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こんなに才能ある人だったんだなぁっと、つくづく。マイケル・ジャクソンの名前はもちろん知っていたし。そりゃまあ、あれだけ有名な人だからね。でも、たまにテレビで見るくらい。ムーンウォークももちろん知ってたけど、ステージを見たことはなかったわけで。なんとも、個性的なキャラクターで、そして、彼の創りだすダンスもまた、独特で、とても、魅力的で、いまさら私がいうまでもなく、才能に溢れているのがわかる。最近つくづく思うけれど、どんなに才能のある優秀な人でも、かならず、コンプレックスや劣等感を持ちながら生きているんだよなぁって、思う。彼は、これほどの才能をもちながらも、自分の中の劣等感にくいつぶされてしまったんだなって。普通、劣等感や、コンプレックスって無能だから、能力がないから、力がないから、だから、持ってるもので、自分以外の人はみんな、有能でって、そんな感覚でいるじゃない。でもねえ。どんなに優秀な人でも、心の何処かに、劣等感や、コンプレックスをもっているものなんだって、認識するようになったのです。あんなに素晴らしい映画をたくさん残したマリリン・モンローも、寂しくて寂しくて、その寂しさに勝てなくて、くいつぶされてしまったんだなあと。マイケルもあれほどの才能を持ちながら、自らのコンプレックスに食いつぶされてしまったのだろうか。それにしても、一糸乱れぬダンス。ダンサー全員が、ほぼ同じタイミングでびしびしびしっと、動いて踊っていく。すんごくすばらしいね。ある意味、マスゲームにもにてるけれど、中国なんかで見るマスゲームに感じる不快感とは、まったく逆に、美しくて素晴らしいなぁっと、思った。大勢が同じ動きを一斉にするところは同じなのに、なんでかなーっと、考えてみると、やっぱりそれは、ダンサーたちのひとりひとりが、自分の意志でやってることだからなんだろうね。あの振付の一つ一つも、みんなマイケルの創りだすもの。ほんとにすばらしい。こんなすごい才能のある人だったんだよねえ。もったいない。 マイケル・ジャクソン THIS IS IT価格:2,016円(税込、送料別)
2010年11月01日
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前作『ダヴィンチコード』ほどには、キリスト教や美術への知識がなくても楽しめる作品でした。イタリア、バチカンの教会や建物が次から次へとでてくるので、ある意味観光してるような気分。イタリアの建築物の美しさを堪能するだけでも、かなり楽しかった。イタリア、行きたくなってしまいました。 キリスト教の聖地に究極の科学の光が降り注ぐクライマックスはなんとも象徴的で、みごたえもあり、美しくもあり。 キリスト教視点で言えば、キリスト以外のものはみんな悪魔だから、キリスト教以外の宗教の神様たちはキリスト教世界では悪魔だし、神が地球や大地や自然や人類を創ったというキリスト教世界を否定してしまう近代科学もまた、キリスト教側にすれば、悪魔。キリスト教によって迫害され続けてきた、科学者の集まりである秘密結社のイルミナティが、バチカンに仕返しする物語。ともいえる。 ガリレオへの迫害に代表され、中世の暗黒時代とも言われるように、ヨーロッパの科学の発展を阻止し続けたのがキリスト教なのではないかと、思う。けれど、ヨーロッパ諸国による全世界への植民地化や、産業革命以降の西洋科学の世界中への伝播が、あるいは、環境破壊につながり、世界中への武器の普及となり、世界戦争、発展途上国での内戦勃発の誘発などを考えると、科学の発達は、良い意味だけでなく、マイナスの効果もあったのではないかとも思う。だとしたら、ヨーロッパが世界へと進出していくことを押しとどめ、科学の発達を阻止した、キリスト教の役割はあながち間違っていたとも思えないのではないか。 もし、キリスト教による科学への迫害や阻止がなく、ヨーロッパにおいてハイスピードで科学の発達が進んでいたら、いったい今頃世界中はどうなっていたのだろうかと、時々考える。ちょっと想像つかない。けどこわい。日本もまた、とっくに植民地化され、ボロボロにされていたのじゃないかとか思う。 キリスト教が他の宗教に比べて勧誘布教が強いのも、世界中への科学の普及の阻止のためだったとしたら。一般には、科学を光、キリスト教による迫害の時代を暗黒というけれど、見方を変えると、正義はキリスト教の方にあって、科学は悪魔の力をもっている闇の存在なのかもしれない。天使と悪魔はある日ふっと、その立場を逆転させてしまうのだ。 けれど、キリスト教による阻止にも限界はあり、歴史は進んだ。科学は近代に入って、急速に発展し、ヨーロッパ科学は、世界中に普及してしまった。 物語では、その科学の最先端、反物質が爆弾代わりにキリスト教の聖地バチカンを破壊するための道具として登場する。 そしてこのてのお話の常道として、真犯人は、物語の最初から登場しているはずとは思ったけれど、ぜんぜん想像つきませんでした。しかも、ラスト犯人は二転三転していくので、本当に最後までわからなかった。このあたりうまいよ。 そして、天使と悪魔というタイトルは、キリスト教にとどまらず、ヒューマンドラマとして、一人の人間の中にもまた、かくも深く、天使の部分と、悪魔の部分を内包するものなのかと、語っている。 ラストに判明する真犯人は、物語の初期から登場しており、そして、物語全般を通して、その人となりが語られ、生い立ちから彼の人生への捉え方も、正悪の価値観も、全てが語られる。見終わってみれば、なぜ彼の人生についてだけあれほどまでに克明に語られていたのか納得できるのだが、観ている間は、物語を追いかけるだけでせいいっぱいだった。クライマックスにおける彼のキリスト教的自己犠牲の行動と、人を殺すことへのためらいのなさという、そのずれ、矛盾も、悪人は業火に焼かれるというラストも、とてもよく出来た物語だった。 人は誰でも、天使の部分と悪魔の部分をその身のうちにもっている。 天使と悪魔@映画生活
2009年05月21日
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眠り姫は王子様のキスで目をさます。 なんとも、エロティックなお話です。 事故をきっかけにこん睡状態となって眠り続ける恋人を看護する二人の男。介護のお話かなと、思ったのです。一人は、せっせと話しかけるけれど、もう一人はどうしてもそんな気になれない。話しかけることは、大切なんだよというお話?と、思ってみ初めたのですが、どうも、そういうはなしでは。なかったような。 眠り姫や、白雪姫が王子様のキスで目覚めたように、女性は、男性からの性的なシゲキによって、女として目覚める。男性は、生まれた時から男だけれど、女性は、男性からあたえられる性的な行為によって、初めて女としての生を受ける。 物語のはじめに主人公マルクと、ベニグノが、バレエを見ている。二人の女性バレリーナは、病んだ女性の役。それぞれに踊る二人のうちの一人に、男性ダンサーが、舞台の上のたくさんの椅子を彼女の動きに合わせて、彼女にぶつからないように、どけていく。そのシーンをみながら、涙するマルク。すごく感受性の高い人なのかなと、思ったのだけれど。実は、彼は、この舞台を見ながら、以前ずっと、麻薬にはまってどうにもならなくなった恋人を救うために努力していた日々があったことを思い出していたから。舞台は、病気の恋人のためにつくす男性の姿を象徴的にあらわしています。 ベニグノは、病院で日々アリシアの看護をしているのだけれど、それは、恋人だからではなくて、看護師としての仕事だから。けれど、アリシアが昏睡状態になるまえから、ベニグノは、アリシアを知っていて、恋焦がれていた。彼女の看護人となったのは、偶然のラッキー。けれど、恋する人を毎日世話することのできる幸福。 その一方、同じように昏睡状態になった恋人リディアの看護にいまひとつぴんとこないマルク。彼は、冷たいのか。けれど、たぶん彼は、それほどリディアを好きだったわけではないのでは。その一方で、その事件をきっかけに、病院に通いつめる中で、同じ病院内のベニグノと知り合い、そして、アリシアに出会う。 けれど実は、リディアと出会う前にマルクは、麻薬にはまった恋人を麻薬から救いだすために、ベニグノと同じように献身的な日々を送っていたのだ。映画の中で、蛇に驚いて全裸で逃げ出すかつての恋人のシーンが出てくる。