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「燈明堂」を後にして、都市計画道路「 浦賀野比線」に向かって引き返す。左に曲がると、先ほど通った「長瀬隧道」への道であるがここを直進。「浦賀野比線」との交差点まで戻ると、正面の擁壁には様々な壁画が描かれていた。セーリングヨットの陰刻絵画。先ほど訪ねた「ペリー公園」、「燈明堂」案内表示。再び「旧川間ドック」を眼下に見る。全長136.7m、幅16.4m、深さ9.7m。ゲートが取り外されているので海水が入って、プレジャーボートが係留されていた。この「川間ドック」👈️リンクは明治31年に日本で初めてつくられたレンガドックだが、設計・築造したのは、横須賀製鉄所で学んだ恒川柳作や大倉粂馬、山崎鉉次郎ら。日本人による初のレンガドックである。「川間ドック」の写真をネットから。ドックの形は、先頭部分が丸くなっていて浦賀ドックとほぼ同じだが、煉瓦の積み方が少し異なる。こちらはイギリス積みによく似たオランダ積みである。長手だけの段と小口だけの段を交互に積むのはイギリス積みと同じだが、長手段の端で七五(レンガの長手方向の長さを3/4にしたもの)を用るのがオランダ流である。そして道路は浦賀湾の海岸に出る。対岸が東浦賀地区。右手にあったのが「浦賀港引揚記念の碑」。横須賀市西浦賀1丁目11−2。「浦賀港引揚記念の碑昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。 横須賀市」前方に「陸軍桟橋」。対岸に見えたのが「叶神社 (東叶神社)」。四阿で一時休憩。左手の道路沿いにあったのが「よこすか浦賀病院」。旧住友重機械健康保険組合 浦賀病院。1897年(明治30年)に設立された「浦賀船渠」の浦賀工場診療所として大正元年8月1日開設 。昭和19年6月1日 浦賀造船所病院と改称、昭和30年4月4日 浦賀船渠(うらがせんきょ)病院として開設。「陸軍桟橋」案内図。この海岸線は浦賀の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。L字形の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものてある。太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋てある。また、この場所は、享保6年( 1721 )に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査か行なわれた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定をはかるために行なわれ、港町・涌賀の繁栄にもつながった。※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。L字形の桟橋。案内図に近づいてL字の「陸軍桟橋」を。停泊中の砂、砂利運搬船の姿も。「第三十一勝丸」と。L字柄の桟橋の曲がり角から四阿、ウッドデッキを振り返る。再び、対岸・東浦賀の街並みを。左に振って。「船番所跡」案内板。18世紀に入るころから国内では生活物資の生産が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。この流通の変化は幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸に出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌、から木綿や薪までの11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは明治5年(1872年)3月のことでした。その船番所があったのがこの場所です。 浦賀観光協会」「異国船を取り巻く船番所の警備船」。ネットから。「船番所跡浦賀奉行所の出先機関で、享保六年から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。与力、同心の監督のもと「三方(さんぽう)問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当しました。「入り鉄砲出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「船番所の模型(浦賀郷土資料館)」。「三十一勝丸 上天草」を再び。手前はタグボート、その横のオレンジ色の船は「東京湾スイムピクニック(船をチャーターしてクルージング形式)」のチャーター船とのこと。ここ浦賀港から船で出航し、対岸の千葉県へ渡り、館山〜富浦〜岩井の沖合をクルージングしながら絶好のポイントでオーシャンスイム、オーシャンスイムを楽しんだらまた船に乗り次のポイントへ、だ〜れもいないポイントでたっぷりとオーシャンスイムを堪能できるのだとネットから。「砂・砂利運搬船」の「第十八住吉丸 壱岐」。こちらも「砂・砂利運搬船」の「第十五大福丸 徳島県徳島市」。カナメモチの生垣とツツジに囲まれた遊歩道を歩く。「現在位置」はここ。横須賀市西浦賀1丁目15。「横須賀市南消防署浦賀出張所」の先にあった石碑。「大正十二年九月一日 関東大震災慰霊塔」。「関東大震災の慰霊塔大正十二年(一九二三)九月一日十一時五十八分、関東地方に大地震が発生しました。昼食時と重なって東京や横浜では大火災となり多くの人命と家屋が失われました。ここ浦賀でも崖崩れや火災などにより大きな被害を受けました。特に西浦賀では、愛宕山が崩れ、通行中の七人が生き埋めとなり、浦賀町だけでも二百二人の生命が失われました。戦後、この塔は震災と海難の犠牲者慰霊のため再建され、毎年八月上旬の浦賀みなと祭りで慰霊祭が行われています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「浦賀の被害状況」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.18
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「ペリー記念館」、「ペリー公園」を後にして、「ペリーロード」まで戻る。遊歩道の巨大なヤシの木。「カナリーヤシ」であろうか?アフリカ西海岸、カナリア諸島原産なのでこの名がある。宮崎県の公式ページによると、病害虫に強く長寿なことから、不死鳥(フェニックス)の名前が付けられたとされるとウィキペディアより。その奥が久里浜海岸。巨大なヤシの木に近づいて。存在感があり、南国イメージがあふれる代表的なヤシ。先ほど歩いて来た「ペリーロード」を浦賀方面に戻る。「開国橋」交差点。「開国橋」。再び下を流れる「平作川」上流を望む。次の目的地の「千代ケ崎砲台跡」に向かってひたすら引き返す。前方に「川間隧道」の久里浜側の入口を再び見る。「川間隧道」を左に見ながら旧道を進むと前方に「長瀬隧道」。完成 1930年(昭和5年)改修 1971年(昭和46年)全長 51.5m幅 5.8m高さ 5.4m「長瀬隧道」の久里浜側入口左にあった地蔵様。なんだか太目のおばさんに見えたのであった。下には「交通安全」と記されていた。この場所で過去に交通事故が発生したのであろうか?「長瀬隧道」を通過し、「千代ケ崎砲台跡」方面の道路と交差するT字路まで戻る。後に訪ねた「浦賀燈明堂」案内板が左手に。「浦賀燈明堂灯台の先柤というべき施設で、慶安元年(1648年)幕府の命により建てられました。菜種油を灯火の原料とし遠くまで照らすことで浦賀港に入ってくる船の安全を守りました。明治2年(1869年)日本初の洋式灯台である観音崎灯台が建設されたことによって燈明堂は役割を終え、建設から約220年過ぎた明治5年(1872年)に廃止となりました。現在は、残った石垣の上に当時の外觀が復元されております。」「燈明堂跡」まで約600mと。「千代ケ崎砲台跡」はここを右手に進み、坂道をひたすら上って行った。「千代ケ崎砲台跡駐車場」案内板。「土日祝のみ」、「閉場」の文字があったが、この時点では気が付かなかった。急な坂道を息を切らせながら上って行った。「国史蹟 東京湾要塞跡 千代ケ崎砲台跡」案内板があった。そして前方には「関係者以外 立入禁止」札がロープにぶら下がっていたのであった。スマホで調べてみると『国史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡は土曜日・日曜日・祝日に公開を行っております。』と。この日は、4月16日(火)の平日であったのだ。事前調査不足を痛感!!次回のチャレンジを誓って「文化財説明板」の写真を撮影。「国指定史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。東京湾内湾口を防御する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防御が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。築造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。」「東京湾要塞とは日本で初めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一砲台・第ニ砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年( 1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。」日本遺産千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミューシアム」のサテライト施設でもあります。千代ヶ崎砲台の構造千代ヶ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2門すっ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。利用場の注意等・公開日 土・日・祝(ただし、12月29日~ 1月3日は除く)・公開時間 9時30分~ 16時30分( 3月~9月) 9時30分~ 15時30分( 10月~ 2月)・史跡内は足元が悪いところがありますので、ご注意ください。・公開工リア以外の場所は、危険なため立ち入りを禁じます。・史跡は国民共有の財産です。構造物を傷つけることや、地面の掘削をすることは禁じます。・地下施設の内部は、市教育委員会認定ガイドと同伴のツアーのみ見学でき、許可のない 立ち入りは禁じます。再チャレンジを期し、引き返す。下り坂から浦賀湾入口の「横須賀市鴨居2丁目」の住宅街を見る。さらに下ると、眼下に「川間ドック跡」が見えた。白い高層マンションは「ヴェラシス浦賀1番館~3番館」。突き当りを右に折れ、「燈明堂200M」に向かって進む。右側には公衆トイレも設置されていた。そして「横須賀市指定史跡 燈明堂跡」に到着。横須賀市西浦賀6丁目。左手奥には石柱、石碑が。「名号碑(題目供養塔 )」 天保11(1840)年7 月建立 。角柱、高さ台座を含め約4m。前面:南無妙法蓮華経右側面:「一切業障海」「皆従妄想生」左側面:「衆罪如霜露」「恵日能削除」 (海のように広がっている悟りの邪魔になるすべての悪行は、皆正しくない考えから生まれる。 多くの罪は霜や露のようなものであり、あたかも太陽の光が万物を均等に照らし、霜や露を 消し去るように、仏の知恵はすべてにわたって、広く一切の生物の上に行きわたり、その 生物が犯した全ての罪を消滅する。)と。裏面:干辰天保十一歳次庚子七月中浣八鳥願主 東耀山 日鳴(花押) 法界平等・・・松崎屋與兵衛台座前面:「海上安全」 廻り込んで正面から。「千代岬瘞骨(えいこつ)志碑」。浦賀奉行浅野中務少輔長祚(ながよし)が嘉永二(一八四九)年二月に建立した碑。「千代岬台場建設中に出土した人骨を供養したもので、弘治二年(ー五五六)十月に房州から攻め入った里見氏と小田原北条氏との合戦の戦死者と推測される」と記されていますが、この付近で合戦があったとする記録はなく、確たる資料も見当たらないと。 そしてこちらは「地蔵菩薩像」燈明堂付近はかつて浦賀奉行所の処刑場だったといわれ、首切場とも呼ばれた。地蔵菩薩像は、死者を供養するために建立された、物流の拠点として栄えた浦賀の回船問屋などが海難者を供養するために建てたというニつの説があるとのこと。天保11(1840)年10 月建立丸彫、像高さ 71 ㎝、基壇高さ 142 ㎝基壇前面:種種重罪三逆消滅 自他平等即身成佛(観音経秘鍵偈・観音経の秘密の奥義、経などの 中に韻文の形で仏の徳を賛嘆し教理を述べたもの)基壇右側面:天保十一庚子年十月 東福寺祥麟(花押)基壇左側・背面に発願元、願主、世話人など 90 名程の名がある。「燈明堂とその周辺慶安元年(一六四八)幕府の命でつくられた日本式の灯台である燈明堂は明治五年(一八七二)までその役割を果たしました。燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ外国船に備えました。平根山台場は天保八年(一八三七)日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。ここから海岸線沿いに海に突き出た所には幕末期に、千代ヶ崎台場がつくられました。燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「幕末期の燈明堂周辺の絵図」。南側の海岸線を見る。ズームして。「浦賀水道」越しに房総半島の山々を見る。上総湊~浜金谷方向を望む。「燈明堂」に向かって狭い遊歩道を進む。「燈明堂にようこそ」燈明堂跡及び周辺地域 昭和43年2月10日指定燈明堂は慶安元年(1648年)から明治5年(1872年)まで、浦賀に出入りする船の安全を守った燈台です。この史跡を郷土の宝として、また歴史の学習や憩いの場として活用し、私たちの子孫に受け継いでいくために、次のことを守ってください。・・・以下 略・・・この史跡は、燈明堂跡とその周辺の土地を指定しています。指定地内には、築造当時から残る石垣とその上に復元した燈明堂のほかに、3基の石碑が建立しています。①地蔵菩薩像供養塔 天保11年(1840年)建立 死者を供養する碑で、台石左側面から裏面には世話人願主名が記されています。②題目塔 天保11年(1840年)建立 大きく「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれた碑です。③千代岬瘞骨(えいこつ)志碑 嘉永2年(1849年)建立 碑文には千代ヶ崎台場の工事中に出土した人骨を埋葬したこと、その他に北条氏と里見氏の 合戦による戦死者ではないかと推測していることが記されています。 横須賀市教育委員会」「燈明堂」位置図。浦賀湾越しに東浦賀2丁目方向の街並みを望む。その右側には「かもめ団地」。そして「燈明堂」。横須賀市西浦賀6丁目46番地。「横須賀市指定史跡燈明堂跡(浦賀燈明堂) 昭和43年2月10日指定」復元なった浦賀燈明堂の建つ、この場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた燈明堂跡地である。燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安元年(1648)幕府の命によって、幕史石川文左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。石垣を土台にして、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に、金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に、灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2km)に達したという。当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に、浦賀奉行に所管替えとなり明治になり、神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは、徳川幕府が賄っていたが、同四年から、東浦賀の干鰯問屋が、一切を負担するようになった。明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって、1日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で、極めて貴重なものである。建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある、大きな石で、高さ約1.8m、幅3.6m、四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。燈明堂跡は、大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の粋を結集して、当時の姿そのままに復元された。 (起工 昭和63年10月、竣工 平成元年3月) 横須賀市教育委員会」上記の本文では、この燈明堂は“灯心百筋と菜種油一升"と記載されていたのですが、本来は干鰯問屋が干鰯を作った時に出て来る魚油が正しいのだとのネット情報もあったが・・。「燈明堂復元北西立面図」。□3m☓高さ7.321m と。燈明堂の先には岩場が拡がっていた。岩場上から松の樹に囲まれた「燈明堂」を見上げて。岩場を移動して「燈明堂」を振り返る。ズームして。山から突き出たこの構造物は?神奈川県立観音崎公園の「戦没船員の碑」の先端が見えたのであっただろうか?浦賀水道を巨大な貨物船が航行。RORO船 「 第三はる丸 」 ( 大王海運 )か。RORO船👈️リンク のROROとは「Roll on Roll off」の略で、直訳すると「乗せて降ろす」を意味します。RORO船は今、2024年に懸念されている物流問題の対策として、注目されている存在なのだ。「RORO船」と小型船が行き交う。再び岩場越しに「かもめ団地」をズームして。千葉県君津市にある日本製鉄㈱の東日本製鉄所をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2024.05.17
