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更に「河津川」の東側の堤防上の遊歩道を上流に向かって進む。木によって開花状況が微妙に異なるのであった・・・が当たり前。静かな川面を背景に。更にズームして。100%のマスク着用率、これぞ日本人!!ここにも「体温チェックブース」があった、ここで3ヶ所目であったが。アロエの花と一緒に。アロエといえば、昔から、洋の東西を問わず世界各地で、民間療法の万能薬のように重宝されてきた植物。肉厚の葉を切り開いて、内側の半透明のゼリー状のところを、火傷や傷、虫さされなどに貼って外用薬にしたり、胃腸や血圧を整える内服薬として使われたりもしてきた。美肌・美白効果にも優れると、女性の愛好家もたくさんいるようだが。そして「豊泉橋(ほうせんばし)」に到着。「豊泉橋」から上流側のピンクのカーブの帯を。ズームして。橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)と共に。親柱が木製の場合、擬宝珠は銅、青銅などの金属製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目もある。親柱が石の場合、擬宝珠も含めて石造りになっている場合もある。まれにすべて木製のものもあるが。下流側。標高349.8mの天嶺山(てんれいざん)の姿が正面に。このコロナ禍の下でも、季節は確実に進んでいるのであった。そして「豊泉橋」を東に折れて、「河津桜 原木」に向かって進む。左の空き地に牽引式の「移動式トイレ」が置かれていた。静岡県下の会社の災害用のトイレで災害時には、伊豆半島内、無料で貸出すと。男性用1.女性用3の合計4基の構成であった。男性用の内部。新しく導入した、移動式トイレのTEST試用のようであった。山の斜面にも「河津桜」が一面に。民家の玄関先の「セキセイインコ」?。お腹の下のほうが黃緑の鳥。「河津町役場」と「河津桜」。ここの「河津桜」は満開のピークに。オバァチャンの店の「仏手柑(ぶっしゅかん)」。「これが柑橘!?」と衝撃が走るビジュアルだが、"縁起物"として有名な「仏手柑」花のような、濃厚な香りをもつことでも有名であると。異様な形をしているが、ミカン科ミカン属の一種と。レモンやカボスやユズなどと同じ香酸柑橘類の一種であると。元はインド原産「シトロン」の変種で、果実の形が手の指に似ており千手観音を思わせることから「仏手柑」と呼ばれるようになったと。そしてブッシュカンには実がないのだと。断面は、どこを切っても白い綿のようになっているだけとネットから。 【https://rcreation.jp/stockphoto/xa786】よりそしてオバァチャン手作りのマスクも。オバァチャンの話によると1日に10個程度作れると。そして今年も「河津桜 原木」に到着。今まで訪ねた中でも、最高の開花状態であった。交通量の多い道沿いにあるが、排気ガス、振動にも負けずに「老當益壮」。私もこうありたいと。「老いて当(まさ)に益(ますます)壮(さかん)なるべし」。「河津桜原木物語昭和30年頃の2月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和41年1月下旬、やっと桜が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け、永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定されした。原木の大きさ木高 約一〇メートル樹幅 約一〇メートル幹周 約一一五センチメートル開花時期 一月下旬から三月上旬河津桜はオオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定されます。」アロエと共に。たくさんの花が玉のように塊になって咲いているのであった。様々な場所から、様々な角度で「河津桜」の原木の花を追う。飯田家の保護に対する熱き心、日々のご苦労に今年も感謝。原木を様々な角度から。再び係のオジサンの指示に従い横断歩道を渡る。シャッターを押しまくる。偶然発見されたこの1本から河津桜は町全体に広がり、全国各地に植樹されているのだ。1981年から開催され最近では約400万人もの観光客が集まる大きなイベントとなった「河津桜まつり」もこの原木から始まった事を考えると、とても貴重な桜であるのだ。来年は「河津桜まつり」が賑やかに開催されることを願うのであった。するとパトカーが来た!!??再び。原木とはいえ、まだまだ若く樹勢も良好で、今後の成長が楽しみ。私も頑張らなくてはと。また来年も会おうと!!。See You Again!!「河津桜原木」を後にし、再び「河津川」の遊歩道に戻る。売店で桜餅を一つ!!買い、楽しんだのであった。束の間の陽光の下、漸くメジロが姿を現したのであった。対岸の黄色の「オオキバナカタバミ」の絨毯の上に咲く「河津桜」。「白鷺(シラサギ)」であろうか。この時期にクチバシが黒いので「コサギ」か。再び菜の花を背景に。こちらは「日本水仙」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.03
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河津川沿いの河津桜の散策を続ける。係の方から、上流の開花が進んでいるとのことで引き返して進む。満開直前の河津桜。河津桜の魅力は、早咲きの桜であることと花色。一面ピンクの濃い色で。更に進む。今年は、花を咲かせず、緑の葉が一面の小さな「河津桜」の木を背景に。開花が進むと中心のピンクの濃さが増して行く「河津桜」。今年も中国語、いや外国語は全く聞こえてこなかった。そして「来宮橋」まで来る。「トリムコース」案内板が掲げられていた。ちなみに「トリム」をネットで調べると、バランスを保つことを意味するノルウェーの造船用語とのこと。また「トリム運動」という言葉があり、これは、心身のバランスをとる為に、スポーツによって健康の維持・増進を図ろう的なことのようだが。要は 河津川沿いの遊歩道のこと。「河津川」上流側。両脇の堤防に連なる満開間近の「河津桜」。「河津桜」を下から眺められるように一部を埋め立てたのか。ズームして。更に。下流側。民家の庭の椿の花。更に上流に向かって桜のトンネルの下を進む。これぞ「満開」。青空が!!・・・・・・。メジロと思ってズームしたが。満開の花に隠れて。スズメのようであった。更にトンネルを進む。白き川面を背景に。対岸の土手にも黄色の花の雑草が一面に。「河津川」を背景に。準備された露天建屋も主、客を失い寂しそうに建っていた。「鈴なり咲き」いや「鈴のごとく咲き」。堤防には黄色い小さな花が。今や早春を告げる代表格になっている野の草・「オオキバナカタバミ」。これから昼間に向かって更に花を開くのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.02
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「河津七滝ループ橋」の近くの道路脇に車を駐め、「河津桜」を楽しむ。正式名称は、七滝高架橋(ななだるこうかきょう)。全長1064m、高低差45m、直径80mの二重ループ橋である。橋梁の設計は日本構造橋梁研究所によるもので、6基の橋脚によりループ橋(上部工)を支えている。ループ橋部分は3径間連続曲線箱桁4連で構成されている。かつては山に沿って国道がつづら折れになっていたが、1978年の伊豆大島近海の地震の影響で崩落し山腹の道路が寸断した。その後、通行の利便性と高低差を解消し、地震による土砂崩れの教訓を生かした工法を採用し、1981年(昭和56年)にこのループ橋が生まれた。同年、土木学会田中賞を受賞。元々は静岡県道13号修善寺下田線であったが、1982年4月に国道414号に昇格。720度・2回転するダイナミックな直径80mのループ橋の上空からの映像をネットから。 【http://www.kawazu-onsen.com/sightseeing/45】より「河津七滝ループ橋」は河津と天城を結ぶ国道414号線で河津町のシンボル的な存在。この橋の脇にも約100本の河津桜があり、円の内部にある「河津桜」は7~8分咲きであった。様々な角度から「河津七滝ループ橋」とピンクの「河津桜」のコラボを楽しむ。2段のループ橋。そして「河津七滝ループ橋」を渡り、下部にあった駐車場に車を再度駐めた。「全建賞我が国の良質な社会資本整備の推進と建設技術の発展を促進するため(社)全日本建設技術協会により昭和28年い953年)に創設された歴史と伝統のある賞で毎年優れた建設事業を実施した機関に授与されるものです。七滝高架橋耐震補強工事はその技術が認められ平成28年度の道路部門において受賞しました。田中賞土木学会における、橋梁工学の権威者田中豊氏(1888~1964)の意思と功績をしのび制定された賞て優秀な橋梁及び関連する構造物に対して授与されるものです。この賞は土木学会においては高く評価されている賞で七滝高架橋( ループ橋)建設の技術が認められ1982年作品部門において受賞されたものです。」「河津桜」案内板が満開に近い木の横にあった。「河津桜カワヅザクラはわが国のサクラの中では早咲きの桜です。開花時期は天候等に左右されますが毎年1下旬から開花が始まります。開花期間は約1ヶ月と長期に及び他の桜にない特徴がみられます。河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日河津川沿いの冬枯れ雑草の中で芽咲いるさくらの苗を見つけて、現在地に植えたものです。1966年(昭和41年)から開花がみられ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続け注目を集めました。伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しています。一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や河津町等と、この特徴ある早咲き桜について調査をし、この桜は河津町に原木があることから1974年(昭和49年) (カワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には河津町の木に指定されましたカワヅザクラはオオシマザクラ系とカンヒザクラ系の自然交配種と推定されています。まだ肌寒い時期にお花見がいち早く楽しめる「河津桜まつり」は毎年2月上旬から3月上旬まで開催され1ヶ月で100万人もの来場者で賑わいまた夜にはライトアップされた幻想的な河津桜が楽しめます。」河津桜原木カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から駅の横を通る町道大堰浜線を天城山に向かって1 .2kmの地点、河津町田中飯田氏宅の庭にあります。2009年現在樹齢約61年、樹高10m、樹巾約10m、幹周約115cmの通称「小峰の桜」河津桜原木物語昭和三十年頃の二月のある日この家の主であった飯田勝美氏が河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約一メートル位育った桜の若木を偶然みつけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和四十一年一月下旬やっと花が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠しました。後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜の為手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰の桜」と呼ばれ親しまれてきました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和四十九年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和五十年四月河津町の木に指名されました。」ループ橋の後の高架橋の下の「河津桜」は今が満開。そして賀茂郡河津町田中の駐車場に車を駐め(1000円)、河津川沿いの「河津桜」を愛でに向かう。今年も大型バスの駐車場にはこの時、バスは1台も駐車していなかったのであった。今年の「第31回河津桜まつり」は2021.2.10(水)~3.10(水)で開催予定であったが、この新型コロナ禍の」影響で中止が決定したのであった。 【https://kawazucamp.com/news/99】よりそして河津川の遊歩道の横にあった店には様々な手作りのつるし雛が展示販売されていた。静岡県東伊豆町稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾り(福岡県柳川市:さげもん、山形県酒田市:傘福)のひとつでもあるとのこと。五段雛飾りも。そして河津川沿いの「河津桜」の散策を開始。いきなり菜の花の黄色とのコラボが迎えてくれた。この付近の「河津桜」は満開手前の8分咲きくらいであった。遊歩道にはそれなりの数の観光客の姿が。残念ながら、この時には青空はなく。まずは「河津川」を右手に見ながら下流に向かって進む。「河津桜」の魅力は、早咲きの桜であることと花色。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。春らしいピンク色は、見ている人にこれから来る春を期待させるような色。「河津桜」はソメイヨシノと同じように花の後から葉が出て来る。山桜の種類などは花と葉が同時に出て来るので、葉の出るタイミングが違うのだ。「河津桜」は、花が咲いている間は木全体が花で覆われたようにピンクに染まって見えるのだ。歩いて来た遊歩道を振り返る。遊歩道沿いの民家の庭のレモンの木。蕾はもっと濃く鮮やかなピンクで、まるでベリーのようで魅力的。河津桜にもほのかな香りがあるが、マスクをしている為か・・・・。菜の花の香りも同様に・・・。川の石には野鳥の姿が。くちばしの基部の黄色に特徴のある「カワウ」であろうか。そして左手のテントの中にあったのが体温チェックブース。「笹原公園」内にある「さくらの足湯処」。今年は閉鎖中で、湯は溜まっていなかった。この日は「メジロ」の姿は殆ど確認できなかった。街全体で約8,000本の河津桜が咲き乱れる河津町。菜の花とのコラボを再び。菜の花の黄色と、「河津桜」のピンクの色合いが美しいのであった。そして我々3人も体温チェックブースで体温測定。もちろん3人共36℃前後で異常なく、ワッペンを頂き私はキャップに貼り付けた。「笹原公園」内にあった案内板。「河津町観光案内図」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.01
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県道59号線・伊東西伊豆線を国道414号に向かって更に進む。そして国道414号に出て左に折れ「浄蓮の滝」方面に南下する。国道414号の天城大橋手前から左に入り旧道「踊り子ライン」に入る。この道路は「連続雨量150mmを超えると通行止め」になるとのこと。この道を通るのは、約半世紀ぶりなのであった。青ーーードライブルートと旧天城トンネルーーー。国道414号の天城大橋から旧道に300mほど入った左手の杉林の中にひっそりと立つ「川端康成文学碑」を車窓から。1981(昭和56)年に天城山隧道に向かう旧下田街道沿いの林のなかに建てられた。二つに切り左右を少しずらしてつけた?巨大な自然石に「伊豆の踊子」の冒頭部分と川端のレリーフがはめ込まれている。小説「伊豆の踊子」の有名な冒頭。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」と作者自身の手書きの文字が刻まれていた。そして左側には、川端康成の横顔のレリーフが。砂利道の狭い遊歩道「踊り子ライン」をSさんの巧みな運転で車は進む。幸い対向車は全く来ずに進めたのであった。「旧天城トンネル」の天城側入口の手前にあった「江藤延男追慕の碑」。氏は『天城を守る会』の初代会長として、環境省の地域環境保全功労で大臣賞を受賞。『昭和の森』で定期的に自然観察会を続けるとともに、学校や地域住民への環境教育にも力を注いだ人であると。旧天城隧道北口 国内最長・最古の石造道路隧道は幅4.12m、距離445.5m。1998年9月に国の登録有形文化財、2001年には道路として初めて国の重要文化財に指定されているのだ。「天城山隧道」の文字がなんとか確認できた。「天城山隧道」案内板と石碑が。「天城山隧道日本の道100選(昭和61年8月)登録有形文化財(平成10年9月)重要文化財(平成13年6月)天城山隧道(田方郡天城湯ヶ島町~賀茂郡河津町)ー天城湯ヶ島町と河津町をつなぐトンネルである。陸の弧島を嘆く南伊豆の人達の熱い思いによって、総工費10万3 , 016円の巨費を投じて明治38 ( 1905 )年に開通した。地元上河津村では1万2 , 361円余(実際には郡費補助の名目で賀茂郡が支出)を負担した。さらにトンネルまでの道路工事費も1万円余を負担した。このトンネルの完成によって北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消した。延長 446.00m有効高 3.50m幅員 3.50m 標高 708.74m 切り石巻工法工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われた。」 「重要文化財 天城山隧道この隧道(トンネル)は下田街道の改良工事の一環として、明治34年(1901年)に貫通、同37年に完成した。全長約444.5m、幅員約4.1m、トンネル両端の坑門及び内部全体が切石積で造られ、川端康成の小説『伊豆の踊り子』をはじめ多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。平成13年(2001年)6月15日、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治後期を代表する道路隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。」「仁科峠、八丁池、天城峠」への案内が。「天城山隧道」の横の階段で始まる山道を登って行くのであった。トイレが設置され、その横に四阿(あずまや)と案内板が。「旧天城トンネル北口園地 自然歩道案内ここは「旧天城トンネル北ロ園地」です。トンネル周辺には、天城の豊かな自然を満喫する様々なコースがあります。これよりトンネ横を登って行くと、数々自然歩道の分岐点でもある「天城峠」へと出ます。峠を左へ行けば「八丁池」へ、右へ行けば「二本杉峠」を経て「仁科峠」へと続いています。事前計画を十分たててから利用してください。」「旧天城トンネル北口」。川端康成の小説『伊豆の踊子』や、松本清張の小説『天城越え』に登場するこの有名なこのトンネルは、正式名称を天城山隧道(あまぎさんずいどう)と称し、1904年(明治37年)に完成した。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のもの。1998年9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録され、2001年6月15日に登録有形文化財の登録を抹消したうえで、同日に「天城山隧道」として道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されたのだと。私とOさん二人は歩いて「旧天城トンネル」を抜ける事にしたのであった。出来れば、吉永小百合や山口百恵と一緒ならばと・・・・・。工事は石を積み上げていく「切り石巻」工法で施工されていることが確認できたのであった。伊豆の交通史上重要な役割を担ってきただけでなく、石職人たちが技術の総力を結集して造り上げた完成度の高い構造物としての価値が認められ国の重要文化財に。トンネル内には湧水が漏れ出していた。古くは近くに「氷室(ひむろ)」と呼ばれる製氷池や氷の貯蔵庫があり、氷が盛んに造られていたのだと。石積みも湧き水に濡れて。そして全長約444.5mを徒歩で抜けて「旧天城トンネル 南口園地」へ。乗用車はすれ違いの出来ない狭さであったが、幸いSさんの車も対向車も来ずに通過でき、Sさんが出口で待っていてくれた。」南口のものは「天城山隧道」の文字がはっきりと。ふと、気になって下記を調べて、ネットから「「トンネル」「随道」「洞門」「覆道」の違いについて」👈リンク はこちらを。「踊子歩道 案内図」👈リンク。「旧天城トンネル 南口」にも石碑が。「登録有形文化財 旧天城隧道この隧道(トンネル)は明治38年に築造され、川端康成作「伊豆の踊り子」のトンネルとして広く親しまれている。トンネル入口や馬蹄形をしたトンネル本体とともに総石造構造のものは珍しく重厚な構えとなっている。明治末期を代表するこのトンネルは国土の歴史的景観に寄与しているとして、平成10年9月25日有形文化財に登録された。」「登録有形文化財」プレートが埋め込まれていた。「昭和の森 寒天車道」碑。バス停「寒天橋」の横にあった日本の道100選「天城路」の碑天城路は建設省(現・国土交通省)が1986~87年に選出した「日本の道100選」のひとつ。具体的には下田から旧天城山隧道を経由して天城湯ヶ島へ向かう約19kmの区間を指すのだと。「寒天橋」は石川さゆりの名曲「天城越え」👈リンク にも登場する小さな橋。橋名の由来は、この近辺に寒天工場があったからと。そして国道414号に出て「河津七滝」近くを通過して「河津七滝ループ橋」に差し掛かる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.28
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この日は2月14日(日)。テレビのニュースで 静岡県賀茂郡河津町の「河津桜」が満開の時期を迎えているとのことで不要不急の外出自粛を求められている中ではありましたが、いつもの旅友3人でマスク常時着用で「行っちゃいました」。常に、体は「散密」、心は「密に」を心がけての行動でした。今年も自分の車で茅ヶ崎のSさん宅まで行き、Sさんの車に乗り換えて二宮のOさん宅を目指す。予定の6:30前にOさんの御自宅に到着し合流。そして西湘二宮ICから再び西湘バイパスに。そして西湘バイパス「橘料金所」を通過する。車窓の左側、相模湾の水平線の上には、雲の隙間にオレンジ色の帯が。「早川IC」で西湘バイパスを降り、左折して国道135号を利用して伊豆半島に向かって進む。相模湾・小田原海岸沖の「定置網」👈リンク。そして「大島」の姿がはっきりと見えた。「大島」の手前には「真鶴半島」が姿を現した。そして今度は、「大島」の手前に「初島」が姿を現す。「初島」の上には朝の陽光の筋が。日出直後の太陽を隠した黒雲から太陽光が海を照らしていた。熱海市泉元門川分248-2付近の河津桜も五部咲きか。そして「熱海サンビーチ」手前から。2月8日(月)に訪ねた「糸川」沿いの「熱海桜」👈リンク はこの日も花をつけていた。そして「熱海城」をズームで。「初島」。「宇佐美海岸」からの「ホテル サンハトヤ」とその先に「伊東」の海岸が見えた。そして、この日は「伊東大川」の手前で右折し、県道12号線・伊東修善寺線そして県道59号線・伊東西伊豆線を利用して「浄蓮の滝」方面に進む。老舗旅館「東海館」の前で車を停める。「東海館」は、伊東温泉の中心部に位置する木造3階建の温泉旅館。当時の地元材木商により東海道線が熱海駅まで開通した昭和3年(1928)に建てられたと。平成9年に温泉旅館としては廃業したが、伊東市に寄贈され平成13年に観光施設となり、現在は「自由に見学」👈リンク (入館料200円)出来るとのこと。当時の材木商が金に糸目を付けず建築した東海館。館内各所に職人たちの手工を凝らした建築美が生きていると。現代ではその建築美を見ようと建築家も注目する東海館。入口から見事な朝日と鶴の彫刻がお出迎え。地元の彫師・森田東光によるものと。「東海館」の玄関。そして「伊東大川」側から見ると 【https://mapio.net/pic/p-120627096/】より「伊東市指定文化財 旧木造温泉旅館東海館種別 有形文化財(建造物)指定年月日 平成1 1年3月3 0日東海館は伊東温泉を流れる松川河畔にある大正末期から昭和初期の温泉情緒をいまに残す木造三階建て温泉旅館群の一つです。昭和3年( 1928 )に創業、昭和13年頃(1938)、昭和24年頃(1949 )に望楼の増築など、幾度かの増改築を行いながら旅館業を営んでいましたが、平成9年(1997)、70年近く続いた旅館の長い歴史に幕を下ろしました。その後、伊東温泉情緒を残す街並みとしての保存要望もあり、所有者から建物が伊東市に寄贈されることになりました。平成11年(1999)には、昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として文化財的価値をもち、戦前からの温泉情緒を残す景観として保存し、後世に残す必要があるという理由から市の文化財に指定されました。平成11年から平成13年にかけて保存改修工事が行われ、平成13年(2001) 7月26日、伊東温泉観光・文化施設「東海館』として開館しました。創業者の稲葉安太郎氏が材木店を営みながら、国内外の高級な木材を集め、この旅館を建てる際に形や木目などの美しく質の良い木材などをたくさん使っています。昭和13年頃に建築された部分では3人の棟梁を各階ごとに競作させたこともあり、廊下の飾り窓や階段の手すりの柱などにそれぞれ違った職人の技と凝った意匠を見ることができます。他にも、玄関の豪快で力強い彫刻や書院障子の組木のデザイン、照明器具などもみどころです。」次の機会にはゆっくりと内部を見学したいと。そして海岸を離れ、県道12号線を山に向かって進む。さらに県道59号線の坂道をひたすら進んで行くと「光識寺」の「大聖観音」が現れた。ここもゆっくり訪ねたい寺であったがこの日は立ち寄らず。「冷川峠」を越え「伊豆市」に入る。箱根連山から連なる山と天城山地との境にあり、他の伊豆半島を横断する亀石峠・十国峠・山伏峠などに比べて標高が低く緩やかな「冷川峠」。この静岡県道59号伊東西伊豆線が切り通しで峠を越えているのだ。樹木が多く、見通しはききにくい。新東海バスの冷川峠バス停があった。伊豆市側へ4km弱下ったところに伊豆スカイラインの冷川ICがあった。「大見川」沿いには「山葵田(わさびだ)」が左手に。伊豆市貴僧坊51−1付近。更に進むとここにも「山葵田」が。夏場は上部の遮光ネットで覆うのであろう。そして更に進むとヘアピンカーブの場所に大きな「山葵田」があったので車を駐めしばしの散策。車を降り進むと「山葵田」が山道の両側に拡がっていた。「案内板」。「世界農業遺産:静岡水わさびの伝統栽培筏場のわさび田わさびはアブラナ科の植物で、日本固有種です。私たちがすりおろしてよく食べている部位は、根茎という茎部分です。葉や葉柄にも辛味があり、加工用に利用されます。今も受け継がれている静岡県で発展した「畳石式」などの水わさびの栽培方法は、環境にやさしく、多くの生物を育んでいます。この伝統的な栽培は、未来に継承すべきものとして世界的価値が認められ、2018年、国連食糧農業機関(FAO)によって世界農業遺産(GIAHS)に認定されました。わさび栽培にかかせない豊富な湧水:天城山がはぐくむ地下水伊豆半島には年4000mmにもなる多量の雨が降ります。天城の山は数十万年前に噴火した火山で、多孔質の火山岩でできています。そのため雨水は山体に浸み込み、山裾ではわさび栽培に最適な温度の地下水を利用したわさび田が続き、ここ筏場(いかだば)は静岡水わさびの代表的な景観です。棚田のひみつ:畳石式によるわさび栽培伊豆の棚田状のわさび田は、1892年頃に平井熊太郎が伊豆で開発した畳石式という仕組みでできています。下層から上層へと大きな石から小さな石へと徐々に積み重ねることで田の表面と内部両方に水が流れるようにし、水温を安定させ、養分や酸素を供給することで太い根茎のわさびが栽培できます。また下段の田へも清水を十分に供給でき、高品質なわさびを安定的に生産しています。」「畳石式によるわさび栽培」方法の断面図。下層から上層へと大きな石から小さな石へと徐々に積み重ねることで田の表面と内部両方に水が流れるようにし、水温を安定させ、養分や酸素を供給することで太い根茎のわさびが栽培できます。また下段の田へも清水を十分に供給でき、高品質なわさびを安定的に生産しています と。 【https://hellonavi.jp/attraction/shizuoka/mizuwasabi.html】より「筏場のわさび田総面積・・・・・14.7ha棚田等の枚数・・1500枚平均標高・・・・365m国土環境保全:洪水防止・水のかん養優れた農業土木:大堰提・畳石式のわさび田造成故事来歴・民話:戦国時代の落人が当地を開拓豊かな生態系:ガクアジサ・アマゴ,ホタル カワゲラ・モリアオガ工ル・ルリミソサザイ・ヤマゼミ」上流側。棚田の周りには木が覆いかぶさるように生えていたが、これは先人の知恵。わさびに陽があたりすぎないように日除けの役目をしているのだ。下流側。「筏場のわさび田」は『静岡県の棚田10選』にも選出されていると。全国有数のわさびの生産量を誇る伊豆半島。その中央に位置するここ伊豆市筏場は「日本一のわさび田」と呼ばれる約15haのわさび田が広がり、伊豆特有の風景が見られたのであった。国道414号沿いの急斜面に拡がる「わさび田」は何回か見たが、こんな山奥に「日本一のわさび田」と呼ばれる場所があることを初めて知ったのであった。苗は塩ビのパイプの中に植え付けられていた。1976年頃か ら塩化ビニルや樹脂製のパイプを田に埋め込み、その中に苗を植えるパイプ栽培が普及した。パイ プ栽培は、代表品種の「真妻(マズマ)」の退化予防の他、流水と苗が パイプによって遮断されるために、浮遊物の多い 下流でもワサビ栽培が可能となる効果があるのだと。植えつけからおよそ2年で収穫ができるようになるのだと。わさびは、2年半位たつと子イモが成長し、親イモが腐敗しやすくなるので、一般的には2年前後で収穫するのだと。そして寒くなった晩秋から冬にかけてが旬とのこと。棚田が上に向かって拡がっていた。湧き水が上段から下段に流れ落ちて。山葵(わさび)の白い花。ズームで。花わさびや葉わさびと呼ばれるものは根茎部分を指す「わさび」の葉や花芽の事。ワサビは根茎部分だけでなく、葉柄の部分や花芽も食用として収穫されているようです。花わさびとは花を咲かせる前のつぼみ状態の若い花茎を収穫したもので、春を訪れを告げる食材の1つ。わさび特有の鼻に突き抜ける爽快な辛みと、独特の苦味やシャキシャキとした歯ごたえが特徴とのこと。そして、先日友人と思い切って!! ・・・つづく・・・