蛇は、男性をあらわしているし、逃げ出した時裸体だったということは、恋人は、マルクと関係する直前で、男性としての彼を拒絶したことを意味しているのだろう。彼の献身的な行動にもかかわらず、結局恋人は、他の男と結婚してしまう。 そして、リディアの事件。かれは、献身的につくしてさられた恋人とのことに傷ついていて、もういちど、また、恋人に尽くすことにとまどいがあったkかもしれません。だから、その後あらわれたリディアの元恋人にあっさりと、リディアを託して、自分は、旅立ってしまうのですから。 そしてそれでもなおひかれるアリシア、との出会い。彼は、眠ったままのアリシアにひかれていく。 そんなある日、ベニグノは、寝たままのアリシアにセックスしてしまう。隠しても、結局ばれてしまい、彼は、投獄されてしまう。そして、絶望のはてに、自殺してしまう。 ところが、妊娠と出産をきっかけにして、アリシアは覚醒してしまうのだ。 目覚めた彼女と、マルクは、バレエの劇場で出会う。 めざめた彼女は、初めて会うはずのマルクをずっと目で追い、見つめ続ける。それは、まるで、彼に惚れているというよりは、生まれたばかりのヒナが最初に見た動くものを親だと思い込むインプリンティング(すりこみ)の状況に、似ている。 こん睡状態のアリシアに日々世話をし、肌に触れ、話しかけ、セックスし、妊娠させ、出産させたのは、ベニグノだったのに。彼女の女としての生を目覚めさせ、誕生させた王子様は、ベニグノだったのだけれど、彼はもうこの世にいない。そして、彼女が眠り続けていた時、ベニグノとともに、彼女のそばで話したり、接したりしていたのは、マルクだった。(もちろん、一緒にリディアもこん睡状態でそこにいたんですけどね。)アリシアは、マルクの声や、彼の出す、人としてのエネルギーを感じていた。彼女の中でベニグノと、マルクの存在が混濁していたのかもしれない。覚醒した時、目の前にいない王子様のかわりに、マルクを自分の王子様だと、思ったのかもしれない。女としての彼女を誕生させた親としての、男としてのマルクの存在。 ベニグノは、自殺する前にマルクに会い、自分の部屋をマルクに譲っているのだ。その部屋は、日々、ベニグノが窓越しにアリシアのいるバレエスタジオを見つめ続け、アリシアを恋し続けた部屋。 ベニグノは、アリシアを自分の代わりに、マルクに託したのだと思う。 眠り姫が目覚めた時に王子様が入れ替わっているなんて。 かくも女性は女として、男によって、誕生させられる。そんな、エロティックなお話だったのだと、思います。そう、思えば、映画の中で、アリシアの美しい寝顔や、着替えのシーンの美しさや、何度も映し出される裸体のわけも分かろうというもの。 病人に話しかけることがいいことだとか、寝てる女を襲うなんて強 姦じゃないかとか、そういう道徳的な部分は、それなりに処理されているわけですけどね。 死体置き場の死体に行為をしたことで、本当は死んではいなかった女性が生き返ったという事件と、長く昏睡状態だった女性が目覚めたというニュースから、監督はこの話の着想を得たのだそうです。 こん睡状態の女性に性的行為をする。でも、それが、夫婦や恋人だったら、あたらしい衝撃はないわけですし。そして、寝ている女性を全く知らない状況での行為は明らかに欲望だけ。だとすると、昏睡状態になる前の彼女を知っていて、そして、彼女をものすごく恋い慕うけれど、恋人ではない男性でなければならないと思うのです。それが、ベニグノ。それでも、四年間ただ、ずっと彼女の世話だけに生きがいを感じていたはずのベニグノが行為におよんだきっかけとして、彼がみた映画のせい、と映画では描かれています。直接的な原因はそうかもしれないけれど、マルクの出現がベニグノに無意識な危機感を与えたのかもしれないと、思います。実際最終的には、アリシアは、マルクと結ばれそうな展開になったのですから。 そして、リディアは、女ではあるけれど、その身のうちには、男性性をもっていて、だから、マルクの夢の中で、リディアにキスされたマルクの方が、目覚めてしまう。蛇をこわがるリディアは、たぶん、心のどこかで男性を拒絶していて、だから、マルクは去ってしまうし、恋人の看護にもかかわらず、女として目覚めることは出来なくて、目覚めることなく、死んでしまったのかもしれません。 男性は性の快感を局所的に感じるものだそうですが、女性は、体全体で感じるもので、それが、こん睡状態から、覚醒へのきっかけとなるのかもしれないし、それは、女としての人生の目覚めを、暗に意味しているような、スクリーンの一枚向こう側にある監督の意図だと、わたしは、思ったのです。 トーク・トゥ・ハー@映画生活
2008年08月05日
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レンタルDVDを借りてみていると、いつも他の作品紹介に入っていたのがこれで、どんな話ー?っと思っていたのだが、やっと借りれました。 ストーリー自体は結構面白かった。最期はどうなるのだろうと、はらはらしながら、結構飽きずに最期まで見ることが出来た。いつもかならず真ん中あたりで飽きる私にはめずらしいのだ。 しかし、ストーリー進行のための細かい設定がいかんせんご都合主義であくまで、ストーリーのためのものでしかないのが、残念。 主人公ダグ(デンゼル・ワシントン)がであうのは、既に死体になったヒロインクレア(ポーラ・バットン)。その美しさに一目ぼれしたダグの自分の欲望中心の行動にしか見えない。 爆破されて死んだフェリーの乗客を救うためにダグは、時間を跳んで過去に戻り、何とか犯人を捕まえようとする。けれど、ダグが時間を戻って世界を変えれば、彼がいなくなった元の世界はどうなるのか?元の世界は消えてしまうのかもしれない。それを覚悟の上で、タイムマシン?を作った研究者はダグを過去にと転送させる。もちろん、人間を送るつもりで作られたものではないので、彼自身も過去にいけずにチリとなってしまうかもしれない。一か八かの賭けなのだが、そこはそれ。映画だからね。見事過去に飛ぶことに成功する。 なんとか、爆破事件を回避したけれど、結局ダグ自身もまた死んでしまう。しかし、この世界にはもともといる「この世界のダグ」がいるわけで。つじつまあわせとしはて、やはり、この世界の一番の異物であるのが、時間を跳んで未来から来たダグなのだ。 彼はクレアを助けることに成功する。フェリー爆破事件によって死んだはずの多くの人たちも、もちろん助かるけれど、そのために、元の世界は消えてしまったのかもしれないし、元の世界にいたすべての人も消えてしまったのかもしれないし、結局のところ、彼が一目ぼれしたクレアを助けるためのものにしか見えない。 ダグは死んでしまうけれど、この世界のダグはチャンといて、死なずにすんだクレアと初めて出会う。クレアと(たぶん)結ばれるだろうダグはダグでありながらダグでないわけで…。 そういうタイムパラドックスは、このさい無しという展開か。 いったいこの物語は、ハッピーエンドなのか、アンハッピーエンドなのか。思わずうならせられるラストでした。 デジャヴ@映画生活
2007年10月04日
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車も電車も飛行機もロボットも男の子はみんな大好き。その大好きを合体してドレにでも変身できるおもちゃなんてあったら、こんなすごいことはない。それを実際に作って売り出したのが日本のおもちゃめーかータカラなんだって。日本で「トランスフォーマー」として、おもちゃとなり、ロボットアニメとなって、そしてアメリカにまで渡り、アメリカでも大ヒットしたらしい。 それに目を付けたのが、名監督スピルバーグだったわけで。 どんな機械にも変身できる意志を持った金属生命体。トランスフォーマー。 宇宙のはるか遠い星に住むトランスフォーマーたちが、超パワーキューブを求めて、地球にやってきた。 どんな機械にも変身できる機械生命体というのは、今まさにコンピューターグラフィックという技術を最大限に生かしておもしろい映画を作るには、うってつけの設定だと思う。 ロボットをいろいろと変身させるための設定に、映画としての違和感をなくさせる、金属生命体という設定は面白いと思う。金属に命がある。というのはなかなか、新しい発想だ。 いままでのSFには、地球人を猿系人類として、宇宙に出かけていったとき、トカゲ系人類なんかとか、出てきた。どちらも、有機生命体である。 