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そして最後に「シントラ」。この紹介にはTBSの『世界遺産「大航海が生んだ!カラフルな天空宮殿」』の画像も含みます。私は2019年2月のポルトガル旅行のオプショナルツアーで「シントラ王宮(Palácio Nacional de Sintra)観光とシントラの街散策」👈リンク に参加したのであった。大西洋を望むロカ岬から続くシントラ山脈の中にある「シントラの街」。首都リスボン近郊にある王族の避暑地「シントラ」。我々が訪ねた世界遺産「シントラ王宮」。白くそびえるのは厨房の煙突。狩りを楽しみ、仕留めた鹿やイノシシを調理したと。「街のシンボル!2本の白い塔」シントラの王宮は、1415年頃、ジョアン1世の建設計画のもとに、建設が行われた。その後、マヌエル1世の時代に、大航海時代の富を投入して、大きな増築が行われた。1497年から1530年の間に、マヌエル様式の窓を施した紋章の間を作り、壁のほとんどにはアズレージョが施されるなどした。近代になると、アラフォンソ6世が、1676年から幽閉され、一歩も外へ出ることもなく、1683年にその生涯を閉じたのだと。そしてオプショナルツアーでは訪ねなかった世界遺産「ペナ宮殿」。どちらかと言うと、二者択一であればこの「ペナ宮殿」を訪ねたかったのであったが。19世紀のロマン主義を代表する宮殿。現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。(旧修道院は、ジョアン2世時代にディオゴ・ボイタクにより建てられた物が原型で、すぐにマヌエル1世により、ジェロニモ修道会へ再び寄進し聖ペーナを讃えるという約束を実行するため岩山の上に修道院が再建された)。ポルトガルのノイシュバンシュタイン城とも呼ばれているペーナ宮殿は、ゴシック様式やルネサンス様式、マヌエル様式、ムーア様式などの建築様式を融合した19世紀のロマン主義を象徴する建築物として、シントラ1番の観光スポット。シントラ郊外の山頂に建築されているペーナ宮殿からの眺望は素晴らしく、特に建物の周りに造られている通路からは、シントラの街や大西洋を見る事が出来る。イギリスの詩人バイロンはシントラを「この世のエデン」と讃えた。ペーナ宮殿は、イスラム様式の玉ねぎ型のドームや装飾過剰のバロック様式の塔など有名な建築様式の特徴を垣間見る事が出来、おとぎ話のお城の様なカラフルな外壁も見もの。岩山に築かれた「ペナ宮殿」。岩がそのまま宮殿の中に喰い込む。巨岩が部屋の中に突き刺さっている。これぞ現代アートか。完成は1885年。緑も少ない昔の姿であると。今は世界中の木々の植栽による人工の森で囲まれているのだと。2つの塔がある門の上に摩訶不思議なオブジェが。この像は、海の守護神トリトン。トリトンは、ギリシャ神話に登場する海王ポセイドンの息子。入口の門は、卵型や三角錐の摩訶不思議な装飾がされている。幾何学的な装飾も。そして巨岩も装飾の一部。現在、ペーナ宮殿は一般に公開され、ユネスコ世界遺産の『シントラの文化的風景』の一部として登録されている。時には、ポルトガル共和国大統領と外国からの賓客の公的行事の場として使用されるのだと。「ペーナ宮殿」の下にはムーアの城跡(Castelo dos Mouros)が。7~8世紀にムーア人によって築かれた城跡で、標高450mの山頂に見事な城壁が残ります。ムーア人とは北アフリカ出身のアラビア語を話すイスラム教徒のことで、当時イベリア半島を北へと侵攻していた勢力の一つ。その後、12世紀にイスラム教徒から奪還され、ムーアの城塞もキリスト教徒の支配下に置かれることとなったが時代とともに荒廃。城壁だけが残ったと。19世紀になってからムーア人の城跡の改修が進められ、現在のように修復されたのだと。この天空の城壁を歩くことができるのだと。再び「ペナ宮殿」の内部。壁にはだまし絵の如き装飾が。彫刻が刻まれた部屋かと思いきや、だまし絵の手法を使い部屋を広く見せているのだと。趣向を凝らした部屋が回廊のごとく続いている。「ネット」👈リンク より以下転載かつての王族の居住エリア。360°アズレージョで飾られた中庭。アズレージョとは、イスラム美術をポルトガル流に進化させたタイルアートのこと。ステンドグラスが展示されているコーナーなどがあり、かつてのポルトガル王家の煌びやかな生活が想像できると。近くにある世界遺産「レガレイラ宮殿」。12世紀にポルトガルの王族の別邸として建築されたレガレイラ宮殿の名前の由来は、1840年にこの宮殿を買い取ったレガレイラ男爵にあるとされています。その後、レガレイラ宮殿は、19世紀の終わりにこの宮殿の主になったブラジル人のモンテイロとフェルナンド2世の離宮であるブサコ宮殿をホテルへと改修を手掛けたイタリアの建築家ルイジ・マニーニの手で大改修され、現在の建物構造や外観になっています。日本の大手電話会社のコマーシャルに使用されていた時期もあります。中世の怪物をモチーフにした石像が建物の至る所に彫られている事もあり、魔宮と呼ばれているレガレイラ宮殿は、建造物や広大な庭園の地下には無数の洞窟や秘密の抜け路が造られ、庭園内のチャペルやイニシエーションの大井戸など思いも寄らない場所に繋がっています。宮殿内部に施されている彫刻や庭園に置かれている彫像は素晴らしのですが、テンプル騎士団や秘密結社フリーメイソンなどのシンボルが刻まれ、見学は出来ませんが最上階には錬金術を執り行ったとされる部屋があり、謎で満ちた宮殿です。これも世界遺産「モンセラートの庭園と宮殿」。パラシオ・デ・モンセラーテは、1858年に大富豪であったイギリス人の織物商サー・フランシス・クックが建てた宮殿です。イギリス庭園風の芝生の丘の上に建つ、インド・イスラム宮殿風の玉ねぎ型のドームの美しい建物。この見事な宮殿であるが、1929年の世界恐慌の影響によりクック家がこの広大な宮殿を維持出来なくなり、売りに出されると荒れ放題になっていたとか。その後1990年から大改修を行い、2009年に今の優雅な姿が蘇ったと。優雅なシントラの町並みにはまるでふさわしくない、原色ギラギラ、変な塔がニョキニョキのその外観は、まるで山の中のおもちゃの城・「ペナ宮殿」!!ここは本当に訪ねたかったが残念!!そして放送の最後は再びロカ岬へ。2年前の2019年2月に訪ねたポルトガルの観光地の一部を、その時には見られなかった視線で楽しみながら、またこのブログを書きながら懐かしく想い出しながら、「新たな海外旅行」!!を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・Closed・・・
2021.01.28
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続いて「ブラガ(Braga)」、ここはポルトガル旅行では訪ねていない場所。ブラガは、ポルトガル北西部の都市であり、ブラガ県の県都。ブラガを中心とするミーニョ都市圏は、リスボン都市圏、ポルト都市圏に次ぐポルトガルで第3の都市圏を形成する。ブラガの歴史は古く、ローマ帝国の属州ガッラエキアの中心地ブラカラ・アウグスタ (Bracara Augusta) として繁栄した。ブラガは「祈りの街」と呼ばれる。「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの街である」という言葉からも明らかなように、ブラガは、ポルトガルにおいて、信仰面で重要な役割を果たしてきている。4世紀には、Patemusと呼ばれる司教がブラガに住んでいたとされる。もっとも、聖オヴィディウス(en:Saint Ovidius)と呼ばれる聖者がブラガにおける最初の聖者とする説もある。5世紀には、アウグスティヌスの友達でもあるパウルス・オロシウス(en:Orosius)がブラガに生まれ、神学、歴史の書物を著している。6世紀には、ブラガの聖マルティン(en:Martin of Braga)が登場し、スエビ族をアリウス派からカトリックへ改宗させた。また、このころ聖マルティンがブラガ近郊のドゥミオに修道院を建設したとされる。世界遺産の「ボン・ジェズス教会」。巡礼者は577段の階段を上り、聖堂で祈りを捧げる。ブラガの小高い丘にあり、庭園、洞窟、彫刻に囲まれたカトリックの巡礼地。18 世紀に建設されたバロック様式の教会。 小高い丘にあり、巡礼者の聖地として知られるボン ジェズス教会。116 m にもわたるバロック様式の長い階段が、丘のふもとから教会へとジグザグに続く。教会までは、徒歩または車で。ポルトガルで一番古いケーブルカーで上ることも出来ると。「山の上の善きキリスト」という意味を持つボン ジェズス教会。現在の教会は 14 世紀の礼拝堂跡地に建てられたもので、1722 年に建築が始まった。以来、瞑想とざんげを求める巡礼者の聖地となっている。荘厳なファサードと両側にそびえる鐘楼。ジグザグの階段を歩くなら、階段の折り返しにある踊り場は必見であると。階段の下段は視覚、聴覚、味覚、臭覚、触角にご利益のあるという「五感の階段」。踊り場には泉があり、それぞれに視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を表す。視覚の泉は両の目から、味覚の泉は口から水があふれ出ており、その興味深い姿は見逃せません。下記の泉の写真は昔の写真のようです。聴覚の泉。臭覚の泉。味覚の泉。感覚の泉。泉を見下ろすように立つ旧約聖書の預言者の像にも注目してみてください。階段を上空から。そして上段は、信仰、希望、博愛を表す「三徳の階段」とよばれる。信仰の泉。希望の泉。博愛の泉。泉を見下ろすように立つ旧約聖書の預言者の像。教会前のモーゼス広場。ポルトガルの庭園建築の中で最も美しい庭園の一つに数えられている。彫刻はキリストの処刑に関わったピトラスなど8人。教会は1784年から1811年に掛けて建てられた新古典用式。ブラガが生んだ名建築家カルロス・アマランテの作。教会の中にある祭壇には昇天するイエス。教会の中にある祭壇には昇天するイエス。教会からは、ブラガの街を一望することができると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.27
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そして次はこれも訪ねた「バターリャ(ポルトガル語でBatalha)」👈リンク。バターリャは、レイリア県にある地方自治体。中心市街地には、7,500人ほど、そのほかの行政区を含めて、15,000人が居住している。北と西をレイリア県の県都であるレイリアと接し、南東部では、サンタレン県のアルカネナ、南西部は、南西部は、ポルト・ド・モスと接する。バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味する。このバターリャ修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。聖母マリアに感謝を捧げるため、修道院が建設された。このバターリャ修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。歴代指揮をとった建築家は15名、100年以上の歳月をかけて築いた。その中でも、6人の建築家の名前(アフォンソ・ドミンゲス、フュゲット、フエルニヤーオ・ド・エヴォラ、マテウス・フェルナンデス、ディエゴ・ボイタック、ジョアン・ド・カスティーリョ)が知られている。また、膨大な人的、物的資源が投入されると同時に、バターリャ修道院の建設を通して、ポルトガルは国内では未知であった建築技術、芸術様式が導入され、独自の発展を遂げた。外観はゴシック様式。バターリャ修道院外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。正面の上部窓は幾何学模様のゴシックウィンドウ。西側の広場に面している修道院の入口は、アーチ・ヴォールトの形をとっている。そのヴォールトの中には、78の聖像が飾られている。78体の聖像は6列に分けて並んでおり、それぞれに旧約聖書に登場してくる王、天使、預言者、聖者が天蓋の下に並んでいる。また、ヴォールトから地面へとつながる部分の両脇には、使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像がある。加えて、修道院の入口のアーチ・ヴォールトの上部の三角形のような形をしたスペースには、キリストの戴冠の様子が彫刻で施されている。中央扉口左側。使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像。中央扉口右側の使徒。ゴシック様式の尖塔。外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。2世紀にかけて、15人の建築家が携わり、国内では未知であった様々な建築技術、芸術様式が導入さた事が理解できたのであった。「未完の礼拝堂」は、ジョアン1世の息子のドゥアルテ1世の命でドミンゲスの後を継ぐダヴィ・ウゲットにより着工された。100年ほど工事が続けられたが、1521年に即位したジョアン3世がジェロニモス修道院の建築に集中し、バターリャ礼拝堂の建設を中止したため、未完に終わっている。王の回廊。回廊の装飾はマヌエル様式と呼ばれるポルトガル独自のもの。レースのようにきめこまかに図柄が刻まれている。中庭の緑も美しく。植栽は幾何学的に。回廊の狭間飾り。中央には天球儀、左右にはエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれていた。食堂の入り口の手洗い場を。教会は奥行き80m、高さ32m。ポルトガルで最も古いステンドグラス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.26
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そして次に私も訪ねた「コインブラ(Coimbra [ˈkwĩbɾɐ])」👈リンク。ポルトガル中部の古都、文化的な街として知られる。セントル地方 (Região Centro)の中心都市で、コインブラ県の県都でもある。人口は約15万人、面積は約319.4km2。16の自治体、面積約3372km2が集まってコインブラ大都市圏を構成しており、その総人口は43万人以上。街の中心は丘の上のコインブラ大学。創設は1290年、ヨーロッパでも最も古い大学の一つ。カブラ(山羊)と呼ばれる時計塔。ポルトガル屈指の名門国立大学とされる。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。学部、シンボルカラーは文学・人文学(ダークブルー)法律(赤)医学(黄)薬学(紫)科学技術(青と白)経済学(赤と白)心理学・教育学(オレンジ)スポーツ科学・物理教育(茶色)法学部、文学部などの伝統のある学部の男子学生は黒いマント をはおり、学部独自のカラー・リボンをつけたカバンを持って闊歩するのだと。博学だった18世紀の国王ジョアン5世の名を冠した図書館がある。内部は見学出来なかった「ジョアニナ図書館」。世界でも最も美しい図書館の一つと言われている。16世紀から18世紀の書物がおよそ6万冊収められている。天井には見事なフレスコ画が描かれていたり、金で装飾された豪華なパイプオルガンがあるなど、豪華な図書館をさらに美しい場所にしているのだと。金泥細工の装飾や漆塗りの本棚などが非常に美しい。面白いのが、ここでコウモリが飼われていること。夜になると舞い降りてきて、本につく虫を食べ蔵書を守ってくれるのです。コウモリのいる図書館は世界に2か所あり、もう一つは同じくポルトガルのマフラ図書館。書庫の前には梯子が。館内は3部に分かれており、造り付けの書架にぎっしりと並ぶ蔵書数は、25万冊に及ぶと。書籍のほとんどが、薬学、地学、史学、人類学、化学、自然科学、哲学など学術関連書籍であり、創立者ジョアン5世が、いかに学術を重要視していたかが計り知れるのだと。窓からは陽光が差し込み。ジョアン5世の肖像画であろうか。コインブラ大学の中庭を再び。中庭のラテン回廊。階段の上のポルトガルの紋章で飾られた破風を眺め、階段奥の壁のジョゼ1世像と正義と不屈の女神像の浮き彫りが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.25
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10年以上に渡り途切れることなく続けていた「海外旅行」が、この新型コロナ禍にて途絶えてしまったここ1年以上、更に緊急事態宣言で不要不急のが外出も自粛せざるをえない今日この頃です。よってテレビで旅行気分を味わおうとしていますが、先日のNHK・BSP放送にて「空からのクルージング特別編 ポルトガル・世界遺産を巡る旅」が再放送されていましたのでこの番組を録画しその映像を我がデジカメで撮影しました。ポルトガルは2019年2月に8日間の旅をしましたが、その旅行にて訪ねた場所、しかし建物の中まで見学できなかった場所、そして旅行コースに入っておらず訪ねなかった場所等が放映されていたのです。しかも旅行では自分で眼にすることが出来なかった景色が、小型ドローンにより上空からの映像・写真で紹介されていたのでこれを十分楽しみながら、想い出を懐かしく振り返る事が出来たので、ここに紹介します。まず最初は、もちろん「訪ねた」👈リンク ユーラシア大陸最西端の岬である「ロカ岬」。北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島がある。ここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑が立っていた。チョコンと白い十字架を乗せた記念碑が建つのは、140mもある断崖絶壁の上。周りは綺麗に整備された石畳の広場のようになっており、緑の絨毯の中を、遊歩道が巡っていた。18世紀に建てられ、今も現役の赤い屋根の灯台。こちらはカモンイスの記念碑より少し高い160mの断崖上に広がる緑の絨毯の中に建っていた。また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。5ユーロと10ユーロのタイプの証明書があり、どちらにしても証明書には名前・日付などが入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩が書かれたものを入手することが出来たのであった。その時に手に入れた「ユーラシア大陸最西端到達証明書」の写真。私の名前と訪ねた日・2019.Fev.12の文字が。そして次は訪ねなかった「ギマランイス(Guimarães)」。ギマランイスは、ポルトガル北西部のブラガ県にある都市。ポルトガル王国初代国王アフォンソ1世(アフォンソ・エンリケス)が当地で誕生していることから、ポルトガル発祥の地、ポルトガル王国の発祥地と呼ばれる地。2001年、世界遺産に登録されたギマランイスの旧市街には、アフォンソ・エンリケスが誕生した「ギマランイス城」、そのいかにも堅固な石造の城の下には、洗礼を受けたサン・ミゲル教会など、ゆかりの場所が点在していると。この地を治めていた伯爵の宮殿として10世紀に建造。高さ28mの塔をはじめ、七つの塔をもつ。初代ポルトガル王アフォンソ1世(アフォンソ=エンリケス)が生まれた場所として知られる。12世紀、イベリア半島にはイスラムの小国が乱立していた。キリスト勢力アフォンソはイスラム勢に次々と勝利し、領土を回復、1143年ポルトガル王国が誕生した。王国は20世紀初頭まで続いた。城壁と中央の高い塔(写真の左)が残っていて、両者をつなぐ木造の橋が一か所架けられていると。そして大西洋に向かって南下。そして強く「印象に強く残っている街「ポルト」」👈リンク。ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。「ドウロ川」に架かる、ポルトのシンボルともなっている「ドン・ルイス1世橋」。ポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。 ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1881年から1886年の間に建設された。エッフェルはポルトにある別の橋、マリア・ピア橋の建設に携わっていた。1886年10月31日、ポルトガル王ルイス1世が出席して開通式を迎えた。「ドン・ルイス1世橋」は幅8mの2階建て構造になっている。上層の長さは395mで、下層の長さは174mである。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっていた。メトロの走る長さ395mの上層の橋を徒歩で往復したのであった。そして世界遺産の「ポルト歴史地区」。国名の由来となったポルトガル第二の都市。「ドウロ川」には酒樽を積んだ舟が浮かぶ。甘く濃厚なポートワインの運搬に用いた。18世紀に盛んにイギリスに輸出された。「ドン・ルイス1世橋」の下流側には自動車専用道路橋「インファンテ橋」が。正式には、インファンテ・ドン・エンリケ橋(Ponte Infante Dom Henrique)で、エンリケ王子の名前をつけて、通称ではインファンテ橋と呼ばれている。この橋は2003年に開通したと。右の高台の鐘楼はグレゴリウス教会のもの。高さ70m、18世紀バロック様式。左の高台はポルサ宮殿。我々の観光は、「サン・フランシスコ教会」は外部からの見学だけであった。質素な外観に比べ、内装は当時植民地だったブラジルから運んできた200kgもの金で彫刻を覆い尽くしていて贅沢。これはターリャ・ドゥラーダと呼ばれる、バロック様式の金泥細工による内部装飾。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作といわれているのだと。一面の金泥細工は18世紀に施されたと。当時、植民地のブラジルで金が発見され、金をふんだんに使った内装が流行した。慶長元年に長崎で殉教した長崎26聖人の祭壇。豊臣秀吉によって弾圧を受け長崎で殉教した人々を刻んだ祭壇。キリストの系図 「ジェッセの樹」聖所に登場する人物たち。樹の枝、一段目右には巨人ダビデ王、左にはその息子ソロモン王、トップに立つのはヤコブの子、聖ジュゼ(ヨセフ)、その両脇には聖母マリアの父ジョアキン(ヨアキン)その左は聖母マリアの母、サンタ・アナ。頂上には聖母マリアと幼いキリストがいると。この多彩色の木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。ユダヤ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、イサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。壁のくぼみには聖アンナと聖ジョアキン(聖母マリアの両親)、『無原罰の御宿り』について記した4人のフランチェスコ会士の像が収められている。正面は主礼拝堂バロック様式であるターリャ・ドゥラーダ(金泥細工)と呼ばれる金箔で覆われた彫刻で彩られた主礼拝堂。バロック の語源はポルトガルのBarocco (歪んだ真珠)だそうで、元々は ”グロテスクなまでの装飾過剰” に対する蔑称だったのだと。そして、ポルトを流れるドウロ川は大西洋に注ぐ。スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、名を変え、ポルトから大西洋に注ぐ。全長は897kmであり、ポルトガルを流れている部分においては軽い船なら航行可能である。川の名前は、ケルト語で水を意味する"dwr"から来ていると考えられると。 ・・・つづく・・・
2021.01.24
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ツアー名称 ブログ 旅行期間------------------------------------------------------------------------------------------------★秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間 その1~38 2019.10.24~10.31★中国・東北地方7名所大周遊8日間 6/19~6/26 2019.06.19~06.26 ★決定版ポルトガル8日間 その1~33 2019.02.18~02.25 北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!★カンボジア縦断満喫周遊6日間 その1~26 2018.10.12~10.17★北京が誇る4つの世界遺産を巡る 北京3日間 その1~12 2018.06.10~06.12★神秘のカラカルパキスタン共和国へ その1~24 2018.05.22~05.29 はじめてのウズベキスタン 8日間★シルクロードの起点 歴史深き古都 西安4日間 その1~18 2018.03.05~03.08★ベトナム世界遺産紀行5日間 その1~17 2017.08.09~08.12★バルト3国感動紀行10日間 その1~30 2017.04.19~04.28★クロアチア、スロベニア6ヶ国周遊 10日間 1~40 2016.04.20~04.29★韓国 釜山、慶州の旅 その1~12 2015.11.15~11.17★とっておきのモロッコ10日間 その1~38 2015.04.16~04.25 サハラ砂漠のオアシスと青の街シャウエンに宿泊★ロシア世界遺産の旅9日間 6/4~6/12 2014.06.04~06.12★中欧とポーランド 6ヵ国10日間の旅 その1~27 2013.09.17~09.27★ロンドン旅行 その1~12 2013.04.25~05.07★文明の十字路エキゾチック・トルコ10日間 その1~23 2012.06.02~06.11★北欧フィヨルド 3ヶ国 周遊8日間 その1~22 2011.07.08~07.15★ネパール :カトマンズ、ポカラ、エベレスト遊覧飛行 (1)~(22) 2010.10.16~10.24★イグアスの滝、ナスカの地上絵、マチュピチュ遺跡 その1~22 2009.06.05~06.14 10日間 ★グラシアス!スペイン8日間 プラス 1~13 2008.06.06~06.14【ブログ開始(2008年)後の海外観光旅行のみ掲載しています。】
2020.06.14
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北京市上空に機体・カタール航空QR812便は近づく。そして北京の上空へ。濃い黄色の照明の場所が故宮博物館(紫禁城)であろう。故宮博物館(紫禁城)をズームで。格子状に区画される街区が美しかった。しばし北京の夜の絶景を楽しんだのであった。空には三ヶ月と金星?が。カタール・ドーハ空港からの飛行ルート。離陸後ペルシャ湾➡イラン➡アフガニスタン上空を通過し、その後中国の北部・新疆ウイグル地区➡甘粛省➡内蒙古自治区上空をひたすら横断して北京上空を通過し、漸く渤海湾手前まで。天津港周辺。渤海湾に出る。河北省唐山市滦南县の上空を通過。2回めの機内食。そして韓国上空を横断して隠岐の島上空を飛行。松江、米子の街の灯り。羽田空港到着まで残り54分、到着予定時間は22:55との表示。京都市内、京都御所のある京都御苑そして桂川、大阪湾に注ぐ淀川も確認できた。その上には、関西空港の灯りも。写真中央付近の灯りがない場所が京都御苑、そしてその右側が二条城では。写真右下に琵琶湖大橋が確認できた。そして写真上には近江大橋も微かに。米原市上空から南の街並みを見る。琵琶湖に浮かぶ沖島の姿も確認できた。知多の伊勢湾沿岸の工業地帯。浜松駅そして駅下を通る広小路通り、中田島街道も確認できた。そして相模湾から東京湾に入っていく。千葉市内上空へ。そして着陸態勢に入り、羽田空港に到着。時刻は22:50。そして入国審査も無事通過し、荷物を受け取ろうとするが荷物がなかなか出て来ない。2~30分待ったであろうかようやく出て来たが、私のトランクのベルトが行方不明。お世話になった旅友との挨拶も済ませながら荷物の最後まで待ったが出て来ず、海外旅行保険の手続きの20分程度かかるとのことで諦め、駐車場の送迎車に乗り込む。時間は23:55。帰路の遅れで公共交通機関に最終便にも間に合わずTXを利用した方帰宅出来ずにホテルに1泊された方もいたとのことであった。我々も駐車場を0:15に出発し、我が家まで旅友Sさんの愛車で送っていたもらったのであった。そして我が家に無事0:55に到着したのであった。 10/24(木)からカタール航空にて成田➡ドーハ➡ソフィアへの長時間移動の格安ツアー旅行・『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』、総勢28名(女17名、男9名、添乗員:日本から&現地2名を含む)、平均年齢70歳?前後の和気藹々の賑やかなツアーであった。我がグループも、2008年からお付き合いさせて頂いている女性2名も久しぶりに一緒に参加され、楽しいツアーであったのだ。旅の名称は『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』であったが、まず最初に訪れたのは何故か『ブルガリア』であった。ブルガリアはバルカン半島に位置する東欧諸国の1つで、ルーマニア、ギリシア、トルコと隣接。このためヨーロッパの中でもアジアの影響を強く受けている国であった。15年ほど前は治安の悪い国として知られていたが、2007年にEU加盟してからは経済が安定し、治安がよくなったと。とはいえ、国民1人あたりのGDPはEU加盟国内では最も低い国(2017年時点)とのことで物価が安いことも特徴のひとつとして実感できたのであった。またブログ内でブルガリアといえばヨーグルトと書いが、ブルガリアは実はバラの名産地。アロマセラピーなどで使われるローズ製品の世界シェアは7割もあると。ローズ製品の香りに使われているバラはダマスクローズという種類で、ブルガリアのダマスクローズは特に香りが良く最高級の品質と言われているのだと。ブルガリアのダマスクローズの栽培地としてはバラの谷が有名。バラの谷の中心は、トラキア人の墳墓があったカザンラクという都市でブルガリア中部、首都ソフィアから東に約200kmの場所にあったのだ。そして、カザンラクのバラ祭り自体は5月中旬から6月初旬にかけて行われるが、メインイベントは6月第1週の金曜から日曜の3日間に渡って開催されのだと。最初に訪ねたソフィアはブルガリアの西部に位置し、周囲を山に囲まれた自然豊かな都市。緯度は北海道と同じ程度、冬は11月から3月頃まで降雪も見られ、気温は氷点下になることも多々あるのだと。一方夏は気温30度程度にあがるものの湿度が低く、過ごし易いと。ソフィアはヨーロッパ最古の都市のひとつであり、ローマ帝国時代の遺跡も残っていたが、ブルガリア内の観光や経済の中心でもあるためショッピングセンターなども多くあった。古さと新しさ、アジアのような雰囲気とヨーロッパらしさなど、様々な面を持っているのがソフィアの魅力なのであった。2日目:『ソフィア市内観光』3日目:『早朝散歩』『ボヤナ教会』『リラ修道院』4日目:『ブロブディブ』『カザンラク』5日目:『早朝散歩』『ヴェリコ・タルノヴォ』 『イワノボ』そしてブルガリアからドナウ川を渡りルーマニアへ。ルーマニアは、訪ねる前には、体操のナディア・コマネチとドラキュラ伝説の他には、私にはあまりなじみのない国であった。また、共産主義だったころの独裁者、チャウシェスクの名前、そしてあの処刑の場面のニュース映像を想い出し、どちらかといえば暗いイメージがあるこの国であったが、首都ブカレスト等の市街地においては今ではその姿を大きく変えていた。2007年1月に隣国ブルガリアと一緒にEU加盟を果たし、EU27ヵ国の一つに名を連ねた。人口1,904万人と中東欧ではポーランドに次ぐ規模、国土の面積は23.8万㎢で日本の本州とほぼ同じ、EU 加盟国では9番目の大きさ、国土の多くは肥沃な大地で、歴史的にも農業が大きな役割を占め、石炭や鉄鉱石だけでなく、欧州大陸では珍しく石油とガスを産出する天然資源にも恵まれた豊かな国との予習情報でもあった。しかし、近年、ルーマニアは経済発展がもたらす貧富の差の増大、及び不景気による雇用情勢悪化等から、治安状況は毎年徐々に悪化傾向にあり、スリ、ひったくり、自動車窃盗などの財産犯罪が増大しているほか、横領、脱税、汚職などの経済犯罪が増加しているのだとルーマニア添乗員が自ら語ったのであった。そしてルーマニアは低迷する出生率と加速する国民流出状況がもっとも深刻化している国の1つ。ルーマニアは過去においては、欧州のなかでも高い経済成長率を誇っていたが、国民の生活水準は改善しておらず、多くの国民は希望を見いだせず、西ヨーロッパに移住して行くと。移住先で人気が高いのは北欧やドイツであると。ルーマニアも以前のブルガリアと同様に出生率は1.6と少子高齢化が進み、若年層の西ヨーロッパへの人口流出が激しく、この30年で人口は2300万人から1900万人以下となり、3~400万近くまで減少しているのだと。よって現在の総人口の15~20%近くに相当する数がいなくなったことになるのだ。美人国といわれるルーマニアだが、街を歩く『若い!!』女性は長身で色も白くなるほどと。バルカン諸国で唯一のラテン系民族、ラテンの中でも言語はイタリア語に近く、スペイン・フランスなどの国にも非常に親近感を持っていると。一方周囲がブルガリア、ウクライナ、セルビア、スロバキアなどスラブ語圏民族に囲まれている中で、ローマ帝国拡大の歴史の下にバルカンで唯一のラテン系の国なのであった。106年ローマ帝国軍が、この地の先住民ダキアを征服、その結果移住したラテン系の多くのローマ人が、ダキア人と混血となり、ラテンを基にした言語の源流ができ、またローマ帝国崩壊後、7世紀ごろにかけてこの地域に移動して来たスラブ人の影響も受けて、現在のルーマニア語になって行ったのだと。一方ルーマニアには、ロマと呼ばれるいわゆるジプシーが多く住んでいるのだと。その数は180万人とも200万人とも。総人口が1900万人であり人口の10%近くを占めるのであった。彼らは東方から移動をしてきた民族で、ルーマニアでは14世紀にジプシーの移民が急増。定住するジプシーも少数居たものの、多くは、追放されたり、定住を避けるためのさまざまな措置を各国が取ったことから、差別を受け、社会の外側に置かれ、生き残る戦略として、移民・移住し続けたのだと。今回訪ねた世界遺産の観光地にも、お金を強請る子供たち、そして乳飲み子を抱く若い母親の姿があったのであった。現在、欧州には約1,000万人近いジプシーが居るといわれており、多くは、ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・セルビアなどのバルカン地域を移動している場合が多いのだと、これもルーマニア人の現地添乗員から。ルーマニアの1人当たりGDPは8,000ドル強で、EU27ヵ国中26番目であるとのことだが、首都のブカレストと車窓から見えた地方の農村の間のギャップは他の国のそれとは比較にならないほど大きいのではと感じられたのであった。短時間の滞在いや通過であったが人口190万人を数える首都ブカレストは国際価格並みのホテル、レストランも数多く、カルフール、メトロ、イケアなど西欧資本のスーパーマーケットも多く進出し、他の西欧・中欧の大都市とあまり変わらない顔を見せつつあると実感できたのではあったが・・・。しかし、ブカレスト市街から外に出ると、広大な農地が広がり、車で通る集落では家の前のベンチで穏やかな老人や女性たちがおしゃべりを楽しむ、牧歌的な風景がごく当たり前に続いていたのであった。現在に於いても主要産業が工業ではなく農業が主要産業であり、車窓からは大きな工場等は精油所以外は皆無に近いほど目に入って来なかったのであった。所々に穴があき凸凹の主要国道に、農具と家族を載せ馬車が何台も闊歩しているのが、ルーマニアの現実の姿と感じざるを得なかったであった。6日目:『早朝散歩』『シギショアラ』7日目:『ブラン』 『シナイア』 『ブカレスト』最後に、日本人にとってまだなじみの薄い国・ルーマニアであろうが、今後、鉄道網の改修、高速道路の整備、港湾などのインフラが良くなることで、そのポテンシャリティーがさらに高まるのは間違いないのであろう。現在、自動車産業以外にも既に日本企業400社近くがルーマニアに進出しているのだと。小売りスーパー業、加工製造業だけでなく、その他の企業においても世界展開の中の重要な国の一つであり、欧州、とりわけEUの今後を見据えて、その投資の魅力はさらに高くなるものと思われ、将来が非常に楽しみな国でもあるのではと門外漢ではあるが。昨年2018年1月に安倍晋三首相は、日本の総理大臣として初めてルーマニアを訪問したがこの様な背景、展望の下での訪問であったことは間違いないであろう。しかし、訪問前日にルーマニア首相が辞任を表明するという事態が発生したとテレビ報道され政局が不安定な国であると報道していたと記憶しているが。我がこのブログを訪ねてくださった皆さん、是非一度ブルガリア、ルーマニア両国を訪ねてみてはいかがでしょうか?8日目:『帰路』ブカレスト空港~ドーハ空港~羽田空港への「 long‐distance flight」にも耐え機窓から眼下に拡がるトルコの白き山々、北京、京都、琵琶湖、大阪、関空の市街の夜景を逆に楽しめる帰路となったのであった。そして次回は、来年2月の『中国 6つの絶景巡り 7日間』👈リンク を予定しているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.12.13
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ブカレスト・アンリ・コアンダ国際空港(Henri Coandă International Airport)に到着。お世話になったドライバーのクラシミール氏、ルーマニア現地添乗員のアレキサンダー氏に感謝と別れの挨拶をし。空港ロビーに入る。そしてチェックイン、セキュリティー検査、出国審査もなんとか無事完了し搭乗口へ。利用便は23:30発カタール航空QR0220便 カタール・ドーハ行き。何故か国際航空運送協会(IATA)によって定められた空港コード(3レターコード)は『OTP 』。理由をネットで調べて見ると、以前はこの空港は『オトペニ空港(Otopeni Airport) 』と呼ばれており、そのときの空港コード『OTP 』がそのまま継承されているのであった。利用便の機種はエアバスA-320。定刻の23:30に離陸し1時間を過ぎて機内食が。帰路も往路とほぼ同じ飛行コース。ルーマニア・ブカレスト➡黒海➡トルコ➡イラン➡ペルシャ湾上空を経てカタール・ドーハヘ。ペルシャ湾を横断しカタール・ドーハ国際空港へと。ブタペストからドーハまで約4.5時間の飛行でほぼ定刻の早朝5時過ぎにドーハ国際空港(DOH)に到着。ドーハ国際空港ではトランジットゲートに向かう。ドーハ国際空港は世界でも有数のハブ空港でもあり、この早朝も多くの利用客で混み合っていた。搭乗ゲートBゾーンに向かって進む。ドーハ国際空港 ラウンジ配置案内図。この空港を利用するのは10回目近いのではなかろうか。空港に人気者、巨大な黄色のクマの人形に今回も出会う。案内板には『 LampBear by Urs Fischer 』と書かれていた。『 LampBear』は頭に Lampの如きものを被っているから?このクマは、ニューヨークを拠点とするアーティスト、ウルフ・フィッシャー氏の「無題(ランプ/クマ)」という作品。しかも、2016年?にニューヨークでのオークションで、680万ドル(今のレートで約7億3500万円ほど)で落札されたのだと。ラウンジの中央近くでは新車も販売展示されていた。さすが、裕福の国(金持ち国家)世界1位の国なのであった。日本人にとっては「ドーハの悲劇」でも知られるカタール国であるが、中東いや世界で最も金持ちの国なのである。因みに日本は30位であるとのこと。昔の日本は、世界でも5本指に入るほど一人あたりのGDPが高い国であったと記憶しているが1991年から始まったバブル経済崩壊後のデフレや少子化により経済発展が低迷している間にアジア、中東、北欧諸国にアッという間に追い抜かれて今や30位。ポルシェ・Panamera Turbo SE-Hybrid Exective。8気筒、4000ccで3000万以上の高級車。こちらはDUCATIのスポーツバイク。B8ゲートに向かって進む。利用便はカタール航空QR812便 7:00発 羽田空港行き。搭乗ゲートB8でボーディング開始を待つ。Tokyo HND の文字が。搭乗ゲート近くからペルシャ湾(アラビア湾)に浮かぶ『バナナ島 Banana Island』をズームで。ここドーハ空港から沖に約3km、その名の通りバナナの形をした小さな島のリゾートとして注目を浴びている島。利用便はA350-1000。カタール航空はこのA350-1000型機を世界で初めて就航させた会社。エアバスA350-1000型機は900型機よりも胴体を6.8m伸ばし、乗客数を350~412名としており、ボーイングの燃費の良い、ボーイング787-10型機を凌駕。エンジン推力はA350-900よりも11%以上向上させており、航続距離は8,000マイルを越える最新鋭の機体。定刻の7時過ぎに機は搭乗ゲートを離れる。屋根のダイナミックな波状造形が印象的な国際空港。確か建設工事は日本の大成建設が。離陸しペルシャ湾上空へ。ドーハの高層ビル群が見えた。最初の機内食の朝食。離陸後4時間を経てトルコ上空の山々を見る。直ぐに真っ白な山の姿が。ズームにて。冠雪の山が続く。中国・トルファンの南を通過。時間は11:25。機窓から白藍色の場所を見つける。これが、かつて存在した「さまよえる湖」として知られている塩湖・ロプノールの近くにある塩化カリウムの塩田であろうか?再び白き山々が。蒼き湖は甘粛省にある『苏千湖(Sugan湖)』であっただろうか。甘粛省の砂漠地帯であろうか。水の流れた跡であろう。敦煌市(Dunhuang)上空で進路を北に向かう。鉱山資源の素掘りの場所であろうか。大きな川の姿が。夕焼けの光景。三ヶ月が見えた。再び夕焼けの光景。北京上空に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.12
