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被災地のニュースが放映され、家族が津波で離れ離れに離反しての行方不明、死亡確認の事例が流されますともう堪りません。やはり、家族は社会生活の基本、それがもぎ取られてしまう現実には身に詰まされて、悲しみに浸るしかありません。私自身にも跳ね返って、30年勤続記念旅行で、家内と訪れた時の古い写真アルバムを取りだして、寂しく思い出に湯浴みすることとなりました。Beethovengang(ベートーヴェンの小径)を訪問しましたのは16年前、ウィーンの郊外ハイリゲンシュタットの小高い丘の一角にそれはありまました。片側に小川(Schreiberbach:シュライバーの小川)が流れている、本当に目立たない小さな小径でした。しかし、嘗てBeethovenがこの道をよく散策し、その途中で田園交響曲の構想を練ったと言われている道ですから、約200年を経て、同じ道を歩いているのだと思いますと、感慨深いものがあります。 しかし小川は水量も少なく又護岸工事がされていますので、田園的情緒も無く住宅地の中にある横町と言った感じは否めませんし、想像力を働かせませんと雰囲気は偲ばれません。勿論その当時は現在と異なり、田園情景があったのかも知れませんが・・。ベートーヴェンの小径の終点には小さな広場があり、1863年6月建立されたベートーヴェンの胸像が記念として立っています。記念像はブロンズ製で、且つ逆光となりましたので、真っ黒で表情が上手く撮影出来ませんでした。秋晴れの天気に恵まれて、Beethovengang(ベートーヴェンの小径)を、行き交う観光客にも会わず気持ち良く散歩出来たことで訪問出来た価値が十分ありました。
2011.03.20
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デュッセルドルフを訪問しましたのは、もう14年も前のこととなりました。JAL Golobal Clubの会員でしたので、この年はClubに一流ホテルを紹介して貰い、フランクフルトではSteigenberger Frankfurter Hof、デュッセルドルフではNikko Duesseldorf、ブリュッセルではHilton Bruesselに、その他も含めて各2泊づつ予約して貰い、交通手段は1等乗り放題のEuro Railの2週間Passを日本で購入しての、ライン河川下り、キュウーケンホーフのチューリップ公園、レンブラントの夜警を観賞するのが目的の観光旅行でした。デュッセルドルフは進出日本企業が多いことで知られ、駐在員・家族も多数おりますことから、日本人街が形造られています。ホテル日航Duesseldorfも日本人街の一角にあり、デュッセルドルフ中央駅から5分程で歩いて行くことが出来ますので、此処を起点として観光することが出来ます。日本人街は旧市街の一角にも入り込んでいて、ホテルから徒歩で5分程度、ドイツ土産として知られるヘンケル(Henckel)の刃物を売る店も日本語でOKです。ナポレオンが小パリと呼んだ位ですので、町繁華街は緑も多く良く整備され、洗練された都会の雰囲気が満ちています。繁華街の中心道路は水路があって水辺には樹木が植栽されており、ゆったりとした感じです。中心道路沿いの水路で噴水もあり、良い散歩道でもあります。未だ家内も54才、私も55才、進言してライン部長を後輩に譲り、研究開発統括の特命部長となりましたので、四六時中会社に勤務している必要は無かろうと、1週間ほど有給休暇を取っての、気軽な夫婦二人の気まま旅行で、健康にも不安も感じない、楽しい旅でもありました。ホテル日航にはパリ、サンフランシスコにも宿泊したことがあり、少し手狭の様に見えましたが気持ちの良いホテル系列でした。JALの会社更生法適用で、全て売却されてしまいましたこともあり、過去は戻らないのだと懐かしく思い出すばかりです。
2011.03.05
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昨日は聖蹟桜ヶ丘の京王アートマンに行き、33,000円となったエコポイントで何か購入するものが無いか物色しようとしたのですが、見当たりません。諦めて、久しぶりにその3階にありますSan Coffeeで、ドリアセットと珈琲で昼食を取って、急ぐ必要は無いからと帰ることにしたのです。しかし、その隣は画材専門店の「世界堂」ですので、一番安価な1302円のF8仮縁を買ってみることにしました。押し入れに収蔵してある油彩の一枚を、壁に追加して飾ろうと思ったのです。処々を調べてみましたが、どうも玄関の壁に掛けるしか無さそうでしたので、既に2枚掛けてある、下側の油彩を左に少し寄せて、その右側に置いてみました。右下に追加した油彩は、「グリンデルワルトから見るシュレックホルン」、夕暮れが迫っていますが、夕日が谷間上部からシュレックホルンを照らして印象的な景色でした!その他の油彩は此処をクリックしてスライドショーで見られます。画像解像度を大きくしたものはこちらに収蔵してあります。各画面をクリックするとフルサイズとなります!
2011.02.27
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この教会のパイプオルガンは装飾が素晴らしく、ドイツの各教会にある様な荘厳で質実剛健な楽器と言うより、極彩色の美術品と言った感じがします。パイプオルガンの高さは約30m、使われているパイプの数は5000本以上で、完成当初から評判になり、1740年と1750年にはヘンデルが、1766年にはモーツアルトがこれを演奏したとされています。17世紀の大航海時代にスペインを凌駕して大発展したオランダ、特にハーレムはとても豊かで、一刻も世界で一番のオルガンを持ちたいと言う発展的な心意気を表している気がします。このパイプオルガンのある聖バフォ(BAVO)教会は市中心にあり、16世紀以来プロテスタント信者用に限定されています。同じ市内には、後年カトリック信者用に建てられた聖バフォ(BAVO)大聖堂があり、こちらについては下記紹介日記をご覧ください。丸い円天井屋根の聖バフォ(BAVO)大聖堂聖バフォ(BAVO)は西暦589ADにベルギー貴族の家系にリエージュで生まれ、幼年名をアローウィン(Allowin)として過ごす。 青年時代は我儘一杯の放埓な生活を送り、使用人も他貴族へ奴隷として売ったこともありました。成人しバフォン(Bavon)と改名し結婚するものの、死別して男やもめとなっていましたが、ある折、聖アマンド(Amand)の説教を聴くに及んで翻然と宗教心に目覚め、敷地内に僧院 を建てて聖アマンドに譲り、彼自身は其処の修行僧となります。その後全ての不動産を僧院に寄贈、又全ての所有物を貧しい人々に与え、彼は僧院内の小屋で隠者となって暮らすことを本懐とし、西暦654ADに一生を終えますが、後年その功績によって、カトリックの聖人とされました。Piet KeeがChandosレーベルに録音した“Piet Kee plays Bach on the Mueller Organ of St. Bavo, Haarlem”は名盤とされていますが、我が家にはそのVol. 2のCDが残っています。14年前にハーレム市内を家内と散策中に購入したものでした。
2011.01.11
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ザルツブルクの旧市街にあるホテルがなかなか見つからず、チェックインが遅れましたので、ザルツカンマーグート(Salzkammergut)の白眉であるハルシュタット湖(Hallstatt See)に着きましたのは午後4時を過ぎていました。駐車場を探しながら行きましたら、中心街を通り過ぎてしまい、何とか見つけることが出来ました。湖畔の出島に渡り、中心街を遠望しますと、流石に世界遺産の景観だと納得出来ます。散歩しつつ、1000年以上も掘り続けている岩塩抗へ登って行くケーブルカーを見つけました。200m以上直線的に登って行く様ですので、早速坑口まで登ってみましたが、岩塩坑の入口付近にある案内所で聞いてみますと、午後5時直前にでもなったのか観光坑内列車は閉店時間寸前で、残念ながら見学は出来ませんでした。其処で、岩塩抗周辺は散策路にもなっていましたので散策、夕日に照らされたハルシュタット市街は眼下にあり、ハルシュタット湖も濃紺の水面が印象的でした。この思い出も既に10年半以上も昔のこととなりました。
2011.01.08
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シュトゥットガルトを訪問しましたのは1995年9月のことでした。シュトゥットガルト大学の宇宙学科が極超音速研究で多くの論文を発表していて、極超音速研究設備が充実しているとのことで、調査見学するのが目的だったのです。シュトゥットガルト中央駅前にあるホテル・アム・シュロスガルテン(Hotel am Schlossgarten:城の庭に面したホテルと言う意味でしょう!)に、2日間宿泊したのですが、大学に推奨されたのか、駅前案内所を使って自分で見つけたのか、は忘却の彼方となりました。この写真はインターネットで借用させて頂いたものです!青春時代、クラシック音楽でカルル・ミュンヒンガー指揮のシュトゥットガルト室内オーケストラが好きでしたし、弁証法哲学の重鎮でマルクスを始めとする多くの哲学者に多大な影響を与えたヘーゲル生誕の地でもありましたので、訪れてみたい都市でもありました。着いた日はシュトゥットガルト中心部の宮殿やシュロスガルテン公園を散策、ヘーゲルの生家等を訪れ、青春時代の音楽と哲学を偲んだ覚えがあります。Jung Hegelianer、Alt Hegelianerとは社会思想史講座で興味を引く対象でした。ヘーゲル法哲学批判序説-城塚登のマルクス解説この写真は、ホテルの部屋から撮影したもので、低い丘陵地帯であることが分かります。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州の州都で、人口は約60万人。周辺はネッカー川を中心とする丘陵地帯で、4月になると道路沿いに植えられたリンゴの花がいっせいに咲きほころび、桃源郷を連想させるほど美しい風景が広がる。塔がある丘陵の上は起伏の少ないなだらかな平原になっており空港も有る。此処にも、家内と一緒に再訪したかったのですが、叶わぬこととなりました!