2021.02.27
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「中山晋平記念館」を後にし、入口方面に向かって進むと右側にあったのが「根なし梅」。この近くの梅は未だ蕾。「根なし梅野梅性の実梅(長束・ナヅカ)の一種で、昭和四十七年の台風により倒れかけていたものを起こしたもので、その際根元が半分幹から裂け、上半の根元は根が切れてなくなったことから「根なし梅」と呼ばれてる。」左側にあったのが「供養梅」。「供養梅有難や 熱海栄えの 人柱熱海の今日の繁栄は東海道線丹那トンネル開通に起因するといわれておりますが、この梅の木の直下で大正十四年の丹那トンネル工事中落盤事故により十七名の殉職者がでました。これを含め昭和九年の竣工まで六十七柱の尊い犠牲者に対し(敬虔なる)感謝の意を表し、昭和三十五年ここに梅の木を植え、供養梅と名付け市民の意を体し顕彰したものです。」「石割り榊」「月光は 流れに砕け 河鹿なく 羽多野光雨(はたのこうう)」。再び「梅見の滝」をズームで。紅梅のトンネル。紅梅・白梅のコラボ。小さな広場では「猿回し」が。「ゆずぽんず」コンビの大道芸パフォーマンスであった。再び「澤田政廣記念美術館」をズームで。ここの紅梅は満開に。元熱海市長の「小松勇次像」。「澤田政廣」の作品であると。「香浮橋」を見る。「石乗りもみじ」。美しく輝く白梅。「雨宮翁碑」。「軽便鉄道の創設者 雨宮敬次郎翁碑甲州の人 雨宮敬次郎翁は資性豪邁にして不言実行の人 翁はことの外熱海を愛し明治四十四年一月二十日病を得て此の地桜ヶ丘の別荘にて逝く。享年六十六才。翁は熱海をこよなく愛し熱海の街の発展を思うことから「熱海ー小田原」間の人車鉄道 軽便鉄道の開拓にのりだし困難を排除して遂に実現させたのであります。今日の熱海伊東線・東海道線開通の糸口も翁の先見性と絶大な努力がなかったならば熱海の今日の発展はなかったでありましょう。もって翁の恩恵が熱海のためにいかに大きなものであったかをうかがい知ることができるのであります。因みに翁の生家は山梨県東山梨郡奥野日村です。」この路線は、少なくとも「人車鉄道」なる、人間が客車を押すという際だった特徴を持つ鉄道の中では、全国一有名なものと。人道鉄道は明治29年(1896 )に小田原~熱海間に開通した鉄道で、4~6人を乗せた客車を2~3人の人夫が押して走るものであった。そして明治40年(1907 )、人車鉄道は蒸気機関車の軽便鉄道に変わったと。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より「熱海鉄道の軽便列車」。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より紅梅を背景に白梅を追う。ここにも「中山晋平先生追憶の碑」。「中山晋平先生追憶の碑について明治20年( 1887年)長野県に生まれ、明治45年( 1912年)東京音楽学校一現東京芸大)卒業。今向名曲として伝わる「カチューシャの唄」でデビュー以来歌謡曲ては独特の「晋平節」を確立。多くの劇中主題、童謡、新民謡を作曲した。昭12年( 1937年)以来熱海市西山に住居、熱海に関する数々の作曲をされた。「熱海節・熱海とろりこ・梅祭りの唄・丹耶トンネルの唄・熱海第一小学較校歌(熱海国民学校)」がそれらてある。代義的な歌曲としては、島村抱月と相馬御風の「カチューシャの唄」北原白秋の「さすらいの唄・別れの唄」吉井勇の「ゴンドラの頭」等でその後「東京音頭・船頭小唄・波浮の港・東京行進曲・銀座の柳・雨降りお月・諸城寺の狸囃子・てるてる坊主・あの町この町」等々数多くの名作を残し、その数3000曲を超える。昭和27年(1952年)12月30日、熱海市西山で逝去。没後西條八十先生を会長とする中山晋平顧彰会を中心に昭和36年(1961年)1月建碑・碑面には「熱海節」の譜を理め込み、「熱海の風光を愛しここに不朽の名曲を生めり中山晋平追憶碑・西條八十誌」と彫りこんである。」今度は紅梅を背景に蠟梅を。白梅を追う。山茶花であろうか。万両。そして入口まで戻る。「観光案内所」の壁には「MOA美術館」👈リンク の「名品展 国宝「紅白梅図屏風」」のポスターが。国宝「紅白梅図屏風」は、江戸中期の絵師・尾形光琳の最高傑作。背景を省略し、右隻に紅梅、左隻に白梅を配して、梅の木の間に流水をクローズアップ。紅梅は画面いっぱいに描きながら、白梅の大部分は画面外に隠され、左右対照の妙を見せながら、中央の流水を未広がりに描いて微妙な曲面をつくり上げた構図は、光琳の独創性の賜物。MOA美術館のコレクションを、左上から国宝 手鑑「翰墨城」奈良時代~室町時代重文 平兼盛像(佐竹本三十六歌仙切)鎌倉時代重文 色絵桃花文皿 鍋島 江戸時代重文 洋人奏楽図屏風 桃山時代重文 山水人物蒔絵手箱 鎌倉時代国宝 色絵藤花文茶壺 野々村仁清 江戸時代。重文 聖観音菩薩立像 奈良時代。出口右手にあった紅梅。そして白梅。「熱海梅園」を後にし「来宮駅」に向かって坂を下っていくと前方に熱海の海が現れた。そして「来宮駅」前にはパインツリーが2本。その下の花壇。「来宮駅」。駅前の広場に埋め込まれたタイル案内板。「JR来宮駅」。そして「熱海駅」の電車に乗る。「初島」が車窓から。そして「熱海駅」で東海道線に乗り換え帰路に。真鶴駅前から模擬天守のようなものが見えたが・・・。「荒井城址公園」で11世紀に活躍した荒井実継の居城跡の公園。そして熱海駅で東海道線に乗り換える。車窓から西湘の山の姿が。そして「西湘バイパス」の「早川IC」横を通過したのであった。そして小田原駅手前で瞬間的に小田原城の姿が現れるのであった、上手くタイミングが合わなかったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.02.26
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「韓国庭園」を後にして、隣りにあった「中山晋平記念館」に向かう。ここにも丁寧な案内板が。「熱海梅園」の奥の方が開花が進んでいるのではないだろうか。白梅を追う。ズームで。「中山晋平記念館」手前より「下界」の絶景を楽しむ。旧中山晋平邸は、戦前に多くの童謡や流行歌を生み出した作曲家・中山晋平の旧宅。昭和19年(1944)に熱海市西山に建てられたもので、現在は熱海梅園敷地内に移築され「中山晋平記念館」として一般公開されているのだ。主屋の西側に玄関棟が設けられていた。「弓削皇子(ゆげのみこ)」が「額田王(ぬかたのおほきみ)」に送った歌。「いにしへに 恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の 御井(みゐ)の上より 鳴き渡りゆく」過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます と。 「弓削皇子」は天武天皇の第六皇子で長皇子の弟。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸された時に同行した弓削皇子が、大和(藤原京でしょうか)にいる額田王に贈り与へた一首です。この鳥は不如帰(ホトトギス)のことで、中国の古事に蜀の望帝が退位後に復位しようとしたが死んで叶わずホトトギスとなり、「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いているのだという伝説をもとにしてのものだそうですが、その故事と天武天皇の在世当時の昔を偲ぶ想いを掛けて詠んだ歌かと思われます。天武天皇が生きていらっしゃったあの頃にはもう帰れないのだろうとの寂しい想いとともに、天武天皇にゆかりの多い吉野の宮で、亡くなった天皇の魂を慰めようとする鎮魂の意思も感じられますね。あるいは望王の古事のように、弓削皇子は鳴きながら吉野の空を渡り行く不如帰に父である天武天皇が「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている姿を感じ取ったのかも知れません…」とネットから。「中山晋平記念館」案内板。建物は木造二階建て、屋根は入母屋造銅板葺で、各階とも南・東面は一面ガラス張りになっていた。玄関内部。柱やそれに繋がる横柱に皮付丸太を使用し、数寄屋風としているのだった。「中山晋平記念館当記念館は、作曲家・中山晋平の別荘として昭和10年に熱海市西山町に建設されました。昭和19年に東京は空襲が激しくなった為、熱海に移住し.昭和27年65才で亡くなるまで、ここで多くの作曲をして来ました。この建物は日本ビクター株式会社様より熱海市が寄贈を受け、平成3年4月、当時のままの姿で、この梅園に移築したものです。」玄関から上がり左に折れた玄関棟西側の和室は、広さ4畳半とこじんまりとしていた。中山晋平が使用していたピアノや蓄音機が展示されていた。このピアノは、中山晋平先生が昭和27年12月、熱海で逝去されるまで愛用されていたもの。「明治12年(1879)ニューヨーク・コーラー・アンド・チェイス社製で、大正8年~10年ごろ購人されたものです。」このピアノから生まれた曲は今でも歌い継がれている「船頭小唄丿(大正10年)、」「しゃぼん玉」(大正10年)、「波浮の港」(大正13年)「あの町この町」(大正13年)「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭(昭和8年)等々で数多くの名曲が残されております。」「中山晋平」の写真。「蓄音機」。「カチューシャの唄」の楽譜の掛け軸。長野市松代町清野947の林正寺境内にある松井須磨子演劇碑の拓本であると。「かみにねがーひを(ララ)かけーませうか」「日本の歌謡史に偉大な足跡を刻んだ作曲家 中山晋平 明治20年(1877)3.22~昭和27年(1952)12.30」作曲家。長野県生れ。教員生活1年ののち明治38年( 1905)上京。島村抱月家の書生を務めながら、明治45年(大正元年・1912)東京音楽学校本科器楽部(ピアノ科)卒業。小学校教員となる。大正3年(1914)抱月主宰の芸術座公演<復活>(松井須磨子主演)の劇中歌<カチューシャの唄>(抱月・相馬御風作詞)を作曲して好評を博した。つづいて同座公演の劇中歌<ゴンドラの項>(吉井勇作詞、1915)、<さすらいの>(北原白秋作詞、1917)などを作曲、一躍名声を得た。以後、野口雨情の詞によるく船頭小唄〉(1921)、(須坂小項〉(1922 )、<波浮の港>(1924)、時雨音羽の詞による<出船の港> (1925)、く鉾をおさめて>(1926)、西条八十の詞による<東京行進曲>(1929)、東京音頭(1933)などヒット曲を生み出した。また<證城寺の狸囃子><砂山><てるてる坊主>などの童謡でも親しまれた。昭和3年(1928)以後ビクター専属。昭和23年(1948)から日本音楽等作権協会会長を務めた。没後「中山普平記念音楽賞」が設けられた。作品総数は3,000余曲に及び、曲集として出版されたものに<中山晋平集>(1952 )、<中山晋平作曲全集>(童謡篇上下2巻、1956。新民謡篇1巻、1963)がある。彼は鋭い感覚で日本民謡の特徴を把握し、音階、リズム、日本語の扱い方などにそれを活用して、独特の明快な日本的・庶民的な歌のスタイルを作り上げ、「普平節」といわれた。童謡運動や新民運動に重要な役割を果たし、日本近代の大衆歌曲の道を開き、そのスタイルを確立した。」こちらは白いピアノ。西条八十・中山晋平がこのピアノで熱海節を作詞作曲した(昭和初期熱海で最初のピアノ)。「熱海 梅まつりの歌」の楽譜、歌詞の展示コーナー。欄間の彫刻も見事であった。居間の東側に座敷があった。8畳の広さで、雪見障子を隔てた東側と南側には縁側が設けられていた。この床の間にも「銀座柳の碑」の掛け軸が。「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けば春風紅傘日仐けふもくるくる人道り」。この掛け軸は、長野県中野市の「中山晋平記念館」にある記念碑の拓本を表装したもの と。縁側の歪みのある大正ガラス?が。作詞 西條八十歌手 佐藤千夜子作曲 松竹蒲田音楽部(中山晋平)「愛して頂戴」👈リンク の楽譜(左)とひと目見たとき好きになったのよ何が何だかわからないのよ日甞れになると涙が出るのよ知らず知らずに泣けてくるのよねえねえ愛して頂貮ねねえねえ愛して頂貮ね作詞・海野厚、作曲・中山晋平「背くらべ」👈リンク の中山晋平直筆の楽譜(右)柱の傷は おととしの五月五日の 背くらべちまきたべたべ 兄さんが計ってくれた 背のたけ昨日くらべりゃ 何(なん)のことやっと羽織の 紐(ひも)のたけ表彰状や色紙、年賀状等々の展示コーナー。付書院板欄間の透かしも美しく。1階の茶の間。 妻・嘉子(新橋喜代三)も火鉢の前に座ったのだろう。「妻・中山嘉子は、鹿児島でも評判の芸者で、それは美しい女性でした。中山晋平とは昭和6年(1931)に出会い、晋平の勧めで上京して「小原良節」「よさこい節」を日本ビクターでレコーディング。同年に新橋芸者となり、昭和7年に新橋喜代三(しんばし きよぞう)という芸名で、ポリドールの専属歌手となります。昭和11年(1936)晋平の妻・敏子が病のため45歳で亡くなり、翌年に中山晋平と結婚、引退します。この熱海の邸宅で晋平と共に暮らし、晋平の死後、日本ビクターの歌手として復帰しましたが、熱海での暮らしを続けました。昭和38年(1963)3月23日に病により59歳で他界。」とのネット情報。縁側からの光景。ガラスの歪みに梅の花も揺れて。開いたガラス戸から玄関前を見る。狭い階段から二階へと上がる。二階・十畳の座敷。床の間の掛け軸。「三笠山には つつじが咲いて 赤き心もしげくなる 雨情」板欄間や障子の組子には、一階とは異なる、これも見事な意匠が施されていた。正面から。しばし、寝転がっていたい眺め、空間であったが。「中山晋平」の案内ビデオが上映時間約10分で流れていた。2階からの「熱海梅園」の光景をしばし楽しむ。「熱海梅園」の静かなたたずまいの中に、落ち着いた木造建築がとけあい、 心にしばしのやすらぎを与えてくれるのであった。上部に「東京行進曲」👈リンク の直筆の楽譜の複製品。「♪あだなとしまをだれがしろ♪」「中山晋平」作曲目録がガラスケースに所狭しと。内部の見学を終え外に出て、玄関前のシシオドシ(鹿威し)を見る。門を内側から。そして趣きのある門を出て振り返る。こちらが正式の入口。「中山晋平記念館」と書かれた表札が掲げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.25
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「梅園橋」の向こうに「澤田政廣記念美術館」案内板が。「梅園橋」を渡る。前方に苔むした岩肌にも似たユニークな外観を見せる「澤田政廣記念美術館」の姿が。「梅園橋」を渡りながら絶景を楽しむ。再びズームして。「澤田政廣記念美術館期間展示館蔵品展令和2年12月30日から令和3年4月18日まで美術館所蔵の澤田政廣作品を中心に展示いたします。間館時間 9 : 0 0~16:30休館日 月曜日(祝日は開館) ※うめまつり中は無休」建物を取り囲む大きな壁にある穴からは女性像が。地中深く埋もれていた大きな岩の魂が突然地上に現れたが如き壁の姿。大きな壁を廻り込んで像の正面から。「ろうそく」を灯した皿を持つ女性像。ズームして。「ともしび 昭和21年(1946)」。二人の裸婦が近寄って。何かヒソヒソと語り合っているのであろうか。「黄泉のしこめ(よみのしこめ)昭和31年(1956)」タイトル「しこめ」の意味は「醜女」?やや痩せた裸婦の姿。背中に羽が。瞑想中?「蒼穹(あおぞら)そうきゅう 昭和35年(1960)」横たわる男の姿。「傷つける武人 昭和35年(1960)」「沢田政廣記念美術館」を横から。一見、廃墟の如き姿であるが。「沢田政廣記念美術館」入口を横から。入口正面に人魚の如き裸婦像。髪が風になびき。後ろ姿を。「海の賛歌 昭和38年(1963)」そして館内へ。館内は撮影禁止のため、以下の写真はネットから。入口天井のステンドグラス「飛天」。このステンドグラスの下で手をつなぐと、いつまでも幸せになれる、と人気であると。私は自分の両手を重ねて・・・???赤御影石の床に映る「飛天」も美しく、頭上と足元の両方でステンドグラスを楽しむことができるのだと。様々な彫刻作品が展示されていたのであった。以下はパンフレット&ネットから。政廣が昭和44年(1969)75歳のときに作った木彫「人魚」。別の角度から。「隠者」という作品であると。主要作品。①木彫「銀河の夢」大正13年( 1924 ) 30歳。②木彫「白日夢」昭和2年( 1927 ) 33歳。③木彫「紅衣笛人」昭和16年( 1941 ) 47歳。④木彫「救世太子」昭和18年( 1943 ) 49歳。⑤ブロンズ・レリーフ「三尊佛」昭和28年( 1953 ) 59歳再び⑥木彫「人魚」昭和44年( 1969 ) 75歳。⑦プロンス「長嶋選手像」昭和45年( 1970)76歳。⑧木彫「蓮華」昭和58年( 1983 ) 89歳。6年前の他の方の「ブログ」👈リンクに内部の作品が紹介されていました。そして「沢田政廣記念美術館」を後にして、「熱海梅園」の散策を続ける。白梅。柊の葉も紅葉して。ピンクの梅の花。竹林を背景に紅梅を。「三ツ子樟」なる大木も。梅園を開いた明治19年当時、直径40センチ程度だったが、大木になった為、梅への影響を考えて、根元から伐採されたが、切り株にひこばえを出して三本の樟となったのだと。そして「韓国庭園」へ。平成12年9月23日、当時の森喜朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中大統領の日韓首脳会談が熱海で行われ、翌日、両首脳が梅園内を散策し歓談された。それを記念し、平成14年8月29日大韓民国の伝統的様式と手法を取り入れた庭園が完成したと。周囲には「瓦張り土塀」。「瓦張り土塀瓦張り土塀は瓦で施工された壁で、下部は玉石張りにしています。塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」瓦を挟み込んだ背の低い韓国風の石塀。上部には鬼瓦も。瓦の積み方が信長塀より粗いのであった。北側の「玉石張り土塀朝鮮時代の伝統的な塀には、自然石を積んだものから土壁の塀、玉石や瓦を使った塀が見られます。玉石張り土塀は、玉石で細工された塀で、塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」「韓国庭園」案内図。「噴泉」。「噴泉韓国庭園では水が大切に扱われ、特に水の噴出部には意匠がこらされています。形態は「陰陽思想」を表現したものが多くあります。」塀の先に山門が。「友好平和記念碑 友 好 平 和日本国内閣総理大臣 大韓民国大統領 森 喜 朗 金 大 中 」「友好平和記念碑2000年9月23日に熱海で日韓首脳会議が行われ、翌24日に両国首脳が熱海梅園を訪れました。碑は日韓の絆を深めたこの会談を記念して設置されました。碑の刻字は、森総理大臣(友好)と金大統領(平和)の直筆です。」「方池円島「方池」は正方形または矩形の中央に円形の島をもつ蓮池で、円島には景石以外に松・柏・柳が植えられます。一般的に四辺の護岸は花崗岩の切石積みで、一辺の中央には、方池にせり出した亭が設けられ、両班(ャンバン)住居の大門部外周辺、または別堂(主人専用の離れ)近くに設置されます。池の方形は地の陰を、円島は天の陽を象徴したもので、陰と陽の均衡を保ち家勢の繁栄を願った庭苑施設です。」「韓国風建物」。朝鮮時代初期( 16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式。奥には韓国衣装で書き物をしている人物の姿が。「堂貴族階級(両班)の方が、世俗より隠遁し、山中において詩歌を吟じ、哲学を愛する学者の生活空間として造った建物です。小さなスケールですが、台所(女性の部屋)や使用人の部屋も付き、四季を通じて全ての生活が出来る様になっています。建物の様式は、朝鮮時代初期( 16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式を保ったスタイルです。マルと呼ばれる四方に壁のない開放的な部屋には自然との一体感が感じられます。この建物は「縁の家」と命名されました。又、内部には韓国文化院より寄贈された家具も展示してあります。」「煙家」「煙家オンドル(床暖房施設)の煙突で、その形状から「煙の家」と称されています。中には、壁面に長寿を象徴した動植物等を描いたものもあり、一般に花階に設置されています。」「堂」の裏には大きな壺が並んでいた。「チャントッテ 高台味噌、醤油、漬け物等の壺を置く場所で、台所に近い後庭に造られます。規模の大きさが家勢を表すものとされ、現在の一般家庭でも見られます。」「台所。台所は韓屋では一番独特な処で、料理をするだけではなく、暖房の役目もはたすところです。かまどの熱は、床下を通り煙家から出てゆきます。床下には平らな石が敷き詰められていて、この石を暖めて床と部屋をあたたかくするオンドル(床暖房施設)の役目をします。」そして「大門朝鮮時代中期の四柱門の様式で、「友好・平和」記念硬の正面にあることから格式を高く、大きな建物としました。梁の上部にある雲の形をした「雲板」は主人の精神住が雲上の如く高いレベルに達していることを表現したものです。また、入口部の柱の下部(根本)に彫られた図案は三太極という「天・地・人」の宇宙の構成原理を表現したものです。」ここ瓦張り土塀に庭園の名称が埋め込まれていた。「熱海梅園韓国庭園」。塀の途切れた場所にあったのが「朴飛行士記念碑」。「思いは遥か故郷の大空 朴敬元女史は、1901年大韓民国慶尚北道大邸府に生まれました。1925年に日本飛行学校へ入学して飛行機の操縦を学び大韓民国最初の女性飛行士として二等操縦士免許を取ると、かねてからの希望であった故郷への訪問飛行を計画し、1933年8月7日その日を迎えることになりました。飛行機は単発小型機で「青燕号」と命名されました。女性としては初めての長距離飛行となり、羽田空港では官民多数の盛大な見送りを受け、午前10時35分離陸しましたが、気象変化の激しい箱根上空で密雲に阻まれ方向を失い熱海市側の玄岳頂よりわずか50メートル下の山腹に激突し、不幸にも33歳の若さで墜落死してしまいました。翌8日、女史の遺体は地元の多賀村の人々に手によって、荼毘にふされ、翌年8月7日には元多賀村長西島弘氏が、私費で墜落現場に鳥人霊詩碑を建立し、そして1981年春には地元町内会の手で朴敬元嬢遭難慰霊碑が建立されました。地元の人々は、夢半ばにして破れた朴敬元女史の心安らかな事を願い、毎年定期的に墜落現場までの草刈や慰霊碑の保全を行う等、大切に護持しています。国を超えた人道的なこの地道な活動は、今日の友好と平和を祈念する多くの人々の思いでもあり、親切と文化を標榜する熱海市にとりましても、おもてなしの心を育む原点でもあります。熱海市は、朴敬元女史の墜落死と地元の人々の活動を永く記憶に留め、これまでかかわってきた多くの人々の友好平和 のあかしとして、日韓首脳会談を記念して建設された韓国庭園の一角に記念碑を建立するものです。」瓦張り土塀には紋章の如き瓦も埋め込まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.24
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「初川」の流れに焦点を合わせたつもりであったが・・・・。前方に「四阿」が姿を現した。四阿(あずまや、しあ)、東屋(あずまや)とは庭園などに眺望、休憩などの目的で設置される簡素な建屋。「四阿」の「阿」は棟の意味で、四方に軒を下ろした寄棟、宝形造などの屋根を持つ建造物を意味すると。「四阿」。「四阿」越しに梅園を見る。「腰掛欅(こしかけけやき)」。「腰掛﨔岩の上の草の中に生えたこのけやきは、後ろと左右の土が洗い取られ、根は前の土に太くのびて腰かけた形となった。」そして左手に「梅見の滝」。岩壁より3つの滝が流れていた。岩には穴が開いており、岩の中から滝を見ることも出来るようであった。ズームでして。人工の滝なのであろう。「梅見の滝」碑。滝壺を。園内案内板。「香浮橋(こうふばし)」。「香浮橋」から「初川」を見る。「香浮橋」の袂の見事な紅・白梅のコラボ。近寄って。更に。「梅見の滝」を振り返る。白梅をズームで。青空を背景に白が輝く。「茂木氏梅園記碑」篆額は伊藤博文の手によるとのこと。「茂木氏梅園記碑文の日本読」。「茂木氏」とは梅園造成に携わった横浜の豪商・茂木惣兵衛のこと。「茂木氏梅園記の要約初代総理大臣 兼 宮内大臣 従ニ位 伯爵 伊藤博文 篆額温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩分や鉄分にばかり頼らず、適当な運動をするからである。もし、一日室内にいて温泉に入浴していたら飽きもし、疲れもして、養生にならない。山に囲まれ、東南に海を臨む熱海は、温泉で知られている。人々は斜面を削って家を建て、そこに住んでいる。また、東京から遠くなく、その上、気候が温暖なため冬から春にかけて多くの都会人が来浴する。私は、初めてこの地に足を運び、山を巡ってまちの西側を散策すると、起伏に富んだ景色のよい場所を見つけた。そこは清流が乱石にぶつかり、その発する音は風雨のようで、分れたり、合流しながら勢いよく葦藪の間を流れ下っている。清流の西側に松や檜がうっそうとした丘があり、そこに登って休んだ。振り返って見るとあたりはのどかに落ち着き、しばらく帰ることを忘れていた。明治十八年(一八八五)四月、岩倉具視大臣の命令を受け、噏滊館を落成させた。私は、「この地の温泉の効用は顕著であり、今、この館が完成して療養施設は備わったが、保養の場所がないのが残念である」と人々に説いた。そして、前に見つけた場所について話し、そこを造成することを提唱した。すると、中山保次郎神奈川県議会議員が進んでこれに賛成し、横浜の茂木惣兵衛にもちかけた。すると惣兵衛は喜んでこれに応じ、中山氏及び地元の日吉、小松、露木の諸氏と相談してその事業に乗り出した。草木を伐採し、穢れを流し、地形にならって梅三千株や松・杉・楓・柳を植栽した。すると、清流は益々清く、趣のある岩もたくさん出てきて、山水花木、四季の眺めも美しくなった。高みに四阿をつくり、流れには小橋を架け、遊園の設備も整った。人々はここに集まり、酒を酌み、詩を吟じ、全てを忘れ、心なごみ、楽しむことができる。これでこそ、初めて温泉養生の効用を完全に引き出したといえよう。梅を最も多く植えたので、「茂木氏梅園」といわれる。茂木氏は豪商でありどんなことでもできるだろうが、彼はそうせず、私財を投じてこの事業をおこない、それを私することなく大衆のために開放した。実に偉いではないか。さらに、この花木泉石の名勝は、単に風雅な遊びに適しているばかりでなく、国のために尽くしている人々の疲れを癒し、志気を壮大にし、発想をあらたにさせることができる。その効果は非常に大きい。以上を記し、来園者に伝える。」「梅園橋」と左手に「澤田正廣記念美術館」。「梅園橋」周辺の梅の花を楽しむ。「梅園橋」を潜って。「椿の花」。ピンクと白のコラボ。ズームして。「梅園橋」とその先に「澤田正廣記念美術館」を見る。「澤田正廣記念美術館」の「詩情あふれる彫刻の美術館」案内。「梅園橋」から「初川」の下流側を見る。「絶景」かな。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.23