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「ペリーのおいたちマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は、1794年4月10日、ロード・アイランド州ニューポートで生まれました。活発な少年時代を過ごし、わずか15歳で、海軍士官候補生となりました。20歳の時、ジェーン・スライデル( Jane Slidell)と結婚し、暖かい家庭と子供たらに恵まれました。日本遠征から帰国して数年後、1858年3月4日、ニューヨークで亡くなりました。63歳。」「ペリー着用のモール、ボタンと指輪の複製」。「ペリーの生い立ち」コーナー。「ペリーが生まれ育った家」マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督は、1794年にロードアイランド州ニューポートで海軍軍人の三男に生まれた。「ペリーが娘イザベルにあてた手紙(1843年9月6日)」「日本へ来る10年前、船上で書いた娘イザべルあての手紙には、やさしさあふれるペリーの慈父ぶりか読み取れます。家族への愛と、仕事に対する謹厳さか対照的です。」ロードアイランド州ニューポートにあるペリーの生家。ペリーが家族に送った手紙。娘に細やかにあれこれ書いて送っている。喧嘩するんじゃないよ、と。ここに描かれているのはまさしく一人の父親としてのペリー。子供は10人いるが、ペリーより早くなくなってしまった子供が3人もいる。父親としての悲しみはいかほどのものだっただろうか。「セント・ビンセント岬沖のサラトガ号艦上にて 1843年9月6日わが愛する娘イザベルよ。今日、わたしは、おまえのお姉さんのキャロラインへ短い手紙を書いた。同時に、イザベルおまえにも手紙を書いてあげたくなったよ。この手紙が届いたなら、二人ともすぐにお父さんに返事を出しておくれ。お願いするよ。お兄さんのウィリアムが、いつもやっているように、手紙を出すチャンスがある時にそなえて、おまえも日記のようなものを作っておくとよい。なぜかといえは、おまえはいつもお母さんの手伝いで忙しいとおもう。たぶん、手紙を書く時間があまりないだろうから。また、お母さんや叔母さんたちの言いつけをよく守り、一生懸命に勉強しなさい。おまえは、お母さんといっしよに庭の手人れをし、果樹の植えかえを手伝いなさい。それからもうひとつ、庭に植えてあるマテ茶やブドウの木の手入れをやってくれているでしょうね。ウィリアムとともに、イザベルと家族全員に心をこめてこの手紙を送る。わたしの最愛の娘に幸せあらしめ給え。 おまえの愛する父 M.C.ペリー追伸、キャロラインが寄宿学校から帰ったなら、おまえは、かんしきゃくを起こして、けんかなどしてはいけない。姉さんが気持らよく過ごせるようにしてあげなさい。おまえたち二人が、お父さんと兄さん、そして、甥のオリバーや寄宿している姉妹たちのために、毎日お祈りすることを忘れないで欲しい。」「ペリー提督の子供達」。来航から開国に至るまでの変遷を床に描いた、子ども向けの「すごろく」が床面に。映像展示「ペリー上陸の日を描いた絵図」。「米国国書受領之図」〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉ペリーの久里浜上陸を南側から描いた絵図。絵図の上側には浦賀も描かれている。「日本側が描いたペリーたち」。映像展示の横にペリー胸像。近づいて。「特派大使・東インド艦隊司令長官マシュー・カーブレイス・ペリー 1794~1868」「ペリーを支えた部下たちペリーは、すぐれた指導者でした。しかし、遠征の艦隊と乗組員2,000名を動かすためには、有能な部下が必要でした。旗繿の艦長F.ブキャナンやH. A.アダムス参謀長は、事前交渉の役目以外に、ペリー上陸時の警備をしました。さらに、S. W.ウィリアムズ、A. L. C.ポートマンは、大事な通訳をこなしました。これらの人々の努力の結晶が、日本の開国を早めたのです。」下部は「ペリーと乗組員たちを描いた絵巻物」。「日本人の見たペリー瓦版のなかには、ペリーたちを想像で描いたものもありました。これらの瓦版は、浦賀や久里浜から遠く離れた村の人々にまで読まれました。」近づいて。さらに。「企画展示 開國百年記念祭」「企画展示 開國百年記念祭ーペリー来航がつなぐ久里浜と日米友好の歴史ー1953年、ペリー来航から100年になるこの年、横須賀市・アメリカ海軍は盛大な記念式典を行いました。展示物は当時の様子を写した写真、作られた記念品等となります。多くの市民、米軍関係者が参加し、当時の熱狂ぶりが伝わります。開国百年記念祭は当時の劇作家「永田衡吉」を構成・監督とし、人気演劇学者であった「河竹登志夫」らを演出に迎え、執り行われました。当時の首相であった吉田茂が構想を練ったとも伝えられています。1953年(昭和28年) 7月26日、来航・上陸などを再現した劇や、国旗掲揚などの記念式典、周辺のパレードなどが盛大に行われました。劇の出演者は、外国人役は米軍の関係者、日木人役は役所の人間が出演したと言われています。(記念祭内容)記念碑正面から砂浜と海上を使い、号砲・花火、狼煙(当時の連絡を再現)、国書受渡しの劇、国旗掲揚の式典、ミンストレルショー(ペリー来航時に披露された出し物)の再現、市民が参加して黒船音頭などが行われました。」「開國百年記念祭」の様子。「ペリー来航開国百年 記念館建設協賛シール」1953年の記念祭で記念館協賛のため作られた。「日米百年祭」記念絵皿。「開国百年記念祭発行パンフレット 1953年アメリカ政府発行」。三浦半島のジオラマ地図もあった。このペリー公園・ぺリー記念碑があった。近づいて。左手に「剣崎」その先に「城ヶ島」。「戸田伊豆守の胸像」、「すごろく」を振り返って。「横濱開港新聞 創刊号 嘉永7(1584)年3月3日」「資料集『記念碑の知識』記念碑の除幕式です●記念碑建設委員会アメリカ退役海軍少将ビィアズリーの演説を受けて、政治家の金子堅太郎、星亨、山口熊野、菅原傳、東京府知事、帝国大学総長を歴任した渡辺洪基、外交官の長崎省吾、機浜商業会議所(後の横浜商工会議所)会頭の大谷嘉兵衛、銀座で日本を代表する煙草商の、江添商店・江添廉三、電話技術をアメリカから持ち帰った電気技術の加藤木重教、日本郵船の副社長もつとめた伊藤米次郎、など10人が米友協会から選出され、「記念碑建設委員会」が組織されました。そして、明治33年(1900年)12月5日にはビィアズリー氏をはじめ、設立委員が久里浜を訪れペリー上陸地の見分を行い、久里浜字大濱に「嘉永六年米国水師提督被留理氏上陸地記念碑」と題した木標(六寸角)を立てました。碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の筆によるものです。除第式は明治34年(1901年) 7月14日、べリーの上陸と同じ日に行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、個人として榎本武揚や徳川家達、アメリカからビィアズリーやべリーの孫にあたるロジャーズ少将等、総数約1,000人で、久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど、盛大な式となりました。●記念碑の基礎知識記念碑の大きさは高さ4.5メートル、幅2.4メートル、重さは11.4トンに及びます。素材は仙台産の花崗(かこう)岩で、碑の台石は、相州産:根府(ねぶ)川石となっています。刻まれている文は伊藤博又の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と書かれています。碑又を彫刻しを石工は、横浜の横溝豊吉氏。碑の字画は鮮明で、伊藤の筆勢をよく表し、特に、裏面の英文は除幕式に参列したアメリカ人からも称賛されました。また、碑文には「紀念碑」と表記されていますが、本文中では「記」の文字で統一しています。*広辞苑で、記念は「紀念」とも書く、と説明されています。」●引き倒された記念碑日米親善の象徴となった上陸記念碑ですが、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦以降、アメリカに関係するもを性のものと憎まれ、記念碑にも矛先ガ向けられました。昭和19年(1944年)こは横須質市の翼賛壮年団を中心として、碑を粉砕して道路に敷こうという運動が起きました。これには軍人である鎮守府長官も『記念碑には罪はない!』と、とりあわなかったそうですが、ついに県知事の許可と受けて、昭和20年(1945)2月8日、碑は大綱を掛けられ引き倒されました。そのあとには「護国精神振起之碑」の木柱がたてられました。これは、評論家の徳富蘇峰の筆によるもので、後に石碑に代える予定でした。ところが半年後の8月15日に終戦となり状況は一転し、粉砕されずに残っていた碑は11月に復元されました。以後、この碑の前で毎年7月に横須賀市がペリーの上陸を記念する式典を開催しています。」●現在のペリー上陸記念碑昭和62年(1987年)5月1日に、市制80周年を記念して、ペリー記念館が開館しました。寄贈された黒船の模型や、上陸にまつわる貴重な資料が展示されています。」そして「ペリー記念館」を後にして、「ペリー公園」の西角に向かう。そこにあったのが「ぺるり上陸の地」碑。そして「ペリー上陸記念碑」の後ろ姿を再び。時間は13時。「久里浜~金谷フェリーのりば」案内板。「横須賀くりはま花の国」ポスター。「ポピー&ネモフィラまつり」ポスター。2024.4.6~5.26にて「横須賀くりはま花の国」にて開催中と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.16
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2階展示もあるので、階段で上がる。その途中にも所狭しと、貴重な資料が展示されていた。「ペリー記念館 掲示板」さまざまな「よこすか海軍カレー」が並んでいた。階段の壁に掲載された久里浜を写した写真を追う。「久里濱の風光」久里浜海岸と住吉神社。久里浜沖のアシカ島灯台。ペリー上陸記念碑とペリー一行の上陸の光景。ペリー提督の肖像とアメリカ本国から乗ってきたミシシッピー号。日本にやってきたペリー提督は、江戸幕府に沢山の土産を持って来た。ペリー提督から献上された汽車模型の図。「米利堅人饗応之図(複製)」。米利堅人饗応之図中の幕府へ献上した蒸気機関車模型の図。本物の蒸気機関車の1 / 4サイズで、動く蒸気機関車としては日本で初めて走った蒸気機関車として知られている。ミシシッピ号。「THE NAVAL AND MAIL STEAMERS OF THE UNITED STATES(複製)1955年ペリーを乗せて来航したミシシッピ号」。「黒船がやってきた!日本は.江戸幕府の支配のもとに、長い太平の世を過ごしていました。外国から見ると、それは「鎖国」でした。しかし、18世紀末から日本近海には、諸外国の船がたびたびやって来るようになりました。かれらは、通商と国交の開始を求めました。当時、世界は、大きく変わろうとしていました。欧米諸国は、アジアに工業原料を求め、そして、自国で生産された商品を売り込もうとしていました。」「ペリー立像の図」「アメリカの貿易と日本」「東洋へ進出するアメリカ独立して百年にもならない若いアメリカは、ヨーロッパに比べて、アジアの進出に出遅れていました。1818年、太平洋岸のカリフォルニアまで領土を伸ばしたアメリカは、蒸気船を利用すれば、20日間で中国大陸へ到達することが可能になりました。太平洋を越えて、中国の茶と生糸を輸入し、ボストンなどで生産された綿製品を輸出する仕組みができたのです。日本は、アメリカと中国を結ぶ中間に位置していました。ペリーに代表されるアメリカの開国要求の目的は、ここにありました。」「瓦版と庶民の目ペリーに直接会えない庶民は、想像をたくましくしてアメリカ人を描きました。まったく間違いの描写もありますか、よく見ると、正しい地理の知識も含まれています。」黒船来航を伝える当時の瓦版.吉田松陰は1854年、ペリーが再来航したときに、海岸にあった漁船で旗艦に漕ぎ寄せて乗船した。そこでアメリカへの渡航を請願するものの、拒否されて願いはかなわず、下田奉行所に自首して投獄されたのであった。ペリー来訪の絵。横浜にて応接の図幕府からペリー一行への贈答品が記されている。横浜での交渉場面を描く。中央でひざまずく人物がペリー提督。向かい合わせで描かれた武士像は、幡や陣幕の紋は力の象徴であった源為朝を連想させ、武士にひざまずくペリーの姿は、日本の武威に従う異国という対外認識を示している。世界六大州ノ内北あめりか州ハ日本の東に当りて海上五千里ヨと云開闢より千八百五十四年独立建国して七十七年に相成日本嘉永六年六月合衆国の王「ふりしてんとくの命を請けて官差大臣提督まつちうせへるりと云書簡を持相州浦賀表へ渡来す又御願筋の義ニ付同七年正月十七日浦賀表へ来る同廿二日対顔ニおよふ左之一机 一料紙硯一花入 一火鉢 広蓋 一置物一吸物椀六百人前 一羽二重二十疋一紋縮緬五疋 一板メ縮緬五疋一大根 八百本 一にんじん五百本一ねき 七十把 一菜四百把一蜜柑 七箱 一鶉五十羽一玉子 千 一上菓子六箱一鶏 三百羽 一米二百俵但し五斗入使節へ一羽二重五疋 一板メ三疋一紋縮緬二疋船将九人へ一羽二重三疋ツ 一板メ二疋ツツ通弁官へ一板メ三疋ツツ●下方民之悦一右之品々二月二十二日於浦賀表天下大平之御代而是被下●「あめりかことば和解の写」。「戸田氏栄(とだ うじよし)胸像」、その前の床の「すごろく」を見る。戸田氏栄(とだ うじよし)胸像。戸田氏栄(とだ うじよし、寛政11年(1799年) - 安政5年8月21日(1858年9月27日))は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は従五位下・伊豆守。知行は500石。浦賀奉行としてマシュー・ペリー来航時の折衝役となった。大垣戸田家の分家、深坂戸田家6代当主である。「使節応接役・浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ・いずみのかみ・うじよし 1799~1858)」今にも言葉を発しそうな顔!!「ペリーの久里浜上陸」絵図。「ペリーの久里浜上陸1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、江戸幕府は、大統領フィルモアの親書を受け取るため、久里浜にペリーを迎える応接所を建てました。」「ペリーが会見場に臨む様子 画:尾形月山」。「1853年7月14日ペリー上陸直前に描いた絵巻物」。「アメリカ人久里浜上陸の図」。「ペリーの外交術ペリーの日本に対する態度は、以前に渡来したアメリカの艦隊の場合とは、全く違っていました。特派大使として、交渉の権限を持った外交官僚以外と会うことを拒否したのです。確固たる態度と自信。それが、日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです。ペリーは、無理押しせずに、大統領フィルモアの親書に対する返事を直ちに要求しませんでした。しかし、再度来航の時に備え、江戸湾の測量を怠りませんでした。」「横浜応接所に決定翌年2月(永7年1月)、ペリーは、再び江戸湾に現れました。予定されていた浦賀の応接所を横浜に変更させました。そして、ここで日米和親条約か結ばれました。」「1854年横浜沖に停泊する艦隊を描いた絵巻物」「1854年当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物」。艦隊移動の様子ペリー初時の浦賀奉行所と幕府の対応嘉永6年( 1853年)6月3日(7月8日) ペリー艦隊4隻浦賀沖来航、与カ中島三郎助・通訳の堀達之助がサスケハナ号に 乗り込み交渉6月4日(7月9日) 与カ中昌三郎助に代わって、浦賀奉行を演じた与カ番山栄左衛門が交渉6月6日(7月11日)ミシシッピー号江戸湾侵入し短艇を使い湾内調査・測量を行う、番山栄左衛門が 抗議し引き返す。同日、江戸城大広間にて大評定が開かれ国書受領が決定される。6月7日(7月12日) 香山栄左衛門、久里浜てのアメリカ大統領の国書を受け取りを伝える6月9日(7月14日) ペリー久里浜に上陸、国書授受の儀式、アメリカ大統領の国書受理6月10日(7月15日) ペリー艦隊、江戸湾内を北上、ミシシッピ号が羽田沖まて侵入6月11日(7月16日) ペリー艦隊、小柴沖停泊6月12日(7月17日) ペリー艦隊 帰帆 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.15