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バスは1号線(DN1)をひたすら走りプロイエシュチ(Ploiești)の街の手前まで進む。交通量も次第に増えてきた。首都ブカレストの北およそ56km地点にあるプロイエシュチ(Ploiești)。「黒い金の首都」の異名を持つ石油産業の旧中心地で、4つの製油所とその分野に関連したその他の工場があるのだと。そしてガソリンスタンド横のスーパーでトイレ休憩。右手に石油精製所『OMV Petrom S.A.』が現れた。『OMV Petrom S.A.』は、オーストリアのOMVが管理するルーマニアの総合石油会社。ルーマニア最大の企業の1つであり、南東ヨーロッパ最大の石油およびガス生産会社。 2004年以来、OMVの子会社となっている。そしてブカレストに向かう鉄道の跨線橋を再び越える。プラホヴァ(Prahova)川を渡る。プラホヴァ川は南ルーマニアの川で、南カルパチア山脈のブチェジ山脈から流れている。アダンカタ近くでヤロミツァ川に流れ込む。プラホヴァ県の最南部にあるポティグラフ(Potigrafu)の街の入口にあった灌漑用?池。そしてバスは暗くなる中、ルーマニアの首都ブカレスト(Bukarest București)👈リンク の街に入る。ショセアワ・ピペラ(Șoseaua Pipera)通りを走る。『ORACLE』関連のビルが右手に。データベース管理システム関連の会社であろう。下に見えた通りが『カピタン・アレキサンドル・シェルバネスク通り Strada Căpitan Alexandru Șerbănescu』。雨がかなり激しく降っている中、アビアトリロル大通り(Bulevardul Aviatorilor)を進む。アビアトリロール大通りはブカレストの北にある重要な動脈で、セクター1にある。 ビクトリー 広場とシャルルドゴール広場を接続し、ボルデイ公園の始まりまで北に続いている 。『勝利広場 Victoria Palace』付近。再び1号線と合流。雨の中、渋滞が激しくなっていた。『ピアツァ勝利広場(Piața Victoriei square)』。『ピアツァ勝利広場』はブカレスト中心部にある「大通り」が交差する主要な高層オフィスビルと政府ビルディングが建つ主要な交差点の一つ。1989年のニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が「ルーマニア革命」によって打倒された際にはニコラエ・チャウシェスク夫妻以外の共産党幹部が処刑された場所との説明が添乗員から。博物館『フィリペスク-チェシアヌ ハウス(Filipescu-Cesianu House』。1846〜50年に最初に建てられ、1892年に改装された元貴族の邸宅であるこの新しく改装されたベルエポック様式の建物は、ブカレストの最も歴史的な大通りの1つであるカレアビクトリー通りにあった。『ジョージエネスク国立博物館(George Enescu National Museum Muzeul Național "George Enescu")』。国立博物館「ジョージエネスク」は、ブカレストで最も美しい建物の1つである歴史的建造物であり、ヨーロッパ遺産ラベルの建物の1つであるカンタクジーノ宮殿に開設されたと。『ルーマニア国立美術館(Muzeul Național de Artă)』。『ルーマニア国立美術館』は、中世から現代までのルーマニア美術、ヨーロッパ美術、装飾美術、東洋美術のコレクションを国内で最も豊富に所蔵している。 カレアビクトリー地区にあり、ナショナルギャラリー(オールドルーマニアンアートギャラリーとモダンルーマニアンアートギャラリーを含む)とヨーロッパギャラリーがあると。ブカレストの中心、革命広場に面した共和国宮殿の一部が美術館として使用されていると。『革命広場の記念碑 Memorial of Rebirth Memorialul Renașterii』その後ろに政府機関・旧共産党『Ministerul Muncii și Justiției Sociale』の建物が。革命広場の記念碑は、共産主義を打倒した1989年のルーマニア革命の闘争と犠牲者を記念するルーマニア、ブカレストの記念碑。記念館は2005年8月に革命広場に建設されたが、1989年12月にルーマニアの共産主義時代の独裁者ニコラエチャウシェスクが公開処刑された場所。アレクサンドルー・ギルドゥシュによって設計された記念碑は、金属製の「王冠」が置かれた高さ25mの大理石の柱が中心にあることが特徴。 この柱は、大理石と花崗岩で覆われた600m2の広場に囲まれていた。革命広場前の東方正教会『Kretzulescu Church』。旧王宮の隣の革命広場の角に立つ東方正教会。1720年から1722年の間に建てられ、ブロンコベヌ時代の遺産に関する限り、ブカレストで最も保存状態が良く最も代表的な正教会の1つ。教会は、Iordache Kretzulescuと彼の妻、Safta(コンスタンティンブランコヴェアヌの娘)の命令により建設された。ルーマニア国立美術館の西端。ここでバスを降り、雨の中、束の間の撮影タイム。ルーマニア国立美術館の建物を見上げて。『インフォユーロパセンター Centrul Infoeuropa』『Centrul Infoeuropa』は、欧州連合への加盟に向けたルーマニアの準備に関する必要な情報をルーマニア国民に促進するために、ルーマニアの欧州委員会代表団によって1999年に開設された。2007年に欧州連合に加盟したことにより、インフォユーロパセンターはルーマニア政府の欧州問題部に引き継がれた。2013年2月1日以降、『Centrul Infoeuropa』はルーマニア・外務省に所属する組織になっていると。再び革命広場の『記念碑 Memorial of Rebirth Memorialul Renașterii』その後ろに政府機関・旧共産党『Ministerul Muncii și Justiției Sociale』の建物。再び『ルーマニア国立美術館』。カロル1世の騎馬像(Equestrian Statue of Carol I)とその後ろに『Centrul Infoeuropa』。『ルーマニア国立美術館』のライトアップ。再び東方正教会を車窓から。四ツ星ホテル『ノボテル ブカレスト シティ センター Hotel Novotel Bucharest City Centre』ビクトリエイ通り沿いの歴史を感じさせる建物の最頂部。そして『Piaţa Constituţiei』でバスを降り、『国民の館(Casa Poporului)』の撮影タイム。ルーマニアの首都ブカレストにあるルーマニア議会の議事堂および観光施設。1980年代に、当時のルーマニア共産党書記長だったニコラエ・チャウシェスクが「宮殿」として造成した。建築物としては、ペンタゴン(延床面積616,540m²)に次ぐ世界で第2位の大きさを誇る。ブカレストで一番に見たかったのは、共産主義時代の独裁者チャウシェスク大統領が1,500億円もの巨額の資金を投じて建設したこの宮殿、「国民の館」であったが。ワシントンにあるペンタゴンに次いで世界で2番目に巨大な建物で、3000を超える部屋を持っているのであったが、到着も遅れ雨も降りライトアップが殆どされていなかったのであった。1984年に着工。昼夜を問わず建設が進められ、しばしばチャウシェスク大統領が現場を視察し、進行状況のチェックなど指示を下したと。1989年のルーマニア革命でチャウシェスク政権が倒されたのを機に、建設計画の7割程度の完成をもって建設が一時中断された。その後建設が再開し、エレベーターなどが増築された。1997年、完工。2004年には建物の西翼部分に「現代芸術美術館」がオープン。また同時に「全体主義と社会主義リアリズムの博物館および公園」として公開されるようになったと。巨大なこの建物は、四角形に造られどこから見ても同じ姿で「正面」がないのだと。豪華な装飾のホールや、廊下など建物の一部は有料で一般公開されており、国内外から多くの観光客を集めている。一部しか公開できないのは、現在部屋数が3,000を超え、あまりに大規模で管理ができないためである。内部の写真撮影は原則禁止されているが、入場料と別に撮影料を払うことで許可を受けることも可能。外周道路が2008年よりブカレスト・リンクとしてブカレストGPの公道コースに用いられている。また、地下には自動車が走行できるトンネルもある とウィキペディアから。天気が良い昼間であればこの様な姿が。 【http://tabisora.com/travel2001/romania2/】よりブカレスト市内に圧倒的な存在感を持って聳える国民の館。かつての独裁者チャウシェスク大統領が日本円にして約1500億円もの巨費を投じて建設を命じた巨大な宮殿。地上10階地下4階、世界2位の広さを誇る国民の館には3000を超える部屋があり、現在ではルーマニア議会の議事堂や政党のオフィス、美術館などが入っていて、一部が見学できるようになっている。写真は憲法広場からの正面全景だが、高さ84m横幅275mもある国民の館全体をカメラに収めるには、建物から相当離れても中々入りきれないのだと。ネットに『国民の館』👈リンク の内部を紹介した動画がありましたので紹介させていただきます。 【https://www.travel.co.jp/guide/article/28307/】より正面からだと、巨大さは実感できなかったが、上空から見ると同様な建物が4面にあるのであった。 【http://uminomukoudemirufuukei.blogspot.com/2015/11/blog-post_7.html】よりつかの間の撮影タイムが終わり、完全燃焼出来ずにバスに戻る。そしてブカレスト国際空港に向けての準備で、デパート内のトイレを借りて帰路のスタートについたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.11
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レストラン『Bar Regal』の建物の下の通路を潜り昼食レストラン会場への坂道を上る。こちらも茶色の絨毯が一面に。我々の昼食のレストラン『カバナ ヴァナトリアスカ(Cabana Vânătorească)』に到着。森の中にあるロッジ風のレストランであった。モミの木で作られたというレストランのインテリアに囲まれての昼食。サラダには塩気の多いチーズがかかっていた。ブルガリアの料理、ショプスカ・サラダ(Šopska salata)に似ていたが。旅行会社からのワインのサービスを楽しむ。旅友の熊ちゃんのワインもご馳走になりました。メインディッシュ。デザート。食事も終わり、巨大な熊の剥製の前で旅友の小柄な熊ちゃんが巨大熊と仲良く。もう一つも巨大な熊。昼食を終え、バスの待つ場所まで徒歩で下る。四ツ星のホテル『Vilele Lucia』。バスに乗り込み約126km先のルーマニアの首都ブカレストに向かう。シナイア修道院の真向かいにあった、これもレストラン『Cazare Casa cu Farfurii Sinaia』。ヴィラ『Vila Liliana』。マナスティリィ通りから四ッ星ホテル『Hotel Palace』を右手に見る。往路でも見たカジノ『Sinaia Casino』。カジノ『Sinaia Casino』は大きな広い建物。こちらがカジノの正面であろう。リゾート地・シナイアを代表する建物であるカジノ、スキーシーズンは賑わうのであろう。三ツ星ホテル『Caraiman Hotel』。四ツ星ホテル『RINA Sinaia Hotel』。観光地とは言えシナイア(Sinaia)のホテルの多さにビックリ。『RINA SINAIA HOTEL』の文字が。小さなロータリーから、屋根の上のコックを発見。エステティック サロン『Daniela Toma, Salon』。公証人事務所『Ioniţă Dorina-Bogasiu Gheorghe, Birou Notarial』。『聖エリアス教会 St. Elias Church』。『聖エリアス教会 St. Elias Church』の二つの尖塔が見えた。1号線に合流し南下する。プラホヴァ川(PRAHOVA)を渡る。ブカレストに向かう鉄道の跨線橋を渡る。1号線の両脇に墓地群『Cimitirul Eroilor』。車窓からの山々には雲海が。バスの中は旅の疲れか、わずかなイビキも聞こえて来た。ポサーダ(Posada)の村を通過。旧道のアーチ状の石橋か。アーチ橋を振り返る。陶器の人形が所狭しと。ルーマニアは、機能性高い陶器を美しい遺産として誇っているのだと。ルーマニアの陶器はユニークで多種多様であり、人々の創造性と伝統を表現している。色は黒いMarginea陶器から、赤いSacelという花瓶に、カラフルなホレズ陶器とCorundプレートといった、形も色も異なった陶器が存在していると。特にルーマニアのここトランシルヴァニア地方が有名であるようだ。この建物は?。プラホバ(Prahova)川に架かる鉄道の鉄橋。バネシュティ(Bănești)手前のプラホバ(Prahova)川に流れ込むドフタナ(Doftana)川を渡る。伐採した巨木を載せたとトラック。積載方法が大胆でこの国らしい。日本の輸入材の中でも増えているのがヨーロッパ材。北欧も多いが、目につくのがルーマニア材であると以前テレビのニュースで。原生林を破壊したルーマニアの木材が日本の住宅に化けているのだと。そしてルーマニアは、ヨーロッパに残された原生林の約3分の2を占める国であると。再び田園風景の中をひたすらブカレストに向けて進む。カプ・ロシュ(Cap Roșu)の村にあった教会『Biserica Nașterea Maicii Domnului』。右手にあったのは原油を採掘する油井であろうか。ポンプジャック、ビームポンプであろうか?ルーマニアは、石油産出国であり、石油採掘の歴史も深い。早くも1691年にこの場所から15km程のモレニ油田で最初の原油の採掘が始まったのだと ネット情報から。工場『Phoenixy SRL』はコーン菓子の製造工場。トウモロコシの生産量は世界10位であると。Gustoブランドの『Phoenixy SRL』のコーン菓子、トイレ休憩のガソリンスタンドに隣接したコンビニの陳列棚にも置かれていた。 【https://www.romania-insider.com/index.php/phoenixy-gusto-exports-sales-2018】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.10
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『シナイヤ僧院』の見学を終え、次の観光場所の『ペレシュ城』に向かってフルニカ通りを徒歩で向かう。ホテル『Vila Intim』の前の坂道の遊歩道を進む。霧雨の中、遊歩道を上って行く。振り返ると、先程観光した『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の尖塔、そして古い教会『聖母被昇天教会 THE DORMITION OF THE HOLY VIRGIN MARY SINAIA』を囲む建物が、黄葉し雲に霞む山を背景に確認できた。遊歩道の両脇には一面に枯れ葉の絨毯が。木々の葉も雨に濡れて絶えずヒラヒラと。土産物屋。遊歩道にも濡れ落ち葉が一面に。滑らないように気をつけながら進む。山の地面の色が全く確認できないくらい一面に茶色の絨毯が敷き詰められて。これぞ晩秋の光景。頭に被るのであろうか。ハロイン用か?土産物屋が左手にズラッと並んでいた。衣類関係の土産が多く吊るされていた。『Valea Peleșului川』の流れが遊歩道の横に。そして右手に見えて来たのが『ペレシュ城 Peleș Castle(Castelul Peleș)』。ペレシュ城(ルーマニア語: Castelul Peleș)は、ルーマニア中部シナヤにあるドイツ・ルネッサンス様式の城。王室の夏の離宮として、初代国王カロル1世により建設された。ルーマニアで最も壮麗な城とされ、部屋数は160以上あると。1875年から39年もの歳月をかけて造営され、1914年に完成した。巨額の建設費を投じての豪華な離宮建設に、国民からは不満の声もあがったという。カロル1世は、この城の完成から数カ月後に崩御した。現在、旧ルーマニア王室に所有権が認められているが、旧王家の意向によって博物館として公開されており、絵画、絨毯、武器や甲冑、伊万里焼を含む陶器などのコレクションがあり、また城自体にもグスタフ・クリムトの装飾画や木彫り装飾などが美しく施されているのだと。端正な塔に優美な壁画や彫刻、メルヘンチックな木組みの構造とが見事に融合した、複雑かつ優雅な外観はため息もの。進むにつれて角度によって多彩な表情を見せてくれる『ペレシュ城』は、見ていて全く飽きることなし。この後、正面から、斜めから、近くから、遠くから、さまざまな場所からその美しい姿を楽しんだのであった。坂道の反対側の『Valea Peleșului川』の白き流れ。白き流れに枯れ葉が迷い込んで。ズームで。ファンタジー世界がそのまんま出て来そうなデザインに驚きと感動。遊歩道を登りながら『ペレシュ城』を追う。ペレシュ城の時計塔を見る。ペレシュ城手前、左手にあったレストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』。店の前には大砲が飾られていた。『Castelul Peleș(ペレシュ城)』 見学案内板。『ペレシュ城』アクセスルート&付近案内板。『ペレシュ城』とは道路の反対側にあった『Pelișor Castle ペリショール城』の見学はツアーのコースに残念ながら含まれていなかった。ネット情報・ウィキペディアに拠ると、美しい木組みが施された美しい城。カロル1世が甥のフェルディナンドとその妻マリーのために建てた狩猟用の城であると。ペレシュ城とは異なり、中世ドイツ風の木組みの美しい外観で、1902年に完成。城の内部は、アールヌーヴォー調の家具や装飾が施され、豪華でありながらシンプルな造作。調度品や絨毯、シャンデリア、室内デザインにいたるまで細かく指示したという王妃マリーのセンスが、色濃く反映されているのだと。 【https://en.wikipedia.org/wiki/Peli%C8%99or】より『ペレシュ城』の姿の上空からの写真をこれもネットから。 【https://livedoor.blogimg.jp/sue20-momo/imgs/1/8/180f68a3.jpg】端正な塔に優美な壁画や彫刻、メルヘンチックな木組みの構造とが見事に融合した、複雑かつ優雅な外観はため息もの。ルーマニアの子供たちも遠足であろうか。美しい木組みの構造が向かって左翼の建物に。噴水が設置された城の前の庭園。そこには数々の彫刻が見事な姿で並んでいた。ドイツ・ルネッサンス様式で建てられたこの城は施された多くの彫刻や噴水を用意した庭など、年月をかけて建てられたこだわりが随所に感じられたのであった。そしてカロル1世は、この城が完成して数カ月後に亡くなったのだと。彫刻像のそれぞれがとても豊かな表情をしており、ペレシュ城だけではなく、個々の像をゆっくり見ていたかったのであったが。裸婦像、いや女神の姿であろうか?この城を作ったカロル1世の像と後ろに向かって右翼の建物。1839.4.20. ジークマリンゲンに生まれ、1914.10.10. シナイヤにて没す。ルーマニア王国初代の王 (在位1881~1914) 。ドイツのホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家の出身。プロシア軍に任官。従兄のナポレオン3世の仲介で,1866年ルーマニア公となり,81年ルーマニア王国の成立に伴い初代国王に即位,内政改革,軍備拡張,産業振興に努力。しかし農民問題の解決を怠り,1907年の大反乱を招いた。初め親ドイツ的傾向のため不人気であったが,ルーマニアの国際的地位の向上,特にオスマン帝国からの独立に外交的手腕を発揮して支持を集めた。自由党と保守党に交互に政権を担当させ,巧みに内政を操縦したが,結果として責任内閣制の成立を遅らせることになった。『CAROL-1 PRIMUL REGE AL ROMANILOR 1866 1914』は『カロル1世 ルーマニア初代国王 1866-1914』。『ペレシュ城』の奥の擁壁。擁壁手前の庭園への階段。城内は現在は博物館として公開され、各部屋に、カロル1世が集めた美術品や金銀、中世の武器などを展示している。クルミの木に彫刻を施したらせん階段や、黄金の漆喰装飾が美しい壁など、精巧な装飾はため息がでるほどの美しさであるとガイドブックにあったが、我々のツアーに城内の観光は含まれていなかったのであった。『城内の様子』👈リンク を参照ください。城の前から前庭を見る。像も苔むして。多くの像が前庭に並ぶ。写真中央アーチが城内への入口のようであった。ペレシュ城の時計塔。時計塔の上まで上れるのであろうか?『ペレシュ城』前にも大砲とその下にライオン像が。敷地の入口の一段高い場所に置かれていた大砲。レストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』を再び。宿泊施設『Vila Economat』。美しい木組みの壁をズームで。束の間の自由時間に『ペレシュ城』手前の庭園を急ぎ足で周り、集合場所に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.09
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『シナイヤ僧院』の中庭からホテル『Vila Intim』の建物を見る。中庭を囲む建物の屋根の上の塔の頂部には十字架が。中庭を囲む建物。屋根の先には『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の3本の鐘楼塔の頂部の十字架の姿が。中庭の真ん中にあったのが、小さな『古い教会・聖母被昇天教会 Biserica Adormirea Maicii Domnului』。手前の塔は見張り塔の機能も持つ鐘楼塔。この塔は、1788年の戦争で修道院が破壊され、オーストリア人、そしてトルコ人によって焼かれたのだと。裏側から。下部の開口部にはステンドグラスがはめ込まれていた。入口のポーチには極彩色のフレスコ画が。ズームで。真上の神様からスタートして、教会の入り口に向かって最後の審判の物語が描かれているようであった。門の上の石版の書き込みは?『聖母被昇天教会 THE DORMITION OF THE HOLY VIRGIN MARY』案内板。ミハイル・カンタクジーノ(Mihail Cantacuzino)によって1690-1695年に建てられた。最初の修道院長はジェローム。フレスコ画は、当時の最も重要な画家、PârvuMutuによって作成された。1788年、オーストリア人とトルコ人の戦いの間に、教会はひどく損傷し、鐘楼は破壊され絵は多くの部分がで損傷したと。ここでも、カメラのシャッターを粛々と。ズームしたが残念がらこちらはピンボケ。ステンドグラス。こちらもステンドグラス。フレスコ画を堪能して外に出る。そして再び古い教会を囲む建物を見る。そして更に古い教会を囲む建物を出て広場から『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』を見る。塔の再頂部には横3本の十字架・パパル十字(Papal cross)が。教皇十字とも呼ばれ(教皇=法王)、キリスト教の正統教義の一つである「三位一体」を表しローマ法王が儀式などで用いる十字架であると。塔の1本だけにパパル十字(Papal cross)が。トイレの裸電球の配線工事はこれで完成なのであろうか??これがここルーマニアの工業レベルではなかろうが。『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の横にあった建物の壁には、様々なモザイク画が展示されていた。奥から順番にカメラに収めた。そして最後に『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の周囲を一周する。南側。東側(裏側)。北側。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.08
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アレエア・ニフォン通りでバスを降り、『シナイア僧院(Mănăstirea Sinaia)』の観光をスタート。ルーマニアのトランシルバニア地方となるシナイア。夏は避暑地、冬はスキーと大自然を満喫できる場所として人気があると。また、「カルパチアの真珠」と表現されるほど美しいことでも知られているのだと。そこにある『シナイア僧院』だが、この僧院の『シナイア』がそのまま地名となったと伝わる程、長い歴史と重要な意味を持っているのだと。中央に『シナイア僧院』の大教会の尖塔が3本。右手は鐘楼。『シナイア僧院』の案内板。シナイアはブラショフから南に約40キロ、バスで1時間ほどのところにある小さな村。ブカレストからだと北に約130キロ、バスで2時間半ほどのところにあった。シナイアという町は中世にルーマニア人貴族、ワラキア公カンタクジー・Cantacuzino(またはワラキア公ミハイMichael the Brave)よってその元が出来た。彼は1695年にイスラエルへ巡礼の旅に出、聖書に登場するシナイ山に参詣し、帰国後シナイア修道院を建てたと。その後、ルーマニア国王カロル1世(在位:1881~1914)がこの地に夏の離宮(ペレシュ城)を建て、このあたり一帯は高級リゾート地として発展したのだと。上空からの写真をネットより(ブログを書くために配置を再確認)【http://9.pro.tok2.com/~yucky/Romania%20Travel%20Castle%20and%20Sinaia%20Monastery.html】より転載。入口の門を入って行く。門の両側にはフレスコ画?イコンが飾られていた。『シナイア僧院』の写真案内図。1695年から順次改修工事が行われて来ていると。門を入り右手にあったのが石積みの上に立つ白き『鐘楼』。正面から『鐘楼』を。そして正面に赤と白の縞模様の鐘楼をもつ建物、『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の姿が。大教会の正面入口。入口で見上げて。柱や入口のアーチには繊細な装飾が施されていた。柱の上も見事なアーチとその上下の彫刻。フレスコ画をズームで。木製のドアがある礼拝堂入り口にある見事なイコン画(フレスコ画)。ズームして。これもイエスキリストの最後の晩餐の様子が描かれているのであろう。天井のフレスコ画。内部では「写真撮影禁止」の札が掲げられていたが・・・??添乗員も何故か止めることもなく・・・・。『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の主な歴史が説明されていた。見事なフレスコ画が次々と。そしてシャッターを粛々と。中央祭壇。黄金に輝くイコンで覆われた内部には、厳かな空気が流れていたのであった。更に近づいて。ドームを見上げる。ズームで。イコノスタシス(iconostasis)。イコノスタシスは「聖障(せいしょう)」と訳される。聖所(せいじょ・内陣)と至聖所(しせいじょ)を区切る、イコンで覆われた壁である。正教会と東方諸教会の聖堂で用いられる。日本正教会ではロシア語の"Иконостас"(イコノスタス)に準拠し「イコノスタス」と呼ばれる事が多いが、ギリシャ語(Εικονοστάσιο)・英語(Iconostasis)に由来する「イコノスタシス」の表記も用いられるようだ。引き続き、カメラのシャッターを。外に出て向かい正面にある古い教会『Biserica Adormirea Maicii Domnului』を囲む建物を見る。17世紀末に「カンタクジノ」の跡を継いだ「ブルンコヴェアヌ公」が細部を増築した「古い教会」がこの建物の中の中庭に建っっていたのであった。大教会前から古い教会の中庭を囲む建物。広場から入口門、鐘楼を見る。再び古い教会への入口門前から『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』を見る。大教会から通路を挟んだ反対側にあるのが古い教会『Biserica Adormirea Maicii Domnului』。歴史が感じられる門が。ここから中に入る。細かな木彫り彫刻のある独特の十字架が建つ中庭は、白壁の建物に取り囲まれていた。白い出窓が並ぶ建物や緑の屋根に白壁が美しい建物など、美しい僧房なのであった。大教会の周囲も散策。白壁の上に出窓やベランダが並ぶ建物。古い教会『Biserica Adormirea Maicii Domnului』を囲む建物の入口門を中庭から。花壇も美しくバラが咲き手入れがされて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.07
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三ツ星ホテル『Hanul Bran』手前でバスに乗り込み、約45km離れたシナイア観光に向けてバスは進む。DN73号線沿いのこれもホテル、クラブヴィラ・ブラン-リトルキャッスル(Micul Castel Vila Bran)。DN73号線の山道をシナイアに向けて進む。トハヌ・ノウ(Tohanu Nou)村にあった墓地が右手に。羊の群れ。ラスノフ(Rasnov)村にある聖ニコライ教会(The St Nicolae new church)が遠く右手に。73A号線に入りう山道を進む。プルウル・レチェにあるクネクネとした山道を右に左にと。この山道沿いにも枯れ葉の敷き詰められた山裾が拡がっていた。1号線に突き当たりここを右折して南下。BRANから31kmの場所。ブラショフ(Brașov)からプロイエシュチ(Ploiești)を経由してルーマニアの首都ブカレスト(Bucureșt)に向かう鉄道に沿って走る。流れる川は『Prahova川』。長い時間、鉄道沿いを走るが列車の姿は現れず。そしてブシュテニ(Bușteni)の街に入る。通常の店舗も教会風。Bușteni駅前を通過。カルチャーセンター Aurel Stroe Cultural Center(Centrul Cultural Aurel Stroe)右手にブシュテニ市役所・区役所(Primăria Bușteni)。ブシュテニ(Bușteni)は、ルーマニア中央部のプラホヴァ郡の北部にある小さな山間の町。最大標高が2,505 mのブチェジ山脈の底にあるプラホバ渓谷にある街。ルーマニアの国旗が。レストラン・カライマンホテル『Restaurant Rustic - Hotel Caraiman』。Poiana Țapului駅の手前を通過。1号線を外れ、Sinaia駅手前のフェルディナンド通りを進む。右手にあったのがカジノ『Sinaia Casino(Casino Sinaia)』。カロル1通りのロータリーの標識。山々も紅葉の盛り。Uターンしてエロイロル通りを進むと右手に軍用墓地『Cimitirul Eroilor』が。そして『シナイヤ僧院』に到着。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.06
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ブラン城内の見学を終え、外に出て、往路で上って来た同じ坂道を下る。ブラン城の立つ岩山の下の斜面には枯れ葉の絨毯が。再び城内入口(出口)を振り返る。『PARCUL CU LACURI』公園の人の数は少なく。池の水面には黄葉した木々が映り込み。坂道、そしてブラン城を振り返る。空にはどんよりとした雨雲が相変わらず。城の東側の壁は、石積みの壁になっていた。公園には巨大な壺がやや傾いて。城内で使われていたものなのであろうか?公園の中を集合時間までしばしの散策。公園の遊歩道からブラン城を見上げて。枯れ葉の浮く池の水面を。公園の中にも十字架が。岩山の上に立つブラン城は、備中松山城の岩盤上の石垣に似て。雲に煙る周囲の山々。ブラン城の西面を見上げる。こちらが、ブラン城の『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』の入口の一つ。土産物屋の案内も。このトンネルを入っていくと、城の上部に登る『リフト』が隠れていたようだ。『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』入口を正面から。公園の遊歩道を引き返しながらブラン城を追い続ける。水面にブラン城が映り込む場所から。場所を変えて水鏡に拘る。これぞ晩秋のブラン城。これでもかとシャッターを押し続けた。こちら側からは、傾きが感じられなかった。そして集合時間まで、土産物屋を散策。ドラキュラの仮面が叫んでいた。いやアメリカ映画で見た面に似て。いやムンクの叫びにも似て。絨毯売り場。幾何学模様の絨毯が並ぶ。翌日(10/31)はハロウィン。仮面舞踏会ヴェネチアカーニバルから流れて来たか?これぞベネチアンマスク!!世界三大カーニバルの1つを是非見てみたいと思うが・・・。土産のチーズ売り場には巨大なチーズが積み上げられていた。ルーマニア語でチーズの総称はブルンザ(branza)、中でも白っぽいチーズが多かった。これは羊の乳のチーズとのこと。ルーマニアのチーズは牛乳もしくは羊乳から作られ、ヤギの乳のチーズはほとんどないと現地添乗員のアレキサンダーから。チケット売り場手前で、添乗員のOさんが26名が揃っているかを何回も確認して。集合時間にはpunctualな旅友達。「They were always very punctual for appointments.」バスに向かってブラン城を後にして進む。城の手前の急カーブの場所から土産物屋そして教会の如き建物。こちらはジャム売り場か。骨董品?の『プレートアーマー』も販売中。様々な古そうな食器も並んでいた。胡椒を潰す金臼の如きものも、そしてその下には水挿しも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.05
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続いて訪ねたのが『武器の部屋(sala armelor)』・左側には紋章付き外衣の盾、右側には様々な武器が掛けてあった。『武器の部屋(sala armelor)』案内板。『プレートアーマー』。人体の胸部、あるいは全身を覆う金属板で構成された鎧。金属板で構成されるため、板金鎧(ばんきんよろい)とも呼ばれる。拷問器具の展示室か。右に『拷問椅子』。椅子の内部は木製であったが棘棘だらけ。拷問の姿の写真をズームで。女性か?ほぼ全裸?これぞ有名な『鋼鉄の処女 アイアンメイデン』であろう。左側に拷問前に人の入っている写真が展示されていた。しかし、本当にこんなものが使われていたのであろうか?やはりドラキュラの世界としか思えなかったのであった。この『拷問器具の展示室』👈リンク を詳しく紹介しているブログに出会いましたのでリンクさせていただきました。こちらは衣装部屋。当時の戦時の衣装が展示されていた。そして1階、中庭を見下ろす。上のフロアから見たブラン城。とんがり頭の塔と木組みの壁が美しかった。物見の塔というが窓が小さい感じがしたが。からっと晴れた晴天であれば、背景の紅葉の山もすばらしかったのであろうが・・・。回廊を進む。中庭には井戸が見えた。回廊からのブラン城の姿を楽しむ。鳥の巣箱のような可愛いらしい煙突と、鐘塔らしきものが。回廊から見上げて。再び『中庭の井戸』ブラン城には秘密の通路がいくつもあり、その出口がこの井戸であるとのこと。井戸を上の回廊から。敵に囲まれた時にも、水が補給できるようになっていた。ブラン城の建築物(BRAN CASTLE’S ARCHITECTURE)の説明板。大砲というより長距離鉄砲。何門か備えてあった。中庭まで降りて井戸の中をのぞくと、水ではなくたくさんのコイン、紙幣が投げ込まれていた。ここにコインを投げ込むと願いが叶うということで、賽銭箱のように。中庭に降りて城を見上げる。見上げる場所を変えて。更に。回廊がクネクネと。回廊から下部の中庭にカメラを向ける人々が。再び『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』。『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』の構成物の写真が中央の配置図と共に。15世紀に建立された礼拝堂の近くのこの中庭には、30mの深い井戸があったのだと。伝説によるとこの井戸は12人のトルコ人の囚人によって掘られた。井戸を作れと命令したフニャディ・ヤーノシュが囚人達に水を見つけたら自由にすると約束した。15年後に水は湧いたが、フニャディ・ヤーノシュは約束を破った。そのため、現在でも、井戸の碑文には「陛下、水はあるが魂はない」と書かれているのだと。井戸の釣瓶。そして土産物コーナーに立ち寄る。ドラキュラに関連する様々な土産が。出口の上を見上げると見事な装飾のランプ?が。ブラン城の中庭を後にする。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.04
