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子どもの人間関係埼玉学園大学大学院教授 藤枝静暁さん誰でも身に付けられる私は長年「人間関係がうまくなる方法の解明」をテーマに研究を続けてきました。もし、お子さんが、友達や先輩との付き合い方、先生との接し方に悩んでいたら、それは特別なことではなく、普通のことです。心配しなくて之大丈夫です。そもそも人間関係、つまり〝人付き合い〟は難しいものです。しかし、安心してください。人付き合いにはコツがあるのです。社会の中での人付き合いの技術(スキル)のことを「ソーシャルスキル」と呼んでいます。なぜ「スキル」と呼ぶかというと、繰り返し練習すればだれでも身に付けられるからです。親御さんの話を聞かせていただくと、「うちの子はマイペースだから」「ああ見えて頑固なんで」など、正確の生にして諦めてしまうがあります。性格を変えることは難しいですよね。人付き合いが上手な人と苦手な人との違いは、決して静格の違いではなく、人付き合いのコツが身についているかどうかなのです。人付き合いが上手になると人間関係が円満になり、対人関係でのストレスが少なくなります。また、友達と本音で話すことができ、相手と信頼関係を築くことができます。ソーシャルスキルは子ども時代だけではなく、大人になっても社会に出てからも、一生役立ちます。 全ての基本はあいさつ良好な人間関係を築くための第一のコツは「自分からあいさつすること」です。あいさつをされた相手は「自分は拒否されていない」と感じるため、その後も話しやすくなります。「おはよう」「ただいま」「ごちそうさま」など、日常のさまざまな場面であいさつがありますよね。あいさつができないと、それだけ人間関係につまずくきっかけが多くなるとも言えます。あいさつができる子になってほしいと思ったら、まず親がお手本を見せてあげましょう。朝起きたら、「おはよう」と声をかけて、挨拶をすると、お互いに気持ちがいいということを教えてあげましょう。食事の後で、「ごちそうさま。おいしかったからまた作って」と言われたらうれしいですよね。あいさつ以外では、「感謝する」「話を聞く」「謝る」「質問をする」といったスキルはコミュニケーションの基本でもあるので、小さい頃から繰り返して練習して身に付けてほしいですよね(表参照)。子どもの人間関係の悩みや問題を理解するためには、子どもの発達段階を知っておく必要があります。幼児期の子は、自分と友だちを同質のものと捉えています。それが小学1,2年生くらいになると、自分と相手は違うことに気がつき始めます。3、4年生になる頃には、目に見えない相手の気持ちに気付いて共感できるようになります。5、6年生では、相手が自分をどう思っていつかという他者視点が分かるようになります。もちろん、これらは目安であって人によって発達の個人差はあります。 発達段階に合わせてサポートを まずは信じて見守る例えば小学校低学年の場合は自己中心性が強く、状況説明がうまくできません。「順番に教えてね」と学校で起きたことや友達にされたことなど、状況を整理しながら聞いてあげる必要があります。高学年になると、他人がどう思っているかで悩むかもしれませんし、親に相談してこなくなるかもしれません。そんな時は、親として「見守る」「話を聞く」「相談に乗る」の3段階のかかわり方を勧めています。「見守る」とは、高学年になると解決策も自分で考えられるようになるので、子どもを信頼して見守ること。「親」という字は、「木」の上に「立」って、「見」ると書きますよね。一定の距離を保ちながらも、地殻に立って見守るのが親にとって大切な役割だと思います。子どもが悩みを自力で解決しようとしている段階では、家庭を心安らげる場にして見守ってあげてください。その上で、子どもが話しかけてきたら、していることを止めて、「話を聞く」。この時、求められていないのに意見を言ったり、アドバイスをしたりするのはNG。子どもは「聞いてほしいだけなのに」とかえって逆効果になりかねません。子どもからの意見や助けを求めてきたときや、いじめなど深刻な状況の場合には「相談に乗る」。その際は、「普通はそんなことしないよね」といった一般論ではなく、「ママだったら、こうすると思うな」などと、自分を主語にした「Iメッセージ」で伝えるといいでしょう。必要であればすぐに対応に動いてください。このように子どもの発達に合わせて、必要なサポートを心がけてください。人付き合いは、大人になっても悩むものです。それが子どもならなおさらです。人付き合いに悩んだ時、相談に乗ってくれたり、気持ちを分かってくれたりする見方がいれば、不安が減りますよね。子どもにとって一番の見方は親です。子どもと一緒にソーシャルスキルを学び、いろんな人に試していきながらお互いに磨いていってほしいと思います。 小学校低学年から身に付けたいソーシャルスキル●感謝するスキル感謝を伝える時は、相手を見て、はっきりと、笑顔で、届く声で、うれしい気持ちを伝えましょう。誰でも「ありがとう」と言われたらうれしい気持ちになるものです。家族や親しい友達に言うのは面倒だと感じるかもしれませんが、ささいなことでも「ありがとう」と言い、相手に感謝を伝えることで、気持ちよく過ごすことができます。 ●話を聞くスキル人は、自分の話をしっかり聞いてくれる相手に対して安心感や信頼感を持ちます。話を聞く時は、まず相手の方を向き、作業している手を止めましょう。相手の目を見て、うなずいたり、相づちを打ったりしながら聞きます。相手の話を最後まで、口を挟まずに聞くことも大切です。 ●謝るスキル笑顔や軽い口調では、反省の気持ちがうまく伝わらないので要注意。謝るときは「頭を下げる」「申し訳なさそうな表情をする」など、言葉以外でも反省の気持ちを表しましょう。まず「ごめんなさい」などの言葉で謝罪します。どうしてそうなったのかという理由や事情とともに、相手の反応を見ながら、解決策や反省の言葉も伝えましょう。 ●質問するスキルポイントは➀相手に質問していいかを確認する②具体的に質問する③お礼を言う。また、質問する時に心がけたいことは、「相手の都合を確認すること」です。相手が話し中であったり、忙しかったりすると、対応してもらえないだけでなく、「自分の都合しか考えていない人だ」と誤解されてしまうこともあります。 【教育】聖教新聞2023.7.13
September 4, 2024
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勉強が苦手な子の進路選択立命館大学 宮口 幸治 教授に聞く 子どもの能力を決め付けない——勉強が苦手で、極端に成績が良くない子の進路選択について、伺います。 勉強が苦手な子でも行くことができる学校を探して進学させるのが一番です。進学できる学校は通信制も含め、たくさんあります。学歴が中学卒業となると、将来的に働く先が限られる可能性があり、高校までは卒業させてほしいと思います。大学進学も可能です。今は入試の形式が多様なので、進学先は見つかるものです。ただ、就職活動で苦労する人が多いですね。働く上では学力以外の人間性の部分も大事ですが、試験が不得意なため、入社試験で落ち続けてしまうケースがよく聞きます。 ——大学に進学しても就職活動で苦労するのであれば、大学を進学せずに専門的な技術を身に付ける道を選んだ方がいいのではないかとの考えはありませんか。 それは本人と保護者の希望しだいです。本人が望む道を歩めるようにサポートするのが大切です。その上で、私が怖いと思うのは、子どもの能力を大人がわが過小評価することです。本来は伸びる可能性があるのに、「頑張ってもできない子」と決め付け、可能性の芽を潰してしまうケースもあるからです。勉強面で言えば、勉強ができない原因はさまざまです。貧困やネグレクト(育児放棄)の家庭のように、そもそも勉強ができる環境が与えられていなかった子がいます。また、大人の対応がよくないためにやる気を失って学習しない子、また学習内容の理解がしづらい境界知能(注)の子など、原因が異なります。その子に合わせた適切なサポートができれば、本来、どの子でも学力が伸びる可能性はあります。境界知能の子であれば、標準的な子と比べれば理解するのに時間はかかりますが、最初から「できない」わけではありません。もちろん、さまざまな手を打った上でも、勉強に向いていない子どももいますし、そもそも、スポーツや芸能などの分野で力を発揮する子も多くいます。どうしても、勉強が苦手であれば、他の分野での自分の能力を生かす道を選べばよいでしょう。進路選択をサポートする上で大切なのは、子どもの能力を決め付けず、さまざまな可能性を視野に入れて検討することです。 [注]境界知能とは境界知能とは、IQ(知能指数)がおよそ70~84に該当する人で全体の約14%に当たる。知的生涯には該当しないものの認知機能(見たり、聞いたり、想像したりする力)の弱さなどが原因で、学校の勉強が理解しづらかったり、人間関係でつまずいたりするなど、生活に困難を抱える場合がある。宮口教授は境界知能の子の能力を伸ばすためのトレーニング(コグトレ)を考案し、普及に努める。 保護者は「心の充電」「伴走者」で——子どもの能力を伸ばすために、保護者はどのように関わればよいのでしょうか。 保護者は子どもにとって「充電器」であり、「伴走者」であることが大切です。子どもを電気自動車に、保護者を充電機に例えます。電気自動車(子ども)は、充電器(保護者)があるから安心して遠くにいけます。でも、電気が無くなって充電器の元に戻ったときにしっかりと充電できなかったり、そもそも充電器がなくなったりしていれば、不安で移動することはできません。保護者は子どもにとって適切な充電器として、心の安心を育む役割を意識したいものです。また、伴走者とは、車の補助席に乗る際のイメージです。運転手に「ブレーキを踏んで」「ハンドルを右に回して」などと細かく指示をしていたら、運転手は混乱します。運転手が気持ちよく運転できるには、伴走者が細かく指示を出すのではなく、温かく見守り、必要なところでアドバイスをするといった関わりが必要です。課程で「充電器」「伴走者」を意識した安定的な関わりができれば、子どもは時代に自分自身の課題の解決のために、工夫して行動をするようになるもの。子どもは自分の人生を自分で切り開く力をもっています。ただ、難しいことを考えなくても、「余計なことをしない」という意識を持つだけでも、大きな効果があります。余計なことは、子どもがやる気を失うような一言のこと。拙著『NGから学ぶ本気の伝え方』(明石書店)に書いたものを一部紹介しますので、参考にしていただければと思います。 やる気を失う言葉がけ例 「勉強したの? 明日の用意は?」親からすると自分が言ってあげなければとの思いかもしれませんが、これをいわれると、子どもが後でやろうと思っていた場合はやる気を失います。すぐ勉強し始めると、親の指示に従っているようでカッコ悪いと感じます。どのみち、言われることで、逆にやりたくなくなる言葉です。 ————[こうしてみよう!]————代替案としては、学校の様子を聞いたり、「宿題でわからないことがあったら見てあげようか?」と伝えたり。子どもが自主的に行動するための手助けをしていきましょう。 【教育】聖教新聞2023.6.22
August 16, 2024
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テーマ気を付けたい声かけ犯罪心理学者 出口 保行さんどう受け止めているか全国各地の少年鑑別所で、多くの親子の面会に立ち会ってきました。子どもに無関心であったり虐待をしていたりする親がいます。一方で、子育てを放棄しているわけでも虐待をしているわけでもなく、「自分なりに一生懸命やって来たのにどうして」と思っている親も多くいます。親が思っている子どもの気持ち(客観的現実)と、子ども自身の気持ち(主観的現実)が一致していない。つまり、ギャップがあるのです。客観的現実と主観的現実。子どもが親の言葉をどう受け止めているのかを意識することで、そのギャップを埋めるヒントは見つかります。よく子どもに言ってしまいがちな言葉ほど、注意が必要です。ここではそんな言葉を六つ挙げます。➀みんなと仲良く②早くしなさい③頑張って④何度言ったらわかるの⑤勉強しなさい⑥気を付けて一つでも言ったことがない親御さんの方が少ないかもしれません。一見すると、どの言葉も社会的には正しいように聞こえます。しかし、親は「良かれと思って」「子どものために」との思いから言っている場合がほとんどです。しかし、だからこそ注意が必要とも言えます。一つ一つ具体的に掘り下げてみましょう。一つ目の(みんなと仲良く)は個性を抑えてしまう危険があります。大人でも気が合う人もいれば、気が合わない人もいますよね。好き嫌いは誰にだってあります。なのに、子どもには、どんな人とも仲よくしなさいというのは、無理があります。実際に「みんなと仲良く」を「個性を抑えろ」というメッセージで受け止めている子もいました。協調性は大事ですが、仲良くできないならどうすればいいのか考えよう、というスタンスで話を聴くのが望ましいのです。 プロセスを褒めよう二つ目の「早くしなさい」は、言い続けると子供の〝先を読む力〟が育ちません。先を読む力は、生まれながらに持っているものではありません。子供は「早くしなさい」といわれれば、その場でなんとかしようとはします。しかし、自分で判断できないままです。「早くしなさい」といいたくなった時は、なぜ急いでほしいかも説明しましょう。忙しくて丁寧に説明できなければ、後からでも理由を伝えて、本人に考えさせたいものです。急ぐ必要性を理解することで、自分で時間を見ながら動けるようになります。 「良かれと思って」「子どものため」は要注意 三つ目の「頑張って」も、つい言ってしまいますよね。言葉自体はポジティブなものであっても、被害感や疎外感が強い子は否定的に受け止めます。応援の意味で「頑張って」といわれても「頑張れないお前はダメだ」「もっとやる気を出さないとダメだ」と言われているように感じるのです。「頑張って」ではなく「頑張っているね」「よく頑張ったね」とほめることが応援になります。結果ではなくポロセス」(過程)を褒めることで意欲は高まります。四つ目の「何度言ったら分かるの」は、「何度言ってもできないお前はダメだ」というメッセージになっているかもしれません。「何度言ったら分かるの」は、親が子どもに対し、「こうあるべき」と思っていることを裏切られたという怒りの表出です。しかし本当にそうあるべきなのか、点検してみる必要があります。「何度言ったら分かるの」と言いたくなった時は、自分の思い込みに気づくチャンスです。 方針を点検する五つ目の「勉強しなさい」は、繰り返し言われると、返って勉強をやりたくなります。心理学ではブーメラン効果と呼びます。相手を一生懸命に説得するほど、反発が起こって逆の行動を導いてしまう現象です。ブーメラン効果が起きやすい条件は二つあります。相手が「説得者と同じ意見である時」と「説得者を信用していない時」。「勉強しなさい」と只伝えるのではなく、勉強の面白さを伝えることが大事です。何かにつまづいているようであれば、目標を細分化して、小さな目標を達成することを積み重ねましょう。六つ目は「気を付けて」。何でも制止すれば、子どもは経験のチャンスを失います。失敗から、落ち込んだり、いやな気持になったりすることもありますが、それが経験の糧になります。もちろん本当に危ないことは止めなければなりません。ただ、人体・生命の安全に関すること以外は、あえて口出しせずに見守ることも必要です。心理学では、自分に都合のいい情報ばかりを無意識に集めてしまうことを「確証バイアス」といいます。自分が正しいと思うことを支持する情報に目が行き、否定するような情報を無視してしまう。その結果、思い込みが強固になり、偏った判断をするようになるというものです。子育てでは、特に確証バイアスが働きがちです。子育てや家族のことは、周りが口に出しにくいからです。この確証バイアスから抜け出すためには、「良かれと思って」「子どものために」と思っていることが、押し付けになっていないかを検証することです。それには夫婦や保護者間で話し合うしかありません。子どもをどう育てていきたいか。子どもがどう受け止めているか。親は確証バイアスに陥りやすいからこそ、新たに触れて見直す機会を設け、親子の信頼関係を築くきっかけにしていきたいものです。 【教育】聖教新聞2022.12.15
March 28, 2024
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テーマわが子にこそ傾聴を傾聴カウンセラー 辰 由加さん答えは〝相手の中にある〟と信じてアドバイスはNG傾聴とは、買うセリングの技法の一つで、「相手の中に答えがあると信じて、関心をもって肯定的に相手の話を聴く」コミュニケーション法です。まず「相手の中に答えがあると信じる」とは、こちらが答えを提示したり、アドバイスをしたりしないということです。人は、相談事をされると、どうにかしてあげたくなる感情が湧くもの。するとつい、自分の成功体験をアドバイスとして伝えたくなります。しかし、アドバイスはあくまでもこちら側の意見であり、相手にとっての答えとは限らないのです。もし、相手がアドバイスを欲しいようなら、伝える前に必ず「私だけの思いだけどね」とか「私の答えがあなたの答えになるとは限らないけど」と一言添えて伝えるようにしましょう。次の「肯定的に相手の話を聴く」とは、たとえ、うそっぽい話でも、納得できない話であったとしても、一度は受け入れ、決して正しいかどうかジャッジ(審判)しないということです。聞き手は、自分の経験や価値観をすっかり後ろに置いて聞きましょう。傾聴において、「アドバイスをしないこと」と「ジャッジをしないこと」はとても重要です。〝話をしても、否定されたり、意見を押しつけられたり、説教されたりしない〟ことが、話し手にとって安心・安全をもたらしてくれます。また、聴き手には守秘義務があります。たとえ家族の間でも、相手の話を聴こうという姿勢で臨むなら、一対一の守秘義務を守ることが大切です。お子さんの話を聴いていて、大事な話になりそうにあった時は「ママはこの話、絶対に誰にも言わない。パパにも言わないから安心して」と非酒を守ることを一つ一つ言葉にしていくと、お子さんはお母さんを信頼してくれます。守秘義務も話し手にとって安心・安全な場所の確保につながります。 近しいから難しい実は、近親者への県庁は、カウンセリング業界では非常に難しいとされています。その理由の第1は、近親者とは心配事や困り事、悩みを共有していることが多いため、つい問題を解決してあげたくなり、アドバイスやジャッジをしがちです。また、理由の第2に、家庭内では、話し手と聞き手の間に〝何でも話せる〟相互の信頼関係を形成することがとても困難な場合が多いからです。ともすると、子どもの悩みの原因が親であるあなたにあるかもしれないということです。反対の言い方をすれば、家庭において傾聴をしようとするなら、いかに普段から、〝何でも話せる〟相互信頼関係を築くことを意識し、アドバイスやジャッジをしないように我慢できるかどうかが鍵になります。近親者への傾聴は、短い時間でも効果があります。チャンスは何度逃しても大丈夫です。長く話を聴こうとするより、気がついたときに「何かの無?」「散歩でも行く?」などと、ほんの5分や10分でも、しっかりと向き合う時間をつくる方が大切なのです。その方が、自分の気持ちに寄り添って呉れようとしていることが、近しい間柄だからこそ伝わり、お互いの信頼関係を再構築できると確信します。創価学会に皆さんは人に寄り添う活動をされていると思いますが、傾聴も、相手が話したいことを自由に話せるよう、受動的・共感的な態度で丁寧に寄り添うことが求められます。「傾聴」の「聴」という字は、耳と目と心という字でできています。つまり、相手の言葉や声のトーンを捉える「耳で聴く」。相手の姿勢や態度、表情、呼吸などを見逃さない「目で聴く」。耳と目から情報以外に、背後にある奥の感情に素直に共感する「心で聴く」。この耳・目・心をフル回転させて、まさに全身全霊で聴くことが傾聴です。 前を向く手助けに傾聴で大切なことは、一生懸命聴くことはもちろんですが、一所懸命聴いていることが相手に伝わっているかどうかです。具体的には以下の点に気をつけましょう。➀相手から目をそらさない。②相手にわかるようにしっかりわかるようにうなずく。③気持ちと呼吸を相手に合わせる。④声のトーン、大きさを相手に合わせる。⑤相手から出た感情の言葉を見逃さず、しっかり繰り返す。⑥話が、一段落したところで、相手の話を要約する。⑦自己決定、意志決定ができたときは、逃さず承認し、称賛する。⑧言葉にならない感情を代弁する。「悲しいねえ」「うれしかったね」など。どれも、〝主人公は相手〟であり、〝寄り添おう〟と思えば、自然とできることばかりだと思います。カウンセリングで傾聴すると、多くの人は最初〝過去の事〟ばかり話します。そして、だんだん、〝今の事〟を話すようになっていくんです。なぜなら、話している本人が自分自身に対する理解を深め、自分で意思決定できるようになるからです。傾聴は、本人が前を向くための手助けとなるのです。傾聴を学び始める方の多くは「人の話を聞けるように変わりたい」とおっしゃいます。しかし、傾聴は自分が変わるために学ぶのではありません。「大切な人の心を聞きたい」「子どもとの関係を築きたい」という純粋な思いが大切なのです。傾聴するときは、相手が自分の子どもであっても、「聴かせてね」という相手を尊重する姿勢や思い出寄り添いましょう。私は、傾聴は「愛」だと思っています。相手を受け入れ、徹底して信じるからです。そして、その愛は自分を愛し、大切にすることにもつながっています。大切な家族だからこそ、傾聴でより深い信頼関係を築いていければと思います。 【教育】聖教新聞2022.9.22
February 2, 2024
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自然な感情表現だと受け入れてNPO法人ハートフルコミュニケーション代表理事 菅原裕子さん 「泣き」の三つのパターン子どもはどういうときに泣くのかを考えると、主に三つのパターンがあると思います。「気質によるもの」、「コミュニケーションとしての泣き」、「親がプロミングした泣き」です。一つ目の「気質によるもの」とは、生まれつきの気質として、繊細だったり、感情があふれやすかったりして、ちょっとしたことでも、つい泣いてしまうことです。こうした傾向のある子ども確かにいます。赤ちゃんは、誰もがみんなよく泣きますが、2歳や3歳になっても良くなく子だと、親も次第に「この子はちょっとしたことでよく泣く」と分かってくるとおもんです。大事なのは、そう言う気質の場合、まず受け止めてあげることです。本人の気持ちが収まるまで、「操舵ね」「いやだったね」と優しい言葉を掛けながら見守りましょう。共感してあげて、気持ちが落ち着くのを待つ。決して「いつまでも泣いてはいけないの!」とか「そんなことぐらいで泣かないの!」なんて言わないでください。ただ、親が見守る余裕がないときだってあります。忙しかったり疲れていたりすれば、そばに寄り添うことも、声を掛けることもしんどいですよね。そんな時は、気が済んで泣きやむまで、じっと待つことがあってもいいと思います。 コミュニケーションの一つ二つ目の「コミュニケーションとしての泣き」とは、まだ言葉がうまく使えない月齢、年齢では泣くことが「おなかがすいた」「おむつがぬれて気持ち悪い」「眠い」「暑い」「寒い」を伝えるコミュニケーションになることです。言葉を口にできるようになっても、何かを伝えたくて泣くことはあります。その場合は、「どうした?」「言ってごらん」と、聞いてあげることが大事になります。もし話してくれたら、たとえどんな内容であったとしても、「それはあなたが悪いね」「そんなことくらいで泣いてはいけない」などと、指導や説教をしないでください。なかなか泣きやまないときは、そばにすわって「お母さん聞くよ」「お父さんに何かできることある?」と聞いてみます。話せそうになれば、「いつでも聞くからね』と〝親はあなたの味方である〟ということをきちんと伝えましょう。場合によってはそっと一人にしてあげることも大切です。「気質による泣き」と「コミュニケーションの泣き」に共通することですが、子どもが泣いてうれしい親はいません。そんな気持ちから、ともすると早く泣きやませることばかりに意識が向いてしまいがちです。しかし、「泣かないの!」「いつまで泣いているの!」といわれ続けた子どもは、「泣くことが悪いこと」「間違ったこと」だと思ってしまいます。〝悲しい時はつらい時は、泣いたっていい〟との前提は忘れないでいたいものです。 要求を通そうには注意ただし、三つ目の「親がプログラミングした泣き」の場合は注意が必要です。人間は快楽を得たとき、その快楽を得た方法で、次も快楽を得ようとします。例えば何か欲しいとき、おねだりしただけではだめだったのが、泣いたら手に入ったとします。この「泣けば望みをかなえてもらえる」と経験した子どもは、次から無意識に、泣いて欲求を通そうとします。一度、そのようにプログラミングされてしまうと、なかなか修正できません。プログラミングされた泣きでは、「○○を買ってほしい」「○○が食べたい」などの目的がはっきりしています。目的を果たすために泣いていると感じたときは、時間はかかりますが、〝ダメなものはダメ〟との態度を一貫して示し続けることが重要です。何度もそうするうちに、子どもも「もう通用しないかも」と気付いてくれます。また、小学校高学年くらいになると、泣いておねだりすること自体が恥ずかしくなって、しなくなります。大人だって泣きたい時はあります。それが子どもならなおさら。本来、泣くことは自然な感情表現であり、プログラミングされた手段としての泣き以外は、悪いことや間違ったことではありません。子どもたちの自然な感情表現である、泣くことをできるだけ受け入れてあげてほしいと思います。 【テーマ「子どもが泣いたら」教育】聖教新聞2021.12.16
April 11, 2023