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そして「ペリー記念館」を訪ねた。「ペリー記念館」では、ペリー来航に関する歴史的資料や模型などが展示され、当時の絵巻物や瓦版などから、人々の驚きや動揺を知ることができるのであった。記念館は、ペリー来航という歴史的事実や、その意義を将来にわたって伝えてい行くのだと。横須賀市久里浜7丁目14。「ペリー記念館」案内。「入館案内■開館時間 9:00~16:30■休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合 翌日)」■入場無料」館内入口右にあった「ペリー提督像」。近づいて。「ペリー上陸の地~久里浜 黒船来航170周年」ポスター。ペリー率いる黒船艦隊が初めて浦賀沖に来航したのは1853年7月8日。昨年は黒船来航170周年であった。 横須賀市久里浜にはペリー上陸記念碑や記念館、開国橋など黒船に関連した建造物等が多く存在し、また久里浜港 はみなとオアシス“ペリー久里浜”として国土交通省に認定されている。 さらには古くから黒船初来航のまちとして、毎年 7 月に“久里浜ペリー祭”も盛大に行われている。 この度、黒船フェリーを令和5年11月22日から運航することにより、横須賀を“黒船初来航の地”として広く周知し、横須賀市・地元観光協 会・地元商店街とともに観光活性化を図ったとのこと。 千葉・金谷を定期運航する「しらはま丸(3,351トン・旅客定員 680 名)」の船体を、黒船(サスケハナ号) に模したラッピング施工を行ったと。ユニークなラッピング!!船体の左右舷 黒船サスケハナ号の`蒸気外輪`を模写 …横須賀 久里浜⇔南房総 金谷/東京湾フェリー/(しらはま丸) と館内受付。受付で館内撮影可を確認。受付には入館者用の名簿が置いてあり、日付と名前を書くだけなので、すみやかに記入を済ませた。展示品配置図。横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。ペリー来航と開国の歴史を広く伝えるため、当時の様子が分かる貴重な資料などを展示していた。そして展示コーナーへ顔出しパネル「ペリー上陸の地 久里浜」。ホールの奥には、当時の黒船来航を再現したジオラマ模型が展示されていた。模型でも威圧感が伝わって来たのであった。「ペリーと黒船(ジオラマ)」。「1853年にやって来た4隻の黒船●蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦 艦長 F.プキャナン 全長 257フィート 2,450トン 大砲6門●蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI 艦長 S.S.リー 全長 225フィート 1,692トン 大砲12門●帆 船 プリマス号 PLYMOUTH 艦長 J.ケリー 全長 147フィート 989トン 大砲4門●帆 船 サラトガ号 SARATOGA 艦長 W.S.ウォルター 全長 150フィート 882トン 大砲4門」移動してジオラマを見下ろす角度で。反対側から。中央に後に訪ねた「燈明堂」、右に「浦賀奉行所跡」、左奥に「久里浜湾」。「蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦 艦長 F.プキャナン中佐、乗組員 300名 全長 257フィート(78.33m) 重量 2,450トン 、大砲6門」「蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI 艦長 S.S.リー中佐、乗組員数 268名 全長 225フィート(68.58m) 重量 1,692トン 、大砲12門」「帆 船 プリマス号 PLYMOUTH 艦長 J.ケリー中佐、乗組員 210名 全長 147フィート(44.81m) 重量 989トン 、大砲4門」「帆 船 サラトガ号 SARATOGA 艦長 W.S.ウォルター中佐、乗組員数 210名 全長 150フィート(45.72m) 重量 882トン 、大砲4門ペリー来航の歴史案内。「鎖国後の日本1603年(慶長8年) 江戸幕府を開く 1639年(寛永16年) 鎖国が完成する 1853年(嘉永6年) ペリー艦隊 浦賀に来航 1854年(安政元年) 日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ1856年(安政3年) ハリス下田に着任 1858年(安政5年) 各国と通商条約を結ぶ1860年(安政7年) 勝海舟 咸臨丸で太平洋横断1868年(明治元年) 明治維新(江戸を東京とする)1894年(明治27年) 日清戦争がおこる1901年(明治34年) ペリー来航記念碑完成1904年(明治37年) 日露戦争がおこる1914年(大正3年) 第一次世界大戦( ~ 1918年)1931年(昭和6年) 満州事変がおこる1937年(昭和12年) 日中戦争がおこる1941年(昭和16年) 太平洋戦争がおこる( ~ 1945年)1956年(昭和31年) 日本が国際連合に加盟するペリー艦隊 来航略年譜1852年(嘉永5年) 11月24日 アメリカ ノーフォークを出航1853年(嘉永6年) 5月23日 中国・香港を出航 7月2日 沖縄・那覇を出航 7月8日 浦賀沖に到着 7月14日 久里浜に上陸(国書を渡す) 7月17日 江戸湾を退去(香港へ)1854年(嘉永7年一安政元年) 1月14日 香港を出航 2月13日 横浜・小柴沖に来航 3月8日 横浜村に上陸 3月31日 神奈川条約締結 4月14日 伊豆・下田港開港(ペリー寄港) 5月17日 北海道・函館港開港(ペリー寄港) 6月28日 日本を退去 香港へ 香港集結後 各船 単独帰国 9月11日 ペリー提督 蒸気船ヒンドウスタンにて 単身帰国(疲れと持病<リウマチ>の悪化の為)」神奈川条約 下田条約の違い神奈川条約1854年(嘉永7年)神奈川・横浜に於いて日米和親条約(神奈川条約)が締結 下田と箱館(現函館)の開港が決まるペリー率いる黒船が続々と下田に入港し了仙寺はアメリカ使節の接待所 兼徳川幕府川との交渉場所となった第二条伊豆田の下田港と松前領の箱館港は、アメリカ船舶の受け入れ港として、日本人に許容されるものとする。この2港においては、日本人がそれを有する限り、薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。下田港は本条約調印のうえ即時開港し.箱館は日本暦の明年同日以後、即時開かれるものとする。ただし、提供すべさ物品の値段表は日本役人から渡され、その支払いは金貨または銀貨をもって行われるものとする.下田条約1856年(安政2年)伊豆下田・了仙寺に於いて日米和親条約付録(下田条約)が締結されアメリカ人の日本に於ける規則というものが出来た日本で初めて外国人が自由に町中を歩けた 日米の異文化交流の歴史は下田から始まった2年後下田に初代アメリカ駐日領事ハリスが来て日米の付さ合いの歴史が始まったアメリカ人の移動可能範囲は下田より7里 函館より5里四方に限り武家・町家に立ち入る事を禁ず アメリカ人に対する暫定的な体息所として了仙寺、玉泉寺に置き米人墓所は玉泉寺に置くアメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず」「ペリー来航に関係した人々戸田伊豆守 氏栄(奉行) (1799 ~ 1858 ) 美濃(岐阜県)駿府町奉行 日光奉行を経て1847年(弘化4年) 2月 浦質奉行になる幕府の旗本 禄高5000石ペリー来航時 ペリー提督よりアメリカ大統領フィルモアの国書受け取る井戸石見守 弘道 (奉行) (? ~ 1855)生い立ち はっきりした記録なし幕府・大目付海防掛けを経て1853年(嘉永6年) 4月 浦賀事行になる禄高 3005石 ペリー来航時 在府浦賀奉行として江戸に居た浦賀に帰り戸田伊豆守の補佐として接見した中島三郎助(与カ) (1821 ~ 1869)浦賀の役宅で生まれる海防に関心か強く洋式砲術の評価が高い 軍艦(蒼隼丸)を建造 大砲を乗せるペリー来航時 通訳堀達之助と最初にサスケバナに乗り込み交渉の立役者にな「外国との付き合いはなく外国船は長崎(出島)へ行くよう」「長崎なら外交交渉が出る」事をペリー提督に伝えた」香山栄左衛門(与カ) (1821 ~ 1877) 遠州・新宮生まれ|15歳で浦賀奉行所与カ 香山堅兵衛の養子になる中島と義兄第(妻同士が姉妹)ペリー来航時中島の紹介によりニセ浦賀奉行として交渉にあたるペリー側の信頼が高く54年横浜の交渉にも参加する堀達之助(通訳) (1823 ~ 1894) 長崎オランダ通詞家の5男1848年漂着した捕鯨船員「マクドナルド」から日本で初めて「英語」を学んだペリー来航時中島三郎助がサスケハナを訪れた時 通訳として同行語学の評価が高く54年日米和親条約の和解(和訳)にもあたる」ペリー来航までの外国艦隊の主な来航1792年(寬政4年) ロシア使節ラクスマン 根室へ寄港 1796年(寬政8年) イギリス人・プロートン 室蘭に寄港1804年(文化元年) ロシア使節レザノフ 長崎へ寄港1808年(文化5年) イギリス船フェートン号事件(長崎にオランダ船に偽装し入港) 1818年(文政元年) イギリス船プラザース号 浦賀に来航1822年(文政5年) イギリス捕鯨船サラセン号 浦賀に来航1825年(文政8年) 幕府異国船打ち払い令を出す1837年(天保8年) アメリカ船モリソン号 浦賀に来航(砲撃により退去させる)1842年(天保13年) 幕府 異国船打ら払い令を緩和→天保の薪水給与令に改める1844年(弘化元年) オランダ軍艦マンハッタン号 長崎へ(国王・開国勧告)1845年(弘化2年) アメリカ捕鯨船マンハッタン号 浦賀に来航1846年(弘化3年) アメリカ、ビットル提督(軍艦2隻 ) 野比沖1849年(嘉永2年) イギリスマリナー号 浦賀に来航1852年(嘉永5年) ロシア船 下田に来航1853年(嘉永6年) アメリカ、ぺリー提督 黒船艦隊4隻 浦賀に来航」「ペリー上陸記念碑 建立から現在(平成23年)」1900年(明治33年)10月 艦隊に乗り組んでいたビアズリー退役海軍少将来訪 11月 ビアズリー氏 米友協会の招待を受けスピーチを行う。 満場の会員に感銘を与える 久里浜建碑の件 満場一致で決定1901年(明治34年) 6月 米友協会代表 金子堅太郎氏2万円の建築基準を集める 7月6日 記念碑完成 記念碑概要 記念碑 材料 仙台産花崗岩 高さ 15尺(4.5m) 幅 8尺(2.4m) 厚さ ー尺2寸(0.4m) 重量 10屯余り 貴台 材料 根府川石 高さ 18尺(5.4m) 幅 11尺(3.3m) 厚さ 5尺(1.5m) 重量 6屯余り 総高 33尺(10m) 費用5000円 文字 北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑 書 大勲位侯爵 伊藤博文 石工 横浜 日ノ出町 横溝豊吉 ※ 再建後の現在は総高8.68m ※」ペリー提督の写真。「マシュー・カルブレイス・ペリーアメリカ海軍の軍人、江戸時代末期に開国を迫るため4隻の艦隊を率いて日本に現れた。」「1901年(明治34年)、米供協会の手によって、開国ゆかりの地にペリー上陸記念碑が建てられました。ペリーの果たした役割と人物像を紹介するために、この記念館がつくられました。」「泰平のねむりをさますじょうきせん(上喜撰 お茶の銘柄) たった4杯で夜も寝られず作者 老中 松平下総守」「ビッドル提督 来航1846年5月27日野比海岸数キロ沖に停泊インド隊切令長官ビッドル提督コロンバス(軍艦)ビンセンス(軍艦)来航の目的政府の公的使節として日本政府との通商を求める幕府はビットル提督の申し人れを拒否6月7日艦隊は野比沖を離れるビッドル艦隊は武器 乗員とも桁外れの大船だった幕府は鎖国政策の一環(大船建造禁止)を廃止*ビッドル提督来航1846年5月27日 (ペリー提督来航の7年前)*ペリー提督来航1853年7月8日」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.14
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そして、「ペリー公園」に到着。「ペリー公園」はペリーの上陸を記念して作られた歴史公園で、園内にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館などがあり、歴史的資料やジオラマなどを展⽰していたのであった。⽇本の歴史公園100選にも選ばれている、ペリーの久⾥浜上陸を記念して作られた歴史公園。園内にはペリー記念館、ペリー上陸記念碑および記念碑広場、児童広場があり、約250本の松の緑の向こうに久⾥浜の海と⻘い空が広がる⾒事な景観も魅⼒。横須賀市久里浜7丁目14。「ペリー記念館」案内板。入館無料、開館9:00~16:30。休館日 年末年始、月曜日(祝日の場合、翌日)「ペリー公園」内に入ると、正面に巨大な「ペリー上陸記念碑」が迎えてくれた。「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 ペリー上陸記念碑」「ペリー上陸記念碑物語」案内板。「ペリー上陸記念碑物語長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。参考 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており 碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会」「ペリ-公園」案内図。ズームして。「ペリー上陸記念碑」に近づいて。記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石 と。手前に「錨のモニュメント」が。石碑には「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」と。1901年の建造、と。「大勲位矦爵伊藤博文文書」の文字が。ペリーは「伯理」と漢字表記されていた。これは伊藤博文の筆によるもの。1900年伊藤博文が名誉会長を務める米友協会(アメリカに留学経験や居住経験のある日本の人士が結成した交流組織)の式典で、退役海軍少将レスター・ビアズリーが「ペリーが上陸した久里浜の地に記念するモノが何もないのはいかがなものか」と苦言を呈した。ビアズリーはペリーとともに少尉候補生として久里浜に上陸した人物で、47年ぶりに久里浜を訪れていた。日本側からすれば「黒船が勝手にやって来てしょうがないから開国してやっただけなのに・・・」というのが本音だったのかも知れませんが、米友協会が中心になって記念碑建造に奔走し8か月で完成にこぎ着けた。除幕式典は、当時の桂首相や閣僚ら日米の関係者約1000人が参列する壮大なものとなった。もちろんビアズリーも参列した。ちなみに太平洋戦争中1945年2月には、「国辱的記念物」だとして記念碑が引き倒されるという受難に遭った。記念碑を当時のアメリカ大統領ルーズベルトに例え、「ルーズベルトの首を叩き落してやったぜ」と書いた猛々しい新聞もあったと。日本軍部はもともと「いや記念碑に罪ない」と取り合わなかったそうですが、戦局の悪化する中で愛国心溢れた民衆の声を聞き入れたパフォーマンスに頼らざるを得なくなったようです。もはや末期症状ですが・・・。戦後すぐの46年初には、アメリカ占領軍に見つかったらマズイということで、そそくさと復旧されました)とネットから。台座には「MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODOREPERRY U.S.N.MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM」と英文で。「ペリー来航図アメリカ海軍東インド艦隊4隻を率いるペリーは、大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港した。」「1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。」と。大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港。「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」の裏面には「嘉永6年6月9日上陸 明治34年7月14日建之THIS MONUMENTCOMMEMORATESThe First ArrivalOFCOMMODORE PERRY,AMBASSADOR FROM THEUNITED STATES OF AMERICAWHO LANDED AT THIS PLACEJULY 14,1853ERECTED JULY 14.1901.BYAMERICA’S FRIEND ASSOCIATION」と。「この記念碑は1853年7月14日、アメリカ合衆国大使のコモドール・ペリー提督がこの場所に初上陸したことを記念して建設する1901年7月14日 AMERICA'S FRIEND ASSOCIATION」アメリカから寄贈された?錨のモニュメントであろうか。「「泰平のねむりをさます・・・」の歌碑」。「泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」。「じょうきせんの碑江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。この驚きを端的に表現したのが、この落首である。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。 平成ニ年七月 横須賀市」「ペリー公園」碑。記念碑の手前に立つ石碑。1935年に「伯理記念碑保存会」という組織によって建造されたもの と。「北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ継ギ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトトナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス昭和十年二月ニ日神奈川縣廳内 伯理記念碑保存會」「KANEKO PINETHIS TREE PLANTEDBYVISCOUNT KANEKOJULY 14TH 1901かねこ松米友協会会長子爵金子堅太郎氏手植松明治34年7月14日」「RODERS PINETHIS TREE PLANTEDBYREAR ADMIRAL RODERSJULY 14TH 1901ろぢあーす松 米海軍少将 ろぢあーす氏 手植松 明治三十四年七月十四日」「文化財説明板」。