2010.12.23
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ハイジ村のあるマイエンフェルト町隣のラガーツ温泉のホテルタミーナ(Hotel Tamina)に泊っての翌朝、一路チロル街道を通ってインスブルックに向かおうとしたのは2000年5月のことでした。ラガーツ温泉からリヒテンシュタイン(Lichtenstein)公国迄は30分程で着きますので、休憩方々街を散策することにしました。ファドゥーツ(Vaduz)城を裏手の高台に回って見学しようとしましたが、公爵の居住地なので一般公開はしていませんので、塔の先端が見えるだけでした。その後街中に戻って、公国の郵便局で入国スタンプを押して貰いました。この国は郵便切手等が主な収入源なので、スタンプも有料でした。その後は、スイスからオーストリアに入りチロル街道を使いインスブルックを目指しました。2000年当時は、チロル街道は山岳道路で一部は未だ高速道路となっていない部分がありましたが、天候も回復し快適なドライブでした。
2010.12.18
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スウェーデン第2の都市ヨーテボリはマルメから列車で到着、駅前にあるホテルに飛び込みで空き状況を聞き、何とかチェックイン、早速市内散歩をすることにしましたのは12年前の初夏のことでした。このヨーテボリでのワンショット写真、背景が私の住む多摩市の駅前プロムナードによく似ています。駅前に続く坂道、ロータリーの傍にある低い建物はイトーヨーカ堂に見えないこともありません。多摩センター駅前には広いプロムナードがあって散歩にも最適となっており、そこにはデパート、ホテル、銀行、映画館、その他各種施設が整備されています。ヨーテボリのロータリー中央にはポセイドンのブロンズ像がありますが、多摩プロムナードでは季節によって、鯉幟になったり、クリスマスツリーになったりするのだけの違いです。ヨーテボリ(Goeteborg)は人口約51万人のスウェーデン第二の都市。自動車のボルボVolvo、カメラのハッセルブラッドなど国際的な企業や工場があります。1612年にグスタフ2世アドルフによって創設された街並みはオランダ人建築家の設計によるもので、街のところどころにオランダをしのばせる部分があります。街なかには運河が流れ、いたるところに公園があり、街の景観に潤いを与えています。街を南北に走るクングスポーツアベニン(Kungsportsavenyn)通りがメインストリート。レストランやカフェが並び一日中賑やかな通りです。旅行は国内外とも、パック旅行はしたことがありませんでしたので、行き先・宿は行き当たりばったりで現地で決める気楽なものでありました。
2010.11.25
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ケルンの大聖堂を初めて見ましたのは、通産省のヨーロッパ調査団の一員として渡欧した1992年3月末のことでした。マスの大きさに圧倒されると共に、ゴシック尖塔の素晴らしさ、内部のステンドグラスにも魅了されたのです。5年後の1997年4月末、家内にも見せてあげようと、学会発表などのシガラミが無い本当の観光旅行をしたのでした。この写真は、フォトレタッチのソフトを使い上下2枚を合成したものですが、合成ラインが分からない位に上手く行ったと思っています。近くからは1枚の写真にすることは難しかったことで、視点をずらして撮影した思い出も甦る懐かしい写真です。現存のケルン大聖堂は3代目で、2代目が消失した1248年に建設が始まった。16世紀に入って宗教改革を発端とする財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔が一つの状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからである。ゴシック・リヴァイヴァルの潮流から、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まり、1842年に建設が再開され、もう一つの塔の完成が急がれた。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことである。高さ157mの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物として世界一の高さを誇った。ウルム大聖堂の方が尖塔の高さが高く、世界一と言われていて、私は行ったことがありましたが、家内を連れて行くチャンスは残念ながら逸してしまいました。ウルム大聖堂(Ulmer M?nster)は世界で一番高い大聖堂で、尖塔の高さ161m。1377年にゴシック様式教会の建設が始まり、完成は1890年。768段の階段はもちろん登ることも可能。最高階の展望台は地上から141mの位置にありウルムの街が一望できる。全てが過去の記憶となって行くのが残念に思えますが、年齢相応なのかも知れません
2010.11.16
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昨夜、NHK番組「世界街歩き」でストックホルムが放映されていましたので、懐かしく見ていました。1998年6月初旬にストックホルムで米国機械学会のガスタービン会議があったので、論文発表を予定していました。パリで二泊した後入る予定でしたがエールフランス航空会社のストライキがあったので、一泊だけでSASを使ってストックホルムに入りました。ホテルにチェックイン後、快晴に誘われて散歩しに行きましたが、NHK番組で、丁度12年前に散歩しつつ通った道路を散歩していました。解説に依りますと、国会議事堂横を抜けて、旧市街「ガムラ・スタン」に行く歩道専用の道路なのだとのことでした。ホルムと言うのはスウェーデン語で「小さな島」だそうです。メーラレン湖とバルト海の合流する所に浮かぶ小さな島「ガムラ・スタン」が発祥の地として発展し「北欧のベニス」と呼ばれています。着いた日は快晴でしたが、翌日から学会終了まで豪雨が降り続きました。私の論文は運悪く人気の無いセッションで、聴講者も少なく残念でしたが、家内も部屋の片隅で聞いていてくれました。発表原語は英語でしたので、聞くだけで閉口したのかも知れませんし、後にも先にも、それが唯一のことでした。ストックホルム市内観光の写真アルバムは下記をクリックしてください!ストックホルムからマルメ・コペンハーゲン
2010.10.23
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子供部屋に置いてありました、家内のトレッキング用具を形見分けすることにしました。石井スポーツで購入した古いリュック、奥多摩、秩父、丹沢、箱根、熱海近辺の低山を共にトレッキング、スイス、ニュージーランドでも使った思い出のある品です。2000年5月、スイスのハイジの山小屋、右に見える黒いリュックは私のリュックです。2001年1月、ニュージーランドでクック山の見える、トレッキングコースで!小さい頃から仲の良かった従姉に、雪対策用のアイゼン、くるぶしカバー、雨用のリュックカバーも合わせて、Uパックで送りました。先年葬儀の際には、トレッキングシューズ、ウォーキングシューズ、登山コートを持って行って頂きましたので、家内のトレッキング用具は殆どが従姉の処に行ったことになります。昨日サイズが丁度良いとの電話がありましたのは、大切に使って頂けそうなので嬉しい限りです。しかし寂しく感じることもあり、本人承諾無しの臓器提供もこの様な感情なのかと思われましたが、赤の他人で無く、仲の良かった親戚に使われることで亡くなった家内も喜んでくれているのだと納得することにしました。
2010.09.08
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ノートルダム寺院(大聖堂)の塔は、400段近い狭い螺旋階段を登って行きますと展望テラスになっています。しかし、あまりに狭くて急なので、上がる人と下りる人とのすれ違いには気を使うことになり、特に団体に出会いますと、待機して辛抱強く待つ必要があり、時間が相当掛った様な記憶があります。展望台は塔の中段に位置して、それ程高くはありませんが、苦労して登り切った後、展望台(テラス)から眺望は見事なものでした。ほぼ真下にセーヌの流れを見え、遠くにエッフェル塔、頭を少し巡らせばモンマルトルの丘にあるサクレクール寺院も望むことが出来ますので、花のパリに居ると言うことをより強く感じることが出来ます。インターネットで調べてみますと、この階段を登るには有料となっていますが、27年前もそうだったのか否か、覚えて居りません。当時はアンソニー・クウィーンの「ノートルダムの背むし男」よろしく、一しきりパリの眺望を楽しみました。