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3階に上る石のトンネルの如き狭くて長く暗い階段。これこそが中世の雰囲気をそのまま残す美しさ。ブラン城の中にはいかにもドラキュラが襲ってきそうな迷路や拷問に使われていた部屋があった。3階と1階をつなぐ秘密の階段は、1930年代になるまで発見されなかったと。城を修復している時に見つかったもので、『秘密の階段』と呼ばれていると。ようやく階段の最上部へ。 そして次の部屋の入口の場所は隠し階段らしく、本棚の間であった。3階からの景色。『音楽ホール Salonul de muzică』メアリーはエディンバラ公爵アルフレッドの長女(イギリスのビクトリア女王とザクセンコーブルクゴータのアルフレッド王子の次男)とロシアの大公爵夫人であるマリアアレクサンドロフナ(皇帝アレクサンドル2世の娘)の長女であった。1893年の華麗な同盟である、ルーマニアのフェルディナンド王子(1865-1927)と結婚。ブラン城の最大の部屋、マリア王妃の音楽ホールと図書館。王宮の最高建築家、カレル・リマンの設計によると。マリア王妃とイレアナ王女。絵の左下に「1909」と年号があることから、マリア王妃と1909年生まれのイレアナ王女であることが判ると。絵の中のマリア王妃はたいへん優しげで「良妻」に見えますが、夫フェルディナンドとの仲はたいへん悪く、3男3女の子供のうち、始めの二人は夫の子であるが、それ以降は父親不明と言われているのだと。おそらく公開されている中で一番大きな、そして白い壁に囲まれた部屋。天井はあまり高くないものの、天井も床も家具もすべて木製で、落ち着いた雰囲気。部屋の中央には、白い壁に囲まれた東屋のような場所も。ここには暖炉があって、この一角はかなり暖かかったものと思われた。団欒の間といったところであろうか。別の角度から。白い漆喰壁に重厚な木彫り装飾が施された家具、美しい装飾の陶器製の暖炉、温かみのあるシャンデリアなど、どの部屋に入っても中世にタイムスリップしたような気持ちに。絨毯の先にはピアノが。精細な木彫り装飾が施された家具が。イレアナ王女の写真。1931年7月、イレアナ妃はトスカーナ大公家の公子アントンと結婚し、二人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が誕生したと。しかし、1948年に王家は亡命、ブラン城は没収された。その後、ルーマニア革命が起き、2006年にイレアナ王女の子供たちに返還された。2014年、彼らはルーマニア政府に対して売却交渉をしていると。そうなら、返還などしなければ良かったと、政府は思っているのでは。『音楽ホール Salonul de muzică』の部屋からは、広い回廊(Loggia)に出られた。中庭を囲んでこの回廊(Loggia)が作られていた。回廊から中庭を見下ろす。左側に火薬庫の『円塔』が。砦の南西部分に14世紀に建てられた、おそらく砦で最古の塔。テラスから更に階段を上った。ブラン城の階段は特に、木製で使い込まれていて、適度な幅で上りやすかった。鳥の姿の大きな水挿しか?階段を上がると、この屋上兼テラスに出た。ブラン城の南側を見る。DN73号線、そしてそれに沿ってTurcul川、その先に赤い屋根の高等学校の校舎が見えた。高等学校をズームで。屋根の上の煙突か。その屋根には風見鶏が。眼下に瀟洒な民家が。ブラン城の周囲には歴史を感じる古い教会なども建てられていた。チャペル『Capela "Inima Reginei Maria"』、そしてその前方には今も残っている石垣の姿が。眼下に見えた石垣の連なる場所は、トランシルバニアとワラキアの国境で関税を徴収していた場所でもあると。③『Capela "Inima Reginei Maria"』案内板。石垣の手前に『Inima Reginei Maria』の史跡。またまた階段。テラスから中に入ると、狭い部屋にみごとな家具が置かれていた。よく見ると、部屋の奥に短い階段が見えた。あれはどこに行くのであったか?それにしても、城中、階段だらけ。左手に見事な家具が。『ルーマニア王子ニコラエ Nicolae, Principe al Români)ニコラエはフェルディナンド1世と王妃マリアの次男である。母がイギリス王女であったことからイギリス王室との交流が深く、一時イギリス海軍に所属していたこともある。兄のカロルス2世と対立してルーマニアを追放され、スペインへ亡命し1978年に亡命地で死去した。『ヴラド三世』の家系図。一番有名な『ヴラド三世』の肖像画。くるくるロングの髪と髭。。目は二重でぱっちり、鼻は鷲鼻。被っている帽子の宝石や胸のボタンが煌びやか。ヴラド3世(Vlad III , 1431年 - 1476年)、通称ドラキュラ公(Vlad Drăculea) または串刺し公(Vlad Țepeș )は、15世紀のワラキア公国の君主(ワラキア公)。オーストリア・アンブラの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)から提供された無名の画家が描いた肖像画であると。『Certificate of Authenticity 真贋証明書』。映画のドラキュラで使用されていたもので、ブラン城に寄付されたオリジナルのネックレスであると。ブラン城下の公園を見る。『ドラキュラ伝説』説明板。ヴラド3世は当時、敵だったオスマン帝国の兵士や自国の民や貴族を串刺しにして一列に並べたという逸話があり、ルーマニア語で「串刺し」を意味する「ツェペシュ」というあだ名で呼ばれていた。また、悪魔公と呼ばれた暴君の父親の影響でルーマニア語で悪魔の子供を意味する「Dracula(英語発音でドラキュラ)」というあだ名も持っており、これがドラキュラのモデルになったという風に言われているのだ。小説『ドラキュラ』で有名になった『ブラム・ストーカー(Bram Stoker 1847年−1912年)』はイギリス時代のアイルランド人の小説家。『ブラム・ストーカー(Bram Stoker)の生い立ち、経歴案内。『ヴラド3世』 説明板。『ヴラド3世』が行った処刑の様子を描いた展示。なぜ『ヴラド3世』が「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったのか、彼が実際に行った「串刺し刑」などの処刑の様子が描かれていた。『串刺し』の姿。『Descartes de strigoi』とは『不死の断片』の意か。窓やシャンデリアの装飾も美しかった。色彩豊かな可愛らしい扉も。落ち着いた雰囲気の机、椅子が、美しい模様のタイルを貼った暖炉とともに。ブラン城に文句をつけるなら、各部屋や展示品の説明がやや少な過ぎるのでは。すべての観光客がイヤホンガイドを使うわけではないので、もう少し考慮して欲しいと思ったのであった、そして日本語での説明文も追加して欲しいと我儘にも。『The Saxon Chamber』がサクソン人の部屋?ANTICAMERA DORMITORULUI REGELUI『キングフェルディナンド1世の寝室』。『STEMA REGATULUI ROMANIEI INTREGITE』ルーマニア国王フェルディナンド1世の紋章。フェルディナンド1世の赤いBED。ズームで。王冠。『DORMITORUL REGELUI FERDINAND』『キングフェルディナンド1世の寝室』。『キングフェルディナンド1世の寝室』を別の角度から。ネオバロックスタイルの家具セット。ダイニングルームには19世紀の装飾品と塗りタイルの暖炉が。ズームで塗りタイルの暖炉を。『コスチュームホール』。ここでは、マテイバサラブ(城の所有者の1人)の時代に着用した宮廷コスチュームのレプリカが展示されていた。イレアナ王女のガウンであろうか?若かりし頃のイレアナ王女像。イレアナ王女の経歴を紹介。第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し看護婦として働いた。ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカ・マサチューセッツ州に居をかまえた。彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え2冊の本を執筆するなど活動した。この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人のシュテファン・ニコラエ・イサレスクと再婚するが1965年に離婚し、イレアナはフランスでビュシーの生神女庇護修道院に入った。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。1981年に引退するまで活動した。1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。ルーマニアの国章。鷲が抱えている盾は赤と青の五分割のものである。上部に2つ、下部に3つの枠がある。上部左には、青地に頭上に日月を戴いて十字架を咥え、赤い嘴と脚を持つ翼を広げた金の鷲が描かれている。これはワラキアの紋章である。上部右には、赤地に角の間に金の五角星を戴いた黒い牛の頭が描かれている。これはモルダビアの紋章である。下部左には赤地に金(黄)で銀の剣を掴んだ獅子と橋が描かれている。獅子と橋はバナトおよびオルテニアの紋章である。下部中央には、青地に2匹の金の魚が描かれている。これは黒海沿岸のドブロジャを象徴している。下部右には、青地に黒い鷲が描かれている。これはトランシルヴァニアと、同地方に属するクリシャナ(現在のアラド県やビホル県にまたがる地方)およびマラムレシュ(現在のマラムレシュ県を含む地方)を象徴していると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.03
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この日はツアー7日目の10月30日(水)。この日も早朝起床し朝食を取る。9:45にホテルを出発し、ここブラショフの南西約33kmにある『ブラン城』の観光にバスで出発する。1E号線の山道を進む。道の両脇の山の斜面には、紅葉も終わり枯れ落ちた落ち葉が敷き詰められていた。小雨の中、車窓からの風景を楽しむ。Poiana村を通過。山裾には雲が低く垂れ込めて。ルシュノヴ(Râșnov)の街中を流れるGhimbâșl川を渡る。E574を進むと多くの羊が放牧されていた。そしてブランの街に入ると前方に『ブラン城』が見えて来た。ホテル「Casa din Bran」。バスを降りブラン城に向かって歩く。土産物屋にはドラキュラの顔とドラキュラが苦手なニンニクが。「ドラキュラは何故ニンニクが嫌いなのか」👈リンク を参照ください。左手にあったのがお化け屋敷(The Castle Of Horror)の建物。こちらが入口。そして正面に『ブラン城』。『ブラン城』入口で添乗員アレキサンダーが入場チケットを購入するのを待つ。手前には多くの土産物屋が両側にズラッと並んでいた。ブラン城入場料︰ 40レウルーマニアのほとんどのアトラクションと同様に、観光名所にはローシーズンとハイシーズンがある。それに基づいて入場時間のスケジュールは異なると。ローシーズン、10月1日から3月31日までのスケジュールは次のとおりです。月曜日: 12 PM – 4 PM火曜日から日曜日:午前9時から午後4時最終入場:午後4時ハイシーズンでは、4月1日から9月30日までの間。月曜日: 12PM – 6 PM火曜日から日曜日:午前9時から午後6時最終入場:午後6時ルーマニアと聞いて、多くの人がイメージするのが吸血鬼ドラキュラ。15世紀にルーマニアの一地方であるワラキア公国を治めていた、ヴラド三世(ヴラド・ツェペシュ)をモデルにして書かれた小説が世界的に広まり、日本でも「ルーマニア=ドラキュラ」のイメージが定着したと。そんな吸血鬼ドラキュラのモデルとなった城が、ルーマニアに残っているこの城。その名も『ブラン城』。ブラン村の丘の上60mのところに建っている中世の砦である。14世紀末にはヴラド・ツェペシュの祖父ワラキア公ヴラド1世が居城としていた。15世紀に実在したワラキア公ブラド3世(ヴラド・ツェペシュ)、別名ヴラド串刺し公。ドラキュラと言われた由縁は、裏切り者や当時敵対していたトルコ兵を見せしめのために串刺しにして処刑するなど、あらゆる残酷な方法で処刑したゆえからだと言う。ドラキュラとはルーマニア語で「悪魔」も意味している。『TUNELUL TIMPOLUI』の文字が。『タイムトンネル』の意か。タイムトンネルが発見されていたが、7月1日から観光客に公開されたと。ブラン城へのアクセスを容易にするために、メアリー女王の命令で1930年に建てた。トンネルには、城と公園を約40メートルの距離で接続するエレベーターがあったと。このように、訪問者は、ショートカットで城に到達したい場合にこのルートを利用したのではと。エレベータキャビンの再構築、井戸およびトンネルの修復には、ほぼ100万ユーロがかかったと。『TUNELUL TIMPOLUI』建設の経緯も説明されていた。タイムトンネルのあった場所。ブラン城下の下の緑の多い公園(PARCUL CU LACURI)。この周辺の紅葉もエピローグへ。目の前にブラン城に登る坂道が見えて来た。土産屋が並ぶ。駐車場からブラン城の登り口に行くまでには、土産物屋がこれでもかというほど連なっていた。そしてチケット売り場を過ぎると、やっと土産物屋の喧噪から逃れて、樹木に囲まれた静かな城の雰囲気を味わうことが出来たのであった。 石畳の坂道には、私には無縁な「濡れ落ち葉」が。坂の途中から公園内の池を見下ろす。自然の岩山の上に立つブラン城。山上に聳えるブラン城は、岩と一体化したような造り。城の前にあった十字架(クロス)。ブラン城入口。城内に入って最初の部屋にはブラン城の年代ごとの歴史が絵画や写真入りで。ブラン城の歴史の始まりは、1377年11月19日付のハンガリー王ルイス1世の「ブランの山上に要塞を築く特権をブラショフのザクセン人(ドイツ商人)に与える」という通達書。要塞は1438-1442年、オスマン朝軍との攻防戦に使われた後、ワラキアとトランシルヴァニアを結ぶ街道の税関として使われたが、ドラキュラ伯爵のモデル、ワラキア領主の串刺し公ヴラド3世(1448-1476)との直截的関係を示す事実はないとの由。1533年にマジャール王からブラショフ市に所有権が移り、18世紀中頃まで軍事戦略拠点として機能した。1919年にトランシルヴァニアがルーマニア領に組み込まれると、翌1920年ルーマニア王国の所有となり、夏の離宮として使用された。1948年、共産党独裁政権が誕生し、王族は国外に追放され、ブラン城は没収される。民主政権確立後の2005年、政府から財産継承者であるルーマニア国王の子孫に返還され、2009年6月から私設博物館として一般に公開されているとのこと。オスマン帝国に対する国境を守ることの重要性に加えて、ここは税関の役割も。 トランシルバニアに出入りする商品のほとんどは、この地域を通過したと。 城に入り最初の部屋は、元警備員の部屋であると。下の写真は歴代の城主で、左から3番目がワラキア公国のミルチャ公。ドラキュラのモデルであるヴラド・ツェペシュ公の祖父にあたります。左から4番目のおもしろい帽子を被っているのが、ハンガリーの王、ジギスムント。右から3番目がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)。更にズームして。右から4番目がヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)。ブラン城は創建は14世紀だが、1920年から1947年までは、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の夏の離宮として使われていた。マリー王妃(1875-1938)のお気に入りの城であったと。1938年に末の王女イリアナ(1909-1991)が相続したが、1948年に当時の共産党政権が没収。以降、荒廃してしまったたが、80代後半に入って修復工事が始まり、1993年にやっと部分的に修復が完了。現在はもちろん、ルーマニアの人気の観光地の1つ。それが、2006年5月26日、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の末裔で、ニューヨーク在住の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルグ氏に返還されたのだと。写真の中央には王女イリアナ(1909-1991)の姿が。そして右端の写真は現在の所有者3名(ルーマニア国王フェルディナンド1世の孫でありリアナ王女の長男であるニューヨーク州の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルク(Dominic Habsburg-Lothringen)と彼の二人の姉妹Maria-Magdalena Holzhausen、Elisabet Sandhofer)の写真であると。持ち主3人とも現在米国在住とのこと。木造りの天井には素朴なシャンデリアが。城は、もともと13世紀にドイツ騎士団が、トランシルヴァニアの南東部を守るため、木材製の国境の要塞を築いたことから始まると。14世紀には、ドイツ商人が侵入してくるオスマン朝群をいち早く発見する目的で、石造りの要塞を築いたと。その後、ワラキア公ヴラド1世がここを居城としたのだと。実際にこのブラン城に住んでいたのは、ドラキュラ伝説の主人公でヴラド・ツェペシュ(串刺し公)という別名がある15世紀に実在したワラキア公ヴラド3世ではなく、彼の祖父ヴラド1世であると。小さな中庭。城内にある様々な部屋を訪ねたのであった。城内は恐ろしい雰囲気を持つものではなく、中世の典型的な城が4階層にわたり、迷路のような階段と廊下でたくさんの部屋が繋がっており、陶器・家具・武器・甲冑などが展示されていた。この部屋は『マリア女王の寝室』。鷲のマークの紋章。こちらは王冠を被り、口に十字架を咥え、両足に武器を持つ、勇ましくも、何やら忙しい姿。左足は、モルダビアを象徴する銀(白)のシュテファン大公の剣、右足は、ワラキアを象徴する銀(白)のミハイ勇敢公の錫杖とのこと。1893年にビクトリア女王の孫娘であるエディンバラのマリー王女とルーマニアのフェルディナンド王子が結婚した後、若いカップルはすぐにルーマニアと海外で有名になった。彼女の優しさ、慈善、そして美のためにすべてに愛された王女は、第一次世界大戦が始まった直後の1914年に夫が王位に就いたとき、ルーマニアの女王に選ばれたのだ。マリー王女orイレアナ王女のウェディングドレスであろうか、あるいはお洒落着か?背後に日傘も飾ってあった。女王マリーがかつて使用していた衣服、芸術、家具、楽器などが展示されていた。コウモリの如き形のシャンデリア。『マリア女王の寝室』の案内板。女性らしい寝室の家具類。写真中央に寝室のベッド。ルーマニア国王フェルディナンド1世が不在の時、一人でいる時の寝室であると。王妃も王女も美女ですから、写真の日付けが無いと、どちらかを判別するのは大変。この写真はイレアナ王女(1909〜1991年)の方でしょうか。第2次大戦中の1944年、アントン公と結婚していたイレアナ王女は、子供達とルーマニアのブラン城へ移り住み、城外のブラン村で病院を建設し働いたのだと。。右手には暖炉が。天井のアーチ状の曲線が美しかった。次の『ゴシックの部屋』案内板。ゴシック形式の家具が置かれていたから付いた名であると。ブラン城の歴史案内板。天井のアーケードに因んで名付けられたゴシックルームは、かって要塞の礼拝堂であり、前庭に続く聖なる場所であった。部屋の配置は台形。ここには暖炉が設置されていた。『Brașov市長 Lucas Hirscher、1528–1539』や14世紀の壁の案内板。出口の横の四角い部分は、上の城の塗装を剥がした14世紀のオリジナルの壁の様子であると。正面のドアからは3階への石の階段が始まるが、昔はドアの前に家具が置かれ、秘密の階段になっていたのだと。14世紀のオリジナルの壁の部分をズームで。この部屋の壁を修理している時に秘密の通路が見つかったのだと。『秘密の階段(Secret staircase)』案内。王妃のガウンであろうか?『応接室 SALA DE CONSILIU(COUNCIL CHAMBER)』『Brașov市長 Lucas Hirscher、1528–1539』像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.02
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ブラショフの中心部に到着し、バスを降り『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』に向かって歩く。前日にも訪ねた『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』を再び歩く。『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』タンパ山(Tampa)にある「BRASOV」の文字を再び、いや三度と。アメリカにあるハリウッドのパクリ??へリューム風船を売る道化師姿の男が『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』に。広場の噴水前から「スファトゥルイ広場」に位置する「高さ60mの塔」をもつ「15世紀」に建てられた『旧市庁舎(現在は歴史博物館)』。スファルトゥルイ広場の先にある『黒の教会』を訪ねる。『黒の教会』はブラショフの町の中心にそびえ建つ、高さ65mのトランシルヴァニア地方で最大の後期ゴシック教会。名前の由来は、17世紀末にハプスブルク家とオスマン帝国との間で起きた大トルコ戦争の際に、火事でこの教会も焼けてしまい外の壁が黒焦げになったことから「黒の教会」と呼ばれるようになったのだと。教会の内部には、トルコやアナトリア産の絨毯、タペストリー、そして1839年に製作された、4000本ものパイプと4つの鍵盤を備えた、ルーマニア最大級のパイプオルガンが飾られていると。ガイドブックより掲載。『黒の教会』の外壁には城の大理石の彫刻が。『黒の教会』の『黒の門』。斜め前から見上げた時計塔の光景。『黒の教会』では、一番高い尖塔。『黒の教会』の壁に沿って建てられたブロンズ像はヨハネス・ホンテルス(1498〜1549年)の像。ブラショフ地区で初めてドイツ語による説教をした人と。台座に刻まれていた文字のアップ光景。『HONTERUS:(1498〜1549年)』の文字。<台座の下の両側にはレリーフが。像の向かいにあったのが『ヨハネス・ホンテルス公庫』。ヨハネス・ホンテルスに関する資料が納められていると。西のファサード。向かいのジェオルジェ・バリツゥイ通り沿いの店舗の建物。再び『黒の教会』の北西の角。角まで来て。更に北側に回り込む。『黒の教会』の北西側の尖塔を見上げる。北面の壁を見上げて。ピアツァ・スファトゥルイ通りを歩く。正面に『歴史博物館 Muzeul Județean de Istorie』。スーパーマーケット『Magazin Alimentar Alideea Com SRL』を散策。美味しそうなウィスキーのポスター。バリック(Barrique)とは、ボルドー地方やコニャック地方にてワインやウィスキーを熟成させるために使われる、小型のオーク樽のこと。 かつては輸送にも使われていた。 また、この樽を使用することでワインやウィスキーに加わる樽の香りを指す場合もある。ライトアップされたカトリック教会『Biserica Sfinții Apostoli Petru și Pavel』。そして我々のツアーバスを待つ旅友たち。連泊のホテルの部屋に戻り、日本から持って来たソーメンを茹でて4人で楽しむ。麺つゆも日本から濃縮タイプの瓶入りを日本から持参したのであった。私がソーメン&麺つゆを担当、今回は旅友が乾燥ネギも持参してくれたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.01
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山上教会を訪ねた後は、再び屋根付きの階段を降り、シギショアラ広場に向かう。シュコリィ通りを進む。シギショアラ広場では、ルーマニアの学生たちが記念撮影中。再び時計塔を見上げる。1556年までは市議会の議事堂として使われており、その頃まで塔は増築されていたが、現在残るのは1676年の大火の後に再建されたものである。その後、バロック様式で再建され、1894年には屋根の大規模な葺き替え工事も行われ、現在見られるような色鮮やかなタイルが貼られたと。時計塔の裏へと進む。時計塔の裏からの旧歴史地区を望む。裏から時計塔を見上げる。時計塔では17世紀につくられたからくり時計は今も機能している。この時計は時間が来ると、機械仕掛けの人形が出てきて時を知らせるようになっており、城塞内に面している時計盤とこちら側の下町を向いている時計盤とでは、出てくる人形が異なっているのだと。前者は平和、正義、法、昼夜などを象徴する人物たちになっており、後者は月曜に対応するディアーナ、火曜に対応するマールスなど、1週間を表すローマ神話の神々になっているのだと。ルーマニア人のご家族と一緒に。新郎新婦の姿がシギショアラ広場に。黒猫が新婦に近寄って。欧米では、かつては黒猫は不吉の象徴とする迷信があったと聞くが、現在のここルーマニアでは如何に?昼食はドラキュラレストランにて。吸血鬼ドラキュラの血を連想する?赤い料理。マッシュポテトと鳥肉?の煮込み。アイスクリームも赤い血のごとくに。昔の写真が養生シートに描かれて。再び山上教会と屋根付き階段入口を見る。シギショアラ広場には別の観光車両が。民家の壁からワンちゃんが真剣そうに異邦人の私を見つめていた。コンシリウ・イエウロペイ通りをブラショフに向かって進む。噴水広場には世界の国々の国旗と、その後ろの山の上には先程訪ねた時計塔の塔頂部が見えた。『預言者エリア正教会 Church of St. Elijah the Prophet』が左手に。『聖母マリア誕生教会 Biserica Nașterea Maicii Domnului』。この教会は2000年から2010年の間に建てられたと。『福音教会 Biserica Fortificată Criț』が右手遠くに。Bogata川。クネクネとした坂道を下る。山の地面には一面い枯れ葉が敷き詰められていた。そしてブラショフの街へ入り、東方正教会『聖三階層教会-バーソロミューBiserica Sfinții Trei Ierarhi』。ルンガ通りを進む。ロータリー手前の踏切を渡る。ブラショフ駅方面とは反対側のBartolomeu駅が遠くに見えた。ロータリーから見えたルーテル教会『聖バーソロミュー教会 Biserica Sfântul Bartolomeu』。ルンガ通りを更に南下する。2階の壁の装飾が見事な建物。『ジョージバリウー郡図書館 Biblioteca Județeană George Barițiu』。ムレシェニロル通りを進むと前方にこの後訪ねた『黒の教会』の姿が現れた。ムレシェニロル通りには歴史を感じられる多くの建物が並んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.30
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更にブラショフから約129km離れた『シギショアラ』に向かってバスはE60号線を急ぐ。左手の丘に教会の尖塔が見えたが『クリエ(Crit)の福音教会』。サスキズ(Saschiz)の街中を進む。アルベシュティ(Albești)の街にあった正教会が右手に。そしてシギショアラ(Sighişoara)の街並みに入っていくとバスの車窓前方には世界遺産・シギショアラ歴史地区の建築群が見えて来た。右手に『改革派教会 Biserica Reformată』タルナヴァ・マレ川(Târnava Mare River)沿いの教会。『至聖三者大聖堂 Biserica Sfânta Treime』美しい立ち姿の正教会。1934年~1937年に建てられた。 ドームの内部には壁画が一面に描かれていてA.デミアンの作。 1980年から1984年に描き直されていると。 至聖三者はキリスト教で三位一体を表すと。そしてバスを降り、石畳の坂道を登っていく。木々の紅葉も始まって。『鍛冶屋の塔 Turnul Fierarilor (The Ironsmiths' Tower)』が右手に姿を表す。小高い丘の上に築かれたシギショアラの城塞には、かつて14もの見張り塔があったが、現在でも9基の塔が残っていると。これらの塔の建設にはギルドが資金を負担したため、塔ごとにそれぞれのギルドの名前が付けられているのだと。こちらの『鍛冶屋の塔』は、1631年に古い理髪師の塔の基礎の上に建てられたのだと。主な役割は、もちろん敵に包囲された場合に教会を保護することであったと。シギショアラの歴史は、1191年にハンガリー王の命で、ドイツからザクセン人が辺境への定住と防御のために入植したころから始まると。14世紀には王たちの定住地となって自治都市としての特権を与えられ、その後の数世紀は、重要な軍事要所・商業中心地としての役割を担い、繁栄の絶頂期を迎えた。シギショアラ歴史地区は、その頃の小さな中世の城塞都市としての姿を残しているのであった。1999年、「シギショアラ歴史地区」として世界遺産に登録されたと。門を潜りながら。世界遺産に何処も同じ落書きが。振り返って。ルーマニアの現地ガイドのアレキサンダーを見上げる旅友そして添乗員のOさんの二人。いや、それとも教会の塔を見ていたのであろうか?緩やかな石畳の坂を広場に入る門(ゲート)に向かって登って行く。3人仲良く。これぞこの文字『山』。シギショアラ旧歴史地区を巡る観光用機関車。右手に山上教会に続く坂道そして街並みが見えた。山上教会に続く屋根付き階段が右手奥に。ズームで。旧歴史地区のシンボルの『時計塔 』。14世紀に自治都市となったことを記念して建造され、この時計塔は中世には市役所として使用されていたそうだが、それだけではなく拷問部屋としても使われていたと。現在は歴史博物館として公開中。また17世紀に作られたからくり時計が今も動いている。時間になると機械仕掛けの人形が出て来て音楽に合わせて踊り、観光客を楽しませてくれる。なんとこのからくり時計、城塞内に向いている文字盤と下町方向に向いている文字盤からそれぞれ異なる人形が現れると。ぜひどちら側からも眺めてみたかったが・・・。最上階からは最高の眺望が楽しめると。高さ64mの塔の屋根に備わっている4つの小塔は、裁判の自治権を象徴するものであると。屋根の色鮮やかなタイルは、19世紀になってから貼られたのだと。時計塔に面した広場一角に建つ黄色い家は、シギショアラの生んだ有名人で、吸血鬼ドラキュラのモデルとなったワラキアの串刺し公ヴラド・ツェペシュ(ヴラド・ドラクルの息子)の生家。「ヴラド・ドラクル邸(ドラキュラ伯爵の家)」は「シギショアラ歴史地区」にある「ドラキュラ伯爵のモデル」として有名な「ヴラド3世」が「1431年〜1435年」に「生まれ育った邸宅」。現在は「レストラン」に改築されて「カーサ・ヴラド・ドラクル」として営業しています。「ヴラド・ドラクル邸」は「1999年」に「シギショアラ歴史地区」として「世界遺産」に登録。現在、生家はレストラン『Casa Vlad-Dracul』になっていた。『Vlad-Dracul(ヴラド・ドラクル)』の文字が。『Vlad-Dracul(ヴラド・ドラクル)』が「1431年〜1435年」に「生まれ育った邸宅」入り口には「ドラゴン(龍)」の意味をもつ父の名を示すように、龍をあしらった看板がぶら下がっていた。ドラキュラとは、ドラゴンの息子、つまり小龍公とでもいうような意味である。父ヴラド2世がドラクル(Dracul=ドラゴン公)と呼ばれたことに由来するのだと。ワラキアの串刺し公ヴラド・ツェペシュ像。ヴラド3世(Vlad III ・1431年11月10日- 1476年12月19日)横から。シギショアラの街並み。写真中央に『ピアツァ オクタビアン ゴガ通り Piața Octavian Goga』。タルナヴァ・マレ川(Târnava Mare River)手前の建築群。『至聖三者大聖堂 Biserica Sfânta Treime』が中央に見えた。『シギショアラの市役所・区役所 Sighisoara City Hall』。『福音教会』。時計塔の近くにある、ゴシック様式の教会。そして自由時間になり、山上教会に続く坂道を上って行く。旧市街の南には学生階段と呼ばれる木造の屋根付き階段(Schülertreppe / Scară Acoperită)が。丘の上にある学校へ通う学生が、冬場雪の積もる時期などに困らないように作られたもの。階段入口にあったポスター。1642年に出来た当初は300段あったが、1849年に現在の175段に。半分近くになったとはいっても、この階段を上っていくのは大変であったが。階段を上り切って左手にあるのがドイツ語学校です。何故ドイツ語学校かと言うと、このシギショアラの町がドイツ系のザクセン人によって造られた町であるからと。ここにもドイツの痕跡がしっかりと。山上教会(聖ニコラウス教会 Biserica din Deal (Sf. Nicolae))。山上教会 は城壁の南側、「学校の山」 (Schulberg / Deal al Școlii) に位置している。これも世界遺産であると。「山上教会は正式には聖ニコラウス教会というのだが、ルーマニア政府の世界遺産推薦書や政府観光局公式サイトなどでも山上教会とされている。1345年には記録に現れているが、完成したのは1525年と、およそ200年後のことであった。ゴシック様式の建物で、トランシルヴァニア地方のゴシック建築の中で代表的なものとも評価されている。建設当初はカトリックの聖堂だったが、1547年にルーテル派の教会堂になった。内部には14世紀から15世紀の美しい壁画が存在している。ただし、1776年に損壊したため、現在残っているものはオリジナルの断片を使って復元されたものである。ほかにも、ゴシック様式の祭壇装飾、15世紀から16世紀に遡る調度類などが残っている」とウィキペディアより。英語ではなく、ここでもドイツ語(左)で。内部の構造図。左手が教会の正面側。この説明板には、ルーマニア語、ドイツ語の間に英語が。『SIGISOARA THE ”CHURCH ON THE HILL』。要塞の塔『Turnul Frânghierilor (The Ropemakers' Tower)』。要塞の最初の壁ですぐに建てられたが、1241年にタタール人によって破壊され、1350年に再建。16世紀に修復されたと。1676年の火災の影響を受けていない数少ない塔の1つ。再び19世紀に修復された。現在は墓地の教会の守護者が住居としていると。ここからのシギショアラの街並み。オレンジ色の瓦屋根が印象的。地元の名士たちが眠る共同墓地。時計塔も山上教会近くから眼下に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.29
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6日目の朝は7:15に朝食を取り、旅友とホテル周辺の早朝散歩に向かう。2連泊のホテルはポイアナプラショフにある『Ana Hotels Sport』。右手がホテル入口。ポイアナプラショフにある『Ana Hotels Sport』は、美しいPostavarul山の麓、スキー場の隣の松林の中に位置していた。 ブラショヴの中世の街までわずか15kmで、ドラキュラ伯爵の城であると言われるブラン城はポイアナからわずか25kmの場所。ポイアナブラショフというリゾート地の素晴らしいロケーションに位置するホテル。ホテル横にあったケーブルカー駅『TELECABINA CAPRA NEAGRA』。ケーブルカーは1982年に操業を開始、長さ:2,809m、レベル差:737m。ホテル全景、後ろにPostavarul山塊。ポスタヴァルル山塊スキー場 案内図。木造の『修道院「洗礼者聖ヨハネ」 Biserica Sfântul Ioan Botezătorul』。1997年から1999年の間にマラムレシュ様式で建てられ、ベランダの上の鐘楼と地下に独房があると。ここはリゾート・ポイアナブラショフの唯一の教会だと。リビウ・コーネル・バベシュ ( Liviu Corneliu Babeş)の像が庭先に。1989年 3月2日に 、ルーマニアのチャウシェスク👈リンク 共産主義政権に対し抗議して、このスキー場で焼身自殺した人物のようであった。2007年3月2日、このポイアナブラショフ教会の中庭に教者の記念として建設されたと。「A binemeritat de la Patrie」とは「祖国への名誉ある行動」の意か。ボイアナ・ソアレルイ通り(Strada Poiana Soarelui)の先にあったのが『ホテル ゴールデン ハウス (Aurelius Imparatul Romanilor)』。ホテルの前には大きな池が。『ホテル オーレリアス インペラトール ロマニロール(Aurelius Imparatul Romanilor)』。橋を渡っていくと、見事な池の水面の水鏡。橋の反対側も。橋を戻り再び振り返る。レストラン『Restaurant Veranda』。ドラキュラの如きウェーターの人形が。この野鳥は『カケス』であろうか?そしてホテルに戻る。ホテルのフロント。そしてホテルを8:15に出発し、シギショアラに向かって進む。ホテル前のボイアナ・ソアレルイ通りを北に進むとホテル『CASA VLASIN』が右手に。バス内部のバックミラーに映るバスドライバーのクラシミールを。右手に宿泊ロッジが。DN1E線の山道を進んで行く。そしてブラショフの街並みが見える場所で暫しの撮影タイム。展望場所から見下ろしたブラショフ旧市街。「ブラショフはルーマニア国内で最も繁栄する地方の一つであり、工業の伝統を持つ。第二次世界大戦中、IAR-81航空機が、戦争末期にはメッサーシュミットBf109がブラショフでつくられた。共産主義政権下ではさらに工業化が進み、それらの遺産が一部は非常に大規模な工業複合施設として残っている。また操業を続けているものもあり、資本主義市場経済において採用されたりした。一部は民主化以後操業が停まり、高い失業率の原因となった。主に外国からの新たな投資によって、経済は部分的に回復されている。」とウィキペディアより。ズームで。前夜に白く輝いていた『BRASOV』の文字盤をズームで。この看板の近くにも展望台があるようだ。しかしこちらは山道をひたすら登るらしい。190cm以上の身長があるルーマニアの現地ガイドのアレキサンダーと一緒に記念撮影する我が旅友。旅友の足の位置をお見逃しなく!!更にバスは進む。この写真の中央に『ブラショフ 聖ニコラエ教会』が見えたのであった。昨夜に訪ねたブラショフ広場はこの写真のもっと左に。山道を下り旧市街へ。『博物館 バイレスクハウス(Casa Baiulescu)』昨夜も見た『Transilvania University』。ルンガ通り(Strada Lungă )を北に進む。ユニークな形状の出窓がある建物。ブゼシュティー通り(Strada Buzești)を東に進む。前のトラック背後にピッタリと付いて走る自転車がバスの直前に。空気抵抗が減り走行が楽であることは解るが極めて危険な行為なのであったが。多くの羊が放牧中。トウモロコシ畑がひたすら拡がる。トウモロコシ畑の中の直線路(DN13)を進む。遠くルーテル教会(Biserica Sfânta Maria)が車窓から。これもロトバヴ(Rotbav)の村の別のルーテル教会(Biserica Fortificată)。円形の城壁が。教会は、 1300年頃にロマネスク様式で建てられ、15世紀に要塞化され、その後、典型的なサクソン要塞都市の壁に囲まれた。 壁を良好な状態に保っている要塞の1つであると。Rotbavにあった「池?湖?」👈リンク。「マイエルシュ(Măieruș)」村を通過。懐かしき、家族の光景。E60号線の『ルペア・ガラ』村にあった小さな教会。『ルペア城塞 Rupea Citadel』が車窓右手に見えて来た。『ルペア城塞』は、ルーマニアで最も古い考古学遺跡の1つであり、旧石器時代および新石器時代初期の人間居住の最初の遺跡。 紀元前4世紀頃のダキア人の遺跡を元に、14世紀にザクセン人が造った要塞だと。最初にこの記載があるのは、サクソン人がハンガリー国王チャールズ1世に反乱を起こし、城塞内に避難した1324年であったと。二重?の城壁が。『正教会 Church of St. George the Martyr』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.28
