JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.11.11
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カテゴリ: 海外旅行
『聖ゲオルギ教会』への通路のある建物が『ブルガリア大統領官邸(President of Republic
of Bulgaria)』。
正面には衛兵が二人。その上に『Република България Президент』の文字と
ブルガリアの国章が。



振り返ると『国立考古学博物館』の建物が。
そして前庭んは、発掘された遺物が展示されていた。



衛兵が目を動かす瞬間を!!
「早く交代衛兵が来ないかなぁ、腹も減ったし疲れたったよ」と??・・・。



時間は13:37過ぎ。14時から衛兵の交代式が行われると。
それまで『聖ゲオルギ教会』の見学とのことで通路を潜る。



正面中庭には『聖ゲオルギ教会(Rotunda of St George、Храм ротонда "Св. Георги")』が。
4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス帝が建てたロトンダ(円形堂)を、
6世紀に建て直した教会。
天井のドーム部分には、10世紀から14世紀にかけて描かれた貴重な壁画が重なりあうように
残されているのだと。教会のすぐ隣には古代ローマ遺跡もあった。




石碑にブルガリア語?とフランス語?で何が書いてあるのか分からなかったが、
貴重なもだというのは間違いなさそう。



ソフィア市で最も古くかつ、最も良好な状態で現存するローマ時代の建築文化財が
ロトンダ式教会のこの『聖ゲオルギ教会』。
古代都市セルディカ(現在のソフィア)が開花したローマ皇帝コンスタンティヌス1世
(在位306年~377年)の時代である、4世紀の初めに建設されたと考えられていると。
ソフィア市で現存する最古の建物が『聖ゲオルギ教会』。
この教会堂は大統領府の中庭にあり、セルディカ古代城塞の遺跡から数mの地点に。
正方形の基礎部分の上に円錐形の建物が建てられている。
円錐形の部分は直径約9.5m、建物全体の高さは14m。
至聖所は四角い形をしており、左右対称に4つの隙間、正面入り口は西側にあった。
初めの頃、建物は公共施設として使用されたが、ローマ帝国内でキリスト教が公認されると、
多くの信者に洗礼を授ける為に教会は洗礼堂として活用された。
東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(統治527年~565年)の時代には、ロタンダは教会堂に
改装され、その時に最初の壁画が描かれた。また、ローマ皇帝ディオクレティアヌス
(統治284年~305年)によるキリスト教徒への迫害で、小アジアの地で3世紀に殉教した
聖大致命者ゲオルギーの名で呼ばれるようになったのも、同じ時期であると。
オスマン・トルコの支配にあった時代、スルタン・セリム1世(統治1512年~1520年)は
ロタンダ『聖ゲオルギ教会』をギュル・ジャマシと呼ぶイスラム教モスクに変えた。
キリスト教の壁画には白壁が塗られ、その上に植物をモチーフにした装飾が施された。
ブルガリアがオスマン・トルコ支配から解放された(1878年)後、ロタンダは捨て置かれた。
アレクサンダル・バーテンベルグ公(統治1879年~1886年)が亡くなると同公の廟に使用された。
1915年、ようやく教会の修復作業が開始され、現在では活動する教会としてスラブ語による
毎日の奉神礼(=礼拝)が行われ、ビザンチン音楽と呼ばれる正教会合唱曲が歌われていると。



ここ中庭全体がローマ浴場跡。サウナや浴槽もあったと。



別の場所から。



初期キリスト教の赤レンガの円形建築。
シェラトンホテルの背後にあり、セルディカの古代の町の遺跡に囲まれていた。
4世紀にローマ人によって建設されたこの建物は、正方形の土台の上に建てられた
円筒形のドーム型構造で天井屋根は後付のドームで、ロトンダ(円形堂)を雨風から守っている。
円形の部分は直径約9.5m。