2010.08.14
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ミュンヘンで開催された米国機械学会(ASME)の論文発表に出掛け、学会手配の「ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城」観光ツアーに夫婦で参加しましたのは2000年5月初旬のことでした。ミュンヘンを朝早く出発して、花咲く野を近くに、遠くにはドイツアルプス最高峰ツークシュピッツを見つつ1時間程で着いた山村オーバーアマガウにて途中休憩となりました。町中の散策をして見ますと外壁に美しいフレスコ画が描かれている家々が立ち並んでいて感じの良い街でした。土産物屋さんも多くあり、この土地の伝統なのか、木彫りの置物が数多く見かけられました。購入しませんでしたが、結構高価だった様な気がします。又10年毎にキリスト受難劇を上演する劇場(Passionstheater)を見学、上演直前の時期だったと思います。バイエルン州南端、ドイツアルプスの北麓にある村、人口5千人足らずの小さな村ながらも独特の雰囲気が流れる魅力的な村である。多くの家々に描かれたフレスコ画がたいへん美しく、この村の異色な雰囲気を作り出している。また、この町は木製のおもちゃや木彫りが特産という点では非常に歴史が古く、キリスト受難劇が始まる3世紀も前の15世紀にまで遡る。この町が有名となったのは、1633年のペスト大流行の年。前年の1632年からドイツを襲ったペストだが、ここオーバーアマガウでの被害が少なかったことから、その感謝の意をこめて1634年より村人達の手でキリスト受難劇が始められた。オーバーアマガウの歴史は、パッションテアトル(Passionstheater)で開催される10年ごとのこのキリスト受難劇と共に流れてきたとも言える。今年2010年はキリスト受難劇が上演される年で、テレビ・インターネットでも報じられていますが、私達の訪問はもう既に今から、10年も前のこととなったのです。
2010.08.04
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27年前、ヴェルサイユ宮殿への観光バスがチィルリー公園から出発すると言うことで、家族4人でピラミッド広場を通った時に、ジャンヌ・ダルクの騎馬像を見つけて撮影したものです。金箔が少し落ちて、歴史の風格も見られましたが、現在では改修されて、金に輝く騎馬像となっている様です。ピラミッド広場には、黄金に輝くジャンヌ・ダルクの騎馬像あり、シンボルとなっている。此処から、チィルリー公園やルーヴル美術館も近く、目印として活用できる。ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)、「オルレアンの乙女」(la Pucelle d'Orl?ans)とも呼ばれるフランスの国民的英雄で、カトリック教会における聖人。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで捕虜となり、19才にも拘わらず、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。NHKの海外版“ジャンヌ・ダルク 戦いはわが愛のあかし~裁判記録が明かす 聖女の真実~”を紹介しましたのは、2003年9月、7年も前のこととなりました。裁かるるジャンヌ(1928 仏 La Passion de Jeanne d’Arc)
2010.07.30
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スケベニンゲンとは又変わった名前、正式にはスヘフェニンゲン(Scheveningen)と発音するらしいのですが、其処の有名なKurhaus Hotelに泊ったのは、もう既に12年前のこととなりました。石油メジャーのロイヤルダッチ・シェル(Shell)本社がオランダの首都ハーグにあって、ハーグ郊外の海岸にあるスケベニンゲンの由緒あるホテルKurhaus Hotelを斡旋して貰ったからでした。別にクアハウスと言っても、館内に大きな温泉浴槽があった訳ではありません。それではと、ホテルから海岸に出てみましたら、埠頭(De Pier)からみる波が大きく荒れていて、北海の荒波が実感することとなりました。その際のシェルとの商談は洋上天然ガス液化プラント(FPSO: An Experimental Study of Float Type LNG Terminal LNG12 5.7 May, 1998)の技術説明だったのですが、それ以降は上手く行かず、私自身はそれ以後行くことはありませんでした。日本人の間では時にスケベニンゲンとも読まれ、珍地名とされることもあるスヘフェニンゲン(Scheveningen, 最も近い発音は スヘーファニンゲン)はオランダの南ホラント州 デン・ハーグ基礎自治体にあり、北海に面している。長い砂浜と観光漁港のあるリゾート地。デン・ハーグ中心部から約6km北西にある。海岸には1886年に創業したKurhaus Hotelが建ち、埠頭(De Pier)と共にスヘフェニンゲンのランドマークとなっている。
2010.07.20
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リオン市のソーヌ川西側にはローマ時代からの建物がいまも息づく旧市街があります。フルヴィエールの丘にはソーヌ川近くにあるケーブルカーで行くことが出来ます。この丘は紀元前43年に切り開かれて以来栄えたそうで、丘上のフルヴィエール教会(Basilique de Fourviere)からリオン市街を見下ろしますと、赤い屋根の家屋が多い眺めを一望できます。フルヴィエールの丘には、現在でも紀元前15年に作られたローマ劇場(Theatre Romain)等の歴史的建物が残っており訪問したい場所です。フルヴィエール・古代ローマ劇場 (Theatres Romains de Fourviere) はフルヴィエール大聖堂から下った位置にある古代ローマ時代の劇場で、現在でも夏季に行われるイベント「フルヴィエールの夜」で、コンサートや演劇の上演に利用される。
2010.07.10
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シャフベルク登山鉄道は100年以上の歴史があって古く、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台になって以来世界中から大勢の観光客がやって来ます。ヴォルフガング湖畔のシャフベルク鉄道駅(Schafbergbahnhof)から標高1,734mのシャフベルク山頂駅(Schafbergspitze)までの5.8kmを45分かけて登って行きます。シャフベルク山トレッキング頂上に着いた後は、気軽にハイキングが楽しめることも人気の一つですので、下山は2時間掛けて歩いて下るのも楽しみです。シャフベルク山頂小屋(Haus Schafbergspitze)下山開始、傾斜は結構急でした。30分も経ちますと、シャフベルク山頂小屋は遥か彼方となりました。途中の木陰で、昼食をとりつつ、4時間掛けてゆっくり下山しましたのは、10年前のことでした。
2010.07.07
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200年5月中旬、インスブルックからイタリアのコルティナダンペッツォを訪れ、インスブルックの宿に夕方帰りましたが、其処の宿は所謂B&Bのみで、夕食サービスは無いので、夕食方々観光が出来る場所を聞いた所、リゾート地のアッヘン湖が良いだろうと教えて呉れました。夕方7時を過ぎていましたが、未だ太陽は高く素晴らしい景観が楽しめました。アッヘン湖周辺は、蒸気機関車鉄道、宿泊設備等完備しているリゾートでした。チロル地方は自然豊かな高原で、深い谷と美しい湖が点在する魅力的な観光地ですので、宿は町中で無くこの様なリゾートに取って、二人で自然を満喫したいものだと思いましたが、もう叶わぬ夢となりました。アッヘン湖は、標高931mに位置しアルプス地方で最も美しい山岳湖、チロル最大の湖で氷河堆石が谷を堰き止めて作ったことで、紺碧の湖面で知られ、水質が大変良い。
2010.07.04
