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こんにちは、皆さん。最近の私は、シーズンで忙しすぎる仕事以外で集中していたことがあります。「子育て支援サポーター養成講座」の準備でした。私のパートは「子どもの安全」子どもをお預かりする間の事故を防止するための内容や、心肺蘇生法の方法等の救急法、そして練習人形を使う実技が主な内容です。この講座を引き受け始めて、何度か講座を実施するけど、その度に改善事項が増えてくる。子どもの事故防止の内容についてもそうだし、最近のトピックで、心肺蘇生法の国際ガイドラインの改訂に伴った内容の研究ももっと進めていかないといけないと思っている。特にBLS(一次救命処置)に加えて実施するPBLS(小児一次救命処置)をどう盛り込んでいくかが、今後の課題です。次の講座までにもう少し勉強しなくては。担当の方と話したんだけど、スキルアップ講座も必要になってくるかもしれないという部分もあるので、PBLSを加えた心肺蘇生法の勉強をもっと進めていかなくてはと思っています。やはり、大切なのは日々の精進なのだと、もっと少しずつでも頑張っていかなくては。それでは。
2012年07月31日
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こんにちは、皆さん。オスプレイ…来てしまいましたね。岩国に。次はいよいよ沖縄に持ってくるのでしょう。それなのに、いちいち岩国基地に下ろす神経がいまひとつ分からない。まぁ、岩国基地の回りでも少しは飛行訓練したいのでしょうね。海の向こうには、朝鮮半島があるわけですから。そこの軍事的な状況を考えると、ここから飛ばすかもしれないくらいの意識があるんでしょうね。北朝鮮のこともあるし。アメリカにしてみれば、日本に適当に安全性には問題ないとか言って、一回は飛行訓練してから、普天間基地に持ってこようと言う腹なんでしょう。見え透いてますね、アメリカの考え方なんて…所詮、こんなもんですよ。さて、こんなオスプレイの騒ぎの中にあって、その隙間から何か少し見えていることを見つけたので、一応ご披露しておきます。一つめ、オスプレイを配備するのを反対しない人…結構いるんだなぁということ。民主党の皆さんは半分そうだし、上の人間は反対すらしていない。そして、最大野党の自民党も反対の声はあんまり聞かない。当然と言えば当然。民主党政権になる前は、アメリカの言いなりになって日米安保体制を推進してきた当の本人たちに、反対できる訳がないよね。だって、そもそも普天間基地の辺野古移設を決めたのは、自民党・公明党でしたよね?たしか…パッケージとか言って、それを引き換えにしてね。自民党側にいた仲井間知事が反対しているので、「沖縄の世論は反対と言っている」みたいな当たり前のことを言っているけど、本音を言えば、結局それは沖縄で言っていることで、東京の永田町にいる皆さんには全く関係のないことと思っているのでしょう。ねぇ、谷垣総裁、正直言ってそうでしょう?どうです?辺野古移設反対できますか?オスプレイ配備に反対できますか?度胸があるなら、民主党と違うと言うのなら、言ってみてと思うくらいです。まぁ、民主党も自民党の政党の違いは今や(いや、以前から)「頭に自由がないだけの違い」程度の政策の似た感じに、思わず苦笑も覚えます…ふふふ。(消費税についてもね・笑)公明党もみんなの党もだんまりと言うか、こんな損になることに発言したくないみたいなずるい考えが働いているのか知りませんが、何にも聞こえてこない。おかしな話ですね、結構国会議員さんいるはずなのに。何も考えていないのかもと心配するくらいです。国民新党は、○○○さんが1人気を吐いている気がするくらいで、他のメンバーはこれも引っ込み思案だし…残りの野党さんくらいかな?反対を言う人は。二つめ、「安全確保」の前の「安全性」なのに、順序逆過ぎであること。政府は「オスプレイの安全確保」に躍起になっているけど、そもそもこのオスプレイは機体は安全なんでしょう?安全なオスプレイに安全確保を言うのは、心のどこかに自信がないんでしょう。「もしかして落ちるかもなぁ」ってどこかで思っているんでしょう?オスプレイが落ちる原因は、要するに「操縦ミス」なのでしょう?操縦するのが難しいからなのでしょう?なのに、操縦する人間の問題は全く問題にせずに、安全ですよ、安全ですよと言われても、矛盾していることを言ってる気がしてならないんです。アメリカは、オスプレイを操縦する人が、どれだけ「優秀なパイロット」であるかを保証する責任があります。実際に操縦する人間の訓練の習熟度はどのくらいのものなのか?操縦する人の経験はどれほどなのか?この「安全とされる」オスプレイでの飛行時間はどのくらいやったのか?十分な飛行経験を積んだのか?みんな通り一遍に「機体は安全」と言うが、ならば、それの操縦について十分な飛行経験をさぞかし積んだことでしょう。何千時間とか旅客機の機長並の飛行経験や操縦技術と同等の高度な操縦士が、アメリカ海兵隊にはわんさかといることでしょう。そこはちゃんと確認したい所ですね。三つめ、海兵隊の役割から考えて、日本の防衛とは本来何にも関係ないのに、なぜ置いてあるのかな?日本に。その問題は結局誰も見てみない振りをしていること。日本の国是として「専守防衛」「国権の発動たる戦争の放棄」を謳っているのに関わらず、なぜ先行部隊である海兵隊を日本から派遣するの?日本の防衛のためにいるのは、あくまでも「アメリカ陸海空軍」だけで、「アメリカ海兵隊」は違うと思うんです。アメリカ海兵隊が、日本にいるのはアジアの一部の国に対して、真っ先に戦争をしかけていくためにいるのであって、日本本土の防衛のためではないんです。アメリカが戦争を仕掛けるのを助けているのであるから、刑法的に言えば「共犯」ですよ。イラクに行ったのも、アフガニスタンに行ったのも、ベトナムに行ったのも、みんな沖縄の基地から出ています。日本は沖縄を通して、アメリカの仕掛ける戦争に加担、下支えしてきたんです。日米安保体制と言うのは、北大西洋条約機構(NATO)とは違うと私は学習してきたし、理解しています。そもそもの日米安保体制は、日本が有事の際にアメリカが協力してくれる見返りとして、基地を提供して不安定なアジアに対して、冷戦下のソ連に対しての抑止力として睨みを利かせ、なおかつ日本の独立性も尊重しながら成り立ってきたはずです。それなのに、何と言う体たらくなのでしょうか?日本は独立国どころかアメリカの支配下にあるようです。主権者の意見を全く無視する形で、積極的に日本の主権を侵害し、空の危険を増長させ、国策のためには住民が犠牲になっても構わない的なまるで「沖縄戦」さながらです。今回のオスプレイの配備は、本当に大事な問題です。命に直結する問題として。今日も那覇空港に行った時、空港を飛び立ったF-15?のエンジン音の大きさに恐怖すら覚えたものです。あれでさえも、最近墜落したんです。(落ちたパイロット、遺体見つかったかなぁ…)あんなに落ちない、落ちないしているものも落ちてしまうのが事故なんです。ましてや、事故が何度も起きているオスプレイを、無理やり導入しようとするこのやり方。もう何とも表現できないくらいに「馬鹿じゃないか」と言う憤りを感じます。私は沖縄国際大学の卒業生ですので、宜野湾市と言う土地は思い出深い愛着のある地域の一つです。その地域に住む人、大学の恩師や後輩など多くの人を危険にさらすことが、絶対に絶対に許せないんです。普天間基地は早期閉鎖してしまうべき。それと何でも東村のヘリパッドもオスプレイの訓練場所として上がっているとか。あんな自然の多い静かな場所にオスプレイなんて恐ろしいものが来たら、住民の生命は健康はどうなるのでしょうか?そこに住まう野生生物はどうなるのでしょうか?グリーンピースとかという輩がいるけど、クジラ獲りの邪魔をするよりももっと有意義な抗議がここにはあると思う。この貴重な野生動物の保護に。どうでしょうか?グリーンピースさん、沖縄の自然を壊そうとする日本政府、アメリカ政府に抗議行動ができないのでしょうか?日本政府の防衛施設局や、アメリカ海兵隊に対してお得意の抗議行動してくれますか?それとも、グリーンピースの船の出港地のオーストラリアさんで海兵隊の基地、一手に引き受けてみると言うのも一つじゃないんですか?同じ英語圏だし、地域も広いし、結構いろいろ出来そうかなと思ったりして。いろいろ書いていましたが、要するにオスプレイはとっとと持って帰ってくれ!!ということなんですよ。それでは。
2012年07月26日
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こんにちは、皆さん。久しぶりに日記を書いてみようと、キーボードに向かったものの書きたいことが多すぎて、何だか頭が回らない。そんな自分に少しガッカリしてしまう自分がいるのも確か。とりあえず、今の自分の関心事の一つから話を転がしてみたいと思ってます。さしあたり考えたのが、普天間基地へのオスプレイ配備問題。まぁ、反対なのはもちろんのことだけど、そもそも…沖縄に海兵隊を常駐させることの意味は何なのかです。ハッキリ言って「海兵隊のプレゼンス」なんてのは沖縄はもちろんのこと、日本にもいらないんです。ここが極めて基本的な重要なポイントだと私は思ってます。海兵隊の主な任務というのは、敵の戦地に派遣される最初の部隊、分かりやすくいえば「殴り込み部隊」の役割なんです。アメリカの陸海空軍が戦地に行く前に、敵地に乗り込んでドンパチやるための部隊が海兵隊です。翻って、日本は日本国憲法で「国権の発動たる戦争はこれを放棄する」としているわけで、自衛隊も専守防衛を任とするものです。これに対して何ら異存はありません。日本での戦争のきっかけはあくまでも自国の防衛なのであって、戦地に乗り込んでする戦争は、第二次世界大戦の反省を踏まえて、日本国として放棄したのです。そして日米安全保障条約では、日本が外国からの武力攻撃を受けた時に、日米が一緒に対処するしくみを決めた条約のはずです。これにも何ら異存はありません。よって、日米安保条約の体制を守って、この国を守っていくためには、在日米陸海空軍が必要なのは「百歩譲って」認めざるを得ないとしましょう。しかし、しかしです。だからと言って「海兵隊はいらん」のです。日米安全保障体制を守るために、抑止力について何とか言ってますが、それは海兵隊を除く「在日米陸海空軍」が及ぼす諸外国へのパワーバランスなのであって、海兵隊が「抑止力の全て」と言わんばかりの主張はあまりにも馬鹿馬鹿しいというべきものです。敵戦地に最初に乗り込む「殴り込み部隊」が強いか弱いかで、外国への防衛抑止力を言うのはおかしな話です。海兵隊はその趣旨から考えても、沖縄とか日本とかの「占領地」に常駐させるものではなくて、アメリカにおける国境に近い最前線(アメリカで言えば、ハワイやグァムなど)に置いておくものだとするのが、常識的な考え方じゃないのかと思うわけですよ。普天間基地のように、街の中に軍用機が飛ぶ飛行場なんかいらないし、街中にないからと言って自然を壊して基地を建設するなど、なおさらいらない。海兵隊を沖縄に常駐させる必要は、アメリカには十分あっても、日本にはこれっぽっちもない。百害あって一利なしなのは、過去の基地被害の多くが海兵隊から多く発生してきたところから見ても火を見るより明らかです。日本はサンフランシスコ講和条約で、GHQの占領から脱して独立国として現在に至るわけじゃないですか。もはや戦後ではないのです。今の平成の御世は、マッカーサー元帥が日本を占領していた時代ではないのです。日本政府は自国の独立を十分に自覚することもせずに、アメリカの占領政策まがいの基地政策に何ら意見も持たず、日本国民の安全に思いを致さず、海兵隊なんて日本の防衛に何ら利益もない軍隊を常駐させて、そこからさらに大きな問題を引き起こす安全性が証明できていないオスプレイなんて飛行機を配備しようとする。私は日本はまだアメリカの占領下にいるのではないかとも錯覚しそうになります。日本政府は今こそ、独立国としてアメリカに日本国民の安全のために、自国の専守防衛のためにきちんとしたモノを言わないといけないと思うのです。オスプレイ配備拒否、普天間基地の即時閉鎖、海兵隊全戦力のアメリカ本国への帰還。日本政府がアメリカの施政権下にないのならば、外交ルートを通してしっかりと主張して、交渉していかないといけないのではないのでしょうか?これは民主党だけの責任でなく、これまでの政権政党だった自民党も公明党も、アメリカの言いなりになっている占領政策から脱して、真の独立国として本当の日米安全保障体制、アジアへの抑止力としての自衛隊・海兵隊を除いた在日陸海空軍と共同した安全保障体制を築いていただきたいのです。はっきり言う。「沖縄にも日本にも海兵隊のプレゼンスはいらない」「アメリカは自分達でも十分に運用できてない訓練不足のオスプレイの配備を日本に押し付けてはいけない」「街中にある危ない軍用基地である普天間基地はこれ以上運用してはいけない」この「3ない」はぜひ分かってて欲しいもんです。日本の偉い人たちは。外務省は日本自体のアイデンティティの存続をかけた交渉をして欲しいし、防衛省には海兵隊なんて日本の防衛に無意味な部隊を常駐させないで、既存の在日米陸海軍のプレゼンスを必要最小限にした上で、自国の防衛は自前でやっていく真の自衛隊を目指して欲しい。いろいろと書き連ねてきたんだけど、結局は「オスプレイいらない」は当然だけど、その前に「海兵隊はいらない」ってことなんですよ。それでは。
2012年07月03日
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こんにちは、皆さん。最近、話題になっている「埼玉三郷・千葉松戸殺人未遂事件」に関して。私は市民安全アドバイザーと同時に、地域防犯リーダーというのも肩書きの一つとしてもっております。まぁ、最近は防犯面での活動はご無沙汰なのですが。私が今回の事件報道を見て感じることは、また「犯罪原因論」に回帰しているなということです。「犯罪は人が起こすもの」という概念に支配されすぎて、一番肝心なとこが見えなくなっている気がします。その少年がたくさんの刃物を持っていたとか、グロいのが大好きだとか、犬猫では満足できなくなったとか怖い話が並ぶだけでは、事件はなくならないのです。かえってマスコミでそこを強調しすぎると、同じ動機を持った人が自己顕示欲を満足させるために、模倣犯を増長してしまうことになりかねません。今回の事件報道で見聞きするところで調べると、なぜこういった通り魔事件が起こるか、私にも分かります。それは発生場所が「入りやすく」「見えにくい」場所という、犯罪危険の大きい場所で起きているのに気付くからです。発生現場の映像や地図をみると、例えば公園と空き地に挟まれた閑静な住宅街、閑静な住宅街から離れる小さな路地、周囲に民家が少ない農地沿いの路上となっていて、すべて犯罪者がその場所に周囲の目に気付かれることなく入って来やすく、またその犯罪の発覚が気付かれにくい、目に見えにくい場所で発生しています。表題の「機会なくして犯罪なし」は、犯罪機会論で有名な小宮信夫先生の言葉です。犯罪機会論について簡単に説明すると、犯罪はこれまで「人が起こすもの」と考えられてきたが、必ずしもそうと限らないということです。犯罪の発生には、犯罪を誘引する場所(入りやすくて見えにくい場所)があって、そういった犯罪機会のある場所にターゲットが入ってしまうことで犯罪が起こってしまうのだと。よって、犯罪を誘引する場所を避けて通る、パトロールなどをする、環境を改善することによって、犯罪機会をなくしていけば、いくら犯罪を犯そうとしても、出来なくなってしまうというのが犯罪機会論の考え方です。では、これからの模倣犯等に遭遇しないようにするには、どうしたらよいかということですが、犯罪機会のある場所に近付かないのが、一番の方法です。犯罪機会のある場所には、先ほどから書いている二つの特徴があります。「入りやすくて」「見えにくい」ところです。まず「入りやすい」ということですが、これは犯罪を犯そうと思う人が、入って来やすく、逃げやすい場所です。駐車場・駐輪場・空き地・公園・ショッピングセンターなどです。それに「見えにくい」という要素が加わると、犯罪機会はさらに大きくなります。周囲から目に付きにくい場所、あるいは目の行き届いていない場所がそれに当たります。例えば、高い塀が続く道、木(雑草)がうっそうと茂っている場所、路上駐車の多い道、落書きやゴミが放置されている公園や管理されていない場所(空き家・廃屋等)、街灯が少ない道などがあげられます。もちろん、このような犯罪機会のある場所の環境を改善するのも重要ですが、一番大事なのはこのような危険な場所に「絶対に近寄らない」ことです。どうしても、通らねば仕方のない状況ならば、「一人では絶対に行動しないさせない」ように努めなければいけません。たとえ犯罪を犯そうと、そこに待ち伏せしていたとしても、その場所が避けられたり、複数名で歩いていたりすれば、犯罪に至る危険性はずっと小さくなります。そして私たち一般市民が、保護者の皆さんが出来ることは、私達が参加して、あるいは地域を巻き込んで、犯罪機会のある場所に人の目を当てることです。パトロール、防犯カメラなんてあからさまな防犯活動に限らず、犬の散歩、ジョギング、見守り活動、一戸一灯運動などの日常生活の一つ一つが、人の目地域の目を増やして、犯罪機会を奪っていくことになります。以前、紹介したことがありましたが、今の季節「クリスマスイルミネーション」は、防犯面での効果が期待できると思います。最近はLEDという消費電力の少ない灯りが一般的になりましたので、気軽に使っていただけるのかと。できれば「青い色」のイルミネーションはいかがでしょうか?研究によると「青い色」の照明は犯罪抑制効果が高いという報告があります。これからも頻繁に出てくるこういった模倣犯、あるいは引ったくり、強盗、性犯罪などの凶悪犯の防止のために、これを機会に犯罪機会の低下に視点を置いた防犯活動に取り組むことが重要と考えます。もちろん警察の取り組みも大事ですが、私たちだけではなく地域の皆さんも含めた多くの人々の協力を得ることが大切です。みんなで地域の犯罪危険の芽を摘んで、このような犯罪の防止を進めていきたいものです。最後にもう一度、強調します。機会なければ犯罪なし犯罪のない安全な地域社会のために。それでは。
2011年12月09日
