手になれるのは、ごく一部。一握りの子供たちだけだ。しかし、その一握りの人材の育成のために、数多くの選手候補生として、多くの子供たちは、その少年時代をスポーツにささげなければならない。その結果として、プロにならなかった多くの子供たちは、体を壊したり、勉強も学歴もないまま、自分たちの人生の途中で、スポーツの外の世界に放り出されてしまうのだ。 そんな子供たちの犠牲の上に、大人たちの見る娯楽としての、「ショーとしてのスポーツ」があるのだ。 そんな子供たちは、プロ野球選手や、プロサッカー選手をかっこいい存在として、みせられ、あこがれさせられて、勉強がだめなら、スポーツでという幻影や、洗脳で、気がつけば、スポーツも勉強もどちらも中途半端で、身につかないまま、ある日突然、大人の世界に投げ出されてしまうのだ。本来体を動かすことを楽しむための遊びであり、自分自身がやることで楽しむはずのスポーツが観賞用の大人のための娯楽となった時、そのための選手たちは、その人生を命がけで、提供しなければならない。 映画の中の「ショーとしての戦争」を、所詮異世界の話なんだからと、笑ってみてはいられない。 大人の娯楽のために使いつぶされる子供たちは、私たちの世界にもいるじゃないか。 ほぼ面白かったと思います。戦闘機の飛ぶシーンがすごいということなので、飛行機大好きの夫を誘って行きました。でも、戦闘のシーンは、すごかったけど、思ったより少なくて、しかも、展開がすごく早いので、何がどうなったのか、誰の飛行機がおちたのかとか、ぜんぜん分からなかったりして。せっかくのかっこいいCGシーンなので、もっと、じっくり見たかったかも。劇場で見たほうがぜったいいいんだけど、DVDになったら、借りてきて、もう一度見直してみてもいいかも。 草薙水素の声が菊池凛子さんなんだけど、重要な役どころの割りに、声が浮いてて下手だなあと、さすがに思ってしまった。最近のアニメが、声優を使わずに俳優を使うので話題づくりにすぎないと、不評なんだけど、私は、もう、数の限られた声優の毎回いろんな人物が同じ声っていうのに、うんざりしてたので、俳優起用は、悪くないと思ってたのですけれど、今回の菊池さんの声は、もう少し演技欲しかったですね役どころとしては、わりとさめた人物なので、わざとたんたんとしゃべっていたのかも知れないのだけど、だからこそ、そのあたりの微妙な心理の変化をうまく演技して欲しかったです。 スカイ・クロラ The Sky Crawlers@映画生活 アニメーション映画
2008年08月04日
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ジブリアニメだというのに、ついうっかり、寝てしまった。映画の前のランチで、ブルーハワイなんか飲んだせいだ。その上、クーラーがきいて、いいシートで、快適だったんだもの。 ストーリーは、含みがタップリなようでもあり、単純なようでもあり、感想は、人それぞれいろいろありそうだ。しかし、中盤で寝てしまったので、私には、よく分からない。途中を見ていない段階では、是非は書けない。けれど、みそびれた部分を観るためにもう一度劇場にいって、最初から見直す気にもなれない。 さすがに、やめるはずだった宮崎駿が、がんばってもう一度腕をふるった作品の、その描写のひとつひとつ、さまざまな海の画面はとてもうつくしく、すばらしい。 けれど、主人公の宗介が、金魚のポニョを助けだすために、ガラス瓶を割るために、大きな石をガツンと、ポニョのはいったびんに当てて、ビンをわるシーンで、ギョッとしてしまった。映画に対しての気持ちががひいてしまった。相手は、生きた金魚なのに。うっかりまちがえば、つぶしちっゃたり、ころしちっゃたり、けがをさせちっゃたり、するでしょうに。いくら、宮崎アニメでも、ちっょと、デリカシーなさすぎでは。 彼の作品はとくに、「未来少年コナン」なんかでも、そうだけど、人間がここまでできるわけないだろーと、思うようなとんでもない行動ができちっゃたりする。たとえば、ものすごく高いビルから飛び降りても、大丈夫だったり、飛んでる飛行機の羽の上を走ったり、足の指だけで、つかまったりする。それが、コナンの場合は面白さをだしていて、まあ、コナンだから、と、許容できたし、それこそがコナンの面白さだっのだけれど、でも、今回は金魚なんだよ。 いくら、そのあと、人間になったり、魔法を使えたりするスーパー金魚でも、それでも、この最初の段階で、金魚をぎゅーってひっぱったり、ビンごと、石でぶち割ったり。これを見た子供たちが、本物の金魚をぎゅーっとひっぱったら、絶対金魚はちぎれて死んじゃうのだ。 人はもっと海のことを知って、海となかよくしようというメッセージのわりに、この描写はどうなのだろう。もっと他の解決作はなかったのだろうか。 それとも、金魚のはいったガラス瓶を割る宗助の乱暴な行動は、その先で語られるメッセージへのアンチテーゼなのだろうか。そうとは、思えない。 陸の人である宗介と、海の人であるポニョが、手をつないで、歩く。陸と海が仲良くなる。人は、もっと、海を愛して、大切にした方がいい。 宮崎アニメは、全作品を通して、環境問題を語り続けてきている。今回も、前半で、海の中のゴミを集めるシーンが描写される。海が怒って、陸にせめてくるシーンも、描かれる。陸の人間は、海に対して、デリカシーや、配慮が無さすぎではないですか。 陸に人がいてそこで生きているように、海にも、たくさんの命があって、そこで、生きているたくさんの命があるのに、人間は、そんなことに、無配慮すぎではないのですか。 そして、世界は海におおわれる。宗助の家も町も世界のすべてが、海におおわれる。 「千と千尋」が十歳の女の子のために作られたように、この作品は五歳くらいの子供たちのために作られた映画なのだと思う。絵本のような景色の描かれ方も。そして、五歳の子供にとって、自分の家と自分の住む町と、自分の行ったことのある場所が世界の全て。 その世界の全ては、海に飲み込まれていく。 そんな風に、五歳の子供のためにつくられている一方で、子供たちを映画館に連れて行って、子供と一緒に見る親たち、大人たちのための映画でもあるようだ。 自分が子供の頃、遊んだおもちゃの船に、自分が乗ってしまっている世界。子供のころお母さんがつくってくれたチキンラーメン。漫画の中でみた、どんぶりで作るラーメン。いつもいつもおいしそうにたべられていたチキンラーメン。このあと、ひさしぶりにチキンラーメン買って来てしまいました。 映画を子供と一緒にみている大人たちが、子供と一緒に子供にもどる時間。 私は無口でおとなしくて、ぼーっとした子供だったけれど、もし今もう一度子供になった私とであったら、友達になってくれる?と、以前娘に聞いたことがありました。いいよ、友達になってあげる。そして、一緒にあそんであげるよ。と、娘は答えてくれました。 子供に戻った親と、子供たちが一緒に遊んでいるような、そんな気持ちになるような映画だったかもなあ、と思いました。 子供たちへ向けたメッセージと、大人たちへ向けたメッセージとが、それぞれにあるんだと思います。ポニョは、海から陸へ上がって陸の人となるけれど、それは別に特別なことでもなんでもなくて、人類はもともと海で生まれて海で育って、そして、陸に上がって、陸の生き物になったのですから。 ちなみに、私は、夫と二人で見に行ったので、すでに大きくなってしまっている我が家の子供たちは、もう、一緒にきてくれません。 アーそれにしても。地球をもっと大切にしないと、地球温暖化で、水位が上がって、我が家も水没しちゃうなあ。でも、できるものなら、水没した我が家で暮らすのも楽しそうだ。もういちど海の人にもどるのもいいかも。 崖の上のポニョ@映画生活
2008年07月24日