「文化財説明板横須賀市指定重要有形文化財(歴史資料)ペリー上陸記念碑 1基この記念碑は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー提督(Matthew Calbraith Perry)が久里浜に上陸してから48年後の明治34年(1901年) 7月14日、米友協会(会長金子堅太郎)により建立された。総高は5.25m。碑前面「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」は初代内閣総理大臣伊藤博文(同会名誉会員)の筆による。建立の経緯は、明治33年(1900年) 11月こ開かれた米友協会式典で、ペリーとともに久里浜に上陸した退役海軍少将ビアズリーが、上陸の地に日米両国最初の接点を示す光景が無いことを語り聴衆に感銘を与えたことに始まる。早速、米友協会は記念碑建立を計画し、明治憲法起草に関わった法律家で政界にも影響力の大きい金子が尽力して国内だけでなくアメリカからも建設費用を募り、わずか8ヶ月で記念碑落成式を迎えることができた。こうして建立された記念碑によりペリー上陸の意義は伝えられていったが、太平洋戦争中には敵国を讃えているとして引き倒されたことがある。しかし、終戦後の昭和20年(1945年) 11月に復元され現在に至っている。この「ペリー上陸記念碑」は、日本の近代の幕開けを象徴すると同時に日米両国の国際関係の歩みを示す貴重な歴史資料である。平成19年3月12日指定横須賀市教育委員会 平成19年10月設置」「ハイネ画 ペリー久里浜上陸図」「ペリー上陸記念碑」を斜め裏から「ペリ-記念館」を背景に。そして「ペリ-記念館」に向かって進む。左側にあったのが「ペリーの出生地の記念石」。ペリーの出身地アメリカのロードアイランド州ニューポート市から友好の印として贈られた石。「Presented on 14 JulyDedication of Commodore Perry Museumby RADM James D.Cossey Commander U.S Naval ForcesJapan and Honorable Patrlck Kirby,Mayor of Newport昭和62年7月14日 寄贈ペリー准将博物館への献石在日米海軍司令官 ジェームス-D.ユッシー少将及びニューポート市長 パトリックカービー氏 これを贈る」「Commemorative Rock From Newport,Rhode Island,USABirthplace of Commodore Matthew C.PerryマシューC.ペリー准将の出生地である米国ロードアイランド州ニューポート市からの記念石」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.13
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さらに「久里浜」方向に海岸線を進む。左手にあったのが「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」。横須賀市長瀬3-4-1。鎌倉市を含めた横浜市、横須賀市、逗子市の4都市がここ横須賀市長瀬の横須賀市消防総合訓練センターで、中高層建物火災を想定した合同訓練が行われているとのこと。エピローグを迎えた桜並木の下を歩く。花びらが歩道上に舞い散って。左手にあったのが「国土交通省 国土技術政策総合研究所 横須賀庁舎」。国総研の横須賀庁舎においては、沿岸海洋、港湾、空港分野の研究開発を実施ししています。国総研で得られた研究成果は、港湾、空港等に関する政策の企画・立案や事業の実施を通じて広く社会や国民の皆様に還元されます と。「国土交通省 国土技術政策総合研究所 港湾空港技術研究所」。港湾空港技術研究所は、国土交通省所管の国立研究開発法人海上・港湾・航空技術研究所を構成する研究所である。港湾及び空港の整備等に関する調査、研究及び技術の開発を行っているとウィキペディアより。海岸沿いまで進むと、左手湾の先に「JERA 横須賀火力発電所」が見えた。横須賀市久里浜9丁目2−1。JERAは、東京電力ホールディングス傘下の東京電力フュエル&パワー(東電FP)と、中部電力とが50%ずつ出資し、燃料の上流開発・調達・トレーディング・輸送から、火力発電所の建設・運営までを手掛けるエネルギー企業である。JERAという社名は、Japan(日本)の頭文字、energy(エネルギー)の頭文字にera(時代)という語を組み合わせたものであり、「日本のエネルギーを新しい時代へ(Japan's Energy fora new eRA)」という意味が込められている。2023年6月30日に新1号機が、同年12月22日に新2号機が営業運転を開始した。新1号機 発電方式:汽力発電方式 定格出力:65万kW 使用燃料:石炭 蒸気条件:超々臨界圧(Ultra Super Critical) 熱効率:43.0%(高位発熱量基準) 着工:2019年8月[8] 営業運転開始:2023年6月30日[10]新2号機 発電方式:汽力発電方式 定格出力:65万kW 使用燃料:石炭 蒸気条件:超々臨界圧(USC) 熱効率:43.0%(高位発熱量基準) 着工:2020年4月 営業運転開始:2023年12月22日遠く房総半島の山々の姿が。海岸沿いには多くの岩場が顔を覗かせていた。そして大きな橋を渡る。下を流れる川は「平作川(ひらさくがわ)」。「平作川」。「平作川」の河口。「平作川」の上流を見る。延長は7.07kmとあり、そんなに長くはない河川である。平作川源流のひとつは大楠山〈これも三浦半島最高峰〉の東山麓、山林中にあり、また河川法上(?)の平作川本流源流は住宅地域の斜面からの湧水だったりするのだと。ほかにもいくつか支流が集まって中流部からは衣笠、久里浜などの市街地、住宅地を通り久里浜開国橋で河口、東京湾浦賀水道に出るのだと。橋の名は「開国橋」。橋名の由来はマシュー・ペリーによる黒船来航の際この橋の近くから上陸したためと言われている。久里浜港の埠頭には真っ赤な船「あかつき」が停泊中。「あかつき」が2018年8月、東京湾口で自力航行不能となったバハマ船籍の超巨大タンカー(VLCC)の救難/救出活動を行い、台風による被害の拡大を未然に防ぎ「日本海事新聞」で紹介されました。 サウジアラビアで原油を満載し東京湾に向けて航行しておりましたVLCC(載貨重量298,000㌧、全長333m、全幅60m)が、2018年8月に東京湾口でエンジン故障が発生し、自力航行不能に陥りました。おりしも大型の台風13号が関東に接近する中、サルベージ会社からの緊急要請に「(株)オフショア・オペレーション(以下OOC)」が応え、国内最大150㌧(ABS認定)の牽引力を誇る「あかつき」を急遽派遣し、第3管区海上保安本部の指示により遠州灘まで「あかつき」一隻で曳航し台風を回避、大規模災害を未然に防ぎました。その後、東京湾にて無事に原油を荷揚げし、中国舟山の修繕ヤードまで約一ヶ月間に渡る曳航を行いました とネットから。 「開国橋」を渡り終え、再び「平作川」の上流を振り返る。前方に見えたのが「久里浜海岸」。「ペリー通り」案内板。「ペリー通り」案内図。水色------の線が「ペリー通り」。ペリーが上陸した久里浜の海沿いの通りがペリー通りと呼ばれている。港前のペリー公園にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館がある。ペリー(1794~1858)米国海軍軍人。嘉永6年(1853)日本に開国を求め軍艦4隻を率いて浦賀に来航。翌年再来航し、日米和親条約を締結した。なお下田にはペリーロードがある。「ペリー公園」まで320m、「東京湾フェリーターミナル」まで1100mと。黒船 花火 うちわ 神輿が描かれたボード。目的は?そして東京湾フェリー「かなや丸」。久里浜港~金谷港11.5kmを40分で結ぶ連絡船。総トン数 3,580t全長 79.0m航海速力時速 約24km(13ノット)旅客定員 680名車両積載台数 バスのみ最大12台/乗用車のみ最大105台/オートバイ24台海岸線・「ペリー通り」の遊歩道を進むj。東京湾フェリー「かなや丸」が東京湾浦賀水道から金谷港に向かって出航。右手に「黒船食堂」。昔ながらの海の家のような食堂で、ラーメン、丼もの、定食がいろいろあるようであった。左手には「東京海洋大学」練習船「海鷹丸」。東京海洋大学海洋科学部が保有する練習船・海洋調査船である。2000年に就航した4代目。総トン数 1,886 トン(国内) 3,391 トン(国際)載貨重量 1434トン全長 93.00m垂線間長 83.00m型幅 14.90 m型深さ 6.25 m(上甲板) 8.90 m(船楼甲板)満載喫水 5.95m主機関 ニイガタ6MG41HX形[1] 立形単動4サイクルトランクピストン形直接噴射式 ディーゼル機関1基推進器 4翼ハイスキュー可変ピッチプロペラ1基出力 4,489 kW(連続最大)航海速力 17.4ノット航続距離 12,900浬搭載人員 107名(職員47名、学生60名) とウィキペディアより。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.12
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久里浜方向への道を「旧川間ドック」に向かって進む。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」。VELASISは、Vela (帆/スペイン語)とOasis(楽園/英語)からなる造語で『帆の楽園』という意味。皆様にやすらぎとくつろぎの場所としてご利用いただき豊かなマリンライフに少しでもお役に立てればとの願いを込めての命名したと。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」入口。川間ドック(住友重機械工業川間工場)は、当時、東京石川島造船所の取締役会長たった渋沢栄一の提案により1895年(明治28年)から建設が開始されたレンガ積みドライドックです。横須賀製鉄所(横須賀造船所)で技術を学んた恒川柳作が設計を担当し、東京石川島造船所浦賀分工場として1898年(明治31年)から営業を開始した。近隣の浦賀船渠とのダンビンクによって両社は経営を悪化させることとなり、1902年(明治35年)には浦賀船渠に買収されて、浦賀船渠の川間分工場となり、浦賀船渠1号トックの通称「浦賀ドック」に対して、「川間ドック」と呼ばれるようになった。1984年(昭和59年)に工場が閉鎖された後は、跡地はマリーナ施設として再開発されて現在の「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」となったのだ。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」配置図。入口にあった錨のモニュメント。右手奥に事務棟。正面に(株)HSマリン。ボート・ヨット用品、艤装品、マリンアクセサリー全般を扱う会社であると。椰子の葉の影を。右手にあったのが介護老人保健施設「ソレイユカーマ」。横須賀市西浦賀5丁目32−2。そして眼下に「川間ドック」。川間ドックは世界に4か所しかない(諸説あり)とされるレンガ積みドライドックの一つで、国内では同じ浦賀工リアにある浦賀ドックと川間ドックだけしかなく、貴重な近代化遺産です。現在はシティ・マリーナ・ウェラシスの一部として利用されていて、クルーザーの係留やダイビングの体験などに利用されています。ドックのゲートは撤去されていて、常に海水が満たされた状態のため、レンガ積みドライトックとして内側を見ることはてきません。そのため、レンガ積みドライドックの内側壁面の全体像を見たり底に降りることができるのは、日本国内では浦賀ドックだけです。」常に海水が満たされている川間ドック。ゲートの外はそのままヨットハーバーにつながっているのであった。移動して。介護老人保健施設「ソレイユカーマ」を振り返る。道路の擁壁にはヨットやカモメ、ハマナス、灯台の姿が、ここを右折して久里浜方面に進む。自販機には案内地図が描かれていた。「ようこそ、横須賀へ」。そして前方に「長瀬隧道」が現れた。少し西側にある川間隧道の旧道である。隧道入口脇には多数の石仏が置かれていて、道の歴史を感じられたのであった。「長瀬隧道 横須賀市」。完成 1930年(昭和5年)改修 1971年(昭和46年)全長 51.5m幅 5.8m高さ 5.4m入り口には複数の庚申塔がまとめて置いてあった。横須賀市西浦賀5丁目33。一面六臂青面金剛立像。隣のこちらも一面六臂青面金剛立像。これも一面六臂青面金剛立像。手は六本で、本手は合掌か。その奥にも石碑が所狭しと並んでいた。延長 52mの「長瀬隧道」を歩く。「長瀬隧道」では女性の幽霊・少女の幽霊・老婆の幽霊が目撃されているため心霊スポットと呼ばれているとネットには。「長瀬隧道」を出て少し歩くと、右手桜が描かれた「川間隧道」の出口が。「現在地」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.11
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海岸通りから1本山側の道を「鎮西八郎為朝神社」に向かって南下する。横須賀市雨水マンホール蓋。幕末に浦賀に来航したペリー提督と黒船をデザインし、市内の雨水及び合流のマンホール蓋に使用しています。ペリー率いる黒船が浦賀に来航した1853年、当時の人々は大きな船体を見て大変驚きました。4隻の船をお茶の銘柄に掛けて「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」と風刺したほどです。この黒船の来航後、日本は長い鎖国から開国へと向かうこととなります。現在横須賀市では、ペリー来航や開国を記念した多くのイベントが行われています。幕末を混乱の渦に巻き込んだ一大事。その主役のペリーも、黒船も、現在では開国のシンボルとして市民から親しまれています。と「日本マンホール蓋学会」のHPから。そして「鎮西八郎為朝神社」前に到着。横須賀市西浦賀4丁目3−7。「為朝神社」の案内表示は破れて。これであろうか!? ネットから。「為朝神社(ためともじんじゃ)祭神 源為朝公御神徳 疱瘡除け 航海安全例祭 六月第ニ土曜日 宵宮祭 (奉納舞 虎踊り)日曜日 神輿渡御」「為朝神社」は浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝を祀っている。「浜町 (地名の由来)西浦賀4丁目のこの辺り(為朝神社)を浜町と言います。文字通り、浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったことから付いた名称です。浜町は元は広い範囲を占める「川間」の一画でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移った時に一緒に移ってきた下田の廻船問屋の人々が演じたものと言われています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」靖国鳥居の前には、台石に町内安全と刻まれた安政3年(1856)建立の「秋葉山常夜燈」が。灯籠の火袋に力強い為朝の顔と笹竜胆(ささりんどう)が。石鳥居越しに「為朝神社」の拝殿を見る。祭神は源為朝。 浜町(西浦賀4丁目)の鎮守になっている。寛政12年(1800)頃、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置したのがはじまりだといわれます。そして功が多く、鎮西八郎為朝の像であったといいます。創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。 源為朝は源頼朝の父の弟にあたり、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪となりました。為朝は、その強弓を恐れられ腕の筋を切られて大島に流され、流人生活の果て、許されることなく没しました。古来より、悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に災いを転じて福をもたらすと考えられてきました。後世に疫神として、疱瘡神とし、当時人々に恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力でなおしてもらおうと期待していたのです。 この地に伝えられている「虎踊り」は、伊豆下田から伝えられたもので、 県の無形文化財に指定されています。 毎年6月、為朝神社祭礼が行われますとネットから。右手にトタン屋根の「手水場」。「県指定重要無形民族文化財国選択無形民俗文化財横須賀の虎踊所在地 横須買市浦賀四丁目(浜町)指定年月日 昭和五十一年(一九七六)十月十九日選択年月日 平成十六年(二〇〇四年)二月六日虎踊は、享保五年(一七二〇年)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたといわれています。近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内の虎狩りの場面を取り人れた芸能で、ここ為朝神社に特設舞台をつくって演じられます。