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「初川」にかかる来宮神社の「社宮神橋(しゃぐうじんばし)」を渡る。そして「来宮駅(きのみやえき)」の前に出る。「来宮駅」は、静岡県熱海市福道町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)伊東線の駅である。東海道本線のすぐそばにあり、地理的には伊東線がここから分岐している状態であるが、ホームがあるのは伊東線のみである。並行して走る東海道本線上には、東京方面から熱海止まりの列車が折り返すことができる2本の電留線がある。そのため熱海止まりの電車が熱海から回送となり東海道本線を経由して「電留線(でんりゅうせん)」に入線し点検・整備を受け東京方面へ折り返していく。「電留線」は、鉄道駅などにおいて一時的に電車を停めておくための線路で、側線の一種であると。これから向かう「梅園開花状況」案内板。「来宮駅」前の「熱海桜」は満開中。熱海函南(あたみかんなみ)街道前の「来宮駅」から少し登った左側にあったのが「弁財天女堂」。この「函南」の由来ですが、温泉地箱根の南に位置しているからと。 もともと箱根は「函嶺」と書かれていたようで、「函嶺の南」がいつしか「函南」へと転化したとのこと。ここの「熱海桜」もほぼ満開。「無縁仏」の塚であろうか。「本殿」。「本殿」の前の左右にはチベット仏教の「マニ車」の如きものが立っていた。「マニ車」・輪蔵を右回り(時計回り)に回転させると、回転させた数だけ内蔵されたお経・真言を唱えるのと同じ功徳があるとされているのだ。「弁財天由来記伝説に依れば其の昔弘法大師が江の島にて弁財天法の秘密護摩修法し其の灰を以って弁財天と十六童子の像を御造りになった。この伝説の通り明治維新前江の島神社には弁財天が𫝆祀されてあったが時の神佛分離令により廃された。その弁財天がいつ頃かこの地に祭祀されてあり維新の功臣右大臣岩倉具公、太政大臣三條実朝公、島津久光等高位顕官の信仰厚く来熱入湯の節は必ず御参拝になられた。其の後年と共に熱海弁財天様として知られる様になり広く庶民信仰の的となりました。そもそも弁財天とは吉祥天女の別名であり我邦の古画にも吉祥天女像画室(奈良博物館蔵)がありその美貌は古美術古佛画中の最高の美像であります。その利益は一切世間を饒益し貧窮を救い財殻を支えるものとされています。所謂、招徳円満富貴の佛神であります。その従へる十六童子は印鑰童子(いんやくどうじ) 麝香童子(じゃこうどうじ)とも言う官帯童子(くわんたいどうじ) 赤音童子(せきおんどうじ)筆硯童子(ひつけんどうじ) 香精童子(こうせいどうじ)金財童子(こんざいどうじ) 召請童子(しょうどうどうじ)稲籾童子(とうちうどうじ) 大神童子(だいしんどうじ)計升童子(けいしようどうじ) 悪女童子(あくにょどうじ)飯櫃童子(はんきどうじ) 質月童子(しつげつどうじ)衣裳童子(いしやうどうじ) 除哂童子(じょきどうじ)蚕養童子(さんやうどうじ) 悲満童子(ひまんどうじ)酒泉童子(しゆせんどうじ) 密跡童子(みっしゃくどうじ)愛敬童子(あいきやうどうじ) 施願童子(せがんどうじ)生命童子(しやうみやうどうじ) 臍虚空童子(せいこくうどうじ)従者童子(じうしやどうじ) 施無畏童子(せむいどうじ)牛馬童子(ぎうばどうじ) 随令童子(ずいれいどうじ)船車童子(せんしやどうじ) 光明童子(こうみょうどうじ)善財童子(ぜんざいどうじ) 乙護童子(おとごどうじ) 」「永代供養塔」。内陣の弁財天。そして更に坂を上り「熱海梅園」前の「梅園前」交差点に到着。ここが「熱海梅園」入口。「熱海梅園 梅まつり 開催中」の横断幕。梅園前の植栽が、赤、黄色、ピンク 、白の葉や花で迎えてくれた。梅ではないヒバ?の黄色と赤のコラボ。前方に「熱海梅園」の入場ゲート。ゲート前では、紅白に咲く梅が迎えてくれた。その中央に「梅園」碑。「第77回 熱海梅園 梅まつり」案内板。令和3年1月9日~3月7日で開催中と。ゲートの横にチケット売り場があった。300円のチケットを購入し、「熱海梅園」に入る。正面にも「熱海 梅園」碑。近寄って。更に。「梅園の由来明治十八年(一八八五 )わが国初の温泉療養施設「噏汽館(きゅうきかん)」開設に伴い、内務省衛生局長 長与専斎の遊歩公園造成提唱に応じた横浜の茂本自ら選定したこの地一万坪に早咲きの梅 初雁、冬至梅など紅白百種をこえる梅三千株と松、桧、楓を配し、三亭、五橋をもって翌十九年完成し「茂木氏梅園」と令名、「熱海梅園」と通称され当初より公開された。その後、皇室財産、国有財産を経て、昭和三十五年熱海市に譲渡された。長与専斎 略歴天保九年(一八三八)長崎県大村の藩医の家に生れ、十六歳で大阪の蘭学塾、緒方洪庵の「適塾」に入門、のち長崎で直接蘭医に学び長崎医大の前身、精得館、長崎医学校の学頭をつとめ近代医学の導入を図った。明治四年岩倉具視の米欧使節団に随行、国民の健康保護、医事行政、諸施設に深く啓発され、明治六年文部省初代医務局長のあと自ら案出した「衛生」のことばを用いた内務省初代衛生局長となり、在任十八年わが国医制、公衆衛生の基礎をつくった。明治三十五年(一九〇ニ)死去。」ゲートを振り返る。「熱海梅園のご案内」。右手に「夫婦松(めおとまつ)」。樹齢400年以上と推測されるという「夫婦松」。二股に分かれていた。「 雨風に負けず寄り添う夫婦松」の句碑が横に。梅の開花率は5部弱か。こちらの白梅は8部咲き。マスクをしていることもあり、梅の香は・・・・????。「熱海梅園」の中を流れる「初川」。水量は豊かに。「中央広場」近くの案内板と紅梅。「第77回熱海梅園梅まつり行事案内」板。期間中には「大道芸パフォーマンス」が行われると。「熱海梅園 配置案内図」が日本語、英語、中国語、韓国語で。見事に開花中の白梅。紅梅はこれから。梅まつりのパフォーマンス会場舞台は寂しそうに。右の白梅は「貫一の梅」、左の紅梅は「お宮の梅」。白梅の手前にはエピローグを迎えた蠟梅の姿が。白梅を青空を背景に。ここでも「メジロ」を発見。「松尾芭蕉」句碑。「梅が香に のっと日の出る 山路かな」と。「松尾芭蕉の句碑梅が香に のっと日の出る 山路かな「梅が香に・・」の句は元禄七年、芭蕉が五十一歳の時、七部集の第六集として、門人が発刊した「炭俵」の上巻に納められている。これは門人である「志太野波」、「小泉狐屋」、「池田利牛」、「服部乱雪」等が、翁の旅立ちを記念するための句会の席上、連句の主座として発句したもので、翁の「むめ(梅)が香にのっと日の出る山路かな」のあとを、野波がすかさず「ところどころに 雉の啼きたっ」と付けている。その野波が「家晋請を 春のてすきに とりついて」と続け、これに芭蕉が「上のたよりに あがる米の値」と付けている。芭蕉が熱海に来たことがあるかは分からないが、梅園に隣接していた撫松庵(ぶしょうあん)の高台から見た光景が思い描ける句である。」ピンクと白のコラボ。白と赤のコラボを追う。青空に映えて。花壇にはパンジー、縮れ葉牡丹が。右手に「迎月橋」。朱の「駐杖橋」。「梅園五橋」のうち、この「駐杖橋」という橋は、赤く塗られていて優雅な形をしていた。「武田鶯塘(たけだおうとう)」句碑。「錦浦観潮 夏すでに 漲る(みなぎる)汐の 迅さかな」。このほか、梅園内には下記の句碑があったのだ。「梅が香にのっと日の出る 山路かな」(松尾芭蕉)「月光は 流れに砕け 河鹿なく」(波多野光雨)「梅園や 湯あみの里の 出養生」(石田春雅)「梅一輪 南枝一輪 また一輪 (詠人不知)「三界の さとを出あるく 頭巾かな」(斧 三休) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.22
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県道11号線・あたみ梅ラインに向けて坂を上っていくと、正面に見えて来たのが「海蔵寺」。熱海市水口町17-24。寺号標碑「臨済宗 妙心寺派 海藏寺」。「坪内逍遥(つぼうちしょうよう)先生御墓所 正面丘上」碑。「杉本苑子(すぎもとそのこ)先生御墓所 階段上り裏門出て正面右奥」。石段の途中に、可愛らしい「六地蔵」が小堂の中に。参道の先に「山門」が見えた。「山門」を潜る。「本堂」横の掲示板と石仏。掲示板には「にくむ心にてひとの非を見るべからず」と。たしか、道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の一節。他人の悪い事や間違いに関わったり、欠点をあげつらってはいけない。また弟子たちに「誰にでも欠点や過ちはある、憎む心ではなく、温かい心で見なさい」と戒めた言葉。今の日本では、ある意味で、読み返し考えたい一節と感じるのだが・・・。本堂前の大きな「石灯籠」と本堂前の真新しい休憩所? 「本堂」。「臨済宗 妙心寺派 錦峰山 海蔵寺」。扁額は「錦峰山」。「坪内逍遥 杉本苑子先生墓所」の手書きの案内板が、寺務所の入口に。紅梅であろうか。「本堂」を斜めから。 禅宗特有の鐘が本堂の回廊上に。境内に「力石」があった。「逍遥先生景慕之碑」「景慕」とは仰ぎしたうこと と。「井上省三」の胸像。官営毛織物模範工場千住製絨所の初代所長。「海藏寺と井上省三との関係井上省三は明治一九年十月ニ日、東京大学教師であったドイツ人医師ベルツ博士のすすめにより熱海へ転地し、当時一流の温泉旅館だった真誠社に宿泊して療養に専念した。しかし、病気(肺結核)は重く、寿命を悟った省三は、かねて親しい日吉又四郎(旅館出人りの貸本屋。自宅は現在の上宿町)に美しい海を見渡せる墓地を求めるように依頼した。そこで又四郎は前から懇意にしてもらっていた海蔵寺の第九世宗琢和尚に相談し、省三を駕篭に乗せて海蔵寺へ案内し、宗琢和尚に引き合わせた。和尚は、一見して省三の人柄に打たれ現在の墓地を選び、又四郎と共に省三を墓地まで手をひいて案内した。その好意に、省三は感涙を流したと云う。戒名「智光院明道省三居士」も生前に選ばれた。明治十九年十ニ月十四日没」「毛繊工業創始の父 井上省三弘化ニ年(一八四五)十月十五日 山口県下関市王喜町草場の素封家、伯野瀬兵衛常英、さとのニ男として出生。 幼名竹之助。三歳の時、同県厚狭群山陽町殿町の井上半右衛門、ふきの養子となる。 文武の才幹あリ。慶応ニ年 四境戦争に功あり。慶応三年 山口兵学校に入り簡学を修む(ニ十三歳)。明治三年六月(一八六八) 木戸孝允に伴われ上京しドイツ学を修む(ニ十六歳)。同年十ニ月 北白川宮能久親王御渡欧留学の随従を命ぜられ横浜出帆、アメリカ・イギリスを 経由ドイツのベルリンに留学し兵学を学ぶ。約ニ年後日本に最も必要なものは産業の 発展であると痛感し明治五年(一八七ニ) 断固として決意し、兵学を止めベルリン南東のザガン市、カール・ウルプリヒト 毛織物工場に一職工として入社(ニ十八歳)。 文字通り不眠不休の努力を重ね技術の修得に専念、明治七年四月留学期間満了後は 自費で研究を続け明治八年十月 全技術を修得し帰朝(三十一歳)。明治九年一月(一八七六) 内務省御用掛を命せらる。同年三月 羅紗製造所建設の允許が下る。同年五月 製絨機械の注文、工師雇い入れの命を受け急ぎドイツへ差遣さる。明治十年八月 サガン市グスターフ・キョウンクニ女 ヘードビヒ( 二十五歳)と結婚す。 (三十三歳)同年十ニ月 夫人と共に帰朝、直ちに沙羅製造所の建設、諸機械据付等創立の事業に徒事。 東京都荒川区南千住六丁目明治十ニ年八月(一八七九) 製絨所完成し試運転に成功。我国最初の毛織物生産さる。同年九月 千住製絨所長に任ぜらる。明治十四年四月 千住製絨所 農商務省の所管となり、農商務省御用掛を命ぜらる。明治十六年十ニ月失火によリ主工塲焼失。明治十七年 一身を投げ出して再建に没頭。明治十八年 再建なり、生産高十六年のニ倍半となる。明治十九年(一八八六) 数年前よリ肺結核あり。火災後の心身の過労が病勢を悪化せしめ、 七月よリ伊香保に転地。更に十月熱海(銀座町十四番)真誠社に移って 静養中遂に第中に十ニ月十四日 遠大の抱負を胸に秘めつつ長逝す。 享年四十二歳。 法名 智光院明進省三居士 海藏寺に葬る。明治ニ十年ニ月 夫人へードビヒ、長女ハナを伴って帰国す。初期の目的通り兵学を専修すれば本人の立身出丗は意のままであったにもかかわらずその一切を放棄して文字通り製絨に一身を捧げ、然も志半ばで他界された事は誠に惜しみ余りある痛恨事である。死に臨み彼の胸中は如何ばかりであっただろうか。二十六歳で上京以来遂に一度も故郷の土を踏むことはなかった。我等は今日の繊維産業の隆盛は総べて彼の偉大な恩恵を受けている事を忘れてはならない明治ニ十一年 千住製絨所は陸軍省の所管となり、以来毛織技術のリーダーとして拡大を重ねたが昭和ニ十年八月(一九四五) 第ニ次大戦の敗戦によリ陸軍と運命を共にした。胸像の作者は井上省三の甥の高須俊彦(帝国芸術院会員 朝倉文夫の門下)昭和十ニ年一月十九日除幕式墓は本堂裏の道路を渡り左奥上です。」「本堂」横の庭園。作庭にもこだわりを感じるのであった。黄色の花が境内に。ヤマブキに似た花であったが。雲南黄梅にも似ていたが。坪内逍遥の墓に向かって境内を案内に従い進む。右手にあったのが「弁財天」。「坪内逍遥先生御墓所」案内碑。「南無阿弥陀佛」碑。そして階段を上がって行くと左手に「坪内逍遥墓碑」。法名は「雙柹院始終逍遥居士」と。「坪内 逍遥」👈リンク(つぼうち しょうよう、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。晩年はこの後訪ねた熱海市に建てた「双柿舎」に移り住んでいたと。墓碑には「逍遥坪内雄蔵夫妻墓」と刻まれていた。本名は「坪内雄蔵(つぼうち・ゆうぞう)」であると。残念ながら、「坪内逍遥」の作品を読んだ記憶はない。そしてその奥に海藏寺歴代住職の墓碑が並んでいた。正面から。塔身が卵形という多くの「無縫塔」が並ぶ。歴代和尚「連芳碑」。更に奥の祠にも石仏が。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)であろうか。そして愛犬の墓碑も。次に境内を裏門から出て、墓地の中にある「杉本苑子(すぎもと そのこ)」の墓地に向かう。こちらは墓地の左側奥。「杉本苑子」墓。「杉本苑子」は日本の女性小説家、歴史小説家、文化勲章受章者。2017年5月31日、静岡県熱海市の自邸にて老衰のため死去。「91歳没」👈リンク。「杉本苑子」墓碑には「苑」と刻まれていた。墓誌には戒名が「彩文院苑智慈光大姉」と。「杉本苑子 略歴一九ニ五年 東京に生まれる一九五ー年 サンデー毎日懸賞小説に入選 吉川英治に師事一九六三年 「孤愁の岸」で第四八回 直木賞受賞一九九七年 熱海市名誉市民となるニ〇〇ニ年 秋の叙勲で、文化勲章を受けるニ〇一七年 九十ニ歳で生涯を閉じる著書 穢土荘厳、散華、杉本苑子全集 他」。そして墓地の入口まで戻り先程利用した「海蔵寺」の裏門を見る。「海蔵寺」を後にして進むと直ぐに右手に竹垣が現れた。ここが「双柿舎(そうししゃ)」。熱海市水口町11-17。樹齢300余年と言われる柿の大樹が2本あることにちなんで「双柿舎」(そうししゃ)と呼ばれるようになったと。入口は全て閉まっていたので竹塀の上そして隙間にカメラを構えて「双柿舎」の庭を撮影。「シェークスピアの翻訳家としても有名な明治の文豪、坪内逍遙が、1920年(大正9年)から1935年(昭和10年)に亡くなるまでの15年間を過ごした住居。坪内逍遥は、約9年間、荒宿(現在の銀座町)に住み、シェークスピア劇の翻訳や、戯曲「名残の星月夜」、「義時の最後」などを著しましたが、閑静だった荒宿が騒がしくなり、執筆活動に専念できなくなったことから、水口町に新しく建てたのがこの双柿舎です。樹齢300余年と言われる柿の大樹が2本あることにちなんで「双柿舎」(そうししゃ)と呼ばれるようになりました。邸内には、塔の形の書屋や筆塚があり、また、会津八一の筆による門の扁額なども見どころとなっています。」とネットから。2階は書斎であったと。こちらが入口の様であったが閉まっていた。「早稲田大学「双柿舎」ご案内双柿舎は坪内逍遙の別荘として建てられました。逍遙は、早稲田大学創立の功労者、文学部の開設者であると共に、明治・大正・昭和の三代にわたる、文壇・劇壇の偉大な開拓者であり指導者でもありました。文学では「小説神髄」「当世書生気質」を著わして、わが国の近代小説の端緒をつくり、演劇では「桐ー葉」「沓手鳥弧城落月」等をもって歌舞伎に新風を吹きこみ、あるいはシェークスピアに傾倒して、その全訳「シェークスピヤ全集」四十巻を完成しました。逍遙は早くから熱海の風土を好み、明治44 ( 1 9 1 1 )年には荒宿の地に小さな別荘を営みました。しかし熱海町の発展につれ、そのあたりは繁華な町となったため静けさを求めて、大正9 (1920 )年に山の手の水口村(水口町)に居を移しました。この地は、うしろに四季折々その趣ををかえる山々を背負い、眼下には熱海の海と市街がひろがる景勝の地でした。敷地には、ニ百余年を経たかと思われるニ本の老柿があり、逍遙はこれに因んで「雙柿舎」と命名し、以来ほとんどここに起き伏して著述や研究につとめ、ここで生涯を終えました。双柿舎はすべて逍遙自身の設計です。建物はもちろんのこと、庭のたたずまい、泉石の配置、一木ー草に至るまで、逍遙の細心の注意が行届いており、さながら一つ創作々品をみるようです。逍遙書屋は昭和3 ( 1 9 2 8 )年に建てられましたが、これも逍遙の苦心の作で、和漢洋を折衷した特異な景観をもち、塔上には、シェークスピアの句から思いついた鋳金の翡翠の風見が掲けられています。昭和5 ( 1 9 3 0)年、この土地建物は財団法人・国劇向上会に寄付されましたが、逍遙は昭和1 0 ( 1 9 3 5 )年2月2 8日、7 7歳で逝去、またセン夫人も昭和24 (1949 )年2月21日85歳で長逝されましたので、同会から早稲田大学に寄贈されました。」「双柿舎」内部の配置図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.21
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「糸川」に沿って上流に向かって戻る。「桜橋」から。再び「メジロ」を追う。ネット上にはこんなページが「ウクイスとメシロの違いとは! ?写真て比較してみた! !」👈リンク花も「散って」。 ・梅・・・こぼれる ・萩・・・こぼれる ・椿・・・落ちる ・桜・・・散る ・菊・・・舞う ・牡丹・・崩れる ・朝顔・・しぼむ ・薔薇・・枯れる ・紫陽花・・しおれる日本語は語彙、表現方法が豊富なのだ。これぞ日本語の「美」。日本人はマスクをしていても、目で相手・対象を見つめながら相手の感情、自然の現象を詳らかに出来る「sensibility・感性」を持つ民族なのである。蜜を求めて逆さになって。ブーゲンビリアも負けじとピンクの花を。「糸川」の御成橋から糸川橋間(約180m)には、川を覆うようにブーゲンビリアが植えられていた。ブーゲンビリアは南米(ブラジル) 産のオシロイバナ科の熱帯性低木。南国では一年中咲いているが、日本では5~10月に咲く。花のように見えるのは、実際には、苞(ほう)と呼ばれるもので、苞が3枚集まったその中心に咲いている小さな白いものが花。苞には、葉脈があり、葉の形をしている。苞は肉厚が薄いので、風に吹かれてヒラヒラと舞う。苞色には、赤や白、桃、橙、黄色、それらの複色があるのだと。上手くピントが合いました。私の素人カメラマンへの思い遣りでメジロ君もしばし動かずに。前方に「ドラゴン橋」。「瓦斯燈」。実はこれ、本物のガス燈であると。点火のほうはタイマーによる夜間自動点火との事。依然、ここ糸川の「熱海桜」の夜桜を見に来た時の「瓦斯燈」の写真です。更に「御成橋」に向かって。座布団の模様のごとくに。掌の如き水鉢そしてその上に。「アンコウ」であろうか?これは「蟹」。ブーゲンビリアとのコラボ。こちらも花のピークは過ぎていたが。再び「メジロ」を。やわらかな花を芽吹き、丈夫な枝を持つこの生命の一本は、何年もかけて培ってきた命の証。この季節しか咲かないこの花は、人々を魅了すべく、今日も満開の花で曇天を彩っていたのであった。花の深い部分は、紅に染まり、それが集まって一つの淡いピンク色の木となる。そしてこの後に、枝の先からは、緑色の芽が噴き出て、新しい命の始まりを告げるのだ。「ヒラメ」が風に舞い踊った「熱海桜」の花びらに囲まれて。既に命の終わったこの花びらは、この後に色も変わり、本来の花の華やかは失うが、そこからは、やがて川に流れ込み、浮かぶ花びらが渦を造り、そして春色の流れが「熱海桜」終焉の美しさを見せてくれるのであろう。そして「御成橋」に近づいて。「糸川」の流れを覗き込むように。そして「御成橋」から今年の「糸川」の「熱海桜」も見納め。次の目的地の「熱海梅園」に向かって徒歩で進む。「熱海市消防署」では梯子車の点検中か?そして「御殿稲荷神社」に立ち寄る。静岡県熱海市中央町1-1。「御殿稲荷神社 御由緒江戸時代初頭の寛永年間(一六二四年~四四)三代将軍徳川家光公は徳川家康公が湯治をしたというこの熱海に湯治御殿を造営した。その際に御殿の鬼門除けのために京都伏見稲荷神社より分祀して湯治御殿の地に建てたのがこの「御殿稲荷神社」である。以来、熱海大湯の湯は頻繁に江戸城本丸、西の丸に届けられ熱海の湯は将軍家のご用達となった。明治二十二年(一八八九年)、この地に御用邸が造営され冬の避寒を目的として、大正天皇、皇孫三殿下(昭和天皇、高松宮、秩父宮)がご滞在された。御殿稲荷神社は春には桜花も美しい徳川家ゆかりの社である。毎年、ニ月と九月に例祭を行い、商売繁盛(出世の湯)、不老長寿、無病息災を祈願し多くの方が参拝されている。」「社殿」。創建 享保 八年? (1723年)改修 平成 二十四年 (2012年)鳥居 昭和拾年(再建) と。内陣。「総合庁舎入口」交差点を渡る。熱海新聞というローカル紙が入っているビルの前庭に二頭の馬が丸太の囲い越しに如何にも草でも食んでいるような風情で佇んでいた。ビルのオーナーの父親が馬が大好きで、かつて所有していた馬にそっくりの馬のオブジェであると。毛の色もそっくりに塗ったと。馬は今でもどこやらで乗馬用として健在だという。場所はちょうどマックスバリューに行く角で、熱海新聞など入るビル。そのビルの管理会社もなんと父親が所用していた馬の名前からとった名称とか。後ろ姿も。そして更に坂道を上って行った。「初川」に沿って進む。「初川橋」から「初川」の流れを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.20
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国道135号を渡ると、その先には「渚親水公園」があった。「スパ・マリーナ熱海」の先には「熱海後楽園ホテル」とその奥の山の稜線上に「熱海城」が。「熱海城」。「熱海城は海抜120m余、名勝地錦ヶ浦を脚下に控えた天与の要塞地にあり、築城には最適の地とされていたと。戦国時代の昔、関東・東海地方に威をふるった小田原北条氏歴代の名将たちも水軍の根拠地として築城を希望しながら果たし得なかったと伝えられていると。熱海城天守閣の建築様式は日本の築城建築が発展の頂点に達した桃山時代、慶長初期の様式にのっとり、外装5層、内部9階の高層建築で昭和34年に築城された と。反対側には「真鶴半島」が。その先に想い出深い!!「三ツ石」の姿が。中学生の頃、浜辺から約200mに渡って続く岩礁の先に、3つの巨大な岩が顔を出していたこの「三ツ石」に、干潮を利用して徒歩で渡り外海に向かって釣りに熱中していたのであったが、振り返って見ると・・・・・!!!!!。そして「恋人の聖地」のモニュメント。そして「スカイデッキ」を「熱海サンビーチ」方面に歩く。光る海の先に「初島」👈リンク が確認できた。「伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯である。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住している」とウィキペディアより。首都圏から一番近い離島 「初島」とあったが、「離島 」の定義は?「ムーンテラス」を見る。熱海ムーンテラス 恋人の聖地のモニュメントをズームで。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。「ムーンテラス」を正面から。夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。早朝には水平線からのぼる朝日がビーチや街を染める美しい景色を見ることができる場所。その後ろに立ち並ぶホテル・マンション群。毎年見る度に白き高層ビルが増えていくのである。 白き高層ビルの先にダイヤモンドヘッドの如き山が見えれば、これぞハワイ・ホノルル・ワイキキビーチ。しかしこの日は「熱海サンビーチ」には人の姿はなし。そして2本の「熱海桜」の間にあったのが「釜鳴屋平七(かまなりや へいしち)夫婦像」。この像は、文化勲章を受章した熱海市名誉市民である澤田政廣の作「釜鳴屋平七夫妻像」。安政時代の義人、平七と妻の像。不況で網元が漁民に賃金を払わなくなり、平七たちは一揆を起こし、代官所へ命がけの直訴。平七は首謀者として八丈島流しとなるが、虐待により途中の大島で死去。35歳だったと。平七夫婦は現代の海を見ながら何を思っているであろうか。「釜鳴屋平七夫妻像」そして「熱海桜」を見上げて。ズームで。台座には「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起こった漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳 武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元側から脱退、漁民に味方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七らは漁民250余人とともにムシロ旗を立て韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川太郎左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら7人は捕らえられ、首謀者と見られた平七は島流しの刑を受け、文久3年10月〈1863年〉江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島に降ろされ、11月4日35歳で亡くなりました。漁民たちは平七の意志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露100有余年、今もなお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」「釜鳴屋平七夫婦像」の「熱海桜」をズームで。横の階段の壁は水族館の如くに魚たちが泳いでいた。花壇には「熱海ムーンテラス」の文字が。「ユリオプスデージー」の花であろうか。茎葉は春菊に似て。「スカイデッキ」下の遊歩道を歩き糸川方面に戻る。再び「スパ・マリーナ熱海」越しに「熱海城」を。「熱海港防波堤」の先の「初島」を見る。そして再び「熱海渚橋」。「糸川」沿いの「熱海桜」を楽しみながら「御成橋」に向かって上って行く。「柳橋」。ズームして。この樹はこの日が満開のピークか。橋の欄干の波の上にはカモメの像が。桜の花びらが川床の岩に取り残されて。「糸川橋」。「柳橋」を振り返る。再び「熱海桜」の原木を。いつまでも頑張って欲しいのであった。そしてこの後は、しばし「熱海桜」に戯れる「メジロ」の姿をカメラで追う。棘のある枝で羽を休める「メジロ」の姿。こちらは「ヒヨドリ」であろうか?メジロの特徴は、目のまわりの白いフチドリ(これも短い羽毛)。からだのあざやかな黄緑色から、ウグイスと間違える人もいるのだが。花びらに陽光が当たるとピンク色が映えて。怪しい雲が上空に。照明の座も芸術品であった。青空がなかなか姿を現さなかったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.19
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コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの少ない、屋外の散歩としてマスクの完全着用の下で、2年ぶりに「あたみ桜 糸川桜まつり」に東海道線を利用して向かったのであった。熱海駅を振り返る。「熱海駅前平和通り名店街」に進む。人の数は少なかった。そして「糸川」に架かる「御成橋(おなりばし)」に到着。「梅まつり」と「あたみ桜 糸川桜まつり」の今年のポスター。「御成橋」の名は、家康公が熱海を訪れた際、この橋を通って「御成り」になったことに由来し、橋には家康公が詠んだとされる句が刻まれていた。徳川家康熱海入湯句碑「春の夜の夢さへ波の枕哉」 慶長9年3月3日 徳川家康。「春の夜は短くすぐ明けてしまうのにそのはかない夢にもこの地・熱海の波が現れて来たのだ」か。慶長9年(1604年)3月、家康は2人の子供、義直、頼宣を連れて熱海に7日間滞在、本陣今井半太夫の湯亭に逗留した。関ヶ原合戦前の慶長2年(1597年)3月にも訪れ、熱海の湯で天下取りへ心身の疲れを癒した。計2度訪れたと。熱海市中心部を流れる糸川沿いの遊歩道(糸川遊歩道)には、57本のあたみ桜が植栽されている。1月には咲き始めるため、「日本でもっとも早く咲く桜」と言われているのです。熱海市以外ではほとんど見かけることはなく、「門外不出」の桜として知られている。昭和52年(1977年)には熱海市の木に指定されたのだ。御成橋から糸川沿いの300m程の遊歩道を下っていくと、最終的に海沿いの国道135号線(下り)へ出ます。その間、御成橋 → 新柳橋 → ドラゴン橋 → 桜橋 → 糸川橋 → 柳橋 → 渚橋 と糸川に架かる橋を右手に見ながら進んで行った。橋のデザインはそれぞれ違い、個性的で見ていて楽しいのであった。しかし、「かつて赤線地区だった一帯のイメージを変えたかった」が様々な橋のデザインの当初の目的の一つであった事を以前にネット情報から知ったのであった。下流に向かって左側の道を進んでいく。すると、今にも動き出しそうなタコの姿が。糸川の水面には既に花びらが落ち静かに流れていた。「あたみ桜」は既に満開のピークは終わっていたが、まだまだ・・・・。そして「新柳橋(しんやなぎはし)」へ。「しんやなぎはし」と。「新柳橋」の欄干のモニュメントには揺らめく柳の葉の姿が。熱海桜は花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長で、カンヒザクラとヤマザクラとの雑種と推定されているのだと。熱海桜はもともとは日本の桜ではなくてインド原産の寒桜の一種。そして次に「ドラゴン橋」に。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。欄干がドラゴンの骨格のように。「ドラゴン」の後ろから。「熱海桜」を飲み込むが如き「ドラゴン」の姿を。「龍」・ドラゴンを題材にした迫力ある欄干。「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。」亀とマンボウのオブジェ。上部は波の姿か。ズームして。「桜橋」の手前には「坪内逍遥 歌碑」が。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいたのだと。碑文には、「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう」 と。再び「熱海桜」を見上げて。そして「桜橋」へ。花びらが吹き溜まりへ。「熱海桜」碑。「糸川橋 」の麓、これが「糸川あたみ桜 基準木」。「糸川あたみ桜 基準木」案内板。「糸川あたみ桜 基準木」案内柱。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年( 1 8 7 1年)頃イタリア人によって、熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植我されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。」海の方に向かって開花が進んでいた。ズームで。「糸川橋」を見る。欄干には白きカモメの姿が。更に海岸に向かって進む。陽光も射し込んで。「柳橋」。花びらが海へと。朝の陽光が差し込み。「柳橋」の先に海が見え初める。大きな波の姿か。そして「渚歩道橋」。山の尾根の上の「熱海城」が姿を現す。そして国道135号に架かる「熱海渚橋」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.18