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日本の宝町というところが話の舞台なのだけれど、新宿と浅草とクーロンを混ぜたような世界観。思わずプレステ1 のゲーム『クーロンズゲート』を思い出してしまった。 親のいない二人は、学校にも行かずに暮らす十歳くらいの少年たちだ。クロとシロ。 ストーリー自体はどうにもおもしろくなくて、途中からあきてしまって、最期まで面白いと思えなかったのだけれど、たぶん、製作サイドはすごく楽しんで作ったのだろうと思う。背景の細部まで微にいり細にいって、非常に書き込まれていて、しかも、カラーが中華風のパステル調。まるで絵本のようなきれいさもある反面、暗く不気味な雰囲気もあり、なんとも、作画側のスタッフが徹底的に自分たちの世界にどっぷりとひたっているのがよくわかる。なんか、高校の文化祭見たいだなとも思ってしまったのだが。 ストーリーはこみいっているので、それなりに読み解けばそれなりに深いものはあるのだろう。 シロのことを思ってクロから、シロを引き離そうとする大人たち。シロのことを思って切り捨てるような言葉をいうクロ。けれど、いざ、二人をきりはなしてみると、シロを失ったクロはどんどんすさんでおかしくなっていく一方だし、クロと引き離したことで救われるはずのシロの心はクロとシンクロしているので、クロの心のひずみは、ストレートにシロに伝わっていく。 猫と呼ばれ、警察からも目を付けられ、悪がきであり、悪、闇のはずのクロの、正義、光の部分がシロなのであって、シロとクロ、光と闇、両方がそろって初めて人はバランスが取れるようで。 光の部分を失った人がおかしくなっていくように、闇の部分をうしなった光もまたバランスをとれずにおかしくなっていく。クロがシロを求めるのとおなじくらい、シロもまた、クロを求めていた。 人は光の部分だけでもまた生きてはいけない。正義や正しいことだけでは、バランスは狂ってしまう。自分の中の闇の部分も認めて、そのありどころを作っておかなければいけないのだろうと思う。影なしに光はありえない。 都電や、インドの象の姿をした神様の像の仕掛け時計。有名な『大中小』のお店。東南アジアのような建物。入れたいものは何でもありの宝町の町並み。ものすごく怖くて不気味なデザインの遊園地。ほんとに何でもありの作品だ。もしかして、原作の漫画の方ならおもしろいかも。 鉄コン筋クリート@映画生活
2007年10月09日
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アニメーションの新たな地平を描く。 鬼才新海誠の新作アニメーションを上映してると知って、行ってきました。渋谷まで。渋谷まで行くのに、普段スーパーに行くのと同じ格好。だっていまさらおしゃれしてもー。というか、渋谷ってあまりにもいろんな人たちがいるのでどんな格好をしても、めだたない! いままでは、ほとんどSF作品だったのに、今回は珍しく、ごくごく普通のお話。現代日本に暮らす普通の男の子の話。 でもでもやっぱり新海誠だ! だって種子島の宇宙センターから、ロケットが打ち上げられるシーンがあるんだもの。必見です。 それにしても、もし、もう少し昔なら、新海誠は、小説家になっていたかもしれない。だって、シナリオは彼が書いているんだけど、その表現がすごいです。現代の都市の空気やにおい、現代都市が現代の人間にとって心の原風景になっていることを描き出すのがすごくうまい。SFとか、どうとかっていうより、彼のすごいところは現代の都市が原風景になっているこの部分を文章やすごく緻密な絵によって表現しうるところだ。 彼はなんと、国文科卒業なんですね。だから、世が世なら小説家になっていたかもしれない。そして、彼が描き出すものすごーく美しい風景を考えると、画家になっていたかもしれない。しかし、文も絵もうまい彼はいままさにこの現代でアニメーション作家という職業によって自己表現をする方法を選んだのだ。 ただ、人物がいまいちかなあ。一話目の「桜花抄」では、緻密で細密な絵のわりに人物がラフすぎてアンバランスなかんじがしました。それでも、二話、三話と進むうちに人物描写が細かくなっていった。これは、ダンダン書いていくうちに調節されたのか、それとも登場人物の年齢にあわせてだんだん細かく書き込むようにしたのか。疑問であります。 感想はいまいちと、いう部分もあります。でも、もう一回よーく観たいかも。第三話めがカットが早すぎて気持ちがついていけなかったかも。というか、一話目であれほどのシンパシーをみせてくれた二人が、三話目であっさり、離れてしまうのがなぜなのか。 でも、ちょっとうるっときましたよ。秒速5センチメートルとは、桜の花びらがおちる速度です。『秒速5センチメートル』ヤフーサイト 新海誠のサイト 秒速5センチメートル@映画生活
2007年04月15日
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『時かけ』といえばふつー大体思い出すのは原田知世主演のやつだようです。二十年以上前のですね。注☆ネタバレあります。たぶん。 でも、私はもーっとずっと前にNHKでやった『タイムトラベラー』が基準点です。『原田時かけ』の時も、「あ、タイムトラベラーのやつだ」と思った。確か吉沢京子主演で、その当時はまだSF自体がきわものだったので、だから、民放だとそう気楽にSF番組なんて作ってない、そんな時代に、あんな先鋭のドラマ作ってたんですよね。NHKって普段評判悪いけど、時々民放じゃ作れないようないいもの作ってくれるんですよね。『プロジェクトX』とか、『その時歴史が動いた』とか。 それで、その当時もまだまだこれからの、日本のSF小説をテレビドラマ化してくれてて、『ねらわれた学園』とかね。いろいろ。 「タイムトラベラー』は連続ドラマだから、一回こっきりじゃない。そういうやつを、さらにばらばらに見てまして、通して見てないから話の筋もよくわかんないままでした。 その当時はまして、今みたいにハーブなんて流行ってないですから、「ラベンダー」ってだけですごく不思議。なにそれーということですね。まだ、見たこともかいだこともなかったんだもの。いまでも、ハーブの中で「ラベンダー」が一番人気なのってそのあたりが原点かもね。 そののち原田知世の『時かけ』が作られましたね。主演の二人があれだけ演技下手だったのに、名作としていまだに語り伝えられるあたり、やっはし監督の力量なんでしょうかね。 年だから昔話が多いなあ。 最近は、毎度、映画見るたびに原作と違うじゃんと思って不愉快だったんですが、今回は原作とはかなり変えてあって、オリジナルストーリーだったにもかかわらず、よかったです。この原作自体がすでに散々映画化ドラマ化されていることもありますが、今回の作品は、オリジナルストーリーではあっても、基本の部分はちゃんと原作の線を守っていたというのもあるからでしょうか。 それでもってこのシナリオが非常によくできていたというのが一番です。「アニメって絵さえよければいいってもんじゃないんだ」と言うのを『銀色の髪のアギト』を見てつくづく思いましたけど、今回の『時かけ』は、絵もすごくいいし、シナリオもすごくよかった。ストーリー上なんどもタイムリープをするんで、結構複雑なはずなんだけど、違和感なくすんなりわかりやすい。そうそうそう。こういう映画、見るだけで全部ちゃんとわかる映画。こういうの待ってたんですね。映画ってわかりにくいのが多くてね。 それにしても、主人公が信じられないくらいものすごく明るい。漫画本来の原点に返ったような話です。最近はねちねち悩んでるような主人公の話にうんざりぎみでしたからね。昔はこういう明るーい子が主人公ってのが普通だったんだけどね。 そんでもって主人公がよく動く。ちゃんとヒロインが活躍してるし、自分の意思で行動してるし、自分の頭で考えてる。少女漫画を描こうとすると、大体どんなに絵がうまくて、話がよくてもヒロインがちゃんと活躍してないと、「主人公がなんもしてないからダメです」って、編集者に言われるんだよね。今回の「時かけ」はそういう少女漫画の本筋をきちんと守ってます。考えてみれば原田の『時かけ』はヒロインなんにもしてないなあ。せいぜい時間を跳んで、好きな彼氏のところに行くくらい。 同じ話でも、こんなにヒロイン動かせるものだったんですねえ。 いやしかし真琴は、この状況で悩まないし、戸惑わないし、がんがんタイムリープしちゃうし。泣く時は人目も気にせず、ワンワン泣いて見せるし。とにかく自分の感情を表に出すことに戸惑いがない。 戦後アメリカナイズすることに夢中だった日本ですけど。結局アメリカナイズの究極ってこういうのでしょうか。 