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鉄筋コンクリート建物は法定上35年と定められ、昭和30~40年代に建てられた団地群が建て替えられています。確かに、鉄筋コンクリート躯体にモルタル塗装をしただけの団地群は、亀裂した場所から空気・水が浸入して、錆びた鉄筋がコンクリート部から遊離してしまい強度が保てず、補修が難しいとも思えます。しかし、昭和50年代以降に建てられた団地群は、堅牢なシリコーン塗装がされており、10年毎の再塗装を行うことで、鉄筋コンクリート躯体に空気・水が浸入することが無く、劣化防止されていますので、50年以上は耐久性があり、法定年限を延ばすことが必要なのだと思われてなりません。ローマにあるパンテオン、鉄筋を用いないコンクリート・石造建築としては世界最大のドームは、2000年以上も風雨に耐えて、未だにその堅牢さと威容を見せてくれています。最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近アグリッパによって建造されたが、火事で焼失している。2代目のパンテオンは118年から128年にかけて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建された。現在ローマで見ることができるのはこの再建されたパンテオンである。建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2m の円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは6mに達するが、高さによって材質を使い分けており、ドーム上部は凝灰岩と軽石を素材として用い、その厚さは1.5mに減じる。床からドーム頂部までの高さは直径と同じ43.2mで、頂上部分には開口部 があり、ドームの質量を感じさせない。
2010.07.02
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ドイツのババリア地方には、ねぎ坊主頭の教会が多く、ミュンヘンの聖フラウエン教会もねぎ坊主頭の塔を持つことで知られています。ミュンヘンから1時間南下して行ける国境の町フュッセンは、ノイ・シュヴァン・シュタイン城を観光名所として知られていますが、その下の平原には小さなねぎ坊主頭の教会があります。人家も見えない処に位置していますし、観光資源でも無い様で、奇妙な感じがしないではありませんが、なかなかの被写体でもある様に思われます。この写真はインターネットで見つけたもので、私が撮影したものではありません。この教会からは、丘の上に立つノイ・シュヴァン・シュタイン城を望むことが出来ます。こちらは、15年前に撮った私の写真、教会前の小径から撮ったものです。一般的に「ねぎ坊主」と呼ばれていますが、その形は火焔を現し、教会内での聖霊の活躍を象徴しているとも言われています。
2010.06.29
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トゥールーズを訪問しましたのは、1991年3月とことですから、もう20年も前のこととなりました。イラクがクウェート侵攻から撤退、所謂湾岸戦争が終結した直後で、ヨーロッパ行の飛行機はガラガラに空いていました。当時、日本も21世紀に自動車産業の次世代を担う産業は航空宇宙産業であるべきとのことで、ヨーロッパ各国を回って調査し、トゥールーズでもエアバス社を訪問するのを目的としていました。トゥールーズは歴史の古い町で、聖セルナン教会は12世紀に、トゥールーズ大学は13世紀に建てられました。聖セルナン教会は、11世紀から12世紀の間に建てられ、ロマン式の建築様式で全長115メートルとなっています。中世に於いては、キリスト教信仰の力強さを検証する象徴だった様です。西暦250年の殉教者サトュルナンに由来し、ヨーロッパカトリック巡礼の最終目的地スペイン/サンチァゴ・デ・コンポステーラの途中基地として重要なのだそうです。スペインのサンチァゴ・デ・コンポステーラ、この町で9世紀にキリストの12人の使徒の一人聖ヤコブの墓が発見された。ローマ教皇は「これは奇跡!」としてヨーロッパ中に知らしめたことから、エルサレム、ローマと並ぶキリスト教の三大聖地とされ、1985年世界遺産に指定されました。何時かは家内とスペイン旅行と思っていましたが、夢が叶わずに終わってしまいました。それでも、ドイツ、フランス、オーストリア、チェコ、イタリア、スイス、スウェーデン、ノルウェー、デンマークと夫婦気まま旅行に行けたのですから、良しと致しましょう!
2010.06.28
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スイスのラガーツ温泉からリヒテンシュタイン公国を経てチロル街道に入り、チロル最大の町インスブルックに向かいましたのは200年5月中旬のことでした。 当時のチロル街道は山岳道路で一部は未だ高速道路となっていない部分がありましたが、天候も回復し快適なドライブでした。インスブルックを通り過ぎてしまい、Uターンして高速出口の観光案内所で宿を紹介して貰ってから入って行きました。予約してくれた宿(Hotel Altpradl)は旧市街(Alt Stadt)の一角にあった家族宿で、夕食サービスはありませんでしたが、気の置けない良い宿でした。早速しない見物に出掛けました処、有名な「黄金の小屋根」は町の中心地にあり、観光客で溢れていました。横を向いて微笑んでいるのが何故かは思い出せませんが、観光客も多く何か面白いことがあったのでしょうか?兎に角、インスブルック(Innsbruck)町中を流れるイン川は清冷で、町の雰囲気を清潔になっていたのが印象的でした。ハプスブルグ家の黄金時代を築き上げた皇帝マキシミリアン1世が、広場で催される行事を見物するための観覧席(ロイヤル・ボックス)として1500年頃に造らせた5階建ての建物。金箔を張った2657枚の銅板の瓦で出来た屋根から「黄金の小屋根」と呼ばれ、インスブルックのシンボルと なっている。懐かしくも、寂しい感がして仕方がありません!
2010.06.10
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オスロ市内にホテルが取れない為、隣町のドラメン(Drammen)にホテル予約を入れ其処に向かいましたのは、1998年6月のことでしたから12年も前のこととなりました。観光客も全くおらず、静かな町並み、ホテルにチェックインして聞いてみますと、此処がオスロ・フィヨルドの中にある町だとのことでした。夜8時にはなっていたと思いますが、10時頃までは明るいので素晴らしいフィヨルドを求めてドライブして見ました。夜9時を過ぎても、北緯60度ともなりますと6月はなかなか日が沈みません。横道から高台に入り、道の行き止まりから海を展望して見ました。オスロ・フィヨルドの入口でしょうか、美しい景色が広がりました。但し、切り立った断崖が無く、日本の長崎の入り江に似ている程度のもので多少がっかりしました。それでも、入り江に出来た小さな集落がまるで箱庭の様な景色をもたらせていましたので、其処を背景として、家内の写真を撮りました。夕景の中、静かに微笑んでいる様は、雰囲気があって良い画像となり、今でも時折、二人旅行の良い記念となったと大切に見ています。オスロ近傍では真夜中になりましても6月には真っ暗にはなりません。夕暮れの様な気配のままで夜の12時になっても、外では未だ子供達が自転車に乗ってはしゃいでいました。このまま朝の太陽を待ち受けるのです。日本では、体験出来ない一寸不思議な感覚でした。
2010.06.09
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Tokyo MXテレビで、毎週日曜日17時~17時30分「アルプスの少女ハイジ」の再放送が始まりましたので、偶然拝見しましたが、先月末にも、NHK-BS2で2回に分けて「アルプスの少女ハイジ」総集編が放送されたばかりだったのに驚きでした。昨日はキリスト教の復活祭ではありましたが、このアニメ番組が不死鳥の様に甦(よみがえ)ったのは未だに人気があると言うことなのでしょう!我が家の三鷹台団地時代、子供達も3才と1才でしたので、毎週日曜日夜に放映される番組を、家族皆で良く楽しみに見ていました。「アルプスの少女ハイジ」はヨハンナ・シュピリの小説「ハイジ」を原作として1974年に放映されたテレビアニメ作品。スタッフはテレビアニメ史上初といわれる海外現地調査(ロケーション・ハンティング)を行った。この海外現地調査には、高畑勲、宮崎駿、小田部羊一らが参加しており、その成果はリアリティの高い作品作りに生かされた。家内と2人で、ラガーツ温泉に泊り、翌朝マイエンフェルトに行って、ハイジ村からアルムの山小屋を訪れてみましたのは、2000年5月でしたから10年も前のこととなりました。生憎の曇天で、訪れていましたのは誰もいませんでしたので、家内にハイジになって貰い撮影しましたのがこの写真です。小屋の規模は、想像していたよりも小さく半分程でしたが、イメージはぴったりそのものと感心した覚えがあります。その際のハイキング紀行については私のWebサイトにアップしていますので、下記をクリックしてみてください!ハイジの道