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こんにちは、皆さん。何なんでしょうね…沖縄の天気が何となく不順なのに、この憂鬱感。沖縄防衛局長の田中さんって人が、更迭されて官房付になったそうです。もう皆さんもお分かりの通りなので、報道内容を改めてなぞったりしませんよ(笑)マスコミで一斉に伝わっている発言が事実か?防衛省での聞き取り内容が事実なのか?口から出たことをもう今さら云々しても仕方のないところ、ましてや酒の席。とりあえず、私が申し上げたいことをいくつか列挙します。まず、マスコミで伝えられた発言が事実だとすれば、まさにこれは「犯罪者心理を見事に表現してのけた」と思っています。少なくとも私が事件報道などで見聞きする女性などへのレイプ事件の犯人のような物言いですよね。「これから犯す前に犯しますよと言いますか」という言葉。まぁ、防衛大臣は今後1週間か2週間の間に、辺野古移転への環境影響評価書の提出をするのでしょうけど、その時にも「何も予告することなく」いきなり「やる」んでしょうね。犯罪者の心理とは、そんなもんだと思います。レイプする前にレイプしますと予告する犯人なんていやしない。いればよっぽどの変態でしょうね。次に、防衛省での聞き取り内容が事実だとすれば、いくら酒の席だからといっても、言っていいことと良くないことがあるということを知らない人イコール「空気の読めない人」と考えざるを得ないですね。上級公務員はもっと頭のいい人と思っていたけど、実はあんまり頭の程度は、私たち一般市民と変わらないようです。田中さんの防衛省での聞き取り内容を、読売新聞から引用しますが。読売新聞の記事によると…「『やる』前に『やる』とか、いつ頃『やる』とかということは言えない」「いきなり『やる』というのは乱暴だし、丁寧にやっていく必要がある。乱暴にすれば、男女関係で言えば、犯罪になりますから」といった趣旨の発言をした記憶がある。と言ったそうで、「やる」とは言ったけど、「犯す」とは言っていないとか。だけど、自分の発言を振り返って「しかしながら、今にして思えば、そのように解釈されかねない状況・雰囲気だったと思う」と軽はずみな言い方だったと自戒している様子。田中さん、あなたがここで言ったことは、沖縄県で言うべきでない言葉です。新橋のガード下での同僚と酒を飲みながらの会話とかだったら、問題になんかならない物言いも、環境影響評価書の提出について、とってもナイーブになっている沖縄県民にとっては大問題です。「環境影響評価書の提出をする」=「やる」と言うことはイコール、このことに対して「さほど重要でない」と考えている「軽んじている」ことに他ないと言っているようなもんです。確かに防衛大臣は慎重にしているようだけど、環境影響評価書を「年内に提出する」と言ってはばからない。発言に気を遣っているように見えて、実は軽んじているに他ないですね。まぁ、犯罪者にしろ、空気の読めない人にしろ、どっちに転んでもいただけないものであることは確かなことのようです。それと「この世にオフレコなんて存在しないのだ」と言うことを、政治家や公務員の皆さんは、いい加減に気付くべき。上級公務員のような頭のいい人たちが、なぜ他人の失敗に学ぼうとしないのか?私は不思議でしょうがない。ほら、思い当たる節があるでしょう?最近、舌禍で第一線を去った人のこと。彼も上級公務員の一人であったものの、口から出た言葉で更迭された人。そう、ケビン・メア氏。あの人が辞めた、いや辞めさせられた経緯を見ると全く田中さんと同じような流れです。あとから「いや、私はそんなこと言っていない」と言ってみても、誰も信用なんかするわけない。言葉尻をとらえただけでは、あの「ゆすりとたかりの天才」だとか「ゴーヤーすら作れない」なんて話が出てこないもの。メア氏は日本通と聞いていたけど、どうやら「火のないところに、煙は立たない」という言葉は、ご存知ではなかったようです。(失笑)非公式の懇談・非公式の会見…「非公式の」と頭に冠していても、政治家や公務員の皆さんは、どこに行っても、家で寝ていても、トイレの中で用を足している時でも「公人」なんですよ。「公人」が何かをしゃべれば、それは「壁に耳あり、障子に目あり」よろしく、すぐに明らかになってしまう。失言…それは、オフレコの場から出てくるんですよ。(笑)まぁ、アメリカや国やすることなんて、所詮決まっている。沖縄が言うことを聞かないと見たら、特措法を作って、無理矢理に法的根拠を作り出して、「合法的に」見せかけて基地建設を強引にスタートさせるのでしょう。辺野古では、反対する住民たちを力でごり押しして、住民に銃剣でも突きつけて、ブルトーザーを入れて、そう沖縄戦が終わってからすぐ後のアメリカ軍による強引な基地接収をするように、歴史を繰り返していくのでしょう。まぁさすがにそれが憚れるとすれば、機動隊を大量に投入して、学生闘争や成田闘争よろしく鎮圧を図った後に、パトカーに先導された作業車が列を作って、キャンプシュワブを入場するのでしょうか。どこかの教科書の採択が話題になっている昨今ですが、今日の日米安保体制の基盤の始まりは、沖縄戦の後の沖縄で盛んに行われたアメリカ軍の強引な基地接収であることも、子供達に教えて欲しいものですね。日米安保体制を支える沖縄の基地は、自分の住むところや故郷を、アメリカ軍の銃剣とブルトーザーで追いたてられ、追い出されて、嘉手納基地も普天間基地も海兵隊のキャンプも出来てきたんです。その事実を教科書を作っている人は、どのくらい知っているんだろうか?話が大分横道に反れました。いずれにしても、田中さんの言葉の端々に本音が透けて見えてきた気分を見る私です。「やっぱりな」と。それでは。
2011年11月29日
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こんばんは、皆さん。ふと思い立ち、ブログを開けるとまだページがそのまま残っていました。日記の更新も2年前から止まったままで…申し訳ありません。この2年の間にもいろいろありまして、また「職業変え」をしました。とりあえず、今の職場に入って1年が経ち、ようやくこの仕事でやっていけそうだというところまで落ち着きました。これからこのブログにも、もっと取り組んでいけそうな感じがします。見てくれる人がいるかどうかは、とりあえず別として…マイナーチェンジを図っていきたいと考えています。さて、今年2011年を振り返ると何と言っても取り上げないといけないのは、「東日本大震災」のことでしょう。あの日の私は、息子の中学の卒業式に出席して、お昼ごはんを外食で済ませた帰り道にラジオから流れてきた速報で、この未曾有の大震災を知ることになります。家に帰って来て、テレビをつけて最初に私の目に飛び込んできたのは「津波がまちを襲う映像」でした。広々と広がる農地を覆っていく津波…飲み込まれていく車や家々…取り残される人々に迫る信じられないくらいの水かさの濁流…スマトラ島の大津波で見た映像が、そのまま東北地方にやってきた。そうとしか思えないくらいの光景でした。いろんなことが脳裏をかすめる中で、ふと思い出したのは、私がライフワークにしたいと思っている市民防災の分野で何年か前にした仕事で、沖縄本島南部にある八重瀬町の港川地区で行った津波に関する講演会のことを思い出していました。八重瀬町の港川地区は漁港があり、普通の港町です。この地区も津波による浸水が心配される地域で、地域の一番近い避難場所の公民館も、津波の大きさによっては津波が遡上してしてしまうくらいの危うさの海抜高度にあるんです。防災無線の設備も十分にないことから、津波の恐さをきちんと知ってもらって、ラジオやテレビなどの情報に敏感に反応して、津波警報を聞いたら「すぐ避難して」と教えたのを今でも覚えています。東北の漁港で有名な町が、津波に飲み込まれていく様子を目の当たりにした時に「これは絶対に沖縄でも同じことが起こるんだ」と強く心に思ったんです。私は被災地東北の復興に思いをいたすとともに、沖縄でもしっかりと備えないと大変なことになってしまうとの危機感を、今この時にも持っています。先日、沖縄本島で最大震度4の地震が起きました。久しぶりの地震で、皆さんびっくりされたと思います。私は揺れには驚きませんでしたが、地震の規模と震源の深さを聞いてびっくりしました。この地震のマグニチュード(地震の強さ)は6.8で、これは新潟中越地震と同じ強さです。だけど幸いなことに、震源の深さは220キロメートルと、とっても深かったので、海の底で地震が起こったのに津波が起こらなかっただけで、震源の深さが浅かったら「絶対津波が起こった」と考えるだけでゾッとしたものです。これから、このブログを通して本当に情報発信を頑張らないといけないと、そう思い立ちました。これから頑張って、皆さんに災害への備えを発信していこうと思いました。まずは、今日の決意表明から始めて…頑張ってみたいと思います。それでは。
2011年11月25日
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日にちが前後するのですが、書くことがたまり過ぎているので、どんどん前日に書くことを回していこうと思います。もし、お気付きになったら前の日記も読んでみて下さい。(平成23年11月25日編集)こんにちは、皆さん。八重山教科書問題について、私は特別な思いでこの問題を見つめています。私がこの問題を特別な思いで見つめている理由は、この問題の当事者のトップ、教科用図書八重山採択地区協議会の会長で、石垣市教育長が私の恩師だったことにあります。私の高校時代に、彼は現役の社会科教師として私の通う高校にいて、彼の授業を受けた記憶があります。その時の私の彼の印象は、こんな風に変わる人となるとは思えなかった。昔の現役教師時代の彼の一部分を知る限りにおいて、私はこんな大それたことをする人になるとは到底思えなかった。ニュース映像で、久しぶりに見る彼の顔を見るまでは。彼のこれまでの教師生活に何があったかは知らないけど、人というのはこんなに変わってしまうものなのかと…失望に似た感情すら覚えるくらいです。私の知る昔の彼は、もっと世の中に対していい意味でアグレッシブな人だったと思っていた。もしかしてそれは、私の思い違いだったかもしれない。今にして思えば。いずれにしても、八重山教科書問題については、彼には申し訳ないけど、高校生の子供を持つ保護者の一人として、偏った考え方の強い教科書の使用を認めるべきではないと思います。もし、その教科書で授業が行われるとなれば、私も反対に回るし、強制して使用されることになれば、自分の子供だけでも、沖縄で起こった戦争のこと、先の大戦で日本人が命を賭して学んだ平和の大切さ、軍事力で押さえつけて平和を保っていると思っていることの大きな間違い、沖縄でアメリカの異民族支配を受けてきたことで日本人としてのアイデンティティーを認識したこと、世界の軍事力の情勢と沖縄に展開する基地のバランスの関係が違ってきていること、日米安全保障体制のもとで沖縄だけに厳しい負担を強いて、本土の大半の人はそれにタダで乗っかっていることなど教科書で取り上げようとしないことを私なりに教えてあげたい。それと、教科書の採択に政治が介入してくるとは、どういった了見なんだと思う。ある党の国会議員が、彼にアドバイスを与えていたとか囁かれている。たぶん事実とは思うけど、それは何かを狙ったものか?考えるだけで気分が悪くなる。まぁ、教科書について政治が介入するのは、今に始まったことではないんでしょうけど。沖縄戦での集団自決(強制集団死とも言うらしいが)の件についてもそうだ。この問題について、もう何度もくどくど言うつもりもないけど、一応このことについて詳しく書いた私の日記の内容をご一読を。日記の「君が代を大きな声で歌った。」リンク貼っておきます。ああ、それと関連事項として私のHPに収蔵している言葉たちから「私が先生になったとき」と「あたらしい憲法のはなし『戦争放棄』」もリンク貼っておきます。最近、何だか物事に対して怒るのに体力がいるようになってきた。やはり年齢には勝てないのでしょうか…。歳を取るって嫌ですね。いずれにしても、この八重山教科書問題が、子供達の教育にとっていい結果に終わることを祈念して。それでは。
2011年11月24日
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(平成23年11月26日編集)こんにちは、皆さん。11月14日は何と言っても、私の誕生日。誕生日おめでとう!と自分に言ってみる。もう42歳になってしまった。以前に書いたことがあるだろうか。以前の私、そうですね…10~20代のころの私から見たら、40代はおじさんだった。そして振り返って今の自分。自分は違うと少しは思うけど、やっぱり「おじさんになった」と何となくそう思ってみたりする。外見からしても、中年太りしているし、髪には白髪が目立つようになってきた。今の新曲を歌おうとしても、歌詞の速さについていけないことが多くなった。「寄る年波に勝てない」とは、このことを言うのかと実感できる自分がちょっと悔しい。まぁ、だけど外見は変わっても、自分は自分…そう思ってはみるけれど、どこまで自分のモチベーションが保てるのか…とは言いつつも、1年ってあっという間に経ってしまう。正月と思ったら、もう年末になってしまう。それの繰り返し。やっぱり思い返して「自分は自分」という思いを強く持って、毎日を生きていこう。これからやってくる日々をありのまま受け入れよう。そして精一杯生きよう。「いまを生きる」という昔の映画があったけど、そんな気持ちを忘れずにいよう。ポジティブな自分への声かけは、自分をいい方向に向けてくれるって、何かのTVで見た。さしあたり、今日一日を頑張ろう。それでは。
2011年11月14日
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こんにちは、皆さん。前回の日記で「お仕事関係の資格検定を受けて、結果待ち」ということを書きましたが、結果が分かりました。合格してました!!やった!これで来年以降、またステップアップできるかもしれません。まぁ、まだ全然見通しも分からないところであるけれど。今年もあと半月。皆さんもお忙しい日々が続くと思いますが、健康に気をつけてお互い頑張りましょうね。それでは。
2009年12月14日
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こんにちは、皆さん。元気にお過ごしでしょうか?私は変わらず頑張って、お仕事に励んでいます。何も代わり映えのない普通の日々が過ぎていき、今年ももうすぐ終わろうとしています。ある人が言っていたのを聞きました。「単調な日常が自分を成長させる。違う明日が自分をつくるのではなくて、自分が違う明日をつくるのだ」と。まずは今の単調な日常を過ごしながら、自分を成長させたいなと、小さな願望を思ったりしてみる。最近、お仕事関係の資格検定を受けて、結果待ちです。この検定を取れたら、もしかして仕事の中でステップアップできるかもしれないんです。いい結果が出ればいいのですが。果報は寝て待てと言うことで。それでは。
2009年12月07日
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こんにちは、みなさん。ラジオを聞いていますと、懐かしいメロディーを歌うラジオカーのレポーターの女の子。「指折り数えて待っていた~♪」聞いていたら「おっ、懐かしい!」と思い、歌詞を思い出してみるも、なかなか出てこない。ひねり出して思い出し出てきた&調べてみた歌詞は、以下のとおり。指折り数えて待っていた うれしうれしい運動会空は青空 日本晴れ 赤勝つように 白勝つように○○○○○○○○(注:この部分不明)よーいどんと鳴った そら走れみんな早いぞ徒競走(注:「徒競走」ではなくて「一等賞」の説もあり。) 走れ 頑張れ 最後まで赤勝つように 白勝つようにおうちの人まで 楽しそう(注:以下の歌詞は「運動会おわりの歌」として歌った記憶あり。)見事にできたよ 運動会そよ吹く風も心地よく夕日輝く運動場赤勝つように 白勝つように○○○○○○○○(注:この部分不明)私の調べた限り、思い出した限りでは以上でした。ちゃんと思い出せなくて、何と無くムジュムジュゥする(≒ムズムズする)のです。どなたか教えてくださいませ。ちなみに・・・。最近の小学生は「ゴーゴーゴー」という歌を歌うようですね。歌詞はここにあります。歌っているのはここです。これは皆さん、知っている人も多いようなのですが。ジェネレーション・ギャップかなぁ・・・。それでは。
2009年10月06日
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こんにちは、皆さん。たまっていた日記を書いてみようと思い立ち、こうしてキーボードをたたいています。9月1日は防災の日でした。防災の日(9月1日)と防災とボランティアの日(1月17日)くらいは、防災のことについてテレビやラジオ、新聞などマスコミ各社で取り組みがされていて、いずれかには皆さんも目を通したことでしょう。あるいは、今まで防災対策として行政からとかいろいろな機会を通じて、地震の備えなどの方法など見聞きしたことでしょう。問題はここからです。なぜ皆さんの中の大半の方たちはこの一日だけで防災を意識して、すぐに意識することを、やめてしまうのでしょうか?それは「想像力を働かせないから」だと、私は考えます。いざという時に、家・職場・学校・その他の場所においてはどうなるんだろう?って想像したことがありますか?その時に「あんな時にはこうしよう」と言う考えを確認しましたか?何かが起きる前に物事を考えておかないと、起きてからでは遅いと言うことなのです。 せっかく非常持ち出し品セットをそろえても、すぐに取り出せないほど奥にしまい込んだり、持ち出す家族がタンスや家具の下敷きになってしまっては、何の意味もないんです。「備えあれば憂いなし」と言う有名な言葉がありますが、この言葉にはその前段があるということをご存知ですか? この言葉はもともと中国からの言葉で、その前段にはこうあります。「安きにありて危うきを思う」 その次に「思えば、備えあり」と続き、「備えあれば憂いなし」となります。 すなわち、ただ漫然と「備え」をして「憂いなし」と安心しててはいけないんです。 何でもない時「安き」に、災害とかそういった危機「危うき」を考える。考えるから、備えようと言う強いモチベーションが生まれる。そうしてしっかりと備えられたからこそ、「憂いなし」になるということです。 今こそ、自分のまわりを見渡して、いざと言う時を想像して、その危機をどうしたら乗り越えていけるか考えて、その上で必要な準備(備え)をすることが「憂いなし」につながるんだと言うことです。 地震だけじゃないです。この前発生したガーブ川水害事故も、ゲリラ豪雨で発生する都市河川・用水路・下水道での急な水位の上昇について、想像をめぐらして必要な対策を取ったなら、もしかして犠牲者は減ったのではないかと。このようなことは過去、県内でも県外でも多数起こっているのに「想像しきれなかった」がために、犠牲者が出てしまった気がする。 ジョンレノンじゃないけれど「imagine」・・・想像してごらんと常に呼びかけなければならないですね。それでは。