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バスはブルガリアからルーマニアに入り、ブカレスト市内をブラショフに向かって走る。車窓から、ブカレスト市内の教会他建築物の姿を楽しむ。カトリック教会『Bucharest Bărăția(Biserica Bărăția)』。『コンスタンティンブランコヴェアヌ像(Monumentul Constantin Brancoveanu)』。1939年に 彫刻家 オスカー・ハンによって青銅で作られたコンスタンティン・ブランコヴェアヌの像は 、王子が埋葬されているブカレスト の聖ジョージ・ノウ教会の中庭に。コンスタンタンブランコヴェ アヌ ( 1654 - 1714年8月15/26日 )は、 1688年から1714年までのルーマニア国の支配者であり、ルーマニア公国史上最長の支配者の一人。『病院 Colțea Hospital(Spitalul Clinic Colțea)』の南側が右手に。『病院 Colțea Hospital(Spitalul Clinic Colțea)』の正面。病院の敷地内にある『教会 Three Hierarchs Church - Coltea(Biserica Sfintii Trei Ierarhi - Coltea)』。巨大な病院の北側。『壊れたバイオリン噴水(Fântâna Vioara Spartă)』『壊れたバイオリン噴水(Fântâna Vioara Spartă)』はブカレストの公共フォーラムの記念碑で農業省の宮殿とColțea病院の間にある「Colţea公園」に設置されていた。中央ロータリーにあったモニュメントは新しいものか?5号線ロータリーを右折しカロル1世通りに入ると右手に『連邦政府庁舎 Ministry of Agriculture and Rural Development(Ministerul Agriculturii și Dezvoltării Rurale)』その先には古い歴史を感じさせる建物が。これもチャウチェスク時代の建物か。この建物はデパートか?この付近には古い建物が残っていた。新しいビルは意匠に凝って。新旧のビルが立ち並ぶ地域。カロル1世通りを更に進む。『KIWI Finance SRL』。建物の壁一面にポスターが。カロル1世通りを左折。『モシロル通り』から『トライアン通り』を見る。巨大なロータリー手前。乗り合いバスを待つブカレストの人々。楓の葉も赤く紅葉し始めて。巨大な観覧車が見えた。路面電車が走る。ドアムナ・ギガ通りに入ると右手に『正教会Biserica Parc Plumbuita』が。黄葉する木々。夕日が車窓から、時間は16:57。『ペトリカニ通り』を走り、プルンブイタ湖に架かる橋を渡る。浄水場の砂ろ過器であろう。空には飛行機雲が。夕焼けを楽しむ。刻々と朱に染まって。ルーマニア1号線をひたすら北上。そしてコムナ・コルヌ(Comuna Cornu)にあった『UFOレストラン-ETU Pizza&Grill』でトイレ休憩。レストランの内部。体も軽くなり、しばしウトウトと。そして漸くこの日の目的地『ブラショフ』に到着し『PARCUL CU FLORI公園』近くでバスを降り夕食会場へ。『ムレシェニロル通り』を『スファトゥルイ広場』に向かって歩く。『トランシルバニア大学( Transilvania University)』。1971年に設立されたルーマニアのブラショフにある高等教育の公的機関。18学部、合計19,000人以上の学生、700人以上の教員がいるのだと。カトリック教会『Biserica Sfinții Apostoli Petru și Pavel』。『Telekom』ビル。『スファトゥルイ広場』入口の銀行の入っているビルを見上げて。山の斜面には『BRASOV』の文字が白く浮き出て。『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』を歩く。ブラショフの旧市街地の中心の広場。この広場には噴水が作られていた。また広場の中に旧市庁舎である協議会の建物があり今は『歴史博物館(Muzeul Județean de Istorie)』になっていた。既に人の姿はほとんどなく。時計台のある建物。中世にはもともとギルド会館として造られたと。夕食のレストラン会場に向かう。この建物は、かつては有名なブラジルギルドのトレーダーを収容していた取引ホールであったとのことでルーマニア特有の建物であると。『Restaurantul Cerbul Carpatin』入口。様々な野菜が、装飾品として陳列されていた。レストランの最奥に。通路には様々な「プレートアーマー」が展示されていた。『プレートアーマー』とは、人体の胸部、あるいは全身を覆う金属板で構成された鎧。金属板で構成されるため、板金鎧(ばんきんよろい)とも呼ばれる。そして準備された、最奥のテーブルに向かう。テーブルに座って料理を楽しむ。スープ。夕食は『ムサカ』。デザート。時間は既に21:15。『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』の噴水前から。そしてバスに乗り込み15分ほどで山の中にあるこの日のホテル『Ana Hotels Sport』に到着。我々の部屋。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.27
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『イワノボ岩窟教会群』への道で渡った踏切を渡り、ブルガリアからルーマニアへの国境を目指す。5号線に合流しここを右折して北上。広大な田園地帯の中を進む。そして左手にブルガリアとルーマニアの国境を流れるドナウ川(ダニューブ川)沿いを走る。『ルセ(Русе、Rousse)』の街の工場の煙突。ルセの街はブルガリアの北の国境であるドナウ川に面し、対岸にはルーマニアの都市ジュルジュ (Giurgiu)がある。ジュルジュとは「ルセ・ジュルジュ友好記念橋」(Rousse-Giurgiu Friendship Bridge)で結ばれている。 ブルガリアの首都であるソフィアからおよそ300km、ブルガリアの黒海海岸からはおよそ200km離れている。ドナウ川岸に港があり、ブルガリアの国際交易の一翼を担っているルセ州の州都。ブルガリア第5の都市。『PRISTA OIL, Blending Plant』のタンク群。5号線から"Stefan Stambolov"通りへと進む。下に見えるのが5号線。右側に見えたのはバス会社『Etap - Adress pls(ЕТАП - АДРЕСС)』のビル。ブルガリアの添乗員とも、もう少しでお別れ。"BULGARIA”通りを進む。ルセ(RUSE)の発電所『Ruse Iztok Power Plant』。ブルガリアの鉄道線路。この線路はルーマニアには繋がっていない模様。再び発電所を車窓左側に。ブルガリアの添乗員・コーニさんと別れの挨拶。そしてルーマニアとの国境ゲートに近づく。ブルガリア出国ゲート。人の姿は殆どなし。バス内部への係官のチェックはなし。橋の入口の両側にあった8本の円柱の柱を持つ塔。1952の文字が。『ドナウ橋 Podul Prieteniei Giurgiu-Ruse』を渡る。池の先に下水処理場が見えた。ドナウ川の静かな流れ。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。ドナウ河が西から東へと流れる間に、ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナの10カ国などを通り、ヨーロッパのライフラインとして、多種多様の人々・宗教・文化を調和のとれた形で結合しているヨーロッパのヴォルガ川に続く第2の大河・「美しき青きドナウ」。そしてドナウ川(ダニューブ川)中央の国境線を通過しルーマニア側に入る。ルーマニアの入国ゲートに向かって進む。入国・税関ゲートに向かって。左手にルーマニア国旗がはためく。ルーマニアの国旗は、1990年以後の民主政体下では、青、黄、赤の縦三色旗。 青は空、黄は鉱物・穀物、赤は国民の勇気・独立闘争を表すという。入国・税関ゲート。ここでバス内に係官が乗り込んできてパスポートのチェックとパスポートの提出。ブルガリア、ルーマニアはEU加盟国であるが「シェンゲン協定」に現時点では加盟していないのであった。「シェンゲン協定」とは、加盟しているヨーロッパの国家間において、出入国検査(国境検査)なしで国境を越えることを許可する協定のこと。よって出入国にはパスポート検査が必要なのであった。バスの下に停まった乗用車には係官が近づき、車の中、トランクの中までチェックが行われていたのであった。待つこと30分、漸くバスが動き出す。そしてロータリーにはルーマニアの首都「ブカレスト・ București」の文字が見えた。そして5号線・ブカレスト通りを進む。遠くに飼料工場?のサイロが。下を走るルーマニアの線路は単線。5号線から45号線が分かれる場所にあった歯車の如きモニュメントは。プロプショル(Plopșoru)の街並み。クレベディア川(Crevedia)を渡る。右手に『ミハイ・ヴィテアズール像 Statue of Mihai Viteazul(Statuia lui Mihai Viteazul)』。彼はワラキア王子、モルダビア王子、そしてトランシルバニアの事実上の支配者であった。彼はルーマニアの偉大な国民的英雄の一人と考えられている。19世紀の民族主義者にルーマニア統一の第一著者と見なされていた。 ワラキアに対する彼の支配は1593年の秋に始まったと巨大な墓地。牧草の緑が増えてきた。この塔は水道用の高架水槽か?更に牧草地帯が延々と拡がる。初めて見た?風力発電設備。ルーマニア南部を流れるアルジェシュ川(ARGES)を渡る。高圧線鉄塔が並ぶ。ジラバ(Jilava)の街にあった『正教会Church "St. Constantine and Elena" Jilava』。果物屋。ペンテコス派教会『Casa Inchinarii, Praise Chapel Romania』ブカレストの街に入ると高層?アパートが右手に。ショセアワ・ジュルジュルイ通りを北に進む。ルーマニアの黄葉も進んでいた。『墓地(Cimitirul Bellu Bucureşti)』『高等学校(Gheorghe Șincai National College』。反対側にあったのは共産党チャウシェスク時代のアパートであろう。ティネレトゥルイ通りを見る。ドゥンボヴィツァ川とその先にルーマニア国立図書館(Biblioteca Națională a României)。反対側には噴水広場と『議事堂宮殿 Palatul Parlamentului』。ズームで。これが『国民の館(議事堂宮殿)』。1980年代に、当時のルーマニア共産党書記長だったニコラエ・チャウシェスクが「宮殿」として造成した。建築物としては、ペンタゴン(延床面積616,540m²)に次ぐ世界で第2位の大きさを誇る。幅275m、奥行き235m、高さ84m、地上10階、地下4階建て、延べ床面積の総計は33万平方メートル、部屋数3107室、アメリカの国防総省(ペンタゴン)に次ぐ世界第二位の大きさを誇る巨大建造物で、建設費用は当時の日本円に換算して1500億円。そして車窓からピアツァ・ウニリイ通りの街並みを楽しみながら進む。『PULL&BEAR(プルアンドベア)』はスペインのナロンに拠点を置く衣料品およびアクセサリーのブランドであると。『𝄞Stradivarius』の大きな文字が。Unireaショッピングセンターの建物に『Stradivarius・ストラディバリウス』のロゴ。『𝄞Stradivarius』は、スペインの国際的な女性と男性の衣料品ブランド。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.26
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『イワノボ』に向かって、田園地帯を北上し進む。この石のモニュメントはブルガリア人の歴史を刻んだモニュメントであると。鉄道のイワノボ(Ivanovo)駅近くの踏切を渡る。比較的整備されていると感じる線路。この先を右折すると『イワノボ岩窟教会群』へと。そして『イワノボ岩窟教会群』に到着し、バスを降りる。下から見上げた『イワノボ岩窟教会』。この岩窟教会は山の上にあるのであった。そして外から教会があるところが分かるのは、このような窓・テラスがある場所だけ。ブルガリアにある岩を刳り貫いて作られた聖堂、修道院などの建造物群はその壁画の素晴らしさが評価されて、1979年にユネスコの世界遺産としての登録されたと。ルセ州イヴァノヴォ村に近く、ルーセの南20 km にあたるルセンスキ・ロム川沿いにそびえる岩だらけの堤にある(川からの標高は32 m )。この教会群は、保存状態の良い美しい中世のフレスコ画で知られている。この地方の洞窟群には、後のブルガリア正教会総主教ヨアキムが居を定めた1320年代以降17世紀まで、修道士たちが住むようになっていた。彼らは、僧房、教会群、礼拝堂などを硬い岩から切り出しており、修道院建造物群はおよそ40もの教会群を頂点に戴いていた。その周りには、他の宗教施設用地が300ほどあったが、そのほとんどは現存していない。イワノボ岩窟教会群(Ивановски скални църкви)の『ゴールドルール(ЗЛАТНИ ПРАВИЛА)』。見学の注意事項が書いてあるのだろう。イワノボ岩窟教会群の説明図。土産物屋の案内。岩窟教会への一方通行の坂道を上って行った。そして岩窟前では中に入る観光客が順番待ち中。この日は土曜日であり子供達の姿も。岩窟前からの風景。そして岩窟入口部。見学可能時間は9:00~18:00 休みはなし入場料は5BGN、写真撮影は無料とのこと。入口案内板。外のテラス前のフレスコ画。テラスからの風景。正面に石灰岩が抉られた谷、その下にルセンスキロム川が流れているのであろう。侵食され易い岩なので結構大きく深い谷が形成されているのであった。岩肌の風合い(ふうあい)が少しばかりカッパドキアの光景に似て。ズームで。テラス上の岩壁。再び内部のフレスコ画を。やはり聖書の内容が解からないので、説明書きが出来ない。写真中央が、天井に描かれた『最後の晩餐』。ヨハネによる福音書に基づく『最後の晩餐』の絵はレオナルドダヴィンチの作品が超有名で15世紀末に描かれたと。一方ここイワノボのこの作品はもっと古く、14世紀には既に完成していたそうで、自慢の一つであると現地添乗員から。ズームで。我々のツアー添乗員が別の日本人グループの添乗員と会話中。登るのは辛いと3名の女性が下で待機中。『イワノボ岩窟教会群』の地図。土産物屋。そして近くのレストランに移動し昼食。スープ。ロールキャベツ。デザートはこのアイスクリームにビックリ!!。そして昼食を済ませバスに戻る。今回のツアーのバスドライバーのクラシミールと日本からの添乗員Oさん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.25
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この日は8:45にホテルを出発し、ヴェリコ・タルノヴォの旧市街にあるツァレヴェッツの丘を目指す。宿泊したホテル『HOTEL PREMIER』を振り返る。"Nezavisimost"通りを北に向かって進むと、右手下に早朝散歩で訪ねた『アセン王朝のモニュメント』が垣間見えた。前夕に訪ねたヴェリコ・タルノヴォの職人街を左手に見ながら10分もかからずに『ヴェリコタルノヴォ地域監査評議会ビル Building of The Regional Audit Council』前に到着。『ヴェリコタルノヴォ地域監査評議会ビル』を横から。ビル前の広場。遥かな山の上にも歴史上の建物、そして両手を上げる人物像?の姿が。『ヴェリコタルノヴォ地域監査評議会ビル』を正面から。『ツァレヴェッツの丘』。第二次ブルガリア帝国時代には、この丘全体がかつてのブルガリア皇族や総主教の住まいとしての宮殿だったが、オスマン朝の猛攻により瓦礫の山と化してしまったところだと。現在は土台のみ残る城壁跡が広がっていた。要塞はヤントラ川に囲まれた同名の丘の上に建っていた。城壁に囲まれていたツァレヴェツは必ずしも閉鎖的な要塞ではなく、王宮、聖ペトカ教会、多くの住宅、貯水タンク、防衛塔が並ぶ本格的な中世都市だったことが発掘調査からわかっていると。黄葉に囲まれた丘の頂上には大主教区教会が建っていて、教会前からは旧市街を始め、周囲を取り囲む緑豊かな森や丘が見渡せると。教会内の壁一面に描かれた暗い色調と硬い筆遣いのフレスコ画が、歴史的な緊張感を伝えてくれると。うねるように流れるヤントラ川に囲まれた切り立った岩場の上に建てられた大主教区教会。1981年に再建されたもので、ツァレヴェッツの丘でほとんど唯一の完全な建物といっても過言ではないと。天然の要塞ともいえる地形の上に立つ大主教区教会。第2次ブルガリア帝国の時代、ここは王宮や教会、住宅、さらには貯水タンクや防衛塔までをも備えた要塞都市として機能していた。発掘調査によれば、往時は470もの家々や23の教会、4つの修道院が建っていたのだと。丘の最も高い場所には総主教の邸宅があり、隣にはキリスト昇天総主教教会が建っていた。現在見られる石畳の道や城壁、塔などは、1930~1981年にかけて修復されたもの。石を積み上げて造られた城壁や城門の跡が、かつての威容の片鱗を今に伝えていた。このライオンの像より先は有料と。その後ろにいくつかの門が見えた。右手にブルガリア正教会が。ズームで。右手に見えたのが『Tower of Baldwyn』。北側のヤントラ川の対岸にも要塞の石垣が残っていた。こちら『トラペツィツァ(Trapezitsa』は、タルノヴグラトの首都の要塞地区で、ツァレヴェッツの丘の北西に位置している。エタール(ヤントラ)川は丘の周りを優雅に曲がりくねって曲がりくねっている。高い崖で自然に保護されたトラペジツァには、不均一な崖の縁に続く強固な要塞壁があった。『トラペツィツァ(Trapezits』の名前は、台地の形である「テーブル」または「台形」に由来すると考えられていると。しかし、最も可能性の高い起源は、単語「trapezits」-中世の丘の最初の入植者であったパスを守る兵士のことと。教会と修道院を備えた「栄光の都市トラペツィツァ」は、聖イヴァン・リルスキの中世ブルガリアおよびビザンチンの聖伝に言及されていたと。丘の斜面に拡がるヴェリコ・タルノヴォの旧市街。『ツァレヴェッツの丘』も見納め。琴欧州も子供の頃はこの『ツァレヴェッツの丘』で遊んでいたのであろうと。クネクネと蛇行するヤントラ川に張り付くように拡がっているヴェリコ・タルノヴォの旧市街。そしてバスに戻り、82km先の世界遺産『イワノボ岩窟教会群』に向かってバスは走る。眼下にヤントラ川に架かる鉄道橋と高速道路の橋が見えた。『ヴェリコタルノヴォ地域監査評議会ビル』は教会と思って撮影していたのであったが。眼下のヤントラ川を垣間見ながら進む。。右手に『ニコラス ピコロ記念碑・Nicholas Picolo Monument』。名前は判ったが、どのような人物?遠く山の上には『Ascension Cathedral』が見えた。山の上は岩山の姿が。そして岩山の断崖が長く続いていた。そして高速5号線をひたすら北上する。右手に石油精製所(Петролна база)。田園地帯をひたすら走る。大型サイロが右手に。鉄道と交差。「Starmen」の街に入る。途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩。ガソリンスタンドから見えた村の教会。ガソリンスタンドのコンビニには多くの子供達が、私のカメラに向かって笑顔で。ヤントラ川に架かる歴史深いベレンスキーモスト (Беленскимост)橋を見る。このアーチ橋は、1865年から1867年にかけて、ブルガリアの建築家であり、建築家であるKolyu Fichetoによって、 トルコの政治家Midhat Pashaの命令で建設されたと。洪水時の対策として、上部に穴が空いている橋。この石柱は? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.24
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5日目(10/28)、この旅行も後半戦に入る。ホテルの我が部屋から、丘の斜面に広がるヴェリコ・タルノヴォの街並みを見る。時間は6:44。ポーターによるトランクの回収が7:45~とのことで、トランクをドアの外に出し、7:00からの朝食に。やや料理の品数が寂しかった。そして朝食後、新たな旅友も加わり旅友4人と共に、あらかじめ予習をしていた早朝散歩のコースに向かう。ホテル前の坂道を下り、 "Vasil Levski"通りに出る。そしてここを右折し100m近く歩いた先にあった像を訪ねた。ヴェリコタルノヴォの中心部にあったこの像は『ブルガリアの母の像Monument of Mother Bulgaria(Паметник "Майка България")』『ブルガリアの母の像』は、1877-1878年のロシアトルコ戦争(露土戦争)、1885年のセルビアブルガリア戦争、1912年から1913年のバルカン戦争、および1914年から1918年の第一次世界大戦で、21人の将校、24人のNCO、62人の将校の死を追悼して建立されたと。その建設のための資金は、ヴェリコ・タルノヴォの市民からの寄付から集められた。 3階式ての記念碑である大理石と青銅で作られた彫刻。 その基部には、階段が続く4つの入り口がある納骨堂があった。 入口の上には、ブルガリアの解放と統一のために戦った戦争の年が書かれており、その間に戦争の重要な瞬間を描いた4つのブロンズのレリーフがあった。 軍服、装備、武器を備えた兵士と将校の4つの銅像が中間の位置に配置されていた。 記念碑の上部には、ブルガリアを代表する跪く女性の銅像があり、頭には冠があり、右手には軍旗、左手には月桂樹の葉を持っていた。 この追悼碑は、1935年5月6日に解放と国家統一の戦争で殺された人々に捧げられたと。跪く『ブルガリアの母の像』を遠くから見上げて。碑は高さ6.5mで、彫刻家スヴェトスラフ・ヨツォフ(Svetoslav Yotsov)の作品。この背面は1877年~1878年の露土戦争(=大ブルガリア公国の成立)の追悼。露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった戦い。ロシア帝国の勝利で終わったと。1885年のセルビア・ブルガリア戦争への追悼。セルビア・ブルガリア戦争は1885年11月14日に勃発し11月28日まで続いた。セルビアは戦争の開始時には主導権を握ったものの、最終的に敗北した。オーストリアはブルガリアの侵略を停止するよう要求し、停戦に。最終平和は1886年3月3日に調印された。戦争の結果、ヨーロッパの大国は1885年9月18日に起こったブルガリア統一の行為を認めたのだと。『ブルガリアの母の像』を横から。1912年からのバルカン戦争。バルカン戦争は、1912年から1913年にかけてヨーロッパの東南部で発生した戦争。バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月 - 1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(1913年6月 - 1913年8月)からなる。1915年、第一次世界大戦では中央同盟国側に参戦。この旅行でところどころで見かけた看板。EU内での重要文化財であることを示すものか?そして文化財保護のために資金を出す『EU構造基金』らしい。『OPERATIONAL PROGRAMME “REGIONAL DEVELOPMENT” 』この日の朝の陽光が木々の合間から。丘の斜面に住宅が林立するヴェリコ・タルノヴォの街並みを再び。そして旅行前の予習で、この日の朝の散歩コースに定めた橋、尖塔が見えて来た。この先で右折しなければならなかったが行き過ぎ、その後に気が付き引き返して進む。途中、我々のツアーのバスが駐車しているのを発見。旅友4人を記念撮影。そしてヤントラ川(ブルガリア語: Я̀нтра)に架かる『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』に到着。橋の上からヤントラ川(Я̀нтра)を見る。「ヤントラ川とは、ブルガリア北部を流れる河川で、ドナウ川の右支流である。全長222/285km、流域面積7,862km2であり、ブルガリア国内のドナウ川の支流の中ではイスクル川に次いで2番目に長い。主な支流はロッシツァ川、レフェディラ川、ベリツァ川、ストゥデナ川などがある。ヤントラ川は中央バルカン山脈(スタラ・プラニナ)に含まれる、標高1,340mのハジ・ディミタル峰北麓に水源を持つ。水源からガブロヴォの町までの間、川は深い渓谷を形成する。ここヴェリコ・タルノヴォ市内に入った川は複雑に曲がり、タルノヴォ台地を囲むように流れて平野部に流れ出る。平野部で川の幅は広がるとともに流れも緩やかになり、スヴィシュトフの下流16kmでドナウ川と合流する。」とウィキペディアより。橋の上から丘の斜面に住宅が林立するヴェリコ・タルノヴォの街並み。そしてヤントラ川が水鏡となり、街の姿を映り出していた。鉄骨アーチ構造のトラス橋。施設の建設は1892年に始まり、高さは37mであると。橋の上部構造設計者は、イタリアの建築家ジョヴァンニ・ムスッティ(ヴァシル・レフスキ記念碑の設計者)であると。昔は自殺の名所であったようだ。そしてヤントラ川に架かる『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』を渡り、左に進むとヤントラ川に挟まれた中州のような場所にある、青空に突き刺さるが如き尖塔が。『アッセン王朝のモニュメント・Monument to the Asen Dynasty(Паметник на Асеневци)』と呼ばれていると。ソフィアは現代のブルガリアの首都だが、アセン皇帝はここヴェリコ・タルノヴォを統治した。市の中心にある『アッセン王朝のモニュメント』は、アセン兄弟がヴェリコ・タルノヴォを首都と宣言してから800年を記念して建てられたと。イワン・アセンI とピーターIVは共に新しく解放されたブルガリアを統治し、ビザンチン軍との戦いを続けた。 血族に拠る皇位継承によって、家族は権力を保持することができ、皇帝の席は家族の間で定期的に継承されていった。 しかし、予想されるように、それは必ずしも幸せな家族ではなかったのだ。Ivan Asen IIは彼のいとこBorilを転覆させ、彼を盲目にした。他の肉親も帝国を拡大する試みの中で死を迎えていったと。アセン王朝のブルガリア皇帝は以下に。イワン・アセン( アセン ) 1187〜1196ピーター( テオドール ) 1186〜1197カロヤン ( イオアニツァ ) 1197~1207ボリル ( ボリルカリマン ) 1207~1218 イワン・アセン 1218~1241空を貫くかのような剣の周囲には、イワン・アセンI 、ピーター、カロヤン、イワン・アセンII (4人の在位:1187~1241年)の騎馬像が、スヴェタ・ゴラの丘に細長いすっくと立つオベリスクの周囲を飾っていた。ヴェリコ・タルノヴォは、かつては「タルノヴォ」と呼ばれ、1187年~1393年に第2次ブルガリア帝国の首都として栄えた。イワン・アッセン王治下の最盛期にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあったのだ。しかし、その帝国もアッセン王死後に衰退を始め、やがて宿敵ビザンツ帝国に屈服、1398年にはオスマン朝とも3ヶ月にわたる首都攻防戦の後、ついに滅亡した。タルノヴォが再び脚光を浴びるのは、500年にわたるトルコ支配からの独立を達成した1879年から。1879年4月17日、新生ブルガリア王国初の国会がヴェリコ・タルノヴォで開かれ、首都をソフィアへ遷都する内容を含むブルガリア初の憲法が議決されるまでブルガリアの首都となっていたのだと。旧市街側からモニュメントを見るよりも,モニュメント側から旧市街の街並みを見るほうがはるかに素晴らしいのであった。モニュメントの周囲を回りながらシャッターを押す。これは誰?こちらはイワン・アセンII 像であろうか。ヤントラ川の対岸には『インターホテル ヴェリコ・タルノヴォ(Интерхотел Велико Търново)』が見えた。大きなホテルであるようだが、外見は廃墟の如き感も。そして『アッセン王朝のモニュメント』の先にあったのが、『ヴェリコ・タルノヴォ美術館・State Art Gallery "Boris Denev"(Художествена галерия „Борис Денев“, Велико Търново)』。これも逆光であったがズームで。ヴェリコ・タルノヴォ美術館は、19~20世紀の現代画家の作品を中心に展示していて、東欧ならではのイコンなども見ることが出来るとのこと。再び『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』を渡ってホテルへの帰路に。再び水鏡を楽しむ。水がありのままに物の姿を映すように、物事をよく観察してその真情を見抜き、人の模範となれれば思うが既に遅し!!『ヴェリコタルノヴォ大学"Sveti Sveti Kiril I Metodiy University"』この像は?そしてホテルに戻るとロビー内に関取『琴欧州』の交通安全の日本のポスターを発見。ここブルガリア・ヴェリコ・タルノヴォ州ヴェリコ・タルノヴォ市出身なのであった。身長202cm、体重155kg、握力120kg、血液型はO型。得意手は右四つ・寄り・上手投げ。最高位は東大関。現在は年寄:15代鳴戸として、鳴戸部屋の師匠を務めているのだ。ヴェリコ・タルノヴォが「「琴欧州」効果で観光客誘致」との新聞記事も。こんな像も。左手の力士は『高見山』に似ているが。多くの現役力士時代の写真も。ホテルフロント。事前の散歩コースの予習・計画により、充実した早朝散歩になったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.23
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カザンラクの世界遺産『トラキア人の古墳』のレプリカを見学後は、この日の宿泊地の『ヴェリコ・タルノヴォ(Veliko Tarnovo、Велико Търново)』に向かって100kmを直走る。高速6号線を東に進むが周囲はひたすら原野。ブルガリアの跨線橋を渡る。しばし鉄道線路に沿って走ると、列車とすれ違った。ICで55号線に入り北上して『ヴェリコ・タルノヴォ』を目指す。Pchelinovo(Пчелиново)近郊の民家。そして夕焼けが。時間は17:38過ぎ。そして『ヴェリコ・タルノヴォ』の街に入り、夕食前に『職人街』を訪ねた。旅程では、翌日の朝の観光であったが、前倒しとなった。ブルガリア人にも人気の観光地、ブルガリアの古都ヴェリコ・タルノヴォ。1187年から1393年にかけて第2次ブルガリア帝国の都が置かれ、バルカン半島の文化の中心地として繁栄した。周囲を蛇行するヤントラ川と豊かな森に囲まれ、崖の上に古い民家が連なるヴェリコ・タルノヴォは、ぶらぶら歩きが楽しい町であるのだと。なかでも見逃せないスポットのひとつが、ステファン・スタンボロフ通りの北側に広がるこの職人街「サモヴォドスカ・チャルシャ」。「チャルシャ」とは「市場」の意味で、ここには古くから営む陶器や金銀細工、革製品、絵画などの小さな店が軒を連ねていたのであった。2差路の頂点に立っていた人物像。石柱のような丸い台座の上にあったブロンズ製の胸像。『Димитър Благоев』とかろうじて読める文字が。英文のWikipediaには、「Димитър Благоев・(Dimitvr Blagoev 1856〜1924年)はブルガリアの政治指導者であり、ブルガリア社会主義の創設者であり、バルカン半島の最初の社会民主党の創設者でもあり、ロシアのマルクス主義の初期の歴史において重要な人物であり、ブルガリア共産党を設立し、率いていた。そしてバルカン連合の設立のためのアイデアの顕著な支持者でした。」と。バスを降り職人街を歩く。ベンチに座る老職人の人形であろうか?坂道の多い街。石畳の道の両側に伝統的な建物が並ぶ光景は趣たっぷり。まるで昔にタイムスリップしたかのような、旧市街のなかでもひときわ絵になる町並み。しかしやはり明るい時間に訪ねたかったのであったが・・・。第2次ブルガリア帝国時代から伝わるスグラッフィート陶器を持つ人形。焼く前の素地を引っかいて模様が付けられる陶器で、一つひとつ職人が手作業でデザインして作っているのだと。銀細工の装飾品がウィンドウに。石畳の道を振り返る。ある工房の内部。絵画の店も。木製の装飾皿か?民族復興期に多くの職人が集まり、今日もその家々と工房がそのまま保存されている古い商店街。春雨?の如き菓子?商品を作るオバサン。容器に入れた白い液を大きな回転する丸いフライパンをひっくり返した様な鉄板(加熱鍋)に糸を引くように垂らししばし回転させ焼き上げる。時間とともに焼き上がり、製品が反って分離。これを掻き集めて出来上がりであったが・・・。この人形はイコンを抱えて。美しく刺繍された女性用の薄着のブラウス?壁掛け用の絵皿の工房。カラフルな石鹸。ランタン工房。銀細工の工房では、驚くほど繊細な細工が施されたブレスレットを制作する様子を匠人が見せてくれた。若き頃の匠人の写真ポスターであると。銀の鑞付け(ろうづけ)作業。鑞付け(brazing)とは、接合する方法である溶着の一種。接合する部材(母材)よりも融点の低い合金(ろう)を溶かして一種の接着剤として用いる事により、母材自体を溶融させずに複数の部材を接合させることができる技術。口に煙管(キセル)の様なものを加え、空気を送り微妙に温度?調整そして出来上がった銀のペンダント。青森県黒石の「小見世(こみせ)」にも似て。翌朝の散歩で行ったヤントラ川に架かる橋からの、昔のヴェリコ・タルノヴォの街並みの写真であろう。石積みの店。呑んだくれる老職人の姿は誰かに似て。オスマン・トルコから独立した時の首相スタンホロフの銅像であると。チョッキ姿でレーニンにも似ていたが。石の階段のある路地。『サモヴォドスカ・チャルシャ(Архитектурно-етнографски комплекс „Самоводската чаршия”)』のマップ。そしてこの日のレストランで夕食。野菜サラダ。カレーライスの如き『カヴァルマ』掛けライス?デザート。そしてこの日のホテル『Hotel Premier(хотел Премиер)』に到着。時間は21時過ぎ。この日の我々の部屋。洗面所・トイレ。バスタブはなくシャワー室のみ。この夜も旅友と部屋でこの日の長~~い1日の反省会をウィスキーとワインで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.22
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バスの待つプロブディフ (Plovdiv)の旧市街入口のロータリーまで戻る。ロータリーの周辺には遺跡の遺物がゴロゴロと。案内板には『Източната порта на Филипопол』➡『The Eastern gate of Philippopolis)』の文字が。「フィリポポリスの東門は、プロヴディフで発見された古代都市の3つの入り口の1つ。ゲートは、ビザンチウムとボスポラス海峡への主要道路に建設された。ハドリアヌスの治世中に2世紀に最初に建設された門とその周辺の複合施設は、4世紀に完全に再建され、5世紀に部分的に修復された。東門は1970年代に発見されました。」とウィキペディアより。未だ発掘途中なのであろうか。この写真の如き東門周辺の建築物の存在が確認できているのであろう。旧市街地散策を開始した場所であるロータリーの反対側を再び。『The Eastern gate of Philippopolis(Източната порта на Филипопол)』真ん中の石畳は『フィリッポポリスの東門』への『参道』の如きものか。そしてバスに乗り、約124km先の『カザンラク』に向かって進む。再びマリツァ川に架かる橋を渡る。橋を渡った直後の右側の広場には世界各国の国旗がたなびいていた。広場の先にあったのが『プロブディフ国際見本市会場International Fair Plovdiv(Международен панаир Пловдив)』であった。右手に発電所『EVN Bulgaria EAD District Heating(EVN България Топлофикация ЕАД)』。の巨大冷却塔が見えた。飼料工場の貯留サイロであろうか?64号線を北上、道路脇の小さな教会。64号線から6号線(E871)に入り田園地帯を進む。そしてバスはひたすら東に進み、カザンラク(Казанлък)の街に入る。 "Osvobozhdenie" 通りをトュルベト公園の中ににある『トラキア人の古墳(レプリカ)』に向かって進む。駐車場に到着し、『トラキア人の古墳(レプリカ)』に向かって進むと。墳墓が姿を現した。トラキア人の墳墓とは、関係ないが、墳墓(保存施設)の隣に建っているイスラムの遺跡であると。赤レンガが歴史を感じさせてくれた。こちらが世界文化遺産、紀元前4世紀の『トラキア人の墳墓』。これが本物!!この世界遺産、現在は誰も見ることが出来ないのだと。本当はこの小屋の中にあるのですが、保存状態を守るために中に入る事が出来ないと。『世界遺産』に登録されている「カザンラクのトラキア人の墓地」は、カザンラクの町の北東部ある、直径約40m、高さ約7mの丘にあった。この墓地は、第2次世界大戦中の1944年に、防空壕を掘っていた兵士たちによって偶然発見されたとのこと。トラキア人は古代の東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族である。インド・ヨーロッパ語族に属するトラキア語を話した。古代ギリシアやローマ帝国の文献に現れ、当時のヨーロッパでは有数の人口と勢力を誇ったといわれる。考古学的には多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡で知られる と。『トラキア人の墓地 オリジナル Тракийска гробница Оригинал Thracian Tomb Original』。そして墳墓から約30m程度離れたところにあった『トラキア人の墳墓』のレプリカに到着。説明板。レプリカ(コピー)の設計者、絵師の名前も記載されていた。入場時間、入場料案内板。順番を待って小グループ毎に入場。遺品の土器、壺類が展示されていたがこれはホンモノ?入口には、1944年の発見から1979年の世界遺産登録までの歴史が写真とともに解説が。もちろん日本語語表記はないが、写真を見るだけでも歴史がわかるのであった。墳墓の構造の平断面図そして墳墓内で発見された遺品の位置図。墳墓の横にあったイスラムの遺跡の昔の写真であろう。そして現在の姿も。カザンラクという町は、ブルガリアのほぼ中心地にあり、バルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈に挟まれたバラの谷の一番大きな町である。現在ではカザンラク市は、バラの産業で一番有名で、毎年バラの祭りが行われる6月の初めごろ、世界中からきた観光客で溢れる。しかしカザンラク市には、もう一つの訪れるべき見所がある。それはカザンラクの古代トラキア人の墳墓である。古代トラキア人がバルカン半島に定住していたのは、紀元前2世紀から6世紀ごろまでだったとされている。そして異教徒であったトラキア人は後生を信じていたため、古代エジプト人がしたように、死者を葬るとき、死者の大好きな所有物、そして後生に役に立つような道具、宝飾などを古墳に入れておく習慣があった。カザンラク盆地には、トラキア人から残された古墳が20ほどあるが、町の中心からたった1– 2キロ離れたところの「カザンラクの墳墓」が一番有名で、保存状態も良いのだと。発見当時の写真であろう。オドリュサイ王国は、紀元前5世紀から紀元後1世紀にかけてトラキアに存在した、40以上のトラキア人諸部族と22の王国からなる連合国家。その領域は現在のブルガリアを中心に、ルーマニア南東部(北ドブロジャ)、ギリシャ北部、トルコ領東トラキアにあたる地域まで及んだと。細い通路、狭い墳墓を進む。地下墳墓は、四角の玄関、回廊と丸天井型の埋葬室からなっていた。回廊に描かれたフレスコ画。壁画には戦闘場面が描かれているようであった。そして玄室は、直径3mぐらいの円形で、その天井部に丸く描かれた見事なフレスコ画が。この世界遺産には夫婦の告別の様子、大切にされている事が見て取れる見事な装飾の馬、勇猛といわれていた戦士などが描かれていた。見学できるのはレプリカですが精巧に作られており、当時の様子を十分伺い知ることができるトラキア人の墳墓なのであった。場所を変えてズームで。2300年以上もの時を経た今でも、色鮮やかな色彩を保ち、トラキア人の生活・芸術・信仰や儀式を語っているこの壁画が、墳墓がユネスコに指定された主な理由であると。発見の時にはすでに盗掘されていたそうだが、幸いなことに、見事な壁画はそのまま残されていた。それどころか、さまざまなオリジナル出土品(金、銀、銅の装飾品、土器など)も墳墓の中から見つかり、現在展示されていたのであった。回廊も埋葬室も、慣例的な宴におけるトラキア人男女を描いた壁画で飾られているのだと。極最近までそれは葬式のシーンだとされてきたが、最新の研究によると、逆に結婚式の場面なのではないかと考えられるようになった。中心には、召使・給仕係や音楽家に囲まれた死者とその妻の姿がある 。そして主人のすぐそばに、ある背が高い女の人の姿も描写されているが、それはおそらく、トラキア人が信仰していた万能の女神だと考えられている。この壁画は、ヘレニズム時代からのブルガリア美術の中で、最も保存状態の良い傑作である。宴の場面以外には、葬られた男性の生前の戦闘場面も見られる。そして、男性の顔をよく見れば、彼は、妻と違って、かなりの日焼けをしていたとに気づくだろう。これは、その人が戦闘や狩りで多忙だったと言う証拠である。それから二輪馬車の競技を表すフリーズもあるが、実はローマ帝国に取り上げられる前に、競馬という娯楽はトラキア人が発明されたものだと研究たちが述べている。これは当時の王と王妃が最後の別れを描いたものと。王はたくさんの食べ物が並べられたテーブルの前に座り、王妃は頬杖をついているような感じに。さらによく見てみると、王妃が玉座のような立派なイスに座っているのだ。実は、トラキア人にとって女性は信頼できるもの、もっとも愛すべきものとして尊敬されるべき存在であり、そういった女性がいなければ、来世にたどりつけないと考えられていたからなのだと。見学を終え、ツアー仲間全員が見学を終えるのを待った後、墳墓を後にし階段を降りる。トュルベト公園内の階段の途中?にあったこの人物は?この石碑にはブルガリア語の名前の上に音符が刻んであったので多分音楽家なのであろう。ブルガリアの作曲家エマニュエル マノロフ(Емануил Мaнолов 1860-1902)であろう。『トラキア王の谷 The Valley of the Thracian Kings』のマップ。ここにもEU内での重要文化財であることを示すパネルが。そして写真右上の『ОПРР』とは地域開発そして文化財保護のために資金を出すそして徒歩にてニコラ・ペトコフ(Nikola Petkov)通りにあったバラ製品の土産物屋に案内される。ここブルガリア・カザンラクは実はバラの名産地。ローズ製品の香りに使われているバラはダマスクローズという種類で、ブルガリアのダマスクローズは特に香りが良く最高級の品質と言われているのだと。ブルガリアのダマスクローズの栽培地としては「バラの谷」が有名。「バラの谷」の中心がここカザンラクなのであった。バラを摘む女性の衣装か。ローズオイルを採る昔の写真。ローズオイルの蒸留器に花びらを入れる姿が。蒸留器の材質は銅製だったのであろうか?バラ摘みの女性の姿も。ローズオイルを競争のように買う我がツアー仲間の女性陣。『house of roses』と書かれた店のガラス。たくさん売れた為か?店のオバちゃんが我々のバスを見送ってくれたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.21
