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初代大連市役所の少し手前にあるこの建物は東清鉄道の技師長サハロフの官邸として
1900年ごろに建てられ、サハロフが市長を兼ねると市長公邸となったと。
満鉄設立後は、満鉄総裁公邸を経て、大和ホテルの新築前は賓客の接待にも使われたと。
現在は1階はバー(?)、2階は船舶学校の事務所として使用されているようだ。
ロシア風情街入り口からだと左手にあった。
カメラの設定が変わってしまっていた?
中国を代表するエコノミーホテルチェーンの『錦江之星』などいくつかのホテルが。
こちらは『全季酒店』。
『新海瑪精品店』。
塔のある建物は『珍珠』。
『珍珠』の説明板は歴史的建築物の説明であると思っていたが
よく見ると宝飾店の商品説明か?
『福园』。
巨大な『マトリョーシカ』が壁に嵌め込まれていた。
そしてマトリョーシカのお土産屋も路の両側に。
こちらも。
『莫斯科购物广場』は「モスクワ購物広場」の意味の店であったが
実は漢方薬屋であったのだろうか?
その他様々な商店が並んでいた。
巨大な朝鮮人参か?
『玖恒精品城』
カードゲームを楽しむ大連のオジサン、オバサン。
この光景を見ると、やはりここは中国なのであった。
歩いて来た旧ロシア人街を振り返る。
歩道には多くの出店が。
『旧 大連市自然博物館』
通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、
それゆえに独特の存在感のある建築物が建っていたのであった。
夜間の無色(黄色?)の照明であったため一層状態が悪く見えたこともあろうが。
この建物は最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、
日本統治時代の1907年に満鉄本社、翌1908年に2代目ヤマトホテル、その後、
満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、
新中国時代は1997年まで大連市自然博物館であったとのこと。
1998年に博物館が他所に移転されてからは利用されていないとのことだ。
その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようだが、結局、この歴史的な建築遺構を
再利用することなく、今や廃墟同然の姿で現存していたのであった。
このまま朽ち果てていくのであろうか?保護・保存活動の予定は?
『金帆賓館(俄羅斯風情街)』は現在もホテルなのであろうか。
この建物の周辺の円形広場廻りは、時間が停まっているように見えた。
100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めて来たのであるが。
道路を隔てた隣の建物。
更に隣のビル、反時計回りに。
そしてこの円形広場からインターコンチネンタルホテルの姿を。
様々な色彩に変わる高層ビル。
そして帰路に。
途中、石畳に毛筆で字を書くオジサンの姿が。
0.5~1mほどの木の棒に、筆先をとりつけ、地面に水で文字を書いていくこの書道は
『地書』と呼ぶらしい。
腕や手の訓練になるだけでなく、立ち姿全体でバランスをとりながら文字を書くことから、
一種の全身運動として、引退後の世代に人気なのだと。
金がかからなくて健康によい知的な遊びなのであろう。
バケツに溜めた水で、太い筆を使って石畳に文字を書いているのであった。
『郷』の字も達筆。
人によって、楷書、篆書、隷書など専門があるようだ。
中国人は、字が上手な人が多いのだが、公園等で書道の練習をしている人は、とにかく上手。
西安や北京を訪ねた際にも同様な光景を公園内で何度か見た。
中国人にとっては、見慣れた風景のはずだが、見事な字を書く人のまわりには、人だかりが
出来ているのであった。
旅友を捕まえ書けと。TRYする旅友の姿。
年の功で達筆。
そして私もオジサンに捕まり特訓を受ける。
そして最後に『中日友好』と書くと大いに喜んでくれ、
握手の手を差し出してくれたのであった。
これぞ『一期一会』の時間と空間なのであった。
そして再び『旧 日本橋』を渡る。
そして、刻々と色を変える『インターコンチネンタルホテル』の姿を楽しみながら
ホテルへと戻ったのであった。時間は21時。
部屋に戻り、トランクの整理を行い、暫しの反省会の後に、
翌朝6時出発の覚悟をし、床についたのであった。
そしてこのブログを書く中で、今年(2019年)1月に名古屋から大連を訪ねた
ツアー参加者の方の『 大連市内観光の動画
』👈リンク に寄り道をしましたので、
ここに紹介させていただきます。
このツアーの現地添乗員は、我々のツアーの現地添乗員と同じ「王さん」であったのでした。