和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台を自由にふるまい数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、見えを切ります。虎は親子二体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児、唐子は女児、大唐人は成人男子が演じます。 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された「横須賀の虎踊」は、 浦賀と野比の虎踊が対象です。 令和四年(二〇二二年) 横須賀市教育委員会」「虎踊👈️リンク の概要」虎の着ぐるみを用いた舞に、歌舞伎や唐人踊りを採り入れた民俗芸能。虎は親子2体で、虎の頭は本邦880社の神符を貼って作られ、親虎には青年、子虎には子どもが2人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動く。踊りは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、和藤内(男児)唐子(女児)、太唐人(成人男子)たちによって踊られる。海外舞踊の組み踊り様式を取り入れた唐子踊り、虎の出現で子供が退散して虎が舞台上を自由に振舞い、それを和藤内が神符で押さえてみえを切り終わる。別のネットには虎踊👈️リンクは、獅子舞のように虎の頭をかぶった虎が暴れるように踊る踊りです。浦賀の虎踊は、享保5(1720)年に伊豆下田の奉行所を浦賀に移した時、共に移り住んだ町人によって伝えられたといわれます。昭和51年10月に県指定重要無形民俗文化財に指定され、平成16年2月には野比中村の虎踊と共に国の「記録等の作成を講ずべき無形民俗文化財」に選択されました。踊りは、近松門左衛門作の国性爺合戦の主人公、和藤内の虎狩りを題材とします。和藤内は男児が演じ、女児による「唐子踊り」の後に、大小二頭の虎が登場します。大虎は成人男子、小虎は未成人男子が扮し、笛、三味線、太鼓、鉦に合わせて「一本杉」「虎返し」「鶴の飴拾い」「しっちょい」といった芸が披露されます。やがて、和藤内が叶明神の木札をかかげ、虎を退治して幕となります と。(※パンフレットより)「親子の虎」。「和藤内(男児)」と虎。狛犬(右)。狛犬(左)。昭和30年(1955)造立の一対の「天水桶」には源氏の代表紋である笹竜胆(ささりんどう)が。拝殿頭貫の見事な彫刻。この物語は?ズームして。扁額「鎮西八郎 為朝神社」。木鼻は横向きの獅子。内陣。「為朝神社」の入母屋造りの拝殿を斜め左から。拝殿後方に本殿鞘堂の姿が。神輿庫であっただろうか?ここにも見事な彫刻が。「虎踊」の舞台建設用の足場パイプであろうか?「為朝神社」の拝殿の屋根にも社紋「笹竜胆」が。その先にも神社の石鳥居が見えた。「花稲荷神社」。横須賀市西浦賀4丁目。石鳥居の扁額「花稲荷」。真っ赤に塗られた社殿。扁額「詩庫三◯祠?」内陣。浦賀地区には稲荷神社が多いのであった。お狐様(右)。お狐様(左)。石祠。そして次に訪ねたのが石段の上にあった、これも「仲稲荷」。「正一位 仲稲荷神社例祭 二月初午例祭日 二月十一日御神徳 商売繁盛」急な石段を上る。こちらも真っ赤な社殿。お狐様(右)。お狐様(左)。ここにも石祠。鳥居は塩ビ製。社殿の内陣。ここにも沢山のお狐様が。社殿前から石段を見下ろして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.10
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「壽光院」を後にして、「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の角まで戻る。案内柱の下には、狭い水路と2段積みの石垣も確認できた。正面に「横須賀風物百選 浦賀奉行所跡」碑。右に向かって歩き「浦賀奉行所 跡地公園」入口に廻り込む。「浦賀奉行所跡」の看板の横には、大きな案内板が設置されていた。「浦賀奉行所跡【市民文化遺産 令和3年(2021)1月25日指定】」案内板。「横須賀市では、文化財等には指定されていないが、市民生活に密着し、広く親しまれ、将来も大切に保存する必要のあるものを市民文化資産として指定しています」 と。「浦賀奉行所とは享保5年(1720) 12月、伊豆の下田にあった奉行所を移転し、新たに浦賀奉行所が開設されました。浦賀への移転理由は「下田は港の出入口に岩礁があって、船の入出港の妨げになっている」という船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を調査した結果、浦賀ということになった。」と記されています。しかし、この理由は下田に奉行所が置かれてから100年以上経過しているため、これが移転の本当の理由とは思えません。江戸幕府が開かれて100年が過ぎ、平和な時代が続いたため、農業を中心とした生産力があがり、全国各地から江戸へさまざまな物資が入ってくるようになりました。その98 %以上が船で運搬されており、江戸の物価の安定を図るために江戸での在庫量を把握する必要に迫られていたため、検査をほぼ完ぺきにできる場所を探した結果、すでに湊として整備されていた浦賀が選ばれたのです。浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来するすべての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられました。この「船改め」は「廻船問屋」と呼ばれた105軒の問屋に委託され、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活必需品11品目については、3カ月ごとに集計された数字が江戸町奉行へ報告されました。その他の業務としては、現在の税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事を行っていました。浦賀奉行所が開設されて100年を過ぎたころから、江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになりました。嘉永6年(1853) 6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818) 5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取ることになりました。ペリー浦賀来航後の安政6年(1859) 6月、神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は移されましたが、浦賀奉行所は、慶応4年(1868)閏4月、新政府に接収されるまで続き、さらに、「船改め」の業務だけは、明治5年(1872) 3月まで続けられました。浦賀奉行所の業務は、長官である奉行( 1、2人)・与カ(部課長クラス)が10騎~ 18騎(馬に乗ることが許されたので)・同心(係長クラス) 50人~ 100人で行っていました。与カ・同心はほとんど転勤がなく奉行所の表門前から海岸に向けた場所に役宅(官舎)が建ち並び、ここに暮らしていました。」「浦賀奉行所跡地全景(発掘調査)」。「浦賀奉行所模型(浦賀コミュニティーセンター分館所蔵)」。「石橋と掘割浦賀奉行所の表門の前の掘割(お堀)に架けられていた石橋が、役宅の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないような配慮がされていたためです。町家(商家)から役宅に入るところがカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。掘割は江戸時代後期の改装にともない、表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれて出来ています。焚出所浦賀奉行所内に併設されていましたが、この焚出所だけは浦賀奉行所の表門を通らす出入りすることが許されていた建物です。異国船が来航するようになると奉行所から番船(警備船)が出て、異国船周辺で警備にあたりました。この番船を動かすのは、浦賀周辺の村の漁師の役目でした。奉行所の役人とともに異国船が退去するまで、漁師と奉行所の役人へご飯の炊きだしをする場所が焚出所、炊きだしは浦賀の町人に与えられた仕事でした。その時に使用したかまど跡が令和元年(2019年)の発児調査で出土しました。平成30年(2018)~令和元年(2019)の発掘調査から浦賀奉行所の間取り図面は、19世紀に入るころから幕末期にかけて数点残っており、奉行所の建物がどのように変わっていったのか知ることができます。今回の発掘調査もこれらの間取り図面に基づいて行われた結果、奉行所の業務の一つである裁判が行われた「お白州に白い砂が敷かれている層が見つかりました。また、奉行所の屋根が瓦ぶきであったことを示す軒丸瓦をはじめ、瓦の破片が多数発掘されました。その他にも礎石や古銭や陶器類など、生活を支えていた道具類が見つかっています。江戸時代に江戸という大きな町を支える役割をした、浦賀奉行所の存在が実感できる現場がここにあります。」「浦賀奉行所絵図」をネットから。現在、「陸軍桟橋」と呼ばれる場所に、「船番所」が開設されていたという(今は、解説板が設置されるのみ)。「船番所」とは浦賀奉行所の出先機関で、江戸湾に出入りする船舶のすべてを検査した現場であった。さらに周辺道路を北に進む。「浦賀奉行所跡」を海・東側から見る。左上には先ほど訪ねた「大六天神社」の石鳥居が見えた。奉行所は東西86m、南北75mほどの大きさで、現在でも周囲を囲んでいた堀の跡の石垣と伊豆石の石橋が残っていた。そして、この「浦賀奉行所跡」には、2017~8年までは住友重機械工業(株)のコンクリート造りの社宅があったとのこと。ビックリ!!ネット👈️リンク で調べて見ました。当時の社宅の写真がありました。1号棟~3号棟まであったようです。どの様な経緯でこの場所に社宅が建ったのでしょうか?「黒船に最初に乗り込んだ男 中島三郎助浦賀奉行与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)、ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の様式軍艦・鳳凰丸を建造しました。三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏(もっけい)」と称し、人々から敬慕されていました。明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ヶ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。享年49歳、父子の墓は東林寺。函館中島村に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ」中央に「中島三郎助」、右に恒太郎(長男)、左に英次郎(次男)。「中に入ってあそんでよいです。 自転車・バイク 進入禁止」と。ズームして。「浦賀奉行所 跡地公園」。「石橋(浦賀奉行所跡)浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に、町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。お堀は江戸時代後期の改装にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「石橋の内側(横須賀市教育委員会提供)」。これは、石垣の石それとも石橋の石であったのか?「浦賀奉行所跡」を囲むように、住宅が所狭しと。「浦賀奉行所跡」を後にして、海に向かって進む。「川間町内会 屋台格納庫」。川間町内会の屋台格納庫から出された山車をネットから。その先にあったのが「川間町内会館」。「川間町内会館」の1階入口。「川間 (地名の由来)西浦賀五丁目から六丁目にかけてのこのあたりを川間と言います。「川間」は、一般には、名の示す通り川と川の間にある土地とされています。この地域については、現在の平作川周辺が埋め立てられていなかったころの、昔の大きな平作川と、浦賀湾が現在の田中の方までずっと入江になって川のように見えた、その両者の間の地であることに由来すると言われています。この川間の少し奥まった山際の地に、江戸時代の中頃から明治になるまで約150年間、浦賀奉行所がありました。奉行所の奥の山際には、川間の鎮守で、江戸時代の創建である榊神社大禄天があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」切妻壁には見事な「鏝絵(こてえ)」が。「松竹梅に鶴亀」玄関上妻壁に松の大木の左右に鶴亀を配し、さらに梅・竹を添えた目出度い図柄で、レリーフ状に表す彩色作品。左隅に「石梅作」の銘があり、石川梅尾の作であることが分かる。昭和34年(1959年)に会館新築の際、町内繁昌を祝って作られたものと。中央をズームして。「松竹梅」。亀(右)。鶴(左)。「石梅作」と。「石梅」とは石川梅尾の略である。昭和34(1959)年の会館竣工時に、地元・川間の左官職人石川梅尾(1908-1988年)が制作したと。梅尾は鏝絵名人と称された「三浦の善吉」こと石川善吉(1855-1945年)の13番目の末っ子として生まれ、善吉について修業したのだと。2階の切妻壁にも見事な「鏝絵(こてえ)」が。「鳳凰」二階切妻壁に鳳凰が双翼を大きく広げて飛翔する姿形を、立体的要素を強調した勇健な造形で壁面一杯に作り出している。白漆喰仕上げ。この左下にも梅文の銘があり、「石梅作」である。そして次の目的地の「上町稲荷」に向かった。途中、崖崩れの現場が。ブルーシートで覆われ道路沿いには30個以上の土嚢が置かれていたが復旧工事が行われている様子はなかった。道路の反対側には、現在でも居住されている?民家があった。坂の途中から、西浦賀5丁目の住宅街を見る。振り返って、崖崩れ現場を。この後に、道に迷ったが、なんとか引き返して、「上町稲荷」の入口に辿り着いた。石段の上に朱の鳥居が現れた。扁額「上町稲荷」。狐様(右)。狐様(左)。そして鳥居の下から「上町稲荷」の社殿を。近づいて。境内の「疱瘡守護妙正道祖神? 弘化四・・」と刻まれた石碑。社殿間から朱の鳥居を振り返って。そして石段を下り次の目的地の「鎮西八郎為朝神社」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.09
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そして再び南西に進むと右にあったのが「壽光院」。神奈川県横須賀市15。「寿光院常福寺の隠居所としての境外仏堂です。墓地には、「三命地蔵」が祀られています。これは江戸時代後期に、弁天丸の水主(かこ・水夫)の三人が遊ぶ金欲しさから、船の命ともいうべき網や綱を売ってしまいました。三人は死刑に処せられる前、大変後悔し、罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも直します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。咸臨丸の副館長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行所与力・浜口英幹の墓もあります。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」境内の三命地蔵。「本堂」への参道の両側には墓石が並ぶ。右手にあったのが「地蔵堂」。二体の仏様が。一体の地蔵菩薩坐像が祀られており、立膝姿の地蔵菩薩坐像は今まで数多くの石仏を見た中でも珍しい物であり、その脇にはいつの物かわからないが青銅製の子育て地蔵が一緒に祀られているのであった。このうち、この石造の地蔵菩薩坐像こそが不思議な伝説を今に伝える「寿光院の首切り地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩なのである と。立膝姿の地蔵菩薩坐像。青銅製の子育て地蔵。正面に「南無阿弥陀佛」碑。正面に本堂。墓地の中の参道の先に宝形造瓦葺の本堂が。掲示板には「常福寺佛堂壽光院」と。本堂内陣を見る。中央に御本尊:阿弥陀如来。ズームして。本堂内陣の左側:観音菩薩。ズームして。本堂内陣の右側。右脇侍の勢至菩薩は確認できなかったが様々な位牌が並んでいた。ズームして。墓地の奥に足を延ばした。これが「地蔵堂」。「三命地蔵」別名「首切り地蔵」。石の地蔵さんと墓石が祀られていた。時は元治元年(1864年)、江戸時代も終わりに近づいた第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の頃である。伊豆からやって来た弁天丸という舟が浦賀の港に着いたとき、この舟には松五郎、岩吉、忠蔵という三人の男が乗り組んでいた。この男たちは普段からあまり金回りの良い方ではないのに遊ぶのが大好きで、この時も船主には黙って錨の綱を持ち出しては売り払い、その金を遊びに使ってしまったのである。これに怒った船主は、この三人を盗人として浦賀奉行所に訴え、たちまち浦賀奉行所の厳しい取調べが始まるや否や、この三人は自らの犯した罪をあっさりと白状したのである。所詮、盗んだものはただの縄。お咎めも大した事はなかろうと高をくくっていた三人であったが、船にとっての錨の綱は命綱にひとしい物、その命綱を奪うのは命を奪うのと同罪であるとして、この三人は死罪を申し付けられてしまったのである。驚いた三人は慌てて命乞いをするがその甲斐もなく、浦賀燈明堂の首切り場へと引っ立てられて首を刎ねられた。元治元年(1864年)3月21日の事である。この際、この三人は再び故郷の伊豆の地を踏む事がかなわないことを大いに嘆き悲しみながらも、「もし、我らをこの浦賀の地でねんごろに葬ってくれるのであれば、首から上の病は何でも治してやろう」と言い残して首を刎ねられたという事である。船主であった「師崎屋」(もろさきや)は、この三人の願いを聞いてやり、寿光院に地蔵堂を作って「三命」と名付けお地蔵さんを彫り安置し手厚く葬ると、この地蔵菩薩は首から上の病は何でも治してくれるとの評判を呼び、頭痛、耳や鼻や虫歯などに悩む里人が参詣する姿が後をたたなかったという。やがて医療も科学も発達して、それらの治療はすっかり近代医学の担うところとなっていったが、今なおこの首切り地蔵堂には真新しい花と線香が供えられ、錫杖にかけられた千羽鶴が今なお絶えることのない信仰を如実にあらわしているのである とネットから。多くの墓石の中心に石仏が。阿弥陀如来像であっただろうか?無縁萬霊供養塔 と。地蔵堂の裏手にあった「美都(みつ)姫之墓」。美都姫は文化七年(1810)、幕府の命令で沿岸防備のために浦賀に来た会津藩士の家族。身分の高い人といわれ、浦賀で亡くなった。 数メートル後方に実家の墓があるため、この地に埋葬されたとのこと。「小林 旧會津藩士 小林栄三郎 明治十九年五月十四日 母 みつ 享年七十一」と。「美都姫之墓」横にあった三基の無縁仏。様々な墓石が。墓地から本堂を見る。そして「壽光院」を後にして、来た道を引き返し「浦賀奉行所 跡地公園」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.08