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脳科学から見る「家庭教育」小児科医「子育てアクシス」代表 成田 奈緒子さんに聞く 「助けて」といえる——成田さんは最近、神戸大学医学部の同級生で、ノーベル医学・生理学賞受賞者の山中伸弥教授との共著を出版されました。子育てをテーマに対談され、主要な話題の一つとして「レジリエンス」(乗り越える力)について論じられています。 卒業以来、約30年ぶりにじっくり語り合いをさせていただきました。〝飾るところがなく、ユーモアあふれる山中君〟の人柄は、大学時代のままでした。子育てや社会のことについて論じ、多くの共通点を見いだせたことは驚きであり、うれしくもありました。私は発達障害のある人の脳の研究を行っています。「レジリエンス」は「自己肯定感」、周囲の人との関係を保つ「社会性」、周囲の人から助けられている実感「ソーシャルサポート」の3要素から成り立ちます。脳のトレーニングを重ね、脳波の分布を測定すると、ソーシャルサポートの点数が、最も上がりやすいことが分かりました。三つのうちの一つでも向上すれば、合計点としてのレジリエンスも上がる。発達障害のある人が、社会で生きづらさを解消することにつながればと思い、研究を続けてきました。このレジリエンス、特に「ソーシャルサポート」は〝障がいのない人にも重要な意味を持つ〟ということが私と山中先生が一致したところです。ソーシャルサポートは、周りに対して「おかげさまと思える力」であり、それは、誰かに「『助けて』といえる力」でもあります。山中先生とは研究者の世界を例に語りあったのですが、〝自分で考え、問いを立て、周りの助けも絵ながら、何かを生み出していく〟こと。それは、生きることを全般に通じる力だと思います。そうして力を養うには、家庭教育から変えていくしかないと私は感じます。 自分で考え生き抜く力は 何歳からでも鍛え直せる 早寝・早起き・朝ごはん——脳科学の観点から「家庭教育」が果たす役割とは何でしょうか。 人間の機能の大部分は脳が担っており、子どもの発達を、ほぼ「脳の育ち」と考えても間違いではありません。「脳育て」には守るべき順番とバランスがあります。最初にきちんと育てるべきなのは、寝ること、起きること、食べること、体を動かすことをつかさどる〝からだの脳〟(間脳や脳幹など)です。これは、生まれて方、5年くらいをかけて育っていきます。次に1歳頃から〝おりこうさんの脳〟(大脳新皮質)が成長し始めます。言語機能や細かな運動、思考などをつかさどり、18歳くらいまでの時間をかけて育ちます。最後に育つのが、〝こころの脳〟です。大脳新皮質の中でも最も高度な働きを持つ「前頭葉」を用いて論理的な思考を行います。人間の脳は大体10歳を過ぎた頃から〝からだの脳〟で起こる与久弥成道を前頭葉のまでつなぐ神経回路が構築されていきます。この順番を知ったうえで、バランス用「脳育て」を行うことが大切です。例えば〝からだの脳〟を育てるべき時に、塾や習い事にたくさんの時間を使って夜更かしをしては、本末転倒です。「脳育て」のやり方は多岐にわたりますが、基本は「早寝・早起きをさせて、しっかり朝ご飯を食べさせる」。この生活習慣を確立することが家庭教育の担う一番重要なところで、それができれば、すべてうまくいくといっても言い過ぎではありません。 ――共著では山中教授が「そこ、言い切るんですね」と述べています。 はい、断言します(笑い)。私は2014年に〝専門家集団による親子支援の場〟として「子育て化学アクシス」を立ち上げました。正しい知識を得ていた親御さんの子どもたちは、「早寝・早起き・朝ごはん」を継続したことで、コロナ禍の生活環境の変化にも影響されないばかりか、それを実践する以前に抱えていた心身の不調をも解消することができました。私自身が眼にしてきた実例が多くあります。 親の不安が子どもに——成田さんは児童相談所や発達障がい者支援センターの嘱託医も務め、多くの親子に助言を送ってこられました。子どもたち何に悩み、さらにコロナ禍の中、どのようなストレスを感じているのでしょうか。 コロナ禍の前から多く見られたのは、学校で〝荒れている子〟が、家で派閥人のように順順でおとなしいケース。親に見捨てられるのが不安で、家では絶対に暴れないし、親の言いなりになっている。そのストレスが格好で爆発するのです。私が接する親御さんには「『ええかっこしい』をやめよう」と伝えてきました。日本では長年、多くの親が「世間体」を気にし、わが子に対して「こうなってほしい」というレールを敷いてきたように思います。そのレールから外れることが心配でその世話を焼く。それでは、子どもたちは自分の本音を言えません。子どもが学校でストレスにさらされることがあります。学校は社会のあり様を伝える場でもあり、どうしても指示が多くなる。私が見学した特別支援が弓でも、まず「おはようございます」といえるまでは、それ以降の授業を開始しないということがありました。そしてコロナ禍の中で、学校での指示は、さらに拡大し、顕著になりました。マスクの着用や、手洗いうがい、ご飯を食べる時は「黙食」(黙って食べる)等です。昨年春の一斉休校の時には、大量の自習教材用のプリントが配布され、外にも遊びに行けない事態も発生しました。一方で、そうした制約に由来するように見える「ストレスの本質」は何かと考えた時、子どもの不安は、実は大人(御屋)の不安を体現しているということを感じます。新学期になれば学校に行かせておけばよいという〝当たり前〟が突然なくなった不安、子どもの自習(学力)に親が責任を持たされるという不安、リモートワークの場合には、働きながらそれを行うという不安も生まれる。不安になると眠れなくなるので、親が寝る時刻が遅くなり、睡眠不足になります。するとイライラして、つい子供に当たり、子どももイライラが募り、眠れなくなる——この悪循環です。先ほど、「早寝・早起き・朝ごはん」を確立できていた家庭が、コロナ禍でも影響を受けなかったとお話したのは、そうして理由からです。 一人の幸福を皆で——幼児期からの生活習慣の確立が大切になりますね。 脳の成長の目安となる年齢は先ほど述べた通りです。しかし、同時に強調したいのは「子どもの脳は、何歳からでも育て直せます」ということです。生活習慣の確立は、脳に確実に良い変化をもたらします。親御さんも何かと忙しい現代社会です。「子供の年齢にあった樹分な睡眠時間を取らせる」。その一点を、何とか頑張ってもらえたらと思います。また、最近の親御さんは真面目です。いろいろな子育ての情報や知識を収集して、〝できるだけ早く〟〝完璧に〟〝良い子に〟育てたいと思う。しかし、脳が18歳までに育ちがあることを考えると、成果もそれ以降に感じられるようになることが多いはずです。長い目で見ることも必要です。 ――本紙の読者には、創価学会というコミュニティーで子どもたちとつながる壮年・女性・青年が多くいます。学校とも家庭とも異なる地域の人たちが、子育てのためにできることはあるのでしょうか。 今は、親が若い世代であるほど、地域と交流することへの心理的ハードルが高いように思います。ある親御さんは、近隣の方と一度も話をしたことがない中で子育てをしていきました。子どもは歌が大好きで、放課後、帰ってくると大声で歌う。親からすると、子どもの声が〝ご近所の怒りを買うのでは?〟と不安で、「やめなさい」と、子どもを毎日怒っていたんですね。私はそのお母さんに、「一度ご近所さんへ、『うちの子がうるさくてご迷惑をおかけしています』って、あなたから言ってみてください」とお伝えしたんです。数週間後、結果を教えてくれました。「数件お訪ねしましたが、どの家も、『全然気にしていないわよ』って。むしろ『原器でいいね』今はコロナで誰かとお話をすることも少なかったから、訪ねてきてくれてうれしかったわ』と言ってくれました」と。そして「子どものことを怒らなくてすむようになりました」と、笑顔で言っておられました。ちょっとした触れ合いで、親の不安は減るんですね。地域の中で、道ですれ違った際のあいさつ一つからでも、御近所の方から声を掛けていただけるといいなと思います。そして、子どもとの関係性の密度によると思いますが、子どもに対しては「いつでも助けるよ。大丈夫だよ」と周囲から伝えることが重要だと思います。冒頭にお話した「『助けて』といえる力」を育てるには、それを言える環境が大切です。子どもたちが、〝SOSは恥ずかしいことじゃない。あなたは一人で生きているのではない〟というメッセージを親から、さらには地域の大人からも感じることができたなら、素晴らしいことです。少子化が進む今だからこそ、子どもの一人一人に焦点を当て、その幸福を追求することが、社会の未来を豊かにすると思います。 おりこうさんの脳(大脳新皮質)・言語・細かな動作・勉強・スポーツ からだの脳(脳幹・間脳など)・寝る・起きる・食べる・体を動かす こころの脳(おもに前頭葉)・感情のコントロール・思考・判断 【switchスイッチ共育のまなざし】聖教新聞2021.12.11
April 6, 2023
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相手の生命に訴えかける対話政治学者 姜尚中さん差別のない世界をつくるためには、人権というのも根幹に「生命論」がなければならない、と思っています。生命に序列はない。どんな生命に対しても、「この人は生きるに値しない」などと人間が判断してはならない。生命に対する「畏敬の念」がベースにならなければ、人権といっても上っ面な言葉になってしまうからです。差別するということは、ものの見方、考え方が何かにとらわれ、固着している考え方です。特に大人には、いろいろな〝かさぶた〟があって、それを取ることが難しい。でも、それが取り払われた時には、意外な「発見」があるのです。その発見をどう促すか。やはり「対話」です。差別している人がいれば、その人と対話をするしかない。今の時代、ネット上は、およそ寛容とは無縁のネガティブな感情にあふれている。感情に左右されやすい時代です。そんな中で人々に何かを訴えるためには、「情」と「理」が必要だと思う。「人を差別してはいけない」と、「理」を立てて整然と話すことは大事です。でも、それだけではなかなか通じない。特に差別されている人の痛みというものは、「情」を通じてこそ分かる。それで相手の「共感」できるのです。だからこそ、「生命」という問題については、「生の声」で語りかけることが大切だと思う。文字情報とか映像もありますが、こと「生命」の問題については、一回きりの世界の中で交わされる、身体感覚を呼び覚ますような、互いの心に響く対話をしていくことだと思います。キリストも仏陀も、常に分かりやすい言葉で人々の心に語り続けました。人種差別と闘ったガンジーやキング、マンデラといった先達も、対話の道を選びました。回り道にも思えますが、差別を乗り越えるには、そうすれば差別する人と対話の場をつくれるかを考えることです。「声の力」「言葉の力」は大きい。池田先生も国家や文明、宗教の違いを超えて、対話に尽力しておられます。対話には、新しい自分の発見があります。 聖教新聞2019.10.17
February 1, 2023
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「人生地理学」からの出発東京学芸大学 名誉教授 斎藤 毅氏に聞く㊤——『人生地理学』という書名に、どのような意味が込められているかとお考えですか。実は、日本では、地理学の本質が意外に知られていません。地理学の本質とは、一定の世界観に基づいて、さまざまな方法で「世界像」を索めていくものといえます。自分たちの暮らす世界をどう見るか——この世界像とは「メンタルマップ」の一種ともいえますが、頭の中にある、もっとダイナミックな世界地図のことです。例えば、近所の知り合いの家に行く時にも、あなたの世界像が働いています。また、ラジオで台風が潮岬の南を北東に進むと聞けば、東海地方や関東地方の人々は必要な備えを急いだりするでしょう。そのとき、あなたの頭の中の、もう一つの世界、つまり世界像の一部を活用しているのです。この世界像の基礎を形作るのを支援していくのが、地理教育の大きな目的の一つなのです。世界像の形成には、自己の確立が欠かせません。明治時代の書物を見ると、福沢諭吉の『世界国尽』や内村鑑三の『地人論』など、いずれも日本を代表する思想家による地理の著作があります。哲学者カントにも『自然地理学』という書物があります。カント研究者でも読まない人も多いでしょうが(笑い)。福沢諭吉や内村鑑三らが激動する国際情勢を正確に認識できていたのは、自己を確立し、豊かな世界像を持っていたからではないでしょうか。地理学は一つの哲学であり、自然観や世界観、ひいては人生観を豊かにし、安定したものにする学問です。その意味で、逆に自己を確立する上で不可欠なのです。また、「人生地理学』の「人生」とは、「人間生活」のことです。『人生地理学」は、私たちを取り巻く多様な環境と「人間生活」との関係を見詰め、地球的な視点から示された、ほかならぬ牧口先生の豊かな世界像なのです。 ——地理というと、歴史とともに、とかく暗記科目という印象がありますが、私たちが生きていくうえで必要不可欠な哲学の一つなのですね。地理学は、英語で「Geo graphy(ジオ グラフィー)」です。「Geo」は大したものという意味なので、直訳すると「地球を記述したもの」。地理学の歴史とは、人類が世界像を求めてきた歴史でもあるのです。近代地理学が形成される以前、中世の西洋に、今では「TOマップ」と呼ぶ地図がありました。まず「O」を書いて、その中に大きく「T」を書き入れます。東が上になり、大陸の境界を示す「T」が地中海、タナイス川(ドン川)、紅海、陸地はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三つに分かれます。中心が聖地エルサレム。これが当時のキリスト教の世界像だったわけです。また、仏教には須弥山を中心とした世界像があるように、宗教は、それぞれの世界像を持っています。こうした世界像が大航海時代などを経て、現在、広く使用されているような、科学的世界観の基礎となる世界地図になっていくわけです。人間は誰しもが各々の世界像を持っており、現代人が学校教育で学んだ科学的世界観を共有しています。しかし、実際には民族や文化、宗教党による偏りが見られ、ときに衝突も起きます。現代の世界は、多様な世界像を持つ人々の集団がともに暮らす社会です。国際理解には、多様な世界像を持つ人々との共存のための相互の対話が不可欠なのです。ここで重要なのは、世界像とは単に大陸や海、島、山、あるいは気候や動植物だけではなく、さまざまな国や地域で生きる人々が、その地の自然環境をいかに読み取り、生活様式——つまりは文化を組み立ててきたかに注目していくという点です。牧口先生の『人生地理学』は、ここに重点が置かれているのです。 「人間の地理学」を先駆けて展開——『人生地理学』について、斎藤先生は「極めてユニークで示唆に富んだ地理書」「とかく堅いイメージの地理学の書物とは思えぬほど、楽しく読むことができる」と評価されています。実は戦後しばらくの間、日本の地理学会は、自然科学への感情移入することに否定的でした。そうした中、1970年代にイーフー・トゥアンという地理学者が「人文主義地理学」と呼ばれる考え方を展開します。例えば、富士山は単にマグマが堆積して生まれた地形という物理的な捉え方もできますが、時に私たちは神聖な霊峰として見ることがありますよね。心を通して自然を捉えていく、心を投影して意味付けをする。人間らしく空間を捉える人文主義的地理学の考え方は、いわば「人間の地理学」ともいえます。この考え方が日本に輸入される70年以上も前に、それを示されていたのが牧口先生ではないか——そう私は考えています。これは『人生地理学』の一つの再評価につながっていくはずです。トゥアンが敵視した概念に「トポフィリア」があります。日本でも紹介され、地理学の思想に多大な影響をもたらしました。トポフィリアとは、「トポス(場所)」と「フィリア(偏愛)」の合成語で、場所への特別な愛着を表します。富士山を霊峰と捉えるのもトポフィリアです。日本地理学会元会長の竹内啓一氏(個人)は、牧口先生が『人生地理学』で100年以上も前に大胆に展開されていた概念こそ、このトポフィリアの思想ではないかと指摘しています。これは世界像の形成と関わる重要な問題であるとともに、牧口先生の思想を継承し発展させるうえでも大切な課題です。 ——竹内氏は「創価学会の創始者:知られざる地理学者」を含む英文著作を2000年に発表しています。齋藤先生が牧口先生に関心をもたれた当時は、牧口先生や『人生地理学』に関する研究はあまり進んでいなかったと伺いました。1970年ころ、私は鹿児島大学で教壇に立ち、柳田國男の日本民俗学について地理学方法論の立場から研究していました。東大の安田講堂を占拠した左翼学生が機動隊に排除されたのが69年。激しい学園紛争の余波の残る時代でしたが、「学問とは何か」を突き詰める契機ともなりました。地理学についても、あらためて考えたものです。この頃の地理学といえば経済地理学が中心で、中でもマルクス経済地理学に回答しる研究者が多く、そこでは人々や生活を都営蒔く環境因子は軽視されていました。環境因子を重視し、そうした唯物論的な地理学からの脱却を考える中で、たまたま手に取ったのが『人生地理学』だったのです。『人生地理学』は、そうして意味でマルクス経済地理学の対極にあるともいえます。私自身、地域の文化や民族を対象としないのが一般的でした。しかし、これらに真正面から取り組む『人生地理学』は、とても魅力的で、新鮮に感じました。鹿児島大学では「教育の革新的実践者」と題し、柳田國男と牧口先生の二人を取り上げ、仲間と共に『地域と教育』のテーマで、市民を対象とした公開講座を開きました。柳田と牧口先生は、新渡戸稲造を中心とした「郷土会」で、主に農山村に出向き、その伝統文化や民族の調査のためのフィールドワーク(野外調査)を続けます。この郷土会から多くの人材が輩出されていったのも興味深いことです。 世界とのつながりを複眼的に描き自分も他者も共に栄える道を提唱 地理的視野から普遍性を強調——牧口先生が北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)地理科担当の助教諭、また、付属小学校の訓導(教諭)として行われた授業の特色は何でしょうか。当時、「地理」という科目が小学校にありましたが、その教え方は、なかなか難しかったようです。とかく地名・物産の暗記を強いることになりがちだからです。牧口先生は『人生地理学』でも、この点に疑問を投げ掛けています。そして、教育現場で試行錯誤を繰り返しながら、「郷土地理」という独自の教授方法を編みだされました。一番身近な強度にフィールドを設定し、身の回りの事柄から世界とのつながりを教えていこうというものです。例えば、自分の着ている服をつくる素材となる「綿」を生産する国をたどることで、世界に目を向けさせ、「一国民」であると同時に、「一世界民」であることも伝えます。この教授法は、『教授の統合中心としての郷土科研究』といて結実します。ところで、『人生地理学』は大変に好評で、何度も版を重ねています。私がもっているのは5班なのですが、その後の半が増えています。なぜ、そんなに売れたのでしょうか。これは意外に知られていないことだと思いますが、一つには、当時、主に小学校の勝因を対象とした文部省中等学校教員検定試験というのがありました。難関の試験です。牧口先生は、初期に行われた、その試験の「地理地誌科」に合格し、北海道尋常師範学校の助教諭になりました。『人生地理学』は、この塵の受験者たちの教科書的存在となり、必読書ともなっていたのです。 ——『人生地理学』は全34章、1000ページを超える大著です。初めて読む方に、お薦めの章はありますか。まず、第6章の「山岳および渓谷」です。もっともわかりやすく、大変に熱をこめて書かれています。先ほどの富士山をはじめ、山岳を単なる物理的な存在ではなく、あくまで日本人の自然観に基づいて、例えば山頂を「神の座」とするなど、日本人の心を通しながら見ていきます。第25章の「国家地論」もお薦めです。これは、現代における地政学の考え方が含まれるなど、単なる国家論ではなく、世界的視野から諸国家の特性を比較しつつ論じたものです。政治地理学的な内容で、国際関係への積極的なアプローチに関心があったことがうかがわれます。「人生地理学」という言葉もそうですが、牧口先生は言葉を独創的につくられる人でした。「国家地論」も、その一つでしょう。第28章の「生存競争地論」では、人類史を俯瞰し、世界全体を見ていく一つの視点が描かれています。ここでは、国際社会の在り方について、人類は軍事的競争、政治的競争を経て、これからは人道的競争を目指すべき、と提言されています。 ——『人生地理学』が、出版された当時は、日露戦争直前の激動期でした。『人生地理学」では「人のものを盗むものは盗として罰せらるるも、人の国を奪うものは、かえって強として畏敬せらるる時世」と痛烈な警鐘を鳴らされた上で、「他を益しつつ自己も益する方法を選ぶ」(「生存競争地論」)と訴えられています。この「他を益しつつ」とは、危機の時代を生きる私たちにとっても大切なメッセージとなるものです。『人生地理学」では、自らの立脚点を認識するため、私たちは郷土の「一郷民」であり、日本の「一国民」であり、世界の中で生きる「世界民(世界市民)」であるとの自覚を促されています。これは身の回りの平和と国際的視野での平和、その両面の視点を培っていくことにもつながります。地理学者ならではの発想だと思うのですが、牧口先生は、広い視野から複眼的に世界とのつながりを見て、人類という視点からの普遍性を強調されています。この世界像こそ、牧口先生ならではのもの。そして「他を益しつつ」と、自分も他者も共に反映する道を呼びかけていくことは、まさに日蓮の思想そのものなのだと思います。 さいとう・たけし 1934年、東京生まれ。理学博士。東京学芸大学名誉教授。専攻は地理学、地理教育論。日本地理教育学会元会長、日本地理学会名誉会員。著書に『漁業地理学の新展開』『発生的地理教育論——ピアジェ理論の地理教育論的展開』など多数。 【牧口先生生誕150周年記念インタビュー㊤】聖教新聞2021.9.11
November 28, 2022
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テーマ気持ちが伝わる上手な怒り方日本アンガーマネジメント協会 代表理事 安藤俊介さん思い込みと事実を整理しよう 具体的にリクエストを伝える?子どもを怒るたびに罪悪感を持ってしまう方は多いのではないでしょうか。しかし、怒ることそのものは悪いことではありません。むしろ、怒りというのは防衛感情といって、自分の身を守るために出る自然な感情です。ですから大事なのは「怒らないようにする」ことではなく、「相手に気持ちが伝わる起り方をすること」です。そのためにまず意識してほしいのは、「リクエストを具体的に優しく伝えること」。実は怒ることの根底には、「自分のリクエストを通したい」という意識が隠されています。例えば、遊び終わったおもちゃを片付けてほしいとき、「ちゃんと後片付けをしなさい!」と怒鳴るだけでは、親のリクエストがうまく伝わりません。相手にお願いしたい行動や、なんでそうしてほしいのかという理由、やり方まで具体的に優しく伝えてあげてください。「間違って踏んづけたらおもちゃも○○ちゃんもお互い悲しいから、遊び終わったおもちゃは出した場所にもとどおりしまっておこうね」。こう言う方が、子どもがリクエストに応えてくれる可能性はぐっと高まります。また、〝怒る基準〟を親が変えないことも大切です。同じことをしても、ある日は怒ったけれど、別の日には怒らないとなると、子どもは「この前は、怒らなかったのに」と不満を抱きます。子どもを怒るときは、具体的にリクエストを伝え、その後も基準を変えないように意識してみてください。 つい言いたくなるNGワード✕怒るときに、つい言いたくなってしまう「NGワード」にも気を付けましょう。NGワードは4種類あります。一つ目は「前もそうだった」「何度も言っているのに」。過去の話題を持ち出すと、「なぜいまさら?」と親への不信感を招きます。二つ目は「なんで?」「どうして?」。例えば、ジュースをこぼしてしまった時に「なんで?」といわれても、子どももどうしてこぼしたのか分からない。しかも、親もこぼした理由を知りたいわけじゃありませんよね。「なんで?」には相手を責めるニュアンスもある。あまり言い過ぎると、子どもは逃げ出したい気持ちになってしまいます。三つ目は「いつも」「絶対」「必ず」です。これは相手を決めつけたり、怒りを強調したりする言葉。こう言われた子どもは、さっと心の中で「いつもじゃないのに……」思っています。そして、四つ目は「ちゃんと」「きちんと」「しっかり」といった、程度を表す言葉です。程度は人によって基準が違うため誤解を生みやすく、気持ちが正しく伝わらないもの。「何度も言ってるけど」「なんで」「いつも」「ちゃんとできないの!」などと言ってしまわないよう、NGワードを意識しましょう。 怒り過ぎないための工夫も!あと、考えてほしいのは、「思い込みで怒ってはいないか」という点です。私たちは夫婦のアンガーマネジメントのカウンセリングをするとき、徹底的に「事実か思い込みか」を整理していきます。例えば「全然手伝ってくれない」といっていたら本当に〝全然〟かどうか、「寝てばっかりなんです」と聞けば、本当に〝ばっかり〟かどうかを確認する。すると、思い込みで想っていることもかなり多いことが分かってきます。子どもに対しても、できるだけ思い込みを排し、事実のみで怒るようにすれば、「ちゃんと見てくれているんだ」との信頼にもつながります。また、必要以上に怒り過ぎないために、親自身が「自分はどういう時に感情的になってしまうか」を覚えておくことも大事です。人はマイナスな感情(悲しい、つらい、苦しい、寂しいなど)やマイナスな状態(空腹、睡眠不足、疲労など)が大きいほど、ふとしたきっかけで生まれた怒りの感情が大きくなりやすい。もし、怒り過ぎてしまったら、直ぐに謝りましょう。親が間違えたときに謝る姿を子どもに見せることで、「間違ったら謝る」ということを教えることになります。ともあれ、人は誰だって間違えます。それが子どもなら、なおさらです。何か間違いをしたからといって、決して性格や人格まで否定してはいけません。ましてや、「○○ちゃんはできているのに」などと他人と比べる必要もまったくありません。親子で「何が良くないのか」を明確にし、「どうしたらいいのか」を一緒に決めていく。そんなふうに上手に怒られて育ったお子さんは、きっと将来、自分の気持ちを上手に伝えられる大人になっていくと思います。 【教育】聖教新聞2021.8.19
October 21, 2022
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なぜ今、「創価教育」が必要か作新学院大学 渡邊弘学長に聞く㊤ 牧口常三郎先生の生誕150周年の本年6月、『創価教育と人間主義』と題する新著が発刊された。著者は作新学園大学の渡邊弘学長である。渡邊学長は同書の中で、牧口先生の実践から生み出された創価教育学は「日本の教育市場においてきわめて重要な教育遺産」であり、「その精神が途切れることも、変更・歪曲されることもなく、現在まで脈々と正当に継承されている点が、わが国の教育市場の財産である」と強調している。なぜ今、創価教育の重要性を訴えるのか。渡邊学長へのインタビューを上下2回にわたり掲載する。(聞き手=大宮将之、村上進) ——渡邊学長はこれまでも講演会などの場を通して、牧口先生の創価教育に高い評価を寄せてこられました。そもそも学長が牧口先生を知るきっかけは何だったのでしょうか。 私は大学院のころから日本の教育思想史の研究をしておりまして、特に教育者の人物研究に力を入れてきたんですね。それをご存じだったからでしょう。今から27年前、私の恩師である村井実先生(慶応義塾大学名誉教授)から「今度、創価学会の牧口常三郎初代会長について私が講演をする機会があるから、君も来ないか」と誘われたんです。1994年(平成6年)6月6日に東京・台東区の浅草公会堂で行われた「創価教育学と教育の未来」と題する講演会でした。とても感動したことを覚えています。軍国主義教育が推し進められていた日本の戦時下において「子どもの幸福」を第一に掲げた実践から独自の教育理論を提唱し、命を懸けてその信念を貫き通した教育者がいたのか——と。私が牧口先生の『創価教育学体系』や『人生地理学』などを真剣に学び始めたのは、そこからですね。村井先生は、牧口先生のことを「日本のデューイだ」とおっしゃっていました。アメリカを代表する教育思想家ジョン・デューイのことです。彼は、教育が国家の政治的・経済的な目的に沿った人間を育てる手段として画一的・集団的に用いられることを批判しました。デューイが理想とした〝教育〟とは、子どもたちの「成長したい」という欲求を引き出すため、社会や生活との関連性を重視しながら「学び」への興味・関心を高めていく「経験主義教育」でした。古今東西、教育は「人間をよくするため」という名目のもとに贈られてきたといえるでしょう。しかしその「よさ」の定義となると、その時代その時代の国家が「よい人間像」を決定していたケースが、あまりにも多い。 幸福な生活を送れるように——特に近代国家では、政治、経済、産業、軍事などの充実と発展ばかりが重んじられ、教育はそれを達成するための〝手段〟とされました。 国家が求める「よい人間像」に向かって特定の知識や技術や振る舞い方などを子どもたちに注入し、まるで国家にとって〝よい製品〟とされる人間を〝生産〟するかのような教育が展開されてきたと言っても、過言ではありません。「人間主義の教育」ではなく「国家主義の教育」が往々にして行われてきた事実は、洋の東西の歴史が物語るところです。日本の近代以降の教育は、その典型と言ってよいでしょう。明治期に、初代文部大臣に就任した森有礼が推進した「学校令」に象徴されるように、全国に学校を設けるのは子どもたちのためというよりも〝国家の発展・繁栄のためである〟——との考え方が、その後の日本に引き継がれていくことになるわけです。これは、牧口先生の「国民あっての国家であり、個人あっての社会である」「被教育書をして幸福なる生活を遂げしめる様に指導するのが教育である」(『創価教育学体系』)との考え方とは、まったく対照的であると言わなければなりません。 「性向善」という「子ども観」から——国家でなく人間の視点に立った教育を実現してゆくには、教育の対象となる「人間」「子ども」をどのような存在としてとらえるのかという「人間観」「子ども観」が最も大事であると、渡邊学長は常々、訴えておられます。 「人間」という存在をどのように捉えるかによって、具体的な教育の在り方も変わっていきます。「子どもをよくする」とは具体的にどういうことかも、おのずと定まってくるでしょう。この「人間観」が曖昧なまま教育を行うことは、あたかも山登りをする人が、山の特徴や山頂までのルートなどを調べないまま登山に臨むようなものだといえるかもしれません。目的地にたどり着けないばかりか、〝遭難〟してしまう恐れすらあります。これは学校教育に限らず、家庭教育にも通じる部分があるでしょう。「国家主義の教育」では、特定の目的に向かって効果的に「つくられるべき存在」として人間を捉えます。子どもが一人の人格として尊重されることなく、大人が決めた「よい人間像」を押し付けていくのです。もちろん、親であれ教師であれ、子どもたちに「こうなってほしい」といった願望を持つのは、自然なことでしょう。しかしそれが「こうなるべきだ」という押し付けになってはいけません。そしてそれを「国家」としてやるのは、大きな間違いです。一方で「人間主義の教育」は、一人一人の人格を認め、自己実現のために「よく生きよう」としている存在として捉えます。「よさ」を求め続けていく存在ともいえるでしょう。私はそれを、いわゆる「性善説」(人間の本性は基本的に善であるとする考え)に「向」の一字を加えて「性向善説的子ども観」と呼んでいます。子どもたちの内部には「よさに向かおう」とする潜在的な働きが備わっていると捉え、「よく生きよう」としている子どもたちを支援していくのが「人間主義の教育」だという考えです。日本の近代教育の歴史を振り返ると、「人間主義の教育」が芽生えたとしても、すぐに「国家主義の教育」に転換してしまう傾向が見られます。例えば大正期に起こった、子どもの個性や自発性の尊重をうたった「自由教育運動」も、結局は昭和前期の「軍国主義教育」に取って代わられました。千五の昭和20年代はデューイの「経験主義教育」の理念が反映されましたが、昭和30年代に入ると経済成長を図るために再び国家主義の教育が強まります。近年もさまざまな教育問題が議論され、その都度、審議会や委員会などで対応策が検討されてきましたが、ようやく「国家のための教育」への根本的な意識改革の必要性が指摘され始めたといえるでしょうか。コロナ禍の中でその課題は一層、浮き彫りになったとさえ思っています。近代日本において、牧口先生から始まった「創価教育」は一貫して「人間主義の教育」の精神を継承してきました。ゆえに私は「今こそ創価教育に学べ」と、声を大にして訴えたいのです。「国家のための教育」から「人間主義の教育」へと意識を転換し、システムを変革していくための突破口になるものが創価教育にある——と。 「生命」にとってプラスになるか——それはつまり、創価教育の「人間観」に学ぶことだとも言えるでしょうか。 