2009年09月01日
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こんにちは、皆さん。お久しぶりです。那覇市で発生したガーブ川鉄砲水事故の件。ちょくちょく書いていこうと思います。まずは新聞記事から(琉球新報 8月23日配信)「『胴長靴』で動けず、水浸入に注意書き ガーブ川鉄砲水事故」という記事です。胴長靴が危険でって言う話は、救出された方のお話で聞いていたけど、ああやって製品注意事項に書いてあるとは知らなかったな。まぁ、業界の人たちは胴長靴に水が入ると動けないということは気付いていたわけで、それはそれで。私が問題にしたいのは、そこじゃなくて。「誰が胴長靴をはけと指示したのか?」ということです。記事に書いていることを、私なりに要約すると結局、「指示は亡くなった現場監督責任者が行ったもので、会社は何もしてない」ということになる。常識として頭に留めてて欲しいんですが。下請け業者や孫受け業者にとっては「元請けの言うことは絶対」ということです。下請け業者や孫受け業者は、必ず元請け会社の指示に従わなければならないのです。元請け会社が「シロ」と言えばシロなのです。そんな世界なんです。ましてや、元請会社からくる現場監督は「元請会社の代表」みたいなものです。まぁ、実際は元請け会社から派遣されてくる一社員なんでしょうけど。それでも、その人の言うことを聞かなければ、すぐに契約を切られるか、次から絶対に元請け会社から指名は来ません。記事では「現場監督責任者と下請け業者とのメールのやりとりの中で『念のため胴長靴を用意してくれ』という指示を確認した」と書いてある。その下請け業者への指示が、孫受け業者の方にいくと、それはまるで伝言ゲームのように「念のため」が取れて、代わりに胴長靴を「準備するように指示され」、孫受け業者は実際に「急いで調査開始の前日に購入した」わけです。今までこの手の調査では、胴長靴を使ったことがないのに、元請会社(この場合は現場監督責任者)からの指示で使ったされています。それもわざわざ買ってまで準備しないといけないことになります。しかし、元請け会社は「なぜ胴長靴を使用したのか分からない」「社内マニュアルで使用を義務付けていない」「なぜ使用の判断をしたのか分からない」と言っている。つまるところ「指示は亡くなられた現場監督責任者によって行われた」と。果たして、本当にそうだろうか?現場監督責任者は普通、その元請け会社の社員が来る。会社の社員なら自分の会社のマニュアルや規則、暗黙の了解までみんな従うはずだ。なのに、このコンサルタント会社(間瀬コンサルタント)は、いかにも現場監督責任者が勝手に指示したと言わんばかりです。これはまさに「死人に口なし」なのであって、それ以上でも以下でもない。このコンサルタント会社は、こういう仕事をよく受注してるみたいだけど、みんな極端な話、胴長靴をはいてやっていたんじゃないかとも疑いたくなる。今までの仕事で胴長靴をはくと言う慣れが、胴長靴の危険性を顧みない使用となって現れ、鉄砲水が起きた時にはもうダメだったと?コンサルタント会社さん、あなたの会社では現場監督責任者に会社の方針の「全権」を担わせているのですか?会社からは現場監督責任者に指示は一切しないと?ウソは言わない方がいい。現場監督責任者は「元請け会社から派遣された者」であって、現場監督責任者の言うことは「元請け会社が言うこと」として下請け業者や孫受け業者は考えるはずです。亡くなられた方に罪をなすりつけるのは、大人としてあり得ない行為です。どうぞ、よく反省して下さい。だって、人が亡くなられているんですから。それでは。
2009年08月23日
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こんにちは、皆さん。先日の日記に書いたとおり、日本郵政の西川社長は本当の民間会社なら「クビ」になっても当たり前だけどどうやら違うらしいということも書きました。その上で今日の報道に触れて、呆れたと言うか何と言うかです。『西川郵政社長「自ら処分検討」』記事によると、「私自身のけじめの付け方について一定の処分を考えていきたい」と言って、一定期間の減給などの処分を考えているみたいです。日本郵政で起こっている「かんぽの宿だけじゃない」諸問題について、西川社長が社長としての責任の取るやり方ってそんなもんじゃないでしょう。世間の皆様をお騒がせしたこと、郵政改革に不信感を与えたこと、実際に郵便サービスが低下していることについて、こんな小手先の処分が、果たして株主である財務大臣=国=国民に対する誠意あるけじめと言えるのだろうか?人間は、経験則からよく分かると思うけど自分で自分を叩こうとしても、思いっきり叩けないものである。自分で自分の首を絞めようとしても、なかなか絞められないものである。無理心中しようとして、家族のみんなに手を掛けたのに、自分だけ自殺し損ねて警察のお世話になるという話は、日常茶飯事になってきている。西川社長とて同じこと。自分で自分を叩こうとしても、自分が罰されるほど痛く叩かれるわけじゃない。ましてや、会社のトップにある人が就業規則上か何かにあるかは、知らないけれど減給だけで処分しようとしている。日本郵政の職員の処分なら、社長がすべきだけど。日本郵政社長の処分って誰が出来るのか?それができるのが、監督官庁である総務大臣だし、株主である国(財務大臣)じゃないの?自分で自分を叩くというような、アマアマなことはやめて欲しいものです。それがまともな「けじめ」と受け止める人は、どこにもいないのだから。それでは
2009年06月18日
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こんにちは、皆さん。やっぱり「長いものには巻かれる」のでしょうか?鳩山邦夫さんが総務大臣を罷免させられましたね。やっぱり思うんですよ。何でそうなるのかな?って。鳩山さんは、日本郵政グループを所管する大臣として、きちんと許認可の役割を果たそうとなさったんだと思います。日本郵政という会社は、元は国の税金で運営されていた郵便行政でしたよね。それが郵政民営化ということになって、民営化しましたと。民営化といっても、この株式会社の株はすべて国(財務大臣)が持っていて、この日本郵政の事業自体が株主=日本政府の方針で動いていることになってますよね。だから、日本郵政の社長の就任には総務大臣の認可が必要なんです。株主である国が、その会社の事業において、その意向をきちんと意見し、その意向を反映させるために。いわゆる国は日本郵政にとっては「物言う株主」ってことであると言っても過言ではないですよね?このことをきちんと踏まえておかないとね、間違った立場で認識している方もいると思う。「民間の会社に国がとやかく言うのはいかがなものか?」と。日本郵政は今も「国営会社」なんだということをしっかり押さえないといけないのでは?今ではなくて「今までの」日本郵政の問題を、民間の会社に当てはめるとこうですよね。かんぽの宿、これは郵便局の簡易保険の保険の収益で作った宿泊施設なんですよね。もともと、国のと言うよりは、簡易保険に入っていた加入者の貢献があって作られたものですよね?宿とは違うけど、かんぽレクセンターとかも同じ性質のものですよね。これら、せっかくのまさに加入者=国民の浄財を使って建てた、それも結構の費用で建てたこれらの施設を、タダ同然の金額で売却しようとしていたってこと。これにきちんと気付いて、ちゃんと問題にした人(=鳩山邦夫氏)が政府の大臣にいたからがこそ、国民の尊いお金で作ったこれらの施設を、タダ同然から白紙撤回して、もっとマシな値段で売却する線に道を開いていけたのだと思う。普通の民間の会社なら、こんなことしたら取締役会や株式総会で相当たたかれて責任とって、即辞任。決定権の無い会長みたいな形に押し込まれるのが関の山でしょう。ただ、日本郵政という「会社」では、そんなつもりはサラサラないようですけど。東京中央郵便局問題については、少し分かれるとこだけど。いったん決裁したけど、よくよく考えてみると全部壊したら、文化的価値が失われるという判断に動いたもので理解できる。日本郵政が民間の会社なら、このような明治の時代から数えて「創業百何十年」のこういった歴史的建造物の文化的な価値をあえて残して社会に発信していくと、日本郵政のイメージアップにも繋がったんじゃないかなって。企業のイメージアップ、特に歴史を語ることができる会社はそんなにない。日本郵政はチャンスがあるのに、そんなことすら出来ないのであれば、民間の会社としては失格でしょうね。西川社長は利益を2倍にしたということも言われているけど、これらの中には積極的な経費削減や郵便局の統廃合などにもあるんでしょう?過疎化地域や離島地域においては、このような郵便局の縮小の影響を多大に受けているようです。これらの地域には、少子高齢化時代の昨今、お年寄りの方々が多く、郵便サービスは高齢者の大きな助けになっていたと聞きます。それが縮小されて不便を強いられていると。民間の会社は「顧客」と言うのを大切にするが「本分」のはず。重要な顧客は金持ちだけじゃなく、地方で一生懸命生活している高齢者も立派な顧客だと思いませんか?あまりにないがしろにしすぎるのも、果たしていかがなものかと。街角で見かける郵便ポストも明らかに数が減っているし、パソコン使ってメールうったりするような私達ならまだしも、手紙世代の高齢者などはどうするんだろうか?その辺にも全然優しくないというか、顧客に向いてないというか他を向いて商売している気がしてならない。郵政民営化にするってことは、郵便を公務員がやらなくなることで、「国民全体の奉仕者」でなくなったということなんだろうか?日本郵政こそ、顧客は「国民全体」と考えて仕事をすべきではないでしょうか?そして「障害者団体向けの割引郵便制度を悪用したDM問題」、日本郵政の関係者も黙認していたとして郵便法違反として略式起訴して略式命令を受けている。なぜ略式起訴になったかと言うと、新聞記事によると「個人的利得がなく、会社ぐるみで長年不正を黙認していたことが分かり、公判請求を見送った」(08年6月8日21時34分 毎日新聞配信記事)おやっ?「会社ぐるみで長年不正を黙認していた」って言葉を聞いたら、普通民間の会社なら社長が「道義的責任」を問われるものでしょう?これも誰かさん風(最近女性問題で辞任した内閣の要人のあの方のように)に言うと、まさに社長は「打ち首」ものでしょう?それとも、日本郵政の社長は単なる「雇われ社長」ということなのでしょうか?さて、話戻って。日本郵政は財務大臣が株主の会社であると。株主は民間会社なら株式総会で普通に問われそうな、このような問題を見て見ぬ振りして、誰にも道義的責任を取らせようとしないで、幕引きしようとしてないか?それとも株主自体が、自分が全ての株を持っているその会社が、社会的に明らかに悪いことをしているのに、それを追求せずに黙認しようと言うのでしょうか?それは、もしかして国は株主として意思がないのか?日本郵政から弱みを国である株主が握られているのか?そんなくだらないことを疑いたくなるものである。それどころか「郵政民営化に反対なのか?!」と言う話になると目も当てられない。今の内閣にいる人は「一部を除いて」・・・郵政民営化に反対しなかった人が多かったんじゃないかな?少なくとも鳩山邦夫氏は、郵政民営化に反対だとは聞いたこと無い。総務大臣に日本郵政株式会社の社長の認可の権限があるのは、何のためだろう?国が全部株式を保有する株主だからこそ、その業務が適正に行われているか監督する義務があるし、その会社の社長になる人は、やっぱり国から認可されるべき人だからでしょう?果たして、今の日本郵政の社長にはその責任が果たせているかどうか?疑問ですね。ちなみに日本郵政株式会社法第16条によると、財務大臣と協議しなければならない事項に「取締役等の選任等の決議」での「認可」は入っていません。これは株主である財務大臣と、社長を含む取締役等を選任する際の認可をする総務大臣との役割の違いをハッキリさせたものと言えるでしょう。なぜか?「認可を与える国と株主である国は別の存在でないといけない」すなわち、国が民間に介入しないことを貫くためのものでしょう。正直言うなら、当初マスコミがよく調べもせずに「閣内不一致」を持ち出すから、こんなことになったんじゃないかな?なんて思ってしまいます。認可を与える側と株主で意見の食い違いが出てくることはありうるわけで、認可する側が適切ではないと判断すれば、認可しないというのは法律に基づくやり方や国の施策・方針の実現、健全な事業の推進のためには必要なことだと思う。国・大人は子供たちに対して、恥ずかしくない、説明できる行動を取るべきだし、よりよいあり方を示してあげるべきだと思う。「きまり・ルールはきちんと守ること」「人の話を聞く時は、おしゃべりしたり、大声を出したり、悪口を言って邪魔をしないこと」「お金の無駄遣いをしないこと」「悪いことをした時は、悪いことをした人が、ちゃんと謝ること」「人が悪いことをしたら、それはやっちゃダメだよとハッキリ言うこと」などなど。もっといい大人になりましょう。それでは。
2009年06月13日
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こんにちは、皆さん。先日といっても、もう去年になりますが。「何か違う気がする」というタイトルの日記をアップしました。今日はその第2弾です。 またその話?と言われればそれまでですが、私にとっては重要な問題なのです。 6日の朝、インターネットニュースに配信された(TVでは5日には報じられていたかと思うのですが)記事に意見します。記事のタイトルはこうです。「保護者7割「公表望む」 全国学力テスト学校別結果 市区教育委は9割近く反対」記事の中身を普段は引用しないのですが、一部引用します。『小学6年と中学3年を対象に文部科学省が実施している「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)の学校別結果について、保護者の67・3%が公表すべきだと考えていることが5日、政府の規制改革会議で報告された調査結果で分かった。一方、市区教育委員会は86・7%が公表すべきではないと回答、「過度の競争」を懸念して学校の自主的公表以外を認めない文科省の方針を支持しており、保護者と行政側との意識ギャップが浮き彫りになった。 保護者が学校別成績の公表を求める理由は「学力向上は学校(教員)の責務だから」が56・8%で最も多く、ほかに「学校選択のための基本情報」「説明責任を果たすために公表は当然」など。公表すべきではないとする回答は10・5%。 都道府県・政令市の教委で公表すべきではないとする回答は65・1%で、市区教委を下回り、大阪府や鳥取県など公表に積極的な知事がいる現状を反映した。 規制改革会議は昨年12月の第3次答申で「多大な公費に見合う情報が国民に公開されていない」と指摘。今回の調査で指摘が裏付けられたとしている。一方、塩谷立文科相は同日、「公表した場合の弊害を保護者がどれだけ理解しているか疑問。学校や教委は説明して理解してもらう必要がある」とコメントした。』 まずは「そもそも論」から、私の意見は始まります。そもそも、政府の規制改革会議の指摘の仕方がおかしいということ。「多大な公費に見合う情報が国民に公開されていない」というのは、どういうことだろうか? 国は、この全国学力テストには「多大な公費」がかかっていることを認めている。それなのに、このテストすることの意義・意味が分からない。その上テストやって都道府県・学校を順位付けすることに何の意味があるのだろうか?そんなこと何ら意味はないのです。 前には書きませんでしたが、この全国学力テストは科学的「ではない」ことも、皆さん気付いていると思う。本当に学力を科学的に測定しようと思えば、テストは3回以上は行って、データ蓄積を行い、そのテスト結果から傾向等を分析していくのが「科学的なやり方」である。この全国学力テストは明らかに回数が少なすぎ。これは科学的検証というより、私からみれば予算を執行して一生懸命やってますよという「アリバイづくり」に過ぎないということ。「多大な公費」を使って、「アリバイづくり」をするくらいなら、全国学力テストなんてお止めなさいよと言うのが、私のそもそもの意見です。 関連して「多大な公費に見合う情報が国民に公開されていない」とおっしゃるが、「多大な公費に見合う(国民に向けて公開する)情報」ってそもそも何でしょう?いまひとつ理解に苦しむ。こんなに公費使ってやっているんだから、都道府県順位だけではない市町村やその中の学校順位も、公表しなさいと言いたいのだろうか?その全国学力テスト自体の意味や目的を振り返って考えれば、そんな情報(都道府県順位、市町村順位、その中の学校順位)を公開することは、必要だろうかということである。 聞いたところによると、そもそもこの全国学力テストは、日本全国の児童生徒の学力(今の子供たちの学習において何が不足しているのか?)を分析して、世界に誇れる学力まで向上させるための方策を検討するために行うものであって、小・中学校での順位の結果を公表するためにやっているわけじゃないはず。 保護者の中には、このテストを大手の塾や予備校がやるような全国模試と同じように考えているかもしれないけれど、そんなものとは訳が違うということを十分分からないといけない。何せ、国が行う全国一斉に特定の学年の子供が全員受験するテストなんて、そんなの日本国中探してもどこにもない。だから、このテストで出てくるデータは、民間がやる全国模試よりももっと信頼性があることになる。 しかし、ここで改めて申し上げておきますが、私は全国学力テストは無意味だという立場には変わりはありません。私が言っているのは、民間の全国模試と比べてデータの信頼性が高くなるということだけの話。比較論と言ってもいいでしょう。そういうこと。 あと、これは以前書きませんでしたが、よく考えてみると日本全国同じ基準で勉強させるために「教科書検定制度」がある。学力が日本全国で大きな差があるなら、それすら意味が無いのだろうか?それなら、これからの子供たちにとって大切なこと。沖縄で起こった『集団自決(まぁ、集団強制死って言う人もいるようだけど)』という歴史的史実もきちんと教えるべきです。横道にそれました。とりあえずそれはさておくことにして、今度は保護者が学校別成績の公表を求める理由について、突っ込んでみたいと思います。1.「学力向上は学校(教員)の責務だから」が56・8%で最も多く? →学力向上以前に家庭教育も十分できない保護者が何を言うのかと思う。学校に来るまでの「生活習慣」はどうなっているんだ?「早寝早起き朝ごはん」はできているのか?
