5月16日(木)
近藤芳美「土屋文明」より(70)
岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明 … 鑑賞篇」よりの転載です。
第八歌集『山下水(やましたみず)』より(1)
山のうえに吾に十坪(とつぼ)の新墾(あらき)あり蕪(かぶ)まきて食はむ餓ゑ死ぬる前に
(昭和二十年)
昭和十九年十一月、土屋文明は大陸戦線視察の旅から東京に帰った。日本にはすでにサイパン島からの編隊空襲が始まっていた。翌年五月、青山の家も焼けた。彼は一家と共に群馬県吾妻郡原町川戸に疎開した。川戸は吾妻川の渓谷に添う山深い農村である。そこで乏しい疎開者の生活をつづけた。「朝よひに真清水に採(つ)み山に採み養ふ命は来む時のため」という歌もある。彼は疎開地の山に十坪ほどの畑をひらき、蕪などをまいて餓えに備えようとしていたのであろう。沖縄も陥落し、米軍上陸と共に関東平野が決戦場になるといううわさも、もはやうわさとしてだけ聞きすごしておれない状況に立ち至っていた。
そのような時、そのような生活の中の作品である。
「七月二十三日上村孫作君の来信に酬ゆ」と題した一連の中の作。「打ちつづくる海の上の砲に目ざめても月没りしかば起くることなし」という一首もある。
出(い)で入りに踏みし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた
(昭和二十年)
八月十五日、日本は降伏した。満州事変の勃発以来、十四年にわたる長い戦争の年月であった。敗戦の報を土屋文明は疎開地の川戸で聞いた。彼は今は家と家財を失った幾百万の戦災者の一人である。敗戦の日の後も文明の生活はかわらない。彼はひとり疎開地の家を出で、山に拓いた畑を耕しに山に向う。家を出るたびに、その門口に立っている胡桃の木の実を拾い集める。今日もその実が十五もたまった。それだけの事さえ小さなよろこびであり、孤独な生活の中の変化なのである。そういう気持ちの歌われた作品なのであろう。
「ひねもすに響く筧(かけひ)の水清み稀なる人の飲みて帰るなり」「はしばみの青き角より出づる実を噛みつつ帰る今日の山行き」「谷せばみふたげるごとき浅間嶺(あさまね)の上なる空もこほしきものを」などの歌が同じ一連をなしている。亡国の民として歌う静かな悲歌の旋律が、これらの作品の中から聞こえて来るようだ。
(つづく)
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