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「浦賀奉行所 跡地公園」を訪ねる前に、その西側奥にある「大六天神社」と「寿光院」を訪ねることとする。「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の道を南に進むと「(大)六天神社」への案内板があった。右折すると、正面に石鳥居が姿を表した。参道を西に進む。「大六天榊神社川間(西浦賀町5丁目)の鎮守で、主祭神は面足彦命(おもたりひこのみこと・猿田彦神)です。この神社の正式名称は「榊神社大禄天神」といい、当初は川間奥にある通称・お伊勢山(伊勢参りの講があったのでそう呼ばれた)の中腹にありました。明治の頃にお伊勢山の入口に移され、昭和の初めに現在地に移されました。大禄天は、語呂が第六天(多化自在天・たげじざいてん)に通じ、修験者の信奉した仏神といわれています。道の分かれる所を守り邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴です。祭日は5月中旬の土・日曜日です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「川間の山車」の写真。石段を上る。社号標石「榊神社大禄天」。横須賀市長であった横山和夫氏が書いたもののようであった。「手水舎」。正面に社殿。横須賀市西浦賀5丁目14−10。狛犬(右)。創建年代不詳の狛犬、玉取り・子取りであった。 スリムで長い体長で、残念なことに全体をコンクリートで修正されているようであった。狛犬(左)。社殿に近づいて。川間の鎮守で、江戸時代に創建された「榊神社大禄天」。主祭神は猿田彦神で、神社の正式名称は「榊神社大禄天神」ですが、通称で「大六天神社」と称しているとのこと。見事な向拝の龍の彫刻。雲海は赤く染まっていた。ズームして。扁額「榊神社大六天 伊勢山神明社」と。内陣。社殿の右隣にあった建物。祭用倉庫であろうか?稲荷神社が合祀されていた。社殿に近づいて。手前の狛狐(右)。手前の狛狐(左)。社殿前の狛狐(右)。右は頭の一部が欠けていて、左右共に耳がありません。社殿前の狛狐(左)。顔が朽ちて鼻づら部分が落ちてしまっていた。首も折れて補修されたのであろうか。内陣。「榊神社大禄天神」を振り返って。境内には多くのタンポポの花が。そして大六天神社正面左右壁には見事な「鏝絵(こてえ)」が。右側は「昇り龍」が正面がガラスのケースの中に。上部には「鶴」の姿が。「昇り龍」。左側は「降り龍」が正面がガラスのケースの中に。上部には「鶴」の姿が。「降り龍」。そして社殿前から「浦賀奉行所 跡地公園」を望む。一番左の高層マンションが芸能人・窪塚洋介が2007年にジャンプ?した所。そして「浦賀奉行所 跡地公園」を囲む道まで戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.07
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そして「愛宕山公園入口」に到着。明治24年(1891年)に開園した横須賀市内最古の公園。当時は「浦賀園」と呼ばれ、入口上部には「浦賀園」と書かれた額・プレートが残っていた。額・プレート「浦賀園」をズームして。明治24年当時のものなのであろうか?「愛宕山公園入口」案内柱。その先に石段が始まっていた。石段の横には案内板が。「愛宕山公園明治二十四年(一八九一年)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され、篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」上り始めてすぐのカーブの場所にあったのが「寳船稲荷社」。狛狐(右)。狛狐(左)。さらに石段を上って進み、「寳船稲荷社」を振り返る。石段の踊場から見た浦賀港。途中に左への分岐あり、これが「浦賀愛宕山導灯」へと続く道。1分ほど坂道を上って行くと「浦賀愛宕山導灯(後灯)」に到着。この導灯は2003(平成15)年3月12日付けの三管区水路通報第10号によれば平成15年4月1日に「住友重機愛宕山導灯」から名称が変更されたもので、灯台表には「白塔形」と。そして引き返して、さらに石段を上って行った。再び「浦賀港」の入口部方向を見る。湾を出たところが浦賀水道で、その沖に見えているのは房総半島。広場の入口の所にあった3基?の石碑。中央の石碑の碑文は最初の「中島永胤君招魂乃碑」だけしか読めず。明治24年(1891年)7月。」「中島永胤」は「中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)」のこと。江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府浦賀奉行所与力、のち蝦夷共和国箱館奉行並。この碑は、稲井石(宮城県石巻市産)を使用し、高さ176cm、幅76cm、碑文は西野前知、筆を執ったのは賜硯堂の主・成瀬温によるものてす。流麗なひらがなの文には、『中島永胤君招魂の碑を建てようと思い立ったの明治二十三年九月、翌年七月に建てた。事績を後世に伝えるために、浦賀港を見下ろする絶景の場所に建てようと、草を刈り、枝を払い、土をならし、石を据え、花の木や常葉木を植え、町民は勿論、愛宕山に来る人々に安房・上総の海山を望む四方の眺望が素晴らしい山頂への道を整備し、休憩所を造り、ここに来る人たちが三郎助の慰霊や遊びに利用することを願ってやまない。』と招魂碑建設の趣旨と経緯が記されているのだ とネットから。「発起者」の文字があり「発起者の碑」👈️リンク とも。三郎助と深いかかわりのあった人(碑に刻まれた三十六人)が賛同するならば、と町の人々も賛同しました。記録によると、浦賀町発起人二十八名(内十八名は碑に名が刻まれています)、同町賛成員七十三人が名を連ね、さらに愛宕山公園整備寄付人名簿に九十六の人と法人の名・寄付の内容が記されています。多くの町の人達が建設にかかわっていることがわかります。近隣の町の人も含め町民こぞって協力して公園を造り、招魂碑を建てたのです。現在も町の人々が公園の清掃なと維持管理を行っています とネットから。 この碑は解読不能。その先にあったのが「咸臨丸出港の碑」。「市制施行七十周年記念横須賀風物百選咸臨丸出港の碑嘉永六年(一八五三)六月三日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。七年後の安政七年(一八六〇)、幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンヘ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下九十有余名の日本入乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。一月十三日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨をあげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員十一名を乗せ、十六日の夕刻、浦貿に人港しました。それから二日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、一月十九日午後三時三十分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、三十九日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに人港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(ー八六〇)五月五日でした。この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸人港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。なおここ愛宕山公園は、明治二十六年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。」裏面には「咸臨丸乗組員氏名」👈️リンク が刻まれていた。広場の巨木は「イヌマキ」。「イヌマキマツやスギに比べると、広い葉ですが同じ針葉樹です。じゅくした実の下についた紫紅色の花托は多肉質で甘味があり食べられます。潮風に強いので、海岸近くの人家やみかん畑などの防風林として多く植えられます」先ほど訪ねた「東福寺」が北方向に見えた。さらに急な石段を上って行った。ここにも「中島三郎助」案内板が。「中島三郎助明治二年(一八六九)五月、、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向いにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があリ五稜郭で共に闘った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意志を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。中島三郎助略年表文政四年(1821) 浦賀奉行所与カ・中島清司の次男として誕生、母は浦賀奉行所与カ・ 樋田仲右衛門の娘天保六年(1835) 浦賀奉行所与力見習勤として出仕嘉永六年(1853) ペリー来航 応接掛として乗船嘉永七年(1854) 鳳凰丸竣工慶応四年(1868) 開陽丸て江戸脱出明治ニ年(1869) 千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去 横須賀市」「開園当時の愛宕山と家並み」。「浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭」案内板。「浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭令和3年(2021年)1月25日中島三郎助と遊ぶ会中島三郎助の生涯中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。文政4年(1821年)1月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与カ見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすべて免許皆伝となっている。この砲術の腕前は、天保8年(1837年) 6月に浦賀沖へ来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功で、浦賀奉行・太田資統から太刀を拝領した。また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚をしている。嘉永2年(1849年) 6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失し、その責任から謹慎処分を受けた。嘉永6年(1853年) 6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉をした。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べおり、カの差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。幕府も軍の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9カ月というスピードで翌年5月に完成させている。こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。また、和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。戊辰戦争が始まると榎本武揚らともに北海道に渡り新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、箱館五稜郭近く1869年5月15日恒太郎・英次郎ともに戦死した。明治23年(1890年) 5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意志を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。」そして「与謝野夫妻の文学碑」もあった。『黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船 寛』 『春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸(さやけ)く 晶子』 冷たい春風の吹く岡の上から浦賀の町を見下ろしたとき、 黒々とまるで鞘のような 造船所が見えたのを歌にしたと。碑に刻まれた寛の歌は、 『与謝野寛遺稿集』の「空即是色」に、晶子の歌は「白桜集」の「色即是空」に収められているとのこと。「与謝野夫妻の文学碑 碑の歌は、昭和十年三月三日与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んたものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月二十六日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。寛は、明治六年二月二十六日京都市左京区の願成寺に与謝野礼巌の四男として、晶子(本名・志よう)は同十一年十二月七日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。明治二十五年上京して落合直文の門下に入った寛は、三十二年の秋に「東京新詩社」を設立。翌年四月には機関誌「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の革新に貢献した。一方、寛の歌に深く心うたれた晶子は、新詩社社友となって「明星」二号に短歌を発表、以後毎号同誌に投稿する。晶子が、明治三十三年八月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、二人の最初の出会いであった。やがて恋愛の進展に伴い、三十四年六月晶子が上京、この秋正式に結婚した。同年八月に出版された晶子の第一歌集「みだれ髪」は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。二人は、明治三十年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。代表作として、寛に「東西南北」、「天地玄黄」、「紫」、「鴉と雨」、晶子に「みだれ髪」、「小扇」、「舞姫」、「白桜集」がある。 横須賀市」「浦賀港入口」、遠く房総半島を見る。ズームして。「グリーンウォッチング ヨコスカ 浦賀コース」グリーンウォッチングヨコスカ事業は横山和夫市長の時代に行われ、1987(昭和62)年に最初の11コースが選定されました。そののち1989・1993年に追加のコースができ、計3冊のブックレットにその詳細が残っています とネットから。ここにも石碑が。「中島君招魂碑」と。「横須賀市指定市民文化遺産 中島三郎助招魂碑明治ニ十四年、彼を追暮する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。」裏側には・・・・???そして「愛宕山公園」を後にして、南側に進み久里浜台/南浦賀の住宅街に向かう山の中の車道を下る。山の斜面に張り付いて立っている西浦5丁目の住宅街。南浦賀に入ると左手にあったのが「伏見金守稲荷大明神」。横須賀市南浦賀11。朱の鳥居の扁額「金守稲荷大明神」。内陣には「御幣」が。御幣とは、神様への捧げ物、お供え物を意味します。御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持ちます。御幣の用途は2通りあります。①神主がふる際のお祓い棒として 周囲の穢れを取り除く目的で使用されます。②ご神体として 神社の奥に祀られ、神棚や台所、お手洗いに飾り家内安全を祈るため使用する地域もありますと ネットから。スマホのナビに従いひたすら細い下り坂を進む。そして前方に現れたのが「浦賀奉行所 跡地公園」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.06