2009年06月06日
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こんにちは、皆さん。どうしてもおかしいと思うことがあります。昨年12月の金武町でのナンバープレート銃撃の件で、米海兵隊の独自の報告書ができたらしく、それによると「銃弾は武器訓練と関連なし」と結論付けた。そのニュースに触れた時、思わず「はぁ?」と思ったのです。あの銃弾は確かに米軍が使っている「重機関銃の弾」なのに、何故そんな結論にたどり着くのだろうか?重機関銃というのは、こんなにすごい兵器なのに。こんなすごい武器を誰が持っているのか?ってことだ。これが米軍から発射されたものでなければ、この銃弾は誰が撃ったんだい?自衛隊でもないって言ってるよ。じゃぁ・・・誰なんだ?この銃弾を撃ったのは?町中で重機関銃が発射されたということは、米軍から重機関銃が流出したってことか?ということは、これは「銃規制社会」への挑戦といえるよね?これは「器物損壊」どころの話じゃない。「銃刀法違反」にもなるよね?米軍じゃなければ誰なんだ?もし「銃弾は武器訓練と関係ない」というなら、訓練などの公務ではないと言うこと。ということは、公務外で重機関銃がぶっ放されたら、銃撃した人は罪を問われても仕方がないはずである。沖縄県警察は警察の威信をかけて、この重大犯罪に関わった人を逮捕する責任があるはずです。「住宅地で重機関銃が発砲されたってこと」を重くとらえるべきです。重機関銃を発砲したのが、米軍でなければ、これは暴力団ですか?それともテロ組織?誰が撃ったのか捜査して下さいよ。ここは絶対はっきりさせたいものです。米軍はもとより、沖縄県警察、沖縄県、政府などの関係機関は『説明責任』を十分果たすべきです。重機関銃から発射された銃弾が民家に駐車している車のナンバープレートを撃ち抜いたのはどこの誰なのか?説明してくださいよ。とりあえず、気になったのでここに書き置きます。それでは。
2009年04月01日
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こんにちは、皆さん。本日、ワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)日本代表が優勝しました。まずは『優勝おめでとう!!』これも日本代表の各選手の頑張りと原監督の采配の賜物だと思います。以前、私のブログ日記「とりあえず、言っておくこと」に書きましたが、侍ジャパンなんて中途半端な名前じゃなく『原ジャパン』にすべきだとね。これで原監督は大役を果たして帰って来れるわけです。WBCに限らず、オリンピックや世界選手権と言った国際大会に出場する日本代表は原監督のような大きな責任やシンボルたる日の丸や日本という国、そして日本国民の期待を背負ってくるものなのでしょう。だから厳しいことを申し上げた訳で、優勝できて本当に良かったと心底そう思います。これはちゃんと評価すべきです。「侍ジャパン」ではなく『原ジャパン』として。それで・・・今日の本題です。今日私が語りたいのは、TV中継の挿入歌のことです。TV観戦されていた方はよくご存知かとは存じますが、東京ラウンドではほとんどの場面(主題歌及びハイライトやブリッジと言うCMに入る前に流れる効果音的音楽)で用いられ、第2ラウンド以降ではハイライトに主に用いられていた曲のことです。あれは私達の世代に懐かしい Journeyの「Separate Ways」なんですが、本来の意味から考えると曲の歌っている意味が分かる方にとっては「え~っ!?」といった印象があるのです。私がそう思った理由を感じていただくために、リンク貼っておきますね。「Separate Ways」の英語の歌詞「Separate Ways」の和訳「Separate Ways」の映像単純比較なのですが・・・何だかしっくり来なくて。「まぁ、察してください。」(byイチロー・・・何てね^^)まぁ、いずれにしても『日本代表、優勝おめでとう!』それでは。
2009年03月24日
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こんばんは、皆さん。今、WBCの日本-中国戦を横目にブログを更新しています。そこで、とりあえず、これだけは言っておきたいことがあります。今回の日本チームのことを、みんな『侍ジャパン』と言っているみたいだけど私はそのネーミングがどうも気に入らないのです。この日本チームは、間違いなく『原ジャパン』のはずです。サッカーもそう、今までの国際試合の日本野球チームもそうチーム名は、私の記憶の限りではすべて『(監督名)ジャパン』だったと思います。良くも悪しくも、監督が国民の期待を一身に背負って、日の丸を、日本を背負って国際試合に挑んできた。結果も出した。負けた試合もあったけど。最近では北京オリンピックの「星野ジャパン」があった。頑張ったけど敗れた。だからこそ、今回の『侍ジャパン』という中途半端なネーミングに、一種の疑いを持っている。もしかして、日本代表チームが敗れて、WBC連覇ならずなんて局面に立ったときに、原監督へのバッシングを和らげるために、最初で「無責任」な感じの『侍ジャパン』と命名して、今日の今日まで盛り上がってきたわけではないかと。原監督には、日本代表チームを率いる立場を十分自覚して欲しい。周囲が気を使って『原ジャパン』と名付けなかったからと言って、原監督が一番大きな責任を持っているんだということを忘れないで欲しい。とにかくどんな局面になっても逃げないで欲しい。その上で、私はこう言います。『がんばれ、日本!』それでは。試合観戦に戻ります。
2009年03月05日
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こんにちは、皆さん。久しぶりの更新です。何だか仕事が忙しいのを理由にするのもウソっぽく見えそうですがまぁ、それも仕方がないくらいに間が開いてしまいました。今の私は新しい仕事に就いて1年が経とうとしています。収入はカツカツなんですけれども、何とか住宅ローンと積み残った固定資産税等を払いながら、何とか生きてます。お金のことで大分悩んでしまって、髪も薄くなり(苦笑)、その割には痩せないという変な悪循環のするところでありますが、何とか元気にしています。世間体的には(特にわが妻には)評判はよくないけど、前の職場にいなければこの職種と決めていた以前から自分のやりたかった職種で働いているということ、それで何とか家の支払いをまかなっていること。この二つの「確かなこと」が今の自分を支えています。そして、もう一つ今自分を支えているのが「アンパンマンのマーチ」です。時々生きるのに疲れた時に聞いてみることがあります。歌詞の最初「そうだ うれしいんだ 生きるよろこび たとえ 胸の傷がいたんでも」この部分からもう泣けてくるくらいです。子どもの見るアニメの主題歌なのに、なぜこんなに中味が深いんだろうと。アンパンマン自身は人生において何かあったのだろうか?何か胸の傷が痛むような苦悩があったんだろうか?だから「アンパンマンのマーチ」を聞くたびに「生きるということはうれしいんだ。大切なんだ」とアンパンマンに教わっているような気がして。今は苦しくても「生きることが大切」なんだと思うのです。とりあえず以前見た夢「正義の味方になる」に、今の仕事を通して少しだけ近付いたような気がして。やっぱり…頑張る。katufire119はこれからも頑張ってまいります。ある占い師に最近見てもらって言われた言葉。「あなたは自分に自信がなく心が弱い人。守護霊の神経質な性格のせいで、それがかなり影響されている」「もっと自分に自信を持ち、細かいことにクヨクヨせずに、もっと心を強くしなさい」と言われた。ショックだけどものすごく当たっていた。自分の気持ちの持ちようや物の考え方など、もっと心を強くして気持ちや心を大きく持って、これからも頑張っていきたいです。それでは。
2009年02月13日
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こんにちは、皆さん。皆さんは今年は誰かのために「サンタさん」になりましたか?私はなりました。サンタさんになって、プレゼントをあげたりするのっていいですよね。だって、プレゼントされた方は必ずいい笑顔で喜んでくれる。この笑顔のために、サンタさんは頑張るもんです。昨日から今日にかけて何人か笑顔にしてきました。うれしいです。自分自身は何か物をもらえるわけではないけれどそう言う自分はこんな物をもらったけど(苦笑)そのかわりもらった人の「素敵な笑顔」と「感謝のことば」がもらえていいんです。だから毎年、何らかの形でサンタさんをする私、katufire119なのであります。ああ、そうそうサンタさんと言えば、あのサンタさんの様子を見に行ったらもうお仕事終わってました(笑)今頃、クリスマスパーティーでもしていることでしょう。世界を回った「サンタクロースさん」と日本中・沖縄中・世界中の「パパサンタ・ママサンタさん」「彼氏サンタ・彼女サンタさん」その他、素晴らしい笑顔をもらった全ての「サンタさん」にお疲れさまでした。そして、よいお年を。それでは、皆様にもメリークリスマス&ハッピーニューイヤー!
2008年12月25日
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那覇市からクリスマスプレゼント。12月24日のタイミングで送るかなぁ…普通。
2008年12月24日
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こんにちは(^-^)皆さん今日は携帯で更新してみたくなり、文面を作っているところです。今日は冬至ですね。職場からこうしていると、今日は一段と夜が長く感じます。ちなみに今日の日の出は午前7時12分、今の時点ではお日様は見れません。夜勤の仕事は寂しいもんですね。特に朝が遅い時は。後もうちょい頑張りますp(^^)qそれではノシ
2008年12月21日
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こんにちは、皆さん。12/1日記の続きです。100年に1度の経済災害に立ち向かうべき政府の姿勢を「災害対策」という面で考えてますが、今回の話は、この災害対策に「現地災害対策本部(現対とも言う)」が設置されているかな?ということです。現地災害対策本部と言うのは、災害が起こっている現地に設置される「災害現地での指揮所」「関係機関との連絡調整の拠点」(出典:那覇市地域防災計画)です。中心となる災害対策本部の指示の下、現地災害対策本部で実際に災害対策を行い、現地で収集される情報を一括して、災害対策本部に上げる。その情報を元に災害対策本部で協議して必要な災害対策を現地災害対策本部に指示するという流れです。ちょっと古い話になりますが、有名な映画の台詞に「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」という台詞があります。今の経済災害も国会という会議室で起きているんじゃなくて、国民の生活という現場で起こっているんです。だから、国会という会議室で「あーだこーだ」しているだけでなく、政府は経済災害の災害対策を行う「災害対策本部」を立ち上げて、都道府県・市町村の「現地災害対策本部」及び国の地方機関(地方労働局・社会保険事務局・国税事務所など社会保障と経済関係の機関が中心になると思うけど)の「現地災害対策本部」に災害対策をガンガン下ろして、必要な災害対策・災害救護を実施して頂きたいものです。災害対策は「後手後手」になると、死者が増えるのは過去の大災害が示したとおり。今こそ今すぐに、経済災害の被害にあっている「国民」に対して、災害対策=災害救助を行うことが、政府や政治家の皆さんがすべきことじゃないでしょうか。阪神淡路大震災の時に、時の首相に文句を言った今の与党の政治家の皆さんなら分かるでしょう?災害対策のなさとそれが遅れることがどんな結果を招くのかと言うことを。現地に災害対策本部を設置して、今、被災している人を見殺しにしないで助け出すとともに、これ以上災害の被害が拡大しないように、しっかりとした災害対策を取って下さい。政府や政治家の皆さんには、経済災害対策の中心になっていただく「義務」があります。なぜならこういうことも含めて、国民の多くの付託に応えるために、有権者の中から選挙で選ばれてきたはずだからです。公務員の皆さんには、日本国民を生かし守る「義務」があります。なぜなら、公務員は国民全体の奉仕者であって、国民の生活に直接責任を負っている。だからこそ私達は「血税」を納めているわけで、その「血税」から給与(もうすぐ賞与も…しつこいか)をもらっているはずです。大企業や銀行などの金融機関は、日本の国民に対して「社会的責任」があります。企業は雇用を確保をして、国民が仕事をして、経済を支えて回していき、国に血税を納めていくのを助ける。それが結局、企業の向上につながっていくはずでしょう。銀行などの金融機関は、日本経済の一翼をきちんと担っているわけで、銀行がきちんと仕事をすることによって経済は動くはずで、国民もお金を預ける、そのお金を融資するとかそういういい回転も生まれてくる。これが経済を回していくってことじゃないですか?社会的責任がある企業や銀行が、ただただ、金の亡者になるだけの存在に成り下がってはいけないと思います。もっと自らの責任を自覚しましょうよ。雇用対策をしっかりやって契約社員・派遣社員が勝手に首を切られるようなことがないようにするか、勝手に首を切るような会社のトップには、政府から厳しい罰を加える脅しをかけて、経済を下支えする実際に汗を流している人の雇用を国が守るんだという意志を示すこと。中小零細企業に貸し渋りや貸し剥がしをやるような今の悪徳金融機関にも、厳しい行政指導をしてトップの責任・一層の経営努力を促し、きちんと中小零細企業への融資・資金繰りに「喜んで」応じる仕事をして、年末年始の厳しい時期を乗り越えていけるようにすること。そうでないと、この大災害に多数の死者が出ることになります。政府の経済災害対策が、本当の意味で日本国民の末端を助ける「災害救助」になることを願って、この話は「当分の間は」おしまい。それでは。
2008年12月02日
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こんにちは、皆さん。久しぶりの更新ですね、何だか最近日記を更新できてなかったので、12/1~5の日記にまとめて、最近の思いよしなしごとを書き連ねていきたいと思います。さて、こんな話も恐縮ですが・・・。景気悪いですねぇ。何でもサブプライムだのリーマン兄弟だの、向こうのお国で問題になったことが、日本国内でパンデミックするという(くしゃみしたら風邪を引くレベルなんかじゃない)話になっている。その今の経済危機・金融危機を「100年に1度の未曾有の経済災害」と言われています。今日の衆議院予算委員会の集中審議でも「100年に1度の大津波」なんて言い方する議員さんもいました。まぁ、確かにそうなんでしょうけど・・・私の話の本題はここからです。防災をかじっている私として、言いたいこと…それは「経済災害とか大津波とか言うのであれば、きちんと災害救護をしなさい!」ということ。そんなことやっているよって思っている人もいるでしょうけど、今、政府がやっている経済対策は「災害復旧対策」のレベルです。災害復旧対策とは、災害が通り過ぎて後にする対策のことです。今の日本の国民に対して真っ先に必要なのは、災害復旧対策より「災害応急対策=災害救護」なんです。もっと分かりやすく言うと、今政府がやっていることって、がれきに埋まるのを何とか逃れた人達を助けているのに過ぎないんです。今、死にそうになっているのは、がれきの下に埋まっている人たちだったりするのに、そこを救援する前に何とか助かった人だけ救護している感じです。これを当てはめると、何とか助かった人だけ助けようとしているのが、金融機能強化法で助かる金融機関。今、がれきの下に埋まっている人達が、契約社員・派遣社員で首切りされようとしている人達です。政府は災害にあって死にそうな人は積極的に助けようとせずに、すぐには死なない金融機関から助けようとしている。それはトリアージの発想か?政府や与党の人など政治家の人は、この金融危機・経済危機を「経済災害」と語るのなら、きちんと災害の被災にあって今にも死にそうな人から災害救護に当たって欲しい。銀行員とかって、あの派遣社員・契約社員に比べて恵まれている方でしょう?ボーナスがカットになるとか、給与額が減るとかそのくらいのレベルでしょう?まぁ、公務員もそうなんだけどさ。たぶん、もう少ししたら「ボーナス」出るんでしょう?公務員の皆さん。契約社員・派遣社員で雇い止めされる人達なんて、明日が見えない暮らせない、まさに「生きていけない」状態なんだよ。これが年内に訪れる恐怖、銀行員や公務員の人には分かるまい。恨み言はこのくらいにして、私はこの「経済災害」という表現は的確な表現だと思います。それは「防災」と言う観点があるんだと分かったからです。災害の被害というのは、きちんとした防災対策をすることによって、災害による被害はあっても、大きな被害とすることなく、被害を最小限にする「局限化」することができるものです。非常持ち出し袋を準備したり、避難場所を確認したり、防災訓練したり・・・今まで災害対策には、いろんなことをしてきました。やればやるほど、課題は多くなる一方だけど、関東大震災や伊勢湾台風の時代とかに比べたら格段に防災対策は向上している。阪神淡路大震災に比べても確実に防災対策は良くなってきている。そもそも、この世界経済の未曾有の大災害は、きちんとした防災対策を取ることで、被害がなくなるのは無理だけど、被害を局限化することは出来たはず。サブプライムローンは、焦げ付くことがないように貸し出しに当たっては、物件を見るのじゃなくて借り手の支払い能力を考えてやればいいのに。