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車に戻り次の場所の「新道橋」まで移動し、道路脇に車を停める。この道はまつりの『せりざわ会場』があった県立茅ヶ崎里山公園に行く道。この近くの田圃には既に脱穀が終わった稲藁が束ねられて天日乾燥中。これぞ秋の風物詩。「小出川 彼岸花群生地」案内板。「小出川沿いの彼岸花(曼珠沙華)は、上流の里山などから大水により球根が流れ込み、古くからこの地域に自生していました。平成15年頃から流域の彼岸花保護団体が相次いで組織され。増殖・保全活動に努めています。開花期(9月下旬頃)には、上流の大黒橋から下流の追出橋まで両岸3キロが紅の帯に染まり、西方に望む富士や箱根連山を借景に、絶好の散策コースになっています。毎年、この時期に「小出川彼岸花まつり」を開催し、来場者を歓迎しています。」2本の赤い帯が緩やかにカーブして。この周辺は既に花のピークを過ぎていたが。これぞ秋の風景。期待していた朝の陽光は姿を現さなかった。しかし、これぞ「畦道」の彼岸花。そして引き返す。それぞれ6個の花それぞれに雄蕊と雌蕊がヒゲの如くに。近寄って。更に。カラス除けの「カイト鷹」も風がなく休憩中。未だ蕾の株も。1株に6個の花が。先端に黄色い「やく」が付いているのが「おしべ」で6本。そして黄色い「やく」が付いていいない「めしべ」が1本。花弁と雄蕊、雌蕊のカオス。これぞ三密!!そして下流側をズームして。.更にズームして。近くにはコスモスの花も。赤の彼岸花と白のコスモスの共演。再び車に戻り、次の場所へ移動。この橋は「追出橋」。横の下流側の巨大な管は神奈川県企業庁寒川浄水場からの水道用管。相模川の寒川取水堰でとられた上水道用の水が横浜市の小雀浄水場へ流れている。水管橋の銘板横浜市水道局「小出川水管橋」昭和44年11月竣工三菱重工業株式会社横浜造船所橋の周囲からは、定期的に鳥脅しの爆音が聞こえて来た。その先にも、やや細い水色に塗装された配管が川面にも映り込み。そこには野鳥の姿も。ここは、今回はじめて訪ね他場所であったが、彼岸花の数は少なく。再び「追出橋」と神奈川県企業庁寒川浄水場からの水道用水管。そして今年も真っ赤な花を咲かせ、山里に秋の訪れを告げている「小出川の彼岸花」を堪能して帰路に。そして我が家の庭にも「シロバナマンジュシャゲ」が満開。「シロバナマンジュシャゲ」はヒガンバナとショウキズイセンが交配してできた雑種だろうと。昔の人の知恵で植えられた彼岸花ですが、これまでその風景が守られているということは、金色の稲穂を背景に咲く真っ赤な彼岸花の風景を愛おしむ心が、日本人の心として連綿と受け継がれて来ている事を今年も再認識した朝なのであった。 ・・・もどる・・・
2020.10.09
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この日は10月5日(月)、早朝に、車で20分ほどの場所にある『小出川彼岸花』を訪ねに行ってきました。『小出川彼岸花』の現場近く、車窓からは美しい朝焼けの光景に車を止めて。秋の雲が赤く染まって。小出川(こいでがわ)・「大黒橋」の近くに車を停め、しばしの散策の開始。「大黒橋」の横にあった「大黒橋小公園」とモニュメント。小出川の流れと、水面にきらめく陽光をイメージしたが如きモニュメント。「大黒橋その昔、窪島氏が寄付された伊豆小松石ニ本の橋であった。この橋の近くには比丘尼橋があって、玄光院(廃寺)から宝泉寺に通う尼さんが掛けた橋といわれる。比丘尼橋に対して、大きな橋こう名付けたという説や、黒い立派な橋だったので、という話もある。新編相模国風土記稿にも大黒橋の名がある。」「第13回小出川彼岸花まつり」は、2週間前の9月21日(月)から行われているとのこと。今年は例年に比べ開花が1週間以上遅れているようで、この朝にはかなり満開状態を楽しむことが出来たのでした。『大黒橋』入口には箱に入った「第13回小出川彼岸花まつり」のパンフレットが。この日の朝は、残念がら富士山の姿は見ることが出来なかった。「大黒橋」の手前から。別の角度から。小出川 ”彼岸花”の案内板。小出川は、神奈川県中央南部を流れる相模川水系の川で、これでも『一級河川』。藤沢市遠藤の笹窪谷戸に源を発し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの脇を流れ、駒寄川(こまよせがわ)が流入し、茅ヶ崎市と寒川町の境界河川となる。新湘南バイパスとほぼ平行して茅ヶ崎市の西部を縦断し、千ノ川が流入した後、平塚市で相模川の河口付近に注ぐ河川。時間はまだ5:45、早朝散歩の人の姿も殆どなく彼岸花を独り占め。東の空は薄く赤く染まって。今がほぼピークの彼岸花。昨年も同じ事を書きましたが日本では秋の花として親しまれる彼岸花(ひがんばな)。別名、リコリスや曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれ、日本特有の「彼岸」の時期に咲く花として知られている。ネット情報に拠ると様々な名前が。彼岸花(ヒガンバナ)曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)痺れ花(しびればな)天蓋花(てんがいばな)狐の松明(きつねのたいまつ)狐花(きつねばな)葉見ず花見ず(はみずはなみず)雷花(かみなりばな)レッドスパイダーリリーハリケーンリリーマジックリリーなどなど。彼岸花とはヒガンバナ科・ヒガンバナ属(リコリス属)に分類される球根植物。日本や中国に広く自生し、秋の彼岸の期間(秋分の日を入れた前後3日間)だけに花を咲かせることに由来して名付けられたと。9月頃になると赤や白、ピンクなど花を咲かせるのが特徴なのです。山口百恵の歌『曼殊沙華(マンジュシャカ)』👈リンク♫マンジューシャカ 恋する女は~ マンジューシャカ 罪つくり~♫この曲で初めて作詞の阿木曜子が「マンジュシャゲ」を「マンジュシャカ」と発音させたのであろうか。インドの古い言葉(梵語)では「マンジュシャカ」。音写して曼珠沙華。「天上の赤い花」という意味があり、おめでたいことが起こる兆しに、天から赤い花が降ってくるという伝説があるのだと。 彼岸花を楽しめる場所は、遠藤の小出川沿いの大黒橋~追出橋の間約3km。おまつりの本会場:遠藤会場 他、打戻会場、おおぞう会場、せりざわ会場(茅ヶ崎里山公園内)白い彼岸花も。川沿いの道を散策。右手には「道祖神碑」が。「道祖神碑」の後ろにも、歴史を感じさせる小さな石碑がいくつか。小出川沿いの彼岸花を楽しむ。車のライトを点けたまま撮影してみました。白の彼岸花の数は対岸が多く。そして白とピンクの萩の花も負けじと。萩と彼岸花のコラボ。「第13回小出川彼岸花まつり」の寄付金が張り出されたボード・「祝儀板」。「第13回小出川彼岸花まつり」は「御花」と呼ばれる御祝儀で賄われているのだ。地域の方々の御祝儀や商売をされている方々の御祝儀、ご寄付、ご支援で成り立っている。そのご支援をされている方々名前を、「祝儀板」に掲載し、このお祭りの感謝の気持ちを伝えているのであった。仮設トイレも設置されていた。再び車のライトを当てて。近寄って。柿の木の下は休憩所に。花のピークを過ぎ、白が目立ち始めている株も。ススキも背伸びして彼岸花を楽しんでいるがごとくに。オシロイバナ。赤の帯が一直線に延びる。独り占めの空間。「ヒガンバナ(彼岸花)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。別名は曼珠沙華(マンジュシャゲ)、学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。中国原産で、日本全国の道端や田んぼのあぜなどに群生し、秋の彼岸のころに、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花だけが咲き、夏の終わりに葉が伸びて秋に枯れるという、多年草としては珍しい性質を持っている。地下の鱗茎(球根)に強い毒性がある有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。」とウィキペディアより。「有毒植物として知られており、特に鱗茎に作用の激しいアルカロイドを約0.1%含んでいる。アルカロイドは、リコリン50%、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリンなどを多く含む。リコリンの語源はヒガンバナ属の学名「リコリス」に由来するもので、経口摂取すると流涎(よだれ)や吐き気、腹痛を伴う下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして苦しみ、最悪の場合は死に至ることもある。 日本では水田の畦や墓地に多く見られ、人為的に植えられたものと考えられている。その目的は、畦の場合はネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、墓地の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって荒されるのを防ぐためとされる。モグラは肉食のためヒガンバナとは無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まないために、この草の近くにはモグラが来ないともいう。」とこれもウィキペディアより。川沿いの彼岸花の数には濃淡があるが、これぞ「栽培」ではなく「自然の姿」なのであった。そして近くにある「芹沢石仏石像群」まで歩く。芹沢大谷の道祖神、茅ヶ崎市芹沢308。300m先には茅ヶ崎市斎場がある。丘の上には「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の建物が見えた。「小出橋」付近から。「小出橋」の上流側を見る。下流側。「小出橋」は小さな橋。シロバナの正式名称は「シロバナマンジュシャゲ(白花曼珠沙華)」か?別名はシロバナヒガンバナ(白花彼岸花)。東の空も帯状に輝いて来たが、太陽の姿はなかなか・・・。 ・・・つづく・・・
2020.10.08
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炎暑そしてコロナとの戦いの8月も今日が最終日となりました。昨夜の23:30近くの南西の空です。左から月、土星、木星がほぼ一直線に並んでいました。昨夜8月29日の夕方から30日の未明、南から南西の空で月齢11の月と土星が接近して見えたとのこと。木星を我がデジカメで最大ズームして。そして月齢11.0の月。月齢とは新月の瞬間を0として、そこからの経過日数をあらわした数です。つまり、新月の時に0、満月の時に15になり、新月になる日の前日に29となります。約29.5日で元の新月に戻るのです。----------------------------------------------------------------------------------------------------毎年、8月の盆前に座間で開催される「ひまわりまつり」を見に行くのですが今年は新型コロナで中止となってしまいました。よって中止に伴い種まきをしていないので、ひまわりは咲いていない状況であるとネットにありました。そんな中、先日家から車で5分ほどのところに向日葵がそれなりの広さで植わっている場所があることに車で移動中に気が付きました。そこで、この日の早朝に訪ねたのでした。花の色からして、既に花のピークは過ぎているようでしたが、皆東の方向に向いて。しかし何故か、花が皆ややうつ向き加減に。花の大きさは30cm以上。新型コロナ禍を悲しんでいるように。雲ひとつ無い青空、太陽も出て陽光も強いのですが。三密状態で、なぜ太陽を見つめないのかと。少し場所を変えて、向日葵の花の向きの正面まで廻り込んで。更にズームして。遠くから見ると、やや上向きになって来たような気もしましたが。ヒマワリは地力回復の効果も兼ね備えているのだと。そのような効果を持った植物を「緑肥」と言うのです。「緑肥」とは、栽培した植物を収穫することなく、田畑と一緒に耕すことで作物の肥料とし、地力を回復させることなのです。つまり、弱った土地にヒマワリを植えれば地力が回復し、その後に栽培する作物にとっての肥料にもなるのです。ヒマワリは直根型と言われる太い根が深く生える花なのだと。そのため、それが土を耕し酸欠のない土壌にと変える効果があるのだと。また、地中の家養分であるリンを吸い上げることもあり、刈り取らずにそのまま土に混ぜて耕せば、地力の回復につながるのだと。このヒマワリ畑も上記が目的なのでしょうか?民家の壁にも朝の陽光が一面に。大学の高層校舎を背景に。ひまわりは、漢字で「向日葵」と書きます。太陽の動きにつれて、その方向に向かって成長して花も動くように見えることから、そう名づけられました。英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。太陽と強く結びついた花というイメージは、世界共通のようです。向日葵は7月20日の誕生花であり、夏の季語でもあります。気象衛星の「ひまわり」という名前は、衛星が地球に対して常に同じ向きであることからつけられたものです。多くの方は、ひまわりの花は朝は東に、夕方には西にと、常に太陽に向かって回っていると思っているかもしれません。しかし、そのようにひまわりが太陽を追いかけて動くのは、実は花が咲く前の成長が盛んな時期までです。開花して茎が硬くなると、通常の場合は東を向いたまま動かなくなってしまうのです。どうしてなのでしょうか。植物にも動物と同じように、細胞の成長や調節に作用するホルモンがあります。ひまわりにはオーキシンという成長ホルモンがあり、このホルモンは光が当たらないと濃度が上がるという特徴を持っています。太陽が当たらない側の茎の部分ではオーキシンの濃度が上昇して成長が促進され、陰となった部分の伸長が早められます。その結果、ヒマワリの頭は太陽に向かって屈曲することになります。このような性質は「光屈性」と呼ばれます。オーキシンの濃度は常に太陽と反対側の茎の部分で上昇するため、ひまわりは太陽を追いかけるかのように頭を回すことになるのです。そして、つぼみが育って花が咲くころになると、茎の成長が止まって硬くなり、太陽を追うこともなくなるのです。なぜ、成長中のひまわりが太陽を追いかけるような動きをするのでしょうか。日光を常に浴びようとすることで光合成を盛んにし、より大きな花を咲かせるためとも言われますが、確たる答えはまだ出ていないそうです。よって結論は「ヒマワリ(向日葵)は花が開いていない若いヒマワリは、太陽を追って動くのだが、花が開くと一日中同じ方向(ほとんどが東)を向いている」と。
2020.08.31
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新型コロナ、炎暑の毎日が続いていますが、今年も、我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。新型コロナウイルスをめぐるニュースを見て、思わず気持ちが塞がることもしばしば。そんな時に我が家の花をじっと眺めると、よい意味で「無」になれる、そして時間毎にその花の色が変わって行く姿に、神秘性そして生命力を感じるのです。この日も雲ひとつ無い晴天、熱くなりそうな日のスタート。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されて来たという芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くないようです。その数少ない園芸品種の一つがこの『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に似て仏教の縁を重ねることが出来るのです。朝の、純白の花です。時間は早朝5:20。純白というより既に淡~~いピンクが。遠くから見ると純白に見えるのですが・・・・。葉の上部の脇に花びらが5枚で椀状の10~15cmぐらいの大輪の花を咲かせています。八重の酔芙蓉もありますが、我が家のものは一重のもの。濃いピンクの部分が花弁化した「雄しべ」そして白い部分が「雌しべ」。そして時間は10:10過ぎ。花片全体が淡いピンクに染まり始めて来ました。頭をもたげているのが雌しべの「柱頭」。我がミツバチが放花中。花粉を求めに来ているのでしょう。葉は手のひら状に浅く3つから7つに裂け、互い違いに生える(互生)こちらにもミツバチ嬢が。そして14:20過ぎ。だいぶ酔が廻って来ました。花弁(はなびら)全体が濃いピンクに。雄しべ、雌しべの色は変わらないようです。既に酔が廻って、花の形を保てなくなって来たものも。そして既に酔い潰れている花も。16時過ぎ、夕日を浴びて。こちらは完全に酔い潰れて急性アルコール中毒症か?前日からの二日酔いが残っている?若い頃の自分の姿が重なるのです。そして翌朝には地面に落ちて。以前にも書きましたが酔芙蓉と言えば思い出すのが、高橋治(1929-2015年)の小説「風の盆恋歌」。富山県八尾市で開かれる「おわら風の盆」を主な舞台として、お互い家庭を持つ男女の悲恋を描いた物語。「風の盆」とは9月の初め二百十日の風の吹く頃、収穫前の稲が台風などの被害に遇わないように祈る祭。盆と云うから先祖や故人を偲ぶ行事かと思っていましたが、豊作を願う祭なのです。その割には静かな祭で、哀調を帯びた三味線と胡弓の伴奏に合わせて越中おわら節が淡々と唄われ、編み笠を深くかぶった男衆や女子衆が、うつむき加減に顔を隠すようにして踊ります。初秋の越中の里に哀調漂わせて唄い踊られる風の盆、その幽玄で美しい世界が、小説の中で見事に描かれています。さらに度々登場するのが酔芙蓉。朝白く咲き夕方赤くなって散っていく一日花、意識下に死を想いながら夢とうつつの間を行き来する二人、その生の儚(はかな)さ、哀しさを象徴しているのです。そして、石川さゆりの「風の盆恋歌」 作詞:なかにし礼 作曲:三木たかし♪♪♪蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉若い日の美しい 私を抱いてほしかったしのび逢う恋 風の盆私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になるこの命ほしいなら いつでも死んでみせますわ夜に泣いてる 三味の音生きて添えないニ人なら 旅に出ましよう幻の遅すきた恋だから 命をかけてくつがえすおわら恋唄 道連れに♪♪♪
2020.08.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク続いてスイレン(睡蓮)の部屋に。スイレン配置図。花の咲いている株のみカメラに。夜ざきのスイレン・「アンテレス」👈リンク。これも夜咲きの「レッドフレア」👈リンク。小さな滝が池のほぼ中央に。その手前にあったのが「クリント ブライアント」👈リンク。ズームで。「ドーベン」👈リンク。ズームで。「スター オブ サイアム」👈リンク。スイレンの池を振り返る。「ハイビスカス ハワイアンタイプ 「白の貴婦人」👈リンク」。「マンデビラ」👈リンク。ズームで。そして屋外に出て「サンゴシトウ」(珊瑚刺桐)👈リンク を。「サジオモダカ」👈リンク。グリーンハウスの外にも蓮の花が出番を待っていた。そして訪ねなかった部屋には「パパイア」👈リンク も。和風庭園「吹合の庭」も訪ねた。管理棟の横にあった和風庭園「吹合の庭」。小さいながらも池泉回遊式庭園となっていて、池の周囲を散策することができた。周りには松の木や和風の植物が植えられ、洋風のフラワーセンターにもかかわらず、しっかりした趣旨が垣間見えるエリア。「和風庭園 「吹合の庭」について日本の庭園は、樹木と水と石組みが本来の構成要素です。この庭は、池を中心とした小さな回遊式庭園で、本館に近い東半分は、井泉、遣水、洲浜、反橋など平安朝の要素を、また西半分は石橋、灯寵、池を渡る飛石など江戸風の要素を組合せて作られており、「吹合の庭」と名づけられました。植込まれた樹木は、当園手持ちの範囲で植栽され、四季おりおりの花が鑑賞出来るなど、年月の積み重ねで趣きが育まれております。」「管理棟」前の「コリウス」👈リンク も。「タチアオイ(立葵)」👈リンク 。「ホタルブクロ」に似た白き花。「アーティチョーク」👈リンク の紫の花。可憐な「ムラサキツユクサ」👈リンク 。そして花の苗の販売所を覗いた後に帰路についたのであった。。 ・・・END・・・
2020.06.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク温室への道には、朝顔&夕顔のトンネルが造られており、定植後の蔓の養生中であった。そして温室の入り口右にあった花。「チョウキンレン(地湧金蓮)」👈リンク の花。正式名はラシオカルパといい、バショウ科のバナナの一種。一度開花したら約100日は咲き続けると。「チョウキンレン中国雲南省に分布する植物で、バナナに近い仲間です。黄色の花びらのように見えるのは苞葉で、本当の花はその内側にあります。「地面から湧いてきた金色の蓮」という意味で、「地湧金蓮(元は中国名)」と呼ばれています。」アメリカデイゴの品種の一つである「マルバデイゴ」。「マルバデイゴ」👈リンク。鮮やかな紅色をした蝶形の花をつけていた。葉も同じ場所から3枚、いや1枚の葉が3つの小さな葉に分かれた形で、互い違いに生えているのだと(互生)。「グリーンハウス」 開花MAP。そして温室に入ると「モンテスラ」👈リンクが実を付けて迎えてくれた。「コチョウラン(胡蝶蘭)」👈リンク。「オンシジューム」👈リンク。「ハイビスカス室入口」。「ハイビスカス室この部屋には’ハイビスカスを中心にその.仲間やブーケ’ンビレアなどを植えました。面積245.2m2、最低室温 15℃」ハイビスカス「ブリリアント」👈リンク。情熱的な真紅の花。「ブーゲンビリア」👈リンク。ピンク、オレンジの「ブーゲンビリア」。前方に濃いピンクの「ブーゲンビリア」。「ブーゲンビリア」は、鮮やかで豊富な花色が特徴ですが、じつはこの色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉で、苞(ほう)という。実際の花は、苞の中央にある小さな白い部分。こちらは黄色の「ブーゲンビリア」。「デュランタ 宝塚」👈リンク。「ルエリア スクアローサ」👈リンク。「ヒメアリアケカズラ」👈リンク。「ルリマツリ」👈リンク。「ミツバチについて知ろう」のコーナーが展示中であった。私は素人養蜂家なのである。見慣れた「セイヨウミツバチの巣箱」。ミツバチの家となる木箱の箱。この中でミツバチは暮らしています。巣箱の中には8~10枚の巣枠が入っており働きバチの数によって2段、3段へとジョイントすることもできます。」「ミツバチの種類ミツバチの家族構咸ミツバチは単独では生きられない生物で、コロニー(巣単位で数えるミツバチの群れ)を作って集団で生活をしています。ミツバチの巣には、一匹の女王バチと何万匹の働きバチ、そして数百匹から数千匹の雄バチがいます。【女王パチ】性別: メス 体長:18mm程度 寿命:2~4年【働きバチ】性別:メス 体長:13mm程度 寿命:40日程度【雄バチ 】性別:オス 体長:16mm程度 寿命:40日程度●女王バチ 1群に1匹にしかいない女王パチは、ほかのミツバチより体が大きく。寿命が長いです。 女王バチの役割としては卵を産むことです。春に誕生する女王バチは羽化後1週間すると 外に出て、空中でたくさんの雄バチと交尾をし、そのあとは寝るときや休んでいるとき以外は 巣の中を1日中歩きまわって卵を産み続けます。毎日約1000~1500個ほど産卵します。 女王バチは雄バチと働きバチの卵を産み分けることもできます。●働きバチ 巣を構成する多くは働きバチです(巣の9割は働きバチ)。有精卵から生まれた働きバチは すべてメスです。メスといっても働きバチは卵を産みません。毎日たくさんの働きバチの卵が 女王バチによって産み付けられているため、巣には常に何万匹の働きバチがいて、せっせと 暮らしのためにひつような仕事のほとんどを行っています。●雄バチ 無精卵から生まれてくる雄バチの役創としては、繁殖のみの目的で存在し、4月~6月の 繁殖期に羽化したばかりほとんど仕事をせずに、働きバチからエサをもらって巣の中で 暮らしています。 交尾の季節が終わると雄バチはエサをもらえなくなり、巣から追い山され死んでしまいます。「ミツバチとは地球上の生き物の半数以上を占める昆虫は、100万種類ともいわれています、この昆虫のなかで、ハチは4番目に多くの種類で、ハチの仲問は世界に約13万種類、日本では約5000種が記録されています。ハチは分類学上、膜翅類(まくしるい)に属しています。ミツバチはこのハチの仲間です。ミツバチの種類ミツバチはハチ(膜翅類)・ミツバチ科(Apidae)、ミツバチ属(Apis)に属する昆虫の一群で花の蜜を巣に蓄え、はちみつとすることで知られています。独立種として詔められているミツバチは世界にわずか9種類しかいません(マルハナバチが500種類)。日本にいるミツバチの主な種類はセイヨウミツバチとトウヨウミツバチ(ニホンミツバチ)はその1亜種)2種です。日本で見ることができるミツバチセイヨウミツバチは人間が養蜂に利用するために家畜化したものです。日本にいるセイヨウミツバチは主にイタリアン種という品種で体は茶褐色、腹部には縞模様があり、上部はオレンジ色をしています。ニホンミツバチはトウヨウミツバチの亜種で、本州から九州に分布するミツバチです。体表や足に憂い毛があり、暗い茶褐色で腹郎全体が黒っぽく自い綿模様をしています。閉鎖的な場所に巣を作ります。」天敵の「キイロスズメバチの巣」。養蜂で使用する主な道具キイロスズメバチ、オオスズメバチの「駆蜂器」。養蜂具。面布、ゴム手袋ミツバチから顔を守るため、つばつきの帽子に細かい網をかぶせて守ります。作業時は厚手のゴム手袋を使用します。パイプツール先端がカギ状になっており、内検時にプロポリスで固まった巣枠を動かすために使用します。燻煙器。作業をするときに、麻袋などを本体に入れ燃やし、空気を送り込んで、煙を出し、ミツバチをおとなしくさせる道具。「養蜂とは」。 「養蜂」とはミツバチを飼育することをいいます。養蜂家は「養蜂」を仕事としていることを「養蜂業」といいます。ミツバチを飼育し、はちみつを収集することが主な仕事です。ミツバチの巣からは、はちみつのほかに花粉、ミツロウ、プロポリス、ローヤルゼリーなどが採取することができます。日本にいるミツバチは、セイヨウミツバチとニホンミツバチの2種類といれていますが、はちみつを採取するために養蜂で使用されるミツバチはセイヨウミツバチが一般的です。養蜂に適している場所 ・蜜源植物・花粉源植物が豊富にある場所 ・夏の暑さをしのげる木陰、冬の北風を防げる場所 ・乾燥した土地(湿気はミツバチが病気になりやすい) ・南向きに地形が広がっている場所 以上の場所以外でもしっかりと対策をすれば、自宅の庭や 屋上などでも飼育は可能です。遠心分離機。蜜をとるときには、蜂ブラシで巣枠についたミツバチを払い落し、ナイフで蜜ブタを切り落とします。巣枠を遠心分離に入れ、回転させると、巣にたまったはちみつが絞り出せます。「働きバチの仕事」働きバチは分業制?ミツバチは人間社会と同じように仕事を分業して社会生活をする昆虫です。ミツバチの仕事のほとんどは、働きバチが受け持っており、働きバチの成長によって仕事内容が変化していきます。■成長によって変わる働きバチの仕事 若いハチ 巣の掃除担当 育児期 幼虫へのエサやり 巣部屋のふたがけ 巣部屋のふたの撤去 女王の世話 内役期 毛づくろい 成虫へのエサやり 換気行動 巣板づくり 花粉の受け取り 花粉の突き固め 花蜜の貯蔵 外役期 花蜜や花粉を集める働きバチのさまざまな仕事羽化して成虫になった働きバチは巣の中の仕事から始まります。幼虫の世話や巣づくり、女王蜂の世話など、24時間体制の交代制で行います。成長につれ、外勤の仕事へと移り、日中に(夜はじっとしている)お花の蜜や花粉を集めるようになります。春から秋のミツバチの平均寿命は40日程ですが、仕事の少ない冬の期間は巣の中で冬越しをしているため、寿命は約五か月と長くなります。