地球人を有機生命体、炭素生命体とするなら、金属生命体トランスフォーマーは、無機生命体であるわけで、かなり新しい分類わけをするSFだと捉えることもできる。 有機と無機という分類が面白い。そして、対立する二つの生命体がであった時、どんな感覚、感情をもつのだろう。 普段、私たちは、命あるものが、死んだり傷ついたりするのを見れば胸が痛む。日常や物語の中での、登場人物の死、ペットの死、自分とかかわりあう人たちの死。けれど、機械が壊れても、それほどには心痛むことはない。 物語や映画の中で、人物や動物が死ねばかわいそうと思っても、戦争映画やアクション映画で、車や機械、飛行機が壊れたり、破壊されても、心痛まないどころか、痛快感を感じる。 そこには、命がないからだろうか。 機械は無機の物体であって、命を持たない。 けれど、映画『トランスフォーマー』において、命と意志と心をもった無機生命体、金属生命体、機械であるトランスフォーマーの死や怪我、体の破損を見ていると、かわいそうという感情があらわれる。ロボットの姿をしたトランスフォーマーたちは機械であるけれど、その顔には明らかに表情があって、時に悲しげに、時に痛々しく、時にはうれしそうな、やんちゃな、そんな意志と感情をもった生命体の姿なのだ。主人公サムの愛車であったはずのバンブルビーが政府組織につかまったときの扱いにサムが心を痛めて抗議するシーンや、人類のために自分の命を犠牲にしてもいいという将軍オプティマスプライムなど。それゆえにこの作品では、激しい戦闘シーンが多いにもかかわらず、人が死ぬシーンの描写が極力削られてすらいるのである。 意志、心、命を持った時、機械、金属、無機の物質といえども、私たちは有機生命体である自分たちと同じだと感じるのだ。 どんな姿であろうと、そこに命があれば大切な、ものなのだろうか。 ものを大切にも、命を大切にも、同じ言葉なんだろうか。本来有機生命体だけが持っているはずの命とは、いったい何なのだろう。 さて、単純に娯楽痛快アクシヨン大作映画なんでした。面白かったのでした。でも、あまりにも展開が速すぎて途中わけわかんなくなったりしたのでした。でも、よかったよー。なかなか。 彼らは見ただけで相手の姿を写し取って変身できるのだ。はっきりいってうらやましいぞ。私にもそれが出来れば通りがかりの美人さんやテレビにでてくる女優さんに変身したいよ。そしたらもうダイエットの苦労なんてのもないしさあ。 ところで彼らは、女がいなかったし、人類のように雌雄による出産で、子孫や仲間をふやすという方法ではないのかな。彼らはどうやって命を作り出しているのだろう。子供みたいで精神年齢低そうだったし。 見方側の「オプティマス・プライム」かっこよかったけど。どうして人類を滅ぼしちゃいけないのか。ちと、説得力が足らないですね。 トランスフォーマー@映画生活
2007年08月06日
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鈴木光司原作『仄暗い水の底から』のアメリカ版。 仄暗い水なんてネーミングはすごいですね。あまりにも怖そうで観なかったんだけど、これが不思議なことにアメリカのものになると、それほどでもなくなって来て、「見たい」って気になるんだから不思議。 水とか、湿気っていうのは、特に日本のホラーでは、怖さを演出するのに重要なアイテム。というか、日本の怖い話ってのはどこか湿気を帯びたじとじとじめじめした独特の日本らしさが怖さを演出してる部分て多い。 で、それがもろメインの黒い水なんてのがタイトルなんだから、いくらなんでも怖いはず。な、はずなのに、どうしてアメリカで作ると、あんなに水がびちゃびちゃ出てくるのに、やっぱりどこか、ドライな気がするんだろう。 日本の怖いはアメリカにいくと、カラッと乾いて怖くなくなっちゃう。で、結局こんなに水を使ってびちゃびちゃにしたのに、やっばり日本のもののような湿度は感じなくなって。 で、おかげで見る気になったのは、いいんですけど、さいわい怖くなかったのです。全然。 シナリオとストーリー自体はなかなか面白かったので、よかったんですけどね。 こんなの観ちゃったら、夜困るなーなんて心配はなくなった。 だって、幽霊がすごくはっきり出てくるし、最初の段階で、すでにネタの想像がつくんだもの。そして、ラストは予想通りの展開。 でも、ヒロインが死んじゃうとは思いませんでした。 母親との親子関係がよくなかった主人公のダリア。幽霊のナターシャもまた、両親に愛されなかった子供。そういう共通点が二人をリンクさせてしまったんでしょうね。 母親との関係がよくないと娘を愛せないんじゃないのかなと思うのですけど、ダリアは娘のセシーをとても愛してかわいがっています。 この母娘の愛情がこの物語のメインなのですね。 母子関係の悪さのせいで結局ダリアは、夫との関係をうまく構築できなかったのでしょう。 母親との関係と言うのは、人間関係を人生のうちでうまく作り上げることが出来るかどうかのとても、大切な部分だと思うのです。それがうまくいってないと人間関係がつくれないまま育ってしまう。 いまどきはパートに出てて、忙しいお母さんが多いですからね。どうしても、母子の関係が育てられない。ゆっくりのんびりした時間を共有して、一緒に遊んだり、おしゃべりしたりって大事なんだと思うんだけどね。アメリカの母もまた、いそがしいようですね。ダリアの母も子供の彼女をなかなかむかえにきてくれなかったり、すごく怖い顔で彼女を嫌っていたり。ダリアは、結局その部分を自分で克服しきれなかったのでしょう。その関係にたいしては、それ以上の描写はないので、なぜなのかはわからないのだけれど、アメリカでは日常茶飯事でいまさらなので、そのくらいの描写で十分なのかも。 それでも、ダリアはセシーをとても愛していて、大事にしています。映画『フライト・プラン』でも、母の愛情が異常な状況下という設定によって強調された描写になっていて、娘をもつ母には共感度の高い物語でした。そして、この映画もまた、母と娘の愛情が物語の主軸になっていて、『フライトプラン』を思い起こしました。ただ、『フライトプラン』と違って、幽霊が出てくる以外には、ごく普通の日常が舞台なのです。 離婚したダリアは一人でいろいろなことをこなしていかなければならず、世間て厳しいな、夫がいればこんなに甘くは見られないのになと思うシーンもしばしば。水道の修理を頼んでも、たらいまわしにされたり、後回しにされたり、弁護士にも適当にあしらわれたり。夫がいれば、こんな大変なことはなさそうなんだけど、でも、その夫と別れるために苦労してるわけですから。 やっぱ別れない方がいいよな。 実際ダリアも元夫に対して折れて、もっと近所に住んで助け合おうと言い出すところまではいくのです。 でも、彼女を追い詰めるために二人の若者を雇って彼女に嫌がらせをした夫の行為に対しての怒りはどうなっちゃったんでしょう。 それから、学校で水浸しになったトイレにいたセシーがその後どうなったのかも不明。どうなったんだろう。 セシーとナターシャが似ていて見分けにくかったのも、ポイント。 セシーを助けるために自分の命を引き換えにしてダリアは死んじゃう。いかにも日本の母らしい。原作は日本ですからね。アメリカ人はこのあたりのところ、理解できたかな。子供のために自己犠牲をするのは世界中の母共通なんでしょうか。 最後は父親に引き取られてセシーはアパートを出て行くのだけれど、エレベーターの中で幽霊になったダリアに髪を三つ編みにしてもらうシーン。娘を持つ母には共感度バッチしです。このあたり、母親の愛情と娘の心のつながりを表現するのに秀逸な表現でした。 男の子の髪は触らないけど、娘の髪はしょっちゅう触りたくなって娘におこられてます。娘の長い髪を結うのってお母さんの仕事だもんね。うちの子は嫌がるけどね。 そして、セシーがこのアパートを出て行くところで物語は終わるんだけど、考えてみると、もしかしてセシーはこの後、思春期とかに悩んだり、さびしくなった時、このアパートに戻ってきそうな気がします。ダリアに会うために。でも、ダリアはナターシャに請われてナターシャの母代わりとして、幽霊になっているわけだから、セシーがダリアに会いにくることはいやなはず。そうなると、セシーとナターシャでダリアの取り合いになって、『エクソシスト』バリのすごい戦いが展開しそう。 こういう設定で、『ダーク・ウォーター2』とか、作れるじゃん。などと考えてしまいました。 うーん。メインは母と娘の愛の物語なんだけどな。 映画の感想外国映画、洋画ダーク・ウォーター@映画生活