その通りです。創価教育学の理論的特徴を表現するものとして、牧口先生の次の言葉が象徴的です。「価値ある人格とは価値想像力の豊かなるものを意味する。この人格の価値を高めんとするのが教育の目的で、此の目的を達成する適当な手段を闡明せんとするのが創価教育学の期するところである」(『創価教育学体系』)子どもは全て「価値を創造する豊かな力」を持った存在であるという見方から出発しているのです。そして教育の目的とは、価値を創造し得る人間を育成し、一人一人が自らの力で幸せに生きていけるようにする方法を明らかにすることだと定義しています。では、ここで言う「価値」そして「創造」とは何でしょうか。牧口先生は「利」「善」「美」の3価値をもって価値論の根幹としました。また、価値を価値たらしめているのは「生命」であるとして、次のようにも述べています。「人間の生命の伸縮に関係のない性質のものには価値は生じない。故に価値を人間の生命と対象の関係性といふ」(同)つまり人間の生命にとってプラスになるものは「有価値」であり、マイナスになるものは「反価値」だと呼んでいます。この考え方はきわめて合理的であるとともに、スケールの大きい価値の捉え方です。一方、「創造」については「創造とは即ち自然の存在の中から人生に対する関係性を見出して之を評価し更に人力を加へて其の関係性を特に増加することである」(同)とも述べています。これらを踏まえて「価値創造」の意味を私なりに解釈すると、次のようになります。個人的価値としての「利」、感覚価値としての「美」、そして、社会的価値としての「善」という三つの価値を、それぞれ人間の生命との関係性でプラスになるか、あるいはマイナスになるかを評価しながら、プラスなもの、すなわち「有価値」を増加させておくことである——と。牧口先生は「価値創造者」という独立した個人的存在としての人間と、「社会生活者」としての共有共栄を図る人間という両面から、人間を捉えていたことが分かります。 「慈愛の心」こそ教育の原点なり——その「人間観」に立脚した牧口先生の具体的な実践については、どのように評価されていますか。 創価教育の先見性と現代的意義は、いくら強調してもし過ぎることはありません。例えば学習と生活の一体化を目指した「半日学校制度」は、就学中のみならず、一生涯にわたり「学習」と「生活」とを並行していける生き方を習得させることが目的でした。ここにも、人間が生涯にわたって「よく生きよう」とする存在だと捉える「人間観」が、表れています。現在の「生涯教育」は、1949年に行われたユネスコ主催の第1回国際成人教育会議に由来していますが、牧口先生は1930年代に生涯教育の必要性を示していたのです。また行政からの教育自治権の確立を強く訴えていたことにも注目したい。その背景には「学校はそれぞれの過程の延長」との考えがあり、家庭や地域に対する信頼があったといえます。わが子のためにも保護者が学校に関わるのは当然の権利であり、遠慮なく学校に参加することが大切だと考えていたのです。「子どもの幸福」という目的を教師と保護者が共有し、地域で子どもを育てていくという考え方は、むしろ学校のみでは解決できない問題が山積している現代にこそ求められているのではないでしょうか。さらに「郷土科」という郷土教育の実践は、創価教育の中心的内容といえるものです。「地を離れて人なく、人を離れて事なし」(吉田松陰)との思いで、あらゆる科学の中心軸——いわゆるコア・カリキュラムに、子どもたちが生活している地域の風土や営みを〝生きた教材〟として学ぶ「郷土科」を据えることを提唱したのです。これは地域全体を巻き込む形で、さまざまな人々の思いを共有し合う場となり、世代から世代へと思いを受け継ぐ「生涯学習」の場にもなります。グローバル化が進む現代において、郷土を足場にして社会や世界とつながりを理解する学びの在り方の重要性は、ますます高まっていくに違いありません。こうした一つ一つの実践とともに、私が感動してやまないのは、子どもたち一人一人を見つめる牧口先生の慈愛のまなざしであり、「人間愛」に貫かれた姿です。北海道で小学校教員をしていた時代、雪の降る日に幼い児童を背負って家まで送ってあげたことや、あかぎれで手を腫らした子がいれば教室のストーブでお湯を沸かし、手を温めながら洗ってあげたエピソードなどが数多くあります。東京での好調時代には、弁当を持って来られない子どものため、そっと食事まで用意されたと聞きます。牧口先生の「人間観」には「誰一人置き去りにしない」「ダメな子なんか一人もいない」という「慈愛の心」があふれていました。そしてこれこそ教育の原点であり、教育改造の原動力であると、牧口先生は示したのです。いかなる時も、「人間主義の教育」を貫いた姿に、私たちはいまこそ、学ぶべきではないでしょうか。 わたなべ・ひろし 1955年、栃木県生まれ。慶応義塾大学卒。教育学博士。宇都宮大学教育学部教授や同大学付属小学校長などを経て、2017年、作新学院大学学長・同大学女子短期大学部学長。20年、学校法人ねむの木学園理事。1994年、国民学術協会賞受賞。著書に『宮城まり子とねむの木学園——愛が愛を生んだ軌跡』(潮出版社)、『人間教育のすすめ』(東洋館出版社)など多数。 【牧口先生 御生誕150周年記念インタビュー】聖教新聞2021.8.7 なぜ今、「創価教育」が必要か㊦「12点」にわたる精神景況の特質——渡邊学長は新著の中で、創価教育における「正心の警鐘」の特質を「12点」にわたりあげています。 創価教育の精神は、創価学会初代会長の牧口先生から第2代会長・戸田城聖先生、そして第3代会長の池田大作先生へと受け継がれてきました。途切れることも、変更・歪曲されることもなく、現在まで脈々と正当に継承されている点は、日本の教育史上にとって重要な財産であると私は確信しております。私が考える「創価教育の精神」の特質とは——➀反国家主義の精神②対症療法的な改革への批判③価値創造的人間の精神④子どもの幸福のためという精神⑤生命尊厳の精神⑥「世界市民(地球民族、地球市民)」の育成精神⑦「知恵(智慧)」の精神⑧「慈悲(慈愛)の精神⑨学習と生活の一体化⑩「連帯」の精神⑪最大の教育環境としての教師⑫「開かれた対話」——以上12点です。その上で、とりわけ重要だと考えるのは⑪⑫の2点です。「子どもにとって最大の教育環境は、教師自身である」との考え方は、牧口先生に始まる創価教育の精神を受け継いだ池田先生が提唱されたものですね。そしてそれをモットーとして、創価学会の教育本部の皆さまが、それぞれの地域で、子どもたちに寄り添い、励ましを送っていることも良く存じ上げております。教育本部の皆さまの実践事例に共通しているのは、さまざまな課題を抱える子どもを前にした時に、「子どもを変えよう」とするのではなく、まず「大人である自分が変わること」を第一としている点といえるでしょう。その変化、その成長の姿に触発されて、子どもたちも見違えるように変わっていく——「教師とは子どもの心に希望の炎をともす人です。子どもの可能性を信じ抜く人です」「良い教師というのは、触発を与え、『内なる力』を発揮させるものです」と、池田先生が語られている通りの実践が、そこにはあります。 「よく聴く」こと「信じ抜く」こと——もう一つの「開かれた対話」については、ただの「対話」ではなく、〝開かれた〟という表現を用いられています。 対話とは、ただ単に互いの主張や意見をぶつけ合う——というものではありません。「開かれた対話」は「開かれた心」から生まれます。独善的なイデオロギーや誤った知識、先入観、利害感情などの〝とらわれの鎖〟から解放し、相手を「人間」として尊敬して学ぼうとする心——ともいえるでしょうか。教育や子育てに携わる大人の立場から換言すれば、たとえ子どもたちがいかなる状況にあってもその可能性を信じ抜き、声に耳を傾けていくことに通じます。私は若い頃に私塾を経営し、小・中学生たちに授業をしていた経験があるんです。そこはまさに「開かれた対話」の重要性を肌で感じる場でもありました。テキストやノートを机の上に全く出そうとしない子や、不登校の子など、いろんな子たちが集まっていたんですね。「勉強しなきゃダメだよ」と一方的に言うのは、簡単です。しかしそれは、「対話」ではありません。私が心掛けたのは「相手を知ろうとすること」。その子が好きなもの、楽しいと感じることは何なのか。この塾に入るまでに、どんな経験をしてきたのか。丁寧に問いを重ね、子どもたちの話を「よく聴く」ように努めました。その姿が、〝私はあなたに関心を持っている。あなたのことをもっと知りたいんだ〟というメッセージを、子どもたちに伝えていくことにもなるんですね。そうすると、次第に子どもたちの方から、いろんな話をしてくれるようになるんです。どうして勉強する気が起きないのか。どうして学校に行きたくないのか——そんな〝本心〟を打ち明けてもらうたび、感じたことがあります。それは、だれもが心の奥底で「成長したい」「よく生きたい」という思いを持っているということです。先ほども申し上げましたが、子どもたちは皆、「よさ」に向かって生きようとしている存在なんです。そんな「子ども観」を自分の軸に据え、子どもたちを信じて関わっていくと、皆、驚くほど伸びていきました。それ以上に私自身は一人の教育者として、どれほど多くのことを学ばせてもらったか。感謝は尽きません。現在も実は、大学の学長としての職務のほかに、「教育」に関する授業を2コマ担当しているんですよ。学長室にも、よく学生たちがリポートをもって質問に来たり、〝おしゃべり〟に来たりします。日頃から「何かあれば、いつでも学長室においで」と伝えているんです。こちらがまず心を開かないと、学生たちも心を開いてくれるわけがないですから。それこそ学長室の智ビラも、しめずにずっと〝開いた〟ままです。 「平和の文化」を創造する道は創価の「開かれた対話」の中に 世界市民教育を家庭で地域で!——「開かれた対話」とは「新たな価値を共に創造する営み」であるとも、学長は強調されていますね。 ええ。牧口先生の言葉を借りるなら、対話とは、自分も相手も互いに「価値創造者」である——という認識から出発しなければなりません。人間はだれもが「価値創造力の最たるもの」(『創価教育学体系』)だからです。そして「開かれた対話」によって創造されるものは、大きく二つあると私は考えます。一つは「人間関係(創造的関係)」です。会話を通して、さまざまな人たちと「意見」や「異見(異なる見解)」を交わし合うことで、たとえ同じ結論に至らなくても、一人では決して到達しえなかった〝何か〟が生まれます。すなわち対話のプロセスと通じて、互いに信頼・親睦を深め、共通の目的に向かって、よりよいものを生み出す仲間として、創造的な人間関係を構築していけるのです。牧口先生も、こうした語らいをとても大切にしていました。戦時下においても閃光の体験を共有するための〝大善生活法実証座談会〟を各地で開催し、そこでの対話プロセスを通して、「よりよいものを生み出していく関係」を広げていったのです。もう一つは「人類の平和の文化創造」です。〝大袈裟だな〟と、思う人もいるでしょう。しかし、決してそんなことはありません。字汁、創価三代会長も、そして学会員の皆さまも、ただ「対話」によって「平和を願う民衆の連帯」を広げてこられました。自分と異なる意見を持つ人に心を開いて対話するのは、とても勇気がいりますよね。しかしだからこそ学びがあり、成長がある。学会員の皆さまには、人種や立場などのあらゆる差異を超えて相手と自分と同じ人間として見る「人間観」と、万人の無限の可能性を信じ抜く「信念」がありますその「人間観」「信念」を支えているものこそ、皆さまが心法されている仏法の「生命観」なのでしょう。「創価教育の精神」は、池田先生が創立された創価大学や創価学園という教育機関において実践されてきたことと同時に、学会員の皆さまが人間の中に飛び込んで、誠実な対話を重ねてきたことによって正しく継承されてきた——といっても過言ではありません。学校教育の現場に限らず、家庭・地域・社会で「開かれた対話」を積み重ねていくことは、「信の人間主義を基調とする世界市民教育」にも通じていくのです。世界が今、直面している課題は、コロナ禍だけではありません。紛争や気候変動による災害、人権抑圧や慢性的貧困といった「地球的問題群」が私たちの眼前に立ちはだかっています。ともすればその問題群の大きさを前にして、諦めの心を抱くこともあるでしょう。しかし創価教育は「人間の精神には、どんな困難な状況をも打開し、より豊かで実りある価値創造を成し遂げる力が備わっている」ということを教えてくれます。「開かれた対話」によって、その価値創造の力を一人ひとりから引き出し、変革を目指す連帯を広げていくことができます。この創価教育の精神と実践を、今こそ多くの人に伝えたい——それが、私の偽らざる真情なのです。 【牧口先生 御生誕150周年記念インタビュー】聖教新聞2021.8.10
October 4, 2022
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寄稿教育実践から価値哲学へ㊦創価大学 伊藤貴雄教授激動の時代に「民衆知」を結集今から100年前、日本の民主主義は転換点を迎えていました。1918~20年にかけてのスペイン風邪、23年に関東大震災、29年に世界恐慌といった混乱の中で、軍国主義が台頭し始め、政党政治は一気に終焉に向かいます。創価教育学が誕生したのは、そうした激動の時代でした。『創価教育体系』発刊(1930年)に際し、関東の記号を寄せた犬養毅(翌年、首相に)は32年、五・一五事件で青年将校らによって暗殺されています。時代の流れに抗うかのように、牧口先妻は数々の提案を行いました。科学的教育学の確立、国立教育研究所の設置、視学(教育を監視する役人)の廃止、学校自治権の確立、小学校長登用試験や、半日学校制の導入などです。それらの中には戦後に実現されたものも少なくありません。次々に襲い掛かってくる困難に対して、どう立ち向かっていくかという「民衆知」を結集させたものが、創価教育学であったと言えます。 「答え」ではなく「プロセス」を重視牧口先生が自身の教育学のエッセンスを述べている言葉があります。「教育は知識の伝授が目的ではなく、学習法を指導することだ。研究を会得せしむることだ。知識の切り売りや注入ではない。自分の力で知識できる方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。労せずして他人の見出したる心的財産を横取りさせることではなく、発見発明の過程を踏ませることだ」(『創価教育学体系』第4巻)答えを与えるのではなく、発明・発見のプロセスを踏ませる。それはまさに、今日の教育が重視する「考える力」であり、「生きる力」にほかなりません。他人の考えをうのみにせず、自分自身デファクトチェック(事実かどうかの確認)をするという、メディアリテラシーの根幹にも通じます。玄に、牧口先生は、「五人」が生んだ悲劇の例として、関東大震災化で発生した朝鮮人虐殺事件を挙げています(同、第2巻)。 「大善」の理念を掲げ時代に抵抗グローバルな「行動規範」を希求 人間の自主的思考を重視するこうした主張は、民主主義的な国家間に基づくものです。牧口先生は「刻人あっての国家であり、個人合っての社会である」(『創価教育学体系』第1巻)とし、学校を「立憲政治の一部」であるとも明言しています(同、3巻)。ちなみに、『創価教育学体系』全館でみると、「立憲政治」「立憲体制」「憲政」という言葉が計26回、すべて肯定的な意味での立憲主義が根付いていないとも指摘しています。「立憲政治はすなわち『万機公論に決すべし』といふ議論政治である。議論を恐れて居ては何時までも立憲政治の完全は期せられぬ」(同、3巻)。民衆一人一人が自分の頭で考えて、徹底的に議論するという点に、牧口先生は立憲政治の理想を見ていました。自身の信仰する仏法の「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)という思想についても、立憲政体の本義に合致するものであるとの解釈を加えているほどです(同、第2巻)。 仏法の信仰と言論闘争「利・善・美」のうち、牧口先生が最も重視されたのは「善」の価値でした。日本が日中戦争へ突入する頃から、発言の中に『大善』という言葉が登場します。その精神的支柱となったのは、『創価教育学体系』執筆と並行して始めた仏法信仰でした。信仰によって「暗中模索の不安が一掃され、生来の引込思案がなくなり、生活目的が愈愈遠大となり、畏れることが少なくなり、国家教育の改造を一日も早く行わせなければならぬといふやうな大胆なる念願を禁ずる能はざるに至った」(『創価教育学体系梗概』と述べています。そして『大善生活』は、「他人に依ってゐた基準を革めて法に依れ」ということであったと述べています(『大善生活法即ち人間平凡生活に』。いかに権威権力のある人が言うことであっても、間違ったことであれば従ってはならないというのです。牧口先生の晩年は、こうして国家権力に対する言論闘争となっていきます。 弾圧に屈せず信念を貫く1941年3月、治安維持法が改正され、「国体ヲ変革スルコト」を目的とした結社だけでなく、「神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコト」を目的とした結社も禁じられるようになりました。国歌による言論弾圧が厳しさを増す中、牧口先生は、信仰の体験を人々と共有するため〝大善生活法実証座談会〟を全国各地で開催します。そして太平洋戦争が始まって2年目の43年7月6日、治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で検挙されました。『特高月報』(43年7月分)を見ると、検挙理由として、牧口先生が「天皇も凡夫である」と述べたこと、また教育勅語から「忠誠心」を説く一節を削除するよう主張したことが第一に挙げられています。つまり、牧口先生の「人間平等思想」と、「国家主義教育への批判」が、罪に問われたのです。国家権力の恐ろしさは、まことに言語に絶するものがあります。同時に、国家中心の人間観・社会間に対し、自分の頭でその成否を考え続けた牧口先生の面目躍如たるものがあります。『特高月報』(同年8月分)には、「創価教育学会々長牧口常三郎に対する尋問調書抜粋」という記録が入っています。その中で牧口先生は、仏法に基づく国家社会が実現した時には、「戦争」やそれがもたらす「飢饉疫病」等の差異化からめ脱がれ得るだけでなく、各人の日常生活にも「極めて安穏な幸福が到来する」と述べています。注目すべきは、「戦争」から免れることが「幸福」である、と明言している点です。 戸田先生、池田先生に受け継がれ世界に広がった平和への理想と連帯 当時、民衆の間には厭戦感情が高まりつつありました。『特高月報』を見ると、「食わずに働けと言ふのか。百姓は死んでもよいのか」(同年3月分)という発言や、「我国民はもうこれ以上は忍ばれない。、今に内乱が起きるから見てゐろ」(同年5月分)という投書が、不穏な言動として記録されています。食糧不足による民衆の栄養失調は神国で、結核死亡率も上昇し続けていました。牧口先生は、特高警察を前に、こうした民衆の苦悩の声をはっきりと代弁したのです。特高警察は尋問の中で、「法華経とは如何なる教へなりや」と聞いています。牧口先生はこう答えています。——「世間法は必ずしも善因は善果とならず反対の結果も生ずる」が、法華経はそうではない。「善因は必ず善果」「悪因は必ず悪果」という「因果の法則」を説いているので、「未来の生活方針が定まる」のだ、と。また、法華経は「終生変わらざる処の人類行動の規範」を示したものであり、「絶対不変の万古不易の大法」である。この理想に照らしたときは「現在あるが如き法律諸制度中一部のものは変更される様な事になるかもしれません」とも述べています。牧口先生の眼は、ある時代の、ある国家にしか通用しない規範ではなく、どの時代の、どの国家にも通用するグローバルな「人類の行動規範」に向けられていました。また、この巨視的な視点の大切さを、特高警察に対しても諄々と諭したのです。東京拘置所での過酷な獄中生活が始まって約14カ月後の1944年11月18日、牧口先生は老衰と栄養失調により、73歳で亡くなりました。逝去の直前、牧口先生が獄中から家族に送ったはがきに、こうあります。「カントの哲学を精読している。百年前、及びその後の学者どもが、望んで、手を付けない『価値論』を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結び付け、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これゆえ、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(現代表記に改めた)牧口先生がどの著作を読んだかは不明ですが、先生が掲げた「依法不依人」というモットーは、カントの哲学と響き合うものがあります。カントもまた、どの時代、どの国家にも通用する「普遍的法則」を希求した哲学者でした。冷え込む晩秋の獄中でも、自身の価値哲学が間違っていないこと、それどころか、カントから法華経に至るまでの人類の知的遺産に支えられていることを、牧口先生が強く確信されていたことがうかがえます。 戦時下におけるレジスタンス牧口先生の思想と行動は、戦時下の日本における稀有なレジスタンスの記録です。それは人間が「自ら考える権利」を奪われた暗い時代にあって、まばゆい光を放っています。その精神は、生きて牢獄を出た弟子の戸田城聖先生によって受け継がれることになります。戸田先生は戦後、師の『価値論』を補訂し、世界の大学図書館等に寄贈しました。また、「世界民」というグローバルな平和への理想を、「地球民族主義」や「原水爆禁止宣言」として、後継の青年たちに託しました。さらに、戸田先生の弟子である池田大作先生は、この理想を192カ国・地域に及ぶ「世界市民」のネットワークへと拡大するとともに、東西冷戦期から一貫して、中国・ロシア・アメリカをはじめとする世界のリーダーと対話を続けて来られました。名誉学術称号を受ける折には、たびたび「先師・牧口常三郎先生、恩師・戸田城聖先生に捧げます」と述べておられます。牧口先生の正義は証明されたのです。牧口先生は、宗教の価値を、人を救うという「利」の価値と、世を救うという「善」の価値に見ました。この精神は創価学会員の生き方に継承されています。創価学会員は、悩み苦しむ人に寄り添い、同苦します。友のもとへ足を運び、言葉を交わし、より良い地域や社会の建設のために行動しています。教育は単独で価値を持つのではなく、あくまで人間のコミュニカ―ションの中で価値を持つと捉えています。地域を起点とした信仰活動が、世界中のあらゆる場所で行われています。これは牧口先生、戸田先生、池田先生と学会員が、90年という歴史の中で、連綿と築き上げてきた文化です。世界中の識者が称賛を惜しまない流雄もここにあるのではないでしょうか。いま牧口先生がおられたら、未曽有の危機の時代にあって、苦境に立たされながらも粘り強く行動し続ける民衆の連帯に、きっと慈眼の微笑を向けてくださることと思います。 【牧口先生 生誕 150周年に寄せて】聖教新聞2021.6.11
July 13, 2022
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寄稿教育実践から価値哲学へ㊤牧口先生 生誕150周年に寄せて創価大学 伊藤貴雄教授どこまでも「こどもの側に立つ」次代を越える普遍的な教育思想牧口常三郎先生は、「真理の認識」と「価値の創造」が教育の二大目的であるとしています。何事に対しても、世間の評判をうのみにせず、「認識した上で評価する」ことを身上としました。また、それだけにとどまらず。学知を生活に応用し、人々の幸福に資する「価値を創造する」ことを重視しました。事実、カントやヘルバルト、デューイなど、世界の教育学説にも積極的にアンテナを張り巡らしながら、それを机上のものに終わらせず現場の教育に応用し、新しい教授法に昇華させていきました。国際連盟事務次長も務めた新渡戸稲造は、「君〔牧口先生〕の創価教育学は、余の久しく期待したる我が日本人が生んだ日本人の教育学説であり、しかも現代人がその誕生を久しく待望せし名著であると信ずる」(「我が国将来の教育と創価教育学」)と評しました。今日、創価教育学はアメリカ、ブラジル、中国など世界各地で研究されています。現代において改めて浮かび上がる教育的な知恵について、教育実践と価値哲学という二つの観点から考えてみたいと思います。 「単級学校」は教師の研鑽の場牧口先生は1871年6月6日(旧暦)、現在の新潟県柏崎市に生まれ、その後、北海道に渡り、北海道尋常師範学校に入学します。21歳で卒業し、同校付属小学校で教師としての第一歩を踏み出しました。担当したのは「単級学校」でした。これは、全校児童を一学級に編成した教育形態です。文部省(当時)が小学校制度を全国に急いで普及するために考慮したもので、へき地の多い北海道では必要とされていました。牧口先生は論文「単級教授の研究」で、「単級小学校は真正の教師を造出する高等師範学校なり」というドイツの教育学者の言葉を引いています。異なる学年の児童が一緒にいる中で、どのようにして学習を進めるか——単級学校は、牧口先生にとって〝教育とは何か〟を深めていく貴重な研究の場でした。その実践記録は、『牧口常三郎全集』第7巻(第三文明社)に収められています。そこには現代の教育にも示唆を与える多くの視点が含まれています。単級学校では、学年ごとに予備知識が違うため、同時に教えることはできません。最初の5分は1年生、次の5分は2年生……というふうに順々に教えていき、その間、他の学年の児童は自分で学習を進めます。そのため学習管理が困難になるという短所があります。しかし、牧口先生はそれを長所に転換することを考えました。例えば、上級生は下級生の模範でありたいという思いを持っているものです。この思いを活かしてあげれば、上級生の姿勢が下級生によい感化を与え、教師がいちいち命令しなくても学級はまとまります。牧口先生は、「単級の長所は、家族的な関係にある。しかも教師と生徒との間におけるより、むしろ生徒相互間における影響にある。教育の理想を達成する上で、生徒が社会生活をできるようになる上で、不可欠なものが、実はここにある」(「単級教授の研究」よち、趣意)と述べています。単級学級で育まれる支え合いの姿勢が、社会生活の準備になるというのです。現在、共同学習やインクルーシブ教育(包括的な教育)が注目されています。共同学習とは、単に教師のせつめいをきくだけの〝受け身の学び〟ではなく、子ども同士で教え合ったり、話し合ったりする〝能動的な学び〟によって、知識が定着し、応用力が身に付くというものです。また、インクルーシブ教育は、障がいのある子どもとない子どもが共に学び合うことを通して、価値観の多様化する現代社会で必要な、他者と力を合わせる資質を育もうとするものです。牧口先生が担当した頃の単級学校は、経済的に貧しい家庭の児童が多く、衛生や素行の面で地域住民からあまり歓迎されていなかったようです。そのなかで子どもたちの学習習慣をより良いものにしようとした牧口先生の努力は、現在のこうした新しい学び方の理念とも響き合うものといえるでしょう。 ―共同学習・インクルーシブ教育など—現代の新しい学び方と響き合う「水平的」教育観へ転換を促す 予習を重視する転換授業の発想牧口先生が工夫したことが、もう一つあります。単級学級では異なる学年の児童が一緒に学ぶため、教師が一学年に割く指導時間がどうしても少なくなります。この短所を克服するには、子どもたちの「自主的な学習」が欠かせません。とはいえ、子どもたちにとって、新しい知識を一人で理解することは非常に困難です。当時の教育界では、授業後の「復習」を重視する見解が主流でした。しかし、家庭環境によっては、復習時間を十分にとることができない子どももいます。また、時間があったとしても、強い意志力がなければ、なかなか復習には身が入りません。そこで牧口先生は、授業のなかで、復習と予習を兼ねた「予習的自修」(準備学習)の時間を設けました。昨日の授業と今日の授業とのつながりを明確にすることで、子どもたちが新しい知識に興味を持ち、自主的に学ぶことのできる巧みな設計をしたのです。いまコロナ禍でオンライン学習が普及するなか、高等教育を中心に「反転授業」が注目されています。従来の〝授業で知識を学び、自宅への復習で定着させる〟という仕方を反転させ〝予習で知識を学び、授業でそれを使って定着させる〟という方法です。これは牧口先生の考える「予習的自修」に近い発想といえます。ただし、反転授業においては、保護者のサポートを得られない子どもや、オンライン環境が整っていない家庭の子どもが置き去りにされないように配慮する必要があるでしょう。その点、「予習的自修」は、授業内でできるという長所があります。課題への取り組みを通して子供たちを〝学びの主体者〟もする、きめ細かな配慮です。その根本には、どこまでも「こどもの側に立つ」という姿勢があります。教師はともすれば数人の優秀な子供を中心に授業を進めがちです。そこで取り残される子どもがいないようにするためには、「予習的自修」が不可欠であると牧口先生は述べています。牧口先生が重視した「子ども同士の支え合い」や「子どもの自主的な学習」は、現場感覚から生み出されたものです。例えば、「教師の説明が多すぎて、生徒がただ受動的に聴く場合や、教師が数人の優秀な生とばかり相手に問答する場合、ほとんどの生徒は退屈を感じて学習意欲をそがれてしまう」(「単級教授の研究」より、趣意)と述べています。知識を持つものがもたないものに教えるという「垂直的」教育観から、子どもが努力して教え合い学び合うという「水平的」教育観へと転換を促しているのです。これは学校教育のみならず、社会のあらゆる場所において主体的な学びへの道を開くものとして、注目されるべき視点です。単級学校という困難な環境のなかで、牧口先生は教育関連の新聞や雑誌を読み込み、自身の現場に当てはめつつ改良を模索していきました。その結果、時代を越えて通用する教育方法を編み出したのです。 実践のなかで得た二つの教育原則北海道で教育実践を通して、牧口先生は、のちに『人生地理学』や『創価教育学体系』などの著作につながる二つの教育原則を手にします。第1に、「身近なものから始める」という原則です。これはスイスの教育者ペスタロッチの「実物教授」という考え方に基づいています。身近な物事を題材に得た知識を、段々と遠くの物事にも応用していって、物事に共通する法則を見いだされるのです。例えば、子どもたちに「川」という観念を習得させるために、①学校のすぐ前を流れる川、②数百m離れたところを流れる川、③1キロ離れたところを流れる川について、川の特徴をつかませていきました。新たな知識(未知)を、子どもたちが日頃の生活を通して持っている知識(既知)と結びつけることで、学習への興味を自然に持続させる工夫です。第2に、「多角的な視点で考える」という原則です。これはドイツの教育者ヘルバルトの「多方興味」という考え方から学んだものです。ヘルバルトは、物事を観察するときに6種類の興味があるとして、①経験的興味、②思考的興味、③審美的興味、④同情的興味、⑤社交的興味、⑥宗教的興味をあげました。この考えに基づき、牧口先生は、当時、どの家庭にもあった「鰹節」を例にとり、子どもたちに次のような観察をさせています。「どのようにして作られたのか」(思考的興味)、「どういう味か、何に使うのか」(経験的興味)、「なんという種類が最も上品か」(審美的興味)、「それはどこで生産されるのか」(社交的興味)。こうした多角的な観察をさせることで、子どもたちに、地震と社会との多様な接点を深く認識させていったのです。 「郷土」を起点に「世界」を学ぶ牧口先生は29歳の時に教職をいったん止めて上京し、32歳で大著『人生地理学』(1903年)を発表します。同書では次のように述べています。——人間は数百数千人中の「一郷民」である以上に、5000万人(当時の日本の人口)中の「一国民」であり、しかも15億人(当時の世界の人口)中の「一世界民」である郷土を観察すると必ず、苦に住のみならず、世界中から流入した文物が見出される。人間は郷土においてこそ「世界民」としての自覚を抱く、と。これは先ほどの「身近なものから始める」という第一原則の応用です。事実、『人生地理学』は北海道尋常師範学校の「附属小学校で」「教授した草案」からできたことを、牧口先生自ら認めています(「四十五年前教生時代の追憶」)。郷土を起点にして世界を学ぶ。この視点は、諸国民間のグローバルな協力関係が不可欠となった今日、どれほど強調してもし過ぎることはありません。その後、牧口先生は、文部省の仕事や、東京の6校の小学校長を歴任しながら、折にふれて自身の考えをメモに野こそ、59歳から63歳にかけてライフワークの『創価教育学体系』全4巻(1930~34年)に結実させます。そこでは、「真理の認識」を踏まえた「価値の創造」が、「美・利・善」という観点から論じられています。「美」と「利」を個人的価値、「全」を社会的価値とし、個人と全体の調和、自他供の共存共栄を説き、人間の幸福は「価値の獲得」にあると結論しました。これは先述の「多角的な視点で考える」という第二原則の応用です。ヘルバルトの6種類の興味でいえば、「真」は思考的興味、「美」は審美的興味、「利」は経験的興味、「善」は同情的興味・社会的興味に当てはまります。ただし、牧口先生は宗教的興味に対応する「聖」という価値は立てませんでした。宗教の使命は「人を救ひ世を救ふこと」にあるが、人を救うことは「利」の価値であり、世を救うことは「善」の価値だからです。(『創価教育学体系』第2巻「価値論」)。どこまでも現場主義に根ざしたこの価値哲学が、牧口先生の晩年の宗教運動へとつながっていくのです。 いとう・たかお 1973年生まれ。創価大学文学部教授・東洋哲学研究所研究員。博士(人文学)。専門は哲学・思想史。著書に『ショーペンハウアー兵役拒否の哲学』など。 【牧口先生 生誕150年に寄せて】聖教新聞2021.6.9