2010.04.05
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1993年実母が亡くなった時は、好きだった雲を題材に山梨県忍野村から見た富士の絵を描きました。1995年義母が亡くなった際に、五島列島榎津郷城山から見た蛤海岸を描きましたのは、娘時代から海水浴を楽しんだ場所と聞かされていたからでした。撮り貯めた海外旅行写真を見ていましたが、2000年5月に訪問しましたドロミテ山群の見えるショットが良さそうにも思えます。家内が眼を瞑ってしまった写真をそのままスケッチするべきか、風景画とするべきか、迷ってしまいます。昨年13年振りに絵を描いただけ、何しろスケッチを取るのも久しぶりですから、至って自信が無く無謀にも思えます。しかしながら鎮魂が目的ですから、自分を奮い立たせて“Seize the Day!(元気を出して生き抜こう!”、何とか来年になったら決めようかと思っています。
2009.12.30
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昨日、病院の待合室で古いルーブル美術館を紹介する本を見ていましたら、コローがサンス教会内部を描いている油絵を見つけました。 画家コローが世界遺産であるシャルトル教会を描いていることは、我が家の画集にもあって知っていましたが、サンス教会を描いているのは初めて知りました。この教会は26年前、家族でディジョンからパリに行く途中、フランスの教会も見ておこうと偶然立ち寄ったのでした。 それまではサンス(Sens)と言う名前も知らなかったのですから、全くの気儘旅行での1ショットです。サンス大聖堂(Sens Cathedral)は、フランスでは最古のゴシック様式の建物で、1140年に建設開始され12世紀にほぼ中核部分が建設されますが、16世紀の初期までは完成ということは至りませんでした。この教会は、装飾の豊かさや均整美より、堅牢・堅実さを保持することで知られています。
2009.06.10
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このマイセン窯のブルーオニオンC/Sは、14年前にドイツのシュツットガルトに出張した際に購入したもので、邦貨2万円を越えていました。先日、イトーヨーカ堂で1万4700円の価格でセールとなっているのを見ました。円高が影響しているのでしょうが、インターネットでは1万2千円台ともなっていて、随分安くなったものです。ブルーオニオンとは世界的に有名なデザイン、1739年にマイセン窯で中国のザクロ文様をデザインした絵付けを発表したことに始まる。ザクロを知らないドイツの人々が、「ブルーオニオン(青いたまねぎ)」と間違えたことで、呼び名がついたと伝えられている。発表当初はあまり人気がなかったようだが、一気に広まったのは1800年代に入ってからで、白磁にコバルトブルーの染付けで描かれた模様は、世界中で多くのファンを魅了する。白磁にコバルト色で描かれた模様は自己主張しないことから、使い続けても飽きの来ないもので、極彩色のカップ・ソーサ(C/S)よりも、ファンを惹き付ける魅力がある様に思われます。
2009.01.27
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ユーランダー・パウダー・ルビー(Ulander Powder Ruby) ティーポット(L) 食卓に美しさや華やかさを彩るとの思いが込められたシリーズ、「ルビー」のような光を放つパウダー状の色模様が特徴です。英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)は、アイルランドの高級陶磁器メーカー、ウォーターフォード・ウェッジウッド(Waterford Wedgwood)が事実上経営破綻し、法定管財人の管理下に入り、救済を模索して米国の3資本が管財人と協議を行っていると報じた。同社は世界的な景気悪化や安価な陶器に顧客を奪われたことで主力市場の日米英で販売が落ち込み、経営不振が続いていた。昨年12月には主要取引銀行が融資の継続で支援をしたが、立て直せなかった。今後、管財人の下でスポンサー企業探しを急ぐ。ウェッジウッドは1759年、英国陶工の父と言われるジョサイア・ウェッジウッドが創業。英国王室御用達の「女王の陶器」として、世界に愛好家が多い。但し、高級志向の顧客に限定されるため経営は不安定で、1986年にアイルランドのクリスタルガラスメーカー「ウォーターフォード」が買収。最近では中国製品との価格競争に追われ、主要な生産拠点を英国からインドネシアに移していた。我が家では、27年前に来客用食器として、ティーカップ・ソーサー、シュガーポット、クリーマー、ティーポットをユーランダー・パウダー・ルビー・シリーズで揃えて購入したのでした。ウェッジウッド経営破綻は驚きで、これらはアンティークになってしまうのでしょうか?
2009.01.07
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ローマの中央駅テルミニ駅から遠くない処に国立絵画館はあり、バルベリーニ宮殿の2階が絵画館に充てられています。ヴァチカン美術館内のシスティーナ礼拝堂とは違って、観光客の姿も少なくて、ゆっくりと観賞するには最適な美術館と思われます。元来はバルベリーニ宮殿、1633年にベルニーニが完成したバロック様式の代表的な建築物で、その宮殿がこの国立絵画館となり、13~16世紀までのイタリア・ルネッサンスの絵画を展示していることで知られています。絵画館2階の大広間に残る、ピエトロ・ダ・コルトーナのフレスコ天井画「神の摂理の勝利」は、日本ではこの画家の名は殆ど知られていませんが、素晴らしいものがあります。バルベリーニ家は、トスカーナ地方の出身で、ローマ法王ウルバヌス8世を出しているのですが、それを記念しての作品と言われています。同絵画館には油彩の名品が多く、ラファエロの「フォルナリーナ」、フィリッポ・リッピの「聖母と幼児キリスト」、カラヴァッジョの「噴水の傍のナルシサス」、ティツィアーノの「フィリップ2世の肖像」、ホルバインの「ヘンリー8世の肖像」の他、ティントレット等の作品が何気なく展示されていますのが、名品を誇らない感じがして良いものです。
2009.01.06
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この珈琲カップ・ソーサーは10年前にオランダのハーグ市で購入した2客の内の1客で、それほど高価なものではありませんでしたが、ポースレン・フレス社(De Porceleyne Fles)製造品であることを表す製造番号があり品質保証書が発行されていました。オランダのデルフト(Delft)はドイツのマイセン(Meissen)と並んで陶磁器の製造で知られ、特にコバルト色の絵付けに特色があり白地にデルフトブルーと呼ばれる青い色の模様のデルフト焼きは、中国陶器・ペルシャや日本の伊万里焼などの影響を受けた陶器で、シンプルだが味わいのある磁器はヨーロッパでも人気の高いものです。しかし今では、伝統的な手作業による絵付けを行っているのは、ポースレン・フレス社(De Porceleyne Fles)とデルフト工房(De Delftse Pauw)二社しか無いとされ、町の土産物屋で売られているデルフト焼きは殆どが機械絵付けと言われています。16世紀頃はオランダ各所に陶器の窯元があり、イタリア・スペインのガラス細工や陶器などを製造していた。デルフトでもそういった陶器産業が発達したが、17世紀になると東インド会社が中国からの陶器を大量に輸入を始め、人々は中国陶器の色合いや模様に魅了され、オランダの陶器の人気がなくなっていった。デルフトでは中国陶器を真似て作ることで生き残りを図り、デルフトの職人達は、独自の白地とデルフトブルーと呼ばれる青い色の模様を生み出して行った。ドイツのマイセン(Meissen)焼きは高級品イメージが強いのですが、オランダのデルフト(Delft)焼きは普及品イメージに近く、青い色と言うより紺色に近い絵付け模様は、有田焼にも通じるものが感じられ、何か素朴な味わいがあり、日本人にも好まれる器となっている気がします。購入時に頂い品質保証書も日本語版となっていますので、訪問した日本人観光客の多くが魅力を感じて購入されるのでしょう!