で、実際にはシャイな日本人にはそんなの無理だから、心身症とか、うつとか、引きこもりとか、結局目指すものと逆の方向に行っちゃったりする。無理しないほうがいいと思いますけど。 ほんとにこんなに明るい子っているのかなあ。 でも、だんだん世代が変わっていくとこんなタイプの子が出てくるんでしょうかね。 この映画説教くさいセリフぜんぜんないわりに、結構訴えること、語っていること多い。見終わって「うん、そうそう」って言うものがすごく多い。 だから、それをわざわざ文章にするのはやめとこっかなーとう言うくらい見ればわかります。ふつーの人間なら。って言うくらい、いい映画です。作品としての完成度がすごく高い。評判いいの無理ないです。そして、そういうテーマさぐりなん無視して単純に楽しんで見て、もうそれで十分といえましょう。 ただ、主人公が高校生なので、大人にはいまさらって部分あるし、じゃ当の高校生はこれ見るのかなっていいますか、これ見るくらいなら、ほかの普通の実写の映画選んじゃいそう。そのあたりがこの手のアニメ映画の問題点なんでしょうね。 お子様映画はうんざりだけど、アニメであんまりねちねちした話も見たくないな。 原田知世の『時かけ』は未来で深町君と再会できたみたいなフリがラストにあったけど、今回の映画に出てくる和子さんは、結局深町君に再会できてそうにない。とすると、真琴ははたして、将来千昭に会えるのか。千昭のいる未来は、とてもじゃないけど、真琴がいる今から数十年程度の未来じゃなくて、もっとずっとはるかな未来に思えるんですけど。だとしたら、作品のラストで語られる「未来でまってる」という言葉は、一見とても明るい未来へと誘うハッピーエンドに思えるけど、実をいうと千昭のいる未来はすごく暗くて悲惨で行き詰ってるんですよねえ。『ハウルの動く城』にでてくる「未来でまってて」の言葉は、実際未来でちゃんと再会して、二人は恋人同士になるけれど、『時かけ』の未来でこの二人が再会するとは思えない。 じゃこの「未来で待ってる」はどんな意味あいがあるんだ。一見明るく、行動的に思える言葉なのに、な-んかその場限りのごまかしといえなくもない。 二人がもう一度再会して、結ばれることがありえないのに、「まってるね」「うん走って行くから」という言葉はどうすりゃいいんだ。 明るくて前向きなはずの真琴が、千昭と出会うことで、ただ明るいだけの女の子じゃなくなっていくっていうそんな含みがありそうで。「自分が楽しいだけじゃだめなんだ」ということを語る部分があって、自分にとっていいことだけを追求していくそれだけじゃない生き方を意識するにいたって、ただ明るいだけの真琴が千昭の語る未来の中に潜む闇を意識し始める時、走るだけじゃなくて、立ち止まって少しゆっくり周りを見回しながら、よく考えて生きていくようになっていく一人の少女のやっぱり成長物語とも言えちゃうんだな。 たとえ、タイムリープをしないとしても、自分が楽しいとか、自分の都合だけ考えて行動していれば、知らないうちに周りの他人に不愉快な思いをさせたりしてることはもちろんあるわけで。そのあたりよく考えてください。とわたしなんか申し上げたい。いえ、それが描いてある物語なんです。 この作品では、明るいつくりなのであえて深町君や千昭がいるはずの未来の暗い部分は本編中には語られていないから、ちょっとそのあたりやっぱりよくできたシナリオだけど、わかんない部分が存在しちゃうんだな。 未来だけをみて走ってるだけじゃだめなんだよ。 でも、お話の中では、魔女おばさんと言われる和子さんが真琴に「あなたは待ってる人が来なかったら、走って迎えに行くような子でしょう。」といいます。 こんな、親にも相談しにくいし、友達では役不足なことを相談できるような人が身近にいたらいいよな。この「魔女おばさん」てフレーズに、最近読んだ『西の魔女が死んだ』を思い出しまして、ここからもらったアイデアなのかなっと。不登校になった中学生のヒロインに世間一般の常識的でお決まりのつまらない説教をするような大人とはちょっと違う、だから、魔女なんてあだ名がついちゃうような不思議なキュラクターのおばさんがでてきて、ヒロインの悩みをきいてくれるんだけど。 話戻ってこの和子さんて、話わかりそうだけど、いつも逆のようなアドバイスしてる。来ない人を走って迎えにいく前向きな明るさもいいけど、来ない理由をちょっと考えて待ってあげられる思慮深いやさしさもあっていいんじゃないかと思うし、多分、この物語の真琴も、このあとそんな風に変わっていくんだとしたら、このおばさんの語る言葉のパラドックス性もまた、面白いのかもしれない。 真琴の異様なまでの明るさもまた、ただ明るい女の子を描いただけじゃなくて、その先に変わっていく真琴を描く上での状況設定とも言える。 明るくて前向きで楽しいだけの話だと思って、この作品を見終わっちゃいけないんですぜ。
2006年09月13日
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ネットの評判というのはすごいものだ。 評判どおりすごくよかった。今夏のアニメ映画作品としてダントツの好評価。確かにさもあり何という感じである。絵がものすごくうまくて、美しかった。なにしろあの崩壊した『ゲド戦記』を見た後なのでなおさらです。またまだ、アニメ界にはこんな絵が描けるアニメ監督がいるんじゃないか。私は今回始めて細田守という名前を認識したんですけどね。美大を出て、東宝に入って、そこから、ジブリに出向したんだそうだ。そこで途中までかかわったのが、『ハウルの動く城』だそうだから、作中にでてくる「未来でまってて」という言葉と、こちらの『時をかける少女』の作品の中の「未来で待ってる」という言葉がつまりおんなじわけでして、細田監督が『ハウル』でできなかったことをやっと完成してみせた映画なのかも知れませんね。 アニメ映画のこれからを考える時、アニメ映画がもつ最大の呪縛はその発端が漫画映画であり、とにかく子供向けでなければならないというところにあるんだろうなと思うわけだけど。 アニメが子供向けに作られるのは、子供という観客が必ず母親ないしは、付き添いというもう一人の観客をともなうもので、つまり普通の倍の観客数を見込める。その上、夏休みにやれば、ふだんすいててガラガラで困りものの平日に集客ができるという、映画会社にとってはこのうえなくありがたい条件を持ち合わせているところにある。だから、映画会社はアニメ映画が作りたいのではなくて、子供うけするアニメ映画が欲しいのである。子供うけするとなれば、やはり主人公は子供でなくてはならない。『ゲド戦記』が今回こんなストーリーになったのも、どうしても主人公を子供にしなければならないというシバリのせいもあるということだ。けれど、主人公を子供にすれば、どうしても、主人公の行動や考えることに限界が出てくる。所詮十歳前後の子供ができることなんて限界があるのだから、その条件下で躍動感のあるおもしろいアニメを作るのもつらいものがあるだろう。 その上アニメをみて育った世代が大人になってき始めていて、作る側もまた、アニメ技術、アニメ文化がレベルアップしていく中で、映画会社の求めるような従来の子供向け路線のアニメ映画を作り続けることにも限界が出始めているのだということに、はたして、映画会社側は気づいているのだろうか。 『ゲド戦記』や『ブレイブストーリー』が今ひとついい作品になりえない原因も実は作る側の力量だけではなくて、こういう日本アニメ界の現状にもあるのじゃないだろうかと、『時かけ』を見ながらつくづく思いました。 『時かけ』は主人公が高校生。原作のとおりです。前作原田知世の『時かけ』は角川がうまかったから、子供の集客ができたかもしれないけれど、アニメで主人公が高校生となると、子供の集客はちょっと苦しい。 しかしじゃあ現役の高校生が『時かけ』というアニメを見に来るものだろうか。アニメファンは除くとしても。一昔前なら、アニメやSFは、若者文化だったと思うけど、今の世代の若者はすでにアニメとか、SFとかに対しての興味は昔ほどではなさそうである。その一方で漫画アニメを育った世代が大人になっていて、漫画やアニメは昔よりはるかにその存在というか、社会的地位は高くなっている。 そして、作る側もまた、子供向けではない、普通の実写映画とかわらない大人向けのアニメーションを望み始めているのだとすれば、映画会社は今ここで、『ゲド戦記』の失敗もふまえて、アニメのあり方これからの対し方、観客をどのあたりに予想するか、考えたほうがいいんじゃないのかなと、そう考えました。 というわけで、今現時点では、難しい立場にある『時かけ』ですが、大人でも十分楽しめる非常にレベルの高い作品です。高校生はこれみてどう思うのかな。 つづきます。