July 11, 2022
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世界が希求する内なる変革の教育創価大学 高橋 強 教授新型コロナウイルスの感染が広がる中、創価大学では、いち早くオンラインを活用した授業を取り入れ、4月から新学期がスタートしました。大学のみならず小・中学・高校の学校現場など、さまざまな場面で、オンライン授業の導入をはじめとした教育環境の劇的な変化が起きています。今後も、教育の形は必要に応じて変わっていくでしょう。ゆえに今こそ〝いかなる変化の中でも「変わらない・変えてはいけない」教育の価値とは何か〟を追求すべき時であると実感しています。私は長年にわたり、創立者・池田先生の思想を研究する中国の学者らと交流してきました。本稿では、教育に携わる方々の思索の一助になればとの思いで、私なりの「創価教育」の考察や中国の研究者の視点を紹介させていただければと思います。 海外の学識者が池田思想を研究「創価教育」とは何は?――創価大学世教壇に立つ中に自身で問い続けてきました。しかし、「自身に問い掛ける」だけでなく、「世界へ発信する」使命を自覚した大きな転換点が訪れました。それは、2001年12月に「池田大作研究会」を北京大学に設立した賈蕙萓(かけいけん)教授との出会いでした。賈教授が好感教員として創大に滞在された当時、私は創大国際部の副部長として賈教授とよく語り合いました。池田先生のことについて、それはそれは多くのことを聞かれました。或る時、賈教授から「池田先生が一番よく使う言葉は何だと思いますか?」と尋ねられました。そして、「それは『勝つ』『勝利』ですよ」と言うのです。賈教授は日中友好に尽くす池田先生の功績を、よく知られていました。その上で、先生の思想は、幸福の人生を勝ち取るための実践の哲学であると見いだし、深めていかれたのです。賈教授によって北京大学の池田大作研究会は設立されると、中国各地の大学に池田先生の思想を研究する機関や学生団体が、次々と誕生。そして、各地の研究者が池田思想の研究成果を発表し合う国際学術シンポジウムが開催されるようになったのです。創大が共催し、中国前途の研究者が集まるシンポジウムは2005年に始まり、現在までに10回を数えています。私も創大の一教員として、創立者の人間教育について発表する機会を得ました。これが、創価教育について本格的に整理・試作するきっかけとなりました。 三代に継承され発展した理念賈教授をはじめ中国高官教員から、創価教育や池田先生の教育思想について問われた時には、私は次のように応えています。牧口先生と池田先生の教育の目的は同じであり、池田先生の教育思想は、牧口先生の価値論、戸田先生の生命論を受け継ぎ、自身の人間革命論を通して発展させたものである、と。つまり、1人間の内なる無限の可能性を開き鍛え(生命論)、2そのエネルギーを価値への創造へと導き(価値論)、3社会を築き、時代を決する根源の力を引き出す(人間革命論)――これこそが創価教育であると捉えています。その要諦は、人間を基準とし、人間の〝内なる変革〟を促す教育です。池田先生は、中国教育学会の顧(こ)明遠(めいえん)名誉会長との対談集『平和の架け橋――人間教育を語る』でこう述べられています。〝創価教育の目的は、美・利・善の価値を実生活の中で創造しゆく人格を育むことである。創価教育を人間教育と表現するのは、こうした人格を育てていく作業を重視しているからである。〟と。池田先生の教育理念の大きな特徴は、創価教育学の理論を教育現場や日常生活の上で実践できるように展開されたことにあります。そして、自身の振る舞いでその理念を体現される「知行合一(知識と行動の一致)」の姿に皆、納得と共感を示すのです。 多彩な分野に展開される哲学研究が進むにつれ、あらためて実感することは、池田先生の思想が、いかに偉大で深遠であるかということです。それぞれの学者が自身の専攻する学問を通して池田先生の思想を深め、現代社会に新たな価値を展開しているのです。この中国の学者による視点の一端を紹介したいと思います。牧口先生は「教育の目的は子どもの幸福」と厳然と叫ばれました。「人格を育む教育」とは、どこまでも「目の前の一人の子どもの幸福」に尽くすということにほかなりません。中山(ちゅうざん)大学「池田大作とアジア教育研究センター」副所長の王麗栄教授は「人格を育む」との観点から、「道徳教育」の側面に注目しました。「子どもを育む上では、単に知識を与えるだけではなく、人格的な成長を促し、健全に発育していくことが大事です。そのために何が美しく、人としての価値があることなのかを教える『美育』が有効です」「(言葉や振る舞い、表情などを通して聴衆や対話の相手の善性を引き出す)池田先生の焦点は、常に『人間』です。自身の全人格を通して目の前の一人を励まし、育てる。この先生が実践してこられた人間主義の教育は、まさに美育のお手本なのです」と語っています。一方、佛山(ぶつざん)科学技術学院「池田大作思想研究所」副所長の李(り)鋒(ほう)講師は、池田先生の「世界市民教育」に大きな共感を示しています。牧口先生は著書『人生地理学』で、郷土こそ「自己の立脚地点」であることに着目しました。そして、一人の人間は地域に根差す「郷土民」であると同時に、国家に属する「国民」であり、世界を舞台とする「世界民」であり、この三つの自覚を併せ持つことで、人生の可能性を豊かに開花できると訴えました。世界市民教育の魂があります。池田先生はコロンビア大学ティーチャーズカレッジでの講演(1996年6月)で、世界市民の三つの条件として、1生命の相関性を認識する「智慧」2差異を尊重し、成長の糧とする「勇気」3苦しむ人に同苦し、連帯する「慈悲」――を示しています。異文化コミュニケーションを研究する李講師は、〝池田先生の世界市民教育は、異文化理解の教育に大きな示唆を与え、地域や民族等に対する偏見や差別を取り除き、世界の平和促進に有益である〟と考察しています。また、陝西師範大学「池田大作・池田香峯子研究センター」副センター長の曹婷副教授は、〝全盛の開発を目標とする人間主義の教育は、民族やイデオロギーの壁を克服し、智慧を引き出し、真の文化を創出することができる〟と述べています。さらに、「子どもたちにとって、最大の教育環境は教師自身である」とは池田先生が示された指針です。肇慶(ちょうけい)学院「池田大作研究所」副所長である蒋(しょう)菊(きく)副教授は、この指針から「教師論」を展開します。「教師と子どもの生命の触発こそが教育の原点である」とし、教師自身の人生観、人間観の確立をはじめとした〝人間的成長〟が大切であると結論付けました。 変化の時代に挑む教育実践を今、中国をはじめ海外の研究者が注目しているのが、池田先生の提案によって創価学会の教育本部が推進している、人間教育の「実践記録」です。膨大な教育実践の記録が残っているという事業は驚嘆を持って受け止められています。教育本部の皆さまの使命は本当に大きいと思います。私自身も常に、小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章に描かれる山本伸一の姿を模範として、自分なりに実践してきました。オンライン授業という新しい環境の中でも、池田先生の一人を大切にする理念を実践へ移そうと、自宅などでも受講する学生たちが孤独を感じて居ないか、一人で悩んでいないかに気を配りながら、グループディスカッションを多く取り入れたり、なるべく学生の名前を直接呼びかけたりするなど知恵を絞り、工夫をこらす毎日です。三代にわたって受け継がれてきた創価教育は、今度は私たちの実践によって未来へと受け継がれていきます。未曽有のコロナ禍の中での教育実践は、政界の見えない、逡巡と決断の連続かもしれません。しかし「子どもの幸福」を追求してきた創価三代の人間教育も、激動の時代に挑み抜いた激闘によって現在の発展があります。その意味で、私たち教育者の日々の実践は、〝私の小説『新・人間革命』〟の新たな「人間教育」の章をつづりゆく挑戦である、とも言えるのではないでしょうか。10年後の創価教育100周年に向けて、共々に歩みを進めていこうではありませんか。 【寄稿 牧口先生の生誕の月に寄せて】聖教新聞2020.6.28
May 15, 2021
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女性が豊かに生きるために必要なことインタビュー パラグアイ 社会活動家・作家 ミエ・カサマツさん 「人生100年時代」の幸福を探る「ライフウオッチ」。さまざまな変化が加速する現代にあって、女性が豊かに生きるために必要なことは何だろうか。南米パラグアイの社会活動家・作家で国立アスンシオン大学元教授のミエ・カサマツさんに話を聞いた。(聞き手=佐口博之) 女性の力が社会に調和をもたらす「生き抜く」ことは「学び抜く」挑戦 ミエ・カサマツさんは、ラテンアメリカ女性人権団体役員やアスシオンシ顧問、大学教授など、さまざまな立場からパラグアイの未来を展望してきた。カサマツさんは、パラグアイの女性が置かれた状況をどう見ているのか。 もともとパラグアイでは、男尊女卑の考えが根強く、女性を軽んじる風潮が長くありました。〝女性は家庭に入るべき〟〝女性の仕事は主婦〟とされ、高等教育を受けることも、既婚の女性が働きに出ることさえも許されませんでした。この状況は少しずつ変化が起こり始めたのは、1980年代から90年代に欠けてです。この時期、日本では男女雇用機会均等法が制定され、国際世論でも「男女平等」への意識が急速に高まっていきました。近年、パラグアイでは、貪序の教育機会の平等が実現しつつあり、女性の大学進学率も上昇師しています。教育を受ければ、自身の人生を向上させる機会が広がり、多様な価値観への見識も養えます。首都アスンシオンをはじめとする都市で暮らす青年世代は、結婚後も男女ともに、働きに出る「共働き」が主流になりつつあります。若い女性が、社会で生き生きと活躍し始めているのは、喜ばしいことです。それでも、青年たちの親世代や地方では、「女性の社会進出」をよく思わない男性や、〝女性には勉強は必要ない〟と言って、学校に通わせない家庭がまだ残っていることも事実です。また、政府機関や大企業のトップ層は今なお、男性が占めています。国会議員の男女比率を見ても、女性の割合は数%というのが現実です。女性の平均給与は、男性に比べて、25%ほど低いという統計もあります。まだまだ、男女間には根強い格差が存在します。こうした現実を変えるために「青年」とりわけ、「若い女性」がキーワードになると考えます。パラグアイは総人口に対し、34歳未満の若年層が実に73%を占めています。少子化が進み、若年労働力が減少の一途をたどる日本とは、対照的な人口ピラミッド(年齢構造)になっています。パラグアイでは、社会を「支える側」が多い半面、雇用待遇は、周辺国のブラジルやアルゼンチンに比べても、恵まれていません。ゆえに、男女ともに優秀な若者ほど、広待遇の職や、やりがいのある仕事を求めて、パラグアイを離れてしまう傾向があります。グローバル化が進む今、その流れは加速しています。青年や女性の雇用環境の改善を後回しにすれば、社会にひずみが生まれます。パラグアイ社会全体で一日も早く、取り組むべき課題であると思います。 日本でも、近年叫ばれ続けている「女性の社会進出」。男性側の意識変革が求められる一方で、女性自身が意識すべきところとは何だろうか。 女性自身が、もっと社会に目を開くべきだと思います。今いる場所でも、できることはたくさんあります。それが、私にとってはボランティア活動でした。1970年代、私は5年間、パラグアイ駐日大使の夫人として日本に渡りました。当時、私は30代でしたが、両国の友好を深めるために、出来る限りのことをしようと、社会貢献活動を開始しました。日本・ラテンアメリカ婦人の会を設立し、パラグアイをはじめとする中南米諸国と日本との文化交流の促進に努めてきました。この経験が、後の人生を大きく変えました。帰国後は日本の芸術や文化、とりわけ、華道小原流の師範として生け花の普及に尽力ました。その中で、女性がもっと活躍できる社会の土壌が必要であると痛感したのです。世界的にも「男女平等」への機運が高まっていた90年代には、ラテンアメリカ女性人権団体や日本パラグアイ協会など、さまざまな団体で活動し、女性の権利向上を訴えてきました。女性の声を社会に届けるためには、女性同士が手を取り合って、連帯していくことが必要です。女性の力は、あらゆる組織・団体に調和をもたらします。現在、私は、世界女性運動史を研究しながら、執筆に当たっていますが、女性の力を生かす組織・団体の多くは栄え、豊になっています。SGI(創価学会インターナショナル)も、その一つだといえます。私は、何回かSGIの諸行事に出席させていただきましたが、SGIには、女性の連帯があり、その一人一人が生き生きと社会で活躍されています。その背景には、宗教的思想があります。私はカトリックを信仰していますが、宗教は、万人が幸福になるための軌道を示すものです。女性の本来の力を引き出すものだと思います。 日本では「人生100年時代」への関心が高まっている。本来、「長く生きる」ことは喜ばしいことではあるが、多くの不安もつきまとう。カサマツさんは、自分の歩みを通し、豊かな人生を送るために「学び続ける」大切さを訴えている。 いま、パラグアイでも、医療技術の発達などにより、男女とも寿命が延びています。しかし、その一方で「老い」や「病」への不安の声は高まっています。こうした不安は、多かれ少なかれ世界共通でしょう。それでも、私は「長く生きる」ことに対し、希望を持っている一人です。なぜなら、人生が長くなる分、学びの機会が増えるからです。これからは、自身の可能性を求め続ける時代だと思います。いくつになっても学び続ける限り、心の世界は広がります。私自身、70代の現在も、「学ぶこと」「書くこと」がライフワークになっています。私は21歳で結婚し、大学を出ていませんでしたが、さまざまな活動を通し、学ぶ努力を惜しみませんでした。90年代に入り、女性の権利向上に向けて、専門的な知識の必要性を痛感し、国立アスンシオン大学文学部に進みました。若い学生たちと机を並べて、学ぶ日々は新鮮そのものでした。卒業したのは60代の時です。その後、「ジェンダーと開発」への見識を深めようと、大学院にも進みました。研究成果が評価され、大学教授として教壇に立ち、アメリカや日本の大学で講演する機会にも恵まれました。学ぶことによって、新しい知恵が生まれます。活動の幅が大きく広がります。「学び続ける」ことこそが、人生を、希望を持って生き抜くための、世界共通の秘訣ではないでしょうか。今、パラグアイも、学び直しが可能な社会になりつつあります。之からも、すべての女性が社会で力を発揮できるよう、多くの人の学びを応援していきたいと思います。 エミ・カサマツ 1940年、パラグアイ生まれの日系2世。社会活動家・作家。現在、香川県アンバサダーを務める。これまでラテンアメリカ女性人権団体役員、アスンシオン市顧問、パラグアイペンクラブ会長などを歴任。国立アスンシオン大学文学部を卒業後、同大学院で「ジェンダーと開発」などを学んだ。同大学教授として学生育成に当たり、アメリカのUCLA、日本の上智大学や南山大学などで講演した。 【ライフウオッチ「人世100年時代の幸福論」】聖教新聞2019.10.26
May 30, 2020
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社会に善をもたらす人に教育は人間らしくあるための基盤ブラジル サンパウロ大学元総長 フラヴィオ・ファヴァ・モラエス博士 青年を育てる「平和の使者」――1908年、日本人移住者781人が、初めてブラジルに渡航してから、本年で111年。その後も、ブラジルは多くの移住者を受け入れ、「世界最大の日系人社会」が築かれました。 ブラジル人の多くは、日本人感謝しています。なぜなら、日本人は幾多の試練に耐えつつ、ブラジル社会に溶け込み、国の発展のために、大きく貢献したからです。今の経済成長は、日系人によってもたらされたといっても過言ではありません。私は特に、日本人の「平和」を求め、「教育」を重んじ、「人権」を守ろうとする姿勢に敬意を表します。日系人はその心を受け継ぎ、〝良き市民〟としてブラジル社会で輝いています。 ――ファヴァ博士は95年4月に来日し、東京・八王子市の創価大学を訪問しておられます。この時、サンパウロ大学と創価大学の「学術・教育交流協定」の更新も行われました。 当時、私はサンパウロ大学の総長を務めていました。私たちが訪日した時は、ちょうど創価大学の桜が爛漫と咲き誇り、その美しさに心を奪われました。さらに、うれしかったのは創価大学の学生たちとの出会いです。ポルトガル語の横断幕を掲げ、ブラジルの歌を歌って、温かく歓迎してくれました。皆さん、礼儀正しく、あいさつも素晴らしかった。創価大学との交流は、これまで温めてきたブラジルと日本の友情の結晶であり、大変に重要なものだと思っています。 ――創立者の池田先生はサンパウロ大学で史上初となる「名誉客員教授」に就任しています(93年2月)。ファヴァ博士が来日された95年4月、先生と会談し、「教育革命の必要性」「人類貢献の人材を育む大学の使命」などについて語り合われていますね。 池田SGI会長に初めてお目に掛かった時のことは忘れられません。ユーモアにあふれた方で、まるで級友にあったような、心地よさを覚えました。池田会長からは二つの印象を受けました。一つ目は、戦争をなくすためには何ができるかと真剣に考え、行動されている方だと感じました。〝必ず、世界平和を築いてみせる〟との強い意志に、胸を打たれました。二つ目は、青年への思いの深さに驚嘆しました。池田会長は〝未来を変えられるのは、青年しかいない〟と強く訴えていました。世界には、多くの指導者がいまが、何に光を当てるかは、それぞれ異なります。たとえば、「政治」に力を注ぐ指導者もいる。「経済」や「スポーツ」を重視するリーダーもいます。その中にあって、池田会長は未来を見据え、「青年」に焦点を当てています。青年を信じ、青年を本気で育てようとされている。そこが、素晴らしいと感じました。この日の出会い以来、おりあるごとにブラジルSGIと交流を深め、池田会長の書籍を学んできました。現在、私が担当している授業の一つでは、会長が2017年に発表した「SGIの日」記念提言を教材として活用しています。このSGI提言には「難民問題」を解決するための具体的な方途が示されています。難民問題を解決することは、人間としての尊厳を取り戻す戦いであると思います。日本は世界で唯一、戦争で原爆が投下された国です。だからこそ、日本人である池田会長が核兵器廃絶を訴えることに大きな意義があります。「原水爆禁止宣言」を発表された創価学会の戸田第2代会長。その「平和の種」を、池田会長が確かに受け継ぎ、大きく育ててこられました。まさに、池田会長は「「平和の使者」なのです。この師弟に脈打つ平和の哲学を、後世に広く伝えていくことが重要であると確信しています。 言葉と行動を一致させる生き方――ファヴァ博士はサンパウロ大学を卒業した後、母校で50年の長きにわたり、教べんをとってこられました。教育者として、心掛けていることはありますか。 私自身が学生の模範になることです。先輩が後輩に良き手本を示し、正し生き方を伝えることです。その意味で、自分のいったことに責任を持っていくべきだと思います。たとえば、医学部の学生にタバコによる健康被害を教える授業で、教授自身がタバコを吸いながら話していれば、説得力はないでしょう(笑)。同じように、自分の言行を一致させていく努力が大切です。「人間」というのは、生まれた時は誰もが純粋です。しかし、周囲の環境によって、良い人にも悪い人にもなっていきます。善悪を判断するために必要不可欠なものが、「教育」です。教育とは、単に知恵を与えればいいというものではありません。ましてや、地位や名誉を得るためのものでもない。教育は、真に人間を人間たらしめる基盤です。ですから、学校で行うものだけが教育ではありません。子どもたちに接する人は全て「教師」になるのです。その意味で、子どもの最初の教師は親であり、家族といえるでしょう。 ――大学の使命とは何だと思われますか。 何のために大学に行くのか――。自分はもちろん、他者をも幸福にするためです。それは、池田会長が言われているとおりだと思います。ですから、教育の機会はどんな人にも均等に与えられなければいけません。そして、大学では学生たちの視野を広げるような機会を増やしていく必要があります。私が目指しているのは〝口先だけの無責任な傍観者〟をつくるのではなく、〝社会のために善をなす主体者〟を育てることです。本来、「教育」と「平和」とは異なるものではありません。教育がなければ、平和はない。平和がなければ、教育もないのです。だからこそ、平和・文化・教育の価値を創造する創価の活動に注目しているのです。創価学会は一国の繁栄のためだけではなく、全世界の平和を築くためにあります。それは、ブラジルSGIの皆さんと接する中でも実感してきたことです。創価の平和哲学を、世界により大きく広げていってほしいと願っています。 ――次代を担う青年にエールをお願いします。 青年には三つの特徴があると思います。第一は、頭が「柔軟」である点です。脳も成長し続け、さまざまなことを吸収しやすい状態にあります。第二は、「情熱」をもっている点です。自身の夢をかなえていこうとのエネルギーがみなぎっています。そして第三に、「希望」がある。青年には、無限の未来があります。いくらだって、未来を変えることができる。だから私は、青年たちに言いたい。絶対に「希望」を捨てるな! 良き模範だけを追い求めていくのだ!――と。 Flavio Fava de Moraes 1938年生まれ。理学博士。専門は細胞生物学。サンパウロ大学医学部基金会総裁。同大学名誉抄受。同大学で生物医学長、総長を務めた。このほか、サンパウロ州科学技術局長官、同州研究助成機構学術部長、国際大学協会(IAU)副会長を歴任。フランスの細胞化学学会、アメリカの歯科医学協会などから多数の表彰を受けている。 【グローバル・インタビュー「世界の識者の眼」】聖教新聞2019.10.19
May 18, 2020
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日本女子体育大学 桐川 敦子さんに聞く 子どもの生きる力を育むために、非認知能力が注目されています。非認知能力とは、「文字が書ける」「計算ができる」といった目に見えた知的能力ではなく、「目標に向かってやり抜く力」「他者を思いやる力」などを指します。非認知能力を家庭でどのように育めばよいのか。子どもの遊びの視点から、日本女子体育大学准教授(幼児発達先行)の桐川敦子さんに聞きました。 ●新しい発見を促す ――家庭でどのように非認知能力を育めばよいでしょうか。 変化の激しい世の中ですが、どのような時代になっても、生き抜くために必要な力が非認知能力です。非認知能力と聞くと難しい能力のように感じるかもしれませんが、そのようなことはありません。幼い頃からの遊びの中で育まれるものだと考えています。 子どもたちは、信頼する御倒産・阿母さんの近くで安心感に包まれながら遊んだり、お友達と集団遊びをする中で、人と関わる力、思いやる力、自分を律して我慢する力などを伸ばしているのです。 ――遊びの際に、親が気を付けた方がよい点はありますか。 大人が遊び方を指示するのではなく。好きなように遊ばせる方がよいでしょう。そうすれば、自分でより楽しく遊ぶために工夫していきます。うまくいかなくても、試行錯誤をして、「どうすればいいか」を一生懸命考えます。その試みの中で、新しい発見、気付きが生まれるのです。それは大きな達成感、自信になります。また、目標達成に向けて頑張る中で、感情をコントロールし、最後までやり抜く力も身につけていきます。 ●散歩がオススメ ――遊びの中には子どもの能力を伸ばす要素がたくさんあるのですね。家庭で遊ぶ際にオススメの道具はありますか。 子どもは遊びの天才です。どのようなものでも遊びに変えていく力があります。あまり神経質にならず、子どもが好む道具であればどんなものでもよいでしょう。 ただ、既製品ではなく、親子で一緒に遊び道具を作ってみることもオススメです。手作りの遊び方のバリエーションが広がり、子ども自身も道具への思い入れが増して、より楽しく体を動かすようになるからです。別掲に簡単な道具を使った遊びを紹介するので参考にしてください。 道具で遊ぶ際は、子ども自身に使い方を考えさせることがポイントです。別掲の「傘袋のロケット」や「新聞紙のフライディングディスク」などの遊びも、子どもに「どうやったらより遠くに飛ぶのか」を問いかけましょう。 ――大人が先に教えるのではなく、まず子供に考えさせることが大事なのですね。 そうです。親があえて先に教えないことで、「なぜ、飛ばないか」「どうしたら飛ぶのか」を自分なりに考え始めます。遊びの中で探求心が育まれるのです。探究心の向上は学習意欲にもつながります。 また、ご家庭では親子で散歩に出かけ、自然との触れ合いをたくさんしてほしいと思います。自然は人のいろいろな差異をすべて受け入れてくれるところです。段差のある道は動き回りたい子にとっては最高の遊び場ですし、植物に関心がある子なら、道端に咲いているちょっとした草花にもワクワクします。 最近は御稽古事で忙しい子どもたちも多いです。外で思いっきり遊ぶ時間も減っていますが、非認知能力を伸ばす観点から見れば、遊ぶ時間を確保することはとても大事なことなのです。 1傘袋のロケット飛ばし 雨の日にお店のいる愚痴によく老いて有るビニールの傘袋を使います。透明の傘袋に息を吹き込み、口をテープでとめて、ロケットを作ってみましょう。素材が軟らかいので室内でも安全に飛ばせ、音も出ません。先頭に色のついたビニールテープを巻くと、飛び方が変わり、さらに楽しめます。親子でどちらが遠くに飛ばせるかを競争してみるのもよいでしょう。 2新聞紙でフライディングディスク 横向きに持ち、地面と水平に投げることで遠くに飛ばすことができます。親子で投げ合いをして楽しみましょう。 〈作り方〉 新聞紙の端を円盤の形になるようにぐるぐると巻いていきます。端をギュッと固めます。まん丸にして整えたら完成。 3シッポ取りゲーム 大人が腰に複数のしっぽを付けます。シッポはスズランテープや、カラービニールを斬った者を使ってください。大人が動くなかで、子どもにしっぽを取らせます。興味を持ちやすいように、シッポをカラフルなものにすると、より追いかけるのが楽しくなります。 慣れてきたら、子どもがシッポを付けて、逃げる役にも、朝鮮させてみましょう。 きりかわ・あつこ 神奈川県出身。日本女子体育大学幼児発達先行准教授。一班社団法人奥村メゾット研究所理事。25年間、保育現場に携わった経験を生かし、子どもの遊び、保育者育成の研究を行う。共著に『教育・保育・施設実習テキスト』(健帛社)など。 【教育】聖教新聞2019.6.2