2007年01月05日
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「硫黄島ってどこにあるの?」と、娘に聞かれまして、「えっとぉ、沖縄の先のほうかな。」と、答えたら、横にいた息子に「馬鹿じゃないの。なに言ってんの。硫黄島でしょ。ほんとに知らないの。小笠原諸島だよ。」と馬鹿にされました。「小笠原諸島って…。」「東京の真下でしょお。そことられたら、東京はめちゃくちゃあぶないんだよ。」と、教えられてしまいました。 そうかぁ。そうだったのかあ、私はてっきり沖縄の方にあるのかとばっかり思ってました。へんだなあ。そうだ。西表島と勘違いしてたのかも。おんなじ「い」ではじまるもんね。 というわけで、知識も補充して見に行ったのでした。 最近戦争映画ばっかりみてる気がする。だって、やってるんだもの。話題作だしい。 面白かったですよ。でも、面白いなんていう感想は不謹慎です。とても、ハードな戦闘シーンががんがんでてくる映画だからです。いままでいろいろ見た映画の中で、特にすごかったような気がします。硫黄島に上陸するアメリカ兵は、待ち構えていた日本側の砲撃、銃撃に、片っ端から、撃たれて死んでいきました。手だけ、足だけ、頭だけの死体、そして、ラストの方では、自決した日本兵の死体。手榴弾を飲み込んで、内臓がとびでているシーンなどとにかくすごかった。 さすがに年がいってるので、こんなハードなシーンみても、わりかし平気になりましたが、若い頃だったら見られなかったかもしれないなあ。 ところで、この映画は、戦場でのシーンも過酷ですが、実は強制的に本国に戻されて、国債販売キャンベーンをさせられた、星条旗のヒーローたちの心の葛藤の物語なのです。 硫黄島のすり鉢山の頂上に今まさに星条旗を立てようとする六人の兵士の写真。 とても有名な写真なのだそうです。当時のアメリカのほとんどの新聞に乗せられて話題となり、その話題性ゆえにアメリカの上層部がその兵士たちを呼び戻して、宣伝に使い、戦争のための経費を作るため、国民に国債を買ってもらうためのキャンペーンツアーをさせたのです。 彼らにすれば、ただ、旗を立てるのを手伝っただけです。にもかかわらず、「英雄」と騒がれて、国とマスコミに利用され、アメリカ中を回るツアーを続ける中で、彼らの心がきづついていく。本当の英雄とは、戦場で命がけで戦い、仲間を救い、戦争を勝利に導いた人間であるはずなのに、と。 すごいですね、アメリカって。こないだ見た『キングコング』も、すごかったけど、とにかくどんなものでも、人を集められるネタであれば、どれもこれも、金儲けの道具にしちゃう。本当に根っから、資本主義がしみこんだ国なんだなあと。こんな国だからこそ、資本主義が生まれて、根付いたのでしょうか。すべての価値は宗教でも、倫理で見なく、お金で決まる。そんな感じ。 彼らのツアーは、まるで、日本の新人アイドルや演歌歌手の地方巡業にそっくりです。ただ、歌手の場合、自分が売れたくてやっていることだから、まだいいんだけど、彼らの場合、国と軍からの強制でやってるので特につらそうなんですね。 一人は耐えられなくなって、軍にもどりましたが、インディアンであったため、その後の人生も悲惨なものでした。 このツアーの三人の兵士の人生はその後、一人は、白人だったけれど、ろくな仕事に就けず、一生掃除人でおわり、一人はインディアンゆえに悲惨な末路となり、ひとりはごく普通のアメリカ人として、結婚し、家族を持ち、それなりの一生を送りました。 アメリカって結構、階級社会なんだ。 自由、平等の国ってキャチフレーズとはうらはらに、とても、差別のはげしい国です。 一人は、『英雄』と、奉られる一方でインディアンとさげすまれ、差別され、悲惨な人生を送る。 あるいは、白人ではあっても、資格不足を理由にろくな仕事につけない。 アメリカっていう国は、高校をでたら、大学に行くか、軍隊にいくかなのですね。そして、大学に行けば、戦争にいかなくてもすむらしい。まさに階級格差社会。 日本はいま、こうならないように必死なようですが。 ところで、もう一点勉強になったのは、太平洋戦争当時、アメリカも経済的に厳しかったんですね。ということ。 日本が終戦間近に国中とても貧しくてお金なかったのはよく見聞きするんだけど、アメリカは余裕で戦争やってると思ってたんだけど、そうでもなかったみたい。必死に国民に国債を売って、戦争の予算をつくろうとしていました。彼らがやらされたのは、まさにそれです。それゆえに、仲間が今戦場で戦っているのに、自分たちはこんなところでなにやってるんだという自責もまた、あったようです。悲惨な戦場で命がけで戦わなくてすんでラッキーなんて発想はなかったみたい。 ところで、アメリカの場合、ベトナム戦争の後の兵士とか、いろいろと戦争自体よりも、祖国に帰ってきてからの兵士たちの心の傷を語る話は結構多いけど、太平洋戦争後に心に傷を負う元日本兵の話ってきかないなあ。なんでなんだろう。 せいぜい『男たちの大和』で、帰還兵が死んだ同胞の遺品をその母に届けた時、「何であんただけ生き残ったんだ」と責められてきずつく話くらいでしょうか。でも、これは他人から責められて生まれている痛みだけれど、アメリカの帰還兵の心の傷は自責の念から生まれているのですよね。 なにかすごく対象的ですね。 日本は本国自体も戦争でぼろぼろで、そこからの出直しに大変で、しかも、本国にいた一般の人たちとか、つまり全員、戦争の被害にあっている状況、しかも、被害者的な雰囲気だからなのでしようか。 一方アメリカはとても、悲惨な戦場とはうらはらに、どんな過酷な戦争にアメリカが参加していても、本国自体は、結構平和に豊かに暮らしているのですね。しかも、日本のように全員徴兵というわけでもない。だから、祖国に帰って我が家に帰ると、戦争の真実を全く知らない家族と暮らすことになる。そこで自分が経験した戦場のことをあえて語る気にはなれないし、語ったとしても、本当には伝わらない。幸せに暮らす家族のなかで、自分の中にある痛みは一生閉じ込められたまま、癒されることはない。 硫黄島でのことをいっさい家族に語ることのなかった父の心の内側を知りたいと思った息子がたどった硫黄島の真実。その本が映画化されたのが、この作品なのでした。 一見幸せそうに見えるアメリカの中にある闇の部分。兵士になるのは、社会の底辺にいる若者たち。 じゃあ、戦争に行かない社会の上層部いる人間たちは何を考え、何をし、何を望んでいるのか。 高校までは義務教育なので、受験もなく、大学受験も日本のように過激でもなく、一見自分自身で人生を選び取っていけるようにみえるアメリカですが、実はお金持ち用の私立の非常にレベルの高い高校もあるのです。そして、そこからは、必死に勉強した(それこそ日本の受験生以上に)生徒たちが上位の大学に入学していき、アメリカ社会の上層部に入り込んでいく。アメリカという国は実は彼らのためにありそうな気もします。 同一民族でもなく、アメリカ人である資格はアメリカという国の土地で生まれたからというだけのそんな国の中で、アメリカ人であることのアイデンティテイと、アメリカという国を維持し、定義づけるものはなんなのか。 アメリカってなんなんだと、考えさせられる、映画でした。 こちらもぜひ→映画『硫黄島からの手紙』の感想それからこれも→映画『硫黄島の砂』の感想 外国映画、洋画 戦争映画硫黄島二部作 父親たちの星条旗@映画生活
2006年12月01日