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坂道を上って、再び『ローマ時代の円形劇場跡(Ancient Theater of Philippopolis(Античния театър на Филипополис)』へ。ここから劇場の下に降りる通路は閉鎖中。少し歩いて展望ができる場所に移動。旧市街にある2世紀に当時のローマ帝国・トラヤノス帝によって造られたローマ時代の半円形の劇場。天気の良いこの日にはここからロドピ山脈が一望出来たのであった。また、スケネと呼ばれるステージの裏側には、1900年の時を超えたイオニア式の美しい列柱が威風堂々たる姿を見せていたのであった。現在残っている観客席は20段ほどであるが、当時は5000人が収容できる28段あったのだと。春から夏にかけては、世界各地からのゲストを招いたオペラやコンサートなどがこの場所で上演されているのだと。イオニア式の美しい列柱が並ぶ。右側の列柱そして観客席。左側。上部は芝生に覆われていた。過去の新聞や写真。昔の劇場平面配置図。別の配置図も。世界遺産の『ローマ時代の円形劇場跡(Ancient Theater of Philippopolis(Античния театър на Филипополис)』リムスキ・スタディオン広場内にある競技場跡。2世紀前半に当時のローマ帝国・ハドリアヌス帝によって建設されたもので、短距離や円盤投げ、二輪戦車のレースが行われていました。最盛期には長さ240m、幅50m、最大収容人数3万人の規模であったとされており、その当時の様子は近くにある3D映像の上映場所で知ることができると(有料)。傍らに建つのはオスマン朝初期建築の代表作「ジュマヤ・ジャーミヤ」で、ダイヤモンド模様の珍しいミナレットが特徴的。なかなか全体像が撮せる場所が・・・。再び列柱をズームで。このバイオリンを持つ人物は?共産主義体制の犠牲者となったミュージシャンの記念碑であると。The violinist Sasho Sladura (Alexander Nikolov)すなわちバイオリニストのサショ・スラドゥラ・アレクサンドル・ニコロフが労働収容所で殺害されたのだと。そして次に訪れたのが『St. Dimitar church(Църква "Свети Димитър"ul. "Todor Samodumov")』。教会入口。『St. Dimitar church』ファサード。教会前の水呑み場は見事な孔雀デザインの大理石。フレスコ画も。『聖ディミタル教会 St. Dimitar church』。『聖ディミタル教会』案内板。そして再び『聖母被昇天聖堂』を見る。別の角度から。丹念にレンガを積み上げて造られた教会。そして暫しの自由時間となったので、旅友のSさんと再びローマ劇場に向かう。ようやく全景が判る場所に。プロブディフの黄葉した街並み、そして遠くロドピ山脈の山並みも。再び1900年の時を超えたイオニア式の美しい列柱そして人物像を。そして次に訪れたのが、『クリーアンチ邸宅(House-Museum Klianty(Къща-музей "Клианти"))』内部が写真で紹介されていた。『クリーアンチ邸宅(House-Museum Klianty)』案内。「」1816年に建てられたこの建物は、ブルガリア復興期の最も古い保存住宅の1つ。 1846年に完全に再建され、1階が北に拡張され、屋根付きの庭が形成された。 建築者は、聖母被昇天教会を建設したのと同じ職人。 1882年、家の西部が破壊され、建物の分割により2つの家に分割された。 1920年には、南東の角の一部が「カット」された。2階建ての建物は、旧市街建築歴史保護区内の重要な建築コンポーネント。クリーアンテチ邸宅は、プロブディフ旧市街の建築と装飾芸術の発展における中心的な建物。 豊かな芸術的装飾は住宅の床に集中しており、木製の天井、1817年からのユニークな風景、野菜の装飾品の記念碑的な構図には、多くの木製の彫刻と多色–幾何学模様とカラフルな嵌め込み細工が。 壁には、豪華に装飾された壁龕(へきがん)、食器棚、バックギャモンの模様の木製ドアがある。」と英語のネットのページを機械翻訳。マンホール蓋。そして『ラマルティン邸(Lamartine's House(Ламартинова къща))』。上に行くほど広くなり逆三角形のような建物。このような構造で大丈夫なのだろうか?『ラマルティン邸 Lamartine's House(Ламартинова къща)』。『ラマルティン邸 Lamartine's House(Ламартинова къща)』案内板。「この邸宅の所有者は、プロブディフ商人階級の傑出した代表者、ゲオルギ・マヴリディ。 1829〜1830年に名も知らぬ大工棟梁によって建てられ、旧市街で最大かつ最も美しい対称的な構造の家の1つ。 1833年の夏、中東への旅の途中、偉大なフランスの詩人であり旅行者であるアルフォンスデラマルティーヌがここに滞在したとき、それは真新しいものであり、驚くべき建築的創造の完全な素晴らしさであった。 彼は家で3日間しか過ごしませんでしたが、親切なホストに魅了され、彼の文章でこれを証明した。中庭をざっと見ただけでも、マ大工棟梁は複雑な地形とその計画への建物の適応に非常に巧妙だったと。 家の基礎と1階の不規則な輪郭がある。 階上の2つのフロアは、古典的な対称性で構築されている。 それぞれは、下の階の上の出窓のように突き出て、建物の容積を増やした。 家の中庭には大きな木製の門が開いている。 中庭自体は居心地の良いテラスのようで、上階への小さな階段があり、今日では小さな応接室として美しい別館となっている。石の階段が1階に続いています。 2階のハイエットは、小さな長方形のラウンジ、楕円形のラウンジ、階段のケージの3つの部分で構成されている。 塗装された装飾が施されたエレガントなアラフランガニッチは、それぞれの下部にあります。 大きさの異なる4つの対称的な部屋があり、ガラス張りで、天井とドアに幾何学的な木彫りの装飾が施されています。 家はレクリエーションブルガリアの作家の家として使用されます。 1階の部屋の1つで、ラマルティーヌに捧げられた小さな博物館の展示会が開催されます。 展覧会のゲストブックには、作家、公人、政治家など世界中の有名人の名前が誇らしげに掲載されています。」と英語のネットのページを機械翻訳。瀟洒な白き建物も。プロブディフの市街を一望。『RESIDENCE THE OLD TOWN』の文字が。小高い丘の公園。見事な黄葉が青空に映える。この人物は『ズラテュ・ボヤジエフ Zlatyu Boyadjiev |ЛАТЮ БОЯДЖИЕВ (1903-1976)』ここプロブディフの旧市街と、この地域の村の生活を主に描いたポートレートと風景で知られている画家。上半身は壊されてしまったのであろうか?それともこれがORJINAL?再びイヴァン・ヴァゾフの家博物館『Къща-музей „Златю Бояджиев“』。そして集合時間まで土産物屋を散策。ブルガリアの陶器(トロヤン焼き)が並んでいた。様々なプロブディフの旧市街を描いた絵画が土産物として展示されていた。、一枚、想い出として買いたかったがグッと我慢。そして集合時間にツアー仲間全員が見事に定刻に集合し、近くのレストランで昼食。『Paldin Restaurant(РЕСТОРАНТ ПЪЛДИН (СТАРИЯ ПЛОВДИВ АД)』。レストランの中庭。レストラン内部。大きなパン。スープ。ブルガリアの代表的な煮込み料理『カヴァルマ』。そしてデザートは『パンプキンパイ』。そしてプロブディフの旧市街観光、昼食を終え要塞門・ヒサル・カピヤを再びくぐりバスに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.20
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中世時代の遺跡として要塞門、ヒサル・カピヤ門『Gate "Hisar Kapia"』と呼ばれる東の門が残っていた。紀元前4世紀のビザンチン時代のころマケドニアのフィリップ2世によって建てられた門。この場所の最初の門は2世紀に建てられた。 6世紀、ユスティニアヌス帝 の統治時代、古代の町の要塞システムが拡張され、門が強化された。 考古学者は、古代ローマの門の基礎のみが保存されていたことを示唆。ヒサル・カピヤ門の現在の構造は、中世(13〜14世紀)に形成された。 第二ブルガリア帝国の典型的な建設技術がアーチの上に見えると。石とレンガの破片でできた石積みで、白いモルタルで満たされているのであった。門の重要性は、14世紀のオスマン帝国の侵攻後に薄れて行った。 17世紀と18世紀には、ここプロブディフの裕福な商人がヒサルカピア周辺の要塞の壁の4遺跡の上に家を建てた。 ヒサル・カピヤ門は、20世紀初頭にその劣悪な状態のために補強されたと。この中世の門は今日、プロブディフのランドマークの1つとなっているのだと。門の右にあったのがこの後に訪ねた『ゲオルギの家』。『ヒサル・カピア門』のレリーフ、この人物は誰?ツァンコラヴレノフ(Tsanko Lavrenov (Цанко Лавренов))の文字が。ツァンコラヴレノフは、1896年に生まれ、1978年に亡くなったブルガリアの画家および美術評論家。 彼は、20世紀で最も著名で影響力のある、独特のブルガリアの芸術家の1人。『ヒサル・カピア門』の前の右側の路地を見る。軒を接して建つ旧市街の建物。左は奥に行くに連れ階段状に軒を延ばしている『『プロヴディフ地域民族誌学博物館(Regional Ethnographic Museum Plovdiv)』で右側は『民族復興歴史博物館(Historical Museum - Exhibition Renaissance)』。ズームで。『ヒサル・カピア門』を潜る。この界隈の旧市街は『プロヴディフの古代都市』として2006年に世界遺産を申請したが20世紀に造られたものが多いとの理由から、実現していないのだと。門の入口から『民族復興歴史博物館(Historical Museum - Exhibition Renaissance)』を振り返る。『ヒサル・カピア門』をくぐり、振り返る。更に石畳の坂道を上って行くとT字路に突き当たった。ここを右折して更に進む。塀の上の屋根も美しくカーブして。右手が『プロブディフ地域民族誌学博物館(Regional Ethnographic Museum Plovdiv(Регионален етнографски музей - Пловдив))』入口門。門を潜って中に入ると、正面に『プロヴディフ地域民族誌学博物館』の建物が。『ゲオルギの家』は、『プロヴディフ地域民族誌学博物館』として解放されていた。イスタンブール出身のハジ・ゲオルギが1847年に建てた屋敷で、どっしりとした石塀に囲まれていたのであった。門を入ると、緑豊かな庭の奥に見えている屋敷で、バロック様式と民族復興様式がミックスされており、国の重要文化財指定の建物であると。中には入らず前庭の左から。ギロチンの顔出しパネルであったろうか?『プロヴディフ地域民族誌学博物館』案内板。『プロブディフ地域民族誌学博物館』は、同種の専門博物館としてはブルガリア国内で2番目の規模。1917年に創立され1938年からはプロブディフ旧市街のクユムジエフの家を博物館として使用している。クユムジエフ家は1995年の政府官報第4号で文化財に指定されている。豊富な展示は、民族復興期(18世紀~19世紀)のトラキア、ロドピ、スレドノゴリエ地方の伝統文化を代表するものであると。ロブディフ地域民族誌学博物館では、絵画、イコン、像、パネル、木彫刻、金属彫刻など100点を越える芸術作品も所蔵。代表される芸術家は、シメオン・ヴェルコフ(1885年~1966年)、コスタ・フォレフ、ゲオルギーボジロフ-スロナ(1935年~2001年)、ディミタル・キロフ(1935年~2008年)、コリョ・ヴィトコフスキー(1925年~1999年)だと。プロブディフ地域民族誌学博物館は、2000点に上る写真コレクションも有していると。この日は日曜日でもあり『プロヴディフ地域民族誌学博物館』はかなり混雑していた。『プロヴディフ地域民族誌学博物館』を出て左を見ると道の奥に『聖コンスタンティン・エレナ教会』の塔が見えたのでズームで。プロヴディフの旧市内から、どの方向からでもこの教会の鐘楼が見られるのだと。『プロヴディフ地域民族誌学博物館』前の坂道。我々はこの道を登らず、元のT字路方向に戻る。土産物売り場。再び正面に『聖コンスタンティン・エレナ教会』の塔が。『聖コンスタンティン・エレナ教会』の案内板が壁に。『聖コンスタンティン・エレナ教会』入口。案内板。1832年に古い教会堂が取り壊され、そこに新しい教会堂が建設された。それが現在も残るこの『聖コンスタンティン・エレナ教会』。中に入ると、壁一杯に美しい壁画が。教会の壁に描かれたフレスコ画が印象的であった。ビザンティン文化の下に描かれたフレスコ画はブルーを多用しているのであった。教会内の写真撮影は禁止壁いっぱいに花や鳥が描かれていた。奥にはイコンがあった。下記の写真はネットからの転載。教会の敷地内のブルガリアでは珍しかった赤の『紅葉』を楽しむ。美しい色合いは日本の紅葉のごとし。黄色から赤へのグラデーションの美。壁一面に蔓が張り付き真赤に紅葉した葉が。ストヤン・チョマコフ邸展覧会『ズラトゥ・ボヤジエフ(Exposition 'Zlatyu Boyadzhiev'(Къща-музей „Златю Бояджиев“))』。ルネサンスの医師であり、著名な人物であるストイアン・チョマコフ博士は、解放前のブルガリアの独立教会の最も著名な1人。 1862-1865年に建てられたチョマックハウスは、プロブディフの将来の世代のための彼の重要な意志であったと。 左手には水場のある小高い公園が。この丘には後ほどに。石畳の坂道を今度は下る。左手の路地は上り坂。自由時間となり、ここが集合場所と。旅友のSさんと角にあったのが『Art Gallery "La Boheme" Художествена галерия "Бохеми")』。2階の外壁には壁画が。右側の路地も坂道。この奥が、この日の昼食レストランがあった場所。土産物屋には民族衣装を着た女性の2020年のカレンダーが早くも販売されていた。Tシャツも。ブルガリア名物のトロヤン陶器も土産物屋に並んでいた。東欧ブルガリア伝統の「トロヤン陶器」は、ブルガリアのトロヤン地方で取れる良質の粘土で作られた伝統的な模様の陶器。道路脇には垂直に近い石垣の壁が立ち上がっていた。そして『聖母被昇天聖堂・Църква на Света Богородица(The Assumption of the Holy Virgin orthodox church)』のドームが見えた。この教会の歴史は9世紀まで遡れるが、現在の建物は1844年に建てられたもの。ブルガリア独立前1858年からこの教会では、ブルガリア語での奉神礼が行われたことでも有名であると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.19
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そしてこのツアーの4日目・10月27日の朝の我が部屋からの光景。時間は6:34過ぎ。実はこの朝の4時00分にブルガリアのサマータイムは終了し、時間が1時間前にずれたのであった。これまでの海外旅行で、旅の途中でサマータイムの開始、終了による時間のズレを体験したことはなく、初めての経験で前日夜に我が時計を1時間前にづらしていたのであった。来年のこの地のサマータイム開始は2020年3月29日(日)3時00分であると。これにより日本との時差は6時間➡7時間になったのであった。日本のサマータイム制度の導入は今の所ないようであるが。そして6:30からの朝食を済ませ、部屋に戻り朝の陽光の差し込むソフィアの街並みを再び。8時の出発に備えて早めにフロントへ行きチェックアウト。ホテル入口部を内部から。フロントカウンターを見る。多くの漢字が並んでいる場所。しばし、ホテル1FのCafe等の施設を散策。羽ばたく人の像。BARのワインボトルは朝から真赤にライトアップが。浮世絵美人も。ビュッフェ ギャラリー(BUFE GALLERY)。そして、定刻の8時にホテルを出発し、ソフィアの南東約165kmにある『プロブディフ(Пловдив)』へと向かう。プロヴディフは、ブルガリア中部に位置するブルガリア第2の都市、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プロヴディフ州の州都である。その人口は2010年3月時点の推計で376,103人であり、ブルガリアでは首都のソフィアに次いで2番目に大きい」と車窓からのバスの車体にはアレクサンドル・ネフスキー大聖堂の姿がラッピングされていた。車窓右側には前面がユニークな外装のビルが。家具店(Мебелни къщи NIDO)のようであった。"Cherni vrah" 通りを高速道路のICに向かって進む。車窓からは山頂付近がやや白くなっている山の姿が。既に霜が下りているのか?左側車窓奥のユニークな形のビル。多くのトウモロコシ畑が車窓から。山は既に黄葉が終わって枯れ葉が。ソフィアの南東にあるイフティマン市にあった穀物&アルコール工場『Almagest AD(Завод Алмагест АД)』。穀物からエタノールを製造する工場のようであった。高速道路"Trakiya"を進む。山の裾野には靄(もや)が棚引いていた。ガソリンスタンドのコンビニによりトイレ休憩。時間は9:42。『Happy Bar & Grill』、ブルガリア&ソフィア の大手 レストラン&カフェのチェーン店とのこと。"Tsar Boris III Obedinitel"通りのこれもユニークな形状のビル。『Brilyant-Invest - Klon Plovdiv(БРИЛЯНТ-ИНВЕСТ - КЛОН ПЛОВДИВ)』は婦人服の店であるようだ。そして橋の袂にはキン肉マンの裸像が。マリツァ(Марица)川を渡る。バルカン半島最長で480 kmの長さを持つ河川。トルコとギリシャの国境を流れアルダ川に合流しギリシャ国内を流れエーゲ海に注ぐ川。橋の出口側にも女性裸像が。そして川を渡ると直ぐに『"Chifte" Ottoman Baths(Чифте Баня - Център за съвременно изкуство)』前を通過。『CHIFTE BATH』は、16世紀に建てられたプロブディフの古いトルコ式バス。「Chifte」(カップル)と呼ばれるのは、男性用と女性用の2つの入浴部門で構成されているため。この有名なランドマークは、大通り「Tsar Boris III Obedinetel」と「Shest Septemvri」の交差点にあった。そしてすぐ先のロータリーでバスを降り『プロブディフ』市内観光のスタート。旧市街への入口には円形の石碑とその前には遺跡が並べられていた。古代ローマ時代の遺物のようです。フィリッポポリスと呼ばれるこの地の遺物であろう。手前に植物をデザイン化したような文様が刻まれた石片が。これも古代ローマ時代のものであろうか。そして円形の石碑は何故か現代アート風のモニュメント。横たわる人の姿が、骨格風に?表現してあったが。『プロブディフ』旧市内案内図。ブルガリア第二の都市であるプロヴディフはアテネやローマ、コンスタンチノープルよ りも古い、6000年を有していると。ローマ劇場や円形競技場、地下遺跡エイ レーネーなど多数の古代遺跡が街中に見受けられるのであった。「7つの丘の街」とも呼ばれてお り、7つある丘は大きいもので250mほどの高さがあると。ガイドブックより。石畳の坂道・ "Tsanko Lavrenov" 通りを上って行く。1896年に生まれ、1978年に亡くなったブルガリアの画家・"Tsanko Lavrenov" の名がついた坂道。大きな石が敷かれた石畳を。右手前方に『聖ネデリャ教会(Church Saint Nedelya, PlovdivХрам "Света Неделя")』が見えて来た。色彩、文様、外観など、イスラム教寺院のような雰囲気。1832年に建造されたと。直下から見上げた『聖ネデリャ教会』の建物光景。ガイドブックには三身廊のバシリカ風の建築と表現されていた。教会のファサードの扉には十字架が二つ両側に。石碑。『Свети Неделя』の文字が。『聖ネデリャ教会』案内板。ペトコ・ペトコフ・ボズ率いるブラツィッヒの巨匠によって1831~1832年に建てられた新しい、完全に石造りの建物はその当時印象的であった。長さ30m、幅25m(当時の市内最大の寺院)。 1894年に 、地上16mのドームが追加され、祝福されたキリストの像が描かれた。 その後、建築家ミハイル・ネンコフのプロジェクト( 1877-1938 )で、古い鐘楼と低い鐘楼の代わりに、高い鐘楼が建てられた。 1905年に完成し、 1912年に大きなフランスの時計が置かれた。 1910年頃、教会の屋根の南側にある元の鐘楼と、内側のバルコニーに通じる階段の1つが取り壊され、ポーチがガラス張りになったと。『聖ネデリャ教会』を振り返る。石塀の中の洒落た門。石塀の外に張り出した出窓の建物。そして煉瓦色の大きな建物が見えて来た。『民族復興歴史博物館(Historical Museum - Exhibition Renaissance(Експозиция „Българско Възраждане”))』。Експозиция ”Българско Възраждане”の文字が。こちらも案内板。1848年に建てられた豪商の家を利用した博物館。博物館を手がけた大工ゲオルギの名を取り「ゲオルギアディハウス」とも呼ばれていると。バルコニー付きホールなど、木の美しさを生かした見事な建造物で、現在はプロヴディフの民族復興期の独立運動の歴史を展示する博物館になっているのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.18
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自由時間にの後半にはリラ修道院の城壁外の散策コースをミニハイキングすることに。僧院の裏門を出て川に架かる石橋を渡ると、正面に修道院ベーカリー(Monastery's bakery)の建物や民芸調の内装のレストランや土産物屋があり、たくさんの観光客に交じって修道士の方の姿も見ることができたのであった。この日の沢の流れは穏やか。僧院の裏門を振り返る。正面から。裏門の中央にはイヴァン・リルスキーのフレスコ画が描かれていた。世を捨て山に入り、ひたすら修行に明け暮れ、神の声を聴くに至ったひとりの僧の名はイヴァン・リルスキー。やがて彼を慕う僧や信者たちが集まり僧院が建てられ、壮大な修道院に発展して来たのであった。眼前の山々は黄葉の真っ盛り。リロマナスティルスカ(Rilomanastirska)の山(gora)。ホテルであろうか?城壁の下のリラ川に注ぎ込む沢の流れ。雨後、雨期には激しい流れになるのであろう。そして前方に教会らしい建物が。そしてこちらがリラ川の清き流れ。Cemetrey church(墓地教会)。昔は教会であったが、現在はレストランとなっているようであった。ここには、「Novices、monks、教会牧師の遺体が埋葬されている」と。リラ川の白き水の流れを追う。再び黄葉を。しかし紅葉ではなかった。集合時間16:15近くになり再びリラ修道院内部に戻る。『フレリョの塔』と『聖母誕生教会』。『僧坊』。フレスコ画で満ち溢れた『聖母誕生教会』を再び。『聖母誕生教会』のドームをズームで。そしてソフィアのホテルへの帰路に。往路と同じ107号線を戻る。出発して直ぐに、紅葉の絶景SPOTと言う場所で撮影タイム。しかし、紅葉の絶景SPOTと言うにはほど遠い場所であった。再びバスに乗り込むと右手に揚水式水力発電用の管路が見えた。リラ村の出口付近には馬車の荷台に乗る家族の姿が。Kocherinovo村の屋根の上の行きとは別のコウノトリの巣。北マケドニア方面の山々の姿。A3(E79)高速道路が緩やかにカーブ。久しぶりのトンネルが前方に。黄葉した山の裾野に広がる村並み。この建物は?ソフィアの市内に近づくに連れ、高層ビル群が姿を現して来た。バスの車窓から夕焼けを楽しむ。"Pencho Slaveykov",<通り沿いの高層ビルは美しくライトアップ。そして2連泊の『Hotel Marinera(マリネラ)SOFIA』に到着後、旅友Sさんを除く3名でオプショナルツアーの『民族舞踊ショー(夕食付き)』に参加するため、19時にバスにてホテルを出発。国立文化宮殿に近い「Chevermeto」というソフィア市内のブルガリア料理レストランに到着。「Чевермето」の店名が記された看板。到着時は店内はまだ観光客の姿は少なかった。そして夕食が出て来た。このサラダはShopska salad(ショプスカサラダ)といい、ブルガリアを代表するサラダ。チーズはSirene(シレネ)という白いチーズで、ギブルガリア菌の仕事で作られる、ブルガリアならではのチーズだと。しかし私にはこのチーズは塩っぱかったのであったが・・・。メインは「Kavarma」という豚肉のオーブン料理。食事の終了を見計らって、まずは民族舞踊が始まる前に民族楽器に合わせて太めの女性がブルガリア民謡を歌う。次には若手が。男性陣による太鼓を叩きながらの踊りが続いた。そしていつの間にか、観光客も交えてのダンスが。我が旅友2名も輪の中に。店の中は部屋が繋がっているような造りで、料理を食べている時に民族舞踊などのショーも一生懸命やってくれたのであったが、舞台などは無く部屋を回りながらテーブルの隙間で踊ったり演奏したりしているのでフォルクローレ踊りの観賞はチョット落ち着かなかったのであったが。再び男性陣が太鼓を叩きながら登場。薄暗いレストランの中での写真撮影はなかなか・・・・。ブルガリアの地方によって民族衣装が異なっているらしく、踊っている人はいつも同じ人だが、いろいろな衣装に着替えて出て来た。そして踊りもいろいろな種類が。バルカン半島の南東端を国土とするブルガリアでは、ユニークなダンスの文化が育まれたと。訪れた国のフォークロアに接することは、かけがえのない異文化体験。そして、『リラの修道院』からホテルに戻る時に車窓から見た青のイルミネーションの美しいビルが目の前に。そしてホテルに戻る。ホテル前の塀に映されたホテルのシンボルマーク。ホテル入口には全身黄金色の高級車が停まっていた。二人乗り、ドアは横開き、排気量5200cc?の車か。イタリア車・『Lambolghini(ランボルギーニ)』の文字が。高級車を意味する『Prestige』の文字が手書き?で。正面から。芸能人や財界人でもホテルに来ているのであろうかと。そして部屋に戻ると、旅友Sさんが、前夜に残ったアスパラガスを茹でてくれて待っていてくれたのであった。この夜もマヨネーズ付きのアスパラを食べながら二人で、ウィスキーを飲みながらこの日の反省会を行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.17
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『聖母誕生教会』を再び見る。リラ修道院 配置案内図。『聖母誕生教会』のファサード。『聖母誕生教会』入口に近づいて。『聖母誕生教会』内部には入らなかった。内部は撮影禁止とのこと。服装、持ち物の制限も。販売されていた絵葉書を撮らせていただきました。礼拝堂の内陣。礼拝堂のドーム。このフレスコ画も見たかったが・・・・。暫しのフリータイムになり廻廊の極彩色のフレスコ画を再び楽しむ。36の聖書の場面とこの地方の生活の様子が描かれているのだと。これらのフレスコ画は、1833年に焼失した教会を再建する際、当時を代表するイコン画家たちが、ほぼ無償で描いたのだと。フレスコ画はキリストや聖母マリア、聖書にまるわる物語を題材とした宗教画なっていると。キリスト教そして聖書に対する知識が貧しいため、フレスコに描かれている画面の物語内容は残念ながら解らなかったのであったが。天国と地獄を描いたフレスコ画であると。更に奥のフレスコ画。写真右側のテーブルを囲む人物が描かれた大きな絵は最後の審判を描いたものであると。正面から。「神とアダム・イブ」のフレスコ画場所を変えてズームで。『フレリョの塔』の壁には文字が。高さ23.6m、6階建てで、最上階に礼拝堂あり。「現在の形になったのは14世紀。時の王の庇護の下で僧院文化は華開いた。その後、ブルガリアは約500年にわたってオスマン朝の支配下に入ることになる。この間、キリスト教の信仰はもちろん、ブルガリア語の書物を読むことにも制限が加えられていたのだが、この僧院だけは、それらが黙認されていた。往事に約360の房に、全国から僧が集い、寝起きをしていたという。僧院の建物ハ、1833年の大火事でおおかた燃えてしまったが、その後復旧され、1983年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。」と。出っ張っている部分は階段の踊り場部分であろうか?『聖母誕生教会』と『フレリョの塔』の合間から僧坊を見る。再び外廊の天井のイエスのフレスコ画「神とキリストの生涯」のフレスコ画窓の保護枠中央。「キリストと天使達」のフレスコ画。アラブの庭を思わせる噴水とその天井にはフレスコ画、そして奥には僧房が。噴水奥から回廊のフレスコ画を振り返る。マリア被昇天の図のフレスコ画。リラ僧院のフレスコ画の中ではなにげに一番有名なフレスコ画であると。左の聖人はイヴァン・リルスキーであろうか?「天使と悪魔の問答」のフレスコ画。「地獄へ落ちる女」のフレスコ画。「聖母子と聖人達」のフレスコ画。4階建ての僧坊が周囲を囲む。場所を変えて。白と黒のアーチ部が印象的。踊り場を見上げる。青空、黄葉の山を背に『聖母誕生教会』を。紅白の縞模様も印象的な『聖母誕生教会』。リラ修道院博物館の銘板。フレリョの塔の裏側。僧坊の一部は宿泊施設にもなっているようであった。水を飲む人の姿もあった。正面が表入口であり中庭の中に『聖母誕生教会』(左)があった。『リラ修道院のドローン撮影』の動画をネット上にありましたので、リンクを貼らせていただきました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.16
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E871号線を100km先のリラへ向けて南西に進む。前方に煙突が6本。交通量も多くなってきた。片側3車線の高速1号線をひたすら走る。田園風景が続く。ペルニク(Перник)の東にある発電所の巨大なクーリングタワーから白煙が。このツアーでは、風力発電、太陽光発電施設はほとんど目にする事がなかったのであった。リラ村の手前にあるコチェリノヴォ(Kocherinovo)まで4Km。東に向かって107号線を進む。所々に放牧中の牛馬、羊の姿が。Kocherinovoを通過。Kocherinovo村の屋根の上にあるのは、コウノトリの巣であると。コウノトリは東アジアだけに住む鳥とばかり思っていたが。ネットで調べてみると、このコウノトリは日本で見るコウノトリとは、異なり実はシュバシコウ(朱い嘴のコウノトリ)と呼ばれる種類らしい。そしてこちらは絶滅危惧種とはほど遠く安泰であるとのこと。日本のコウノトリの嘴は確か黒であったと思うが。そしてこのコウノトリの姿を見ることが出来るのは春であると。日本のツバメの如く毎年、同じ巣に戻ってくるのであろうか?そしてツル類は鳴くが、コウノトリの鳴き声はテレビでも聞いたことがないのであるが・・。この地のコウノトリの姿をネットから転載させて頂きました。なるほど、日本のコウノトリと異なり嘴が赤い!!。 【https://tokuhain.arukikata.co.jp/pleven/2014/06/post_56.html】よりIvan Rilski通り沿いのモニュメントには銃が。「1877-1878」の文字があらうことから、「露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)」の記念碑なのであろう。「「露土戦争」はロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった戦争。ロシア帝国の勝利で終わった」と ウィキペディアより。リラ村へ向かう途中の並木道は美しく黄葉を始めていた。バスの後部座席から、ズームてバスのフロントガラス越しに撮影。リラ村を通過すると107号線の車窓左手上に巨岩の山が。車窓から山の上には十字架・Sanctuary Krasta (The Cross)が。巨岩が更に続く。道路左手には渓流・Rilska川が現れた。山々は黄葉が始まっていた。所々にレストランが現れる。道路脇にはミツバチの巣箱がズラッと並んでいた。昼食のためにリラ村にあったHOTEL GORSKI KUT内の レストランに立ち寄る。入口。サマーテラスを備えたこのレストラン。スープは『タラトール(Таратор / Tarator)』。ここブルガリアをはじめとする東ヨーロッパの各地で食されているスープ。特にブルガリア名物として知られる。冷製ヨーグルトスープ。前菜。トルコや東部地中海沿岸地方ではソースとして、魚料理などと共に供される。ヨーグルト、クルミ、ニンニク、キュウリ、ディルやパセリなどのハーブ、ビネガーまたはレモン果汁、塩、オリーブオイルやひまわりオイル、水などが主な材料。鱒のグリルとジャガイモ。美味しくてアッという間に見事に!!たいらげる。バニツァ(Баница(ブルガリア語)、Banitsa、banica、banitza)は、ブルガリアで伝統的に食べられているキッシュやパイによく似た料理。高度が上がるにつれて黄葉はピークに。道路脇にはハチミツを売る店が所々に。山の黄葉を楽しみながら進む。『リラ修道院』の駐車場前にソフィアから2時間半で到着。時間は14:31過ぎ。リラ修道院はリラ山脈の北西、及び海抜1147mの高さにあるリラ川の深い低地にある、ブルガリアの首都ソフィアから117キロメートルに位置する。非常にひっそりと佇んでいた。強固な外壁は、まるで要塞のごとし。リラの修道院の表入口。リラの僧院にはいわゆる「ドレスコード」があり、タンクトップ、袖なしのワイシャツ、短パン、ミニスカート等では修道院内部には入場できないようであった。この修道院の歴史は10世紀にまでさかのぼると言う。それは10世紀のブルガリアでのこと。世を捨て山に入り、ひたすら修行に明け暮れ、神の声を聴くに至ったひとりの僧がいた。僧の名はイヴァン・リルスキー。やがて彼を慕う僧や信者たちが集まり僧院が建てられ、壮大な修道院に発展した。それが、ブルガリアが誇る世界遺産、リラ修道院の創設にまつわる物語。首都ソフィアから南へ約120km。リラ山脈の山懐に抱かれたリラ修道院は、統治者の庇護を受け14世紀にはブルガリアの宗教・文化の中心になっていた。しかし1396年からブルガリアは、約500年にわたりオスマン・トルコの支配下に。キリスト教信仰と自国の言語の使用も制限された。それでも屈することなく、リラ修道院は信仰とブルガリアの文化を守り抜き、オスマン・トルコも黙認せざるを得まかった。リラ修道院がブルガリア正教の支柱的存在、ブルガリア人の心の拠り所といわれる所以。残念なことに1833年の大火で建物の大半を失ったが、建築家、芸術家たちが結集し、19世紀後半には見事に再建。城壁のような外陣(修道士の居室)に囲まれて建つ聖母教会は、タマネギ型のドームと白黒で装飾されたアームの列柱廊を持ち、壁、柱、梁、天井を埋め尽くす極彩色のフレスコ画は、ブルガリア宗教画の至宝といえるのだと。入口の門の中央に描かれているイヴァン・リルスキーのフレスコ画をズームで。入口は意外と小さな作りとなっていたがが、そこは既に美しいブルガリア正教会の世界観が描かれていたのであった。アーチ状の入口は色鮮やかで、美しい青い色が目を惹いたのです。太陽の如き象形の中に顔が描かれていた。ユネスコ世界遺産(1983年、文化遺産)に登録されている。リラ修道院の案内板。入口門の内部そして天井の美しいフレスコ画。門の天井にも美しいフレスコ画が。囚われの身の姿も。現代アートの如きデザイン。アーチ型の門と歴史を感じる石畳を通り抜けると、圧倒的な『リラの修道院』の魅力が眼前に現れたのであった。正面のドームが『聖母誕生教会』。1833年の大火後、民族復興様式で再建され、もっとも中心的な建物。白黒の縞模様のアーチ内はアーケードとなっていて、壁と天井一面に色彩豊かなフレスコ画が見事に描かれていた。36の聖書の場面やこの地方の生活の様子が極彩色のまま保たれているのが素晴らしいの一言。4階建ての住居のある外陣には、300もの部屋、4つの聖堂、大修道院長室などが入っているのですが、残念なことに立ち入り禁止!イヴァン・リルスキーと言う僧が隠遁の地として選んだのが始まりで、現在の形になったのは14世紀。近くの山の上にはイヴァン・リルスキーを祀る祠があり、初期の隠遁生活をしていた洞窟もあると。ブルガリアは500年もの間オスマン帝国の支配下にあり、世の中全てイスラムでなければならない時代に、ここだけは秘かに許されたのだと。リラの修道院の『僧坊』。居住区は300室、今も修道士が生活をしているとのこと。しかし、19世紀(1833年)の中ごろに大火があり、ほぼすべてが焼失したと。その中で焼け残ったのが「フレリョの塔」。要塞のようなフレリョの塔は修道士とフレリョ領主とその家族の防衛のために建てられたようで、壁に開く縦長の細い銃眼や、物資を釣り上げるための穴等が見て取れる。この塔は14世紀に建てられた当時のそのままの姿だと言われているのだ。 黄葉の山々を背景に。右手が『フレリョの塔』。要塞のようなフレリョの塔は修道士とフレリョ領主とその家族の防衛のために建てられ、壁に開く縦長の細い銃眼や、物資を吊り上げるための穴等が見て取れた。僧院内で唯一1833年の火災を免れたのが、この『フレリョの塔』。14世紀に建てられた当時のままの姿がここに残されているのだと。石造りの塔の外壁には壁画が施されているのであったが、ほとんど色褪せもせず美しさを保つ。1階には土産物屋が入り、宗教関係の土産物が並んでいた。『聖母誕生教会』の西側横に聳える、リラ修道院内で最も古い建造物の鐘塔。14世紀の大地震後に再建された現存する唯一の建物。塔の前面にある鐘楼は1844年に後から取り付けられたもので、中には大小様々な鐘が取り付けられていた。高さが24mある外壁はほとんど褐色せず、正面に描かれたフレスコ画も色鮮やかで見応え十分であった。14世紀にセルビアの貴族フレリョ=ドロゴボラの寄進により建造。堅牢な姿を伝える鐘塔では、今も修道士が時を知らせており、山中に響く鐘の音を聴くと、往時の光景が蘇ってくるとのことであったが残念がら・・・・。聖堂の横にある墓標は、修道士 ネオフィト・リルスキの墓。修道院内に学校を作るなど、相当な貢献をした人だと。縞模様の壁が印象的。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.15