2006年09月12日
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『シュナの旅』がアニメで見たい。シュナの旅 しかし、内容的に見て、興行成績はまず稼げそうにないのでアニメ化は無理と思われます。しかし、全国レベルではかなり見たい人の数はあるのではないでしょうか。もともと、マイナーなものは、都市の一つか二つのマイナーな劇場で公開されるのがせいいっぱいですから、本当は見たいけど、物理的に無理な地方に住むファンなんかがいるわけです。 しかし、いまや、ウェブ2.0時代。ロングテールが騒がれる時代。本だけに任しとかないで、アニメこそ、このロングテールの特性を生かすべきでしょう。 ロングテールで、マイナーな本が売れたのは、地方にいて都市部にあるような大型書店に足を運べないために、売れ筋の本以外の存在にきずけない、隠れた読者を発掘しえた事にあるわけですから。ロングテールというのは、もし存在を知っていれば買ったのにという読者が、マイナーな書籍の存在にきずき、知らされ、購入しうるチャンスがネットによって拡大した事にあります。既に潜在的な顧客層は存在していたわけで、それに、販売する側の書店がきずいたという事にロングテールの真実があります。まるで、その気のない読者を引っ張り出しただけじゃないってことだ。 まさに、WEB2.0時代の恩恵であります。ロングテールは地方にこそ、その効果、恩恵が大きい。ほかにも、体が悪くて、出歩けない人たちとかね。 それで、アニメだって、そういう本当は見たいけど、物理的に無理。わざわざ都市部にまで見に行くほど、時間も金も余裕もないというファンのために、ネット上で、動画配信のシステムを使って公開できれば、一般のごく一部に限定された、劇場公開では集客不可能な作品を、全国に存在するファンにも届けることが出来るはずだ、と思うんですけどね。 実際、ネットで、ブログや、ミキシの普及が激しいのだって、リアルの世界だと、物理的に難しい、同一趣味の人たちに出会う事の出来るシステムにあるんだと思うわけです。ミキシとか、はね。物理的には、リアルの世界では出会えない、あるいは会えない人とコミュニケーションがとれるというところに意義があるわけですからね。 というわけで、アニメのようなものにこそ、ネット配信で、全国の本当に見たいと切望するファンに、作りたい見せたいと製作者側が思う作品を届ける事のできるすごーいシステムなんですから。Yahooとか、BIGLOBEとか、に、お願いしたい。ジブリの本サイトでも、公開したってよろしいのではありませんか。だいいち、ジブリ美術館でだって公開できるのでは。アマゾンばかりに任せてないで、ぜひ。アニメーション業界には、頑張っていただきたいです。ようするに、アングラってやつですかね。ちがうかな。アニメもロングテールの部分で稼いで、そして、ますます日本のアニメを発展させていただきたいと思うわけであります。 こんなところでこそ、鈴木俊夫氏には、その手腕を振るっていただきたいと思うわけです。 てことで、『シュナの旅』が見たいの。よろしくー。 ところで、WEB2.0とか、ロングテールとか偉そうに書いてるけど、『ウェブ進化論』を読んで果たして私は、どこまでわかったんでしょうね。疑問です。 ただ、今まで都心の大型書店に行くか、本屋で注文するかしないと手に入らなかったマイナーな本がお手軽にその日の気分で買える様になった。ネット通販をなにやらすごい理論とネーミングで、頭の固い会社の上層部にいるようなおじさんたちに説得力を持って説明してくれるような本が出てきたのは確かです。なんでもいいんです。手に入りさえすれば。それは、本やアニメにかかわらず、それ以外の食品とか、衣料とかだって同じだと思いますよ。 『シュナの旅』のもとネタになった「犬になった王子」が入ってます。『白いりゅう黒いりゅう』についての記事はこちら。ジブリ映画アニメ(アニメーション)
2006年08月04日
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その1から続きます。ところで、この中に出て来た『シュナの旅』ですが、これは、宮崎駿の絵物語で、しかも、かなりマイナーなものなので、どれくらいのひとが知っているでしょうか。 私はこの作品がアニメにならないものかなーとずっと思っていました。ただ、ものすごく暗くて、かなり悲壮な話なので、多分アニメ化は無理だろうなと思っていたのですが。今回ゲド戦記の中にでてきたので、おおっと思ったのです。 アレンが人買いに捕まって四角い車にのせられて、鎖のついた首輪のつけられているシーンがそうです。『シュナの旅』は全編こんな調子でほんとに暗い話です。でも、できれば宮崎駿監督にアニメ化して欲しかった。 なぜ今回後半の手抜きをしてまで、この『シュナの旅』をこの映画の中にもぐりこませたのか。やはり、作りたかったんでしょうね。まず、映画興行的には絶対映画会社からOKはでないだろうな。 ほんとすごい話ですよ。しかも、絶版になってるかと思ってたら、まだ売ってました。 ゲド戦記のアースシーの世界は今回のアニメでは、地中海のイメージで作られていましたが、私はあの地図を見ていると、もしかして、東南アジアかなと思っていたのですね。西洋の人たちにすると、多分アジアの方がエキゾチックで神秘的なんじゃないのかな。 それで、『シュナの旅』を見てると、大体舞台がアジア、中国から、モンゴルのあたりのすごい昔の時代あたりを設定してる感じなのですね。でも、ほんとはチベットの話がもとネタらしいけど。 ものすごく貧しい作物の育たない土地から、穀物の種を求めて一人の少年が旅立つ。少年は旅の途中で人買いに捕まった少女を助け出す。この少女がちょっと今回のテルーとイメージが重なる感じです。そののち、地の果てまで旅して、精神的にもぼろぼろになった少年を少女が助け、二人は穀物の種を手に入れて、少年の故郷に帰っていく。アジア中央部の高地のイメージなのです。もっとも、もとはチベットの民話だそうで、『もののけ姫』にでてくるヤックルも元はこの本からなんだと思うんだけど。ジブリアニメを見ていると、時々ここから、エピソードを少しだけ持ってきてるなと思う部分が点在しているのですね。ヤックルなんかは南米のラマに似ている気がします。 ジブリの気持ちはわかるけど、『ゲド戦記』と『シュナの旅』を混ぜちゃうのはやっぱりちょっと無理、むちゃなんじゃないですか。 『シュナの旅』はちゃんと『シュナの旅』として作ってください。見に行きますから。DVDも買いますから。 というわけで、監督日誌を読んでくると、原作全部読んでも、どうストーリーをまとめていいかぜんぜんわからなかったらしい。すごい不思議。この監督は『ゲド戦記』に惚れてアニメ化したかったわけじゃないのかな。影と戦う、世界にせまる闇と対峙するという一番肝心な部分をすっぱ抜いちゃってただの少年の成長物語にしちゃったら、ゲド戦記の意味ないじゃん。なぜそんな状況でも、アニメ製作がつづいたのか、OKが出たのか。謎であります。まとまらない挙句に『シュナの旅』を読んで話をまとめたってことはほんとに別物の作品てことだ。 で、いろいろと見てると、この鈴木敏夫っておじさんがなかなかどうしてくせものだ。宮崎吾朗がなんかか困ると横から余計なアドバイスしてるのがこのおじさんみたいなんだけど、なんだか、ウマーク手回しして、監督のきづかないうちに、鈴木氏の思う壺にはめてるような気がします。実をいうと、この鈴木敏夫がアニメ映画攻殻機動隊のタイトルを『イノセンス』なんてとんでないタイトルに変えちゃったんだよね。私にすると、絶対『ゴースト・イン・ザ・シェル』の方がいいと思えるのに、どういう感覚で『イノセンス』なんてタイトルに変えられるんだか。 でも、それで通っちゃったんだよね。