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舞台は古代から中世のあたりのイギリス。まだ、国として統一される以前。ブリテン島の民族とアイルランドの民族は反目しあっていた。ローマ帝国崩壊により、ローマの圧制からは開放されたものの、アイルランドからの勢力に屈服させられている日々。敵対するアイルランドを倒さなければ、ブリテン島コーンウォールに平和は来ない。そんな対立する二つの勢力に属する二人の男女の恋物語。 映画『キングアーサー』の少し後の時代の物語かもしれません。実は私この時代のお話大好きなのです。 久々のヒット。スゴーく良かった。以下、ネタバレ。そして、公式ページ ハーレクインヒストリカルを読んでるような感じでしょうか。なにしろ、ストーリーをまったく知らないので、二人は結ばれるのか、どうなるのか、はらはらし通しだったのでした。 『トリスタンとイゾルデ』は古くからイギリスに伝わる伝承の物語で、そののち、ワーグナーによって歌曲にされ、多くの人に親しまれている物語のようです。また、シェイクスピアの有名な戯曲『ロミオとジュリエット』の元ネタでもあるそうです。 もともとの伝承では、イゾルデの母親によって作られた媚薬を、間違えてトリスタンとイゾルデが飲んでしまったために、二人は恋仲になる。しかし、イゾルデはコーンウォールの領主マーク王の妃。というわけで、不倫のお話なんですね。このお薬を飲むところとか、二人の家柄が対立するものであるところが『ロミオとジュリエット』のモチーフになったのでしょう。 しかし、今回映画では、ストーリーが練り直されていて、媚薬は出てきません。毒を受けて、仮死状態になり、船に乗せられて流されたトリスタンが流れついたのが、イゾルデの住む城の近くの海岸。そこで二人が出会い、瀕死のトリスタンを看病するうちに二人は恋仲になっていく。わりに今見ていても不自然でない恋の展開です。そして、イギリス側の騎士であるトリスタンとアイルランドの王女であるイゾルデがお互いのことをまったく知らずに惹かれあっていくところがなんとも絶妙の設定です。みているこっちははらはらするもの。 そののち、すっかり回復して、イギリスに戻ったトリスタンがイゾルデの城を訪れ、イゾルデをコーンウォール王の妃として迎えるための試合に出る。二人はお互いが誰か知らない。イゾルデはトリスタンが勝てば自分の夫になると信じてはらはらしながら見ています。 しかし、運命は過酷ですね。トリスタンの勝利によってイゾルデがイギリスコーンウォールの王マークの妃になる事が決まってしまいます。 王妃となったイゾルデを忘れられずにいるトリスタンのぼーっとした愁いに沈む風情がいいんだよ。 そして、イゾルデの結婚のシーンがものすごく幻想的で素敵なのです。背中になにかの樹木(何でしょう。しらべるべき?)を飾って船に乗ったイゾルデが夫の待つ式場までいく。このシーンが素敵だった。 イゾルデが結婚した後も結局二人は、忘れられず、ふたたび、関係を持ってしまう。こりゃ絶対ばれるぞばれるぞと思っていたら、やっぱりばれちゃって。でも、この王様がイゾルデにぞっこんなんですよね。よっぽどいい女なんでしょうね。もちろん美人だけどね。だから一層二人の事を知った後は怒り心頭なんでしょうね。 でも、実は結婚する前から、二人は出会っていて、その時すでにひかれあっていたのだという話をイゾルデから聞いた王様は二人の事を許してくれます。そして、船に乗って逃げるように手配してくれます。いい男じゃないかー。イゾルデがトリスタンと出会っていなければ、そのまますんなり王様に惚れたんじゃないでしょうか。ほんと運命って皮肉。 ところで突っ込みたいのは、瀕死のトリスタンを助けるため、いきなり、イゾルデが裸になってトリスタンを抱きしめるシーン。いくら、相手は死にそうといっても見ず知らずの男相手に、うら若い乙女がこんな事って出来るものなのかなあ。私なんかだと、きっとどうしようどうしようとうろうろしてるうちに相手が死んじゃったなんてことになりそうです。 これってやっぱり運命? そののち、アイルランドが攻めてきて、トリスタンは死んじゃうんだよ。つまり最後はやっぱり悲恋なんですね。せっかく許してもらったのに。ああ、もったいない。 もう、最後まではらはらしまくりの作品でした。 伝承と変えてあったので、絶妙の設定をフルに生かしたラブストーリーとなっていました。現代社会じゃこんな悲恋もうないものね。 基本として、ランスロットとギネギィアの恋物語がどうしても浮かんできちゃいますけどね。似てるから。 この時代こんな事よくあったのかなあとか、思っちゃう。そういえば、源氏物語も父親の帝の妃と関係しちゃう物語だものね。こういうシチュエーションて、やっぱし一番面白いんでしょうね。禁じられた恋ほど盛り上がるものらしいし。 ところで、この映画見ててやっぱり、イギリスとアイルランドっていうのはねやっぱり別物なんだなあと、思いました。この頃からこんなに反目していて、今もイギリスとアイルランドってもめてるでしょう。ブリテンの中のほかのケルトとか、アングロとかいろいろいた民族はまとまってイギリスになったのに、アイルランドはどうしても、混ざらなかったという事はやはりまったく別の民族なんでしょうね。だとすると、やはり、アイルランドは無理に併合しないで、独立国家として、政治は分けたうえで連合国家にしといたほうが平和なんじゃないかと思うんだけど、ところで、今現在のブリテンはどうなってたっけかしら。 でも、映画の中では、アイルランドの方が強いんですよね。そのあと、イギリス本土の方は民族が連合して戦っていった事で、アイルランドより勢力を強める事が出来たのでしょうか。結束って大事ですねえ。 恋愛映画 トリスタンとイゾルデ@映画生活
2006年10月27日
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映画館で買ったパンフレットを読破して、やっと映画の内容がわかりました。 こういう売りせんじゃない本気で作ってる映画っていうのは、というか、映画の多くは、見終わった後、いろんな解説とか、パンフレットとか読まないと結局どういう映画だったのかわからない。ということが多いなとつねづね思うんですけどね。本や漫画の場合ほとんどその作品内で説明されているので、そんなことはそうはないんですけどね。もっとも古典文学みたいにやっぱり解説が必要なもの、大学の先生が必死に研究してるものもあるけれど。でも、ふつーの漫画や小説はその作品読めばわかる。しかるに、映画ってのは、文章じゃないことと、時間制限があることなんかもあって、映画見終わった後にどういう話だったんだろう?とか、あの場面はどういう意味だったんだ?なんてのが、ごくふつーの映画でも結構ありませんか。 ましてこういうハイレベルの映画になるとなおさら。その上この映画はとにかく昭和天皇ヒロヒトがもそもそと小声でしゃべってるんで、何言ってるのかほんとーにわかんなくて。昨日パンフレットを熟読して、ようやくわかってきたというか。だって、パンフレットの中にシナリオのダイジェストが載ってまして。それを読んで初めてあーこんなことしゃべってたんじゃなーい。という感じです。しかも、このパンフ、1000円もするんですよ。レディースデーの入館料と同じジャン。 つまりこの映画を本気で鑑賞するには倍ないしは倍以上の金額がかかるということです。 それから、パンフの中の田原総一郎さんの文章?コメント?を読んでやっとわかってくる感じかなあ。やっぱ田原さんて頭いいわあ。 とにかくわかりにくいのよ。 映画ってさあ、もう少し見る人に親切に作ってもいいんじゃない。一応商売なんだしねえ。 ということで、結局、ヒロヒトは、自分を神だと思っていたのかいないのか。 そのあたりはっきりしないけど、それでも、神の末裔としてその存在意義を評価されている自分が、神じゃないと言ったら、自分の存在はどうなるのか。神として評価されている人間が、普通の人間になった時、どうなっていくのか。神の末裔としての自分。そうでない自分。自分の存在の意味を問うていく過程が第二次大戦下の日本という舞台設定と、神として扱われる人間という道具立てを使って、じゃあ人間の存在意義は何によって認められうるものなのかを問うている話なんだなあと、思いましたけどね。そういえば、神が人間になる話として、最近作られたもう一つの映画といえば、話題の『ダヴィンチコード』が、そうだよねえ。西洋世界の天孫ともいえるキリスト。キリストが結婚してて、子供もいて、ごく普通に人間ジャンという話。こっちはあくまで、事実をもとにして作ったフィクションですけどね。 で、実際に神様だって崇め奉られていた人間がいたねって話がこの映画ですし、でもってそんなわけないだろってことで、じゃ、神様でもその末裔でもなくて、ふつーにふつーの人間ですよっていうことになる過程を描いた話ですね。そして、その渦中にいる本人その人の内面の変化を追っかけて見ましたって話なので、だから、映画としては、実際の終戦や、戦場や、歴史的事実はあんまり表には書かれてなくて、セリフでちらっとでてくる部分だけで見てる側は判断しなきゃなりませんけどね。だから、知らないうちに終戦になってたり、いきなりマッカーサーが出てきたりして、見てる側は何で?と思う。 神様の末裔にかかわらず、マー自分って何なのっていう問いは人間なら誰でも持つわけだし、自分が今ここにいても生きてる意味ってあるのかなあという疑問と不安に戸惑う人間もまた、天皇陛下だけにかかわらず、ごくふつーにそこらにいる。そういうことで。 で、映画の結末としては、愛する家族がいるってことでヒロヒトさまはそのあたりに救いを見出してハッピーエンドに終わります。実際戦後の天皇家もそれまでの他人任せの子育てから、天皇や皇族であっても、親として自分でちゃんと子育てしよう、家族で仲良く暮らしていこうというスタンスに変っていくわけですから。 多くの人に崇め奉られるより、自分を愛してくれる人が誰でもいいから、一人いればそれで十分ですねってそう思って見終わればよろしいんじゃないかと、そういうことで。 というわけで、そこまで読み切れれば、もろチンいい映画なんですけど、一回たらっと見てもなかなかふつーはわかんないです。 でもやっぱりいい映画なんでしょう。ここまでわかれば。 『太陽』★その1『太陽』★その2