日本は少なくともそうしているようですが…。リーマン兄弟のとこやビッグ3とかのアメリカの企業だけでなく、日本の大企業もそうだけど、企業たるもの、当たり前のことだけど、きちんと自社の製品を売って商品でまっとうな商売をするべきであって、資金運用で会社の資金をグルグル回して、変な利益作って調子に乗っていたから、経済災害の大きな被災者になってしまうわけですよ。その経済災害の被害がトップだけに及ぶならまだしも、その会社全体、それを下請けで支えている中小企業、そしてそこで働く人達とその家族に及んで行くんです。企業は「法人」です。人というのは人として生きていくのなら、きちんとした責任が必要であるわけです。会社は自身が破綻しないのも、もちろんのことですが、それ以上に雇用を確保することが企業の「人としての責任」だと思うのです。企業は国と同じで、国民を守る社会的責任があるんだという企業意識を持つべきです。自分勝手なのは今の若者だけじゃないですよ、大人の皆さん。そして、本当はお店とお客さんが製品を売り買いするような実体経済が重要なのに、お金が一瞬にして儲かるせいか、いつの間にか実体経済をないがしろにして、前後すら逆転して、実体経済よりも、株・金融・先物取引とか実体のない経済が優先されてしまった。そんな経済のあり方・意識も問題だと思います。実体のない経済を回していくのにリスクがないわけが無いはずで、それは時として「ハイリスク・ハイリターン」なものだったりするんです。そんな「ハイリスク」が世界中を包むことがないように、世界は防災対策をすべきだったと思う。世界レベルの災害対策は進みつつあるみたいだけど、大きいとこだけが救援されるのではなくて、今死にそうになっている人間を救うことも同時にして欲しいものです。それでこれは防災・災害対策にも言えることです。あり方として災害は避けられないものであると言うことに立って防災対策をすること。そして、いざ災害が発生しても、その被害をみんなで協力して防いでいくんだという意識を持たないといけないということ。今の、特に沖縄の防災対策に欠けているのは、そこなんです。ダラダラと書き連ねてきましたが、この未曾有の経済災害の中、暴風雨だの、大津波だのが私達を直撃しているの中で、避難所に避難している人に手当をすることは後ででも出来る。今必要なのはそうではなくて、目の前でがれきの下敷きになっている人、津波にさらわれそうになっている人など、今にも死にそうな人=失業者や今年仕事がなくなりそうな契約社員・派遣社員、中小零細企業、後期高齢者、障がい者などの社会的弱者にまずは手を差しのべて、次に私達一般庶民に手を差しのべて災害救護=救助活動を行うことです。政府や、政治家の皆さんは、この大災害にきちんと「災害対策」をして下さい。お願いします。それでは。
2008年12月01日
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こんにちは、皆さん。全国学力テストについて日記で取りあげましたが、その時も申し上げましたが、あの学力テストにどのくらいの意味と価値があるのだろうか?と思うわけです。沖縄県がビリなのは、秋田県がトップだったからです。日本には47都道府県しかないのだから、1位から順に並べていけばビリの47位もあるわけです。比較対象が100も200も、1000も2000もあるならまだしも、たった47しかない中で比較をするのは、はっきり言って「どんぐりの背比べ」と言わざるを得ないのです。そもそも、文部科学省には学習指導要領というものがあって、教師が児童生徒に何をどうやってどのくらい教えるべきか決まった基準があるんでしょう?学習指導要領に基づいて、日本全国で行われる学校教育に差異が出るなんて「あり得ない」んじゃないですか?日本全国同じ基準で、同じ内容の教科書で、同じ授業時間で行われる教育に差異が出るのは理論上あり得ないでしょう?さて、10月19日配信のニュースを見て、「何てバカなことを考えるんだろう?」と大いに不思議になりました。沖縄県教育委員会と秋田県教育委員会の人事交流によって、全国学力テスト1位の県に学ぼうという取り組みです。全国学力テストなんて、所詮「どんぐりの背比べ」の争いの中で一喜一憂し、世界の教育から見たら「井の中の蛙、大海を知らず」よろしく、日本の教育に対する考え方の薄っぺらさを表したものです。そんなものに躍起になる中で、こんな税金の無駄遣いを考えるんだろうなと思う。秋田県と沖縄県は社会環境も気候も異なります。そんな状況を放置したまま、秋田県の教員をお迎えしても、何ら良くならないし、何も変わらない。ただ、血税が教育委員会の中に消えて行くだけ。秋田県は雪がたくさん降りますね、沖縄県は全く降らない。雪が降れば外にも行けないから、自然と家にいます。そうすれば家庭学習は定着しやすいはずです。読書する機会も増えるでしょうし。それと、沖縄県くらいだと思いますが、24時間のコンビニエンスストアが多いですよね。もう、多いってもんじゃない。地域に1つは必ず存在するし、同じ地域に2~3つ集中することさえある。だけど、他の都道府県にある24時間のコンビニエンスストアって地域に1つあればいい方で場合によってはコンビニが午前12時閉店、午後10時閉店、午後8時閉店なんて当たり前じゃないですか。沖縄では夜に開いているコンビニを探すのは簡単なのです。それは夜出歩く人が多いから。夜に生活や生業をしている人が多いから。家庭状況も異なるでしょう。沖縄では夫婦共働きが大半ですが、他の都道府県では夫婦共働きは特別な事情があると思われてしまいますよね。非正規雇用が労働の主流になっている今日、沖縄県のその比率は非常に高いため、収入も全く安定しない。それも昼夜の仕事がバラバラで家族がすれ違うことや、子どもの個食、親の子供への学習面での関与も低下してきます。たぶん、秋田県を始めとした他の都道府県には違う家庭状況が存在すると思う。沖縄県と秋田県は教育のスタートラインから、全く異なるのです。よって、教員の人事交流なんてただの税金の無駄遣い。即刻見直して辞めるべきです。ただでも沖縄県の財政は極めて厳しい状況なのに、そんな中で無駄遣いをしようとする神経が分からない。まさに「KY」である気がする。標題の「何か違う気がする」は、まさに子供達の学力を向上させるために、子供達とはまったく別の次元ですすめられた全国学力テストに違和感を覚えるのと、それにより大騒ぎをしすげて、税金の無駄遣いになるような…そんな状況が「何か違う気がする」が出てきたのです。皆さんはどうお考えになりますか?それでは。
2008年10月19日
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こんにちは、皆さん。最近、某社のこんにゃくゼリーが製造中止になったとのこと。これは、この製品に関連して起こっている窒息死亡事故が大きく原因している。窒息死亡事故が多発して、この某社もパッケージやCMとかでも「子どもや高齢者には与えない」よう注意喚起をしているのにも関わらず、子どもが食べて死者が出る…これこそ何だろうと思う。昨日(10月11日)配信された産経新聞の記事を読んで、一番印象に残った言葉をあえて紹介すると。「子供が見て、食べたら死ぬと分かるようにしないと。それぐらいはできるでしょ!」こんにゃくゼリーの法規制が進むかどうかは分からないようですが、私はそんな事をしても何の解決にもならないと思っています。なぜか?肝心の消費者が賢くなくなってきているからです。それを上記に紹介した言葉が物語っています。今年の7月に1歳9ヶ月の子どもが亡くなったそうです。その前に過去16件の死亡事故が発生していて、それは子どもや高齢者が大半です(41歳のケースが1件ありましたが…)。国民生活センターではその都度10回はお知らせのリリースを出している。また、マスコミでも大なり小なり、こんにゃくゼリーの死亡事故について報道されたはず。なのにまたなぜ死者が出る?国民生活センターは何のためにあるの?なぜ、それから消費者は学ぼうとしない?最近、国民生活センターから発信されているメッセージは単純です。-子どもや高齢者に絶対に与えない!-私を含む消費者一人一人が事故から学び、どうしたら二度と事故を起こさないようにするかを考え実行することが大切なんです。幼児・小児の救急法の中で「誤飲」への対処と言うのがあります。のどに異物を詰まらせた時にどうするかってことです。意識があれば咳をさせる、背中をたたいて吐き出させるなどの方法があります。「誤飲」や中毒もそうですが、また他の救急法についても言えるのですが、救急法において一番大切なことは「事故を防止すること」なんです。救急法を行うと言う以前に一番大切なことは「事故を起こさないこと」なのです。子どもの手の届くところに、危険な物(飲み込んではいけないもの、中毒をおこすもの、アルコールなど子どもが飲んでいけないもの等)を絶対に置かない。ここで言いたいのは分かりましたね?「こんにゃくゼリーは子どもや年寄りが食べる物ではありません!!」という当たり前のことです。私達、消費者はもっと「想像力」を働かせなければなりません。こんにゃくゼリーによって、今まで17人は亡くなっているのです。尊い命の犠牲の上に、私達は何が出来るか?子どもや年寄りにとって危険性の高い食べ物を絶対に口にさせないこと。きちんと消費者の私達が想像力を働かせて、ちゃんと考えて、自らや家族・みんなの「食の安全」を守っていくのが、尊い命の犠牲に報いることだと思います。防止できる事故を防止する。事故の芽をつみ取る。これ以上、不幸な事故を防ぐこと。それは私達一人一人ができることです。それは一人悪者を決めて、それを批判することで解決する問題じゃないですよ。安全な食べ物の食べ方や与え方を、きちんと考える、そして行動する、まわりの人に広げていく。そうしたら、不幸な事故はなくなると思うのは、私の思い上がりでしょうか…。それでは。
2008年10月12日
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こんにちは、皆さん。今朝の大阪市の個室ビデオ店火災の報道を聞いて感じたことを2、3書きたい。まず、時事通信の報道によると、従業員が避難誘導を行えなかったこと、店内の消火器が未使用だったことなどが明らかになったとのこと。これはとっても大事なことです。お客様相手の商売をしている仕事は「お客様の安全」が最優先事項なのは、当然と言えば当然です。お客様の安全を守るために、お店(ホテルから小さなお店全て)は防災上必要な設備を整えて、いつでも使える状態にしておくばかりでなく、従業員はお客様を守る技術を知らなければならない。火事が起こったらどうするのか?どうやって対処するのか?そんな基本的なことを、店長を始めとして従業員は知らないといけないし、考えないといけないし、もしそれがお店にないなら、どうするんだと問いかけなければならない。サービスはお客様に楽しみや便利を与えるだけではなくて、「安全」といった当然あるべきものも与え続けて初めて成り立つものです。お客様相手の仕事をしている皆さんは「知っておくべきこと」として、避難誘導と消火器の使い方と119番通報の仕方は最低限知らないといけない。今の雇用形態は非正規雇用の労働者ばかりで(かく言う私もそうなんだけど)、正社員ばりに責任の重いことをとおっしゃる方もいるのかと思うけど、「消火器の使い方」くらいは「社会常識」として知るべきことで、義務教育の中で「心肺蘇生法」とともに学ぶべきだと思うくらいです。以前にも日記に書きましたが、全国学力テストなんて変な学力向上だけが人生のすべてではない、人として社会の一員として知るべきことを教える必要があると思います。2つめ、7年前でしたか…新宿歌舞伎町雑居ビル火災。あの時もそうだと思いますが、いろいろなテナントが入ったビルって、責任が分散してしまって結果、必要な防火管理が行われないことが多くあるはず。いざ火災などになった時の責任追及をするのは簡単だけど、そうなる前にできることあると思うな。テナントビルに入っているスナックなどの飲み屋さんや小規模な個室ビデオ店とか、そんなところにあって、勤めている人の一人一人が防火管理の一端を担うんだってこと。だから、いざという時を意識して火事になったらどうしようとか、どこから避難するかとか、ちゃんとシュミレーションすることをみんなが考えることが大切なんです。後はお客様ももっと賢くなろうということ。お店に入ったら「非常口はここ」って目で確認しておこう。消火器が目に入ったら、あそこにあるんだなと覚えておきましょう。従業員が当たり前のことができなければ、自分が率先して手伝ってあげるくらいの気持ちを持ちましょう。もし、授業員が消火器の使い方を知らないなら、あなたが率先して初期消火できますか?もし避難しないといけないと判断したら、そばにいる人と一緒に避難することができますか?私はやれる自信があるし、出かける先で、できることは必ず実行してます。いつも行くスナックのドアのそばには、避難はしごの設備があるんだけど、お店に入る前に必ず確認して、ビール箱や掃除用具などがはしごのふたの上に置かれていないかチェックしてます。もちろん非常口の緑色のサインもちゃんと確認してます。たまには、お酒飲みに行ったり、お姉ちゃんのところに行って鼻の下を伸ばすのもいいけど、頭の片隅に「いざという時にどうしよう?」と言う考えは持っていて下さい。いろいろ書き連ねてきましたが、確かに、消火器の使い方や、火事からの避難の仕方、救急法や心肺蘇生法などについては、みんなが知らなければならないことです。しかし、それ以上にみんなに知ってほしいことがあります。それは、こういった防災とかそういったことは、何も特別なことじゃないと言うことです。防災にしても、環境にしても、政治にしても、福祉にしても、世の中で本当に大切なことは全てボランティアとか行政とかそんな一部の人たちでするものじゃなくて、みんなが、皆さん一人一人が意識して取り組まないといけないのです。みんなどこか人任せにしてないでしょうか?まずは自分発で出来ることをしてみませんか?自分で出来ることから取り組んでみることを考えてやってみましょう。と言う風に最後、綺麗にまとめようと思ったけど、ハッキリ自分らしく言います。「やっぱり、消火器の使い方だけは、みんな知っておくべきですよ」と。それでは。
2008年10月01日
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こんにちは、皆さん。文科省で行った全国学力テストの結果が公表されたみたい…。例の通りというのか、何というのか…全国最下位は「沖縄県」だけど、正直言ってあんまり気にもならないし、何と言うこともないというのが、私の感想です。たぶん、マスコミなどは「2年連続最下位」に沸くのでしょうけど、大したことない。どうしてって?『結果というのは相対的なものだから』要するに、1番がいればビリも出てくるということ。沖縄県が最下位なのは、1番の都道府県があるからなのであって、ただそれだけのこと。そのこと自体に何の意味もない。だって、この全国学力テストなんて血税を使って全国一斉に学力のどんぐりの背比べをしているだけでしょ?OECDだった?それら諸外国の学力比較では日本の子供の学力自体低いんでしょ?値が。そんなことを思えば、日本の中での1位から47位なんて何の問題があるのだろうかな?と。それで、その結果を公表する自治体もあるそうで。ナンセンス極まりないことです。沖縄県の市町村の1位から41位まで(だったかな?)並べて、何が言いたいのか?何がしたいのか?全然分からない。全国最下位の沖縄県の中でどんぐりの背比べの結果を見せるのに何の意味があるんだろうか?意味が分からない。ましてや、1位か41位か知らないけど、その市町村の中のどの小学校・中学校が何番だったかとか見せることがあれば、なおさら無意味なことだと思う。学校の序列化とかおかしいでしょ?そもそも、日本の全土の小学校・中学校は同じカリキュラム・同じ科目とかで行われているんだから、結果がばらつくとか得点格差とかが出るとかおかしいでしょ?こんなにばらつきが出るっていうなら、教科書検定やめて、各県の実情に応じた教科書を作って学ばせたらどうよ。今後、学力向上対策とか進めていくのだと思うけど、沖縄県がいくら頑張っても、たぶん無理だと思うんです。なぜかって?沖縄県が頑張る分、他の県も同じように頑張るから。どこの県だってビリにはなりたくないんですよ。だから、沖縄県が頑張る以上に頑張ることになる。じゃぁ、秘策があるかな…と考えたら、たぶんあんまり出てこないと思う。取りあえず、勉強する時間は増やした方が良さそうだ…だけど、授業時数はもうギリギリの状態、第一、今の教育課程をこなすのにやっとなはずなんだろうし。その上、学習指導要領がこれから改訂になって、授業時数がまた増える。どうするか…?そこで一つ提案^^『沖縄県だけ土曜日半ドンを復活させたらどう?』私は以前から、そう強く主張してきました。沖縄県ってとこは、特に週休二日制が浸透してないところじゃないかと思うんです。要するに、親が土曜日仕事って家庭が多い。だけど、学校は土曜日お休み。子供は土曜日学校ないから部活したり、友達と遊んだりして過ごしている。正直言って時間の無駄遣いをしているんですよ、今の学校週5日制は。そう言う中で先生方は「授業時数が足りない」とおっしゃる。当然、足りないですよ。平日だけで授業してたら。それでも子供達は、平日6校時・7校時をこなしている…。土曜日も学校出して、平日の負担を平たくする。毎週土曜日4時間確保できたら、負担減るのでは?先程の話に戻せば、全国学力テストなんて無意味なことはよせばいいのにと思うんだけどどうせやるのでしょうから…来年のことを考える「どうしたらいい?」と。他の都道府県が一生懸命「ビリにならないために」より一層学力向上対策を頑張るのだから沖縄県は人一倍、他の都道府県以上に頑張らないといけないんですよ、それしか方法はないです。人一倍頑張る…単純な方法としては「人より多く勉強する」しかない。とするならば、沖縄県は特別に条例を作って、土曜日を学校にして他の都道府県の子供達より多くの時間を勉強するようにすること。増えた授業時数を使って、先生たちが授業の中味を濃くして、適切な指導法で学力の実を上げていく。そうしたら、子供達の基礎的学力を伸ばせると思うんだけど、間違ってるのかな?今さら先生たちまで休みたいからとか言う子どもと同じ理由で、土曜日をダラダラ休んでいるうちは、絶対に沖縄県は全国最下位からは抜けられない…ちょっと考えたら分かることです。そもそも日本の教育の誤りは『学校週5日制』から始まったと、私は今でも思ってます。私は小学校・中学校とも土曜日半ドンで学校に行ってました。親の世代の子供の時は当たり前のこととして土曜日学校行っていたわけで、そんなことを今の子供に出来ないわけがない。学習指導要領を変えて「授業時数を増やす」というのなら、その授業時数を確保するために「学校週5日制を見直す、あるいは廃止する」くらいの考えを持って欲しかった。人間には24時間しか時間は与えられていないんです。大人も子供も。今までカツカツでやってきたという授業時数を増やすのであれば、どこかで帳尻を合わさないといけないんじゃないかと思うんですが、どうでしょう?どこから増やした時間は持ってくるの?神様が25時間や26時間になるように、時間をプレゼントしてくれるわけじゃないんですよ。小学校の時だったかな…ある先生が話していたことを思い出す。『努力に勝る天才なし』天才と言われた人も、何も無しで天才になったわけじゃない。人一倍努力して頑張ったから、天才になれたんだ。だから、みんなも努力して頑張ること、そうしたら勉強もできるようになるといったような話だった気がする。ずいぶん前なので薄い記憶なのですが。やっぱり、今以上に努力しなきゃ…今以上に頑張らなきゃ…今以上にやらないところに、前進はないのだろうね。そうじゃなければ、こんな全国学力テストなんて税金の無駄遣いで無意味というのを知ること。結果なんて相対的なもので、1番がいればビリもいると知ること。子供の学力を1回・2回の定期試験で計れるものではないということを思い出すこと。こんなの体調が悪かったり、ヤマがはずれたりすればもろくも崩れ去るものだから。こんなくだらないテストに振り回されて、教育の根本的なこと、子供達の情緒など、子供達の教育にとって大切なものについて考えることが、もっと重要だと思う。沖縄の教育が間違った方向性に進まないように…今はただ願うばかりです。一人の子供の親として、沖縄県民の一人として。それでは。