入口。
昔はレンガの骨も見えず漆喰に彩色画が施されていたのであろうか。



Храм Св. вмчк Георги po тонда( 聖ゲオルギ教会)』
Георги(ゲオルギ)、 po тонда( ロトンダ)の文字が。



『聖ゲオルギ教会』の歴史と構造図。



ここ以降は撮影禁止であった。



『礼拝堂』の写真ををネットから転載。


    【 https://bulgariatravel.org/ja/object/344#map=6/42.750/25.380

ドームもネットから。


      【 https://bulgariatravel.org/ja/object/344#map=6/42.750/25.380

















この聖ゲオルギ教会の周りを囲む建物は高級ホテルのシェラトン。



聖堂の赤いレンガに歴史を感じるのであった。



白バラも美しかった。



建物も4世紀のローマ帝国時代に建てられたそうだが、修復はしていると思うが、




そして14時前になる大統領府入り口まで足早に戻る。
すると脇から交代用衛兵が出て来た。



そして正面に向かって進む。



この後大統領府入り口の左右を立哨していた衛兵がゼンマイ仕掛けの人形のように
突然動き出した。
ともに同じ動きをして左右を入れ替わる。衛兵たちは大真面目にやっているのだが、
なんだかややユーモラスな動きに見えてしまったのであった。



そして衛兵の交代。



交代した衛兵は一度大統領府内に入り、再び外に出て来た。
交代衛兵名なのは、2名の衛兵が『ブルガリア大統領官邸』内部にもいるようだ。
ネットに『​ 衛兵交代 ​』👈リンクがアップされているのでここに紹介します。



『ブルガリア大統領官邸』前から北側にある『旧共産党本部』を横から見る。



そして階段を降り地下通路部分に展示されていた『セルディカ遺跡』を訪ねた。
セルディカ古代要塞の遺跡はソフィアの中心部、大統領府と内閣府をつなぐ地下通路で
公開されていた。修復・公開の準備が行われたのは1997~1999年であると。
温泉に誘惑されてここへ住み着いたトラキアのセルディ族は、セルディカ(セルドノポリス)と
土地に名前を付けたのが始まり。紀元後1世紀にセルディカを征服したローマ人は、
セルディカの地理的条件と温泉を評価。自らの名前にちなんでウルピア・セルディカと呼んだ
ローマ皇帝マルクス・ウルピウス・トラヤヌス(在位98~117年)は、セルディカを行政区の
中心都市に指定した。
セルディカを愛したコンスタンティヌス大帝(在位306~337年)は、「セルディカは私の
ローマである」との言葉を残しました。ローマ帝国の首都をコンスタンティノーポルへ移す
決定がなされたのもセルディカで、コンスタンティノーポルのインフラ整備が終わるまで、
コンスタンティヌス大帝はここを拠点としていた。



175年頃、マルクス・アウレリウス帝、コモドゥス帝時代にセルディカには東西南北4本の
監視塔を含む城壁が施された。5~6世紀には2列目の城壁も建設された。
石畳が施された2本の大通りが現在の聖ネデリャ広場の場所にあったフォルム(中央広場)へと
つながっていた。行政の拠点となる建物は要塞の南西部に集中していた。
発掘調査の際、西門付近で住宅、公共の建造物、土器などが出土しました。
古代のセルディカ、中世のスレデツ遺跡を含むソフィアの歴史地区は1976年の官報47号で
歴史・建築保護区に指定されたのであった。