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我が家から地元の小田急線の駅に行く道の途中の民家の藤棚に、見事な藤の花が満開になっていましたので、無断で写真を撮らせて頂きました。幅2m、長さ4mほどの藤棚でしょうか。和名「フジ」の由来には定説がないが、一説には本来『風散(ふぢ)』と呼称・発音され、風が吹く度に花が散るので「吹き散る」の意であるという。漢字表記の「藤」は、本来は中国産の種であるシナフジを中国で紫藤と表記したことにより、日本でこれを省略して当てたものであるとのこと。藤という字そのものは藤本(とうほん)、すなわちつる性で木本性の植物を指す言葉であると。花は枝の先端に出て下に垂れるように伸びて60~70 cmにも達し、多数の花を付けていたのであった。日本では藤(フジ)は古来から文学や色の名前、家紋などでも親しまれており、日本の花というイメージを持っている人が多いのでは。そして私の住む市にも「藤」の文字が入っているのである。藤(フジ)全般の花言葉 ネットから藤(フジ)全般の花言葉はいくつかあります。・『優しさ』 小さな花をまとった房が優美な藤(フジ)。 風に揺られてゆらゆらとなびくその姿が、藤(フジ)全般の花言葉のひとつである 『優しさ』を表しているとされています。・『歓迎』 垂れ下がった藤(フジ)の枝の様子が、頭を下げて迎え入れている人を連想することから 『歓迎』の花言葉が付けられたといわれています。・『忠実』 藤(フジ)のツルが幹にしっかりと巻き付き離れない様子が、『どこまでも付いていく』と いう人の意志に通じることから『忠実』の花言葉を託されました。・『恋に酔う』 紫式部が記した長編小説『源氏物語』に登場する藤壺の宮と紫の上にちなんで、『恋に酔う』の 花言葉が与えられました。 2人の女性は、光源氏の生涯の想い人として登場しており、物語の中で常に彼女たちの面影を 追っている様子が描かれています。・『決して離れない』 相手に固執し、執着のような想いを募らせる印象の強い花言葉の『決して離れない』。 ツル性の藤(フジ)の性質にちなんだ花言葉ですが、それだけ相手のことを慕っているという 意味にもつながっているのではないでしょうか。 人を信じる寛容な心や、恋い焦がれる気持ちを表現している花言葉が多いのだとそして我が名(苗)字にも「藤」が付くのだ。「藤」の付く苗字ランキングTOP10は1.佐藤2.伊藤3.加藤4.斎藤5.藤田6.後藤7.近藤8.遠藤9.藤井10.藤原 であるとネットから。毎年きれいなフジの花を咲かせるために、藤棚の剪定(せんてい)を1年を通じて行っているのであろう。花が咲いたのちの「花がら摘み」、冬季の樹形整形や誘引の結束は、次の年にきれいな花を咲かせるために必要不可欠な作業のはず。花後(かご)の実を付けたままにしたり、定期的な剪定(せんてい)を怠ると、栄養がそちらに取られてしまい、「花芽(花が咲く芽の部分)」に栄養がいかず、花が少ない、または咲かないフジとなってしまうとのこと。来年も、この見事な藤棚の光景を楽しみにしているのである。 ・・・おわり・・・
2024.05.05
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「常福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」手前を左に入り南に進む。左の狭いコンクリートスロープを上っていくと石鳥居があった。その先の、獣道の如き山道をゆっくりと一歩一歩上っていった。途中石段の如き道もあった。そして5分ほどで「旧浦島稲荷」の社殿にようやく辿り着いた。眼下には「常福寺」の南側の墓地が見えた。社殿の内部は七福神の石造が確認できたが、それ以外は何もなかった。遷座先は不明。引き返して、慎重に獣道を下り、県道210号線・「浦賀通り」に向かって進む。ブロック壁の中に石碑が。「椿地蔵大菩薩」と。県道210号線・「浦賀通り」沿いにあったのが「浦賀の蔵」。「浦賀の蔵浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。蔵は大切なものを盗難や火災から守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な工夫がされています。浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは分かりにくくなっています。石蔵は比較的そのままの形が現在も残されています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」その先、県道210号線・「浦賀通り」の奥にあったのが小さな「吉岡稲荷大明神」。この神社は、縁結びや商売繁盛などのご利益があると。横須賀市西浦賀2丁目13。社殿を正面から。扁額「吉岡稲荷大明神」。「浦賀通り」を北東方向に進む。その先、右手にあったのが、新装なった「蔵」の如き建物が。横須賀市西浦賀2丁目13−11。ここにも海鼠壁の上に「鏝絵(こてえ)」が。白波をズームして。その先、狭い路地を右に入ってみると、「愛宕山公園」への近道のようであったがこの先は通行止めのバリケードが設置されていた。さらに進むと路地・西浦賀1丁目の角にあったのが「浦賀の廻船問屋(萬屋清左衛門家)」。「廻船問屋跡賀で「廻船問屋」とは、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の役人たちの指示で、荷改めをしていた下田と東西浦賀の105軒の問屋のことを言います。また、米穀・酒類・塩等の問屋を営みながら、自己の廻船を所有して瀬戸内海より東北地方までの広範囲にわたって商いをしていた商人たちのことも廻船問屋と言います。そして、その主な者は一番組水揚商人となり、蛇畠町、紺屋町、宮下町等に店舗を構え、多くの蔵が海岸に建ち並び、一大問屋街をなしていました。幕末の頃、彼らの所持する廻船は、東西浦賀で約60艘を数え、宮井家もそうした問屋の最も古い一軒でありました。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」。そして右折して「愛宕山公園入口」に向かって進む。「紺屋町(地名の由来)西浦賀一丁目のこのあたりを紺屋町といいます。日本では、昔から衣服の染色には紺色がよく使われてきました。明治の中頃に、西叶神社の宮司・感見宗之助が編集したと推定されている「浦賀中興雑記」によれば、小川善五郎という人がこの地で紺屋(染色業) を始めたことに、この町名は由来するとあります。この付近には、咸臨丸出航の碑や中島三郎助招魂碑などがある桜の名所・愛宕山公園があります。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.05
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「東福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」の北側の住宅街の道を西に進む。この後訪ねた「常福寺」への参道案内板。「この橋は浦賀奉行の交代の際渡ったと云われる石橋です。」と。この「石橋」であろうか?西浦賀2丁目10 と。右手に「田中町町内会 老人生きがいの家」と。「田中(地名の由来)西浦賀2丁目のこの辺り(田中町内会館)を田中と言います。この地域の「田中」は、「干鰯田(ほしかだ)の中」を意味します。その昔、人家は常福寺の参道から高坂側にしかなく、常福寺の参道から海側は干潟になっていました。その後、東浦賀の干鰯問屋の力で埋め立てられ、鰯の干し場になったと言います。ここにも干鰯問屋の隆盛を見ることができます。この付近には東福寺、常福寺があります。」田中町内会館の現在の住所は横須賀市西浦賀2丁目3番16号と。その先左に石祠が現れた。道路側から見る。横須賀市西浦賀2丁目9−7。反対側から。前方正面に「田中町内会 防災倉庫」。その先に「日月院」と書かれた案内板が見えた。「浦賀不動 日月院 宝海龍王堂」と。その先にあったのが「正一位稲荷大明神」と書かれた朱の幟旗とその先に鳥居。「花水稲荷」の朱の鳥居とその先に石の社。扁額「花水稲荷」👈️リンク。正面に「石の社」。このお稲荷さんの所在地は西浦賀2丁目4番地付近の裏手の里山の土手にあり、こんもりとした竹藪の中にひっそりと居をかまえていました。すぐそばには横須賀市立高坂小学校があり、この学校の駐車場 入口の門の前を10mほど坂を上った山道の右脇に細い獣道のような道に入るところが この稲荷神社への入口です。今から40数年ほど前に移転してきて、元の場所からは 10mほど下がったところにあります、移転の理由は宅地造成によるもので余儀なく移転を迫られまして、 移転と同時にお社も新しく再建されました と。近づいて。021年11月・花水稲荷神社は一部改装工事が行われ、社殿前に屋根と本坪鈴が飾られ、幟旗も 宝海龍王堂前に移転したのだ と。御神体は桐の箱に納められているとのこと。「宝海龍王堂」の前にあった「浦賀不動 日月院」。大正十三年五月坂口法道師が諸願成就殊には眼疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。護摩修行水行托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四才の若さで亡くなってしまいました。その後何代が人が変り昭和四十三年大黒天の不思議な導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称「日月院」と改めました。月日院の正式名は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。「浦賀不動 日月院」。「日月院(旧不動院)のこと大正十三年五月、坂口法道師が諸願成就、殊には目疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。護摩修行、水行修行、托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四歳の若さで亡くなってしまいました。その後何代か人が変わり昭和四十三年大黒天の不思議なお導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称名を「日月院」と改めました。日月院の正式名称は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。大祭 正月 五月 九月 二十八日 大護摩修行 午後二時毎月二十八日 護摩修行 午後二時御安置佛本尊 日月不動明王 大黒天 阿彌陀如来 地蔵菩薩 弘法大師 宝海龍王 伏見稲荷 観世音菩薩 法浄院二世住職 田中誠道本山 法浄院 東京都大田区大森南別院 日徳庵 静岡県伊東市一碧湖畔別院 御嶽観音堂 長野県木曽御嶽山 三合目」この石仏は?この石仏は?「不動明王」?本堂。扁額「日月不動明王」。境内にあった金属製の社に入った石仏。「船玉大明神」と。「船玉大明神」碑。船玉(船霊)は船の守護神で、 多くの 場合、和船の帆柱の受材である筒(つつ) の下部に小穴をあけ、納物として雛・賽(サ イコロ)・五穀・銭などが封入されます。 この封入の儀礼は、 萩藩の御座船(藩 主が乗り込む船)建造の記録等では 「筒 居(つつすえ)」 と記されており、 造船儀 礼中で最も重要な行事とされていました と。そして来た道を引き返し、石祠の角を右折して浦賀通りに向かう。浦賀通りに出て左折して横断歩道を渡った場所にあったのが「常福寺」。横須賀市西浦賀2丁目16−1。「浄土宗 常福寺」。参道を石段に向かって進む。寺号標石「浄土宗 放光山 延壽院 常福寺」。「常福寺文明年間(一四六九~八六)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式をおこないました。庫裏の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園のひとつです。当寺には虫歯によく効くという「珊誉女(さんよめ)」の位牌、狩野常信が描いた「地獄極楽之図」があります。墓地には、奉行与力・合原家、佐々倉家の墓碑や遊女屋をやめて遊女を解放し、後に僧深本(しんぽん)となる江戸屋半五郎の墓があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「珊誉女(さんよめ)」の位牌まだ歯科医などいなかった頃、虫歯で苦しんで亡くなった女性(さんよめ)の碑で、「珊誉女(さんよめ)」の遺言で自分が死んだあとお参りしてくれたら、虫歯の苦しみから救ってあげると言い残し亡くなったので、その後虫歯に苦しむ人の信仰を集めたと。「良樹院殿珊誉昌栄大褌定尼尊霊位 寛永十一年八月八日」と記されている珊女は、備後福山城主の息女。生前、常に歯痛に悩まされていて、死に直面した折に「この病に罹るもの我に祈らば効験を得ん」と遺言を残したのだと。「築山泉水庭」。石段手前左側にあった庚申塔群。「西国・坂東・秩父 三浦 百番観音 四国八十八」の文字は確認できたが。三猿庚申塔。見ざる、聞かざる、言わざるの三猿。庚申(こうしん=かのえさる)の申(さる)にちなんで庚申塔に彫刻されることが多く、この庚申塔でも向って右から見ざる、聞かざる、言わざるの順に三猿が彫刻されていた。右は文字庚申塔であろうか?中央は、名工飯嶋吉六の作品であると。隅丸角柱に剣人、槍、法檢、弓矢を持つ青面金剛、筋肉隆々で卑屈さが少しもない鬼、三猿はちょっと珍しい体育座り。向かって右側面に「天保九戊戌(1839)八月吉日」、左側面に「石工鶴見橋飯嶋吉六」の銘があるとのこと。トキワマンサクの花が咲く石段を上って行った。シャガの花も。多くの石仏に囲まれた石塔。「奉納萬靈塔」と。二段式の六地蔵。そして正面に「本堂」。明応2年(1493年)に草創された寺で、浄土宗に属し、放光山延寿院常福寺と号されています。文化7年1月浦賀奉行、御預所、支配所、御役知村村、寺社格式書上、附寺社奉行問合書のなかに「寺席之儀は永聖席ニ而、於群中類門無之、諸山別寺格ニ御座候」伝々と記されており、寺格も寺席も高く、開創以来法灯連綿として五百有余年の歴史を重ねて現在に至っている由緒ある寺。御本尊 阿弥陀如来三浦薬師霊場8番札所三浦不動霊場7番札所三浦三十八地蔵尊霊場34番札所本堂の扁額「放光山」。「常福寺」の「本堂内陣」を見る。ご本尊の阿弥陀如来が見えたのであった。「常福寺 本堂内 脇厨子」。「横須賀市指定重要有形文化財(建造物)常福寺本堂内脇厨子 二基所有者 常福寺平成十九年三月十二日指定本堂背面庇の両脇間に一基ずつ、計二基安置されており、正面に向かって右側を右脇厨子、左側を左脇厨子と呼称する。本尊の安置が目的でないため脇厨子である。この両脇厨子は各々須弥壇上にのる正面一間・側面一間幅のまぼ同形式で、禅宗様式を踏襲したものだが、造立年は左右の脇厨子で若干の年代差が考えられる。右脇厨子が室町時代末期の様式で古く、市内最古の厨子であり、左脇厨子は少し下って近世初期の造立と考えられる。脇厨子を納める常福寺の現本堂は元々藤沢の龍ロ寺本堂として中世末に建築され、その後鎌倉の本覚寺に移築、そして大正十一年(一九二二年)、旧本堂が火災で消失していた常福寺へと移築が繰り返されたものである。脇厨子二基は、本堂の内陣として建築当初から安置されていた可能性も高く、市内最古の本堂内建造物として貴重なものである。横須賀市教育委員会 平成十九年十月設置」「三浦三十八地蔵尊霊場 三十四番 放光山 常福寺文明年間(1469~1486)に、鎌倉光明寺の圓蓮社教譽上人により開創。爾来、浦賀のお念仏道場として、親しまれている。地蔵尊札所としては、これまで第32番子育地蔵尊、第34番延命地蔵尊二カ所の札所であったが、第34番として、子育地蔵尊、延命地蔵尊の二尊を祀る札所となったのだ と。寺務所、庫裡を見る。次に、本堂の左にあった墓地を歩く。「入一法句」と書かれた卒塔婆が並ぶ。表に「南無阿弥陀仏」、うらに「入一法句」と記されていることが多いと。すべての功徳はこの中におさめられているということで、仏への便りである卒塔婆を真心をこめて捧げるという、ちょうど手紙の「敬具」にあたるようなものである とネットから。一段高い竹林の前にも墓石が並ぶ。屋根付きの墓石が並び歴史を感じさせるのであった。 さらに墓地内を巡る。前方右側にあったのが「大乗妙典六十六部供養」碑。「妙典六十六部」とは、法華経を66部写経し、日本全国(66ヶ国)を巡る修行のことであると。正面から。願主、江戸屋半五良と刻まれていた。江戸屋半五良は、洗濯屋(遊廓)の主人であったが、あるとき、江戸で、一人の僧に説教され、自分の商売の罪深さを知り、すべての財産を投げ売り、これを抱えていた遊女たちに分け与え、仏門に入り、修行僧として全国を行脚したのだと ネットから。江戸屋半五良の墓。「大誉果向深本法子」の法名が刻まれていた。半五良は、修行僧として全国を行脚の折、紀州の山中で徳本上人に出会い、子弟の関係を結び、「深本」の名を授かった と。大きな宝篋印塔墓。そして、石段横の「トキワマンサク(常磐万作)」の花を楽しみながら、「常福寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・>
2024.05.04