2008年08月29日
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こんにちは、皆さん。お久しぶりの更新です。どうしても書きたいことがあったので、キーボードをたたいています。皆さん、北京五輪の試合とか見てます?私は、個人的な信条のため、北京五輪の開会式やほとんどの試合を見ていません。仕事が忙しいのもありますが、「あえて見ていない」といった方が正解です。もちろん、世間一般の話についていくために、ニュースで試合結果は押さえますが、試合は実際見てませんし、見ようと言う気がしないのです。それに追い打ちをかけたのが、偶然見かけた8月16日(土)の男子バレー(日本vsベネズエラ)の試合でした。見て後悔した…あまりにひどすぎて。日本の選手がサーブをするたびに、会場内に低く響く「ブーイング」ベネズエラの国の人が大挙応援に来ているわけでもないのでしょうし、いくら対戦相手だからと言って反則も何も無い場面で「ブーイング」が起こるわけがない。ベネズエラの人は中南米の国の人、南国の人たちがそんな「ブーイング」するわけない。じゃぁ、誰があの「ブーイング」をしたのか?心当たりがあるとすればあそこしかない。中国サッカーの国際試合とかも、相当酷かったからね。それに、ここは中国のホーム。中国の人が五万といる(人口は10億くらいでした?・詳細不明)わけで、あの「ブーイング」の主は中国だろうと、容易に察しがつく。オリンピックって毎回、大抵試合チェックしたりするけど「ブーイング」が出るオリンピックって初めて見た…たぶん、他のオリンピックの日本代表の選手の皆さんも、あのブーイングだったり、応援によるこき下ろしとか、そんな嫌がらせに合っているんだろうなと。北京五輪を通して、やっぱり中国って国は、私達、日本という国に対して「嫌悪感」をバリバリ持っているんだろうなと感じざるをえませんね。日本と中国、お互いに何とか喧嘩せずにやっていこうと努力しているようだけど、上の人が上っ面だけニヤニヤして握手しても、国民一人一人がお互いの国を「好かん」と思っているうちは、「日中友好」なんて夢のまた夢。そう思うけど。応援の持ち込み物品に関して、過剰なほどの規制をかける割には、観戦マナーの悪さについて十分な規制を行わない矛盾だらけの大会運営側の姿勢には大きな失望を感じます。この「ブーイング」は中国政府が見て見ぬ振りして容認してるのか?それとも中国人民が普通に日本という国に嫌悪感を抱いてしているのか?どっちかだろう。どっちが正解にしても困るし、どっちもならなおさら困る。その意味において、もうこの大会の意味は失われているし、見る価値のないものに成り下がってしまった感があると、私自身は思っています。私はこの後も結果だけをチェックするオリンピックに留めたいと考えています。それでは。
2008年08月19日
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こんにちは、皆さん。最近の話ですが動物放置で県が立ち入り検査に入ったNPO法人がありました。沖縄タイムスさんの記事(平成20年6月25日)によるとこのNPO法人は「動物たちとの触れ合いや不登校児の自立支援などを目的に」オープンしたが今年の「四月ごろからは経済的に運営が厳しくなり」「活動を休止している」とのこと。NPO法人って特定非営利活動法人というわけですがこれを作るときには、やっぱりミッション(活動目的・使命)があって、そのミッションを果たしていく手段を選んで始めたんだと思う。しかし、これを回していくためには精神と手段だけではダメなんだよな。残念ながら…結局、お金が必要だったりするんです。だから、NPO法人は組織を回していくために、いろんなところから助成金や補助をもらったり、行政との協働という形で仕事をもらう委託の仕事をしたり、収益事業という形で物品販売をしたり、有料の講演会・講習会を開いたりしないといけなくなる。だけど、理想とか熱い思いだけで走り始める人に限って、NPO法人の幻想にとりつかれる。そしてNPO法人を作ってしまってから、お金が回らなくなってしまって、経営的に破綻してしまうことが多分多いのではないかと。かく言う私も、その幻想にとりつかれていた人の一人でした。そして、もうすぐでその幻想にとり殺されるところでした。幸いなことに私は大けがする前に手を引いて、事なきを得てますが、理想・精神・熱い思いだけは人一倍の私が始めていたら、きっと先述のNPO法人と同じ末路を辿ったに違いありません。私が思うに、NPO法人は経済(経営)のセンスがある人がメンバーにいないと存続は無理です。経済のセンスのある人がいなければ、法人化しないで「任意団体」でゆっくり活動していけばいい。無理してNPO法人にならなくても、任意団体で十分自分の思いは叶えられるから。あるいは私のように個人として出来ることをボランティアしていく方向にしていいのではと思う。NPO法人がボランティアの代表格みたいに今の時代なっているけど、私は全然そう思わない。ボランティアの大きな主体はあくまでも、小さくても何かをしている個々人こそがボランティアの主体であり、代表格だと思う。NPO法人を始めるならば、考えているなら今一度考えてみてはどうでしょう。「そのNPO法人でちゃんと活動できるお金が入ってくるかどうか、その当てがあるかどうか」を。答えがノーなら法人化を考えるのはやめなさい。経済的に社会的に大けがするから。
2008年06月26日
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こんにちは、皆さん。最近、気になる言葉で少しだけ語ってみたいと思います。最近のニュースで出てくる言葉「居酒屋タクシー」誰が言い始めたのか?どういう経緯で出てきたか知らないけれど、つくづく思うんです。『センス無いなぁ~』って。これだと何だかタクシーが悪いみたいじゃないですか。このところの不況でさぁ、タクシーだって客足減っているはずだし(まぁ不況の原因のことは、言わずもがなではありますが)正直、深夜料金帯で乗ってくれる深夜残業の国家公務員の皆さんはいい顧客だったのだろうな。だから、こういう過剰サービスにつながってしまったんだろうと。東京23区内でも深夜料金で走ったら結構な水揚げになるのではないかなぁと。サービスしてくれたら、また深夜料金でいい距離(首都圏結構遠くからくる人いるんじゃない?)走ってくれるから…一種の競争というのか、そんな部分じゃないですかね。それがビールになって、おつまみになって、金券になって、現金になると…。顧客の獲得のためにはタクシーの運転手さんも頑張っていたんだろうなって。まぁ、確かに羨ましいけど…それがタクシーの運転手さんにとって大事なことなら仕方ないかな。と、近距離でしかタクシーを利用しない(できない)私は自戒をこめて思うのです。こうやってタクシー利用がなくなったら、運転手さん苦労されるんだろうな、そう思うのです。私もたまにお酒の機会で市内なら、タクシーを利用します。もちろん帰りも。運転手さんと話をすると、いつも聞くのが「景気よくない」ということばです。それも、つい最近の他の都道府県で景気がいいと言われていた時期でもです。やっと遅れて景気が出てきたかなと思ったら、4月の時点で景気拡大は終わってたって言うし。いずれにしても、こんな「居酒屋タクシー」なんてイメージの悪い話が大きくなってくるとタクシー運転手の皆さんが悪い目で見られるんじゃないかって、心配なんです。念のために言いますが、私は別に国家公務員がタクシーの運転手から過剰なサービスを受けることを良しとしている訳ではありません。ましてや、そんなサービスを強要することがあれば、本当に言語道断です。ただ「居酒屋タクシー」というイヤな名称が気にくわないということです。たぶん、これらの問題のタクシーは、流しで走るよりは、やっぱり深夜でちょっといい距離を走らせてくれるなじみの国家公務員の方が、間違いなく水揚げがいいはずで、その大事な「顧客」を獲得するためのサービスの形だったのだと思います。だから、マスコミとかそういった人たちも「居酒屋タクシー」というイヤな名称を使わずに、「国家公務員がタクシー利用の見返りに物品などを受け取っていた問題」とすればいいと思う。まぁ、そんなに深夜遅くまで残業しないといけないほど、大変な仕事かもしれない。それならば、国家公務員の給与を少し減らして「ワークシェアリング」すればいいんですよ。上の人の給与なんてバカ高いんでしょ?ああいう人たちの給与を減らして、非常勤職員をたくさん雇って業務をもっと分散させればいいんじゃないですか?大事な仕事は正職員がする。特に重要性の低いルーティンワークを非常勤に回してすればいい。そうしたら、仕事楽になるんじゃないですか?深夜に帰宅しなくても、仕事が片付くのではないかな?まぁ・・・そういうくだらないことも考えてしまう今日この頃です(笑)それでは。
2008年06月25日
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こんにちは、皆さん。慰霊の日を迎えました。今年も。63回目の。私は自分のブログで昨年の8月15日の終戦記念日に戦争について触れました。結局、その時と今日のこの日と、言いたいとせんことが変わらないためその記述から抜粋して書き置きます。去年の終戦記念日に問うたことを改めてブログを見て下さる皆様に問いたいのです。終戦記念日を「沖縄慰霊の日」にそのまま置き換えて下さって結構です。以下、日記の抜粋から…。『この太平洋戦争(大東亜戦争とか言う言い方もあるらしいが)で何があったのか?振り返って思いを致すことをぜひして欲しいものである。沖縄戦だって、そもそも「国体護持のための戦い」では無かったのか?戦陣訓で「捕虜になるなら自決せよ」と教えたのは大日本帝国政府じゃないのか?天皇陛下のためにお国のために死ぬんだって言って戦わせたのは政府じゃなかったのか?男の子は将来は「立派な軍人になってお国のために戦う」という価値観を植え付けてきたのは、政府の行っていた子供達への教育じゃなかったのか?「鬼畜米英に捕まれば、男は戦車でひき殺され、女は辱められる」と国民に言ってきたのは政府じゃなかったのか?あれが怖くて自殺した人が何人いたか分かっているのだろうか?自決しろとは命令しなくても、この手榴弾を敵に投げつけるんだと教えて非戦闘員の住民に手榴弾を渡して戦闘行為に一般住民を巻き込んだのは、日本軍の人たちではなかったのか?壕に避難していた住民を砲火の下に追い出して、その壕に立てこもって戦闘行為をしていたのは、日本軍の人たちではなかったのか?久米島のある地域の住民をスパイ容疑で殺害したのは、日本軍の人たちではなかったのか?「沖縄方言を話す人はスパイと見なせ」と考えていたのは、日本軍の人たちじゃなかったのか?壕の中で泣いている赤ちゃんの口を塞いで、死に追いやったのは日本軍の人たちではなかったのか?野戦病院が転戦のため移動を余儀なくされたとき、重症患者に青酸カリや手榴弾を渡して自決を促したのは、日本軍の指揮下にあった人たちがさせたことではなかったのか?沖縄戦だけでもこんなにたくさんあったのに…。外国でもいろいろあったじゃないか。こんなことやこれより酷いことがゴロゴロと。戦争と言うことはこういうことがあちこちにゴロゴロ起こることなんだ。戦争でお亡くなりになった方々の御霊を慰めることはもちろん重要です。それと同時に大切なことは、もうこれ以上、日本の、世界のあちこちに「終戦記念日」を作らせないことではないのでしょうか。終戦記念日を作らせない=戦争をしないということです。戦争なんてしなければ、戦争の始まりも終わりもないのだから。』『何度も書いてみるけど…。第2次世界大戦が終わって、私たちは戦争はダメなんだってあれほど貴い犠牲の中で、貴い犠牲を礎にして今の社会・国・世界を作ってきたのに。だけど、いつの日か、あれだけ戦争の犠牲となったたくさんの人の思いを無視して国際社会は、そして私たちも戦争を許してしまっている。』『今のご時世「憲法改正」が目立たないところで沸々と課題になっています。経緯がどうであれ、なぜ憲法9条がああいうきまりになったのか…それを見ることができるのは当時の文部省が発行した「あたらしい憲法のはなし」の戦争放棄の項目です。いちおうリンクは貼りますが、見ない人もいると思うので、全文を抜粋させていただきます。みなさんの中には、今度の戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとうそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。みなさん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。この記述のどこにおかしいところがあるのでしょうか?この戦争の後すぐ感じた先輩方の気持ちは、何十年経っても変わらないのではないのでしょうか。目先のことばかりにとらわれて、人の積み重ねた思いを忘れていいのでしょうか?終戦記念日を、漫然とただの記念日にしていいのでしょうか?過去を振り返り、いいことも悪いことも全て見つめて未来に悔いを残すことがあってはいけないと考えます。皆さんはどうお考えになりますか?』この後です。高校の歴史教科書の検定問題が沖縄の大きな話題になったのは。私の日記の中でどこかで取りあげていたっけなぁ。ああ、関連事項でした。「集団自決裁判」の件でした。今年の3月28日の日記。『君が代を大きな声で歌った』を参照下さい(リンクはります)。あの教科書検定問題で沖縄はまとまったんだけど、結局のところは、文部科学省は検定意見を撤回しないまま、今日の慰霊の日にいたったわけです。確かに、今の日本国内で唯一の地上戦が行われた沖縄戦では「集団自決(強制集団死)」や「旧日本兵によるスパイ視された住民の殺害」がその全てではないのですが、この沖縄戦であったことの全てを揃って並べて見ないことには本当のことは分からないのです。あの戦争であったことの全てを、国にとってあんまり都合のいいことでないことも含めて、全てを国民すべてが知るべきだし、子供達に学ばせることが「二度と戦争の惨禍を起こさない」ために私達ができること、いや「すべきこと」じゃないのかなと思うんです。もう戦争で人が殺し合うのはやめよう。それより前に地球環境が死にそうなんだから。戦争に使うお金を人が生きるのに使おう。世界にはまだ食べるものが無くて死ぬ人がいるから。お互い私達はお金はあんまりないけれど、怖かった戦争を生きのびて、戦後の日本を沖縄をここまで大きくしてくれた後期高齢者を中心とした戦前生まれの方々をしっかり支えていこう。せめて今の平和な時代だけでも頑張った人たちに長生きして欲しいから。今日の慰霊の日、いろんなことを思う私です。それでは。
2008年06月23日
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こんばんは、皆さん。今日は眠いので一言。『ブーメランは 基本的に 帰ってくる』おやすみなさい。
2008年05月15日