スプーン一杯のはちみつ成虫になって20日以上たったミツバチは外へと出て、花のミツを集めるようになります。春にはさまざまなお花が咲き乱れていますが、ミツバチは決まった1種類の花だけに訪れます。これは知り尽くしたお花の方が効率的にたくさんのミツを集めることができるためです。1回30分ほどで40mgほどを集めます。(1日に10~15回ほどミツを運びます)外で花のミツを運んでいるミツは市販されているはちみつとはこの段階では言えません。ミツを運んできたハチは巣でまっているハチにミツをわたし、渡されたハチは息をすったり、吐いたりすることで、ミツを空気と触れさせることで水分をとばし、高濃度(糖度80‰)のミツをつくります。ミツを体から何度も出し入れすることにより、ミツの性質が変わり、はちみっが完成します。外に出て仕事をするようになったミツバチの寿命は20日程。毎日たくさんの花を訪れてミツを集めますが、1匹のミツバチが集めろことがつくることができるはちみっはスプーン1杯ほどです。「蜜源植物」。なぜ花はなぜミツをだすのか?植物が種子をつくって子孫を残すためには雄しべから雌しべに花粉を運ぶ必要があります。植物は動くことができないため、植物は虫や鳥などに花粉を運んでもらおうと考えたのです。植物が鳥や昆虫をおびきよせる戦略の一つとして、植物はミツを出します。ミツバチの好きな花の色植物がミツバチをおびきよぜる方法の一つとして「花に色をつけること」があります。花は色を使って、昆虫や鳥にこの色の花にミツがあるということを示しています。ミツバチは赤色が認識できないため、黄色や白色に集まりやすい。アゲハ蝶は赤が認識できるため赤い花に集まりやすい。蜜源植物とは蜜源植物とは、花蜜を分泌する植物(草花や樹木)のことを言います。ミツバチが飼育されている地域によって大きく異なりますが、ミツバチが訪れる可能性がある花は12万種類もあると推測されています。主な蜜源植物日本の蜜源植物は500種類以上あるといわれ、代表的な植物はアブラナ、レングソウ、ミカン、二セアカシア、トチノキ、ハギ、クリ、ソバなどがあります。ミツバチは花の開花を追って日本中を旅しています。春 ウメ、ニセアカシア、ツバキ、タンポポ、ミカン、サクラ、アブラナ、レンゲ、など夏 カキ、クロガネモチ、ソバ、ヒマワリ、トチ、クリ、など秋 コスモス、クズ、ハギ、など冬 ビワ、など振り返って。「ほこばヤトロファ」👈リンク。「コエビソウ(小海老草)」👈リンク。壁沿いに「シクンシ」。「シクンシ」👈リンク。「アマランダ ヴィオラケア」👈リンク。「ペトレア ウォルビリス」👈リンク。「ソラヌム シーフォーシアヌム」👈リンク。「バナナの木」「バナナの花」👈リンク。上部には、バナナがたわわに。「サンタンカ」👈リンク。「トランペットフラワー」👈リンク。「ソラヌム ウエンドランディー」を見上げて。「ソラヌム ウエンドランディー」👈リンク。「きふげっとう」の株。「きふげっとう」👈リンク の花。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンクバラ園を後にして、次に「ハナショウブ園」に向かう。左手にはグラジオラスが。こちらも既に終わっている場所も。「野川の辺り」👈リンク。「朝日の峰」👈リンク。「深山紫(みやまむらさき)」👈リンク。「五大州」👈リンク。「新生の輝」👈リンク。株がない場所が。「松の雪」👈リンク。「夢の羽衣」👈リンク。「千代の春」もエピローグへ。「千代の春」👈リンク。「紅公子(べにこうし)」👈リンク。「五月晴」👈リンク。「水精の玉」👈リンク。「藤壺」👈リンク。「神楽岡(かぐらおか)」👈リンク。「草の庵(くさのいおり)」の株。「草の庵(くさのいおり)」👈リンク。「丹頂」👈リンク。「春の名残」👈リンク。園児も久しぶりの散策か?「ハナショウブ・ショウブ・アヤメの違い」・ハナショウブ:花びらの根元に細長い形の黄色い模様がある。ショウブ:葉にツヤがあり、匂いが強い。アヤメ:花びらの根元に網目模様がある。「キキョウ」。オレンジの「スカシユリ(透百合)」。黄色とのコラボ。黄色の「スカシユリ(透百合)」。「センニチコウ(千日紅)」。そして「グリーンハウス(温室)」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク蓮の花を楽しんだ後は、次にピクニックグラウンド内を歩く。グラウンドの中央には、枝先に20-30cmの穂状の花が直立し、白色の雄しべが目立つ筒状の花を多数つけた大きな塊の植物を発見。しかし案内板の姿は隠れてしまっているのか見つからず。ネットでいろいろと検索ワードを入れて調べてみると辿り着いたのが「アエスクルス・パルビフローラ(Aesculus parviflora)」。何故にこんな舌を噛みそうな名前が付いているのか?花図鑑のサイトには、属名の Aesculus はラテン語の「aescare(食う)」からきていると。実を食用にしたり家畜の飼料にしたりすることから名づけられた。種小名の parviflora は「小さな花の」という意味であるとのこと。和名は???。北アメリカ南東部原産の低木性で小形のトチノキの一種のようだ。株立ち状の樹形になると、よってひと塊に見えたのであった。糸状に飛び出しているピンクの部分が雄しべのようだ。そして次に「バラ園」を訪ねた。既に花のピークは終わっていたが、まだまだ花が残っていた。バラ園には、1本1本花の名前の書かれた札が。それぞれのバラの花の更に詳しい内容に興味のある方は「👈リンク」にアクセス願います。「タイムレス’98(Timeless’ 98)」👈リンク。「インカ」👈リンク。「ジャンダン ドゥ フランス」👈リンク。「金蓮歩」👈リンク。「モリニュー」👈リンク。「センティッドエアー」👈リンク。「サラバンド」👈リンク。「カナリー」👈リンク。「ローラ」👈リンク。花の数はかなり少なくチョット寂しかったが。「マリア・カラス」👈リンク。世界で賞賛された偉大なオペラ歌手「マリア・カラス」の名を冠する名花。「宴(Utage)」👈リンク。「ラブ(Love)」👈リンク。「カトリーヌ ドゥヌーブ」の株。「カトリーヌ ドゥヌーブ」👈リンク。「ダブル デライト」の株。近づいて。「ダブル デライト」👈リンク。「夢」👈リンク。「オクラホマ」👈リンク。「希望」👈リンク。「サン フレーア」👈リンク。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鵠沼の蓮池の蓮の花を愛でた後は、車を「日比谷花壇大船フラワーセンター」に走らせました。「神奈川県立フラワーセンター大船植物園」は、名称を「神奈川県立大船フラワーセンター」に改め、また、ネーミングライツ制度を導入し「日比谷花壇大船フラワーセンター」の愛称で平成30年(2018年)4月1日にリニューアルオープンしたのです。新型コロナ感染拡大のため緊急事態措置により臨時休館していたが、令和2年6月9日(火)より開園したことを、当日にフラワーセンターの前を「歴史散歩」で通過した折に知ったのでした。「日比谷花壇大船フラワーセンター」は神奈川県鎌倉市岡本1018の柏尾川沿いにある総面積63,900平方メートルの植物園。JR大船駅から徒歩で15分前後の場所。1967年(昭和42年)に神奈川県農業試験場の跡地に開設された植物園なのである。「お知らせ 大船フラワーセンター 利用再開について」。令和2年6月9日(火)より開園いたします と。9:00からの開園を待つ。9時前に待っていたのは私を含めて5名。入園料は65才以上の400円➡150円の割引。体温検査、手の消毒後にマスクを着用して入園。「大船フラワーセンター案内図」。ズームで。「園内開花情報」。入園後、左側にあったのが花時計であったが停止中であった。噴水のある「スイレン池」。まずはスイレン(睡蓮)の花を楽しむ。この「睡蓮」ですが、決して「水蓮」ではないのです。この「睡蓮」にもちゃんと名前の由来があって、花は開いて閉じてを3回繰り返すのだと。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」なのだと。なるほど納得なのだが、「蓮」も開いて閉じては同じはず。濃いピンクのスイレン(睡蓮)。睡蓮も蓮も葉は円形。でもよく見るとちょっとちがうのです。睡蓮は基本的に葉に切り込みが入っていますが、蓮には入っていないのです。そして花の違いは簡単なのだと。水面に咲くのが睡蓮(熱帯産スイレンは水面から突き出る)。水面より上の方で咲くのが蓮なのだと。よってこの写真の睡蓮は熱帯性スイレンなのでしょうか。純白の睡蓮が仲良く寄り添って。睡蓮の花の上に、トンボが留っていた。白の睡蓮の花が多い。葉の上の水玉も静かに。こちらも負けじと寄り添う。スイレン池から「日比谷花壇大船フラワーセンター」の入口そして管理棟を振り返る。スイレン池の横には「やまあじさい(プレシオーサ)」。カシワバアジサイ。カシワバアジサイ・スノーフレークは、横に広がるタイプのカシワバアジサイ。そしてスイレン池の横の散策道を歩く。右手には蓮田があるが、ここの蓮の花は未だほとんどなし。開花するのは後1ヶ月程度先なのであろう。葉の下に隠れていた花を発見。 『金槐和歌集』 源実朝 「小夜ふけて 蓮の浮葉の 露のうへに 玉とみるまで やどる月影」夜がふけて、蓮の浮葉の露の上に玉のように月影が宿っている。どくだみ科の植物『半化粧』花の時期にだんだん葉が白くなり、このようになっていきます。虫を誘う為だと言われていますが諸説あるそうです。花が咲き終わって夏の盛りのころになると、白い葉の部分は色落ちしてだんだん普通の緑になっていきます。アガパンサス。さわやかな涼感のある花を多数咲かせ、立ち姿が優雅で美しい。玉縄桜広場には鉢植えの様々な色、種類の蓮の花が開花を始めていた。蓮の花をカメラで追う。品種等の表示板は付いていなかった。大賀ハスであろうか。蓮の花の種類をネットから。世界に自生しているハスの花は、アジア周辺のヌシフェラ種(Nelumbo nucifera)と、アメリカ周辺のルテア種(N. lutea)という2種類のみとのこと。前者は花の色がピンク、後者は花の色が黄色。この2種類が交雑されることで、さまざまなハスの花の品種が作り出されて来た。日本には中国から渡来し、江戸時代には100を超える品種があったようだ。しかし、現存するのは20種くらいだと。 【https://www.umaka-yamaga.com/portal/wpcontent/uploads/%E8%93%AE%E4%B8%80%E8%A6%A71.jpg】八重の花。こちらも。こちらは見事な八重。これから、更に花の数が増えて来るのであろう。ハスの花の構造はユニークなのです。中央の台座のような部分は花托と呼ばれ、その上に等間隔に並んでいるリベット状のものが「雌しべ」。花托の周囲を囲んでいる多数の「雄しべ」は「雌しべ」に届かない構造になっており、これで自家受粉を防いでいるのです。花が終わると「雌しべ」の周りが凹み、その中で子房が成長し、あの蓮の実になるのです。ハスの名は、成熟して種子が抜け落ちた状態が蜂の巣に似ていることから、「蜂巣」が変化したものとされていると以前に知ったのです。 ・・・つづく・・・
2020.06.24
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今年も市内鵠沼(くげぬま)にある蓮池を6月16日の早朝に車で訪ねました。7月の誕生花、幸福の花とも呼ばれる蓮の花、そして私の誕生日も来月。自宅から車で約20分で第一蓮池に到着。鵠沼の地名の由来は、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われているのです。 鵠の文字の左は「告」では無く「牛+口」であることを以前知ったのです。鵠沼藤が谷のここ第1蓮池の蓮は、「舞妃蓮(マイヒレン)」という種類。舞妃蓮は、昭和41年に御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮とのこと。花色は初日は淡い黄色で、全体に淡い紅色が乗り、赤、黄とも日を追うごとに退色していき、二日目以降、淡い黄色の爪紅状になります。屈光性のため、花弁がやや捩れる傾向があり、風に舞うように見える事から舞妃蓮の名が付いたと言われています。ピンクの蕾。蕾の先端がほんのり紅く、開花して1日目はピンク、2日目3日目は黄色に変化すると。やや開花を始め、蕾も緩やかに。花片下部は薄い黄色に。色の移り変わりが解る。花片上部は薄いピンクに。蓮の花、花心部分が濃い黄色の姿が。この日が舞妃蓮の花見のピークか。多くのカメラマンが立派なカメラを持って。蓮の花を写しに来たのではなく、蓮池に来る「カワセミ(翡翠)」が目的。そして5分ほど待っていると一羽が小魚?を咥えて。一斉にシャッターの音が、そしてその音に驚いたかアッという間に姿を消してしまったのであった。淡いピンクの開きかけた蕾が勢揃い。こちらにも。こちらはピンクに染まって。ハスの花の鑑賞にあたってのお願い~新型コロナウィルス感染拡大防止と迷惑防止の観点から~★混雑と感染予納・・・マスク着用 そしてブログ、ホームページ等を通じての拡散防止!!と ラジオ、テレビ、雑誌の取材は控えてほしい★近隣対策・・・最寄りの駐車場の利用 三脚撮影禁止 大声、複数での会話禁止 ゴミの持ち帰り、喫煙禁止、水鳥への給餌の禁止白からピンクではなく、ピンクから白へ。蓮の葉の上の水玉。そして、車で第2蓮池の誠蓮(まことはす)を訪ねる。バードウォチングの人の姿もなく、蓮池を一人占めであったが、まだここの誠蓮は小さな蕾がポツポツと。葦の中にいたのが「アオサギ」。「誠蓮」の蕾を見つけて。鵠沼は「ゆっくりを見守る心」をつくる街。そして帰路での江ノ電の踏切にて。
2020.06.23
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更にジャカランダの花を追いかける。ラッパのごとき藤色の花。その形がファンファーレを吹くトランペットを連想させることから「栄光」「名誉」という花言葉がつけられたと。その神秘的な紫色は高貴な色とされ、王室をイメージするとも。熱海から高速船で30分の初島(はつしま)の全景。初島は、ここ静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もあると。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住していると。「梅雨の時期は熱海の閑散期にあたるので、ジャカランダが新たな魅力になれば」と期待をかけて植え付けたを始めたのだと。熱海のジャカランダの知名度がだんだん上がってきており、「全国ネットのテレビ番組で取り上げられたことも多くなった」と。三密?のジャカランダの花。「ジャカランダの花が頭に落ちると幸せが訪れる」との言い伝えがあると。移民として南米に渡った日本人が、桐の花に似ていることから「桐擬き」と呼んで愛した花だと。また,ハワイでは日系人が日本の桜に思いを馳せ,「ハワイ桜」や「紫の桜」と言われていると。なるほど筒状に咲く一つ一つの花は、我が家の前の畑に植えてある桐にソックリ。ポタポタと落花する様子も良く似ているのだ。南アフリカのツアーが最も人気が出るのがジャカランダの時期・10月。プレトリアでは街全体が紫色に染まり、まるで花のトンネルをくぐっているような気分に!。日本の桜の「青紫」版。「お宮緑地」のゲートを潜って、国道135号線沿いにUターン。「お宮緑地」の入口ゲートを振り返る。ブーゲンビリアの花がここにも。熱海の風景をテーマにしたお宮緑地の石碑を楽しみながら歩く。「長谷寺山門」、見落としたので旅ともSさんの写真をコピペ。熱海にも「長谷寺」があることを知ったのであった。「錦浦景勝」。このジャカランダは何故か葉が少なく、元気がない?奥にはユニークな形の石造りのオブジェが。ジャカランダと熱海城。国道135号線の歩道を進む。「湯~遊~バスのりば お宮の松」。熱海の観光スポットを約45分でぐるりと巡る「湯~遊~バス」の停留所。「4月22日~当面の間、運休」の張り紙が時刻表の上に。伊豆東海バスは、「湯~遊~バス」に4月1日から新型専用車両を導入したと。 【https://news.mynavi.jp/article/20200319-yuyubus/】より「サンビーチ 花火大会」。「熱海サンビーチ案内図」。ジャカランダと椰子の木。「来宮神社」。この後、「来宮神社」を訪ねたのであった。「お宮の松」前まで戻る。正面にジャカランダの大木。その下には「明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説「金色夜叉」は、明治30年(1897)1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こした。 ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められた。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限りが広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。 金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。 紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わったが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成された。 熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われる。貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものです。」再びジャカランダと椰子の木。これぞ「熱海」の光景。「梅見の滝」熱海市の全国的に知られる観光名所である「熱海梅園」内にある、四季の移ろいが感じられる滝。「姫の沢公園」。「姫の沢公園」は、市街地中心部より北西約5キロメートルに位置し、四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコースなどが整備され、家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができると。熱海の初夏を告げるジャカランダ。ATAMIジャカランダフェスティバル2020の開催はもちろん中止。「貫一お宮」。「尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公貫一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立された。」椰子の木のテッペンから熱海の海岸を眺めてみたいと。「中山晋平記念館」。「大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに梅園内に保存されています。」「大湯間歇泉」「お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間隙泉。関東大震災により噴出が不規則になり現在は復旧工事にて人工間歌泉となった。」「熱海」と書いて、「あたみ」と読むこの地名の由来は、海中より温泉が凄まじく沸きあがり、海水がことごとく熱湯となったため、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「あたみ」と称されるようになったと。「澤田政廣記念館」。「熱海が生んだ芸術家澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、津田芸術の集大成がここに展示されています。」青空であればと我儘に。「伊豆山神社」。「伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。」この「伊豆山神社」👈リンク は昨年2019年2月に訪ねたのであった。「中央交番」前まで戻る。「光る海」熱海。「熱海サンビーチ」。「熱海ムーンテラス」。サンビーチから南に続く親水公園。熱海市が北イタリアのサンレモ市と姉妹都市であることや、地形と街並みが似ていることから、 地中海北部のリゾート地のイメージで整備されています。「南欧・コートダジュール」をイメージした「スカイデッキ」はレンガで、 「北イタリア・サンレモ・リヴェラ海岸」をイメージした「レインボーデッキ」は「石」を基調につくられ、渚小公園とペデストリアンデッキで結ばれたエリアは、「南イタリアのナポリ海岸」をイメージ。「釜鳴屋平七夫婦像」。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」階段を降りて「熱海ムーンテラス」を再び。熱海ムーンテラス 恋人の聖地のモニュメント。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。熱海ヨットハーバーと熱海後楽園ホテル、そして山の上には「熱海城」が。錦ヶ浦の山頂にそびえる「熱海城」は、歴史的に実在した城ではないのです。桃山時代の建築様式を模して、昭和後期に建てられた観光城なのだ。最後にアガパンサスを愛でて車に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.18
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6月12日(金)に旅友Sさんを誘って熱海海岸のジャカランダを愛でに行って来ました。数日前にテレビのニュースで、満開に近いと知ったのでした。6:30にSさんの愛車で熱海に向けて出発。前日の雨もなんとか上がり、富士山の姿も。西湘バイパスを進む。相模湾上空の雲。西湘バイパス、小田原市・御幸の浜近く。そして早川出口から一般道へ。手前に新早川橋が姿を表した。国道135号線を進む。前方左手に真鶴半島、そして三ッ石の姿も。「都道府県をまたぐ移動は慎重に」との表示が。途中県道740号線に入り真鶴駅横を通過。そして熱海城が姿を表す。ショウワパーク熱海に駐車しジャカランダを愛でに。熱海のマンション群、正面にゼファー熱海ビーチタワーが。ジョナサン前のジャカランダの花。ジャカランダ(Jacaranda)の花はノウゼンカズラ科。カエンボク(火炎木)、ホウオウボク(鳳凰木)と並んでシウンボク(紫雲木)と呼ばれ、世界三大花木のひとつとされているジャカランダ。自生地では10mを超す高木になるのだ。花一つ一つをよく見ると、なるほどノウゼンカズラの花に似ている。花径5㎝くらいの釣鐘状の花を枝の先に塊のように咲かせるので、遠くから見ても存在感がある。ジャカランダの木は枝を横に広げる樹形なので、高木の枝いっぱいに青紫色の花をいっぱいに咲かせる姿は息を飲むほどの美しさになるのだと。昨年訪ねたポルトガルでは、初夏になると青紫のジャガランダで街が紫一色に染まるのだと。さしずめ紫の桜といったところ。ポルトガルではジャカランダの紫色の花が満開になる頃はちょうどイワシ祭りというお祭りの時期。賑やかなイワシ祭りと、ジャカランダの満開の花を見る為に海外からもたくさんの人が訪れるのであるというが今年は??。こちらが、南アフリカの首都・プレトリアのジャカランタの並木。熱海のジャカランダは、残念がら花のボリュームより葉のボリュームが多いのだが。これも天候、土地の質等が微妙に影響するのであろう。 前日の強風で花は落ちて。こちらは比較的花のボリュームが多いジャカランダ。「ジャカランダ世界三大花木(カエンボク・ホウオウボク・ジャカランダ)の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となりました。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ、本州では珍しい風景です。また、ジャカランダの日本での認知度は、海外のリゾート地への渡航者増加に伴って広がりつつあります。熱海での開花は折しも傘の花開く梅雨のシーズン。ラッパの形をした小さな青紫色の花がブーケのように熱海の梅雨空を彩ります。」ラッパの形をした小さな青紫色の花。こちらは、ブットレア・ブラックナイト。蝶やミツバチの集まることでよく知られた花木。こちらは、ブラシの木。再びジャカランダの花をカメラで追う。ジャカランダは、樹木が大きく生長しないと花が咲かないのだと。樹木が生長するには温度と日照等の必要条件があり、日本では冬を越せず生長できないので、開花が難しいと言われていたのであったが。ポルトガルのジャカランダは、ポルトガル人が大航海時代にブラジルから持ち帰ったものだと。緑豊かな南米の国で霞むように咲き誇るジャカランダの花は、ポルトガル人たちの心を癒したのだと。ポルトガルはヨーロッパの最西端に位置するため、夏はとても暑くなるのだ。よってブラジルから持ち帰ったジャカランダがそのまま育ったのだ。緑の芝生に花びらが散って。熱海市の汚水マンホール。明治時代に熱海温泉を一躍有名にした尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の名場面と「お宮の松」、そして背景の夜空には「花火」を図案化したもの。葉は鳥の羽のように繊細で細かく、非常にやわらかな感じが。ジャカランダとブーゲンビリアのコラボ。青紫というよりは藤色か。「カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携紀念樹木」。カスカイス市は、ポルトガルのリスボン県の都市。市内には、国際的なリゾート地であるエストリルを含む。 また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着しているのだと。お宮緑地のこのジャカランダは平成2年7月にポルトガルのカスカイス市と国際姉妹都市提携を記念して植樹された木であるのだ。ひとつの花房に50~90コの花を付けるのだと。陽光があれば藤色が更に神秘的に輝くこと間違いなし。こちらはカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)。「熱海八景画家、山本光一は、天保13年(1842)江戸下谷に生まれた。名は信教。明治36年(190)10月6日、61歳で没した。墓は臨済宗南禅寺派の月州寺(東京都台東区竜泉2丁目2-15)にある。山本家は代々江戸で儒学を教授していたが父素堂は二男で画もまたよくし、生涯を画家として終えた。光一の兄、学半も画家を志した。評価は2人とも不明である。光一は熱海の風土が好きだったにちがいない。度々来遊して、明治21年には「熱海梅園之図」と「改正熱海市全図」を、翌22年には「伊豆の浦づたい」と第する絵入りの和綴本を刊行し、熱海の紹介に努めている。「この熱海八景色紙」は明治21年の刊。八景とは、かって成島柳北(1837~1884)が選んで話題となっていた景勝の地8ヵ所、すなわち梅園の春暁、来宮の杜鶘、温泉寺の古松、横磯の晩涼、初島の漁火、錦浦の秋月、魚見崎の帰帆、和田山の暮雪を、版画にしのであろう。現今の風景と比べて興味津々たるものがある。今を去90余年前の熱海である。」「サンゴシトウ」。サンゴシトウはオーストラリアのシドニー植物園で、アメリカデイゴと北アメリカ原産のヘルバケア(Erythrina herbacae)を交配して作られた園芸種です。 アメリカデイゴと間違われることがありますが、別名をヒシバデイゴというように葉の形が菱形に近いことと、アメリカデイゴと異なり、サンゴシトウの旗弁は完全に開かずに花が筒状になることで見分けられます とネットから。この花の蕾はキング・プロテア(King protea) 。プロテア(Protea) とは、花の王様と賞賛される南国のヤマモガシ目ヤマモガシ科プロテア属の常緑低木です。 花色や形、大きさ、感触、光沢などが異なる多数の種類があります。 中でも、このキング・プロテア(King protea) は、代表的な品種とされ、 南アフリカ共和国の国花ともなっています。 熱帯植物なので日本では高価な花でありあまり生花では使われませんが、 ハワイではホテルやレストランのフラワーアレンジメントの花材としてふんだんに使われています。とこれもネット情報から。キング・プロテア 説明板。そして「貫一・お宮の像」に到着。「尾崎紅葉記念碑」。「紅葉山人記念 金色夜叉の碑」「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」。「「お宮の松」の由来。お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものである。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれている。この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていた。1897(明治30)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものである。このことから、1919(大正8)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立された。この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となった。 また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めている。1949(昭和24)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にあった)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めた。その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、1966(昭和41)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものである。「お宮の松」の樹齢は、2001(平成13)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になる。」再び「貫一・お宮の像」とその後ろに熱海城。「熱海城」をズームで。「お宮の松」。「初代のお宮の松」。現在のお宮の松は昭和41年に植えられた2代目で、初代は排気ガスの影響などで枯れてしまったとのこと。2代目の脇に展示されている初代の切り株をみると相当大きな松の木だったことが分かるのであった。 ・・・つづく・・・