December 28, 2019
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一般社団法人 人材デザインラボ代表理事 石田勝紀さんに聞く できることから始めよう ――テストの点数が10、20点といった子どもに、どのような家庭での関わり方が大切なのでしょうか。 100点満点のテストで60,70点が取れている子は、少しつまずいているだけなので、できていない部分を教えてあげれば伸びます。しかし、10,20点を出すようなこの場合、単にできないところを補強するだけでは難しいのです。まずは、勉強が「できる」「楽しい」という感覚を得るところから始める必要があります。 例えば、算数の場合、「できるところまで戻ってやる」ことが有効です。割り算ができないからといって、割り算から学び直すのではありません。そのもう一つの前段階の内容から始めるのです。ここでは掛け算や足し算などです。 簡単に万点を取れるような、できることから始めると、正解するたびにうれしく、勉強が楽しくなります。自身を取り戻すことができます。 極端に勉強ができていない子は、「できる」という感覚をたくさん積むことから始めることが大切です。できないところから復習をしても、自身がないので、なかなはかどりません。 1年で学ぶ漢字を〝見える化〟 ――漢字が苦手という子には? 漢字は、過去に学んだ字を組み合わせて新しい字を覚える学習スタイルなので、算数と同じように、「できるところまで戻る」ことが有効です。 ただ、やみくもにドリルの問題を解く、書き出すというやり方ではおもしろくありません。各学年で1年間に学ぶ漢字は決まっているので、それをまず全部書き出し、子どもが見て分かるようにすることがお勧めです。覚えた漢字を塗りつぶしたり、印を付けたりすることで、あといくつ覚えるとゴールなのかが分かります。ひたすら漢字を書き出す作業をするよりも、ゴールがどこで、今、自分がどこまで近づいているかを把握させた方が、学習意欲は高まります。 また、漢字の覚え方も大事です。私がお勧めする覚え方(別掲)を載せますので参考にしてください。 「聞く」「話す」トレーニングで ――文章問題が苦手な子にはどのような支援が必要でしょうか。 勉強が苦手な子は、文章を読むことが苦手です。これは人間の発達の過程を考えると当然のことです。そもそも人間は、生まれてから、「聞く」「話す」「読む」「書く」という順番で、スキルを獲得しているのです。「読む」「書く」はハードルが高い行為です。 この難しい「読む」「書く」という作業を、勉強の時には、最初からやらせようとします。そこで行き詰って自身を失ってしまいます。 「読む」「書く」よりも、もっと簡単にできるのが「聞く」「話す」。だから勉強もまずは「聞く」「話す」を中心にしてはじめることが大事です。国語だったら、教科書を読み聞かせ、その内容に関して、親が質問し、子どもに口で答えさせます。文字は書かせません。「これはなんでだと思う?」とクイズ形式で聞けば、子どもは自分なりの答えを言えるもの。でも、「なぜだと思いますか? 理由を書きなさい」と言われると、とたんに応えられなくなってしまう。「読む」「書く」はハードルが高いので、「聞く」「話す」で徹底的にトレーニングしてから、「読む」「書く」にスライドしていく。その手順を大切にしてほしいと思います。 親が子どもの学力を不安に思っている場合、子ども自身も不安を抱え、自身を失っているものです。授業内容が分からず、学校生活で疲れています。だからこそ、家庭では「勉強しなさい」と言いつけるよりも、子どもの自己肯定感が高まるように、褒めることを優先してください。その上で、子どもがやる気になる学びの方法は必ずあるので、ここで紹介した方法などを試してみてください。 漢字の覚え方ステップ step1「漢字で書いてあることを読む」テストをする Q 次の漢字の読み仮名を書きましょう 操作 2.重宝 3.拝観料 4.類推 5.可否 6.立派 7.結論 8.特派員 9.警察 10.臨場感 step2 step1のテストを約90%読めるまで繰り返す step3 約90%を読めたら、「ひらがなを見て漢字を書く」テストをする Q次のひらがなの漢字を書きましょう そうさ 2.ちょうほう 3.はいかんりょう 4.るいすい 5.かひ 6.りっぱ 7.けつろん 8.とくはいん 9.けいさつ 10.りんじょうかん Step4 step3のテストを3回繰り返し、書けなかった漢字を3回書く Step5学校のテスト直前にstep4で書けなかった漢字を3回書く ※『AI時代を生きる子どもの才能を引き出す「対話力」』(ビジネス社)を参考に作成 【教育】聖教新聞2019.5.19
December 18, 2019
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一般社団法人教育デザインラボ代表理事 石田 勝紀さんに聞く 深い愛情が子どもを育てる ――石田さんは、定期的に親御さんを集めて子育てに関する勉強会を開かれています。 ホームページで1回当たり15人ほどのママさんを募集し、カフェで日ごろの悩みや課題などをざっくばらんに語り合う「ママカフェ」を毎月、開いています。年間1500人のママさんから直接相談を受けます。そこでは今の課題が見えてきます。ママさんは本当に大変です。パートなどで働く方も多く、育児、家事、仕事と、てんやわんや。なのに、いまだに学校の行事など、子育てに関することは多くがママさん任せです。 私は少しでもママさんに安心してもらいたく、自分の経験、意識をもとに、子どもとの具体的な関わり方のアドバイスをするようにしています。よりよい社会をつくるために大切なのは子どもを健やかに育てることです。その子供に一番影響力があるのはお母さんですから、お母さんを大切にすることが、何よりも社会をよくすることに通じると思っています。 ただ、本質的には「ママカフェ」に来るようなママさんは何ら問題はないと感じます。なぜなら、わが子に対する深い感情があるからです。愛情が深いから、将来を心配して関わり方に悩み、インターネットで調べ、相談にまで来ています。子どもの成長の源は、何よりも親の愛情ですから、たとえ、さまざまな問題を抱えていたとして、長い期間で見れば、まっとうに育っていくのです。 その上で、日常生活でのイライラやストレスは少しでも減らせた方が親にとっても子どもにとってもよいですから、そのためのアドバイスをしているわけです。 親子のタイプの違いを知る ――どのような相談が寄せられますか ママさんからの相談には、「子どもが集中しない」「言うことを聞かない」など、さまざまありますが、つまるところ「うちの子が勉強をしない」。その悩みに集約されています。どうすれば勉強をさせることができるか。皆さんここに頭を抱えている。 アドバイスをする際、前提とするのは、人間には大きく分けて2タイプがあると考えられる点です。マルチタスク型とシングルタスク型がいます。マルチタスク型とは幅広い興味・関心があり、一度にさまざまなことをこなそうとするタイプ。効率性を重視し、損得勘定で動きます。一方でシングルタスク型は、好き嫌いの感覚を重視し、興味・関心を持ったひとつのことに意識集中します。好きなことはとことんやるが、嫌いだとやりません。 親子が同じタイプですと、考えを理解しやすいので、関わり方は難しくはありません。問題はタイプが異なる場合です。特に悩みを抱えて「ママカフェ」に来られる方に多いのは、ママさんがマルチタスク型で、子どもがシングルタスク型というパターン。子どもの生活習慣のだらしなさや、苦手なことに挑戦しようとしない点などが目につきます。『早く宿題をやった方が後が楽だよ』などと促しても、好き嫌いを重視する子どもは損得では簡単には動きません。一方で、親がシングルタスク型で子どもがマルチタスク型の場合は、親が勉強しなさいと言わないのに、子どもが自ら進んで勉強する傾向にあります。 だから、問題が起きたときに、聞き分けがない子と思うのではなく、自分とはタイプが違うのだと認識することが大事なのです。 その上で、シングルタスク型の子には、興味を持っていることをまずやらせ、十分に心を満たして上げた上でやるべきことを教えていく方法が有効です。 自己肯定感を上げるため ――勉強を教える際に気をつけてほしい点は? 自己肯定感が高まるように教えてほしい、という点です。 教育の最大原則は、よいところをよくほめて伸ばすこと。叱った上でダメ出しまでしてはいけません。自己肯定感が下がってしまいます。自己肯定感とは、自分を肯定的に捉える力のこと。人が成長する上で最も大切な力です。 そもそも私が、勉強のやり方を教えるのは、学力を伸ばすためというよりも、自己肯定感を一番上げるのに最も近い方法だからです。多くの子は勉強で自己肯定感が低くなっているため、逆に学力を伸ばせば自己肯定感が上がり始めるのです。勉強以外で自己肯定感が伸びるものがあるならば、それを重視すればよいと思いますが、子どもは長い学校生活の中で、テストを受け、点数で評価され続けています。勉強ができる子はよいが、苦手な子はたまりません。毎回、低いテストの点数を見せられて、「自分を優れた人間だ」と肯定的に捉えることは難しいのです。テストでよい点数をとるためにどのような工夫が家庭でできるか。この点を理解し、関わってほしいと思います。次回、具体的な勉強の教え方について紹介します。 【教育】聖教新聞2019.5.12
December 10, 2019
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スクールカウンセラー 森田直樹さんに聞く 〝自身の水〟不足、防ぐには ――子どもの能力を伸ばすための家庭での関わり方を教えてください。 子どもが元気に活動するには、食事・睡眠・運動などの基本に加え、心の栄養が大切だと考えています。イメージしやすいように、〝自身の水〟を呼びましょう。 心の中にコップがあり、ここに〝自身の水〟が入っていると考えてみてください。子どもたちは日々、この水を使いながら学校生活を送ります。友たちと遊んだり、勉強したり、部活動したりする中で、少しずつ水を使い、同時に周囲の人に認められたり、親や保護者から愛情を受けたりする中で、水を補充しています。また、多様な体験を積むことで、コップを大きくします。 一方、いじめなどの通常とは異なる困難なことに直面したときには多くの水を使ってしまいます。コップが大きければゆとりがあっても、コップが小さいと水不足に陥ってしまう。すぐに水を補充できればよいのですが、十分に補充できないと、意欲の減退、判断力の低下などにつながり、次第に小さいことがあっても行動することができなくなってしまうのです。〝自身の水〟不足が続く子どもは順当な成長を妨げられ、さまざまな身体症状を出すようになります。逆に、〝自身の水〟をためていけば、一つ一つの身体症状が消えたり、軽くなったりすることがあるのです。 ――〝自身の水〟の補充方法を教えてください。 子どもが持っている善き(リソース=資源)に気付かせてあげることが、〝自身の水〟を注ぐことに通じます。日常生活では自身を失うことが多く、なかなか自分の良さに気付かないもの。だからこそ、一番の子どもの理解者である親や保護者が毎日、子どものよさを見つけ、伝えることが大切です。私はこれをシステム化し、コンプリメントトレーニングと呼び、不登校などで悩む親御さんの支援方法として行っています。この方法は、親の力で子どもの身体症状を軽減することができます。 「したこと・できたこと」を伝える ――良さに気付かせるポイントは? 「あなたには、○○の力があるね、」、②「○○。私はうれしい」と伝えることです。○○に入る子どもの「良さ」。①は承認。②は愛情を伝える言葉です。注意してほしいのは、○○に入るのは、「子どものしたこと・できたこと」の事実でなければならないことです。大人の期待や解釈、考えなどを伝えるのではありません。 たとえば、親御さんの中には、不登校の状態が長く続いている子どもに、なんとか早く登校させようと、「あなたには登校できる力があるのよ」と伝えることがあります。でも、これは事実と違うので、子どもは登校できる力があると認識が持てません。むしろ、実際に投稿できていない自分を卑下し自身を失うかもしれません。そうではなく、まずは「朝8時に起きる力があるね」「朝ご飯を全部食べる力があるね」など、子どもが実際にやった身近なことから伝えるのです。あせらずにじっくりと子どもの良さを伝え続ける中で、水がたまり、子ども自身が「僕(私)には、こんな力があるんだ」と気付き、意識が変化し、再投稿などの新たな行動に踏み出すことができるようになるでしょう。 ――子どもの変化をじっくり待つことが大切なのですね。 そうです。不登校に関していえば、登校できるのはすばらしいことですが、子どもが嫌がっているのに保護者が無理やり引っ張って学校に連れて行けばよい、というものではありません。自分の意思で行動し、少しでも「できた」という体験を重ねることが大事なのです。意志と力で投稿してこそ不登校の状態は変わるのです。その医師の力を育むのが親や保護者の関わりです。 家庭に安全地帯を築く ――愛情の伝え方は? 「あなたが今日も元気で私はうれしい」「洗濯物を畳んでくれて私はうれしい」などと、子どもの言動に対して、「私はうれしい」という本気の思いを込めて伝えます。 私のコンプリメントトレーニングでは、承認と愛情の言葉掛けを毎日三つ以上見つけて、伝えるよう促します。 〝自身の水〟は心の栄養であり、一歩踏み出すための燃料です。車でいえばガソリンです。過程が子どもの安全地帯になり、〝自身の水〟の〝ガソリンスタンド〟のようになることが理想なのです。外で使い切った水はその都度、過程に変えれば補充される。そのようになれば、どれほど子どの未来が開かれることでしょうか。 承認と愛情の言葉掛けが上手な人は、無意識に日頃から行っています。でも、中にはとても苦手な人もいます。また、子どもに心配な身体症状が出れば、自分の育て方に自信を失ってしまう方もいるでしょう。ただ、これは無理のないことです。親といっても皆、子育ての方法を誰からも教わることができなかったからです。ただ、改善する方法はあるのです。それが承認と愛情の言葉掛けです。子どもに自分の良さを気付かせ、〝自身の水〟でコップを満たすことで、子どもが順当な成長に戻り、困難なことも自分の力で乗り越えていけるようになるのです。 【教育】聖教新聞2019.5.5
December 3, 2019
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南米ボリビア サン・フランシスコ・ハビエル・デ・チュキサカ大学元総長 ワルテル・イシドロ・アリーサガ・セルバンテス氏 ■最古の歴史もつ独立運動の揺籃 ――サン・フランシスコ・ハビエル・デ・チュキサカ大学は、ボリビア最古の歴史をもつ学府です。 本学は1624年、現在の憲法上の首都であるスクレの地に創設されました。当時はスペインの統治下で、ボリビアの名を冠した国家もまだ存在しなかった頃です。 スクレの近くには、大量の銀が産出されるポトシという町があり、スクレには、このポトシの銀山の採掘にかかわる人々が多く住んでいました。 当時、大学で学ぼうとすれば1500㌔以上離れたペルーのリマに行かなければなりませんでした。人口が増えるにつれ、住民たちの間から〝スクレに大学を〟という声が高まったのです。 こうして大学が創立されました。まず神学部、時を経て法学部、さらに医学部が開設されました。現在は、15学部に発展しています。 19世紀に入り、社会にスペインの植民地支配から独立しようという機運が高まりました。その中心となったのが、わが大学です。1809年5月25日、独立を求めて本覚の学生や教授たちが民衆と共に立ち上がりました。これは歴史的に〝〟自由の叫びと呼ばれています。 以来、わが大学は、南米解放の英雄シモン・ボリバルに呼応し、独立運動の揺籃としての役割を果たしてきました。そして1825年8月6日、当時、大学の教室であった「自由の家」で、ボリビアの独立宣言が調印されたのです。 「自由の家」は、ボリビアの国会として機能した歴史もあります。大統領の就任式などが行われてきた重要な建物になっています。 独立後の国会には、本学の教授陣も参加し、国家の建設に尽力しました。常に民衆と共に、新しい理想を掲げ、新しい時代を切り開く――この精神は今も大学に受け継がれています。 ■「理想」と「現実」を結ぶ解決の道 ――池田先生を知った経緯を教えてください。 十数年前、ボリビアSGIのリーダーから〝教育に関するコラムをSGIの機関誌に書いてほしい〟という依頼があったのです。SGIについて、さらに指導者である池田先生について調べ、資料や書物を読み込みました。 そして驚きました。仏法思想の普遍性と先生の人間主義の哲学の深さ。先生は、確固たる哲学を期塾に、一人一人を励ます活動に取り組みつつ、世界的スケールの平和・文化・教育運動を展開しておられる。特に教育の重要性を強調していたことが、印象的でした。 本学の教授陣の中にも、先生の行動を知るメンバーがおりました。あらためて大学評議会が池田先生の事績を詳細に検討し、厳正な討議の末、名誉博士号の授与が決まりました。そして2004年5月、授与式を執り行うため、日本の創価大学に赴いたのです。 ――授与式では、元総長自ら池田先生に学位記を授与されました。 池田先生に初めてお会いしたとき、全身からエネルギーを感じました。さらにその人間的な温かさ。握手し、言葉を交わすなかで、〝やはり、この方で間違いなかった〟と確信しました。 授与式には、数千の卒業生たちが集まっていました。先生は、一人一人の心を大きく包み、まるで一対一で語り合うかのようにスピーチされていました。さらに、会場に入れなかった人々への配慮にも細やかで、心温まるものでした。 池田先生は語られました。「教育の勝利は卒業生で決まる」。まさにその通りです。先生から発せられる一言一言に、人間の可能性に対する限りない信頼を感じました。 ――池田先生の哲学や行動について、どんな点に注目していますか。 世界の現実は複雑であり、決して一筋縄にはいきません。核なき世界を作るには。異なる民族・宗教の人々をどう結ぶか。全ての人の尊厳を守るには――いずれも平和・文化・教育の全てにかかわる難問です。 その中で池田先生は、理想を高く掲げつつ、世界の実相を見つめ、全体のバランスを取りながら着地点を探しておられる。ここが重要です。 すなわち、現実から遊離するものでなく、現実に飲み込まれるわけでもない。先生は仏法者として、理想と現実を合致させるため、並々ならぬ努力を続けておられる。なかなかできることではありません。 先生の提言や書物を拝見すると、平和、教育、人権、生命、環境に及ぶまで、ありとあらゆる世界の課題を考察し、解決への宝と発信しておられる。その分野の多彩さ、学識の深さに圧倒されるばかりです。 私は今も、先生の著作に学び続けています。私は先生の哲学に賛同するものであり、先生の哲学を語り広げていきたいと考えています。先生と同時代を生きられることに、感謝しています。 ■道徳心を育むSGIに期待 ――現代は変化の激しい時代であり、人々の暮らしもまた、さまざまな変化を迫られています。 時代の流れの中で、変わるべきものと、変わってはいけないものをどう見極めるか――これは現代人に投げかけられた重い問いの一つでしょう。 近年、人間にとって重要な価値観が失われつつあると感じます。これは断じて守らなければならないものです。教育の意義もまた、人間が豊かな精神的価値を生む力を育み、永続的な平和を築くためにあります。 それは家庭から始まります。父親や母親をはじめとする周囲の大人たちが、自らの言葉と行動で、子どもたちに正しい価値観を示さなければなりません。学校における教育だけでは十分ではないからです。 それにもかかわらず、両親は別の方向を向いてしまい、子どもたちは持つべき価値観を見失ってしまっている。 ただ、私が頼もしく感じているのは、こうした価値観をよみがえらせようと、行動を起こす学生が表れているということです。 その具体的な一つが学生が主体的に取り組む本学の「あいさつ運動」です。あいさつは、人間社会の基盤です。あいさつによって、相手を尊重する気持ちが生まれます。あいさつをしないというのは〝人間とは見なしていない〟という意思表示にもなりかねない。 「生命軽視」や「人間の孤立化」は、世界に共通する現象ではないでしょうか。そうした問題に対し、青年と共に行動を起こす。この「青年」という点が、非常に重要です。青年こそ、未来そのものだからです。 その意味で、私はボリビアSGIに注目しています。先日も、SGIの皆さんと一緒に社会のあり方を考えるイベント行いました。テーマは、〝若者が失った価値観をどのように回復するか〟。 「希望」「信仰心」「将来への期待」などを巡って、さまざまに意見を交換してきました。 自身の生命と同じように、他者の生命を大切にする。これは人間として、よりよく生きることにほかなりません。この道徳心は、誰もが持つべき価値観の一つです。SGIは、人間的な価値観を復興させ、よりよきボリビア社会をつくる力になると期待しています。 【グローバリインタビュー「世界の識者の眼」】聖教新聞2019.4.20
November 8, 2019
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リベラルとは本来、「自由」を意味する言葉で、アーツとは「技術」のこと。すなわちリベラルアーツとは、意訳すると「人間を自由にする学問」なのです。 その起源は、古代ギリシャにまでさかのぼります。 当時の社会には奴隷制度があり、奴隷と非奴隷を分けるものとして、学問の重要性がさけばれていました。かなり大雑把に言えば、学のない人間は奴隷として使われても仕方ない、ということです。 奴隷というと21世紀の日本で生活しているこの本の読者にはあまり関係のない話のように思えますが、決してそんなことはありません。 私は、いまだからこそ、リベラルアーツが必要だと強く感じています。 それも、未来の日本を支えていく10代~20代にこそ必要なんです。 【武器としての判断思考】瀧本哲史著/星海社
November 3, 2019
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法政大学 渡辺弥生教授に聞く ひとのことをかんがえられる、思いやりのある子に育てたいものです。では、思いやりの心は、家庭での、どのような関わりで育まれるものなのでしょうか。発達心理に詳しい法政大学文学部の渡辺弥生教授に聞きました。 ■土台は赤ちゃんの頃から ――思いやりのある子供に育てるために何を心掛けたらよいでしょうか。 土台は、赤ちゃんの頃からの関わりにあります。赤ちゃんは大きな声で泣き、親はなく理由が分からなくても、なんとかして声をかけながら、おむつを変えたり、ミルクを上げたりして、赤ちゃんの求めに応えようとします。この求めに応じる「応答」の関わりがとても大事です。「どうしたの?」「おなかが空(す)いたの?」と聞いたり、赤ちゃんの目を見て体に触れたりすることで、赤ちゃんは安心します。応答してくれる人との間に信頼関係が芽生え、その信頼を基盤に心を育んでいくのです。 子どもが大きくなっても、普段の生活上のサポートや会話などで、「求めに応じること」を心掛けることが大切です。応じるといっても何でもしてあげることではありません。求めに関心を向けてやるということです。 また関心を向けることは、先回りすることとも違います。大人はよかれと思い、先回りして、例えば、子どもが求めていないのに手の込んだ〝キャラ弁〟を作ったり、休日の遊びに行く場所を勝手に決めたりしてしまうことがあります。 ――なぜ〝先回り〟に気をつけた方がよいのでしょうか。 先回りの努力をする裏には子どもに対する強い期待があるからです。「お母さん、おいしかったよ」「お父さん、連れてきてくれてありがとう」といった態度を取ることを暗に求めてしまいがち。子どもが期待に沿わない態度を取れば関係は険悪になります。 本当の子どもの願いは、自分の求めていることに関心を持ってもらい、対応してもらうことです。求めに耳を傾けてくれると、自分の存在を受け入れられていると感じます。感情で心が満たされるのです。 ■関心を向けると伸びる ――子どもの趣味・関心によく注目して関わることが大切なのですね。 そうです。普段の会話でいえば、例えば、子どもと散歩中、「パパ、ワンワンだよ」と言ってきた時に、無視しないで「そうだね、かわいいね」などと話題に応じてあげることが大切です。コミュニケーションは、誰かが話題にしたモノやコトを共有することを指します。互いに心を向け合うキャチボールの繰り返しと通して、自分が大切にされている実感を持ちます。聞いてくれる人、分かってくれる人がいることはとてもうれしく、安心を得るのです。 応答の関わりは、子どもが大きくなっても、大人になってからも大事なことです。大人社会でも、何か人に要求したのに、話をそらされたり、無視されたりしたら、ショックを受けるでしょう。 きちんと親に応答してもろい、関心を持ってもらった子どもは、自分を大切にしてもらえた分、人に対しても思いやりの心が芽生えるものです。充分に気持ちを満たされていないことが、人を苦しめたり、危害を与えたりすることにつながりやすいのです。 ■効果的に身につける5つのポイント また、具体的に「思いやりのある行動とは何か」を教えることも必要だと感じます。人は本能として、思いやりのある行動を知っているわけではありません。周囲から繰り返し教わる中で、徐々に身につけていくものです。家庭で効果的に教えるためには次の五つのポイントを意識してください。全てを完璧にする必要がありませんが、いくつかを取り入れて家庭で関わることで、思いやりのある行動を身につけていくでしょう。 インストラクション(説明) 「思いやりのある心を持ちなさい!」と伝えても、どのような行動が思いやりのある行動なのか、初めは分からないもの。だから例えば、友達が転んだら、「大丈夫?」と声を掛けようね、などと具体的に思いやりのある行動について子どもが分かる言葉で伝えることが必要です。 モデリング(観察学習) 人間はみて学ぶ能力が高く、見たことをまねすることができます。周囲の人やテレビ番組などで、思いやりのある行動をする場面があったら、すかさず、「泣いている友達に『どうしたの?』と聞いているね。思いやりのある人だね」などと伝えてください。実際の生活の中でまねするようになるでしょう。 リハーサル(ロールプレイングなど)ごっこ遊びのようなものをして、思いやりのある行動を実際にやってみましょう。例えば、道に迷って困っているおばあちゃんの役をお母さんがして、子どもに「どうしたんですか?」などと声を掛ける練習をしてみるなど。遊びの中でやっていくと、普段の生活でも行動できるようになります。 フィードバック(アドバイスをもらう) 行動を見てあげて、間違えて覚えている部分を訂正してあげることも必要です。その際、ダメ出しではなくて、「声を大きく言えたからたからよかったね」と、良い点を具体的に褒めた上で、直した方がよい部分を指摘することが効果的です。 チャレンジ(他の場面への行動の一般化) 普段接している親に対しては実践できても、違う場面では実践できない場合もあります。例えば、祖父母の前でおなじようなこうどうが取れるのかをチャレンジさせてみましょう。より行動が定着できやすくなります。 【教育】聖教新聞2019.4.14
November 2, 2019