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こんにちは、皆さん。何だか最近変なことが流行っているようで困りものです。そう「硫化水素自殺」です。これらの新手の自殺に巻き込まれないように、これ以上流行らせないようにさし当たり言えること、言わないといけないことは次のとおり。1 ドアに「毒ガス発生中」「ガス発生中」「危険」とか貼り出されている場合には 絶対に中に入らずに、すぐに周囲の人に避難を呼びかけてその場から離れる。2 避難を行った上で、屋外など風が通る場所で、 すぐに警察(110番)と消防(119番)に連絡のこと。 その際には「硫化水素自殺の疑いがある」旨伝えること。3 絶対に中に入って助けようとしないこと。 ガスの発生時点でもう既にガスを発生させた人は死亡しています。 逆に救出しようと中に入ると発生したガスを吸って、あなたが被害に巻き込まれます。 あなたやあなたの周りの方、近所の方のためにも救出はあきらめて下さい。4 自殺しそうな傾向の人が周りにいたら、今すぐ その人の住居から入浴剤・漂白剤・カビ取り剤の類を全て撤去して捨てること。 その際は近くのゴミ捨て場に置かない。(拾って使う恐れあり) その人が買い物に出る時は一緒についていき、買う物の内容を常に監視すること。 絶対に入浴剤・漂白剤・カビ取り剤を買わせないこと。 極力、周りの人も入浴剤・漂白剤・カビ取り剤等の使用を控え、隠して置いておくこと。 できれば使用を中止して、すぐになるべく遠くのゴミ捨て場に捨てること。5 「卵の腐ったような臭い」に注意し、その臭いを大きく吸い込まないようにする。 その臭いの発生源を探ろうとしないこと。臭いを感じたら風の通る場所にすぐ逃げること。以上を、当面の対策として十分に注意して下さい。もうこのような自殺が、これ以上発生しないように。しかし、こんなことを言うと変だとは分かっていますが…。どうしても言いたいことがある。死ぬのは勝手だけどさ。人に迷惑をかける死に方だけはお願いだからやめて欲しい。自殺するのは別に止めようとは思わない。止めてもどうせ死んでしまうのでしょう?…悲しいけど。考えれば考えるほど悲しくなるので死に急ぐ人に「死ぬな」なんて言わない。だけどね…人を巻き添えにする死に方は絶対にしないで下さい。人間は一人で生まれてくるんだ、たいていの場合。だから死ぬときは一人で死なないといけない。死ぬのは本人だけで十分なのであって、他人を巻き込むな。硫化水素を発生させて、そのガスを自分だけでなく、家族やたくさんの人に吸わせたり高いところから飛び降りるにしても、人のたくさん歩いている場所に飛び降りたり火をつけても隣の家などに延焼させたり電車に飛び込んで電車を止めたりなどして人を巻き込んで死ぬことだけは絶対やめてくれないか。死んだ人はそれでいいかも知れないがそれに巻き込まれて迷惑がかかったりましてや命を失わせるなんて言うのは迷惑だし他の人を巻き添えにするほど、あなたは偉いわけでもない。繰り返し申し上げます。「死ぬのは本人だけで十分なんだから、他人や家族を絶対に巻き込むな。」最近、書き込み過激だなぁ。
2008年04月26日
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こんにちは、皆さん。今日は重たい内容ですが、思うところが多くあり書きたいと思いました。昨日は仕事が休みでしたので、朝からボ~ッとテレビを見ていました。そうしたら、山口県光市母子殺害事件の差し戻し審の判決の日であることを知り、見ていました。お昼すぎ『死刑判決です』との速報…それで日記を書こうと思い立ちました。考えが偏らないように(極力ですが)裁判の判決要旨、弁護側会見、被害者遺族本村さんの会見を全部読みました。すべて読んでみての感想。一言で言えば「判決は妥当だな」ということに尽きる。弁護側が言っていた殺害方法の法医学的矛盾とか言うものについても、きちんと判決要旨で答えていたし、人を殺せない手段で人が死に至るというありえない矛盾をきちんと解答したのは評価できる。それに供述の一貫性だとか信用性もきちんと論点整理できているのも、そうだけど。あ~何か難しい話になってきたので、もう少し簡単な話をすると…。私自身、普段から思っていることは「犯罪を起こした人は、犯した罪やその罪の重さ・結果の重大性・被害者感情に応じて『平等に』裁かれて刑罰が執行されるべき」と考えています。その人が一般成人であろうが子供であろうが、男性であろうが女性であろうが、健常者であろうが障がい者であろうが、法の下の平等は常に考慮されるべきです。厳罰化が問題とされることがありますが、そう言う厳罰を受けることが相当である人は等しく厳罰を受けるべきだと思います。もしそれが重すぎると言うのであれば、なぜそんな厳罰に処せられるような犯罪行為を犯してしまったのか、それをきちんと自分の中で認識して罰を受ける。社会もそれをみて厳罰になるような悪いことは絶対しないんだという認識を、国民一人一人が認識することが必要なのではないかと考えます。それと「無期懲役」という罰の犯罪行為に比べての『軽さ』があります。お恥ずかしながら、私はつい何年か前まで無期懲役は「一生牢獄から出られないもの」と思っていました。実はそれは違っていて20年から30年では出てこれるかも、罪が軽かったらもっと早くに社会に出てこれるものなのです。それも殺人について言えば、人一人二人なら無期懲役で、それより多ければ死刑っていう。人が「一人死ぬこと」と「二人死ぬこと」と「たくさん死ぬこと」と「命の価値」に違いがあるのかと思うのです。「人命は地球よりも重い」というのは、もはや『死語』ですか?遺族にとっては身内が一人でも死んだら「死刑にして欲しい」というのが普通の望みです。それを何人死んだかとかで判断するって、基本的におかしい話です。それを知ってから「無期懲役」という罰は厳罰ではないんだと考えました。終身刑を設けたらと口にする前に「無期懲役」について、せめて「40~50年」スパンの長い懲役とする実質的な終身刑に位置付けるべきだし、それが罪に見合う罰の重さではないのかな。その上、複数の犯罪行為についてまとめて刑期を「バーゲンセール」のように「3ヶで1000円」みたいな言い渡しはしないで、個々の罪に関して刑期を言い渡しそれを合算する懲役に変えるべきだと思う。そうでないと、もっとも重要な犯罪行為にだけ目を奪われるあまり、残りの犯罪行為が見えなくなってしまい、刑期に十分反映しないで終わることもありそう。(複数の重大な犯罪行為をまとめて勘案して極刑が言い渡される場合は別だけど。)無期懲役の落ちてしまった価値をきちんと実態に見合うものに改善した上で、無期懲役になる罪よりさらに酷い犯罪行為に対する罰が「極刑」という「非常に重い刑罰」になるのだと思う。少なくとも、今回のケースは『罪に見合う罰を科す』ことができたものと思う。弁護側の会見と被害者遺族の会見を比べての感想。どっちが「法に携わる者なのかと思った。」弁護側が妙に感情的になっているのに比べて、遺族側はとても冷静だった。遺族のあの方は刑法などの法趣旨をよく理解していると思う。少なくとも被告弁護側より数段「まともな発言」をしている。弁護士という方々が法趣旨に乗っ取った裁判というものとは別の次元を見ていたと思われることを残念に思うのです。そして、裁判員制度への影響について言われているけど、私個人の意見としては『いい影響をもたらす』と思います。量刑の重い軽いに関わらず、自分がその裁判に関わったらどういう風に意見するのだろうという重要なケーススタディができたのではないかなとも考えている。裁判員制度のねらいは、「一般の人の感覚・常識を反映する」ことが目的にあると思う。私は裁判の判決報道を見ていると「普通に考えて違うだろ」と思うこと、意外と多かった。特に犯した罪に対して量刑が軽いんじゃないかと思う時が何度もあった。だから、一般の人が見てこれはそうでしょう、普通に考えてそうでしょうという意見を述べる、それについて議論をたたかわせることは、皆さんが思う以上に大切なんだと思う。それは事実認定の時もそうだけど、被害者の感情とか被告人の感情とかそういう部分に触れるときに他の人の意見を聞き、自分の意見を述べみんなで考えるということは重要だと思う。だから、裁判員の通知がきたらきちんと応じたいという思いを一層強く思ったのです。犯罪を犯した人にはきちんと罰を受けてもらう。罰を受けたらこれに懲りて悪いことを二度としない。犯罪を犯したら、きちんと罪に応じて罰せられる。犯罪の被害者がきちんと罰して欲しいことを訴えることができる。社会全体がそんな当たり前のことを、きちんとできないならどうして、みんなの暮らしをきちんと守り、みんなと一緒に生きていくことが出来るだろうか?どうして、子供達をよき人間に育てることができるのでしょうか?どうして、私達が毎日の日々を、これからの人生を生きていくことが出来るのでしょうか?そんないろんなことを考えたこの判決でした。勝手な発言・論理の飛躍・言葉足らず…数々の失礼は私の未熟たる所から来ています。申し訳ありませんでした。ただ、思ったことや考えたことを自分の記録としてここに書き置きます。
2008年04月23日
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こんにちは、皆さん。私は、クロスワード・パズルが大好きでよくやっています。今日、クロスワードパズルをしていたら、こんな項目に出会いました。『何かしようとすることは、災難にあうことが多い=「○○も歩けば棒に当たる」』ホントだろうかと思いつつも…やはり正解は「イヌも歩けば棒に当たる」でした。これはと思い、古いことわざ辞典を引っぱり出しました。それによると…。「もとの意味は、イヌもそこらを出歩くと、ひょっとすると人のために棒でなぐられたりするかもしれぬというところから、じっとしておればなんでもないのに、なまじっか何かしたり、でしゃばったりするから災いにあうのだというのであるが、このごろではこれとは反対に、じっとしていないで、何かやれば思いのほかの幸せにぶつかることもあるという意味に使っている。…(以下、略)」(集英社『新修 ことわざ辞典』41Pより抜粋)私自身、上記の文章をさらりと読み、さらりと引用しましたが「イヌが出歩くと、棒で殴られる」という衝撃的な(?)内容にしばし呆然としましたがもしかして、私の子供時代(昭和40年代・50年代)までは、そんな風景があったようななかったようなそんな気がしてきました。野良犬という存在が町のそこらにいて「イヌとぅやー(役所から来る野良犬の捕獲をする職員)」が野良犬を捕獲する姿がまだたくさん見られたころだった。なまじっか外をイヌが出歩くと、イヌとぅやーに捕まってしまう…そんな災難にあう。見方によっては、このことわざの元の意味で正しかったんだと。だけど、最近は環境が良くなってきて(役所の人の努力の甲斐なのか…)、少なくとも私の住む周りには野良犬の姿が非常に少なくなってしまいました。ことわざの社会的背景が変わってしまったのかもしれないな。イヌは今の時代、その辺にホロホロ出歩くものではなくリードに繋いで散歩に連れられる存在になってしまったのだから。よほどのことがない限り災難に出会うなどと言うことはなく、ドラマとかでよくある「公園でイヌを散歩させていると、可愛い女の人がイヌを散歩させているのに出会ってしまった」というような思わぬラッキーにぶつかるという解釈がでてきたのだろうか?言葉は時代によって変わるものと言われています。ことわざの意味するところもしかりなのかもしれない。そうは言っても「真逆に」意味が変わるのはどうなんだろうとふと首をかしげてしまった今日の私でした。それでは。
2008年04月20日
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友人のまいくらさんが異動で本土に行ってしまう。友達の少ない私にとっては大きなダメージですがこれも友の旅立ちだから…悲しんでばかりはいられないなと少しそう思った。会社人は異動を繰り返すことで大きく成長していくものです。たぶん、何か見込まれてのことでしょうから彼の栄転を喜び、明るく見送ろうとそう思ってます。そんなことを考えている割には、実は職場で「う~う~」とちょっとした軽い二日酔いにうなっていた私です。orzブログも続けてくれるようだし外国のような遠いところに行くわけでもないから同じ空の下で頑張っていきましょうや、お互いに。家族・まいくらさん共々、どうか元気で。あの時、上手く言えなかったから…。ここで言っておきます。今まで楽しかったまいくらさん。沖縄に来るときは元気な顔を見に行くから。またね、まいくらさん。
2008年04月19日
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こんにちは、皆さん。今さらではあるのですが、私のこのブログ。開設5周年を迎えました!!めでたいことです・・・って、えっ?今さらと思いますよね。私もそう思います。だって、4月1日はお仕事の配属先が変わってですね4月1日の午前0時には、引継先の職場にいました。それから半月間…ようやく配属先の仕事にも慣れてきた次第です。振り返るとこんなに日が経ってしまったというわけです。この5年間、いろいろなことがあり…いいことも、よくないことも、うれしかったことも、悔しかったことも、怒ったことも、悩んだことも、語ったことも。全て、今の私を形作る糧となっています。ブログを始めた当初はバリバリにしていたはずの13年勤めた職場も、この5年の間に辞め夢のようなものをひたすら追いかけ、またそれにつまづいて自分の新しい生き方を今やっと始めようとしているところです。うちの妻にしてみれば「のんきなことを…」と嘆いていることでしょう。もっともなことです。迷惑をかけていることを反省しつつも、まだまだ迷惑かけるんだろうと思う。ごめん。私自身も、いろんなことに無理をしすぎたこと。幼い頃に頭を何度も打ちすぎたせいか、いろんなことを考えていても、もはや頭の処理能力を超えて集中してこなすことが出来なくなっている自分の健康状態の低下に気付いている。それでも、自分に後悔しないように精一杯自分のやりたいこと、自分の夢を少しでも叶えるべく前へ前へと進んでいきたい。妻よ・・・私の今している仕事は、前からやりたかった仕事なんだ。簡単に考えているみたいだけど、この仕事はあなたが思う以上に重要な仕事なんだ。決して引退した方だけがやる仕事なんかじゃないんだ。私は仕事と言うのは、ただやればいいってもんではないと思っている。自分がこの仕事をして、本当に自分の中で「この仕事をする意義」というものを見いだすことがなければ「生ける屍(しかばね)」になってしまう。私はそんなのイヤだ。アンパンマンのマーチにある「いきるよろこび」を感じたいんだ。自分の人生をとおして。それに自分の中で納得するポリシーがないといけないと思っている。すなわち「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか」を答えられる人生を送りたい。私の生活の中心は経済的な理由で『仕事』と言わざるを得ない。だからこそ、私の生活の中心だけでも自ら考え、自ら行動し、仕事して、そして収入を得て、住宅ローンを払っていく…そんな生き方をしていきたいんです。もう生きる屍になんかなりたくない。前の職場を辞める前のあの自分でもイヤな自分になりたくない。もう今の私は変わったんだ。新しい自分に。ブログの話に戻しましょう。ブログにいろんなこと、いろんな思いなどをぶつけてきたけどこれからもそういう場にしていきたいなと思っている。そのためには、その日に思いついたことは日記に書いてアップしなきゃと反省しています。思いついたことを文章にしないばっかりに、いざ更新となった時に忘れてしまっている自分がいる。何だか自分の考えていることや思いついたことを、言葉にして何かに残しておかないといけない気が最近してきた。もしかして…人生のロスタイムに入っているのかな?(なんちゃって 笑)取りあえず、思いを自分のペースで、ちょっとした強迫観念をプラスして記述を増やすようにこれからも努力してまいります。そのため、日記更新の日にちが若干前後して読みづらくなるかもしれませんが、ご容赦下さい。開設5周年のこのブログ。何となく、でも確実に進めてまいります。今後ともよろしくお願いします。ということで、誠に措辞ではございますが開設5周年のあいさつとさせていただきます。ご静聴ありがとうございます。(何のこっちゃ????)それでは。
2008年04月17日
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こんにちは、皆さん。とりあえず、4月からのことが心配でいろいろ書いていましたがやっと、決まりそうです。とりあえず、仕事はあるということ。今いるところから異動になること。日勤帯と夜勤帯があって、休みは週1のシフト制になること。こんなところかな。詳細についてはネットという環境上おおっぴらには公表できませんが私の友人にはきちんと後で詳細を報告するつもりです。何とか年度末に間に合って、今後に目鼻がつきました。本当に何よりですwそれで、この土日は夜勤シフトに入って「研修」です。2連続夜勤なんて「アリエンティー」なのですがそこが「研修」なのでしょう。まぁ、頑張ってきます。どうぞ皆様、今後も不肖katufire119を見守って下さいませ。それでは。
2008年03月29日