たぶん、プロデューサーとして、人を説得する力量だけはピカイチなんだろうと思えます。で、この人、アニメの事本当はわかってないんじゃないのかな。なんで、この人がジブリスタジオの中に入り込んじゃったんだか。さらに謎です。でももう、宮崎駿監督がいない今、誰がプロデューサーだろうと、ジブリがおしまいなのは同じですね。ちょっと厳しすぎ だって三十代後半になってからやっとアニメの世界に入ってきたという段階で、既に才能はなさそうだ。なにしろこの世界って才能があれば既に十代でデビューしてるか、アニメの世界にかかわってるかしているはず。三十代まで、手をだしていなかった人間を連れてくるのはおかしい。無理があると思いますよ。所詮宮崎駿の絵を真似ることしか出来ないという段階でね。自分の個性がこの年齢で出ていないというその事実で既にね。 で、鈴木俊夫氏のインタビュー読んでると、どうも、宮崎駿はおよそ乗り気じゃなかったみたい。父親なんだから、家で見てれば吾朗氏に才能があるかどうかくらいわかる。彼にアニメーターの才能があれば十代のうちにジブリに既に引き込んでいるはずで、息子の才能にきずかないはずはない。それがこの年までほっといたと言う事は吾朗氏にはアニメーターとしての可能性が見えなかったからだろうと思う。インタビュー記事では鈴木氏はかなりうまく会話の内容をゴマしているが、宮崎駿は、もし上手くいかなかったら、途中でもやめさせますとまでいっている。そして、アメリカの原作者ル・ヴィンに、交渉に行くときも吾朗氏は行っていない。監督本人が交渉に行っていないなんてこんなばかな話はないだろう。しかも宮崎駿を宮崎吾朗だと言ってル・ヴィンに紹介しているのである。やはり、監督本人が来ないのはおかしいと相手が考えることを想定したのだろう。そして、本人吾朗氏を連れて行けばその才能がない事は見切られてしまうだろうことも鈴木氏は多分わかっていたのだろうと思う。 なんとも姑息というか、プロデューサーとしては確かに敏腕なのだろうと思うのだけれど。商業的な才能はあるのかもしれないが、アニメーションがなんなのかは、あきらかに、わかっていない。今回のゲド戦記の今までにはないような過剰なまでのプロモーションといい、スポンサーを見つけてきたり、口説き落としたり、そのあたりの力量だけは見事であるし、アニメ作家のような技術系芸術系人間は、その手のことには疎いのだから、もちろんこういう人材は必要なのではあろうけれど、しかし、アニメーションを理解していない状況で、こういう表面だけを取り繕って、商業ベースにのせるようなことを続けていけば、最初は良くても、いずれ、アニメーションの質が落ちていってしまう可能性だってある。目先の発展だけを追いかけてしまっては、日本が世界にほこるアニメ文化がダメにされてしまう。まさに獅子身中の虫のように見える。 吾朗氏を本当に育てようと言うなら、周りはアドバイスをしすぎる。初めての作品製作なのだから、もっともっともっと産みの苦しみに向かい合い、自己と対峙する必要があったのではないか? 本当に残念でならない。『シュナの旅』とそのもとネタとなった話を書いてあるのがここ。読んでね。『攻殻機動隊』だ。これはこれで面白い。分野はぜんぜん違うけどね。 ジブリ最新作『ゲド戦記』
2006年08月02日
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残念でした。これは『ゲド戦記』とはいえない。ヤフーの映画評を読んでも酷評が多い。さすがに私もこれは駄作としかいえない。これだったら、『ブレイブストーリー』の方が面白かった。 『ゲド戦記』が持つ良さも独特の雰囲気もほとんど描けていない。 がっかりです。 次々とファンタジーが映画化され、世界三大ファンタジーの最後の一作をとうとう日本で作るんだと、期待していたのですが。本当にがっかりでした。 どうも面白くなかったなと思いましたが、やはり酷評が多いですね。 アレンがでてくるのだから、三巻かなと思っていたのです。しかし登場人物をある程度増やすために四巻にでてくるテナーとテルーも少し絡ませるのかなと思ったのですが、前半は三巻で、後半は四巻というような、感じでしょうか。全巻のストーリーを適度に混ぜているようなストーリーになっていて、原作とは全く別物。しかも、つまらなくなっている。記者会見で宮崎吾朗監督が今ひとつ表情が重かったのがなぜかよくわかりました。 原作の一巻はほとんどゲド一人の話なので、暗いし、つまらなくなりやすいだろうとは思ったけど、その一巻の影と戦う設定がアレンに移されていて、それでも、三巻のストーリーならそれなりに面白く出来るだろうと思っていたのです。しかし、原作の中でも、少し冗長で読みづらかった四巻で締めくくられてしまったので、本当にこれでは、話にならない。 中盤はゲドと、アレンが畑を耕していたり、家族で食卓を囲むような部分が多くて、さすがに飽きてしまった。時間が長いわりに話を上手く盛り込みきれていない。 三巻のストーリーをほぼ全編で通せばそれなりにゲド戦記らしくなるし、スペクタクルで、迫力のある冒険ファンタジーにできたはずなのに、なぜ、後半、結局悪役の魔女一人をやっつけただけで、ストーリーにかたがついてしまうのか。前半で書かれていたはずの世界の均衡の崩れた原因を修復しに行く物語にならなかったのはなぜなのか。充分作れたはずだと思うのに、なぜ後半が悪役一人倒して終わりの無難なアニメで終わってしまったのか。『ゲド戦記』の映画化の権利をせっかく獲得していながら、あまりにも惜しい。しかも、世界を揺るがすすごい悪役がすぐ近所に住んでるなんて、お手軽すぎジャン。やはり、ポスト宮崎駿は、もっと別のところから、出現してくるのだろうな。 楽しみにしてたのに残念です。 絵も少しいつものジブリと違うし、せっかくのテルーの歌うシーンも口の動きが不自然なのが目に付いて、せっかくのすばらしい歌が感動できませんでした。 前半の気合のわりに後半が手抜き。限界ですかね。やっぱり宮崎駿亡き後には、ジブリは続かないだろうな。ディズニーと同じで、主がいなくなった後、他の人間がその絵柄をまねて描いても、やはり、本人の書いたものには決して行き着けないし、表現しきれない。 アニメはやはり、絵が勝負なので、作画の本人がいない後まで無理やりその絵柄を固持しても、魂の抜けた人間を見ているようなものです。 ジブリスタジオを続けるつもりなら、宮崎駿の絵にこだわらずに全く別のキャラクターデザイナーを見つけ出して、新しいジブリカラーを作り出していく方がいいと思う。長すぎなので、前後編にわけました。続きはこちら。 ゲド戦記公式ページシュナの旅 読んでね。 ジブリ最新作『ゲド戦記』
2006年08月02日
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あれは、おばあさんになる魔法じゃないよね。私が思うに、精神年齢っていうか、心の年齢がそのまま姿になる魔法だと思います。 だから、ソフィが自分に自信をもってたり、前向きに行動をとっている時は、若い姿に戻る。最初から、やたら、控えめで、マイナー思考で、どうせ自分なんかといつも考えているソフィは、姿は若くても、まるで年寄りみたいでしたものね。 心の姿がそのままま体の姿になるなんて、こわいじゃーん。そんな魔法かけられたら、私なんかどうしよう。いつまでも、若くて前向きに生きていたら、永遠に若いままでいられるのかしら。素敵。 しかし、強いですね。自分がある日おばあさんになっちゃって、それを誰にも言えなくて、黙って一人で家を出て、行くあてもないまま、山まで上っていく。どうする気だったんでしょうね。 中盤あたりで、わんワン泣いて、「私なんか美しかったことなんか一度もないわ」と初めて本音と弱音を吐いたところから、ソフィが少しづつ変わっていくような気がします。 ジブリアニメでラブストーリーなんて初めてだと思う。そんで以てイケメンでプレイボースのかっこいい魔法使いの声にキムタクっていうのはナイスですね。キムタクがアフレコでハウルの声を入れるのを見て、宮崎監督が始めて「あ、ああいう男だったのか」とハウルのキャラクターを理解できたみたいで、監督以上にハウルのキャラクターを表現してみせるあたり、やっぱりプロの俳優さんはすごいなあ。 でも、サリエルと、ハウルとソフィがお城で話すシーン。ちょっとセリフ下手。っていうか、話す内容が多い割りにキャラクターがしゃべる時間を充分とらずにアニメが作られているせいで、短い時間にたくさんのセリフしゃべらなくちゃならなくなって、間を取ることも出来ず、ほとんど棒読みになっちっゃてるような感じでした。せっかく、セリフ回しや、表現力の有りそうな俳優さんたちを起用しているのに、あれじゃあねえ。そのあたりもう少し考えた方が良かったんではないのでしょうか。せっかくのいいシーンなのにね。 それにしても、このお話、主役はかっこいいのに、あとは、おばあさんが三人もでてくる。大事な役はみんなババさまってなぜに。ヒロインのソフィもそんなに美人がないしね。 さて、自分の心をストレートに表現して、自分や周りの人たちのために行動し始めるところから、ソフィがどんどん若くなっていきますね。最後にソフィが若い姿のままに戻るのは、魔法が解けたからなのか、解く必要もなくなったのか。 原作の二巻はまたぜんぜん違う展開で面白かったです。 ジブリ映画アニメーション映画