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次に向かったのが西叶神社の裏手の高台にある「東福寺」。三浦観音第13番、三浦地蔵尊第33番札所になっている寺。右手にあったのは、先程訪ねた「西叶神社」の「社務所」、これを裏側から見る。「曹洞宗 延命山 東福寺」の表札が掛かる石門柱(右)。「三浦観世音第拾三番 三浦地蔵尊第三十三番 霊場」の表札が掛かる石門柱(左)。山門に向かって石段を上る。「三浦 観世音第拾三番 地蔵尊第三十三番 霊場」と「曹洞宗 延命山 東福寺」の表札が掛かる山門。「山門禁葷酒」石柱。右側には花海棠(ハナカイドウ)の花が咲く。近づいて。ハナカイドウは、バラ科リンゴ属の耐寒性落葉高木。別名はカイドウ、スイシカイドウ、ナンキンカイドウなど。春に淡紅色の花を咲かせる花木として、各地で植栽される。「東福寺江戸幕府から御朱印地ニ石をたまわり、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式ある曹祠宗のお寺てす。本堂には、江戸中期を代表する画家酒井抱一の描く大きな亀の絵馬があります。境内の中段にある観音堂には「海難除けの観音様」が安置されています。この観音様には江戸時代初めに西浦賀の淡路屋治兵衛の廻船が大しけになった時、船頭らが観音様に無事を祈ると海は穏やかになり助かったという伝説があります。本寺は三浦三十三観音の十三番札所になっています。 浦賀行政セター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「酒井抱一の絵馬」。さらに石段を上る。右手にあったのが蔵造りの御堂・「荼枳尼天堂(だきにてんどう)」。見事な彫刻を追う。木鼻(右)。木鼻(左)。鯉の彫刻。これも鯉の彫刻。「吒枳尼天」という名は梵語のダーキニー(Ḍākinī)の音訳で「荼枳尼」とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。起源であるインドのダーキニーは裸身で虚空を駆け人肉を食べる魔女だが、日本では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表されると。扁額「荼枳尼天」。左手のピンク色に塗られた建物は「大悲閣(観音堂)」昭和46年(1971年)にコンクリート製で建立。正面から。向拝の龍の彫刻。扁額「大悲閣」。内陣。江戸初期 廻船業淡路屋治兵衛の船が 浦賀へ向かう途中で時化に遭い沈みそうになったとき、船頭達が日頃信仰する観音様に祈ったところ舳先にお姿が現われ救われたことに感謝して、観音像を祀ったとか。「海難除けの観音さま」として、信仰を集めていると。三浦観世音第13番御札所右手にあったのが「地蔵堂」。地蔵堂内には2組の六地蔵が並んでいた。さらに「本堂」に向かう石段が現れた。「庚申塚」碑。さらに石段を上る。そして正面に「本堂」。「本堂」に近づいて。格式、威厳、風格がある立派な本堂。ほ~っと思わず息を呑むのであった。この寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になったとの事。歴代浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたとか。扁額「東福禅寺」。本堂の外壁に描かれた8枚の「鏝絵(こてえ)」を追う。制作者は岩田辰之助氏。 昭和7年37才の力作。「唐獅子」。「飛天」。「鶴」。「亀」。「象に乗った普賢菩薩」。「龍」。「臼井君碑」。近づいて。「寺務所」。境内には多くの巨大な石塔。石碑が並ぶ。「宝篋印塔」。「墓誌」。「直井謹三郎碑」と。「直井謹弌郎碑」多くの墓石が浦賀湾を見つめていた。「大悲閣」の屋根には相輪(そうりん)が。浦賀湾そして房総半島の山々を見る。「山門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.03
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境内のソテツの木と狛犬を見る。龍の絵と「叶」の文字の絵馬。「老山福壽稲荷社」享保11年(1726)2月勧請。旧西浦賀村宮下店住民。御祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。横須賀市 西浦賀1-1-13。「正一位 老山福壽稲荷社」。内陣。神輿が奉納されていた。その隣にも、小さな社・「武雄神社」があった。弘化元年(1844)5月勧請。旧西浦賀村田中住民尾島善四郎心願成就の為。その前にあったのが「大廟参拝記念」と刻まれた石柱。石段脇の石柱には、中央に「金毘羅大権現」、右に「秋葉大権現」、左に「老山 福寿稲荷大権現」と刻まれていた。石段の途中、左には石碑と石仏が。石碑にズームしたが判読不可。本殿を見る。石鳥居の先にも境内社があった。横須賀市西浦賀1丁目1−13。1つの小社の中に4柱の境内社がお祀りされていた。右から「淡島神社」。享保9年(1724)安産・医薬の神として勧請。御祭神は、大名持命、少名彦命。左隣に「大鷲神社」。元鎮守と称し、「叶神社」創立前に勧請されたと言われている。御祭神は、日本武尊、弟橘比売命、天之日鷲翔命。左隣に「三峰神社」。明和7年(1639)旧浦賀町商人諸廻船海上安全の為に勧請。御祭神は、伊邪那伎命、伊邪那美命、日本武尊。一番左に「船守稲荷神社」。元文4年(1739)浦賀港に出入りする船の航海安全を祈念して勘定された。御祭神は、宇迦御魂命。 池と石鳥居の姿が眼下に。更に奥に、本殿の横には真新しい石の鳥居があって、扁額には「福寿辯財天」と。扁額「福寿辯財天」。「福寿辯財天 文政六年(一八二三) 創建」鳥居の奥には、池があり、その奥の擁壁の下に穴祠があり、そこに弁天様がお祀りされているようであった。穴祠をズームして。句碑であっただろうか?池には鯉が。再び拝殿前に戻り、見事に枝を伐採されたイチョウの老木を見る。イチョウの老木を見上げて。一段下がった場所にあった「社務所」前から「西叶神社」の拝殿・本殿を見上げる。「社務所」。「社務所」の白壁にも見事な彫刻が。社務所玄関欄間壁の「鏝絵(こてえ)」。左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフを鏝絵と呼び、江戸時代の中頃から数多く作られ、浦賀にも数点が残されています。干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています とネットから。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。左側には水瓶を割る子。右側には割れた水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を漆喰で表現しています。ふっくらした丸い顔、いきいきとした漆喰細工は、名人「三浦の善吉」の装飾壁の傑作です と。珍しい色彩のアジサイ・紫陽花の花が既に開花。近づいて。碇もあった。「奉納 碇海洋画伯 飯塚羚見は東京湾特に、浦賀港出人船舶の水難除け・航海安全を願って奉納」「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑」。「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑明治天皇 明治十四年五月一八日観音畸に行幸の際 当叶神社境内に御滞在御休憩せられし御跡の記念碑です文字は当時陸軍大将にして後に明治神宮宮司の一戸兵衛氏の揮亳です」その奥の一段上がった場所にあった石碑群。庚申塔群。神職の先祖代々の墓・「感見家之墓」と。叶神社の神主が1868年の神仏分離前に僧侶だった感応院から「感」を使用したと伝える と。再び本殿前脇から「社務所」を見ながら、「西叶神社」を後にして次の目的地の「東福寺」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.02
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そして次に訪ねたのが「叶神社(西叶神社)」。再び海岸沿いを走る県道208号線・「浦賀通り」に出て「一の鳥居」越しに「叶神社(西叶神社)」の拝殿を望む。「郷社 叶神社」と。「叶神社」は神奈川県横須賀市浦賀地区にある神社。浦賀港を挟んで2社ある。 勧請した石清水八幡宮と同様、共に、誉田別尊など八幡神を祭神とする。叶神社:通称「西叶神社」:横須賀市西浦賀1丁目1−13 叶神社:通称「東叶神社」:横須賀市東浦賀2丁目21−25 「一の鳥居」を潜り「ニの鳥居」に向かって進む。そして再び「浦賀道」まで戻り、「西叶神社」前に。養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建した。その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177〜1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてた。養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになった とのこと。「ニの鳥居」の扁額「叶神社(かのうじんじゃ)」。「叶」は口と十で構成されている。 漢字は本当によく考えて作られていて、口で十回言えば、願いは叶う、という意味である と。「四月二十ハ日 午後三時 執行境内社 金刀比羅神社 例祭当、金刀比羅神社は、享保十一年(西暦一七ニ六年・約ニ百七十年程前)旧西浦賀村住民が浦賀港と出入る諸船舶の航海安全、海上安全を祈って、おまつりいたしました。以来、金刀比羅大神は浦賀の港を見守ってまいりました。」「手水舎」。「漱盤」と刻まれた手水鉢(ちょうずばち)が堂々と。「漱」とは「うがい水(すすぎ)」を意味し、口をすすぐこと。身を清めること。「盤」は「たらい」のこと。浦賀の遊廊の主人で、後に家屋敷や財産すべてを投げ出し、抱えていた遊女を解放し、自らは出家した江戸屋半五郎(えどやはんごろう)が寛政元年(1789)に寄進したもの と。手水舎には、亀、鳥、龍の刻まれていた。龍の裏に『彫刻師 熊谷源太郎九代 新井松雲作 新井武作 熊谷市筑波一丁目六十番地』とあるのだと。「源頼朝が大願成就したパワースポット 叶神社(西)御祭神 八幡大神御利益 祈願成就養和元年(1181)に神護寺(京都・高尾)の文覚上人が石清水八轎宮の八轎大神を勧請し創建された。文覚上人は源頼朝に平家追討と源氏再興を強く奨め、源氏ゆかりの神社である石清水八幡宮の神に源氏再興の願いが叶えられた暁には良き場所を求めて未永くお和りすることを誓った。その願いが叶えられたため、文覚は約東通り石清水八幡宮の神を勧請し、のちに「叶神社」と名付けられるに至った。このような由緒から大願成就を求めて参詣する人が後を絶たない。現在の社殿は天保13年に再建されたもので、後藤利兵衛義光による彫刻がふんだんに施された権現造り。本殿と弊殿は総檜造りで、再建の経費は約三千両ともいわれる。」「昭和五十ニ年市制施行七十周年記念横須賀風物百選西叶神社叶神社は養和元年(一一八一)文覚上人(もんがくしょうにん)が京都の石清水八幡宮を勧請して造られました。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は源頼朝と源氏再興を願い上人自ら治承年間、上総の国の霊山である鹿野山に参籠し修行を重ね、その本願が叶ったならば神社を建立し末永く祭祀することを誓いました。そして養和元年に大願成就の前兆を観じて、勝地を求め各地を遍歴した末に、鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に、社宇を建立し、文治ニ年(一一八六)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになりました。現在の社殿は天保十三年に再建されたもので、本殿、幣殿は総檜造りで、その内部は悉く彩色され、本殿柱は金箔朱塗り、内部の花鳥草木の彫刻はすべて極彩色となって居り、扉は黒仕立蝋色塗、内面は金箔押しと云う華麗な装飾がなされている。拝殿は花烏草木の透し彫リのある格天井となっており七十四面ほどある。社殿四方の周囲の外部多くにも彫刻が施されている。これらの優れた彫刻は、当時名工と謳われた彫刻師、後藤利兵衛橘義光の作品である。このように、当時の最高に近い建築の技術の枠と彫刻の美を備えた社殿造営の工事費は、三千両と云う莫大な金額であったと云われ現在、叶神社の彫刻は横須賀市市民文化資産に指定されています。東西叶神社について元禄五年(一六九ニ)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。行政区分の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として、叶神社の神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が、分霊祭祀となった。」「源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP」MAPをズームして。「・・・」碑。表面左の半分ほどが剥離?して文字が判読できなかったのであった。「村社 叶神社」碑。時代により郷社であった時と村社であった時があったのだろう。歴史を感じさせる「銅燈籠」(右)。石段上り口の天保4年(1833)鋳造・一対の銅製燈籠には、台石に新地町、基礎部分には江戸屋久三郎・亀屋新吉・玉泉屋佐吉等、浦賀の遊郭連中等の寄進者名が刻まれている。歴史を感じさせる「銅燈籠」(左)。「拝殿」に向かって石段を上って行った。正面に彫刻が見事な「拝殿」。「狛犬」(右)。「狛犬」(左)。拝殿前に堂々と並ぶ狛犬は、左右とも口を開けているように見えた。東叶神社の狛犬の口は、いずれも閉じているように見えることから、東西の叶神社で一対となっているとの説もあると。石段の上に隠れるように。立ち上がって、柱の陰からこちらを窺うようなそぶりの、かわいい狛犬の姿も。近づいて。こちらにも。拝殿前から二の鳥居方向を振り返る。「地立碑」。「紀念碑」「相州浦賀町鎮守叶神社は安徳天皇養和元年僧文覺の岩清水八幡宮を勧請して建て奉りたる御社なり尋いで文覺虚空山感應院を開き真言宗古義派の僧を住職として代代御社の別當たらしめたり尓来綿綿相傳はりて明治維新に及べり明治の初神佛混淆の禁令出でぬ別當玉應其命を奉じ復飾して氏を感見と称し名を信明と改めぬ創祀以来代を替ふること七十代年を経ること六百八十八年なり是に於て感應院の號?は自ら廢れたり信明は通称を真次郎と云ひ足柄下郡下中村字小舟の人志澤兵右衛門の次子なり年七才にして真言密宗の教に入り法號を玉應と称し苦學勤行年を累ねて學徳並び称せらるるに至れり資性温厚志操清廉にして信念いと厚く徳望日に加はり初め推されて平塚驛八幡宮の別當鶴峰山等覺院の住職となれり後老を幽静の境に養ふこと数年をりから感應院住職の缺くるに際し里人景慕の心を致して止まずよりて遂に状に應じて文久元年其第七十代の別當となりぬかくて幾干もなく彼の復飾改名等の事ありて神職に補せられければ悠悠世を送りて命を楽しみ明治二年十月十一日溘焉として永眠せり享年六十有三感應院の塋域に葬りぬ終身娶らず浦賀町字川間長島市郎右衛門の長子宗之助を養ひて嗣とせり宗之助其後を承けて神社に仕え明治八年十月初めて祠掌に補せられて今に至れり客歳勅令を以て幣饌供進の制定まるや御社も亦其榮典に與り神徳愈髙く我が感見家の基礎も亦漸く定まりぬ思ふに彼の神佛混淆の禁令は創祀以来未曾有の變革にして其間に處せし真明の勞は大方の事にはあらざりけんかし己れ宗之助不肖の身ながらも其後を受けて職を過たず幸ひ今日に到れるものは元より大神の御恩頼にはあれど一には信明の餘光にぞあるべきここに其事どもを永く忘れじ後の世にも朽ちせじと兴?碑を立ててかくはしるしぬ明治四拾壹年拾月弐拾壹日鎮守叶神社第七十一代社掌」「拝殿」の唐破風を見上げて。見事な拝殿の彫刻。社は、天保13年(1842)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師「後藤利兵衛」の作品とのこと。利兵衛は文化12年(1815)安房国千倉の生まれで、江戸の後藤三次郎の門に学び、神社社殿の彫刻や山車、みこしを多く手掛けた。拝殿の格天井(ごうてんじょう)の花鳥の彫刻には、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているのだと。中央をズームして。右側をズームして。左側をズームして。拝殿の格天井を見上げて。移動して。横に廻り込んで。「横須賀市指定市民文化資産西叶神社社殿彫刻現在の社殿が天保十三年(一ハ四ニ)に再建された時に施された彫刻で、虹梁、欄間、拝殿天井など総数ニ百三十を超す。作者は安房国の影工、後藤利兵衛である。」扁額「叶大明神」。内陣をネットから。絵馬掛け所。「叶」と。「昭洞香山君碑」「昭洞香山君碑昭洞香山栄左衛門永孝👈️リンク は嘉永六年六月三日アメリカ水師提督ぺリーが浦賀に来航の折、浦賀奉行所の与力で、奉行の代理として同与カ中島三郎助と共に米艦に赴き、応待・談判に当った人である。香山栄左衛門の子息・香山永隆が父をたたえて、明治十三年ニ月建立。香山栄左衛門が家運隆昌を祈念して額縁第入大型絵馬を当社拝殿内に奉納されたものが現存している。絵馬の裏面に姓名・家運隆昌が書かれている。」「江戸 藤堂良道謹撰并書」碑。近づいて。「江戸 藤堂良道謹撰并書東西浦賀・・・・・・・・・文政八年歳在乙酉九月朢日」拝殿を斜めから。本殿を見る。本殿にも見事な彫刻が。立派な「社務所」を見下ろす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.01
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