2008.02.01
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プラハ旧市庁舎のある旧市街広場からカレル橋を渡り、プラハ城への坂道にあった土産物店に入り、ボヘミアグラスの小物を欲しいと思い見ていて偶然見つけたものです。普通ボヘミアグラスと言えば、細かいカットできらびやかになっていることで知られていますが、これは日本の江戸切子・薩摩切子風のカットでしたので、気に入って購入したものです。貼り付けてあるシールには「Bohemia Hand Cut Lead Crystal over 24% PbO」と記載されているだけで、製造元を特定出来ません。暗紅色の表面合わせガラスも薄くて、高価なものでも名品でもありませんが、明快単純なカットは、私を含めた日本人に好まれるのではないかと思われます。久しぶりに飾り棚から出してみましたが、一輪差しに近い花瓶ですし、この冬の時期、それに似合う花も見当たらず、直ぐ飾棚に戻ることになりました。
2008.01.19
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これは25年も前の大昔、パリでベルサイユ宮殿行き観光バスに乗った時に、多分宮殿内のギフトショップ(?)若しくは宮殿観光バス発着場近くの土産店(?)で購入したものらしいのですが、何処だったかは記憶が薄れて思い出せません。タテ糸にヨコ糸を織り込むように綴(つづれ)模様を作り出して行き、手間は掛かりますが、模様取りは自由で絵の様な表現が出来ます。歴史は古く2000年以上と言われ、エジプトのコプト織や京都の西陣織も、この綴(つづれ)織だそうです。僅か30cm正方形の壁飾りですので何の価値も無いのですが、フランス貴族の様子が窺われるのが捨て難いものとして、階段壁を20年以上飾っています。旅の思い出に価値はあるのでしょうが、でもよく見ますと「貴族邸宅内の林のある庭散歩道で挨拶する男女の姿」、その図柄は土産物然とする以外の何物でもありません。
2008.01.15
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ルツェルン湖がロイス川に流れる場所には、美しい瓦屋根を持つ木造の橋があります。急流とも見える流れには、白鳥が流れを厭わず沢山泳いでいて、美しい北の湖と言った雰囲気が醸し出されています。1983年9月末、多分正午頃に撮った写真から、記念にと思い、1989年3月、F6号ボードに油絵としておきました。1996年8月には、チューリッヒからディアブレに行く途中、朝食を取るために立ち寄ったことがあり、午前7時頃、昔を偲んで少し散歩をしましたが、先を急ぐため写真は撮りませんでした。14世紀前半に街の要塞として建設された屋根付き木造橋、ヨーロッパ最古の木造の橋として知られている。近くの聖ペーター教会のチャペル(カペル)にちなんで名付けられた。中央付近にある大きな八角の塔は、「水の塔」と呼ばれる給水塔で、高さ34mもあり、1300年くらいに市の城壁の一部として建てられたもので、橋より古く、そもそも橋も市の防壁の一部として造られた様である。17世紀になって梁に飾られた板絵には、スイスとルツェルンの歴史物語や、街の守護聖人レオデガーとマウリツィの伝記などが描写されている。1993年に右岸側の大半が火事で焼失しましたが、翌年に再建され、長さは200m、立派な屋根付き橋で、今でもルツェルンのシンボルになっています。
2007.09.25
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遠くからでも目をひく聖セルナン教会の八角形鐘楼はトゥールーズ独特のスタイルで高さは67メートル、典型的なロマネスク様式で、11世紀から12世紀の間に建てられたそうです。聖セルナン教会はロマン式の建築様式で全長115メートルとなっています。中世に於いては、キリスト教信仰の力強さを検証する象徴だった様です。西暦250年の殉教者サトュルナンに由来し、ヨーロッパカトリック巡礼の最終目的地スペインのサンチァゴ(聖ヤコブ)・デ・コンポステーラの途中基地として重要なのだそうです。トゥールーズ市は、エアバスなど航空宇宙産業の拠点であり、また1229年創設のトゥールーズ大学を中心に7万人以上の学生を擁する学問・研究都市でもあります。16年前に訪問したのはエアバス社との航空宇宙産業の将来方向打合せでありましたし、フリーになった夕刻に行って見た市内見物唯一の場所でもありました。
2007.08.19
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この写真は、ベルリンの壁が崩壊した時の破片を土産物として売られていたものを、買って来て頂いたもので、私はベルリンを訪問したことはありません。1991年4月、経済研究所の方々と一緒に、米国Hartford市のユナイテド・テクノロジー社、英国のFarnborough市役所、Derby市にあるロールスロイス社を訪問する為、引率員ガイドとして出張したのです。私はロンドンで、その役目を終えたので帰国したのですが、経済研究所の方々はその後の調査を続ける為、ベルリンにも立ち寄ると聞きましたので、「ベルリン壁の土産物」があったら購入してくれる様に依頼したのです。彼らが帰国後「売っていました」と渡してくれたのが、このポリエチレン袋に入っている小さな破片でした。英語で「Fragment from the Berlin Wall」と書かれています。今ではベルリンの壁崩壊と言っても1989年11月から18年経ち、風化した歴史の中に埋没して顧みられることもなくなりましたが、我が家の飾棚の隅では自己主張している様な気がしています。
2007.07.03
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この建物写真は10年以上にチェコのプラハに行った際、旧市街広場を散歩して撮影したものですが、その名前は不明でした。しかし、先日「はざくらの気ままな暮らし」さんのブログを拝読していましたら、名前が記載されていたのです。チェコ語そのままの「聖ミクラーシュ」と言うと分かりにくいのですが、4世紀の聖人で「聖ニコラス」又は「聖ニコライ」と言うとサンタクロースのモデルだと言われていて分かり易くなります。海運の守護聖人であり、海運国オランダで、またベルギーのフランドル地方、ドイツなどでも崇敬を集めている。オランダ、フランドルでシンタクラースとも呼ばれるそうです。聖ミクラーシュ教会は、プラハ城側のマラーストラナ広場とカレル橋を渡った旧市街広場の2箇所にあり、どちらも18世紀にバロック様式に建て替えられているそうです。旧市街に建っている聖ミクラーシュ教会は、白壁とエメラルドグリーンの屋根、正面はバロック様式の華麗な姿が、印象に残りました。一方、マラーストラナ広場にある聖ミクラーシュ教会は写真撮影をしていませんが(道路工事中でごった返していましたので)、此処は1787年にモーツァルトが弾いたオルガンも残されていて、モーツァルトの死後、最初にレクイエムを行った教会として知られているそうです。Google Earthで「プラハ又はPrague」に近づきますと、カレル橋(Charles Bridge)の両岸に聖ミクラーシュ教会(St. Nicolai Church)を見つけることが出来ます。
2007.05.15
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今年2月からNHK衛生第2放送でテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が再放映されていますので、良く見ています。「アルプスの少女ハイジ」は1974年に放送されたテレビアニメ作品。全52話で、カルピス提供の世界名作劇場の原点ともいえる作品でした。今回の再放映は初めてでは無く、人気も高かったこともあり民放で何回も再放送があった様な気がします。麓の町マイエンフェルトからアルムの山小屋まで歩いたのは、2000年5月のことでしたので、もう6年前となりました。泊まったラガーツ温泉からマイエンフェルトは車で5分程、町の広場に駐車して、デルフリ村に向かいました。現在では「ハイジの住んだ小さな村(Heidi Doerfli)」と名付けられています。しかし多分、昔は名もない小さな集落で、ドイツ語で村は「ドルフ(Dorf)」と言いますが、小さな村として「デルフリ(Doerfli)」と呼んだのは原作者創作の結果だった様です。其処から約2時間掛けて林道を登って、アルムの山小屋に着きます。山小屋は思ったより小さくドアの大きさも背丈より低い程で、山小屋の前には木製の水飲み場も無く、アニメとは著しく異なっていました。山小屋前の広場からは眺望が利くのですが、マイエンフェルトは見えず、見えるのはラガーツ温泉街でした。このコースは「ハイジの道」として整備されていましたので、小さなトレッキングを楽しみましたヨハンナ・シュピリ(1827年-1901年)は、夏の休暇を利用してマイエンフェルトの隣村イエンニスに滞在して、山道を散歩しつつ構想を練って小説「アルプスの少女ハイジ」を1880年に完成させたと言われています。原作のタイトルは「Heidis Lehr- und Wanderjahre(ハイジの修業時代と遍歴時代)」となっていますが、邦題では親しみ易い様に「アルプスの少女ハイジ」と改題され出版されました。
2006.05.12