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■「頑張っているね」と寄り添う 先週は、体罰や暴言といったマルトリートメント(不適切な養育)が子どもの脳を変化させ、さまざまな問題を引き起こすことをお伝えしました。 大切なわが子なのに、過度なマルトリートメントをしてしまう親。実は、こうした親は自分自身もマルトリートメントを受けて育てられた方が少なくありません。負の連鎖を止め、子どもを幸せにするためにどうしたらよいでしょうか。 私は、周囲の人が、子どもだけでなく親自身をもっと〝褒めて育てる〟という意識を高めることが大事だと考えます。中には欠点がある親もいるかもしれません。ただ、否定するのではなく、そういった親の頑張りを心からねぎらうのです。「頑張っているね」という周囲の言葉がけが、どれほど親の心を軽くさせるでしょうか。親を否定して責める対応ではなく、寄り添う対応です。親の〝褒め育て〟が子どもを幸せにするのです。 ここでは、マルトリートメントを防止する親の適切な関わり方を中心に、いくつか紹介します。 ■3つのコミュニケーション 繰り返す行動を言葉にする具体的に褒める 繰り返す ②行動を言葉にする ③具体的に褒める、を意識した、子どもへの関わり を大切にしましょう。 「繰り返す」とは、子どもが何か話し掛けてきたら、その言葉を繰り返すこと。例えば、子どもが「ねえ、空がきれい」と言ってきたら、「そうだね、空がきれいね」と繰り返す。子どもは、親が自分話を聞いて、理解を示してくれたと感じ、自己肯定感が育まれます。 「行動を言葉にする」とは、「絵本を棚に戻した」というような好ましい行動をした時に、「お片付けしたのね」と言葉にして伝えることです。こうした言葉掛けは、子どもの行動に興味・関心を持っていると伝えることになります。子どもは興味・関心を持たれることで愛情を感じるのです。 「具体的に褒める」は、「○○ができて、えらいね!」と好ましい行為や姿を伝えることです。 冒頭にも親の褒め育ての話をしましたが、褒めることの力は非常に大きいのです。私の診療に訪れた子どもの中にも、母親をはじめ、周囲の人たちから「褒められる」ことで目に見えて大きな回復を見せたケースは少なくありません。ある研究者は、褒められることは、食べ物やお金と同じように脳内で「報酬(ご褒美)」として処理をされていると発表しています。 問題行動を否定するよりも、少しでも良いことを見つけ、褒めること。褒めることは脳の活性化、回復につながります。「子どもは褒めて伸ばす」は脳科学の視点からも本当なのです。 もちろん、子どもの性格によっても褒め方には工夫が必要です。お勧めなのは、親同士が子どもの前で、「きょう、○○君(ちゃん)、○○ができるようになったよ。すごいね」「学校の先生から褒められたよ」などと、良いところを話し合うこと。自分の良い点を「伝え聞くこと」は、とても効果が高いことが分かっています。 ■「ダメな」理由は短く伝える 言葉だけで記を付けたいのは、「~はやめて」「~はダメ」といった否定や禁止。子どもからすると、何がダメなのかよくわからない場合が多く、親のイライラだけが伝わってくるケースが少なくはありません。これだと子どもは自分が否定されたように感じます。伝え方には工夫が必要。否定や禁止を伝える時は、「~だからやめてね」と短い言葉で理由を付けることを意識しましょう。 ■怒りをコントロールする工夫を 日常生活では、ストレスがたまって感情的になってしまうことはよくあるもの。ストレスがたまって感情的に怒鳴ってしまうことはよくあるもの。ストレスがたまれば、誰でも他社への共感能力が落ちます。ストレスがたまらないように周囲の助けを借りることがとても大事です。子育ては一人で行うものではなく、助け合いながらするものですから。 また、感情的に子どもに当たらないようにするためには、アンガーマネジメント(怒りをコントロールする方法)を学ぶとよいと思います。さまざまな著作で紹介されていると思いますが、怒りはある一定の限度を超えると自分でもコントロールが難しくなります。怒りが沸点に達して爆発しそうだと思ったら、気持ちをクールダウンさせるために、「数を数える」「意識していったん深呼吸をする」「今いる場所からとりあえず距離を置いて一人になってみる」などを心掛けることも大切です。 ■言いすぎたらスキンシップ もしも厳しく怒鳴りすぎたり、言いすぎたりしてしまったら、「スキンシップ」をしましょう。手をつないだり、抱っこしたりすることで、子どもはぬくもりに包まれて気持ちが和らぎ、安心感を得られます。しかも、スキンシップの恩恵を受けるのは子どもだけではありません。大人もスキンシップをする事で脳が活性化し、「オキシトシン」というホルモンが分泌され、穏やかな気持ちになることができます。オキシトシンは、恐怖を抑え、穏やかで愛情に満ちた気持ちにさせる機能があるのです。 子どもに言い過ぎてしまった時こそ、スキンシップを心掛けてください。 【教育Education】聖教新聞2019.2.10
August 29, 2019
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福井大学こどものこころの発達研究センター教授 友田明美さんに聞く ■親との愛着が発達の基盤に 子どもが健康に育つためには、養育者との愛着が重要です。 愛着とは子どもと特定の人物(親などの養育者)との間に形成される強い結びつきのこと。子どもに行動に対して、①目と目を見つめ合う②手と手で触れ合う③ほほ笑む、といった愛情を持った関わりで応えることで形成されます。 安定した愛着が形成されると、親は子どもにとって安全地帯となります。子どもはその安全地帯となります。子どもはその安全地帯を足掛かりにして、興味や好奇心に導かれて外の世界へと冒険することができるのです。さまざまな経験を積むことで脳は発達し、認知力や豊かな感情を育みます。 しかし、脳が最も発育する幼少時代に、不適切な関わりで愛着が形成されない場合、特に精神面において、問題を抱えてしまうことがあります。具体的には心の病へと推移したり、幼少期に問題がないようでも成人してから、健全な人間関係が結べない、達成感の喜びが低い、何に対しても意欲が湧かないなどのさまざまな問題が現れたりします。 ■子どもの前で夫婦喧嘩はやめよう 子どもへの不適切な関わりのことを、「マルトリートメント」と呼びます。 「暴力」「言葉による脅し」「罵倒」「放置」「無視」「自由な行動の束縛」といった子どもが傷つく全ての行為を指します。こうしたことは、「虐待」ともいわれますが。私は「虐待」よりも「マルトリートメント」の言葉の方がより広く知られてほしいと考えています。なぜなら虐待という言葉は強烈で、センセーショナルな事件性のあるものがイメージされ、一般の人にとっては、「自分には関係のないこと」と捉えられてしまいがちだからです。 しかし、日常の「しつけ」といわれる種類の関わりによっても、マルトリートメントは起きている場合があります。「あなたはダメな子ね」「産まなければよかった」といった存在そのものを否定する言葉や、「お兄ちゃんはできるのにあなたはなぜできないの?」といった、きょうだいや友達と比較する言葉、また話しかけられても無視したり、子どもの意思を尊重せず行動を一方的にコントロールしたりすることもマルトリートメントに当たります。 直接の暴力、暴言がなくても、例えば、激しい夫婦げんか(DV〈ドメスッティックバイオレンス〉)を見せることもよくありません。驚くことに、DV目撃の中でも、暴言を吐かれるといった心理的暴力の目撃の方が身体的暴力の目撃に比べて6倍も子どもに悪影響をがあることが分かりました。 ■気付いた時から「変われる」 不適切な関わりをやめ、愛情ある関わり方をすることが、子どもの健全な発達を促します。 ただ、実際は、マルトリートメントを全くしたことがないという家庭など、存在しないでしょう。子育てに関しては、すべての人が最初は初心者だからです。完璧にできる人なんていません。皆さん、試行錯誤の中で懸命に子どもと関わっています。 それなのに子育てで問題が起きると、誰がいけなかったかと責められる。それが親を苦しめます。誰かを責めても意味がないのです。親は精一杯できる関わり方をしてきただけなのです。 悪者探しをするのではなく、「気付く」ことが大切。早く気付いて、マルトリートメントをやめ、適切な関わりを心掛けること。実際、脳には可塑性といって回復する力があります。たとえ傷ついた心でも、適切なケアにより、癒されていきます。気付くのは早ければ早いほどよいですが、子どもの年齢が何歳であっても、やり直しはできます。次回は、適切な関わり方の具体例についてお話します。 ともだ・あけみ 小児神経科医。医学博士。福井大学こどもこころの発達研究センター教授。熊本大学大学院小児発達学分野准教授を経て2011年6月から現職。著作に『新版 いやされない傷――児童虐待と傷ついていく脳』『子どもの脳を傷つける親たち』など多数。 子どもの脳が変形 不適切な関わりが影響 脳画像の研究で、子ども時代のマルトリートメント(不適切な養育)によるつらい体験によって、脳が変形してしまうことが分かってきました。 厳しい体罰では、前頭前野(感情や思考をコントロールし、行動抑制に関わる極めて重要な脳部位)の一部の容積が平均19.1%減少。言葉の暴力では聴覚野(言語に関わる領域で、他人の言葉を理解し、会話するなど、コミュニケーションの鍵を握る脳部位)の一部の容積は平均14.1%増加。また、DVの目撃では、視覚野(視覚に関わる脳の部位)の容積が減少していました。 【教育education】聖教新聞2019.2.3
August 28, 2019
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昔から何度も繰り返し言われた母の言葉。幼い時は意味が分からなくても、大人になってから思いだし、人生を支える言葉になることはよくあります。東京大学名誉教授の姜尚中さんに、今、自身の支えとなっている母の言葉について聞きました。 ■古い教えではない ――新著『母の教え 10年後の「悩む力」』の中で、古希を前にしたからこそ思い出す母の教えがあることを書かれています。 私の母は、16歳の時に日本に渡ってきました。充分に学習する機会を奪われた時代の中で生きたので、文字も満足に書くことはできませんでした。母は感情の寄付kが激しく、穏やかな時はこんなに優しい人はいないと思うほどですが、機嫌が悪い時は前進を使って負の感情を吐き出すような人でした。楽天家とも、矛盾に満ちた人であったともいえます。 一方、父は落ち着いた性格で母とは対照的。中高年齢時の私は父によく似ていたと思います。 今、古希を前にして、母の教えが次々とよみがえって来ました。母の教えというのは、ある時代の古い、その時代にしか通じない処世訓のように思いがちですが、自分が徐々に母の世代に近づくと、教えてくれたこと一つ一つがリアリティーを持って感じられます。これは若い時にはどうしても分からないことなのでしょう。 ――特にどのような言葉が心に残っていますか。 拙著の中で紹介しましたが、母は、〝世の中には2通りの人間がいる。情のある人間とない人間だ〟という趣旨のことをくり返し言っていました。 「ほんなこつ、世の中にはひどか人がおるけんね。油断ならんばい。ばってん、ほんなこつ、よか人もおっとたい。そんな人たちにどがん助けられたことか。その恩は決して忘れんけんね」 これは母が戦争を経験し、食べる者にも苦労するぎりぎりの生活の中で、常をもらわなければ生きることができなかったという切実な体験が背景にあるのだと思います。人は一人では生きていけない。必ず誰かを支え、支えられて生きていく。そのことが骨身にしみていたのです。 ――大変な時代に生きぬく中で、常の大切さを痛感されていたのですね。 今になって、その言葉の意味がよく分かります。例えば、思想的には到底理解できないような極右の人がいます。でも話してみると、常がある人がいる。一方で、左翼的な人で普段から口を出す人なのに、話してみると意外と情が薄かったりするのです。情がある人とは主張が異なっても、人間として通じ合う部分もあります。 母が言いたかった情は、言い換えれば〝共感〟のことでしょう。相手の苦しみや喜びを共に感じ合う力です。人間の好き嫌いが激しかった母ですが、お金があるかないか、知識があるかないかよりも、情があるかないかを、人間を見る最後のよりどころにしていました。この視点は、私の人生の立ち振る舞いや今の考え方にも強い影響を与えていると感じます。 今の社会は情のない世界が広がっています。物を買うにしても昔は市場での取引が中心でした。そこでは、うる相手の顔が見え他者への共感があるから、変なものを売りつけたりしません。 しかし、今はインターネットでの電子取引が普及し、売買の当事者が触れ合う機会は減っています。今後もますますAI(人工知能)が広がり、この傾向は加速するでしょう。AIは人間の行動データを膨大に記録して、自らの判断材料にします。この世界では、データをどれだけ持っているかが大事。人間の人格、感受性といったデータ化できない部分は、なおざりにされやすいのです。 ■食でつなぐ絆の力 ――情、共感といった部分が無視されやすいと? 情をなおざりにするというのは、人間の身体性を無視するということでしょう。 人間は古来、身体で感じたことを元に物を考え、判断してきました。身体性を無視して物事を考えれば、それは客観的になり、暴力的になってしまう。若者が生きている実感がわかないとか時に猟奇的な事件が起きるのは、身体性が軽んじられてきた影響ではないでしょうか。 身体で感じたことを大切にし、他者の感情にも共感するという営み。こうしたことから離れて生きれば、けっきょくは、人間そのものが壊れてしまうと思うのです。 今、「人が人である」ことのよりどころが問われています。その点を考えた時に、情に重さを置くことはとても重要なのです。 ――情がある人間を育むために大切なことは? 母は、人間は皆、「歩く食堂だよ」とも教えてくれました。たとえ地位が高い人間でも、物を食べ、排せつすることをしないと生きていけない。「食」の前では皆が平等だという意味です。食は人間の基本的な身体の営みで、家庭や仲間同士で食事を共にしたり、「おいしいね」などと語り合ったりする中で、共感が育まれ、絆が強まります。食を大切にすることが、身体性を大切にし、情のある人間を育むことにつながる者といえるのではないでしょうか。 プロフィル カン・サンジュン 1950年生まれ。政治学者。熊本県立劇場館館長兼理事長、東京大学名誉教授。著書に『悩む力』『続・悩む力』のほか『母―オモニ―』などがある。 【教育】聖教新聞2018.11.11
May 2, 2019
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田村耕太郎(シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院兼任教授) 私が世界最高の非戦の書だと思うのは『孫子の兵法』だ。現代の日本人が最も読むべき古典だと思う。そのなかに「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するのは善の善なるものなり」という有名な一節がある。敵と戦わずに屈服させることが、最高の戦い方というのだ。 そもそも人や会社、組織はなぜ戦うのか。戦うこと自体は目的ではない。たくさんの犠牲者を出して勝っても意味はない。戦わずに目的を達成することができるなら、それがいちばんである。しかし、きちんとした目的観をもっているリーダーは意外と少ない。だからやらなくてもいい戦いをし、無駄にメンバーを疲弊させる。個人においても同じである。何か目的を達成するには、無闇に敵と戦ってはいけない。むしろ自分の目的を達成するために上手に利用するのだ。 「アホ」とは、あなたの行動や発言に何かいちゃもんをつけ、足を引っ張る人のことだ。こういう人はどこの世界にもいる。まともにやり合ってはいけない。仕返しをしようと思ってもいけない。かえって悪循環に陥るだけだからだ。 少し前にドラマで使われた「倍返し」という言葉がはやったが、あれはテレビの世界だけの話である。現実社会で、仕返しや復習が価値を生み出すことはない。かつてアホと戦い、貴重な時間とエネルギーを無駄にしてしまった私の経験からも、それは間違いない。 まず対人関係において大事なことは、「敵」という発想をもたないことである。敵をつくっていいことなど何一つない。とくに変化の激しい今の時代、敵だと思っていた人間が突然、自分にとって有益な人間なることもある。どんな人とも柔軟につきあっておいたほうがいい。 敵や苦手だと思う人はたいていの場合、自分の経験不足からくる先入観で、そう見えているにすぎないことが多い。深く付き合ってみれば、素晴らしい人物だったということはよくあることだ。人生経験を積めば人間の好みは変わるし、人への理解も深まることを忘れてはならない。 ただこちらが敵をつくらないようにしていても、相手から一方的に攻撃されることもある。理不尽な仕打ちに対して、感情的に反撃してしまうこともあるだろう。しかし、こちらも怒りにまかせた短絡的な行動をとってしまっては、アホの思うツボである。理不尽な行動に対しては、反射的に行動してはいけない。まずは「なぜこの人は自分を怒らせるような行為をするのか」と、理由がわかれば対策も見えてくる。 【「自分の人生」を生きよう】潮2018年9月号
February 19, 2019
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立命館大学客員教授 団 士郎さんに聞く 不登校の児童生徒数は、全国で13万人に及ぶとされています。学校に行かない子どもの将来を案じる親の悩みは深刻です。わが子の不登校にどう関わるか。立命館大学客員教授・団士郎さんに聞きました。 ■「悪者探し」より大切なこと ———子どもが「学校に行きたくない」といい始めると、とても不安になります。 子どものことで深刻な悩みを抱えることは多いですが、なかでも不登校、引きこもりは、先が見えない分、混迷が深まりがちです。 私が心掛けてきた支援は、子ども本人だけでなく、家族に何ができるのかを一緒に具体的に考えること。どのような子どもの問題でも、家族にできることは必ずあります。そしてその力は、専門家の治療よりもはるかに大きいとさえ感じます。専門家は一時的に症状を軽くすることができても、子どもを長期的に支援することは、なかなかできないからです。 育ちをずっと支えてきた家族だからこそ、子どもが自分らしく、健康的に生きるための力強い支援ができます。まず家族にできることを手あたり次第考える、そこが解決の糸口になると感じます。 ————「自分の子育てがよくなかったのでは」と思い詰める方もいます。 人は問題が起きるとすぐに「悪者探し」をしてしまいがちですが、それでは堂々巡り。解決につながりません。何がよくないのかを考えるのではなく、何か一つ異なる方法を試してみることです。そして現状を変化させることです。 「今より少しでも『よい状態』になるために何ができるのか」を考え、思いつくことを並べ、「すでにやってみたこと」と「まだやっていないこと」とに分けるのです。長い間、同じ悩みを抱えている方に共通しているのは、うまくいかなかった方法なのに、なぜかその方法にこだわり、何度も同じことを繰り返してしまうことです。 やってみても状況がよくならないことは、いったんやめてみる。一方で「まだやっていないこと」はよくなる可能性があるので、実際に行動に移してみるのです。 よくなるための行動を起こすと、家族に「変化」が生まれます。その変化は子どもによい刺激を与えます。 ■今いる場所から少し離れる ————どのような変化が必要なのか、知恵を使っていきたいものです。 ある程度回復が進む不登校の子どもには、さらに変化を起こすために、今いる場所から少し離れる旅を勧めたこともあります。 わたしの働いてい相談機関では琵琶湖1周サイクリング旅を繰り返し実施しました。旅での新しい体験は、これしかないと思い込んでいた価値観とは異なる視点があることを知るきっかけになります。抱えている自分の問題も違った視点で捉えられるようになることもあります。 思春期の子どもとコミュニケーションが少なく、「何を考えているのか分からない」と悩まれていた父親には、一緒に仕事を体験してみることを勧めました。家で「会話をしましょう」といってできるものではありません。しかし、普段の生活環境を少し変化させることで、会話が生まれることはよくあるのです。 娘の不登校に悩んで相談に来られた女性の話を聞くと、夫が単身赴任で7年も帰ってこない状況だと。私は、子どもに問題が起きているのに、遠方からの見守りで子どもを変えられると支えられると考えるのは、状況を甘く身過ぎではと率直に思いました。 その後、家族ができることを考え、その中で夫は単身赴任をやめ、一緒に暮らす決断をしたのです。まさに一大決心でしたが、幸い会社の理解を得ることもできました。子どもからすると、たまに帰って来るお父さんと、毎日帰って来るお父さんでは異なります。変化が生まれる。しばらくして不登校の問題は解決しました。 もちろんこれは、一例で、単身赴任が悪いわけではありません。単身赴任だから不登校になるわけでもありません。家族の状況により、今よりよい状況になるきっかけはさまざまです。 よく話し合い、必要だと思う変化を起こしてみることが、問題の解決につながるのです。 ■勉強はどこでもできる ————不登校が長引いている場合、どのように関わればよいでしょうか。 そもそも不登校という問題自体、学校制度があるから発生する悩み。学校に行かないことは本当に問題なのでしょうか。学校に行けば、全てがうまくいくと思いがちですが、行くことでいじめを受けたり、仲間外れにさらされたりして自信を失う場合もあります。そうした苦しみの毎日より、家にいる方がましではないかとも思うのです。ただ、これと学習しないのはイコールではありません。 実際、学校に行かなくても家や別の場所で学び、大学に進学した人、立派な社会人として活躍している人はたくさんいます。 不登校が13万人もいるのであればもはや特定の人の問題というよりも、それほど多様な子どもたちがいるのだと捉えるのも大切なのでないでしょうか。 【教育】聖教新聞2018.5.13
October 6, 2018
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インタビュー社会活動家 法政大学教授 湯浅 誠さん現代社会を見つめると、至る所に「格差」が広がっているのを感じる。経済格差、教育格差、つながりの格差、さらには、よりよく生きようとする意欲の格差などが入り交じって、人が容易に孤立しかねない状況にある。また世界に目を向けると、人と情報が素早く移動するグローバル化が進展する一方で、文化や思想の違いによる対立や分断の傾向が強まっているともいえる。今ほど、人類が共に生きていく「共生」の思想・哲学が求められている時代はないのではないだろうか。湯浅誠さんは、リーマン・ショック後の2008年末の「年越し派遣村」など、一貫してホームレスの人や生活困窮者を支援してきた社会活動家であり、また貧困問題や共生社会等の研究者、時には内閣府参与としても社会問題の開発に携わってきた人である。本年の「グローバルウォッチ」を「共生の未来へ」とのテーマで開始するに当たり、今、私たちに求められている「共生」の在り方について、湯浅さんに聞いた。人と人が支え合える空間私は20代の頃からホームレスの方の支援に携わる中で多くのことを学びました。当初はボランティアで食事を作って提供してきましたが、それだとなかなかうまくいかない。続けるのも大変になる。そこである時から食材と器材だけを持ち込んで、後はホームレスの人たちに頼んでみた。すると元料理人の方もいるわけで、学生ボランティアに「包丁の使い方も分からないのか。しょうがねえなあ」と笑いながら、張り切ってやってくれたりした。私自身、元内装職人から技術を学んで、内装業で稼いでいた時期もありました。私は現代社会は穴の開いた「たらい」だと思っていて、ポタポタと水は落ちるけど、上から見ても穴のありかは分からない。でも生活困窮者と同じ目線で見ると社会の穴に気付かせてもらえる。その穴をふさぐことで自分自身もこぼれ落ちにくい地域づくりができる。同じように、バリアフリーの社会にするために「どこの段差からなくしたらよいか」と考えたら、障がいがあって車いすを使用している人に聞くのが一番いいわけです。コミュニティーというものは「100パーセントの支え手も、支えられ手もいない空間」であって、人と人が支え合える関係の中でこそ共生は生まれると思います。困窮者支援というと、弱者救済という側面ばかりがクローズアップされがちである。しかし現実生活の中で、支援を「する側」と「される側」が固定化していくと互いに息苦しくなり、「共生」のイメージとかけ離れた状況になってしまうことがある。“相手が支えられないといけない人だから支える”というのは、よい支援とはいいにくいと思います。なぜなら「あなたは無力だ」というメッセージを伝えてしまい、相手をエンパワーメント(内発的な力の開花)することにはならない。そこで自然と相手に、自分の力が求められていると感じてもらえる支えが大事になります。実際、ボランティアで、生活困窮者を支援続ける人たちは口をそろえて言います。誰かのためにやると思っていたけど「結局、自分が生かされ、助けられている」「自分の居場所になっている」と。そういった関わりは、確かに気付きの連続であって、学び合うという意識もないぐらいに学んでいるような感覚です。人を支援するというのは、自分の当たり前を相対化することであり、自分を問い直すことです。現場では、自分が当たり前としない人たちと出会う。お互いの当たり前が違う状況で、どうしたら自分と相手が共生していけるのかを考えるのが支援であって、その中でたくさんの気付きを得て、かえって自分自身を多角的に見られるようになっていけるものなんです。しかし現代社会は余裕がなくなっていて、何でも白黒はっきりつけようとする傾向の中で「支え手」と「支えられ手」を区別してしまいがちです。物事を多面的に見る力が失われていく中で格差が広がり、人々の孤立・分断の状況が深まってきていると感じます。湯浅さんの昨年の著作『「なんとかする」子どもの貧困』の中では、外からは見えにくい相対的貧困と、どう向き合ったらよいかが重要なテーマになっている。※相対的貧困率とは、社会におけるあらゆる世帯の所得の中央値の半分(貧困線)を下回っている世帯の人数の割合であり、日本はおよそ6人に1人で、先進国の中でも格差が大きい社会といえる。日本では、かつてのように、今すぐ生命に関わる絶対的貧困や、誰が見ても明らかな貧困というのは、少なくなっているようですが、その代わりに見た目では分かりにくい相対的貧困が増大し、抜け出せなくなっている。例えるなら、絶対的な貧困は黄信号。赤色は放っておけば、何かのきっかけですぐに赤になってしまうわけです。昨年の著書の中でも、困難な親子関係の中で生きてきた若者が「自分はそもそも『努力する』エンジンが備わっていない」と語る言葉を紹介しています。私は今の貧困というのは、お金がないという貧しさだけでなく、自分を受け入れてくれる人とのつながりがない、だから自信が生まれないという「三つのない」を抱えた状態だと考えています。つまり、よりよく生きようとする「意欲の貧困」や「諦め」が広がっている。人間は生物学的に幼少期に愛着形成が行われるとされますが、人は人に支えられた経験によって頑張ろうという気持ちが育まれる。そういった経験が足りてない人にとっては、多様なつながりの中での支えを経験できる場が必要になってくる。私はそれが「溜め池」の溜めで、日照り続きでも、水が枯渇して稲が枯ないように、地域の皆の共同作業でつくる場です。近年、各地に広がる「子ども食堂」も、見えにくい貧困と向き合う溜めの場です。また秋田県の藤里町では、プラチナバンクとよばれる人材登録制度があって、お裁縫の得意な高齢者が“週一回100円で教えます”とか自己申告で登録できる。人が社会とつながって何かの役に立てるように、溜めの機能をつくっている好例といえます。そうした溜めの場からいろんな人が養分を得て、支え合うつながりをつくることが大切です。その上でもう一つ重要なのは、相対的貧困は、OECD(経済協力開発機構)という各国の経済成長を促進するための国際機関が定めている指標だということです。つまり世界では、社会の活力やイノベーション(新しい発展)を生み出すために「ある程度の格差」は必要だとする一方で、「行き過ぎた格差」が生まれると、諦めや治安の悪化が広がり、社会の発展の足を引っ張るというのが共通理解になっている。その行き過ぎた格差に入るラインとして、相対的貧困という基準を定め、日本も受け入れているのです。今や、黄信号の子どもたちが赤信号になったら支援するという時代ではなく、黄色から赤にならないように、予防的な対応をすることが重要になってきています。それが今の子どもや若者のためになり、将来的な「支え手」を育てていくことにもなって、社会全体の発展にもつながるという発想を広げていくことが大切だと考えています。私たちが暮らす足元から「共生の未来」をつくっていくためには何が必要か。またどのような人材が求められているのだろうか。現代は「正解のない問い」を皆で考え、100パーセントでなくても、できるだけ納得できる答えを探していくような時代です。そこで大事なのは、なるべく多くの人たちの理解を得ることです。地域の中には「昔はもっと大変だった」「若い人たちはもっと努力しなくちゃ」という声もあるかも知れません。そういった自己責任論では社会の貧困や課題は解決しにくいのは確かです。でも、そういう人たちを真っ向から否定して対立したら、地域に「溜め」をつくる道は開けないならば、「大変な苦労があったんですよね」と共感を示し、多様な考えを受け入れながら、「最近はこんな考えもあるんです」と語っていく中で、新たな共感が生まれていくのではないかと思います。最近、強調される「グローバル人材」は、何もニューヨークで多言語を操って取引をする人だけでなく、言葉も通じないアフリカの村で現地の人たちと何かを一緒にできる人も含まれると思います。文化も風習も伝統も違う人たちから作法を学び、目線を合わせて物事を共に進めていく。相手との関係をデザインしていける人です。実はそれは、同じ日本語を話す人同士でも同じだと思う。今まで生きてきた環境や経験も全く異なる人たちの中で、自分の当たり前を相対化しながら、相手との目線を合わせた関係を築いていける人はグローバル人材であり、いま求められる広い意味での「ケアができる人材」でもあると思います。かといってそれは、何か特別な能力をもった人材ではありません。例えば、家族旅行でどこに行くかを決める時にバラバラな意見をまとめていくように、私たちが普段からやっていることの延長線上に、地域や社会の課題を解決していく道があると考えています。創価学会が各地で取り組む励まし合いの運動も、多様な人々の目線を合わせた対話にポイントがあるといえる。共生社会を実現する上での宗教の役割とは何か。支援する側・される側という垂直的な関係から、支え合うという水平的な関係に転換するためには、「本来、誰にもよりよく生きる力が備わっている」という証明しにくいことを、信じて向き合えるかどうかが、重要だと感じます。実際の支援の現場で相談を受けると、中にはすべて解決してもらおうとすがってくる人もいますが、それは長期的に見れば、やれることでも、やっていいことでもありません。ただ、さまざまな支えを得ながら自ら解決することの大切さを伝えても、突き放されたと受け止められてしまうことがある。とても難しい状況があります。そこで例えば、お題目を唱えるという誰にでもできる行為の中で、自分の中で生きる力を感じることができたとしたら、それはすごいことだと思う。ある意味で宗教は、当事者が自らエンパワーメントできるように編み出された解決策なのではないか、信仰というのは究極のケアになり得るのではと思ったことがあったんです。望ましい支援というのは、当事者自身の中に灯がともるような支えができること。自分も何かできることがあるし、何とかなるんだと実感できることが大切です。私が考える宗教コミュニティーの在り方は、「誰にもよりよく生きる力があるんだ」という大前提を、縁ある身近なつながりの中での気づき合うことを社会化していくこと。水平的な支え合いをつくっていくのに必要な社会的アクターの一つが宗教だと思いますし、私が考える共生社会のイメージとも相通じるものだと感じています。その上で、垂直から水平への関係性の転換は、やはり関わりそれ自体から生まれると思う。人は誰かに関心を寄せることで、その人を尊重できるし、そして自分も誰かから関心を寄せることにつながっていく。特に、人と一緒に何かの作業をする中で、お互いに多くのことに気付くわけです。ですから、共生の在り方というのも、理屈で考えるよりも、まず身近な人との関わりの中で気付いていく。そういった実践を広げていくことが大切だと思います。ゆあさ・まこと 1969年、東京生まれ。20代の頃から、ホームレス・生活困窮者の支援に携わり、2008年末の「年越し派遣村」村長を務めた。09年~12年にかけて内閣府参与として貧困問題等の社会問題の解決に、有意な発言を続ける。主な著作に『貧困についてとことん考えてみた』(茂木健一郎氏との共著)『「なんとかする」子どもの貧困』などがある。【グローバルウォッチ——世界を見つめて—―】聖教新聞2018.2.10