2020.06.17
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境川に架かる鷹匠橋。橋の欄干には蝶が舞うステンドグラスの如きガラス絵が。橋の欄干には同テーマの作品が。鷹匠橋を渡り対岸に。こちら側にも様々な入のアジサイが。ここは「藤沢・大和 自転車道案内図」。神奈川県道451号藤沢大和自転車道線(かながわけんどう451ごう ふじさわやまとじてんしゃどうせん)は神奈川県藤沢市鵠沼海岸から神奈川県大和市下鶴間に至る一般県道として認定された自転車道である。大規模自転車道の一路線。通称境川自転車道。一般に境川サイクリングロードとも呼ばれる。整備済み区間の大部分が境川の右岸(西岸)に沿っている。更に様々な色、種類のアジサイをカメラで追う。サツキ?も負けじと。一面のピンク。ヒルガオ(昼顔)も開花を初めて。そして帰路の道路沿いのアジサイ。八重咲きのピンクのガクアジサイ。緑のアジサイ。こちらも「アナベル」という品種でもう少しすると白いきれいな花色になるらしい。こちらは、既に純白のアジサイ。鎌倉・明月院の「明月院ブルー」に似て。高圧線鉄塔を見上げて。こちらは白のカシワバアジサイ。そして白い縁取りがあるアジサイも。青。ピンク。更に赤のアジサイの群生地が。実物はこの写真より赤い記憶が。赤いガクアジサイ。そして帰宅して、我家の庭のアジサイ。玄関先の花々。ご近所から各種の苗をいただきました。キンシバイ(金糸梅)。黄色一色。いっぱいある黄色のおしべを「金の糸」に、5弁の花を「梅」にたとえたのです。既に我がミツバチ?が花粉団子を足につけて。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2020.06.13
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先日・6月6日の早朝に、我が家から車で10分ほどの場所・藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ(紫陽花)を愛でに今年も行って来ました。ここ大清水橋から鷹匠橋までの約400mは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれているのです。まずは青の色彩の変化を楽しめるアジサイの株に出会う。アジサイ特有のアントシアニンと補助酵素だけなら花は赤くなり、それに土壌から吸い上げたアルミニウムが加わると青くなると言われています。アルミニウムは酸性の土壌に溶けやすいので、酸性の土壌なら花が青くなり、中性ないしアルカリ性なら花は赤くなるのだと日本は酸性の土壌が多いのでアジサイは青い花をつけることが多いのですが、土壌の一部がアルカリ性だったりすると、そのアルカリ性の土に張った根から栄養を得ている花だけ赤くなることがあるのです青から紫そして赤への変化が。白から青、紫への目覚め。そして青から紫へ。中心の白い箇所が本当の花。こちらはピンクのガクアジサイ。「ガクアジサイ」の揚合、中心部にある小さなツボミのような部分が「真花」と呼ぱれる花で、私達が花びらだと思っている部分は、ガクが発達したもので「装飾花」と呼ばれているのです。「装飾花」の真ん中に小さな花がありますが、おしベもめしべも退化しているので、実は結ばないのです。「ガクアジサイ」の名は、「真花」を「装飾花」がまるで額縁のように縁取っていることから名付けられたのです。こちらは白のガクアジサイ。ガクアジサイの園芸品種の一つの「墨田の花火」と呼ばれる種類でしょうか。八枚の花びらが重なりあい、星型になった装飾花が、飛び出すように咲いています。その様子を、隅田川の花火大会にたとえられて名付けられたのだと。装飾花の色は、白にほのかな青紫色が入っていました。境川沿いの「大清水境川アジサイロード」。遠くに見えるのが藤沢市民病院。紫のアジサイも色が七変化。毎年6月には、全国各地で「あじさい祭り」が開催され、園内のあちこちで咲く大輪のあじさいを求める多くの観光客で賑わうのであるが、今年は新型コロナの影響で中止が続いているのである。近寄って。青のガクアジサイ。道路の左側にあったのが、「湘南教育会館」。ここ湘南地区の教育文化の振興発展に寄与することを目的に教育講座及び教育相談等を開催するとともに、湘南教育会館の維持、教職員の福祉厚生事業を行う場所であると。そして民家の庭先にあったのが。花の根元が黄色いのでしょうぶ(花菖蒲)であろうか。ヤマユリ。ピンクのカサブランカ?そして野鳥の餌場も。「アナベル」という白いアジサイも。再び可憐な白とピンクのアジサイ。ガクアジサイの中心の花も開いて。こちらも。そして「大清水境川アジサイロード」終点の鷹匠橋に到着。 ・・・つづく・・・
2020.06.12
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3月14日に東京で桜の開花が発表され、今年もいよいよ桜シーズンが到来。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響により、東京都や神奈川県などで公園や河川敷での宴会の自粛が呼びかけられ、各地で桜関連イベントが開催中止となるなど、お花見も自粛が広がっている。そして不要不急の外出自粛を要請されているここ数日。この日・4月4日の午前中に、近くのホームセンターに野菜類の植え付け用の消石灰、肥料を購入しに車で向かう。そしてその帰路にコンビニに寄った折に、毎年訪ねる引地川の桜並木の下を歩きマスクをしながらのつかの間の『花見』を。以下、キャプション無しで写真のみ掲載します。そして我が母校(小学校)の桜を。そして近くの大学の構内の桜並木。例年なら大勢の花見客でにぎわう桜の名所も人影はまばら。長引く社会不安で人々の間に「コロナ疲れ」も広がる中、やや後ろめたさを感じながらのつかのまの花見であった。アクセス頂いた方で、今年は花見が出来なかった方は、せめてこの私の写真でご自宅での『家花見』をしていただきたく。そして今日、数分前の月の姿です。そして4月7日から8日にかけての満月は、今年見える満月のうちで最も大きな「スーパームーン」となると。
2020.04.06
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今日は4月1日、しかし新型コロナ国内感染者は初の1日で230人超 、日本で感染が確認された人は、空港の検疫で見つかった人やチャーター機で帰国した人なども含めて合計2250人を越えたと深夜のニュースで、そしてこの数字は表面に現れた数字のみ。国連のグテレス事務総長は先日、新型コロナウイルスの感染拡大について、世界は「共通の敵に直面している」との認識を示し、「連帯が必要な人類の危機」だと訴えた。グテレス氏は「豊かな国は自国民にだけ対処する必要があると信じ込んではいけない。危機はいつでも、どこからでも訪れる可能性があるし、国際的な対策への貢献は豊かな国にとっても国益になる」「今こそ連帯の時だ」と。歴史を学び歴史に学ぶ「人間の知恵」が「新型コロナウイルス」で試されるているのだ。この様な状況の下でも、我が家の庭、畑の花々は順次、いつもの年の様に開花を始めています。まずは『庭梅(にわうめ)』葉が出る前に2~3輪ずつ固まって枝を覆うほどたくさんの花を咲かせています。そして我が庭の様々な水仙が開花中。旧来の品種も頑張っています。木瓜の花。スノーフレーク。紫のヒヤシンス。白のクリマスローズ。こちらは赤のクリスマスローズプリムラ。白のニラバナ。庭では春の陽気を迎えて種々な花々が咲き競っていますが我が家ではここぞとばかりに目を引いているのがこのニラバナ。太陽が出ると一斉にそちらの方に花を開き周りを圧倒する勢い。チューリップも各種。芍薬ももうじき開花。もみじも深緑の葉を、そして花も。ユキヤナギ。ハナカイドウ(花海棠)のピンクの花も。そして菜園の菜の花。こちらはブロッコリーの花。紅菜苔の花。サヤエンドウの花。こちらはスナップエンドウ。イチゴの花。そして我が趣味のミツバチ嬢達も新居に引っ越し活動を始めています。先日、妻が家の横の畑のヨモギを摘んで、草餅をつくってくれました。旬のよもぎをたっぷり使った春の和菓子?この日はきな粉で春の味・香りを楽しみました。畑で収穫したサヤインゲンのお吸い物も。そして一昨日の雪、我が家の前の農園の姿。積雪は3cm程度でしょうか。我が菜園のイチゴ畑。ツツジも白い帽子を。ブドウのような花を咲かせるムスカリ。ムスカリは耐寒性の強い花で、球根は植えっぱなしでも自然分球で増え、毎年花が咲くのです。ムスカリは鮮やかな青紫色の花が春の花壇を彩り、チューリップなどほかの花を引き立てる名わき役といってもよい花。 ・・・END・・・
2020.04.01
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『離れのやど「星ヶ山」』を後にして、更に坂を上り第3会場の『きのこ苑お山のたいしょう』に向かう。奥の第2駐車場に車を駐め散策開始。『苑内ご案内図』。『レストランお山のたいしょう』を起点に周囲に『おかめ桜』を楽しめる散策コースが造られていた。『農家レストラン お山のたいしょう』入口。『おかめ桜まつり 』「今から約20年前、縁あって植えたおかめ桜。春になり、花を咲かせたその姿にすっかり魅せられ「このかわいい桜を皆様にお楽しみ頂きたい!」と、年々植栽し、現在の姿となりました。鳥たちの声と、心ゆくまでご鑑賞下さい」『おかめ桜のおいたち』。「寒緋桜と豆桜(富士桜)をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました。」『お山のたいしょう』の椎茸栽培法と食べ方が説明されていた。。「お山のたいしょうは、昔ながらの原木栽培を行っておりますが、この方法は日本での生産量の15%しか行われておりません。のこり85%はおがくず等で発生させる苗床栽培です。原木(コナラ)の栄養分100%で育つしたけは、安心してお召し上がり頂けます。お召し上がりの際は、しいたけの香り、食感をたのしめるよう、水洗いせずそのままお使い下さい。しいたけのカサの部分に白い斑点が沢山ついておりますが、これは新鮮な証拠です。また、カサの広い大きなしいたけも大変おいしくお召し上がり頂けます。まだちいさな赤ちゃんしいたけは、採らないであげてください。」散策コースを歩き、『おかめ桜』を楽しむ。下の黒い屋根は、ボイラーで温度管理されたしいたけ栽培ハウスの様であった。斜面に広がる『おかめ桜』。竹林越しに。今年の筍も」例年より早く顔を出すのであろう。途中『みはらし台』が。『みはらし台』からの『おかめ桜』。斜面には菜の花も開花中。黄色とピンクのBEST MIX。ミツバチの羽音も聞こえて来た。菜の花の香りの中でミツバチの姿を追う。発見!!。そして散策路を下ると、ホダ木置き場でホダ木から出た椎茸を発見。そして巨大な椎茸も。こちらは20cm近くはあろうか。『おかめ桜』と『菜の花』そしてその下にホダ木置き場。しばし、『おかめ桜』と『菜の花』のコラボ。ミツバチの羽音とともに『菜の花』を楽しむ。原木栽培で種菌を植え付けた『ホダ木』置き場。屋外に積み重ねて置かれていたが、既に収穫済みなのであろうか。緑と青空の下にピンク色の世界が。もちろん『健脚道』を進む。真紅の椿越しに『おかめ桜』を見る。椿を接写。そして1周して入口に戻る。4月上旬の絶景の写真も。照手桃(テルテモモ)が満開に成ると。『レストラン・お山のたいしょう』入口。レストラン内部にはお客が1組のみであったが。駐車場への道にはピンクのアセビの花が。そして『おかめ桜』に見送られながら駐車場に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.13
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車で引き返し、第2会場の『離れの宿星ヶ山』に向かう。分岐点には中止になった『おかめ桜開催中』の看板が寂しそう。桜見物の人の姿は、時節柄もあり少なかった。花びらが下を向いて。『オーランジェ・ガルデン』からの下り坂の『おかめ桜』。第2会場の『離れのやど星ヶ山』に向かって分岐を入って行く。道路脇には既に花びらが散っていた。花びらを再びズームで。こちらは別の種類の桜か色が薄い。『おかめ桜』を写すオジサンの姿がサイドミラーに。そして第2会場の『離れの宿星ヶ山』に到着し車を降りる。手前の東屋風の建物。客室は、全棟1棟建て離れのログハウス。露天風呂付きログハウスの洋室、和室等があるようだ。左側にセンターハウス オリオン&レストラン「ななつの星」入口。左側には鶴の置物が。『おかめ桜』の並木を進む。せせらぎ散策道の小川の流れ。澄んだ空気、小鳥のさえずり、川の音…自然の中を歩く散策路はマイナスイオンでリフレッシュ効果抜群。身も心も癒される散歩道。夏にはホタルの姿も。ほとんど二人占めの散策を楽しむ。中年夫婦は愛犬を連れて。散策路の横に短い線路が。『豆相人車鉄道』と『ミニカーハウス』案内板。右側にあったのが『星ヶ山ミニカーハウス』。その手前に鐘が。ぎっしりと並んだ1500台ものミニカーは壮観。飛行機も展示。その横にあったのが、明治29年に全開通した人力による『豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)』。『豆相人車鉄道』。「明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を人間が押しで熟海-小田原間を4時間かけて走る人車鉄道が運行していました。この復元車両は当寺の資料を基に製作しました。」「かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。『豆相人車鉄道』は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。」とネット情報から。客車の内部を覗く。当寺の写真。1車両を2~3人でひたすら押す姿が。当寺の『豆相人車鉄道』の路線図ガイド。 【http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/spot/p16553.html】より下記の写真が、以前、小田原宿を歩いた時に写した『人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡碑』。「東海道線は国府津駅から静岡が1889年に延伸しました。ただし沼津までは御殿場線が使われていました。熱海の住民運動から1888年国府津から小田原まで小田原馬車鉄道(現在の箱根登山鉄道)に鉄道を繋ごうとしましたが資金が集まらず、甲州財閥の雨宮敬次郎の案で人車軌道に変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年~1900年に漸次開通させました。1907年に社名を熱海鉄道と改めて蒸気機関車が引くタイプの軽便鉄道に切り替えました。この切り替え工事からヒントを得たのが芥川龍之介の「トロツコ」です。」と。毎月第三金曜日 PM3時より要予約で運行するのだと。『豆相人車鉄道』のマークには「人」の文字が。『おかめ桜』をこれでもかと。『沈丁花』も香り豊かに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.12
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根府川駅を後にし、県道740号線・小田原湯河原線を西に進む。小さな下り坂の路地に入ると左手下に東海道線が再び姿を表す。そして白糸川の脇まで下り、『白糸川橋梁』を見に行く。『白糸川』の流れ。白き流れが陽光に輝く。前方の東海道新幹線の高架橋の下を潜って進む。その先に『白糸川橋梁』が姿を現す。白糸川に架かる橋を渡ると左手のカーブの場所に案内板があった。『根府川関所跡』案内板。「根府川関所跡東海道の脇街道であり、熱海や伊豆へ通じる根府川道の関門として、この地に根府川関所は設置されました。新編相模国風土記稿などによると、江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設けられたとされており以後、明治維新のため明治2年(1869)に廃止されるまでの約250年間に渡り、明六つ(午前6時頃)の開門から暮六つ(午後6時頃)の閉門まで、破れば磔(はりつけ)により罰せられることもある厳しい掟により通行が取り締まられていました。箱根関所のほか、小田原藩内には、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶにも関所が設けられましたが、根府川関所は常駐する役人の数が箱根に次ぐ多さで、要衝として重要視されていたことがうかがえます。根府川関所は白糸川の南側にありました。関東大震災前までは礎石もあり、当時の様子がうかがえたそうですが、震災により埋没し、その後の新幹線の工事等により川の形も変化してしまい、関所跡は、現在、川底となっています。」『潮騒の駅根府川駅・江之浦漁港コース』案内。『白糸川橋梁』に向かって引き返す。そして『白糸川橋梁』が正面に。橋長:24mの鉄道橋・鋼ワーレントラス橋で、鉄道マニアに人気が高い。海岸線に近く、赤く塗装されたこの橋は、いわゆる鉄橋のイメージを大いに感じさせてくれるのであった。初代の橋梁は1922年(大正11年)に、根府川駅と真鶴駅の間に竣工。径間150フィートの複線上路トラスが3連と、その前後に径間40フィートの単線プレートガーダーが各2径間架かる構造であった。竣工翌年の1923年9月1日。関東大震災により背後の山が崩壊し、土石流が押し寄せて壊滅的な被害を受ける。3連トラスのうち一つは泥流に押し出され行方不明、一つは大破して泥流に埋没し、残る一つも一部が泥流に埋没したと。根府川駅の真鶴駅寄り(南側)、西側に相模湾に開けた谷筋に南北に架かり、在来線の東海道本線の複線を渡す。下流側に国道135号(真鶴道路旧道)、上流側に東海道新幹線の橋梁が並行する。鉄道撮影のスポットとしても知られ、1991年にはかながわの橋100選に選定された。地形的要因から特に南風の時には強風が観測され、しばしば列車の運行規制を受けた。この区間の東海道本線は首都圏と東海地方・西日本を結ぶ物流の動脈であるとともに、伊豆半島への観光路線としても重要であるため、風への対策が求められた。1991年に、車窓からの景色を極力損なわないよう60%充実金網方式の防風柵が設置された。この対策により、使用開始後1年間の実績で従前に比べ運転中止日数約80%減、運転中止本数約90%減の効果が見られているのだと。『白糸川橋梁』を真下から見上げる。更に進むと右手路地の角には『釈迦堂入口』と書かれた石碑があった。『白糸川橋梁』沿いに白糸川に向かって進む。小さな橋を渡る。橋を渡里ながら右手に見えたのが、白糸川と『釈迦堂』。白糸川の下流には国道135号線に架かる『新白糸橋(しんしらいとばし)』が見えた。再び『白糸川橋梁』を見上げると、『防風柵』がはっきりと確認できたのであった。国鉄時代はトラスが白色に塗装されていたが現在は赤色に。右手前方の『釈迦堂』に向かって進む。『釈迦堂』。大正関東地震の前は高台に位置していたこの『釈迦堂』は、震災により土砂の中に埋まったが、その後、釈迦像は見た目は無傷で掘り出された。被害のなかった釈迦像への信仰は高まり、釈迦堂は再建され、現在は地下の洞の中で昔のままの姿を見ることができるのだと。「根府川の旧家広井家の古文書によると広井家二十二世広井長十郎重友の代に頻発地震多く特に寛永九年一月二十一日と正保四年九月十四日と慶安元年四月二十二日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も来襲する等で世相は不安に満ちて居り、長十郎重友は村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩盤に釈迦尊像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。お姿の右側に『寛文九申丙歳七月十二日、元喜道祐庵主』と刻まれて居ます。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。その左に『普明暦二配歳仲秋月』と其の左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と、広井家の系図にありますので、二十二世広井長十郎重友改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明暦二年(一、六五六年)に像立したものと思われます。後に万治二年(一、六五九年)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったがお釈迦様は岩盤に刻まれて居りますので引移す事ができないので現在の場所に残りました。大正十二年九月一日(一、九二三年)関東大地震が起こりまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没してしまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居たのですが、土砂に埋まったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。お釈迦さまは長い歴史の移り変わりの中で言い伝えによれば、弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。特にお釈迦さまを掘った人々が落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来の、あらたかさを驚嘆したとのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く四月八日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎあいます。」真っ赤な『華厳釈迦如来』の幟と『釈迦如来』と書かれた扁額。階段を降りると左手にコンクリートで保護された『釈迦堂』が。地下の洞内岩盤に浮き彫りの明暦2年造立釈迦如来像が刻まれていた。『釈迦堂』前から『白糸川橋梁』を見上げる。車への帰路に再び国道135号線の『新白糸橋』を正面に。『白糸川橋梁』には2本のコンクリート基礎が川床から立ち上がっていた。『潮騒の駅根府川駅・江之浦漁港コース』案内道標。そして車に戻り、『おかめ桜まつり』の第4会場の『オーランジェ・ガルデン』に到着。ここの『おかめ桜』も思いっきり満開。その先にあったのが『オレンジ橋』。この橋は『ヒルトン小田原リゾート&スパ』に繋がっているのだと。山の上に『ヒルトン小田原リゾート&スパ』が垣間見えた。『オーランジェ・ガルデン』の直売場。オーランジェ(フランス語:Orangette)とは、砂糖漬けの柑橘類の皮(ピール)をチョコレートで包んだフランス生まれの菓子のことのようだ。『おかめ桜』3年物の苗木を500円で購入、そして「楊貴妃」という苗木も一緒に。『おかめ桜』の下にはベンチも。『おかめ桜』をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.11
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国道1号線とJR東海道線に挟まれた県道740号線・小田原湯河原線を根府川駅に向かって進む。道路沿いの『おかめ桜』には『おかめ桜まつり』のピンクの幟がはためいていた。そして根府川駅に到着。時間は8:34。1896年(明治29年)から1922年(大正11年)までは、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も存在していた。同線の「根府川駅」は、当駅よりも高台の位置に設けられていた。 1922年(大正11年)12月21日:国有鉄道熱海線 国府津駅 - 真鶴駅間の開通と同時に開業。旅客・貨物取扱を開始。 ここは小田原市の根府川駅。相模湾を見下ろす崖の上にある駅舎。駅前やホームから見る相模湾の眺望は絶景、特に人気なのは、「初日の出」とこの日の「桜」。東京駅から一本で行ける距離にあるため多くの『カメラ爺』がやって来ると。元日に限り、根府川駅で日の出を迎える臨時列車も運行され、一年で最も賑わう瞬間を迎えると。無人駅の改札口を入り右手にあった池とその横に石碑が。『関東大震災殉難碑』。1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により地すべり(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没した。列車に乗車していた約110名とホームに居た二十数名の計約130名が死亡したのだと。根府川(片浦海岸)案内板。「根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東地震の際の駅裏の斜面の地滑りやその南を流れる白糸川で起きた岩屑なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。」現地で頂いた『根府川おかめ桜まつり』のパンフレット。開催期間は令和2年2月29日 ~ 3月22日(日)であったが、コロナウィルスの影響で今年は『根府川おかめ桜まつり』は中止とのこと。パンフレットの裏には『おかめ桜まつり 実施施設案内図』が。会場は4カ所。 第1会場:JR根府川駅前 第2会場:離れのやど星ヶ山 第3会場:きのこ苑お山のたいしょう 第4会場:オーランジェ・ガルデン根府川駅駅前の「おかめ桜」は青空に映えて満開中。花の小ささとピンクの濃さが魅力的。『早川・片浦ウォーキングトレイル』案内板。「早川・片浦ウォーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅間の丘陵地を巡る健康の道です。トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんで下さい。ルールを守って楽しく歩きましょう。」改札口を入った場所から「光る海」を見る。ホーム上の連絡橋から熱海方面を見る。こちらは小田原方面。待合室の展示品。JR東海道線・白糸川橋梁(しらいとがわきょうりょう)の古き写真や絵葉書が。昔の写真の東海道本線の『白糸川橋梁』には蒸気機関車が白煙を棚引かせて。茨木のりこの詩集から『根府川の海』「根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅 たっぷり栄養のある 大きな花の向こうに いつもまっさおな海がひろがっていた 丈高いカンナの花よ おだやかな相模の海よ 沖に光る波のひとひら ああそんなかがやきに似た 十代の歳月」『小田原ふるさとの原風景百選』。「1.潮騒の駅・根府川 海と山に挟まれたJR東海道線の根府川駅は風光明媚で、駅から見る相模湾は絶景。 詩人茨木のり子の詩集「根府川の海」の中で、 『根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅…』と謳われている。」駅前広場から根府川駅ホームを見る。こちら側の『おかめ桜』も満開。『光る海』を背景に。ホームに人の姿はなし。枝には野鳥が。ノビタキか?下り電車がホームに滑り込む。そして熱海に向かって。暫くすると上り電車が。青い通路がホーム連絡橋。線路沿いの『おかめ桜』を愛でて次の散策場所に車で移動。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.10