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日本での大型跳ね橋の代表的な橋、隅田川に掛かる勝鬨橋の開閉を再開出来ないかと活動しているニュースが新聞に掲載されていました。可動する橋は魅力的で、遠い昔見たことがありますので何か郷愁が湧いてきます。交通量の多い築地の晴海通りですので、実現するか否か分かりません期待して待つことに致します。跳ね橋は英語でDraw Bridge、設置例の多いオランダではGravenstenenbrugと言うのだそうです。市街の散歩道に掛かる小さな跳ね橋は実用的に作られているのでしょうが、見ていても可愛く美しいものです。ハーレム市のスパーネル運河に架かる跳ね橋も街並みとよく調和しオランダの美しさの典型です。この橋は聖バフォ教会の近くにあり、スパーネル運河橋の中で歴史的最も古く1400~1550 年間に掛けられたと言われていますが、現在の橋は1950年代に再建されたものだそうです。ハーレム市はアムステルダムの西方にあり、7 kmで北海に通じるスパーネル運河に沿った町ですが、観光客があまりいませんのでゆっくり見物出来るのも魅力です。もっともこの写真は夕刻6時過ぎに撮ったものですので、通行人も見えず跳ね橋も上がったままでした。こちらは自宅にあった絵葉書をスキャナーで取り込んだものですが、昼間通行人を通す為に跳ね橋が降りているものです。残念ながら自分の目では見たことがありませんが、モーターボート程度の小さな船では橋桁を上げる必要は無いことが分かります。
2006.04.17
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ハーレム駅からライデン駅に向かう際、列車の窓から見えるのが聖バフォ(BAVO)大聖堂で、丸い円天井屋根が一際目立っています。この聖堂はカトリック信者の為に西暦1895~1930の期間にハーレム市東南地区に建てられました新しい教会で、あまり古い歴史はありません。町中心にある聖バフォ(BAVO)教会は、16世紀以来プロテスタント信者用に限定されていて、18世紀にはヘンデル、モーツアルトが演奏したとされる豪華なパイプオルガンがあることでも良く知られている様です。聖バフォ(BAVO)教会についてはこちらのアルバムをご覧ください17世紀に描かれた「ハーレム遠望」には聖バフォ教会しか見えませんしかし、キリスト教内のカトリック・プロテスタント宗派対立も数百年に亘って続いているのも驚きです。現在でも、暗々裏にはその抗争は続いているかも知れません。聖バフォは日本では良く知られていませんが、フランドル地方出身のカトリック聖人で、インターネットでは次の様に紹介されています。聖バフォ(BAVO)は西暦589ADにベルギー貴族の家系にリエージュで生まれ、幼年名をアローウィン(Allowin)として過ごす。 青年時代は我儘一杯の放埓な生活を送り、使用人も他貴族へ奴隷として売ったこともありました。成人しバフォン(Bavon)と改名し結婚するものの、死別して男やもめとなっていましたが、ある折、聖アマンド(Amand)の説教を聴くに及んで翻然と宗教心に目覚め、敷地内に僧院 を建てて聖アマンドに譲り、彼自身は其処の修行僧となります。その後全ての不動産を僧院に寄贈、又全ての所有物を貧しい人々に与え、彼は僧院内の小屋で隠者となって暮らすことを本懐とし、西暦654ADに一生を終えますが、後年その功績によって、カトリックの聖人とされました。聖バフォ(BAVO)聖堂としては、ベルギーのゲント市にある聖バフォ(BAVO)大聖堂が有名で、14~16世紀に200年以上の歳月を掛けて建てられた聖堂内にはヤン・ファン・アイク作の祭壇画「神秘の子羊」があることで良く知られています。
2006.04.13
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BS日テレで開局5周年企画番組として「ヨーロッパ水紀行」が2005年10月から3月まで13回放映され、この4月から「ヨーロッパ水紀行?」として新しいコンテンツも放映されています。ハイビジョン映像ですので画像が鮮明なことは勿論ですが、解説も落ち着いた静かな声で丁寧にされますので、なかなか好感の持てる番組です。先日見ましたのはヨーロッパ水紀行スペシャル「水の都ブリュージュ」でしたが、10月分の再放映でした。町の中心マルクト広場の鐘楼、州庁舎、市庁舎などが的確に説明されていて、町の様子が良く分かりました。街中を運河が流れるフランドル地方の古都ブルージュ。街を縦横に流れる運河には50以上の橋がかかり、別名「北のベニス」とも呼ばれています。この街は13~14世紀にかけて、西ヨーロッパの貿易港として栄華を極めました。しかしその後、港としての機能が他の街に移ったことにより発展は止まってしまいました。そために当時の景観が現在までそのまま残り、その街並みの美しさは「屋根のない美術館」といわれています。ブルージュの中心はマルクト広場、四方に魅了的な建物が並ぶヨーロッパでも5本の指に入る美しい広場です。この広場でひときわ目立つ建物は、ブルージュのシンボルである鐘楼です。13~15世紀にかけて建てられ、高さは83mもあります。その頂上からは、ブルージュの街とフランドル平原が一望できます。塔には47個の鐘が組み込まれたカリヨンがあり、今でも15分毎に時を告げるために鳴らされています。ブルージュの街並みの中で、ひときわ目立つのが122mの塔を持つ聖母教会です。13~15世紀にかけて建てられたこの教会は、何度も改修が加えられ、さまざまな建築様式がまじった建物です。ブルージュを訪問しましたのは1997年4月でしたから、もう9年前のこととなりました。カリオン鐘楼は高すぎると言うか、広場が狭すぎると言うか、我が家にあった写真は途中でちぎれていて全貌が見えません。この画像はAdobe Photoshopを使って2枚の写真を合成してみたものですが、アングルが少しずれている様です。
2006.04.06
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ツェルマット(1600m)から登山鉄道に乗ると、約40分で終点のゴルナーグラード(3090m)に到着します。此処から見るマッターホルン(4478m)は、他山を従えて天空高く聳える姿となっていて、「素晴らしい」の一語に尽きます。このスケッチは、訪問した時の写真を見ながら起こしたものですが、油絵にも出来ずそのままとなっています。その雄大さを絵にする自信が無く、精々絵葉書の真似事にしかならないと諦めたのです。富士を含めて、単純で偉大なモチーフは難しい課題です。ゴルナーグラード駅には何時も観光客が押し寄せて混雑していますが、駅の上方には有名なクルムホテルがありますので、このホテルにいつか泊まって、誰もいない朝焼けの山を眺めたいものです。
2006.02.26
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フォートナム・メイソンは紅茶の名店として知られていますが、ロンドン本店地下売り場で売られている海塩も絶品と言われていました。スペイン領の地中海マジョルカ島南海岸で天日製法にて造られる塩は豊富なミネラルを含み、健康にも良いとされています。地中海地方は雨が少なく乾燥していますので、製塩業に向いているのかも知れません。自然塩(Natural)に加えて、サラダ用に加工されたOlive塩、チーズ・フォアグラにも相性を良くしたHibiscus塩等がある様でした。又地下売り場には台所用品も豊富にありますので、見ていても楽しい時間も過ごせます。胡椒ミル・塩ミルセットも種々並んでいましたが、この黒檀(Ebony)製セットは色艶も良く丈夫そうに見えましたので、自然Natural塩を買いました時に、同時に購入したものです。塩ミルはボッチの上に白が見える右側のものです。但し日本では多湿気候で、自然塩Naturalは湿気を含んでしまい、塩ミルを使うことが直ぐ出来なくなりますので要注意です。その後フォートナム・メイソンの海塩も無く、我が家では使わなくなって10年以上になります。この頃は日本でも各地の塩が多種多様に販売されていますので、フォートナム・メイソンの海塩に固執することなく、日本国内産の塩で自分の好みに合うものを見つけるのが良いかも知れません。
2006.02.19
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ロイヤルアントワネットは英国の名窯ロイヤルクラウンダービーの代表作です。優美な形状と超薄手の白素地が優雅な野の花のブ-ケと星を際立たせ、エッグシェルとも呼ばれる形、艶やかな金彩と相俟って、貴婦人の香りを漂わせるとも言われています。この写真はデミタスカップとソーサーで15年程前、ロンドン三越で購入したものです。エスプレッソを呑むには最適なのですが、我が家ではレギュラー珈琲が殆どですので、食器棚に仕舞われていて活用の機会があまりありません。ロイヤルクラウンダービー社は、ミントン社、ロイヤルアルバート社と共にロイヤルドルトン社傘下となっていますが、各々のブランド名はそのまま残されている様です。ロイヤルクラウンダービー社は1748年創業、1775年に国王ジョージ3世にクラウンの名を授かり、1890年にはビクトリア女王より「ロイヤル」の称号を与えられ、英国で唯一ふたつの王室称号を持つロイヤルクラウンダービー金彩と超薄の生地が気品を放っている。超薄手で半透明にも見えるベリーク(Belleek)磁器も魅力あるC/Sでしたが、こちらは買いそびれました。「Belleekと言う白色磁器」日記はこちらですウェッジウッド傘下となったコールポートのFloral Studies紹介日記はこちらです
2006.01.27