June 10, 2018
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新潟県立大学 村山 伸子 教授 途上国では収入が低いほど痩せている傾向がありますが、欧米では逆に低収入の方が肥満傾向があります。その理由として、ハンバーガーのように脂肪や糖質に偏った食事は安価であるいうことが挙げられます。また、野菜の摂取量が少ないというのは日本というのは日本と同様です。一方、韓国はタンパク質が少なく、炭水化物が多いという結果で、日本と同じような傾向でした。◇「あなたのお子さんの健康維持に適した食事の量とバランスが分かりますか?」との問いに対して、低所得層の方が「分からない」と答える割合が多くありました。また、経済的に厳しいために、必要な食べ物を購入できなかった経験を持つ人も半数近くに上りました。◇さまざまな臓器や脳が発達していく時期に栄養が少ないと、将来の健康にも影響することが海外の研究で分かっています。日本の成人でも、所得が低い方が肥満や生活習慣病が多いという研究結果があります。また、主食と主菜、副菜からなる、きちんとした食事をした経験がないまま育つと、その人にとってはそれが普通の生活なので、大人になっても健康的な食事ができない。そうすりと病気にもつながって、就労に影響が出た場合、次世代の貧困や不健康につながる恐れがあります。今、「貧困の連鎖」を防ぐために学習支援の重要性が指摘されていますが、きちんとした食事が伴わなければ、精神的にも安定した状態で勉強ができません。落ち着いて勉強する前提として、頭が働くための栄養摂取は不可欠だと考えます。 【土曜特集】公明新聞2017.11.25
February 26, 2018
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わが国の教育においては、個性の伸長とか創造性を身につけることなどが大いに重要視されている。それは、かけ声としては大であるが、実情においてはどうなっているのであろうか。ちょっと、小学校のホールルームをのぞいてみよう。 ホームルームには確かに先生が背後に退き、生徒が運営し、すべてが自主的になされているように見える。しかし、少し注意深く見ると、すべては先生の意のままに動いていると言っていいほどである。自主的に動いているはずの子どもたちは、先生の気持ちを「察して」先生の好む方向に向いているのである。 日本人は子どもの頃から、人の気持ちを察して、それに従って行動することを身につけているのである。しかも、このときに生徒はもとより、先生にもこのようなことが行われていることに自覚がなく、すべて「自主的」に運営されていると信じこんでいるならば、それは大きな問題と言わねばならない。 筆者はかつて、日本の社会は西洋の社会と比較するとき、「母性社会」として特徴づけられることを指摘した(「母性社会日本の病理」中央公論社)。そのことを簡単にここに述べると、日本人にとっては母——息子のモデルが、西洋の父——息子のモデルに対して優位しており、すべてが母親によって暖かく包まれるというイメージが、人間関係の基本に存在している、と考えるのである。 日本人が何らかの集団をつくるとき、一つの場が形成され、その場全体が母性的な安全感に包まれていることが理想とされるので、個々の成員は、おのおのの個人的欲求を満たすよりも、全体の場の平衡状態を維持することのほうに優位をおくことになる。「がやがや騒がなくとも、黙って待っていたら、お母さんが必ずよくしてくれるのだから……」という態度を身につけることが大切なのである。 そして、母なる存在は、子どもの行動に対して許容度が高いので、何をしても許されるようなところがあるが、ただひとつやってはならないことは、母の膝元を離れてしまうことである。母の領域から外に出たものは「赤の他人」であり、それに対しては母は何らの責任ももたないのである。したがって、日本人にとって一番大切なことは、自分もその場に「入れてもらっている」かどうかということにある。(略)すでにあげたホームルームの例のように、それは表面的には「自主的」であるが、根本的には日本人的母性社会のパターンに従って運営されているのである。 真の想像力というのは、与えられた枠を打ち破って生じるものである。したがって、それは母性社会のなかでは最も危険視されるのではなかろうか。あるいは、まったく馬鹿げたこととして無視されてしまうのではないかと思われる。 【日本人とアイデンティティ】河合隼雄著/講談社+α文庫
February 3, 2018
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教育の目的は「子どもの幸福」にあるとの信念に立った牧口先生は、若き日、寒さの厳しい北海道の小学校では、雪の降る朝でも外に出て、登校する子どもたちを迎えました。あかぎれで手を腫らした子がいれば、お湯を沸かし、手を温めてあげたといいます。 また、東京の小学校の校長時代には、弁当を持参できない子どものために、無料の給食を先駆的に実施されるなど、さまざまな工夫をこらし、子どもたちを慈しまれました。 「教育は最優最良の人材にあらざれば成功することの出来ぬ人生最高至難の技術であり芸術である」と牧口先生は宣言されています。 そして、「自他共の幸福」を目指す人間教育の粘り強い推進によって、社会の矛盾や葛藤を打開しつつ、平和な社会の創造をと展望したのであります。 【教育——池田先生の謝辞】聖教新聞2017.10.16
January 1, 2018
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精神科医 岡田 尊司さんに聞く 子どものちょっとしたウソ、気になりませんか。分かりやすいものから分かりにくいものまで、成長・発達とともに、さまざまなウソをつきます。ウソは悪いことだと厳しく叱ったらいいのか、気付かないふりをする方がいいのか、対応に困ることがあるでしょう。子どもがウソをついた時の対応について、岡田クリニック(大阪府枚方市)院長で精神科医の岡田尊司さんに聞きました。 ◀正常な発達の現れ▶子どもは2~4歳ころから、簡単なウソをつき始めます。親ならすぐに気が付く空想的なウソや言い訳のウソが多く、他人をあざむいているとはいえません。ただ、「ウソをつくのが当たり前になり、素直な子に育たないのでは」と心配される方もいます。ウソをつかない子に育ってほしいと思うのは当然でしょう。ただ、ウソが全く言えないのも困りもの。社会で暮らす中では、自分が思ったことや真実をそのまま話すと、相手を傷つけてしまうこともあるからです。相手の立場に立ち、時には真実と異なる内容を伝えた方がよいこともあります。そうしたスキルは、社会生活の中で徐々に身に付けています。全くウソをつけない人は、人間関係で思わぬ悩みを抱えてしまうこともあるかもしれません。ウソをつけるのも、生きていくために必要な能力の一つと考えてよいでしょう。空想的なウソは、現実感覚がまだしっかりしていないことによる部分もありますが、基本的にはウソをつくことは、正常な発達の現れでもあります。自分と他人が別個の存在であり、物事の視点が異なり、考えていることも違う。自分が思うことは表現しないと他人には分からない——―—。こうしたことを理解できるようになったから、ウソをつけるのです。幼い子どものウソに戸惑われるかもしれませんが、発達の一つの段階だと受け止め、過剰反応しないことが大切です。 ◀大きく二つに分類▶ウソにはさまざまなものがありますが、大きく二つに分類できます。一つは、物理的、心理的に利益を得るためのウソ。子どもの場合、言い訳のウソが圧倒的に多いと思います。もう一つが自分に関心を持たせるためのウソです。空想的なウソも、そこに含めることができます。子どもがつきやすいウソを例に、関わり方を考えてみましょう。物理的、心理的に利益得るためのウソとは、例えば次のようなケースです。 〈ご飯を食べる前に、お菓子を食べてはいけないと親から言われているけれども、我慢できずに食べてしまった。そのことを親から問い詰められた時に、「食べてない」とウソをついた〉 〈歯を磨いてから寝ることを親と約束しているのに、面倒になり、磨かないで寝た。翌朝、「親に昨晩、歯を磨いたの?」と聞かれた時に「磨いたよ」とウソをついた〉 このようなウソは多く見られるのは、家庭で叱られ過ぎているお子さんでしょう。子どもが困った言動をしたら、つい強く叱ってしまう。そうした家庭の子どもは、自分を守るために、目先の罰から逃れるために、ウソをつきやすいのです。本来、子どもも、できるならばウソをつかずにいたいのです。しかし、厳しく親から叱られることが怖いため、思わずウソをつき、自分を、守ろうとします。こうしたウソが気になった時に、誤りを追及して叱り、正そうとするのは逆効果になることも。まず、叱りすぎてないか、一度、日頃の関わり方を振り返ってほしいと思います。 ◀丁寧さで成長が加速▶問題行動を起こしたら叱ることも必要ですが、叱る回数を減らし、かわりに褒める回数を増やしましょう。10回褒めて1回叱るぐらいが理想です。叱る時も「ダメ!」とすぐに否定するのではなく、「なぜ」問題行動をしたのか、理由を聞いてあげたいものです。理由を十分聞いた上で、適切な行動を教えます。例えば、歯磨きがおろそかになる子どもでしたら、歯を磨く理由を伝える。寝ている間に虫歯菌が増えると、乳歯が虫歯になったら永久歯にも影響があること、永久歯が虫歯になって、なくなったら新しい歯が生えてこないことなど、わが子が理解しやすいものがよいですね。「なぜ磨くことが必要なのか」を納得できるように丁寧に教えられれば、子どもの行動は自然に変わっていきます。厳しく叱るより効果的でしょう。「食べてはいけないと分かっていても食べてしまった」「歯を磨かないといけないけれど、眠たかったら寝てしまった」こうした子どもの気持ちに共感し、言葉にすることも大切です。自分のありのままを肯定されれば安心し、親にウソをつく必要もなくなってくるでしょう。次第に、自分の心をコントロールし、やるべきことをやれる子に育っていくと思うのです。 【教育】聖教新聞2017.9.3
November 3, 2017
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私は、貴国の「教育の父」サルミエント大統領の名が冠された、このたびの栄誉に幾重にも深い異義を感じております。 サルミエント先生は、若き日より、民衆教育の発展と普及に献身して来られました。その実現に、いかに試練と困難が打ち続こうとも、「忍耐を知らない者に、勝利が訪れたことがあるだろうか」との不屈の信念を貫かれ、男女共学の推進をはじめ、革新的な教育改革を成し遂げていかれたのであります。 大統領に就任後は、師範学校の設立に力を注ぎ、また各地に800を超える学校を建設するなど、ひときわ輝き渡る功績を残されました。 貴国では、サルミエント先生が亡くなられた9月11日を「教師の日」と定め、全国の子どもたちが毎年、敬愛する「教育の父」への賛歌を歌い上げると伺っております。 サルミエント大統領の在任と時を同じくして、1871年に誕生したのが、私ども創価教育の創始者である牧口常三郎先生であります。愛弟子である戸田城聖先生と共に、日本が軍国主義に急速に傾いていく中、「教育は子どもたちの幸福のためにある」との信条を貫き通していきました。 第2次世界大戦中、両先生は軍部勢力によって投獄され、牧口先生は壮絶な獄死を遂げております。 その後、生きて牢獄を出た戸田先生は、戦後の荒野に一人立ち、民衆の幸福のための平和運動を開始しました。 私たちSGIが、世界に広げてきた、平和・文化・教育運動の原点は、この師弟の精神闘争にあります。 ゆえに私は、本日の栄誉を、偉大な人間教育者として生命を賭して闘い抜いた、先師と恩師に謹んで捧げさせていただきたいと思っております。 【サルミエント上院議員栄誉賞授与式 池田SGI会長の謝辞】聖教新聞2016.8.25
October 30, 2016
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マサチューセッツ大学 学事長 ウィンストン・ラングリー博士 原水爆禁止宣言の卓越した理念 1957年―—冷戦の渦中に、核兵器廃絶を叫んだ人物がいたことに驚きました。当時の西洋社会にあって、その平和の理念に注目する人は少なかったのです。この歴史を学んだ時、私は戸田会長と、その遺志を継ぐ池田会長こそ、私たちがあまり目を向けてこなかった、人類の「最善の徳」を示す人であると深く感じました。その徳とは勇気です。時代の流れに逆らい、平和を叫ぶことは大いなる勇気を要します。核廃絶のための主張と行動の一貫性は、池田会長の思想が、全ての生命の尊厳に立脚していることの表れです。生命の尊厳を中心に置かずして、人権文化の確率はあり得ません。そしてその「生命の尊厳」は、ただ抽象的な主張を繰り返すだけで、正しく認識されるものではありません。具体的な行動が必要なのであり、とりわけ自分と他者との関係性の中で、実践されなくてはならないのです。この「具体性」と「日常性」もまた、会長の思想の根幹であると理解しています。 自らの振る舞いに誇りと確信を 私たちがしばしば、自らの行動に引け目を感じるのは、思い描いていた理想とはかけ離れた自分―—他者への最善の行為を知りながら、それを実践できない自分自身に気づくからです。ここで私が思い起こすのは、仏法が説く「全ての人は仏になれる」との教えです。そこでは、私の中にも、あなたの中にも、自分自身が目指す理想型〈=仏性〉があると説かれます。そのことを信じ、広く他者に語っていく行為自体が、生命尊厳の思想を実践することになるのです。 私は先ほど、人間の徳としての「勇気」に触れました。池田会長の類いまれな対話を可能にしているのは、宗教や思想の違いを受け入れ、感謝できる勇気ではないでしょうか。さらに私は、会長が、異なる文化を学ぼうとする勇気にも感銘を深くしています。会長は相手の国の文学や歴史、芸術、習慣などを事前に学び、自らの知識として、惜しみなく語るのです。例を挙げればブルガリアやロシアなど、日本とは全く異なる文化の知識人とも対談してこられました。相手にとっては“専門分野”である内容を、その相手の前で披露するのは、容易なことではありません。会長が示す、相手から「学ぶ勇気」と「受け入れる勇気」。ここに、ここにどんな人とも心を開き、分かち合っていく道があります。 【グローバル・インタビュー「世界の指揮者の眼」】聖教新聞2016.7.17
September 19, 2016
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アメリカの池田国際対話センター(マサチューセッツ州ケンブリッジ市)で行われた「教育講座」(6月17日)。ここでは、登壇者の一人、アメリカ・デューイ協会元会長で南イリノイ大学名誉教授のラリー・ヒックマン博士の講演の要旨を紹介する。 南イリノイ大学カーボンデール校 名誉教授ラリー・ヒックマン博士 快楽は幸福ではない アメリカの教育哲学者デューイ、創価学会の牧口常三郎初代会長、池田博士の3人の教育哲学に共通しているのは、人間と多様な事象との「関係性」を非常に重視している点です。関係性とは、例えば、子どもたちの過去の経験、学習環境、育った文化背景、友人関係などです。3人はまた、関係性という視点から、「地理」と「歴史」をカリキュラムの重要な基礎と見なしています。牧口会長は、個人の関係性を地域そして社会全体へと結びつけることが大事であると訴えています。その意味で「地理」の学問は、子どもたちの日常生活を出発点とし、社会とのつながりの意識を世界へと広げていくものなのです。もし今、デューイと牧口会長が生きていれば、池田博士が創立した多くの教育機関で成し遂げられている業績を、心から称賛するに違いありません。池田博士の言う「価値創造の教育」とは、まさに個人と他者、個人と環境、個人と歴史など、さまざまな関係性を豊かにしていく教育にほかなりません。なお博士は、公共教育においては、宗教教育を行うべきではないと述べています。なぜなら、そうした教育は「信教の自由」を踏みにじるものだからです。博士はまた、デューイや牧口会長と同じく、現実の社会と関わりながら学ぶことを提唱しています。ボランティア活動などは、単発的でなく継続的に取り組むべきであり、社会貢献の充実感や目に見える結果が大切と呼びかけています。 人間と社会の関係性を豊かにする教育実践の模範例として、池田博士が創立したアメリカ創価大学を挙げたいと思います。この大学では、学生と教員が一体となって、「人間として生きる意味」をはじめ、「自然環境」「文化背景」「国際問題」など幅広く探求しています。デューイ、牧口会長、池田博士にとって、教育の評価を決定する要素は、人間と社会の関係性の豊かさにこそあります。標準化されたテストを過度に重視することは、悪しき教育の手法につながります。テストの推進は、医療診断のように、子どもたちを比較するというより、各人の状況と、それぞれが必要としているものをもつけるためにこそ、行われるべきではないでしょうか。デューイは、テストそのものを完全に否定したわけではありません。しかし、テストはあくまで教育の道具の一つにすぎないと考えていました。牧口会長もまた、テストばかりの教育や、単に知識を伝達する教育に批判の声を上げていました。池田博士も、いわゆる知識の「詰め込み型」の教育には鋭く反対しています。博士は、牧口会長の思想を受け継ぎ、“教育者とは権力者でもなく、単にテストのために教える存在でもない。真の教育者とは、子どものパートナーとして共に成長していく存在”と結論しています。最後に、教育の目的についてですが、牧口会長、池田博士は共に、「幸福」を「価値創造」と定義しデューイは「成長」と名付けました。ここで重要なのは、3人は、いずれも、決して「幸福」を快楽とは捉えていない点です。3人は共に、「学び」それ自体を「手段」であり、「目的」と見ています。そして、「学び」とは、変化してやまない環境や、人間と社会の関係性に適応していく挑戦であると訴えているのです。 【アメリカ池田国際対話センター「教育講座」での講演[要旨]】聖教新聞2016.7.16
September 17, 2016
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池田SGI会長のコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジでの講演20周年、そしてアメリカの哲学者ジョン・デューイの著作『民主主義と教育』発刊100周年を記念し、池田国際対話センター(マサチューセッツ州ケンブリッジ市)で行われた教育講座(6月17日)。ここでは、登壇者の一人、米デューイ協会元会長でバージニア工科大学教授のジム・ガリソン博士と講演の要旨を紹介する。 バージニア工科大学教授 ジム・ガリソン博士 20年前の講演で池田博士は、「教育は、永遠なる人道主義の推進力になっていかねばならない」と訴え、続けて、教育こそ人生の最重要の事業だと語りました。博士は、その言葉通り、これまでの数十年間、教育と青年の育成に人生をささげてこられました。創価学会が「創価教育学会」として発足して以来、その目的は常に、現実からかけ離れた理想でもなく、単なる個人の利益でもありませんでした。創価学会の目的は、全ての生きとして生けるものの幸福であると理解しています。 池田博士とデューイ、またウォルト・ホイットマンに共通する思想として、「宗教的な人間主義」が挙げられます。3人が目指す“人間性”は、最終的に到達するものであったり、固定的であったりはしません。(ホイットマンはアメリカの詩人。デューイはホイットマンの民主主義思想に共感を寄せ、池田SGI会長も青年時代からホイットマンの詩を愛読していた)また、3人の哲学は、世界の多くの人が抱いているであろう“人間は宇宙的なものとの関わりなしに、科学的、論理的な思考の力だけで全ての問題に対処できる”という思想とも、一線を画します。「宗教的な人間主義」は、人間の脆弱性や環境との関係性を、正しく認知しています。すなわち「宗教的な人間主義」とは、“人間の救いは神によってもたららされる”という妄信でもなく、“人生は理想の力だけでコントロールできる”という過信でもない、まさに「中道」の思想なのです。 仏法では、人間の生命には「仏界」が存在するとされていますが、この人間性の追求は、一生で終わるものではなく、世代を超えて続く挑戦です。良い人間になるためにはよい教育が不可欠です。それは同時に、悪い教育が悪い人間をつくるともいえます。20年前の講演で池田博士は、牧口初代会長が、教育の目的を「児童や学生の『生涯にわたる幸福』」とし、「真の幸福は『価値創造』の人生」と定義していたと言及しました。 そして、「価値創造」とは、「いかなる環境にあっても、そこに意味を見いだし、自分自身を強め、そして他者の幸福へ貢献しゆく力」だと強調しました。さらに博士は、世界市民の資質として、①あらゆる生命の相関性を認識する「智慧」②差異を恐れるのではなく、尊重し、成長の糧とする「勇気」③物理的な距離にもかかわらず、他者の苦しみに同苦し、連帯していく「慈悲」、の3点を挙げています。 残念ながら今の教育界では、こうした資質を育む取り組みは欠如しています。生命のつながりを学ぶどころか、国家主義が再びはびこり、人間の「分断」がより強調されているのが事実です。 学校や社会では、多文化への意識は高まっていますが、他者との差異を「受け入れる」までにとどまっています。 しかし忘れてはいけないのは、池田博士とデューイが共に、差異から積極的に学びながら、新しい意味や価値を創造していくことを呼び掛けている点です。二人のように、「差異」を「価値を創造していく共同作業の原動力」と見なす慧眼は、現代の教育界では非常にまれです。 ここ数世紀において、人類は、自然資源を、経済生産のため単なる部品と見なしてきました。そして人間の21世紀の今では、私たち人間自身が部品となりつつあります。 私たちの未来のために、池田博士が提唱する「智慧」や「慈悲」の思想が不可欠なのです。 【アメリカ池田国際対話センター「教育講座」での講演】聖教新聞2016.7.13
September 16, 2016
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効果的に伝えるには 前回、好奇心を高めるためには幼い時期から絵本や図鑑を読み聞かせることが効果的だとお伝えしました。好奇心が高いかどうかは、子どもの将来の豊かさに大きな影響を与える要素です。好奇心が高い人は大人になってからも趣味が多く、人生を楽しむことが得意です。では、好奇心を育む環境を家庭でどのように作ればいいのでしょうか。子どもは親から「〇〇しなさい」と言われると逆にやりたくなくなりますが、親が楽しんでいることはやりたがるもの。だから、子どもに何かをやらせたいと思ったら、一番、効果的なのは、親自身がそれを楽しんでいる姿を見せることだと思います。図鑑を読ませたいなら、親が図鑑を見せることでしょう。その意味では教育とは、「子どもに努力させる」ことではなく、「親自身が努力する」ことなのだと思います。努力といっても、親が楽しんでいないことは、子どももまねしようと思いませんから、親が「楽しんで」努力できることがポイントです。私は認知症のリスクを下げる研究をしています。その中で判明しているのは、主観的幸福度が高い人は、認知症のリスクが低く、平均寿命が長いという点です。貯金がある、社会的肩書があるといった客観的な条件が良いか悪いかではなく、主観的に自分自身が人生を楽しいと感じている人の方が、ストレスが少ないので、さまざまな病気のリスクを下げる方向に向かうのです。親自身が好奇心を持って人生を楽しむことが、子どもの人生を楽しく、豊かにすることに通じ、さらに親子共に体を健康に保つことにつながるのだと知ってほしいと思います。 運動と言語が発達する時期 3~5歳くらいまでの時期は、脳の運動をつかさどる領域が発達のピークを迎えます。この時期は親子で一緒に体を動かして遊ぶ機会をたくさん尽きるようにするとよいでしょう。将来、オリンピックに出るようなスポーツ選手やプロの楽器演奏者は、この時期からやり始めている人が多いようです。一つの運動に特化する必要はないのですが、多様な体の動きの獲得ができるように意識してください。8~10歳くらいになると、言語をつかさどる領域が発達してきます。小学校低学年の時はたどたどしく話していた子も、急にスムーズになり、大人と同じような話し方ができるようになる時期です。外国語を学び始めるのもこの時期が効果的でしょう。読み書きよりも、リスニングやスピーキングを中心に学ぶことで、きれいな発音を身に付けやすい時期だといえます。10歳を過ぎると高認知機能が発達します。人とコミュニケーションをするのに必要な力です。小学校高学年の時期には友達とたくさん交わり、遊ぶことが大切です。他者に共感する能力や協調性などを育んでいきます。 ゲームとの付き合い方 子育ての大きな悩みの一つがゲームに関してでしょう。ゲームにしか興味を示さない子もいます。親がゲームをやめさせなさいと言ったところで、簡単にやめられるものでもありません。また、現実的な問題として、ゲームは子どもたち同士の交流の手段になっているので、ゲームをやらないと友達との会話についていけないという問題もあります。ただ、無秩序にゲームをやらせるわけにはいきません。やり過ぎは睡眠にも影響を与えます。子どもにとって睡眠は非常に大事です。寝ていない子よりも、「記憶をつかさどる海馬という脳の領域の体積が小さい」ことが分かっています。良質の睡眠をとるためにも、夜遅くまでゲームをやるのではなく、規則正しくゲームと向き合えるように工夫する必要があります。ゲームソフトばかりに熱中している子には、「世の中にはゲーム以外にも、もっと面白いことがある」ということを伝えましょう。私は幼いころ、ゲームをさんざんやりましたが、昆虫採集も好きでした。ゲーム以外に楽しいことがあると、だんだんとゲームに飽きて、ゲームに使う時間も自然と減ってくるものです。ゲーム機を持ち運びながらでもいいので、親子で一緒に新しい体験をしに出掛けてみましょう。ゲーム以上に楽しい世界があることを実感として分かるような機会を増やしてあげてほしいと思います。 【教育】聖教新聞2016.6.19
August 20, 2016