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3日目のこの日、2連泊のホテルからの観光出発時間は9:45。よってこの朝はトランク無しでホテルのフロント前へ。ソフィアで行われた『European Volleyball Gala 2019』2019男子欧州バレーボール選手権は、欧州のバレーボール団体であるCEVが主催する男子欧州バレーボール選手権。 EuroVolleyは、ベルギー、フランス、オランダ、スロベニアの4か国で初めて開催された。CEVとは欧州バレーボール連盟(Confédération Européenne de Volleyball)トーナメントは、2019年9月12日から9月29日まで開催されたと。2019年10月26日(金)、ここホテルマリネラで毎年恒例のヨーロッパバレーボールガラの2019年版が開催されるようであった。スポーツの過去と現在のスターの一部を祝う機会であるだけでなく、 CEVとブルガリアバレーボール連盟(BVF)との非常に緊密で実り多い協力関係を祝う会であるようだ。そして集合時間前には見事に全員集合し、定刻にホテルを出発し、この日の最初の観光地である世界遺産『ボヤナ教会』にバスは向かう。ホテルを出て "Cherni vrah"通りを北上。左手にはこの朝の早朝散歩で歩いた歩道が。左手に、朝に渡った『国立文化宮殿』に向かう "Bulgaria" 通りにかかる巨大な歩道橋、そして『国立文化宮殿』が見えた。左折して"Arsenalski"通りを西に進む。道路脇の木々は黄葉を初めており、植裁も美しく維持管理されていた。"Bulgaria"通りを進む。左手には路面電車の線路が。 "Daskal Stoyan Popandreev"通りを世界遺産『ボヤナ教会』に向かって更に進む。ヴィトシャ山(Витоша)の上には現在は使われていないというテレビ塔が。ヴィトシャ山は、標高2000m級の山々が連なる連邦で、最高峰は、2290mあるとのこと。ソフィアの中心街から車で約30分、ヴィトシャ山の南の麓(ふもと)に、密林に囲まれたボヤナ村があった。高台で少し空気の良い住宅街、社会主義時代は迎賓館や上役員、共産党の名士などの公邸が建てられていたのだと。20世紀の半ばごろからは、建築が進んで高級住宅街となり、新築マンションの建設ラッシュ、スーパーにオシャレなレストランが軒を連ねた。民主化以来、新エリート集団が立派な邸宅を建て始めたと。そして1979年に世界遺産に登録された『ボヤナ教会』に到着。時間は10:13。下の写真の大きなアメリカ杉が目に付いた。説明板によると「この巨大なアメリカ杉は1907~1908年ごろ、フェルディナンド王によって植栽された」と書いてあった。ブルガリア国王フェルディナンドはバルカン戦争や第一次世界大戦に参戦する等ブルガリアの領土拡大に意欲を示したが、第1次世界大戦でドイツをはじめとする同盟側について敗戦、最後は鳥類学と植物学の専門家としてその生涯を終えたと、ウィキペディアより。壁に囲まれた小さな門が1つ置かれてい。ここが『ボヤナ教会(Боянска църква музей)』の入口門。『世界遺産』の案内ボード。ユネスコ世界遺産リストに1979年登録。『ボヤナ教会』の横の墓地に埋葬されている『ブルガリア女王 エレオノラ(ELEONORA)』👈リンク の銘板。ここがチケット売り場。『聖ニコラ・聖パンテレイモン ボヤナ教会』案内板。『ボヤナ教会』はブルガリア正教会の教会堂。2階建ての教会の東翼は、元々10世紀後半ないし11世紀初頭に建てられたものであり、その後、第2次ブルガリア帝国の下で13世紀に中央棟が加えられた。西翼がさらに拡張され、現存する形が完成したのは>19世紀半ばのことであった。『ボヤナ教会』正面。これだけみると大した教会ではなさそうなのだが、中がすごかった。『アンドレ・グラバール(André Grabar)』について書かれた石碑。この大理石の碑にはブルガリア語、フランス語、英語で書かれていた。「アンドレ・グラバー 1896年~1990年著名な考古学者、コレージュ・ド・フランスでのビザンチン考古学の教授ハーバード大学と、フランスのアカデミーデ碑文ら芸術のアメリカアカデミーの純文学と科学とのメンバーを20世紀のビザンチン美術研究の創設者であるブルガリア科学アカデミー、およびボヤナ教会とブルガリアのビザンチン美術に関する最初の出版物の著者。」ユネスコ世界遺産リストに1979年登録された際に貢献した人物なのであろうか?内部見学は1回につき最高8人で10分間までであると。『ボヤnナ教会』の周囲の公園内での飲食は禁止と。再び正面から。この部分は19世紀の建物。側面を見るとレンガの色、形、石など3つに分かれているのがなんとなく解ったのです。写真右側は1048年に創建された聖ニコラウス聖堂、真ん中の一番大きな教会は1259年創建のパンティレイモン聖堂、そして左が1845年創建の第三聖堂と、ボヤナ教会は、3つの聖堂からなるブルガリア正教会なのです。『ボヤナ教会 Boyana Church』英語でも併記。1979年10月26日ユネスコ世界遺産リストに登録繰り返すが『ボヤナ教会』は、10世紀後半から11世紀初頭に建設された東側教会(写真右)、13世紀初頭の第二次ブルガリア帝国時、セバストクラトール・カロヤン(Sebastocrator Kaloyan)の命により中央に建設された教会(写真左)、19世紀初頭、西側に追加建設された第3の教会による3つの建物で構成されているのだ。1048年に創建された聖ニコラウス聖堂を裏側から。『ボヤナ教会』の正面に向かって左側の壁を教会裏側から。やはり左側に行くほど歴史を感じさせる壁が確認できた。教会横の墓地。これがブルガリア女王 エレオノラ(ELEONORA)の墓なのであろう。そして順番が来て我々グループが『ボヤナ教会』内部へ。ボヤナの教会が世界的に有名になったのは、ブルガリア中世美術の高水準を物語る1259年の壁画のため。240枚ある絵の一枚一枚は個性が溢れていると。資金提供者の伯爵夫妻とコンスタンティン・アセン・ティフ王(在位1257~1277年)と王妃のイリナの肖像は、歴史人物の肖像画でブルガリア最古のもの。拝廊では、教会の守護聖者の一人、聖ニコラの生涯場面が18枚描かれており、その中には画家を取り囲む当時の時代の現実が描かれていた。聖者像には、ブルガリアの国民的聖者、10世紀にリラ修道院を築いた聖イワン・リルスキーの最古の絵も。また、壁に描かれた聖エフレム・シリンの目は、信者を追うかのような錯覚を起こしてしまうところがあるのだと。教会内部は現在撮影禁止であったため、ガイドブックの写真を掲載させていただきます。一番最初に建てられた聖ニコラウス聖堂の一番奥には、十字架状の支えが作りつけられてある祭壇スペースが。その上の部分には聖母マリアとキリスト、さらにその上には、弟子を従え、白く光り輝くキリストの姿も。これは聖書にあるキリストの変容を描いたものであると。写真右側に描かれているのはボヤナ教会の聖人「聖ニコライ」で横には、聖ニコライの生涯の18の場面も見られると。「法律学者とキリスト」(1259年)。キリストと法律学者との論争(?)の様子だろうか。13世紀に増築された中央棟の南側壁面上部にあった。最も古い壁画層は12世紀のもので。世界遺産に登録されているものは13世紀に描かれたフレスコ画ですが、11世紀のフレスコ画の上に描かれたものなので、もちろん11世紀のものもかすかに残っていた。聖ニコライの右横、少し壁が奥に入っているところの上では、壁がはがれ、光輪に包まれたほかのフレスコ画とは少し違った描写の絵が見えている。ほとんどは薄くなり、見ることはできないが、この写真のフレスコ画は綺麗に残されていたのであった。13世紀に描かれたものは入り口横に展示されていた。時代も絵の技術も違うのだろうが、表情、首の傾け方などがなんとなく似ていたのであった。13世紀に、当時ソフィアの地方の領主だったカロヤン伯爵(セヴァストクラトル)と夫人デシスラヴァの資金で、後には霊廟に使うために2階建ての部分が増築された。二人が残した碑文によると、2回目の壁画が施されたのは1259年。修復工事で名前が明らかになった二人の画家、ヴァシリエとディミタルが旧部分の壁画の上、そして新築の2階建てに壁画を描いた。資金提供者の伯爵夫妻とコンスタンティン・アセン・ティフ王(在位1257~1277年)と王妃のイリナの肖像は、歴史人物の肖像画でブルガリア最古のものとされている。特に、カロヤン伯爵夫人のデシスラヴァは、美しく魅力的に描かれているので、この画家はデシスラヴァが好きだったのではないか・・・という説もあるのだと。「カロヤン伯爵夫婦の絵画」現地の専用ガイドによると伯爵の手にはこの教会がのっていると説明されていたが、確かにいわれてみればそのように見えた。こちらは現地のポスターから。イタリアのサンタ・マリア・デッリ・グラッツェ教会に描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチ作で有名な「最後の晩餐」(1259)。この有名な場面も、東棟の北側壁面(左側)上部に描かれていた。処刑される前夜、イエスと12使途たちと共に取った夕食の姿が描かれていつのだ。12使徒の表情が豊かでついついずっと眺めてしまいたくなる作品。これは、ルネッサンス期以前に描かれたものであるにもかかわらず、ルネッサンスの手法に酷似している貴重なものとされていると。拝廊では、教会の守護聖者の一人、聖ニコラ(オランダではシンタクラース)の生涯の場面が18枚描かれており、その中には画家を取り囲む当時の時代の現実が描かれていると。東棟の頭上に目を移すと、ドームには『全能のキリスト』(1259)、左手に福音書を持ったキリストの姿が。右手は祝福の動作を表していると。キリストが今にも降りてきそうなそんな臨場感あるフレスコ画。長い年月を感じさせない見事に残っているフレスコ画に感動しっぱなしの10分間であった。そしてツアー仲間全員が見学後に世界遺産『ボヤナ教会』を後にし出口(入口)に向かったのであった。そして再びチケット売り場前を通過。観光記念メダル作成器であろう。出口には絵画の土産物売り場が。特に『ボヤナ教会』とは無関係の絵がズラッの並んでいた。我々のバスの前で我が旅友がいつもの満面の笑顔で。駐車場に出るところに陶製の写真入りの塔が立っている。キリル文字で書いてあり、私には内容が判らなかったが、1912年の死亡者を弔うもののようで、バルカン戦争の時この村から出征した兵士の犠牲者を弔ったものと。そして車窓から『ボヤナ教会』も見納め。そして次の観光地のリラに向かって”Aleksandar S. Pushkin“通りをバスは走る。道路中央で、信号待ちの車に何か?を売っている?オジサン。オジサンの右手にはブルガリア国旗が。ぶら下げているボードには『areon』の文字が。『areon』は芳香剤のようであるが、車内用を販売いやPR中?『Temple Sveti Prorok Iliya(スヴェティ プロロック イリヤ寺、Храм „Свети Пророк Илия“)建物の壁には見事な景色、路面電車の姿も描かれていた。ここが路面電車の終点、そして折り返し地点であるようだ。ウラダヤ川沿いに走るブルガリア6(E871)号線を走る。E871はユーロ圏内「European route 」での共通名称。ガソリンスタンド近くにあった巨大な石像は? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.14
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3日目のこの日も早朝起床し、ホテルのM階にある朝食会場に行きバイキング式の朝食を楽しむ。時間は6:30過ぎ。朝食後、旅友4人でホテル周辺の早朝散歩に向かう。時間は6:44。東方正教会(The Exaltation of the Christ's Holy Cross)。教会の横の墓地?には『ロレーヌ十字』が。この「複十字」は1本の縦棒とそれに交差する2本の横棒からなっていた。 "Cherni vrah"大通りに沿って進む。"Cherni vrah"大通り沿いの公園(Черни връх)にあった銃を持つ兵士のモニュメントは『ソビエト陸軍記念碑』。建築家ヴァシル・ベヤゾフと彫刻家のリュベン・ディミトロフ教授の作品であると。ネットで調べてみると、ブルガリアで死んだソビエト兵士の納骨堂でもあったようだ。"Cherni vrah"通りの坂を下る。同じ公園内にあった、イルカを背負った少年の像。これより前に旅友の間で城みちるの唯一のヒット曲『イルカにのった少年』が話題になったばかりであったが何と『イルカを背負った少年』の像が目の前に現れたのであった。交差点にあったショッピングモール『Park Center SOFIA(Парк Център София』犬専用公園・サウスパーク(Южен Парк - Кучешката Градинка)内を散策。科学博物館(Earth and People National Museum、Национален музей „Земята и хората)。この碑は?破壊されたが如くであったが・・・。科学博物館を別の場所から。ソフィア アーセナル 現代美術館(Софийски арсенал - Музей за съвременно изкуство)前庭には様々な像が展示されていた。美術館 案内板。公園の紅葉はほぼ終わっていた。 "Bulgaria" 通りにかかる巨大な歩道橋を渡って、『国立文化宮殿』に向かって進む。ソフィア市内の観光名所が歩道橋の両側に紹介されていた。ヒルトン ソフィア(Хилтън София)を振り返る。カルチャーセンター・国立文化宮殿(Национален дворец на културата)の上空からの全景写真。落ち葉も見事に紅葉。城を思わせる堂々とした佇まいの『国立文化宮殿』は、展覧会、映画祭、有名人のコンサートなどが開催される多目的文化センター。ソフィアでもっともよく知られるランドマークのひとつで、文化とエンターテイメントを発信する素晴らしい施設であると。モダンな要塞のような建築をじっくり眺め、アート展示を鑑賞し、ライブ音楽のイベントを楽しんめると。1981 年にオープンした国立文化宮殿は、ブルガリア建国 1,300 周年を記念して造られたとのこと。そびえ立つ六角形の建物は、現代の城のようにも見える。内部には 13 の展示ホールがあるほか、8 階建ての建物内には複数のレストランも点在。展示ホールを飾るのは壁画、モザイク画、彫像などのコレクションで、その多くは歴史上の人物やイベントを題材にしたブルガリア人アーティストの作品であると。この人物は誰?比較的新しそうな像であったが。ここにこの像の人物名が書いてあるはずであるが・・・・・。通称エンデカ(NDK)。再び『科学博物館』を見る。そして我々のホテルが見えて来た。そしてホテルに戻り、休憩しこの日の出発時間まで部屋で待機したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.13
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『ソフィア歴史博物館(旧ミネラルバス)』を横から。チョロチョロとお湯が出ている水道が。これはきっと以前の公衆浴場の名残。水道から目線をあげると、温泉の成分表示と注意書きが書いてあった。そこにはブルガリア語と英語で「No bathing ,washing and washing-up!」との記載が。昔を懐かしむあまりに入浴したくなる人もいたのでしょうか。赤ちゃんならここで入浴させられそうだが。博物館の外にある古い水飲み場の遺跡。ソフィアでは、ローマ時代から共産主義まで、古い石の断片が風景の一部として街の周りに横たわっていたのであった。『ソフィア歴史博物館(旧ミネラルバス)Sofia History Museum(Central Mineral Baths Building)』を正面から。以前公衆浴場だったユニークな建物は、エレガントで豪華な装飾に素晴らしいマジョリカの飾り、偉大なブルガリア人芸術家ハラランビ・タチェフ(Haralambi Tachev)の功績ともあり、ソフィアにおいて重要な歴史的建造物であると。2014年に、この建物はソフィア歴史博物館として新しくオープン。博物館自体は1928年に設立されたが、第二次世界大戦の爆撃に耐えることが出来なかったと。トラム・路面電車。『バーニャ・バシ・ジャーミヤ』の向かいには、『セントラル・ハリ(Central Hali)市場』が。1910年に建てられた、かつての中央市場で、現在はいくつもの商店が入った『中央市場市場ホール』となっていた。様々な種類、色のトラム・路面電車が市場前を。かなり頻繁に行き交っていた。『ソフィア シナゴーグ(Sofia Synagogue)』。内部配置図を含んだ案内板。1909年にかつてのユダヤ人居住区に建設されたバルカン半島最大のユダヤ教寺院。大小のドームの内部装飾が美しく、丸天井からは重さ1.7キロもある巨大なシャンデリアが吊り下がっていると。1992年にはシナゴーグの建物内に歴史博物館が開館。博物館ではユダヤ教の生活や文化、伝統を紹介。また、「ブルガリアにおけるユダヤ人コミュニティ(The Jewish Communities in Bulgaria)」や 「ホロコーストとブルガリアに住むユダヤ人の救済(The Holocaust and the Rescue of the Jews in Bulgaria)」が展示されていると。そして『セントラル・ハリ(Central Hali)市場』・『中央市場市場ホール』を訪ねた。中では食料品や日用品を扱うマーケットだけでなく、カフェなどもあった。ここで暫しの自由時間となった。土産を探すも良し、カフェでのんびり過ごすも良し。混雑することもなく、落ち着いた時間を楽しむことができたのであった。鮮魚屋さんも。1階はB級グルメの宝庫!ブルガリア人が愛する白チーズをたっぷりサンドしたサンドイッチやヨーグルトドリンクの「アイリャン」、ボリュームたっぷりのピザにパスタまで様々なグルメを手軽に食べることができそうであった。地上2階地下1階の館内は屋根にガラスをはめ込んでいる部分が多くあり、日差しがたっぷり入る開放的な空間。特に買い物をしなくても、街歩きの休憩に気軽に使えるショッピングセンター。我々はサンドイッチを1個購入し、半分に切ってもらい旅友とシェアーし暫しの休憩。市裁判所の下の『セルディカ要塞遺跡』を見ながらしばしの散策。「ヨーロッパ最古の都市」の一つとされる「ソフィア」にある「紀元前」に「トラキアのセルディ族」によって集落が造られたのが始まりで「紀元後1世紀」には「古代ローマ」によって「整備」され「要塞化」されたと。地面を掘ればまだまだ遺跡がザクザクと出てくるのであろう。この地上遺跡にも近々屋根がかけられるのであろう。再び『バニャ・バシ・ジャーミイ』を見る。そして正面に『旧共産党本部』の堂々たる建物が。ちなみに、現在は議員会館ということなので、中には入れないのだと。バスに乗り込み政府機関『Agency for Bulgarians Abroad』を車窓から見上げる。『旧共産党本部』ビルから左右対称の巨大な政府機関ビルが向かい合っていた。『旧共産党本部』横の噴水。再び『ブルガリア国立銀行』を車窓から。『BNP Paribas』ビル。世界有数のグローバル金融グループ。欧州を本拠とし、本部をパリに置く。脇の道路の両脇は駐車スペースになっていて、2車線分が死んでいる。『Peyo Yavorov House-Museum』ロマンチックな詩人であり、革命的なPeyo Yavorov(1878–1914)は、有名なラコフスキー通りにあるこの家に住んでいたと。国立文化宮殿がある公園。大きな公園を右に見ながら進む。右手にショッピングモール(Park Center)。そしてこの日から2連泊の『『Hotel Marinera SOFIA(ホテルマリネラソフィア)』に漸く到着。チェックインし我が部屋に。時間は16:11。ダブルベッドではなくツインであることに安堵!!(笑)。ベッドの距離も離れていてまずは一安心!!部屋での暫しの休憩後、再びバスにて夕食会場のレストランに向かう。クニャーゼスカ・ガーデン(Knyazheska Garden)には共産主義時代のものと思われる大きなモニュメント『Soviet Army Monument』が。ソフィアにあるこの旧ソ連軍の記念碑は、第二次世界大戦のナチスに対する勝利を称えて、1954年に建てられたのだと。最近、この碑は右派と左派の政治団体の間の議論の的となっていると。ブルガリア社会において、ある右派の団体が、この碑を撤去すべきかどうかの議論を始めたのだと。交通事故か?ソフィアのパトカー、警察官が。ソフィア大学が右手に。クリメント・オフリツキー通り(St Kliment Ohridski)にあるソフィア大学はブルガリアで初めて創設された高等教育機関。最初のデザインはフランス人建築家Jean Breassonよるものでしたが(1906年)、再度1926年に、建築家ヨルダン・ミラノフ(Yordan Milanov)がオリジナルデザインを設計した。内部のインテリアは国内外の彫刻家や芸術家が手がけた。大学には古生物学・地史学博物館や鉱物・岩石・鉱物資源博物館があると。1888年に設置された ソフィア大学は16の学部、約24000人が学んでいるのだと。彫刻家Kiril Shivarovにより、大学の支援者であったゲオルギエフ兄弟の銅像が作られ、正面玄関の両サイドに置かれていた。ブルガリア最大の蔵書を持つ『聖キリル・メトディイ国立図書館』。前庭にあった像は聖キリル(Кирил )とメトディイ(Методий)2人の像であろう。『ヴァシルレフスキ記念碑(Vassil Levski Monument)』。1873年2月18日にブルガリアの国民的英雄であり、革命家であるヴァシルレフスキがこの場所で絞首刑に処されたと。レストランに到着しバスを降りると、八百屋さんが。この日の夕食レストランは "Yanko Sakazov(ヤンコ・サカゾフ)"通りにあったブルガリア料理店『Славяни(Slavyani)』。前菜。パン。肉料理。そして夕食を済ませ、ホテルに戻る。『Hotel Marinera(マリネラ)SOFIA』1980年代共産党支配化に建てられたホテル。日本の御三家ホテル・ニューオータニが建てたもの。設計は建築家の黒川紀章せあると。客室数440、日本庭園や屋内プールもあるとのことであったが、訪ねる事は出来なかったが。『VG』はVery Goodの意味か?ホテルのフロンと奥には兵馬俑の姿の置物が5体。同じく様様な漢字が記載されたプレートが並んでいた。私は『夢』の漢字の前で記念撮影。高齢の?旅友は『命』の前で。それとも『奥様 命』の愛妻家か?そして部屋に戻り、夕食レストラン傍の八百屋で購入して来たアスパラガスを茹でてこの日の長い1日の反省会を旅友と。マヨネーズも近くのスーパーで購入済み。そしてこの日の大移動の疲れもあり、片付けは旅友に任せてアッと言う間に爆睡してしまったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.12
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『聖ゲオルギ教会』への通路のある建物が『ブルガリア大統領官邸(President of Republic of Bulgaria)』。正面には衛兵が二人。その上に『Република България Президент』の文字とブルガリアの国章が。振り返ると『国立考古学博物館』の建物が。そして前庭んは、発掘された遺物が展示されていた。衛兵が目を動かす瞬間を!!「早く交代衛兵が来ないかなぁ、腹も減ったし疲れたったよ」と??・・・。時間は13:37過ぎ。14時から衛兵の交代式が行われると。それまで『聖ゲオルギ教会』の見学とのことで通路を潜る。正面中庭には『聖ゲオルギ教会(Rotunda of St George、Храм ротонда "Св. Георги")』が。4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス帝が建てたロトンダ(円形堂)を、6世紀に建て直した教会。天井のドーム部分には、10世紀から14世紀にかけて描かれた貴重な壁画が重なりあうように残されているのだと。教会のすぐ隣には古代ローマ遺跡もあった。教会の隣には、ローマ時代の浴場跡が残っていた。石碑にブルガリア語?とフランス語?で何が書いてあるのか分からなかったが、貴重なもだというのは間違いなさそう。ソフィア市で最も古くかつ、最も良好な状態で現存するローマ時代の建築文化財がロトンダ式教会のこの『聖ゲオルギ教会』。古代都市セルディカ(現在のソフィア)が開花したローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位306年~377年)の時代である、4世紀の初めに建設されたと考えられていると。ソフィア市で現存する最古の建物が『聖ゲオルギ教会』。この教会堂は大統領府の中庭にあり、セルディカ古代城塞の遺跡から数mの地点に。正方形の基礎部分の上に円錐形の建物が建てられている。円錐形の部分は直径約9.5m、建物全体の高さは14m。至聖所は四角い形をしており、左右対称に4つの隙間、正面入り口は西側にあった。初めの頃、建物は公共施設として使用されたが、ローマ帝国内でキリスト教が公認されると、多くの信者に洗礼を授ける為に教会は洗礼堂として活用された。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(統治527年~565年)の時代には、ロタンダは教会堂に改装され、その時に最初の壁画が描かれた。また、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(統治284年~305年)によるキリスト教徒への迫害で、小アジアの地で3世紀に殉教した聖大致命者ゲオルギーの名で呼ばれるようになったのも、同じ時期であると。オスマン・トルコの支配にあった時代、スルタン・セリム1世(統治1512年~1520年)はロタンダ『聖ゲオルギ教会』をギュル・ジャマシと呼ぶイスラム教モスクに変えた。キリスト教の壁画には白壁が塗られ、その上に植物をモチーフにした装飾が施された。ブルガリアがオスマン・トルコ支配から解放された(1878年)後、ロタンダは捨て置かれた。アレクサンダル・バーテンベルグ公(統治1879年~1886年)が亡くなると同公の廟に使用された。1915年、ようやく教会の修復作業が開始され、現在では活動する教会としてスラブ語による毎日の奉神礼(=礼拝)が行われ、ビザンチン音楽と呼ばれる正教会合唱曲が歌われていると。ここ中庭全体がローマ浴場跡。サウナや浴槽もあったと。別の場所から。初期キリスト教の赤レンガの円形建築。シェラトンホテルの背後にあり、セルディカの古代の町の遺跡に囲まれていた。 4世紀にローマ人によって建設されたこの建物は、正方形の土台の上に建てられた円筒形のドーム型構造で天井屋根は後付のドームで、ロトンダ(円形堂)を雨風から守っている。円形の部分は直径約9.5m。入口。昔はレンガの骨も見えず漆喰に彩色画が施されていたのであろうか。『Храм Св. вмчк Георги poтонда(聖ゲオルギ教会)』Георги(ゲオルギ)、poтонда(ロトンダ)の文字が。 『聖ゲオルギ教会』の歴史と構造図。ここ以降は撮影禁止であった。『礼拝堂』の写真ををネットから転載。 【https://bulgariatravel.org/ja/object/344#map=6/42.750/25.380】ドームもネットから。 【https://bulgariatravel.org/ja/object/344#map=6/42.750/25.380】この聖ゲオルギ教会の周りを囲む建物は高級ホテルのシェラトン。聖堂の赤いレンガに歴史を感じるのであった。白バラも美しかった。建物も4世紀のローマ帝国時代に建てられたそうだが、修復はしていると思うが、よくここまで残っているのであった。そして14時前になる大統領府入り口まで足早に戻る。すると脇から交代用衛兵が出て来た。そして正面に向かって進む。この後大統領府入り口の左右を立哨していた衛兵がゼンマイ仕掛けの人形のように突然動き出した。ともに同じ動きをして左右を入れ替わる。衛兵たちは大真面目にやっているのだが、なんだかややユーモラスな動きに見えてしまったのであった。そして衛兵の交代。交代した衛兵は一度大統領府内に入り、再び外に出て来た。交代衛兵名なのは、2名の衛兵が『ブルガリア大統領官邸』内部にもいるようだ。ネットに『衛兵交代』👈リンクがアップされているのでここに紹介します。『ブルガリア大統領官邸』前から北側にある『旧共産党本部』を横から見る。そして階段を降り地下通路部分に展示されていた『セルディカ遺跡』を訪ねた。セルディカ古代要塞の遺跡はソフィアの中心部、大統領府と内閣府をつなぐ地下通路で公開されていた。修復・公開の準備が行われたのは1997~1999年であると。温泉に誘惑されてここへ住み着いたトラキアのセルディ族は、セルディカ(セルドノポリス)と土地に名前を付けたのが始まり。紀元後1世紀にセルディカを征服したローマ人は、セルディカの地理的条件と温泉を評価。自らの名前にちなんでウルピア・セルディカと呼んだローマ皇帝マルクス・ウルピウス・トラヤヌス(在位98~117年)は、セルディカを行政区の中心都市に指定した。セルディカを愛したコンスタンティヌス大帝(在位306~337年)は、「セルディカは私のローマである」との言葉を残しました。ローマ帝国の首都をコンスタンティノーポルへ移す決定がなされたのもセルディカで、コンスタンティノーポルのインフラ整備が終わるまで、コンスタンティヌス大帝はここを拠点としていた。175年頃、マルクス・アウレリウス帝、コモドゥス帝時代にセルディカには東西南北4本の監視塔を含む城壁が施された。5~6世紀には2列目の城壁も建設された。石畳が施された2本の大通りが現在の聖ネデリャ広場の場所にあったフォルム(中央広場)へとつながっていた。行政の拠点となる建物は要塞の南西部に集中していた。発掘調査の際、西門付近で住宅、公共の建造物、土器などが出土しました。古代のセルディカ、中世のスレデツ遺跡を含むソフィアの歴史地区は1976年の官報47号で歴史・建築保護区に指定されたのであった。『セルディカ遺跡群』のマップ。巨大な壺と、馬に乗った兵士の姿そしてその前で平伏す人物が彫られた石版。この場所で発掘されたものなのであろう。『古代セルディカ遺跡群』 説明ボード。黒光りした石は昔の道にあったものであろうか。昔の店の遺構であると。ここにも『古代セルディカ遺跡群』 説明ボードが。古代セルディカ遺跡群の上部の明かり窓に乗り記念撮影する女性の姿を下から。スマホで撮る女性。そして今度は二人で。我々に気が付き、私のカメラにポーズを取ってくれたのであった。プーチン大統領?を描いたTシャツ。土産物売り場。そして『聖ペトカ教会』。地下への入り口。時代は変わって14世紀。オスマン帝国の支配下で造られた「聖ペトカ・サマルジースカ教会」は地下に半分埋もれるように建てられていた。当時、馬に乗った人間よりも高い屋根の教会を建てることは禁じられていたのだと。入り口の案内板。『聖ペトカ教会』は一室の身廊を持つ小さな聖堂で、その高さの半分ほどは地面を掘った穴の中にある。教会はかつても今もソフィアの中心部となっている地区に建っており、現在はツム・デパート(ЦУМ、TZUM)の地下道に接続している。教会はその半円柱型のアーチ型屋根、球形のアプス、そして第二次世界大戦後の発掘により発見された地下聖堂などを有する。その外壁は1メートルの厚さがあり、石とれんがによって出来ている。 聖堂はオスマン帝国の支配下であった16世紀に登場し、かつての古代ローマの宗教施設の跡に建造されている。こんにちでは14世紀、15世紀、17世紀、19世紀の壁画で知られる文化的遺産である。 聖堂はブルガリアの聖ペトカ(Петка Българска、Petka Bulgarska)と呼ばれる11世紀の聖人に捧げられたものである。また、「馬具工」という呼称は、教会が中世に馬具工たちの守護者となって機密を行ったことに由来する。残念ながら『聖ペトカ教会』の聖堂の中には入れなかったが、内部の様子は「ネット情報」👈リンク を参照ください。『聖ペトカ教会』前からソフィア唯一のモスク・『バニャ・バシ・ジャーミイ』を見る。トルコに統治されていた時代にはソフィア市内に70箇所程のモスクがあったとのことだが、現在残っているのはこの『バーニャバシ・ジャーミー』のみ。このバーニャバシ・ジャーミーを建築したのはミマール・スィナン。ミマール・スィナンはオスマン帝国時代のモスク建築における第一人者で、彼が建築したモスクで最も有名なものはトルコ・イスタンブールにあるスレイマニエ・モスク(いわゆるブルーモスク)。『バニャ・バシ・ジャーミイ』の手前には大規模な前ローマ時代~ローマ時代の『セルディカ遺跡(Sofia Ancient Serdica Archaeological Complex)』が地上から見える位置にも残されていた。『ブルガリア ソフィアの市裁判所(Constitutional Court of Bulgaria)』『聖ペトカ教会』の先に『旧共産党本部』の尖塔が見えた。階段の上にも『旧共産党本部』の尖塔が見えた。この尖塔部分はロシアのクレムリンを模して造られているのだと。遠くからでも他の建物を差し置くほどの存在感抜群の建物。ブルガリアは第二次世界大戦後から1989年までソビエト連邦の影響下にあった。街の歴史を物語る建造物。『聖ペトカ教会』と道路を隔てた場所に立っていた『聖ソフィアの像(Saint Sofia Monument、Статуята Св. София Премъдрост Божия)』を見上げズームで。2001 年に建立した『聖ソフィアの像』は、以前ウラジーミル・レーニンの記念碑が建っていた同じ場所に建てられたのだと。ブロンズと銅でできた 8 m (26 フィート) の像は、ゲオルギ・チャプカノフが彫刻を手掛けた。彫像は、16 m (52 フィート) の柱の上に。 冠を頭に載せ、月桂樹のリースを右手に持ち、フクロウが左腕に。それぞれ権力、名声、英知を表していると。繊細なローブのデザインにも印象的。実際に風になびいているように見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.11
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『アレキサンドル・ネフスキー寺院』を後にして、一人で100m程の場所にある『国会議事堂』まで急ぐ。『国会議事堂』前の広場には騎馬像が立っていた。『解放者皇帝のモニュメント』。露土戦争によってブルガリアを解放したロシア帝国の皇帝アレクサンドル2世の像である。急いで『アレキサンドル・ネフスキー寺院』前に戻りツァル・オスヴォボディテル通りを歩く。『Holy Synod Palace』これはブルガリア正教会の独立に一生をささげたイラリオン・マカリオポルスキー(Ilarion Makariopolski、1812~1875年)の碑であろう.『Иларион Макариополски (Hilarion Makariopolski)、1812.9.6~1875.6.4』の文字が。公園内には様々な像が。傷付いたのか、ぐったりとした人を背負ったポーズの像であった。こっちらはブロンズ像か。背中の人を見上げる顔は悲しみに満ち、戦で亡くなった人を背負っているのであろうか。こちらは群像。叫びや悲しみが伝わるような表情と姿態。これも戦争の悲惨さを表わしたものであろう。ブロンズ像か。彫刻広場と言った光景が拡がっていたのであった。ブルガリア皇帝・サムイル像(Monument of Tsar Samuil)が道路の反対側右手に。サムイルは、西ブルガリア帝国の皇帝。母はアルメニア人だったと伝えられると。像の目の鋭さが印象的なのであった。黄色い塔は『ブルガリア天文起点塔(Main astronomical point of Bulgaria)』と添乗員からの説明が。所謂、三角測量の起点なのであろう。『ブルガリアのボランティア記念碑(Monument of Bulgarian volunteers)』1877年から1878年のブルガリア解放戦争でオスマントルコに対するロシア軍と戦った(いわゆる「opulchentsi」と呼ばれる)ブルガリアボランティアの記念碑が軍事クラブの背後に。ヤロスラフVeshin「サマラ旗」の有名な絵画(1911)のコピー であると。7mの高さのブロンズの記念碑。この像は?両手を広げた女性像は、石像?のようであったが。『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』を振り返る。『奇蹟者聖ニコライ聖堂(ロシア教会)』が右手に。ソフィアのロシア教会として知られるロシア正教会の『奇蹟者聖ニコライ教会』。1913年にロシアの外交官セモントフスキ・クリロの命により、1914年にロシア皇帝で後に聖人に列せられたニコライ2世(270年頃〜345年または352年)に捧げられたものである。建設には建築家のアレクサンドル・スミルノフが携わった。スミルノフは『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』の建設にも携わった人物であると。聖ニコライは、『ミラのニコラオス』とも呼ばれるのだと。聖人の概念を持つ全ての宗派で聖人として崇拝されていると。聖ニコラィ・ロシア教会の正門の光景。右後ろに金色に輝く尖塔が美しく。日本に所縁の深い聖ニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本に留まり、日本で永眠したのだと。世界各地に、聖ニコライを記憶する教会・聖堂があるのだと。入口の上にあった聖ニコラィの肖像画。正教会での称号も付けられた正式の呼び名は、『ミラ・リキヤの大主教奇蹟者聖ニコライ』。正教会では、キリスト教生活を体現した人として篤く崇敬されているようだ。『奇蹟者聖ニコライ聖堂(ロシア教会)』の前の建物。教会ではないようだが、ドーム屋根を持った格式ある建物。ドームの時計は13:20と私の時計とは1時間のズレが。天使像らしい塑像が壁面に。"Georgi Benkovski"通りを見る。『奇蹟者聖ニコライ教会』の隣りにあったのが『ブルガリア自然史博物館(National Museum of Natural History)』。博物館の入り口には恐竜の化石が展示されていた。発掘された象の化石なのであろうか。『旧王宮』が右手前方に見えてきた。右手に旧王宮が。道路は細かいタイルが敷き詰められていた。『旧王宮』は現在は国立美術館・国立民俗博物館(National Art Gallery・National Ethnographic Institute(former Royal Palace)になっていると。旧王宮はもともとオスマン帝国警察の本部として建てられ、1879年〜1883年の間に宮殿として拡張・改築された。現在、旧王宮にはブルガリアの美術を展示する「国立美術館」と民俗資料を展示する「国立民俗博物館」が入っており、それぞれ貴重なコレクションが数多く展示されていると。正面には金属製のバルコニーが。美術館本展示は、絵画、単色絵画、彫刻部門に分かれ、1878年の独立から1990年代にいたるまでの作品が3万点保存されているのだと。『旧王宮』前は広場になっていた。左手に世界でも最も古い中央銀行の一つ『ブルガリア国立銀行』、右手に『旧共産党本部』の建物を後ろから見る。現在はコンサートホール等に利用されている模様。公園の真赤なサルビアが美しかった。『旧共産党本部』ビルをズームで。後ほど正面から見ることに。『イヴァン・ヴァゾフ国立劇場( Ivan Vazov National Theatre)』。1906年に建てられた、ウィーン人建築家フェルディナンド・フェルナーとヘルマン・ヘルマーにより設計されたネオクラシック様式の建物。ブルガリア最大の劇場で、ソフィアの重要な歴史的建造物の一つ。建物は幾度となく火事などにより損害を受け、改築されて来たと。1976年にはオリジナルの外観に復元された。素晴らしいファサードはアポロと芸術のミューズが描かれた切妻屋根を6つの石柱が支えている。劇場はブルガリア人詩人・作家イヴァン・ヴァゾフに因んで名付けられたと。アポロとギリシャ神話で詩歌・音楽・学問・芸術などあらゆる知的活動を司る女神ミューズが描かれた切妻屋根正面の彫刻。女神・ミューズ。『イヴァン・ヴァゾフ国立劇場』前の『City Gardenn』の噴水広場横を歩く。『City Gardenn』は、1872年以来存在するブルガリアで最も古く、最も中央にある首都ソフィアにある公共庭園。北は皇帝オズヴォボディテル通り、西はクニャズアレクサンダーバッテンベルク通り南はジョセフウラジミロヴィチグルコ通りの間にあった。長方形の噴水池。噴水越しに『イヴァン・ヴァゾフ国立劇場』を見る。噴水池の中には、手を拡げて踊る少女像が。噴水を手前に。『イヴァン・ヴァゾフ国立劇場』を振り返る。『ブルガリア国立銀行』を横から見る。公園内の白き像は、鳥の羽ばたいた姿であっただろうか。"Saborna" 通りと右には再び『ブリガリア国立銀行』が。"Saborna" 通りの右にあった水飲み場。ブルガリア教育科学省(Ministry of Education and Science of the Republic of Bulgaria)の建物。正面に見えたのが『聖ネデリャ教会(Tsarkva Sveta Nedelya)』。ブルガリア正教会の教会。1925年にブルガリア共産党が国王の命を狙った爆発事件が起こり、国王は無事だったが120人以上の死者が出たことで知られると。事件後に再建されて現在のこの姿になったと。再び『旧共産党本部』の塔を見上げる。『国立考古学博物館(National Archeology Museum)』の建物の庭には遺跡物がゴロゴロと。ここが考古学博物館の前庭か?ゴロゴロではなく大理石の遺物が展示?。5世紀に建てられたモスクを改装し、19世紀末に博物館としてオープン。博物館内には、バルカン半島各地から見つかった多くの考古学的遺品が収蔵され、トラキア人の黄金の宝物などが納められているのだと。入場しての見学の時間は残念ながらなかったのだ。ブリガリア教育科学省(Ministry of Education and Science of the Republic of Bulgaria)の右にある『ブルガリア大統領官邸(President of Republic of Bulgaria)』の建物の下の通路に向かって進み、中庭にある『聖ギオルギ聖堂』に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.10