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『河津桜』を大いに楽しんだ後は、国道135号線の『浜』交差点を右折して海岸に出る。左手に『河津川』の河口が。『河津川』に架かる『浜橋』が前方に。『浜橋』には河津川の河津桜を見る観光客の姿が。『浜橋』を渡り左折して国道135号線を下田方面にひたすら南下する。左手には東伊豆の青き海そして岩場が楽しませてくれた。遠く『大島』の姿が。東伊豆の海岸の北側方向の絶景。そして伊豆諸島の左から利島、鵜渡根島、新島、式根島の姿が確認できた。前方には白浜海岸、爪木崎方面への海岸線が拡がっていた。海岸には青き海そして白波が。『尾ヶ崎ウィング』より伊豆諸島を望む。運がよければ三宅島まで見えるようだ。青き海が眼下に。『大島』をズームで。『新島』をズームで。そして暫くすると、車の渋滞が。前方に救急車、消防車の姿が。すると黒の車が、スピードの上昇で曲がりきれなっかたのか路肩そして交通標識のポストに突っ込んでいたのであった。そして救急車。『フェニックス広場』の「交通安全 誓乃像」。『道の駅 開国下田みなと』案内表示が前方に。『まどが浜海遊公園』前を通過。稲生沢川に架かる橋を見る。そして『人魚橋』を渡る。そして『下田』の街並みを通過し国道136号線に入り『南伊豆町』に入って行った。そして目的地の『南伊豆町日野』の交差点に到着しここを右折し車を駐める。『ファミリーマート南伊豆日野店』」に車を駐めさせていただき『 日野の菜の花畑(ひんののなのはなばたけ)』の散策開始。『元気な百姓達の菜の花畑』と書かれた看板もあった。休耕地を利用して作られている、日野地区の菜の花畑。地元ボランティアの方々や子供たち、観光関係者などが世話をしており、毎年1月下旬~4月上旬頃までは菜の花、8月にはひまわり畑が広がるのだと。約3万㎡という広大な敷地が黄色一色におおわれ、辺り一帯が菜の花の香りに包まれる様は壮観そのものであった。遊歩道も設置されており、花畑の中でSNS用の写真もばっちり撮れるシチュエーション。この菜の花畑では、毎年1組限りの結婚式が執り行われるとも。例年、多数の応募があるが、挙式できるのは審査で選ばれた1組だけと。一面の菜の花畑の中、純白のドレスが映えることマチガイなし。花は地元の皆さんが協力し、「元気な百姓祭」という活動で種まきをし育てているのだと。この日も黄色一色の世界が拡がっていた。山の上からの景色も美しいであろう。『南伊豆町 元気な百姓達の菜の花畑』。日野(ひんの)地区の青野川河川敷には黄色い菜の花が約3万m2、辺り一面に咲き乱れているのであった。中に紛れ込むように『ひまわり』の花も。偶然かそれとも意識しての種まきか?和服姿の女性が記念撮影されていましたので、撮させて頂きました。残念ながら、ミツバチの姿は確認で出来なかった。写真に写る民家の2階は特等席。ここも例年多くの観光客がいるのであったが。この山の向こう側は青き海が広がっているのである。菜の花の香りが一面に漂い、しかしこの香りには好き嫌いがあるようだが。黄色の世界を暫し楽しむ。いつまでもいたい空間。『青野川』に合流する『二級河川 鯉名川』。木道も綺麗に整備されていた。母子が記念撮影中。ここ『静岡県賀茂郡南伊豆町日野』の案内図。菜の花をズームで。『みなみの桜と菜の花まつり』の幟。実は、この日は中国、雲南省への旅行の出発日なのであったが、コロナウィルスの影響でツアーは中止になったのであった。この日、中国旅行で既に訪ねていたはずであったのが『羅平』。中国雲南省昆明市から東へおよそ200km離れたところに位置する羅平(中国語読みはLuoping)。かつて地殻変動により生まれた小高い山が立ち並ぶカルスト地形の大地が広がり、布依(ブイ)族などの少数民族によって切り拓かれたこの地は菜の花、タバコなどの栽培が盛んで国内生産量トップを誇る農村地帯なのだと。 【http://www.kmcits.cn/jp/line/line_detail?id=26】羅平名物の菜の花畑のシーズンは2月から4月中旬、満開の見頃は例年2月中旬から3月上旬となっているのであった。そしてこの時期に、中国全土の養蜂家が菜の花のハチミツを求めて集まって来るとのことでこの光景を見たくて申し込んだのであったが。 【https://www.eurasia.co.jp/travel/tour/CPSP】来年こそは是非ここ『羅平』を訪ねたいと想いながら、車を駐めた『ファミリーマート南伊豆日野店』」に立ち寄り、アイスクリーム、アメリカンドッグを購入し車の中で楽しんだ。例年はこの後、下賀茂温泉に近い青野川沿いの2kmにわたって楽しめる河津桜を訪ねた後に西伊豆海岸に向けて通称マーガレットラインを走るのであったが、今年は次の目的地の下田市内に向けて、往路と同じ道を戻って行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.23
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次に訪ねたのは、「川津来宮神社(杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社)」。私は初めて訪れた神社のなのであった。静岡県賀茂郡河津町田中154にある神社。二の鳥居横にあった像は「松尾芭蕉」像の如き姿であったが実は「鈴木久五郎」像であった。「鈴木久五郎翁」👈リンクはこの人物なのであろうか。正面には「静岡来宮講」の文字も。「川津来宮神社(杉桙別命神社)」の二の鳥居と境内。二の鳥居から「拝殿」を見る。「手水舎」。「拝殿杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ)は、静岡県賀茂郡河津町田中宮ノ脇にある式内社で、旧社格は郷社。また、式内社の「佐々原比咩命神社」に比定される姫宮神社を所管する。古くは「桙別明神」、「木野(大)明神」、「来宮(大)明神」、「木野神社」、「木之神社」、「鬼崎(きのさき)明神」などと呼ばれており、現在でも「川津来宮神社」や「来宮(きのみや)さん」と俗称される。主祭神は杉桙別命で、五十猛命と少彦名命を相殿に祀る。『延喜式神名帳』では1座なので、本来は杉桙別命1柱を祀るものであったと思われる。康永2年(1343年)の国内神名帳である『伊豆国神階帳』には「従四位上 ほこわけの明神」と記されている」。「天然記念物大楠」案内板。「杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社の大クス」杉桙別命神社(来宮神社)は、平安時代につくられた『延喜式(えんぎしき)』という書物の中に記されていると。この神社に祀られたクスの木は、県下でも有数の巨木として知られ、昭和11年、国の天然記念物に指定された。目通り周14メートル、高さ24メートルあり、樹齢は千年以上といわれていると。「来宮様の大クス」とよばれ、古来よりご神木として崇められて来たのだと。樹齢は千年以上と。「杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社の大クス」。「杉桙別命神社(来宮神社)は、平安時代につくられた『延喜式』という書物の中に記されている古く格式のある神社である。このクスの木は、県下でも有数の巨木として知られ、昭和十一年、国の天然記念物に指定された。目通り周十四メートル、高さ二十四メートルあり、樹齢は千年以上といわれている。『来宮様の大クス」とよばれ、古来より御神木として崇められてきた。河津には、江戸時代から明治時代中頃まで「河津七抱七楠」とよばれるクスの巨木が七つあったが、その中で、現存する唯一の木である。当社は「馬精進・酒精進」の行事があることでも有名である。氏子は毎年十二月十八日より二十三日まで禁酒し、鳥肉、卵を食べない。これを破ると火の災いがあるという。その由来は、祭神杉桙別命が酒に酔い野原に寝ていたところ野火が起き、火に囲まれてしまった。そこへ羽に水をふくませた小鳥たちが飛来し、水を降らせて火を消し、野火から命を守ったという。「鳥精進・酒精進」の行事は、現在でも町内の氏子はもとより、町外の氏子や多数の崇敬者に守り伝えられている。」歌碑「本宮や 神代の昔偲ばるる 仰ぐも尊し樟の大森 夢安禅師」「大クス」を廻り込んで。それにしても樹齢千年以上の巨木。境内末摂社はいくつかあったが、こちらは大きな「山神社」と「秋葉山神社」。「忠魂碑」。反対側の本堂右横にあった「大クス」も歴史を感じさせる巨木であったが。御朱印を頂きに社務所へ。社務所内にはつるし雛が。御朱印を頂きました。2ページにわたる御朱印には『大クス』の姿が。河津ではなく川津。この山の中に「河津城跡」があると。「川津来宮神社(杉桙別命神社)」の一の鳥居。一の鳥居横にも「大クス」が。幹の中央は大きく刳られて。この後、駐車場に向かうが、左手には「カーネーション見本園」があった。「この園は新品種を見本園で試験栽培することにより、新品種の正曜な特性なとの情報を生産者に提供する目的と合わせて少農薬化、土壌研究等も行い、先駆的カーネーション栽培技術の研究の為に設置したものです。河津町のカーネーションは1951年(昭和26年)、村の青年達が花の栽培家大矢好治氏指導のもとにカーネーション栽培を初めて以来、町の期間作目として栽培され、主に東京圏の市場に出荷されています。」「カーネーション見本園」を入口から。受付の前の美しいカーネーションの花々。この「カーネーション見本園」は2月1日(土)➡5月10日まで入園可能のようであった。そして駐車場に戻り、愛車で国道135号線に向かう。途中「かじやの桜」を車窓左手に見る。河津桜原木が発見され、まだ開花して間もない頃、接ぎ木による苗の生産が始まった。その時の苗は河津町内の関係者にも配られ、それらの桜は今では立派に成長しており、地元の方には一期生と呼ばれているのだと。「かじやの桜」もその1本で、樹高はそんなにないが、枝振りとたくさん咲いた花の素晴らしさは見事そのもの。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.22
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「涅槃堂」を後にして、県道を渡り「涅槃堂」駐車場を縦断して再び河津川堤防の桜並木を下流方面に向かって進む。そして河津桜越しの河津川の流れも楽しむ。「河津川あゆ解禁の注意事項」。本年のあゆ解禁は6月の第1日曜日であると。下流に向かって進む。河津町の「天嶺山」を背景に。しかし「ミツバチ」、「メジロ」の姿は見当たらなかった。花びらの裏には星形が。幼葉もやや赤く染まって。川面も光って。人の姿のない瞬間に。川面の白き流れを背景に。遠くに「峰小橋」が。河津川の流れと「峰小橋」。花を接写で。ややピンぼけ。「下佐ヶ野八津線」の「かわづいでゆ橋」からの上流側の絶景。河津町の「天嶺山」は 標高349.8m。この辺りの河川敷の手入れは為されていなかった。「かわづいでゆ橋」から下流側を見る。「かわづいでゆ橋」の袂の道路標識。「かわづいでゆ橋」。更に河津川の堤防上を歩く。ピンクの花にも濃淡があり。時間と共に色合いが変化しているのであった。「峰小橋」と「豊泉橋」の間を下流に向かって。「周辺案内図」。わずかに「幼葉」の姿も。遊歩道も広く整備されていたが。数年前から河津桜の存続危機問題がニュース等で。一番の原因は50年を超えた桜の高齢化なので、植え替えを行えば解決するのだが、法律の壁が立ちはだかっていると。河津桜の見どころと言えば、早咲きなので一足早く桜を楽しめるのはもちろん、河津川沿いの堤防上に植えられている桜並木。この桜並木の足元は菜の花が咲いていて、正面は河津桜のトンネル、横を向けば河津川、足元を見れば菜の花になっているので観光客も多く桜の名所になっているのだが。これらは全て堤防上に植えられていることが、堤防の強度を弱めてしまうので実は法律違反で、高齢化の桜を伐採して新たに桜を植え替えができないという事が存続危機と言われていりのだ。その為に、徐々に寿命が尽きた河津桜の木は伐採されるので桜並木の歯抜け状態が増え始めているのだと。この問題は、この河津桜に限らず、日本全国の桜の名所の問題でもあるのだが。桜の老木が命を終え、その根が腐り堤防の強度を弱めてしまう事は想像できるが、何か良い解決法はないのであろうか?この花のピンクは濃く。「はるか」は、「日向夏(ひゅうがなつ・ニューサマーオレンジ)」の実生(種から育つ事)から選抜育成された品種で、平成8年に品種登録されたまだ新しい柑橘であると。再び青空を背景に。再び獅子柚子(ししゆず)または鬼柚子(おにゆず)それとも『シトロン』という品種か。「田中親水園地周辺案内図」。河津川に架かる橋の名が丁寧に。河川敷の下りて河津桜の絶景を撮影。河津川の上流側。河津川の下流側には「豊泉橋」が見えた。再び上流側、銀杏の大木は葉を完全に落とし団扇の骨のごとくに。赤い欄干の「豊泉橋」。「かわづ花の会」の花壇には紅白の葉牡丹が植えられていた。再び山の斜面、そして河津川の河津桜を見る。本当に可憐なピンクの花。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.21
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「涅槃堂」への参道を進む。「沢田 ねはん堂」の幟が参道に。「涅槃堂由来碑。本 尊:釋迦牟尼如来 堂内涅槃像の製作年代は詳かでないが寛政8年(1796)頃のものと誕 生:西暦前566年4月8日印度釋迦族の王子として無憂樹の下で誕生すると出 城:29才の時生老病死の四苦を見つける城を抜け出て修行者となり苦行の生活を送った成 道:六年間の苦行の後12月8日ブッダガヤーの菩提樹の下でついにこの上ない悟りを 開いて佛陀となられた三十五才の時である。涅 槃:四十五年間にわたる教化活動をされ八十の二月十五日クシナガラ沙羅双樹の下で 頭北面西右脇に臥して入滅す。遺 訓: 自らに依りて 他に依ることなかれ 法に依りて 他に依ることなかれ」マスク姿の私の姿も。沢田にある涅槃堂は、寛永年間に建てられた堂で、ここに涅槃像がまつられていた。本堂の左手には多くの石仏や墓石が。「涅槃堂・涅槃像群」案内板。この堂は寛永年中(一六二四~一六四三)に筏場三養院の控寺(住職の休憩所)として建てられたものらしい。涅槃像群は、釈迦が紀元前四世紀の二月十五日に、故郷に近いクシナーラの紗羅双樹の下で、ハ十歳の生涯を閉じた様子を表現している。涅槃像は一木造、像高ニメートル五十ハセンチで、重量感あふれる漆箔像で、江戸時代中期頃の作である。像の後に立つ阿弥陀三尊像は、釈迦を極楽浄土に導くため迎えに来た様子を表し、両側に配された二十二躯の像が、悲しむ人々の姿を表現している。涅槃像は全国的に少なく、県内では類例のない稀少な文化財である。これらの像は、近世における民衆の、極楽浄土を願う気持があらわれたものであろう。毎年二月十五日には沢田区による涅槃会が行われており、「寝釈迦さん」と呼ばれて今でも身近な信仰の対象となっている。堂内の梁には、華鬘(けまん 内陣にかけて仏前を飾る装飾)が施されている。飛天が雲上を飛ぶ姿を表し、顔料で彩色された地方色豊かな文化財である。また、地区に災害や流行病があるときは、老若男女が集い、百万遍念仏の祈祷が行われた。今でも使われた数珠や版木などか残されている。「本堂」内陣の参観は有料。「本堂内陣」を外から。桧材一木造で、漆箔(ウルシの上に金箔を施したもの)、全長239.39cm、金箔や髪の紺色、唇の紅色などがよく残されていて、寛政8年(1796年)頃の作品としては、かなり丁寧な技法が見られると。釈迦が生涯を閉じて涅槃に入るときの姿を現したもので、像の背後には、寄木造漆箔の阿弥陀三尊を中心に24体の諸仏が並んでいると。阿弥陀三尊は釈迦を極楽浄土に迎えに来た像で、他の諸仏はそれを悲しんで集まってきた人々の様子を現しているのだと。お顔をズームで。釈迦が生涯をとじて涅槃に入る姿を表した像がまつられているのであった。桧材一木造で、漆箔(ウルシの上に金箔を施したもの)、全長239.39cm、金箔や髪の紺色、唇の紅色などがよく残されていて、寛政8年(1796年)頃の作品としては、かなり丁寧な技法が見られると。釈迦が生涯を閉じて涅槃に入るときの姿を現したもので、像の背後には、寄木造漆箔の阿弥陀三尊を中心に24体の諸仏が並ぶと。阿弥陀三尊は釈迦を極楽浄土に迎えに来た像で、他の諸仏はそれを悲しんで集まってきた人々の様子を現しているのだと。御朱印を頂きました。本堂裏には河津桜そして堂の上には竹藪が。「日本三大寝釈迦霊場 涅槃堂」案内板。そして坂を上り、涅槃堂の裏山にある「涅槃堂桜見晴台」を訪ねた。沢田地区の人たちがミカン畑を1年がかりで整備してこの『見晴台』をオープンしたのだと。海抜約45m。河津川の桜並木が一望できるのであった。河津川の桜並木の2本のピンクの帯が鯉のぼりの先に。今年初めて見る鯉のぼりなのであった。そして「涅槃堂桜見晴台」を後にし、再び河津川の堤防に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.20
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途中、「日本三大寝釈迦霊場」の「涅槃堂」そして「涅槃堂桜見晴台」の案内板があったので、「河津桜原木」を訪ねた後に久しぶりに訪ねることにする。左側に「河津町役場」。獅子柚子(ししゆず・おにゆず)であろうか、それとも『シトロン』か。そして県道沿いの民家の庭にある「河津桜原木」に到着。ほぼ満開に近い「河津桜原木」。しかし、ここも例年に比べて観光客の姿は少なかったのであった。カメラを縦にして。今年も枝の先端まで花をつけて。「町指定天然記念物 「河津桜原木」指定日 2005年2月2日」と。桜の近くに立てられている「河津桜原木物語」。『昭和30年頃の二月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和41年1月下旬、やっと桜が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け、永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定されした。』と。河津桜原木保護育成基金ご協力依頼の看板が。今年も頑張って咲いてくれていました。オレンジ色のアロエの花も。原木の幹周は約115cmで樹齢は50〜60年くらい。たくさんの花が玉のように塊になって咲いているのであった。アロエの花もスックリと。原木を様々な角度から。道路の反対側から。高級一眼レフカメラを構える旅友。正面から。偶然発見されたこの1本から河津桜は町全体に広がり、全国各地に植樹されているのだ。1981年から開催され現在では約400万人もの観光客が集まる大きなイベントとなった「河津桜まつり」もこの原木から始まった事を考えると、とても貴重な桜であるのだ。原木とはいえ、まだまだ若く樹勢も良好で、今後の成長が楽しみ。私も頑張らなくてはと。ここにも河津桜のポスターが。「河津町観光マップ」も。「ツルニチニチソウ」の花が可憐に。光沢のある卵型の葉と青紫色の花が美しいグランドカバー。「河津桜原木」を後にし「涅槃堂」に向かい県道を歩く。遠くの山の斜面にも河津桜の密集場所が。右手に「小峯堂」が。「伊豆横道十四番札所」と彫られた大きな石碑が立っていた。無人の堂の周りには六地蔵や庚申塔、そして可愛らしいお地蔵さんが何体か迎えてくれたのであった。可愛らしいお地蔵さん。小さなお地蔵さんも。再び山の斜面に咲く河津桜をズームで。途中、道路脇の温室にはピンクのカーネーションが栽培されていた。そして前方右側には「涅槃堂」の上にある「涅槃堂桜見晴台」、そして鯉のぼりの姿が。ズームで。そして道路の右側に「ねはん堂」の標識が見えて来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.19
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駐車場に車を駐め、河津川沿いの並木のお花見に向かう。駐車場のオジサンの話によると、今年はコロナウィルスの影響で、観光バスによる花見見物の中国人そして日本の観光客がほとんど来ないとのこと。なるほど、大型バスの駐車場にはこの時、バスは1台も駐車していなかったのであった。まずは、菜の花と7~8部咲きの河津桜が迎えてくれた。2020.2.10(月)~3.10(火)までの1ヶ月間、「第30回河津桜まつり」が行われていたのであった。河津桜の見どころは、河津川の堤上がメイン会場。河津桜はカンヒザクラ系と早咲きのオオシマザクラ系の自然交配種といわれ、開花の時期が早く花が大きい桜。河津川周辺を中心に町内に約8000本(川沿いは約850本)が植えられていると。角の出店には、つるし雛が販売されていた。「テレビでやった90歳のおばあちゃんが作ったつるし雛」と。様々な手作りの人形も。静岡県東伊豆町稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾り(福岡県柳川市:さげもん、山形県酒田市:傘福)のひとつでもあるとのこと。堤防上の河津桜の並木を上流に向かって進む。満開直前の河津桜。河津桜の魅力は、早咲きの桜であることと花色。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。春らしいピンク色は、見ている人にこれから来る春を期待させるような色なのです。河津桜はソメイヨシノと同じように花の後から葉が出て来る。山桜の種類などは花と葉が同時に出て来るので、葉の出るタイミングが違うのだ。河津桜は、花が咲いている間は木全体が花で覆われたようにピンクに染まって見えるのであった。出店も営業を始めていたが、買う人の姿はあまりなかった。やはり観光客の数が例年に比べてかなり少なかったのであった。前方に「来宮橋」が見えて来た。土産物屋では河津桜の苗や、このミモザの苗も販売されていた。「ハリコ」5本400円。さんまの丸干し干物(ひもの)。「ハリコ」とはサンマの幼魚の丸干しを言うとオバチャンから。河津川の両脇の堤防に連なる満開間近の河津桜。河原に下りている観光客の姿も例年になく少なく。干し椎茸も山のように。濃いピンクのトンネルの下を進む。中国語はほとんど聞こえて来なかった。開花が進むと中心のピンクの濃さが増して行く河津桜。やはり、青空が映える河津桜。前日の11日「建国記念の日」には多くの観光客の姿があったのだろうが。咲くならば太幹にと。河津川を背景に。この近くはほぼ満開か。「きれいな川。私達の町」。「金目鯛定食」の看板も。満開とはこの状態を言うのだと勝手に。店の様子はどこもこんな感じ。マスクの方は半分くらいか?河津川対岸の河津桜。河津川は穏やかな流れ。堤防には水仙も咲いて。堤防には黄色い小さな花が。今や早春を告げる代表格になっている野の草・『オオキバナカタバミ』。これから昼間に向かって花を開くのであろう。川面を背景に。更に進む。これぞ「鈴なり咲き」。この樹はまだ5部咲か。「新物 わかめ専門店」。小えびが詰放題で1000円。「鹿ツノ」も1500円で売られていた。強壮剤か?みかん1袋500円、そしてつるし雛も。そして「豊泉橋(ほうせんばし)」に到着。「豊泉橋」から上流側のピンクの帯を。ズームで。下流側。この光景を見に毎年。少しずつズームで。更に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.18
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今年も2月12日(水)に西伊豆・河津町の河津桜そして西伊豆巡りの日帰りドライブに行って来ました。テレビのニュースで暖冬の日が続き、例年より1週間以上早く満開に近づいている事を知ったのです。実はこの日、2月12日(水)に成田空港を出発する中国の雲南省へのツアー旅行を申し込んでいましたが、新型のコロナウィルス感染拡大の影響でツアーが中止となったのです。何時ものように自宅から車で6:30に茅ヶ崎の旅友Sさん宅へ。そしてSさんの愛車に乗り換えて西湘バイパスを利用して小田原方面に。西湘バイパスから、三浦半島上空の日の出を車窓から。箱根の山々を前方に見る。黄色の陽光の帯が相模湾の水面に。早川口を左折し135号線を熱海方面に。135号線から西湘バイパスを見る。昨年11月22日、JR早川駅近くの小田原漁港西側エリアに「漁港の駅 TOTOCO小田原」がオープンしたのだ。地場産の鮮魚や活魚、水産加工品や土産品の販売、食事処やイベント広場を備えた小田原の地場産品の魅力を発信する日本初の「漁港の駅」。1階が鮮魚・水産加工品・農産物の販売エリア、2~3階が鮮魚をテーマとした飲食エリアで、眺望テラスでは絶景を眺めながら海の幸を楽しめるのだと。朝焼けの光景を車窓から楽しみながら進む。135号線の渋滞を避け、JR東海道線の北側を走る県道740号線を進む。JR真鶴駅前を通過。前方にピンクの桜の木が現れる。河津桜であろうか?『MOA美術館』の案内表示。MOA美術館は相模灘を見渡す高台に建つ「海の見える美術館」。国宝3点、重要文化財65点を含む約3500点を所蔵。美術館のメインロビーからは海に浮かぶ初島や伊豆大島が一望でき、大パノラマが見る人の心を癒してくれる美術館。私も既に4回ほど訪ねている美術館。そして左手前方に熱海城の姿が。手前に白き熱海後楽園ホテルの建物が。熱海城をズームで。熱海城は、静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっているが城郭は歴史的に実在したものではないのだ。あくまでも『観光施設』なのである。熱海サンビーチの「ジャカランタ」の並木。熱海市観光協会の「ワカガエルステーション」が左手に。熱海湾に面した親水公園内にある観光案内所。熱海の観光について案内するほか、各種パンフレットや割引券なども手に入る。熱海海上花火大会の有料観覧席販売や車いす、ベビーカーの貸出しもしているとのこと。熱海の沖に浮かぶ「初島」。伊豆半島を南下して行くと、河津桜の開花状況も進んでいたのであった。宇佐美の街並み。伊東市にある「ホテルサンハトヤ」。大室山の手前に巨大な肌色のゴリラの像が今年も迎えてくれた。「怪しい少年少女博物館」の看板のある建物が右手に。既に営業をしていないようであったがどの様な博物館であったのだろうか?利島の姿が。利島は東京から南に約140kmに位置し、周囲約8km、面積4.12km2の小さな島です。砂浜はなく、断崖絶壁に囲まれた利島。島全体が椿林に覆われ、その本数は約20万本と言われており、冬になると島中で咲き誇る椿の花を見ることができるのだ。赤沢隧道が前方に。「大島」の姿が大きく見えた。東伊豆町の稲取岬にある稲取漁港と稲取温泉が左手眼下に。稲取岬は山からみるとドブロブニクを彷彿とされるものがあるのであった。東伊豆町「雛のつるし飾りまつり」が1月20日~3月31日まで行われると。そして河津町に入る。ほぼ満開の河津桜が迎えてくれた。これぞ「満開」。「浜」交差点を右折し「踊子花街道」を進むと「河津駅」が右手にそして駐車場に滑り込んだのであった。時間は9:05。茅ヶ崎から2.5時間のドライブであった。 ・・・つづく・・・
2020.02.17