2006年07月26日
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意外と面白かった。でも、もしかして原作よりカットされてる部分もあるかも。ほんとにゲームのRPGやってるような展開です。最初の装備もゲームと同じよう。でも、このゲームだと。この後装備が大して増えていかなかったなあ。せいぜい「ハイランダーの腕輪」くらいでしょうか。でも、剣につけていく宝玉のもつ魔法も装備アップにはいるかな。 話のテーマも最後に主人公のワタルが自分の口から直に語られるし、非常にストレートでわかりやすい展開のお話です。大人も子供も素直に楽しめるし、どういう意味か悩む部分はそんなにないし、気楽に楽しく見られる作品といえましょう。 ファンジーなら当然出てくるドラゴンもちゃんとかっこよく出てきてくれたので満足です。私はドラゴンフリークですので。 ところで最初と最後にかえるが出てくるでしょう。 最初のカエルはコトバの謎解き。「カエル」→「帰る」 どこにも出口のない部屋から脱出するための謎解きの答えです。 ワタルは何とか回答にたどり着いてカエルの像にのみこまれて、脱出しました。でも、帰れたわけではありませんでした。玄界での旅の始まりでした。 そして、ラストでも、カエルの化け物が登場します。最初と最後にどちらもカエルなのはなぜでしょう。これこそが作者宮部みゆきの語ろうとした部分だと思うのです。 ラストにおけるカエルは「変える」というコトバの謎解きでした。それはつまり、 運命を変える 願いを変える 自分を変える 世界を変える 「変える」というコトバから作者は多くのメッセージを語っています。それはブレイブストーリー公式サイトでも、宮部みゆき自身の言葉で語りとかれています。 それこそがブレイブストーリーが語ろうとしたことであり、最後に主人公ワタルが語ったことです。 生きていく限り辛いことがあってそのたびに誰かに何とかしてもらうわけにはいかないこと。だから、自分自身が、それらを受け止めて、生きていけるように、自分で自分を変えるしかないんだと。 ところでもう少し前に戻ると、ラストボスは自分自身の影でした。自分の影と戦い向かい合い、自分の中に取り込むという展開は、実はこれから公開される『ゲド戦記』の原作の一巻『影との戦い』のまさにラストシーンそのものなのです。いいんですか、これからゲド戦記やるのに。ぱくっているのか。わざとなのか。 ワタルはもちろんストーリー中ずっと危ないときに助けてくれた謎の声のアドバイスによって、気づきます。その影は自分自身そのものなのであって、いくら自分に剣を向けてきても、決してその影を傷つけてはいけないことにきずきます。そして、自分にそっくりなその影を自分の中に取り込むことが出来ます。 けれど、実際自分にそっくりな姿かたちをしたものが、いくら剣を持って自分を殺そうとしてきても、はたして、その相手に剣を振って、傷つけたり、殺したり出来るでしょうか。だって自分にそっくりなんですよ。こんな場面になったら、果たして私は影に向かって剣を振り下ろすことが出来るでしょうか。それはつまり、自分という存在を愛しているかどうか、自分で自分が好きかどうか、まさにその自分自身の生きる姿勢を問われているということでしょうか。 自分が嫌いなんて思っている人結構いるんじゃないでしょうか。それはつまり自分の欠点が嫌いってことだけど。 だから、自分自身の影になんの迷いもなく剣を振り下ろせるミツルってとても怖い。そこまで自分にできるほど、彼の運命は過酷でつらいものだったので、やはりミツルの運命は変えようのないものだったのかもしれません。 自分で自分を愛せなければ、いたわれなければ、好きでなければ、自分の運命を変えることも、自分自身を変えることも、出来るわけなんかない。 自分の影の部分もマイナスの部分、欠点の部分も、全てひっくるめて受け止めて初めて、運命を変える女神に会うことが出来る。 そして、子供にとって絶対的な存在だった、両親が、自分の欲望を抑え続けなければならない現実のつらさに疲れてしまった父や、病気に倒れてしまった母が、それぞれ弱い部分をもった一人の人間であることを知った時、ワタルは一歩大人になったのでしょうか。玄界の魔術師によって見せられた父の幻影がかたる言葉はワタルを惑わすための偽りであるようにも見えるけど、私はこれはあるいは本音であって現実の世界では決してワタルが聞くことの出来ない父親の本音なんじゃないかと思うのだ。 現実の世界にあっては逆に惑わされて見えなくなってしまっているものが、玄界という幻影のような世界の中で逆により鮮明にストレートに見えてくるというのもまた、面白いもので、それゆえにこそ作家が幻想世界を作り上げてまで、ファンタジーという形を借りて、描きたいと思うものなのかもしれない。 ゲーム面白そう。やろっかなあ。アニメーション映画
2006年07月20日
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宮崎駿の伝説的名作アニメです。若い頃せっせとNHKで視たんだわ。でも、その当時はパーフェクトに見られなかった。そして、今回YAHOO動画で全26話。みました。頑張って。26話っていうと、映画ビデオ6本分くらい。たいへんなんだよーなかなか。しかも、みられるのは今月末までなんだもの。 昔はただひたすら、面白いって思ってみてたけどね。だってコナンの人間とは思えないすごい運動能力。スーパーマンですね。ぜったい。 そんでもってインダストリアとかすごい印象に残ってますね。 しかも、今見直すと話の設定が2008年からはじまってるのよ。再来年じゃないですかもう未来でもなんでもない。ていうか、あとすこしで、未来少年コナンは過去の話になってしまう。SF小説とか、近未来小説とか今まさに時代が近づいてきちゃって、SFを追い越しちゃうんだよー。もっともコナンの話自体はその20年後なんだけどね。 それでっと、西暦2008年超磁力兵器による大地殻変動で地球の大陸の半分以上が海に沈み、人類の多くが死んだ。生き残ったわずかの人々の物語なのである。唯一残る科学技術によって動いているインダストリアで、レプカは、太陽エネルギーによる世界制覇をもくろんでいた。ってこんな地球でそんなことして意味あんのかな。インダストリアとは対照的に自力で農業生産による生活スタイルを復活したハイハーバー。で、このハイハーバーなかなか素敵なんですけどね。でもねその生活スタイルが十八世紀頃の設定。衣装とか、村の建物とか、村の自治の方法とか。この当時の生活スタイルが西洋にとっての理想なのかなあ。 まあ、SFなので、人間を否定するような科学を否定する。科学よりも、もっと自然に立ち返って素朴に人間らしく暮らそうってテーマかなあ。 地殻変動による地震から、ラストでは、インダストリアは沈んじゃうんだけどね。 それは人々が自らの意思で科学を捨てたというよりやむをえず捨てざるを得なかったような展開でして、もし、インダストリアが地震によって海に沈むことがなかったら、人々はインダストリアと科学を捨てただろうか。という疑問が残ります。 ハイハーバーに移住した人々はそのあと、コナンの生まれ育った「残され島」に移住していきます。