『セルディカ遺跡群』のマップ。



巨大な壺と、馬に乗った兵士の姿そしてその前で平伏す人物が彫られた石版。
この場所で発掘されたものなのであろう。



『古代セルディカ遺跡群』 説明ボード。



黒光りした石は昔の道にあったものであろうか。



昔の店の遺構であると。



ここにも『古代セルディカ遺跡群』 説明ボードが。



古代セルディカ遺跡群の上部の明かり窓に乗り記念撮影する女性の姿を下から。



スマホで撮る女性。



そして今度は二人で。



我々に気が付き、私のカメラにポーズを取ってくれたのであった。



プーチン大統領?を描いたTシャツ。



土産物売り場。



そして『聖ペトカ教会』。



地下への入り口。
時代は変わって14世紀。オスマン帝国の支配下で造られた「聖ペトカ・サマルジースカ教会」
は地下に半分埋もれるように建てられていた。
当時、馬に乗った人間よりも高い屋根の教会を建てることは禁じられていたのだと。



入り口の案内板。



『聖ペトカ教会』は一室の身廊を持つ小さな聖堂で、その高さの半分ほどは地面を掘った
穴の中にある。教会はかつても今もソフィアの中心部となっている地区に建っており、
現在はツム・デパート(ЦУМ、TZUM)の地下道に接続している。
教会はその半円柱型のアーチ型屋根、球形のアプス、そして第二次世界大戦後の発掘により
発見された地下聖堂などを有する。その外壁は1メートルの厚さがあり、石とれんがによって
出来ている。 聖堂はオスマン帝国の支配下であった16世紀に登場し、かつての古代ローマの
宗教施設の跡に建造されている。こんにちでは14世紀、15世紀、17世紀、19世紀の壁画で
知られる文化的遺産である。 聖堂はブルガリアの聖ペトカ(Петка Българска、Petka Bulgarska)
と呼ばれる11世紀の聖人に捧げられたものである。
また、「馬具工」という呼称は、教会が中世に馬具工たちの守護者となって機密を
行ったことに由来する。
残念ながら『聖ペトカ教会』の聖堂の中には入れなかったが、内部の様子は
「​ ネット情報 ​」👈リンク を参照ください。



『聖ペトカ教会』前からソフィア唯一のモスク・『バニャ・バシ・ジャーミイ』を見る。
トルコに統治されていた時代にはソフィア市内に70箇所程のモスクがあったとのことだが、
現在残っているのはこの『バーニャバシ・ジャーミー』のみ。
このバーニャバシ・ジャーミーを建築したのはミマール・スィナン。
ミマール・スィナンはオスマン帝国時代のモスク建築における第一人者で、彼が建築した
モスクで最も有名なものはトルコ・イスタンブールにあるスレイマニエ・モスク
(いわゆるブルーモスク)。



『バニャ・バシ・ジャーミイ』の手前には大規模な前ローマ時代~ローマ時代の『セルディカ遺跡
(Sofia Ancient Serdica Archaeological Complex)』が地上から見える位置にも残されていた。



『ブルガリア ソフィアの市裁判所( Constitutional Court of Bulgaria)



『聖ペトカ教会』の先に『旧共産党本部』の尖塔が見えた。



階段の上にも『旧共産党本部』の尖塔が見えた。
この尖塔部分はロシアのクレムリンを模して造られているのだと。
遠くからでも他の建物を差し置くほどの存在感抜群の建物。
ブルガリアは第二次世界大戦後から1989年までソビエト連邦の影響下にあった。
街の歴史を物語る建造物。



『聖ペトカ教会』と道路を隔てた場所に立っていた
『聖ソフィアの像(Saint Sofia Monument、Статуята Св. София Премъдрост Божия)』
を見上げズームで。
2001 年に建立した『聖ソフィアの像』は、以前ウラジーミル・レーニンの記念碑が建っていた
同じ場所に建てられたのだと。ブロンズと銅でできた 8 m (26 フィート) の像は、
ゲオルギ・チャプカノフが彫刻を手掛けた。彫像は、16 m (52 フィート) の柱の上に。 
冠を頭に載せ、月桂樹のリースを右手に持ち、フクロウが左腕に。
それぞれ権力、名声、英知を表していると。繊細なローブのデザインにも印象的。
実際に風になびいているように見えたのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく​ ​・・・





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Last updated  2021.02.02 15:12:52
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