2006年09月10日
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いったい昭和天皇は自分が神だと思っていたのだろうか。『太陽』公式ページ 結局この映画の一番重要なポイントはここにあるのかもしれない。映画を見ながら一番不可解だったのはつまりこの部分なのだ。 というのは、私は日本史を学びつつ、昭和天皇が戦時中自分のことを本気で神だと思っていただろうなんて、夢にも思っていなかったからだ。あれはあくまで日本軍上層部がいいだした、キャッチコピーであり、日本人自身もはたしてどこまで信じていたのだろう。 今の日本人の中で昭和天皇が戦時中に自分を神の末裔だと信じていただろうと思っている人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。他人に聞いたことがないので、わからないけどね。 で、映画を見始めると、昭和天皇は自分が神の末裔かどうかしきりに悩んでいるのである。ここでまず、日本人としてうーんと、眉をよせた原因はこのあたりにあったのだ、と、つくづく考えてしまった。 ヒットラーとか、最近作られる映画のなかで、戦争責任のある当時の権力者を、ただの人間だったのだと、その弱い部分を描き出していて、それと同じように昭和天皇もまた、ただの普通の人間だったのだと、そう描き出そうというテーマ自体は結構だと思うし、その上で、自身の力では時代の動きをどうすることもできない権力者でありながら、国のトップでありながら、無力な人間であることに、ある意味喜劇を演じている喜劇役者にたとえるのもまた、ひとつのかたりかけではあるかもしれない。 しかし、昭和天皇はもちろん、権力者なんかじゃなかった。 この映画の中で天皇の意識は常に自分の内側にむかっていて、自分ははたして神なのか、神の末裔なのか、というところしか意識がいっていない。 私がこの映画に一番違和感を感じたのは実にこの部分なのであろう。 つまりは、西洋(ロシアが西洋に入るかどうかは疑問ですが)の価値観からすれば意識は自分にしか向かないし、自分の存在の意義、我の主張を中心として描かれているし、映画の結末でも、自分が神ではないことを己の内側への問いかけによって見出し、納得し、人間として生きることに目覚めていく昭和天皇を描き出している。 そういう西洋にとって、没我という価値観はおよそ想像のつかないものなのだろうか。 戦時中に昭和天皇がまったく権力のないまま、日本のトップという社会的位置とは裏腹に、戦争に突入していく日本、戦争によって命を奪われていく国民に対して、抱き続けていたであろう心の痛み、自分がそれを止めることもどうすることもできない痛み、天皇の意識は戦時中、己自身の意義ではなく、常に国民に対して向けられていただろうと思っていただけに、この映画における自分の内側に意識がむかっていく昭和天皇に、違和感があり、納得いかないものがあったのだと、思う。 それというのは、戦後、天皇が、自身の少ない私財をもってマッカーサーを訪れたというエピソードから想像しているに過ぎないのだけれど。マッカーサーはその時、昭和天皇が自分の命乞いにきたのだと思ったのだそうだ。けれど、天皇はマッカーサーに、「これら、自分財産をすべてわたすから、どうか国民を救ってほしい」と頼みにきたのだそうだ。 だから、昭和天皇は戦時中、己のことよりも、終始、国民のこと、戦争をしている日本のこと、をずっと思い続けていただろうと私は思うのだ。 天皇が天皇でありながら、政治的実権を持たないという事実は、何も第二次大戦下に始まったわけではない。はるか昔、多分蘇我氏が政治の実権を握りだしたあたりから、始まっているように思う。けれど、そののち、大化の改新によって政治の実権を取り返した、天智、天武天皇という実例はあるけれど、それ以降、藤原氏、平氏、室町、鎌倉、徳川と、実際の政治の実権は時の実力者にうばわれ、権力をとりもどそうとした天皇たちがほとんど、失敗に終わって悲惨な結果を残している。 天皇家は連綿と日本の王家として存在し続けてはいるけれど、その政治の実権から離れてすでに長い時を過ごしてきている。日本の天皇家とは、そういうものだ。そして、世界でも、類をみないほど、長くつづいている理由もまた、そのあたりにある。実権がなくなればとたんに崩壊していったのが、普通の世界各地の王室だったからだ。 天皇家はその実権を時の権力者に渡し、自身はただ、日本の王族としてのみ、存在し続けた。 だから、第二次大戦下の昭和天皇もまた、権力も決定権も発言権ももたないまま、い続けたに過ぎない。 そういう、他人を、国民を、思いつつ生きた、没我の精神というものを描いていないということに対して、私はこの映画に対して、違和感と不快感を感じたのであり、世間一般、世界の映画界がこの映画に与えた賛辞に対しても、共感しえないという感想にいたったのだろうと思う。 この映画に描かれているのは、昭和天皇の真実ではなく、監督が思い描いた昭和天皇像にすぎないということだからだ。所詮映画なのだから、それはそれで、結構なんですけどね。ただね。外国では、これを昭和天皇の真実としてみちゃうだろうなと思うわけですね。 現代社会の価値観から言えば王室の存在自体、意味のないものと認識されながら、それでも、その存亡にはらはらするのはなぜだろう。 たった一つの命の誕生に世界中が騒ぐのもまたなぜだろう。 そこに意味はあるのか。そこに意味があるのかもしれない。 存在しないと知りつつ、畏怖の念をいだく、神というものに対して。 自分たちと同じ人間にすぎないと知りつつ、敬意と愛情を感じ、その存在の継続を願う自国の王家に対して。 その不可解といえる感覚はなんだろうと考えてみたことはありますか。 ところでまだ続きます。続きは明日ね。 『太陽』★その1『太陽』★その3 太陽@映画生活
2006年09月09日
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イッセー尾形は日本のチャップリンなのか。映画『太陽』公式ページ 映画ランキングの一位だというのでどんな映画かと思ったら、昭和天皇の終戦前後を描いたものらしい。へー。面白いネタだなーと思ったので、はるばる銀座まで見に行きました。混んでました。ものすごく。席は前と後ろしかありませんよとキップ買う時注意がついてたくらい。しかも、見終わって外に出たら、入口前の階段は整理券もらって並んでる人でいっぱいでした。 マニア向けのマイナーな作品なので、都内でも、数えるほどしか上映してないのです。それなのに、ランキング一位になったりするものだから、その数少ない劇場が超満員でした。収容人数も少ないアングラなので。 私も映画通なわけではないので、ちっとわかりずらかった。この手のものは画面がしずかで、動きが少なく、ほとんどの役者がもそもそとセリフをしゃべる。通の間では、評価高くなりますが、ふつーの人間にはあんまりよくわからない。最近売らんかな系の底の浅い映画にうんざりぎみだったのですけれど、マニア系のものもそれはそれでつらいな。 いやあ。昭和天皇ヒロヒト役がイッセー尾形なんですよね。かなり、似てるし、雰囲気や立ち居振る舞いもそれなりに研究して演技してるのでしょうが、それでもやっぱりイッセーさんの個性が余りにも強いので、やはり、昭和天皇というより、イッセー尾形に見えてしまう。 天皇役がコメディアンというのは、日本人としては、ちょっと不愉快だなあとこう感じたわけですよ。 