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東北大学加齢医学研究所 瀧靖之教授に聞く “道路”にたとえると 脳は非常に興味深い発達の仕方をします。脳のネットワークを簡単に“道路”にたとえて説明します。生後すぐの赤ちゃんの脳は、ある時までたくさんの道を作り、実際に使ってみて使わない道を壊し、使う道を太く強固にするという発達をします。使う道は一般道から高速走路のようになり、より快適に使える道にします。なぜ使わない道を壊すのか。それは、道がいくつもあるとエネルギーをたくさん使い、効率が悪いからです。最初は環境に適応しやすくするために、道をたくさん作りますが、ある時期を境に今度は使う道を絞っていくというのが脳の発達の基本的な点です。さらに脳の発達は、一斉にすべての場所で起きるのではなく、順番があります。大ざっぱに言うと、脳は後ろから前に発達します。後頭葉、側頭葉、頭頂葉と発達して、最後に前頭葉という順番です。 何歳からでもやり直せる 脳は場所によって発達のタイミングが違う。発達のピークが違う。このことが、子育てにおいて重要なポイントです。子どもの成長段階によって、多くの本を読んだり音楽を聴くのに効率がよい時期、体をたくさん動かすと効率がよい時期などがあるのです。ただ、こうした発達のピークという話をすると、よく「3歳までに〇〇をしないと、その後にいくら努力しても身に付かない」などと誤解されます。これは間違いです。実際は脳には可塑性があり、何歳になってもやり直せるし、学び直せます。発達のピークとは、何かを獲得するのに、もっとも効率よく、短時間で獲得できるということです。ピークの時期を過ぎても、努力すれば身に付けたい能力を獲得できます。発達のピークのじきnい行うのと比較すれば多くの時間が必要ですが獲得できます。だから、80歳からでも英語を学んで獲得できるのです。何歳であろうと努力が大事です。脳の自然な発達のタイミングが異なることを知り、そのタイミングに合わせて、子どもに多様な経験を積ませることで、効率よくさまざまな能力を身に付けられると考えられます。拙著『16万人の脳画像を見てきた脳科学者が教える「賢い子」に育てる究極のコツ』にも書きましたが、発達のタイミングに合わせて、子どものどの時期に何をすると効率がよいのか、紹介したいと思います。 心地よい感覚を与えて 脳で、まず発達する後頭葉は、物を見る領域です。後頭葉が発達し、お母さんの顔がきちんと見えるようになります。同時期に、音を聞く領域や感情をつかさどる領域も出来上がります。「安心する」「心地がいい」と感じる領域は早い段階で発達のピークを迎えるのです。ですから、子どもが乳幼児期には、脳科学の視点からみても、親子の愛情あふれる触れ合いがとても重要です。一緒にいる時間がたとえ短くても、抱きしめたり、話しかけたりすることで、成長を促すことができるでしょう。そして、徐々に本を読み聞かせたり、音楽を聴かせたりして、好奇心を伸ばしてあげるのも心掛けたい時期です。好奇心の高さは、将来に大きく関わることだからです。好奇心が高いと楽しみながら勉強をできます。高齢になった歳の認知症リスクも下げることができます。好奇心が高いと、将来のさまざまなリスクを下げるのです。好奇心を育むための環境を早い段階から子どもに与えたいものです。そのために私が有効だと思うのは、絵本の読み聞かせ。親が読み聞かせると、親の声で心地よい安心感を得られるし、言葉の音とリズムを聞きながら、意味が分からなくても、興味を持ち始めます。言葉の意味を少しずつ理解し、話し始めるようになったら、図鑑がお勧め。恐竜、電車、植物など、どのような図鑑でもいいです。優秀な学生に「子ども時代に何をやっていたか」を聞くと、図鑑を読んでいたと答える人が多いことに驚きます。図鑑は好奇心を高めるのに有効なのでしょう。0歳から3歳くらいまでは特に視覚と聴覚、感情面の発達が著しい時。この時期に愛情たっぷりの関わりをしながら、さまざまな物に触れさせ、好奇心を高めさせてほしいと思います。 プロフィールたき・やすゆき 1970年生まれ。医師。医学博士。1児の父。脳の発達や加齢のメカニズムを明らかにする研究者として活躍。研究成果は、新聞、テレビなどで取り上げられ、著書『生涯健康脳』(ソレイユ出版)がベストセラーに。 【教育】聖教新聞2016.6.12
August 19, 2016
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パキスタン首相への夢現実は遠のくパキスタンでイスラム過激派に銃撃されながらも、女性が教育を受ける権利を訴え続け、ノーベル平和賞に輝いたマララ・ユスフザイさん(17)。称賛の声が世界に広がる中、祖国では過激派の脅威が高まっている。英国で治療を受け一命を取り留めたマララさんの夢は、帰国して首相になり、女子教育を拡充することだが、それが実現する日は遠いかもしれない。受賞発表から1週間が過ぎた今、マララさんは英国中部バーミンガムで普通の高校生として試験勉強に追われる日々。そんな少女が昨年、過激派に対する自身の抵抗運動をつづった手記「私はマララ」はノーベル平和賞受賞で話題を呼び、日本語版も売れ行きが急上昇している。12月10日のノルウェー・オスロでの授賞式に向けて「マララ・ブーム」は当分続きそうだ。しかし祖国の様相は全く異なる。マララさんの故郷パキスタン北西部では、女性の教育や就職を認めない極端な思想が近年一層広まってきた。主要都市ペシャワルの大学で1月に開催予定だった「私はマララ」の出版記念式典は、過激派の圧力で中止された。市内の書店は、同書の販売を自粛したままだ。 タリバン系組織が知識人を次々暗殺パキスタン国民は本来、中東などに比べれば、西欧流民主主義や人権・言論尊重の意識が強い。第2時世界大戦後、英領インドからイスラム教徒の国として分離独立した後、長年軍政が続いたため、それに対抗して民主化運動が盛んになったという背景がある。ところが、隣国アフガニスタンに1996年、イスラム原理主義のタリバン政権が誕生したころから過激思想が勢いづき始めた。2012年10月、パキスタン北西部のワスト地区で下校途中のマララさんを襲撃し、頭部に瀕死の重傷を負わせたのは、07年結成の過激派連合組織「パキスタン・タリバン運動(TTP)」だ。推定3万人のメンバーを擁するTTPは、リベラルな発言をした政治家や知識人に「イスラム教冒涜」の背教者の烙印を押し、次々に暗殺してきた。マララさんも標的にし続けると警告している。パキスタンのシャリフ首相は「マララさんは国の誇り」と表明したが、受賞を喜ぶ国民的な盛り上がりは乏しい。それでも、厳戒体制が続くマララさんの故郷、スワト地区ミンゴラでは「彼女を手本にしたい」と勇気を出して学校に通う少女が増えてきている。(ジャーナリスト 高杉 昭一郎) 【緯度経度 世界は今】公明新聞2014.10.20
October 22, 2014
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これまで多くのお父さんお母さんから、いじめについての相談を受けてきました。その際、私は「逃げ場(避難)論」の大切さを語っています。一般論として、深刻ないじめが起こった場合、ご両親は何とかいじめをなくそうと必死になるのではないかと思います。たとえば学校に駆け込んだり、教育委員会に訴えたりします。ところがそれによっていじめが解決する場合は多いとはいえず、かえっていじめが見えにくくなってしまったり、エスカレートしてしまう場合があるのです。あるいは、どうにかいじめの問題が解決できたとしても、深く傷ついてしまったわが子のコンプレックス(劣等感)が解消されることはないでしょう。ですから私は、子どもたちがいじめにあってしまったときこそ、「別の世界で一番になる経験」をさせてあげてほしいと思っています。塾に通わせるのでも、お稽古事をさせるのでも構いません。わが子が「いじめられない安全な世界」を用意し、勉強でも芸術でもスポーツでも、どんなことでもいいから、自分の将来に自信が持てる体験をさせてあげてほしいのです。私は親がわが子に残すべきものとは、お金ではなく教育だと思います。どれほど多額の遺産を残そうとも、わが子が賢くなければ散財してすべてを失いますし、またお金に執着することで人生をよりよく生きようという「名誉」の大切さも忘れてしまうでしょう。世界で最も優秀な民族の1つとされるユダヤ人の教育観も、「お金は奪われても、頭の中にあるものは奪われない」という価値観に基づいています。いじめや不登校など、子どもたちが生きづらい時代だからこそ、お父さんお母さんたちの温かな励ましによって、親子で子どもが直面する困難を乗り越えてほしいと願っています。 PROFILEのだひでき●1960年、大阪府生まれ。精神科医。国際医療福祉大学大学院臨床心理学専攻教授。東京大学医学部卒。東京大学医学部付属病院精神神経科助手、米国カール・ベニンガー精神医学校国際フェローを経て現職。豊富なカウンセリングの経験を生かして教育・医療・政治経済などさまざまな社会評論を行うほか、「緑鐡受験指導ゼミナール」の代表として子どもたちの才能を伸ばす取り組みを進めている。また2008年公開の初監督作品『受験のシンデレラ』がモナコ国際映画祭でグランプリに輝くなど多彩な才能を発揮している。著作・公職多数。近著に歴史作家の井沢元彦氏との共著『日本史汚名返上「悪人」たちの真実』(光文社刊)がある。 【心に残る恩師の言葉「やりたいことをやったらいい」やる気を引き出してくれた恩師】灯台2014年8月号(おわり)
September 10, 2014
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近年、スクール・カーストの問題が深刻さを増しています。子どもの容姿や人気といったあいまいな基準で教室の中に階級差別をつくり、つくられた差別によっていじめが起こっているのです。この問題の背景には、必要以上に子ども同士の競争を恐れる教育行政の姿勢が悪影響をおよぼしているように思われてなりません。運動会で、1位の子どもを表彰すると下位の子が傷つくからとか、テストの成績を貼り出すと学力不振の子がショックを受けるといっては、子どもたちの頑張りが表彰される機会を奪っています。結果、彼らは自分たちの価値を知ることができず、あいまいな基準でしかお互いを判断できなくなっているのです。かつて人気を集めたテレビの競技型バラエティー番組では、「大食い王選手権」とか「ラーメン王選手権」とか「手先が器用選手権」など何百種類もの競技をつくり、挑戦者たちの個性を賞賛していました。私は、教育が果たすべき役割とは、人間に生きる自信を与えることだと思います。とりわけ、自己肯定感の形成期である子ども時代こそ生きる自信が必要です。どんな子どもであっても何か一つは優れた才能を持っています。その才能を気づかせてあげるためにも、競争というものを否定するのではなく、むしろ競争の機会を増やしていくべきだと思います。現在の日本は、高度経済成長期を経て、本格的な少子高齢化・人口減少社会へと突入し始めています。私は時代が変わったからこそ、教育が果たすべき役割も変わるべきだと思います。かつての明治維新期のように、富国強兵を目指して国民に読み書きそろばんを教え、すべての子どもたちの平均値をかさ上げしようとするのではなく、これからは子どもたち一人ひとりの個性や才能を伸ばしていく教育を目指すべきだと思うのです。教育先進国として名高い北欧のフィンランドも、少子高齢化を子どもの数の増加によって乗り切ろうとするのではなく、少なくなった子ども一人ひとりの才能を開花させ、国民一人当たりの生産性を向上させることで社会の活力を維持しようと努めています。同じく日本も、読み書きそろばんなどの基本的学力を維持したうえで、子ども一人ひとりの個性が花開くような取り組みを進めていくべきだと思います。 【心に残る恩師の言葉「やりたいことをやったらいい」やる気を引き出してくれた恩師】灯台2014年8月号(つづく)
September 9, 2014
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精神科医 和田秀樹小学一年生のとき、父の仕事の都合で大阪から東京へと引っ越しをしました。ところが大阪弁を使うということだけで、私は転校先の小学校でいじめの対象になってしまったのです。勝気だった母は、「東京だって地方から出てきた人たちの街じゃないの。大阪は歴史も古く、たくさんの文化もある街なのだから引け目に感じる必要はないのよ」と励ましてくれました。また父に掛け合い、当時、大阪出身のビジネスマンが多く暮らしていた千葉県の津田沼へ引っ越しを決めてくれたのです。その津田沼の小学校で出会った方が、担任の坪井先生でした。坪井先生は、転校生の私に、「やりたいことをやったらいいのだ」と温かく接してくださり、私の「やる気」を引き出してくれたのです。坪井先生は私を新聞部の部長にし、中学校で使うようなガリ版刷りの仕組みまで教えてくれて、印刷まで任せてくれました。そのおかげで私は、壁新聞の制作を通じてクラスのことをよく理解し、みんなのリーダー役としてクラスメートとも打ち解けていくことができました。私はつくづく人間の才能とは、人の出会いによって開花するものだと感じています。たとえば世界的なゴルフ・プレイヤーであるタイガー・ウッズ選手も、選んだ道がサッカーであったなら同じように成功したでしょうか。彼の才能に着目し、温かな語りかけをし、彼を応援してくれた周囲の大人の存在があってこそ、今のタイガー・ウッズ選手の活躍があるのだと思います。子どもが自分の得意なものを見つけるには、とにかくいろんなことにチャレンジし、失敗の中から自分に合った何かを見つけだすしかないと思います。今、振り返れば、私の母も坪井先生も、私の出来ない事にがっかりするのではなく、たくさんの種をまかせ、その中から一つでも芽が出ればそれでよいのだという、大らかな気持ちで私に接してくれました。自分の好奇心を育て、自身の与えてくれた坪井先生には、私はとても感謝しています。 【心に残る恩師の言葉「やりたいことをやったらいい」やる気を引き出してくれた恩師】灯台2014年8月号(つづく)
September 8, 2014
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人は悩むから大きく成長できる人生にはさまざまな悩みや課題があります。わが子やわが生徒の苦しみに、どう接したらいいのかと戸惑うこともあるでしょう。しかし、忘れて欲しくないのは、「この子がいるから自分は大きく成長できるんだ」との確信です。ある講演会でのことです。講演会に参加していたある中学校の教師から、高校受験に失敗した生徒にどのように慰め言葉をかけたらよいのかと質問されたことがありました。私はあえて「私は医師です。医師は慰めだけの言葉などかけません。なぜなら医師は、結果を出さなければ患者が死んでしまうからです。いまあなたがなすべきは、慰めの言葉をかけることではありません。なぜ生徒が不合格となったのかの原因を分析・解明し・その解決策をいつまでに実行するかの具体策を明らかにすることです。そして、その課題を越えるたびに、生徒と肩を組んで『よく頑張った!』と、共に喜び合える教師になってください」と語りました。その場は水を打ったように静まり返りましたが、後日、何人もの方からお礼のお手紙と感動の声をいただきました。人間の脳には「同時発火」という機能があります。私たち大人の熱意、真心、真剣さが子どものハートに火をつけ、大きなやる気と才能を引き出していきます。ですから私は、「教育」とは教え育てるだけでなく、生徒と共に育つ「共育」なのだと思います。 灯台2014年6月号(おわり)
June 7, 2014
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脳科学者 林 成之 オリジナルの研究で世界一になりなさい日本大学医学部を卒業して医師となった私は、42歳で米国へ留学しました。留学先で出会ったヒューバート・ロゾモフ先生には、人を教え導く教育者としての姿勢を教えていただきました。ロゾモフ先生と出会ってすぐ、「君の専門は何かね」と聞かれました。私は「脳循環の中の静脈循環の研究を専門としております。これまでの専門分野の英語論文も執筆し、国際学会で発表しております」と答えました。ところがロゾモフ先生は、「ピッツバーグ大学のラングフィット教授が行った研究の流れだろう。私が聞いているのは、君のオリジナルの研究は何かね、ということだよ」とおっしゃったのです。私は、独自の研究は何かと聞かれて呆然としていました。それまでの医学研究とは、先人の業績を受け継ぎ、新たな視点を加えて発展させていくものだとばかり考えていたからです。今になって振り返れば、ロモゾフ先生は、「何かの分野で世界一になりなさい」との思いを込めて、あえて厳しい問いかけをされたのだと思います。ロゾモフ先生との出会いから10年後、私は脳低温療法を開発することができました。先生はすでに定年を迎え、大学を退官されていましたが、すぐに激励のお電話をくださり「アメリカ国立衛生研究所(NIH)ですごい講演をしたそうだね! ようやく君のオリジナルな研究を打ち立てたね! おめでとう」と祝福してくださいました。それだけではありません。私が脳低温療法のシンポジウムに出席するたびにロモゾフ先生はわざわざ駆けつけてくださり、研究の独自性やその成果について熱心に応援演説をしてくださったのです。弟子の成功を心から願い、応援してくださる。ロモゾフ先生のような偉大な研究者に出会えたことは本当に幸福でした。 灯台2014年6月号(つづく)
June 6, 2014
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脳科学者 林 成之 生徒にも保護者にも信頼され尊敬された恩師少年時代から現在まで、実にたくさんの素晴らしい恩師に恵まれてきました。なかでも富山県の水橋西部小学校時代の恩師・酒井清直先生には、何事にも積極的挑戦する勇気や冒険心などを、実に多くのことを教えていただきました。20代の新任の教師であった酒井先生は、とにかく教育熱心で、子どもに対する愛情を全身から放っているような方でした。毎日、授業開始前のわずかな時間を使って、漢字や算数の小テストを行い、成績結果を壁に貼り出します。かといって詰め込み教育をするのではありません。たとえば、私が算数の時間に窓外の鉄橋をぼんやり眺めていると、「林君! 何を見ているんだ!」とたちまち酒井先生の大声が飛んできます。びっくりして「鉄橋を渡る列車の数を数えてました」と答えると、先生は「よし! 午後はみんなで、教室から鉄橋までの距離がどのぐらいあるか『あてっこ』に出かけよう!」と、たちまち距離計算の郊外学習が始まってしまうのです。また、私が能登半島の地図を授業中に眺めていたことがきっかけとなり、クラス全員で能登半島へ遠足に出かけたこともありました。食事代だけ持って能登半島まで歩いて行くのです。酒井先生は、子どもが歩き疲れればバスの運転手に掛けあってヒッチハイクをしたり、夜になればお寺と交渉して宿を借りたり、それはそれは大冒険でした。ですから私たちは、先生と一緒にいることが楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。保護者たちも酒井先生に大きな信頼を寄せていました。先生の真剣さを深く尊敬していたからです。戦後間もない時代、どこの家庭も経済的に困窮していました。"勉強よりも家の手伝いの方が大切"と考える時代でした。しかし酒井先生は、勉強のできない子ほど大切にされました。日曜日になると生徒を自宅に呼び、自作のプリントを使って勉強を教えていたのです。それだけではありません。酒井先生はそれぞれの家庭の事情に配慮するため、勉強できる子を呼び、勉強の遅れている子の家で家事の手伝いをさせるのです。私も日曜日になると酒井先生に呼ばれ、「林君、申し訳ないけど斎藤君と勉強するから、彼の家に行って、家事を手伝ってあげてほしいんだ」と言われました。ですから私たちのクラスで、勉強で落ちこぼれるような生徒はいませんでした。先生の熱意は目覚ましい教育成果として現れました。私のふるさとは、のどかな漁師町で、数年に一度大学進学者が出ることが町の話題になるようなところでした。しかし私たちのクラスは、15名の生徒のうち4名が大学に進学し、そのうち2名が大学教授になったのです。私たちはどこへ行っても、水橋西部小学校の生徒ではなく"酒井先生の教え子"と言われました。このような素晴らしき恩師に出会えた経験は人生の誇りです。 灯台2014年6月号(つづく)
June 5, 2014
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滋賀県大津市で、私立中学校の男子生徒が自殺した問題をきっかけに、全国各地で次々といじめの実態が明るみに出ている。いじめの根絶や教育の在り方を見直す上で何が必要か。識者にインタビューした。 ◇―いじめを防ぐための方法はありますか。水谷修氏 いじめは、基本的人権を侵害する“重い罪”という考え方を共有することが大事だ。そのためには質の高い人権教育を行う必要がある。ただ、教育だけで勉強から道徳、生活習慣まで全てを教えるのは無理がある。地域にいる、法務省が委託した民間の人権委員や法務省人権擁護局の力を活用するなど、地域、各機関が連携して対策を行うべきだろう。国全体がいじめに関して繊細になっている今がチャンスだと思う。―いじめを引き起こす要因は何でしょうか。水谷 いじめている子だって、心理的、物質的な圧迫を受けるなど、様々な困難を抱えている。親からの虐待がそれだ。それをもっと弱い子に、いじめという形でぶつけている。僕はよく「いじめている子だって、いじめられている」と言う。いじめは“社会の病”が現象化されたもの。「将来に夢が持てる社会」だったら、いじめは圧倒的に減るはずだ。その観点から見ない限り、いじめを根絶することは無理だろう。―教育を行う学校は「どこよりも平和で安全な場所」というのが持論と伺っています。水谷 教育の原点は信頼。信頼が存在しないところに教育は存在しない。信頼があるから親は子どもの命を学校に預ける。「信の再生」しか教育の再生はない。信頼されている人間は強い。信頼されないから、教員の不祥事も多いんだ、もう一度。信じあうことから始めないと。―皆に伝えたいメッセージがあるそうですね。水谷 今「いじめられている子」へは、必ず助けてくれるから、いじめられていることを一人でも多くの大人に教えてほしい。今が本当にチャンスだ。「いじめている子」は、いじめというものが人の命を奪うものだと、今回の事件で分かったと思う。すぐにいじめをやめてほしい。自分がいじめたことを親や先生に伝え、一緒に相手に対し心から誤ってもらいたい。「いじめを知っている者」は、君の大切な友人を失わないためにも自分の学校にいじめがあるなら、大人に伝えてほしい。必ず一緒に闘ってくれることを信じてほしい。「全ての親」は、いじめが学校にあるかを聞いてほしい。「あなたもいじめられるから、関わっちゃだめ」と言わず、もし、いじめがあると聞いたら、各機関に訴えてほしい。あなたのお子さんを守ることにつながる。最後に「全ての大人」へ。いじめはきちんと解決しておかないと、必ず一生残る傷を負う。だから、ただ逃げろとだけ言うのは無責任すぎる。子どもには、いじめに決着をつけてから、次の人生を始めさせるべきだ。【届けたいメッセージ】公明新聞2012.8.6
August 9, 2012
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いじめられるとね、人間は気力がなくなってしまう。孤独になると人間は、生きる力がなくなってしまう。自分の気持ちをわかってくれる人がいないと、体から、だんだんエネルギーが抜けていってしまう。当然です。人間は、そういうふうにできているんです。そんなあなたを見て、人は、「無気力だ」とか「暗い」とか、勝手なことを言うかもしれない。だけど、誰が好き好んで、無気力になりますか。誰が自分から、暗い性格になりますか。そうなってしまったとしたら、誰かが、そうさせたんです。あなたが悪いんじゃないんだよ! だから、「自分が、いけないんだ」とか、「自分いじめ」はやめなさい。自分をもっと大事にするんだよ。言いたいことを言っていいんだよ! がまんなんかしなくていいんだよ! 人に合わせなくていいんだよ! あなたの人生なんだから!人の心に鈍感になってしまった、こんな残酷な世の中では、人間らしい気持ちをもった人ほど、いじめられる。それは、いじめるほうが間違っている。「心のやさしい人が、いじめられる」世界のほうが、さかさまになっているんです。さかさまになった世界では、いじめられているあなたのほうが、正しいんです。【『希望対話 21世紀を生きる君たちへ』2003-06-30(聖教新聞社)】
July 16, 2012
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【教育―勇気の心が子育てを豊かに】聖教新聞09・1・7昭和女子大学大学院の古川真人教授に聞く《身近なモデルが影響》――家庭で心掛けてほしい点を教えてください。将来、良いことが起きて、悪いことが起きないと期待する傾向が強い人を「素質的楽観義」、悪いことが起きても、それは自分のせいではないし、一時的で特殊なことだととらえる人を「楽観的説明スタイル」といいます。言葉だけで楽観的になろうと訴えても効果は、ほとんどありません。そうではなく、母親自身が素質的楽観主義であったり、楽観的説明スタイルもっていたりすると、子どもは影響を受けやすく、楽観的なものの見方をするようになることが明らかになっています。楽観主義も、身近なモデルを通して、自然と身に付けていくものなのです。――母親自身が楽観主義の考え方を身に付けるべきなのですね。それは、ちょっと違います。私は、母親というものは、本来、楽観主義者なのだと考えています。たとえ、どのような子どもであっても、わが子を愛し、可能性を前向きに信じる力を母親はもっています。お母さんは、子育てで困った出来事に遭遇しても、楽観的な心で問題解決できる力を持っているのです。――子どもの悪い部分ばかりに目がいってしまう場合は、どのように対応すればよいのでしょうか。子どもの言動は、とらえ方一つで、励みにもなれば、重荷にもなります。臆病ではなく慎重、神経質ではなく配慮が利く、集中力がないのではなく気が回る、太り過ぎではなくかっぷくが良い。このように、子どもに気になることがあったとしても、発想を転換させ、悪者探しではなく、良い者探しをしていくことです。どんどん、ポジティブにとらえ直す試みが大事です。結論をいえば、楽観主義者になれるかどうかは「勇気」の問題です。本来持っている楽観的な力を、勇気で引き出し、豊かな暮らしを送っていただければと思います。(おわり)
January 28, 2009
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【教育―勇気の心が子育てを豊かに】聖教新聞09・1・7昭和女子大学大学院の古川真人教授に聞く《上手に“あきらめる”》――ネガティブな考え方が強いと、それだけで、エネルギーを消費してしまうのですね。そうです。大事なことは、ポジティブな感情とネガティブな感情は、よほどの人を除いて、両立しないという点です。つまり、ポジティブな感情を維持、または促進させれば、ネガティブな感情になる暇がないのです。これまではネガティブな感情を無くそうとしたり、緩和したりすることに熱心すぎました。これからは、いかにポジティブな面を伸ばしていくかに力を注ぐべきだと考えています。――次に、楽観主義者の特徴を教えてください。目標達成が不可能になったとき、あきらめることが上手なのが楽観主義者です。あまり知られていませんが、悲観主義者の方が、不可能だと思われることを、いつまでも努力し続ける傾向があります。あきらめというものは一般的にマイナスのイメージがありますが、決してそうではありません。そもそも、何か一つの新たな目標を決めるということは、ほかの選択肢をあきらめているともいえます。ですから、あきらめることは、新たな一歩を前向きに考えることでもあるのです。楽観主義者は、自分でコントロールできないことが分かると、別の新しい目標を掲げて挑戦していくことができます。もちろん、目標達成の可能性が少しでも見えていれば、楽観主義者は簡単にはあきられません。たとえ困難なことが起きても、粘り強く目標達成に向けて努力できるのも、楽観主義の特徴です。(つづく)
January 27, 2009
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昭和女子大学大学院の古川真人教授に聞く《エネルギー消費に差》――楽観主義の意味を教えてください。楽観主義とは本来、目標達成(理想、あるべき姿)が困難な、あるいは不可能な状況になったとき真価を発揮される、心の在り方を指します。困難な状況に陥ったとき「苦しい」と悲観的にとらえるよりも「大丈夫、乗り越えられる」と考える方が、問題解決に効果を発揮するのです。近年の研究により、楽観主義は、こうした困難なときだけでなく、子育てのような日常生活の中でも、暮らしを豊かにする効果があると判明してきました。――どのようなことが分かってきたのですか。楽観主義の基盤にある「楽しい」「うれしい」「幸せ」といったポジティブ(積極的・肯定的)な感情の働きが、明らかになりつつあります。つまり、物の見方・考え方・行動は、ポジティブな感情にあるときに拡大・進展することが判明してきたす。裏を返せば、創造的で斬新な見方や考え方は、ネガティブ(消極的・否定的)な感情の出にくいともいえます。こうした「悲しい」「苦しい」「怖い」といったネガティブな感情にあるときは、それだけでエネルギーをかなり消費し、疲れやすくなります。一方で、ポジティブな感情にあるときは、心のエネルギーが、ほとんど減りません。その結果、疲れにくいため、さまざまな活動にエネルギーをつかえるのです。人間が一日に使えるエネルギーの量は、決まっていると考えられているため、基本的な発想が、ポジティブか、ネガティブかで人生に大きな差が生まれるといえるでしょう。(つづく)
January 25, 2009
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