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"Oborishte(オボリシュテ)"通りからは、正面に『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂(Hram-pametnik Sveti Aleksandar Nevski)/Храм-паметник Свети Александър Невски』の勇姿が。"Oborishte"通り沿いにはスプレー菊が植えられていた。しかし、日本の菊ほどの香りはなかった。木々の間からはこの後に訪ねた建物の屋上のドームが見えた。"Oborishte"通り沿いの緑地の中には石碑が。『日本・ブルガリア国交回復40周年を記念して、日本よりソフィア市に桜を50本寄贈する1999年10月12日 在ブルガリア特命全権大使 松井啓』と。それから20年後の今年2019年は日・ブルガリア交流開始110周年、外交関係樹立80周年、外交関係再開60周年の「3つの周年」にあたるのだと、旅行前に予習済み。黄金色のドームを持った『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』は、20世紀初期に立てられたものであり、 露土戦争によってブルガリアを解放した20万人のロシア帝国の兵士を称えて建設されたブルガリア正教会の大聖堂。バルカン半島で最大の正教会の聖堂であり、世界でも第2の規模を持つ。大聖堂の建設が始まったのは1882年のこと。ブルガリアがオスマン帝国の支配から独立するきっかけとなった露土戦争で戦死した、およそ20万人のロシア人兵士の慰霊するため、ブルガリア人政治家ペトコ・カラベロフ(1843年~1903年)の提案で30年の歳月を費やして完成したと。黄金色のドームを持つ大聖堂は高さ45m、鐘楼は高さ50.52m。大聖堂の建物は、3170m2の面積を有し、5000人が収容出来ると。鐘楼には、鐘が12個設置され最大10トン以上の重さがあるのだと。それらすべての鐘は、滑車の原理のみを利用し、機械を使わず、力自慢のブルガリア人の人力のみで揚げられたとの逸話が残っていると。黄金のドームと緑がかった水色の丸天井に白い壁のコントラストが青空に映えて美しかった。正面から見たときと、横から見たときではまったく異なる表情を見せてくれたので、周囲を横まで廻り込んで、さまざまな角度からその美しい姿を味わったのであった。高さ45mの中央の金色のドームをはじめ、12のドームをもつネオ・ビザンティン様式の壮麗な建築物は、一度見ると忘れられないインパクトが。このネオ・ビザンティン様式を取り入れて設計された『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』は、トルコ・イスタンブールにある『アヤソフィア』を意識して作られたのだと。『アヤソフィア』👈リンク は2012年に訪ねた懐かしい場所。正面。ネオ・ビザンティン建築様式で建てられた聖堂は、ブルガリア総主教の本拠地として機能し、世界最大級の正教会の聖堂であるとともに、多くの観光客が訪れるソフィアのシンボルともなっている。アレクサンドル・ネフスキーを記念している。13世紀にウラジーミル大公国の大公であった人物で、中世ロシアの英雄とたたえられる聖人。正面に掲げられた『アレクサンドル・ネフスキーのイコン画』を見上げて。ロシア皇帝アレクサンダル2世を記念して建てられた。アレクサンダル2世は解放者皇帝とも呼ばれているが、それは、彼の軍隊が1878年にブルガリアをオスマン・トルコ支配から解放したからである。大聖堂が名を冠する聖アレクサンドル・ネフスキーは、ロシアのプリンスで(1220年~1263年)偉大な将軍、また外交官でもあったと。聖アレクサンドル・ネフスキーは、皇帝アレクサンダル2世の守護聖人で、ロシア軍の栄光のシンボルであったと。イコンの下には十字架が。正面入口の柱の彫刻も繊細。入口の天井には、精巧なモザイク画が。歴史を感じさせる黒のシャンデリア。ズームで。『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』には、7:00から19:00まで入ることが出来ると。入場料は無料。ただし、中で写真撮影をする場合は、教会内の売店にて10BGN(ブルガリアレフ2019年9月現在)で撮影チケットを購入する必要があったので支払う。大聖堂内部に足を踏み入れると、天井から床まで、壁一面を覆う壁画と巨大なシャンデリアで飾られた荘厳な空間に圧倒されたのであった。大聖堂内部中央付近。『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』には3つの祭壇があり、中央のこの祭壇がロシア、右がブルガリア、左がほかのスラブ諸国に捧げられたもの。最も大きく豪華なのは、やはりロシアに捧げられたこの中央の祭壇。精緻な彫刻が施された巨大なイコノスタシス(ikonostasis)は圧巻の迫力。イコノスタシスとは教会にある、内陣と信者が祈祷する場所を隔てるための壁。イコン(聖画像)を掛ける。聖障(せいしょう)、聖画壁とも呼ばれるもの。正教会では、すべての教会の東側が祭壇となっていて、イコノスタシスで仕切られている。その壁の奥には聖職者しか立ち入ることが出来ないのだ。更にアレキサンドル・ネフスキー大聖堂内の両側にある黄色いロウソクとロウソク立ても特徴のひとつです。正教会では、神に祈る際には、イコンの前にロウソクを灯すという伝統があります。教会内でロウソクが販売されており、祈りに訪れた方が灯していきます。更にイコノスタシスにズームして。更に更に近寄って。中央ドーム。祭殿前のシャンデリアを見上げる。大理石で作られた椅子。ドームと曲線の美。巨大なシャンデリアがいくつも天井から吊るされていた。壁画の多くはブルガリアとロシアの聖人が登場する場面を描いたもので、メノウや大理石を贅沢に使った精巧なモザイクが使われていた。大理石は、はるばるイタリアやギリシア、ブラジル、エジプトなどから運ばれてきたものであると。巨大なシャンデリアをズームで。柱に描かれた多くのイコン画。中央祭壇の手前には2頭のライオンが守る椅子があり、大理石の彫刻や天蓋のモザイクといった華麗な装飾が至る場所に。ライオンをズームで。こちらががブルガリアに捧げられた祭壇か?こちらがほかのスラブ諸国に捧げられた祭壇か?近寄って。柱の見事な彫刻。1965年から、『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』の地下は、イコン美術館として開放されていると。『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』の正面入り口に向かって左側にある小さなドアが美術館の入り口であった。この階段を降りると美術館があるようであった。そして慌ただしく最後に大聖堂の入り口から内部を。これで『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』内部も見納め。外に出て、足早に聖堂の東側から。ここからは黄金のドームが中央にそして緑のドームが4つ。黄金のドームは、鉄骨の上に金箔が重ねられており、年に一度、張り替えが行われるのだとネットから。どこからの姿が一番美しいのであろうか?美的感受性・美的情緒の希薄な私には??しかしながら、大聖堂の中にしばし身を置き、信者ではないが、心が洗われるような、そして身が引き締まるような、新鮮な気持ちになりながらも、あの世への路が身近になっていると感じる老爺がイコノスタシスの前にいたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.09
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大型観光バスに乗り込み、このツアーの最初の観光場所のソフィア市内にある『アレキサンドル・ネフスキー寺院』を目指す。車窓からは空港内で客を待つブルガリア ・ソフィアのタクシー会社『OK Supertrans』のタクシーの列が。ソフィア空港出口付近から、遠くソフィアの街並みが見えた。"Asen Yordanov(アセン ヨルダノフ)"通りを車窓から。古い高層アパート。第二次世界大戦の後、ブルガリアに共産主義政府が樹立される1944年以降は、建築の様式は大幅に入れ替わったとのことであったが、これも共産主義時代のスターリン様式の公共のアパート建築物の一つなのであろう。こちらは近代的な商業ビルディング。こちらは、建設継続を途中で止めた?ビル。ブルガリア国民議会 (National Assembly of the Republic of Bulgaria)が右手に。国民議会は、ブルガリア共和国の一院制の立法府。1879年に、当時の憲法によって設立されたと。その先には『ブルガリア科学アカデミー図書館(Library of Bulgarian Academy of Sciences)』が。そしてバスが右折すると『アレキサンドル・ネフスキー寺院(Cathedral Saint Aleksandar Nevski)』が車窓に姿を現した。バスを降り『アレキサンドル・ネフスキー寺院』周辺の観光のスタート。『東方正教会(Holy Synod of the Bulgarian Orthodox Church)』。『聖ソフィア聖堂』前のライオン像。別の角度から。『アレキサンドル・ネフスキー寺院』を見つめているがごとし。『聖ソフィア聖堂』首都ソフィアの名称はこの教会に由来。ソフィアの街にできたから聖ソフィア教会ではなく、聖ソフィア教会があるところにできた街、それがソフィア。赤煉瓦が印象的な教会聖ソフィア教会は、ソフィアの中心部、聖アレクサンドル・ネフスキー大聖堂のすぐ隣にあった。ブルガリアで最も古い教会の一つで、その歴史はソフィア市の歴史と深く結びついているのだと。現在ソフィア市のシンボルの一つとなっていると。4世紀の4つの教会跡地に建設されたのは6世紀、ユスティニアヌス大帝の時代(527~565年)。かつてセルディカ(当時の地名)墓地だったため、地下には複数のレンガ造りの墳墓が残った。発掘調査でより古い教会にあったモザイクの一部も発見されたと。現在の教会建物には5000人を収容できるのだと。無名戦士(兵士)の墓が聖堂前に。第1次世界大戦の無名戦士(兵士)の墓をズームで。1年中消えることのない小さな火が灯されていた。よくある無名戦士の墓には衛兵がつきものだがここは特に誰もいなくてひっそりとしていたのであった。11世紀~14世紀の間に司教の拠点だった教会の知名度が高くなり、やがて都市名となったと。16世紀の教会はモスクに改造され、壁画は削られてしまった。伝説によると、同じ16世紀に教会の前でイスラムへの改宗を硬く拒否した金細工職人ゲオルギーは火あぶりの刑に処された。1818年、1858年の大地震でミナレット(塔)は倒れ、2回目のときムッラ(聖職者)の2人息子が下敷きになり死んだ。神からの忠告と受け取ったトルコ人はモスクを放置。しばらく廃墟となった建物は1878年の独立後しばらく倉庫として使われていた。数回にわたり修復が行われ、20世紀に入って考古学調査も始まった。現在の姿は中世初期のものに限りなく近いものになっている。この近くで民族解放活動家のヴァシル・レフスキー(1837~1873年)が絞首刑に処された。教会の裏には、文豪イヴァン・ヴァゾフ(1850~1921年)の墓がある。教会の横に、祖国のために命を捧げたすべての兵士を祭る無名兵士モニュメントもあると。このツアーのブルガリアの現地添乗員のコーニさん。英語での説明を阪急トラベルの添乗員のOさんが日本語で通訳。『聖ソフィア聖堂』配置案内も描かれた説明板初期ビザンティン様式の聖堂である聖ソフィア聖堂は6世紀に、古代ローマの劇場の上に立てられた。第二次ブルガリア帝国の時代、聖堂は町の中心の大聖堂として使われていたが、オスマン帝国に征服されるとモスクにされたと。EUそしてブリがリアの重要遺産のマーク、説明であろうか?中央にブルガリアの国章が描かれていた。紋章には、ライオンが描かれた盾をサポーターとして支えている二匹のライオンが描かれている。盾の上にあるのは、ブルガリアの皇帝イヴァン・アセン2世の冠である。盾の下には国の標語『団結は強さを生み出す』がブルガリア語で書かれている。ライオンの足元にあるコンパートメントは、緑の葉と黄色い実をつけた、二本の交差したオークの枝である。三匹のライオンはそれぞれ、歴史的にも重要な地域である、トラキア、モエシア、マケドニアを象徴している。ライオンは、ソビエト連邦の国章の影響が強かった共産主義時代にも、ブルガリアの国章の中に取り入れられていた。この国章は1997年から採用されていると、ウィキペディアから。『聖ソフィア聖堂』の掲示板。『聖ソフィア聖堂』の前室のレンガ積みの柱そしてドーム。柱には様々なフレスコ画の『イコン』が。イコンとは、イエス・キリスト、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像である。"εικών"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による。古典ギリシャ語再建音ではエイコーン。正教会では聖像とも呼ぶ。(ウィキペディアより)教会内部の側廊の柱にも『イコン』が。中央ドーム。『袖廊』。中央の『チャペル(祭室、礼拝室)』。様々なイコン絵画も。前室から身廊への入口の『イコン』その先に『チャペル(祭室、礼拝室)』。再び『聖ソフィア聖堂』を外から。『聖ソフィア聖堂』前から『アレキサンドル・ネフスキー寺院』、『ライオン像』を見る。『聖ソフィア聖堂』前から "Paris" 通りを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.08
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そしてドーハ・ハマド空港で成田からの約11時間半のフライトを終え機体から降り、振り返る。ドーハ・ハマド空港はカタールの首都ドーハにある国際空港。2014年に従来の国際空港に代わってオープンした比較的新しい空港。「ハマド」とはカタールの首長の名に由来。カタール航空のハブ空港として、世界の160路線以上を就航しているのだ。日本では成田空港と羽田空港に就航しているとのこと。以前は関空からも就航していたと記憶しているが、現在は運休中のようだ。日本航空(JAL)と全日空(ANA)は独自の路線は無く、JALはアライアンスが同じワンワールドなのでコードシェアでカタール航空の運行便になっているのだ。機体の上には三日月が。トランジット用通路を進む。2019年のThe World’s Best Airports(世界最高の空港)1位 Singapore Changi Airport (シンガポール・チャンギ空港)2位 Tokyo Haneda Airport (東京・羽田空港)3位 Seoul Incheon Airport (ソウル・インチョン空港)4位 Doha Hamad Airport (ドーハ・ハマド空港)5位 Hong Kong Airport (香港空港)シンガポール・チャンギ空港は、7年連続トップの座に。そして、日本の東京・羽田空港は世界2位!ここ4位のドーハ・ハマド空港は、2014年に新規オープンして以来人気急上昇。2016年の10位から6位、5位と上昇し今年2019年には4位に。上位5空港を、アジア・中東の空港が占めていることを知ったのであった。ブルガリア・ソフィア国際空港への便は6:50発QR227便。搭乗口D-23に向かって進む。空港の中心でドーンと、その存在感を遺憾なく発揮している通称:金熊と呼ばれる巨大な熊のモニュメント?に会いたかったが残念ながら往路のこの日は遠くから垣間見えただけであった。高い天井と広大なコンコースにスタイリッシュさを感じるモダンな空港。空港ロビー内にあった巨大なブロンズのオブジェ。このオブジェはニューヨークを拠点に活躍するアーティスト、トム・オターネス氏の作品。このオブジェは中に入って遊ぶこともできるので子どもにも人気であると。ドーハ・ハマド国際空港のトランジットエリアの中央からA~Eまであるゲート間は空港内シャトルで移動。我が旅友と会話する今回の添乗員Oさん。黄金色に輝く謎のオブジェが出迎えてくれた。ドーハ国際空港 レストラン「red.レッド」付近。ドーハからブルガリア・ソフィアへの搭乗券。バスにて移動し、搭乗機に乗り込む。定刻に飛行機が動き出す。時間は6:54。機体はA320-200。ドーハ・ハマド国際空港管制塔。ズームで。そして滑走路に向かって進む。離陸しペルシャ湾上へ。ドーハの街の高層ビル群が旋回時に垣間見えた。ペルシャ湾上を北上しクウェートに向かって更に北上。そして機内食の朝食メニューが配られた。スクランブルエッグとソーセージを選ぶ。ビールはハイネケン。イラク上空を北上。イラン国境の山々の尾根には白い雪が。初冠雪から間もないのであろう。トルコ上空に入り進路を北西に変更しトルコを横断して進む。右手遠方に見えたのは『ヴァン湖』であろうか。それとも雲の影か?トルコの山々。赤い山肌は地面の色であろうか?頂部が富士山に似たブルガリアの山。着陸まで5分近く。黒海上空を過ぎブルガリア上空へ。ブルガリアの高速道路1号線が右手に。ソフィアの街並みが機窓から見えて来た。空港手前の湖。湖というより灌漑用の池か?E80号線上空を通過し着陸へ。そしてソフィア空港に着陸。時間は11:23。駐機場に向かって進む。ソフィア空港は一般にヴラジデブナ空港(Летище Враждебнаレティシュテ・ヴラジュデブナ)としても知られる。空港コードはSOF/LBSF。ソフィア空港管制塔。時間は11:38。ブルガリアのソフィアを本拠地とする航空会社・ブルガリア航空の機体は少なかった。入国審査場に向かって進む。洒落た洋館風手摺とその先に「Sky Cafe」が。地下鉄(メトロ)は2本。ブルガリア旅行の起点になる首都ソフィア。空の玄関口がこのソフィア空港。2015年に地下鉄が開通し、市内への移動が格段に便利になったのだと。空港ロビーは構造用パイプによるトラス構造。ロビーのソファーには多くの利用客が。レンタカー窓口が並ぶ。空港ロビー床の色分けされた誘導表示。赤はバス(BUS)、青はメトロ(METRO)。そして空港ロビーを出てバスの待つ場所に向かう。しかしバスの姿はなく、暫しの待機。外から比較的新しそうな管制塔を見る。雲ひとつない快晴。ソフィア空港正面を横から見る。「SOFIA AIRPORT TERTMINAL 2」の文字が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.11.07
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク10/24から、いつもの旅友Sさんと『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』の旅に行って来ました。カタール航空にて成田➡ドーハ➡ソフィアへの長時間移動の格安ツアー旅行。ブルガリア・ルーマニア2か国・6つの世界遺産を含むハイライト観光。ルーマニアでは故チャウチェスク大統領が1,500億円を投じて造らせた贅を尽くした「国民の館」も雨の夕方に訪ねました。建築物としてはペンタゴンに次ぐ世界第2位の大きさを誇る現ルーマニア議会の議事堂。久しぶりに10年来の旅友の女性2名もそろって一緒に参加され、賑やかな旅行になったのでした。阪急交通社からの最終書類も受け取りました。事前に今回の女性添乗員からの電話もあり、26名の多人数のツアーであったのです。最終旅行日程表も送られてきました。今回のツアーは成田空港出発、羽田空港到着という初めての体験のツアー。この日は旅友Sさんが愛車で我が自宅に迎えに来てくれ、羽田空港に向かい駐車場に車を駐め、リムジンバスにて成田空港に向かったのです。帰路は夜遅くの羽田到着でしたので、飛行機が遅れると公共機関での帰宅は難しくなる事も想定されたため、車での移動を決断したのでしたがその通りになったのでした。そして旅友Sさんが10月24日、13時に我が家に迎えに来てくれ出発し国道1号線を横浜新道へ向かう。横浜新道・戸塚料金所。第3京浜・首都高速方面へ。新横浜駅で旅友女性二人をピックアップする為に港北ICから一般道・国道13号線に。正面に横浜国際総合競技場『日産スタジアム』。日本最大規模の72327席の観客収容能力を誇る屋外多目的競技場。ラグビーワールドカップ2019TM 決勝 イングランド vs 南アフリカ戦が11月2日(土)にこの場所で行われたのでした。新横浜駅近くで待ち合わせていた旅友女性2名を発見。そして羽田空港近くの浮島にある駐車場に向かって進む。サンパーキング羽田浮島店駐車場に到着。羽田空港を飛び立つJAL機。そして車をここに預け羽田空港第1ターミナルまで送迎バスにて向かう。予約便の時間よりかなり早く着いたために、早めの便で成田空港に向かおうとしたが予約変更はネット上で行わなければならないとのことで諦め、1時間ほど喫茶店でしばし休憩。16:40発のリムジンバスで成田空港・第2ターミナルに向けて出発。そして、この日は天皇即位の式典の後で、高速道路の規制があり遅れる可能性もあるとのことであったが、渋滞もなく成田空港・第2ターミナルに到着。時間は17:50過ぎ。出発便掲示ボード。最下部に22:20発DOHA行きカタール航空QR807/JL7995便を確認。出発時間が22:00に変更になった模様。カタール航空チェックインカウンターIは未だ係員の姿はなし。そして19時前にチェックインが開始されトランクを預けチケット2枚を受領。成田➡カタール・ドーハ間とドーハ➡ブルガリア・ソフィアの搭乗券。受託荷物もドーハから先の最終目的地・ソフィアまでスルーバゲージとなっていた。そして、今回のカタール航空便の預け入れ手荷物許容量は30kg。チェックイン完了後、阪急交通社受付カウンターにて、今回の添乗員のOさんからこの後のツアー行程の説明を受ける。そして荷物検査、出国審査を無事終え、免税店を暫しの散策。搭乗ゲートで塔乗案内を待つ。利用便のフライト案内。そして定刻に離陸し福井方面、日本海に向かって飛び立つ。利用便はBoeing 777-300ER。福井県鯖江市上空から日本海へ出る。時間は23:18。最初の機内食、時間は23:40。朝鮮半島、韓国上空を横断して進む。ビールも入り暫しの爆睡。北京上空を通過し更に中国上空を横断し新疆ウイグル自治区・URUMQI(ウルムチ)上空を更に西に進む。カザフスタン・Almaty上空~ウズベキスタン~トルクメニスタン上空へ。ここまでの成田空港からの飛行コース。イラン・Mashhad上空を通過。そして2回目の機内食。時間は現地時間2:33(日本時間8:33)。飛行機はペルシャ湾の南下しカタールに向かう。そしてカタール・ドーハ国際空港に向かって着陸態勢に。そしてドーハ・ハマド国際空港に着陸。現地時間は4:07。 ・・・つづく・・・
2019.11.06
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この旅行の最終日(7月26日)は日本への帰国の日、早朝4:30前には起床する。『大連日航飯店』の部屋からの光景。時間は5:01。早めにフロントに行きチェックアウトし、朝食のサンドイッチをもらい、ロビーで食べる。そして出発の時間6時には全員揃い、大連空港に向けてバスで出発。昨日夜に歩いた『旧日本橋・現勝利橋』を渡る。『俄罗斯风情街』の1本東側の上海路を走ると、ここにも旧ロシア人街風の建物が。こちらにも。『北海公園』を左に見ながら『先进街』に向けてバスは進む。右手に『东联路』。『迎賓路』を大連空港に向かって走る。『大连国际机场宾馆(Dalian Intl Airport Hotel ホテル)』が前方に。『迎賓路』沿いの地球儀の如きモニュメントには中国の姿が。『大連国際空港駐車場入口』が前方に。『大连国际机場集团』ビル。大連国際空港ターミナルが姿を現す。正式名は『大連周水子国際空港(だいれんしゅうすいしこくさいくうこう)』開港時から現在の正式名称にも含まれている「周水子」という名前は、ここが周水子という地名であったことが由来で、近くにも周水子駅ある。市街地の北西に位置し、旅順北路に面していて、街の中心地から車で約20分の場所にある。また、大連空港は軍民共用空港であるため、中国人民解放軍の軍用機も駐機・離着陸している。町に近く、歴史ある空港であるが、その限界に近付いており、大連金州湾国際空港(Dalian Jinzhouwan International Airport)が渤海の金州湾の埋立地に建設中であるとのこと。『大连国际机場』ターミナルビルに到着。『DALIAN』の文字。これは英語名。漢字は『大連』で簡体字・『大连』ではなかった。チェックインカウンターに並ぶ。利用便は中国南方航空 CZ629 8:20発 成田空港行き。しばし空港待合室からの景色を楽しむ。空港横には住宅街がギッシリと。そして定刻に搭乗開始。この飛行機は中国の航空会社の『海南航空』。その後ろに管制塔が。そしてほぼ定刻に離陸。時間は8:40。利用便はエアバス『A321』便。離陸し大連湾海上に出て大きく左に旋回。眼下に『和尚島』が。今回の離陸後の飛行ルート。旋回し再び遼東半島上を飛行。大連の街並みが眼下に。そして飛行機は黄海上空を南下し、ソウル南部から韓国を横断し日本海へ。そして日本海を能登半島方面に向かう。そして離陸後1時間弱で食事が配られた。そして金沢市上空から富山市上空へ。右手眼下には、立山連峰の白き山々が見えて来た。北アルプス北部『白馬岳』、標高: 2,932 mであろうか?北アルプスの山々。そして東北地方を斜めに横断し、いわき市手前で大きく右旋回し南下し成田空港へ。そして成田空港に着陸。時間は日本時間の12:10。飛行時間は予定通り約2時間50分あまり。青空は垣間見えたが、未だ梅雨空。飛行機を下り、利用した中国南方航空便を振り返る。到着ゲートを進む。日本に戻ったことを実感する『迎』の文字が今回も迎えてくれた。武田双雲氏の書であるようだ。そして入国、税関手続きも無事完了し、トランクも受け取る。お世話になった添乗員、旅友に挨拶を済ませ、旅友Sさんの愛車に乗り帰路につく。新空港自動車道・成田料金所を通過。東関東自動車道・幕張を通過。湾岸道路の東京港トンネル。東海JCT手前を通過。渋滞もなく順調に進む。そして横浜新道に入り、無事我が家の駐車場まで送ってもらったのであった。時間は14:30で成田空港から1時間30分で到着したのであった。戦後74年を経た、旧満州:中国・東北地方7名所を8日間で訪ねる旅であった。訪ねた都市は下記の7都市の各名所。★黒龍江省 ハルビン(哈爾浜)★吉林省 長春(旧 新京)★遼寧省 瀋陽(旧 奉天)、本渓、丹東(旧 安東)、大連、旅順★哈爾浜(ハルビン)中国旧満州(現在の東北地方。中国では「偽満州」とよぶ)の哈爾浜市は中国最北の黒龍江省の省都で、人口1060万に達する大都会であった。もともとは旧帝政ロシアによって19世紀末から20世紀初頭にかけて建設された街で、その後の日本統治を経た現在でもロシア風の建物が多く残されるなど、歴史的にも観光地的にも興味深い街なのであった。ロシア正教やユダヤ教などの教会が残り、異国情緒ただよう街並みは、他の中国の都市とは異なる雰囲気を有していたのであった。しかし、今回この街では、ロシア人はほとんど見かけなかったのであった。東方の小パリ・小モスクワとも呼ばれていて、広場や公園の管理も徹底され美しい街並み。冬はマイナス20~30度にもなり、壮麗な氷雪祭りも有名とのことだが、冬の哈爾浜(ハルビン)の街並みそして中国で5番目の大河であり全面凍結する松花江の世界三大氷祭りも訪ねて見たいと思ったのであった。『中央大街』はアジア最大の石畳の目抜き通り。ハルビンを代表する歴史的な大通りで、ロシア語でキタイスカヤと呼ばれ、昔は中国人街であったと。その規模は、全長1450m・幅21.34m(内、車道の幅は10.8m)。ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが一直線に松花江に向かい、南は経緯街(十字街)から北は松花江防洪記念塔まで伸び、大いに賑わっていたのであった。一つ心残りは『侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館』を訪ねる事が出来なかったこと。★長春(新京)満州国時代の首都で新京と呼ばれていた街。そのため、当時のゆかりの施設が多数あった。代表的なものが「偽満皇宮博物院」で、溥儀の宮廷府を博物館にしたものであった。そして当時の関係資料、写真が多数展示されていたのであった。緝煕楼は中に入ると階段も廊下も皇宮と言うには余りに狭く、部屋も大変質素であった。観光客が多く、廊下ですれ違うのもたいへんなほどで、芥川龍之介が「夢魔」と形容したあの巨大な北京の紫禁城からすれば、溥儀にとっては、まるで物置に住んでるみたいに感じていたのではないであろうかと。★瀋陽(奉天)奉天は清朝の故地であり、郊外には北陵(歴代の皇帝陵墓)があった。市内中央部中街に位置する瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城であった。北京の「故宮」の12分の1の大きさではあったが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられたのであった。そして『大政殿』前での清代の舞踊劇を楽しんだのであった。大都会の中にあったが、この一角だけ昔の中国らしい空間で、時間の流れもゆっくりになるような感覚を味わえたのであった。その他観光ルートには尽きるところがない瀋陽。★本溪本渓水洞(ほんけいすいどう)は遼寧省にある鍾乳洞で、内部のほぼ全体が池になっていて電動船での見学であった。鍾乳洞の長さは2800メートルとのことであったが、内部のライトアップが私にやや興ざめなのであった。私としては『金州観光』に変えて欲しかったのであったが。★丹東丹東は鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街であった。朝鮮族が約2万人居住していて、中朝貿易最大の物流拠点であり、その7割以上がここを通過すると言われているとのことであった。朝鮮戦争の際に国連軍の爆撃によって破壊され不通になっている鴨緑江に架かる『鴨緑江断橋』を先端まで歩いて見学し、『鴨緑江』のクルージングも。米朝首脳会談のため、金正恩朝鮮労働党委員長が鉄道で中国に向かって渡った『中朝友誼大橋』など、メディアをにぎわせる話題に事欠かない場所だが、対岸に拡がる北朝鮮の新義州の建物と丹東の高層ビル群の林立する姿を目の当たりにし、国交があり友好国?そして最大の輸出入国である中国との北朝鮮の国境の現実である事もこの旅行で知ったのであった。★大連遼東半島の南端にあり、「北海の真珠」とも呼ばれる港町。黄海と渤海に面し、海を挟んで南側には山東半島がある。坂道の多い街並みには洋館が立ち並び、エチゾチックな雰囲気が漂っていた。19世紀末に帝政ロシアの租借地となり、1904年の日露戦争以降は日本の支配地となったのだ。この時に造られた放射線状に並ぶ道路や大同広場(現中山広場)、大和ホテル(現大連賓館)などが今も残っていたのであった。大連は、ロシアが中国に進出した際、フランスのパリのような街にしようと開発した場所。したがって、中国には珍しいハイカラな街並みが未だの残っていたのであった。日露戦争で勝利した日本は、そのロシアの考え方を受け継ぎ、美しい街の建設に努めたのだと。日露戦争については、司馬遼太郎の渾身の大著『坂の上の雲』が。大連~旅順を訪ねた今、もう一度『坂の上の雲』を読み返して見たいと思っているのである。そして、昨年、2018年5月7、8日に北朝鮮の金正恩委員長の2度目の訪中となった際に中朝首脳会談が行われた『大连棒棰岛』も訪ねることが出来たのであった。★旅順日露戦争の戦跡=「聖地」?をめぐったのであった。激戦地となった203高地、ロシア軍の堅固な要塞がそのまま残る東鶏冠山、乃木大将とステッセルの会見の舞台である水師営など見どころは尽きなかったのであった。戦跡周辺の山の木々は、あえて伐採されて戦争当時の殺伐とした雰囲気を感じるようにされているのではとも。旅順の戦跡を巡ることによって、日露戦争で斃(たお)れた多くの兵士に思いを馳せ、彼らの犠牲の上に現在の日本の発展と満洲の躍進があることを再確認したのであった。そして今回の旅行で一番感じたことは、満洲国時代に日本人によって建てられた建造物が、戦後74年経た現在でも数え切れないほど残っていて、その多くが今も重要な施設として大切に使われ保存されていたこと。中国人にとって見れば、ある意味では『負の遺産』であり、直ぐにでも破壊しても不思議ではなかったと私は感じているのであるが。あくまでも個人的な考え方であるが一つの理由は、この『負の遺産』をナショナリズムの高揚につなげようとする側面があった事は否めないであろう。つまり、植民地支配という負の歴史が刻まれた建造物を憎悪の感情から短絡的に破壊してしまうのではなく、それらを敢えて残すことによって、その負の歴史を乗り越えて、現在の中国の発展があるのだ、という意識を中国国民に植え付けようとしているのではないかと。そしてもう一つは、「歴史的・文化的価値の認識」の側面。満州国時代の建造物の歴史的・文化的価値が中国人にも理解されたということではと。首都・ 新京(現・長春)の官庁街に多く取り入れられた「帝冠様式」は、五族協和という満洲国のイデオロギーを体現した建築様式であったが、戦後の国民党政府、さらには中華人民共和国が成立した後も、同様の様式がそのまま「民族形式」という名の下で採用され、中国ナショナリズムを体現する様式になったのではなかろうか。特に近年では、中国の対外的な開放が進み、多くの観光客が期待できるようになったために、こうした歴史的建造物を積極的に観光資源として活用し、ツーリストマネーに繋げようとする動きが加速しているのも否定できないのではと。そして我々の今回のツアーもこのツーリストマネーに繋がる動きの上にまさしく載っかっているのであった。しかし一方で韓国では、日本による支配は恥ずべき歴史であり、日本の近代建築や敵産家屋は否定性に満ちた「負の遺産」という認識があるため、破壊すべき、との声も多いとのことが以前の報道で。ちなみに日本統治時代の名残は、韓国では「日帝残滓(일제잔재、イルチェジャンジェ)」と呼ばれていると。「残滓」は残りかすという意味。建物に限らず、言葉や文化も同様だと。しかし一方では、京城府庁舎として使われていた建物は、2012年までソウル市庁舎として使われていた。老朽化もあり、その後ろに建てられた新庁舎に機能が移ったが、文化財に指定されるとともに今は図書館としてリニューアルを遂げ、新たな形で活用されていることも事実のようだが。災害や戦争など死や苦しみと結びついた場所を旅する行為は「人類の悲しみの記憶を巡る旅」であり、悲しみを経験した人々に思いを馳せ、悼み、祈る気持ちを抱き、これを子供たちに伝えていくことも我々の義務であるとも考えているのである。そして、私の部屋にあるテレビは今『第2次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域に抑留されて亡くなった日本人の遺骨として厚生労働省の派遣団が5年前に持ち帰った16人分の遺骨について、日本人のものでない可能性が高いことを、厚生省は昨年から把握していたにもかかわらず公表していなかったことが7月29日、明らかになった。』とのニュースが。最後に中国東北部の都市開発、新幹線網の発展のスピードに驚いたのであった。今回訪れた都市は、日本以上にビルの高層化が進み、高速道路網の発展にも驚いたのであった。大都市内での車の過剰に拠る渋滞は更に深刻化していた事は明らかであったが、都市を繋ぐ高速網の発展のスピードは目を見張るものがあった。そして新幹線網の発達にも驚いたのであった。利用した新幹線は、日本国内の新幹線と勘違いするほどのスピードと安定感を有していたのであった。そして新幹線の駅舎は、空港ロビーとこれも勘違いするほどの造りになっていたのであった。中国の新幹線技術の発展は、川崎重工業が東北新幹線「はやて」をベースに技術供与したものであると。中国側はこれを「独自開発した」と主張して国際特許出願にまで踏み切ったのだと。JR東日本と組んで新幹線の車輌(技術)を提供した川崎重工業の契約が杜撰で「技術を盗んでください」といっているようなものだったことが、新幹線技術を中国に盗まれる原因となったのだと。川崎重工業とJR東日本による中国への新幹線技術の売り込みに一貫して反対していた人物は「中国に新幹線のような最先端技術を売ることは国を売るようなものだ」とまで言って反対していたのだと。中国側は「技術供与を受ける際、巨額の特許料を支払っている。合法的な使用は“盗作”にはあたらない」と反論しているのだと。「350kmの技術があるのに、なぜ250kmの技術を盗まなければならないのか」とも。日本国内の鉄道網の整備が飽和状態となる中、海外に活路を求めざるを得なかったのだとも。高速鉄道に加え、地下鉄などの数多くの大型の都市鉄道計画を持つ巨大市場、中国に目がくらんだのだとの指摘も。侃々諤々(かんかんがくがく)の中で真相は如何に??中国高速鉄道網。中国の高速鉄道網は、運行開始から10年の間に猛烈なペースで拡大。営業距離は17年末時点で約2万5,000キロと日本(約3,100キロ)の8倍に達し、世界一の高速鉄道大国に成長しているのだと。 【https://www.nna.jp/news/show/1787778】よりそして最後に、このツアーは参加人数11名の少人数、男性4名、女性7名の賑やかな、いや賑やかすぎる?そして当然ながら女性優位の旅であったのだ。しかも平均年齢は70歳前後であろうか。しかし、年齢的なことも在り、全員が「PUNCTUAL」そのものであった。集合時間の10分前には既に全員が揃っているのが当たり前の中でのツアーであった。しかし、ベテラン添乗員&現地添乗員が、匠の技で女性陣?をコントロールし、途中からは、ツアー仲間同士が毒舌を交えた冗談や会話が出来る、楽しい旅となったのであった。そして今回のベテラン添乗員への感謝と、また何処かで一緒に旅をしたいと思っているのである。さて次回の海外の旅は何処へ?ブルガリア、ルーマニアの5つの世界遺産を訪ねる旅であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.08.14