監督はロシア人。映画はきちんと日本語で作られているし、ちゃんと日本人に見えるのですが、それでも、やっぱ私たちがイメージする昭和天皇とは、ちがう。 この映画では、ヒットラーのことををチャップリンが映画『独裁者』の中で揶揄しているように、日本という国のトップにたつ昭和天皇という存在を「喜劇役者だ」と、揶揄した表現を狙った部分もあるので、コメディアンであるイッセー尾形を起用したのでは、ありましょうが。 日本人として、ちょっと不愉快だったのであります。 近年アドルフ・ヒットラーを一人の人間として描き出した映画がつくられ、公開されていますが、日本人として、外国が昭和天皇を描いた映画に対して、違うんじゃないかという違和感と、コメディアンとしてえがかれる不快感を感じるとしたら、ドイツの人々は、ヒットラーを描いた映画にたいして、どんな感情を持ったのだろうと、考えてしまった。 ただ、ヒットラーと、天皇はあきらかに、ポジションも、戦争に対しての責任も、関わり方も、国民からの意識も違うので、同じようには考えられないだろうけれど。 戦後、ドイツ国内では、ヒットラーはタブーであったというし、ドイツ人自身、嫌悪を感じている人間だけど、天皇は戦前も戦後もやはり、国民の崇拝の対象であり続けたわけだし。もちろん、現代人で、戦後の人間である私なんかは、天皇陛下様なんていうほど、崇拝も、尊敬もしてるわけではなくて、あくまでふーんという程度ではありますが、それでも、嫌悪感をいだく対象ではありえないわけだから。 わたしは、この映画に天皇が戦後マッカーサーを訪れて、自分の私財を全て渡すから、国民を助けてくださいと頼みに行ったエピソードが描かれているのだろうかと、その部分を期待して見に行ったのですが、ぜんぜんそんなシーンはなくて、後半、ヒロヒトとマッカーサーが何度か会って話し合いをしていくのです。 で、この映画では、ヒットラーを描いた映画と同じように、『現人神』といわれていた、天皇もまた、ただの弱い普通の人間であり、戦争を止める力も、起こす力も、なんにもない無力で存在感もないただの人間として、描き出そうとしているものではありますがね。 終戦直後の話であり、映画の作風として、直接東京の空襲シーンをいれるわけにいかないので、あるいはいれたくなかったのかもしれないとして、天皇の夢として、戦闘機を巨大な羽をもった空飛ぶ魚として、表現してあります。 天皇のしゃべっているセリフは聞き取りづらいし、終戦前から始まったはずのストーリーがいつのまに戦争が終わったのかもわからないうちにいきなりマッカーサーとの会見になったりして、あ、もうふつーの人間にはわかりにくい事この上ないのではありますけどね。 だから、ランキング一位になった作品だからといって面白いに違いないなんて期待して、ふつーの人間が見にいったりしないほうがいい映画ですねぇ。 それでもロシア人が作ったというのは絶妙な感じ。 ただね。この作品に描かれた昭和天皇を、全世界が、天皇の本当と思ってみてしまう可能性大だなと思うとちいっと心配。どーしたものかな。 まっそれなりに見に行っただけのことはあったかもしれないという映画ではあります。 ところで今回見に行った、この劇場。銀座シネパトス。 この立地がね。すごいんですよね。なんと天下の銀座の真ん中を東西に走る晴海通りの真下にあるんですよね。しかもそのさらに下には、日比谷線「東銀座駅」がある。劇場は六車線の大通りと地下鉄にはさまれた真ん中にある。サンドイッチの具のようだ。映画を見ながら、時折、なにやらすごい音がなんとなーく聞こえる。映画の邪魔になるほどじゃないけど、あ、電車通ってるのかなと、映画を見ながら想像したりする。 それで、晴海どおりの両側から通りを渡る地下道のようになっていて、しかもその両側にシネパトスのチケット売り場と劇場入り口と、ちょっとしたお店がある。居酒屋とか、定食やとか、そのたたずまいがまるで、昭和中期そのまんま残ってるのですね。店舗はすごく狭くて、六畳一間くらいのスペースかな。とにかくちょっと面白いところだ。 ところでその中にイマドキ珍しい牛かつ屋さんがあった。なんと松坂牛使用なんだって。一枚7百円。定食セットでプラス350円。うーん。食べてみたかったんですけどね。でも暑かったので、ちょっとひきました。そのうち食べたいなあ。お店の名前は忘れてしまいました。いやでも、おいしくなかったら、どうしよう。 最近はシネコンの流行で銀座のような映画館は生き残りをかけて、いろいろやってるみたいですね。こんな、シネコンではまずかからないような名作物を上映するのも一つの手ですね。すごく混んでましたし。いろんな割引とかも考えてるみたい。 劇場によっては、シネコンにくらべようもないくらい、豪華な劇場もあって、たまにいくと楽しいです。昔は映画といえば、銀座で見てたものなんですけどね。 とにかくそれでも、まあまあの映画だったと思います。 『太陽』★その2『太陽』★その3
2006年09月02日
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最初のシーンでいきなり、館長が壁にかかった名画をはずしにかかります。防犯装置を作動させるためなんだけど、ルーブル程の美術館の館長を引き受ける人がこんなことするかあ だってすごい名画なんだよ。世界資産レベルのものすごく高くてものすごく価値のある名画をはずしちゃうなんて。しかも、銃弾はとんでくるし。名画が、名画がぁ、傷ついたらどうするんだよ。さっさと館長やめろよ、だれだよこんなやつ館長にしたの…と、館長の命より、名画の方を心配していたわたしです。ハイ。 誰でも、一番大切なものはやっぱり自分のそばに置きたがるものですが、ま、そのあたりがまさにこの話のポイントなわけですね。自分がいつもいる場所に隠しておくのが一番いいに決まってますからね。 この話、ルーブルが舞台なのにルーブルの全景ってあまり出てきません。なぜかいつもあのピラミッドばかりが映る。なーんかやけにピラミッドばかり映してるよなあと思っていたら、結局つまりこれって伏線だったわけだ。ルーブル美術館自体は非常に古い歴史のある建物なのですが、あのピラミッドの部分はごく最近作られたものなのです。私が二十年前にパリに行ったときはまだ、あんなものなかった。これから作る予定なんですよーと旅行会社の現地係員の人に聞いた覚えがあります。というわけで、あのピラミッドはこのニ十年くらいのつまり、ついこないだ増築した部分なんですね。このことがまさにこの話のポイント。聖杯の保存に不安を覚えた館長がこの増築の時にナーイスタイミングってことでうまく、聖杯をルーブルの地下に隠すことに成功したわけでしょう。しかも、この秘密を知る人は少ない。下手すると、このことを知るのは、館長だけだったかも知れません。実際には、運んだり、設置したりした段階でそれをやった工事の人は知ってても不思議じゃないと思うんですけどね。よくそういうピラミッド建造の秘密をしってるやつって殺されちっゃたりするじゃん。そういうことはやらなかったんでしょうかね。 ま、それはいいとして、自分だけが知ってる秘密って自分が死んだら、あとどうしようとか私も日頃心配してるんだけど。いや別に埋蔵金隠してるとか、浮気してるとかじゃないけどね。でも私一人で管理してる我が家のいろいろの事務なんかを、いきなり私が死んだら、家族は困らないかなと心配してます。それで、この館長もいきなり死んじゃうことになって、なんとか聖杯の秘密を後世に誰かに伝えないとならないわけだ。で、とっさに浮かんだのがそのときたまたまパリに来ていたラングドンだったのですね。ほかにパリ在住の適任者はいなかったんですかねえ。あのルーブルのピラミッドはパリの人たちなら当然ごく最近のものだと知ってるわけだし、とするともっと察しがいいかもね。 でも、本当に自分(館長)が残したメッセージにラングドンがきづいてくれるかどうか、謎ですね。かけですね。誰にも知られないまま、ルーブルの地下に眠り続けたかもしれないし。この館長さんみたいな謎解きを残せるほどの頭脳を持ってる自信がない場合は、今のうちになんか手立てを打っておいたほうがいいと思うけど、えっそんな必要全然ない?そりゃーよかったですね。 こんなティーシャツどう ちょっと恥ずかしいかぁ。
2006年06月09日