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ムンバイ(Mumbai)市を訪問したのは1985年1月でしたから、既に21年が経ちました。その当時はボンベイ(Bombay)市と言われていまして、ボンベイ沖に天然ガス田が発掘され、工業的に勃興期の始まりと言った感じがする町でした。僅か3泊のビジネス旅行でしたので、市内観光は商事会社の現地運転手の方に2時間程連れて行って貰っただけで、車の窓から名所などを眺めただけでした。その当時は、物乞いの子供が群がって来ますので、車から出て歩かない方が良いとの助言もあったからです。その運転手はインドでは数少ない拝火(ゾロアスター)教信者で、死んだら鳥葬となるとのことで、その聖地にも案内して頂いたのですが、市内の何処だったかは分かりません。しかし、ムンバイの観光ハイライトはムンバイ湾岸にあるインド門だった様で、今でも記憶に残っています。この画像はムンバイから頂いた絵葉書をスキャンしたもので、私自身は外出散歩もしなかったので、1枚も写真撮影はしませんでした。インド門(Gateway of India):英国の支配下にあった1911年に、英国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して造られた。玄武岩でできており、ムンバイ湾に面したアポロ埠頭の突端に建っている。高さ26m、グジャラート様式のこの門は、パリの凱旋門をモデルにしてジョージ・ウィテットの設計により、1924年に完成した。かつては、植民地であったインドを訪れる英国の要人たちの歓迎式典が行われる場所であったが、現在は観光客で賑わいを見せる観光ポイントとなっている。また、世界遺産にも登録されているヒンドゥー教の石窟寺院で有名なエレファンタ島への船着場もこの門の前にある。
2006.01.26
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毎日午後11時10分からの長寿番組「世界の車窓から」、今月はスイス編です。ユングフラウ・ヨッホ鉄道では晴天続きで、素晴らしい眺望が楽しめましたが、数日前に2日間放映されたピラトゥス登山鉄道では、残念ながら霧が深く眺望が利きませんでした。世界一の急勾配と言われるピラトゥス登山鉄道、観光シーズンだったのでしょうか、続々と電車が過密ダイヤで上って行くのには吃驚でした。前にアップしたピラトゥス登山鉄道画像をフォトアルバムにしましたのでトップページ一番上にありますPhoto Albumを見てください。少し靄っていましたが絶好の晴天秋空でした。「ピラトゥス山に登る」と言う日記はこちらをご覧下さい楽天フォトアルバムの画像は300x225ドット、日記にあるYahooスライドショー画像は480x360ドットですので迫力が違います。但し、Yahooフォトアルバムを見るにはログインが必要ですので、そのまま見ることの出来る楽天フォトアルバムの方が手軽ですが、縦長の画像225x300ドットも169x225ドットと自動的に縮小表示されてしまうのは残念です。PR画像が入らないともっと良いのですが・・
2005.11.12
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スイス・モントルー市郊外、レマン湖の畔にあるシオン城(Chillon Castle)は、バイロンによって「シオン城の囚人」として唄われ知られることとなった様です。この絵は、筆を全く使わず、パレット・ナイフとペインティング・ナイフだけで描いたものですが、その荒いタッチが城の雰囲気にマッチしている様に思っています。城内を見学し地下牢に入って見ますと、柱の一つには「バイロン(Byron)」と刻まれた跡がありますが、別に彼が幽閉されていたと言うことでは無く、取材の為に訪れた記念としてナイフで傷付けてしまった跡で、現在で言う観光客が文化財に悪戯書きする行動と全く同じ行動だった様です。格子窓からレマン湖を眺めますと、対岸も遠くに見えて何か隔絶された牢獄に幽閉された気分になるのも不思議です。シオン城(Chillon Castle)の紹介ページはこちらです
2005.10.10
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グリンデルワルトのホテルにチェックインしたのは1983年9月末の夕方でした。グリンデルワルトの谷には日が落ちていましたが、氷河を抱いたシルトホルン(Schilthorn:2970m)は輝く夕日に照らされて美しくみえましたので、ホテルの三階にある大きな天井裏部屋から写真を撮りました。9月末で一番積雪は少ない筈ですが、氷河は数百年に亘る積雪の結果ですから季節による変化は殆ど無いのだろうと思います。この時の数枚の写真を元にF8号の油絵にしたのが、この絵ですが1992年5月と署名してありますので、それからも既に13年以上経過しています。この絵と同じアングルで同じ様な夕刻に撮ったと思われる写真がシンフォレスト(SynForest)の旅写真紀行「ヨーロッパ・アルプス」のカバー写真に使われたのは1996年のことでしたが、プロ写真家でも同じ感覚があるのだと、妙に感心したものでした。しかしながら、それから22年以上経った現在、地球温暖化の影響で世界各地の氷河が恐ろしい程後退して来ているそうですから、シルトホルンの景観も大きく変わっているかも知れません。
2005.10.07
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昨日の「NHK世界遺産の旅」はウィーン郊外にあるシェーンブルン宮殿の紹介でした。シェーンブルン宮殿内部と共に、庭園、付属動物園も紹介され、それと同時にヨーロッパの名家であるハプスブルク家の盛衰にも解説が入って充実していた様に思います。インターネット検索して見ますと次の様に記載されています。ハプスブルク家の夏の離宮だったシェーンブルン宮殿は、ヨーロッパ有数のバロック宮殿のひとつである。1569年、皇帝マクシミリアンII世が入手したカッターブルクは、1605年反乱を起こしたハンガリー人によって焼き払われ、マティアス皇帝によって再建された。シェーンブルン(ShoenBrunn:美しい泉)の名も、当時マティアスが発見した泉に由来する。その後、歴代皇帝によって建築が進められ、マリア・テレジア女帝が最終的に完成、夏の離宮とした。1805年と1809年にはナポレオンが、また第二次大戦後はイギリス軍が総司令部を置き、1961年にはケネディ・フルシチョフ会談の舞台となった。1441室のうち、約40室が一般公開されている。見学コースには、1762年に6才のモーツァルトが御前演奏した「鏡の間」、1814~15年のウィーン会議で舞踏会が催された大広間などがある。私が訪問しましたのは1995年10月ですから、既に10年経過しました。市内観光バスに乗ったこともあり、シェーンブルン宮殿には30分程しかおらず、庭園も散策する時間もなかったのは残念です。この写真は「鏡の間」で撮影した様に思いますが定かではありません。大広間の天井画は暗く、フラッシュ無しでは撮影出来ませんので、多分そうだろうと推測するに過ぎません。出てきた時刻は午後5時、10月の夕刻は早く、既に夕日が地平線に沈む時でした。ハプスブルク王家の色とされる、黄色の壁が夕日に映えて綺麗でした。NHK番組の中でも言っていましたが、世界遺産の宮殿に250余りの民間人居住室が100年以上に亘って存在していると言うのも、驚きでした。
2005.08.05
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標高約1000 m にあるシャモニーからエギーユ・デュ・ミディ山頂まで、途中のプラン・デュ・レギュー(Plan de l'Aiguille:エギーユ峰の高台平地とでも訳すのでしょうか、標高2310 m)で乗り換え、標高差約 2800 m を僅か16分で登ってしまいます。一気に登ると急に空気が薄くなりますので、人によっては高度調整が上手く行かない場合もあり、途中駅で一休みして身体を慣らするのが良いとも言われています。この途中駅からロープウェイの傾斜は驚く程急で怖い位で、世界一かも知れません。遙か上に小さく見えますのが、標高差1500mもありますエギーユ・デュ・ミディ頂上テラスです。エギーユ・デュ・ミディ(Aiguille du midi:モンブラン中腹にある尖塔とでも訳すのでしょうか、標高3842m)展望台から、モンブランはすぐ目の前上方に見えます。目をモンブランとは反対側の横に転じますと、針状になったモンブラン山群の山々が素晴らしい景観を作り出していました。写真アルバムについては、こちらをご覧下さい!遥か下の方には、シャモニーの街が見えますが、傾斜が急である為か眼の直下に展開され、標高差2800 mを遮るものが無いと言うのも、信じられない世界です。
2005.08.02
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この絵は、オランダの首都ハーグにあるマウリッツハイス美術館に所蔵されているもので、ロイスダール1660年頃の製作とされています。遠くに聖バフォ教会が見えますが、周辺には建物・住居が無い農村風景で、ハーレム(Haarlem)市の建て混んでいる現在の町並みは、340年前には未だ存在していなかったのでしょうか? しかし、まあ何と雲が変化豊かに描けていることでしょう、将に「雲は芸術」がぴったり当て嵌まる様な絵画です。この写真はAPSカメラで撮影したのですが、館内が薄暗いこともあって上手くは撮れていないのが残念です。この画像はインターネットで見つけたアムステルダムの国立美術館所蔵のものですが、一寸縦長でマウリッツハイス美術館の物とは違うような気がします。マウリッツハイス美術館はフェルメール、レンブラントの傑作が展示され、それらを鑑賞することが主目的となりますが、ロイスダールの絵もなかなかのものです。ハーレム出身でオランダ最大の風景画家とされるヤーコプ・ファン・ロイスダール(1625-1682)製作作品の一つで、やはり情感漂う画面が感じられます。「ハーレム(Haarlem)遠望」は二枚描かれ、もう一枚はチューリッヒの工芸美術館に収蔵されているそうです。尚、聖バフォ教会は14世紀から16世紀に建立され、姿も美しいパイプオルガンが壮麗に鳴り響くことで知られています。後年ヘンデル、モーツアルトも此処で演奏したとされています。ハーレム市はアムステルダム市から電車を使って30分程で行くことが出来、混み合っていないの魅力。キューケンホーフ公園にも近いのです。トップページにある書籍紹介の表紙も彼の絵が飾られていたのですが、お気付き頂けたでしょうか?
2005.07.03
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