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こんにちは、皆さん。この日、28日大江さんの裁判の判決がありましたね。いわゆる『集団自決訴訟』です。まぁ、当然の判決と言えば当然の判決だなと思いました。だって集団自決が起こったのは事実だし。判決要旨を読むと、沖縄の人ならある程度知っていることが並んでいました。「自決用に手榴弾が渡されたこと」「防諜やスパイ容疑をかけられて兵隊に殺害された住民が多くいたこと」判決要旨に書かれていたことだけじゃなくて沖縄戦に入る前に「一億総火の玉だ!」「本土決戦だ!」という空気のもとで兵隊さんだけじゃなくて、住民で組織する防衛隊や学徒たちが従軍看護婦や義勇兵として戦闘態勢に組み込まれていったんでしょう。学校では戦陣訓を教えることで「お国のために、天皇陛下のために死ぬこと」「捕虜に取られるのは恥ずかしいことであるから、死んで辱めを受けることのないようにしなさい」と言う意識をどんどん植え付けてきたじゃないですか?住民達には「鬼畜米英」「米英は人間じゃないから、捕虜になったら男は戦車でひき殺されて、女は陵辱される」と言って回ったのは、どこの誰だか…。兵隊さん達だったのでしょう?命令があったとかなかったとかという話だけど、命令書なんて紙で残るものがあるわけがないし、その有無について論議するのは単なる水掛け論にしかすぎない。兵隊さんは「自分達は天皇の軍隊だ。自分達の言うことは天皇の言うことだ。」と常平生言ってたんじゃん。それに「上官の命令は絶対」なんでしょう?兵隊さんの世界では。自分の指示に反して、手榴弾を渡したのは「部下の命令違反」と言っているようだけど、ナンセンスこの上ないですね。手榴弾を始めとした武器は「天皇陛下から賜ったものだから大切に使う」と教わったんでしょう?大事な局面に武器を使用するのが、価値に見合った使い方ってもんでしょう?その大切な局面が少しずれただけのこと。兵隊さんは「米軍が上陸してきたら、1個は米軍に、もう1個は捕虜にならないように使う」住民は「米軍が上陸してきたら、捕虜にならないように使う」それだけのこと。それが、こんな集団自決という重大な結果を招いたのですよ。それが分からないのでしょうか?それに基本的なこととは思うけど、原告はこの公の場に思いきり出て来れたものだよね。原告は名誉毀損を言うけれど「名誉の戦死」も遂げることもできず、今の今まで生きてこられたことを亡くなった戦友や天皇陛下に申し訳ないと思う気持ちは、おそらく微塵もないのでしょう。普通なら、大東亜戦争当時の兵隊さんは「国家のためにこの身を殉じること」「天皇陛下のために殉じること」を最大の美徳とする気持ちが良くも悪しくもあったじゃないですか。ご自分やご家族の名誉を大切にするなら、こんな裁判なんかしないで、沖縄での戦争体験に想いを致し穏やかに、これからの人生を過ごされるのが正しいあり方だと思うんですが違いますかね?沖縄駐留の各軍のトップも、潔く自決されたじゃないですか。沖縄守備軍の総司令官の牛島中将は摩文仁の地で自決されたし、その日が沖縄戦の組織的戦闘が終了した日『慰霊の日』として、沖縄県内では大切な日になってる。大田海軍中将も「沖縄県民斯く戦えり」という有名な電報を大本営宛てに送信したあと自決をされましたよね。上層部に沖縄の現状を伝え、今後の沖縄に「特別の御高配を」願い出る電報を打って、まさに「名誉の戦死」を遂げられたわけです。その時の沖縄戦の空気感が分かるので、参考までに電報を抜粋します。『然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ○中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ』(私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。)『而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ』(しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。)『是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ○○○○与ヘ○コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形○一木一草焦土ト化セン』(つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。)『糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』(食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。)(○は判読不明箇所。文字加工katufire119)この空気感をもって、渡嘉敷島を始めとして沖縄各地、あるいは「バンザイクリフ」に代表されるように南洋群島で起こった『集団自決』は推して知るべしではなかろうか?繰り返し強調するけど、集団自決は何も渡嘉敷島だけで起こった事じゃない。沖縄の、あるいは南洋群島の各地で起こった事なんです。もしもこれが本土決戦になっていたら、間違いなく終戦の詔勅で昭和天皇が述べた「而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」(なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。)になっていたでしょう。本土決戦の戦火に追われて、連合国軍に軍民ともに山中奥深くまでまで追い込まれて、兵士と若い住民は万歳突撃をする中で、山の壕の中では老人や婦女子が「天皇陛下万歳」と集団自決が始まるのは容易に想像できたでしょう。たぶん天皇陛下も。もう戦争をするようなことはあってはならないし、ちゃんといいところも良くないところも、歴史に学んでみんなが安心して安全に生きることの出来る社会をみんなで作って行かなければならないんじゃないだろうか。それが大東亜戦争で亡くなられた方々(英霊と言うのでしょう)のご恩に報いることではなかろうか。今日のお題のことですが…。先週の金曜日、小学校の卒業式がありました。私は「国歌斉唱」の直前まで、どうしようか迷っていました。「立つべきか、座るべきか」「斉唱すべきか、斉唱しないべきか」を。私は自分の置かれた立場上、国家斉唱をしなければならなかった。思えば、学校の卒業式や入学式に「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制が始まったのは、私が高校2年の時だった。もう時効になったと思うので書くと。当時、私は放送部に所属していたので、この件について「君が代のテープを流すのか、拒否するのか」議論が続いたあげく紛糾して、部内で意見が2分した。結局のところ、強制に甘んじることとなり、何も混乱することなく実施された。あの時のトラウマから、今まで「国歌斉唱」の時は「立たない、歌わない」を貫いてきた。しかし、もう逃げられない立場になった時から、「大人の対応」として立って歌うことにした。教育の中に「日の丸・君が代・愛国心」が入ってきたら、絶対に沖縄戦で起きたような悲劇が再来すると信じて疑わなかったからである。今の教育に「日の丸・君が代」が入って、もうかなりの月日が流れた。そして、今度の学習指導要領では「愛国心の涵養」が入ってくる。このような現状はダメなんだと分かっているのに、どうすることもできない苛立ちがある。それで、小学校の卒業式。私は来賓席にいる教育委員会の方の隣で、日の丸に向かって「大きな声」で君が代を歌った。ほとんどヤケだった。自殺行為に等しいモノだった。今まで守ってきた生き方を変えることで、負けを認めたのだから。そして「君が代」へのアンチテーゼとして、私はわざと「大きな声で」歌った。「君が代」の「君」は「象徴天皇」のことであるとの公式見解もあるようだ。「日の丸」「君が代」「象徴天皇」は全部ひとまとめになっているんだね。また不幸な歴史が動き出そうとしているんだなぁって。再び、沖縄県民を含めた国民が「なんじ臣民」にならないことを願っている。(玉音放送での「なんじ臣民」の「なんじ」を方言にすると「難儀」の意味になるため「本当になんじだった」という皮肉な話が沖縄の笑い話にあります。)そんな中での今回の判決だったからこそ。日本の良心はまだ失われていないんだと思った。よかった。本当に。
2008年03月28日
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こんにちは、皆さん。2月の終わり頃から「仕事」に励んでいる私ですが今度、異動が決まりました。異動って言っても、私は正社員じゃないので正確な記述ではありませんが今勤めているところの委託契約が今月末で解除になってしまうのと会社の上司に推薦されて、最近受けた試験に合格することができ晴れてこの職場に異動することになる見込みであると今日連絡を受けて聞きました。今までより、相当なステップアップです。社会保険等引かれるものの、アルバイトから正社員(たぶんw)です。仕事は若干ハードにはなるものの今の勤め先よりは、まだいいところがたくさんあって正直『うれしい』です。私の場合、本当は今週から研修が始まる予定だったのに今日になるまで、まったく事務所から連絡がないのでもしかして、あれだけ盛り上がって「おじゃん」になったのだろうかと昨日はすごく落ち込んだのに、それがウソのように晴々としています。取りあえず、4月からも仕事があるのは、もちろんのこと私の中の『バージョンアップ』の勤務先での仕事です。今度こそは本当に行けそうです。本当にひと安心です。明日も頑張ろうっと。(って現金だよなぁ。私ってw)それでは。
2008年03月27日
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こんにちは、皆さん。一応の報告をさせて下さい。仕事の都合で突然の猛勉強を始めた話を日記に書きましたがその試験が、この日(17日)にありました。陰ながらも応援をして下さった皆様のおかげで何とかバッチリ書けた気がします、試験。1週間以内に結果が分かるとのこと。この試験の結果も踏まえて、また新たなステップに向かってこの4月から踏み出せそうです。そう…それは現部署からの異動です。今度こそはステップアップ出来そうです。仕事は相変わらず大変になりそうですが仕事もしないで悶々としていた以前の自分よりは、もっとマシだし確実に自分の意識が変わりつつあるのを感じます。早くて来週には次の部署での研修が始まる予定です。住宅ローンの支払いや条件変更にも目途がつき何とか支払いしながらも、張りのある生活を送ることが出来そうです。katufire119は、これからもがんばります。今後ともよろしくお願いします。それでは。
2008年03月18日
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こんにちは、皆さん。久しぶりに大好きなカラオケの話を少しw今、練習している曲があります。月9のドラマの主題歌のこれ^^山下達郎の『ずっと一緒さ』です。山下達郎さんの歌って結構難しいけどこの難しい感じがウキウキするんです。CDを購入して音の強弱や譜割りを分析しながらもうすぐで自分の中でOKが出そうですw山下達郎さんの曲と言えばもう一つ攻めてみたい曲があるんです。『FOREVER MINE』と言う曲です。映画『東京タワー』の主題歌です。いやいや、リリーフランキーさんの方じゃないですよ。V6の岡田くんと黒木瞳さんが出ている方ですw順序が逆になりましたがこれもCDを買って練習したいと思ってます。私が何だか歌いたくなるような曲って自分の中でピンとくるんですよね。いずれ改めてご報告を。それでは。
2008年03月17日
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こんにちは、皆さん。この2~3日はある試験を受けるためずいぶんと久しぶりの受験勉強をしています。なぜ受験勉強をするかというと今回の試験を受けて合格することが今いる職場が請け負っている契約先での仕事をするための必須条件となっているからです。それも80点を取ることが必要とのこと。ずいぶんと久しぶりに受験勉強をするため何だかまだ本調子ではないのですがその受験日が3月17日に迫っているのでまずは出来るだけの「猛勉強」をしてみたいと思います。ただし、やる気は満々です(^0^)/絶対に合格して自分なりのステップアップを目指すのです。今度こそは。どうぞ何となく応援して下さいね。それでは。
2008年03月09日
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うやむやになってしまうのかな?あのこと。罪を犯した人を裁くことが出来ないなら法の正義はどこにあるのだろうか?レイプが親告罪なのはなぜだろう?なぜ被害を受けた女性が告発しなければ罪に問われないのだろうか?何だかよく分からないことが多すぎる。なぜ取り下げるんだろうね、告訴。自分の子が酷い目にあったら訴えるのが親だと思うけどね。女の子の親じゃないから分からないけど私だったら頭に血が上って「絶対に訴えてやる!」となるけどな。何だかよく分からないことが多すぎる。まぁ所詮、私のつぶやきで終わるのですが…。それでは。
2008年03月08日
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こんにちは、皆さん。風が肌寒い毎日ですが、お体いかがですか?以前、サクラスイッチという日記を書いた気がしますがこのところの冷え込みのせいで、そのスイッチが入ってきているようです。私の勤めているところの建物の前には4箇所に分けて桜の木を植えてあるのですが、これが面白い咲き方をするのです。それは同じ敷地内にあるのに、1箇所1箇所違う時期から咲くんです。自分から見て左端の桜が咲いたと思うと次の週には右端の桜が咲き今は真ん中の桜が咲き始める用意をしています。同じ敷地内なのに、一斉に咲くことはせず1箇所づつ分けて咲き始めるって面白いですよね。だけどもっと面白いのは「桜の花の下でツツジが咲いている」ということです。まるで季節がクロスフェイドしているようです。三寒四温か、ワカレビーサか・・・。いつになると冬は終わっていくのでしょうか?外の仕事なので、寒さがこたえます。トホホそれでは。
2008年03月04日
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こんにちは、皆さん。突然ですが最近、全然カラオケに行ってないのです。まぁ、それにはいろいろと理由がありますが、ここでは言いません。今夜はYoutubeの画面を見ながら、一生懸命『槇原敬之』さんの歌だけ歌っていました。なぜ槇原敬之さんだったかは、私にも分からない。ただ思い出して、歌っていた。(それも家の部屋の中で)カラオケに行きたいです。誰かマジで誘ってくれないかなぁ…。はぁ一人で歌っていると、やっぱり寂しいですね。明日は久々の土曜日オフ。ゆっくり休みます。PTA作業終わってからになるのかな?それでは。
2008年02月29日
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こんにちは、皆さん。私の勤め先にサクラの木が数本あり、何日かごとに代わる代わる満開となっています。聞いた所によると、何でもサクラが開花するためには「いったん冷え込むこと」が必須条件になっていると言うことで冷え込みが一種のスイッチとなって、開花の合図となるそうです。不思議だと思いませんか?皆さんだってサクラは私たちみたいに脳があるわけでもなくタイミングを図って考えることをしてないように見えます。それが開花のスイッチが入った後に花が咲くというのは、いったい何故なんだろう?どういった仕組みでサクラの木全体に開花を伝達するんだろうか?伝達してるのでなければ、もっと何かの拍子で咲いているのかとなると違うな。サクラスイッチはどこで反応して、どこに伝えていくのかどなたか知っているとか、我こそはどういうところを教えて下さいね。それでは、皆さん。まだまだ寒い日が続きますので、お体特に風邪に注意して下さい。私も早く寝なきゃ…では、おやすみなさい。
2008年02月28日
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こんにちは、皆さん。イージス艦と漁船の衝突事故…。被害者のご無事をひたすら祈るばかりです。このことについて報道されていることから、こんな話を書きます。やっぱり『だろう運転』はダメなんだよということです。ある報道から…。 見張り員が灯火を目視していたにもかかわらず自動操舵を手動操舵に切り替えなかったのはなぜなのか。見張り員は3管本部や海自に対し「危険性がないと思った」「相手の船がよけると思った」「(清徳丸は)あたごの後ろを通り過ぎると思った」などと話し、衝突への危機意識が薄かったことを明かしている。(2008年2月25日産経新聞記事より)『だろう運転』については、ウィキペディアの記載が詳しく、おおよそ言いたいことを書いてあるのでご参照下さい。やっぱり人間がすることなので、どうしてもこんなことが付き物です。「楽観的にモノを考える」ことは、精神衛生上は好ましいことですが『安全運転の一番の大敵』であることを、この事故も教えてくれました。車を運転していても「だろう運転」は致命的です。子供は車に飛び出さない、年寄りは横断歩道から渡ってくれる前から来る車は譲ってくれる、こちらは相手を見ているから当然相手はこちらに気付いてくれる。みんな「楽観的にとらえた」ら最後です。事故のもとです。だから「かもしれない運転」に心掛けましょうと言われるようです。「悲観的にモノを考える」ことそこから考えられることについて意識しながら運転をすることです。子供は車に飛び出すもの、年寄りは横断歩道から渡らない前から来る車は絶対に譲らない、こちらは相手を見ているけど相手はこちらを見ていない。実際、そんなのばっかりです。最近の交通事情なんて。だから、今回の事故についても同じことです。お互いに「だろう運転するマインド」を捨てて、回避行動をとるべきと思う。もちろん交通のルールは「交通弱者が強者よりも強い」ということ。道路では車は歩行者を優先すべきです。同様に大きい船は小さい船に対して安全行動をとるべきものです。皆さんも車を運転する機会が多いと思いますが『だろう運転』から『かもしれない運転』に考え方を切り換えて絶対に『安全運転』を。車も船も。それでは。
2008年02月25日
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