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もちろん見てきました。ね。ネタバレしてるかも。ていうか、見た人にしかわからない話です。 日本の皇室は二千年以上の歴史があるそうで。しかも、世界で唯一の男系で、世界で一番長いとか。ま、そうは言っても、本当に続いているか真実は誰にもわからない。もしかしてどこかでいれかえてたり、本当は他の男の子供なのに、天皇の子供として生まれて次の天皇になっちっゃたりしてる場合ってあるかもよ。源氏物語だって桐壺帝の奥さんが生んだ子供が天皇になってるけど、実は不義の子供であるわけですからね。でも、この子供は実は光源氏の子供なので、一応天皇家の男子の血統はちゃんと引き継いでますけどね。こーんなスキャンダルな内容で当時朝廷内が大騒ぎになったりしなかったのかなあ。だって皇統にかかわることなんだし。でも、所詮お話だけどね。 最近天皇家のお世継ぎ問題で大騒ぎでこーんなに長く続いている王家は世界でも、日本くらいらしくて、ヨーロッパの王家なんてのは大体どこもたいして続いてないし、しょっちゅう血筋が入れ替わったりもしてるし、そういうことを考えると、今回の話って実はそういうあたりがポイントじゃないですか。ヨーロッパにすると日本みたいに長く続いている王家がないのってちっょと悔しい。とするとなんかないかなあと考えてみたとして、キリストあたりが一番説得力と品格ありですかね。キリストと古代の王家の血を引く現代まで続いている血統が合ったらナとか。 皇室もつまり、日本の神道という宗教の教祖様なわけでして、宗教的にも日本をまとめて政治的位置でも、全ての要素をみたしている家系なわけですよね。 となると、ヨーロッパ世界の宗教であるキリスト教の教祖様であるイエスキリストの血をひきつぎ、でも、キリスト様は所詮一般庶民なので、じゃ古代王家の血も入れたいということでマグダラのマリアは古代の王家の皇女様だったってことにして、それと、ちゃんと結婚してないと私生児になっちゃうから、結婚してたことにして、で、キリストのまわりで唯一の女性がマグダラのマリアだから、このあたりを持ってくるのが一番説得力あるよね。いきなり今までにどこにも話の出たことのない女性を出してくるより、リアルだしね。となると、マグダラノマリアが娼婦じゃまずいですからね。普通の女性で、なおかつ奥さんだったってのが一番いいでしょう。 西洋は日本より男系にこだわってないし、男系だとほんとに自分の子か実のところわからないけれど、女性が代々血統を継いで行けば、目の前で実際自分の体から出てくる分、女系の方が確実性はあるでしょうね。でも女系の場合引き継がれるのはXの遺伝子なので、イエスの遺伝子自体は伝えられていないかもしれないんですけどね。それでも血はつながってるし、イエスの子孫であることに変わりないはず。という話だから、女性の子宮に話がこだわりを見せてくるわけだ。うーーーん。 というようなことを映画を見て考えました。この映画の話題性としてキリスト教がどうのこうのと取りざたされてますけどね。万世一系の遺伝子あるいは血統がヨーロッパにも欲しい。なんて考えたんじゃないのかな…なんてのはやっばり下世話なかんぐりでしょうかねえ。えっへっへ。 【ダヴィンチ 最後の晩餐】 あなたの部屋にも「最後の晩餐」を飾ろう
2006年06月04日
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ネタバレしてますので、映画を見てから、読んでください。みていると思いっきりチョコレートが食べたくなりますね。だから、ダイエット中は見ないほうがいいんだよね。とろーりとろけたチョコレートが川になり、滝になって工場の中を流れているなんて、こないだ、テレビでみたプリンセステンコーのチョコレートフォンデュの泉よりすごいよね。チョコレートはこどもにとっても大人にとっても魅力的なお菓子だから、そんなものをつくっている工場のなかにある秘密ってなんなのっと思わずみたくなるタイトルはさすがだ。しかし、チョコレートの色はいいとして、工場の中のものは全てお菓子でできているのだけけど、その毒々しいまでの色はさすがにちょっと…。アメリカに行くと実際ああいういかにも体に悪そうな着色料をたっぷり使いましたという感じのお菓子がいっぱい売っているので劇中のお菓子の色はかなりリアルなんだよ。見ていて気持ち悪くなってくると言うか、どうみてもおいしそうに見えなくてファンタジーというより、アメリカのなまなましい現実をみているようで。ゴールドチケットを当てた五人の子供達を見ていても、子供の幸せは親の財力でほとんどが決まるんだといわんばかりですよね。本来運の良さだけで引くはずの公平に手に入れる事ができるように思えるゴールドチケットは実際には金に糸目をつけずにチョコレートを買い占めることで、手にいれていたりする。後は本当に抜群頭のいい男の子。頭のよさを使って見事にゴールドチケットを手にいれています。頭の良さはこんな風に人生のラッキーを導くことが出来る。そして最後のひとり、チャーリーはまさに運のよさだけで、ゴールドチケットを手に入れていて、世の中にはやっぱり運も馬鹿に出来ないなあと思わせてくれる。それにしてもチャーリーは拾ったお金で買ったチョコレートでチケットを当てている。世の中馬鹿正直だけではわたっていけないんだぞと言わんばかりである。拾ったお金は交番へ届けるべしとは言ってもこんな小額のお金を本当に届ける人はいるんだろうか。ある程度の高額ならわかるとして、ここまで小額なお金を届けられても交番は迷惑なだけだし、届ける人もほとんどいないだろう。拾ったお金でためらわずにチョコレートを買うあたり、やはり世の中をわたっていく周到さをちゃんとチャーリーは身につけていると言うことだろうか。しかし、親の力や頭脳や運によって工場の中に入る権利を得る事は出来たとしても、その先はやっぱり子供自身の実力がものをいうわけですね。工場の中で見学しながら、子供達の一人づつが自分達の未熟さやいやしさや幼さや判断力のなさを露呈して、順番に脱落していく。素直に「チョコレートが好きだよ」というチャーリーは目の前の誘惑に惑わされることなく、他の子供達が脱落して行く中で思慮深く謙虚な態度でとうとう最後の一人となり、ウイリー・ウォンカからチョコレート工場を引き継ぐ権利を獲得することが出来る。それにしても、ゴールドチケットをあてたのは嘘だったというエピソードに使われているのがロシア人。子供向けの映画のこんなところですでに幼少期から、ロシア人にたいして悪いやつだと言う意識を知らず知らず植え付けようとでも、いうのだろうか。なんともアメリカ的でいやらしい事この上ない。日本もふくめ世界中に売られたはずのチョコレートのチケットを当てているのが全て白人種なのもいただけない。原作では世界中なんて考えてなかっただけ?そしてチャーリーも家族が大事だから、と工場はいりませんと断りながら、最終的には工場もらってるし。家族は大事なんだよという最終テーマのわりにアメリカ人て現実には離婚ばっかりしていそうだ。大人になっても離婚なんかしないで家族を大事にしてほしいというメッセージなのだろうか。なんだかんだ言いながら最後にはチャーリーは工場をもらっていて、ラストでは家族で豪華な食卓をかこんでいる。前半父親や祖父が一生懸命働いていながら、結局ずっと貧しいままの一介の労働者である事や、最後にチャーリーが工場経営者という資本家サイドに転換してハッピーエンドとなるということは、やっぱりまじめに労働者やるより起業して資本家になったほうが人生断然いいんだよっと言わんばかりのアメリカの資本主義を、こんな子供向け映画の中にもたっぷりと表現してあって、アメリカってこんな小さいうちからすでにこうやって子供達を洗脳していくんだろうか。そしてその映画をありがたく輸入して我が子にみせている日本もやっぱり、アメリカ的思想にどっぷりと使って生きていて、特に疑問もなく映画を見ちゃっているんだよね。ちなみにうちも子供に見せちゃいました。昔、ディズニーランドにはじめて私の父と行った時、ディズニーランドの中を見て父が、「資本主義のいやらしさがたっぷりだ。」と言った数十年前の事を思い出してしまった映画でもあります。ディズニーランドを見て、父はわくわくするような楽しさや夢やファンタジーなんてものは感じなかったと言うことだろうか。まあ、娯楽として単純に気楽に楽しむ分にはよく出来た映画であります。
2006年03月31日
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