ハイハーバーからはかなり遠いところです。このあたりを見てて、なんかかつてのヨーロッパの大航海時代みたいだなあと思ったのでした。ハイハーバーはすごく広そうだから、何もこんな遠くに移住しなくても、暮らしていけそうなんだけど、でも、今のうちに移住しとかないと他の人たちにいいとこ取られちゃうかもね。つまり、人類は滅亡寸前までいったけど、結局また、大航海時代のあたりから、歴史をやり直すつもりなのでしょうかね。 それで、そうやって開拓を続けていくとやっぱり、麦や農作物をたくさん取れるようにするにはどうすればいいかとか、考え始めればそれはつまりバイオテクノロジーってやつですよね。やっぱり科学技術は必要になってくるし、機会なんかもまた作られ始めちゃって、うーんやっぱりインダストリーな生活に変化してしまうだろうな。 SFとして科学や、機械を否定するようなテーマだったけど、やっぱり人間てこういう歴史の流れから、逃げられないものなんじゃないのかなあ。 だとしたら、やっぱり科学や機械文明を否定するより、それを上手く生かしつつ、人間らしさを失わないようなあり方こそが目指すべきものなんじゃないのでしょうか。 コナンたちはこれからどんな世界を地球上に作り上げていくだろう。アニメ(アニメーション)
2006年06月28日
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『ニューワールド』『ポカホンタス』に続いて見ました。『ポカホンタスイングランド編』基本的設定はほとんど同じだけど、ストーリー展開は随分違う。ポカホンタスに関して残っている資料自体が少ないので、それ以外の部分は製作者サイドでかなり好きなように作れる。なかなか面白いネタだということですね。 アニメでは、まずポカホンタスは結婚してないし、外交であることをとはっきり意識してジョン・ロルフとともにイギリスの国王に会いに行く。イギリスでは、死んだはずのジョン・スミスと再会して、二人の男を並べた上でまさに好きな方えらんでいいよって感じで、(おいおいおいおいそれはないだろうと思うんだけど)、結局俺について来いってタイプのジョン・スミスより、紳士的で自分の方がポカホンタスにあわせられるジョン・ロルフとくっつくのです。ポカホンタスもジョン・スミスもわが道を行くタイプということで、一緒になるとけんかになりそうで、ロルフのようなちょっとひきのある、相手にあわせられるタイプのほうが勝気なポカホンタスにはあうんじゃないか。という展開のストーリーなのでした。しかも、最後二人でアメリカに帰って行く。ポカホンタスが死ぬところまではやらないのでした。それにしても、いかにもディズニーアニメらしく、最初から最後まで悪役が徹底的に悪役で、最後は悪役が全て悪かったというように結末を持っていってしまうことで、ネイティブアメリカンと、入埴者側のイギリスの抗争を奇麗事のようにごまかしてむりやりハッピーエンドに持っていった感じでした。 実際のところ、ジョン・スミスとポカホンタスの間に本当に恋愛関係があったかどうかはわからないし、ジョン・ロルフと結婚したことは事実なので、そのあたりの解釈が難しいところでしょうか。ディズニーも、話のつじつまあわせるのに相当苦労したんじゃないでしょうかねえ。 『ニューワールド』を作ったテレンスマリック監督は当然このアニメも見ているだろうし、その上でこの映画を作ったわけだから、アニメで語られた結末にかなりの不満もあったはず。その上で自分なりの解釈で、そして、もう少しまともなポカホンタス伝説を新しい視点で語り直したかったのかもしれません。 ところで、二十代前半でその命を途絶えてしまったポカホンタスですが、イギリスに渡ったことでアメリカ大陸にはなかったであろう数々の伝染性の病原菌に感染したであろう事は当然想像もつくわけで、もし、イギリスに行かなければ、死ななかったかもしれない。それでも、そのあと、どっと流れこんでくる入植者達との接触は増えていっただろうから、やはり、どちらにしても、伝染病にかかる可能性はあったわけで、早世してしまう運命にあったかもしれません。ネイティブアメリカンと入植者との壮絶な抗争もネイティブアメリカンが減少した原因であるけれども、それとともに西洋人がもちこんだ虫歯によってかなり多くのネイティブアメリカンが死に至った可能性もあったという話を、以前聞いたことがあったっけ。いやあ。虫歯は辛いし、どうにもならないですからねえ。ま、虫歯に限らず、そののち、多くの伝染病を持ち込まれ、うつされて、そのせいで随分ネイティブの人たちも死んだだろう事も当然想像できる。つまりは、意図的ではなかったにしても、この当時既に生物化学兵器による侵略と戦争をイギリスヤスペインはやっていたってことだ。すごーい。流行の最先端だわサ。 さらにところでなんだけど、西洋のSFの小説やドラマや映画には宇宙人に侵略されるっていうテーマがかなり多い。昔はやった「インベーダー」とかね。結局自分達がやってきたことだからこそ、自分達もまた、やられるんじゃないかという恐怖を感じているわけですね。実際に侵略された側より侵略した側の方が自分たちが侵略されることをより強く恐怖として感じるって言うのもなんとも、因果な話だよねえ。映画『インデペンデンスデイ』なんか、まさにそんな感じ。「こんなやつら(地球人)なんかどうなったっていいんだ。さっさと殺してこの星は自分達のものにするんだ。」といインベーダーの意識を肉体の接触によって感じ取ったアメリカ大統領の恐怖感は<まさに当時のネイティブアメリカンやそのほかの世界中の侵略された側の国々の感覚そのものであって、その映画のタイトルがまさに「インデペンデンス」だって言うのはいったいどんな目論見で作られた映画なんだか。よくわかんないです私には。 ちなみに最近『宇宙戦争』なんて映画もありますね。私、見てないんだな。これ。トムクルーズが嫌いなモンで。それで、こういう目に見えるはっきりした侵略戦争ならまだしも、もし、宇宙人が、生物化学兵器を使ってこちらの全くきずかないうちに地球人が滅ぼされちゃうなんて可能性もあるわけだよねえ。そういう映画は出来ないのかなあ。 ところで、映画『ニューワールド』の中で、ロルフ役の俳優さんが私的には、トムクルーズにそっくりだったので、ロルフよりスミスの方がかっこよく見えたのってそのあたりも原因かもしれない。でもでもやっぱりスミスさんのほうが私の好みなんだわさ。というわけで、今日はまーここまでです。
2006年05月24日
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映画『ニューワールド』を見たので、当然関心がでてきて、ディズニーアニメの『ポカホンタス』も見ました。 アニメの方では、ストーリーや、キャラクター設定が映画よりずっとはっきりしていて、非常にわかりやすい。ポカホンタスは外の世界に出たがっている、開拓型の性格であることをかなりはっきり描いてあるし、アメリカ大陸に向かうジョン・スミスは金を手に入れたいこと現地人を敵とはっきりと認識していて、本来の価値観そのままに描かれている。 最も今の時代に「インディアンなんかやっつけて自分達の国をつくるぞ」なんて描き方の映画を作ったら、大変なわけなので、映画『ニューワールド』では、イギリス人は非常に紳士的に描かれていて、ネイティブアメリカンに好戦的な書き方は出来なかったのだろう事も想像できるけれど。 そして、アニメの中では、現地のネイティブアメリカンもまた、非常に好戦的で部族間抗争に忙しそうである。イギリス側のリーダーははっきり悪役として描かれてもいる。わかりやすいけど、これからはこんなストーリーは作れないだろうな。 さて、ポカホンタスとジョン・スミスが出会って、ジョンスミスも少しづつ意識を変え始める。ラストはイギリス人とネイティブアメリカンとの争いになり、ジョンスミスが負傷してしまい、イギリスに帰ってしまうところで終わる。このあと、もう一巻ポカホンタスがイギリスに渡る話があるのでそれも借りて来る予定です。 映画とはかなり違う価値観で描かれています。『ニューワールド』の方はものすごく詩的に美化されて書かれていたことがとてもよくわかる。ストーリーやキャラクター設定も監督独自のものだったらしいので。ポカホンタスの伝説は細かいところはわからないらしいし。 アニメでは、イギリスははっきりアメリカ大陸を自分達の都合のよいように使うためにアメリカ大陸にやってくるし、ネイティブアメリカンにたいしては、はっきり、敵という認識。そして、外に出ることを願うポカホンタスの勝気な性格もはっきりわかる。ディズニーはどんな方向性でポカホンタスの物語をアニメにしたのだろう。それは、また、続編を見てからですね。