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旅順から大連市内にバスは戻り、このツアーの「最後の晩餐」会場に向かう。場所は大連・中山広場の近く、人民路に沿った『天天渔港』。いろろな、受賞銘板が入口に並んでいた。様々な旨そーなメニューが。「最後の晩餐」会場。そしてビールを注文し料理を待つ。青梗菜。そしてポテトスティックと??最後の晩餐?と言うことでカレイ?の刺身も。「えんがわ」をたくさん楽しみました。様々な野菜も。そして「最後の晩餐」を堪能し、店を後にする。店の出口には鮮魚や海鼠類も。貝類、海老、蟹も水槽の中に。そしてまたまたこれを発見。「カイコ」や「サナギ」!!。正確にはカイコ(蚕)といえば桑の葉を食べるあの生き物ですが、中華料理店で出される「カイコ」は、違う生き物。たいていは便宜上カイコと呼んでいるだけで、「サクサン(柞蚕)」というヤママユガ科の蛹(さなぎ)なのだと。そして連泊のホテル、大連・日航飯店に戻る。そしてしばしの休憩後に我々二人は、近くにある夜の『旧ロシア人街』の散策に出掛けたのであった。時間は19:30過ぎ。『旧 日本橋(現 勝利橋)』を渡る。1907年(明治40)に架けられた旧日本橋はロシア街を正面に見て右側。美しいアーチ状の構造をしていることが分かったのであった。1905(明治38)年2月11日にロシア統治時代の「遠い街ダルニー」から「大連」へ名称が変更され、日本の本格的な統治が始まった。日本橋は現在の中山広場(旧、大広場)から西北へ上海路(旧、大山通)を直進した先にあった。この橋は現在は「勝利橋」と呼ばれ、大連港と大連駅とを結ぶ鉄道を跨ぐ陸橋で、今もそのまま残っていた。そのまま渡って、旧ロシア人街(団結街)へ入って行ったのであった。橋の途中から『芙蓉国际酒店』が前方に。橋の下には大連駅に向かうCR(中国国家鉄路集団)の電車が頻繁に。ピンクの『インターコンチネンタルホテル』。そして再び大連駅に向かう電車が。勝利橋を渡るとそこが旧ロシア人街。ここでは新旧のロシア風建物を見ることが出来たのであった。 1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけである。1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはある。2000年に古い建物なども活用して復元整備された町並みで、まるでテーマパークのような雰囲気であった。というか、実際にテーマパークの如き施設もあったが、古いのかレプリカなのか、全くの新規建造物なのか、よく解らない建物が並んでいたのであった。橋を渡って直ぐ正面の建物は『东清轮船会社旧址』。旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」であったと。建物は、ドイツ式の建築となっている。説明によれば、ロシア人がドイツ人技師に設計を依頼したものだという。当時、ロシアよりもドイツの技術が優れていたから、ドイツの技術を積極的に導入しようとしていたのだろう。現在は「大連芸術展示館」という美術館になっていると。大連と北九州は姉妹都市で、これに似た建物が門司港にもあるのだと。日本時代には舞踏場として賑わい夏目漱石も訪れていると。しかし、残念ながら、この建物は再建されたレプリカであるようだ。現在の復元された建物は、取り壊し前に北九州市門司港に作られたレプリカを参考に忠実に復元されたものであると。こんなこともあるのかと驚き!!北九州のレプリカは、姉妹都市である北九州との友好都市締結15周年を記念して1994年にと建築されたものであると。そして、私もその『門司港にある建物』👈リンクを2011年に訪ねたことがあることを、先程思い出したのであった、『东清轮船会社旧址』。『芙蓉国际酒店』が入口左に。旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を進めたロシア人たちが最初につくったエリア。いわば大連発祥の地下の写真は日本統治時代のもので、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、ロシア風の街並みが広がっていたと。 【https://inbound.exblog.jp/24019874/】より転載『露西亚(ロシア)町旧址』『大連・俄罗斯(ロシア)风情街』。1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけ。1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはあっのであった。かつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいたが、新中国建設後は老朽化が進み、2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、お色直しして現在に至っていると。現在では、このエリアのメイン通りにあたる街を「俄罗斯风情街」と命名し、再開発されていた。歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって着手されたものだが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶロシア風テーマパークと変わっていたのであった。『旧ロシア人街』の地図をパンフレットから。奥に向かって散策を続ける。『旧満鉄総裁公邸』初代大連市役所の少し手前にあるこの建物は東清鉄道の技師長サハロフの官邸として1900年ごろに建てられ、サハロフが市長を兼ねると市長公邸となったと。満鉄設立後は、満鉄総裁公邸を経て、大和ホテルの新築前は賓客の接待にも使われたと。現在は1階はバー(?)、2階は船舶学校の事務所として使用されているようだ。ロシア風情街入り口からだと左手にあった。カメラの設定が変わってしまっていた?中国を代表するエコノミーホテルチェーンの『錦江之星』などいくつかのホテルが。こちらは『全季酒店』。『新海瑪精品店』。塔のある建物は『珍珠』。『珍珠』の説明板は歴史的建築物の説明であると思っていたがよく見ると宝飾店の商品説明か?『福园』。巨大な『マトリョーシカ』が壁に嵌め込まれていた。そしてマトリョーシカのお土産屋も路の両側に。こちらも。『莫斯科购物广場』は「モスクワ購物広場」の意味の店であったが実は漢方薬屋であったのだろうか?その他様々な商店が並んでいた。巨大な朝鮮人参か?『玖恒精品城』カードゲームを楽しむ大連のオジサン、オバサン。この光景を見ると、やはりここは中国なのであった。歩いて来た旧ロシア人街を振り返る。歩道には多くの出店が。『旧 大連市自然博物館』通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、それゆえに独特の存在感のある建築物が建っていたのであった。夜間の無色(黄色?)の照明であったため一層状態が悪く見えたこともあろうが。この建物は最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、日本統治時代の1907年に満鉄本社、翌1908年に2代目ヤマトホテル、その後、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、新中国時代は1997年まで大連市自然博物館であったとのこと。1998年に博物館が他所に移転されてからは利用されていないとのことだ。その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようだが、結局、この歴史的な建築遺構を再利用することなく、今や廃墟同然の姿で現存していたのであった。このまま朽ち果てていくのであろうか?保護・保存活動の予定は?『金帆賓館(俄羅斯風情街)』は現在もホテルなのであろうか。この建物の周辺の円形広場廻りは、時間が停まっているように見えた。100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めて来たのであるが。道路を隔てた隣の建物。更に隣のビル、反時計回りに。そしてこの円形広場からインターコンチネンタルホテルの姿を。様々な色彩に変わる高層ビル。そして帰路に。途中、石畳に毛筆で字を書くオジサンの姿が。0.5~1mほどの木の棒に、筆先をとりつけ、地面に水で文字を書いていくこの書道は『地書』と呼ぶらしい。腕や手の訓練になるだけでなく、立ち姿全体でバランスをとりながら文字を書くことから、一種の全身運動として、引退後の世代に人気なのだと。金がかからなくて健康によい知的な遊びなのであろう。バケツに溜めた水で、太い筆を使って石畳に文字を書いているのであった。『郷』の字も達筆。人によって、楷書、篆書、隷書など専門があるようだ。中国人は、字が上手な人が多いのだが、公園等で書道の練習をしている人は、とにかく上手。西安や北京を訪ねた際にも同様な光景を公園内で何度か見た。中国人にとっては、見慣れた風景のはずだが、見事な字を書く人のまわりには、人だかりが出来ているのであった。旅友を捕まえ書けと。TRYする旅友の姿。年の功で達筆。そして私もオジサンに捕まり特訓を受ける。そして最後に『中日友好』と書くと大いに喜んでくれ、握手の手を差し出してくれたのであった。これぞ『一期一会』の時間と空間なのであった。そして再び『旧 日本橋』を渡る。そして、刻々と色を変える『インターコンチネンタルホテル』の姿を楽しみながらホテルへと戻ったのであった。時間は21時。部屋に戻り、トランクの整理を行い、暫しの反省会の後に、翌朝6時出発の覚悟をし、床についたのであった。そしてこのブログを書く中で、今年(2019年)1月に名古屋から大連を訪ねたツアー参加者の方の『大連市内観光の動画』👈リンク に寄り道をしましたので、ここに紹介させていただきます。このツアーの現地添乗員は、我々のツアーの現地添乗員と同じ「王さん」であったのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.13
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『旅順博物館』を後にし、大連への帰路に。ロータリー中央にあった塔のモニュメント。『友誼路』を進む。『旧 師範学校』多分、解体の運命にあるのだろう『部队招待所』・『旧・旅順大和ホテル』。人が立ち入らないように?か、周囲はフェンスで囲まれていた。『部队招待所』。竣工 1903年。1908年に満鉄が旅順ヤマトホテルとして開業。開業当時は15部屋の小規模ホテルだった。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀鳳台の私邸を改良したものだと。大連ヤマトホテルと比べると地味な印象な旅順ヤマトホテルだが、多数の歴史的な人物が関わったり、滞在していると。時系列で紹介すると、1909(明治42)年9月15日夏目漱石。1927(昭和2)年11月川島芳子(愛新覚羅顯㺭/金璧輝)とカンジュルジャップの結婚式。1928(昭和3)年5月与謝野晶子・鉄幹夫妻が2泊。晶子は旅順で旅順博物館、粛親王邸、203高地等を訪れ十一首残す。1931(昭和6)年愛新覚羅溥儀が105日滞在。その後、粛親王邸へ移動。1932(昭和7)年2月24日1階レストランで板垣征四郎と満州国建国を祝って乾杯を交す。この旧旅順ヤマトホテルは現在は軍の招待所(ホテル)となっているため原則外国人は中へ入ることも宿泊も出来ないと。いや今は関係者以外は立入禁止か?『友誼路』沿いにあったサッカー像。『友誼路』を更に進む。前方に『白玉山』。右手は中国海軍の施設の入口か?左手に『旅順 勝利塔』。旅順の新市街に位置し、1955年9月に完成した記念塔。終戦から1955年まで前ソ連軍が旅順に駐在、1955年引き上げる時に建てられた、塔の高さは45mで、1945年の第二次世界大戦の終戦年を意味するのだと。先端をズームで。五芒星と月桂樹であろうか?白玉山の山頂に立つ白玉山塔。白玉山は大連市旅順口区の中心市街地にある山。海抜約130m。もとの名前を西官山といった。山頂に白玉山塔が建っている。日露戦争後、東郷平八郎と乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立した。11月の落成式に乃木が夫人とともに参列している。当時は「表忠塔」と命名された。中華人民共和国となってから「白玉山塔」と改名された。高さ66.8m。1909年、東郷平八郎と乃木希典の提案で建てられ、塔の基底部には乃木の故郷である山口県から運んできた花崗岩が使われているのだと。日露戦争の戦死者を慰霊し、遺骨を納めていたとのこと。『龙河』を渡る。旅順港が右側に。この付近は旅順軍港に隣接することから近隣に多数の軍関連施設が所在するため、降車して付近を不用意に歩くことは制限されているのだと。ただし、昨今ではかなり緩和され、駅前のホテルに宿泊するツアーもあるとのこと。この写真に写っている『北勤736』はネット情報に寄ると排水量746t、全長65.0m、速度16kts、航続距離800nm(15kts)、37mm連装機関砲2基、25mm連装機関砲2基を有する『消磁船』であるようだ。この種の船に詳しい高校時代の友人から下記の如きメールが「鋼鉄製の船は、必ず磁気を帯びます。機雷は、この磁気に感応して、爆発します。機雷の上を走る掃海艦艇が、木製であったり、FRP製であるのは、非磁性だからです。一般的に、戦闘艦艇は、機雷原のある海域でも、作戦遂行できるよう、消磁装置を作動させます。しかし消磁装置も完璧ではなく、多くの場合、1年に1回、時期測定を実施し、残留磁気が基準値を越えた場合、消磁を行います。方法は、艦に太い電線を巻き、直流電流を流します。中国海軍の消磁船とは、艦艇の磁気測定と、消磁を行うための船と考えられます。」と。そして、その先の『3113』は『哨戒艇』のようだ。右手の海の奥は砲台のあった黄金山であろう。旅順黄金山電岩砲台近くには『旅順黄金山溥儀楼』があるのだと。溥儀楼はヨーロッパ風の建物で、1931年、ラストエンペラの溥儀が長春に入る前までここで過ごしていた。現在、溥儀楼と妃子楼の二つの建物が残っていて、文化財として保護されていると。購入した写真集からの『旅順湾』。左の黄金山と右の老虎尾半島の間に、幅270mの水道があり、要害となっている事が解る写真なのであった。旅順駅が見えて来た。『龙河』再び渡る。『军港之夜主题公园』内の建物。バスを降り『旅順駅』撮影タイム。大連市旅順口区にある旅順支線の終着駅。瀋陽鉄路局の管轄する2等駅で旅順軍港のすぐそばにあった。竣工 1900年、設計 不詳(ロシア人設計士)1898年占領したロシアが要塞と軍港を拡張。鉄道建設に着手。1900年旅順港のすぐ前の前に旅順駅を建築開始。1903年7月に営業開始。大連でも数少ないロシア風木造建築であると。ロシア時代に建築されたものの多くは設計者がドイツ人であったり、ヨーロッパ式の建築様式を取り入れたためロシア風建築はほとんど見かけることはないのであると。中国東北地方の現存最古の駅で、中国国内でも最も古い歴史を有する駅のひとつ。駅舎の屋根の上には『旅順站』の緑の文字があるが、屋根の色と重なって。購入した写真集からの『旅順駅』。旅順駅舎、そして白玉山、その山頂に『白玉山塔』。ズームで。こちらも現地で購入した写真集からの『白玉山』と『白玉山塔』。山の法面には清朝末期の大砲が残っているようだ。『甲午古砲』の文字が会ったので調べてみると『甲午』とは『日清戦争』の事であり「この大砲は1881年、清朝がドイツより購入したカノン砲で、日露戦争中、ロシア軍隊は旅順口の要塞の防御を固めるため、この大砲を西鶏冠山の砲台から、老鉄山頂まで運んでいたが、戦争終結後に白玉山に置かれた。」との情報あり。再び白玉山、その山頂に『白玉山塔』。日露戦争後、東郷平八郎と乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立。11月の落成式に乃木が夫人とともに参列していると。当時は「表忠塔」と命名された。中華人民共和国となってから「白玉山塔」と改名された。高さ66.8m。内部には旋転階段があり、21個の窓を設けている。塔の基盤に使った石は山口県徳山から運んできた花崗岩。山を曲がりくねった南北2本の道路があり、また、山の東坡側に、山頂に直行する496級のセメント石段が1本ある。南麓側には、山頂に直行する空中ロープウエーもあり、山頂で旅順軍港及び市街区の風景を一望出来るのだと。旅順の老鉄山にある『灯台』も。ここは遼東半島の先端、もっとも南側の場所で、黄海と渤海の境目。清の時代(1883年)に造られた灯台が今も現役で活躍しているのだと。フランス人による設計。140年近く、海の安全を守って来た。射光距離は48キロだと。『旅順潜艇博物館』の看板。『海軍試験試航招待所』。『長江路』沿いの『鼎泰海景公寓』はアパートであろうか。『旅顺游客码头服务中心』は旅順市観光ターミナル支援サービスセンター。『旅順南路』を進む。塔河湾港の横を通過。この像は?『隐嶺』建設中のビル。『龙王塘街道綜治中心』中国政府の社会主義方針が。そして『星海湾大橋』を渡る。帰路が下側の道路。往路時は上側を走る。山の上の白き塔のある建物は?『北大橋』が横に。この『北大橋』は、姉妹都市の「北九州市」と「大連市」の友好を記念して1987年に建設されたのだと。『北大橋』を渡る。更に進むと『老虎灘海洋公園』のシンボル『群虎彫像』が。この虎の彫刻は、花崗岩を材料として、中国を代表する彫刻家・韓美林による長さ35mの巨大な6匹の虎のモニュメントであると。一人の青年が人魚を襲撃した虎を退治して死んだという伝説から始まった『老虎灘海洋公園』。『老虎灘海洋公園』は面積118万㎡もあり、途方もなく広い国立風景名勝区。敷地内にはたくさんの見所があり、中国最大規模の水族館(海獣館)もあるのだと。上空にはリフトも。三面が海の小さい半島と三面が低い山で囲まれた海湾が連結して公園を成し遂げている所で向い側海岸まで短距離ケーブルカーで渡っていくことができる。前日に対岸まで訪ねた『棒錘島』に行く遊覧船も出港しているのだと。停泊中の海軍の船。『 大連老虎灘極地海洋動物館』。老虎灘湾の橋を渡る。この踊る?いや抱き合う?像は?女性は人魚?人魚を救っている英雄の彫刻? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.12
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『203高地』を後にし、『革新街』をバスは進む。左手には『大連市大五十六中学』が。『新华大街』への入口を通過。『新华大街』を東に進む。『肃亲王府旧址』。清朝八大親王の筆頭 粛親王の旧邸宅であると。1900年にロシア人経営のホテルとして建築。建物面積1058㎡。1904年までホテルとして使用された後、1905~12年までは関東軍民生部長官が使用。1912~1945年まで粛親王一族の邸宅として使用した建物であると。「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子が5歳から8歳ごろまで暮らした他にも、1932年には新京(長春)移動前の愛新覚羅溥儀が妻の婉容とともに滞在していると。1945~55年前ではソ連軍進駐管理。1955年に中国返還。以降は人民解放軍が管理していると。『肃亲王府旧址』。大連市旅順口区新華大街9号。『钱幣博物馆』『中苏友誼紀念塔』。中ソ友誼記念塔は、旅順の新市街、旅順博物館と旧関東軍司令部の間に建っていた。1957年の竣工で、高さ22.2メートル。旅順といえば、日本人にとっては二〇三高地や白玉山塔が定番の名所であるが、ロシア人にとってはここなのであろうか。塔には、中ソを代表する建築物や両国の人々が友好を深める場面のレリーフが。天安門広場とクレムリン・トロイツカヤ塔そして牡丹の花が。頂上には、ソビエト連邦の国旗に記された鎌と槌そして中国側は「五星紅旗」。大星は中国共産党と人民の団結を、4つの小星はそれぞれ労働者・農民・知識階級・愛国的資本家を表わし、黄色は光明を象徴する。また同時に、大星は中国本土を、4つの小星はそれぞれ満州・モンゴル・ウイグル・チベットを表わすとも言われる。経済学者でもある曾聯松のデザインによるもので、1949年9月に制定された。そしてその上には鶏冠の大きい鶏?が。『中苏友誼紀念塔』。『旅順・旧関東軍司令部』。旅順新市街に位置し、旅順博物館の向かい側にある建物。建物が観光用に開放されていると。日露戦争の時、旧日本軍が遼陽にて関東総督府設置したが、1906年に旅順へ移転した、関東都督府へ改称し、下に陸軍部を設けた。1919年、都督府がなくなり、陸軍部は関東軍司令部となった。当時の司令官は立花小一郎。1932年、旧満州国が長春にて成立されたが、同時に関東軍司令部も長春へ移転した。それまではここが泣く子も黙る関東軍の本拠地だったのだ。関東軍とは陸軍の一部だが、なぜ関東軍は天皇の意思に反してまで、ここまで暴走することが出来たのだろうか。昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時、その真相について曖昧な説明で誤魔化そうとした田中義一首相に辞任を求めたり、満州事変からも対米開戦までずっと平和協調主義をとっていた。にもかかわらず関東軍が強気に出られたのは、中国大陸の鉱山の利権や満州の農業・工業に日本経済の命運がかかっていたからなのであろうか。その様な旧関東軍司令部の建物が今は観光用になり、建物内には当時の物と写真などが展示されていると。ここも内部を見たかったが、ツアーコースには入っていなかったのであった。そして『旅順博物館』。浄土真宗本願寺22代法王・大谷光瑞は、若い頃イギリスに留学しすっかり西洋かぶれし、帰国後、門徒にオルガンに合わせて「讃美歌」ならぬ「賛仏歌」を歌わせる傍若無人ぶりを発揮。さすがに皆の反感を買い、法王の座を弟に譲ると、何を思ったのか突然探検家になると言い出し、シルクロードへ発掘の旅に出た。ここ旅順博物館は、その大谷光瑞が1902年から1914年に発掘したお宝をメインに展示している博物館なのだ。もともとはロシア将校クラブとして起工され未完成のままだったが、1917年に日本が考古館としてオープンさせたのだと。近づいて。全国重要文物保存単位の文字とともに『関東庁博物館旧址』の文字があった真新しい石碑.右足の下に球を抑え込んだ雄の狛犬。『旅順博物館』入口。『旅順博物館』の扁額が懸った建物正面光景。郭沫若の揮毫のようです。文化大革命中の1972年からは、一時閉鎖されていたと。斜め横から。無料開放の連絡パネルであろうか。ここ中国遼寧省大連市旅順口区にある1917年開館の旅順博物館は、2006年に全国重点文物保護単位に指定され、2008年に第1期国家1級博物館に選ばれた。同博物館は国家1級文物200点を含む文化財6万点余りを所蔵しているのだと。『旅順博物館平面配置図』。『铜钟』。元代(公元1271年~1368年)。元国は大元元朝とも呼ばれ、中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した。日本への蒙古襲来は、鎌倉時代の1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の2度。主に九州北部が戦場となった。モンゴル帝国とその属国の高麗王国の艦隊が押し寄せた。それまでの戦役では、世界史上最大規模の艦隊とされると。『青銅工芸陳列室』。商代の青銅器。『田告罍』。『铜鼓』。大きな戦いなどの時に、戦場に持ち込んだ太鼓であろうか、中国南部からインドシナ半島,インドネシアに分布する青銅製の片面鼓。起源前2世紀頃に始まり、近代まで作製されていたと。『戈』。『陶瓷工芸陳列室』。『唐三彩』コーナー。『唐三彩文官俑』。『唐三彩』の駱駝。『唐三彩』の馬。『三彩印牡丹紋图盘』『緑釉扁身双孔式皮嚢壺』(左)と『緑釉圆身环梁式鸡冠壺(右)』『粉彩福寿紋長顎瓶』(左)と『粉彩八宝紋盘』(右)。『青花錦紋綬帯耳扁壺』。『素三彩双花戏珠紋盘』。『釉里紅花紋長顎壺』。シルクロードで大谷が発掘したミイラの展示室を入口から。内部は撮影禁止。『大雅斋款黄地墨彩四季花卉图缸』『静远堂制粉彩梅雀纹转心瓶』美しい色彩の壺。こちらも。美しい仏像。四天王像。左は琵琶を手にしているから、『東方持国天』右は『北方多聞天』。『南方増長天』。『西方広目天』。『羅漢像』。ズームで。羅漢像(左側)ズームで。羅漢像(右側)。『佛降魔成道座像』。1階に飾ってあった仏像。阿弥陀仏銅立像。余り目にしたことが手印の像。明代(1368〜1644年)の製作。右手は施無畏印、左手は結与愿印と解説されていた。剃髪の姿ですから、螺髪が普通の姿である、仏陀とは違う?。『铜鎏金阿难立像』中国国内外から収集した青銅器、彫刻、磁器、陶器、仏像などの収蔵品を大いに楽しむことが出来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.11
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『203高地』に向かってバスは新城大街を走る。左手の『世茂寰海城』は別荘案内か?恐竜の像の姿も。更に『春城路』を進む。『ニ〇三景区』と刻まれた石碑を発見。続いて『大連海濱 旅順口』と刻まれた石碑。そして『203高地』 入口門。ピンクの垂れ幕に包まれていた。今年の桜まつりの垂れ幕がそのまま残されているようであった。『203高地』は渤海に突き出た遼東半島の先端部。『旅順港』、『203高地』の位置図。旅順港は細い水路で結ばれた内港と外港から成る地形。旅順港はかねてよりロシアが待望した極東の不凍港であった。ただし、浅水港であり浚渫が不足していたため、喫水の深い戦艦などを内港に停泊させた場合に干潮による着底で艦底を傷めるおそれがあるほか、潮位によって出港不能となった。逆に、浅水であることを利用して、水線下の水雷被害を干潮時に修理することができた。そのため、大型艦船は当初は水深の深い外港に停泊していたが、攻撃が始まると旅順艦隊の主力は内港へ引きこもることが多くなった。また、外港と内港を繋ぐ湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させる閉塞作戦が実施されることとなったのだと。しかし、この日露戦争では、日本海軍が旅順のロシア海軍太平洋艦隊を港内に閉じ込める「旅順港閉塞作戦」を実行し、3度に渡って行われた作戦で合計21隻の船舶が閉塞作戦に投入されたが、閉塞は不十分であり艦隊の出港は可能であったと。広場の石には『桜』の文字が刻まれていた。日露戦争の激戦地だった203高地は今、旅順国家級森林公園の一部となっていると。ここにある敷地面積50万平方メートルの旅順新桜花園には、世界各地のおよそ100種類の桜3000本余りが植えられているのだと。中国原産の桜のほか、日本の早咲き桜、八重桜、雪桜、山桜などがあると。この石にも『桜』の文字が。他の二文字は?『中日友好桜花林の石碑』。花の右側が203高地。観光用カート車に乗り暫し坂道を上る。カート車を下りた場所には『ニ〇三景区』と刻まれた岩が。『日俄戦争遺址 二○三高地』「二○三高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西部戦線における主な戦場である。旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、二○三高地に向かって総攻撃を行い始め、66日間続いて12月5日にその高地を攻めおとした。当該線役の中に旧日本軍は1万人以上、ロシア軍は5千人以上死傷した。旧日本軍が二○三高地を奪い取った後すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃した。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。戦後、旧日本軍国主義の頭である乃木希典は二○三の(中国語の)音読みによってそれを[爾霊山]と改名した。日本軍の亡霊を供養するために戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートル高さの[爾霊山]記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。」地図のピンクの部分は桜が植えられているのだ。左の『尔灵山塔(爾霊山塔)』を目指して坂道を上って行った。『尔灵山塔(爾霊山塔)』への案内板。『尔灵山塔(爾霊山塔)』に向かって進むと左手・日本側にあった石碑。『旅順口日俄战争遺址 ニ〇三高地』。ロシア側にあった『市級文物保護単位 ニ〇三高地』。正面にニ◯三高地頂上の『尔灵山塔(爾霊山塔)』が姿を表した。日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートル高さの『尔灵山塔(爾霊山塔)』。乃木希典が『爾霊山』の3文字を揮毫したのだと。「爾(なんじ)の霊の山の」意味であると。この漢字を使っているのは、この地で犠牲となった日本兵への慰霊を意味しているからと。建立は乃木希典大将であり、彼こそが日露戦争における旅順攻囲戦の指揮を執った第三軍司令官であったのだ。近づいてよく見ると中国語やロシア語で無数の落書き?が刻まれていた・・・・・・。『尔灵山塔』。そして4km先の旅順港の眺望。旅順港は狭い入り口で囲まれた広い湾で、良い軍港であったと。一方その入口は狭いだけでなく浅かったのだと。そこで海軍は先ずこの狭く浅い湾入り口を封鎖する旅順港閉塞作戦を立てた。古い廃船など海底に沈め,湾を閉塞するというものだ.作戦は三次に渡り実行されたが、入口手前で撃沈されるなどして、港を完全に封鎖するに至らなかったそうだ。ただ航行を幾らか妨害することはできたのだと。『203高地』から望む『旅順港』のロシア艦船の当時の写真。爾霊山塔の裏には大砲が並んでいた。大砲の向いている先こそ旅順港。旅順の街も見渡せた。ここから一発辺り200kgを超える重量の砲弾が、明治37年(1904年)12月5日から5日間に渡り1,000発以上も打ちこまれたのだと。ロシア軍艦は、遡って8月10日の日本海軍との「黄海海戦」での損傷修理を終えていない艦があり、中には弁を開いて自沈したものまであったことが戦後の調査で分かったっと。「ロシア式150ミリメートルカノン砲」「二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル野戦速射砲二台をもって、人工による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。」こちらにも『ロシア式150ミリキャノン砲』と5カ国語で。『203高地の紹介』。「203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い奪い合いをし、結果、203高地攻略を含む旅順攻囲戦での戦死者は、日本軍約15,400名、ロシア軍約16,000名。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。」『この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱』との厳しい文字が。『ロシア軍陣地からの203高地』の当時の写真。『放火に包まれる203高地』の当時の写真。帰路に『重砲観測所』に立ち寄る。『重砲兵用探り所』1904年12月、日本軍は二〇三高地を占領した後すぐ、そこに重砲兵用探り所を設置したことにより、重砲を指揮して旅順口港へ猛烈な攻撃を行い、港に停泊したロシア軍艦を殆ど日本軍の砲火に打ち壊された。重砲兵用探り所は日本軍がロシア軍海軍の力に打撃を加え、ロシア軍陸上防御線を粉砕して最終的にロシア軍を打ち負かしたことにおいて、重要な役割を果した。」そして『日本軍 重砲観測所阯』の構造物。日本軍 280mm榴弾砲(レプリカ)日露両軍とも115年以上前の兵器なのであったが。正面から280mm榴弾砲。『日本式280ミリメートル榴弾砲』「二〇三高地争奪戦で、日本軍は口径の異なる大砲を六十台余り使用して、高地に対して狂気じみた無差別爆撃を加え 全部で一万一千発以上の砲弾を撃ったが、そのうちに、280ミリメートル榴弾砲砲弾が2254発あった。当該大砲は本体の重さが10.753トン、砲弾の重さが217キロで、射程距離が7800メートルだった。」今でも残されているロシア軍が作った塹壕の深さは1mもないのであった。当時は無かった木々が生い茂り、ほとんど手入れされている様子は無いのであったがこの斜面において、日ロ両軍の兵士が多く死傷しているのであると。そして再び、観光用電動カートに乗り入口まで戻る。途中、この場所はいつまで観光地として利用されるのであろうかと。この日も、我々以外に観光客の姿はほとんどなく、ここを訪れるのは日本人のみで中国人、ロシア人は殆ど関心がないと。そして東鶏冠山北堡塁や水師営会見所も同じであると。日本人の若者も、日露戦争を知っているのは『坂の上の雲』を読んだ人のみではなかろうかとも。左手にあったのは観光センターであったか?そしてこの地の動画『203高地』👈リンクがあったので紹介させていただきます。『203高地』公園入口を内部から。『旅游巡回法庭』と書かれていたが。今年の春の桜祭りの看板が未だに片付けずにここにも残っていた。日露戦争を教科書で習った我々日本人からすると、たくさんの血が流れた場所で花見をすることそのものに疑問を感じるのであるが、多くの中国人はかつての悲惨な攻防についての知識がほとんどないのだと。また、中国人観光客が山頂に行くことはほとんどなく、裾野で花見を楽しむ人たちで賑わうのだと現地添乗員から。203高地入口門を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.10
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そして次に訪ねたのが、『水师营会见所(水師営会見所)』。水師とは清時代に、各地の海岸などに設立されていた水軍を指し、営とは軍の駐屯地のことであった。日露戦争の旅順要塞攻囲戦は、明治37(1904)年)8月19日〜明治38(1905)年1月1日まで、約4ヶ月半にわたって行われた要塞戦であった。この戦いで、日本は戦死が約1万6千名、ロシア側も約1万人を失ったと。1905年1月5日、水師営会見(旅順停戦条約)が旅順水師営のあるこの農家で締結されたのだ。ここ会見所は、旅順から北西四キロばかりに地点、水師営の一民屋なのであったと。附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていたと。この一民屋だけが残っていたのは、日本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたからであるのだと。『水师营会见所』入口。入口の上には「會見所」と書かれた板が。乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)を中央に、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人の記念写真が撮影されたという場所。角に植えられているのは棗(なつめ)の木の子孫であろうか?文部省唱歌「水師営の会見」の二番には、「庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく・・・」とある。ステッセルが会見場に着いたときに、馬の手綱をかけた木だという。司馬遼太郎は「坂の上の雲」に、「「水師営の会見」の歌の歌詞にあるように、門を入って左の泥塀に沿って棗の木がある。」と書いていると。まさにそのあたりに位置する木である。しかし、重要な場所であるはずが、擁壁の内部には雑草が生い茂り、外にも破れた砂袋が放置されていた。この辺りが、この日露戦争の歴史に対する中国人の感覚なのであろうかと。『水师营会见所』外観。もともとは地元の農民の家を夜戦病院として利用していたものだと。当時の建物は文化大革命で破壊され、今の建物は後に復元されたものだと。屋内には当時の写真と文章が展示され、また会見で使われた机や椅子の復元や満鉄マークのついた懐中時計、李香蘭や川島芳子のポスターなども展示されていた。屋根の一部には草が生えていたが、この建物は1996年に復元されたものであると。これらの場所を見ると、こんな遠いところに当時の日本人の生活があったことが不思議に感じられたのであった。『水师营会见所』案内板。ズームで。何故か日本語での説明文は書かれていなかった。旅順龍河の北岸に位置し、清朝時代には清軍水師の駐泊地であったことから、水師営の故名が付いたことから始まり、1905年1月5日の日露の終戦会見が行われ、戦後の1906年に日本当局により、『水師営会見所』の碑が置かれたことなどが説明されていた。屋根は丸太を使った茅葺。入って右側の203高地の戦場写真の前で、無料で女性ガイドが説明してくれた。水師営の会見は、旅順降伏文書の調印が行われた3日後の1月5日午前11時過ぎから行われた。10時30分、ステッセル将軍は参謀長のレイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて水師営に到着。一方、乃木将軍ご一行はやや遅れて11時15分に会見場に入った。乃木将軍に同行したのは、伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、それに川上書記官の計5名で、会見は両将軍が双方の軍隊の健闘を称え合い、先日までの激戦が嘘のような和やかな雰囲気の中で行われたという。まさに昨日の敵は今日の友なのであったと。水師営会見の様子は「水師営の会見」👈リンク という文部省唱歌に描かれているのだと。♪♪♪♪♪♪1.旅順開城(かいじょう) 約成(やくな)りて 敵の将軍 ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営 2.庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木 弾丸あとも いちじるく くずれ残れる 民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る 二将軍 3.乃木大将は おごそかに、 御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の 大(おお)みことのり 伝(つと)うれば 彼(かれ)かしこみて 謝しまつる4.昨日(きのう)の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称(たた)えつ わが武勇 5.かたち正して 言い出でぬ 『此の方面の戦闘に 二子(にし)を 失い給(たま)いつる 閣下の心如何にぞ』と 6.『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門(ぶもん)の 面目(めんぼく)』と 大将答(こたえ)力あり 7.両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語 『我に愛する良馬(りょうば)あり 今日の記念に献ずべし』 8.『厚意謝(こういしゃ)するに余りあり 軍のおきてに従いて 他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん』 9.『さらば』と握手ねんごろに 別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり) 砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に ひらめき立てり 日の御旗(みはた)♪♪♪♪♪♪壁には多くの歴史的な写真が展示されていた。『在203高地建子弾形塔』203高地山頂の「爾霊山」と書かれた建立当時の「爾霊山塔」。旅順戦蹟 旅順港口閉塞隊の記念碑。この記念碑が建てられている土地、第3回閉塞作戦時に没した31名をロシア軍が葬っていた場所であったと。『1905年1月5日・乃木希典同斯特塞尓在水師営会見所合彰』のタイトルがあった写真。後列左から、川上外務書記官、安原大尉(参謀)、マルチェンコ中尉(参謀)、松平大尉(副官)、渡辺少佐(管理部長)、中列に、レイス少将(参謀長)、乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)、伊地知少将(参謀長)、前列には、ネベルスコーユ中尉(参謀)、津野田大尉(参謀)と、以上、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人が写っていると。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じたのだと。よって従軍記者からの再三の要請があっても、乃木大将はロシア軍人の名誉を重んじ、この写真1枚だけの撮影しか認めなかったのだと。そしてこの時、乃木将軍はロシア軍人としての名誉を重んじてステッセル将軍の帯刀を認めたと。こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛されたのであったと。水師営会見所の外で撮影されたロシア軍兵士と馬。そしてステッセル将軍達に随行した兵士。『水师营会见所』。入口の石垣は大きく崩れて。『东鸡冠山北堡塁』。『东鸡冠山北堡塁』の坑道作業をする日本軍の姿。そして入口の左の部屋に向かう。ドアの上には内部「撮影禁止」の文字が。入口手前からズームで。右手が会見の机。乃木希典の『金州城下の作』の七言絶句は、中国の専門家からも高く評価されている漢詩と紹介されていた。山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場征馬不前人不語 金州城外立斜陽現代語訳は、山も川も草も木も、荒れ果てて見る影も無い。戦があったこの場所では、十里にわたって風が血なまぐさく感じられる。軍馬は進まず、将兵たちは押し黙っている。夕陽が傾く金州城外に、私はただ立ちつくす。希典の長男、勝典が戦死した戦いであったとのこと。左手には『乃木希典』像があった。廃屋の如き姿であったが。庭の片隅にあった石碑。展示館内は土産屋の如くであった。中国の人にとっては自分たちの土地で日本とロシアという外国が勝手に戦争をして「取った、取られた」と言っていたのは迷惑至極のこと。この場所は中国人にとって決して愉快な場所ではないはず。特にここ水師営の会見所は日本人しか訪れることのない場所とのことで、地元の方々にもあまり知られていない場所であると中国人の添乗員から。この日の昼食は、会見所の横にある海鮮料理店で。入口には料理メニューの写真がズラッと。中華料理もさすがに飽きてきたが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.09
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