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昨日早朝に、車で20分ほどの場所にある『小出川彼岸花』を訪ねに行ってきました。「第12回小出川彼岸花まつり」は、1週間前の9月22日(日)に行われたとのことです。今年は例年に比べ開花が1週間以上遅れているようで、昨日朝にはかなり満開状態を楽しむことが出来ました。『大黒橋』入口には箱に入った「第12回小出川彼岸花まつり」のパンフレットが。パンフレットの裏側には「まつり会場」案内図が。スタンプラリーも行われたようです。彼岸花を楽しめる場所は、遠藤の小出川沿いの大黒橋~追出橋の間約3km。おまつりの本会場:遠藤会場 他、打戻会場、おおぞう会場、せりざわ会場(茅ヶ崎里山公園内)が設置されたようであった。小出川(こいでがわ)・大黒橋の近くに車を停め、しばしの散策。こちらはこれから満開を迎える株群。小出川 ”彼岸花”の案内板。小出川は、神奈川県中央南部を流れる相模川水系の川で、これでも『一級河川』。藤沢市遠藤の笹窪谷戸に源を発し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの脇を流れ、駒寄川(こまよせがわ)が流入し、茅ヶ崎市と寒川町の境界河川となる。新湘南バイパスとほぼ平行して茅ヶ崎市の西部を縦断し、千ノ川が流入した後、平塚市で相模川の河口付近に注ぐ河川。川沿いの道を散策。右手には道祖神碑が。時間は6:15、早朝散歩の人の姿も殆どなく彼岸花を独り占め。真っ赤な彼岸花が朝の陽光を浴びて輝く。白の彼岸花も所々に。日本では秋の花として親しまれる彼岸花(ひがんばな)。別名、リコリスや曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれ、日本特有の「彼岸」の時期に咲く花として知られている。ネット情報に拠ると様々な名前が。彼岸花(ヒガンバナ)曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)痺れ花(しびればな)天蓋花(てんがいばな)狐の松明(きつねのたいまつ)狐花(きつねばな)葉見ず花見ず(はみずはなみず)雷花(かみなりばな)レッドスパイダーリリーハリケーンリリーマジックリリーなどなど。彼岸花とはヒガンバナ科・ヒガンバナ属(リコリス属)に分類される球根植物。日本や中国に広く自生し、秋の彼岸の期間(秋分の日を入れた前後3日間)だけに花を咲かせることに由来して名付けられたと。9月頃になると赤や白、ピンクなど花を咲かせるのが特徴なのです。山口百恵の歌『曼殊沙華(マンジュシャカ)』👈リンク♫マンジューシャカ 恋する女は~ マンジューシャカ 罪つくり~♫この曲で初めて作詞の阿木曜子が「マンジュシャゲ」を「マンジュシャカ」と発音させたのであろうか。インドの古い言葉(梵語)では「マンジュシャカ」。音写して曼珠沙華。「天上の赤い花」という意味があり、おめでたいことが起こる兆しに、天から赤い花が降ってくるという伝説があるのだと。 白の萩の花も。彼岸花の色別の花言葉を調べてみました。「☆白色:思うはあなた一人/また会う日を楽しみに★赤色:情熱/独立/再開/あきらめ/悲しい思い出/思うはあなた一人/また会う日を楽しみに★黄色:追想/深い思いやりの心/悲しい思い出彼岸花は、その印象的な赤い花色から「情熱」「思うのはあなた一人」といった花言葉が生まれたといわれています。しかし、彼岸花の花は死や不吉なイメージの方が強いですよね。それは、「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」「彼岸花を摘むと死人がでる」「彼岸花を摘むと手が腐る」といったいくつかの恐ろしい迷信があるためです。これらは、花色や花姿が炎を連想させることと、彼岸花のもつ毒によるものとされています。決して怖い花言葉をもっているわけではないのですが、死や不吉な印象があることから贈り物として用いられることはほとんどありません。」と。小出川の赤い帯が輝く。彼岸花は「まず花が咲き、後から葉っぱが伸びる」という通常の草花とは逆の生態をもっている。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともあったのだと。そして車に戻り『新道橋』まで移動。この道はまつりの『せりざわ会場』があった県立茅ヶ崎里山公園に行く道。車を道路脇に停め急ぎ足で散策開始。こちらは小出川沿いに2本の帯が。陽光を更に浴びて。彼岸花には何百という品種が存在し、今も品種改良によって日々新しいものが生み出されていると。赤色のイメージが強い彼岸花ですが、他に白、赤、黄、オレンジ、ピンクなどが存在。ただ、日本では彼岸花の流通が少なく、園芸植物として人気が高くはないようだ。彼岸花の球根は毒(リコリン)があるのだと。地中に潜むモグラやネズミは、他の植物の根はかじっても、彼岸花のものはかじらないと。よって彼岸花は、よくこの小出川の如く田んぼの畔道に咲いているのは・彼岸花の根が土手や畔の土をギュッと固めてくれるため。・彼岸花は毒があるため、田んぼを荒らすネズミやモグラ・虫などの被害を防ぐためなのだと。・墓場にヒガンバナが多いのも、異臭や有毒性を利用して遺体を動物から守るためだとも。更に彼岸花は食用は厳禁だが、飢餓の時に球根の毒を水で流して利用したり、水戸黄門の命令で発行した家庭の医学書「救民妙薬」では、球根をすり下ろして患部に当てて湿布剤とした事もあったのだとも。飽食の今の時代には必要のないことですが、昔はひどい飢饉のときに毒抜きが良くできていないものを食べて命を落とした人がいたのであろう。赤い花だけに毒があるとの話もあったが、間違っているようだ。蕾に近づいて。花群をズームで。2本の赤い帯が緩やかにカーブして。僅かな小さな水滴をと。なかなか我がデジカメでは・・・。いろいろなモードでTRY。何とか・・・・。そして引き返す。紅白の共演。カップルの如き彼岸花。それぞれ6個の花それぞれに雄蕊と雌蕊がヒゲの如くに。これぞ『畦道』。川面を背景に。情熱の赤。更に近づけて。陽光に照らされて気温も上がって、僅かな霞が。実るほど頭を垂れる稲穂かな。いつまでもこうありたい。これぞ日本の秋の風景。彼岸花には、すーっと伸びた茎に鮮やかな花だけがついていて、葉っぱがまったく見あたらない。これぞ赤!!再び水滴に拘って。歩いて来た道(右側)。鯉が見送ってくれました。そしてキアゲハもポーズを取ってくれました。空には既に秋の雲が。茅ヶ崎方面。うろこ雲か。うろこの1つ1つがハッキリ見える時は天気下り坂のサインとなると教わった記憶が。うろこ雲は、いわし雲とも呼ばれ方もしますが、気象学的には巻積雲(けんせきうん)の一種に分類されるのだと。秋を代表する雲で、上空の高いところに発生。秋は他にも、すじ雲・ナミナミ雲などが現れやすい時期…空をたくさん見上げてみたいこの時期。あまり見られなくなったこの稲わら干しの風景。先日我が家に来てもらった畳屋さんのご主人からは、昔ながらの、稲藁(いねわら)を使用して作った藁床は、稲藁不足で難しくなっていると。芯材にスタイロフォーム(ポリスチレン樹脂を主原料とする発泡体の断熱材)を使用している畳が多くなっていると。更に稲藁材を全く使用せず、畳自体の大部分をスタイロフォームで構成しているものも多くあるのだと。そしてこの朝の見納めは、日本の原風景。早朝の彼岸花をほぼ独り占めして、帰宅したのであった。そして我が家の前の畑の角にも『シロバナマンジュシャゲ』が満開。『シロバナマンジュシャゲ』はヒガンバナとショウキズイセンが交配してできた雑種だろうと。花の姿は彼岸花に似ていますが、比べると『シロバナマンジュシャゲ』のほうが、花びらの反り返りや縁のフリルがゆるいのではと。昔の人の知恵で植えられた彼岸花ですが、これまでその風景が守られているということは、金色の稲穂を背景に咲く真っ赤な彼岸花の風景を愛おしむ心が、日本人の心として連綿と受け継がれて来ている事を再認識した朝なのであった。『小出川 水のかがやき 曼珠沙華』『群れ咲くも 一輪もよき 曼珠沙華』『曼珠沙華 真紅な花には 毒があり』 ・・・・・詠み人知らず
2019.09.29
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我が菜園のスナップエンドウの栽培後地に朝顔を植えて、これが毎朝開花し楽しませてくれています。ホームセンターで種を購入し、これを蒔き育てて来ました。スナップエンドウに使ったネットをそのままにし、これに朝顔の蔓が絡みついています。大輪の様々な朝顔の花が毎朝開花しています。自然に成長した小輪の青い朝顔の花とオシロイバナ。ズームで。オシロイバナ。こちらは庭先のジンジャーの花。草丈が80cm~2m近くになる大型の草花。先端の尖ったやや細長い葉を2列に並べて上に伸びて。主な開花期は夏から秋で、黄・白・赤・オレンジ色の花を穂状に咲かせるのです。香味野菜として使うショウガ〔Zingiber officinale〕とは草姿こそ似ていますが違う植物だと(同科ですが属が違う)。既に花のピークは終わっています。和名では「ハナシュクシャ(花縮紗)」と呼ばれています。この花には我がミツバチの姿はありませんでした。
2019.08.29
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この日(8月18日)は我が家から自転車で5分ほどの場所にあるひまわり畑を訪ねました。約2~3反に拡がる国道467号線沿いのひまわり畑です。道路から50cmほど上がった場所にある畑。全ての花が東に向かって。この写真に写っているお宅は2階から毎日花見が。しかし見えるのひまわりの後ろ姿。ひまわり畑の裏が国道467号線。別の場所に移動して。ひまわりが肩を組んでいるが如きに。ミツバチ(おそらく我が家のミツバチ)を追いかけて。1段高い場所からズームで。近くにある日本ミツバチの巣箱を見に行きました。しかし、2群とも日本ミツバチの出入りの姿は全く見られなかった。巣箱の場所が問題か、もう少し日光が当たりにくい木陰が良いのではと。2群とも家出をしてしまったようであった。
2019.08.28
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今年も、我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されて来たという芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くないようです。その数少ない園芸品種の一つがこの『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に似て仏教の縁を重ねることが出来るのです。朝の、純白の花です。時間は6:15。葉の上部の脇に花びらが5枚で椀状の10~15cmぐらいの大輪の花を咲かせます。そして既に極淡いピンクに染まり始めている花も。葉は手のひら状に浅く3つから7つに裂け、互い違いに生える(互生)。そして花片全体が淡いピンクに染まり始めました。時間は10:55。昼前になると、ピンクの色が強くなってきました。時間は11:45。チョット出遅れている花も。そしてピンク色が更に濃くなって来ました。時間は13:00。そして15:20、それぞれの花が赤く染まって来ました。花の先端がより赤く染まって。中心の円周上に濃いピンクの点が。そしてすっかり酔った『酔芙蓉』。時間は16:05。そして酔いが回った花たちが夕陽を浴びて。夕日を浴びながら花片も閉じかけて。すっかり酔った『酔芙蓉』の横に酔い潰れている『酔芙蓉』も。そして酔いつぶれてしまった花がところどころに。こちらは前日の花か。そして翌朝には地面に落ちて。秋になると、根本近く(20~30cm)からバッサリと強剪定しますが、翌年には見事に新芽を延ばし毎年2m以上にまで成長し、花を楽しませてくれる『酔芙蓉』なのです。そして酔芙蓉は挿し木で増やすことができます。冬に剪定した枝を保管しておいて、気温がある程度上昇した5月ごろ挿し木をするのです。酔初めは我より早き酔芙蓉 ・・・・詠み人知らず酔芙蓉朝な夕なとカメラ手に ・・・・詠み人知らず酔芙蓉夕映色に花染めて ・・・・詠み人知らず
2019.08.27
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更に『座間・ひまわりまつり』の会場を散策する。そしてひまわりの種も100円/袋。遊歩道沿いには、マリーゴールドや手前は千日紅であろうか。こちらは後ろ姿。雲行きが怪しくなって来た。ひまわりの花も自分で切って購入可能と。こちらは鳳仙花(ほうせんか)であろう。子供の頃に、指でぎゅっと触ると皮がめくれて種がはじけ、これを楽しんだ記憶が。「ざまりん広場」にはひまわりまつりの本部テントが。遊休地に市の花「ひまわり」を植え、座間市のまちおこし企画の一環にしたと。ひまわりの枝葉の深緑は、たくましく発展を続ける市を、また大輪の花は、市民の皆さんが手を結び合い、明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴していると。開場は9:30~とのことで未だ係の方の姿は殆どなかった。時間は漸く7:20。『ひまわり畑 案内図』。ゴミの『分別ステーション』も色彩豊かに。「ざまりん広場」は今日の準備が漸く開始。『ひまわりまつり臨時路線バス時刻表』。小田急線相武台前駅から臨時バスが12~15分間隔で運転されるようであった。座間駅の方が近そうだが、いろいろと事情があるのであろう。ひまわりの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられているとのこと。既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていたと。1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名であると。ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わったのだと。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められたのだと。現役中に仕事で中国の田舎を何回か訪ねたが、その折、老若男女がヒマワリの種を囲んで、カリカリとハムスターのようにかじる姿は、可愛らしくもあったが、ちょっと不思議に感じた事を想いだしたのであった。そして殻を口から床に向けてペッ、ペッと吐き出し、床を散らかしていたのであったそして、中国人が一番よく食べるおやつといえば、断然ヒマワリの種だろうとの言葉を当時は聞いたのであったが、今回の満州旅行でも同様な姿を幾度か見たのであった。記念撮影用のベンチと額が置かれていた。タクシー乗り場、自転車駐輪場も用意されていた。奥にはもう一つのひまわり畑が見えたが、更に雲行きが怪しくなって来たので引き返す。帰路は全ての花が私を正面から迎えてくれたのであった。多くの西洋ミツバチが訪花中。しばし西洋ミツバチを追いかける。こちらはカップル用の木製ブランコ。再び『ざまりん広場』まで戻る。『ざまりん広場』は座間市マスコットキャラクター「ざまりん」から。『ざまりん』。顔はひまわりの花、顔から下はひまわりの種をイメージしているのか? 【https://013704309081316.at.webry.info/201407/article_5.html】より本日のステージイベントの予定のようだ。「ルドベキア」は黒い目が特徴。宿根草でこぼれ種でも増える花。ひまわり畑の中にはカラフルなパラソル、そして赤いベンチが。展望台にあった帽子。再び展望台を。一方通行の階段。再び展望台から。「まみれ」は漢字で「 塗れ」と書くのだ。私の毎日は汗塗れ、泥塗れ、そして部屋はホコリ塗れ・・・・。ひまわり畑の中の散策路を歩く。青空を背景に。1本だけ太陽に背を向けるひまわりの姿を発見。これも人間社会と同じか?再び西洋ミツバチにレンズを向けて。花弁は大きな1つの花のように見えますが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成しているのです。これは、キク科の植物に見られる特徴。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶことも。 シャッタースピードを速くして。三匹仲良く。近くに巣箱があるのであろうか?巣箱も見てみたかったが。1時間以上経ったが、花の向きは、なるほど変わっていなかった。いつ頃にこの花々は片付けられてしまうのであろうか?県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の袂近くからひまわりまつり会場を。背中を見せるひまわり達。相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)。相模川の対岸には圏央厚木ICが見えた。座架依橋(ざかえばし)のモニュメント。駐車場の車の数はまだまだ少なかった。県道42号線の駐車場側にもひまわり畑が。ひまわりの後ろ姿を見ながら車に戻り、帰路についたのであった。 ・・・その1にもどる・・・
2019.08.23
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今年も、座間で行われている『ひまわりまつり 2019年8月10日(土)~14日(水)』の最終日に車で行って来ました。この日は最終日の8月14日(水)。6:30前に自宅を出発し、車で30分弱で県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の下の相模川河川敷にある『水と緑の風広場』にある駐車場に到着。『ひまわりまつり』の会場に向かって相模川堤防沿いに歩く。途中、角にあったのが『土地改良の碑』。約30年前の功労者像、「本多菊近翁」土地改良の碑。県道42号線之下の通路には『ようこそ ひまわりのまち 座間へ』の横断幕が。『ひまわり畑 ここは座間エリア』。座架依橋(ざかえばし)への坂道の高架下は『休憩所』。日陰の下には休憩用のテーブル、椅子が準備されていた。年配者には優しい常に日陰の場所。今年の『ひまわりまつり』のポスター。毎年約55万本のヒマワリが咲き誇る「座間市ひまわりまつり」。会場は『座間エリア』と『四ッ谷エリア』の二箇所。そして座間エリア・新田宿エリアのひまわり畑へ。朝の陽光を真正面から浴びるひまわり。ひまわりは和名で「向日葵」と書きますが、「日回り」と表記されることもあるのです。英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。この様に、太陽の動きを追って花が回るということからそう呼ばれます。またひまわりはそのものが大きな花として認識されている場合がほとんどですが、実際は1000~2000の小さな花が集合してこの形を形成しています。外側の黄色く長い花びらを付けた花”舌状花”と内側の茶褐色の”筒状花”に分かれているのだと。ひまわり(向日葵)は花が咲く前のつぼみの時期は、茎の先端が太陽の方向を向いて動くのだと。これは太陽光が当たらない側の茎が、当たる側の茎よりも成長するため、太陽の方向に曲がってしまう為。つまり太陽に面して前と後ろの伸びの違いにより生じるもの。しかし、花が咲いた後には茎の成長もストップするので、花自体が太陽を追いかけるということはないのだと。よく言われる、「ヒマワリの花が太陽を追いかけて、クルクルまわる」という事はないのです。全ての花が私の方を向いて迎えてくれていました。『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲート。こちらのひまわりは造花。ひまわり畑の中にも遊歩道が。本部、飲食ブースの案内板が。背丈は様々。後ろのひまわりは背伸びして覗き見ているが如し。こちらは通路の反対側のひまわり畑。皆、花は東に向かって咲いているので、こちらは花の後姿が。こちらにも『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲートが。新田宿エリアには展望台が2箇所。展望台からの絶景。多くのひまわりが朝日に向かって満開の姿で。これぞ『黄金の世界』。手前のひまわり畑方向。後ろには、座架依橋(ざかえばし)に上っていく県道42号線が。見事な黄色の絨毯の世界が。記念撮影用の様々なプラカードが置かれていた。これぞ『SNS映え』。プラカードを支柱に差し込んで。しかし、毎日が『夏休み』の」私なのであった。ひまわりのカオスの真っ只中、これぞ『ひまわりまみれ』。もうこの光景を表現する言葉を持ち合わせていません。もう一箇所の展望台下には、SNS映え・記念撮影用の帽子や額も準備されていました。まさに『あちーけど・・・きれいー』。『座間なう。』、『ひまわりは枯れても思い出は枯れない』。でも体は暑すぎて枯れそう。しかしいろいろと考えていますネ。青空を背景に多くのミツバチとチョウチョの姿をカメラモードを変えて ・・・つづく・・・
2019.08.22
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さらに、堀切菖蒲園の散策を続ける。豪華な花ですので肥後系の菖蒲だったでしょうか?こちらは花びら中央部に向かって細い筋模様がある。 花びらの中央部は、 めくれ上がる。 葉っぱは幅広で、 筋は無く、ほぼ平坦。「この7番目は今年3年目で株分けの圃場です。」「紅姫(肥後)」「この12番目は今年2年目で株分けの圃場です。」堀切菖蒲園の後ろには綾瀬川沿いに走る「首都高速中央環状線」が高架で。『菖翁花👈リンク』。江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは旗本、松平左金吾定朝(まつだいらさきんごさだとも)。自らを「菖翁」と名乗り、60年にわたって花菖蒲の改良と新品種の作出に情熱を傾けた。菖翁により作出された花を「菖翁花」というと。120種の品種が作出されたようですが、現在は17種前後が現存するのみとなっています。戦前の品種は江戸古花と呼ばれ、今でも明治神宮御苑を始め各地の花菖蒲園や個人で大切に保存されています。堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引き継ぐ、10種余りの栽培管理をおこなっています。ヘメロカリス。ヘメロカリスは初夏から夏にかけて次々と花を咲かせる多年草で、日本にはニッコウキスゲやノカンゾウ、ヤブカンゾウが自生し、古くから親しまれています。暑さ寒さに強いうえ、土壌もあまり選ばず、植えっぱなしでよく育ちます。ズームで。『渡辺千秋の歌碑』「ほりき里能 さとのあやめは 老いまつに ちよをちきりて さ支さかゆら夢」「ほりきりの さとのあやめは 老いまつに ちよをちぎりて さきさかゆらむ」天保14年(1843)生れ~大正10年(1921)没。 北海道庁長官、京都府知事、宮内大臣などを務めた。ノーベル化学賞を受賞した野依良治の曽祖父。再び『堀切菖蒲園』案内板。「10番、11番 圃場」「10番」再び「堀切菖蒲園」配置図。ここにも「花菖蒲の系統」。「ハナショウブ、アヤメ、カキツバタの違い」。3つとも“アヤメ科”アヤメ属に属しています。だからとてもよく似ていて見分けにくいことは確か。・花菖蒲(ハナショウブ)は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるが どれも「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。・カキツバタ(杜若)はあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」が あるのが特徴。・アヤメも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある『花菖蒲番付』東横綱:春の海西横綱:水の光今年の『菖蒲まつり40周年』花菖蒲 人気投票結果東横綱:春の海西横綱:水の光五葉松。「歌碑 花菖蒲 かがやく雨の 走るなり」「中村汀女(なかむらていじょ)」の作であると。中村汀女は、1900年4月11日熊本県熊本市画図生まれの、昭和を代表する女流俳人である。再び西横綱:水の光。ズームで。もう一度、別の花を。「写楽」。濃い黄色い目の形の模様。マンションの住民が羨ましい。「鳳凰冠」「神代の昔」「遊女の姿」。『明治神宮御苑 花菖蒲』のポスター。こちらは「小岩 菖蒲園まつり」。そして『堀切菖蒲園』を後にし、再びアジサイを楽しむ。『堀切十二支神』擬人化された十二支がズラリと並んでいた。十二支とはご存知の通りに「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の総称で、年・月・日・時刻・方位などに利用されているもの。右から子・丑。我が干支の『虎』。右から寅・卯・辰。右から巳・午・未。右から申・酉・戌・亥。十二支の動物の上半身と、人の下半身を組み合わせて作られた半獣半人像なのであった。そして次に『しょうぶ(菖蒲)七福神 』。菖蒲七福神は、堀切の鎮守天祖神社の摂社 として大正12年に鎮座された毛無池弁天社はご神徳により永年弁天講を中心に氏子の 皆様から尊崇されていたが、平成6年6月に新に六柱の神をお迎えし、菖蒲七福神と して建立されたもの。 菖蒲園の「菖蒲」と勝ち負けの「勝負」と武を尊ぶ「尚武」などの意味が込められ、あえてひらがなで「しょうぶ七福神」。『しょうぶ(菖蒲)七福神 』左から『毘沙門天』、『寿老人』、『大黒天』。中央の『弁財天』。左から『恵比寿』、『福禄寿』、『布袋尊』。
2019.06.29
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この日・6月12日は、都内に行った折、足を延ばして堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)を訪ねました。堀切菖蒲園は、東京都葛飾区堀切二丁目にある葛飾区所管の公園(植物園)。花菖蒲の名所として知られ、京成電鉄 「堀切菖蒲園」駅から徒歩約10分。駅前の線路沿いにある商店街を歩く。『2019葛飾菖蒲まつり』ポスターが期間:2019年5月27日(月曜日)から6月16日(日曜日)まで行われていた。案内に従い、堀切菖蒲園に向かって進む。『2019葛飾菖蒲まつり』の催し物案内ボード。更に商店街を進む。途中、アジサイも美しく咲いていた。青の美しいガクアジサイ。民家の庭にはウチワサボテンの黄色い花が。堀切二丁目緑道に咲いているアジサイを楽しみながら進む。この日が色のピークか?白のカシワバアジサイ。花の細かいアジサイ。青のガクアジサイ。そして『堀切菖蒲園入口』に到着。戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。貴重な江戸系花菖蒲を中心に200種6000株の花菖蒲が植えられており、見ごろは、この日の6月の中旬。堀切菖蒲まつりの期間は、地元住民・商店街・行政等による運営協議会によって、パレードなどのイベントが行われるのだと。また、公園内には食事(予約制宴会)ができる集会施設「静観亭」がある。堀切菖蒲園 案内図。「堀切菖蒲園」の歴史。・始まりには二説ある。 ・室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から 花菖蒲を取り寄せて栽培を始めた。 ・江戸時代百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まり。・江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信、歌川広重の浮世絵に 登場する。・戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった・1959年東京都が堀切園を購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。 1975年葛飾区に移管され、現在に至る。歌川広重「名所江戸百景」の第56景となる「堀切の花菖蒲(ほりきりのはなしょうぶ)」。前景を大胆に配した広重独特の構図で、ファンに人気の高い作品。「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。園内に入り菖蒲園の散策開始。「この1番は今年3年目で、株分けの圃場です。」株にはそれぞれ花の名前が表示されていた。白に紫の縁のある「長生殿(ちょうせいでん)」。白の花菖蒲「沖の波」。ズームで。一面に色彩豊かに咲き誇っていた。「この2番は今年2年目の圃場です。」「この3番は今年3年目の圃場です。」『花菖蒲の系統』。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。系統を大別すると、品種数が豊富な江戸系、室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類でき、古典園芸植物でもある。他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある。「この6番は今年2年目の圃場です。」 ・・・つづく・・・
2019.06.28
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熱海からの帰路も往路と同じく国道135号線を利用する。そして小田原城の横にある『報徳二宮神社』前の駐車場に車を駐め小田原城の散策開始。『小田原城 園内マップ』南入口から城内を目指す。小田原城址公園の藤棚前に位置する二の丸南堀には蓮がギッシリと。まだ蓮の花はなかったが、南堀いっぱいに群生する蓮は、これから徐々に花をつけ8月中旬まで楽しめるという。ここの蓮の花は『オオガハス』であると。城址公園の『御感の藤(ぎょかんのふじ)』。もとは小田原城二の丸御殿に鉢植えされていたフジ(藤)だと。明治維新後、市内の森元氏の手に渡り、次いで市内の西村氏の手に渡っていましたが、大正11年に現在地へ移植されました。花房が1メートルにもなる見事なフジであると。「御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会」今年の藤の花の写真。 【https://www.jalan.net/kankou/spt_14206ac2100128571/】より「御茶壺曲輪御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。」アジサイと南堀の蓮の群生。青く色を変え始めていた。『小田原城址公園銅門広場』からの『銅門(あかねもん)』。杉﨑宗雲Jrの作品「コマンド」??。何を表現しているのであろうか?巨大な『銅門(あかねもん)』。『小田原城址公園銅門広場』には幟の如きものに描かれた抽象画が地面に展示されていた。金沢で見た加賀友禅流しの如き光景であった。『伝 銅門礎石』。「伝 銅門礎石この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。 使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。 箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。 手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。」『銅門 土塀模型』。何層にも塗り重ねられていることが理解できたのであった。「銅門 土塀模型この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち制作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめる重要な役割を果たしました。皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合」より寄贈を受けたものです。」そして小田原城を訪ねた目的の『小田原城 あじさい花菖蒲まつり』会場へ。2019年6月1日(土)~16日(日)の期間で開催中。開催期間中、常盤木橋周辺の花菖蒲とあじさいをライトアップも行われている。常盤木門の南側の菖蒲園。ここも満開にはまだ早かったが。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多く、間違いにはあたらないと。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれていると。紫のハナショウブ。白も混じって。背の高さも様々。常盤木門を潜り菖蒲園の北側に。こちらの方が、やや開花は進んでいるようであった。青のハナショウブ。白のハナショウブ。仲良く。菖蒲園の横の斜面は一面のアジサイ園。様々な色を楽しめるのであった。桃、黄のハナショウブはこれからか?周辺のあじさい約2,500株もこれから。青色のハナショウブにも濃淡が。赤い欄干の常盤木橋。最盛期になると約10,000株の花菖蒲が花を開くと。鮮やかな紫と純白のハナショウブ。アジサイも遅れをとるまいと。青のガクアジサイが仲良く。ピンクの八重咲きも。純白のアジサイ。再びハナショウブをカメラで追いかける。紫の領域か。可憐な白のガクアジサイ。ハナショウブの花言葉は「優しい心 あなたを信じる 忍耐 優しさ 諦め 心意気 優雅 情熱 伝言 信頼 」。すっとした草姿と、落ち着いた青紫色をした花が古風な雰囲気を演出してくれていたのであった。 ・・・つづく・・・
2019.06.11
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