2006年05月23日
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何回も見たつもりだったけど、よく考えたら、二回目。劇場で見た時は、動物の喋りがよく聞こえなくて、なんて言ってるのかわからなくて困ったんだよね。今回テレビで見てたら、わりと聞き取れました。なんで、音が割れちゃうんだろう。それで、そしたら、このあたりをきちんと聞き取れないと話がわからない。ということがわかったのでした。 それにしても、宮崎駿って、すごい才能だよね。自然と人間の対決。徹底的に突き詰めて、そして、さあ、あなたも考えてくださいというエンディング。だな。けちつけるところが全然なかった。そして、ちょっとでも、気を抜くと話がわからなくなる。すごいストーリー展開だよね。絵が上手いのは当たり前としても、絵とストーリーと、効果と展開とバランス。が、すごいんだよね。 時代的には、たぶん、戦国末期。鉄砲があるからね。でも、ヤックルがでてきたり、東北地方の雰囲気がもっと前っぽいのですよね。でも、鉄砲が出てくるんだから、当然、戦国末期。ただ、日本っぽいけど、日本に似た設定のファンタジーってこともありえるような…。 たたらということで、この村は製鉄業をしてる。だから、多分山陰地方。鳥取か、あるいは島根。あたりかな。山からとった砂鉄による製鉄。そのための山や森の伐採。自然破壊。私は、公害や、自然破壊というのは、20世紀になってからだと、ずっと何気なしに思っていた。だから、この映画を見てこんな昔から、自然破壊があったんだというのは、なかなか驚きだったんですね。 自然と人間の技術が共存できないものだという初めての摩擦の瞬間。 自然の中から生まれ、自然の中にあるものをそのままに受け止めていた生命達の中で、はじめて、自然のものを自分達の力で変容させていこうとする人間という存在の出現が、自然のあり方を危うくし、自然と人間のせめぎあいを生む。 人間が生み出そうとするものが自然を破壊していく。 それぞれがそれぞれの立場で自分の存在を維持するために戦う。あるいは、滅び、あるいは生きながらえ、それぞれがどうかかわっていけばいいのか苦悶する。 その戦いのまさに中間ポイントにいるのが「もののけ姫」だ。人間でもあり、動物にはじまる自然でもあり、また、人間でも、自然でもない、微妙な存在である「もののけ姫」という存在がまさにこの物語の中で重要な位置を占め、それがいっそう、物語を面白くもし、複雑にもする。 そして、その対極に「えぼし様」がいる。科学技術の進化の最先端をおのれの力で引っ張って行こうとしている。「えぼし様」の実業家としてのさらにリーダーとしての資質、技量はすごかった。「たたらの里」にいるのは、つまり、社会的にはあまりモノ、ハグレモノの存在ばかりを集めている。なにしろ、この物語の中にらい疾患の人々がでてくるのだ。これは、ジブリではあるけれど、けっして子供向けに作られているわけではない。それはもちろん、サムライや、野武士の首や、手がばっさりきられるシーンが数回でてくることでもわかるのだけれど。らい疾患、あるいは、娼館に売られた女、男達もたぶん、外では与太者、暴れ者などの、存在であったものたちなのではないだろうか。他に行くところのない、あるいは社会からやっかいもの、じゃまもの扱いされてはみだしてしまったようなものたちが、集められているのだ。行くところがないのだから、こんな山奥の僻地のたたらばといえども、苦しくともしんどくとも、彼等にとってはよっぽど世間よりは居心地のいいところなのだろう。この地で初めて人間扱いされたのではないのだろうか。だから、たたらばのらい疾患の人たちも、たたらをふむ女達もとても元気で生き生きとして、自分達の里に自信を持って暮らしている。そういう人間達を集めてその信頼をえて、里をまとめているその技量はすごい。 物語の前半、自然を破壊し、たたり神までうみだした、「えぼし様」は悪者のようにうつる。そして、その「えぼし様」をさらに、だまし、うまく使い右手まで落とさせてしまったより上の存在もまた、人間社会という自然とはさらに対峙する存在である。あまりの人間の変容に自然はあらがうけれども、しかし、進化しはじめた人間達の技術力にはとうてい勝てない。この先、ますます進化し続け、その技術力を増して、自然を破壊していく人間達にいったい、どう対抗していけるのか。その対決のシーンは、壮絶だ。真正面から対決して、滅んでいくいのししたち。高見の見物をしていたはずが、結局参戦してしまう山犬とサン。そして、「未来少年コナン」そのもののアシタカ。アシタカの体力、運動力、弓の腕も、剣の腕も、すごかったですね。山犬と同じスピードで、山の中走ってるんだもん。ふつう出来ないでしょう。 自然破壊をしつづけ、自然にとっては敵である「えぼし様」は、人間界では社会的弱者を集めてその生きる場を与えているという、良き存在であったりする。人間の社会で生きて行こうとする「えぼし様」、そして、自然破壊につながるとわかっていても、なお、後戻りの出来ようはずもなく、科学の発達によって生きて行こうとする。自然破壊に対して、なんら迷いをみせないえぼし様は、自然破壊につながることをしなければこの先人間が生きていけないことに覚悟を決めているのだろうか。自然の中にうまれながら、その自然を破壊することで自らの生きる道を開かざるを得ない人間達と、自らの存在を危うくする人間とどう接していくのか結論のだしきれない自然との、せめぎあいの歴史の最初の部分を描いた物語だったのであろうか。 物語のラストで自然界の生命力を象徴する「コダマ」が一匹だけ現れる。こんなことぐらいで、自然は滅んだりしないんだよ。と、言っているようでもある。自然と人間は対立していくものなのか。共存していくものなのか。 ・もののけ姫@ぴあ映画生活
2006年05月14日
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コナン見に行きましたか。いい年した大人が一人で。いきましたよ。私。いい年して、ひとりで。いい加減コナンも最初の頃ほどの迫力ないなあと思いつつ。去年は行かなかった。そしてビデオでみたけど。途中で上の空。ゲームしながら見てたせいで、よくわかんなかった。こんなに映画に愛情もってないくせにブログのネタにしてる私って何今回のコナンは面白い人は面白いらしいのだけど、私はやはりいまいち。だってね。ラスト近くで、服部君が言ったせりふには、「別に探偵なんか頼まなくても、警察が既にみんな究明してたことなんだぜ」っというのだ。なにしろでてくる少年探偵三人のうち、二人は親が警察庁だか、警視庁だかの息子。親のコネで情報入手して事件解決してるし、どこが名探偵なんだよーと思うけど、使えるものは親でも使えっていう考え方もあるしね。うーん。次回は探偵でなければぜーったい解決できないような難事件をコナンに解いて欲しいです。 だってね。ホテルの部屋でIDリストでてきた段階でつけちゃイカーンて、想像つくでしょ。でもね、コナン怪我しちゃってかわいそうでした。コナンははたして遊園地見たかったでしょうか。事件解決の方がたのしかったでしょうか。それにしても、レクイエムって程じゃないよね。タイトルだけで、逝ってるよ。来年に期待したい。それから、毎回シリーズ最高って宣伝モンクをつけ続けるのも止めて欲しい。毎回同じ宣伝コピーって芸がなさすぎ。もっといいコピーライター雇ってください。だめだ。書けば書くほどけちばかりになってしまう。やはり、期待が大きいからこそなおさらなんだろうか。年のせいもあるしね。ああ、もうここまで。っす。
2006年05月02日
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